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10/22/2011

Captain America: The First Avenger

キャプテン・アメリカ ザ・ファースト・アベンジャー(☆☆☆)


ジョー・ジョンストンは勘違いをしない。いつだって分をわきまえた娯楽映画を撮る。古くは『ロケッティア』、『ジュラシックパークIII』、そして近作『ウルフマン』。どれも、お腹がいっぱいになるような超大作ではない。でも、期待すべきものが何なのか"分かっている"観客を、きっちり楽しませる真っ当な娯楽映画だ。マーヴェルが「アベンジャーズ」映画化に向けて着々と進めてきた前座作品群のなかで最後のピースとなるこの『キャプテン・アメリカ』もまた、そんな1本だ。題材を思えば、上出来なんじゃないか。

舞台は第二次世界大戦期。ナチス・ドイツが欧州を席巻し、孤立主義を捨てた米国が重い腰を上げて参戦したころだ。ヒトラーが砂漠で(たぶん)「失われた聖櫃」を探していた頃、北欧神話の主神オーディン由来ということになっているオカルト・アイテム(=コズミック・キューブ)を捜すナチスの特殊科学部門転じた「ヒドラ党」を敵に、レトロ風味の戦争冒険活劇という体裁になっている。

さりげなく(ジョー・ジョンストンが特撮で参画した)『レイダース』を匂わすあたりがナイス、オカルト・アイテムつながりで『マイティ・ソー』、そして来るべき『アベンジャーズ』と接点をもたせるはクレバーなアイディアか。

映画の送り出し手、作り手として考えることは、この現代、世界中の人々が嫌な気分にならずに楽しめる作品にすることだろう。だいたい、キャプテン・アメリカ、とその名を聞き、星条旗モチーフのコスチュームを見ると、誰だって胡散臭いものを感じてしまう。国家の価値観を体現する尖兵か、と。

この映画では、「国」の思惑で作られたキャプテン・アメリカだが、その存在を国やその政策と一体不可分のものではないと、明確に一線を引いてみせたところが良いと思う。

主人公は盲目的な愛国者などではなく、「友人や仲間思いで、正義感のある高潔な精神の持ち主」である。そんな彼が、政治家の売名行為につきあわされて戦時国債の拡販に利用されるという描写は、本作で最も重要なところだ。そこにイーストウッドの『父親たちの星条旗』が被って見えたとしても偶然ではない。そんな「作られた(失意の)ヒーロー」が、損得や誰かの命令でなしに、敵地に囚われた友人や仲間の救出に乗り込んでいくことで「真のヒーロー」になるというストーリー・ラインは感動的ですらある。

敵の設定にも気を使っている。そりゃあ、いくら第二次大戦を背景にしていても、星条旗男が他国の軍隊を蹴散らすというような話では、あまりよろしくない。だから、直接対峙する相手は、ナチスの一部門といえど、「異形の姿となった悪の首領と、それに従う秘密結社」なのだ。その首領が「レッドスカル」などという名前の「赤ドクロ」姿だというのだから、馬鹿馬鹿しくもあるが、昔懐かしき活劇の世界だ。「ハイル・ヒドラ!」の両手上げポーズの間抜けさがそれに止めを刺す。これは、そういう作品として楽しんでくれということだろう。

主人公のキャラクターによるところもあるが、ヒロインとのプラトニックなロマンスも古風でロマンティック。アクションはことさら派手ではないが、見せ方はこなれていて危なげない。美術がなかなか頑張っていて、時代の雰囲気にコミック調の意匠を上手く馴染ませている。3D効果はあまり感じられないが、シールドが画面から飛んでくるところだけは大迫力であった。

「最後のピース」であることも手伝って、マーヴェル他作品とのつながりが数多く登場し、「予告編」で幕を閉じるのだから、なんか釈然としないものを感じる向きもあるとは思うが、同シリーズのなかでも他とは違った個性、他とは違った雰囲気を打ち出していて、これはこれとしての新鮮な楽しさがある。「冷凍になっていました」で、東西冷戦時代を、もしかしたら対テロ戦争すらも飛び越してしまう力技には笑った(都合のよろしいことで)。しかし、「アベンジャーズ」とは別に続編の企画もあるのだろうが、現代を舞台にすると本作独特の面白さは消えてしまうのではないかと心配になる。さて、どうするか。

10/01/2011

Fast Five

ワイルド・スピード MEGA MAX(☆☆☆)


シリーズでは1作目に次いで2番目に面白い。魅力のある敵役として(WWEのザ・ロックこと)ドゥウェイン・ジョンソンを投入するカンフル剤、ストリート・カーレースから犯罪アクションへと比重を移したフランチャイズの方向づけがうまく絡み、気楽に楽しめる娯楽アクション映画に仕上がった。3作目からシリーズを任されている監督ジャスティン・リンも、いくつかの勢力が入り乱れる物語を要領よく裁いてみせ、回を重ねるごとに腕を上げてきているようだ。

・・・で終わりにするのも何なので、雑談を。

これ、同じシリーズでも原題がいつも変化球なんだよね。

『The Fast and The Furious』からヴィン・ディーゼルのいない『2 Fast 2 Furious』はちょっと面白いアプローチだと思ったが、番外編的(で、現在、4,5,6?作目の後日談と位置づけられている)3本目は平凡に『The Fast and The Furious:Tokyo Drift』だ。このときは、このまま、サブタイトルをいれかえて、安いビデオ映画シリーズにでも仕立てていくつもりだったのかもしれない。オリジナル主演者のキャリアが傾いてきたのも手伝って、まさかの再集結となった4本目は仕切り直しっぽく定冠詞抜きの『Fast & Furious』ときた。

で、『Fast Five』だよ。

Five は5本目の「5」だとは思うんだけどさ。"Fast" っていうシリーズじゃないし。・・・まさか「早い5人」なのか?ヴィン・ディーゼルとポール・ウォーカーとジョーダナ・ブリュースターと、タイリース・ギブソンと、サン・カンで5人?死んじゃったヤツや、面白黒人は?ロック様は?現地の美人警官は?いったいどこまで数に入れてもらえるんだ?

国によっては、写真にあるように『Fast & Furious 5』なんだよな。やっぱり、わかりにくいもんな。

こうなると、興味の中心は6本目がどういうタイトルになるか、である。まさかのまさか、誰かさんの復活で「Fast Six」とかな。

ついでに、メガ盛り状態になってきた邦題もそろそろ限界じゃあるまいか。順当にGIGA MAX か。メル・ギブソンが客演したらMAD MAX とか(それはない)。

とまあ、なかなか豪快に楽しませてくれた本編には文句はなく、違うところが気になって仕方がないのである。

真面目な話、フランチャイズの可能性を広げるための判断として、ストリート・カーレースのカルチャーから少し距離をおき、大型犯罪アクションへと舵を切った映画会社の判断は、慧眼だったといえる。方向を変えるといっても、もともと「犯罪捜査の過程でミイラ取りがミイラになるという『ハート・ブルー』」の、「サーフィン」が「カーレース」に置き換わった焼き直しが原点である。だとすると、今回の方向転換は、原点回帰であるともいえるだろう。そこで、今や「家族」になっちゃったポール・ウォーカーに代わり、主人公らにシンパシーを感じつつも対立するポジションに、主人公らに負けない強力なキャストが必要になるのも必然だ。

その、新しい「強力なキャスト」に頭脳派ではなく、肉体派をもってきたんだから、そりゃ、頭は悪いけどドハデな体力勝負映画になるのもまた当然の帰結。へんにCGIでごまかさず、貴重なクラシックカーをガンガンぶっつぶし、街中破壊する。複雑で危険な撮影やスタントも多かったことだろう。そこから逃げなかった作り手の肝の座り具合が、本作の成功の鍵であったか。エンディング後におまけがあって、次回作への導入にしているので、見逃すことのないように。

7/23/2011

From Up on Poppy Hill

コクリコ坂から(☆☆★)

少女漫画原作を自由に脚色し、1960年代初頭、横浜を舞台にした青春ものとして完成されたスタジオジブリの長編新作である。宮崎駿の企画、脚本(共同脚本:丹羽圭子)を、『ゲド戦記』ではさんざんミソをつけた宮崎吾朗が監督。まあ、こういう題材は、ジブリでもなければ大型の商業作品としては成立しない、という意味では価値のある1本といえるだろうか。

この映画を見てびっくりしたことは、カットの短さとポンポンすすんでいくテンポの速さである。どこかでプロデューサーや監督が述べていたが、諸般の事情もあって平均的な1カットの長さを短くしたらしい。それを情報として知っていたにもかかわらず、幕開けからちょっと面食らった。画面に描かれている情報を確認して咀嚼する前にカットが切り替わっている。でも、それがいいリズムになって、画面に溌剌とした若さが刻まれている。上映時間も91分に収まっており、この程度の内容に見合った尺の長さではなかろうか、と思う。

この作品では、父親を早くに失い、仕事で不在の母親に代わって下宿屋の仕事にも精を出す少女と、彼女が高校生活で出会った一学年上の青年との淡い恋愛感情がメインストーリーとして描かれている。惹かれるようになった二人が、実は、父親が同じ人物なのではないかとの疑念が持ち上がり戸惑いを覚える。若い2人のロマンスと並行して、高校の中で起こった古いクラブ棟の建て替え計画への反対運動の顛末が描かれていく。実に真っ直ぐな主人公ら高校生たちと、彼らを深い懐で受け止め、見守り、支援する大人たちの姿が印象的である。

「カルチェ・ラタン」と呼ばれるクラブ棟の建て替え反対を通じて、「過去を否定するのではなく受け継いで未来につなげていく」というテーマが示されているように見えるが、それだけではない何かを感じさせられる作品である。

脚本を書いた宮崎父の視線は、現代の若い観客よりも同年代、つまりは、映画の舞台となった時代に主人公らと同世代だったはずの人々に向いているのではないだろうか。そして、かつて自分らを見守り、自由にさせてくれた大人たちのように、今度は自分たちが若い世代を信じ、見守っていこうと云っているように見えなくもない。。原作の舞台を10年ほど前にずらした脚色をするからには、それ故の理由があるはずである。いわゆる団塊の世代の青春時代としたのには、そうした世代の観客のノスタルジーに訴えかけようという商業的な狙いのほかに、そうした、彼自身のそういった問題意識が反映されているように思えてならない。

ところで、その脚本を受け止める側の宮崎息子が父親と同様の解釈や意識を共有しているかというと、そうでもないのではないか。また、(いつも反則すれすれの)キャッチコピーがいうような、「(若い世代の観客に向けて、かつての若者のように)、上を向いて歩こう」というメッセージを発しているようにも全く感じられない。どこかで、父親世代のノスタルジーに付き合ってやっている、とでもいうような、登場人物たちをどこか客観的にながめているような冷めた視線すら感じられる。「それはまあ、いい時代だった、というんだけどさ。。。(いい気なもんだ)」と。

この映画は爽やかな青春物語、青春映画にはなっているが、作り手の中にある視点が一枚岩でないがゆえか、強いメッセージ性やインパクトには欠けるところがある。しかし、そればかりが映画、あるいはアニメーションの面白さとも違うのだから、だからダメ、というものでもない。

本作がアニメーションとして今ひとつ、と思う部分があるとすれば、高畑勲なり、最近では原恵一がやっているような、「日常芝居」をきっちりやりきれていないところだと思う。そして、その結果としてキャラクターたちが描かれている以上には立ち上がってこない。肉体を獲得してリアルな人間になっていない。作り手のどこか客観的な視点と相まって、キャラクターたちが平板で印象に薄い。

あるいは、ある部分ではリアル志向で見せているのに、「カルチェラタン」に巣食う一癖も二癖もある学生たちを、コミックタッチの類型的な戯画化でしか描けていないところも物足りないところだ。もしかしたら、こうした学生たちは、父親世代の時には周囲にいっぱいいたのだろうが、息子世代ではあまり縁がないのかもしれない。それゆえ、リアルな人間として想像できない。そして表現が限りなく類型化されたマンガになってしまうのではないか、と思ったりする。

時代色を出すための既成曲の使い方はどうとも思わなかったが、本作のために書き下ろされた劇中歌(谷山浩子作曲)はどれも面白く、作品に膨らみを与えていた。この時代の横浜の風景を再現した美術や背景も美しいし、声のキャスティングも適切だった。それもこれも含めて、一定水準はクリアした作品であるとは思うのだが、いずれにせよ、夏休みに大宣伝をかけて、多くのスクリーンを占拠して上映するような作品ではないんじゃないか。

P.S. 思ったが、宮崎吾朗は、いっそのこと、ミュージカルをやったらいいんじゃないか?

4/02/2011

The Fighter

ザ・ファイター(☆☆☆★)

ボストンの北西50キロ、メリマック川沿いに開かれたマサチューセッツ州第4の歴史的な(つまりは斜陽の)工業都市、ローウェルを舞台に、実在のボクサーであるミッキー・ウォードが噛ませ犬状態から抜け出して世界チャンピオンになるまでを、家族の絆と葛藤を軸にして描いた作品である。

感動?心を打つ?熱くなる?まあ、そういう映画としてみることはできる。もちろん、ボクシングが好きな人には、かなり実際の試合の再現度が高いなどといった見所も多い、らしい。・・・・のだが、当方、そんなことよりなによりもなによりも、「化け物屋敷の中に一人だけ、普通の兄ちゃんが迷い込んでしまった」映画として、変な楽しみ方をしてしまった。

普通の兄ちゃんとは、本作の主演、マーク・ウォルバーグである。

一方の化け物とは強烈な怪演を互いに競い合うクリスチャン・ベール、メリッサ・レオであり、普段とは違った役柄を熱演するエイミー・アダムスであり、観るに耐えないクズっぷりを演じてみせる主人公の(父親が一緒だったり違ったりする)7姉妹役の女優たちだ。

ご存知の通り、「化け物」たちのなかから3人がアカデミー賞にノミネートされ、2人が受賞。それも、いい演技というのじゃなくて、強烈な演技だ。

本作が怪演づくめになるのもさもありなん、と思う。なぜなら、主人公をとりまく人々が、ともかく凄まじいのである。『ミリオンダラー・ベイビー』のときも、家族のクズっぷりを容赦なく描く脚本と演出に仰け反った。が、こっちは実話だ。しかも、実在の人物らが役作りやらなんやらに協力している。普通、こんな描写をされて、OK出すか?というレベルで、ありのままといえばそうなのかもしれないが、社会の底辺で生きるどうしようもない人々の姿がリアリズムで活写されるのである。

もちろん、そもそも同じような階層を出自とし、実在のミッキー・ウォードをローカル・ヒーローとして崇めるウォルバーグ自らがプロデュースも手掛けた本作である。こうした社会の底辺で生きる人々に対して向ける視線は決して冷たいものではない。冷たくはないのだが、綺麗ごともない。その描写は、笑っていいものなのやら、頭を抱えていいものやら、唖然呆然といったところである。まあ、どちらかといえば笑っていいんじゃないだろうか。いや、そうやって見るほうが絶対に楽しい。

メリッサ・レオ演ずる大迫力の母親は、男を取り替えながらうじゃうじゃ子供を作って、強圧的に家族を支配している。アイリッシュ系のカトリックだから余計、貧乏人の子沢山ということなんだろう。無学な7人姉妹は、いい年して一体何で生計を立てているのかわからない。いつも母親のうちでグダグダたむろして、エイミー・アダムス扮する主人公の恋人を罵っているのだが、「お前らこそどうなんだ!」と問い詰めたくなるウザさ。この姉妹が連れ立ってエイミー・アダムスのところに殴り込みをかけるシーンは全編でも最高の笑いどころ、ともいえる。

クリスチャン・ベールが演じているのは、元ボクサーで主人公に手ほどきをした腹違いの兄貴。この男、ひがなクラック・ハウスに入り浸りのヤク中で、HBOが作ったヤク中ドキュメンタリーの題材になっている。母親がクラック・ハウスに乗り込んでくると、あわてて裏の窓から飛び降りて逃げるさまは、いい年してどこかの悪ガキそのものだ。金が必要なら作ってきてやる、と、仲間に協力させて詐欺・恐喝に走るようなバカ兄貴は、ベールの演技によって面白おかしくなっている部分があるとはいえ、とことん迷惑な人間なのだ。

要は、なんだかんだで、主人公のファイトマネーにぶら下がっている面倒な家族が、「お前を守ってやっている」とか何とかいいながら、一番の足かせとして主人公の足をひっぱっている構図なのである。少しはまともな人間である父親や恋人は、主人公を家族から切り離そうとする。しかし、家族への情が厚い主人公は、そう単純に割り切ることもできないし、主人公を知り尽くした兄貴のアドバイスやサポートも必要としている。

本作の、ドラマとしての面白さは、むちゃくちゃな家庭環境に置かれた主人公の、家族との絆や愛憎、葛藤の部分にある。主人公と、それをとりまく人々の対立や反目が、夢の世界チャンピオン奪取というひとつの目標に向かって、休戦から共闘へと変わっていくところが推進力となって映画を盛り上げていく。そのドラマ運びの巧さには、格闘技好き如何を問わず載せられることは間違いない。

当初の予定通りダーレン・アロノフスキーが撮っていたら、どんな映画になっていただろうか、と想像するのも面白い。本作で本当に賞賛されるべきは、このプロジェクトに粘り強く取り組み、最終的にはデイヴィッド・O・ラッセルを表舞台に連れ戻し、共演者たちに華を持たせ、自分は黙々と体作りと誠実な演技に取り組んだマーク・ウォルバーグなのだろうと思う。

6/12/2010

From Paris with Love

パリより愛をこめて(☆☆★)

007にあやかったようなタイトルだが、それ以上の深い意味はない。ロシアに対してパリ、日本語カタカナだと語呂が悪いよな。パリス、だと締まるんだけど。

ヨーロッパ・コープ&デジタル・ファクトリー、リュック・ベッソン謹製の軽量娯楽映画量産工場が、『96時間 (Taken)』を成功させたピエール・モレルを再度監督に起用し、ハリウッドスターであるジョン・トラボルタを招いて、パリを舞台に展開される単純明快な娯楽アクション映画。こういうのが好きな人ならそこそこ暇つぶしになる、といった程度の出来栄え。

主役はジョナサン・リース・マイヤース演ずる大使館員で、CIAの工作活動に憧れを持つ若造。ここに、粗暴で無茶苦茶なトラボルタ演ずるエージェントが現れ、テロを阻止するために行動を共にすることになる、という話。突然現れた迷惑者に振り回される主人公、というスタイルで、コンビものの一定型を押さえ、パリの表と裏を走りまわり、頭を使うよりは体を使ってドッカンばっかんやりつくすタイプの作品である。仏映画ではあるが、もちろん米国+世界市場を狙った企画である。ただし、主人公の恋人にかかわる終盤の展開は米映画だったら採用しないんじゃないか。少なくとも違う出口を考えるだろう。

トラボルタの演じるキャラクターが、わざと(目的を持って)振舞っているのを込みで考えても、粗野でうるさく強引で乱暴な感じの一本調子で魅力がない。トラボルタの演技は近作の『サブウェイ123・激突』などにも通じる方向だが、キャラクターに合わせてのことか、これまた一本調子で飽きてくる。まあ、「ひとの国にきておいて、我が物顔で傲慢・勝手に振舞うデリカシーゼロなキャラクター」を通じて、海外でも我が物顔で傲慢な米国人を揶揄しているんだろう。こういう視点が入ってくるのが仏映画たる所以で面白いところだが、それがキャラクターを魅力的にしているか、映画を面白くしているかどうかといえば、別の話だと思う。

4/11/2009

Frost x Nixon

フロストxニクソン(☆☆☆☆)
 

そういえば、随分長い間、ロン・ハワードの作品には興味を失っていた。今頃になって持ち出すのもなんだが、『スプラッシュ』、『コクーン』の頃が一番好きだった。固有名詞としての「ロン・ハワード」に興味を失ったとはいえ、まあ、彼が手掛けるのが一般にいうところのいわゆる「話題作」だったりするので、ほとんどの作品は見ているし、大味で無難な大作路線の谷間にそこそこ面白い作品を発表してはいることにも気がついてはいるつもりだ。しかし、ここのところ話題作の続いているピーター・モーガン脚本による今回の新作は、「そこそこ面白い作品」で片付けるにはわけにはいかない。土台となる舞台劇があったとはいうものの、熟練の腕で見せる久々の快作である。しかし、それほど見応えのある作品が、気がついたら賞レースから消えていた。まあ、賞が全てではないのだけれど、そこには実話至上主義一派の陰謀が絡んでいるに違いないのである。

逆説的に聞こえるかも知れないが、この映画の問題点は、(最近、別の映画を評して同じ表現を使ったけれども)面白すぎることにある。世の中には「実話」であることを過度にありがたがる一派とでもいう人々がいて、実際の出来事に材をとりつつ想像力を駆使して物事の「真実」に迫ろうとする試みについて、歴史の改竄であるとか、大衆娯楽映画への安易な迎合だと非難する、つまりは、実話の再現ではなく、物語としての完成度と面白さを優先したことが許せない、と、こういうわけである。確かに、そこにはデリケートな問題が横たわっている。例えば、何らかの政治的目的のために歴史を一方的に改竄しようとする悪辣な試みは断じて許されるべきではない、と思っている。

しかし、この映画がやろうとしていることは、そういう意味での「歴史の改竄、事実の改変」ではないはずである。この映画は、フロストによるニクソンのインタビューというイベントを切り口に、ニクソンという人物の複雑さを描き、向かい合う二人の人物から、その瞬間から、端的で力強いドラマを引き出そうとしているのである。そのために、イベントの裏側で起こっていたことについて綿密な取材を行ったうえで、「ニクソンからフロストへの電話」であったり、ニクソンが決定的な発言にいたるプロセスにおける側近の役割などを中心に、敢えて「フィクション」の力を借りているのである。それが、物語が迫ろうとした「真実」を描きだす上での効果が絶大であることは映画を見たものであれば異論を唱えるものはなかろう。そして、物語として、映画としての完成度と面白さを格段に高めていることもまた、事実である。

この映画を見ていて作り手の誠実さを思うのは、問題とされる「電話」のくだりについて、ニクソンに2度までも念押しさせるかたちで、それが実際にあったことではなく、フロストの脳内妄想であったかもしれないという描き方をしていることである。そこまで気を使う必要はないように思うのだが、これは作り手が「事実」を知っており、かつ、尊重する意思があるということを、「実話を過度にありがたがる一派」への目配せをしながら伝えようとしている、そういうことだと思うのである。また、そういう機能を果たしつつも物語としての深み、余韻の深さにつながっているところが巧みである。ここまでしているのに、この映画を「事実と違う、改竄だ」と非難するのは、非難する側に問題があるとしかいいようがない。

もちろん、素晴らしい脚本、脚色を輝かせているのは俳優たちである。既に絶賛されているフランク・ランジェラとマイケル・シーンの、それぞれの人物の本質を捉えた演技は聞きしに勝るものであるが、脇を固めるケヴィン・ベーコン、マシュー・マクファディン、オリバー・プラットといったあたりの役者の助演ぶり、サポートぶりが素晴らしいと感じた。対決ということで主演の2人にばかりスポットが当たるのは仕方ないが、キャストの、アンサンブルとしての見事さは言及される価値があるだろう。

舞台劇の脚色であるということで、確かに限られた場所、限られた人数の会話によって進行する点から「舞台劇のよう」だという感触もありながら、「登場人物たちが後にこのイベントについて振り返ってインタビューに答える」という、物語のつなぎ部分にあたる脚色の妙が効いて、映画としての時間的、空間的広がりを十二分に感じさせるものになっている。このあたりは、同じく舞台劇の映画化で、同時期に公開され、かつ演技で話題を呼んだという意味でも共通点のある『ダウト~あるカトリック学校で』と比較しても成功していると思う。これもまた『ダウト』と通低する部分であるが、過去の(あるいは、過去のある時代だと設定された)出来事、物語を通じて、ブッシュのアメリカを、あるいは、その終焉を、意図してか、結果としてか、反映させることになっているのが興味深いところである。

8/22/2008

The Forbidden Kingdom

ドラゴン・キングダム(☆☆☆)

この夏、ジェット・リーとミシェル・ヨーが共演して Dragon Emperor がなんちゃらかんちゃらというミイラ映画が公開されたかと思えば、こちらはなんと、我らがジャッキー・チェンとジェット・リー(ことリー・リンチェイ)、 2大アクション・スターがまさかの競演を果たしたという、それがロブ・ミンコフ監督の『ドラゴン・キングダム』である。この2人の競演を可能にしたのがハリウッド資本というのが不思議な縁のなせる業。

内容はへっぽこ異世界ファンタジーである。白人のボンクラ少年の主人公がカンフー映画を貸してくれる中華街の老人と関わっているうちに異世界に迷い込み、現実世界に戻るため、ひょんなことから手にした「如意棒」を「孫悟空」に返さなくてはならないというものだ。リンチェイとジャッキーはファンタジー世界において少年と目的を同じくする旅の道連れとして登場する。せっかく大スターが競演するのだから、白人少年を真ん中に置いた生煮えファンタジーなんぞと聞くとがっかりだが、愛嬌のある少年顔ながらシリアスで悲壮感溢れるドラマがお似合いのリンチェイと、テクニカルながらもコミカルな動きでユーモア感覚のあるジャッキーの、互いの持ち味が活きるような話というのもなかなか難しそうだ。

監督のロブ・ミンコフという男、ディズニー出身だ。『ライオン・キング』で知られ、『スチュワート・リトル』やら『ホーンテッド・マンション』やらで実写映画に進出。どうやらカンフー好きらしい。ファミリー・ピクチャーならそこそこ大丈夫そうだが、歴史的な作品を任せるのに適切かと問われたら、やっぱり不安が先に立つ。

こういった、両雄並び立つタイプの作品で、この監督、しかもなまくらファンタジーなどというから、どうせろくなものは見られないという諦めをもって劇場に足を運んだが、期待値の低さゆえか、少なくとも作り手がジャッキーなり、リンチェイなりに敬意を持って作っているということと、観客が観たいものをよく理解していること、それだけで好感を持った。

観客が観たいものといえば、もちろん、ジャキーとリンチェイのカンフー対決だ。

この映画、2人が敵と味方に分かれるような脚本ではないが、ジャッキー酔拳VSリンチェイ少林寺、それぞれお得意のスタイルで激しいバトルを繰り広げるシーンが用意されている。このシーンの演出も、短いショットを編集でつないで誤魔化すいんちきアクションとは違う。不満がないわけではないが、米映画としては頑張っているといっていい。

ちなみにこの対決、最初の脚本にはなかったらしいのだ。「せっかく2人が競演するというのに闘わないなんてのはダメだ」という監督の意向を受けて変更したのだと聞く。演出の腕前はともかく、観客の求めるものを理解したイイヤツである。だって、これが本作最大唯一の見所なんだから。もしこれがなければ、いったい何のための映画なのか、ということになってしまうところだった。

本作では、カンフー映画やショーブラザーズ作品に対する大小数々のオマージュが捧げられているという。それは、監督の資質だけによるものではなく、脚本もまたその一端を担っているのである。これを書いたのは、おなつかしや、かつて『ヤングガン』シリーズで本物のビリー・ザ・キッドを描くことに尋常ではないこだわりを見せたジョン・フスコなのである。このひとは、高校中退後ブルース・ミュージシャンとして全米を放浪、などという不思議な経歴の持ち主で、これまでのフィルモグラフィが示すとおりネイティブ・インディアン関連(『サンダーハート』)や馬関連(『スピリット』、『オーシャン・オブ・ファイヤー(Hidalgo)』)など、特定のテーマにおいてマニア気風とこだわりを発揮してきた。それは分かっていたのだが、まさか、少林寺拳法までかじっていようとは!現在はタイを舞台にリメイク企画が進行している『Seven Samurai』の脚本を手掛けているというが、さて、どうなることやら。

10/25/1999

Fight Club

ファイト・クラブ(☆☆☆☆)

冴えない生活を送る不眠症の主人公が出会った風変わりな男と始めた共同生活。一緒に組織したアンダーグラウンドのファイト・クラブ。そこには夜な夜な男たちが集まり、お互い、殴り殴られる真剣勝負の刹那。組織は主人公の知らぬところで日に日に拡大し、当初の目的を逸脱していく。

チャック・パラーニック原作を新人脚本家ジム・ウルスが脚色した、『セブン』、『ゲーム』のデヴィッド・フィンチャー監督最新作。出演はエドワード・ノートン、ブラッド・ピット、ヘレナ・ボナム・カーター。

病んだ作品世界に病んだキャラクターと濃い役者。過剰に攻撃的なダストブラザーズによるスコア。後半のとんでもな展開の伏線が、なんとサブリミナル映像というルール違反。破綻寸前でまとまった危うさ。いびつだが、魅力的な傑作、というか、他ではまず見られない大怪作。

CGの助けを借りて自在に動きまわるカメラに象徴されるように、スタイルと物語が拮抗し、ときにスタイルそれ自体が強烈に自己主張を始める。セックス・シーンですらCG処理してみせる、そのあまりに人為的な映像。その居心地の悪さ、そして面白さ。そして、その必然性。

どんな作品にでも自分の刻印を明確に刻み、しかしあくまで商業映画の枠のなかで消化してきたフィンチャーだが、こにいたっては、もはや「ベストセラー原作の映画化」をダシにして、世界を挑発しているとしか思えない。曲者俳優エドワード・ノートンとスター俳優ブラッド・ピットが肉体改造をして熱演しているが、画面に映らない映画監督が、その両方を食ってしまっているといってもいいほどの存在感はなんなのだ。

見た目のスタイルや刺激に惑わされそうだが、本作は、その裏に隠されたテーマ性故に、後々まで残る作品になるのではないかという予感がする。日に日に肉体的なリアリティを失うサイバーな世紀末に、原初的な衝動をあらわにして殴り合う男たちを置き、80年代から引きずりつづけてきたヤッピー文化の尻尾と、膨張する資本主義を鋭く撃ち抜く危険な映画である。それを象徴するのが、本作のラストシーン。このヴィジュアルイメージに、背筋が震えた。初見の映画館で感じた衝撃をどう表現すればよいだろう。何度見返しても惚れ惚れとする。

9/17/1999

For Love of the Game

ラブ・オブ・ザ・ゲーム(☆☆★)

決断の時期を迎えたかつての名ピッチャーが、様々な思いを胸に、最後のビッグ・ゲームになるニューヨーク・ヤンキースとの対戦に向かう。チームの見売り危機とキャリアの終焉、彼と別れロンドンに向かおうとしている5年間愛し続けた女性。万感の思いを込めてマウンドに立つ彼は、いつしか完全試合を達成しそうになっていた。

『死霊のはらわた』のカルト・ホラー監督だったサム・ライミは『ダークマン』でメジャーに進出し、前作『シンプル・プラン』ではもはや名匠といっていい風格すら見せつけてくれたわけだが、なぜにケヴィン・コスナー主演の野球映画を撮ることになったのか、不思議に思ったりする。

『ウォーターワールド』と『ポストマン』の失敗で終わりかけたキャリアからの復活をかけている主演のケヴィン・コスナーにとっては、自身が得意とする野球もので、しかも、キャリアの終わりを迎えた男が自分が自分である証を手に入れるため渾身の力をこめてボールを投げるという物語に、惹かれるものがあったのだろう。(ヒロインのケリー・プレストンも美人だし。)

でも、サム・ライミ。

新しいジャンルに挑戦しようとした意欲はわかる。基本的に一つの試合と、脳内フラッシュバック出できている映画なのだが、その野球の試合にはTV中継を模したようなライブ感があるし、主人公が精神を集中させると観客席の声援がすっと消え入るような音を使った演出も面白い。でも、ライミでなくてもいいよ、こういう映画は。そう思う。

マウンドに立つ現在の主人公と、5年前に路上で偶然出会った女性のラヴ・ストーリーを中心とした過去の回想が交互につづられていく構成。お話そのものは幾分感傷的に過ぎるという欠点を除けば、けして悪くはない。が、なんだかドラマが細切れになってしまって、単に間延びした話になっちゃっている。

もうすこし当たり前の構成、たとえば、映画の導入が終わったところで一気に5年前に飛び、時系列でドラマを追いかけ、気が付けば7回。まだ誰もファーストベースを踏ませていないことに気付く主人公。そして、空港のラウンジで野球の中継にふと目を止めるケリー・プレストン。どんなもんだろうか?

嫌いではない。良いシーンもあった。しかし、やはりサム・ライミの題材ではなかったんじゃないのかな。野球と映画をこよなく愛するケヴィン・コスナーは、さすがに野球のユニフォームが似合う。(だから、ユニフォームを着ていないシャワー・シーンのカットなんかで映画会社ともめなくてもいいんだってば。)

3/19/1999

Forces of Nature

恋は嵐のように(☆☆)

ベン・アフレックとサンドラ・ブロックが共演する、珍道中系のロマンティック・コメディ。『ライフwithマイキー』を書いたマーク・ローレンス脚本で、監督はこれが2本目のブローウェン・ヒューズ。

結婚式のためにNYからジョージア州・サヴァナに向かう飛行機が離陸時に事故をおこし、機内で知り合った奇妙な女性と別の手段で目的地を目指すことになる。ところが、旅の道中で思わぬトラブルが続いてしまい、目的地はなかなか近づいてこない。そして、出会う人々が決まって「結婚なんて、牢獄のようなもの」などと辛辣なコメントを吐くときた。本当に予定通りに結婚しても良いものかどうか、主人公の決意が揺らぎ出す一方、旅の道連れとなった女性の不思議な魅力にも惹かれていく。

性格や立場の異なる男女が旅の途中で惹かれあうようになる、定番のように見えて、どこか安心できないところが残る話である。主人公は結婚間近。その結婚が「本人の意に沿わない」ものであるとか、「結婚相手が実は不誠実」とか、ワケありだったなら、その結婚を投げ捨て、旅を共にした二人でハッピーエンドを迎えることができる。でも、そこんところがよくわからないんだ。これが男の側の単なるマリッジ・ブルーっていうのでは、映画がハッピーに終わらない。・・・どちらに転ぶにしてもだ。

マリッジブルーのベン・アフレックが、触媒としてのサンドラ・ブロックに出会い、元の鞘に戻ってハッピーエンド、という筋だてはありだけど、そういう方向に話を持っていくのなら、ベン・アフレックの婚約者をもっと描く必要があるし、サンドラ・ブロックとベン・アフレックがカップルになるかのような予感を抱かせる演出は極力避けるべきであろう。原題タイトルが示唆するような、自然の力のごとく主人公の人生を通りすぎていく、不可避なトラブルメイカーくらいの扱いにしておけばよかったんじゃないか。

メインとなるストーリーはなんだか良く分からない不思議なことになってしまっているのだが、飛行機、レンタカーの乗り合わせ、鉄道、長距離バス、ツアーへの便乗、おんぼろ中古車などを経由する珍道中は、アメリカの色々な風景を垣間見ることができて楽しめる。ヴァージニア州リッチモンド、ノース&サウス・キャロライナ州、ジョージア州サヴァナと舞台になる土地を移動しながらロケが行われたようで、その土地の空気が画面に良く出ている。

ただし、旅の起点となるはずのNYの空港は、ワシントンDCのダレス国際空港で撮影されているのが一目瞭然。・・別にいいけど。一瞬、DCが出発点だと勘違いしてしまったじゃないか。

サンドラ・ブロックはここのところあまり似合わない役柄、らしくない作品が続いていたように思う。今回は久しぶりに生き生きした彼女を見ることができるのは良いことだ。この人は、何でもこなす器用な女優ではない。しかし、隣の素朴なお姉ちゃんとか、彼女が輝ける役柄にはまると、とたんに他の人では出せない魅力が溢れ出す。今回は、そうだな、彼女じゃなくてもいいといえば、いいような気もするが。

12/25/1998

The Faculty

The Faculty
パラサイト

ここのところ大人気、『スクリーム』、『ラスト・サマー』シリーズやTV『ドーソンズ・クリーク』で名を上げたケヴィン・ウィリアムソン脚本を、なんと、ロバート・ロドリゲスが監督したSF侵略学園ホラーの登場だ。

オハイオ州の田舎町にある平凡な高校で、ある日を境にして先生たち(原題=Faculty) の奇異な態度や行動が目立つようになる。これに疑念の目を向けた学園生活のはぐれ者たちが、背後にある恐るべき事実を目の当たりにしたときには、自らの生き残りと、謎の寄生生命体の蔓延阻止を賭けた壮絶な闘いに巻き込まれていた!

出演は、イライジャ・ウッド、ジョッシュ・ハートネット、クレア・デュバルら高校生を演じる若手スターと、『ターミネーター2』のロバート・パトリック、『キャリー』のパイパー・ローリー、ファムケ・ヤンセン、ビビ・ニューワース、サルマ・ハヤックらの「大人」たち。

「人の顔をした人でない何か」という題材は、ホラー・ジャンルの古典的なテーマだといえるだろう。この作品の先祖をたどっていくと、冷戦下で共産主義の恐怖が反映された『ボディスナッチャーの恐怖』であるとか、衝撃的だった『遊星からの物体X』あたりがあるだろう。そこに、最近何故か盛りあがりをみせているティーンズ映画の流れが合流したことで、ちょっと面白怖い仕上がりになっている。

その功績は、もちろんケヴィン・ウィリアムソンの脚本にある。ジャンル映画へのコダワリとともに、青春ものへの愛着もなかなかに強いこの男、往年の「政治的恐怖」が「高校の先生にたいする不信」に読みかえられ、はみ出し者の生徒たちが感じる「普通」の学園生活に対する違和感や、日々感じているコミュニティからの疎外感になった。

SF的側面では、設定も相当粗くて矛盾だらけ。ボス(クイーン)を倒せば他がみな無力化して死滅するという、映画的に便利なだけの設定が「過去のSF侵略ものではそうだった」との簡単な理由で現実になってしまう当たりは、だからパロディとして笑えばよいのだろう。いや、面白いよ。ギャグとして。

またこの映画、ディテイルがなかなか楽しい。ネタ的にも絵的にも、コメディセンスが溢れている。水分が必要なエイリアンに寄生された人々が、つぎつぎに水飲み場に行列を作ったりするところ。脱水状態になることがエイリアン駆逐への早道と「白い粉」を「鼻から吸い込」んで、一時的にハイになってしまうところ。

クライマックスはお約束っぽく、怪獣型のクリーチャーの登場と相成る。実は本体が姿を見せる場面より前、姿形は人間なのに「影」だけが・・というシーンの方が映像的に面白かったんだが。

監督のロバート・ロドリゲスだが、これまでの作品では力で押しまくる一方の単調な演出には辟易とするところがあって、映画を見ているうちに退屈になってきてしまう物が多かったのだが、今回、他人の描いた脚本なこともあってか、緩急があって観客を飽きさせない。意外にに巧いじゃん。少し見なおした。