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11/19/2011

Moneyball

マネーボール(☆☆☆★)


主力選手の流出と予算制約に悩まされたメジャーリーグ球団、オークランド・アスレチックスで、1997年にジェネラル・マネージャーとなったビリー・ビーンが、邪道扱いされていた統計的な「セイバーメトリクス理論」を積極的に取り入れてチーム編成を行い、他チームと互角以上に戦えるように奮闘した物語である。

もちろん、米国のメジャーリーグ・ベースボールが題材ではあるが、なにしろチーム編成に責任をもつGMが主人公であるから、選手たちや試合の勝ち負けといった野球の「表側」ではなく、選手を評価し、他チームと交渉し、トレードし、チームを編成していく、舞台裏の部分に焦点があたっていて、野球好きのみならず興味深く見ることができる。

ただ、この映画は、必ずしも「セイバーメトリクス理論」を優れた手法として紹介し、礼賛するものではない。だいたい、客観的にみても映画の中で説明されている程度の「理論」は、手法においてそれほど洗練されているようには思えない。統計的といってみても、分析の切り口や仮説の立て方、解釈次第でいかようにも使えるのであることは、少し考えてみればすぐにわかることだ。

実際、この「理論」の映画の中での描写としては、旧来の常識に対するアンチテーゼとして波紋を呼びそうな極端なものばかりが強調されているように思う。選手の評価という面はともかく、野球の試合における戦術という意味ではプリミティヴそのものなんじゃないか。ただ、映画の中におけるこの理論の役割は明確で、要は、財務的に困窮していて常識的には戦力補強ができない状況のなかで、独自の着眼点で評価し直すことで「掘り出し物」を見つけようとした、そして、それがたまたま一定の成果を収め、注目を集めたということであり、それ以上のものではない。

しかし、この映画がほんとうに描こうとしているのは、ブラッド・ピットが演じる主人公の個人的な戦いのドラマなのだろう。映画はこの人物のバックストーリーをこう紹介していく。いわく、スタンフォードへの奨学金すら決まっていたのに、スカウト陣から素質万全とのお墨付きを得て、巨額の契約金と引換にプロの道へと足を踏み入れたが、結局のところ芽が出ることなく未完の大器として現役を去ることになった、苦い挫折の経験の持ち主であると。

世間の常識に照らしあわせた人材の評価とは一体なんなのか、他人の評価や巨額のお金が一体何を意味するのか。この映画の中で、人材の評価に新たな尺度を持ち込もうとする主人公の戦いは、そんなわけで、この人物が挫折から学び、人生をかけた雪辱戦に臨む戦いなのであるというわけだ。そして、その戦いには、多分、終わりはない。チームがワールド・チャンピオンになれるか、なれないかに関わらず。

だから、この映画は野球を描いているようで、描いていない。「弱かったチームが奇跡の連勝」といった、ありがちなフォーミュラに流し込んだりもしない。あの年、アスレチックスが歴史的な連勝記録を作ったことは物語の重要な要素として扱われているけれども、それをクライマックスにしていないし、実にあっさりした見せ方になっていることは、そう考えれば当たり前のことだ。まあ、「定型的な物語」をこそ見たかった観客は、それをもって重大な瑕疵だと思うかも知れないけれどね。

気合が入ると「熱演」しがちなブラッド・ピットは、主人公を自然体で演じて好印象。娘役の子役と絡んでいる姿がとても板に付いている。私生活でたくさんの子供達に囲まれていることが、こんなところに良い影響を及ぼしているんじゃないか。主人公の片腕となる統計専門家は実在の人物にかわって用意された架空のキャラクターだが、「実在の」という制約から解き放たれているぶんだけ面白い描かれ方をしていて、これを演じるジョナ・ヒルも好演である。チームの監督役にフィリップ・シーモア・ホフマンを起用しておきながら、脚本も、演出も、この人物にあまり興味がなかったのかと思う無駄遣い。まあ、主人公と対立する立場としては海千山千のスカウトたちの存在があるから、監督の独自の立ち位置を見出しにくかったんじゃないだろうか。

10/01/2011

The Man from Nowhere 아저씨

アジョシ(☆☆☆)


これは、あれだな。どっちかっていえば、韓国版『Man on Fire』なんだよな。ほら、デンゼル・ワシントン主演で『マイ・ボディガード』ってあったでしょ。話の構造はあれととてもよく似ている。本当はくたびれた男が演じたほうがよさそうな主人公を、「美男子」が演じるところまで似ているかもしれない。

過去を捨て、世捨て人のように生きている質屋の「おじさん(アジョシ)」。彼が唯一心を通わせた孤独な少女が犯罪に巻きこまれ、命すら危うくなったとき、彼の怒りが爆発する。かつて身につけた特殊工作員としての技能を発揮して壮絶な闘いに身を投じていくのだ。

ポン・ジュノの『母なる証明』で演技者としての実力をアピールしてみせたウォンビンが、ここでは娯楽映画のヒーローという分かりやすい役柄ながら、その内面に迫る好演で、一回り成長したところを見せてくれる。アクション・シーンでも体がよく動いていて、「特殊工作員という過去を持つ男」などという、映画の中だけで登場する嘘くさいキャラクターに、あの国ではあり得ないともいえないなぁ、などというリアリティを与えていて好印象。後半、短髪にすると顔立ちの良さが際立つ。

ところで、こういう映画では、敵となる犯罪組織が非人間的な外道であればあるほどに、盛り上がるものだ。相手のワルが際立てば、主人公(と観客)の怒りが増幅され、主人公の行う正義の鉄槌にカタルシスが生まれる。また、正義の鉄槌そのものが多少行き過ぎていたり残虐だったりしても、相手はもっとヒドイ奴らなんだから、それでいいのだと自己正当化もできるから後味が悪くならない。

そうした意味で、本作の悪人どもは、変な表現だけれども、本当に素晴らしいと思う。薬物密売にとどまらず、児童の監禁虐待と搾取、臓器売買と悪事のフルコースだ。もちろん、臓器を抜き取られて殺された死体とか、抜き取られた目玉とか、ビジュアル的にもインパクトが強い。もちろん、そこで好みは別れるだろう。が、これらは結果的に「殺されても仕方のない悪党ども」であることを印象付けるのに強く効いているのは否定できまい。

また、この映画、そういう悪事の全貌や関係者の複雑な関係を、比較的に分かりやすく交通整理してみせているところがなかなか上手いと思う。全く役に立たない警察連中の存在は、そうした構造を分かりやすく説明するためだと思えば納得が行く。

もうひとつ、主人公と対になる無口だが凄腕の殺し屋を敵方に配置している設定が地味ながらしっかり効いている。こういうのもジャンルの定番であってさして珍しいわけではない。が、互いの実力を認めあい、プロとしての意地をかけ、対等な立場でラストバトルに突入という展開が盛り上がらないわけがないのだ。作り手はなかなか分かっているなあ、とニヤニヤ笑いながら楽しませてもらった。

もちろん、時折見ているこちらをびっくりさせるような規格外の傑作を送り出してくる韓国映画としては、とりたてて誉めそやす傑作の部類ではなくて、ありふれた商品としての娯楽映画ではある。が、娯楽映画として、ありふれた設定を効果的に組み合わせ、きちんと面白い映画に仕立て上げられる実力は侮れない。作品背景に、彼の国ならではを感じさせる要素がコンテクストとして入り込んでいるところも面白い。脚本・監督イ・ジョンボム。日本の、TV局が製作して垂れ流しているようなメインストリームの娯楽映画に、せめてこの程度のレベルを求めることは無理な話なのかね?

8/15/2011

The Mechanic

メカニック(☆☆☆)


続編希望、としておきたい拾い物である。

『狼よさらば』のマイケル・ウィナー監督&チャールズ・ブロンソン主演コンビによる1972年作を、同作のプロデューサーであるアーウィン・ウィンクラーとロバート・チャートフのそれぞれの息子、デヴィッド・ウィンクラーとビル・チャートフがプロデュースした本作。今回は『コン・エアー』でデビューしたサイモン・ウェストが久々の監督、主演は、いまやアナログ系なアクション映画の顔と言っても過言ではないジェイソン・ステイサムだ。

正確無比な仕事ぶりの殺し屋が、恩人であり友人でもある男の殺害依頼を発端にして、私怨で反撃をしていくことになる。そこに、恩人の忘れ形見を弟子として育てていくエピソードが絡み、避けられぬ師弟対決へと突入していく。

タイトルの「メカニック」、というのは、正確無比な仕事をする主人公ら、殺し屋を差していう言葉である。主人公に対する仕事の依頼が、ウェブサイトの「メカニック求む」という求人欄に流れているのが笑いどころかもしれない。

さてこの映画、なんといっても、複数の殺しのアサインメントを重ねていく構成が小気味良い。冒頭、主人公のプロフェッショナルぶりを見せつける仕事があり、ドナルド・サザーランド扮する友人を抹殺することとなる仕事があり、弟子の免許皆伝のための同業者殺害があり、2人で組んでカルト宗教の教祖の抹殺がある。これら一つ一つ、シチュエーションが異なり、殺し方が異なり、バラエティに飛んでいる。本題となる組織への反撃や師弟対決は、それらひとつひとつのステージをクリアしたあとの話だ。

サイモン・ウェストの過去作には『コン・エアー』、『将軍の娘』、『トゥームレイダー』等がある。どれも刺激的な映像を編集でつないでごまかしているだけという印象で感心したことがなかったのだが、本作の仕事ぶりはひと味違う。ビッグバジェットのイベント的映画という重圧から解放されたか、体脂肪率の低い脚本ゆえか、無駄のない筋肉質の演出で盛り沢山な内容を93分にまとめる職人ぶり。これを見ると、次回作に決定した『エクスペンダブルズ2』への期待も高まろうというものだ。

弟子を演ずるベン・フォースターのへたれぶりと、組織のトップを演ずるトニー・ゴールドウィンの卑怯者っぷりは、過去の作品等のイメージによる先入観を裏切らない。見た目だけで説明不要というキャスティングは、この手の映画では重要なことだと、改めて感じさせられた。

8/06/2011

Monsters (2010)

モンスターズ 地球外生命体(☆★)


米国版の新しい「ゴジラ」への起用が話題になったギャレス・エドワーズ監督が低予算で創り上げた作品だというので、どんなものかと見に行ってみた。おんなじ低予算という意味で、今年公開された『スカイライン 征服』なんかと比べたら、一応、「映画」になっていると意味では数段マシ。

じゃあ、面白いのかと言われると、それは別の話なのだ。残念ながら。

NASAの事故により宇宙で採取した異星由来の生命体のサンプルがメキシコ上空でバラまかれてしまい、この「外来種」に汚染された地域が封鎖されている。主人公である報道写真家は、とある女性をエスコートしてこの地域を突破し、米国国内に帰らなければならない羽目になる、という話。

地球に襲ってきたエイリアンというのではなく、たまたま外来種に汚染された、というアイディアはとてもユニークだし、面白い。この生き物がたまたま環境に適合して、独自の生態で繁殖しているわけである。

また、大きくなったイカの化け物ようなモンスターは、封鎖された地域の外で暴れて街を壊したりするのだが、人々がその様子を普通に報道番組で観ていたり、何か、不可抗力の災害のように見ている様子もとても面白い。明らかに異常事態であり、非日常な状況なのだが、その「非日常」が「日常」になってしまった本作の世界観は、どこか、原発災害後の日本の現実と二重写しにならないでもない。また、米国とメキシコの国境に、万里の長城のような高い壁が築かれているというのは、なにか、不法移民問題に関する暗喩であろうか。アメリカがばらまいた種なのに、ね。

・・・と、まあ、発想や設定は面白いのだ。そして、これを男女二人の脱出行、ロードムービーとして仕立てようというアイディアも良いと思うのである。

しかし、この映画の良いところはそこまでだ。だいたい、スリルもない、サスペンスもない、アクションもない、ドラマもない。これでどうしろというのだ。話の運びそのものにも工夫がなくて行き当たりばったり。キャラクターの言動に一貫性がないし、そもそも、男女二人のキャラクターも魅力がない。怪物の見せ方も、デザインもつまらない。

そんなわけで、たかだか94分の作品であるが、2時間半には感じられるほどの体感時間。1時間を越えたあたりから、ただひたすら早く終わってくれるように祈りながら観ていた次第である。

まあ、本作は監督自ら脚本を書いて、撮影も、美術も、特撮もこなした低予算映画だから、いろんな意味で限界はあるのは分かる。本作に対する評価も、低予算のわりには頑張った、というレベルの話と、エイリアンの侵略もの、巨大生物ものに新鮮で今日的なアイディアを持ち込んだというところへの賛辞であって、それ以上のものではないように思う。

で、改めて、ゴジラ、大丈夫なんだろうか。あんまり期待できないんだが。。。

5/28/2011

My Back Page

マイ・バック・ページ (☆☆☆)


映画評論などで知られる川本三郎の私小説的な原作の映画化で、1970年前後を舞台に、大物活動家気取りの学生が引き起こした朝霞自衛官殺害事件により、かねてより取材の過程でその学生との親交を深めていた新聞社の記者が追い込まれていった葛藤を描く。向井康介脚本、山下敦弘監督。

原作は読んでいないし、そこに描かれたはなしがどこまで事実に基づいているかなどということには興味はない。ただ、リアルタイムでその時代を知る由もない作り手たちによるこの映画を見て、この映画の中には何がしか、普遍的な物語を描くことに成功しているようには思う。その物語というのはこうだ。「それにふさわしい覚悟や実力も定かではないのに、とにかく何かしら事を起こして名を上げ、早くホンモノにならなければ周囲に取り残されてしまうと焦っている男達が、そんな焦りゆえに、引き返すことのできない場所、取り返しの付かない状況に追い込まれていく話」、だ。

もちろん、これは、「エリート気取りの世間知らずな青年が、同じく功名心に駆られた詐欺師的なクズ男に手玉に取られ、大局も見えないまま、青臭い理想にすがって身を持ち崩す話」、でもある。あとになって、「俺、なんで信じちゃったのかなぁ」と。

でも、「なんで信じちゃったのかなぁ」っていうのだけれど、ほら、結局、人間というものは、信じたいと思うことを信じるようにできている生き物なのだ。そして、その信じたいという気持を、そこにつけ込むようにして利用するやつらもいる。はたからみれば、松山ケンイチ演ずる人物の胡散臭さなぞ一目瞭然なんだ。だから、あんな演技、あんな演出じゃ、なんで周囲の人間が騙されるのかわからないっていう人もいるわけだけれど、じゃあ、例えば、「原発は安全、低コスト、CO2を排出しないから環境にも優しいし、原発なしには資源をもたないこの国は立ちゆかない」って、ほら、そんなデタラメの嘘っぱちを勝手に信じておいて、あとになって騙されたと怒っている連中のことはどうなのさ?と思ったりもするわけである。

人は、信じたいと思うものを信じるし、ある時点まで行くと引くに引けなくなって、さらなる泥沼につっこんでいくものだ。それに、詐欺師のたぐいってのは、人のそういう心理につけ込むものだ。

結局、自らの中にある弱さ、焦りが、信じたいと思うものを信じさせてしまったのだという事実を受け止め、良かれと思ってしたことが招いた結末に涙するしかない、そういうほろ苦さは、いまを生きる我々の誰もが共感できるものなのではないだろうか。映画の冒頭で描かれるウサギの死が、まわりまわって、イノセンスの終焉に涙するラストの主人公につながる。そのとき、この映画を観る我々観客もまた、主人公と同じ問いを自らに問わねばなるまい。このシーンの妻夫木聡はいい。最高にいい。『悪人』を経た成長を見せてくれた。

一方の松山ケンイチも頑張った。あの演技を少し過剰だと、周りの人間が何故あんな人間についていくのかわからなくなってしまうという意見も聞くが、それをいうなら、何故未だに「オレオレ詐欺」の類にダマされる人間がいるのかわからない、というのと同じことだ。周りの人間だって彼が本物だと、彼についていくことで自分もまた何者かになれるのだと、信じたかったのさ。松山ケンイチの演技は、この人物をただの得体のしれない詐欺師的クズに見せるのではなく、この人物のなかにある焦燥感や功名心、未熟な思い込みや、おそらく自身で気づいている自分の実力や限界と、それ故の哀しみ、それ故の小物っぷりみたいなものも感じさせてくれた。

この二人に限らず、共演のキャストがみな良い仕事をしている。先輩記者、京大の活動家、ワンポイントで出演している大物。みんないい。

映画の前半、複数人数が部屋で話している場面でのフレーミングや切り替えしのカット割りが少々不自然で気持ち悪いなぁ、と思ってみていたが、映画全体では全景をワンフレームに収めてのだらだらした長回しがやたらに多く、イライラさせられた。ちょっと気取り過ぎ。尺も長い。脚本段階で、何を描き、何を描かないか、すなわち本作のテーマが何なのかについて整理がついていないまま漫然と撮って、編集で何とか見られる状態に仕上げていったんじゃないかと邪推もする。なんだか脚本家・監督のコンビがホンモノかどうか、もう少し見てから判断したって遅くないかとは思った。

3/04/2011

Morning Glory

恋とニュースの作り方(☆☆☆)


出演作を重ねるごとに魅力が増してきているレイチェル・マクアダムスが(恋、はともかく)仕事を成功させるために奔走するドタバタ・コメディ、という枠の中では楽しめる作品である。不機嫌顔の偏屈爺と化した「脇役」ハリソン・フォードも面白いし、ダイアン・キートンは立ち位置をわきまえた好演(まあ、ちょっと年をとったな)。

だけど考えてしまう。どこか納得がいかない。

結局、こうやってテレビは白痴化していくのだ、ということか。

主人公が猛烈アピールで得た仕事で結果を出すため、視聴率の悪いモーニング・ショーの立て直しに躍起になるという話である。いろいろあって、数字が出て、注目を浴び、ネットワークのキー局からお声がかかるまでになっていくというサクセス・ストーリー仕立て。それはいい。

しかし、その成功のプロセスがちょっと釈然としない。

尊敬するニュースキャスターをスカウトしてきたといっても、硬派な番組へと舵を切るわけではない。視聴率を取るために、レポーターたちに過激な体当たり取材を要求し、番組のバラエティ化、白痴化を推し進めていく。報道の力、メディアの力を思い知る出来事があっても、番組の路線を変えはしない。視聴率をとることが良いことで、主人公が行っている番組活性化策が善で、頑固なジャーナリスト気取りは時にスクープをモノにしたとしても、視聴者に媚び、朝の番組にふさわしく料理の一つや二つ作って見せるべき、、、という価値観で突き進み、そこに迷いもなければ、振り返りもない。

主人公が、ということではないだろう。この映画の作り手が、そのあたりのことについてあまりにも無自覚で、批評精神がないということだと思うのである。結果として仕事に賭ける主人公の志の在り処、なんのために仕事をやっているのかがわからない。また、主人公と頑固なニュースキャスターの価値観の対立や相互理解のドラマが、匂わせているほどには描けていない。結局、ハリソン・フォードが立場をわきまえて折れてみせる、ということでしかない。

単に職場の仲間と楽しく、日々の仕事や困難を乗り越えていく話なんだといわれたらそうだ。そういう単純さに本作の魅力の一端がある。しかし、あまりにお気楽なんじゃないか。舞台としてTV局を選んだりせず、どこか他の職場でやってもらえたら、どれほど気持ちよく笑える作品になったことだろうか。

11/12/2010

Machete

マチェーテ(☆☆☆★)


『マチェーテ』は、俗悪エクスプロいテーション映画の顔をしているが、それは上辺のお遊びに過ぎない。

見れば分かることだが、娯楽大作の顔をしていながら基本が出来ていない作品が横行する中においては稀なくらいに真っ当で、よくできた娯楽アクション映画である。それと同時に、荒唐無稽を装いながら、実に現代性、社会性のある真面目な映画でもある。

部分的な瞬発力はあっても全体的な構成力に欠けるロバート・ロドリゲスの作品にしては、ストーリーも、構成もかなりまとも。緩急もあるし、バランスも良い。そういう優等生的な作品をロドリゲス兄貴に求めるかどうかは別として、これはかなり出来がよい部類の作品、広くオススメしたい1本である。

・・・とはいっても、もちろん、過剰なバイオレンスや無駄なエロ描写に抵抗がなければ、の話である。

まあ、それも想像がつくとは思うのだが、それぞれ「過激バイオレンス」、「無駄エロ」の真似事、ごっこ遊びの範疇であって、たいしたことはないんだけどね。何しろ、これは俗悪映画2本立てを再現する『グラインド・ハウス』の冗談予告編から発展したスピンオフ(?)なのだから。だいたい『グラインド・ハウス』という企画そのものが、低俗映画「風」のごっこ遊びであったわけで、本作のエログロ描写が「お約束だからやっている」という模倣の域をでないのは当たり前である。それを腐すより、一緒に笑って楽しむのが吉というものだと思うのである。

さて、おはなしはこんな感じ。

主人公、コードネーム「マチェーテ」はテキサスの日雇い労働者に身をやつしていたメキシコの凄腕麻薬捜査官だ。不法移民排斥を訴える上院議員(ロバート・デニーロ)の暗殺を強要されるが、それは罠であり、暗殺未遂犯として追われる身ってしまう。上院議員の周囲にはドラッグ・マネーに絡んだ陰謀が存在しており。かつて妻子を惨殺した麻薬王(スティーヴン・セガール)や、自警団の男(ドン・ジョンソン)らを敵に回して闘うことになる。主人公に手を貸すのは、彼が兄と慕うカトリック神父(チーチ・マリン)や影で移民を支援する女(ミシェル・ロドリゲス)、そして女警官(ジェシカ・アルバ)。追いつめられた主人公だが、虐げられてきた同胞たちと共に「戦争」に挑む。

ストーリーの核に据えられている米国に流入するヒスパニック系移民をめぐる問題は、まさにいまそこにある現実であり、洒落にならないところまできている。本作も、「マチェーテ」のために荒唐無稽な話を作ったというよりも、少しだけ誇張された現実の中に「マチェーテ」という荒唐無稽なキャラクターを放り込んだ、というほうが正しいくらいである。

それを思うと、本作のクライマックスが「怒りが爆発した主人公の大暴れ」ではなく、「虐げられてきた人々が団結して蜂起」する展開であることも納得がいく。フィクショナルなキャラクターの活躍で溜飲を下げる段階はとうに過ぎているということだろう。そこには、作り手の「同胞」に対する連帯意識とアジテーションが少なからず含まれていると読み解かねばなるまい。

トリプル・ヒロイン体制で、一番特をしているのがミシェル・ロドリゲス。強いばかりか美しく、これまでにない魅力が出ている。ジェシカ・アルバはいい役をもらっているが、こういう映画で脱がずにCG処理っていうのが潔くない。可愛く魅力的に撮ってもらっているが、やはり株は下がったといえるんじゃないか。また、かつての名子役で人気絶頂のアイドルだったリンジー・ローハンが見るも無残な役柄・容貌で出演しているが、ここから先、彼女がこのまま身を持ち崩していくのではなく、ドリュー・バリモアの奇跡を再現できるよう祈っておこう。

7/25/2009

Mt. Tsurugidake

剣岳 点の記(☆☆☆)

まあ、千人並みの意見になってしまうのを承知の上で言う。もちろん地図を作るために前人未到の山に登った先人たちのドラマには心打たれるものがあるし、いい台詞、考えさせられる台詞もたくさんある。自然と人間の対比も、結果として際立っている。しかしメリハリがない脚本も立っているだけで精一杯といった風情の演技も、要領の悪い演出も、どれをとっても一流とは云いかねるのは紛れもない事実。が、それでもなお2時間超、画面を凝視させるだけのわけの分からない力が漲っている。恐るべき一本、本年必見の一本だ。

いやはや、本当に恐ろしいことに、フィルムには作り手の執念とでもいうものが写るのである。この映画を見て、それを思い知らされない人はいないだろう。この映画の舞台裏を知ろうと知るまいと、よほどの鈍感な観客でない限りは、これがただならぬ映画であることに気づくはずだ。なぜなら、ここにはそれだけの凄みがあるからだ。映画で描かれている通りに登るだけでも並大抵ではない山に、当時の測量隊が持ち運んだ装備や資材と共に撮影機材を担いで登り、場面にふさわしい天候を待ち、演技をさせ、撮影する。他の場所では撮らない。本物だけを撮る。そんな無茶苦茶な映画作りをしようとする木村大作と「仲間たち」の覚悟と志がこの映画を特別なものにしている。他の山やセットで足りない場面を追加撮影しようとすらしない愚直な潔さ。それが全て、画面に映っているのである。映画の中で語られる測量隊の面々の苦労は、この映画を作った狂気の人々の苦労である。それを二重写しにするなというほうが無理な話だ、こうなると、劇映画というよりは「劇映画の体裁を借りた壮大なドキュメンタリー」なのではないか。

そう、これは普通の意味でいうところの「映画」ではないのかもしれない。ただ、そんな奇形の作品でありながら、いや、それだからこそ、他にはない「映画的興奮」を感じさせられるのもまた確かである。それは、昨今の見せ掛けだけは派手なイベント映画であったり、化学調味料とステロイドをぶちまけて感動を強要する映画だったり、放送電波をジャックして大宣伝を繰り広げたりしている大ヒット作とかいう代物には決定的に欠けている要素である。

名だたるベテラン俳優たちが、どこか演技どころではない風情で雪中にたたずむ姿や、普通ならどこかで別取りして編集する「撮れなかったが必要なはずのシーン」がそのまま欠如しているところなど、まあ、普通は見ることのない脱力するような欠陥に溢れた作品ではある。しかし、どれほど欠陥だらけの作品であっても、なお、面白い。これはきっと、一人の映画好きとしては評価ではなく、尊敬をすべき仕事なのだろう。完成度でいえば凡作かもしれないが、唯一無二の作品であることは私なんぞがどうこう口を挟む余地はない。

2/08/2009

Mamma Mia !

マンマ・ミーア!(☆☆)


クレジットをみていて、Playtone か、、、トム・ハンクスの会社だよなぁ。トム・ハンクスの会社ということは、『My Big Fat Greek Weddings』もそうだったなぁ、奥さんのリタ・ウィルソンがギリシャ系だったなぁ、ギリシャつながりだなぁ、などと考えていた。きっと、そんなこんなで映画化権を取得したのだろう。

で、これを映画にする意味って何だったのだろう?

いや、もちろん1999年初演の舞台版がスマッシュ・ヒットした記憶も新しいうちにリリースされた本作が、すでにして興行的大成功を収めているというのはわかっている。世界の主要マーケットで最後の封切りとなった日本でもそこそこの観客を集めている。だから、ビジネス的には大いに意味があったと云ってよいだろう。もちろん、話題になったと入っても舞台のチケットは高いし予約が面倒だし、そもそも劇場まで出かけるのも面倒だ、と二の足を踏んでいたひとにも朗報だっただろう。そういう人々を劇場に呼び込んで、みんなハッピーなら意味があったと云えるのかもしれない。しかし、これを映画でやって、(お金が儲かってウハウハなのはともかくとして)何が面白かったのだろうか、と。

そりゃ、メリル・ストリープ、ピアース・ブロスナン、コリン・ファース、ステラン・スカルスゲールドといった映画界では名の知れたキャスティングは、映画好きの興味を引くかもしれない。でも、我々が目にするのは、いい年なのにフィジカルに無理をやらされて息も絶え絶えの出演者たちの無残で見るに耐えかねる姿なんだよ?聴かされるのは下手くそも大概にしたほうがいいピアース・ブロスナンの素人カラオケ大会なんだよ!あれを演出意図というのなら、そんなかくし芸大会、スクリーンで見たくない。演出意図というのなら、それがリアルに息絶え絶えなのでなく、演技として息絶え絶えなところを撮るべきなのではないか。普通に歌が下手なところではなく、歌が下手な演技をこそ撮るべきではないのか。いったい何を考えていたら、役者たちのこうも痛々しい姿をフィルムに焼き付けることができるのだろうか。

結局、映画と舞台の根本的な違いはどこにあるのかということを色々考えさせられる。つまり、舞台であれば、それなりの年(成人した娘の両親)という設定のキャラクターを、若い役者が演じてもそれほど不自然ではないが、映画だとこういう悲惨なことになってしまう。(いっそのこと、『スター・ウォーズ』のドゥークー伯爵や、『ベンジャミン・バトン』のブラッド・ピットのように顔だけ貼り付けりゃ良かったかもね。)それに、陽光きらめく風光明媚なギリシャの小島を舞台にしているから、映画にすれば実際にその素晴らしい景色を見せることができると考えたのかもしれないが、それも舞台の設定として想像力を働かせる方がよほど心が躍り、実景の中で滑稽なダンスが繰り広げられる様はお笑いというか、いわゆる「ミュージカルの不自然さ」そのものにしかならないのだから泣けてくる。断言するけど、こんなものがヒットしちゃうから、ミュージカル嫌いが増えるんだよ。

これは、もともとの舞台がアイディア勝ちの一発ネタのようなもので、それを舞台というクローズドな環境で、観客との一体感を保ちながら保ちながら観客層立ちでsing along するっていうなら楽しかろうと思うが、映画にすればそれだけ欠点も目立ってしまうと思うのだ。はじめからヒット曲ありきで構成されているから、あるシーンは不必要なまでにずるずると引き伸ばされ、あるシーンでは展開上不自然でもその曲を入れたいがあまりに無理やり脚本にねじ込まれるといった具合。ミュージカルでは、ときに、その音楽と歌詞、ダンスの併せ技によって、普通の劇映画が同じ時間では表現しきれないほどの様々な感情や物語を一気に語って見せるような、鮮やかな瞬間を作り出すことも可能だ。だが、この作品では、歌やダンスが重要でもないシーンをだらだらと弛緩させて引き延ばすためにしか機能していない。そんな体では、優れたミュージカルであるかどうかの前に、優れた映画ではありえないし、当然、優れたミュージカル映画足りえるわけがないのである。

『シカゴ』の興行的・批評的成功あたりを境にして次々とミュージカル映画が作られるようになった。そのなかでも成功しているものは、「映画」としてどう見せるのか、映画としてどう表現するのかという課題に正面から、果敢に取り組んでいるのが見て取れる。一方、(興行的にはともかく)失敗作の烙印を押されるものは決まって、「そんなんならば舞台を正面から撮影しておけよ!」というくらいに工夫がないのが常である。『マンマ・ミーア!』の映画版はもう、あからさまに後者の部類であり、全編、これ、ひたすら退屈で醜いのだ。もともと期待値は低かっただけに、それを超える無惨さには絶句で応えるしかあるまい。

8/30/2008

The Mummy: Tomb of the Dragon Emperor

ハムナプトラ3 呪われた皇帝の秘宝(☆☆★)

1999の1作目、2001年の2作目, 2002年のスピンオフ『スコーピオン・キング』以降、少々間の空いた第3作。奇しくもシリーズが手本にした『インディアナ・ジョーンズ』シリーズ最新作と公開時期がぶつかった。

本作では舞台をシリーズ当初のエジプトから中国に移している。こうなると、もはやなんでもアリ。ああ、そういえば、ついに邦題『ハムナプトラ』って、何の意味もなくなっちゃんですね。

シリーズのヒロインを演じていたレイチェル・ワイズが残念ながら降板しマリア・ベロが後を引き継いだが、主人公を演じるブレンダン・フレイザーはもちろん、へっぽこジョン・ハナーも復帰。加えて、これが大事なところだが、ジェット・リーが悪役で、ミシェル・ヨーも出演。監督も正続を手がけたスティーヴン・ソマーズから、たまには失敗作もあるとはいえ娯楽映画を撮らせて信頼の厚いロブ・コーエンに交代。

この出演者、この監督ならと、とりたててシリーズへの興味はないのだが、一見の価値はあるかなと出かけてみた。

このシリーズは、そもそもはユニバーサル・ホラー『ミイラ再生』のリメイク製作を発端にしている。が、これまでも、そんな源流はどこへやら、自由に脚色・展開されてきた。もちろん、インディアナ・ジョーンズが代表するような、クラシカルな冒険活劇を手本にしているには違いないが、なにしろ1999年、つまり、スターウォーズで言えば新三部作のスタートした夏に第1作が公開されたという事実が象徴的なように、CGI を全面導入したダイナミックなVFXを売り物にしたファンタジー要素が大胆に融合されているところが他とは異なる個性になっている。

いろいろ変化はあったとはいえ、今作も基本的な路線は同じ。ドラゴン好きのロブ・コーエンが手綱を握ったこともあってか、悪役ジェット・リーは当然のごとく凶悪(だがどこか愛嬌のある)ドラゴンに変身し、砂塵のなかをミイラの大軍勢が激突する。

ジェット・リーにミシェル・ヨーという、素晴らしいアクションスターを迎えておきながら、VFXで埋め尽くされた画面のなかで映画ファンが2人に期待するような活躍と見せ場はそれほど多くない。また、前作で誕生した息子が成長した設定で登場するのだが、主人公ブレンダン・フレイザーの大冒険というより、妻や息子も一蓮托生、「オコーナー家族の珍道中」とでもいうべきファミリー映画路線に舵を切った節がある。それは興行的には意味があるかもしれないが、主要キャラクターが増員した分だけ描写が薄くなり、とっちらかっただけという印象を受けた。

前作までの、「サービス満点」といえば聞こえはいいが、切るところを忘れたかのように何でもかんでもてんこ盛りでお腹一杯、、、というソマーズ路線からは離れ、真っ当な娯楽活劇に仕上がってはいる、とは思う。しかし、前作までにはあったある意味でヘンテコリンで荒削りなパワーというか、勢いのようなものはない。そうなると、これはこれで、とりたてて見所のない平凡な娯楽大作以上のものではないわけで、微妙な感じである。

そうはいっても、家族での暇潰しにはこんなさじ加減が丁度良いのかもしれないし、ある世代の観客には、すでに本シリーズが「お馴染み」の「懐かしい」作品となっていて、主人公を初めとするキャラクターに再会するだけでも楽しいと思うのかなぁ。でも、リアルタイム「ハムナプトラ」世代より、リアルタイム「インディアナ・ジョーンズ」世代のほうが、ずっと幸せだと思うよ。正直なところ。

2010年公開を目指してアステカを舞台にした続編を企画中という話もあるが、どうなることかね。

6/07/2008

The Magic Hour

ザ・マジック・アワー(☆☆☆★)

演劇的だといわれ続けてきた三谷幸喜の監督作品だが、各方面で大活躍の多忙な売れっ子でありながら、1997年の監督デビュー作『ラヂオの時間』、 2001年の『みんなのいえ』、2006年の『The 有頂天ホテル』、そして本作と作品を継続的に発表、実績を積み上げてきていることで、映画への取り組みが本気であることを示すと同時に、彼のつくる映画のスタイルそのものが、ひとつの立派な個性として確立してきた感がある。こぢんまりとした初期2作の佇まいに比べると、『The 有頂天ホテル』以降、作品としての作りが大掛かりになり、華やかさを増してきた。と、同時に、彼なりの視点と手法で巧妙に再構築されているとはいえ、全盛期のハリウッド映画への隠しようもない憧れを吐露するようになってきている。その結果、いかにも映画的な趣向を演劇的なアプローチで解体・再構築し、結局のところ「三谷幸喜映画」以外には表現のしかたを思いつかない世界ができあがってくるのである。我々は、彼の映画がそういう作品になっていることを了解のうえ、むしろ、それを積極的に楽しもうと劇場に足を運ぶのだ。

監督4作目となる本作では、成城の東宝スタジオに巨大な街のセットを組んで、遠い映画の記憶の中にだけ存在するかのような人工的な映画空間を構築した上、日本人キャストをずらりと並べて街を牛耳るギャングと、「殺し屋役」として雇われた三流役者の無国籍風ドタバタ喜劇をやらかしている。もちろん、物語の都合で作りあげた世界と登場人物を人工的な箱庭に閉じ込めて、「こういうお約束ですから、それに則って楽しんでくださいね」という「ごっこ遊び」であることは、本作を演劇的といわせる最大の要素であるのはいうまでもない。もちろん、笑いをとるために考えられたギャグの一つ一つがこれほどにないまでにわざとらしく作りこまれたネタであることもそうである。

しかしその一方で、大掛かりなセットのなかを自在に動き回るカメラと、そこに刻まれた場面の一つ一つには、監督の脳裏に焼きついて離れないのであろうかつて見た「映画らしい映画」の記憶がそこここに染み付いていて、それを演劇的というにはあまりにも映画的ではないのか、と思わされるのである。この、演劇的なるものと映画的なるものが混在する人工的なごっこ遊び世界という観点で、本作はこれまでのどの作品よりも徹底しているし、そういう意味では三谷幸喜が作ってきた路線のひとつの到着点であると思う。

しかし、なんだかんだいって三谷監督は映画好きの心をくすぐるのがうまい。だいたい映画好きというものは、バックステージものが好きだ。だから、「究極のごっこ遊び」としての映画製作(の真似事)を話の中心に持ってきて、映画の中のお話しと、人工的なセットのなかで「ごっこ」遊びに真剣に興じる監督やスタッフ、役者たちの姿と重なってくるあたりの見せ方は、もはや定番といえるほど使い古された手法でありながら、やはり乗せられてしまうものである。次々に登場する華やかな役者たちの贅沢な使い方も見所である。彼らにセルフパロディを演じさせたかと思えば、他作品では見られないような表情を引き出したてみせるあたりの技は、いうまでもなく三谷幸喜のお得意とするところであるのだが、いつもながら素晴らしい。今回も、今後語り草になるであろう佐藤浩一のコミカルな一面や、(私にとってあまり好きになれない役者の筆頭である)西田敏行を前作に続き脇で巧みに使いこなしているところなど、見所、笑いどころが満載である。

ただ、この作品、このジャンル、この内容にしては少々長すぎるのである。何もかも詰め込んで楽しませてやろうというサービス精神はまことに立派なものだと思うが、ドタバタコメディで136分というのは「勘違い」としか言いようがない。勘違いしてほしくないのだが、私自身コメディ好きで、「ドタバタコメディ」を一段低く見ているわけではない。ジャンルによって、適切な尺というのがあるはずだといっているだけである。それに、「136分」というのは、コメディに限らず「長い」映画の部類だろう。サービス精神と思い入れとの両方で、ついつい、切れなくなってしまったことは想像できるのだが、実際に中盤から後半にかけてだれる部分も少なくなかった。これをあと30分くらい短く完成させられないところが、今の、この人の限界なのかなという気がするのである。これは本人の責任ばかりでもなくって、結局、ヒットメイカーとして、人気者として、あまりにも大きな存在になってしまった彼に、誰も彼のやることに口を出せない状況があるのではないか、などと危惧するものである。

5/10/2008

The Myst

ミスト(☆☆☆★)

異次元というか異世界とこの世の境界線が偶発的に破れてしまい、凄まじいパワーを持つ異形の化け物があふれだしてくるという、ラブクラフトな雰囲気も感じさせるキングの中篇「霧」。この映画は、霧の中に潜む得体の知れないものを前にして、閉じ込められた人間たちがどう行動するのかというドラマを丁寧に描いていることで評価を受けるのかもしれない。しかし、それはこの話を撮る以上は「本筋」として当たり前のこと。むしろ、霧の中を徘徊する宇宙神話的な化け物たちの息遣いを感じさせるスケール感をこそ、評価すべきではないか、と思う。もちろん、「化け物」というのは、9/11 やニューオリンズなど、日常生活に突如襲い掛かった災厄のメタファーとしてみることもできるだろう。今の時代、サブコンテクストに9/11に端を発した社会不安がないわけがない。しかし、本作を覆い尽くす底知れぬ絶望感の源は、あれだけの化け物を出しても決してお笑いに転化させないフランク・ダラボンの確かなホラー魂にこそ根差している。いうまでもないが、この人は無類のキング好きなだけでなく、ホラー映画の脚本で売り出した過去を持っている。

この作品の映画化がフランク・ダラボンの手になる幸せはいろいろあるかもしれないが、やはり、彼のネームバリューによって(派手ではないかもしれないが)確かな実力のある役者が集まっていることだろう。狂信的な宗教おばさんを演じたマーシャ・ゲイ・ハーデンだけではない、いかにもぼんくらな犠牲者クリス・オーウェンとか、無知蒙昧なブルーカラーぶりが見事なウィリアム・サドラーとか、そしてもちろん、主人公を支えることになる射撃の名手を演じたトビー・ジョーンズらが、見事なアンサンブルキャストを形成している。なにしろ、これまでに安手に映画化されたキングの短編で何が辛いかといって、まず役者のレベルが落ちることであった。(もちろん、ついでに、安っぽくセンスのない特撮にも責任があるのだが。)主演にトーマス・ジェーンという、新しいほうの「パニッシャー」(古いほうはドルフ・ラングレンな。)が起用されたと知ったときの不安は映画を見ることによって完全に払拭された。トーマス・ジェーンも花のある人ではないが、良識があると思っている一般人の代表として適役だった。

議論を呼んでいる「ラスト15分」は、原作が敢えて描かず、読者の想像にゆだねた「その先」にある物語を、徹底的に悪意のある解釈で創造したものである。そういえば、ダラボンは『ショーシャンクの空に』でも余計なエンディングを付け足した人であった。個人的に、下手な付け足しをするくらいなら、絶望も希望も「想像にゆだねる」かたちで余韻を残すのが良いと思うが、昨今、野暮なことに、それでは満足できない観客がたくさんいるらしい。結局、ここでの付け足しは、徹底して「主人公の選択が正しいとは限らない」という絶望を見せることであって、ハリウッドの娯楽映画的な決まりごとから逸脱する描写もあって悪趣味でもあるが、それほど悪くないと思った。キングの小説には『デスペレーション』などを代表として「神の行いの残酷さ」をテーマとして扱った作品がある。実はダラボンによる映画版『グリーンマイル』の一番物足りないところは、原作のラストで描かれたそういう要素の掘り下げが足らず、甘さに逃げたところであった。ある意味、今回のエンディングでそのときの借りを返したものという見方もできるかもしれない。

本作で一番残念なのは、「感動もの」として(騙してでも)売りたいがゆえの日本版ポスターだ。劇中でも主人公の描いていたポスターとして何作品かが登場する大ベテラン、ドリュー・ストラザーンの作になるオリジナル・ポスターが陽の目をみなかったのはいただけない。しかし、感動ものとして売るのはいいけど、一度騙されたと感じた観客が再び映画館に戻ってきてくれるのかどうか、せっかくの力作なのに、期待していたものとは違うという理由だけで満足度が下がったりもするもので、みな遠慮なくネットにそういう不満を書き散らすものなのだから、もうすこし考えてほしいよね。

9/24/1999

Mumford

マムフォード ようこそ我が町へ(マムフォード先生)(☆☆☆)

田舎町マムフォードに新しくやってきた心理学者の名前は奇妙な偶然でドクター・マムフォード。彼のセラピーはたちまち人々の信頼を得る。様々な人々がクリニックを訪れて、心の病を解消しようとするのだが、この穏やかな笑顔を持つドクターには大きな秘密があった。。

80年代に注目を浴びたローレンス・カスダンだが、『わが街』、『ワイアット・アープ』、『フレンチ・キス』と続いた不調の90年代を締めくくる1本は、地味ながらなかなか面白い1本だった。5年ぶりの作品だが、人間に対する優しい眼差しと、人生に対する深い洞察が心を打つ佳作。大きな刺激も波乱万丈のストーリーもないが、それでも物語が成立するという自信も感じられる。

出足は牧歌的でのんびりとしている。もしかしたら、最初の30分ほどは退屈だと思うかもしれない。主人公を演じる役者がとぼ無名。映画は彼のところに「患者」として街の人々が次々訪れる様を見せていくだけだ。主人公は受身で、しかも、映画は彼自身について何も踏みこんで描こうとはしない。

なんでそうなっているのか。しばらくすると、その理由が分かる仕組みだ。そして、主人公を巡る「ミステリー」が映画の中盤から後半を大きく転がして行く。

しかし、ミステリーといっても本当の意味ではミステリーではない。なぜなら、その謎は、途中で全部明かされてしまうからだ。普通なら、謎は最後までとっておくことでサスペンスを持続させようとする。謎は明かした途端に求心力を失う。だから、そういう意味では構成問題がある作品ということも出来るだろう。ただ、違う言い方をすれば、これは主人公の謎を巡るサスペンスに頼らないという選択だということもできるのではないか。

実際、この作品の話術はサスペンスとか緊張感などといったものは無縁なところで成立している。物語も、謎を全部吐露した地点から先の、主人公の選択と行動をこそ語ろうとしている。これは計算違いなのではなくて、計算づくで選ばれた話術であり、構成である。その成否は意見がわかれるかもしれないが、私はこれをとても面白いと思う。

主人公を演じるロレン・ディーンは、これといった決まった色や確定したイメージをもっていないこともあってか、表情の裏で何を考えているのか全く分からない、まるでこの世の人とも思えないような不思議な人物を好演している。興行的には難しいところだが、あえて既成のイメージがない役者を連れてきたところが、この映画の狙いを良く表しているように思える。

この全く無色透明の主人公を中心に、名前や顔の知られたベテランや曲者を配したアンサンブルが、ハリウッド映画としても相当ユニークな作品にしている。主だった出演者は、ホープ・デイヴィス、ジェイソン・リー、マーティン・ショート、テッド・ダンソン、アルフレ・ウッダード、デヴィッド・ペイマー、ズーイー・デシャネルら。そういえば、カスダンはアンサンブル・キャストをさばくのが得意な方だったよな。

8/21/1999

Mickey Blue Eyes

恋するための3つのルール(☆☆)

NYのオークション会場で進行を務める英国男が恋した女性はイタリア系。実は彼女の父親は犯罪組織の一員で、まわりにいるのは物騒な男たちばかりなのだ。親のしていることは自分たちとは関係ないと、惚れた彼女と結婚に踏み切ろうとする主人公だったが、案の定といべきか、やはり災難が待っているのだった、というお話。

主演のカップルがヒュー・グラントとジーン・トリプルホーン。映画を観る前から、ヒュー・グラントがオロオロする姿が目に浮かぶよう。

マフィアもののコメディといえば佳作『ドン・サバチーニ』や近作『Analyze This』などが、マーロン・ブランドやロバート・デニーロといった、過去の映画の役柄を嫌でも彷彿とさせる「大物」を引きずり出してきたところがカギになっていた。本作でのその役どころは、血の気の多いジェームズ・カーンが担うというわけだ。組織の親分というわけではないので、役者としての格下感もちょうどいい具合。いや、しかし、恋人の父親がジェームズ・カーンってのはイヤな感じだな。で、周囲をバート・ヤングなんかがうろちょろしているのな。

単発ネタ気味ではあるものの、笑えるシーンはふんだんにある。ことにヒュー・グラントが必至でイタリア訛りのマフィア言葉を英国訛りで練習するあたりは一聴に値する傑作シーン。ジェームズ・カーン以下のヤクザ顔キャストたちの怪演も期待通り。

しかし、見終わって思うに、作品として少々煮え切らない。さんざん笑ったはずなのにな。

これ、一応、ロマンティック・コメディのはずなんだよね。だから、主人公が幾多の困難を乗り越えてハッピーエンド、という構成になるはずだ。もちろん、主人公がとんでもない災難にも耐えてみせようと思うのは、魅力あるヒロインゆえ、そこがロマンティック・コメディの「ロマンティック」な所以。

でも、ジーン・トリプルホーンのキャラクターが完全な脇役かと思うほどに描けていないのだ。これが致命的。なにせ、主人公がそこまでして困難に立ち向かう理由がわからなくなってしまうんだから。で、本末転倒というのか、主人公が遭遇する「数々の困難」のほうが映画を乗っ取ってしまった。まあ、笑ってオシマイにするにはそれほど悪い映画じゃないんだが、ちと、惜しい。

8/05/1999

Mystery Men

ミステリー・メン (☆★)

チャンピオン・シティの平和を守るキャプテン・アメージングは、「スポンサー」のご機嫌を取るためには強力な宿敵との派手な闘いが必要と判断し、精神病棟から恐るべき強敵、カサノヴァ・フランケンシュタインを解放するが、罠にはまって監禁されてしまう。この事実をつきとめたスーパー・ヒーローなりたがりの男たちが仲間を集め、街の危機に立ち向かう。

コミックの映画化となるこの作品、とても面白そうに思われるプロットだし、キャスティングもちょっとした映画好きだったら「豪華!」って思うに違いない。なにしろ、グレッグ・キニア、ジェフリー・ラッシュ、ウィリアム・Hメイシー、ベン・スティラー、ジャニーン・ガラファロ、ポール・ルーベンス、ハンク・アザリア、クレア・フォラーニ・・・なんだからね。

でも、残念ながら整理されていないおもちゃ箱というよりは、とっちらかったゴミ捨て場のような印象が残る作品になってしまった。監督は、CM出身だというキンカ・アッシャー。初監督作品らしい。

スーパー・ヒーローものをパロディにした世界観や設定、気合の入ったプロダクションによるチャンピオン・シティの造形も注目に値するし、個々の役者も楽しそうに怪演している。でも、なんか面白そうだけど、実際には笑うに笑えないコメディになってしまった。(そのせいか、日本では見事にビデオに直行のようだ。)

ストーリーに盛り込まれたオフビートなヒネリは楽しい。はぐれものたちが団結して悪に挑むと云うストーリーも王道だ。でも、エピソードは単なる数珠ツナギでメリハリがないし、カメラワークもうんざりするほど落ち着きがない。

どうしてこうなってしまうのか。もちろん、脚本も、監督も未熟なのだけど、そもそも作品としてのスタンスのとりかたに問題はないのだろうか。つまり、徹頭徹尾ナンセンスで押しきるのか、荒唐無稽さは設定にとどめ、未熟なはぐれものたちが未曾有の危機に対して団結し、悪と戦う中で成長をとげていくという王道なドラマを盛り上げたいのか。

演技陣は総じて暴走気味。監督はこのキャストをコントロールできていない。

そのなかで一番自分の役割を良く心得ていたのは利益優先のキャプテン・アメージングを演じたグレッグ・キニア、迫力ある敵を演じたジェフリー・ラッシュ、それにシャベルを振り回すウィリアム・H・メイシーの3人だろうか。ことに妻に半分馬鹿にされながらヒーロー願望を捨てられない男を演じたメイシーの演技には、ナンセンスな中にも節度があってちょっとくらいは泣かせてくれる。流石だ。

5/01/1999

The Mummy

ハムナプトラ 失われた砂漠の都(☆☆☆)

伝説の「死者の都」への道を知るという主人公を道案内にして、好奇心旺盛な図書館司書の女性とその兄を加えた一行が旅に出るが、道中、都に眠る財宝を目当てにした連中や、都市の秘密を守るかのごとく襲撃を繰り返すミステリアスな民族集団との遭遇。最後には呪われし神官インホテップとミイラ軍団と対決する羽目になる。出演はブレンダン・フレイザー、レイチェル・ワイズ、ジョン・ハナら。

ミステリアスな砂の顔をあしらった大作感漂ようポスターが随分前から劇場に貼られていた。かつて、怪奇映画で鳴らしたユニヴァーサルの製作で、『ミイラ再生』をリメイクする、という。

しかし、そんな大義名分のもと作らた映画は「好き勝手に翻案された、インディアナ・ジョーンズ風の冒険アクション」だった。なんじゃそりゃ。でも、古典的なミイラ映画じゃ、客は入らんよな。脚本・監督は、前作『ザ・グリード』で、一部の映画ファンを狂喜させたスティーヴン・ソマーズだという。いつのまにやらすごい出世である。

この映画、「インディアナ・ジョーンズ風」といえば聞こえは良いが、まさに、それをお手本にした安っぽいコピーだ。全てはどこかでみたことのあるシーンのツギハギで、何一つ新しいところはない。でも凡百のインディアナ・ジョーンズものまね映画と違うのは、作り手の過剰なまでのサービス精神と、有無を言わせない物量なんだろうと思う。

スティーヴン・ソマーズの演出はどちらかといえば荒っぽくて乱暴なところがあり、お世辞にも上手い監督じゃないと思うのだが、それでも、観客を喜ばせようとするエネルギーは伝わってくる。今回は予算も潤沢だったのだろう、手を変え品を変え、物量で攻めてくる。このへんで一区切りという限度を知らず、牛丼特盛に卵と豚汁までついてきて、食べ終わったところにカレーライスが出てくるような映画になっているのだ。

しかし、主演が立派な体格と整った顔をしていながら、抜群のコメディ・センスを持ったブレンダン・フレイザーだからして、普通のアクションヒーローにはならないし、だから映画のノリも、真面目にやっているのか、ギャグでやっているのか分からない、コミカルで軽いノリになっている。それが徹頭徹尾陽性な本作の個性であろう。

あと一歩間違えば、バカ映画のたぐいになる、そういう危うい一線上で、なんとかサマー・ブロックバスターとしての体裁を保っているのが面白くもあり、つまらなくもある。いっそ、もっとバカ側に振り切れていたら、もっと面白かったかもしれない。

ILMが砂を使ったエフェクトで力量を発揮。たしかにこういうのはCGI、デジタルの効果でなければ映像化が難しいところだろうし、それにしたって、相応に技術的なハードルも高いんだろう。ILMのなかでも「スターウォーズの新作に入れてもらえなかった」スタッフたちが執念と意地でつくりあげたという。

巨匠ジェリー・ゴールドスミスがいつものように入魂のアクション・スコアを鳴らしていて、最初からこれを聞いてればこの映画が「怪奇映画」だとは思わないはず。本編が終わったあとで流れるエンド・クレジットがヒエログリフをモチーフにしてちょっと新鮮、お洒落だった。

3/31/1999

The Matrix

マトリックス(☆☆☆☆)

サマーシーズンを待たずに3月末などという中途半端なタイミングで公開されるキアヌ・リーヴス主演のアクション映画だというので、さして期待もせずに気楽に見に行き、それほど混んでもいない劇場でで見た。しかし、これがあまりにも面白いので、バカにして見逃すことのないよう、珍しく周囲に触れて回っているところだ。『バウンド』で注目された、ウォシャウスキー兄弟が、ジョエル・シルバーのもとで完成させた、ヴィジュアルも鮮烈なSfi アクションである。

主人公は、表の世界ではコンピュータ・プログラマ、裏の世界では腕利きのハッカーとして生活している。ある日、「彼が現実だと思っていることは、地球を支配する人工知能が作り出した仮想現実に過ぎない」と主張する男たちが現れ、後戻りできない世界へと主人公を誘う。主人公は、彼らのいう “The One”, 特別な存在として、人類の真の解放のために戦うことができるのか。

ともかく、圧倒的に新しい映像世界が、作品世界がそこにあるように感じた。いや、部分部分を見れば、どこかで見たことあるものの集合体で、日本のアニメ、数々の先行するSF、香港スタイルのガン・アクションやワイヤー・ワークなどの影響や引用で埋め尽くされているのだが、それらを自分たちなりに消化して、最先端のCG技術と撮影技術で料理してみせた結果、総体として、これまでに見たことのない「クール」な作品に仕上がっているのである。

映像として格好良いが、単に格好が良いというのとは違い、その映像のスタイルに物語上、世界観上の必然性とがある。物語とヴィジュアルの必然的な結合だ。

止まった時間の中でカメラだけが自在に動きまわり、超現実的なアクションが展開され、薬莢が雨あられと飛び交う。その様は、笑ってしまうくらいに過剰である。そして、あまりのことに唖然としてスクリーンを見つめる。普通ではありえない。しかし、こんなことが可能なのは、この映画が「仮想の電脳空間」で展開されているからだ。

設定が映像に必然性を与え、映像が設定を裏打ちする。スタイルや撮影技術だけならば後続する作品がこぞってこの映画の真似をするだろう、しかし、本作が持ち得たような説得力は決して持ち得ない。そんな意味で、この作品のオリジナリティは強く担保されることになるだろう。

どうしても派手なアクション・シーンにばかりが目についてしまうのだが、コミックの世界から出てきた監督だけあって、構図、色彩設計、ライティングなどがいちいち決まっている。ヘリコプターを使った大掛かりなスタントの撮影も含め、撮影のビル・ホープの貢献は大きいだろう。

敵味方のキャラクターも魅力的に描かれているが、半分以上は脚本よりもキャスティングの成功によるものだ。主人公の仲間となる大きな身体のローレンス・フィッシュバーン、しなやかな身体と大人の色気があるキャリー・アン・モス、敵となる人工知能が差し向けるエージェントを演じるヒューゴ・ウィーヴィング、そして預言者を演じる黒人女優グロリア・フォースター、それぞれの容姿や持ち味がキャラクターを見事に決定づけている。見て分かる、画で語る、それは、キャスティングにまで貫徹された原則になっている。

スローモーションや飛び散る薬莢、2丁拳銃など、香港スタイルの模写が、VFXで超現実的なレベルにまでパワーアップ。コレオグラフィも見事である。ガンアクションと並び、本作のもう一つの柱が香港から招いた達人ユエン・ウーピンが手がけるマーシャル・アーツとワイヤーワークだ。キアヌ・リーブスも、これをこなすのに相当苦労したんじゃないか。もちろん、本場のそれとは比べものにならないヘッポコぶりなのだが、物語設定上、それゆえのリアリティというか、それすらも必然的なものとして見えてくるところが面白いと思う。

まあ、高級な部類の作品ではなく、最強のB級映画と呼びたい、本来カルトな嗜好に訴える作品である。。色々考えだすと荒っぽいところが目についてくるのだが、見ている間それを忘れさせてくれるだけのパワーには溢れた傑作である。主人公が自らの使命を自覚し、次なる闘いに向かうエンディングは、続編への布石という話ももちろんあるにせよ、それ自体が痺れるかっこ良さであった。

3/22/1999

The Mod Squad

The Mod Squad

刑務所行きを逃れる見返りに、潜入捜査をすることになる不良青年3人を主人公とした人気TVドラマ(1968-1973)の設定をリサイクルして映画化。日本でも「モッズ特捜隊」とかいうタイトルで一分が放映されたそうなのだけど、これは残念ながら見たことがない。今回は、主演にクレア・デ-ンズ、ジョバンニ・リビーシ、オマー・エップスをキャスティング。脚本・監督はこれが2本目のほぼ無名なスコット・シルバー。

不良青年たちが潜入捜査をさせられるところは一緒。ドラッグ取引と売春が横行するクラブに潜り込むのだが、捜査をすすめるうち、自分たちをリクルートして潜入捜査を依頼した刑事が、射殺されてしまう。どうやら、押収したドラッグの横長しが絡んでいるようだ。これにショックを受けた3人だったが、事件の真相を暴くため、自らの意思で行動を開始するという筋立て。

まあ、人気ドラマのリメイク企画で、ティーン・アイドルの活躍するアクション活劇を作る枠組みとしては悪くないんじゃないか、と思う。人気・実力共に抜群とまではいわないが、そこそこ知名度が高く、最近比較的目立っているキャストも揃った。

いや、しかしね。これだけの素材を与えられて、こんな映画にしかならないってのは、作り手は相当のヘボだね。監督は、脚本兼任なんだから言い訳はいいっこなしだ。

犯罪暦のある不良少年たちが潜入捜査に雇われるというのは、現実味はないが、いいんだ、そんなこと。「警察バッヂも拳銃ももたないが、警官の入り込めないところで素性を知られずに潜入捜査をするチーム」っていう設定を活かせる話を作れなかったのが敗因。

主演の3人のキャラクターも描けていない。紅一点のクレア・デーンズにはかつての恋人との再会と裏切り、ジョバンニ・リビシには彼を蔑んだ目で見つめる両親との葛藤などという思わせぶりな設定を用意しているが、物語にうまく絡めることができていない。

若者受けするスタイリッシュな作品にしたいという監督の意欲は空回り。これを見ると、ほら、さんざん馬鹿にされる「ミュージック・ビデオみたいなチャカチャカした映画」っていうのにも、それなりのセンスと技術がいるんだということが分かったよ。

2/12/1999

My Favorite Martian

ブラボー火星人2000(☆☆)

NASAの火星探査の及ばぬ先に火星人たちは先進の巨大文明を築いていた!TV局の冴えないプロデューサーの目の前に事故で落下してきた宇宙船に乗っていたのは紛れもない火星人。珍騒動の末、宇宙船の修理に協力することになったプロデューサーだったが、彼の周りには更なる騒動が待ち受けていた・・・という、60年代のTVシリーズ『ブラボー火星人』を元にディズニーが作り上げたリメイク(というか続編なのか?)である。

出演はちょっと豪華で、ジェフ・ダニエルズ、クリストファー・ロイド、エリザベス・ハーレー、ダリル・ハンナという面々。監督はダニエル・ペトリ。

映画会社としてのディズニーが本当に強いと感じるのは、長編アニメ大作や『アルマゲドン』のようなブロックバスターではなくて、本作のように比較的低予算で、とりたてて大きな欠点のないコメディを作り、市場が家族向け作品に飢えているタイミングにきっかりとリリースし、旨味のある商売につなげるところだったりする。

ダニエル・ペトリねぇ。前作『チャンス!』はインベストメント・バンキングにおける男性優位をサラリと批判して見せて、ちょっと面白いコメディだった。が、監督としては軽いコメディを中心に、可もなく、不可もなく作る役割を担っている人、という印象である。まあ、本作もそういう範疇。あんまり志が高くない脚本なりの出来栄えである。退屈だった『キャスパー』の脚本家チームの作だし。

映画の始まりは結構面白い。NASAの火星無人探査機のバッテリーが切れ、探査できなかったその先に火星の文明があった・・というのはジョークとして秀逸で、ヴィジュアル的にも笑ってしまう。ただ、実際に「火星人」と「喋る服」が地球にやってきてからは、低レベルなギャグが騒々しく展開されるだけだ。いやしくも1本の映画にするのであれば、もう少し気の利いたギャグのアイディアがいるだろう。

かなり粒が揃ったキャストの中でも、一番芸達者といえるクリストファー・ロイドが、「地球人形態になっている時の火星人」を演じているのだが、さすが、ドクター・エメット・ブラウン(『バック・トゥ・ザ・フューチャー』)、この人の演技は、終始リミッターがぶちきれたような勢いで暴走する。そりゃあ、面白くはあるんだけれど、映画全体を騒がしく、落ち着きがないものにしてしまったな。

個人的には性格の悪い役を嬉々としてこなすエリザベス・ハーレーや、久しぶりに見たのに容姿が変わらないダリル・ハンナの鼻にかかった声とか、本筋とは違うところで楽しんだ。 関係ないついでだが、「G指定」とは云え『真夜中の呪文(アメージング・ストーリーズ』を髣髴とさせるクリストファー・ロイドの「ばらばら生首」が出てきて、これまたびっくり。血が流れないから?火星人だから?米国のレイティング・システムは偽善だよ、全く。

Message in a Bottle

メッセージ・イン・ア・ボトル(☆☆★)

ニコラス・スパークスっていうベストセラー作家原作。この人の本は空港の売店なんかでよく並んでいるのをみて名前を覚えていたんだが、かなりおおざっぱにいうと、泣かせの入った女性ごのみのメロドラマとか、ロマンスもの、いわゆる ”tearjerker” (お涙頂戴)な小説を 得意とする人という印象。

ケヴィン・コスナー主演作、コスナー自身と盟友ジム・ウィルソンに加え、ティム・バートン諸作で知られる女性プロデューサー、デニース・ディノヴィも製作に名を連ねている。これが女性映画だっていうのもあるんだが、ケヴィン・コスナーも、俺様的なワンマンの製作体制がつまづきの原因という自覚はあるんだな。

共演にロビン・ライト・ペン、ポール・ニューマン。監督に起用されたのが、メロドラマっぽいのが得意なイメージがあるルイス・マンドーキ。

「メッセージ・イン・ア・ボトル」っていうんだから、話は海辺に漂着していた1本のボトルと、その中に入っていた手紙ではじまる。ある男が、妻に宛てた手紙だ。発見したのは女性新聞記者。手紙を読んで、その誠実な心情の吐露に心を動かされた記者が、差出人を探していくと、二年前に妻をなくし、その過去にとらわれたまま日々を送るノースキャロライナの海辺の町に住むヨット職人にだどりつく。

お察しの通り、ヨット職人がケヴィン・コスナーで、女性記者がロビン・ライト・ペン。この二人の、なかなか前に進展しないロマンスがグズグズと展開されるという話である。ポール・ニューマンはケヴィン・コスナーの父親役。

久々にケヴィン・コスナーの良いところが出ていて、ヒロインと少年少女のように戯れるシーンなどは、女性ファン的には心が少しときめいたりするんじゃないかな。一方のロビン・ライト・ペンが演じるヒロインは、離婚を経験し、子供を抱え、仕事もこなす自立した女性。そんな女性が、恋の魔法で女の子のような笑顔や泣き顔をみせるところが可愛いのである。女性観客の、そういう素の自分に戻りたい願望みたいなものを、嫌味にならずに体現できているように思うんだけど、どうだろう。

個人的には久々に見るような気がするポール・ニューマンが良かった。登場時間の短い脇役だっていうのがもったいない、ユーモラスな余裕のある演技で、映画をビシッと締める流石の貫禄。

ルイス・マンドーキは、ポール・ニューマンのキャラクターを始め、脇役やちょい役を丁寧に扱っていて、男女二人のよろめきドラマにプラスアルファの膨らみをもたせている。あと、あまり台詞に頼らない演出をしている。ケヴィンが亡くなった妻の持ち物を、当時のまま一寸も動かさずに置いてあるという設定なのだが、ロビン・ライトがそれを動かしてしまったとき、何も云わずにひとつひとつ丁寧に元の場所に戻すケヴィンの手もとをアップで見せるのね。ここなんかは思わずグッときた。

大人の恋は必ずしも成就する訳ではない。若さ溢れ、ハッピーエンドに向けて突っ走る青春恋愛ものと違い、人生の半ばを迎えてそこから新しい自分を見つけて再出発しようともがいている男女の、ビター・スウィートな物語。さて、これでケヴィン・コスナーはかつての人気を盛り返すことが、、、、できないよなぁ、多分。とりあえず今回は、女性ファンに対して目配せしてみましたっていうところで。

でもさあ、主演二人の会話シーンで、車(金色のカムリ)のドアがカットによって閉まったり開いたりしているような大きなミスがあると、さすがに気が散っちゃうんだよね。