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10/29/2011

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ミッション:8ミニッツ(☆☆☆★)


郊外からシカゴのユニオン駅に向かう通勤列車で爆破テロ事件が発生した。犯人は次なるターゲットとして市街地での大規模テロを画策しいているらしい、犯人につながる手がかりを見つけるため、主人公である陸軍大尉が意識だけ飛ばされるのは、事故の犠牲者の脳内に残された最後の8分間の記憶を元に再構築された世界である。分けも分からないまま、指示されるがまま、8分後に爆死することが確実な状況を何度も何度も繰り返すのだ。

騙し、騙される話ではないので、日本での宣伝文句通りに、「騙される」かどうかは別にして、確かに色々な映画を見てきていると、これまた『ふくろうの河』や『ジェイコブズ・ラダー』なんじゃあるまいな、などと、余計な想像をふくらませてしまうのもまた事実であろう。SF風のサスペンス・ミステリーとして幕を開ける本作は、しかし、そういう掟破りの方向には転がっていかない。

物語が進むに連れ、映画の中のルールが明らかになっていく。主人公の置かれた立場と、ミッションを可能にする仕組みについて曖昧なところを残したままではあるが、幾度かの試みを繰り返し、失敗を繰り返すうちに犯人の手がかりに迫っていく。しかし、同時に、主人公にとっての「現実」の持つ意味がだんだんと重くのしかかっていくようになる。

この映画の面白さは、そこに至るまでの手綱さばきが見事で、観客を飽きさせないところにもある。だがそれ以上に、主人公が自らに与えられた目的を超えて、自らの欲求を実現させようとする「ドラマ」にこそ、これを他にない、ユニークで感動的な要素があるのだ。死者の脳内に残された最後の記憶を超越して膨らんでいく、いってみれば、「もうひとつのリアリティ」、別の可能性に主人公が求める救いに、胸を打たれる。まあ、確かにそういう話になるとも思ってはいなかったから、嬉しい驚きだったといってもいい。

主演は、ジェイク・ギレンホール。思えばこの人は『ドニー・ダーコ』であり、『遠い空の向こうに』なのだった。不条理な世界に巻き込まれるのが似合うといったら失礼かもしれないが、それと同時に、物静かだが誠実な人柄と、少しばかりの狂気、諦めない勇気ある行動力。過去の作品からそういうイメージを引きずっている彼は、本作の主人公にぴたりとハマっている。ヒロインはミシェル・モナハン。いつも添え物的な扱いが多い彼女だが、今回はなかなかいい役柄だったのではないか。主人公をミッションに駆り立てる側に立つのがヴェラ・ファーミガとジェフリー・ライトだ。もちろん他にも登場人物はいるが、主要なのはこの4人で、比較的にこぢんまりした作りの映画ではある。

本作の監督は、かつて「ゾウイ」などと奇天烈な名(キラキラ・ネームの先駆けw)を付けられた、デイヴィッド・ボウイの息子、ダンカン・ジョーンズである。なかなか達者な腕前で、複雑なパズルのような作品を組み立ててみせる。評判を呼んでいた前作『月に囚われた男』は残念なことに見損なってしまっているのだが、次回作が楽しみな監督であるのは間違いない。本作の舞台をNYからシカゴに変えるという判断も良かった。NYじゃ、さすがにエンターテインメントとして楽しむには重すぎるよね。

8/20/2011

Shanghai (2010)

シャンハイ (☆☆)


日米開戦前夜の上海を舞台に、新聞記者を装い同僚の死の背景に迫ろうとする米国諜報部員が、死の鍵を握る女の存在に迫ろうとするうち、抗日レジスタンス活動とそれを弾圧する日本軍の緊張関係の中に巻き込まれていく。ワインスタイン・カンパニー製作、『1408号室』の監督・主演コンビであるミカエル・ハフストロームとジョン・キューザック、主人公の上官にデイヴィッド・モース、独の友人にフランカ・ポテンテ、中国裏社会のボスにチョウ・ユンファ、その妻にコン・リー、日本軍将校に渡辺謙、その情婦に菊地凛子。スウェーデン出身監督が米中日のキャストを束ねるという不思議な企画である。

これは史実に埋もれた事実をあぶり出すポリティカル・ミステリーとかサスペンスの類ではなく、ハードボイルド風のメロドラマである。それがたまたま1941年の上海という、とても魅惑的な舞台で展開されるというわけだ。

「探偵役」となる主人公は、殺された同僚が日本軍将校の情婦に接近し、何らかの大きな動き、すなわち、真珠湾攻撃に向けて着々と準備を進めている日本軍の機密情報を収集していたらしいと突き止めていく。ただ、殺しそのものは、結局、全て個人的な愛憎ゆえという、「驚愕」というよりは、むしろありがちな「真実」にたどり着く、という話である。

殺された同僚が、表向きの中立を保つ米国の立場を超えて日本の機密に関わる諜報に深入りしていたという話は、物語の最初から仮説として提示される。さらに、失踪した鍵になる女「スミコ」が日本人であることもあって、捜査のプロセスそのものに「ミステリー」はほぼ、ない。そのかわり、捜査のプロセスで知り合った魅力的な「レジスタンスの女」に肩入れすることで、複雑な人間関係の渦中に巻き込まれていくことになるのである。これもまた、定型通りといっても良い展開だろう。

主人公を演ずるジョン・キューザックは、監督とは前作で組んで気心が知れているというのも起用の理由だろう。彼が一生懸命背伸びをしてハードボイルドを気取っているところは微笑ましくも思うのだが、ちょっと本作を背負うには少々弱いキャスティングではなかったか。陰謀渦巻くなかでの米国の門外漢的な立ち位置、あるいは、ナイーヴさを象徴しているようにも見えるし、情にほだされやすく、純で甘っちょろい面を感じさせる意図もあろうかとは思う。しかし、コメディでもない限り、キューザックがプロフェッショナルな諜報員というのは、俄に信じ難い。それはさておいても、チョウ・ユンファ、コン・リー、渡辺謙といったキャストに囲まれると、そこは役者としての格の違いが出てしまう。

他のキャストでは、チョウ・ユンファは久々に彼に似合ったいい役であるし、見せ場もある。渡辺謙もストイックなイメージを逆手に取って、悪役ながら魅力的な役柄だ。日本で宣伝に駆り出されている菊地凛子は鍵になる情婦の役だが、出番は少なく、アヘン中毒で毛布をかぶって震えているだけ。本作のヒロインは、日本軍に協力する夫を持ちながら、裏でレジスタンス活動を支援するコン・リーで、さすがの美貌と存在感ながら、主人公を翻弄する「運命の女」としては妖しい魅力にかけているように思う。

上海での撮影許可を取り消され、急遽バンコクに建てたという巨大なセットがなかなか壮観で、作品の雰囲気を補強している。作品の性格上、夜間であったり、暗所でのシーンが多いため、せっかくのセットを堪能するまでには至らないのが少々残念である。ミカエル・ハフストロームの演出は、脚本に盛り込まれた複雑な要素を交通整理しながらストーリーを進めるのが精一杯の様子で、あまり余裕を感じられない。まあ、キャリアでも最大規模の作品で、しかも、製作過程で遭遇したトラブルのことを思えば、作品としてまとまっているだけでも立派なものだと云うべきなのかもしれない。

8/03/2011

Super !

スーパー!(☆☆☆★)


愛する妻をドラッグ・ディーラーの元締めに寝取られた男が「神の啓示」を受けたと思い込み、自作のコスチュームに身を包んで悪人を成敗する「クリムゾン・ボルト」として活動を始め、町に巣食う売人や、映画館の列に割り込んだ男などに次々と制裁を加えていく。男の正体に気づいたコミック店員のイカレ女を相棒にして、警察の疑惑の目を振り切り、愛する妻の奪還のために危険なディーラーのアジトへの殴り込みを結構する、そんな話。

コスチュームを身に纏い悪と戦うコミックのスーパーヒーローたちがスクリーンを席巻するようになって随分になる。そんななかで、「コスチュームを着て悪と戦う」という行為の異常性についても、こうしたジャンルが自覚的に向き合うテーマの一つとなってきている。この『スーパー!』という映画も、何の変哲もない中年男が自作のコスチュームに見を包んで悪を成敗するという趣向から、昨年の収穫であった『キック・アス』の二番煎じのように見えるのだが、見終わってみれば、さにあらず。

『キック・アス』があくまで虚構世界を舞台にしたファンタジーであり、変則的なヒーロー物としての一線を踏み外さないのに対して、こちらはあくまで現実世界の延長線上でにあって、おそらくは「コスチュームを纏ったヒーロー」という意匠がなくても成立する物語であることが一番大きな違いなのではないか。

なぜなら、これは、神の啓史を受け、神の名において独善的な正義を振りかざすキチガイ男の話であるからだ。

勝手な思い込みが神の名において全てが正当化され、エスカレートしていく気持ち悪さと恐ろしさ。主人公は、TVで観ていた福音派のヘンテコなヒーロー番組に感化され、妄想の中で神の言葉を聞き、触手に脳味噌をタッチされて「選ばれたもの」としての使命感に目覚める。ここのプロセスに宗教を絡めているのは単なる偶然や思いつきではあるまい。

そうはいっても、当然、「悪い奴らはみんなブチ殺してしまえ」という不謹慎な快感もこの映画の魅力の一部である。

これは、多くの勧善懲悪ものに共通する快感ではあるのだが、無遠慮にグロテスクでバイオレント、かつチープな本作の描写は、どこか『悪魔の毒々モンスター』に通ずるものを感じさせられる。それは、本作の監督ジェームjズ・ガンのキャリアがトロマ映画で始まっていることと無縁ではあるまい。その悪趣味ぶりは、主人公の「活躍」ぶりを笑ってみてきた観客に冷水を被せるかのような終盤の、思いも寄らない2つのショッキングな描写にまで貫かれている。まあ、それゆえに本作を受け付けないという人々も多いとは思うが。

そして、これだけむちゃくちゃをやらかした主人公が、ある種のハッピーエンドを迎えるというエンディング。その取って付けた感は黒い笑いどころでもあり、しかし、冴えない男が正しく自尊心を取り戻した感動的な幕引きでもあって、そこに本作のドラマとしての魅力があるだろう。主人公に悪びれたところも反省もないのは、それこそ、宗教の名を借りたら何でも正当化できてしまうという恐ろしさをダメ押しするものと理解することもできるのではないか。

主演のルーク・ウィルソン、エレン・ペイジ、ケヴィン・ベーコン、リヴ・タイラーのメインキャストの仕事が素晴らしい。エレン・ペイジのハジケっぷりは、ただしく『ハード・キャンディ』で世に出てきた女優であることを思い起こさせられるし、ケヴィン・ベーコンの悪役っぷりも堂に入っている。

不謹慎で、低俗で、どこかヤバいところのある不健全な映画である。この映画のスタイルは露悪的というほかないが、しかし、そこには意外なほどに豊かなドラマがあり、重要な示唆を含んでもいる。なにかいけないものを覗き見するかのような、「シネコン」的な健全さとは異なる映画の楽しみがいっぱいの本作は、誰にでもオススメとはいいかねるが、ありきたりの娯楽映画や品行方正な社会派映画に飽きた向きには良い刺激となる1本だと思う。

6/24/2011

Super 8

スーパー8(☆☆☆★)


1979年の夏、オハイオ州の小さな田舎町で、少年たちの一団が、8mmカメラでゾンビ映画の製作に夢中になっていた。深夜の鉄道駅での撮影中、ものすごいスピードで通過しようとする軍用貨物列車にトラックが激突、少年たちの目の間で大惨事が起こる。米空軍が異様な物量と秘密主義体制で事故処理にあたるなか、町では不思議な出来事が起こりはじめる。そして、少年たちが回していた8mmフィルムには、事故の折に列車から逃げ出した何かが写りこんでいた。

監督であるJJ.エイブラムズが影響を受けたという80年代のスピルバーグ監督作品や、スピルバーグがアンブリンで製作したプロデュース作品が好んで取り上げたモチーフを散りばめながら、少年の一夏の恋と冒険、そして成長を描いた小品である。開巻、エイブラムズのプロダクションであるバッドロボットのロゴに先んじて、あの有名な、ETと一緒に自転車が空をとぶアンブリン・エンターテインメントのロゴが表示されるのは偶然ではなく、なんと、オマージュを捧げられる対象となったスピルバーグ自身が製作に名を連ねるという、ある意味で特別な作品になった。

(そういえば、アンブリンのロゴは映画の最後、エンドクレジットが終わってから映しだされるのが通例だから、映画の冒頭でお目にかかるのはかなり珍しい部類ではないか。)

この作品には『E.T.』や『未知との遭遇』、あるいは、『グーニーズ』といった作品を想起させるモチーフが溢れている。が、一方でそれらの作品との明らかな違いもある。

スピルバーグ自身の監督作における主人公の少年は、どちらかといえば孤独で、ひとり空を眺め「星に願いを」かけるのに対し、本作の主人公は片親という家庭環境こそ似ているものの、それなりに遊び仲間がいて、一緒に夢中になれる遊びがあり、恋もする。そこには、宇宙の片隅にある地球から「星に願い」をかけるロマンの香りや、外の世界に広がっていくスケールの大きさは感じられないし、もしかしたら地球を捨ててあっちの世界に行ってしまうかもしれないという危うさは一切存在しない。そこが、JJ.エイブラムズ(かつての)とスピルバーグの興味関心の違いだったり、作家としての資質の違いだったりするのだろう。

穿った見方をすれば、エイブラムズは自分の興味のある「8mm映画製作に打ち込む少年たちの話」と、「モンスター・パニック映画」をスピルバーグの製作で作るに当たって、商業的な戦略も込めて、「80年代スピルバーグ・オマージュ」というアイディアを持ち込んだのかもしれない。商売上手な彼のことだから、それがウケるんじゃないかという読みもあっただろう。そう言われてみれば、一時期は誰もが類似品を作ったこの手の映画がスクリーンから消えて久しい。予告編にあるある種の「懐かしさ」が映画への興味を掻きたてたことは否定のできない事実だ。

それがたとえポーズだけの話だったとしても、構わない。それが、結果として、これまでのエイブラムズの作品につきまとっていた、「よく出来ているけど、映画というよりはTVドラマ」な雰囲気を抑制し、映画らしい雰囲気をもたらす魔法になっているからだ。

JJ.エイブラムズの、観客の興味を掴んで話さないサービス精神やストーリーテリングの巧みさ、企画屋としての嗅覚・才能には敬意を表していても、彼が撮った劇場作品である『M:I-3』、『スター・トレック』共に、映画の大きなスクリーンを活かせていない画作りが息苦しく、結局はTV屋さんなんだよな、と思っていたものである。また、分かりやすくウケ易い話にするために、「個人的な動機に基づくミッション(M:I-3)」になってしまったり、「シリーズの魅力である理想主義を捨てた敵と味方のドンパチもの(スター・トレック)」になってしまうある種の幼稚さも気に入らなかった。

もちろん本作も、話の仕掛けのわりには小さくまとまってしまった感がないわけではない。しかし、「80年代スピルバーグ」らしさを持ち込もうとした結果、画作りも、ドラマも、これまでとはどこか違った「映画らしさ」を感じられる作品になっていると思うのだ。スピルバーグはこの作品を指して「(誰かの作ったシリーズものを引き継ぐのではなく)エイブラムズのほんとうの意味でのデビュー作」という云い方をしていたが、それとは違う意味で、エイブラムズが初めて撮ってみせた、映画らしい映画、ではないかと思うのである。

バラエティに富んだ子役たちのキャスティングが大変素晴らしい。また、彼らを子供らしくイキイキと演出できているところもよい。そして何よりも、ヒロインを演じるエル・ファニングの魅力と、主人公と彼女の繊細な感情の交歓を描き出してみせたところが本作の一番の見所だと断言したい出来栄えである。

思えば、魅力的なヒロインを描くことができないのがいつもスピルバーグの弱点だった。そこも含めて、エイブラムスとスピルバーグでは、観客を楽しませることにかけてのテクニックや商売人としての嗅覚の鋭さは共通するにしても、全く異なる個性の持ち主だというのは明白なんじゃなかろうか。娯楽映画としての仕掛けの大きな部分に驚きや新鮮味はなくお座なりとも言えなくはないが、主筋であるところの青春物語としては十二分に楽しませてもらった。その部分ひとつだけでも、何度でも見たいと思える作品である。

6/18/2011

Skyline

スカイライン 征服(☆)


自分のVFX工房ができることの見本市にはなっている。つまり、業界向けのデモンストレーションだな。が、商品としては成立していないレベル。バカにしながら笑って楽しむことすらも難しい、短いはずの上映時間がひたすら苦痛に感じられる、近年稀にみるゴミ映画である。本作に比べたら、悪名高き『バトルフィールド・アース』だって可愛げがあるだけマシだろう。

まあ、さもありなん、監督は『エイリアンVSプレデター』という最高の素材を与えられて、これまた鑑賞が苦痛になるレベルの続編をつくちゃったストラウス兄弟だもんな。

L.A.を舞台に、パーティのために高層マンションのペントハウスに集まっていた人々が、為す術も無く異星人の地球侵略を目撃する3日間。あー、コンセプトだけだと、インディペンデンス・デイのクローバーフィールド化されたバージョンみたいな感じ。

しかし、クローバーフィールド程度の「見せ方」の工夫があるわけではない。エキストラを使えない制約ゆえか、非常事態におけるパニックを見せるシーンもない。限られた、魅力のかけらもない登場人物たちが、ペントハウス→屋上→地下駐車場を無駄にいったりきたりしているだけで、お話しの工夫もなにもない。いくら世界の終りを目撃する映画だと言ったって、必死のサバイヴァルくらいするだろうよ。この映画のような状況下で、高い建物の上層部に留まろうとする理由が理解出来ない。やる気がないにもほどがある。制約を逆手にとった面白い展開や見せ方を考えるのがクリエーターの仕事ではないのだろうか。自分たちの都合に合わせて登場人物の行動や思考、行動範囲を限定するなど、もってのほかだ。

登場人物たちに、映画制作関係者がいる。ロボットかなにかの出てくる撮影云々の話をしているから、てっきりそれを伏線に、捕獲した異星人やその乗り物を手懐けて映画撮影を敢行するバカ展開を期待したけれど、当然、そういう気の利いたアイディアなんかあるわけもない。まあ、最後の最後に、登場人物の脳みそ食った異星人が狂って(思考を乗っ取られて?)、残された身重の妻を守るという超絶バカ展開が待っているのだが、で、それで面白いのか?そういうのを面白いと思っているのか?

こういうのを見ると、JJ.エイブラムズの企画力だったり、子飼いの監督の演出技術だったりはやはり並ではないなぁ、と感心せざるえを得ない。もっといえば、同じようにストーリーそのものが面白いわけでもなんでもない『宇宙戦争』で、(それゆえに割と広範に不評が聞かれたりもするのだが)、スピルバーグ御大が見せた演出力の非凡さというものに、改めて深い感動を覚える。

インディペンデントの予算規模で、白昼堂々、巨大宇宙船やらモンスターっぽいものやら機動兵器っぽいものが地球上を蹂躙するという絵面を作れるというのは、たしかに感心すべきものなのだろう。しかし、単にそれだけでは、ミニチュアの光学合成をしていた時代と違って、VFXのハードルは限り無く低くなっているという事実の再確認にしかならない。なにせ、あの『宇宙戦艦ヤマト』を、日本で実写映画にできてしまう時代なんだからさ。

結局、作り手個人の個性は失われるかもしれないが、ハリウッドというシステムは、このような駄作のために大金がつぎ込まれる事態を避けるための「リスク・マネジメント」なのだ。様々な脚本家が何度も何度も脚本を手直しし、「商品」としての最低限のクオリティを担保しようとする。(まあ、それでも失敗するときは失敗するのだが。)本作は、そういう規格化されたありきたりの商品ばかりを生み出すプロセスにすら、やはり価値があるものなのだと再認識させてくれたりもするのである。やれやれだね。

1/21/2011

The Social Network

ソーシャル・ネットワーク(☆☆☆☆★)

主人公がルームメイトに「Facebook」のアイディアを語るシーンで登場する「カリビアン・パーティ」のイけてなさには本当に涙が出たね。あれほどまでに「自分を入れてくれるようなクラブのメンバーにはなりたくない」という言葉がしっくりくる情景なんて、そうそうあるものではないだろう。

まあ、それはさておくとして。

この映画で描かれているのが事実と違うであるとか、偏った視点からザッカーバーグが嫌な奴に描かれているとか、フェイスブックを作った動機が違うとか、ついでにいえば、脚本家がインターネットもフェイスブックも全く理解しておらず興味すら持っていないとか、女性差別的な思想を持っているとか、そんな議論は全く意味を成さない。だって、まさに「真実は藪の中」なのだから。

この映画は、主人公であるマーク・ザッカーバーグが2つの訴訟を抱えているところを起点に物語の幕を開ける。ひとつの訴訟は、主人公にSNSサービス系のサイト構築を依頼した双子の兄弟で、アイディアの盗用だと訴えている。もうひとつの訴訟の相手は、かつての主人公のルームメイトだ。創業時のパートナーでCFOでもあったが、会社が大きくなる過程で排除されたことを裏切りとして腹を立てている。

主人公を含めた三者それぞれの立場と主張があるわけだが、この映画は、それぞれの主張を通して過去の出来事を順に振り返っていくという構成をとっている。ここでポイントになるのは、あくまで当事者それぞれの「主観」であって、本当にそのとおりだったのかなぞ、分かったものではない、ということだ。頻繁に登場する被写体深度が浅い(特定の焦点があった箇所以外はボケている)映像は、主観性を端的に表現したもののようにも感じられる。映画で見せられたことは、登場人物の誰かにとっての事実であって、それ以上のものではない。挿入されるイケてる乱痴気パーティの光景なんか、主人公の妄想かもしれない。

もっといえば、一応の原作とされるノンフィクションと同時進行で脚本を創り上げていったアーロン・ソーキンの「解釈」と、それを土台に映画に仕立て上げた監督デイヴィッド・フィンチャーの「解釈」とのあいだにも差異がある。そうしたどちらとも受け取れるような微妙なニュアンスは、そのまま作品に反映されている。だから、普通の映画以上に、映画に向かい合う我々観客の側にも解釈の余地がある。そういう映画の意図的な構造がとても面白いし刺激的だ。

同時に、ものすごい密度の会話劇である。フィンチャーは、これをトレント・レズナーの力を借りた完璧な音響と、隅々までコントロールされた完璧な映像で包みこんだ。誰かの発する台詞以上に、その台詞に対するリアクションや、台詞が飛び交う時間と空間が意識されている。21世紀初頭、誰かのアイディアが凄まじいスピードで世界を席巻していく、この時代の空気、コミュニケーションのかたち、この時代を動かす資本主義の断層、この時代そのもの。会話劇でありながら、音と映像でもう一人の主人公である「時代」を表現してみせるフィンチャーの非凡な力量は圧巻である。

そこで描き出される物語は、決して単純なサクセスストーリーなんかではない。これは、孤独な天才の青春と、彼をとりまく人間(=Social Network)たちの織り成す群像劇なのである。この映画を凄い、と思うのが形式や表現であるとすれば、この映画を好きだと感じ、心が動くのはこのドラマゆえである。それぞれの才能、強さと弱さ、痛みと悲しみを抱えた人間たちが、何かものすごい出来事が起こっている渦中の熱狂と狂騒に飲み込まれ、利用し利用され、傷つき、対立するに至る悲喜劇。そして、優れた青春ものの先例にもれず、キャンパス・ライフや社会を貫徹するカルチャーや価値観、ヒエラルキー、それが引き起こす感情についての、客観的であり、批評性を込めた考察にもなっている。事実ではないかもしれないが、何か、確実に真実に近いところに迫っていると思うのは、この映画のそういう側面だったりする。

最後に苦言を呈したいのは、SONYの仕掛けたあまりにも露骨なプロダクト・プレイスメントである。あんなに誰も彼もがVAIOを使っているなんて、妄想でもなければ単なるファンタジーだ。これには正直、反感を覚えた。逆効果としかいいようがないだろ、あれじゃ。

12/01/2010

Space Battleship Yamato (2010)

Space Battleship ヤマト(☆☆)

私はかろうじて、「宇宙戦艦ヤマト」をリアルタイムで楽しんだ世代に属している。当時、次々作られたシリーズ作品にあれこれと文句をつけながらも広い心でそれなりに楽しんできたし、とうの昔に醒めたとはいえ、「私の心ははるかにファンに近い」。(そうでなけりゃわざわざ復活篇まで観に行ったりするもんか。)

だから、あの「ヤマト」が実写で再現されているという事実、あの耳に馴染んだ旋律、あの名場面・名台詞がそこにあるというだけで、無条件に心揺さぶられるものがあったりする。それは、もう、映画の出来栄え云々を超越した次元の話である。白状すれば、あのどうしようもない復活篇ですら感慨深いものが込みあげてきて胸が熱くなる瞬間があったのだから、これはもう理屈ではない。刷り込みといってもいいだろう。

しかし、本作が「国産SF大作」なんかではなく、良くも悪くも「ヤマト」映画でしかないことには苦笑してしまった。なんだかんだいわれているが、今回の脚本はいくつかのポイントはちゃんと押さえている。ここまで「ヤマト」なら、例えばアニメの完全コピーを目指した『スピードレーサー』(←マッハGoGoGo)路線でもよかったのに、中途半端にちゃんとSF大作ぶってしまうからギャップが少々恥ずかしい。山崎監督もファンであるはずの『ギャラクティカ(2004-2009)』の剽窃的引用がやたら目立つのだが、結果として、「秋葉原の片隅で売られている聞いたこともない中国メーカーが作ったろくに動きもしないiPad もどき」とか、「中国のどこかの遊園地が建てちゃったオレンジ色のガンダム」の類のような居心地の悪さを感じないわけにはいかない。

いや、これは居心地の悪さで済ませられない話で、オマージュと剽窃のあいだにある一線とは何かについて論じるべき問題なのだろう。そして、「ヤマト」という作品(自体も回を重ねるに連れてグダグダになっていったのは事実としても、それ)が切り開いた地平、歴史的な意義に対して敬意を持つものであれば大いに怒り、悲しむべきことなのであろう。

とはいえ、もとネタが"悪い意味"であの「ヤマト」だし、どうせろくなものになりゃしないとは思っていた。もっと酷いものを予期していた。もっといえば、国産SF映画に何も期待できないという諦めの境地が出発点である。期待値が低かった分だけ、口でいうほどには落胆していなかったりもする。

結局、CGIの登場によって、技術的な彼我の差が小さくなったことが一番効いているのだろう。米国産の大作とは比べようもないほどケチな予算しかなくても、『さよならジュピター』(1984)のせいで宇宙SFものの系譜やノウハウが25年間途絶えていても、そこそこ見られる画が作れるというのにはちょっと感心する。

そうしてみると、本作がだめなのは技術ではなく、センスだ。艦内の美術やセット、衣装、小道具の(もちろん予算もなかったんだろうが)醸し出す恐るべき安っぽさ。SFマインドの欠如した今時びっくりするような描写や演出。脚本の矛盾や説明不足。あと、それと並んでダメなのは、脇のほうにいる役者たち。役者の層の薄さが露呈しているんだろうか。主演・助演クラスは演技のトーンがバラバラだとはいえ、まだ観ていられるのだけれど、脇になればなるほど酷く、これぞ学芸会並というやつだろう。効果音や音楽が途切れる艦内での小芝居は、セットが学食並であることも手伝って見ているのも恥ずかしいレベルである。

ちなみに、わりと濃いファン層からは、オリジナルから大胆に改変された脚色が許せないという声が強いようである。が、まともな映画脚本としての完成度はさておくとして、第1作と「さらば」を中心に、それ以降の作品の要素やネタを細かく持ち込んで再構成された脚本は、ああ、これは「ヤマトファン」の仕事だなとわかるし、足りないことはいっぱいあるけれども、ある意味、よく頑張ったといえなくもない。(まあ、ファンと言っても色々あって、どうもこの作り手たちは主要キャラクターを次々に殺し、挙句、特攻を美化して感動を安売りした、あの忌まわしき「ヤマト」を受け入れられるタイプのファンなんだろうけどね。)

どう転んでも勝ち目のない戦いを引き受けた監督以下の気概や、決して恵まれていたとも思えない製作環境で、それなりの商品にまとめあげた努力は評価したい。ある世代であれば誰もが夢見たであろう『宇宙戦艦ヤマト』の実写映画化は、同時に、誰が考えてもうまくいきそうにない企画でもあったはずなのだから。

10/30/2010

El Secreto de Sus Ojo (The Secret in Their Eyes)

瞳の奥の秘密(☆☆☆☆)

米アカデミーで外国語映画賞をかっさらって番狂わせ呼ばわりされたアルゼンチン映画である。米国でTVドラマなども撮っているベテランのフアン・ホセ・カンパネラ監督作品。まあ、他のノミネート作が未見なので比較してどうこう云えないのが残念であるが、本作、非常にオーソドックスな娯楽映画でありながら、なかなか見ごたえのある力作、映画らしい映画である。

話はこんな感じ。

引退した刑事裁判所の元書記官が、かつて手がけた婦女暴行殺人事件の顛末を小説にしようとするところから物語は幕を開ける。アメリカ帰りの若く有能な女性判事補や同僚の助けを得、苦心の末に真犯人の逮捕に至った事件であったが、終身刑のはずの犯人は裏取引で釈放されてしまい、命の危険を感じた主人公はブエノスアイレスを離れ、田舎に身を隠すことになった。過去の煮え切らない思いが主人公を小説執筆に向かわせるのである。また、主人公にはもう一つ、決着のついていない感情があった。それは、いまや検事に昇進したかつての上司に対する秘めた想いである。高卒叩き上げの主人公は、その想いを表向き口にすることができずに彼女の元も去らねばならなかったのだ。25年もの空白の時を超え、ドラマはどのようなかたちで決着を見せるのか?

この作品、単なる筋立てだけであれば、とりたてて新しいものでもなく、まあ、他の国でもリメイクできるんだろう。しかし、アルゼンチンの現代史や司法制度を背景に描かれる本作の空気までは再現できまい。まあ、例えていうなら、良質な韓国映画のような感じだろうか。なんというか、こう、理屈だけで割り切れない情念のようなものが、歴史に翻弄され、渦巻いているのである。

主人公と上司の関係。殺人事件の被害者の夫の亡き妻への愛情と、犯人逮捕への執念、そして怨念。当時の不安定な政治状況や、それによって失われてしまった時間。これを、「現在から過去を創作物の形で振り返る」という多層構造で描く着想がよかった。そう、映画の中で語られる「過去」のシーンは、主人公が(願望も含め、ある程度都合よく脚色して)書いた小説の中の出来事であって、本当にそのとおりだったとは限らない。そういうところが、ラストに向けて地味ながらジワリと効いてくる。

この映画で、なにより素晴らしいと思うのは、セリフで一から十まで説明しようとはしていないことである。役者の力も大きいのだが、ここぞという場面では、一瞬の映像で状況や人物の感情を雄弁に語ってしまう。特に、主人公らが確固たる証拠も何もなく直感と思い込みで確保した容疑者の取調べシーンは凄かった。アルゼンチン映画なので、スペイン語を解さない当方としては字幕に頼って、ある種、もどかしい思いをしながら映画を見ているわけだが、それだけに、セリフも字幕も関係なく、役者の視線や演技、編集のカット割り、それだけで、その場面で起こっていることのすべてが氷解するがごときに理解させられてしまう瞬間のインパクトは強い。そういう瞬間、映画を見る幸福に包まれる。

映像と演技の力で、劇中、タイトルの「瞳の奥の秘密」の持つ2重、3重の意味合いが次第に明らかになっていくのだが、そのプロセスが非常にスリリング。主演のリカルド・ダリン、ソレダ・ビジャミル、実にいい俳優だ。

10/02/2010

A Single Man

シングルマン(☆☆☆★)


キューバ危機に揺れる1962年を舞台に、16年連れ添ったパートナーの事故死を克服することができない男が、その人生を終えることと定めた特別な一日の出来事と回想を綴る。愛する者を失った悲しみや絶望を描く映画ではなく、愛する者を失って絶望のさなかにある男が、それでも人生を続けていく意味を些細な日常の中に見出していく物語である。主人公は男で、亡くしたパートナーも男である。その点では色眼鏡で見る向きもあるかもしれないが、ここで描かれているのは性的嗜好に関わりのない普遍的なドラマであって、舞台となる時代背景とあわせて、主人公の切実さを際立たせる役目を果たしているに過ぎないように思う。

主演はコリン・ファース。華には欠けるが、もともと巧い役者である。すでに昨年来、ヴェネツィアを皮切りに数多くの舞台で賞賛されてきたわけだが、これがもう、絶品。ちょっとした身振り、仕草や視線、表情で、自殺を思い立った男のひととなりと感情の変化を説得力をもって見せてくれる。真面目だがどこかにおかしみのある人物像はコリン・ファースの得意とするところだが、周囲に迷惑がかからぬよう完璧に仕度して自殺に臨もうとする主人公の行動にそこはかとないユーモアを感じさせるあたりは彼の真骨頂ではないか、と思う。その一方で、本作のコリン・ファースにはこれみよがしではないセクシーさがあって、目が離せない。全編出ずっぱりで、これは正に彼の演技を楽しむ映画であるといえる。

主人公の「最後の一日」に深く関わりを持つ共演者はジュリアン・ムーアとニコラス・ホルト。ジュリアン・ムーアは紅一点、主人公が男に目覚める前に付き合ったことのある親しい女性という役まわり。かなり重要な役で、見せ場もある。ニコラス・ホルトは、主人公に好意を持ち、行動の異変を察知してつきまとうかわいい男子学生役で、これは儲け役。『アバウト・ア・ボーイ』の変顔の男の子だと知ってびっくり。そういえば、プロデューサーに(『アバウト・ア・ボーイ』監督の)クリス・ワイツの名前があったな。

グッチ、イヴ・サンローランのクリエイティブ・ディレクターとして一世を風靡したトム・フォードの監督作(脚色も)である。これが伊達や酔狂ではない。人と人のつながりの中に人生の意義を見出してみせる本作は、なんといっても誠実で真摯な作品であるし、構成も巧みで、小品ながら堂々とした出来栄えだ。映像的には彼の美意識が先行して作りこみすぎているきらいもあるが、決して見せかけばかりの空疎な作品ではない。この人は、これからも本業の傍らで映画というかたちでの表現も続けていく人なのではないだろうか。そうだとしたら、次の作品もぜひ見てみたいと思わせる見事な監督デビューであった。

8/08/2010

Salt

ソルト(☆☆☆★)

つい先だって、ロシアのエージェントが大量に逮捕されたという米国の事件は本作の大掛かりな宣伝の一環だと思うぞ。敢えてこのタイミング、というのが怪しすぎる。どこかで裏金が流れているに違いない。

そう、本作では、久しぶりに「ロシアのスパイ」が大スクリーンに帰ってくるのだ!任務を果たすその日のために米国内に深く静かに潜入し、暗躍する冷戦の亡霊たち。

『リベリオン』(ガン=カタ!)で知られるカート・ウィマーの脚本を、当たり外れは大きいがサスペンス・スリラーの領域を得意としているフィリップ・ノイスが監督。当初予定していたトム・クルーズに代わり、ノイス作品では出来のいいほうである『ボーン・コレクター』に出演していたアンジェリーナ・ジョリーを抜擢。脚本をリライト(ブライアン・ヘルゲランド!)して男女入れ替えるという大胆な転換が、作品を見る限りではかなり報われているのではないか。これはなかなか面白い仕上がりの1本である。

しかしまあ、「二重スパイ」ものなんである。その昔「二重スパイの嫌疑をかけられた主人公が自らの無実を証明する為に奔走するが、実は嫌疑通りに二重スパイでした!」なんていう映画を見てしまったものだから、この手の映画では何が起こっても不思議はないと心得ている。しかし、一般にいってその手の映画の主人公は、観客が好意を抱き、感情移入する対象として描かれるのが常であり、騙し、騙されの展開も、それゆえの衝撃であるのが常道である。

しかし、本作は、そうした作品と似て非なる展開を見せるところが面白い。なにしろ、この主人公、(少なくとも序盤においては)露骨に謎の多い行動をとるのである。観客は、この人物の真意が読めない。信用できない主人公が生むサスペンス。額面通り夫の身を案じての行動かと思えば、次第次第に細かな違和感が積み上がっていくあたりの演出のさじ加減がいい。何が起こっているのか分からないままに迫力のあるチェイスやスタントを連打し、主人公に感情移入をしても良いのか分からない不安な状況のまま、徹底して引っ張り続ける脚本は相当の力技。ストーリーの牽引力、スター女優の吸引力を信じているのだろうが、無茶な冒険をするものだと思う。映画の中盤になって、ようやく主人公の行動原理と目的が知れる決定的な出来事が起こるのだが、そのあとも、ダレることなく突っ走るスピード感溢れる語り口、無駄のない演出が素晴らしい。

アンジェリーナ・ジョリーは、アクション系の作品では彼女のベスト。宣伝文句だけでなく、どうやら相当数のスタントを実際にこなしているようだ。スタントマンが演じるなりしていれば、もっと見た目がスタイリッシュに仕上がったと思われるアクション・シーンがいくつもあるが、彼女自身が演じたからこその限界が見えると同時に、それゆえに感じられるリアリティと迫力もある。主人公を女性にしたことでドラマ的な厚みも出たが、少ない台詞ながら表情で語れる彼女の演技力も作品に大いに貢献している。

映画が終わって気がついたのだが、この映画、たった100分の尺である。非情に密度が濃い、タイトな1時間40分。これは娯楽映画の手本といっていいんじゃないか。個人的に、いくら編集(スチュアート・ベアード)の助けを借りたとはいえ、あのフィリップ・ノイスが「ジェイソン・ボーン」と(近作2本の)「007」が規定した新しいアクション・スリラーの「スタンダード」に則って、これだけ洗練された作品に仕上げてくるだけの力があるとは想定外。嬉しい驚きであった。

この映画のエンディングを続編に色気とか、中途半端とかいう輩がいるようだが、『ガメラ3』や『ダークナイト』の幕切れを最高に格好のよいエンディングだと思っている当方としては、重たい運命を背負った主人公が悲壮な覚悟をもって闇の中に去っていくこの終わり方、痺れるんだけどな。(ほら、あれだ。続編やる気満々ってのは、『ウルヴァリン』とか、『アイアンマン』1・2とか、ああいうやつのことだろう?)

7/17/2010

The Secret World of Arrietty

借りぐらしのアリエッティ(☆☆☆)


さて、改めて説明するまでもあるまい、スタジオ・ジブリ製作の新作長編アニメーション映画である。今回、三鷹の森ジブリ美術館で上映された短編『めいとこねこバス』の演出を手がけた経験のあるアニメーター米林宏昌が監督に抜擢されたのが話題の一つである。

本作は英国のファンタジー小説(メアリー・ノートン『床下の小人たち』)を原作としているが、舞台を都下、小金井に移して脚色(宮崎駿、丹羽圭子)。御存知の通り、小金井といえば、現在のスタジオジブリの所在地である。冒頭に出てくる川辺の道は、野川のほとりの風景そのものだ。また、舞台となる庭や屋敷は青森の盛美園がモデルだそうなのだが、古い洋館のそこここに「江戸東京たてもの園」(小金井公園内)で見ることのできるお屋敷などの佇まいも透けて見える。

時代設定は現代ということになっているようだが、全体としては「少し前」の印象を受ける。それは、舞台となる洋館に住んでいるのは年をとった女主と家政婦だけで、周囲を広い庭と森に囲まれて、時間が止まった間があるからだろう。女主ののるメルセデスはかなり古いモデルだし、病弱な少年も、ベッドで本を読むのだが、ノートパソコンをネットにつないだりするわけではない。現代といいつつ、今という時代を感じさせるアイテムが画面にしゃしゃり出てくることはない。まあ、御伽噺なのだから、それでいいという考え方がひとつ。あるいは、小人たちにとって(翻って人間にとっても)生きづらい時代であることを印象付けるなら、またもう少し違った描き方もあっただろう。

物語は、屋敷の床下に住む小人一族の娘がたびたび外に出かけるうちに人間に見つかってしまい、新たな棲みかを探す旅にでることを余儀なくされるまでを、滅び行く種族である小人の少女と病弱な少年の出会いと別れを通じて描くものである。原作にある様々なエピソードを削り落とし、エッセンスをコンパクトにまとめているところに好感が持てる。

アニメーションとしてはさすがに丁寧で贅沢な作りである。特に、前半で小人らが「借り(=狩り)」をするシーンはアドベンチャー映画的で魅せる。キャラクターの魅力も十分に出ているし、水彩がかった美術の美しさも素晴らしい。突如起用された仏人セシル・コルベルが書き下ろした音楽がいい。本人がハープを使って演奏し、歌もつけるこの音楽、原作の舞台に通じるケルト風味なのである。音楽の出来栄えで作品の格がひとつ上がっているんじゃないか、と思えるほどに、この起用、大成功だったと思う。

全体として、小粒ではあり、少女趣味というか、女の子ターゲットの作品である。そのことが好き嫌いを分けるだろうが、まずまずの良作に仕上がっていると思う。場面によって小人の大きさがどうとでも見えてしまったり、音の聞こえ方の違いにこだわって作った音響も場面によってはご都合主義だったりするあたりは、もう少し何とかならないかとも思うが、逆に言えば、本当に力のある作品であればそんなことが気にならなくなってしまうはず。(むしろ、縮尺だのなんだのと、現実世界の物理法則に気を使ってちまちま作っていては面白いアニメーションにはならない。)そういう、有無を言わせぬパワーが感じられる作品には、そうそうお目にかかれないのだから、ないものねだりといえばそれまでのことだが、世間が「ジブリ」ブランドに期待するハードルの高さは尋常ではない。そんなプレッシャーのなかで、この水準の作品を仕上げた作り手は、良い仕事をしたと賞賛しておきたい。

5/08/2010

The Shutter Island

シャッター・アイランド(☆☆☆☆)


この映画は、見た目と違う、のである。

といっても、観客を騙すとか、どんでん返し、とか、そういう意味ではない。つまり、そもそも配給元が喧伝するような謎解きサスペンス・ミステリーではないのである。また、様々な映画の記憶やテクニックをマニアックに引用して塗り固めた、シネフィル的な知識をひけらかすだけの作品でもない。名匠が金稼ぎの必要から撮った分かりやすい娯楽作品というのも違う。

では一体なんなのか。すべての鍵は、原作にない、映画で付け加えられた主人公の最後の台詞にある。

Which would be worse, to live as a monster, or to die as a good man?

精神科監獄病棟を舞台に展開される物語である。主人公たちは、FBIの捜査官として監獄病棟のある島に向かい、あとかたもなく失踪したという女性の行方を追う、というのが話の発端である。その過程で、ナチス・ドイツで遭遇したユダヤ人収容所での凄惨な光景の記憶など、事実や幻想が入り乱れつつ、主人公の過去のトラウマがフラッシュバックで甦ってくる。一体、ここで何が起こっているのか、主人公の過去に何があったのか。

舞台となる病棟を作ったのが悪名高い「非米活動委員会」であると劇中で説明されている。非米活動委員会といえば、真っ先に想起されるものがハリウッドも吹き荒れた「赤狩り」である。証言や召喚を拒否した映画人たちは、結果的に職を追放され、表立った活動ができなくなった。そんななか、司法取引に応じて多数の仲間の名前を売ったのがエリア・カザンである。共産主義者の嫌疑があるものとして密告された人間が職を締め出される一方で、カザンはその後も第一線で活躍を続け、数々の作品を残した。

本作の監督、マーティン・スコセッシは、そのエリア・カザンの名誉回復に尽力する立場であった、と理解している。カザンに対するアカデミー賞の特別賞授与(1998)の場で、多くの「気骨ある」映画人が口を静かに結び、席を立つのを拒んだが、プレゼンターとして舞台の上に立っていたのがスコセッシ(と、盟友ロバート・デニーロ)であった。

ちなみに、スコセッシとデニーロといえば、アーウィン・ウィンクラー監督がハリウッドでの赤狩りを描いた『真実の瞬間 (1991)』で役者として共演している。これもまた、面白い符合だと思って、授賞式を見た覚えがある。

本作は、そういう流れのなかに位置づけると、違った意味を持って見えてくると思うのだ。先ほど引用した台詞が、違った意味をもって響いてくる。つまり、カザンのような才能ある映画人が、表舞台に残るために仲間を売るという非情な選択を迫られたことを、裏切り者として、monster として生きることを選ばざるを得ないところに追い込まれたこと。証言を拒み、良き人として表舞台から去っていった数々の映画人のこと。

この映画は、表面的にはデニス・ルヘインの変化球的(だがたまに見かける)パターンのミステリーの映画化で、ディカプリオは得意の眉間のしわを寄せて過去に悲劇的なトラウマを抱えた男を演じている。そのドラマにはなかなか見ごたえがあるし、映像・演出のテクニックもこなれていて一級品の風格がある。

そんなわけで、表面的にも十分楽しめる良作である。が、裏読みをすれば、その奥深さが一層心に残る1本になるように思う。他人の企画による分かりやすい娯楽映画を職人として仕上げたふりをしながら、なかなかの力作。スコセッシもまだまだ捨てたものではない。

1/17/2010

Surrogates

サロゲート(☆☆☆)


SFi 映画はヴィジュアルが命である。思うに、この作品はそのヴィジュアルを作り上げるだけの金がなかったか、監督がそちら方面に興味がないかのどちらかなのだろうと邪推する。8000万ドル級の(中規模)予算では正直、たいしたことができないご時勢である。しかし、曲がりなりにも近未来の設定で、街を走っている車が全部、現行モデル(やそれより古い)車っていうのはどうなのか。端的にいえば、これが本作の致命的な弱みの象徴だ。

「身代わりロボット」が普及した近未来のボストン近郊を舞台に、ブルース・ウィリス演ずる刑事が殺人事件を追う。タイトルとなっている「サロゲート(Surrogate)」は、代理、代用の意を持つ。時期的に見て、製作中だった"Avatar" に触発されての企画なんだろう。しかし、「遠隔操作する身代わり」というモチーフこそ似ているが、作品の方向性は全く異なる。興行的に大成功を収めているあちらの作品では、最新のテクノロジーによってまるごとひとつの世界を創造してみせるわけだが、ストーリーとしては古典的な物語を焼きなおしているだけだ。それに対する本作は、気取らない娯楽アクションの体裁で、致命的なほどに安っぽいヴィジュアルながらも SFi 的モチーフがもたらす特異なシチュエーションやドラマに焦点を当てている。

本作の監督、ジョナサン・モストウは、映画好きならば『ブレーキ・ダウン』や『U-571』で新鋭として期待を持った名前であろう。敢えて火中の栗を拾った『ターミネーター3』が不評をかこったためなのか、これが劇場用監督作としては久々の新作ということになる。先に指摘したようにヴィジュアル面は情けないくらいにプアなので、それ自体が作品評価を下げるのは致し方あるまい。しかし、タイトにまとまった89分に、SF的なアイディアと社会風刺、哲学的な問いかけ、夫婦のドラマなどがさりげなく織り込んだ職人的な手際の良さは評価されてもいい。古くからのブルース・ウィリス好きとして、サロゲートとしての彼の姿が、若いころのままであるところがものすごく感慨深い。いつの間にか時は流れているものだね。

冒頭、ニュース・リールを使って一気に設定と状況を説明しようという手口は、尺の短い娯楽映画としては手際のよいやり口である。深読みすると、これは近未来の話ではなく、どこかで分岐したもうひとつの世界とも考えられる作りになっていて、先に槍玉にあげた「現行モデルの車」が走っているのは、それが理由かもしれない。だが、いくらパラレルワールドといっても、この「サロゲート」の普及を全世界の98%などと大風呂敷を広げるから嘘っぽくなる。しかも、「世界」といっておきながらボストン近郊しか映像にして見せられないのだから、かえってしょぼくれている。いっそ、北米の大都市圏を中心とした流行、くらいにしておいた方がよかっただろう。また、ここまで徹底した「サロゲート社会」が、実際問題どのように機能しているのか、ストーリーの中で説得力をもって見せ切れていないのは脚本の課題だろうか。ドラえもんの「もしもボックス」噺の方が、(ナンセンス漫画とはいえ)むしろそのあたりがよく考えられていたりする。

12/12/2009

Space Battleship Yamato: Resurrection

宇宙戦艦ヤマト 復活篇(☆★)

15年ほど前に西崎義展がぶち上げた「完結編」の続きを作るという企画は、会社の破産、本人の収監、著作権にまつわる泥沼裁判等々で敢え無く沈没したものと思われたが、さすが不死身の無敵戦艦ヤマト、当時発表されたプロットそのままに完成、公開と相成った。西崎の執念たるや恐るべし。

しかし、「作った」ということの執念はともかく、内容は酷すぎて話にならない。私もかつて夢中になった者のひとりとして、懐かしさもあるし、昔のもこんな感じだったじゃん、と擁護したくなる気持ちを理解できないわけではないが、話がダメで、キャラクターがダメで、演出がダメで、音楽がダメなんだから、どうしようもない。かつて先駆的であり偉大なマイルストーンとなった作品に対し、いまいちど恥をかかせた罪は重い。

もともと本作のプロットは、湾岸戦争後の世界情勢のなか、石原慎太郎の「原案」も加味して作られた。ブラックホールに飲み込まれることが不可避となった地球を脱した移民船団が、米国を模した強大な星間国家と、それに服従する星間連合の多国籍軍に行く手を阻まれるというものである。映画の冒頭で、やたらでかい文字で原案:石原慎太郎とクレジットされるのはそういうことだ。

ボケ気味の都知事、、でなく大作家先生である石原を巻き込んだからといって、物語そのものに新機軸があるわけではない。かつての軍国少年、石原や西崎により反米的色彩が強く出されていることを除けば、あらすじを聞いてもどこかで聞いたような話にしか聞こえない。さもありなん、これは過去の作品を作る過程で生み出されたアイディアや捨てられてきた没プロットの使いまわし、つぎはぎ以上のなにものでもないことは、明白である。

松本零士との喧嘩別れの影響で、キャラクターやメカのデザインからはいわゆる松本色が排除されているのだが、それに代わる筋の通った魅力を打ち立てることができていない。旧キャラクターは(年齢を重ねたという設定だとしても)別人状態、新キャラクターは脚本のひどさも手伝ってキャラクターがたたず、区別もつかない。松本メーターを失ったメカニックは、作品としての個性も失った。

音楽は宮川泰・羽田健太郎の両名を失った痛手が大きい。とはいえ、本来、彼らの残したモチーフも要所で使いながら、新しい世代の作曲家に劇伴を書かせるのが筋だろう。それだけの予算もなかったんだと想像するが、過去曲の再利用(羽田健太郎の「交響曲宇宙戦艦ヤマト」)は懐かしさという意味で許容したとしても、既成のクラシックを延々と流すのは駄目だ。その選曲のセンスも酷いが、使い方もムチャクチャである。

本当は、作品を重ねるごとに悪い意味でのご都合主義を重ねてグダグダになっていった「ヤマト」の歴史を清算し、立て付けも新たに復活させるべきだったのだろうが、その仕事は噂されるリメイク版TVシリーズや、実写版に委ね、ただただ老害とはこういうものと世間に恥をさらすためにのみ、本作は存在するといってよいだろう。一時でもヤマトが好きだったものとして、至極残念であり、腹立たしい出来栄えの作品である。

5/31/2009

Star Trek (2009)

スター・トレック (2009)(☆☆☆)


まあ、ご存知の通りに歴史のあるシリーズなのである。元祖シリーズの開始は1966年。3年で打ち切られるも1979年に映画で復活。 1991年の第6作まで、続いた。その間の1987年に、元祖の80年後を描く『新スタートレック(TNG)』の放送が開始され、7シーズン続く大ヒットとなった。この最終回が1994年だ。TNGメンバーによる劇場版の公開、すでに始まっていたスピンオフ(DS9)に加えて、後継のシリーズ(VOY)も放送開始。90年代半ば、思えばこのあたりがフランチャイズとしてのピークであった。

TNG劇場版第4作『ネメシス』の興行的不振(2002)、「前史を描く」という触れ込みで始まった『エンタープライズ(ENT)』の打ち切り(2005)で、歴史あるフランチャイズも新展開への命脈は絶たれたと思われた。だが、あきらめの悪いパラマウントは、TV界で成功を収めたJ.J.エイブラムズを担ぎ出し、フランチャイズの再生を委ねたのである。結果としてみれば、作品は大方の観客に好評で、ビジネス的にも大成功。死にかけた看板シリーズの再ブーストに成功したわけだから、おめでたい話といえるだろう。自信を得たパラマウントは、公開前の段階ですでに続編の製作にGOサインを出したという。

そんなわけで、どちらかというと肯定的なムードのなかでこんなこというのは気が引けるが、この作品の出来栄えに対しては複雑な思いである。「われらがヒーローが悪い異星人を懲らしめる」ような活劇としてはテンポが速く、アクションも派手。おなじみのキャラクターを知っていれば、再解釈された若き日の彼らの姿も楽しめるし、ファンサービスとも受け取れる遊びも随所に仕込まれている。楽しめるか、と問われたら、楽しめる映画なのだ。しかし、出来がよいかと問われると、言いたい文句はいっぱいある。

だいたい、『MI:III』のときもそうだったが、J.J.エイブラムズの演出やストーリーテリングの手法は徹頭徹尾TVスクリーン・サイズだ。カメラが対象に近すぎる。バストアップに顔の切り返し。これは小さなTVで見せるための撮り方だ。この作品に、映画らしいスケールを感じさせるシーンがひとつでもあっただろうか。映画館の暗闇に腰を下ろし、スクリーンを見上げる快感がどこにあったか。しかも、カメラは意味もなく揺れ続け、傾き、細かいカットをごちゃごちゃつないで、それが刺激的で迫力のある映像であるかのように装っている浅はかさ。スピード感があるといえばよいが、余裕も余韻もなく、観客の頭を使わせずに麻痺させるような語り口。

『スタートレック』より『スターウォーズ』のほうが好きだったという監督の趣味に合わせたからか、脚本もまた、いかがなものかと思う。人気の高い『スタートレック2:カーンの逆襲』をテンプレートにした時点で、実は新しくもなんともないのである(ちなみに、前作『ネメシス』も、『カーンの逆襲』のパターンを下敷きにしているのだった。)もちろん、本作に盛り込まれた旧来のファンに目配せするかのような小ネタの数々は楽しくもあるが、結局、一介のファンが好きなようにフィクション程度のレベルに過ぎない。一ファンが自分の趣味と妄想で書き散らしたお遊びなら許容できても、これが公式だと云われると違和感を感じないほうがおかしい。自作を正当化するために、「歴史改変」によってこれまでの「正史」を永遠に葬り去るという不遜なまでの思い上がりが、なおのこと不愉快である。(もちろん、旧シリーズとのつながりを確保して過去に築かれた世界観を都合よく利用し、しかし展開に制約を受けず作り直すためのグッド・アイディアだとも思うけれどね。)

役者はそれぞれにオリジナルの雰囲気を巧みに再構成してキャラクターを作り上げており、感心させられた。特に、ドクター・レナード"bones"・マッコイなんか、故ディフォレスト・ケリーの生霊が乗り移っているのかと思える瞬間があったし、モンゴメリー・スコットなんかも笑わせてもらった。あと、褒めておきたいのはJ.J. エイブラムズとのコンビが長いマイケル・ジアッキーノの音楽だ。彼の書いた新しいメインテーマは「スター・トレックのテーマ」というよりは、「(ヒーローとしての)カークのテーマ」のように聞こえるが、はっきりと印象に残るメロディー・ラインを持っており、劇中でも様々にアレンジされて登場、好感を持てる作風である。最後の最後にアレクサンダー・カレッジのファンファーレからTV版テーマの新バージョンにつながるところなど、(いつも聞いている曲なのに)懐かしさで胸が熱くなってしまった。TVテーマのアレンジが軽めなのも新鮮だ。

物語上のフックのためだけに悪役が60億からの生命と文明を根こそぎ奪い、われらがヒーローは相互理解の努力の前にドンパチを繰り広げる。エキサイティングか?まあ、そうだろう。もちろん、スター・トレックはなんでもとりこむことの出来る奥の深さが魅力のひとつ。悪い異星人をやっつけるアクション編もありだし、理屈のおかしい「なんちゃってSF」編も、ご都合主義のタイムトラベル編もありだ。だから、こんな作品が1本くらいあったって構わない。むしろ、この作品に漂うある種の「いい加減さ」と「安っぽさ」は、元祖シリーズのノリに近いとすら思う。しかし、一方で、SFという枠組みを使って現実の社会問題を扱ったり、哲学的な問いかけがあったり、未来への楽観的な希望が語られたりもする、それがスター・トレックなのである。そこがシリーズが長く愛されてきた理由であり、本質だといってもいい。シリーズのクリエイターである故ジーン・ロッデンベリーは、この作品を見たら悲しむに違いあるまい。これでリセットはおしまい、次回作で作り手の理解力と本質が試される。

まあ、個人的には掟破りの方法でヴァルカン破壊をなかったことにするところからお願いしたい。(『スタートレック3』でスポックが蘇ったようにね。)

Seventeen Again

セブンティーン・アゲイン(☆☆☆)


ディズニーの『ハイスクール・ミュージカル』シリーズで人気が沸騰したザック・エフロン主演のコメディである。家庭生活にも仕事にも行き詰ったマシュー・ペリー演ずる男が、心はそのままに若いころの姿(ザック・エフロン)に変身してしまい、友人の協力を得ながら人生の選択をやり直そうとハイスクールに通うのである。よく似たパターンの作品は繰り返し作られている、と感じるだろう。が、この作品、どこか変なのである。面白がってみていたのだが、どこかすっきりしないのだ。何故なのか?

人生をやり直せるとばかりに学校に行けば、関係が疎遠になっていた娘や息子と机を並べ、悪い男と付き合う娘に「父親」としてハラハラし、イジメの対象になる冴えない息子が「父親」として心配になる。自分の息子と友人づきあいをするうち、離婚を切り出された妻に近づくことになり、関係を修復したいという思いが強まっていく。これはハイスクール・コメディではないし、青春コメディでもない。中年親父の奮闘コメディなのである。これをあくまでザック・エフロン主演で押し切るところがこの企画のミソなのだが、しかし、一方では誰をターゲットにした企画なんだかよくわからない作品だということもできるだろう。だって、ザック・エフロンを見るために集まった若い観客に、「いや、実は中年親父も辛いんだよ」という言い訳を見せてどうするのか。

例えば、ある種の類似性を感じさせる企画として、母親と娘の体が入れ替わるという設定で、時のアイドルであったリンジー・ローハンを主演させたヒット作『フォーチュン・クッキー(Freaky Friday)』という映画があった。アイドルを起用した作品という意味でも、見た目と中身の年齢ギャップで笑いを取るパターンも似ているといえる。しかし、この作品では親世代と子供世代の相互理解がテーマに置かれていて、もちろん子供世代に親の苦労を垣間見せるという教育価値もあるのだが、一方で子供が親に自分の立場を分かってもらうという部分が、すなわち、メインとなる若い観客層の心情に訴えかけるようにできているわけである。そういう意味で、商品としては正しく顧客の求めるものに応えているといえるだろう。しかし、翻って本作はどうか。主人公が娘や息子の切実な悩みと向き合うことで、一見、「相互理解」というテーマに触れてはいるように見えるのだが、それはあくまで主人公が「父親としての責任」や「家族への愛情」に目覚めるという扱いであって、人生に迷った中年男が自らを再発見する物語としての基本線を外れるものではない。これをザック目当ての女の子たちに見せるというのだから、やはり、それはヘンだというのである。

話の内容とターゲット観客層とのあいだの齟齬をさておくとすれば、1本の作品としてはチャーミングで楽しい出来栄えである。ザック・エフロンを見せる映画だという本作最大の訴求ポイントだけはさすがに外すことなく、いろいろな見せ場が用意されているのはいうまでもない。主人公の友人であるヲタクな独身男の奇妙な生活を笑いの種にしているが、ディテイルも楽しいし、キャラクターに対する愛情のある描き方になっていて不快さはない。クライマックスにむけた話の運びもよく考えられていて、ほろりとさせるものもある。ただ、話が話ゆえに、ハイスクール・ライフをきちんと描けていないところは物足りないところだろう。そこに主眼がないのは分かるのだが、登場する高校生たちは、「息子・娘」と「それ以外」という区別されておらず、個性も人間性もあったものではない。そこをもう少し丁寧に描いていれば、中高生向きのエンターテインメントとしての違和感は相当部分解消され得たのではないかと思う。

5/23/2009

State of Play

消されたヘッドライン(☆☆☆)

妻がタイトルを「消されたヘッドライト」と云い間違えたので笑ってしまった。まあ、ヘッドライトは消しておかなくちゃバッテリーが上がってしまうわな。予告編を見るたび常々思っていたのだが、なんだかパッとしない邦題である。ケヴィン・マクドナルド監督の新作は、英TVドラマ(ミニ・シリーズ、NHK放映済、未見)の翻案で、原題 "State of Play" 。あー、難しいな。構成している単語は中学校レベルでも、「訳せない、分からない」典型だ。(ゲーム・試合等の)の形勢とか状況とかいった感じだが、"state" も "play" も文字通り以上にかなり意味深。配給元も悩んだだろう。そうはいっても、劇中でヘッドライン(新聞の1面大見出し)は「消され」ていないのだった。何じゃそりゃ。

さて、舞台は米国の首都、ワシントンDC。ここで、ありふれた麻薬取引絡みの事件と思われる2つの死体が発見される。時を同じくして、連邦下院議員の女性政策スタッフが地下鉄で飛び込み自殺と思しき事故死をする。女性スタッフとの不適切な関係をマスコミに詮索される下院議員。その議員と旧知の仲である新聞記者が手に入れたとある物証は、全く関係のなさそうな2つの事件をつなぎ、権力と利権の絡んだ大きな陰謀の存在を匂わせるものであった。限られた時間の中でベテラン新聞記者としての意地とプライドをかけて真相を追う主人公らを中心に、話は2転3転しつつ、いわゆる「予想外」で「皮肉」な結末に至る。

英国TVドラマ版から米国を舞台にした映画版へと脚色を手がけているのは、マシューマイケル・カーナハン(『キングダム』、『大いなる陰謀』)や、最近の大注目株の一人となったトニー・ギルロイらである。翻案に当たって、イラク戦争などの戦場で存在感を増してきている民間軍事企業ネタやら、金儲けしか興味のない巨大メディア企業に買収された伝統ある新聞社というネタやら、紙メディアのジャーナリズムとWEB媒体の確執やら、愛国心から大義名分に命をささげたつもりだった元兵士のPTSDやら、今日的なトピックを盛り込んで新味を出している。特に、軍事部門の「民営化」、「アウトソース化」と軍事・傭兵株式会社とでもいうべき、いわゆる「民間軍事企業」にまつわる切り口と考察には、娯楽フィクションとして避けられない誇張を交えつつも、嗅覚と視点の鋭さを感じさせる。

もっとも、話の枠組み自体は古典的かつ真っ当な社会派サスペンスであり、画面に漂う雰囲気そのものに新しさはないし「衝撃の実話」でもなければ、「何とかの舞台裏」などというセンセーショナルな話題もない。ただ、脚本も、演出も安定しているし、出演者のアンサンブルもいい。新聞記者にラッセル・クロウ、新聞社の編集長にヘレン・ミレン、同僚記者にレイチェル・マクアダムス、下院議員にベン・アフレック、その妻にロビン・ライト・ペン、先輩の大物議員にジェフ・ダニエルズと、派手さはなくても新旧取り混ぜた実力者を起用。たとえ紋切り型で新鮮味がないキャラクターであっても、この顔ぶれであれば127分、きっちりと楽しませてくれることは保証されているといえるだろう。

本作は、「ジャーナリストが陰謀を暴く」という話に見せかけて、「ジャーナリストが陰謀論に振り回される」話を、ある種の皮肉と共に描いている。本来、「大山鳴動してネズミ一匹」、とてつもなく大きな陰謀かと思われた事件も、蓋を開けてみればこの程度の卑近な話だったりするものさ、ということだ。ただ、それに加え、善なる動機に基づく良かれと思った行動が、結果として裏目に出る一方で、巨悪は滅びず何も変わらないといったあたりのニュアンスを巧く引き出すことが出来ていれば傑作になりえた作品ではなかっただろうか。

一方、本作は物語を語ることよりも、プロット上の捻りで観客を煙に巻くことに気をとられ、終盤の展開があまりに陳腐で慌しいものになってしまっている。結果、本来フォーカスをあてるべき論点が吹き飛び、「真犯人はXXでした」といった具合の、いわゆる安手のサスペンス・ドラマのレベルに矮小化されてしまったと思うのである。また先に褒めたばかりなので逆説的に聞こえるかもしれないが、ネタとして使い捨てることになる「陰謀論」の主役に、民間軍事企業などというホットで興味深いトピックを担ぎ出したことも作品としての失敗につながっているのではないか。こういう新鮮味のあるネタを提示されたら、観客としてはどうしても、そのネタそのものについての深い突っ込みを期待してしまうものだ。ここは却って、ありふれた昔ながらの「陰謀」を、象徴的、記号的に用いたほうが、却って映画としての鋭さが増すことにつながったのではないかと思う。

5/04/2009

Slamdog Millionaire

スラムドッグ$ミリオネア (☆☆☆★)


あざといといえば、あざといのである。「クイズの答えが主人公の人生の中にあった」ということをいっているのではない。(それは単に、人生でもっとも重要な事柄は経験で学ぶものだ、ということを象徴的に語っているだけにすぎないのだ。)ここでいいたいのは、クイズの設問の順番が、彼の人生を時系列にたどっていくように並んでいることがあざとさというものだろう。別に時系列をばらばらにして組み替えても良かったのかもしれないが、それでは多くの観客は頭がこんがらがってしまうだろうし、なにより、この作品の魅力のひとつであるエネルギーとスピードが死んでしまう。あるいは、これがどこか別の国を舞台にしていたら、時系列をばらしたパズルのような映画でもよかったかもしれない。この映画はシンプルなラブ・ストーリーであるかもしれないが、主人公の壮絶な生い立ちと、インド、そしてムンバイのこの間における急速な社会的変貌をそこに重ねてみせる物語でもある。だから、物語は時系列に語られるだけの必然があるのだ。だから、そのあざとさは必然なのだ。むしろ称えられるべきなのだ、と、何をおいてもまず、いっておきたかったのである。

しかし、映画で描かれるスラム人生の壮絶さは、ちょっと、ほかの娯楽劇映画では目にすることのない類の強烈さである。たとえこれが物語を盛り上げるための細工、つまり、あらゆる不幸を主人公とその周囲に集約してみせた「つくりごと」の結果であったとしても、見ると聞くでは大違いというか、まさに、映像の力とでもいうべきものを感じさせられる瞬間というのはこういうものかと、ただただスクリーンに目が釘付けにされるばかりであって、それを目にすることができただけでこの映画を見る価値があったと思わされるインパクトだ。映画のカメラが入り込めないような路地にズンズン踏み込んでいき、臭いまでが立ち上ってくるかのように臨場感たっぷりに切り取られる映像。この撮影は凄い。あんな環境で、あれだけのものを撮影するのはどれほど大変なことだろうか。短いショットを積み重ね、新鮮味を感じさせるボリウッド音楽に乗せて映画を貫くリズムを作っていく。もちろん、不必要にガチャガチャ編集してみせるこの映画のルックスがどうにも煩く感じられる瞬間もあるのだが、それが荒削りの躍動感につながっている点は否定できない。

急速な変化と発展の光と影。都市とスラム。絢爛な世界遺産を目当てにあつまる先進国の裕福な観光客たちと、分け前に預かろうと群がる貧しい子供たち。兄と弟、そして思いを寄せた少女。一攫千金の夢をかけたきらびやかなTV番組と筆舌に尽くしがたい人生の辛酸。TV番組に熱狂する視聴者たちと主人公の一途な思い。これを全部まとめて2時間の娯楽映画に凝縮してみせた手腕については、お見事というしかあるまい。ハッピーエンドのその先を、ボリウッド流ミュージカル風味で締めくくるあたりの余裕が素晴らしく、映画が円実からファンタジーに飛翔する感動にあふれている。『トレインスポッティング』には距離を感じていた私にとって、ダニー・ボイルは小手先の技術ばかりという印象があってそれほど面白いと思える作家ではなかった。しかし、しばらく身を寄せたハリウッドを離れ、新たな地平に身を置いて撮りあげたこの作品には、彼の持てる洗練されたセンスとテクニックが物語を語る手段として、そしてなにより、登場人物たちの人生を切り取る手段として活かされており、確かな手応えを感じさせるものになっている。もちろん、映画史に残る作品だと思っているわけではないが、この作品が、映画史に残るエポックメイキングな事件であることは間違いなく、また、時代が求めたヒット作に過ぎないのかもしれないが、何か見たことのないものを見せてもらったという興奮だけは確実に胸に残った。

2/21/2009

Seven Pounds

7つの贈り物(☆☆☆)


ある男が個人破産状態から株のディーラーとして成功するまでを父子の絆を中心に描いた『幸せのちから(The Pursuit of Happyness)』の好評を受けて、再び企画されたガブリエル・ムッチーノ監督、ウィル・スミス主演(製作も)による、「感動ドラマ」路線第2弾である。前作は実話を基にした作品であることが売り物であったが、今回の脚本は劇場用作品は初のグラント・ニーポルテによるオリジナルである。安易な「感動作」だったら嫌だなぇ、と思っていたのだが、少しユニークな作品に仕上がっていて、なかなか面白い。

この作品は、2つのチャレンジをしている。

ひとつは、ストーリーテリングの手法である。ドラマの初めの部分では、観客には主人公の正体も、目的も、行動の意味も明らかにされないという変則的なスタイルではじまる。いったいこれはどういう話なのか、何が起こっているのかという興味で観客を引き込みはするが、主人公に対する感情移入はできない。(主人公に対して過度の感情移入を許さないのは、作り手の狙いでもあるだろう。)感情移入を許さない(もしかしたら、その行動ゆえに嫌悪感を抱かれても仕方がない)謎の男を主人公に、徐々に謎が氷解していく物語の構造が良くできている。謎を最後まで引っ張ろうという下品さもない。最後の最後まで残る謎といえば、実際のところ、映画の中で描かれている「贈り物」の数が、邦題でいうところの「七つ」に満たない分について具体的な説明がつくことくらいだ。注意深く物語を追っていれば、主人公がどういう男で、何を目論んでいるのか、大方のことはすぐにわかるようになっている。そうすると、観客の興味は別のところに移っていく。さて、そのような「(無茶な)お話し」をどうやって語っていくのだろうか、と。どのような着地点に導いていくのだろうか、と。主人公は、本当に「計画」を実行するのだろうか、と。そこに、ロザリオ・ドーソンが好演するヒロインが絡み、切なくも予断を許さない展開となっていく。そして、バラバラだった糸が、ヒロインとの関係を軸にして1本に撚り合わさっていくのである。

もうひとつは本作のテーマである。これは、ハリウッド資本のメインストリームの作品が取り上げるのが困難なものであろう。主人公の選択は誰もが共感できるものではないし、宗教的なことも考えると激しく賛否が分かれるのではないかと思う。しかし、主人公の行動の賛否はともかく、観客を「納得」させるという難題に正面から挑んでいるところに好感が持てる。こういう題材を、こういうアプローチで作品にすることができるのは、今や最も興行的安定感のあるスターとなったウィル・スミスが製作に名を連ね、主演しているからこそである。もちろん、ウィル・スミスが本作の主人公に適役だと思っているわけではない。しかし、こういう企画を実現させようと考える彼の志の高さには敬意を表したいと思う。

なぜこの作品が「困難」なテーマを抱えることになったか。それは、交通事故により、結果として恋人を含む7人の命を奪ってしまった男の贖罪の物語であるからだ。自らが犠牲になることで人生に困難を抱えた7人の善良な人々を「生かす」という選択を行い、そのとおりに計画し、実行をする男の話である。過去に7人の命を奪った事実は消えないが、そのことを深く悩み、命を削るようにして他者を救おうと考えるような男であるから、この主人公というのは元来「善人」の部類であろう。そういう善人が贖罪のためとはいえ命を引き換えにしてでも計画を果たそうとするところにドラマの悲劇性がある。しかし、これは単なる無私の美談ではない。主人公には自ら犯した罪を償いたいという思いがあり、生きていく希望を亡くしたゆえの自死願望もある。それは「無私」ではなく、自己満足であるとはいえないか。この男が計画を実行に移すことで自分の近しい人々を悲しませ、苦しめることになる。そのことにはある種の身勝手さすら感じさせられるし、映画はそういう側面をさりげなく提示している。誰かの命を救う行為そのものは美談であろう。自ら犯した罪を贖う姿勢や行為もまた、美しいものであろう。しかし、その手段としてこの主人公がとった行動が議論を呼ぶわけである。本作は、この主人公の行為そのものを賞賛して涙を押し売りするような安っぽさとは無縁であり、そういう価値判断を押し付けてこないところが美点である。これを、ある種の問題提起と受け取ったらよい。映画を見た人間がそれぞれに自分の考えを巡らせればよいのだから。

2/14/2009

Street Kings

フェイク・シティ ある男のルール(☆☆☆)


ジェームズ・エルロイの書き下ろしによるオリジナル脚本を、『トーレーニング・デイ』『S.W.A.T』の脚本化デイヴィッド・エアーが監督。出演はキアヌ・リーヴス、フォレスト・ウィテカー、クリス・エヴァンス、セドリック"ザ・エンターテイナー"・カイルズ、ジェイ・モーア、アマウリー・ノラスコ、ナオミ・ハリスらが出演する、現代のLAPDを舞台とした腐敗警察ものである。原題が Street Kings と、複数形になっているのが、実は何気なくポイントかもしれない。

映画は、キアヌ・リーブス扮する主人公が、微妙な囮捜査によって犯罪現場に単独突入、犯人グループを問答無用で射殺した上で、その行動が正当であったかのように現場の偽装を行うところから幕を開ける。正義の名において行われる行き過ぎた暴力の肯定。保身のためにまかり通る隠蔽工作。主人公のそうした行動を組織的にバックアップする「頼りになる上司」と仲間たち。当然、これを問題視する内務調査が目を光らせており、対立関係にあるという状況が観客に提示される。内務調査への密告者と目されていた警官が主人公の目の前で惨殺されたことをきっかけに物語が動き始める。

途中まではありがちな展開をみせる本作ゆえに、先が読めただの何だのいう類が多いのはわかるのだが、本当の幕切れにおいて提示される「世界観」が、エルロイ流というべきか、なかなかのものである。

どろどろの警察もので、妻を亡くした痛みを抱えた暴力刑事という役どころにキアヌ・リーヴスというキャスティングがどうなのか、という疑問を呈する向きがあるようだが、彼のもつクリーンな印象や、何を考えているのか表情から読み取りにくい曖昧なニュアンスというのが本作における鍵だということを理解すべきだろう。

まあ、この映画の主人公、善悪二分法で云えば、確実に悪いやつだ。被疑者を有無を言わさずに殺害することに対して躊躇いをもたない危険思想の持ち主で、そうした考えを共有する危険なグループの一員。これは、かの"ダーティー"ハリー・キャラハンすら守った「一線」を踏み越えるもので、明らかに行き過ぎた「正義」である。しかし、彼のそうした行動は妻を亡くした過去にも関係した彼自身の純粋な思想の発露であることが示される。彼を取り巻く権力と腐敗の構造は、どうやら彼のそうした部分を利用しているに過ぎない。この男はおそらく無知なのである。いや、もしかしたら、無知のように見えてそうではないのかもしれない。汚れているのかもしれない、だが、いったい、どの程度汚れているのだろうか。そういう曖昧なニュアンスは、キアヌ・リーヴスがあの肉体で演じることにより増幅される。全てが灰色の世の中で、自らの立ち位置もわからず泳がされている男。エンディングを迎えたとき、なぜこの主役にキアヌ・リーヴスが起用されねばならなかったのか、わかるはずだ。

途中まで、というより、最後の最後の瞬間までありきたりで「凡庸なふり」をしてみせる脚本は、これが2作目となるデイヴィッド・エアーの演出の凡庸さに引きずられて単なる凡庸な脚本であるかのような誤解を招くが、これがなかなか強かで骨が太い。テーマはお馴染みでもプロットは意外や複雑で、演出のほうはこれを交通整理して観客を惑わせないように語って見せるだけで精一杯といった感じである。意外に登場人物が多いのだが、脇役にいたるまでのキャラクター造詣はよくできている。これは脚本だけでなく、個性的で実力のあるキャストを揃えたことも大きく寄与している。冒頭で名前をあげた役者はみな好演。まあ、フォレスト・ウィテカーは少々大芝居気味なんだけどな。