グリーン・ランタン(☆☆)
上映終了間際にガラガラの映画館に滑り込んで見た。一応、ここのところ『カジノ・ロワイヤル』、『復讐捜査線』と好調なマーティン・キャンベル監督の新作ながら、Time Magazine の "Top 20 Worst Summer Blockbusters" に選ばれたっていうんだから、それがいったいどんな出来映http://www.blogger.com/えか気になるじゃないか。
件の20本のうち、既に18本までを劇場で金を払ってみている当方としては、そこにもう一本加わって19本になるというオマケまでついてくるわけで、これを見逃すわけにはいくまい。
で、ようやく見ることのできた『グリーン・ランタン』。「スーパーマン」、「バットマン」の2大ヒーローを抱えるDCコミックの人気作品ときく。それ以上の予備知識がなかったからかもしれないが、こりゃ、驚いた。こいつは「スペオペ(=スペース・オペラ)」ではないか。
超文明を持つ種族がいて、宇宙を3,600のセクターに分割し、それぞれの中から選抜されたメンバーに意志の力を自在に操れる「パワーリング」を与え、宇宙の平和維持にあたっている。そんな設定だ。とっさに思いつくのは、スペース・オペラの元祖的な作品と位置づけられる「レンズマン」のアメコミ・スーパーヒーロー版といった感じである。全宇宙から様々な種族が集まるなか、地球人が原始的な種族としてバカにされているっぽいところも、たいへん面白い。
が、まあ、残念なことに、面白いのは設定だけで、映画はその面白さを活かすことができていない。
もちろん、「全宇宙的規模スケールの事件に巻き込まれ、次第に頭角を現していく主人公」の話に、ときおり、「異星人にスーパーヒーロー・セットを与えられてご近所の問題を解決するダメ男」(←パーマン)みたいな話が混じってくるのは良いとして、せっかくのスケールが小さいところ小さいところへと収束してくる話の作り方にしたのは失敗だろう。
だって、全宇宙の脅威と組織の総力をあげて戦う、といっていたのに、尖兵にされた不憫なダメ科学者を死に追いやり、不死の種族が転じた化け物を一人で太陽にぶち込んで燃やしてオシマイ、ってなんだよ、それ。
恋人はともかく、家族(兄弟や甥)、友人のエピソードは不要。既に一刻を争う自体が起こっているはずなのに、主人公をのんびりと訓練しているチグハグさ。あー、よくこんな脚本にゴーサイン出したよな。
画面中がCGIで埋め尽くされているのは作品の性質上仕方があるまい。ポジティブな面で考えれば、3D感は比較的よく出ていること、主人公のスーツを、物理的な衣装ではなく、CGIで表現するという目新しい手法の面白さか。主人公のライアン・レイノルズは、デッドプールを演じさせられた時よりはマシな扱い。ティム・ロビンス、ブレイク・ライブリー、ピーター・サースガードあたりまでは顔がわかるが、マーク・ストロングやティムエラ・モリソンは、それと知っていないとわかんないよ。
10/14/2011
2/10/2011
The Green Hornet
グリーン・ホーネット(☆☆★)
j実はちょっと肩身が狭いのだが、ラジオドラマも、ブルース・リーの出演で知られるTVドラマも名前くらいしか知らない。そんなわけなので気楽にいえば、これはちょっと金がかかっていて、いつもより少しはしゃぎ気味のセス・ローゲン主演のコメディ映画である。監督はミシェル・ゴンドリーだが、脚本も手掛けるセス・ローゲンの色が濃厚。
簡単に言えば、ヒーローにあこがれるボンクラ2代目が、「偉大な父親の影を払拭し大人になる話」であり、「パートナーである有能なKATOとの男同士の幼稚っぽい友情と馬鹿騒ぎの話」である。だから、「スカッと爽快なヒーローもの」なんぞを期待すると肩透かしを食らうと思うのだが、ほのぼのと楽しいお気楽コメディとしては及第点。
残念なポイントは、『イングロリアス・バスターズ』で受賞後としては最初の出演作になるクリストフ・ヴァルツの役柄が思ったほどに面白くなく、彼の本気の実力を目にした後では拍子抜けしてしまうことか。でも、このがっかり具合は結構大きいな。
予想外によかったのは、Kato を演じる台湾のスター、ジェイ・チョウだ。ブルース・リーの代わりだと思えば無理があるが、この子犬のようなキュートさはちょっといい。セス・ローゲンとのコンビもしっくりきているし、基本がコメディであるという本作のテイストにもあっている。実現までに2転3転したキャスティングが、結果としてよいところに落ち着いたものだと思う。
付け加えると、今回は完全に脇役扱いのキャメロン・ディアスが、相変わらずコメディエンヌとしての勘所の良さを発揮していて好印象。やっぱり、この人はわかっている。
3D映画として作られているが、書割りのような不自然さのあるシーンも多いし、エンドクレジットが一番飛び出しているというあたりが失笑ものである。選択肢があるなら2Dで見てもいいレベル。ただし、中盤登場するスプリット・スクリーンでの3D演出は際立って新鮮だった。分割されたそれぞれの画面がサイズが変わったりするだけでなく、3Dで、前後に奥行きをもって配置されたり移動したりするんだな。これは今後、他の作品でも真似されて使われるんじゃないか。本作最大の収穫といえるかもしれない。(大げさ?)
j実はちょっと肩身が狭いのだが、ラジオドラマも、ブルース・リーの出演で知られるTVドラマも名前くらいしか知らない。そんなわけなので気楽にいえば、これはちょっと金がかかっていて、いつもより少しはしゃぎ気味のセス・ローゲン主演のコメディ映画である。監督はミシェル・ゴンドリーだが、脚本も手掛けるセス・ローゲンの色が濃厚。
簡単に言えば、ヒーローにあこがれるボンクラ2代目が、「偉大な父親の影を払拭し大人になる話」であり、「パートナーである有能なKATOとの男同士の幼稚っぽい友情と馬鹿騒ぎの話」である。だから、「スカッと爽快なヒーローもの」なんぞを期待すると肩透かしを食らうと思うのだが、ほのぼのと楽しいお気楽コメディとしては及第点。
残念なポイントは、『イングロリアス・バスターズ』で受賞後としては最初の出演作になるクリストフ・ヴァルツの役柄が思ったほどに面白くなく、彼の本気の実力を目にした後では拍子抜けしてしまうことか。でも、このがっかり具合は結構大きいな。
予想外によかったのは、Kato を演じる台湾のスター、ジェイ・チョウだ。ブルース・リーの代わりだと思えば無理があるが、この子犬のようなキュートさはちょっといい。セス・ローゲンとのコンビもしっくりきているし、基本がコメディであるという本作のテイストにもあっている。実現までに2転3転したキャスティングが、結果としてよいところに落ち着いたものだと思う。
付け加えると、今回は完全に脇役扱いのキャメロン・ディアスが、相変わらずコメディエンヌとしての勘所の良さを発揮していて好印象。やっぱり、この人はわかっている。
3D映画として作られているが、書割りのような不自然さのあるシーンも多いし、エンドクレジットが一番飛び出しているというあたりが失笑ものである。選択肢があるなら2Dで見てもいいレベル。ただし、中盤登場するスプリット・スクリーンでの3D演出は際立って新鮮だった。分割されたそれぞれの画面がサイズが変わったりするだけでなく、3Dで、前後に奥行きをもって配置されたり移動したりするんだな。これは今後、他の作品でも真似されて使われるんじゃないか。本作最大の収穫といえるかもしれない。(大げさ?)
10/31/2010
Going the Distance
遠距離恋愛 彼女の決断(☆☆☆)
振られて気落ちしていた彼と、NYでインターン中だった彼女がバーで出会って意気投合するが、彼女は夏が終わればサンフランシスコに戻って学期を終えなければならない。それを承知で始まった関係だったが、互いに去りがたく、遠距離恋愛として続けることを選択する。大陸の東と西、時差もあれば、ハイシーズンの航空機代が2000ドルを越えることもある。離れている寂しさや、不安を与えるような周囲の助言に負けず、誠実に関係を続けようとする二人だったが、NYで職を得ようと努力しても報われない彼女に、地元の新聞社からのオファーが出たことで決断を迫られる。
ロマンティック・コメディ。えーと、コメディの方が少し強め。台詞でもシーンでも下ネタ系が多いから注意が必要だが、明るく笑えるレベルの節度は保っている。とはいえ、子供に見せるもんでもないので、国内でもR-15指定になっているのだね。
ところで、本作主演のドリュー・バリモアとジャスティン・ロングといえば、ここ数年、くっついたり離れたりとお騒がせなカップルとして有名だ。まあ、実のカップルがスクリーン上でカップルを演じると悲惨な結果になることが多いのは知ってのとおりだが、本作はどうか。この二人、もちろんその熱々ぶりで勝手にやってろ、と思う観客もいるのだろうが、素直に見ると、スクリーン上で格好いいところばかり見せようとするのではなく、情けなかったり下品だったりするところも素顔や本音に近いところも、普段着な感じをあっけらかんと晒すあたりが悪くない、と思うのである。そして、やっぱり、スクリーン越しに見ても本当に2人の相性がいいことがよく分かる。まあ、最近(また)破綻したらしいけどさ。恋人同士でもあり、仲の良い友人同士でもあるような、いい空気がそこにある。
この映画は、二人が以前に共演した『そんな彼なら捨てちゃえば』とは違って、ドリューのプロダクション(Flower Films)のものではないが、映画の内容や作品のテイスト、演じるキャラクターに至るまで、いかにもドリュー・バリモア(そして、ジャスティン・ロング)の映画だという先入観を裏切らない。実に「らしい」仕上がりである。だから、この2人が、この2人が出ていた作品が好きなら、まずまず楽しめるはずだ。
例えば、コメディ部分の微妙に下品なテイストも、それを嫌がらずに演じてみせるドリューの個性の反映であるし、過去のコメディ作品で彼女が体当たりで見せた下品ネタを思い出すことだろう。やたら映画ネタが多く、そのうちいくつかは80年代ネタであるのもドリューの趣味が強く反映されているように見える。(80年代映画ネタでは爆笑必至のシーンがある!)またキャラクターの設定でも、過去の回り道の結果年齢がちょっと高いヒロイン、というところに、回り道をいっぱいしてきたドリューの人生が重なって見える。2人の職業属性にしても、新聞記者を目指すドリューって、以前にも高校に潜入するライターってやってたし、CMで"Mac君"をやっていたジャスティン・ロングにはやはりお堅い職業ではなく、レコード会社勤務が似合う。ジャスティン・ロングの微妙に行けていない感じや誠実さは、『そんな彼なら捨てちゃえば』や『スペル』でも同じイメージで描かれていた路線だし、ユーモアのセンスは御存知の通りだ。
ことほど左様に、観客の映画的記憶と主演2人の個性をうまく利用した仕上がりで、楽しい時間を過ごせる佳作だと思う。惜しむらくは、こうした作品が全国ロードショーではなく非常に限られた劇場でしか公開されない日本国内のマーケット状況である。昔は地方だと2本立て興業が主流で、1本では勝負できないこういう小さい作品でも、何かのついでに「出会う」ことが可能だったし、それが結果的に映画ファンの裾野を、見られる映画のジャンルの幅を広げていた面もあったように思う。結局、こういう作品はレンタルやCATVのマーケットにしか活路がない時代なのかと思うと、ちょっと寂しい。
ああ、そうそう、「おせっかいなヒロインの姉」という定番ポジションで、クリスティーナ・アップルゲイツが好演。このひとがこういう役をやるようになったか。一昔前ならキューザック姉の独壇場だったんだが。
振られて気落ちしていた彼と、NYでインターン中だった彼女がバーで出会って意気投合するが、彼女は夏が終わればサンフランシスコに戻って学期を終えなければならない。それを承知で始まった関係だったが、互いに去りがたく、遠距離恋愛として続けることを選択する。大陸の東と西、時差もあれば、ハイシーズンの航空機代が2000ドルを越えることもある。離れている寂しさや、不安を与えるような周囲の助言に負けず、誠実に関係を続けようとする二人だったが、NYで職を得ようと努力しても報われない彼女に、地元の新聞社からのオファーが出たことで決断を迫られる。
ロマンティック・コメディ。えーと、コメディの方が少し強め。台詞でもシーンでも下ネタ系が多いから注意が必要だが、明るく笑えるレベルの節度は保っている。とはいえ、子供に見せるもんでもないので、国内でもR-15指定になっているのだね。
ところで、本作主演のドリュー・バリモアとジャスティン・ロングといえば、ここ数年、くっついたり離れたりとお騒がせなカップルとして有名だ。まあ、実のカップルがスクリーン上でカップルを演じると悲惨な結果になることが多いのは知ってのとおりだが、本作はどうか。この二人、もちろんその熱々ぶりで勝手にやってろ、と思う観客もいるのだろうが、素直に見ると、スクリーン上で格好いいところばかり見せようとするのではなく、情けなかったり下品だったりするところも素顔や本音に近いところも、普段着な感じをあっけらかんと晒すあたりが悪くない、と思うのである。そして、やっぱり、スクリーン越しに見ても本当に2人の相性がいいことがよく分かる。まあ、最近(また)破綻したらしいけどさ。恋人同士でもあり、仲の良い友人同士でもあるような、いい空気がそこにある。
この映画は、二人が以前に共演した『そんな彼なら捨てちゃえば』とは違って、ドリューのプロダクション(Flower Films)のものではないが、映画の内容や作品のテイスト、演じるキャラクターに至るまで、いかにもドリュー・バリモア(そして、ジャスティン・ロング)の映画だという先入観を裏切らない。実に「らしい」仕上がりである。だから、この2人が、この2人が出ていた作品が好きなら、まずまず楽しめるはずだ。
例えば、コメディ部分の微妙に下品なテイストも、それを嫌がらずに演じてみせるドリューの個性の反映であるし、過去のコメディ作品で彼女が体当たりで見せた下品ネタを思い出すことだろう。やたら映画ネタが多く、そのうちいくつかは80年代ネタであるのもドリューの趣味が強く反映されているように見える。(80年代映画ネタでは爆笑必至のシーンがある!)またキャラクターの設定でも、過去の回り道の結果年齢がちょっと高いヒロイン、というところに、回り道をいっぱいしてきたドリューの人生が重なって見える。2人の職業属性にしても、新聞記者を目指すドリューって、以前にも高校に潜入するライターってやってたし、CMで"Mac君"をやっていたジャスティン・ロングにはやはりお堅い職業ではなく、レコード会社勤務が似合う。ジャスティン・ロングの微妙に行けていない感じや誠実さは、『そんな彼なら捨てちゃえば』や『スペル』でも同じイメージで描かれていた路線だし、ユーモアのセンスは御存知の通りだ。
ことほど左様に、観客の映画的記憶と主演2人の個性をうまく利用した仕上がりで、楽しい時間を過ごせる佳作だと思う。惜しむらくは、こうした作品が全国ロードショーではなく非常に限られた劇場でしか公開されない日本国内のマーケット状況である。昔は地方だと2本立て興業が主流で、1本では勝負できないこういう小さい作品でも、何かのついでに「出会う」ことが可能だったし、それが結果的に映画ファンの裾野を、見られる映画のジャンルの幅を広げていた面もあったように思う。結局、こういう作品はレンタルやCATVのマーケットにしか活路がない時代なのかと思うと、ちょっと寂しい。
ああ、そうそう、「おせっかいなヒロインの姉」という定番ポジションで、クリスティーナ・アップルゲイツが好演。このひとがこういう役をやるようになったか。一昔前ならキューザック姉の独壇場だったんだが。
5/23/2010
Green Zone
グリーン・ゾーン(☆☆☆)
映画の世界においては単純な事象の中に内包される複雑さを描けば賞賛の対象になるが、複雑な事象を単純化してみせても褒めてくれるものはいない。
『ユナイテッド95』で 9/11を、つまりは、米国の「対テロ」戦争の発端を描いた俊英ポール・グリーングラスが、彼の出世作ともなった「ジェイソン・ボーン」シリーズで組んだマット・デイモンとタッグを組んで取り組んだ本作は、イラク戦争開戦の大義名分であった「大量破壊兵器」の在り処を探すうちに国家の陰謀につきあたる主人公の物語である。
この映画の良さは、あくまで「ジェイソン・ボーン」シリーズと地続きのような、気軽に楽しめる娯楽アクション映画のフォーマットのなかで、イラク戦争開戦に至る構図と「終戦後」のバグダッドを臨場感たっぷりに、誰にでも分かりやすく見せるところにある。
が、その一方で、分かりやすい悪役を立て、それに挑むヒーローという構図により、本来は一筋縄ではいかない現実をあまりにも単純化してしまったという批判も免れない。まあ、反米的云々といった的はずれな評は聞くに値しないにしても、娯楽映画の題材とするには未だ生々しさが拭い去れないという微妙なところもあっただろう。一方、社会派の作品を期待した向きには、あまりに単純、あまりに娯楽映画的であったに違いない。
そうこうしているうちに、イラク戦争の最前線を描くというキャッチを『ハート・ロッカー』に横取りされてしまい、テーマとしての鮮度が落ちた。これは興行的観点から見れば痛手であったと考えられる。
もっといえば、問題作というにはトピックが周知の事実(=大量破壊兵器の不在)過ぎた。しかし、社会派のネタから幅広い観客層が楽しめる娯楽映画を作ろうという志は買いたいし、本作を支える演出力と職人技としての技術の高さには改めて感服させられるものがある。
嫌な奴を演じさせたら抜群にうまいグレッグ・キニアが国防総省の高官を演じて楽しませてくれる。中東歴の長いCIAとして登場するブレンダン・グリーソンの存在感もいい。そのあたりの顔ぶれも、新鮮味がないといわれたらそれまでだが、ありふれた娯楽映画と考えれば恐ろしく水準の高い拾いものだといえる。戦争ものというのでなく、ハードなアクション・スリラーとして、お勧め。
映画の世界においては単純な事象の中に内包される複雑さを描けば賞賛の対象になるが、複雑な事象を単純化してみせても褒めてくれるものはいない。
『ユナイテッド95』で 9/11を、つまりは、米国の「対テロ」戦争の発端を描いた俊英ポール・グリーングラスが、彼の出世作ともなった「ジェイソン・ボーン」シリーズで組んだマット・デイモンとタッグを組んで取り組んだ本作は、イラク戦争開戦の大義名分であった「大量破壊兵器」の在り処を探すうちに国家の陰謀につきあたる主人公の物語である。
この映画の良さは、あくまで「ジェイソン・ボーン」シリーズと地続きのような、気軽に楽しめる娯楽アクション映画のフォーマットのなかで、イラク戦争開戦に至る構図と「終戦後」のバグダッドを臨場感たっぷりに、誰にでも分かりやすく見せるところにある。
が、その一方で、分かりやすい悪役を立て、それに挑むヒーローという構図により、本来は一筋縄ではいかない現実をあまりにも単純化してしまったという批判も免れない。まあ、反米的云々といった的はずれな評は聞くに値しないにしても、娯楽映画の題材とするには未だ生々しさが拭い去れないという微妙なところもあっただろう。一方、社会派の作品を期待した向きには、あまりに単純、あまりに娯楽映画的であったに違いない。
そうこうしているうちに、イラク戦争の最前線を描くというキャッチを『ハート・ロッカー』に横取りされてしまい、テーマとしての鮮度が落ちた。これは興行的観点から見れば痛手であったと考えられる。
もっといえば、問題作というにはトピックが周知の事実(=大量破壊兵器の不在)過ぎた。しかし、社会派のネタから幅広い観客層が楽しめる娯楽映画を作ろうという志は買いたいし、本作を支える演出力と職人技としての技術の高さには改めて感服させられるものがある。
嫌な奴を演じさせたら抜群にうまいグレッグ・キニアが国防総省の高官を演じて楽しませてくれる。中東歴の長いCIAとして登場するブレンダン・グリーソンの存在感もいい。そのあたりの顔ぶれも、新鮮味がないといわれたらそれまでだが、ありふれた娯楽映画と考えれば恐ろしく水準の高い拾いものだといえる。戦争ものというのでなく、ハードなアクション・スリラーとして、お勧め。
8/14/2009
G.I Joe
G.I ジョー(☆★)
いや、見終わった瞬間に、この映画を見たことすら忘れていたというくらい、心にも頭にも何も残らない、ただの暇つぶし映画。駄作とか凡作とか呼ぶほどのものですらない。米国娯楽映画の白痴化を絵に描いたような作品で、ハリウッド映画がつまらなくなったという人が真っ先に槍玉にあげるのに最適の作品である。(そういう意味では存在価値がないわけでもないのか。)
すっかり時代に乗り遅れている当方、「G.I ジョー」と聞けば、リアル志向の米軍兵士アクション・フィギュアだと思っているから、いまや世界の嫌われ者と化した米軍兵士が主人公で映画になるのかね、と思ってみたり、TV版『サンダーバード』がそうだったような人形アニメ、はたまた玩具の兵士人形が活躍するジョー・ダンテの『スモール・ソルジャーズ』(兵士人形が悪役だったけどな)のような映画になるのかしらん、と思ってみたりしていた。(『スモール・ソルジャーズ』はわりと好きだ。)しかし、時代と共にリニューアルを繰り返したハズブロ社の「G.I.ジョー」シリーズは、米国籍を中心とした特殊部隊「チームG.I.ジョー」の面々が特殊装備を駆使し、世界征服をたくらむコブラ団と闘うという非常に退屈な「お子様設定」を与えられ、80年代にアニメ化され、一部で人気をはくしていた模様である。本作、『G.I. ジョー』は、『トランスフォーマー』でうまい汁を吸ったハズブロによる玩具のバックストーリーものアニメの映画化第2弾なのである。
これを任せられたのは、『グリード』で名を上げ、『ハムナプトラ』こと The Mummy 正・続で知られるスティーブン・ソマーズである。派手で荒削りとはいえB級題材をサービス精神旺盛に楽しませる作風は相変わらず。だが、土台が底の浅いお子様アニメであることもあって、大人の観客が本気で面白がれるような内容にはなっていない。悪の秘密結社と戦うヒーロー・チームというセットアップは現代的なビジュアルに反して案外クラシックで、このあたりはソマーズの資質に合うところだとは思うのだが、派手で刺激的なアクションで全編を埋め尽くそうとする意欲とエネルギーはともかく、緩急なしにただただアクション・シーンを羅列した構成には辟易とさせられる。こういった類の刺激というものは、メリハリをつけて緩急をつけるからこそジェットコースター的な面白さにつながるものだ。いくら派手にドンパチやってみせようが感覚が麻痺した観客はスリルも刺激も何にも感じない。悪い意味でのパーフェクト・ポップコーン・ムーヴィーである。
玩具展開上欠かせないマンガチックな秘密兵器や装備が物語の足を引っ張っていて面白くない。こういう類のものは却って、最強チームが最強たる強さや凄さ、格好良さを伝える上での阻害要因になるものだ。せめてガジェットとしてのデザインや機能に新鮮味があれば楽しめるのだが、独創性が皆無でがっかりさせられる。ほとんど描写時間がないわりには主要キャラクターを描き分ける努力をしているのは事実であるが、いかんせん、多人数、非固定式のチーム編成で、大多数はチーム内での役割分担や得意技もよくわからないまま終わってしまう。なかでも一番影が薄いのが主人公(らしき人物)だというのが、本作の退屈さを象徴している。特殊装備なしに闘っているように見える、(特殊装備をつけた人間より速く、強い)黒忍者(レイ・パーク)と白忍者(イ・ビョンホン)の対決だけは、キャラクターの特徴も分かりやすく、そこそこ面白く見ていることができた。
いや、見終わった瞬間に、この映画を見たことすら忘れていたというくらい、心にも頭にも何も残らない、ただの暇つぶし映画。駄作とか凡作とか呼ぶほどのものですらない。米国娯楽映画の白痴化を絵に描いたような作品で、ハリウッド映画がつまらなくなったという人が真っ先に槍玉にあげるのに最適の作品である。(そういう意味では存在価値がないわけでもないのか。)
すっかり時代に乗り遅れている当方、「G.I ジョー」と聞けば、リアル志向の米軍兵士アクション・フィギュアだと思っているから、いまや世界の嫌われ者と化した米軍兵士が主人公で映画になるのかね、と思ってみたり、TV版『サンダーバード』がそうだったような人形アニメ、はたまた玩具の兵士人形が活躍するジョー・ダンテの『スモール・ソルジャーズ』(兵士人形が悪役だったけどな)のような映画になるのかしらん、と思ってみたりしていた。(『スモール・ソルジャーズ』はわりと好きだ。)しかし、時代と共にリニューアルを繰り返したハズブロ社の「G.I.ジョー」シリーズは、米国籍を中心とした特殊部隊「チームG.I.ジョー」の面々が特殊装備を駆使し、世界征服をたくらむコブラ団と闘うという非常に退屈な「お子様設定」を与えられ、80年代にアニメ化され、一部で人気をはくしていた模様である。本作、『G.I. ジョー』は、『トランスフォーマー』でうまい汁を吸ったハズブロによる玩具のバックストーリーものアニメの映画化第2弾なのである。
これを任せられたのは、『グリード』で名を上げ、『ハムナプトラ』こと The Mummy 正・続で知られるスティーブン・ソマーズである。派手で荒削りとはいえB級題材をサービス精神旺盛に楽しませる作風は相変わらず。だが、土台が底の浅いお子様アニメであることもあって、大人の観客が本気で面白がれるような内容にはなっていない。悪の秘密結社と戦うヒーロー・チームというセットアップは現代的なビジュアルに反して案外クラシックで、このあたりはソマーズの資質に合うところだとは思うのだが、派手で刺激的なアクションで全編を埋め尽くそうとする意欲とエネルギーはともかく、緩急なしにただただアクション・シーンを羅列した構成には辟易とさせられる。こういった類の刺激というものは、メリハリをつけて緩急をつけるからこそジェットコースター的な面白さにつながるものだ。いくら派手にドンパチやってみせようが感覚が麻痺した観客はスリルも刺激も何にも感じない。悪い意味でのパーフェクト・ポップコーン・ムーヴィーである。
玩具展開上欠かせないマンガチックな秘密兵器や装備が物語の足を引っ張っていて面白くない。こういう類のものは却って、最強チームが最強たる強さや凄さ、格好良さを伝える上での阻害要因になるものだ。せめてガジェットとしてのデザインや機能に新鮮味があれば楽しめるのだが、独創性が皆無でがっかりさせられる。ほとんど描写時間がないわりには主要キャラクターを描き分ける努力をしているのは事実であるが、いかんせん、多人数、非固定式のチーム編成で、大多数はチーム内での役割分担や得意技もよくわからないまま終わってしまう。なかでも一番影が薄いのが主人公(らしき人物)だというのが、本作の退屈さを象徴している。特殊装備なしに闘っているように見える、(特殊装備をつけた人間より速く、強い)黒忍者(レイ・パーク)と白忍者(イ・ビョンホン)の対決だけは、キャラクターの特徴も分かりやすく、そこそこ面白く見ていることができた。
5/01/2009
Gurren Lagann (Part II)
天元突破グレンラガン 螺巌篇 (☆☆☆☆)
ガイナックス製作、2007年文化庁メディア芸術祭アニメーション部門での優秀賞受賞でも話題となったTVアニメ『天元突破グレンラガン』の劇場版である。昨秋公開され物語の前半部分を描いた『紅蓮篇』に続き、後半部分を新作カットと共に再構成したものがこの『螺巌篇』である。4幕構成になっているシリーズにおいて、いってみれば「転」と「結」を担うところであり、ストーリーとしてしっかり完結されている。ところで、前編に当たる「紅蓮篇」は、その個別作品レヴューでも指摘した通り、多分にダイジェスト的であり、尺の短さもあって相当忙しい作品になっていたのは否めないが、一方で、「グレンラガン」という作品の突き抜けた面白さやエネルギーは十分に焼き付けられていたし、それがシリーズ初体験であった私の目にもそれは明らかであった。今回は再放送中のTVシリーズを途中まで見たところで劇場に足を向けた。
本作、『螺巌篇』は、前作の積み残しとでもいうべき第2幕のクライマックスにあたる部分で幕を開けるが、ある意味、この一連の出来事が回想シーンのようにも受け取れるような編集で、一気に時間を7年後に飛ばし、手際よく後半部分のストーリーに突入する。TV版を土台とするならば、割愛せざるを得ないエピソードも多く「あらすじ」を追うのに終始するところだが、話が本筋に乗ってからは『紅蓮篇』で感じられた(ある意味、当たり前の)駆け足感はなく、比較的丁寧に手順を踏んで物語を展開させていて、「再編集もの」に特有の弱さは感じられない。ストーリーテリングの観点で見て、完全新作の劇場作品といってもある程度は通用するレベルで再構成された脚本はかなり練りこまれていると感じた。難をいうならば、TVシリーズではここぞというポイントで使用されたはずの「キメ台詞(俺を/俺たちを誰だと思ってやがるっ!)」が、エピソードの間が極限まで切り詰められていった結果、(結果として)長くはない上映時間のあいだに間をおかず乱発されることになっていることが少々耳に障った。キメ台詞の連発を心地よいリズムとして作品の勢いに転換しているのも事実だが、その価値が割り引かれてしまうのもまた事実である。
「らせん力」なるものと宇宙における生命の進化を中心に据えたスケールが大きく、かつSF的アイディアに満ちた観念的でありながらも怒涛のストーリーそのものの面白さに加え、どんどんエスカレートし、飛躍していくストーリー展開の面白さが前半部分に増して際立っている。しかし、本作の素晴らしいところはそうした物語のスケールや勢いに負けず、それを支える「アニメーション表現」そのもののエネルギーだといえるだろう。監督の今石洋之は影響を受けた人物としてアニメ好きには有名な「金田伊功」の名前をあげているが、その金田伊功が得意とした独特で大胆な誇張表現や構図を駆使した作画スタイルの直接的な影響を感じさせる、これまた大胆で度肝抜かれるようなアクション・シーン、線画や抽象表現が凄まじい本流となって溢れ出すクライマックスの一連のシークエンスなど、日本の「アニメ」が数々の制約の中で積み重ねてきた歴史の最新進化系がここにある。この映像的快感は圧巻といってよく、スクリーンを見ているだけで自然に感動の涙が流れてきてしまうほどだ。こういう表現が、気どった大作でもなければアート作品でもなくて、普通にTV放送された商業アニメーションの「総集編」などという枠組みの作品で見ることができるというところが、この国のアニメの底力なんだろうし、素敵なことだと思う。そういう作品である以上、劇場の大スクリーンで鑑賞するに足る、いや、鑑賞されてしかるべき「体験」だ、といっておく。ぜひとも紅蓮篇と螺巌篇の連続上映が実現することを望みたい。
ガイナックス製作、2007年文化庁メディア芸術祭アニメーション部門での優秀賞受賞でも話題となったTVアニメ『天元突破グレンラガン』の劇場版である。昨秋公開され物語の前半部分を描いた『紅蓮篇』に続き、後半部分を新作カットと共に再構成したものがこの『螺巌篇』である。4幕構成になっているシリーズにおいて、いってみれば「転」と「結」を担うところであり、ストーリーとしてしっかり完結されている。ところで、前編に当たる「紅蓮篇」は、その個別作品レヴューでも指摘した通り、多分にダイジェスト的であり、尺の短さもあって相当忙しい作品になっていたのは否めないが、一方で、「グレンラガン」という作品の突き抜けた面白さやエネルギーは十分に焼き付けられていたし、それがシリーズ初体験であった私の目にもそれは明らかであった。今回は再放送中のTVシリーズを途中まで見たところで劇場に足を向けた。
本作、『螺巌篇』は、前作の積み残しとでもいうべき第2幕のクライマックスにあたる部分で幕を開けるが、ある意味、この一連の出来事が回想シーンのようにも受け取れるような編集で、一気に時間を7年後に飛ばし、手際よく後半部分のストーリーに突入する。TV版を土台とするならば、割愛せざるを得ないエピソードも多く「あらすじ」を追うのに終始するところだが、話が本筋に乗ってからは『紅蓮篇』で感じられた(ある意味、当たり前の)駆け足感はなく、比較的丁寧に手順を踏んで物語を展開させていて、「再編集もの」に特有の弱さは感じられない。ストーリーテリングの観点で見て、完全新作の劇場作品といってもある程度は通用するレベルで再構成された脚本はかなり練りこまれていると感じた。難をいうならば、TVシリーズではここぞというポイントで使用されたはずの「キメ台詞(俺を/俺たちを誰だと思ってやがるっ!)」が、エピソードの間が極限まで切り詰められていった結果、(結果として)長くはない上映時間のあいだに間をおかず乱発されることになっていることが少々耳に障った。キメ台詞の連発を心地よいリズムとして作品の勢いに転換しているのも事実だが、その価値が割り引かれてしまうのもまた事実である。
「らせん力」なるものと宇宙における生命の進化を中心に据えたスケールが大きく、かつSF的アイディアに満ちた観念的でありながらも怒涛のストーリーそのものの面白さに加え、どんどんエスカレートし、飛躍していくストーリー展開の面白さが前半部分に増して際立っている。しかし、本作の素晴らしいところはそうした物語のスケールや勢いに負けず、それを支える「アニメーション表現」そのもののエネルギーだといえるだろう。監督の今石洋之は影響を受けた人物としてアニメ好きには有名な「金田伊功」の名前をあげているが、その金田伊功が得意とした独特で大胆な誇張表現や構図を駆使した作画スタイルの直接的な影響を感じさせる、これまた大胆で度肝抜かれるようなアクション・シーン、線画や抽象表現が凄まじい本流となって溢れ出すクライマックスの一連のシークエンスなど、日本の「アニメ」が数々の制約の中で積み重ねてきた歴史の最新進化系がここにある。この映像的快感は圧巻といってよく、スクリーンを見ているだけで自然に感動の涙が流れてきてしまうほどだ。こういう表現が、気どった大作でもなければアート作品でもなくて、普通にTV放送された商業アニメーションの「総集編」などという枠組みの作品で見ることができるというところが、この国のアニメの底力なんだろうし、素敵なことだと思う。そういう作品である以上、劇場の大スクリーンで鑑賞するに足る、いや、鑑賞されてしかるべき「体験」だ、といっておく。ぜひとも紅蓮篇と螺巌篇の連続上映が実現することを望みたい。
4/25/2009
Gran Trino
グラン・トリノ(☆☆☆☆)
民族的なアイデンティティを持たない米国においては、多様性を尊びながらも、基本的なレベルで言語や価値観を共有することによって初めて「国民」足りうるといってもよいのだろう。ポーランド移民の子孫で、国家の大義のために朝鮮戦争の戦場に立ち、戦後は自動車工場の組立工として勤め上げた男が主人公である。アジア系やアフリカ系などに対しての拭いがたい偏見を持ち、絶対にTVで放送できないような差別的な悪態をつくこの男が、隣に住むアジア系の少年に対して、「アメリカの男」のあるべき姿を教え込んでいき、最後には自分が未来を託したものたちのために人生を賭けた行動に出るというのが本作のプロットである。現代劇ではあるが、老ガンマンが若者の手ほどきをする西部劇のような味わいがあり、それと同時に、デトロイト&ビッグ3の「もの作り」の国であった米国の終焉、白人の国としての米国の終焉が重なり、「最後の主演作だ」というイーストウッドによる、彼がかつて演じてきたキャラクターたちへのケジメでもあって、どのようにでも解釈と深読みを可能にする重層的な寓話に仕上がっている。久しぶりのイーストウッド主演の娯楽作を笑って楽しんでいた観客は、いつしかこの作品が示唆するサブコンテキストの深さに打ちのめされてしまう。その落差たるや、ある意味で、『ミリオンダラー・ベイビー』の落差に匹敵する。
そんな映画のシンボルが、タイトルにもなっている1972年型フォード・グラン・トリノだ。石油ショック、排ガス規制前の、不必要なまでに大型で、マッチョでありながらも優美なデザインの車体に、湯水のようにガソリンを喰らう大排気量のエンジンを積んだ、いまや過去の遺物(レガシー)と化したアメ車らしいアメ車である。主人公は、何あろう、この車のハンドル周りのユニットを、工場で自ら組み付けた男である。アメリカの一人前の男は、(故障の多い)車のコンディションをきちんと保てなくてはならない。ピカピカに磨きたてられ、完璧にメインテナンスを施されたグラン・トリノを乗り回すでもなく、眺めて悦にいっている男と、隣家の少年は、このグラン・トリノをきっかけに交流を持つことになる。映画のタイトルで、映画のシンボルで、物語を前に動かすきっかけになる「グラン・トリノ」は、しかし、映画の中で終始、ガレージに鎮座したままである。途中、主人公の信頼を得た少年が、デートのために車を借りるというエピソードが出てくるが、そのシーンはフィルムに移っていない。映画の最後、この車を譲り受けた少年が、イーストウッド自身が歌う主題歌を背景に車を走らせるその瞬間に、われわれ観客は、はじめてそのエンジン音を耳にする。レガシーは、次の世代へと受け継がれたのである。血のつながった、トヨタのセールスマンやへそ出し少女にではなく、アメリカの正当な男としての道を歩み始めた、モン族の青年に。
この映画が後に残す余韻の大きさに反し、これはとても小さく、軽やかな映画である。デトロイト郊外の荒れ果てた住宅街を舞台とし、自身以外に名の知れた大スターのいないキャストたち。主人公の頑固さや差別意識、軽口のやり取りで観客を笑わせて楽しませ、少年らとの交流がしみじみと描かれるだけ、そんな作品だ。家の補修や芝生の手入れを教え、ガレージにずらりと並んだ工具類の使い方を教え、知合いの現場監督に頼んで職を斡旋し、イタリア系の床屋にでかけて「男同士」の口の聞き方を訓練する。短期間に、安上がりに、本作とは対照的に大掛かりだった『チェンジリング』後の息抜きかのように、いかにも肩の力を抜いてサラッと作られたかのようにも見える作品なのである。イーストウッドが興味を持ち、主演するといわなければ、そのままお蔵入りになっていても不思議ではない小さな、そして地味な脚本。これを気に入ったイーストウッドは、舞台をデトロイト郊外へと動かしたほかは、特に変更を加えなかったという。それなのに、イーストウッド主演を前提に彼が自ら企画開発をし、それにあわせてテイラーメイドされた脚本であるかのように感じられるところが不思議である。この映画の世界を、その題材を、完全に自分のものとしてたぐりよせる洞察力と、自分の世界として再構築する演出手腕には驚嘆するほかない。
主人公が朝鮮戦争のベテランだという設定で、戦場で行った行為が心の重荷になっている。一方、主人公が交流を結ぶことになるアジア系の「モン族」はベトナム戦争による難民である。朝鮮戦争と、ベトナム戦争。共にアメリカの大義と正義を振りかざした戦争だ。映画の中でも説明されるが、モン族はCIAに利用されて米国に味方した結果、虐殺されたり故国を追われることになったという。CIAもまた罪作りなことをしたものだ。この映画は古きよきアメリカの終焉とレガシーの継承が中心におかれてはいるものの、決して過去の米国と、米国がたどってきた道を無条件に賛美するようなものではない。清算すべき過去を背負った老人は、よき伝統だけを後に残すべく、そこに人生をかけるのである。その決意と潔さに深く、深く感動する。
民族的なアイデンティティを持たない米国においては、多様性を尊びながらも、基本的なレベルで言語や価値観を共有することによって初めて「国民」足りうるといってもよいのだろう。ポーランド移民の子孫で、国家の大義のために朝鮮戦争の戦場に立ち、戦後は自動車工場の組立工として勤め上げた男が主人公である。アジア系やアフリカ系などに対しての拭いがたい偏見を持ち、絶対にTVで放送できないような差別的な悪態をつくこの男が、隣に住むアジア系の少年に対して、「アメリカの男」のあるべき姿を教え込んでいき、最後には自分が未来を託したものたちのために人生を賭けた行動に出るというのが本作のプロットである。現代劇ではあるが、老ガンマンが若者の手ほどきをする西部劇のような味わいがあり、それと同時に、デトロイト&ビッグ3の「もの作り」の国であった米国の終焉、白人の国としての米国の終焉が重なり、「最後の主演作だ」というイーストウッドによる、彼がかつて演じてきたキャラクターたちへのケジメでもあって、どのようにでも解釈と深読みを可能にする重層的な寓話に仕上がっている。久しぶりのイーストウッド主演の娯楽作を笑って楽しんでいた観客は、いつしかこの作品が示唆するサブコンテキストの深さに打ちのめされてしまう。その落差たるや、ある意味で、『ミリオンダラー・ベイビー』の落差に匹敵する。
そんな映画のシンボルが、タイトルにもなっている1972年型フォード・グラン・トリノだ。石油ショック、排ガス規制前の、不必要なまでに大型で、マッチョでありながらも優美なデザインの車体に、湯水のようにガソリンを喰らう大排気量のエンジンを積んだ、いまや過去の遺物(レガシー)と化したアメ車らしいアメ車である。主人公は、何あろう、この車のハンドル周りのユニットを、工場で自ら組み付けた男である。アメリカの一人前の男は、(故障の多い)車のコンディションをきちんと保てなくてはならない。ピカピカに磨きたてられ、完璧にメインテナンスを施されたグラン・トリノを乗り回すでもなく、眺めて悦にいっている男と、隣家の少年は、このグラン・トリノをきっかけに交流を持つことになる。映画のタイトルで、映画のシンボルで、物語を前に動かすきっかけになる「グラン・トリノ」は、しかし、映画の中で終始、ガレージに鎮座したままである。途中、主人公の信頼を得た少年が、デートのために車を借りるというエピソードが出てくるが、そのシーンはフィルムに移っていない。映画の最後、この車を譲り受けた少年が、イーストウッド自身が歌う主題歌を背景に車を走らせるその瞬間に、われわれ観客は、はじめてそのエンジン音を耳にする。レガシーは、次の世代へと受け継がれたのである。血のつながった、トヨタのセールスマンやへそ出し少女にではなく、アメリカの正当な男としての道を歩み始めた、モン族の青年に。
この映画が後に残す余韻の大きさに反し、これはとても小さく、軽やかな映画である。デトロイト郊外の荒れ果てた住宅街を舞台とし、自身以外に名の知れた大スターのいないキャストたち。主人公の頑固さや差別意識、軽口のやり取りで観客を笑わせて楽しませ、少年らとの交流がしみじみと描かれるだけ、そんな作品だ。家の補修や芝生の手入れを教え、ガレージにずらりと並んだ工具類の使い方を教え、知合いの現場監督に頼んで職を斡旋し、イタリア系の床屋にでかけて「男同士」の口の聞き方を訓練する。短期間に、安上がりに、本作とは対照的に大掛かりだった『チェンジリング』後の息抜きかのように、いかにも肩の力を抜いてサラッと作られたかのようにも見える作品なのである。イーストウッドが興味を持ち、主演するといわなければ、そのままお蔵入りになっていても不思議ではない小さな、そして地味な脚本。これを気に入ったイーストウッドは、舞台をデトロイト郊外へと動かしたほかは、特に変更を加えなかったという。それなのに、イーストウッド主演を前提に彼が自ら企画開発をし、それにあわせてテイラーメイドされた脚本であるかのように感じられるところが不思議である。この映画の世界を、その題材を、完全に自分のものとしてたぐりよせる洞察力と、自分の世界として再構築する演出手腕には驚嘆するほかない。
主人公が朝鮮戦争のベテランだという設定で、戦場で行った行為が心の重荷になっている。一方、主人公が交流を結ぶことになるアジア系の「モン族」はベトナム戦争による難民である。朝鮮戦争と、ベトナム戦争。共にアメリカの大義と正義を振りかざした戦争だ。映画の中でも説明されるが、モン族はCIAに利用されて米国に味方した結果、虐殺されたり故国を追われることになったという。CIAもまた罪作りなことをしたものだ。この映画は古きよきアメリカの終焉とレガシーの継承が中心におかれてはいるものの、決して過去の米国と、米国がたどってきた道を無条件に賛美するようなものではない。清算すべき過去を背負った老人は、よき伝統だけを後に残すべく、そこに人生をかけるのである。その決意と潔さに深く、深く感動する。
10/24/2008
Goya's Ghost
宮廷画家ゴヤは見た(☆☆☆)
この秋、立て続けに2本公開されたナタリー・ポートマン出演コスプレ作品のうちの1本がソウル・ゼインツ製作、久々な感じのミロス・フォアマン監督の『宮廷画家ゴヤは見た』である。ゴヤは何を見たのというのか。それは悪名高きスペインの異端審問である。もちろん、モンティ・パイソンのスケッチのことではない。17世紀末のマドリッドを舞台に、ポートマン演ずる商家の娘が異端審問にひっかかり、あんな拷問やこんな拷問を受けるのである。それだけでもみてみたくなるというのに、ポートマンに対してあんなことやこんなことをしちゃう教会権力側の日和見異常人格者を、『ノー・カントリー』で一世風靡したハビエル・バルデムが演じるのである。これは見逃すわけにいくまい。で、タイトルにもなっている時代の目撃者を演じるのが、ステラン・スカルスゲールドなんだけど、こちらはあまり見せ場なし。
スペインの異端審問は16世紀ごろ始まったもので、表向きはともかくとして、ユダヤ教やイスラム教の習慣を守るものを排斥することで政治的な基盤を磐石なものとするため、世俗権力が宗教的権威を利用したものだという。自白を引き出すために拷問が用いられ、自白すれば最悪火刑に処せられる。この映画が描いている時代には下火になって機能しなくなっていたらしく、これもまた映画で描かれているように隣国フランスからの「侵略者」であるナポレオン・ボナパルトの支配下で正式に廃止されることになる。だから、この映画でゴヤが見たのは、異端審問の終焉である、ということもできる。
ハビエル・バルデムが演じる男は厚顔無恥の日和見主義者である。教会権力の示威のために異端審問を利用すべしと進言し、幽閉されているポートマンに情けをかけるふりをして犯し、放逐されればナポレオン側に付き、かつての同僚たちを断罪する節操のなさ。開放されたポートマンに私たちの娘はどこ?と尋ねられれば、この女は気がふれていると主張し、精神病院送りにする非道ぶり。ゴヤはまた、こうした腐敗した人間の絶頂と末路をも目撃する。
物語の中では触媒としてしか機能していない「ゴヤ」を真ん中におくことで激動の時代を切り取って見せようというのが狙い。権力者の肖像画などで稼ぎと名声を得ながら、異端審問の様子をスケッチし市中に流通させるなど、ゴヤの立ち位置そのものもなかなかに面白いと思うのだが、そのあたりについては掘り下げがない。もちろん、それを掘り下げていたら3時間越え確定なので、気軽な映画鑑賞者としてはこのほうがありがたい。
ハビエル・バルデムは、こんな役ばかりでいいのか?とは思うが、ねちっこくて嫌な男を怪演しており楽しませてくれる。ナタリー・ポートマンが文字通り体当たりの熱演なのだが、美人の彼女が悲惨な境遇をボロボロになって熱演すればするほど、その熱演が鬱陶しくなったりもする。いや、まあ、こういう役も演じてみたかったのはわかるけど。彼女をサディスティックにいぢめて見たい向きにはお勧めの一本。
この秋、立て続けに2本公開されたナタリー・ポートマン出演コスプレ作品のうちの1本がソウル・ゼインツ製作、久々な感じのミロス・フォアマン監督の『宮廷画家ゴヤは見た』である。ゴヤは何を見たのというのか。それは悪名高きスペインの異端審問である。もちろん、モンティ・パイソンのスケッチのことではない。17世紀末のマドリッドを舞台に、ポートマン演ずる商家の娘が異端審問にひっかかり、あんな拷問やこんな拷問を受けるのである。それだけでもみてみたくなるというのに、ポートマンに対してあんなことやこんなことをしちゃう教会権力側の日和見異常人格者を、『ノー・カントリー』で一世風靡したハビエル・バルデムが演じるのである。これは見逃すわけにいくまい。で、タイトルにもなっている時代の目撃者を演じるのが、ステラン・スカルスゲールドなんだけど、こちらはあまり見せ場なし。
スペインの異端審問は16世紀ごろ始まったもので、表向きはともかくとして、ユダヤ教やイスラム教の習慣を守るものを排斥することで政治的な基盤を磐石なものとするため、世俗権力が宗教的権威を利用したものだという。自白を引き出すために拷問が用いられ、自白すれば最悪火刑に処せられる。この映画が描いている時代には下火になって機能しなくなっていたらしく、これもまた映画で描かれているように隣国フランスからの「侵略者」であるナポレオン・ボナパルトの支配下で正式に廃止されることになる。だから、この映画でゴヤが見たのは、異端審問の終焉である、ということもできる。
ハビエル・バルデムが演じる男は厚顔無恥の日和見主義者である。教会権力の示威のために異端審問を利用すべしと進言し、幽閉されているポートマンに情けをかけるふりをして犯し、放逐されればナポレオン側に付き、かつての同僚たちを断罪する節操のなさ。開放されたポートマンに私たちの娘はどこ?と尋ねられれば、この女は気がふれていると主張し、精神病院送りにする非道ぶり。ゴヤはまた、こうした腐敗した人間の絶頂と末路をも目撃する。
物語の中では触媒としてしか機能していない「ゴヤ」を真ん中におくことで激動の時代を切り取って見せようというのが狙い。権力者の肖像画などで稼ぎと名声を得ながら、異端審問の様子をスケッチし市中に流通させるなど、ゴヤの立ち位置そのものもなかなかに面白いと思うのだが、そのあたりについては掘り下げがない。もちろん、それを掘り下げていたら3時間越え確定なので、気軽な映画鑑賞者としてはこのほうがありがたい。
ハビエル・バルデムは、こんな役ばかりでいいのか?とは思うが、ねちっこくて嫌な男を怪演しており楽しませてくれる。ナタリー・ポートマンが文字通り体当たりの熱演なのだが、美人の彼女が悲惨な境遇をボロボロになって熱演すればするほど、その熱演が鬱陶しくなったりもする。いや、まあ、こういう役も演じてみたかったのはわかるけど。彼女をサディスティックにいぢめて見たい向きにはお勧めの一本。
10/11/2008
Get Smart
ゲット・スマート(☆☆☆)
ネタ切れのハリウッドが引っ張り出してきたのは、往年のテレビ・ドラマ『それゆけスマート』。テレビで放送されていた件の作品をリアルタイムで見ていたのは私よりも上の世代だが、とはいっても、同じ役者が主演して作られた劇場版だという『0086笑いの番号』は記憶に残っている。爆発すると繊維が消えてなくなるヌード爆弾をめぐってのバカ騒ぎ。調べてみるとこれは1980年になって作られた作品だというから、なんだ、そんなに古くないのね。どおりで見たことがあるはずだ。このシリーズ、馬鹿げたことを真面目くさった顔でやってのけ、人を喰った感じでクスクス笑わせるのが特徴である。シリーズ・クリエイターにメル・ブルックスが名前を連ねており(本作にもクレジットが残っている)、まあ、ああいうテイストなのね、とわかるだろう。
主演にスティーブ・カレルを迎えてすべてを一新した本作。競演にアン・ハサウェイ、ドゥウェイン"ザ・ロック"ジョンソンを並べ、TVで人気が出たばかりのマシ・オカなんかも脇役として登場。冒頭では顔を見せない悪役だが、特徴的な声でそれと分かるテレンス・スタンプも出ている。監督はここのところアダム・サンドラー組でよい仕事をしていたコメディ専科のピーター・シーガル。まあ、大きくはずすことのない無難な人選だろう。実際、これはこれでバカらしくも面白いネタを満載した水準作だと思う。
もちろん、いま「馬鹿げたことを真面目くさった顔でやってのけ」て一番面白いのはスティーブ・カレルだと思われるので、このキャスティングでリメイクをやろう、という企画の勝利だといえる。背広をきて真面目な表情をしていれば十分に普通の人で通用しそうな、少し哀しげな目をしたこの男の、ちょっとしたズレから増幅していく違和感をベースにしたお笑いの質が、オトボケ系の本シリーズにぴったりだ。それに、目と口がおおきいとはいえ、とっても美人なアン・ハサウェイを、「全身整形なので身元が割れずにすんだ」という設定のキャラクターに充てるというギャグ、それを堂々と演じてみせるハサウェイはクールな人だと思う(個人的には、これが鑑賞決定要因#1)。
ギャグの密度はそんなに高くないので、ナンセンスギャグの波状攻撃的な作品を期待すると肩透かしを食う。どちらかといえば、一昔前な感じのオーソドックスな作りが、微笑ましい。ちなみに、ほんわか和み系のギャグといえば、思わぬところで登場するビル・マーレーが最高におかしい。ぜひぜひ、彼を見逃さないで欲しい。ビル、あんた、やっぱり最高だ。続編にも出てくれるよね?
クライマックスがドルームワークスの『イーグル・アイ』と同じ某ヒッチコック作品を引用したもので、まあ、超有名作の超有名ネタゆえに被ってもおかしくないのだが、数年前にフジテレビな映画でも引用されていたがゆえ、またですか!と思わないでもない。コメディに引用やパロディはつきもとはいえ、意外にネタもとにできる作品が限られているのかもしれないという気がした。
ネタ切れのハリウッドが引っ張り出してきたのは、往年のテレビ・ドラマ『それゆけスマート』。テレビで放送されていた件の作品をリアルタイムで見ていたのは私よりも上の世代だが、とはいっても、同じ役者が主演して作られた劇場版だという『0086笑いの番号』は記憶に残っている。爆発すると繊維が消えてなくなるヌード爆弾をめぐってのバカ騒ぎ。調べてみるとこれは1980年になって作られた作品だというから、なんだ、そんなに古くないのね。どおりで見たことがあるはずだ。このシリーズ、馬鹿げたことを真面目くさった顔でやってのけ、人を喰った感じでクスクス笑わせるのが特徴である。シリーズ・クリエイターにメル・ブルックスが名前を連ねており(本作にもクレジットが残っている)、まあ、ああいうテイストなのね、とわかるだろう。
主演にスティーブ・カレルを迎えてすべてを一新した本作。競演にアン・ハサウェイ、ドゥウェイン"ザ・ロック"ジョンソンを並べ、TVで人気が出たばかりのマシ・オカなんかも脇役として登場。冒頭では顔を見せない悪役だが、特徴的な声でそれと分かるテレンス・スタンプも出ている。監督はここのところアダム・サンドラー組でよい仕事をしていたコメディ専科のピーター・シーガル。まあ、大きくはずすことのない無難な人選だろう。実際、これはこれでバカらしくも面白いネタを満載した水準作だと思う。
もちろん、いま「馬鹿げたことを真面目くさった顔でやってのけ」て一番面白いのはスティーブ・カレルだと思われるので、このキャスティングでリメイクをやろう、という企画の勝利だといえる。背広をきて真面目な表情をしていれば十分に普通の人で通用しそうな、少し哀しげな目をしたこの男の、ちょっとしたズレから増幅していく違和感をベースにしたお笑いの質が、オトボケ系の本シリーズにぴったりだ。それに、目と口がおおきいとはいえ、とっても美人なアン・ハサウェイを、「全身整形なので身元が割れずにすんだ」という設定のキャラクターに充てるというギャグ、それを堂々と演じてみせるハサウェイはクールな人だと思う(個人的には、これが鑑賞決定要因#1)。
ギャグの密度はそんなに高くないので、ナンセンスギャグの波状攻撃的な作品を期待すると肩透かしを食う。どちらかといえば、一昔前な感じのオーソドックスな作りが、微笑ましい。ちなみに、ほんわか和み系のギャグといえば、思わぬところで登場するビル・マーレーが最高におかしい。ぜひぜひ、彼を見逃さないで欲しい。ビル、あんた、やっぱり最高だ。続編にも出てくれるよね?
クライマックスがドルームワークスの『イーグル・アイ』と同じ某ヒッチコック作品を引用したもので、まあ、超有名作の超有名ネタゆえに被ってもおかしくないのだが、数年前にフジテレビな映画でも引用されていたがゆえ、またですか!と思わないでもない。コメディに引用やパロディはつきもとはいえ、意外にネタもとにできる作品が限られているのかもしれないという気がした。
6/25/1999
General's Daughter
将軍の娘 エリザベス・キャンベル(☆☆)
ジョージア州の陸軍基地内で、女性大尉の惨たらしい全裸暴行死体が発見された。彼女は退官を目前にした人望の厚い将軍の娘であったため、外部に公表されないよう、軍隊内部での独自調査が進められることになるが、誰も想像し得ない驚愕で残酷な真実が明らかになっていく・・・という、ネルソン・デミルのベストセラー軍隊ミステリー小説の映画化。新人クリストファー・ベルトリーニとベテランのウィリアム・ゴールドマンが脚色し、『コン・エアー』のサイモン・ウェストが監督。出演はジョン・トラボルタ、マデリーン・ストウ、ティモシー・ハットン、ジェームズ・ウッズ、ジェームズ・クロムウェルら。
残念ながら、あんまり面白くない。売れた原作と、ベテラン俳優の「顔」があればなんとかなるとでも思ったか。
猟奇的レイプ殺人。誰がやったのか。何故やったのか。外部からの介入の前に事件の真相を明らかにしなければならないプレッシャーの中で、調査官は謎を追っていく。男社会の典型である軍隊において、将軍の娘であり、有能な士官として生きる難しさや、父親と娘の関係を背景とした愛憎。これ、本来、ミステリーとしての面白さと、重たいドラマやテーマが絡んでいるはずの話だと思うのだが、映画はミステリーとしてはちっとも面白くないのに加え、微妙な題材を見せもの主義的・商業主義的に扱うデリカシーのなさで、見る人によっては不愉快に感じるかもしれない。
そもそも、脚色がうまくいっていないのではないか。原作を刻み込んだが為に生じたと思われる、本筋に直接絡んでこない無駄な設定やシーンが多いし、焦点がどこにあるのか良く分からない。私のように原作を読まずに映画を見ている人間にしてみれば、こんな退屈な話なのに、どうしてベストセラーになるのか不思議に思うほどである。
もちろん、それを預かる演出も悪い。サイモン・ウェストは、カッコが良く刺激的な映像をスピーティにつないでいくことにしか興味がないように見える。この過剰な絵作りは正直云って鼻につくばかりで、ドラマに貢献していない。短いカットを落ちつきなくつなぎ、役者たちの熱演・怪演を寸断する。そして、映画は最後まで、登場人物の心理に深く踏み込むことなしに終わってしまう。
ジョン・トラボルタやジェームズ・クロムウェルは、そもそも大きな役であるし、そこに立っているだけで存在感を出せるからよいとして、MPを演じるティモシー・ハットンや、主人公のパートナーを演じるマデリーン・ストウのキャラクターは描きこみが足りず、ことに後者など、存在しなくても物語的に大差がない程度の無駄遣いで可哀想だ。男ばかりの軍隊の中で捜査を進めて行く女性として、「将軍の娘」の立場とダブらせるなど、活かし方があったのではないだろうか。役者としては、相変わらずパワフルな怪演で場面をさらうジェームズ・ウッズが得をしている。
ジョージア州の陸軍基地内で、女性大尉の惨たらしい全裸暴行死体が発見された。彼女は退官を目前にした人望の厚い将軍の娘であったため、外部に公表されないよう、軍隊内部での独自調査が進められることになるが、誰も想像し得ない驚愕で残酷な真実が明らかになっていく・・・という、ネルソン・デミルのベストセラー軍隊ミステリー小説の映画化。新人クリストファー・ベルトリーニとベテランのウィリアム・ゴールドマンが脚色し、『コン・エアー』のサイモン・ウェストが監督。出演はジョン・トラボルタ、マデリーン・ストウ、ティモシー・ハットン、ジェームズ・ウッズ、ジェームズ・クロムウェルら。
残念ながら、あんまり面白くない。売れた原作と、ベテラン俳優の「顔」があればなんとかなるとでも思ったか。
猟奇的レイプ殺人。誰がやったのか。何故やったのか。外部からの介入の前に事件の真相を明らかにしなければならないプレッシャーの中で、調査官は謎を追っていく。男社会の典型である軍隊において、将軍の娘であり、有能な士官として生きる難しさや、父親と娘の関係を背景とした愛憎。これ、本来、ミステリーとしての面白さと、重たいドラマやテーマが絡んでいるはずの話だと思うのだが、映画はミステリーとしてはちっとも面白くないのに加え、微妙な題材を見せもの主義的・商業主義的に扱うデリカシーのなさで、見る人によっては不愉快に感じるかもしれない。
そもそも、脚色がうまくいっていないのではないか。原作を刻み込んだが為に生じたと思われる、本筋に直接絡んでこない無駄な設定やシーンが多いし、焦点がどこにあるのか良く分からない。私のように原作を読まずに映画を見ている人間にしてみれば、こんな退屈な話なのに、どうしてベストセラーになるのか不思議に思うほどである。
もちろん、それを預かる演出も悪い。サイモン・ウェストは、カッコが良く刺激的な映像をスピーティにつないでいくことにしか興味がないように見える。この過剰な絵作りは正直云って鼻につくばかりで、ドラマに貢献していない。短いカットを落ちつきなくつなぎ、役者たちの熱演・怪演を寸断する。そして、映画は最後まで、登場人物の心理に深く踏み込むことなしに終わってしまう。
ジョン・トラボルタやジェームズ・クロムウェルは、そもそも大きな役であるし、そこに立っているだけで存在感を出せるからよいとして、MPを演じるティモシー・ハットンや、主人公のパートナーを演じるマデリーン・ストウのキャラクターは描きこみが足りず、ことに後者など、存在しなくても物語的に大差がない程度の無駄遣いで可哀想だ。男ばかりの軍隊の中で捜査を進めて行く女性として、「将軍の娘」の立場とダブらせるなど、活かし方があったのではないだろうか。役者としては、相変わらずパワフルな怪演で場面をさらうジェームズ・ウッズが得をしている。
4/09/1999
GO
GO(☆☆☆)
出演はサラ・ポーリー、ケイティ・ホルムズ、デズモンド・アスキュー、タイ・ディッグス、ウィリアム・フィッシュナ-、ジェイ・ムーア、ティモシー・オリファントなど。メインとなる出演者が若いのでいわゆる「ティーンもの」かと思ったら、一風変わった犯罪コメディだった。
『スィウィンガーズ』(未見)で注目を浴びたダグ・リーマン監督の新作で、ドラッグ取り引きとその顛末を描いている。話そのものはたいしたものではないのだが、構成と物語の語り口で見せる映画である。インディペンデントのクールな映画、といえばよく聞こえるが、どちらかといえば、「こういうのってクールでしょ?」と押し付けてくる感じが少し、鼻につく、かも。
まあ、クエンティン・タランティーノの「パルプ・フィクション」みたいなことをやってみたかったのかな、と思ったりする。なにせ、この映画、時間軸がねじ曲げられ、最初のエピソードで提示されたシーンが、別の視点からみたエピソードの中で反復され、そこで別の意味を付与され、度は別の物語を構成する要素になっていくというようなかたちで、3つのエピソードが絡み合っていくのである。ただし、これらは独立した話ではなく、あくまでひとつの事件を複数の視点から再構成したものになっていて、最後は一つのところに気持よく収束していくのである。
少しはモノマネっぽいところがあるのだが、104分、無駄なくコンパクトにまとめた構成力はたいしたものだ。また、この作品には、低予算ゆえの荒っぽさや安っぽさ、キャストの若さなどが、勢いになっているという魅力がある。中心的なキャラクターの一人を演じるサラ・ポーリーなど、なかなか良い面構えの女優だと思った。
コロンビア映画のタイトルに、本編がインサートされて始まる出だしはなんかは、ちょっと、凝り過ぎの感はあるがカッコ良かった。まあ、あんまり本質と関係のないそういう小細工が目立ちすぎるきらいはあるんだけどね。
出演はサラ・ポーリー、ケイティ・ホルムズ、デズモンド・アスキュー、タイ・ディッグス、ウィリアム・フィッシュナ-、ジェイ・ムーア、ティモシー・オリファントなど。メインとなる出演者が若いのでいわゆる「ティーンもの」かと思ったら、一風変わった犯罪コメディだった。
『スィウィンガーズ』(未見)で注目を浴びたダグ・リーマン監督の新作で、ドラッグ取り引きとその顛末を描いている。話そのものはたいしたものではないのだが、構成と物語の語り口で見せる映画である。インディペンデントのクールな映画、といえばよく聞こえるが、どちらかといえば、「こういうのってクールでしょ?」と押し付けてくる感じが少し、鼻につく、かも。
まあ、クエンティン・タランティーノの「パルプ・フィクション」みたいなことをやってみたかったのかな、と思ったりする。なにせ、この映画、時間軸がねじ曲げられ、最初のエピソードで提示されたシーンが、別の視点からみたエピソードの中で反復され、そこで別の意味を付与され、度は別の物語を構成する要素になっていくというようなかたちで、3つのエピソードが絡み合っていくのである。ただし、これらは独立した話ではなく、あくまでひとつの事件を複数の視点から再構成したものになっていて、最後は一つのところに気持よく収束していくのである。
少しはモノマネっぽいところがあるのだが、104分、無駄なくコンパクトにまとめた構成力はたいしたものだ。また、この作品には、低予算ゆえの荒っぽさや安っぽさ、キャストの若さなどが、勢いになっているという魅力がある。中心的なキャラクターの一人を演じるサラ・ポーリーなど、なかなか良い面構えの女優だと思った。
コロンビア映画のタイトルに、本編がインサートされて始まる出だしはなんかは、ちょっと、凝り過ぎの感はあるがカッコ良かった。まあ、あんまり本質と関係のないそういう小細工が目立ちすぎるきらいはあるんだけどね。
6/02/1998
Godzilla (U.S.)
GODZILLA ゴジラ(☆)
南太平洋で日本の漁船を襲った謎の巨大生物は、フランスの核実験で放射能を浴びて異常な進化を遂げた巨大な爬虫類であった。繁殖のため地球をどっちに回ったのか知らないがわざわざNYに上陸した怪物は米軍とチェイスを繰り広げながら街を破壊、マジソンスクエアガーデンに無数の卵を産みつける。
東宝から権利を買ったソニー・ピクチャーズが製作・監督に『インディペンデンス・デイ(ID4)』のコンビ、ディーン・デブリンとローランド・エメリッヒを起用して製作した米国版ゴジラ。音楽のデイヴィッド・アーノルドも「ID4」組である。出演はマシュー・ブロデリック、ジャン・レノら。
予測はできたことであるが、これが全くIQの低いガサツな作品なのである。別に日本のゴジラに思い入れもないので、<大イグアナNYに現る>だと思って観ていたのだが、この幼稚さ、低脳さ加減は並みじゃない。
まず怪物に魅力がない。「大怪獣が街を破壊する映画」を期待すると、「大イグアナを追いかけて、はずしたミサイルで人間が街を破壊してまわる映画」だったりするのも問題だが、なんといってもこのクリーチャーの、デザインのみならず、動きにすら全く愛敬がないのは致命的である。生物的にしたかったというが、人間の妊娠検査薬で繁殖期だと分かることが「生物的」なのではない。作り手に、この怪物に対する愛情が欠落しているのが一目瞭然である。
では人間さまの方はどうかというと、どいつもこいつも食われて死んでもらって構わないと感じるほど魅力に欠けるキャラクターばかりだ。口にする台詞ときたら幼稚園の学芸会。中学生でも書きそうなダイアローグ。囮につかう魚の山を見て"A lot of fish."というマシュー・ブロデリック。カットの切り替えに当たる演出の間は明らかに笑いを狙っているのだが、こんな台詞をきかされてどう反応したら良いのか。こんな役を演じるブロデリック自身が間抜けに見えてくるのが悲しい。
『ジュラシック・パーク』もどきだといわれることを承知で持ってきたにちがいない後半の見せ場だが、このあたりも観客が期待したはずの「怪獣映画」から完全に逸脱しており、敢えてモドキをやる意味がわからない。ID4で馬鹿にされた憂さ晴らしをしたいのか、有名な映画評論家(シスケル&エバート)に似たキャラクターを出してくるあたりの幼稚な負け惜しみ。
オープニングのシークエンスと、うなされた日本の漁師が巨大イグアナをゴジラと呼んだことからゴジラという名前になってしまうエピソードは素直に面白かったが、それ以外は全く見るべきところのない作品である。これならば、以前、ゴジラを撮ると噂されたが予算の折り合いがつかず降板したヤン・デボンが撮った『ツイスター』の方が、まだ怪獣映画の変種として面白い(というか、わりと好き)。(1998/6)
南太平洋で日本の漁船を襲った謎の巨大生物は、フランスの核実験で放射能を浴びて異常な進化を遂げた巨大な爬虫類であった。繁殖のため地球をどっちに回ったのか知らないがわざわざNYに上陸した怪物は米軍とチェイスを繰り広げながら街を破壊、マジソンスクエアガーデンに無数の卵を産みつける。
東宝から権利を買ったソニー・ピクチャーズが製作・監督に『インディペンデンス・デイ(ID4)』のコンビ、ディーン・デブリンとローランド・エメリッヒを起用して製作した米国版ゴジラ。音楽のデイヴィッド・アーノルドも「ID4」組である。出演はマシュー・ブロデリック、ジャン・レノら。
予測はできたことであるが、これが全くIQの低いガサツな作品なのである。別に日本のゴジラに思い入れもないので、<大イグアナNYに現る>だと思って観ていたのだが、この幼稚さ、低脳さ加減は並みじゃない。
まず怪物に魅力がない。「大怪獣が街を破壊する映画」を期待すると、「大イグアナを追いかけて、はずしたミサイルで人間が街を破壊してまわる映画」だったりするのも問題だが、なんといってもこのクリーチャーの、デザインのみならず、動きにすら全く愛敬がないのは致命的である。生物的にしたかったというが、人間の妊娠検査薬で繁殖期だと分かることが「生物的」なのではない。作り手に、この怪物に対する愛情が欠落しているのが一目瞭然である。
では人間さまの方はどうかというと、どいつもこいつも食われて死んでもらって構わないと感じるほど魅力に欠けるキャラクターばかりだ。口にする台詞ときたら幼稚園の学芸会。中学生でも書きそうなダイアローグ。囮につかう魚の山を見て"A lot of fish."というマシュー・ブロデリック。カットの切り替えに当たる演出の間は明らかに笑いを狙っているのだが、こんな台詞をきかされてどう反応したら良いのか。こんな役を演じるブロデリック自身が間抜けに見えてくるのが悲しい。
『ジュラシック・パーク』もどきだといわれることを承知で持ってきたにちがいない後半の見せ場だが、このあたりも観客が期待したはずの「怪獣映画」から完全に逸脱しており、敢えてモドキをやる意味がわからない。ID4で馬鹿にされた憂さ晴らしをしたいのか、有名な映画評論家(シスケル&エバート)に似たキャラクターを出してくるあたりの幼稚な負け惜しみ。
オープニングのシークエンスと、うなされた日本の漁師が巨大イグアナをゴジラと呼んだことからゴジラという名前になってしまうエピソードは素直に面白かったが、それ以外は全く見るべきところのない作品である。これならば、以前、ゴジラを撮ると噂されたが予算の折り合いがつかず降板したヤン・デボンが撮った『ツイスター』の方が、まだ怪獣映画の変種として面白い(というか、わりと好き)。(1998/6)
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