ラベル # の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル # の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

6/18/2011

127 Hours

127時間 (☆☆☆☆)


48時間、96時間ときて、今度は127時間だ!あれ、計算が合わないぞ・・・っていうのではなくて、ダニー・ボイルの新作は、ユタ州内の渓谷で落石に腕を挟まれて脱出不能になった若者が、孤立無援のまま6日間を過ごし、生きるための尋常ならざる決断と行動を起こすまでを描いた実話を題材とした映画である。

主人公のアーロン・ラルストンを演じるジェームズ・フランコは、そういう設定の物語故に全編出突っ張りの一人芝居。アカデミー賞主演男優賞ノミネートを始め、高い評価を勝ち得ることとなったのはご存知のとおりである。(ただ、あの眠そうなアカデミー賞の司会っぷりは最低だったな)。

岩の谷間で身動きできなくなったひとりの男の話を、1本の映画として語って見せるのはなかなかの挑戦である。観る前は、なんだかんだいって単調で退屈なものになるんじゃないかと想像して期待値を下げたりもしていたのだが、そこはそれ、華麗なる映像テクニックとガチャガチャ編集を得意技とするダニー・ボイルのこと、主人公の回想、現在、想像、夢、妄想を巧みにつなぎあわせ、94分を一気に駆け抜けて見せる。題材によってはその技術がドラマを語る邪魔になることもあるが、前作の『スラムドッグ$ミリオネア』といい、これといい、題材に見たりとはまるとそのリズム感、疾走感が圧倒的に心地良い。

最後の最後に主人公が下す決断と、その行動を、逃げずにしっかりと映像化してみせたところもいい。自らの手で、肌すらろくに切れないような鈍い中国製十徳ナイフで右腕の切断を試みる、のである。

これ、言葉にするのは簡単だが、やるとなれば想像を絶する行為である。まずは骨を折るところから始め、ナイフを突き立て、筋肉、腱や神経を切断していく映像だけでも目を塞ぎたくなるのだが、痛さ倍増の音響効果が加わって、耳まで塞ぎたくなることうけあいである。入ってみれば、リアル切り株映画。だが、これはもう、「グロ」っていう単純なものでない。ホラー映画のように、見る人を不快にさせることを目的としていたり、見世物としてのグロ描写でもない。生きるための最後の希望として、歯を食いしばる主人公と観客の心がシンクロし、画面を見つめる我々もまた、必死で歯を食いしばり、失神したりしないように踏ん張るのだ。

こういう描写があると云うがゆえにこの作品を敬遠する向きもあるようだが、しかし、この描写なしには作品は成立しない。鑑賞後の、不思議な清々しさは、あのシーンを乗り越えて初めて獲得できるのである。主人公に同化して、彼の127時間を(安全で快適な映画館で)疑似体験する、これはそういう作品なのだ。

モデルとなったアーロン・ラルストンは「冒険家」を続けているようだが、今度は足を挟まれて "Another 127 hours"なんて続編ができないことを祈るよ、本当。

10/02/2010

13 Assassins

13人の刺客(☆☆☆)

往年の東映映画のリメイクが、ジェレミー・トーマス製作・三池崇史監督の東宝映画(配給だけど)ってんだから、なんだか支離滅裂。随分と構えの大きな作品であり、もちろんお金もかかっているようだ。それゆえか、いつになく作り手の意気込みや本気度が画面の隅々に漲り、特に映画前半にはある種の風格すら漂っているのだが、一方で、監督らしい手癖というか、見せなくてもいいグロ、やらなくてもいいエロで、幾分映画が安っぽくなっている部分もある。まあ、それも個性のうちだといえばそうなんだけどさ。いずれにせよ、これだけ大掛かりで複雑な作品を作り上げることの苦労を思うと、拍手を進呈したいと思う。

江戸時代末期を舞台に、残虐な暴君を放置できぬと、密命を受けた男たちが計略を図って暗殺を試みる。手勢は13人に相手は200人。参勤交代の帰国途上、宿場町を借りきって決戦の火蓋は切って落とされる。役所広司、山田孝之、松方弘樹、沢村一樹、古田新太、伊原剛志、伊勢谷友介、六角精児、市村正親、松本幸四郎、内野聖陽、稲垣吾郎、岸部一徳、吹石一恵のオールスター・キャスト。

強大な絶対悪を倒すミッション遂行ものを基本とした娯楽活劇で、売り物は延々と続くクライマックスの集団戦闘シーン。だが、映画の内容は意外や風刺的、批評的である。リメイク時代劇であるが、見せかけではなく内容の面でとても現代的である。

稲垣吾郎演ずる暴君は、「平和な時代に生きる実感を感じられない」と嘆き、他人への想像力もなく自己中心的で残酷な行動をとる男である。もっともらしい理屈をこねはするが、それで何もかもを正当化できるわけもない。これをある種の現代(日本)人と、時折引き起こされるむごたらしい事件がオーバーラップしてくるのは意図的なことだろう。トップアイドル・グループのメンバーらしからぬ嫌われ役を演じた稲垣吾郎の損得勘定は微妙なところだが、このキャスティングはいいアイディアだった。

また、その暴君を守る側に立つ者たちの描写が面白い。「システムを守り、自らの職務・役割を全うする」とか、「自分の稼ぎや生活を守る」という一見もっともな理由で思考停止に陥り、悪しきものを温存し、先送りし、増長させる組織人だったり、役人だったりの象徴であるからだ。組織の中で無能な神輿を担具ことに対する美学もあるのかもしれないが、それを言い訳にした保身でもある。敵側のリーダーを演じる市村正親が、美学と保身と個人の誇りのあいだで自らに与えられた役割に忠実な男を説得力を持って演じている。

主人公らとて、大義のためには自らの命も投げうつし、無関係の多くの命が失われても已む無しとする暴力的な体制破壊者、テロリストである。また、彼らも平和な時代に「死に場所」を求めているわけで、「大義」を与えられればほいほい乗って行く危うさもある。まあ、さすがに娯楽活劇であるから、主人公らの行動を否定的に描いたりはしない。むしろヒロイックに描かれており、盛り上がるべきところできっちり盛り上がる。が、結局のところ、あとに残るのは死屍累々の虚しさだけである。

ほとんどが農民の末裔のくせに、サムライなんとかとやたら「武士」を美化する昨今の風潮は滑稽であるが、その「武士」なんてものは面倒くさくて、馬鹿らしくて、実にくだらねぇと、サムライをダシにした大チャンバラ娯楽活劇をやりながら唾を吐いてみせもする。これは、そういう映画なのだろう。しかも、血みどろで、泥まみれで、格好良さとは無縁の「戦場」の描写や残虐描写がしかし、この映画の売り物でもあるという自己矛盾にも自覚的なのである。

12/05/2009

2012

2012 (☆☆☆)


新作が待たれるジェームズ・キャメロンの『アビス』が1989年公開だから、CGI によるVFX がそれまでの特撮技術にとってかわって大々的に用いられるようになって、はや20年が経つ。CGI の技術そのものも進化を続けてきたから、少し大げさに言えば、今日では事実上、どのような映像表現であっても、ほとんど制約なしに、自由自在に創りだすことができるようになったわけだ。もちろん、それなりの手間暇をかけないと「実写レベル」で説得力を持った映像には仕上がらないが、今日ハリウッドが送り出す大作商業映画ではさすがに一定レベルをクリアしてくる。こうなると、いよいよその技術を使って何を表現するのか、何を見せるのかという最も本質的なところが問われることになるだろう。

そんな話から始めるのは、スケールは大きいが中身はスカスカのバカSF映画ばかりを撮り続ける、ある意味で敬愛すべきクリエイター、ローランド・エメリッヒの新作『2012』は、何でも描けるようになってしまった時代に何を描いて見せるのかという点において作り手の真価が問われる作品である、と思うからである。マヤ暦が2012年で終わっていることをモチーフに、世界の終焉を描くという企画である。太陽の異常活動をきっかけとして地球環境が大変動を起こし、いまあるかたちでの世界が文字通りに崩壊していくわけだが、ともかくその崩壊するさまを、言いわけ程度のストーリーでつないだものだといってよい。未曾有の災害を描くことにかけては第一人者を自認しているエメリッヒのこと、ここぞとばかりに心血を注いだに違いあるまい。これまでの彼の作品のなかでも相当に力が入っている部類だろう。

正直に言えば、もともと彼の作る映画に対する期待値は高くない。だから、想像したよりも面白かった、ということでしかないような気もする。しかし、この作品のディザスター表現はかなり新鮮だ。地震、噴火、津波、ありとあらゆる天変地異が一度に押し寄せてくるわけだが、それによって都市が、大陸が、文明が、どのように壊れていくのかという点において、これまでに見たことのないような独創的な映像が次から次へと惜しみなく繰り出される158分なのである。長尺ではあるが最後まで退屈はしない。エメリッヒ本人と、盟友(制作・音楽・脚本)のハラルド・クローサーが手がけた脚本は、想像を超えない範囲でつまらないのだが、それを差し引いても余りあるイマジネーションの充実度は劇場で体験する価値があると思う。(まあ、今になって思えば、これを3Dで作っていないことが悔やまれるというところか。)

主人公を演じるのは、同年代を過ごしてきた観客の代表としてのぼんくら中年、ジョン・キューザック。適度な個性で画面に埋もれることなく、本当の主役はVFXを駆使したド派手なディザスターであることをわきまえた狂言回しとしてなかなかよいキャスティング。政府の陰謀をラジオで発信し続ける危ないおっさんをウディ・ハレルソンが楽しそうに演じているのが笑いどころだろうか。

5/31/2009

Seventeen Again

セブンティーン・アゲイン(☆☆☆)


ディズニーの『ハイスクール・ミュージカル』シリーズで人気が沸騰したザック・エフロン主演のコメディである。家庭生活にも仕事にも行き詰ったマシュー・ペリー演ずる男が、心はそのままに若いころの姿(ザック・エフロン)に変身してしまい、友人の協力を得ながら人生の選択をやり直そうとハイスクールに通うのである。よく似たパターンの作品は繰り返し作られている、と感じるだろう。が、この作品、どこか変なのである。面白がってみていたのだが、どこかすっきりしないのだ。何故なのか?

人生をやり直せるとばかりに学校に行けば、関係が疎遠になっていた娘や息子と机を並べ、悪い男と付き合う娘に「父親」としてハラハラし、イジメの対象になる冴えない息子が「父親」として心配になる。自分の息子と友人づきあいをするうち、離婚を切り出された妻に近づくことになり、関係を修復したいという思いが強まっていく。これはハイスクール・コメディではないし、青春コメディでもない。中年親父の奮闘コメディなのである。これをあくまでザック・エフロン主演で押し切るところがこの企画のミソなのだが、しかし、一方では誰をターゲットにした企画なんだかよくわからない作品だということもできるだろう。だって、ザック・エフロンを見るために集まった若い観客に、「いや、実は中年親父も辛いんだよ」という言い訳を見せてどうするのか。

例えば、ある種の類似性を感じさせる企画として、母親と娘の体が入れ替わるという設定で、時のアイドルであったリンジー・ローハンを主演させたヒット作『フォーチュン・クッキー(Freaky Friday)』という映画があった。アイドルを起用した作品という意味でも、見た目と中身の年齢ギャップで笑いを取るパターンも似ているといえる。しかし、この作品では親世代と子供世代の相互理解がテーマに置かれていて、もちろん子供世代に親の苦労を垣間見せるという教育価値もあるのだが、一方で子供が親に自分の立場を分かってもらうという部分が、すなわち、メインとなる若い観客層の心情に訴えかけるようにできているわけである。そういう意味で、商品としては正しく顧客の求めるものに応えているといえるだろう。しかし、翻って本作はどうか。主人公が娘や息子の切実な悩みと向き合うことで、一見、「相互理解」というテーマに触れてはいるように見えるのだが、それはあくまで主人公が「父親としての責任」や「家族への愛情」に目覚めるという扱いであって、人生に迷った中年男が自らを再発見する物語としての基本線を外れるものではない。これをザック目当ての女の子たちに見せるというのだから、やはり、それはヘンだというのである。

話の内容とターゲット観客層とのあいだの齟齬をさておくとすれば、1本の作品としてはチャーミングで楽しい出来栄えである。ザック・エフロンを見せる映画だという本作最大の訴求ポイントだけはさすがに外すことなく、いろいろな見せ場が用意されているのはいうまでもない。主人公の友人であるヲタクな独身男の奇妙な生活を笑いの種にしているが、ディテイルも楽しいし、キャラクターに対する愛情のある描き方になっていて不快さはない。クライマックスにむけた話の運びもよく考えられていて、ほろりとさせるものもある。ただ、話が話ゆえに、ハイスクール・ライフをきちんと描けていないところは物足りないところだろう。そこに主眼がないのは分かるのだが、登場する高校生たちは、「息子・娘」と「それ以外」という区別されておらず、個性も人間性もあったものではない。そこをもう少し丁寧に描いていれば、中高生向きのエンターテインメントとしての違和感は相当部分解消され得たのではないかと思う。

11/22/2008

1408

1408号室 (☆☆☆★)

『地下室の悪夢』や『ブロス・やつらはときどき帰ってくる』といったクズものを追いかけて数少ない上映館を捜し歩いたころに比べたら、『ミスト』やら『1408号室』といったまともな出来の作品を、まともな劇場で見ることができた今年はなんと幸せなことだろうか。そう、スティーヴン・キング原作の『1408号室』は、まともな役者を使い、真っ当な演出で見せる、とてもまともな映画なのであった。その事実だけで、まずはめでたい、そんなふうに思ってしまう。

これはいわゆる「邪悪な家」ものの変種である(個人的な気持ちとしては、「呪われた」というのとはちょっと違う)。邪悪な家といえば、あの『シャイニング』の原作がそうなのだが、一般に評価の高いキューブリックの映画版はその「家(ホテル)が邪悪」という原作のポイントにはかなり無頓着であったのも事実である。まあ、それが、「やつはホラーをわかっていない」という原作者の評価につながったのだろう。短編を土台としてわりと自由に膨らませように脚色している今作は、この「部屋そのものが邪悪であり、その邪悪なる存在が、人間の心の一番弱いところにつけこんでくる」というところを物語の要諦において、オカルトを信じない作家の、心の奥底に眠っている感情の澱を抉り出していく。

ジョン・キューザックが演じる主人公は作家である。かつては真っ当な小説でデビューしたこの男、いまでは「オカルトスポット」を訪ね歩いて怖さを評価付けするような本で生計を立てている。主人公の生業を説明した映画は場面をNYの名門ホテルに移す。ミステリアスな「招待」によって、辛い思い出の残るこの街やってきた主人公が最初に対峙するのがサミュエルL・ジャクソン演ずるホテルの支配人だ。独特の台詞回しとギョロ目を武器にした、ものすごい迫力と威圧感。基本的にジョン・キューザックの一人芝居になるこの作品のなかで、Aリスト級の役者が向かい合って演技を披露するこのシーンは大きな見所のひとつである。サミュエル・L・ジャクソンが得意な、演出過剰といってもよい大芝居をたっぷりと楽しむのが正解だろう。個人的には、これだけで元がとれるくらい面白かった。

主人公は、当然のことながら支配人の制止を無視して、いわくありげな部屋に入ることになる。序盤戦は安っぽい脅かしも含めて、B級ホラー調で始まる。中には、見せ方や音楽、効果音などなど故に「ホラー」になっているが、冷静に考えると、おいおい、それって怖いのか?みたいな小ネタばかり。隣の部屋のひそひそ声も、水やお湯の出がおかしい蛇口も、まともに動作しないエアコンも、使い方が良く分からない目覚ましラジオが突然へんな時間に大音量で鳴り出すのも、確かに嫌、だ。しかし、そんなものは怪奇現象とはいえまい。「オンボロ・モーテルにとまってしまった怖がりキングの妄想が爆発」したんだとなんだな、と思ってみているとかなり笑える。しかし、こんなものでもどんどん積み重なっていくことで、主人公の精神は次第に追い詰められていく。解決法を見つけたと思えば、結局のところそれが徒労に終わるという展開を繰り返していくうちに、観客は、心理的な(そして物理的な)逃げ場を失っていく主人公の、そのプロセスに感情移入させられ、主人公同様の閉塞感や絶望感を共有させられる。これが、この映画が醸し出す恐怖の源泉となる。

主人公を演ずるジョン・キューザックがうまい。先に述べたように、全編、ほぼ一人芝居状態であるが、超常現象なんて何ほどのものとふてぶてしく振舞っていた男が、徐々に「部屋」のペースに巻き込まれて正気を失い、大きな決断にいたるまでの心理状態に、説得力をもたせている。最後の最後に至って、オカルトなど信じないといっていた彼が心の奥底で、それとは反対の何かを切望していたことが示唆されるが、このあたり、彼の演技に泣かされるのだ。80年代から彼を見ている当方としては、この人が「娘を失った父親」を演じるような年になるとは信じ難いことなのだが、こちらもそれだけ年をとったということか。

2大俳優の演技対決、というのとはちょっと違うが、実力十分の役者たちが大芝居を打つさまは、映画館で見るに十分な理由足る。キングの短編ホラーの映画化で、ここまで力の入ったものを見られるとは予期しないだろうから、得した気分になれること請け合いだ。スウェーデン出身、ハリウッド・デビュー作となるミカエル・ハフストローム監督、なかなかやるじゃないか。

6/07/2008

21

ラスベガスをぶっつぶせ (☆☆☆)

この映画の原題は『21』である。これは、エースを「11」、絵札を「10」として数字を合計し、「21」を超えない最大の数が勝つというブラックジャックのルールに由来するものだ。ブラックジャックというゲームでは、どういう状況のときにどうプレイすべきか、統計学的に有利と考えられる基本戦略がある。それに忠実であれば、あくまで確率の話だが、それほど負けが込むことを避けられるはずである。そういう性質のゲームであるから、確率を自分の味方につけるべく、さまざまな方法が研究された。ゲームでカードが配られる毎にデッキに残った未使用カードの種類に偏りが生じ、確率的な有利不利もそれにつれて変化する。映画好きなら記憶にあるであろう、『レインマン』ではダスティン・ホフマン演ずるレイモンドが場に登場したカードを全て記憶、残りカードを把握することによってプレイを有利に進めて大勝するという描写があった。あれは特殊な設定で、かつ、誤解を招きかねない大げさな描き方が成された例であるけれども、この映画の主人公であるMITの学生たちが試みるのも基本的には同じことである。全てのカードを記憶する代わりに、場に現れたカードを独特のカウント方法によって「数え」ていく (= card counting) ことで、残りカードのコンディションを推測しようとするものである。プレイヤーに有利な状況だと判断すれば仲間を呼び込み、掛け金を増やすなどの積極策で打って出る。不利な状況であれば消極策で損失を減らすという「作戦」だ。

この話は、実際の事件に材を撮ったベン・メズリックの原作("Bringing Down the House")を元にしており、M.I.T. に入った貧乏学生が、"card counting" を教え込んだ優秀な学生たちを使って荒稼ぎを繰り返している「教授」の誘いにのり、次第に深みにはまっていくというものだ。映画はここに「自らの欲望を満たすために悪魔に心を売った主人公が味わう絶頂と絶望、友情と葛藤、再起と成長」という大定番のプロットを見出して再構成、淡い恋模様を交えて、スリルと苦味を伴う青春映画の佳作に仕上げて見せた。実際はアジア系の学生が多かったはずの主人公グループを白人主体のグループとして描いたことで物議を醸したが、実話に題材を求めた娯楽映画、商業映画という観点からは非難に値するほどのものでもあるまい。ギャンブルと裏世界の青春といえば、マット・デイモンとエドワード・ノートンが共演する変化球的佳作『ラウンダーズ』も記憶に新しいが、こちらの方がより定型的な教訓を含んだハリウッド青春映画を志向している。それもまた、小説より奇なる実話を単純化して台無しにしたとの非難を受ける理由には違いないのだろうが、定番(フォーミュラ)の強靭さをナめてはいけない。そこには長い年月に渡ってテストされ続けてきたストーリーテリングのエッセンスが凝縮されているのだから。

主人公を演じるのは、『アクロス・ザ・ユニバース』でも注目を集めたジム・スタージェスで、数学の天才に見えるかどうかは別として、ロボット・コンテストに夢中になっていそうなgeekには見えるし、学費を貯めるために手を染めた「悪事」にはまり、人間性が変わっていくさまをそれなりの説得力と魅力で演じていて、ブレイクが近いことを伺わせる。ヒロインに抜擢されたのは『ブルークラッシュ』が印象に残るケイト・ボスワースで、『Legally Blonde (キューティ・ブロンド)』で名をあげた本作の監督、ロバート・ルケティックとは『Win a Date with Tad Hamilton! (アイドルとデートする方法)』に続く2度目の顔合わせだ。そういう若いキャストを誘惑するメフィストフェレスを演じるのは、本作のプロデュースも務めるケヴィン・スペイシーである。まあ、彼が得意なタイプの役柄で、なんら想像の範疇を超えることもないが、この胡散臭い役柄を軽く演じて若手の役者たちとのキャリアの違いを見せつけている。カジノ側でイカサマ摘発に血道をあげる強面の男をローレンス・フィッシュバーンが迫力たっぷりに演じてここでの役割を全うしている。複数エンディングが撮られたというが、劇場公開版はいかにも米国的な強かな生き方をパンチと皮肉が効いたタッチで決めて、なかなか鮮やかである。

8/27/1999

The 13th Worrior

サーティーン・ウォリアーズ(☆☆)

久々のジョン・マクティアナン監督作は、アントニオ・バンデラス主演、マイケル・クライトンがベオウルフを土台に構想した初期作「北人伝説(Eater of the Dead)」が原作の中世アクションだ。これが、初期のスクリーニングで大不評だったため、音楽の差し替えと追加撮影が決まり、マイケル・クライントン自身が追加撮影を監督。グレアム・レヴェルの音楽がリジェクトされ、巨匠ジェリー・ゴールドスミスが音楽を担当することとなったという代物。そんなドタバタの舞台裏をきくと、なんだか、いやな臭いが漂ってくる。

どんな話か。中世のアラブ世界より辺境のヴァイキングたちの世界に左遷されていた主人公が、北方の村落を襲う「死者を食らうもの」たちから守るための助っ人軍団に、「13番目の戦士」として参加することになった。霧とともに襲ってくる残虐なものたちとの決戦のときは刻一刻と迫ってくる・・・というもの。

前半、主人公らの文化の違いを描いたりして興味深くもあるが、スロースタートな感じ。得体の知れない怪物を相手にしている時の恐怖感みたいなものはそれなりに出ている。しかし、この正体が割れてしまうと、駄目だ。原作ではネアンデルタール人の子孫らしいんだけど。

中盤、相手の根拠地に乗り込むが展開に工夫が感じられず。主人公以外の12人の戦士の描きわけが十分でなく、ただいるだけ。演じる役者も知らない顔が並び、しかも髭面だから、視覚的にも判別がつかない。それを思えば、もうちっと脚本で描きこんでやってほしいところ。

さすがにクライマックスは画面作りに気合が入っていて、わりと盛り上がる。なんと、雨中決戦だ。そうか、『七人の侍』がやりたかったのか。しかし、盛り上がったと思ったら終わってしまう。もう少し見せてくれよ。

バンデラス扮するキャラクターが他のヴァイキングたちの言葉を理解するようになるところの演出が、マクティアナンの過去作『レッドオクトーバーを追え』でやった、ショーン・コネリーの口もとのアップ以降、ロシア人たちの会話が英語に差し替えられる演出を応用版になっていて面白い。ゴールドスミスが書いた音楽はさすが巨匠、なかなか燃える。

しかしいっちゃなんだが、そもそもこの話、それ自体がつまらないんじゃないか。なんで今頃、クライトンの初期作品を引っ張り出してこなくてはならなかったのか。『コンゴ』の失敗を見て気付けよ、それじゃダメだってことくらい。原作者のネームバリューだけに頼る映画作りは、もういい加減にやめるべきだ。

5/28/1999

The Thirteenth Floor

13F (☆☆★)

コンピュータを駆使したシミュレーションを直接頭脳にダウンロードすることで体験できる仮想現実の世界。その実現を目指してきたヴェンチャー企業の創設者が殺され、その部下であり友人でもあった主人公に容疑がかかる。謎を解くために世界恐慌前の米国をシミュレートした世界に乗り込んでいく主人公。

ドイツでも映画化されたことがある70年代SF小説をベースに、製作ローランド・エメリッヒ、監督・脚本ヨゼフ・ラズナックを始め、ドイツ系のスタッフが作り上げたSFスリラー。グレチェン・モルやヴィンセント・ドノフリオが脇で出演している。

低予算ゆえというのもあるのだろうが、その分だけ、ヴィジュアルでごまかさないで、きちんとストーリーを語ろういう意志は伝わってくる。エメリッヒの名前や、「ヴァーチャル・リアリティ」などというキャッチーなモチーフに騙されていると、むしろ肩透かしを食うのではないか。細部のアイディアの詰めが甘く、欠点も少なくないが、大味なエメリッヒとは資質を異にするのであろう、ヨゼフ・ラズナックを初めとするスタッフによって、実に欧州的な肌触りがある作品に仕上がった。ハリウッド映画的基準でいえば、異色な雰囲気の作品といっていい。

物語の核に「シミュレーションのデータを脳にダウンロード」して仮想世界に入るというアイディアがある。近作では『マトリックス』もそうであるように、これ自体がことさら新しいアイディアというわけではない。この手の作品では、「どうやって脳とコンピュータシミュレーションをつないでいるのか」について、虚実を混ぜあわせたもっともらしい説明があるのが通例だが、本作はそこを綺麗サッパリ省いている。もう少し説得力のある説明を加えてもいいと思うくらいだが、下手をすればうそ臭くなるだけなので、何もしないというのも1つの見識なのだろう。

主人公の現在は、ハイテクSF調とでもいうのか、青を基調とした、冷たく生気のない映像で描かれている。もっといえば、SF映画の割に金がかかっていない。一方、1920年代をモデルにした仮想世界に舞台が移ると、温かみのある、しかしセピアがかった色調に映像も切り替わり、画面が活き活きとしてくる。プロダクション・デザインの才能と予算の大半は、こちらの世界を作ることに費やされたのだろうね。

演出で面白かったのは、登場人物の誰もが囁くようにしゃべっているかのような印象を受けること。どこか淡々とした「静寂」の映画という感じで、動的でダイナミックな映画を期待した観客を驚かせる。画面の雰囲気と相まって、映画全体が夢か現かといった非現実性を帯びてくる。そういう雰囲気や語り口は良かったが、脚本は少々舌足らずで、あからさまなご都合主義もある。

主人公を演じているのはクレイグ・ビルコというあまり知られていない役者だが、共演の、最近売り出し中な感じであるグレチェン・モルが注目だ。はかなげで、かつミステリアスな雰囲気がいい。

3/31/1999

10 Things I Hate About You

恋のからさわぎ(☆☆☆★)

スタッフ・キャストともに耳に馴染みのないティーンズ映画に何を期待できるかもよくわからないまま、TVスポットだけを頼りにとりあえず出かけてみることが多いのだが、そこそこな打率で意外な拾い物にぶつかることもある。そして、本作はそんな一本だ。

ストーリーの骨子にシェイクスピアの『じゃじゃ馬ならし』を借り、恋のゲームがノリと歯切れもよく繰り広げられる本作、軽いロマンティック・コメディが好きな人には、ハイスクールものなんかとバカにせず、一見をお勧めしたい佳作なのである。

ハイスクールに通うタイプの異なる姉妹が紹介される。ジュリア・スタイルズ演じる姉の方は変わり者で反抗的、しかも男嫌いだが、ラリサ・オレイニック演じる妹のほうは学園の人気者で遊びたい盛りである。お固い父親から「姉が誰かと付き合うようになったら、お前のデートも許してやる」との言葉を引き出した妹と、彼女に一目惚れの転校生(ジョセフ・ゴードン・レヴィット)が一計を案じ、強力な「助っ人」(ヒース・レジャー)を雇い、姉の心を篭絡しようとする。

脚本はカレン・マックラー・ラッツとキルスティン・スミスの女性ライターコンビも、TVを活動の場としている監督のギル・ジュンガーもこれが初の劇場用作品。ほら、出演者の名前を聞いても、脚本・監督の名前を見ても、耳に馴染みがないというのはこのことだ。

この作品が上手くいっている理由の一つは、舞台はハイスクールでありながら、もともとストーリーラインのかっちりした古典を土台にした脚本がよくかけていることだろう。このアプローチはジェーン・オースティン「エマ」を土台とした『クルーレス』や、ラクロ「危険な関係」を土台にした最近のヒット作『クルーエル・インテンションズ』などとも共通するものだ。よく知られた物語を巧みにアップデートすることで、現代性と普遍性を両立させると、時にとても面白い仕上がりになるものなのである。

わりとキャラクター数の多い作品なのだが、無駄なキャラクターはいない。それぞれの役割がはっきりしていて、ぴったりな役者がキャスティングされている。人物の紹介、出し入れがうまく、これを裁く演出にも危なげがなくテンポが良い。

若い役者たちも好演している。本作のヒロインになるジュリア・スタイルズは単純な美人ではなくて、どちらかと云えば個性的である。その容貌も、自己主張が強い感じも、男の観客よりは同世代の女の観客に受けそうだと思う。また、ワイルドな不良役っぽさを前面に出したヒース・レジャーも個性的な容貌をしていて、なんだか一昔前の江口洋介みたいな髪型をして出てくる。こいつはなかなかのインパクトだ。

若い男女の思惑で繰り広げられる軽いノリの恋愛コメディでありながら、ただの馬鹿騒ぎに終わらせることなく、登場人物たちのキャラクターを大事に、そして、その感情を丁寧に、真摯に描けていて、共感の持てる物語になっているところに好感をもった。こういう作品が、アメリカ映画の裾野を広げているのだと思うし、こういう作品の中から、次の世代を担うスターが育ってくるんじゃないかと思う。だからハイスクールものの追っかけも捨てたものじゃない。

2/26/1999

8mm

8mm(☆☆★)

『セブン』の次だから、『8mm』ってとこなんだろうか。アンドリュー・ケヴィンウォーカー脚本の新作は、「スナッフ・フィルム」の都市伝説をテーマにした挑発的で悪趣味なスリラーである。監督は、バットマンものでは大いにミソつけたジョエル・シュマッカー。

ある富豪の遺品のなかにあった、8ミリのプライベート・フィルムには、年端もいかぬ少女が生々しく殺害される様子が写っていた。カメラの前で本当に殺人は行われていたのかどうか、真相を確かめるべく雇われた私立探偵が、怪しい人々がうごめく危険な裏の世界に足を踏み入れていくという筋立てである。私立探偵をニコラス・ケイジ、彼に協力するアダルトショップの店員をホアキン・フェニックスが演じている。

いやはや、異様な映画である。

この映画には、都市伝説として囁かれる「スナッフ・フィルム」の世界が現実に存在しても不思議ではない、と思わせるだけのリアリティはともかく、無理やりそういう異常な世界に観客を連れ込んでいこうとする、負のエネルギーがみなぎっている。

それに、意図したことかどうかはわからないが、シュマッカーの映画としては、『評決のとき』に続いて、「私刑」を肯定する筋立てになっている。しかも、それはほぼ主人公の「自己満足」とでもいうべきものであって、映画が終わった時点で、映画が始まった時より幸せになった登場人物が一人もいないというところが悪意に満ちている。

そんなわけで、「良識的な観客」はこの映画を見ている2時間強、終始嫌な気分でいることを強いられるばかりか、とても後味の悪い思いすることになる。それだけで済むならともかく、快楽のために人の命を奪い、それをフィルムに収めるという胸糞の悪いビジネスが、日常生活のすぐ裏側に存在しているんじゃないかという、これまた胸糞悪い都市伝説をしっかりと頭に刷り込まれて家路につくことになる。

まあ、そんなものは絶対にないとも言い切れないのが嫌な世の中ではあるのだが。

この映画は、刺激的なトピックで目眩ましをしているが、おそらく、「知りたくない真実にどう向き合うか」、そして、「真実を知ったものに課せられた責任と倫理的なディレンマ」というテーマに切り込もうとしているのではないだろうか。

そして、その「真実」を暴くことを生業とするのが主人公である。

だとするならば、この主人公が、本来、この映画のテーマを背負い、主体的に苦悩する存在として描かれるべきだと思うのだが、どうもそうなっていないところに居心地の悪さを感じる。だって、ニコラス・ケイジは苦悩する表情こそを浮かべているけれども、結果として「自身の葛藤」とすべきものに周囲を巻き込み、不幸の連鎖を撒き散らす存在になってしまっているからね。そんな主人公の行動は肯定もできないし、好感を抱くことすらできないよ。

話を聞くと、当初の脚本のトーンがあまりに暗いことに躊躇したスタジオがリライトを求めたが、アンドリュー・ケヴィンウォーカーはそれをことわり、プロジェクトから離れたのだという。結局、脚本は監督自身によって手を入れられたらしい。中盤以降の、本来あるべきテーマが収まるべきところに収まらず、中途半端な「私刑肯定」映画として着地するこのチグハグした感じは、もしかしたらそんなところに起因するのかもしれない、と勝手な想像をしてみたりする。

ジョエル・シュマッカーは職人的な手腕をもった監督で、いい企画、いい脚本に出会えば『フォーリング・ダウン』のような傑作も撮る一方で、なんでこんなのひきうけちゃったの、という作品も少なくない。「バットマン」フランチャイズを殺した2本は、後者の代表といえるだろう。本作は、脚本に描かれた「尋常ならざる裏世界」に説得力を与えようとする強い意欲を感じさせはするが、せっかくの意欲が空回りしているように感じられる。最初の脚本はどのようになっていたのだろうか。少し興味を惹かれないでもない。