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10/14/2011

Green Lantern

グリーン・ランタン(☆☆)


上映終了間際にガラガラの映画館に滑り込んで見た。一応、ここのところ『カジノ・ロワイヤル』、『復讐捜査線』と好調なマーティン・キャンベル監督の新作ながら、Time Magazine の "Top 20 Worst Summer Blockbusters" に選ばれたっていうんだから、それがいったいどんな出来映http://www.blogger.com/えか気になるじゃないか。

件の20本のうち、既に18本までを劇場で金を払ってみている当方としては、そこにもう一本加わって19本になるというオマケまでついてくるわけで、これを見逃すわけにはいくまい。

で、ようやく見ることのできた『グリーン・ランタン』。「スーパーマン」、「バットマン」の2大ヒーローを抱えるDCコミックの人気作品ときく。それ以上の予備知識がなかったからかもしれないが、こりゃ、驚いた。こいつは「スペオペ(=スペース・オペラ)」ではないか。

超文明を持つ種族がいて、宇宙を3,600のセクターに分割し、それぞれの中から選抜されたメンバーに意志の力を自在に操れる「パワーリング」を与え、宇宙の平和維持にあたっている。そんな設定だ。とっさに思いつくのは、スペース・オペラの元祖的な作品と位置づけられる「レンズマン」のアメコミ・スーパーヒーロー版といった感じである。全宇宙から様々な種族が集まるなか、地球人が原始的な種族としてバカにされているっぽいところも、たいへん面白い。

が、まあ、残念なことに、面白いのは設定だけで、映画はその面白さを活かすことができていない。

もちろん、「全宇宙的規模スケールの事件に巻き込まれ、次第に頭角を現していく主人公」の話に、ときおり、「異星人にスーパーヒーロー・セットを与えられてご近所の問題を解決するダメ男」(←パーマン)みたいな話が混じってくるのは良いとして、せっかくのスケールが小さいところ小さいところへと収束してくる話の作り方にしたのは失敗だろう。

だって、全宇宙の脅威と組織の総力をあげて戦う、といっていたのに、尖兵にされた不憫なダメ科学者を死に追いやり、不死の種族が転じた化け物を一人で太陽にぶち込んで燃やしてオシマイ、ってなんだよ、それ。

恋人はともかく、家族(兄弟や甥)、友人のエピソードは不要。既に一刻を争う自体が起こっているはずなのに、主人公をのんびりと訓練しているチグハグさ。あー、よくこんな脚本にゴーサイン出したよな。

画面中がCGIで埋め尽くされているのは作品の性質上仕方があるまい。ポジティブな面で考えれば、3D感は比較的よく出ていること、主人公のスーツを、物理的な衣装ではなく、CGIで表現するという目新しい手法の面白さか。主人公のライアン・レイノルズは、デッドプールを演じさせられた時よりはマシな扱い。ティム・ロビンス、ブレイク・ライブリー、ピーター・サースガードあたりまでは顔がわかるが、マーク・ストロングやティムエラ・モリソンは、それと知っていないとわかんないよ。

10/09/2011

Dear John

親愛なるきみへ(☆☆)


『メッセージ・イン・ア・ボトル』、『きみに読む物語』、『ウォーク・トゥ・リメンバー』、『最後の初恋』と、そこそこ安定した品質での映画化が続く、ニコラス・スパークス原作ものだが、『HACHI』の犬視点の回想で失笑を買って北米劇場未公開となったラッセ・ハルストレム監督の手で、またしても女性客搾取を目的とした泣かせ映画が作られた。本作、この原作者の映画化作品の出来映えとしては、ちょっと下のほうの部類じゃないか。

主演はここのところ主演作が続くアマンダ・セイフライド(配給会社によりサイフリッドとの表記もあって、そろそろなんでもいいから一本化が必要なんじゃないか。)この人が出ているというのは、その映画が「女性目線」で出来ているというフラグが立っているようなものであるというのが経験則のようなもんだ。

今回の話は、ある夏の日に出会った軍人と学生が、お互いに強く惹かれながらも一方は軍務へ、一方は学業へと戻り、1年後の再開を期しながら、手紙のやり取りを続けるというものだ。男のほうは任期が終わって除隊するつもりでいたが、911に引き続く「対テロ戦争」の戦場に仲間たちと共に向かわざるをえない状況になる。女にもいろいろな事情ができて、決意の末、別れの手紙を戦場に送ることになる。まあ、いかにもこの作者が書きそうな「運命」に翻弄される純愛と悲恋の物語だな。

しかし、この映画が描く「いい男」像の薄っぺらさはなんなのだろう。もちろん、このたぐいの女性搾取映画が描く男なんて、どれもこれも似たり寄ったりかもしれないし、それは男性目線で描かれる映画の即物的な女性像の裏返しに過ぎないということは重々承知しているつもりである。しかし、この映画の「男」、演じているチャニング・テイタムが気の毒になるくらいに、人間味が感じられない、プラスティック人形のようなキャラクターである。「純朴で誠実な好青年」という記号をそのままかたちにしたというのは分かる。が、これが脇役というならともかく、リード・キャラクターなんだから、もう少し何とかすべきじゃないのか。

アマンダ・セイフライド演じるヒロインは、ある意味でたいへん身勝手な女なのだが、そこはそれ、いろいろな言い訳が用意されていて観客の反発を買わない程度に上手く処理されている。このあたりが原作者がベストセラー作家で在り続けられる理由であろうし、ここにアマンダ・セイフライドをキャスティングする意味があるというものなのだろう。

主演のカップルの運命に、近隣に住む自閉症の少年の存在がかかわってくるのだが、それに呼応するように、男の父親が「軽度の自閉症」であるという設定が用意されている。まあ、物語の味付け程度の役割でしかないが、これを演じるリチャード・ジェンキンスが相変わらずの好演を見せてくれる。父親と息子をつなぐ接点におかれた「コインの蒐集」という趣味にまつわるエピソードは、悪くない。

8/20/2011

Shanghai (2010)

シャンハイ (☆☆)


日米開戦前夜の上海を舞台に、新聞記者を装い同僚の死の背景に迫ろうとする米国諜報部員が、死の鍵を握る女の存在に迫ろうとするうち、抗日レジスタンス活動とそれを弾圧する日本軍の緊張関係の中に巻き込まれていく。ワインスタイン・カンパニー製作、『1408号室』の監督・主演コンビであるミカエル・ハフストロームとジョン・キューザック、主人公の上官にデイヴィッド・モース、独の友人にフランカ・ポテンテ、中国裏社会のボスにチョウ・ユンファ、その妻にコン・リー、日本軍将校に渡辺謙、その情婦に菊地凛子。スウェーデン出身監督が米中日のキャストを束ねるという不思議な企画である。

これは史実に埋もれた事実をあぶり出すポリティカル・ミステリーとかサスペンスの類ではなく、ハードボイルド風のメロドラマである。それがたまたま1941年の上海という、とても魅惑的な舞台で展開されるというわけだ。

「探偵役」となる主人公は、殺された同僚が日本軍将校の情婦に接近し、何らかの大きな動き、すなわち、真珠湾攻撃に向けて着々と準備を進めている日本軍の機密情報を収集していたらしいと突き止めていく。ただ、殺しそのものは、結局、全て個人的な愛憎ゆえという、「驚愕」というよりは、むしろありがちな「真実」にたどり着く、という話である。

殺された同僚が、表向きの中立を保つ米国の立場を超えて日本の機密に関わる諜報に深入りしていたという話は、物語の最初から仮説として提示される。さらに、失踪した鍵になる女「スミコ」が日本人であることもあって、捜査のプロセスそのものに「ミステリー」はほぼ、ない。そのかわり、捜査のプロセスで知り合った魅力的な「レジスタンスの女」に肩入れすることで、複雑な人間関係の渦中に巻き込まれていくことになるのである。これもまた、定型通りといっても良い展開だろう。

主人公を演ずるジョン・キューザックは、監督とは前作で組んで気心が知れているというのも起用の理由だろう。彼が一生懸命背伸びをしてハードボイルドを気取っているところは微笑ましくも思うのだが、ちょっと本作を背負うには少々弱いキャスティングではなかったか。陰謀渦巻くなかでの米国の門外漢的な立ち位置、あるいは、ナイーヴさを象徴しているようにも見えるし、情にほだされやすく、純で甘っちょろい面を感じさせる意図もあろうかとは思う。しかし、コメディでもない限り、キューザックがプロフェッショナルな諜報員というのは、俄に信じ難い。それはさておいても、チョウ・ユンファ、コン・リー、渡辺謙といったキャストに囲まれると、そこは役者としての格の違いが出てしまう。

他のキャストでは、チョウ・ユンファは久々に彼に似合ったいい役であるし、見せ場もある。渡辺謙もストイックなイメージを逆手に取って、悪役ながら魅力的な役柄だ。日本で宣伝に駆り出されている菊地凛子は鍵になる情婦の役だが、出番は少なく、アヘン中毒で毛布をかぶって震えているだけ。本作のヒロインは、日本軍に協力する夫を持ちながら、裏でレジスタンス活動を支援するコン・リーで、さすがの美貌と存在感ながら、主人公を翻弄する「運命の女」としては妖しい魅力にかけているように思う。

上海での撮影許可を取り消され、急遽バンコクに建てたという巨大なセットがなかなか壮観で、作品の雰囲気を補強している。作品の性格上、夜間であったり、暗所でのシーンが多いため、せっかくのセットを堪能するまでには至らないのが少々残念である。ミカエル・ハフストロームの演出は、脚本に盛り込まれた複雑な要素を交通整理しながらストーリーを進めるのが精一杯の様子で、あまり余裕を感じられない。まあ、キャリアでも最大規模の作品で、しかも、製作過程で遭遇したトラブルのことを思えば、作品としてまとまっているだけでも立派なものだと云うべきなのかもしれない。

7/30/2011

Transformers: Dark of the Moon

トランスフォーマー:ダークサイド・ムーン(☆☆)


あー、これでひとまず終わってくれる、というヘンな意味での安堵を感じるシリーズがあるとすれば、来年完結予定のトワイライト・サーガと、これ、トランスフォーマーが双璧。最初はそれなりの期待感を持って劇場に向かうも、スクリーン上で展開される惨憺たる狂騒に唖然とする。あるいは、そうなることを半ば予期していても、、一応、イベント的な観点から見ておかないわけにはいかない気がする。というわけで、わざわざ前2作をTV放送で見なおしてから劇場に足を運んだ。(いや、前作までのストーリーなんかスッカリ忘れていたよ。)

しかし、2D、 3D 両方とも見たうえで云うのだが、いやはや、これはゴミに例えるなら、ただのゴミではなくて、どうしようもない粗大ゴミの類だな。

さて、今回の話は、1960年代初頭に月の裏側に墜落した異星由来の物体をめぐり、月への有人飛行を目指すアポロ計画が立ち上がったという裏エピソードを起点とし、前2作では全く触れられなかったディセプティコンの巨大な陰謀、人類の存亡をかけて人類・オートボットとディセプティコンが激突するという筋立てである。クライマックスにはシカゴを舞台とし、延々1時間は続く大規模な市街戦が待っている。

月への有人飛行計画が急速に立ち上がり、その後、止まってしまった理由を異星人に関わる情報の隠蔽工作とする発端部分は、ピラミッドが太陽破壊装置だったという話よりは面白いし、実際に月に立ったバズ・オルドリンご本人を特別出演的に引きずりだしてくるあたりまではよいのだが、せっかくの歴史改変SFの趣も、その後の狂騒に急速に埋没してしまう。

いろいろ詰め込みすぎてよくわからなくなった前作よりはストーリーが整理されているが、それも気休め程度の話である。

このシリーズ、もともと機械生命体同士の争いと、国家や軍隊といったレベルの話と、高校生~新卒社会人程度の主人公と身近な人々の話をどのように絡めて一つにしていくかという部分が大きなチャレンジになっていたが、今回もそのあたりに無理やり感が漂っていて、成功しているとは言い難い。もっと頭を使って欲しいところだ。

意味もなく長尺のなる理由の一つが先に書いた3つのレベルの話をうまく練り上げられていないことであるが、他にも脱線やムダも多いのが、このシリーズの特徴である。今回はそれに加え、トラブルメイカーと化していたミーガン・フォックスを解雇した後遺症もある。新しいヒロインを導入するためだけのまどろっこしい手順やエピソードは見ているだけで疲れてしまう。

マイケル・ベイの演出は、さすがに3Dを意識したからか、カメラぶん回しや短いカットは減って見易くなった。が、止まることを知らず動きまわるカメラと笑えないコメディ演出は相変わらずである。注目の「3D映画」としてどうかといえば、確かに3Dカメラで撮影したショットも多いようだし、3D化が容易なCGIで描出したオブジェクトも多いため、急造の変換3D作品より「立体感」は感じられるのは事実である。そうはいっても、その使い方という意味では何ら新鮮な工夫はなく、全くもって面白くない。3Dに最適な演出のあり方はもっと深く追求されて然るべきだ。

この手の大規模で複雑なプロジェクトの陣頭指揮にあたって映画を完成させる能力も含めて「監督」の資質を問われるのであれば、本作の製作過程では大きな事故が複数回報じられているとはいえ、マイケル・ベイの才能を疑う理由は全くない。ただ、完成した作品が面白いかどうかは別の話だということは、まあ、改めていうまでもないことだろうね。


ところで、アニメ版での縁によるものというが、今回登場するキャラクター、「センチネル・プライム」の声をレナード・ニモイが演じている。それにちなみ、映画の前半でスター・トレック(TOS)のエピソードをTVで視聴しているシーンがあったり、主人公が車のギャラリーを「エンタープライズみたい」と口走ったり、「カーンの逆襲」における有名な台詞 "The needs of the many outweigh the needs of the few"  をセンチネルに云わせたりするお遊びがあったりする。そういえば、今回はクレジットされていない前2作の脚本家コンビは、タチの悪いトレッキーだったな。

6/17/2011

Keibetsu (軽蔑)

軽蔑(☆☆)


悪いんだけど、鈴木杏の体は、セリフでも出てくるような「真剣に踊っている」ダンサーの体じゃない。彼女のことは『ジュヴナイル』の頃から好きだったし、いいものを持っている人だと思っている。それに、本作での苦労も、みればわかる。が、彼女が、あの体のままこの役を演じるなら、設定もセリフも何もかも変えるべきじゃないのか。

もちろん、なにからなにまで、本当に役にふさわしい役者をキャスティングするのは難しかったのだろうと想像する。それに、鈴木杏が、真剣に踊っているダンサーの体型を作るまでの時間を待つ贅沢がかなうような規模の作品でもないんだろう。結果として、なんだかよくわけのわからない「ごっこ」遊びのような本作ができあがるわけだ。当然、そこには物語の登場人物たちが抱えているような切実さも、行き止まり感も、痛みも、なにも、ない。だったら、そんなんでも敢えてこの映画を作る価値があったのか、と問いたい。女優脱がして、それを売り物にして客を集めようっていうだけのゲスな企画じゃねえか、こんなモン。え、この作品のタイトルの意味は、もしかして、そういうことなの?

歌舞伎町でチンピラ稼業をしている男が借金帳消しのために揉め事を起こし、互いに惚れあっていたダンサーを連れて故郷に逃げ帰る。実は不労所得を生活の糧とする旧家の跡取り息子、最初は真面目に働きはじめるものの、それをいつまでも続けられるものではない。地元の悪友たちもいる。昔の女と思しきのもいる。トップレスで踊っていた女なんぞ嫁にすること許さぬという実家や、周囲の蔑んだ視線に苦しむ女。男が作った地元のヤクザからの莫大な借金が、二人の行く末にさらなる影を落とす。

原作のことは知らない。だから、原作を読んでいれば頓珍漢に聞こえることもあると前置きはしておく。

映画は、少なくとも「軽蔑されるべき生き方しかできなかった二人」に同情したり感情移入したり出来るものにはなっていない。

男はくだらなさすぎるし、女がそんな男のどこに惚れるのかもわからない。例え、男女の仲は当人にしかわからないね、という描き方なんだとしても、この二人が、それなりにない知恵を絞って必死に生きて、ただただ巡り合わせが悪く、世間の風も冷たかったというのなら、まだ理解できる。しかし、映画を見ている限りではバカな人達がバカなことをやっているようにしか見えない。高良健吾演ずる男のことも、鈴木杏演ずる女のことも、好きになれない。そもそも、なんでそんなに男の郷里にこだわらなきゃならんのか。うまくいかないと思ったら、二人でどこか知らない土地に行けばいいじゃないか。全てから切り離されて2人だけになればいいじゃないか。もっといえば、大森南朋演ずる田舎ヤクザの借金なんか踏み倒して高飛びしちゃえばいいじゃないか。あほらし。

主人公の男の祖父の「妾」さんというポジションに甘んじて生きてきた、昭和の時代の残滓のような女性を緑魔子が演じているのだが、その独特の存在感が映画を全部持って行ってしまったような気がする。そうね、まあ、時代背景が昭和なら、もう少し映画に説得力が出たかもしれない。

12/01/2010

Space Battleship Yamato (2010)

Space Battleship ヤマト(☆☆)

私はかろうじて、「宇宙戦艦ヤマト」をリアルタイムで楽しんだ世代に属している。当時、次々作られたシリーズ作品にあれこれと文句をつけながらも広い心でそれなりに楽しんできたし、とうの昔に醒めたとはいえ、「私の心ははるかにファンに近い」。(そうでなけりゃわざわざ復活篇まで観に行ったりするもんか。)

だから、あの「ヤマト」が実写で再現されているという事実、あの耳に馴染んだ旋律、あの名場面・名台詞がそこにあるというだけで、無条件に心揺さぶられるものがあったりする。それは、もう、映画の出来栄え云々を超越した次元の話である。白状すれば、あのどうしようもない復活篇ですら感慨深いものが込みあげてきて胸が熱くなる瞬間があったのだから、これはもう理屈ではない。刷り込みといってもいいだろう。

しかし、本作が「国産SF大作」なんかではなく、良くも悪くも「ヤマト」映画でしかないことには苦笑してしまった。なんだかんだいわれているが、今回の脚本はいくつかのポイントはちゃんと押さえている。ここまで「ヤマト」なら、例えばアニメの完全コピーを目指した『スピードレーサー』(←マッハGoGoGo)路線でもよかったのに、中途半端にちゃんとSF大作ぶってしまうからギャップが少々恥ずかしい。山崎監督もファンであるはずの『ギャラクティカ(2004-2009)』の剽窃的引用がやたら目立つのだが、結果として、「秋葉原の片隅で売られている聞いたこともない中国メーカーが作ったろくに動きもしないiPad もどき」とか、「中国のどこかの遊園地が建てちゃったオレンジ色のガンダム」の類のような居心地の悪さを感じないわけにはいかない。

いや、これは居心地の悪さで済ませられない話で、オマージュと剽窃のあいだにある一線とは何かについて論じるべき問題なのだろう。そして、「ヤマト」という作品(自体も回を重ねるに連れてグダグダになっていったのは事実としても、それ)が切り開いた地平、歴史的な意義に対して敬意を持つものであれば大いに怒り、悲しむべきことなのであろう。

とはいえ、もとネタが"悪い意味"であの「ヤマト」だし、どうせろくなものになりゃしないとは思っていた。もっと酷いものを予期していた。もっといえば、国産SF映画に何も期待できないという諦めの境地が出発点である。期待値が低かった分だけ、口でいうほどには落胆していなかったりもする。

結局、CGIの登場によって、技術的な彼我の差が小さくなったことが一番効いているのだろう。米国産の大作とは比べようもないほどケチな予算しかなくても、『さよならジュピター』(1984)のせいで宇宙SFものの系譜やノウハウが25年間途絶えていても、そこそこ見られる画が作れるというのにはちょっと感心する。

そうしてみると、本作がだめなのは技術ではなく、センスだ。艦内の美術やセット、衣装、小道具の(もちろん予算もなかったんだろうが)醸し出す恐るべき安っぽさ。SFマインドの欠如した今時びっくりするような描写や演出。脚本の矛盾や説明不足。あと、それと並んでダメなのは、脇のほうにいる役者たち。役者の層の薄さが露呈しているんだろうか。主演・助演クラスは演技のトーンがバラバラだとはいえ、まだ観ていられるのだけれど、脇になればなるほど酷く、これぞ学芸会並というやつだろう。効果音や音楽が途切れる艦内での小芝居は、セットが学食並であることも手伝って見ているのも恥ずかしいレベルである。

ちなみに、わりと濃いファン層からは、オリジナルから大胆に改変された脚色が許せないという声が強いようである。が、まともな映画脚本としての完成度はさておくとして、第1作と「さらば」を中心に、それ以降の作品の要素やネタを細かく持ち込んで再構成された脚本は、ああ、これは「ヤマトファン」の仕事だなとわかるし、足りないことはいっぱいあるけれども、ある意味、よく頑張ったといえなくもない。(まあ、ファンと言っても色々あって、どうもこの作り手たちは主要キャラクターを次々に殺し、挙句、特攻を美化して感動を安売りした、あの忌まわしき「ヤマト」を受け入れられるタイプのファンなんだろうけどね。)

どう転んでも勝ち目のない戦いを引き受けた監督以下の気概や、決して恵まれていたとも思えない製作環境で、それなりの商品にまとめあげた努力は評価したい。ある世代であれば誰もが夢見たであろう『宇宙戦艦ヤマト』の実写映画化は、同時に、誰が考えてもうまくいきそうにない企画でもあったはずなのだから。

11/14/2010

Twilight Saga: Eclipse

エクリプス トワイライト・サーガ(☆☆)

あっという間にシリーズ3作目。原作は4部作だが、最終章は2本に分けて映画化される模様。

今回、映画本編の始まる前に、特別編集「これまでのあらすじ、設定ご紹介」が流された。レンタルだろうと放送だろうといくらでも前作を見る機会がある今の世の中、正直、この映画を「見たい」と思って劇場にくる客が、1~2作を見ていないというのもレアなケースだろう。してみると、この前説は、こんな映画には興味もないのにデートで彼女に付き合うことにした男の子向け、なのか、昨今物忘れが激しくなってきて、全部見てきたくせに細かい設定なんざ覚えちゃいない当方みたいな観客向けっていうことだろう。

さて、今回のお話しである。2作目でいったん離れ離れになってひと騒ぎあったものの元の鞘におさまった主人公カップル。舞台は再びシアトル郊外の田舎町。高校を卒業したら前作での約束通りヴァンパイアの一員になると決心しているヒロインに、自分と同じ苦しみを与えたくないと苦悩する優等生彼氏。そこに、「俺と一緒になればそんな苦しみとは無縁だぜ」と上半身裸の人狼君が割って入り、あらためて3角関係ごっこがぐだぐだと展開される。一方、1作目で敵対した勢力の生き残りである赤毛のヴァンパイアがしつこくヒロインをつけ狙い、とばっちりを受けた草食ヴァンパイア一族と人狼一族が共闘し、赤毛が作りだした凶暴な戦闘部隊と一線交えることになる。

まあ、なんだ。乗りかかった船なので、次は少しくらい面白くなるか、盛り上がってくるか、とちょっとだけ期待しながら見続けている。が、予想通り、ちっとも面白くならないので困ったものだ。

今回は三角関係がヒートアップし、ヒロインを守るために嫌々ながら共闘したり、半裸男に寝取られを許したりというのが見せ場だろうか。また、人狼一族に聞かされた一族を守った女性の勇気ある行動、吸血一家から聞いた南北戦争期に恋愛感情を利用された苦悩などのエピソードが現在とシンクロしてくるドラマ性もある。本当に見るべきもののなかった前作よりは内容が濃い。

が、これはもう、原作の問題だと思うのだが、そもそも、おはなしがそれほど面白くないんだな。少女漫画なんだからそんなものといわれたら返す言葉もないが、そもそも自分中心で身勝手なヒロインに好感を持つことができない。人狼にも期待させる素振りを見せたり、振っておきながら自分や家族のみを守るために利用しようとする性根が悪い。こんなやつはさっさと吸血されて魂を失ってしまえばいいのである。

そんなヒロインを苦悩の表情で見つめるばかりの彼氏と、諦めの悪い半裸の人狼については、まあ惚れた弱みというか、自業自得のうちだと思うのだが、その仲間や一族は、ヒロインさえいなければ起こらなかった争いに巻き込まれているようにしか見えない。いっそこの小娘さえ殺してしまえば全てが円満になるんじゃないか。

前作でスケールが世界規模に大きくなるのかと思いきや、またしてもシアトル郊外の田舎町という小さな舞台での小競り合いに収束していくあたりも、なんだか、もうどうでもいいから勝手にやってろ、という気分になってくる。

しかし、このシリーズは作り手にとっては鬼門だろう。ハイペースでの続編製作を可能にするため、毎回監督を替えているのはご存知のとおりだが、そこそこまともな映画を撮れるはずの人たちが、次々と評判を落としている。前作では『アバウト・ア・ボーイ』のクリス・ワイツが、本作では『ハード・キャンディ』のデイヴィッド・スレイドが犠牲になったが、次回作はホラーものにも造詣の深い『Gods and Monsters』のビル・コンドンが登板しているということだ。ああ、ビル・コンドン!ご愁傷さま。。。

10/16/2010

The Expendables

エクスペンダブルズ(☆☆)

軍事独裁の南米小国に殴りこみをかけ権力者を排除するという依頼を引き受けた最強傭兵チームが、現地で手引きする女性を救助するとともに、麻薬権益独占のために裏で糸を引く元CIAを倒すために奮闘する、という話。

『ロッキー』、『ランボー』の2大シリーズの無茶な続編をそれなりに仕上げたうえで中ヒットに導いたことで自信を深めたに違いないシルベスター・スタローン(共同脚本・監督・主演)が、見るからにむさ苦しい肉弾系アクション・スターや格闘系スターを集めて完成させた80年代風殴り込みアクション映画である。考えて見れば孤独なヒーローか、せいぜいコンビもの止まりだったスタローンが、一歩引いて「チームもの」をやっていること自体が新機軸。

まあ、本作にもカメオ的に出ているブルース・ウィリスがTVのコメディ・スターから転身した『ダイ・ハード』の登場によって、この手の映画は表舞台から消え去ったわけで、この映画が身にまとう懐かしい雰囲気は、だからそれだけで褒め讃えたくもなるのだが、いや、それでもこれ、出来のいい映画ではないよ。

こういう映画では筋書きなんてどうでも良いと思われがちだが、主人公らの活躍に気持ちよく喝采を送るためには、それなりの条件が整っていなくてはならないものだ。そもそも敵は憎らしい悪党でなければならないし、主人公らにブチ殺されて当たり前と思える輩でなければならない。実のところ、本作はその根本的なところで失敗しているのである。

もちろん敵の本丸たる「元CIA」は私利私欲のみの傲慢で嫌な男である。傀儡の将軍やその配下も横暴な振る舞いだ。

・・・が、直接的な描写は多くない。記号としての「悪党」、つまり、こいつらは悪いヤツですよ、という設定だけで十分なケースも多々ある。が、本作における主人公らの無敵さ加減と描写の残虐さ加減を前にすると、どうにも釣り合いが取れいるとは言い難いのだ。

スタローン演出は『ランボー/最後の戦場』の路線を踏襲しており、バイオレントな残虐描写が頻出する。味方は無傷(とまではいわないが)なのに、敵方は為す術も無く次々に血祭りというのでは、「丸腰の住民を虐殺するミャンマー軍」とあまりかわらない。いったいどちらが悪人か。

また、祖国を売った父に反抗する将軍の娘、将軍と娘の和解、将軍と元CIAとの決別などというプロットが混入してくるからややこしい。

現地案内人が実は「将軍の娘」だというヒネリは面白い。が、これを活かすには、終盤、例えばこんな展開が必要だ。"将軍が改心し忠実な部下たちと一緒に元CIAを一掃すべく蜂起するも、軍隊を掌握した腹黒い副官の裏切りにより、忠実なはずの軍隊がすべて元CIA側につき一瞬で鎮圧、将軍は娘の手の中で息を絶える。そこ主人公らの怒りのボルテージが上がり・・・"ってな感じ。ね?

この映画では、将軍のいうところの「忠実な部下」たちは、元CIAらが将軍を射殺した後も、思考停止のまま元CIAの私兵よろしく、主人公らの前に立ちふさがり、意味なく虐殺され続けるだけだ。それは、「敵方が私利私欲で2つに分裂し、その混乱に乗じて主人公らが両派を一掃する」話、なら良いのだけれど、将軍と娘のプロットとは全く整合性がとれない。

そんなこんななので、本来熱血盛り上がりになるはずの壮絶なクライマックスも、目的の見えない軍隊相手に主人公らが暴虐を尽くすだけ。そこには悪党を一掃することへの爽快感がない。そんな映画を楽しめるのか?・・・まあ、部分的にはね。スタローンは義理堅く、出演させたスターや格闘家それぞれに見せ場を作っていて、そういうところは好印象だし、例の3人がスクリーン上で一堂に会するところは、そういうシーンがあることを知っていても息を飲む。

ま、最後に長渕剛の日本版主題歌とやらが流れてきて、すべてがどうでも良くなってしまうわけだが; 日本版主題歌は、100歩譲って、せめて吹替版だけにしてくれないもんかね。

10/09/2010

Resident Evil: Afterlife

バイオハザード IV アフターライフ(☆☆)

同じポール・アンダーソンでも偉くなっちゃった"PTA"の方じゃなくて、中学生映画を連発する愛すべきポール "WS" アンダーソン監督が、シリーズ第4弾に復帰、3D化に挑んだアトラクション映画である。バイオハザード・シリーズとしては第2作目で早くも愛想が尽きたので前作は未見。しかも、アバター同様に3Dカメラで撮影したことが売り物の作品であるにもかかわらず、2D上映での鑑賞であることをお断りしておく。

で、2Dで見たのだが、どういう3D効果を狙っているのかは平面でも分かる。まずは古典的な「何かが飛び出す」系の演出。弾丸、コイン、硝子やコンクリート等の破片、巨大な斧や剣、それにゾンビやその口から飛び出す変形した不気味な顎、等々である。もうひとつは、画面の奥行きを活かした「高低の落差」系の演出で、高いところから落下したり上下移動をするシーンが比較的多く登場する。3Dで見ていたら、まあ、遊園地のアトラクション並には楽しめるのかなぁ、と想像する。あと、終末的な世界をスクリーンという窓から覗き見るようなところもあるが、舞台が限定的であるためにそれほどの見せ場にはなっていない。

アクションの演出も、大型の3Dカメラゆえの制約もあるのだろうが、3Dの特質を踏まえたものになっている。つまり、一時期流行した細かいカットをつないで編集で(誤魔化して)見せるのではなく、カットを割らず(CGIワークでごまかしながら)スローモーションや回り込みで見せるタイプの演出になっている。

3Dで見てもいないくせに、実写系の3D作品としての側面に言及するならば、やはり、そこは試行錯誤の途上ながらも着実に進化をしているように見受けられるのだが、題材が題材ゆえか、見慣れた「立体映像アトラクション」に終始し、観客の想像を超えるような新しい要素は見出せはしない。

では、ストーリーを含めたアクション活劇としてはどうかといえば、まあ、前作を見ていないのだから、主人公がやたらめったら強い上に分身までして戦う冒頭・渋谷のプロローグはさっぱり意味不明であることを割り引いて考えても、さして面白いものでもない。見ているあいだはそこそこ刺激が持続するが、ストーリーもなければドラマもない。謎の男は危険な囚人なのか、味方なのか、サスペンスになる前に底が割れる。廃棄された牢獄からゾンビで溢れた市街を強行突破するかと思いきや下水経由の肩透かし。いけ好かない映画プロデューサーは安っぽく敵のしもべに成り下がり、敵ボスはエージェント・スミスの安っぽいパクリ。アクションにも新規性はない。もはやゾンビは背景美術でしかない。続編には色気をだして中途半端な終わり方をする。

もちろん、"WS" の映画に多くを求めちゃいないから、そんなもんだろう、と割り切って暇つぶしに見るなら腹も立たないものだ。しかし、この程度の映画で、ゲームのファンなんかは満足できちゃったりするものなのだろうか。ここには、ゲーム特有のインタラクティブ感や没入感はゼロなんだけど。いや、没入感は3D化で少しは上がっているのかもしれない。だとすれば、この手のジャンルの映画にとって3D化はあるべき進化の方向だろう。

7/03/2010

Bayside Shakedown 3 Set the Guys Loose !

踊る大捜査線 The Movie 3 ヤツらを解放せよ!(☆☆)

想像以上でもなく、想像以下でもなく。いろいろな小ネタを目一杯詰め込もうとした結果、2時間20分もの尺を使いながらもいびつで消化不良になっている。また、それだけ詰め込んでみたところで、長年のあいだに多様化してしまったファンのツボにもきちんと応えきれていない。きっと、いろいろな人がいろいろなアイディアを出したのだろう。苦心惨憺まとめてみたらこんなふうになった、と。

このシリーズ、そろそろ「イベント映画」路線を捨て、連続ドラマに回帰すべきではないだろうか。いかりや長介亡き後、キャスト(キャラクター)の世代交代を図りながらシリーズを続行するというのであれば、脇役にもスポットを当て、日常の延長線上でキャラクターたちのひととなりや人間関係をじっくり描き、それを育てていく余裕こそが必要だろう。それを数年に一度の派手なイベントとしての期待を背負う「映画」に望むのは少し難しい。

かのハニバル・レクターが獄中にいながらダラハイドを利用して牙をむいたことを想起させる「事件」が、湾岸署の引越しという混乱の最中に進行するというのが本作の骨組みである。およそ警察ものの定番外しからスタートしたこのシリーズだから、警察署の引越しというアイディアはそれらしくて悪くない。ここに、黒澤やら『ダークナイト』やら『エヴァンゲリヲン』やら、ありとあらゆるものの「オマージュ」が盛り込まれ、何度も繰り返して楽しむファンに向けて、さらに細かいお遊びやリファレンスがふんだんに挿入される。まあ、やりすぎれば鼻につくが、それもこのシリーズのお約束だ。

警察署の引越しを担う業者にしては身元確認が甘くてリアリティがないとか、セキュリティ・システムの解除がそんな安易でいいのか、といった脱力気味の部分も少なくないが、まあ、それもこのシリーズのお約束のうちなんじゃないだろうか。まあ、こういうところで白ける人もいるんだろうが、あくまでコメディだと思えば、許容範囲といえなくもない。

良い意味でも悪い意味でも君塚脚本らしさもある。映画版シリーズでも、ネットで知り合った若者同士であるとか、リストラ会社員たちを犯罪者として(ある種の偏見と共に)描いてきた延長線上で、メールアドレスでしか識別されないパートタイム労働者といったいかにもな時事ネタを潜り込ませる。今という時代の空気を感じさせるのはよいが、不特定多数のネットユーザーであるとか、社会における構造的な弱者に対する分かりやすい悪意や偏見が強く出ているのは苦笑すべきところなんだろうね。まあ、目をつぶってやってもいいや。仕方ない。

お笑いやおふざけのさじ加減が少しずつ間違っていて、笑える前に不快に感じるところも多々あるんだが、まあ、それもいつものこと。ん?そうだっけか?

しかし、頭をからにして、いろんなところに目をつぶって、大目に見てやって、初めて楽しめる作品っていうのはなんなんだろう。まあ、この監督がシリーズ以外で積み重ねた惨憺たる駄作の山を見れば、端から大きな期待をする方が間違っているのは周知の事実なんだけどね。

ひとつ言えることは、この作品の関係者たちはスカンクの臭いを舐めているってことだね。あんなもんで済むはずないないだろ、実際のところ。

6/19/2010

Prince of Persia: The Sands of Time

プリンス・オブ・ペルシャ 時間の砂(☆☆)

ジェリー・ブラッカイマーがゲームを元ネタに作ったアドベンチャー作品である。それだけ聞くとオリジナリティのかけらも感じられないが、タイトルにあるように、今日、アメリカの天敵でもある中東はイランの地に興ったペルシャ帝国の「王子」を主人公として、バランス感覚とエキゾチシズムを前面に出しているあたりがヒットメイカーの面目躍如たるところであろう。(もちろん、ペルシャだろうがなんだろうが、登場人物が英語で話すのもお約束である。)まあ、残念ながら興行的には成功を収めたとはいい難いが、こういうある種のチャレンジは基本的に歓迎したい。

偉大な王の眼鏡にかない、王子として養子に迎えられて育った青年は、王の暗殺の罪を着せられて終われる身となる。背後には、過去にさかのぼることを可能にする不思議な砂と短剣を我が物にし、権力を手中に収めようとする者の陰謀があった、というお話。主人公は、タイトルにもある「時間の砂」の秘密を握る小国の王女と共に陰謀に立ち向かう。

・・・のだが、まあ、なんだかね。ストーリーがそれほど面白いわけでもないし、脚本がそれほどよくかけているわけでもないし、キャラクターに特段の魅力があるわけでもないし、ビジュアルがものすごいわけでもないという、可もなく不可もない軽量な娯楽映画である。話の展開にしたって、主人公の叔父、つまり、王の弟をベン・キングスレーが演じているだけで読めてしまうわけで、そこをもう一ひねりしようなどという小細工もない。暗殺者、アサシンの語源ともなったペルシャの暗殺者集団が登場するところは少しワクワクしたが、その程度か。

監督は『ハリーポッターと炎のゴブレット』で、VFXを使ったファンタジー映画でも大丈夫だと証明して見せた英国出身マイク・ニューウェルが起用されている。この人、信用できる腕前の持ち主だと思っていて、現に、「炎のゴブレット」にしても、シリーズ中盤では一番出来が良い作品だった。ただ、こういう大規模な作品になると、彼の腕がどうのというレベルではなく、全体のパッケージングに左右されるところが大きいようにも思う。次は違う路線に戻ったほうがいいんじゃないのかね。

ジェイク・ギレンホールのような役者がこういう作品の主演に抜擢されるところが面白く、体を鍛え上げて頑張っているのは良いと思うのだが、いかんせん、ちょっと線が細い。ヒロインのジェマ・アタートンは、演じるキャラクターに魅力がなく不発。アルフレッド・モリーナも出演しているが、才能の無駄遣い。

3/13/2010

Percy Jackson & the Olympians: The Lightning Thief

パーシー・ジャクソンとオリンポスの神々(☆☆)


ゲームのような映画、ということがある。いまではゲームを原作にした映画も珍しくない。本作はベストセラーのファンタジー小説を原作にしているのだが、これがまた、文字通り「ゲームのような構成」の映画で、思わず笑っちゃうのである。

まず、イントロで物語の説明が行われる。いわく、主人公はポセイドンの血を引くデミゴッドであり、ゼウスの雷撃を盗んだ嫌疑をかけられている、と。雷撃を欲するハデスにさらわれた母親を救い出し、ゼウスの疑いを晴らさなくてはならない、と。次は、チュートリアルが待っている。神の落とし子たちを集めたキャンプをステージに、ミノタウロスとの戦いやフィールドでの訓練で基本的な戦い方を教わるのだ。今後必要となる武器・アイテム・仲間を受領したら次に進もう。

キャンプをでたら、マップを手がかりにお宝を集めるクエストが始まる。アメリカを横断しながらステージを移動し、メデューサ、ヒドラと強力な中ボスを倒すごとに特殊な「真珠」をゲットしていく。ドラッグの迷宮を越え、3つ目の真珠を手に入れたら、冥界ステージへ移動だ。冥界でハデスと戦って母親を救出すれば、いよいよ最終ステージ。ここまできたらあとは簡単。幾分弱めの「雷撃泥棒」を倒してやると、オリンポスへの扉が開き、あとは勝手にムービーが流れてゲーム終了・・・って、そんな感じ。

まあ、それ以上でもそれ以下でもなく、語ることも何にもない。金のかかった大作なのに安っぽくて、「退屈な子供向けハリウッド映画」の見本のような作品である。原作は5部作だというが、続編企画がなくなっても驚かないし嘆きもしない。

クリス・コロンバスは「ハリー・ポッター」1作・2作の監督で、本作を手がける20世紀FOXでは、7本の監督作、4本の製作作品を手がけ、多くのヒットを飛ばしている。そんな流れで本作の指揮を任じられたのは想像に難くないが、この人選、正しかったのか。この人、もともとこういう仕掛けの大きな作品よりも、もっと規模の小さいコメディ作品で良さが出るタイプ。ハリー・ポッターのせいで本人も、周りも、何かを勘違いしてしまったんじゃなかろうか、と思っている。ショーン・ビーン、ウマ・サーマン、キャスリーン・キーナー、ロザリオ・ドーソン、ピアース・ブロスナンと、脇役がわりと豪華なのだが、みんな無駄遣いでもったいない。

Did You Hear About the Morgans?

噂のモーガン夫妻(☆☆)


『L.A.Story』とか『スリー・リバーズ』の、、、と思っていたら(いつの話だ)いつの間にか『セックス・アンド・ザ・シティ』の看板スターになっていたサラ・ジェシカ・パーカーと、ロマンティック・コメディの(ちょっと前までの)帝王ヒュー・グラントが共演する、離婚の危機に置かれた夫婦が違った環境に身をおいたら夫婦仲がよくなちゃったコメディ、である。監督は、『トゥーウィークス・ノーティス』、『ラブソングができるまで』でヒュー・グラントの持ち味を引き出したマーク・ローレンス。

この作品のユニークな点は、NYCで暮らす破局寸前の都会派カップルが、偶然目撃した殺人事件により連邦証人保護プログラムの対象になってしまい、そろってワイオミングのさらに片田舎に身を寄せ、素性を隠して暮らす羽目になるというアイディアである。身元引き受け人になるのが、地元のシェリフ夫婦。これを演じるのがサム・エリオットとメアリー・スティンバージェンで、都会派コメディの空気を一気に西部劇に変えてしまうインパクト。ははあ、要はこの映画、都会の根無し草が、米国のルーツに立ち返って夫婦の絆を取り戻すと、こういう保守的なお話しでもあるわけですね。

いかにも西部の男というサム・エリオットに、へらへらちゃらちゃら英国訛りのヒュー・グラントというギャップがひとつの笑いどころである。しかし、顔をのシワをみていると、ヒュー・グラントもさすがに年をとったなぁ、と思う。そうはいっても演じるキャラクターは相変わらず、いつもヒュー・グラントが演じているような男であり、そのことには全く違和感がない。ああ、この人は年をとっても一生このキャラクターでいくんだろう、と妙に納得してしまう。

そのヒュー・グラントが1960年生まれだから、50歳である。で、相手役のサラ・ジェシカ・パーカーは1965年生まれなので、こちらもそれなりのご年齢。本作、脚本的には30~40前半くらいのカップルで、まあ、撮影時40代後半だったお二人なので、ロマンティック・コメディといえど夫婦モノである本作としては、まあギリギリな感じか。

まあ、キャストの誰かがお気に入りなら暇つぶしにどうぞ、っていう程度の作品ではある。ヒュー・グラントのコメディだったら、他の作品の方がお勧めである。

2/14/2010

The Disappearance of Haruhi Suzumiya

涼宮ハルヒの消失(☆☆)


まあ、熱心なファンが喜んでいるのなら、それ以上なにかいうことはないのかもしれないが、これ、映画としてはダメだろう。

いや、そのとおりに土台となる小説シリーズがあって、アニメシリーズがあって、かなりの数のファンがついている作品である。だから、単独の映画として成立していなくても、背景説明も、人物説明も、状況説明も、全て省略していても、それを以って失敗作だというつもりはない。むしろ、そんな荒業が可能であることは本作のような(特別な立ち位置を確保した)作品にとっての特権であるとさえいえる。

しかしだね。

だいたい、この程度の内容で2時間40分なんていう尺になるのがおかしいのである。それだけの時間があれば、本作が特権的な立場を利用して切って捨てた「一見さん」に向けた説明を全部リピートしてみせたってまだ時間が余ってしかるべきであろう。ディテールの描写や演出にこだわりすぎるがあまり、あるいは、原作をそのまま完全に移植することに執着するがあまり、細部ばかりが肥大した異様で退屈な作品になっていること、そこが映画としてダメだということなのだ。

だが、TVで垂れ流されることを前提としたTVシリーズよりも、情緒や空気を重視し、長い間をつかった演出が多用されていて、作り手が映画館でかけられる作品であることを意識して作っているのは見て取れるところが面白い。過剰なディテール、高度な作画技術に支えられたキャラクターたちの細かい芝居だって、制約の多いTV作品では実現できないことを見せてやろうという、作り手の熱心さだったり、ファン・サービスだったりの表出なのだろう。

映画館で上映される、映画らしさを備えた、しかし映画としては欠陥だらけの商品。ファンのためのお祭り騒ぎ。そんな作品があっても良いが、なぜこういう作品に集まる観客は、並外れてマナーが悪かったり映画館の常識に欠けていたりするのだろうかね?

2/06/2010

The Private Lives of Pippa Lee

50歳の恋愛白書(☆☆)


敏腕編集者である年の離れた夫(アラン・アーキン)と共に、リタイアメント・コミュニティに越してきた主人公(ロビン・ライト・ペン)が語るこれまでの人生は、一見して穏やかで平穏に見える現在の彼女からは想像し難いものであった。一風変わった若い男(キアヌ・リーヴス)の出現や、自らの睡眠障害、夫の浮気などの出来事をきっかけに大きく変わり始める生活と平行して、彼女の人生を決定的に運命付けた過去の衝撃的な事件が観客にあかされる。

アーサー・ミラーの娘で(ダニエル・ディ・ルイスの妻である)レベッカ・ミラーが自らの原作を脚色し、監督した作品である。アンサンブル・キャストから実力相応の演技を引き出せているので、楽しめないことはない。が、ストーリー・テラーとしては未熟。

退屈なリタイアメント・コミュニティに越してきたことを契機に始まる主人公の異常行動、抑圧されてきた感情や人間性。主人公が過去を語りながら、あるところで目の前の事件と、過去の決定的な出来事が劇的に交差する。個々のエピソードが平板に羅列されているので物語の骨格となる構造、違う言葉でいうなら、話のポイントがなかなか見えてこない。もちろん、原作者でもある本人の頭の中ではきれいに構造化されているのだろうが、この人にはそれを観客に向けて効果的に語ってみせる脚本の、そして演出の技術がない。

そんなんだから、こんな邦題をつけられる羽目になる。欲求不満なロビン・ライトと、若いキアヌの火遊びがメインだと観客を騙してみても、それに釣られるような観客が望むものはここにない。

ロビン・ライト・ペンが実際の年(43歳)よりも疲れめに見えるのは昔からのような気がするが、彼女より2歳ほど上のキアヌ・リーヴスが随分若く見えるのが驚きである。アラン・アーキンが絶品。その他、ジュリアン・ムーア、モニカ・ベルッチ、ウィノナ・ライダー、マーク・バインダー、マリア・ベロと、この規模の作品にしては脇役が豪華。ウィノナ・ライダーの再起が少し嬉しい、かも。

1/31/2010

The Lovely Bones

ラブリー・ボーン(☆☆)


理不尽にも命を奪われた者が、霊媒師の力を借りて愛する者を守り、犯人に復讐を遂げたのちに感動的に昇天していく・・・のはジェリー・ザッカーの『ゴースト』だった。本作の予告編がミスリードして観客に期待させるのも、おそらくはそういう物語であるだろう。

主人公が「殺される」ところで幕を開ける物語が、とりもなおさず「ハッピーエンド」で幕を閉じるためには、ことの真相が明らかになるのはもちろん、(愛する者のためにも)何らかの形で犯人への復讐をとげ、無念を晴らす必要がある。だが、ピーター・ジャクソンの新作『ラブリー・ボーン』は、この当たり前とも思える常道をことごとく否定したところで、なおもハッピーエンディングを迎える作品として成立させようというチャレンジを試みているところがユニークだ。しかし、それが必ずしも成功しているとは思えない。

シアーシャ・ローナン演ずる主人公は、近所に住む男によって無残に殺されてしまうが、意識だけ、この世とあの世の中間のような場所に留まって、事件をきっかけに崩壊した家族の行く末を見守ることになるという話である。家族の再生を見届けた少女は、自らの心残りを晴らしたのち、昇天していく。まあ、その「心残り」というのが、年頃の少女らしく、どのように殺されたかを考えると、ちょっと泣かせるものではある。

しかし、殺人事件の真相は表向き明らかにならず、劇中で事件は解決しない。その意味で犯人への復讐は遂げられないし、そもそも少女の遺体すら発見されないまま終わる。思いつく限りの定型パターン崩しだし、これは居心地が悪い。

もちろん、被害者家族を中心に据えた社会派のドラマであったなら、こうした展開も掟破りではない。家族が前に一歩踏み出すためには、過去に埋めてしまわなくてはならないものがあるということ、真犯人を明らかにし、復讐を遂げても死んだ少女は戻らないし、家族の傷も癒えるとは限らないのだということ、無残な少女の死体が発見されたらされたで、家族が辛い思いをするだけだということ。ここで描かれるドラマは、十分に理解できるものである。しかし、この映画はそうしたドラマへの踏み込みが中途半端に終わっている。

死んでしまった少女が体験する死後の中間世界が映像的な見せ場となっているはずだが、平凡でつまらない。手間隙がかかっているのは半端ではないエンドクレジットの長さでも分かるから、少し勿体無いところだ。スタンリー・トゥッチが珍しいタイプの役を演じて賞レースでも名前が上がってきているが、作品の出来栄えに足を引っ張られることになるだろう。

9/29/2009

Land of the Lost

マーシャル博士の恐竜ランド(☆☆)


『俺たち~』シリーズ(?)で、日本でも局所的に名前が知られるようになってきたウィル・フェレル主演最新作。ブラッド・シルバーリング監督による本作は、1974年製作による子供向けSFi ドラマで、後にカルト化した『Land of the Lost』をゆる~くリメイクしたものである。また、リメイクといっても、ストレートなリメイクではない。「カルト・クラシック」のバカバカしさや幼稚さにおちょくりをいれる「公式な」パロディというのが一番正しいところだろう。「公式」というのは、本作の制作に、オリジナル版の製作者であるシド&マーティ・クロフトが関わっているからであるわけだが、クリエイター自らが陣頭指揮を執って、旧作のタイトルもそのままに、パロディ仕立てのリメイク劇場版を作るというひねくれ具合が面白いところだと思う。

さて、お話のほうであるが、邦題タイトルで想起されるような、「タイムトラベルで恐竜時代にいく」という話ではないし、「恐竜を現代に連れてきて遊園地で見世物にする」話でもない。次元の裂け目から、恐竜や類人猿、トカゲ人が跋扈する別の世界に迷い込んでしまったおとぼけ科学者ご一行の、すっとこどっこいな冒険談である。まあ、冒険といったところでたいした冒険ではなく、類人猿をお供にし、恐竜に追われ、トカゲ人に襲われ、麻薬でハイになるといった程度のことではある。

映画の基本がパロディであることから、チープで安っぽいTV版の雰囲気をそのまま再現することに主眼があり、特撮も敢えてローテクっぽく、着ぐるみはあくまで着ぐるみらしく、作り物は敢えて作り物らしいというのが基本線である。つまり、その情けなさが笑いのネタになっている、ということだ。こんな安っぽく見えるものにビッグ・バジェットを投じて熱を上げるという太っ腹には感心せざるをえまい。チープさが基調のビジュアルのなかで、CGIで描かれる恐竜だけは何故だか妙に気合が入った出来栄えで、邦題についつい「恐竜」と入れたくなった心情も理解できるところである。恐竜のできがよいがゆえに他の部分の安っぽさが際立っているようにも思う。

映画のノリはウィル・フェレルの芸風にあわせたものである。この人の笑いは昔でいえばチェビー・チェイスあたりのそれに近いようにも思うのだが、まあ、はっきりいって面白いんだか面白くないんだかわからないところもあって、脚本や演出でその芸風を活かしきれるかどうかで出来が左右する部分が大きいのである。そんな意味で、今回の敗因は、この男の芸風と監督との相性ではないかと思う。そもそもブラッド・シルバーリングという人はコメディ畑の人ではないから、面白いコメディアンの芸をそのままカメラに収めれば、面白いに違いない、とでも思っているに違いない。本当はこういう企画なんか、例えば、かつてのジョン・ランディスのようなコメディの呼吸がわかる監督が手がけていれば、爆笑必至の仕上がりだっただろうと思うのだが、どうだろう。

Crank : High Voltage

アドレナリン:ハイ・ボルテージ(☆☆)


結果としてということだとは思うのだが、90年代を沸かせたアクションスターたちがどんどん失速し、ビデオ・ストレートなゴミ映画でお茶を濁ようになったなか、00年代を代表するB級アクション映画の顔といえば、ジェイソン・ステイサム、なのである。今年はつい先日公開された『トランスポーター』シリーズ最新作とあわせてときならぬステイサム祭り状態だ。あちらではアウトローながらスタイリッシュなヒーローを演じ、こちらではその悪人顔を活かした過激な殺し屋を演じてみせている。まあ、どんなに演技をしてみせたって、ジェイソン・ステイサムはジェイソン・ステイサムにしか見えないあたりも「アクションスター」らしくて素敵だ。

さて、本作は『アドレナリン』こと「CRANK」の続編。前作では妙な薬を打たれたせいでアドレナリンの分泌を一定レベル以上に保たないと死んでしまうというバカ設定でテンション高く押し切ったわけだが、今度は移植用に心臓を盗まれた上、代替の人工心臓が止まらぬように充電し続けなければ死んでしまうという、前作を軽く凌駕する無茶な設定である。そんなわけで、今回は「アドレナリン」とは関係ないストーリーだが、邦題は便宜上「アドレナリン」だ。まあ、テンションが高く、観客のアドレナリン分泌を促す映画、ということで、そんなに違和感もないか。人工心臓を止めないために車のバッテリーや高圧電流で充電をしようとする、絶対にまねしたくない数々のシーンにおけるビジュアル的インパクトは凄い。ステイサムの狂気を漂わせた悪ノリ演技も最高である。

前作に引き続き、マーク・ネヴェルダイン&ブライアン・テイラーの共同監督である。エッジが立っているというよりは洗練されておらず荒削り、どこかからの臆面もないイタダキのパッチワークで成立している映像スタイルがB級らしさを際立たせている。正直なところ、アイディアそのものが面白いのであるから、ここまでチャカチャカ落ち着きのない映像にしなくてもよいと思うのだが、当世、これくらいやらないと刺激が足りないとでも思っているのであろう。

また、エロ・グロ・ナンセンスというのか、下品というのか、このシリーズの売り物は、MPAAのレイティングなぞどこ吹く風とばかりに過激な描写にリミットを設けない姿勢、不良性感度の高さである。主人公を初めとして主要な登場人物はみんな何がしかの悪党であるから、周囲の人々を巻き添えにしようが何をしようがお構いなしで、簡単に人が死ぬし、残虐な描写も多い。こういうのを不謹慎だと思ったり、眉をひそめる向きにはとてもじゃないがお勧めできない作品である。ことに今回は、どこかで完全にリミッターを振り切ってしまったような描写が延々と続くので、メインストリームの観客に向けたエンターテインメントとしてはいささかバランスが悪いといえるだろう。前作にも増してキワモノ感が漂う仕上がりであるといっておく。

9/28/2009

Nonchan Noriben (のんちゃんのり弁)

のんちゃんのり弁(☆☆)


まあその、なんだ。まじめで誠実につくられたオーソドックスなコメディだとは思う。聞けば、95年~98年連載で未完におわったマンガが原作で、1997年・98年に昼ドラ枠でTVドラマになっているという。

緒方明監督による本作に関する最大の謎は、この企画をなぜ、2009年の今、改めて劇場映画にしなくてはならないのかがさっぱりわからないことである。経済的に厳しい環境の中で、女性の自立だ、頑張る女性への応援歌だ、という意図なのかもしれないが、古いマンガを持ち出してこなければならないあたりに、原作なしのオリジナル脚本ではお金が集めにくいという事情が透けて見える、というべきなのか。

さて、これは、「30代の子持ち女性がダメ亭主と別れて再出発をしようとする話」である。手に職もなく、就職口もみつからない主人公が弁当屋を開こうと思い立ち、まずは居酒屋の弟子として料理修行に勤しむようになる。映画のタイトルから、「一人の女性が弁当屋を開業し、起動にのせるまでの奮闘期」のようなものを想像していると、ちょっと肩透かしを食う。

弁当屋をやろうと思い至るまでにふらふら、思い至ってからもふらふら。元亭主とのドタバタや、かつての同級生との恋愛模様がぐだぐだと続き、クライマックスは元亭主との乱闘騒ぎ。映画の中での「弁当屋」の扱いは、単なる添え物にすぎないと感じる。映画の最初のほうで、主人公が作る弁当をアニメーションで解説してみせたりするが、そこまでするなら、徹頭徹尾、主人公と弁当に焦点を当てるべきではなかったか。もっと主人公の弁当に対する思い入れや工夫、好きでやっていたことをビジネスにしていく上での壁や葛藤などを描いたら新味があったように思う。

主演の小西真奈美は相変わらずの人形のような童顔で、突拍子もない主人公をいきいきと演じていて、コメディエンヌとして頑張っているとは思うのだが、これは演じているキャラクターの問題かもしれないのだが、どこか一本調子でイライラする。母親役の賠償美津子や、居酒屋の主人役の岸部一徳は、そりゃ、巧いにきまっているのだが、あまりに予定調和。はまりすぎるのも退屈だというのがなかなか難しい。

7/20/2009

Harry Potter and the Half Blood Prince

ハリー・ポッターと謎のプリンス(☆☆)

昨年は『ダークナイト』の超特大ヒットで十分に潤ったワーナーブラザーズが、脚本家ストの影響で弱くなった翌夏のラインナップを補強したいという身勝手なビジネス上の理由のみで公開を先送りにされ、ファンをイライラさせたシリーズ最新作である。

考えてみれば、これは原作が完結したあと最初にリリースされた映画版、ということになる。もちろん、製作準備はは完結巻の発売前から始まっているとはいえ、原作者とのやり取りなどを通じ、最終巻の展開を踏まえた脚色が可能だった最初の作品、ということになる。また、前作からシリーズの舵取りを託されたデイヴィッド・イェーツ監督は、完結巻2部作も引き続き手掛けることが確定しており、その意味においても続く2本の作品を見据えた構成を念頭に置いたことであろう。

普通なら、そういう要素は作品に対してプラスに作用しそうなものだと思う。だいたい、これまでの作品はどこを刈り込んだら良いのか判断が難しく、メリハリの乏しい総花的な動く挿絵集(1, 2) になるか、細部の豊かさや楽しいところを全部刈り込んでしまいその巻のメインプロットをこなすだけのやせ細った凡作(3, 5)になるかのどちらかになっていたし、逆に言えば、観客としてもそれ以上のものを要求しようとは思いもしなかったところがある。ある意味で、今回はそれを脱却する上でまたとない、恵まれた状況にあるはずなのである。しかし、その結果は、残念ながらマイナスに働いている、としか思えない。

本作を1本の作品としてある程度の独立性を重んじるのであれば、本来、タイトルにもなっている「謎のプリンス」にまつわるプロットを中心に置くべきであろうが、この作り手はそれを本筋とは離れた「脇道」と考えたのか、その扱いが非常に軽いものにした。当然というべきか、必然というべきか、1本の作品としての軸を失った本作は、本当のクライマックスを前にして今しか挿入のタイミングがないに違いない「能天気な学園恋愛コメディ」と、最終2部作への伏線でしかない不穏でダークな前振りが分裂症気味に同居するまとまりのない作品になってしまっている。もともと派手な見せ場を欠くのがこの巻の特徴ではあるが、やり方次第でクライマックスはもっと派手に盛り上げられたはず。しかし、最終2部作との住み分けを踏まえてのことか、スケール感に乏しい地味な展開に終始するばかりだからフラストレーションが溜まる。まあ、想像した範疇とはいえると思うのだが、本作は結局のところ、地味な中継ぎというのか、次回作に向けた壮大な予告編という存在から一歩たりとも逸脱しようとしないのである。これでは、さすがに退屈だ。

主演の少年・少女俳優たちは立派な若者へと成長し、最終2部作への準備も整ったな、と思わせるものがある。華やかな英国名優辞典と化したシリーズではあるが、今回はジム・ブロードベントが加わって怪演を披露、確かに、毎度毎度のゲスト・キャラクターの存在は、シリーズに新鮮味をもたらす効果があることを再確認できた。一方、少年・少女の成長に合わせて(当たり前のことであるが)レギュラー陣の疲れと老化が目立ってきており、まあ、無理のないいい具合のところで完結を迎えることができるかどうか、あと少し、キャストの無事と健康を祈りたい。