11/26/2011

Immortals

インモータルズ 神々の戦い(☆☆★)


云われるほど悪くないんだけど、ヘンな映画ではある。見終わってみれば、ゴージャスなヴィジュアルの他はミッキー・ロークだけが印象に残るだけの映画だったりする。が、かなりバイオレントだし、アクションも満載。好みかどうかは別として、ある種の美意識に貫かれた作品になっているあたりは、やっぱりターセム・シンだけのことはある。

お話はこんな感じ。冷酷なハイペリオン王率いる軍勢がギリシャ国家群を蹂躙するが、ギリシャの神々を束ねるゼウスは、人間同士の争いに介入すべきではないとして傍観し、自ら目をかけたテセウスに、ギリシャの存亡を賭けて戦う役割を果すように迫る。一方のハイペリオンは、かつて自らの祈りに応えようとしなかった神々をも粉砕すべく、太古の戦いで地底に封じ込まれたタイタン族を解き放ってしまう。この期に及んでは、ゼウス以下の神々も自らの身を呈して参戦することになる。

と、いうわけで、なんとなくギリシャ神話のモチーフを借りて、勝手に作ってみたという一本である。人間の戦いに介入しないといいながら、どうしてもかわいい人間が心配になって手を貸しちゃう、ちょっと面倒くさいギリシャの神々の立ち位置により、ストーリーは少々まどろっこしいことになっている。もー、お前らはいったい何がしたいの?

一歩下がって、物語の構造を考えるに、究極的には、同じように悲劇的に家族を失いながら、「(ギリシャの神々に祝福され、支援された)テセウス(率いるギリシャ連合軍)」VS「(ギリシャの神々から見放されたと感じて恨みを持つ)ハイペリオン(の軍隊と、地下から解き放ったタイタン族)」という構図になっている、、、、はずなのである。しかし、直感的にはこの対立構造が分かりづらく、まかり間違って、テセウスを主人公とする英雄譚としてみてしまうと、大変だ。なにせ、危機一髪の状況になると神風が吹く、というような展開だから、なんかショボいヒーローのヘンな映画ということになってしまう。

石岡瑛子の手になる自己主張の強い奇天烈なコスチュームと、監督ターセム・シンが云うところの「ルネッサンス絵画」スタイルのヴィジュアル・デザインにはかなりのインパクトがある。その一方で、ヘンリー・カヴィル、スティーヴン・ドーフ、フリーダ・ピント、ルーク・エヴァンス等々、出演者は衣装とビジュアルに埋もれてしまった。僅かな例外が、飄々とした味わいで人間体のゼウスを演じるジョン・ハートと、徹底して残虐な怒れる悪役ミッキー・ローク、なのである。

3Dはかなり体感できるレベルに仕上がっていて、このヴィジュアル・イメージの視覚体験としては見応えはあるので、(300~400円の付加価値があるかは別として)せっかく見るなら3Dがいいんじゃないか。個人的には、こういう映画は「映画館で見れば十分」な作品であって、わざわざ家のちまちましたスクリーンで見返したりしようとは思わないんだよな。

11/19/2011

Moneyball

マネーボール(☆☆☆★)


主力選手の流出と予算制約に悩まされたメジャーリーグ球団、オークランド・アスレチックスで、1997年にジェネラル・マネージャーとなったビリー・ビーンが、邪道扱いされていた統計的な「セイバーメトリクス理論」を積極的に取り入れてチーム編成を行い、他チームと互角以上に戦えるように奮闘した物語である。

もちろん、米国のメジャーリーグ・ベースボールが題材ではあるが、なにしろチーム編成に責任をもつGMが主人公であるから、選手たちや試合の勝ち負けといった野球の「表側」ではなく、選手を評価し、他チームと交渉し、トレードし、チームを編成していく、舞台裏の部分に焦点があたっていて、野球好きのみならず興味深く見ることができる。

ただ、この映画は、必ずしも「セイバーメトリクス理論」を優れた手法として紹介し、礼賛するものではない。だいたい、客観的にみても映画の中で説明されている程度の「理論」は、手法においてそれほど洗練されているようには思えない。統計的といってみても、分析の切り口や仮説の立て方、解釈次第でいかようにも使えるのであることは、少し考えてみればすぐにわかることだ。

実際、この「理論」の映画の中での描写としては、旧来の常識に対するアンチテーゼとして波紋を呼びそうな極端なものばかりが強調されているように思う。選手の評価という面はともかく、野球の試合における戦術という意味ではプリミティヴそのものなんじゃないか。ただ、映画の中におけるこの理論の役割は明確で、要は、財務的に困窮していて常識的には戦力補強ができない状況のなかで、独自の着眼点で評価し直すことで「掘り出し物」を見つけようとした、そして、それがたまたま一定の成果を収め、注目を集めたということであり、それ以上のものではない。

しかし、この映画がほんとうに描こうとしているのは、ブラッド・ピットが演じる主人公の個人的な戦いのドラマなのだろう。映画はこの人物のバックストーリーをこう紹介していく。いわく、スタンフォードへの奨学金すら決まっていたのに、スカウト陣から素質万全とのお墨付きを得て、巨額の契約金と引換にプロの道へと足を踏み入れたが、結局のところ芽が出ることなく未完の大器として現役を去ることになった、苦い挫折の経験の持ち主であると。

世間の常識に照らしあわせた人材の評価とは一体なんなのか、他人の評価や巨額のお金が一体何を意味するのか。この映画の中で、人材の評価に新たな尺度を持ち込もうとする主人公の戦いは、そんなわけで、この人物が挫折から学び、人生をかけた雪辱戦に臨む戦いなのであるというわけだ。そして、その戦いには、多分、終わりはない。チームがワールド・チャンピオンになれるか、なれないかに関わらず。

だから、この映画は野球を描いているようで、描いていない。「弱かったチームが奇跡の連勝」といった、ありがちなフォーミュラに流し込んだりもしない。あの年、アスレチックスが歴史的な連勝記録を作ったことは物語の重要な要素として扱われているけれども、それをクライマックスにしていないし、実にあっさりした見せ方になっていることは、そう考えれば当たり前のことだ。まあ、「定型的な物語」をこそ見たかった観客は、それをもって重大な瑕疵だと思うかも知れないけれどね。

気合が入ると「熱演」しがちなブラッド・ピットは、主人公を自然体で演じて好印象。娘役の子役と絡んでいる姿がとても板に付いている。私生活でたくさんの子供達に囲まれていることが、こんなところに良い影響を及ぼしているんじゃないか。主人公の片腕となる統計専門家は実在の人物にかわって用意された架空のキャラクターだが、「実在の」という制約から解き放たれているぶんだけ面白い描かれ方をしていて、これを演じるジョナ・ヒルも好演である。チームの監督役にフィリップ・シーモア・ホフマンを起用しておきながら、脚本も、演出も、この人物にあまり興味がなかったのかと思う無駄遣い。まあ、主人公と対立する立場としては海千山千のスカウトたちの存在があるから、監督の独自の立ち位置を見出しにくかったんじゃないだろうか。

11/13/2011

Love Strikes! (モテキ)

モテキ(☆☆☆★)


公開から随分間が開いてしまったが、ようやく見ることができた。原作(知らなかった)、テレビドラマ(気になっていた)共に未見だが、楽しく見られた。いや、実際のところ、これ、サプライズ・ヒットを飛ばしたからということだけでなく、今年の邦画を代表する何本かを選ぶなら、そのなかに選ばれてしかるべき1本ではなかろうか。だって、こんな映画、こんな主人公、こんな演出、他の国で考えられるか?

もちろん、大震災と史上最悪の原発事故を経験したこの国の、今年を代表する1本がこれっていうのもなんだとは思うけれど、そういうある種の恥ずかしさも込みにして、今日の日本が生み出せる、日本ならではの「オリジナリティ」って、こういうものなのではないのか、と思い、感心し、面白がっている。

この映画は自由だ。あるいは、テレビ東京の深夜ドラマ枠という出自がそうさせるのかもしれないが、「平均点的に誰もにウけるもの」でなくてもいい、分かる人に分かれば良く、楽しめる人に楽しんでもらえばいい、とでもいうような、潔い割り切りが感じられる。サブカルネタの取り込みや言及もそう。ある種の下品さだってそう。Twitter の使い方もそう。マンガ的(というかアニメ的)で過剰なモノローグもそう。前代未聞レベルで凝りに凝ったエンドクレジットもそうだ。

妄想的な美女神輿のオープニング。米国映画が得意とするミュージカル演出を(おそらく『(500)日のサマー』経由で)臆面もなくイタダくかと思えば、Perfume 本人たちまで登場の大盤振る舞いで映画館をイベント会場に変えたかと思えば、大江千里で突如映画館の大スクリーンがカラオケに変貌する仰天演出。曲を流し出したら、テンポやバランスを後回しにしてまでキリの良いところまで丸まる流してみせる。こういうデタラメさ加減の、なんという楽しさよ。

しかし、この映画はそういう意匠の新しさだけを売り物にした作品ではない。コメディとして笑える、ということだけでもない。結局、映画の中で描かれている不器用なキャラクターたちの切ない心象風景を、格好の悪い恋愛模様のドラマをきちんと語ってみせることができているから、映画として成立しているのだ。そして、そんな恋愛模様のどこかに、観客自身が思い当たるものがあるから、共感できる何かを見出すことができるから、心を打つ映画足りえているのだと思う。

類型的で表層的にみえる登場人物たちには、もちろん、コミック的な誇張もあるけれど、今この時代を生きているリアルな人間の香りがし、親近感を抱くことができる。そして、それを演じているキャストが、そういうキャラクターたちをしっかりと掴んでいるところがなお素晴らしい。

本作筆頭のヒロインにキャスティングされた長澤まさみの破壊力はいうまでもないことだが、彼女の存在がいかに反則的であるかを分かっている人間がキャスティングをし、演出しなければこうはならないだろう。絵に描いたような夢のガールフレンド役としてだけでなく、その裏側にある焦りや悩み、不安や弱さをきちんと見せて完璧。一時期の低迷はなんだったのか。

第2のヒロインである麻生久美子も好演なら、飛び道具扱いの仲里依紗、真木よう子も、役割をよく自覚している。飄々としたリリー・フランキーの面白さ。金子ノブアキの悪役ぶり。もちろん、主演たる森山未來は、格好悪くて面倒くさい主人公のキャラクターを完全にモノにしていて、意外にも、その身体能力の高さが透けて見えて感心した。

こうなると、ドラマ版を見損なっていたのが実に惜しい。が、だからといってこの映画を見ないのはもったいない。独立した作品として、十分に完成した力作である。

Contagion

コンテイジョン(☆☆☆☆)


実は、映画館から戻って以来、体調が悪いのだ。念には念を入れて殺菌効果のある液体石鹸で手を洗い、薬をつかってうがいもした。それなのに、3時間後には急激に熱が上がってめまいがし、気分がすぐれない状態になってフラフラしてきたので、安静状態を保つようにしている。まさか劇場内をターゲットにしてウィルスをばらまくテロだとも思わないのだが、館内で咳をしているひとがいたから、油断はできない。水害で仕事が止まったバンコクからの一時帰国者が変な病原菌を持ち帰っていないとも限らないじゃないか。

・・・などと、不安が不安を呼ぶ映画なのである。濃密な106分。力作。

スティーヴン・ソダーバーグというひとは、「巧い、けど、面白くない」映画を作ることに関しては天才的だと思っていて、、もとよりあまり好きな監督ではない。が、時折、ほんとうに面白い映画も作るので侮れないのである。全部まとめてどれだけ賞を受賞しているのか分からないくらいの豪華キャストを揃えた本作も、見る人によっては「面白くない」映画なのかもしれないが、久々にグッとくる1本であった。ちきしょう、やっぱりこいつ、巧いんだよ。これがダメならハリウッド活劇調『アウトブレイク』でも、お涙頂戴底抜け邦画『感染列島』でもお好きにどうぞ。

人類が経験したことのない、感染力が強く、かつ、致死率も高い未知のウィルスのパンデミックがおこったら、一体何が起こるのか。誰がどのように行動するのか。この映画は、そういう状況を、近未来シミュレーションとして、視点を切り替えながら(あくまで)過度のドラマ性(だけ)を排除して描き出していく。単純なヒーローはいない。影で巨大な陰謀を巡らす極悪人もいない。お涙頂戴もないし、カタルシスもない。だが、良心や使命感を持った人々が精一杯誠実に行動する一方で、虚栄心や欲に支配された人間が悪事もなす。過度のドラマ性はないとはいえ、個々に小さなドラマがあり、胸を打つ瞬間がある。

この映画は、地に足の着いた描写から、世界的規模で起こっている事件を丸ごと描きだしていく。大きなスケールである。しかし、よくよく見れば、米国を中心において、(複数とはいえ)かなり限定されたパーソナルな視点を積み重ねることで形にしている。個々のエピソードがバラバラになったり、描写が上滑りしたりしない演出力と、複雑な編集を含めた物語の構成力には恐れ入る。なにせ、これだけ多くの名のあるキャストを使っていて、それぞれに印象に残る演技の見せ場を作り、誰一人無駄にしていないのも、簡単なことではない。逆にいえば、こういう映画を作るにあたっては、実力のあるキャストを揃えないと、物語を構成する各々のパーツが説得力を失ってしまうということでもあるだろう。

家族を失い、戸惑いながらも残されたものを守ろうとするマット・デイモンの静かな演技は相変わらず静かな名演。妻が死んだと聞かされて、「で、妻にはいつ会えるんです?」と聞き返すシーンは最高だ。ウィルスの起源と感染ルートの解明に出かけて現地で人質として捕らえられるマリオン・コティヤールの最後の決断や、ワクチンの開発にあたるジェニファー・イーリーと、意志でもあった彼女の父親のエピソードなど、短い時間と少ない台詞でこれだけ豊かなドラマを紡ぎ出してみせると感心する。淡々としていて感情移入できない映画だと評する意見には全く賛成できないね。

ところで、本作の中で、ジュード・ロウ扮するブロガーが自己顕示欲の強い悪人として描かれていることで、ネットメディアや、それに扇動される人々を必要以上にネガティブ見せているように感じる向きもあろう。だが、結局のところ、これが現実に近い描写ではないだろうか。いつの世にもデマを流すものがいて、それに乗せられるものがいるということで、それ以上の意味はないのではないか。確かに、対する「体制」側に属する人々は小さな過ちを犯したりもするが、概ね好意的に描かれているものの、公式発表が後手後手に回りがちな様子、それゆえに人々の不安や恐怖が増幅されていく流れも十分に透けて見えるし、各国政府や企業の行動がことさら美化されているわけでもないから、個人的には、この映画を「体制寄り」と見るのは穿ちすぎだろうと思っている。

仕事で香港に出かけ、シカゴ経由でミネソタに戻ってきた女性が発症する "Day 2" で幕をあけた物語が、最後の最後に提示してみせるのは、世界がいかに狭くなり、人類の経済活動が未知のリスクを増大させているか、という事実である。豚インフルエンザは大事に至る前に収束して胸をなでおろしたものの、こうした脅威はいまそこに迫っており、人類とウィルスの戦いの歴史は続いていく。このジャンルの映画としては、決定打に近い一本。必見。

10/30/2011

ツレがうつになりまして。

ツレがうつになりまして。(☆☆☆★)


同名のコミック・エッセイが話題を呼んでいたことも、NHKでドラマをやっていたことも知っている。が、原作は読んでいないし、ドラマも(全部ちゃんとは)見ていない。が、宮崎あおいと堺雅人が主演の映画になると聞いて、これはぜひ見たいと思い、遅ればせながら劇場に足を運んだ。ということで、原作と比べて云々、ドラマと比べてどうこういうことはできない。もっというと、佐々部清監督の作品を見るのも初めてのような気がする。

これは、少しばかりの啓蒙効果はあるのかもしれないが、鬱病治療のマニュアルのような内容ではない。仕事のストレスをきっかけに鬱病となった夫と、あまり売れていない漫画家の妻が、夫の病をきっかけとして、現実に向き合っていく物語である。

丁寧に作られた良い映画である、と思う。話運びも、見せ方もいい。舞台となる一軒家、近所の風景なども、少し現実の時空間から外れていて、しかし、どことなくほっとする世界だ。そして、なによりも主演の二人が、その実力に違わない好演である。しかも、スクリーン上での相性がいい。いつまでも眺めていたい気分になる、お似合いのカップルである。そして、本当は重い題材のはずなのだが、軽やかで、温かい。

だが、この映画、どう考えても幕引きの場所を間違えた。いろいろ考えた末だとは思うが、思い切りが悪い感じで、かなり惜しい。

終盤、幕の引きどころが幾度となく訪れる。最初の候補は、「結婚同窓会」のくだりだろう。この夫婦はカトリックの教会で結婚式を挙げたようである。同時期に結婚したカップルたちを集めて結婚に対する心構えなどを説く教室でも開いていたのだろう。その延長線上で毎年「同窓会」を開いているのである。そこに参加した主人公夫婦のスピーチは映画のテーマそのものを語っていて、エモーショナルなピーク・ポイントにもなっている。そこで映画を終わっていたとしても全く不思議ではないし、座りも良かったのではないかと思う。

次の候補は、夫婦が庭で会話をするシーンである。妻が、自分が書きたいことをマンガに書けばいいと、そして書きたい題材(つまりは、夫婦の闘病生活)が見つかったと語る場面で、CGIを使って妻の描いたイラストが画面いっぱいに広がるファンタジックなシーンだ。この映画の原作がそうやって描き上げられたコミック・エッセイであることを思えば、先の「同窓会」の後、エピローグ的にここまで引っ張ってから終わるのもスッキリした構成に思える。個人的には、ここで映画を終わらすアイディアが一押しである。。

実際の映画は、これに引き続き、妻の描いたコミック・エッセイが評判を呼んだこと、夫が妻のマネジメントの名目で会社を作ったことなどに触れたあと、夫が乞われて講演会の演台に立つエピソードが描かれる。ここは、もう、本当にバッサリ切ってしかるべき蛇足である。ハッピーエンドらしく、鬱病が回復に向かっているというトーンを出したかったのかもしれないが、そもそもそんなに短期間で治る病気でもあるまい。会場に元上司やらクレーマーやらを大集合させて結論めいたオチをつけたかったのかもしれないが、不自然極まりない。どうしても「その後」的なフォローアップをしたいというのなら、アメグラ方式というのか、ストップ・モーションにテロップで十分だったと思うんだよね。

Cowboys & Aliens

カウボーイ&エイリアン(☆☆★)


西部劇とSF 、一見ミスマッチな2大ジャンルをクロスオーバーさせたコミック原作ものである。タイトルで想像されるほどにはフザケてもいないし、弾けてもいない。もう少しユーモアがあるほうが個人的には好みだが、予想外に直球を投げ込んできた感じである。

ゴールド・ラッシュの波が通り過ぎて寂れたとある西部の町が舞台になっている。ある日、突然現れた謎の飛行物体に攻撃を受け、幾人もの人々がどこかに拉致されていく。恐ろしい事件に遭遇した街の人々や流れ者の犯罪者、近隣の原住民たちは、立場を超えて一時的に団結し、資源の略奪と人類の殺戮を目的とする異星人たち立ち向かっていく、という話だ。

こういうたぐいの話では、ジャンルの衝突もさることながら、当然、「圧倒的なテクノロジーを持つ敵」と、「原始的な武器しか持たない人類」との対比が面白さの源泉である。常識的には圧倒的に不利な立場であるものたちが、「知恵」なり「勇気」なりを武器として相手の弱点(ここでは「光に弱い」ことなど)をついて戦い抜き、確立論をひっくり返すところにカタルシスがうまれる、それがエンターテインメントにおける王道というものだ。

しかし、この映画では、それができていないんだな。致命傷といっていい。死ぬほどたくさんクレジットされているストーリー&脚本担当者の誰の責任かは知らないが、これにOK出しちゃいかんよ。

敵に直接対抗できるのは、結局のところ、主役のダニエル・クレイグが腕に装着している敵由来の兵器だけなのである。あとは戦術もなにもない。ともかく力づくで戦うだけっていうのだから、これじゃあ、面白くなりようがない。相手が宇宙人でなくてもいいんじゃないのか、あるいは、西部劇でなくてもいいんじゃないか、という感想がよくきかれるが、でてくる理由は、そこにあるミスマッチ感やテクノロジー・ギャップを活かしたお話作りができていないからであろう。

敵は単なる資源泥棒で、資源を奪うためにはその星の住民を滅亡させることを厭わない、かなり単純な「絶対悪」として描かれている。終盤、主役に恨みを持つ個体が登場する場面を例外として、個性も何もない平板な描写。別に、敵が資源を略奪せざるを得ない哀しい事情を描けとは言わないが、もう少し興味を持てる描写があってもいいだろう。

それに比べると、人間側はわりと丁寧に描かれていて、中心的キャラクターのみならず、脇役にいたるまでキャラクターが立っている。このあたりは、j脚本だけでなく、これまでの作品でも見せてきたジョン・ファブローの演出による部分も大きいだろう。ハリソン・フォード扮する町の実力者が、ストーリーの進展と共にイメージが変わっていくところなどはなかなか見事なタッチで描かれていて、きちんと伝統的なドラマが成立しているのが泣かせる。ヒロインのオリビア・ワイルドが、『トロン・レガシー』のときの魅力はどこへやらといった感じで残念だった。