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11/19/2011

Moneyball

マネーボール(☆☆☆★)


主力選手の流出と予算制約に悩まされたメジャーリーグ球団、オークランド・アスレチックスで、1997年にジェネラル・マネージャーとなったビリー・ビーンが、邪道扱いされていた統計的な「セイバーメトリクス理論」を積極的に取り入れてチーム編成を行い、他チームと互角以上に戦えるように奮闘した物語である。

もちろん、米国のメジャーリーグ・ベースボールが題材ではあるが、なにしろチーム編成に責任をもつGMが主人公であるから、選手たちや試合の勝ち負けといった野球の「表側」ではなく、選手を評価し、他チームと交渉し、トレードし、チームを編成していく、舞台裏の部分に焦点があたっていて、野球好きのみならず興味深く見ることができる。

ただ、この映画は、必ずしも「セイバーメトリクス理論」を優れた手法として紹介し、礼賛するものではない。だいたい、客観的にみても映画の中で説明されている程度の「理論」は、手法においてそれほど洗練されているようには思えない。統計的といってみても、分析の切り口や仮説の立て方、解釈次第でいかようにも使えるのであることは、少し考えてみればすぐにわかることだ。

実際、この「理論」の映画の中での描写としては、旧来の常識に対するアンチテーゼとして波紋を呼びそうな極端なものばかりが強調されているように思う。選手の評価という面はともかく、野球の試合における戦術という意味ではプリミティヴそのものなんじゃないか。ただ、映画の中におけるこの理論の役割は明確で、要は、財務的に困窮していて常識的には戦力補強ができない状況のなかで、独自の着眼点で評価し直すことで「掘り出し物」を見つけようとした、そして、それがたまたま一定の成果を収め、注目を集めたということであり、それ以上のものではない。

しかし、この映画がほんとうに描こうとしているのは、ブラッド・ピットが演じる主人公の個人的な戦いのドラマなのだろう。映画はこの人物のバックストーリーをこう紹介していく。いわく、スタンフォードへの奨学金すら決まっていたのに、スカウト陣から素質万全とのお墨付きを得て、巨額の契約金と引換にプロの道へと足を踏み入れたが、結局のところ芽が出ることなく未完の大器として現役を去ることになった、苦い挫折の経験の持ち主であると。

世間の常識に照らしあわせた人材の評価とは一体なんなのか、他人の評価や巨額のお金が一体何を意味するのか。この映画の中で、人材の評価に新たな尺度を持ち込もうとする主人公の戦いは、そんなわけで、この人物が挫折から学び、人生をかけた雪辱戦に臨む戦いなのであるというわけだ。そして、その戦いには、多分、終わりはない。チームがワールド・チャンピオンになれるか、なれないかに関わらず。

だから、この映画は野球を描いているようで、描いていない。「弱かったチームが奇跡の連勝」といった、ありがちなフォーミュラに流し込んだりもしない。あの年、アスレチックスが歴史的な連勝記録を作ったことは物語の重要な要素として扱われているけれども、それをクライマックスにしていないし、実にあっさりした見せ方になっていることは、そう考えれば当たり前のことだ。まあ、「定型的な物語」をこそ見たかった観客は、それをもって重大な瑕疵だと思うかも知れないけれどね。

気合が入ると「熱演」しがちなブラッド・ピットは、主人公を自然体で演じて好印象。娘役の子役と絡んでいる姿がとても板に付いている。私生活でたくさんの子供達に囲まれていることが、こんなところに良い影響を及ぼしているんじゃないか。主人公の片腕となる統計専門家は実在の人物にかわって用意された架空のキャラクターだが、「実在の」という制約から解き放たれているぶんだけ面白い描かれ方をしていて、これを演じるジョナ・ヒルも好演である。チームの監督役にフィリップ・シーモア・ホフマンを起用しておきながら、脚本も、演出も、この人物にあまり興味がなかったのかと思う無駄遣い。まあ、主人公と対立する立場としては海千山千のスカウトたちの存在があるから、監督の独自の立ち位置を見出しにくかったんじゃないだろうか。

11/13/2011

Love Strikes! (モテキ)

モテキ(☆☆☆★)


公開から随分間が開いてしまったが、ようやく見ることができた。原作(知らなかった)、テレビドラマ(気になっていた)共に未見だが、楽しく見られた。いや、実際のところ、これ、サプライズ・ヒットを飛ばしたからということだけでなく、今年の邦画を代表する何本かを選ぶなら、そのなかに選ばれてしかるべき1本ではなかろうか。だって、こんな映画、こんな主人公、こんな演出、他の国で考えられるか?

もちろん、大震災と史上最悪の原発事故を経験したこの国の、今年を代表する1本がこれっていうのもなんだとは思うけれど、そういうある種の恥ずかしさも込みにして、今日の日本が生み出せる、日本ならではの「オリジナリティ」って、こういうものなのではないのか、と思い、感心し、面白がっている。

この映画は自由だ。あるいは、テレビ東京の深夜ドラマ枠という出自がそうさせるのかもしれないが、「平均点的に誰もにウけるもの」でなくてもいい、分かる人に分かれば良く、楽しめる人に楽しんでもらえばいい、とでもいうような、潔い割り切りが感じられる。サブカルネタの取り込みや言及もそう。ある種の下品さだってそう。Twitter の使い方もそう。マンガ的(というかアニメ的)で過剰なモノローグもそう。前代未聞レベルで凝りに凝ったエンドクレジットもそうだ。

妄想的な美女神輿のオープニング。米国映画が得意とするミュージカル演出を(おそらく『(500)日のサマー』経由で)臆面もなくイタダくかと思えば、Perfume 本人たちまで登場の大盤振る舞いで映画館をイベント会場に変えたかと思えば、大江千里で突如映画館の大スクリーンがカラオケに変貌する仰天演出。曲を流し出したら、テンポやバランスを後回しにしてまでキリの良いところまで丸まる流してみせる。こういうデタラメさ加減の、なんという楽しさよ。

しかし、この映画はそういう意匠の新しさだけを売り物にした作品ではない。コメディとして笑える、ということだけでもない。結局、映画の中で描かれている不器用なキャラクターたちの切ない心象風景を、格好の悪い恋愛模様のドラマをきちんと語ってみせることができているから、映画として成立しているのだ。そして、そんな恋愛模様のどこかに、観客自身が思い当たるものがあるから、共感できる何かを見出すことができるから、心を打つ映画足りえているのだと思う。

類型的で表層的にみえる登場人物たちには、もちろん、コミック的な誇張もあるけれど、今この時代を生きているリアルな人間の香りがし、親近感を抱くことができる。そして、それを演じているキャストが、そういうキャラクターたちをしっかりと掴んでいるところがなお素晴らしい。

本作筆頭のヒロインにキャスティングされた長澤まさみの破壊力はいうまでもないことだが、彼女の存在がいかに反則的であるかを分かっている人間がキャスティングをし、演出しなければこうはならないだろう。絵に描いたような夢のガールフレンド役としてだけでなく、その裏側にある焦りや悩み、不安や弱さをきちんと見せて完璧。一時期の低迷はなんだったのか。

第2のヒロインである麻生久美子も好演なら、飛び道具扱いの仲里依紗、真木よう子も、役割をよく自覚している。飄々としたリリー・フランキーの面白さ。金子ノブアキの悪役ぶり。もちろん、主演たる森山未來は、格好悪くて面倒くさい主人公のキャラクターを完全にモノにしていて、意外にも、その身体能力の高さが透けて見えて感心した。

こうなると、ドラマ版を見損なっていたのが実に惜しい。が、だからといってこの映画を見ないのはもったいない。独立した作品として、十分に完成した力作である。

10/30/2011

ツレがうつになりまして。

ツレがうつになりまして。(☆☆☆★)


同名のコミック・エッセイが話題を呼んでいたことも、NHKでドラマをやっていたことも知っている。が、原作は読んでいないし、ドラマも(全部ちゃんとは)見ていない。が、宮崎あおいと堺雅人が主演の映画になると聞いて、これはぜひ見たいと思い、遅ればせながら劇場に足を運んだ。ということで、原作と比べて云々、ドラマと比べてどうこういうことはできない。もっというと、佐々部清監督の作品を見るのも初めてのような気がする。

これは、少しばかりの啓蒙効果はあるのかもしれないが、鬱病治療のマニュアルのような内容ではない。仕事のストレスをきっかけに鬱病となった夫と、あまり売れていない漫画家の妻が、夫の病をきっかけとして、現実に向き合っていく物語である。

丁寧に作られた良い映画である、と思う。話運びも、見せ方もいい。舞台となる一軒家、近所の風景なども、少し現実の時空間から外れていて、しかし、どことなくほっとする世界だ。そして、なによりも主演の二人が、その実力に違わない好演である。しかも、スクリーン上での相性がいい。いつまでも眺めていたい気分になる、お似合いのカップルである。そして、本当は重い題材のはずなのだが、軽やかで、温かい。

だが、この映画、どう考えても幕引きの場所を間違えた。いろいろ考えた末だとは思うが、思い切りが悪い感じで、かなり惜しい。

終盤、幕の引きどころが幾度となく訪れる。最初の候補は、「結婚同窓会」のくだりだろう。この夫婦はカトリックの教会で結婚式を挙げたようである。同時期に結婚したカップルたちを集めて結婚に対する心構えなどを説く教室でも開いていたのだろう。その延長線上で毎年「同窓会」を開いているのである。そこに参加した主人公夫婦のスピーチは映画のテーマそのものを語っていて、エモーショナルなピーク・ポイントにもなっている。そこで映画を終わっていたとしても全く不思議ではないし、座りも良かったのではないかと思う。

次の候補は、夫婦が庭で会話をするシーンである。妻が、自分が書きたいことをマンガに書けばいいと、そして書きたい題材(つまりは、夫婦の闘病生活)が見つかったと語る場面で、CGIを使って妻の描いたイラストが画面いっぱいに広がるファンタジックなシーンだ。この映画の原作がそうやって描き上げられたコミック・エッセイであることを思えば、先の「同窓会」の後、エピローグ的にここまで引っ張ってから終わるのもスッキリした構成に思える。個人的には、ここで映画を終わらすアイディアが一押しである。。

実際の映画は、これに引き続き、妻の描いたコミック・エッセイが評判を呼んだこと、夫が妻のマネジメントの名目で会社を作ったことなどに触れたあと、夫が乞われて講演会の演台に立つエピソードが描かれる。ここは、もう、本当にバッサリ切ってしかるべき蛇足である。ハッピーエンドらしく、鬱病が回復に向かっているというトーンを出したかったのかもしれないが、そもそもそんなに短期間で治る病気でもあるまい。会場に元上司やらクレーマーやらを大集合させて結論めいたオチをつけたかったのかもしれないが、不自然極まりない。どうしても「その後」的なフォローアップをしたいというのなら、アメグラ方式というのか、ストップ・モーションにテロップで十分だったと思うんだよね。

10/29/2011

Source Code

ミッション:8ミニッツ(☆☆☆★)


郊外からシカゴのユニオン駅に向かう通勤列車で爆破テロ事件が発生した。犯人は次なるターゲットとして市街地での大規模テロを画策しいているらしい、犯人につながる手がかりを見つけるため、主人公である陸軍大尉が意識だけ飛ばされるのは、事故の犠牲者の脳内に残された最後の8分間の記憶を元に再構築された世界である。分けも分からないまま、指示されるがまま、8分後に爆死することが確実な状況を何度も何度も繰り返すのだ。

騙し、騙される話ではないので、日本での宣伝文句通りに、「騙される」かどうかは別にして、確かに色々な映画を見てきていると、これまた『ふくろうの河』や『ジェイコブズ・ラダー』なんじゃあるまいな、などと、余計な想像をふくらませてしまうのもまた事実であろう。SF風のサスペンス・ミステリーとして幕を開ける本作は、しかし、そういう掟破りの方向には転がっていかない。

物語が進むに連れ、映画の中のルールが明らかになっていく。主人公の置かれた立場と、ミッションを可能にする仕組みについて曖昧なところを残したままではあるが、幾度かの試みを繰り返し、失敗を繰り返すうちに犯人の手がかりに迫っていく。しかし、同時に、主人公にとっての「現実」の持つ意味がだんだんと重くのしかかっていくようになる。

この映画の面白さは、そこに至るまでの手綱さばきが見事で、観客を飽きさせないところにもある。だがそれ以上に、主人公が自らに与えられた目的を超えて、自らの欲求を実現させようとする「ドラマ」にこそ、これを他にない、ユニークで感動的な要素があるのだ。死者の脳内に残された最後の記憶を超越して膨らんでいく、いってみれば、「もうひとつのリアリティ」、別の可能性に主人公が求める救いに、胸を打たれる。まあ、確かにそういう話になるとも思ってはいなかったから、嬉しい驚きだったといってもいい。

主演は、ジェイク・ギレンホール。思えばこの人は『ドニー・ダーコ』であり、『遠い空の向こうに』なのだった。不条理な世界に巻き込まれるのが似合うといったら失礼かもしれないが、それと同時に、物静かだが誠実な人柄と、少しばかりの狂気、諦めない勇気ある行動力。過去の作品からそういうイメージを引きずっている彼は、本作の主人公にぴたりとハマっている。ヒロインはミシェル・モナハン。いつも添え物的な扱いが多い彼女だが、今回はなかなかいい役柄だったのではないか。主人公をミッションに駆り立てる側に立つのがヴェラ・ファーミガとジェフリー・ライトだ。もちろん他にも登場人物はいるが、主要なのはこの4人で、比較的にこぢんまりした作りの映画ではある。

本作の監督は、かつて「ゾウイ」などと奇天烈な名(キラキラ・ネームの先駆けw)を付けられた、デイヴィッド・ボウイの息子、ダンカン・ジョーンズである。なかなか達者な腕前で、複雑なパズルのような作品を組み立ててみせる。評判を呼んでいた前作『月に囚われた男』は残念なことに見損なってしまっているのだが、次回作が楽しみな監督であるのは間違いない。本作の舞台をNYからシカゴに変えるという判断も良かった。NYじゃ、さすがにエンターテインメントとして楽しむには重すぎるよね。

10/23/2011

Rise of the Planet of Apes

猿の惑星 創世記(ジェネシス)(☆☆☆★)


もうね、猿、猿、猿なんだ。ゴールデンゲート・ブリッジでの攻防は、考えてみればスケールが大きいとはいいかねるんだけれども、大変に盛り上がるクライマックスではあった。上出来の娯楽映画。

『猿の惑星』の前日譚というか、『猿の惑星・征服』のリイマジネーション版というか、『猿の惑星』フランチャイズを、エピソード0からリブートする試みみたいなもの、といったところだろうか。過去の『猿の惑星』シリーズへのオマージュはあるが、直接の前編・続編ではなく、スタジオ介入とスケジュール&予算問題で当初構想通りに作ることができなかったティム・バートン版とも関係ない、新しいシリーズの開幕である。これ1本でも完結しているが、なにがしかの続編を作るだけのネタと伏線はいろいろあることだし、これだけヒットしたんだから、続きを作らないという手はないはずだ。

この企画が上手く入った理由の一つは、第1作のリメイクでもなく、直接の前編・続編でもなく、まるで「バットマン」や「スーパーマン」が違う作り手によって何度でも再生されるが如くのやり口で、現代を舞台に「フランチャイズ」としての新しい起点を打ち立てたことにあるだろう。もうひとつは、ロバート・ゼメキスやピーター・ジャクソン、ジェームズ・キャメロンらが取り組んできたパフォーマンス(エモーション)・キャプチャーとCGI 技術の成熟によって着ぐるみや特殊メイクでなく、ただのCGI アニメでもなく、猿に人間の演技と感情を吹き込むことが可能になったことだ。

話自体はそれほど工夫があるわけでもなく、ベイ・エリアだけで展開される物語のスケールも小さい。が、あるべき要素があるべきところに収まり、観客が無理なくアンディ・サーキス演じるチンパンジーの「シーザー」に感情移入できる流れを作っただけで、これだけ面白い映画になるというのがある意味でとても興味深いことだと思う。敢えて逆説的にいえば、「猿の惑星」といいながら、無理なくストーリーを語れる範囲、「猿のサンフランシスコ」で話を止めたことが良かったのだろう。ラストシーンは、その先に待っている世界を想起させるのに十分である。

演技については、ともかく、本人の顔は見えなくとも「ゴラム」、「コング」に続くはまり役(というのか?)を得たアンディ・サーキスが全てではあるが。こういうのは演技賞ではどう評価されるのだろうか。一応、エンドクレジットのトップに名前が上がってはいるのだが。

ジェームズ・フランコ演ずる(人間側の)主人公は、あまり賢そうな科学者には見えないが、実質的に脇役だと思えば、こんなんでもOKだ。この男、アルツハイマーの父親への強い思いから、結果として投与された猿の知性を加速させる新薬開発にのめり込んでいったという動機が与えられているのだが、この「父親」役に、久しぶりにスクリーンでお目にかかるジョン・リスゴーというキャスティングが嬉しい。なにせ、この人はかつて『ハリーとヘンダスン一家』で毛むくじゃらの「ビッグフット」と異種交流を温めた張本人だから、やはり何かの縁があるのだ。トム・フェルトンは「ハリポタ」を離れてもなお憎々しげな小悪役とはお気の毒だが、それはそれ、観客の中にあるドラコ・マルフォイの記憶をなぞった効果的なキャスティングではあっただろう。

10/08/2011

The Next Three Days

スリーデイズ(☆☆☆★)


フランス映画『すべて彼女のために』を、ポール・ハギスが脚色・監督・製作を兼ねてリメイクしたのが本作だという。殺人の容疑をかけられて収監された妻の無罪を信じ、脱獄させるために完璧な計画を練りあげて実行に移す夫の姿を描くサスペンス・スリラーだ。残念ながら、オリジナルは未見。ハギス版は舞台をピッツバーグに移しており、有事における米国の警備や捜査の挙動をとりいれたものになっている。主人公にラッセル・クロウ。その他、エリザベス・バンクス、ダニエル・スターン、ブライアン・デネヒーらが出演。

ちなみに、タイトルの「スリーデイズ」とは、妻が他の施設に移送されてしまうことが決まり、用意周到に計画してきた脱獄を実行するにはそれまでの三日間("The Next Three Days"=原題)に行動を起こすしかない、というところに由来する。映画は、それを起点に、いったん過去に戻ることでことの経緯を語り起こしていく構成になっている。

この映画、なかなか面白くできている。しかし、オリジナル作品ではなくてリメイクであるということ、名脚本家であり、監督としての評価も高いポール・ハギスがわざわざ手がける題材なのかどうか、ということで、割り引いて評価したくなってしまうのが人情というもの。本国での評価がまちまちであったのは、そんな理由もあるとは思うが、リアルに振った社会派ドラマなのか、現実離れした娯楽映画なのか、どちらつかずに見えるところも戸惑いのもとになってはいるだろう。

もちろん、非現実的な「娯楽映画」的プロットを、現実の脱獄計画の参考になりそうなほどにリアリスティックな描写を積み上げて描いているところが本作の面白いところなのである。これを実際にやってのけるには相当の覚悟と準備が必要だろうが、無理と断言はできまい(と思わせる)。しかし、一方で、主人公が「脱獄のプロ」に指南を求めるシーンなどは、リーアム・ニーソン演じる「脱獄のプロ」という存在の嘘臭さも含め、現実との乖離を感じさせられて、せっかくリアルに振って積み上げてきた映画の雰囲気を乱しているように思ったりもする。

まあ、そこでハッタリが効かない真面目な演出ぶりが、良くも悪くも監督・ポール・ハギスの限界なのであろう。細かな「リアル」を積み重ねるところまではいい。しかし、嘘のつき方が下手だなぁ、とは思う。脱獄のプロにせよ、ヤクの売人アジトへの殴りこみにしろ、こういう「非現実性」のハードルを、さらっと飛び越えるための算段が足りない。そもそも、ああいう役にリーアム・ニーソンなんかをキャスティングしたら、かえって胡散臭くなるんだがな。でも、一方で、「胡散臭い役柄で登場するリーアム・ニーソンを見る楽しみ」のようなものも確実にあるわけで、要は映画の立ち位置をどう見るかの差であろう。

ラッセル・クロウは手堅い演技。妻役のエリザベス・バンクスは出番が少ないとおもいきや、クライマックスに見せ場があって、なかなか良かった。主人公の父親役として登場するブライアン・デネヒーが、渋いところをみせてくれて嬉しかった。好きなんだ、この人。

10/02/2011

Hanna

ハンナ(☆☆☆)

物語は雪深く、世の中から隔絶された北欧の森の小屋における父と少女の暮らしで幕を開ける。父親は少女に、ありとあらゆる知識とサバイバル術を仕込んでいるようだ。何のために?ここではその理由を観客に明かさない。この二人には何やら計画があるようだが、それの目的も、全貌も明かされない。CIAが、この小屋から発せられた古い信号をキャッチしたとき、物語が大きく動き出す。

超絶的な身体能力とサバイバル術を身につけた少女がタイトルロールの「ハンナ」である。演じるのは、本作の監督ジョー・ライトが手がけた『つぐない』で注目され、『ラブリー・ボーン』の主演をつとめたシアーシャ・ローナンだ。演技ができる役者にアクションを演らせるというのも昨今のトレンドの一つであるとはいえ、これまたアクションというイメージからは遠い女優である。しかし、もちろん本作の場合、そのギャップが面白いところであって、ドラマの核心でもある。相当のトレーニングを積んだのだろう、体の動きもいいから、絵空事と白けてしまうこともない。

映画は少女がCIAに囚われ、脱出し、追手の手を逃れての逃避行を追うと同時に、別行動をとっている「父親」エリック・バナと、追跡の指揮をとるケイト・ブランシェットの様子を適宜挟み込みつつ、徐々に事の真相を観客に明かしていく構成になっている。観客に対して情報を小出しにするやり口は、一方でキャラクターへの感情移入を難しくするが、そこは役者の力でなんとかなるという読みもあるだろう。事情がわからなくても、とりあえず観客はシアーシャ・ローナンを応援するだろうし、「敵」としての貫禄たっぷりなケイト・ブランシェットは観客の憎悪の対象になるだろう。

しかし、スパイ組織を敵に回してのアクション・スリラーとは、監督ジョー・ライトの、これまでのフィルモグラフィを思えば不思議な選択だから、どんな映画に仕上がるかと不安半分ではあった。が、出来上がりを見れば、これまた器用なものである。リアリティのない物語に、昨今の流行に則ったリアリティ寄りでタイトなアクションと、最小限だが効果的なドラマ演出を絡め、キャラクターの力でストーリーを動かしていく。先にシアーシャ・ローナンの主演が決まっていて、彼女の強いリクエストで監督が決まったらしい。

エリック・バナが演じるキャラクターは少々印象が薄い。彼がハンナとは別行動を取る意味はわかるが、その行動そのものが物語の中で積極的な意味を与えられていない。極論、映画の冒頭で殺されていても大差がないようにも思う。この人の演技が巧いのはわかっているが、どちらかというと映画のなかで埋没してしまう損な役回りが多いよね。

音楽は数多くの映画に楽曲提供の実績があるケミカル・ブラザーズの名義になっていて、本作のためにオリジナルスコアを書いたということのようである。なかなか面白い音で映画の独特の雰囲気を醸成する一助になっている。ところで、映画の冒頭と最後に出てくる、赤地に白抜きのデカい文字で「HANNA」と出るタイトルは、ちょっと、ダサくないか?

8/15/2011

Tree of Life

ツリー・オブ・ライフ(☆☆☆★)

Way of Nature か、 Way of Grace か。

ショーン・ペン扮する中年男が自らの少年期を回想するホームドラマというのであれば、誰にでもわかりやすい映画になるんだろう。が、宇宙、生命の誕生から説き起こす、生命の歴史とその行く末の中に、一家族の歴史における一断面を配置してみせるという大胆な構成によって、何か全く別の、敷居の高い作品になっているのは事実である。

こういう映画を全国津々浦々のシネコンに拡大し、騙すようにして観客を動員する手法は、最終的に誰も幸福にはしないだろうと強い危惧を覚える。ここ最近のテレンス・マリックの作品の中でも最も抽象度が高い作品である。

それはともかくとして、この映画は結局のところなんなのか。要は、行き詰まった世の中を、具体的な事象として家族のドラマ(説話)に代表させると同時に、その原因を、生命の誕生以来連綿と続く、あるがままの欲望に支配された 「Way of Nature」というあり方に求め、「個」を超越したより大きな世界観において「Way of Grace」を実践することでしか高次の段階に進むことができない、という悟りに導かんとする映像説法のようなものなのだ、と思えばよかろうか。

えー、「我欲を洗い流す」って、くそったれの石原某みたいで気に入らないのだけど、まあ、ある程度そういうことだろう。

ヨブ記などを持ちだしてくるからキリスト教的世界観に基づくものと誤解をしがちだが、だいたい本作の作りからして進化論が土台になっているのだから、そういう思い込みはよくないだろう。むしろ、 より根源的で普遍的に、今日を生きる困難や不幸と対峙するための思考を提示しようとしているはずである。

ホームドラマ・パートでの、素人子役を含む役者たちから演技を引き出してフィルムに定着させる力、なんでもない風景を魔法がかかったように美しく切り取る撮影、流麗な音楽に乗せて的確につないでいく編集のリズムとセンスは超絶的に素晴らしく、さすが、マリックだと思わせる。これは、映画館の暗闇で、最高の上映コンディションで鑑賞する価値があるフィルムである。まあ、あまりの心地の良さに眠気を誘われる可能性も高いので、万全の体調で望む必要があるのはいうまでもない。

それ以外、というか、天地創造パートとでもいうべきところは、およそ30年ぶりにダグラス・トランブルを引きずりだして作られたオールドスタイルの特撮も含んでいる。提示されるイメージ自体に新規性や驚きはないのだが、むしろ、これらの一連のシーンを、ネイチャー・ドキュメンタリーと同じレベルに感じさせる見せ方と、さりげないクオリティの高さであろう。

また、これはフィルムの出来栄えとは違った次元の話ではあるのだが、本作が『2001年宇宙の旅』を手がけた「特撮の神様」トランブルの参画を得たことは、本作が件のキューブリック作品に比肩しうるテーマの大きさを内包した作品であることを象徴的に物語っているようにも思われる。そういうことを考え始めると。「ドナウ」に対抗して「モルダウ」だったのか、などと、選曲ひとつについても深読みをしたくなったりする。もしかして、本当にそうなのか?

『シン・レッド・ライン』のように、美しい映像に延々と登場人物の内面を語るモノローグが被さってくるのに比べれば数段刺激的である。もちろん、プロットとかストーリーを中心に映画を観るのであれば、これはそもそもそういう類の映画ではないし、大胆といえば大胆、唐突といえば唐突な映画の構成に、それを面白がりながらも、反面、戸惑いを感じずにはいられない。先に書いたように、人生を思索する上においては大変魅力的で実験的な映像説法であると結論付けておくことにする。

8/06/2011

Edge of Darkness

復讐捜査線(☆☆☆★)

『サイン』以来、役者としてはスクリーンから遠ざかっていて、最近では場外でのお騒がせ発言により映画スターとしての命脈を絶たれたかの感すらあったメル・ギブソンの、久々の復帰作である。セガールあたりにお似合いの安手なアクション映画っぽい邦題からはなかなか想像しづらいのだが、なかなか見応えのあるポリティカル・スリラーである。もともと本作の監督、マーティン・キャンベル自身が1985年に監督したBBCのTVドラマ・シリーズを、米国を舞台とした映画として脚色、リメイクしたものだそうだ。

主人公であるボストン市警のベテラン刑事のところに、大学を卒業して働き始めたばかりの一人娘が訪ねてくるが、その矢先、刑事の家を賊が襲撃し、その銃撃で娘が殺害されてしまう。警察は、主人公に対する怨恨の線で捜査を進めるが、娘の挙動に不審なものを感じていた主人公は独自に捜査を開始、事件の真相に近づいていくうちに、政治と軍需産業が癒着して進めていた極秘裏の核兵器開発と、それに関わる隠蔽工作に行き当たる。

この映画の直接の「悪役」は、技術開発を行う民間企業という表向きの姿を隠れ蓑にした軍需コントラクターで、秘密裏に違法な核兵器の開発を請け負っている。またその事実の漏洩を恐れて隠蔽工作を進める政府関係者たち、軍需企業から献金を受け内部告発を握りつぶす上院議員らもまたしかりである。とりたてて新しくもない構図ともいえるが、眼に見えている現実の裏側にある闇の広がりをうまく感じさせられる脚本になっている。

陰謀の発端はなんでもよいのだが、そこに核兵器の開発が置かれている点は、オリジナルと同じようだ。本作の土台が80年代のTVドラマであり、当時の社会的不安を反映したものだからであろう。そういう意味で、一般的な意味でいえば少々古さを感じないでもない。ただし、国益を語りながら政官財が癒着する構図が放射性物質をめぐって展開されているところや、結果としてドラマに取り込まれた放射線被曝の恐怖などの要素は、3/11後の日本の観客としては現実との不思議なシンクロニシティを感じさせられたりもして、少々背筋寒く、そして面白い。

まあそんなわけで、過度に自粛してお蔵入りさせるのではなく、きちんと公開してくれたことを評価すべきなのだろうが、台詞で「放射線に被曝」とはっきり言っているのにかかわらず、字幕の表現が「感染」だの「発症」だのと、妙に気を使っているのが気持ち悪い。分かる人は分かるのだからこれで良い、という考え方もあるだろうが、こういう「隠蔽」工作は許容したくない。

メル・ギブソンは、愛娘の死の真相の追求と、復讐のために、自らの体を張って挑んでいく男を、年を重ねてもなおギラギラとした危険な雰囲気を漂わせ熱演している。それがあまりに似合うがゆえに、本作が「悪い奴らを皆殺し」的な単純なアクション・スリラーに見えてしまうところが悩ましいところである。役者が異なれば、もう少し知的な雰囲気の作品に仕上がったのではないだろうか。

実のところ、本作で一番面白いのは、主人公ではなく、レイ・ウィンストン演ずる政府が雇った隠蔽工作屋のキャラクターだったりするのである。数々の汚れ仕事に手を染めてきた男だが、この男なりの倫理観や行動規範があり、単純な悪役とは言い切れない味わい深さがある。現実世界の一筋縄では行かぬ複雑さを体現するこのキャラクターに比べると、主役であるメル・ギブソンはいささか粗暴かつ単純過ぎるし、軍需企業の取る対抗策もまた、知的でなく直接的過ぎた。まあそんなところもあるので、こんな邦題にされちゃうのも致し方ないのかもしれぬ。

8/03/2011

Super !

スーパー!(☆☆☆★)


愛する妻をドラッグ・ディーラーの元締めに寝取られた男が「神の啓示」を受けたと思い込み、自作のコスチュームに身を包んで悪人を成敗する「クリムゾン・ボルト」として活動を始め、町に巣食う売人や、映画館の列に割り込んだ男などに次々と制裁を加えていく。男の正体に気づいたコミック店員のイカレ女を相棒にして、警察の疑惑の目を振り切り、愛する妻の奪還のために危険なディーラーのアジトへの殴り込みを結構する、そんな話。

コスチュームを身に纏い悪と戦うコミックのスーパーヒーローたちがスクリーンを席巻するようになって随分になる。そんななかで、「コスチュームを着て悪と戦う」という行為の異常性についても、こうしたジャンルが自覚的に向き合うテーマの一つとなってきている。この『スーパー!』という映画も、何の変哲もない中年男が自作のコスチュームに見を包んで悪を成敗するという趣向から、昨年の収穫であった『キック・アス』の二番煎じのように見えるのだが、見終わってみれば、さにあらず。

『キック・アス』があくまで虚構世界を舞台にしたファンタジーであり、変則的なヒーロー物としての一線を踏み外さないのに対して、こちらはあくまで現実世界の延長線上でにあって、おそらくは「コスチュームを纏ったヒーロー」という意匠がなくても成立する物語であることが一番大きな違いなのではないか。

なぜなら、これは、神の啓史を受け、神の名において独善的な正義を振りかざすキチガイ男の話であるからだ。

勝手な思い込みが神の名において全てが正当化され、エスカレートしていく気持ち悪さと恐ろしさ。主人公は、TVで観ていた福音派のヘンテコなヒーロー番組に感化され、妄想の中で神の言葉を聞き、触手に脳味噌をタッチされて「選ばれたもの」としての使命感に目覚める。ここのプロセスに宗教を絡めているのは単なる偶然や思いつきではあるまい。

そうはいっても、当然、「悪い奴らはみんなブチ殺してしまえ」という不謹慎な快感もこの映画の魅力の一部である。

これは、多くの勧善懲悪ものに共通する快感ではあるのだが、無遠慮にグロテスクでバイオレント、かつチープな本作の描写は、どこか『悪魔の毒々モンスター』に通ずるものを感じさせられる。それは、本作の監督ジェームjズ・ガンのキャリアがトロマ映画で始まっていることと無縁ではあるまい。その悪趣味ぶりは、主人公の「活躍」ぶりを笑ってみてきた観客に冷水を被せるかのような終盤の、思いも寄らない2つのショッキングな描写にまで貫かれている。まあ、それゆえに本作を受け付けないという人々も多いとは思うが。

そして、これだけむちゃくちゃをやらかした主人公が、ある種のハッピーエンドを迎えるというエンディング。その取って付けた感は黒い笑いどころでもあり、しかし、冴えない男が正しく自尊心を取り戻した感動的な幕引きでもあって、そこに本作のドラマとしての魅力があるだろう。主人公に悪びれたところも反省もないのは、それこそ、宗教の名を借りたら何でも正当化できてしまうという恐ろしさをダメ押しするものと理解することもできるのではないか。

主演のルーク・ウィルソン、エレン・ペイジ、ケヴィン・ベーコン、リヴ・タイラーのメインキャストの仕事が素晴らしい。エレン・ペイジのハジケっぷりは、ただしく『ハード・キャンディ』で世に出てきた女優であることを思い起こさせられるし、ケヴィン・ベーコンの悪役っぷりも堂に入っている。

不謹慎で、低俗で、どこかヤバいところのある不健全な映画である。この映画のスタイルは露悪的というほかないが、しかし、そこには意外なほどに豊かなドラマがあり、重要な示唆を含んでもいる。なにかいけないものを覗き見するかのような、「シネコン」的な健全さとは異なる映画の楽しみがいっぱいの本作は、誰にでもオススメとはいいかねるが、ありきたりの娯楽映画や品行方正な社会派映画に飽きた向きには良い刺激となる1本だと思う。

7/03/2011

The American

ラスト・ターゲット (☆☆☆★)


平凡な暮らしの喜びに目覚め組織を離れようとした凄腕の殺し屋が、潜伏先であるイタリアの山里で、最後の仕事として請け負った特殊な銃の製作とその顛末。オランダ出身の写真家、アントン・コービンが抑制された寡黙な激渋タッチで描く、クライム・サスペンス・ドラマ。主演はプロデューサーにも名を連ねる、ジョージ・クルーニー。異国の地、訳ありのその男、アメリカ人。("The American")。米国では端境期の公開だったとはいえ、こういう映画が瞬間でも週末興業トップに立つって、すごいなぁ。

雪のスウェーデンからローマ、そしてイタリア中部の城塞都市、カステル・デル・モンテへ。スターのわがままによる、風光明媚な場所を舞台にしたよくある観光映画の一種かと思えば、そうではない。もちろん、坂道が多く、中世の遺物かと思うような石畳の路地や階段、建築物が残る古い町が醸しだす雰囲気と光景は、陽光に輝くイタリアというイメージを裏切ってとてもユニークだ。しかし、それが主演スターやドラマを差し置いて映画の主役に踊り出ることはない。絵葉書のようにきれいなこれ見よがしの映像はないが、ただただ異国の地に一人潜伏する主人公を封じ込める迷宮のようであり、あるいは、孤独な心を静かに解きほぐしていく舞台装置として非常に興味深い効果を生み出している。そういう意味で、ジョージ・クルーニー演ずる主人公が寡黙なら、映画の作り手もまた、とても自制的に映画をコントロールしている。

裏稼業を抜けようとする主人公に待ち受ける過酷な運命は、もはや定番中の定番である。また、友人を作ることすら許されなかった男が、米国にあこがれを持つ屈託の無い娼婦に惹かれていくのもまたお馴染みの展開。しかし、この映画はそういう使い古された定番を重ねながら、なんと、主人公が客の注文に合わせてショットガンの威力とライフルの射程を持つ特殊な銃をカスタム製作するという、なかなかマニアックな描写に時間をたっぷりと割いて見せる。自動車修理工場で手に入れた道具や部材を使って銃と弾丸を仕上げていく男。単に殺しに長けているだけではない、熟練の職人。こういうところがこの映画の面白さで、派手なアクションを期待すると肩透かしを喰らうだろう。

ジョージ・クルーニーにしては珍しく、寡黙な男を演じている。本当は、もっと地味めな役者の方が似合うのかもしれないが、さすがに、これは大スターのクルーニーなしには成立しない企画だろう。それ以外は普段目にする機会の少ない役者ばかりなのだから。カスタム銃を依頼する女スナイパー、主人公が心を動かされる若い娼婦ともに美しく、映画の華になっている。連絡係(というか雇い主)や、町の神父など、実に渋い顔つきだ。クルーニーがいなければ、アメリカ映画でありながら、ここにはアメリカ映画の空気はない。まるで欧州映画にひとり迷い込んだアメリカ人、クルーニー。ゆったりとしたテンポで、しかし、緊張感は維持したまま、決められた結末に向けて話を紡ぐ監督の手腕や見事。

6/24/2011

Super 8

スーパー8(☆☆☆★)


1979年の夏、オハイオ州の小さな田舎町で、少年たちの一団が、8mmカメラでゾンビ映画の製作に夢中になっていた。深夜の鉄道駅での撮影中、ものすごいスピードで通過しようとする軍用貨物列車にトラックが激突、少年たちの目の間で大惨事が起こる。米空軍が異様な物量と秘密主義体制で事故処理にあたるなか、町では不思議な出来事が起こりはじめる。そして、少年たちが回していた8mmフィルムには、事故の折に列車から逃げ出した何かが写りこんでいた。

監督であるJJ.エイブラムズが影響を受けたという80年代のスピルバーグ監督作品や、スピルバーグがアンブリンで製作したプロデュース作品が好んで取り上げたモチーフを散りばめながら、少年の一夏の恋と冒険、そして成長を描いた小品である。開巻、エイブラムズのプロダクションであるバッドロボットのロゴに先んじて、あの有名な、ETと一緒に自転車が空をとぶアンブリン・エンターテインメントのロゴが表示されるのは偶然ではなく、なんと、オマージュを捧げられる対象となったスピルバーグ自身が製作に名を連ねるという、ある意味で特別な作品になった。

(そういえば、アンブリンのロゴは映画の最後、エンドクレジットが終わってから映しだされるのが通例だから、映画の冒頭でお目にかかるのはかなり珍しい部類ではないか。)

この作品には『E.T.』や『未知との遭遇』、あるいは、『グーニーズ』といった作品を想起させるモチーフが溢れている。が、一方でそれらの作品との明らかな違いもある。

スピルバーグ自身の監督作における主人公の少年は、どちらかといえば孤独で、ひとり空を眺め「星に願いを」かけるのに対し、本作の主人公は片親という家庭環境こそ似ているものの、それなりに遊び仲間がいて、一緒に夢中になれる遊びがあり、恋もする。そこには、宇宙の片隅にある地球から「星に願い」をかけるロマンの香りや、外の世界に広がっていくスケールの大きさは感じられないし、もしかしたら地球を捨ててあっちの世界に行ってしまうかもしれないという危うさは一切存在しない。そこが、JJ.エイブラムズ(かつての)とスピルバーグの興味関心の違いだったり、作家としての資質の違いだったりするのだろう。

穿った見方をすれば、エイブラムズは自分の興味のある「8mm映画製作に打ち込む少年たちの話」と、「モンスター・パニック映画」をスピルバーグの製作で作るに当たって、商業的な戦略も込めて、「80年代スピルバーグ・オマージュ」というアイディアを持ち込んだのかもしれない。商売上手な彼のことだから、それがウケるんじゃないかという読みもあっただろう。そう言われてみれば、一時期は誰もが類似品を作ったこの手の映画がスクリーンから消えて久しい。予告編にあるある種の「懐かしさ」が映画への興味を掻きたてたことは否定のできない事実だ。

それがたとえポーズだけの話だったとしても、構わない。それが、結果として、これまでのエイブラムズの作品につきまとっていた、「よく出来ているけど、映画というよりはTVドラマ」な雰囲気を抑制し、映画らしい雰囲気をもたらす魔法になっているからだ。

JJ.エイブラムズの、観客の興味を掴んで話さないサービス精神やストーリーテリングの巧みさ、企画屋としての嗅覚・才能には敬意を表していても、彼が撮った劇場作品である『M:I-3』、『スター・トレック』共に、映画の大きなスクリーンを活かせていない画作りが息苦しく、結局はTV屋さんなんだよな、と思っていたものである。また、分かりやすくウケ易い話にするために、「個人的な動機に基づくミッション(M:I-3)」になってしまったり、「シリーズの魅力である理想主義を捨てた敵と味方のドンパチもの(スター・トレック)」になってしまうある種の幼稚さも気に入らなかった。

もちろん本作も、話の仕掛けのわりには小さくまとまってしまった感がないわけではない。しかし、「80年代スピルバーグ」らしさを持ち込もうとした結果、画作りも、ドラマも、これまでとはどこか違った「映画らしさ」を感じられる作品になっていると思うのだ。スピルバーグはこの作品を指して「(誰かの作ったシリーズものを引き継ぐのではなく)エイブラムズのほんとうの意味でのデビュー作」という云い方をしていたが、それとは違う意味で、エイブラムズが初めて撮ってみせた、映画らしい映画、ではないかと思うのである。

バラエティに富んだ子役たちのキャスティングが大変素晴らしい。また、彼らを子供らしくイキイキと演出できているところもよい。そして何よりも、ヒロインを演じるエル・ファニングの魅力と、主人公と彼女の繊細な感情の交歓を描き出してみせたところが本作の一番の見所だと断言したい出来栄えである。

思えば、魅力的なヒロインを描くことができないのがいつもスピルバーグの弱点だった。そこも含めて、エイブラムスとスピルバーグでは、観客を楽しませることにかけてのテクニックや商売人としての嗅覚の鋭さは共通するにしても、全く異なる個性の持ち主だというのは明白なんじゃなかろうか。娯楽映画としての仕掛けの大きな部分に驚きや新鮮味はなくお座なりとも言えなくはないが、主筋であるところの青春物語としては十二分に楽しませてもらった。その部分ひとつだけでも、何度でも見たいと思える作品である。

6/11/2011

X-MEN: First Class

X-MEN ファースト・ジェネレーション(☆☆☆★)

1960年代初頭。冷戦下で緊張にある東西両陣営を手玉に取って自らの野望を実現させんとする大悪党に立ち向かう、CIA配下の特殊能力をもったスーパー・エージェントたち・・・という物語の枠組みにあわせて、おおらかなスパイ・アクション映画、というか、そのものズバリ、「ショーン・コネリー主演時代の007」な雰囲気を隠し味にして新鮮味を出してくるあたりがなかなか巧者な『X-MEN』フランチャイズ、作りにつくって、これが第5作目。クールなエンドクレジットにシビれる。

映画はキャスト一新の"プリクエル"であるから、「リブート」という紹介のされ方をすることがあるけれど、たとえば、『バットマン』がクリストファー・ノーランで仕切りなおしたのとは、『スター・トレック』がJJ・エイブラムズ再創造されたのとは、かなり位置づけが違う。過去の作品での描写とは小さな矛盾点が散見されるとはいえ、これまでと世界観を一新しての「仕切りなおし」ではなく、これまでの作品群の延長線上で作られた1作である。(もちろん、若い役者に交代させてフランチャイズの延命をはかるという目論見は同じなんだけどね。)

最初に作られたトリロジーに先立つ時代、後に意見を違え対立することになるミュータントの2大リーダーはいかにして出会い、友情を育み、そして道を違えることとなったのか。X-MENの世界における基本的な約束や価値観、対立構造の成立を、キャラクターの来歴にさかのぼって描きつつ、「キューバ危機」をネタにして映画版X-MENユニバースにおける現代史を語るという趣向である。そのドラマ、アクション、キャラクターの能力を活かしたチーム戦、シリーズの大ネタ・小ネタや楽屋落ちまで、その全てが(よもや想像もしなかったレベルで満載された)シリーズ最高の完成度、満足度である。マニアックに走り過ぎない正攻法の娯楽活劇を、絶妙のバランスで完成させた『キック・アス』のマシュー・ボーン監督は、やはり只者ではないようだ。このまま3部作でも何でも続きを見たいものだ。

キャスティングがいい。もちろん、X-MENの看板があるから許されることとはいえ、一般的な知名度の高さやスターバリューにこだわらず、実力のある役者を揃えたところが成功の一因だろう。特に、作品の2枚看板である「プロフェッサーX」ことチャールズ・エグゼビアに扮したジェームズ・マカボイと「マグニートー」ことエリックを演じたミヒャエル・ファスベンダー(一応ドイツ人だしな)は、れぞれのキャラクターのその後(老後?)を演じたパトリック・スチュワートとイアン・マッケランを「予感」させる説得力ある演技を見せてくれて、見れば納得のはまり具合だ悪役のケヴィン・ベーコンとか、オリバー・プラット、マイケル・アイアンサイドなどのベテラン、ジェニファー・ローレンスやニコラス・ホルトら新進の若手のアンサンブルを組んだこだわりの感じられるキャスティングに、作り手の本気を感じさせられる。

本当の60年代、というのではなく、「フィクションのなかの60年代」を意識したに違いないレトロなデザイン・ワークも目に楽しい。そのなかにあって、コミック調のユニフォームやヘルメットなど、普通に考えたら実写版映画には安っぽくなってしまいそぐわないと思えるようなデザインが絶妙なバランスで共存できている。音楽担当は監督とは『キック・アス』でコンビを組んだヘンリー・ジャックマン。このシリーズは音楽の担当がいつも入れ替わって、これがX-MENの音楽という決定的なイメージを創出出来ていないが、まだまだ馴染みのないこのひと、X-MENシリーズの一編であり、王道の娯楽アクションであるという大枠を押さえながら、60年代スパイ映画風味などを随所に効かせるいい仕事ぶりで、今後が気になる名前になった。

6/03/2011

The Kids are All Right

キッズ・オールライト(☆☆☆★)


なんだよ、この邦題は。オールライト、って日本語があるのか?照明器具じゃあるまいし。中途半端に省略しちゃって、偉そうに。

というわけで、邦題はアレだが、映画は素敵である。カリフォルニア郊外を舞台としたコメディ・タッチのホームドラマなのだが、ご存知のとおり、この映画が描く家庭には「父親」がいない。女性の同性愛者カップルが人工授精で授かった二人の子どもが、親に内緒で「遺伝子学上の父親」と連絡をとったことから、平穏だった日常に波風が立ち始める、というはなしである。

特殊な家庭で発生した特殊な状況を題材にしてはいるが、要は、同性愛者カップルの家庭だからといって、さして特別なことはない、とでもいったところだろう。家族のかたちは多様さを増してきているが、子供たちを愛し、守り、育む機能さえ健全であれば、the "kids are all right" であるということ。また、そうした責任を引き受けるものだけが、家庭をもつ幸せを享受する権利があるのだということを描いているのがこの映画である。まあ、そうした多様性を受け入れる社会の存在が大前提なんだけどな。

一家の大黒柱で責任感が強く真面目な医師、そういう父親的な役回りを担っているのが、アネット・ベニングである。いやあ、彼女にアカデミー賞を取らせてあげたかった。いや、写真で見るとたしかに「ショートカットにしたアネット・ベニング」なのだけれど、映画の中の彼女は立ち居振る舞いからして別人だ。いつになく筋肉質な体つきだし、表情も、セリフ回しも、女性らしからぬものがある。知らない人が見たら、そういう役者さんをキャスティングしたと信じてしまうことだろう。

いろいろ趣味的なビジネスに手をつけてみては中途半端なまま、結局は専業主婦的なポジションで家にいるのがジュリアン・ムーア。このひとは強い母親、妖艶な熟女、欲求不満な主婦役から、ハードで男勝りなキャリア女性までなんでも演じてみせる、"雰囲気"があって幅の広い名女優だが、今回の役はとにかく、可愛い。いってみれば、「ドジっ子」な感じのキャラクターを、あっけらかんと演じるジュリアン・ムーアはものすごく新鮮なので、この作品で彼女のファンが増えるのではないだろうか、と思ったりする。

で、この家庭にたいする闖入者、遺伝子学上の父親を演じているのがマーク・ラファロである。こんな男の遺伝子から、色白ブロンド美人のミア・ワシコーシカが生まれるわけ無いじゃん、というむさくるしい風貌の気のいい自由人を飄々と好演。いかにも西海岸な感じのゆるーい英語の口調がたまらない。しかし、このキャラクターがあまりに魅力的であるがゆえ、映画の中でのこの男が「家庭を持つ責任から逃げているのに、その果実だけを得ようとする身勝手な男」として、どちらかといえばネガティブに描かれていることが分かり難くなっている。逆に、家族に対する責任感でいっぱいいっぱいになっていくアネット・ベニングが悪役にすら見えるのは、ちょっとした演出のさじ加減ながら、失敗なのではないか、と思う。

同性愛者ではない観客の目線では、遺伝子学上の父親が「無責任男」というよりは、描かれている家庭に欠けた要素、もしかしたら生物学的な意味での男性性であったり、自由さ、おおらかさのようなものを持ち込むことができる存在のように見えなくもない。その流れで言うならば、ハッピーエンドの形というのは、変則的な家族における新しいメンバーとして、この男を迎え入れることなのではないか、と思ったりもする。

しかし、この映画の立場や主張は違う。すなわち、同性愛者の作った家庭だからといって、なにかが足りないとか、欠落しているというのは偏見であり、差別的な物の見方であるということだ。また、遺伝上、生物学上の親よりも、「育ての親」が本当の親である、ということだ。だから、責任を引き受けずに美味しいところだけをつまみ食いしようとした「男」の身勝手な行動は否定されなくてはならず、安易に招き入れられるものではないということになる。まあ、正論ではあろう。

この映画の主張やメッセージをすんなりと受け入れることができるかどうかは別として、演技巧者たちの繰り広げるコメディとしてだけで十分お釣りのくる面白さである。アネット・ベニングの凄さに感動し、そしてジュリアン・ムーアの魅力に目を奪われたらよいと思うのだが、どうだろうか。

4/02/2011

The Fighter

ザ・ファイター(☆☆☆★)

ボストンの北西50キロ、メリマック川沿いに開かれたマサチューセッツ州第4の歴史的な(つまりは斜陽の)工業都市、ローウェルを舞台に、実在のボクサーであるミッキー・ウォードが噛ませ犬状態から抜け出して世界チャンピオンになるまでを、家族の絆と葛藤を軸にして描いた作品である。

感動?心を打つ?熱くなる?まあ、そういう映画としてみることはできる。もちろん、ボクシングが好きな人には、かなり実際の試合の再現度が高いなどといった見所も多い、らしい。・・・・のだが、当方、そんなことよりなによりもなによりも、「化け物屋敷の中に一人だけ、普通の兄ちゃんが迷い込んでしまった」映画として、変な楽しみ方をしてしまった。

普通の兄ちゃんとは、本作の主演、マーク・ウォルバーグである。

一方の化け物とは強烈な怪演を互いに競い合うクリスチャン・ベール、メリッサ・レオであり、普段とは違った役柄を熱演するエイミー・アダムスであり、観るに耐えないクズっぷりを演じてみせる主人公の(父親が一緒だったり違ったりする)7姉妹役の女優たちだ。

ご存知の通り、「化け物」たちのなかから3人がアカデミー賞にノミネートされ、2人が受賞。それも、いい演技というのじゃなくて、強烈な演技だ。

本作が怪演づくめになるのもさもありなん、と思う。なぜなら、主人公をとりまく人々が、ともかく凄まじいのである。『ミリオンダラー・ベイビー』のときも、家族のクズっぷりを容赦なく描く脚本と演出に仰け反った。が、こっちは実話だ。しかも、実在の人物らが役作りやらなんやらに協力している。普通、こんな描写をされて、OK出すか?というレベルで、ありのままといえばそうなのかもしれないが、社会の底辺で生きるどうしようもない人々の姿がリアリズムで活写されるのである。

もちろん、そもそも同じような階層を出自とし、実在のミッキー・ウォードをローカル・ヒーローとして崇めるウォルバーグ自らがプロデュースも手掛けた本作である。こうした社会の底辺で生きる人々に対して向ける視線は決して冷たいものではない。冷たくはないのだが、綺麗ごともない。その描写は、笑っていいものなのやら、頭を抱えていいものやら、唖然呆然といったところである。まあ、どちらかといえば笑っていいんじゃないだろうか。いや、そうやって見るほうが絶対に楽しい。

メリッサ・レオ演ずる大迫力の母親は、男を取り替えながらうじゃうじゃ子供を作って、強圧的に家族を支配している。アイリッシュ系のカトリックだから余計、貧乏人の子沢山ということなんだろう。無学な7人姉妹は、いい年して一体何で生計を立てているのかわからない。いつも母親のうちでグダグダたむろして、エイミー・アダムス扮する主人公の恋人を罵っているのだが、「お前らこそどうなんだ!」と問い詰めたくなるウザさ。この姉妹が連れ立ってエイミー・アダムスのところに殴り込みをかけるシーンは全編でも最高の笑いどころ、ともいえる。

クリスチャン・ベールが演じているのは、元ボクサーで主人公に手ほどきをした腹違いの兄貴。この男、ひがなクラック・ハウスに入り浸りのヤク中で、HBOが作ったヤク中ドキュメンタリーの題材になっている。母親がクラック・ハウスに乗り込んでくると、あわてて裏の窓から飛び降りて逃げるさまは、いい年してどこかの悪ガキそのものだ。金が必要なら作ってきてやる、と、仲間に協力させて詐欺・恐喝に走るようなバカ兄貴は、ベールの演技によって面白おかしくなっている部分があるとはいえ、とことん迷惑な人間なのだ。

要は、なんだかんだで、主人公のファイトマネーにぶら下がっている面倒な家族が、「お前を守ってやっている」とか何とかいいながら、一番の足かせとして主人公の足をひっぱっている構図なのである。少しはまともな人間である父親や恋人は、主人公を家族から切り離そうとする。しかし、家族への情が厚い主人公は、そう単純に割り切ることもできないし、主人公を知り尽くした兄貴のアドバイスやサポートも必要としている。

本作の、ドラマとしての面白さは、むちゃくちゃな家庭環境に置かれた主人公の、家族との絆や愛憎、葛藤の部分にある。主人公と、それをとりまく人々の対立や反目が、夢の世界チャンピオン奪取というひとつの目標に向かって、休戦から共闘へと変わっていくところが推進力となって映画を盛り上げていく。そのドラマ運びの巧さには、格闘技好き如何を問わず載せられることは間違いない。

当初の予定通りダーレン・アロノフスキーが撮っていたら、どんな映画になっていただろうか、と想像するのも面白い。本作で本当に賞賛されるべきは、このプロジェクトに粘り強く取り組み、最終的にはデイヴィッド・O・ラッセルを表舞台に連れ戻し、共演者たちに華を持たせ、自分は黙々と体作りと誠実な演技に取り組んだマーク・ウォルバーグなのだろうと思う。

3/20/2011

Tangled (Rapunzel)

塔の上のラプンツェル(☆☆☆★)

記念すべきディズニー・クラシック50作目の本作。ラセター体制に完全に移行してから 3本目。

こんなレベルの作品を見ると、一時期のディズニーの低迷は、本当に何を作って良いのか分からなくなってたのだろうな、と思わずにいられない。やるべきことがわかっているとはこういうことなんだろう。3D・CGI では初のお伽話&プリンセスもので、しかも、ミュージカル。内容面でも新機軸がいろいろある。しかし、それでもなお、これはディズニーが作るべき映画に思えるし、ディズニーじゃなきゃ作れない映画に見える。しかも、21世紀の新しいディズニーを感じさせるのだから、もういうことはない。

邦題で明らかなように、本作はグリム童話をモチーフにした作品だ。・・・が、例によって自由に、大幅な脚色がなされているあたりもディズニーの(悪しき?)伝統に則ったもの。揶揄気味にいってみたが、それは、本作に関していえば、決して悪い意味ではない。塔の上に幽閉されていた少女が、「母親」の呪縛を振り切って未知の世界に足を踏みだす自立の物語として再構成された21世紀のラプンツェルは、今という時代に受け入れられる物語になったと思うし、現代を生きる「女の子たち」に積極的に見せたいと思えるお話しになっている。時代に合わせた姿を模索してきた「ディズニー・ヒロイン」は、ここにきて、また一歩新しいステージに到達した。

日本のアニメーションからの影響は顕著である。まず何よりもキャラクターのデザインだ。ヒロインの目が大きく、日本的な感覚で見ても「可愛い」ことがあげられる。自由を求める気持ちと、良い娘として母親の言いつけを守りたいという相反する気持ちに引き裂かれて悩むヒロインの表現も、日本のアニメではよく見る定番ギャグの表現を咀嚼した結果だろう。垂直方向を活かしたアクション、屋根を飛び移る馬、塔の上のお姫様をさらう泥棒、といった宮崎駿オマージュもいっぱいである。そうした要素が(一時期のディズニーが平気でやっていたような)剽窃とは違ったレベルで表現されているのが好ましい。

一方で、マスコット・キャラクター的なカメレオンや、犬のような振る舞いをする馬といった動物キャラクターは、いかにもディズニーといった手慣れた感じがでている。なにより、ディズニーらしいといえば、ミュージカル・シーンだ。CGアニメーションに転換後は初めての試みだが、ブランクを感じさせない安定感は、やはり伝統のなせる技だろう。「母親」がヒロインを言いくるめようと歌うナンバーや、酒場で荒くれ者たちが夢を語るナンバーのシークエンスは、さすがにミュージカル・アニメーションとしての力があり、見応えも、聴き応えもある。「母親」役のドナ・マーフィの歌唱力も高い。ただし、アラン・メンケンによる楽曲全般についていうと、アベレージが高い彼の仕事の中では、平凡な部類に入ってしまうだろう。

CGIの技術では水だの髪だのといった従来難しいとされていたものの表現が格段に上がっているのを感じさせる。しかし、それよりなにより、人間のキャラクターの扱いや描写、表現の進歩である。ある程度マンガ的に誇張されているとはいえ、キャラクターの繊細な表情や感情表現などをかなり高レベルでこなしている。人間キャラクターの描写については昨年の『トイ・ストーリー3』も含め、ここまでできるようになったという点に感心するとともに、そうなると、次に問われるのは演出力、ということになるだろう。

3D字幕版での鑑賞。やっぱり、そこはほら、「ミュージカル」だから、オリジナル言語で聴きたいわけで、上映場所、回数が限られているとはいえ字幕番の上映をやってもらえないと困るのである。3Dでは空を舞うランタンが幻想的に美しい。奥行きだけではなく飛び出す効果も含めた演出もあって楽しいので、どちらかといえば3Dでの鑑賞をオススメしたい。北米タイトルは Tangled (もつれている)だが、字幕版の冒頭では Rapunzel と出た。こっちが international title なのだろうか。

3/19/2011

True Grit

トゥルー・グリット(☆☆☆★)


コーエン兄弟の映画は、面白かったにしろ、つまらなかったにしろ、いつも騙されたような気分になる。テクニックが先行して、魂が入っていないというか。体温が感じられないというのか。なにかテーマがあるようにみえて、どこか、はぐらかされたような気にもなる。そんなものは映画を撮るための口実に過ぎなかったんじゃないか、と感じてしまったりもする。

物語も、キャラクターも、題材そのものも、突き放した感じの客観的な視線、といえばそうなのかもしれないが、全てが自身の技術を見せびらかすための材料でしかないような印象を受ける。まあ、私がそういうふうに感じてしまう映画作家ってのは他にもいるのだが、コーエン兄弟はその代表のようなものだ。巧いなぁ、面白いなぁ、と思いながら、信用してなるものか、心を許してなるものか、と警戒しながら作品をみているところがあったりする。

そのコーエン兄弟の新作が、西部劇だという。なんだか知らないが評判が良く、本国では興行的にも大成功を収めているというし、名義貸しだかなんだかしらないが、スピルバーグの名前までクレジットされている。いったいどんな映画になっているのだろうかと興味がそそられないわけがない。震災から1週間しか経っておらず自粛、外出控ムード漂うなか、いそいそと映画館に出かけた。しかして、その出来栄えたるや、いかに。

・・・やっぱり、さすがに面白いのである。でも、どこか、なんか騙されたような気がしないでもない。

本作はジョン・ウェイン主演の『勇気ある追跡(1969)』のリメイクである。というか、同じ原作の2度目の映画化、とでもいうのか。開拓時代の米国。西部には、まだまだ法の目や秩序の及ばぬフロンティアが広がっていた時代が舞台である。(それや、「西部劇」なんだから当たり前か。)父親を殺して逃げた男に復讐を誓う少女が、腕利きと評判の保安官を雇い、僅かな手がかりをもとにして、先住民居留地の奥、荒野へと向かう。保安官にジェフ・ブリッジス、同じ男を違う理由から追跡してきたテキサスレンジャーにマット・デイモン、件の仇にジョッシュ・ブローリンが扮している。そんな中、強烈なキャラクターで大人の俳優たちを喰ってしまったのが、中心となるしっかりものの少女を演じたヘンリー・スタインフェルドである。アカデミー賞では「助演女優」賞の候補になっていたが、この物語の実質的な主人公であり、事実上、立派な主演女優である。

旅の道中にはコーエン兄弟らしい人を喰ったユーモアも散りばめられ、どこかオフビートな風情もあって、思わず笑ってしまうこともある。そうはいっても、彼らがやりがちな悪ノリにちかいオフザケはみられない。クライムものを撮っているときほどダークだったり、ハードだったりはしないが、それにしても正々堂々、正攻法で臨んでいるように見える。アクションを交えながら語られるのは、自らの責任においてなすべき正義とその代償について、である。また、それを懐深く見守る大いなる父性についての物語である。

強く、賢く、自立した少女。追い詰めてみれば、チンケな小悪党に過ぎない仇。思いもかけない対決の行方とその顛末。むしろ、復讐を成し遂げたあとに訪れるクライマックス。目的は果たされたのかもしれないが、あくまでビターな物語の結末。エピローグがもたらす余韻。

なんだか、伝統的な米国の価値観を、現代的な視点から再構築することを意図したかのような作品である。キャラクターの解釈や造形には明らかに現代という時代を踏まえたフィルターがかかっているのにもかかわらず、底辺を流れている米国的な価値観には揺るぎがない。そこで考えてしまうのだ。これは作り手の本音なのか、そういうフリをして見せているだけなのか、と。深読みをしたくなるようなとっかかりがあちこちに用意されている。が、それもどこまで意図したものなのか、単に思わせぶりなだけなのか、よくわからないところがある。まあ、こちらの先入観がそう感じさせるだけなのかもしれないが。

騙されたような気分はさておくとして、昨年アカデミー賞を受賞して絶好調なジェフ・ブリッジスがみせる貫禄の演技を堪能するだけでも損はなく、本作を本格西部劇たらしめているロジャー・ディーキンスの撮影も見事。コーエン兄弟作品のなかではとっつきやすい作品なので、普段は避けて通っている人にもおすすめできるんじゃないかと思う。

2/06/2011

The Town

ザ・タウン(☆☆☆★)


地元の狭いコミュニティで、代々当たり前のように銀行強盗を繰り返しているグループの実行犯のリーダー。成り行きで人質にとったのちに開放した銀行職員の女性が近隣の居住者であることを知り、念のため様子を伺うことにして近づいたところが、次第に女性との交流が深まっていき、今いる場所と生き方を捨て、彼女と共に新しい人生を始めたいという思いが強まっていく。しかし、義理、人情、周囲のしがらみがそれを許さない。FBIの捜査の手が迫る中、レッドソックスの本拠地フェンウェイパークを舞台に最後の大仕事が始まる。

まあ、有り体に言えば、組織を抜けて堅気の女と一緒になろうと夢見るヤクザの話、のようなもんか。

ボストン出身で、デニス・ルヘイン原作の『Gone Babe Gone』 で(日本では劇場未公開ながら)見事な監督デビューを飾ったベン・アフレックが、再び勝手知ったる地元を舞台にした犯罪ドラマを手掛けた。本作の舞台となるCharles Town は、同様にボストン市街の周辺部に位置する South Boston (『The Departed』, 『Good Will Hunting』 の舞台), Dorchester (『Gone Baby Gone』 の舞台) と並んでガラの悪い、あまり治安の良くないイメージのある場所だ。本作中、刑務所内で3つのエリア収監者での覇権争いがあるというような台詞があって、そんなものかと納得してしまっていいのやら、どうなのやら・・・・と思っていれば、エンド・クレジット前の申し訳なさそうなexcuse に笑いを禁じえず。そうだよね。

この映画、派手なイベント映画ではないが、ドラマに見応えがあるし、アクションもいい。前作ではあまり大掛かりなアクション・シーンはなかったが、本作は冒頭の銀行強盗のシーンに始まり、市街地でのカーチェイス、クライマックスでの大銃撃戦などが盛り込まれ、低予算ゆえの「リアル」な撮影が迫力を増している。アクションシーンは長尺版よりも短くカットされているというが、劇場公開版でも物足りなさは感じない。特にカーチェイスはよくできていて、米国の街にしては欧州風でもあるボストンの狭い路地でのアクションは見応えがあった。フェンウェイでの銃撃戦もかなり壮絶だ。お手本にしたらしいマイケル・マンの『ヒート』風味を感じさせる。

キャスティングがいい。役者の実力が十二分に引き出されている。恐るべき花屋のオヤジを演じるピート・ポスルスウェイトの貫禄、幼馴染の兄弟分を演じる単細胞で凶暴なジェレミー・レナーの化けっぷり、その妹で主人公の愛人状態になっているブレイク・ライブリーの安い崩れっぷりと色気なんかは特にいい。役者の力を借りながら、映画で描かれていない、もしくは公開版からはカットされてしまったキャラクターの背景や厚みをにじみ出させることができている。ベン・アフレックの映画にまつわるエピソードでは、前作でも「ところで君、一体ボストンのどのあたりの出身なの?」と勘違いされるほどに「訛り」をマスターしてくる役者がいたのだが、本作でもまた同様、カリフォルニア育ちのブレイク・ライブリーの真に迫った訛りっぷりに本気を見る。

俳優としてのベン・アフレックは不思議な人で、CIAの分析官、などという頭のよさそうな役を演じると阿呆っぽく見えるのに、地元のチンピラというような頭の悪い役を演じるとどこか賢く、格好良く見える。本作における彼は後者。ジェレミー・レナーと比較すると顕著で、吹き溜まりの中で一人だけ、格段に理性的に見えてしまうのである。実はそこが本作ではうまく効いていて、かつて街を出るチャンスをモノにしながらふいにした経緯や、家庭の事情などのバックストーリーが明らかになるにつれ、この男が「よそもの」である女性に惹かれ、人生をやり直したいと願う気持ちの切実さが伝わってくる。

この映画のエンディングは原作とは異なるが、この改変が許容範囲だと感じられるのは主人公のキャラクター、ひいてはベン・アフレックの個性ゆえだろう。脚本を書いた出世作『Good Will Hunting』 では街に残って見送る側だったアフレックだが、ここにはあの作品のエンディングのテイストも遠くで二重写しになっているように思えたりもするのである。

1/10/2011

Unstoppable

アンストッパブル(☆☆☆★)

危険な貨物を積載して無人で暴走する巨大な貨物列車を止める。その一点だ。そこに焦点を絞り込んで99分の尺にまとめあげられた本作は、あまり立派な映画にしようと欲張るのではなく、分相応というのか、そのシンプルな作りが大きな魅力である。『トップガン』から数えて25年も娯楽映画の第一線を走ってきたトニー・スコットが、悪い手癖ともいえるぐちゃぐちゃ映像加工とガチャガチャ編集を抑え(気味にし)て「走る巨大な鉄の塊」とそれを止めようとする男たちを描く、スリルと迫力の好編である。

描かれる事件の発端はいかにもありそうな現場の怠惰である。いくつかの偶然が重なって人間の手を逃れてゆっくりと走り始めた巨大な貨物列車は次第にスピードを増し、手がつけられない状態になっていく。本社主導で実行される対策は次々と失敗。たまたま本線上に居合わせたベテラン機関士らがとっさの機転で貨物列車を追う。行く手に高速では絶対に曲がりきれない大きなカーブと、愛する家族らの暮らす町が迫ってくる。止められるか。間に合うのか。

真実から生まれた、などと(敢えて誤解を呼ぶ表現で)宣伝されている本作だが、2001年にオハイオ州で発生したCSX8888号暴走事故に着想を得(inspired by true events)た「フィクション」である。事故そのものは比較的有名で、日本でもTV番組などでも紹介されたことがあるそうだ。その事件をそのまま映画化したのではなく、舞台を近隣のペンシルバニア州に移しているほか、全般的に映画的な(=手に汗握る)誇張と脚色が加えられている。

この映画の主役はともかく「列車」だ。全てを蹴ちらして走り続ける貨物列車は、ある意味で『激突』のトレーラーにも似た不気味さとふてぶてしさで、走り出す前から不穏な佇まいを印象付ける。40両近くをつないだ全長800メートルを越えるこの貨物列車の巨大感、重量感、圧倒的なパワーを感じさせるため、ありとあらゆるアングルから捉えた映像をテンポよくつないで見せていくあたりはトニー・スコットの真骨頂といったところ、なによりもこれが見所である。米映画ならではのすごい効果音、音響効果も相まって、これを劇場で見ずして何を見るのか、といいたい迫力の仕上がり。もともと横に長くのびる列車という題材は、横に画面の長い映画というフォーマットと相性が良いのだけれど、本作はそのことを改めて教えてくれるだろう。

それにくらべると、人間側の描写には重みが置かれていない。そのかわり、限られた出演時間のなかでもキャラクターを的確に表現できるいいキャスティングで、実際に描かれていること以上を感じさせる「省エネ」演出になっている。ドラマ部分にも変な水増しがない。主演の2人の関係も、大きくは「対立から信頼」という定番に沿ってはいるものの、どちらかといえば、プロとして目的を達するため、個人的な立場を越えた協力関係を築くというイメージに近い。家族にまつわるエピソードも、あざとく涙を絞るためではなく、主人公等の行動の動機を補強するために用意されているくらいのものだ。ドラマ面での厚みを求めると肩透かしを食らうかもしれないが、それこそが本作の良さだという立場をとりたい。

鉄道の路線、管制システムなども含めた大きな仕組みのなかで右往左往する人間といった構図を、複数視点を切り替えながらテンポよく作り上げ、TVのニュース中継を効果的に利用しつつ、状況や位置関係を的確に説明していく話運びもスムーズ。列車の脱線炎上や、警察車両のクラッシュも期待に違わず登場する。笑っちゃいけない、それが分相応の娯楽映画のお約束であり、心意気。トニー・スコットには、こういう映画をコンスタントに撮り続けてもらいたいね。

11/12/2010

Machete

マチェーテ(☆☆☆★)


『マチェーテ』は、俗悪エクスプロいテーション映画の顔をしているが、それは上辺のお遊びに過ぎない。

見れば分かることだが、娯楽大作の顔をしていながら基本が出来ていない作品が横行する中においては稀なくらいに真っ当で、よくできた娯楽アクション映画である。それと同時に、荒唐無稽を装いながら、実に現代性、社会性のある真面目な映画でもある。

部分的な瞬発力はあっても全体的な構成力に欠けるロバート・ロドリゲスの作品にしては、ストーリーも、構成もかなりまとも。緩急もあるし、バランスも良い。そういう優等生的な作品をロドリゲス兄貴に求めるかどうかは別として、これはかなり出来がよい部類の作品、広くオススメしたい1本である。

・・・とはいっても、もちろん、過剰なバイオレンスや無駄なエロ描写に抵抗がなければ、の話である。

まあ、それも想像がつくとは思うのだが、それぞれ「過激バイオレンス」、「無駄エロ」の真似事、ごっこ遊びの範疇であって、たいしたことはないんだけどね。何しろ、これは俗悪映画2本立てを再現する『グラインド・ハウス』の冗談予告編から発展したスピンオフ(?)なのだから。だいたい『グラインド・ハウス』という企画そのものが、低俗映画「風」のごっこ遊びであったわけで、本作のエログロ描写が「お約束だからやっている」という模倣の域をでないのは当たり前である。それを腐すより、一緒に笑って楽しむのが吉というものだと思うのである。

さて、おはなしはこんな感じ。

主人公、コードネーム「マチェーテ」はテキサスの日雇い労働者に身をやつしていたメキシコの凄腕麻薬捜査官だ。不法移民排斥を訴える上院議員(ロバート・デニーロ)の暗殺を強要されるが、それは罠であり、暗殺未遂犯として追われる身ってしまう。上院議員の周囲にはドラッグ・マネーに絡んだ陰謀が存在しており。かつて妻子を惨殺した麻薬王(スティーヴン・セガール)や、自警団の男(ドン・ジョンソン)らを敵に回して闘うことになる。主人公に手を貸すのは、彼が兄と慕うカトリック神父(チーチ・マリン)や影で移民を支援する女(ミシェル・ロドリゲス)、そして女警官(ジェシカ・アルバ)。追いつめられた主人公だが、虐げられてきた同胞たちと共に「戦争」に挑む。

ストーリーの核に据えられている米国に流入するヒスパニック系移民をめぐる問題は、まさにいまそこにある現実であり、洒落にならないところまできている。本作も、「マチェーテ」のために荒唐無稽な話を作ったというよりも、少しだけ誇張された現実の中に「マチェーテ」という荒唐無稽なキャラクターを放り込んだ、というほうが正しいくらいである。

それを思うと、本作のクライマックスが「怒りが爆発した主人公の大暴れ」ではなく、「虐げられてきた人々が団結して蜂起」する展開であることも納得がいく。フィクショナルなキャラクターの活躍で溜飲を下げる段階はとうに過ぎているということだろう。そこには、作り手の「同胞」に対する連帯意識とアジテーションが少なからず含まれていると読み解かねばなるまい。

トリプル・ヒロイン体制で、一番特をしているのがミシェル・ロドリゲス。強いばかりか美しく、これまでにない魅力が出ている。ジェシカ・アルバはいい役をもらっているが、こういう映画で脱がずにCG処理っていうのが潔くない。可愛く魅力的に撮ってもらっているが、やはり株は下がったといえるんじゃないか。また、かつての名子役で人気絶頂のアイドルだったリンジー・ローハンが見るも無残な役柄・容貌で出演しているが、ここから先、彼女がこのまま身を持ち崩していくのではなく、ドリュー・バリモアの奇跡を再現できるよう祈っておこう。