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9/17/2011

Battle: Los Angels

世界侵略:ロサンゼルス決戦(☆☆★)

映画の冒頭で "World Invasion: Battle Los Angels"とタイトルが出るのは、これが世界公開タイトルということ?

異星人の同時攻撃によって世界の主要都市が次々に陥落。LAでは主導権を取り戻すための空爆が計画され、空爆エリア内に取り残された民間人の保護を命じられた海兵隊の一部隊が、困難な状況で奮闘する話である。大きな事件を俯瞰的な視点ではなく、ミクロ視点で描く昨今の流行に則った作りの「戦場映画」である。主人公らの部隊の活躍により、反転攻勢への糸口をつかんだところで映画の幕が閉じる。

かなり、FPS(ファースト・パーソン・シューティング)のゲームのような雰囲気の映画である。ミクロ視点に寄せるとは、究極のところは主人公なりなんなりの主観映像になるということだろう。それはそれでよいのだが、同時に、自分たちがどういう状況に置かれているのかという俯瞰マップを用意する親切さがあれば、ゲームとしてはプレイしやすくなるだろうし、映画としてはサスペンスを醸成し、より効果的に、ドラマティックに物語を語ることができただろう。

物語としては、海兵隊の主人公らが警察署に残された民間人を救出、空爆予定エリアの外に脱出し、前線基地に辿り着くというミッションを軸に物語が構成されている。こういう話は、それぞれポイントのなる場所の位置関係を上手に示し、観客の頭の中に地図を作ってしまうことが重要だ。空爆エリアがどこで、主人公らの現在地がどこで、警察署がどこにあり、空爆エリア脱出のためにどういうルートでどこに向かう必要があり、前線基地がどこにあるのか。そういったことである。

この映画では、作戦開始前に空爆エリアや他の部隊の展開場所などを説明する地図が短時間画面に映るので、作り手がこうしたことを全く考えていなかったわけではないと思われる。が、それ以降、観客と位置関係をシェアできるような演出はほとんど存在しない。

そうはいっても、民間人が同じビルのなかで右往左往するだけだった『スカイライン 征服』に比べるとはるかに「映画」としての骨格がしっかりしているので、単調だと入っても見ていられる。まさかこういう映画で主役を張るとは予想外だった『サンキュー(for)・スモーキング』、『ダーク・ナイト』のアーロン・エッカートが、現場叩き上げの指揮官を熱演し、海兵隊宣伝映画としては十二分に役割を果たしている。

3/12/2011

Wing Commander

ウィング・コマンダー(★)

しまったー!予告編を見た時からそこに漂う地雷臭は明らかだったのに、宇宙空間を舞台に壮大なストーリーと戦闘が繰り広げられるっていうから、ついつい釣られて映画館に足を運んでしまったじゃないか!

これがまあ、ひたすら退屈な、3時間くらいに感じられる1時間40分。

この映画、ビデオゲームの大ヒット作、『ウイング・コマンダー』シリーズの映画化なんだそうですよ。当方、ゲームはやらないので遠くで噂に聞く程度の名前だったんだが、マーク・ハミル(ルーク・スカイウォーカー!)らが出演する実写映像がふんだんに盛り込まれて、一種、インタラクティブ・ムービーみないになっているんだそうだ。

それがSW復活でSF映画が盛り上がるこの時期に、劇場用映画として登場することになったという次第。ゲーム版の実写部分で監督を務めていたクリス・ロバーツが原案を提供し、監督。脚本は(同じくゲームの映画化である)『モータル・コンバット』のケヴィン・ドローニー。テーマ曲のみだが、デヴィッド・アーノルドが作曲。

ここのところハイスクールもので活躍中のフレディ・プリンゼJrやマシュー・リラードに、フロン・バロウズらの若手に加え、チャッキー・カリョ、デヴィッド・ワーナーらのベテランが出演しているっていうから、それなりの作品になるのかなぁ、と。

でも、映画を見て思った。これは、ゲーム界の人間の「ストーリー・テリング」なんて、所詮はこんなものと陰口を叩かれるために作られた作品に違いない。陰謀だ、そうだ、きっとそうなんだ。

よく見てみれば、配給はフォックスなんだけど、製作母体はゲーム製作元をはじめとした独立系。それゆえか、あちこちに貧乏臭さが出ていて、見ていて悲しくなってくる。

世界観を決めるさまざまな設定にせよ、衣装やメカニック、小道具のデザインにせよ、敵であるエイリアン・クリーチャーの見てくれにせよ、全てのイメージがどこかの借り物。しかも、VFXはやっつけ仕事。いや、元々のゲームがオリジナリティのかけらもなく「借り物」イメージの集合体だったんだろうと思うんだ。しかし、映画館のスクリーンで見せるレベルじゃないだろ、これ。

予算がないならないで、それを逆手に取った見せ方の一つや二つあってもいいのに、それもない。

そもそもストーリーがつまらない。ストーリーがあったというのならの話だが。ドラマも何もなく、緩急も何もなく、ただただ戦闘シーンがメリハリもなく続いていくだけなんだよね。あ、ゲームなんだから当たり前か。くだらなさをあげつらって楽しむには、真面目すぎ。作り手の意図しないところでトンデモ映画になっているわけでもなし。

そりゃ、SW前に投げ捨て公開もするわけだ。その後じゃ、誰も見向きもするまいて。元ネタのゲーム好き意外、近寄らないことをおすすめする。

2/11/2011

The Wall Street: Money Never Sleeps

ウォール・ストリート(☆☆★)

『ウォール街』の続編である。が、同じ雰囲気の作品ではない。いや、もっといえば、これはまるっきり違う構造を持った作品である。同じなのはマイケル・ダグラス演ずる懲りない悪役ゴードン・ゲッコーとトーキングヘッズの曲(エンディング)くらいなものだ。

前作は、「一人の野心的な若者の成功と挫折」としての普遍的なドラマのかたちを借りていた。その上で、市場参加者の一人としての架空の人物とそのインサイダー取引を例示しながら、より大きなもの=時代を描出する作品であった。そして、そのことが製作された80年代半ばの「旬」を感じさせる臨場感につながっていた。

今回はどうか。

ここではマイケル・ダグラスの演じるゴードン・ゲッコーというキャラクターをダシにしているが、前作と逆に、ある程度認知された大きな「システム」の姿とそのカラクリの構図を描くことが先にあるのではないか。そして、複雑な現実を分かり易く単純化するために、それらしい架空の登場人物が配置され、それらしい架空の事件が設定されている。まず、そこが大きな違いであるように思う。

もちろん広い意味でいうなら、「今という時代」を描く映画であり、アメリカの現代史の一断面を描き続けるオリバー・ストーンらしい作品の系譜につらなるものではある。しかし、現在進行形の何かを描いているのではなく、すでに「過去」となった出来事を観察してみせる映画であるということが、前作との決定的な差異であろう。現代を描いていながら、今を描いた映画ではないと感じさせる微妙に劣化した鮮度の問題は、本作の発する熱量の低さにも繋がっている。

その2つの意味において、前作の再現を望んだ観客の期待は裏切られている。前作視点で言えば、本作は「あの魅力的だったキャラクターが、現実に起こったこの10年のイベントをどう理解し、彼なりの立ち位置でどう生き抜くのか」という後日談でしかない。いってみれば、前作の出涸らしだ。演出や映像スタイルも、前作との連続性を重視したのか、一時代前的な古さすら感じさせる。

比較に意味があるかどうか分からないが、同じ00年代を舞台に、大量の投資マネーが流れ込んだ先で起こっていた熱狂(のひとつ)を題材とした『ソーシャル・ネットワーク』のほうが、前作の持っていたのと同種の「熱」を発している。個を描くことで時代を描くという立ち位置も同様。もっといえば、映画のスタイルとしても今を感じさせる刺激があり、別の角度からとはいえ、金融の現代的ダイナミックさを描出することすらできていた。

まあ、そのあたりが、本作の印象を平凡なものにしている理由であるし、前作のファンからもあまり良い評価を得られない理由に違いない。

本作で語られている教訓は、結局のところ「金と欲だけではない"Priceless"なものがある」という、手垢のついた当たり前の話である。ただ同時に、それ以外は結局全て人間を突き動かしているのは「金と欲」であって、愚かな人類は同じことを繰り返しているのだとも語られている。新しく台頭してきている世代の、これまでと少し違った価値観の萌芽も描かれているが、オリバー・ストーンはそこに過度の期待を見い出しているわけでもなさそうに見える。シニカルではあるが、そういう少し煮え切らないところが本作からカタルシスを奪ってしまっている。

9/11/2009

X-Men Origins: Wolverline

X-Men Zero ウルヴァリン(☆☆★)


ヒーロー・チームの活躍を描く『X-Men』 劇場版シリーズ3部作からのスピンオフ第1弾。映画版で中心的なキャラクターとして描かれた人気者、「ウルヴァリン」を主役に、過去に遡ってキャラクターの生い立ちを語るものである。で、原題には "Origins"、おそらく、Origins シリーズとして、他のキャラクターたちの1本立ち企画も進めていることであろう。

新展開を成功させるべく、監督には『ツォツィ』のギャビン・フッド、脚本には『25時』や『君のためなら千回でも』のデイヴィッド・ベニオフを迎えるという、かなり野心的といえる布陣には驚かされた。このメンバーであれば『X-Men』シリーズ屈指の人気者が背負った運命をドラマティックに語ることができると踏んだのだろう。皿の上には魅力的なドラマの材料がふんだんにのっている。強力な治癒能力により不死に近い体を持つ男。同様の運命を持った兄との確執。恋人との束の間の休息と、彼女の死。軍の人体実験と、アダマンチウム合金の骨格の謎。主演で、今回はプロデューサーも兼務する売れっ子ヒュー・ジャックマンは益々格好良くなってきたし、その兄にキャストされ、ヒュー・ジャックマンと因縁の対決を繰り広げることになるリーヴ・シュレイバーもいい役者だ。

しかし、邦題にくっついた「Zero」が端的に示すように、本作はいわゆる「エピソード1」ものの一種である。「エピソード1」ものの火付け役でもあったあの『スター・ウォーズ』の新三部作がそうであったように、既存作品で描かれたできごととの整合性を図る必要性からくる窮屈さであったり、先の出来事がわかっているが故のドラマ作りの難しさであったりという困難を抱えているのがこの手の作品の共通したところで、本作も例外ではない。悪の黒幕、ストライカーを殺すわけにはいかないし、主人公は記憶を、そしてすべてを失わなければならない。もちろん、さまざまなバージョンのコミックで語られたさまざまなバージョンのエピソードの最大公約数的なところとの整合性も気にした結果だろう、予定調和のエンディングに向かい、勿体付けとご都合主義、それにあまりに陳腐なエピソードが羅列されていく。そこにはなんら新鮮な驚きはない。

まあ、それが苦痛にならないのは、107分という、2時間をきった(当世では短めの)上映時間のおかげだろうか。人気シリーズの新作で金のかかった大作だからと気張るのではなく、どうあがいてみても軽い気晴らしの娯楽映画でしかないという事実を作り手が忘れていなかった、ということだろうか。むしろ、監督・脚本の人選からすれば、それは意外なことのように思われる。

黒幕ストライカーが主人公の次に作り出した怪物、「ウェポンXI」ことウェイド・ウィルソン(=デッドプール)は、映画シリーズとしては本作が初登場。せめてこやつくらいは完膚なきまでに叩きのめしてくれるのかと思えば、ありがちな「続編がありますよ」エンドがくっつくことで復活が予告される始末。なんでも、このキャラクターを使ったスピンオフの計画があるらしい。

6/13/2009

The Wrestler

レスラー(☆☆☆☆)


本作の主人公は、ローカルな会場での巡業で食いつなぐ80年代に栄光を極めた初老のプロレスラー、ランディ" the RAM" ロビンソンである。トレイラー・パークに一人暮らし、家賃の支払にもこと欠くなか、平日はスーパーで働き、週末には満身創痍の体に鞭を打つように巡業に出かける生活である。もちろん愛車は(自らのリング・ネームにかけて)クライスラーの「Dodge Ram」だ。家賃未払いで締め出されたときは車の中で一夜を明かす。ある日の試合後、控え室で心筋梗塞を起こした男は、心臓のバイパス手術を受けて一命を取り留める。いつ復帰できるかと尋ねる男に、医師は引退を勧告するのだった。いったんは普通の生活をしようと試みるが、元来プロレス以外の世界を知らない不器用な男だ。結局最後は自らの命も顧みず、そこで死ぬのが本望とばかりに観客の歓声響くマットの上に戻っていく、そういうという話である。筋立てだけをなぞるなら、やくざ映画などで何度も繰り返されてきた定番中の定番だといえるだろう。そんな話が、(WWEのような上場企業が主催するド派手なイベントとは天と地ほどに異なる)うらびれた地方巡業のプロレスを舞台にして語られていく。

プロレスは「ショウ」だ。中でも米国のそれは過剰なほどに肉体を酷使する「ショウ・ビジネス」である。そこにはキャラクターがいて、筋書きがあり、演出がある。だからといってそれを演じてみせるレスラーたちの肉体的過酷さが和らぐというものでもない。むしろ、観客を熱狂させるためなら何でもありの世界だからこその、目を背けたくなるような厳しさがそこにある。本作のみどころのひとつは、そんなプロレスの舞台裏を飾ることなく切り取って見せるところにある。この映画には、主人公と同じような境遇の、傷だらけ、薬漬けの男たちが登場する。いつか成功を掴むことを夢見た若者たちも登場する。いかにショウを盛り上げ、観客を熱狂させるか試合の流れやキメ技を打ち合わせ、凶器に使う小道具を探しにハードウェア・ストアに足を運び、リングの上では建築用の大型ホチキスを体に打ち付けたり、仕込んでおいた剃刀の刃で流血を演出したりする。痛々しくもあるが、あまりに真剣であるがゆえのそこはかとない可笑しさに片目を塞ぎつつも笑ってしまう、そんな不思議にユルい世界がつづられていく。そんな世界と、そこに生きている人間の姿が誇張なしに描かれていく。

そう、これはフィクションだし、そこにいるのは役者であるし、どのシーンをひとつとっても狙い通りに撮るための「演出」が介在しているのは分かっているつもりである。しかし、この映画を見ていると、実在する人間たちの現実の姿を、(演出などというものを抜きにして)ただそのままカメラで切り取ってみせているのではないかという錯覚を覚えてしまう。これはいわゆるニセ・ドキュメントである「モキュメンタリー」スタイルの作品ではない。それに、手持ちカメラで撮影対象に後ろから迫っていくような特徴的なスタイルが印象的だからといって「ドキュメンタリー・タッチ」などという安易な言葉で括ってしまうことには激しく抵抗を覚える。しかし、かつて、『Requiem for a Dream』の超絶的なモンタージュに代表されるような、突き抜けて技巧的な作品作りで名声を得たダーレン・アロノフスキー監督が、かくも斯様なスタイルで作品を完成させたという事実に驚きを禁じえない。技巧や小細工を配してキャラクターの内面に深く入り込んでいく静かな気迫。例えるなら、サム・ライミが得意な大技・小技を抑制して『シンプル・プラン』を撮ってみせたときの驚きと同様の衝撃である。この人が、こんな成熟した映画を撮れるとは創造だにしなかった。

もちろん、本作を忘れ得ない作品にしているのは世界中で賞賛を集めたミッキー・ロークであることに異論はない。90年台以降も、コッポラ、スタローン、ロドリゲス、トニー・スコットらが脇役や悪役として彼を起用した作品を見てきたし、それらの作品での曲者ぶりや独特の存在感を知っているつもりであるから、今更「カムバック」だなどというつもりはない。が、久々の主演作であるのは間違いない。それに、スタジオから違う役者の起用を強く要求されながらもロークのキャスティングにこだわりぬいて見せた監督を意気に感じたのもそうだろう。体重を大幅に増やし、正にロートルのプロレスラーといった肉体を作り上げ、その圧倒的な身体性をもって「ランディ"The RAM" ロビンソン」というキャラクターを作り上げたロークの入魂の演技は、もはや演技を超えたところで神々しく輝いているかのようである。80年代に絶頂を極めた男がその後に辿った挫折と艱難辛苦は、この役柄の中に確かに結実している。演出のタッチと相まって、現実と虚構の壁が取り払われた魔法のような時間を、我々観客はスクリーンのこちら側で共有することができるのである。この「経験」を幸福といわずしてなんといおうか。

陰鬱であるがユニークなユーモアのセンスをもった映画のなかで、印象に残る美しいシーンが2つある。ひとつは、主人公と疎遠になっていた娘とが海岸沿いのボードウォークを歩くシーンである。もうひとつは、主人公とストリップ・ダンサーが心の距離を縮め、昼間のバーで過ごすひとときだ。いずれも映画の中盤に用意された、主人公の人生にかすかな希望を感じさせるシーンだが、いずれも束の間の喜びに終わるこことが運命付けられたかのような悲しみにも満ちている。それぞれのシーンで、主人公に寄り添うのがエヴァン・レイチェル・ウッドとマリサ・トメイだ。ミッキー・ロークへの賞賛の影で忘れてはならないのは、脇をしっかりと固めた助演女優たちである。

父親に対する愛憎に切り裂かれた心の痛みを好演しているエヴァン・レイチェル・ウッドが昨今の成長株であることはご存知の通りだが、なんといっても、主人公が心を寄せるストリップ・ダンサーを演じたマリサ・トメイがすごいのだ。マリサ・トメイといえば、まだ若いときに(日本では冷遇されたコメディ)『いとこのビニー(1992)』の演技でアカデミー賞を獲ってしまったはよいが、その後、鳴かず飛ばずで年齢を重ねてしまった不遇のひとだと思っている。アカデミーの助演女優賞は、ぽっと出のフレッシュな女優に今後の期待を込めて送られるケースが良くあるのだが、彼女なぞはその典型といえよう。アイドル的コメディエンヌから脱皮を試み、演技面では地味ながらじわじわと評価を高めてきた44歳の彼女が肌も露に演ずるのは、9歳になる息子がいることを隠し、場末のストリップ・クラブで踊る日陰のシングル・マザーである。仕事とプライベートを厳格に分けることで毎日に折り合いをつけている、そんな彼女を、単なる「都合の良い女」ではなく、リアリティのある一人の人間として描いた脚本も素晴らしいが、このキャラクターに深い人間味を与えたトメイの演技もまた、ミッキー・ロークに負けるものではないと思う。

奇しくも本作の日本公開の初日となる2009年6月13日(土)、日本のベテラン・プロレスラーが試合の途中、ファンの歓声の中で命を落とすという「事故」があったことが報じられた。私は体の大きな男たちが裸でぶつかりあい、血を流す姿をエンターテインメントとして楽しむという趣味を持ち合わせてはいないから余計にそう思うのだが、ファンの歓声もまた、因果で残酷なものだ。熱狂する観客の前で、自らの命を差し出してみせかのようにトップロープに登り、ポーズを決め、ファン待望の大技「Ram Jam」を決めるため、限界を超えた心臓を抱きながら宙に舞うミッキー・ローク=ランディ・ロビンソンの姿は、どこか殉教者のような美しさに満ちていた。それまで技巧らしい技巧を抑えに抑えてきた映画は、この大舞台における最高の一瞬を切り取るために、ここぞとばかりのショットと編集を繰り出してみせる。直後、画面の暗転が意味するところは単に映画の終わりを意味するだけのものではない。

5/16/2009

W.

ブッシュ(☆☆★)


原題の「W.」は、アメリカ合衆国第43代大統領の、ミドルネーム(ウォーカー)である。Jr. と呼ばれるのを嫌がる彼を、周囲が W. と呼ぶ。父親はジョージ.H.W.ブッシュ。第41代大統領である。

この映画は、有名人ものまねそっくりさんショウなのか。否。豪華俳優を起用した安っぽいお笑い再現ドラマか、SNLのスケッチを拡大したものなのか。否。この映画は、いや、オリバー・ストーンは、そうなり得たかもしれない非常に危険な可能性を微妙なラインで避けて通り、普遍的なドラマを構築して見せるのである。ジョージW.ブッシュという男の冗談みたいに面白い馬鹿発言や間抜け面は、ほんの一部(プレッツェルをのどに詰まらせるとか、Fool me once... の件とか)を除いて巧妙に避けられている。そちら方面の期待をしていた観客にとっては拍子抜けだろうが、考えてみれば、これもまた、必然だろう。現実がコメディを超えてしまった以上、いまさらその現実を模写してもしかたがないということだ。大統領になるべき資質など、何一つ持ち合わせていなかった男が、なぜに大統領になってしまったのか。オリバー・ストーンは、その「謎」の背景を「父親」と「息子」の葛藤という観点で切り取ることを選んだ。政治の裏側ではなく、人間としてのW.の半生を悲喜劇として描き出すのがこの作品である。邦題、『W.の悲劇』にすればよかったのに。

まあ、驚かされるのは、極めて芸達者な役者たちが集められたキャスティングである。絶好調のジョッシュ・ブローリンは、W. 本人に似ているとは言いがたい要望ながら、そのしゃべり方、その動き方を巧妙に模倣しつつ、この男の内面を浮き彫りにしていく好演である。ディック・チェイニーの腹黒さを見せるリチャード・ドレイファスや、政権の頭脳として暗躍するカール・ローブを演じたトビー・ジョーンズあたりは、実に嬉しそうに、濃厚に役を演じている。会議で一番まともで知的な発言をしているのに、黙殺され居場所を失っていくパウエルの孤独を演じたジェフリー・ライトも地味ながらいい。彼らに比べると割を食ったのが二人。ひとりは、せっかくの美貌をわざと台無しにしてライスを演じるタンディ・ニュートンで、まあ、SNLのスケッチの延長線上にある大げさなカリカチュアになってしまっている。もう一人はスコット・グレンだ。大好きなベテラン俳優だが、ラムズフェルドの下品さ、ねちっこさ、老獪さを出し切れていない。

しかし、これだけ役者をそろえているのは、単なる物マネ大会にはしないという確固たる意思の現れであろう。だが、W. 本人はともかくとして、W. をいいように利用する政権幹部たちは、本作においては単なる賑やかしに過ぎない、といってもいい。ドラマの根幹は、あくまでW. とその父親(パピー)であるH.W.にある。戦争に勝利し、スキャンダルにまみれたわけでもなかったのに4年間でホワイトハウスを去ることとなった合衆国第41代大統領、ジョージH.W.ブッシュ。政権幹部のキャスティングも豪華だが、ドラマの鍵を握るH.W. にジェームズ・クロムウェルを充てるというキャスティングが実に効いている。お世辞にも似ているとはいえない。しかし、映像などで伝わってくるH.W.のイメージを超えて、佇まいからしてずっと高潔で威厳を感じさせる演技を見せてくれる。野球好きで仕事も続かぬアル中のダメ息子たる「W.」にとってのプレッシャーや葛藤の源泉であることが、画面を見ただけで一瞬のうちに了解できるところが素晴らしいのだ。

偉大な父親、優秀な弟に囲まれ、何をやってもやり遂げることのできないダメ息子の葛藤。父親に変わるより大きな父親像を求めて「神」に傾倒し、宗教的に生まれ変わった(born again)と信じ、神の啓示があったと信じて大統領選に打って出た男は、周囲の腹黒い人間たちに利用されつつ、父親の仇敵と信じるフセイン打倒に執念を燃やしていく。一方で、最後まで父親からの愛と承認、尊敬を勝ち得ることができないという思いは消え去ることがない。プロ野球チームのオーナーで終わっていてくれたら世界がもっと幸せでいられたかもしれない男。この映画は、そんな男の内面のドラマを丁寧につむぎだしていき、それなりの見応えがある。ただ、明白な欠点としていえるのは、エンディングの弱さであろう。大統領選挙戦に間に合わせることを優先して完成を急いだ結果、ここには、8年の任期を振り返って「楽しかった」とコメントをするW.も、イラクで靴を投げられるW.も登場しない。要するに、ドラマを象徴的に締めくくるのに相応しいエピソードを欠いたまま、中途半端に幕を閉じてしまうのである。しかも、2期目の選挙を控えたタイミングでリリースされた『華氏911』と違い、政治的にも何のインパクトも持ち得なかった。映画の製作と公開のタイミングを誤ったことが本作の興行的、批評的な失敗だけでなく、内容的な弱さにもつながってしまっているのである。本作の判断ミスがあるとすれば、そこのところに他ならない。

3/28/2009

Watchmen

ウォッチメン(☆☆☆)


あちこちで「解説」されている原作のインパクト、アメコミ史における意義やオリジナリティ、その評価については割愛することにしよう。原作者、アラン・ムーアについても同様。私よりも詳しい人間がいくらでもいることだしね。しかし、それを抜きにしては語りようのない作品であること、そこに本作の作品としてのポイントがあることは間違いがない。

思い出してみると、さまざまな監督が本作の映画化にむけた意欲をかたり、さまざまな理由でプロジェクトから去っていった。80年代を代表する、「アメコミ」の歴史に残る『ウォッチメン』という作品の映画化は、実現されることのないプロジェクトだと思っていた。こうして映画化され、公開されるにいたる困難さを思えば、もっと高く評価すべきなのかもしれない。しかし、「原作に忠実」に作られたというこの作品、その忠実さゆえに熱狂すべきなのだろう。しかし、単独の映画としてどうか、原作に忠実であるがゆえに優れた映画足り得ているのか、というのは、また別の問題であるように思う。たとえば、『ハリー・ポッター』の映画シリーズの存在価値が、原作に対しての動く挿絵集としてのそれであるとするなら、本作の価値もその程度でしかないのではないか、という気がするのである。逆の立場で言えば、そもそも歴史的に重要な作品であるところの原作の映画化作品を論じるのに、映画単独としてみてどうなのか、という視点そのものが意味を成すものではないのかもしれない。そして、もしそうであるとすれば、映画としての『ウォッチメン』について、映画好きの立場からどうこういうのは筋違いということになってしまう。

それはともかく。無理を承知で言うならば、本作は80年代にリアルタイムで作られていて欲しかったと思うのである。ベルリンの壁の崩壊や、ソビエト連邦の瓦解の前に作られていたら、この作品は映画としての存在価値も大きいものになったのではないかと思う。21世紀のいま、客観的な目でこの作品を見ると、それこそ、歴史上の重要作品に動く挿絵をつけてみました、ということでしかないのは明白であろう。この作品の舞台が、冷戦が頂点に達し、米ソの全面核戦争が現実味を帯び、人類の行く末がこの上もなく暗いものに思われた時代の気分を色濃く反映させたもうひとつのリアリティ、もうひとつの可能性に置かれている以上、それは現代を生きる我々にとっては過去の出来事に過ぎないのである。今の世界が抱えた憂鬱と恐怖は、本作が描く世界の延長線上にはない。従って、本作はビジネス的、技術的、その他もろもろの「大人の理由」を除けば、いま作られ、公開される必要というか、必然性は全く感じられない。

原作の熱狂的なファンを自認するこの映画の作り手は、ファンである以上なおのこと、そんなことは先刻承知に違いないのである。しかし、原作のファンであるがゆえ、たとえば、911後の世界情勢を反映させるといった作品世界の改変は許されるべきではないと思ったのだろうし、あるいは、いかにも映画らしい単純化もまた避けるべきだと考えたのだろう。それを「熱狂的ファン」ゆえの節度と呼ぶならそうなのだろうし、それこそが本作を、結果としてなのかもしれないが、「動く挿絵」、すなわち、原作に対する従属的な2次創作物とでもいうようなものにせしめた理由であろう。おそらく、精一杯の愛情と技術を注いで作られたであろう本作は、映像的に見栄えのする暴力やセックス、SF的意匠を監督、ザック・スナイダーの力業と美術スタッフのセンスで膨らませ、「動く挿絵」としての高い価値を実現しているのである。そのことについてはなんの異存もない。

しかし、長い原作から本筋に影響を与えないエピソードを割愛するかたちで構成された脚本は、1本の映画としてはどことなく平板で、物語としてのバランスも悪い。ミスリーディングを意図した脇道や、キャラクターや作品世界を説明するための段取りも、原作通りが必ずしも効果的というわけではあるまい。あれもこれも詰め込んで、タメも余韻もなにもなく次へ次へと進めていく語りにも、160分を超える長尺でありながらもせわしなく、余裕がない印象をうける。一般に名前の知れた俳優がビリー・クラダップ程度というキャスティングも、原作の雰囲気を再現することが最優先の英断というべきなのかもしれないが、地味すぎて華が欠けているのもまた事実。もちろん、キャラクターこそが重要であって、それを演じる役者が前に出てしまっては困るという考えも理解はできる。しかし、これだけの長尺を支えるにはもう少し吸引力のある俳優がいてもよいだろう。そういうことを考えていると、12章に分かれた原作本編を、1篇=1時間くらいの続き物TVミニシリーズとして映像化したほうがお似合いだったのではないかという気がしてくるのだ。TVでは表現上の制約があるというのも過去の話で、プレミア・ケーブル局などの選択肢が増えた昨今、暴力を含めた表現上の幅はかなり広くなっているといってもいい。映画として、1本で完結させる方向で企画開発せざるを得ない事情はあったのだろうし、せっかくつくるならTVじゃなくて映画、という気持ちもあったに違いないとはいえ、改めて、内容と合致したフォーマットとは何なのか、真剣に考えてみることの重要性を思った。

そういえば、ハリーポッターのときも「映画よりTVシリーズのほうが向いているんじゃないか」と主張したんだっけ。。。ま、分厚い小説や続き物コミックで、内容を大きく再構成できないという制約を抱えているのであれば、案外、映画よりもTVの方が相性が良いのかもしれない。

12/06/2008

WALL*E

ウォーリー(☆☆☆☆★)

ホリデイシーズンを当て込んで発売され、届いてしまった北米版BDの誘惑に負けまいと、封を切らずにじっと耐えること数日。公開2日目の土曜日に劇場に馳せ参じた次第、これが期待に違わぬ「映画」であった。日本公開をかくも遅らせ映画好きをいらいらさせた以上は、きっちりヒットを飛ばして多くの観客が劇場で作品を楽しめるようにするのが配給会社の責務といえよう。

しかし、まさに「映画」、なのである。このルックス、このフィール。ことにほとんど台詞抜きで進行する映画の前半は、話には聞いていたとはいえ実際に目にすると見ているこちらまで言葉を失ってしまう完成度だ。廃棄物の山で摩天楼が築かれた廃墟の未来世界の圧倒的な説得力。そこでひとり黙々と「任務」をこなす(『E.T.』や『ショート・サーキット』の"ジョニー"こと"No.5"に似た)Wall*E の健気さ、孤独、そしてささやかな楽しみを動きや音で表現しきる演出力。さまざまなアイディア。ただのCG映像ではない。単に緻密なだけではない。映画としてどのように見せるべきか、どう語るべきか、何を語るべきか、検討しつくされた成果がそこにある。

Pixar の作品はいつでもいわゆる「アニメーション」作品であるまえに、「映画」として成立している。脚本を練りこむのに相当の時間とエネルギーを注ぎ込んでいることはよく知られたはなしだが、本作では実写映画の世界ではその名の知れた(コーエン兄弟の諸作品などを手がけている)撮影監督ロジャー・ディーキンスや、特撮のデニス・ミューレンをアドバイザーとして招き、実寸の模型を作り、照明のあてかたやレンズの選択による見え方の違い、「特撮要素」の効果的な見せ方に至るまで研究しつくし、検討しつくし、それを作品に反映させてきているという。先に、「単に緻密なだけではない」と書いたが、CGが精緻だから実写に見えるのではない、実写映画だったらどう見えるか、どう見せるかを精緻に再現しているから実写に見えるのだ。これには舌を巻くしかあるまい。2Dのトラディショナルな技法から3DCGアニメーションへと技術が革新された以上は、それに見合った新しい製作プロセスや考え方が必要だということを、誰よりも良く理解し、実践しているのがPixar だといえる。それは、他の追随を許さない作品の質において実証されている。

ストーリー面では、宇宙船内でのアドベンチャーに転ずる後半が評価の分かれ目であろうか。前半ほどのオリジナリティを獲得できていないとはいえ、どうしても突出しがちなSF的アイディアやメッセージ性を出来るだけ抑え込みつつ、昔ながらのスラップスティック的アニメの楽しさを職人的に再現してみせ、なかなか楽しい出来栄えではあるが、これを凡庸と感じる向きもあろう。Wall*Eと(西原理恵子の「いけちゃん」似な)EVEのラブ・ストーリーから逸脱しない筋の通し方も見事なら、反乱を起こすマシーン・AUTOの意匠的なオマージュにとどまるかと思われた『2001年宇宙の旅』が、突如、あの音楽が、あの瞬間に、人類の「進化」の象徴として鳴り響くという見事なアイディアには心から感服させられた。そして楽観的といわれようがなんといわれようが、この希望に満ちた結末は、こんなご時勢だからこそ感動的だといえるのではないか。それに続いてのエンドクレジットもまた、その後の物語、人類の進化というモチーフを補完する役割を果たしており秀逸だ。

9/13/2008

Wanted

ウォンテッド(☆☆☆★)

実のところ、それほど興行的ヒット作に恵まれているわけではないアンジェリーナ・ジョリーだが、本作が1億ドル越えのヒットとなって一安心といったところではないか。本作での彼女は、もしかしたら、過去のどの作品よりも、「観客が観たいと思うアンジー」になっている。まるであてがきをしたような役柄を格好良く演じておいしいところをかっさらっていくのだから、まあ、これで当たらなければ彼女のゴシップ価値はともかく、興行価値に疑問符がつくところだったかもしれない。しかし、続編ができたとして、どうやって出演するか、それが問題だ。何しろ、本作の主人公は彼女ではなく、ジェームズ・マカヴォイなのだから。いっそ、主人公のタナムスさんの出演しない前日譚とかにしちゃうのも手、かな。

さて、アクション新次元とか何とか、派手な口上とともに流された予告編の、奇天烈なアクション描写を見て、正直、期待したというよりは不安になったのが本作である。『マトリックス』の奇妙なアクション映像が成功したのは、変になっても当たり前の物理法則を超越した「仮想世界」という設定があってのことであり、その後のB級作品群は、映像表現だけ後付で真似をしたからそこには何の意味もなく、必然もない。だから、面白くない、あるいはお笑いになってしまったわけである。そういう意味で、現実世界で物理法則を無視する能力を持った殺し屋集団が、温泉に使って怪我を治癒しながら過激なバトルを繰り広げるという本作『ウォンテッド』は、強引な力技だ。その開き直りっぷりがあまりに堂々としているので、突拍子もないアクションもなんでも持ってこい、といったかんじに観客も大嘘に乗せられてしまうといった具合で、まあ、それもありかという気分になる。

カザフスタン出身であの(話が面白くないわけではないが、映画としてはいまひとつ雑で乗り切れない)『ナイトウォッチ』シリーズのティムール・ベクマンベドフとかいう監督の、ハリウッド・デビュー作にあたるわけだが、これまでの作品をみても、あんまり細かいことを気にするタイプじゃないのがいいほうに作用しているんではなかろうか。

もちろん、映画の手柄というよりは原作(コミック)によるものだと思うが、設定が面白い。歴史の影に姿を隠した秘密結社というか、殺し屋集団「フラタニティ」というのがある種の職能集団に根ざしており、織機の生み出す織物のランダムな目の乱れを天命を読み解き、暗殺ターゲットを決め、指令を出してきたなどというあたりの、ありそうでなさそうなトンデモ・アイディアの、なんと素敵なことか!指令を受けて実行する組織だと、そもそも指令を出す「権力」構造との関係に制約を受けてしまい、歴史を超越しようとするとどうしても陳腐な「陰謀」説もどきに堕してしまう。この映画の「フラタニティ」は、自立的な集団である。すなわち、指令を出すのは万能コンピュータ(=神)に相当する機械であり、「ご神託」が授けられ、組織内にそれを解釈する存在がいて、その解釈どおりに実行をする、というかたちをとっている。それゆえに、世俗権力や、世の宗教、他の(胡散臭い)秘密結社とは無縁でいられる。と、同時に、組織内部に自壊要因を抱えていることにもなる。これはなかなか秀逸なアイディアではあるまいか。

織機が織り出す「ご神託」を解釈する男、すなわち、組織の実力者を演じているのが、いつものモーガン爺さんだ。誰が語っても絶対に胡散臭いことを、運転手から神様まで、はては大統領からバットマンの秘密兵器開発係まで演じてしまうモーガン・フリーマンに語らせるだけで、いかんともしがたい説得力が生み出されるマジックを目にするのは楽しいアトラクションである。もちろん、そのマジックに頼っているのはこの作品に限ったことではないのだが、ここまで唯一無二の存在になってしまうと、「モーガン・フリーマンの存在しない世界」を想像するのが恐ろしくもなってくる。だって、そうでしょ。かなりの割合の娯楽映画が成立しなくなるよ!

6/30/2005

War of the Worlds (2005)

宇宙戦争(☆☆☆★)

ある日突然に地球侵攻を開始した異性生命体。地中深くに埋められていた三脚の戦闘マシーンの放つ怪光線や触手の前に、人々は逃げ惑うしかない。たまたま遊びに来ていた2人の子供を連れ、なんの情報もないなかで前妻の住む街を目指す主人公。出演はトム・クルーズ、ダコタ・ファニング、ティム・ロビンスら。スティーヴン・スピルバーグ監督。

これは決して愛と勇気の感動娯楽映画などではないから、取り扱いは要注意である。なにしろ、米国の劇場公開のレイティングを決める際にリアルな暴力よりは一段低く見られる「SF的なバイオレンス」表現であるとはいえ、多くの人が気付いているように「鬼畜」描写大好きなスピルバーグが久々に本領を発揮した、暗くて怖い映画なのだ。

製作の成り立ちを聞くと「ちょっと空いた時間に気軽に作った趣味的な小品」に聞こえてしまう本作において、スピルバーグは米国本土を戦場とし、為す術も無く外敵に蹂躙され恐怖に震え上がり逃げ惑う人々の姿を、自らが生き残るためには手段を問わない人間の醜さを、そのなかで大人たちが無垢な存在である子供に対して負っている責任を描いた。主人公の言動は平均的なハリウッド大作の主人公=ヒーローとは随分異なっていて、格好良さや威勢の良さとは無縁だ。こういう描写をするところにも、作り手の中途半端ではない真剣さをみる。いつもは緩急ある演出でサスペンスを盛り上げるスピルバーグが、いつになくシリアス一本調子であるのも、娯楽映画のバランスとしてはどうかと思う。が、映画の狙いがそこにあるのだから致し方あるまい。

違う言い方をするなら、こうだ。これは「原作を踏襲した一応のハッピーエンディングも嘘臭く見えるほどの圧倒的なまでの負のエネルギーが、スピルバーグ一流のサスペンス・テクニックと共に炸裂する、本年度最もイビツな娯楽イベント映画」である。ポスト911の世界において、最も盛大にそのトラウマをぶちまけて見せた作品であり、つまらない駄洒落承知でいうならば「悪夢との遭遇」だ。三脚戦車がぶおーっと音を立ててのし歩く姿を遠景に見ながら何も出来ない無力感。あの光景。光のシャンデリアとは音楽でコミュニケーションをとったが、あの異星人のマシーンはコミュニケーションを拒絶する。

一聴してその声とわかるモーガン・フリーマンのナレーションは、圧倒的な力で相手をねじ伏せるのではなく、異質なもの同士が長い時間をかけて共存する術を学ぶことにこそ解決の糸口があるのだと語る。あれだけの科学力を持つ異星人があんなことを見逃すのはおかしいなどというのはナンセンス。あれだけの軍事力を持つ米国が、テロを壊滅させることができないがごとく。

普通の民間時である主人公の視点を徹底して貫く映画の構造は、先行したシャマランによる異星人侵略SF『サイン』も同様であったが、あちらの作品が異星人なりなんなりというのを単なるギミックであってそれ以上のものではなかった。表面的にはHGウェルズの原作に忠実な本作は、そういう狙いすました目新しさでなく、もっと本質的に、他の映画では感じたことの無い恐怖を体感させてくれる。もちろんスピルバーグのテクニックは本物だから、それに翻弄されるのは楽しい。

これが「ちょっとスケジュールがあいたから」と、1年足らずの間に撮影され、公開された作品だとはにわかに信じられない。早撮りスピルバーグ、恐るべし。

6/30/1999

Wild Wild West

ワイルド・ワイルド・ウェスト(☆)

南北戦争でも活躍した喧嘩っ早い早撃ちの名手と、変装が得意な発明家である連邦保安官が、大統領グラントの命を受けてマッド・サイエンティストの野望を阻止せんと活躍するというお話し。60年代のヒットTVシリーズのリメイク映画化で、主演の2人にウィル・スミスとケヴィン・クライン、悪役にケネス・ブラナーをキャスティング。製作・監督はウィル・スミス主演で大成功をおさめた『メン・イン・ブラック』のバリー・ソネンフェルドである。

この映画、実のところ、今年もっともカネのかかった大作ではあるが、これはまずいだろう。何をどう楽しんだら良いのか分からない。製作側の狙いは「コメディ」である。そこに最初の掛け違いがあったのではないか、と思う。試写で「コメディ」と認識してもらえずに追加撮影が発生したなどと伝え聞く。完成品は出来の悪いアクション・アドベンチャーであり、笑えないコメディなのである。

ソネンフェルド監督は、独特のオフビートなテンポで展開される笑いの感覚が特徴的な、「コメディ」の監督である。撮影監督あがりなので、洒落た小話を絵で見せて連ねていくような作品には向いているが、この人のスタイルからすれば、あまり大作には向かない人だと思っている。

そういう彼の笑いのセンスが、軽妙なウィル・スミスと、デッド・パンのトミー・リー・ジョーンズというコンビの妙、ジョークを連ねて次第に大掛かりにエスカレートしていくような脚本構造の妙で、化けたのが『メン・イン・ブラック』という作品だった。その奇跡を再現しようというのが本作だという狙いはわからんでもない。

しかし、本作でコンビを組む、ウィル・スミスとケヴィン・クライン、これがどうにも相性が悪い。ウィル・スミスがアクション・スターであれば、相方が軽妙に笑いを取ればいい。しかし、軽妙さが売り物のウィル・スミスの相棒として、ケヴィン・クラインがいくら達者な役者でも軽すぎて収まりがつかないのである。それなのに、この二人が競うようにボケまくる脚本ってのは、どこか根本から間違っているんじゃないかと思う。その上、リミッターの外れて躁状態のケネス・ブラナーが絡んでくるっていうのだから、もう、ワヤクチャである。

じゃあ、せめて話が面白いのかというと、そうではない。もともと、「コメディ」が狙いのこの映画では、面白いジョークを展開させるためにのみストーリーが存在する。それが裏目に出て、ストーリーそのものは面白くもなんともない。作り手の狙いとは違うのかもしれないが、サマー・ブロックバスターとしてのアクション・アドベンチャー的な要素を期待した観客は、あまりのことに憤然とすると思う。ある意味で、大ベテラン、エルマー・バーンスタインが書いたスコアだけが、どこか正攻法なウェスタン・アドベンチャーの香りがするのだが、本来、この正統派の音楽そのものが「ジョーク」になるっていうのがあるべき姿だったんだろうなぁ、と、想像する。

唯一の見所は、最終兵器として登場するジャイアント・スパイダーのデザインだろうか。これは結構な力作である。近代重工業的、インダストリアル・レトロフューチャー(?)とでも呼ぶしかない奇怪で複雑なメカニックが、これもまた蒸気機関のようなエネルギー源で8本脚を動かして歩く様はなかなかのもの。その動きにも愛嬌があるのがなかなかよい。でも、これって予告で見ちゃったしなぁ。

脚本の担当としてあまりにもたくさんの名前が連なっている映画は、経験的に云って大方が駄目映画であるが、この作品のクレジットはなかなか壮観だ。『ショート・サーキット』や『トレマーズ』のコンビ、ブレッド・マードック&SSウィルソンと、『ドク・ハリウッド』や『ロジャー・ラビット』のジェフリー・プライス&ピーターSシーマン。『プレデター』のジム&ジョン・トーマスが揃い踏み。こんなメンツを揃えて、何度も何度も書き直しがあったんだろう。そのうちに、企画のツボがどこにあるのやら、わからなくなってしまったんじゃないかね。

12/01/1998

The Wedding Singer

ウェディング・シンガー(☆☆☆★)

今年の初旬(98/2)に公開された大ヒット作だが、今頃になって見るチャンスがあったので遅ればせながら。アダム・サンドラー主演映画として、彼のファン以外も観客に集めて大成功を収めた一本だ。

この映画でサンドラーが演じる「キャラクター」は、かつてバンドのリード・ヴォーカルを勤めていたが、いまは結婚披露宴の司会と音楽を担当する「ウェディング・シンガー」。酔っ払った親族でめちゃくちゃになった雰囲気だって見事に収拾してみせるプロフェッショナルだ。

即興で妙な歌詞の歌を作ったりもする音楽面でのサンドラーの「芸」と、キれさえしなきゃ心の温かく結構ハンサムな好青年キャラクターで押し通せる持ち味、ついでに、突然キれたときの無茶苦茶さ加減を活かした、見事なまでにアダム・サンドラーなキャラクターである。脚本を書いたのはティム・ハーリヒーで、監督はフランク・コラチ。いつもつるんでいる連中である。

サンドラーお得意のキャラクターものではあるのだが、これが純真なウェイトレスと出会い、お互い結婚式が近いということで息投合することから始まるロマンティック・コメディという体裁をとっているのが、今回の新機軸であり、ヒットの要因だろう。笑えて切ない、ちょっと不器用で初々しい恋の顛末。砂糖菓子のようなストーリーに「80年代ネタ」を音楽中心にちりばめ、とぼけた味のあるギャグを振り掛けてできた本作の魅力は、従来のサンドラー主演映画にはないものだ。

だって、ウェディング・シンガーの名前が「ロビー」、ウェイトレスは「ジュリア」。「ロミオ」と「ジュリエット」の語呂合わせだよ。これだけで、「ああ、純な話をやりたいのだな」と、なんかいつもと違うぞ、と気づくよね。

そして、これは共演したドリュー・バリモアにとって、大きなステップアップになる記念すべき作品にもなったんんじゃないか。ここ数年、ちょい役的な扱いでいろんな映画に顔を見せるようになってきていたが、まさか、あれだけ荒れた過去を持つドリューが、こんなに純真でスウィートな女の子の役柄でヒットを飛ばすなんて、なんというか、ある種の奇蹟をみるようなもんだ。

コメディとしては「15年くらい」という中途半端な時差を使って、80年代ネタでボケまくっているのがおかしくて仕方がない。(若い観客のなかにも)確実に記憶にある「近くて遠い過去」だ。主人公の髪型を始め、今見ると少しずれている80年代ファッション。「そのカップルが永遠に続くかどうかなんて、その二人を見れば分かること」と、85年当時は幸せの絶頂に見えた芸能人カップルの名前を列挙するあたり、ゴシップに詳しければ抱腹絶倒ものだ。

流れつづける85年の最新ヒット曲はある種ノスタルジーを掻き立てる。もちろんボーイ・ジョージやマイケル・ジャクソンはしっかり笑いのネタだ。クライマックス近くで思わぬゲスト出演があって、作り手である自分たちが青春を過ごした80年代への愛着がにじみ出ている。ゲスト出演多数。思わぬ顔にびっくりすることも、多分、ある。

11/06/1998

The Waterboy

ウォーター・ボーイ(☆☆)

アダム・サンドラー演ずる知恵送れ気味の31歳の男が主人公。ルイジアナの不気味な森の奥にキャシー・ベイツ演ずる母親と住み、(普通は)子供のアルバイトであるカレッジ・フットボールの水配り人を天職と思い働いている。ある日、仕事中にとてつもない才能を見出された主人公は、これまで馬鹿にされてきた鬱憤をバネに、一躍チームのヒーローとして大活躍を始める、という話。ある種の「キャラクターもの」といえる、ドタバタ系コメディ。

主演のアダム・サンドラーは、90年代の前半にサタデーナイトライブで活躍した人気コメディアンである。「オペラマン」などのコントやユダヤネタの馬鹿げた歌で人気を博した。映画では『エアヘッズ』等での脇役にはじまり、主演俳優に昇格。その後、出演作は毎回前作の興行成績を上回る快進撃を続け、前作『ウェディング・シンガー』が8千万ドル級のひっとをかっとばして大ブレイク。今回は、大ヒットを期待されての新作というわけだ。

今回の作品でサンドラーが演じるキャラクターは、彼の十八番といって良い。かつてSNLでやったスケッチ「カンティーン・ボーイ」風知恵遅れキャラクターに、南部ネタ、突然キれたり凶暴化したりする芸風を組み合わせたイメージだ。作品内容も前作が少々らしからぬロマンティック・コメディに振った作品だったことを受けて、反対方向、ナンセンス&ドタバタ寄りの方向に振っている。

実はサンドラー、本作の製作を手がけ、古くからの友人ティム・ハーリーと共に自ら脚本を手掛けている。監督はNYUでの同窓だというフランク・コラチ。こうしてみると、この男、早くも単なる主演俳優の域を超え、すでに自分の作品作りを戦略的にコントロールしてかのように見える。なかなかの男だ。

それはさておき、作品として面白いのかどうか。主人公やチームのコーチ、ゲテモノ料理好きのキョーレツな母親、ファイルーザ・バルク演ずる妙な恋人など、知能指数ゼロなディープサウス住民的キャラクターは面白い。独特の、調子はずれで抜けた感じの間やテンポも、ツボにはまってくると笑える。

ただ、ギャグそのものが少々単調で、意外性には欠けるところがある。特に、これまでのアダム・サンドラー映画を見ていると、あまり新鮮味を感じない。いま、ちょうど旬を迎えた彼の主演作だから爆発的なヒットを飛ばしているが、初期の主演作のほうが破壊力があって面白かったと、個人的には思う。

監督も脚本家旧知の人物を起用した本作。ダチを大事にするのがサンドラー流らしい。出演者の中でもロブ・シュナイダーはSNL時代の共演者で、彼の登場シーンはやっぱり息とタイミングがあっている。

10/02/1998

What Dreams May Come

奇蹟の輝き(☆☆☆)

不覚にも何度か目頭を熱くさせられた。生と死の狭間を描く異色作である。『丹波哲郎の大霊界』シリーズの笑えないヴァージョンではあるのだが、死んだら驚いた、ってのはこちらも同じだ。

原作はもはや説明のいらないSF作家、リチャード・マシスンで、これをロナルド・バスが脚色、『エイリアン3』の脚本難航中に宗教色を持ちこんだことで有名な男、フレッド・ウォードの監督作品である。ダンテの「神曲」をやろうというのが趣旨らしい。大それたことを考えるものだ。

幼い娘と息子を失い、今度は自らが事故死する主人公。気がつくと、そこは死後の世界で、イマジネーションが現実化したような奇妙さと美しさを湛えていた。一方、現実社会に一人残された妻は、絶望の余り自殺をとげてしまう。主人公は、家族愛のために天国と地獄を駆け巡る。

主演には『グッド・ウィル・ハンティング』でアカデミー助演男優賞を受賞したばかりのロビン・ウィリアムス。共演はキューバ・グッディングJR、アナベラ・シオラ、そしてマックス・フォン・シドー。

この映画、最初に異色だと述べたとおり、男女の幸せな出会いと結婚を見せた後、子供二人を交通事故で殺してしまうという驚きに続き、4年後に飛ぶと、不幸を耐え忍び乗り越えつつある夫婦の姿を見せながら、ある記念日のために妻の元へと車を走らせる夫(主人公)が事故に巻き込まれて死んでしまうという、まあ、尋常ではない幕の開け方をするのである。

しかも、事故に巻き込まれた主人公が死ぬシーンは壮絶だ。事故に巻き込まれ、人助けをしようと車を飛び出したところ、スリップしてきた別の車が頭上から降ってきて下敷きになるのである。ここは映像表現としてもちょっとショッキングで、インパクトがある。

しかし、こんな始まり方をするのにかかわらず、この作品は何故だか「ハッピー・エンド」で幕を閉じるのである。なんじゃそりゃ?と思うだろう。いや正直、この奇天烈な脚本に金を出す映画会社は偉いと思うよ。

死後の世界を油絵の中に入り込んだような表現で見せる映像、そしてそれを実現しているVFXが見ものである。黒澤明の『夢』にあったゴッホどころではない。テリー・ギリアムが『バロン』でやったような、動いている絵画のようなイメージの氾濫。嵐の海から亡者の無数の手が伸びてくるような東洋的なイメージも取り込み、映画の背景という背景を埋め尽くしている。これは、他では観たことのない独創的なものだ。

キャスティング的には、本当に多作なロビン・ウィリアムズには新鮮味を感じなかったのだが、十八番というか、安心してみていられるところはある。キューバ・グッディングJr は、ちょっと面白い使い方をされていて、これがストーリー上の「ひねり」になっているのがね、ああ、そんなやり方があったかと、驚きを感じさせられた。

それにしてもなんと言う映画だろう。家族が霊界で再会する話。それだけのことだ。それほど出来がよいわけでもないのに、不思議な感動があり、忘れがたいイメージがある。ともかく、これはものすごく感動的な「怪作」である