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8/06/2011

Edge of Darkness

復讐捜査線(☆☆☆★)

『サイン』以来、役者としてはスクリーンから遠ざかっていて、最近では場外でのお騒がせ発言により映画スターとしての命脈を絶たれたかの感すらあったメル・ギブソンの、久々の復帰作である。セガールあたりにお似合いの安手なアクション映画っぽい邦題からはなかなか想像しづらいのだが、なかなか見応えのあるポリティカル・スリラーである。もともと本作の監督、マーティン・キャンベル自身が1985年に監督したBBCのTVドラマ・シリーズを、米国を舞台とした映画として脚色、リメイクしたものだそうだ。

主人公であるボストン市警のベテラン刑事のところに、大学を卒業して働き始めたばかりの一人娘が訪ねてくるが、その矢先、刑事の家を賊が襲撃し、その銃撃で娘が殺害されてしまう。警察は、主人公に対する怨恨の線で捜査を進めるが、娘の挙動に不審なものを感じていた主人公は独自に捜査を開始、事件の真相に近づいていくうちに、政治と軍需産業が癒着して進めていた極秘裏の核兵器開発と、それに関わる隠蔽工作に行き当たる。

この映画の直接の「悪役」は、技術開発を行う民間企業という表向きの姿を隠れ蓑にした軍需コントラクターで、秘密裏に違法な核兵器の開発を請け負っている。またその事実の漏洩を恐れて隠蔽工作を進める政府関係者たち、軍需企業から献金を受け内部告発を握りつぶす上院議員らもまたしかりである。とりたてて新しくもない構図ともいえるが、眼に見えている現実の裏側にある闇の広がりをうまく感じさせられる脚本になっている。

陰謀の発端はなんでもよいのだが、そこに核兵器の開発が置かれている点は、オリジナルと同じようだ。本作の土台が80年代のTVドラマであり、当時の社会的不安を反映したものだからであろう。そういう意味で、一般的な意味でいえば少々古さを感じないでもない。ただし、国益を語りながら政官財が癒着する構図が放射性物質をめぐって展開されているところや、結果としてドラマに取り込まれた放射線被曝の恐怖などの要素は、3/11後の日本の観客としては現実との不思議なシンクロニシティを感じさせられたりもして、少々背筋寒く、そして面白い。

まあそんなわけで、過度に自粛してお蔵入りさせるのではなく、きちんと公開してくれたことを評価すべきなのだろうが、台詞で「放射線に被曝」とはっきり言っているのにかかわらず、字幕の表現が「感染」だの「発症」だのと、妙に気を使っているのが気持ち悪い。分かる人は分かるのだからこれで良い、という考え方もあるだろうが、こういう「隠蔽」工作は許容したくない。

メル・ギブソンは、愛娘の死の真相の追求と、復讐のために、自らの体を張って挑んでいく男を、年を重ねてもなおギラギラとした危険な雰囲気を漂わせ熱演している。それがあまりに似合うがゆえに、本作が「悪い奴らを皆殺し」的な単純なアクション・スリラーに見えてしまうところが悩ましいところである。役者が異なれば、もう少し知的な雰囲気の作品に仕上がったのではないだろうか。

実のところ、本作で一番面白いのは、主人公ではなく、レイ・ウィンストン演ずる政府が雇った隠蔽工作屋のキャラクターだったりするのである。数々の汚れ仕事に手を染めてきた男だが、この男なりの倫理観や行動規範があり、単純な悪役とは言い切れない味わい深さがある。現実世界の一筋縄では行かぬ複雑さを体現するこのキャラクターに比べると、主役であるメル・ギブソンはいささか粗暴かつ単純過ぎるし、軍需企業の取る対抗策もまた、知的でなく直接的過ぎた。まあそんなところもあるので、こんな邦題にされちゃうのも致し方ないのかもしれぬ。

11/14/2010

Twilight Saga: Eclipse

エクリプス トワイライト・サーガ(☆☆)

あっという間にシリーズ3作目。原作は4部作だが、最終章は2本に分けて映画化される模様。

今回、映画本編の始まる前に、特別編集「これまでのあらすじ、設定ご紹介」が流された。レンタルだろうと放送だろうといくらでも前作を見る機会がある今の世の中、正直、この映画を「見たい」と思って劇場にくる客が、1~2作を見ていないというのもレアなケースだろう。してみると、この前説は、こんな映画には興味もないのにデートで彼女に付き合うことにした男の子向け、なのか、昨今物忘れが激しくなってきて、全部見てきたくせに細かい設定なんざ覚えちゃいない当方みたいな観客向けっていうことだろう。

さて、今回のお話しである。2作目でいったん離れ離れになってひと騒ぎあったものの元の鞘におさまった主人公カップル。舞台は再びシアトル郊外の田舎町。高校を卒業したら前作での約束通りヴァンパイアの一員になると決心しているヒロインに、自分と同じ苦しみを与えたくないと苦悩する優等生彼氏。そこに、「俺と一緒になればそんな苦しみとは無縁だぜ」と上半身裸の人狼君が割って入り、あらためて3角関係ごっこがぐだぐだと展開される。一方、1作目で敵対した勢力の生き残りである赤毛のヴァンパイアがしつこくヒロインをつけ狙い、とばっちりを受けた草食ヴァンパイア一族と人狼一族が共闘し、赤毛が作りだした凶暴な戦闘部隊と一線交えることになる。

まあ、なんだ。乗りかかった船なので、次は少しくらい面白くなるか、盛り上がってくるか、とちょっとだけ期待しながら見続けている。が、予想通り、ちっとも面白くならないので困ったものだ。

今回は三角関係がヒートアップし、ヒロインを守るために嫌々ながら共闘したり、半裸男に寝取られを許したりというのが見せ場だろうか。また、人狼一族に聞かされた一族を守った女性の勇気ある行動、吸血一家から聞いた南北戦争期に恋愛感情を利用された苦悩などのエピソードが現在とシンクロしてくるドラマ性もある。本当に見るべきもののなかった前作よりは内容が濃い。

が、これはもう、原作の問題だと思うのだが、そもそも、おはなしがそれほど面白くないんだな。少女漫画なんだからそんなものといわれたら返す言葉もないが、そもそも自分中心で身勝手なヒロインに好感を持つことができない。人狼にも期待させる素振りを見せたり、振っておきながら自分や家族のみを守るために利用しようとする性根が悪い。こんなやつはさっさと吸血されて魂を失ってしまえばいいのである。

そんなヒロインを苦悩の表情で見つめるばかりの彼氏と、諦めの悪い半裸の人狼については、まあ惚れた弱みというか、自業自得のうちだと思うのだが、その仲間や一族は、ヒロインさえいなければ起こらなかった争いに巻き込まれているようにしか見えない。いっそこの小娘さえ殺してしまえば全てが円満になるんじゃないか。

前作でスケールが世界規模に大きくなるのかと思いきや、またしてもシアトル郊外の田舎町という小さな舞台での小競り合いに収束していくあたりも、なんだか、もうどうでもいいから勝手にやってろ、という気分になってくる。

しかし、このシリーズは作り手にとっては鬼門だろう。ハイペースでの続編製作を可能にするため、毎回監督を替えているのはご存知のとおりだが、そこそこまともな映画を撮れるはずの人たちが、次々と評判を落としている。前作では『アバウト・ア・ボーイ』のクリス・ワイツが、本作では『ハード・キャンディ』のデイヴィッド・スレイドが犠牲になったが、次回作はホラーものにも造詣の深い『Gods and Monsters』のビル・コンドンが登板しているということだ。ああ、ビル・コンドン!ご愁傷さま。。。

10/16/2010

Eat, Pray and Love

食べて、祈って、恋をして(☆★)

えーと、週末の朝なんかのTV番組で、よくわからないタレントを担いだ海外紀行コーナーがあるでしょ。さすがにあんなのよりは面白いんだけど。

売り出し中の作家が、離婚し、理解できずにすがる夫を退け、若い男と付き合うがうまくいかず、イタリアにいってイタリア男から伊語を学んでパスタやピザを食べ、インドに行ってNY出張もこなす売れっ子グルの観光地的な道場で修行し、バリにいってインチキ臭いゴロツキのラテン系エクスパットと恋に落ちる話。

まあね、作り手とジュリア・ロバーツは世界各国巡りで楽しかったんだろう。しかし、映画を見ているこちらとしては、彼女が出かける先がちっとも魅力的ではない。(これを見て、「素敵」と思っちゃった観客は、おそらく人生を考え直したほうがいい。)

これが、主人公のお気楽さを馬鹿にし、批判的に見せるという深遠なる意図があってこうなっているというのなら、すごい作品かもしれない。

だって、結局のところ、行く先々で、主人公と同類の「お気楽な外国人旅行者・エクスパット」の類と、「それを食い物にしたい現地人」の狭く特殊なサークルにこもっているだけで、ちっともその殻を破りはしないのだ。

これを表面的に見て素敵だと思え、というのは普通に考えるとおかしくないだろうか。ある種の批評的な視点があると思わなければ納得のできない、いかにも変な描写の連続である。

この映画の面白さは、「本当の意味で現地の社会やカルチャーを知ろうとはしないのに、世界のすべてを見た気になって、ちょっと親しくなった現地人のために寄付を募って人道支援なんかもやっちゃった気分の、いかにも米国的な自己欺瞞女のポートレイト」を、意図してか意図せずしてか、かなり露骨にスクリーンに映し出してしまったこと、だ。

で、この映画の失敗は、おそらく意図していなかったから当たり前なんだろうけど、ここで描かれた主人公の姿や行動に対する批評性を明確に感じられず、表面的には単なるお気楽映画にしか見えないことだろう。いや、じっさい、骨の髄までお気楽映画なのかもしれないけどさ。

要は、この映画を間に受けることが出来る人は(それはそれで)幸せだし、この映画を逆説的にせせら笑いながら見る人も楽しめる映画でもあるが、素直に見るくらいなら昼寝していたほうがマシな作品である、、、あ、見る前から分かっていたはずことを書いてしまった;

The Expendables

エクスペンダブルズ(☆☆)

軍事独裁の南米小国に殴りこみをかけ権力者を排除するという依頼を引き受けた最強傭兵チームが、現地で手引きする女性を救助するとともに、麻薬権益独占のために裏で糸を引く元CIAを倒すために奮闘する、という話。

『ロッキー』、『ランボー』の2大シリーズの無茶な続編をそれなりに仕上げたうえで中ヒットに導いたことで自信を深めたに違いないシルベスター・スタローン(共同脚本・監督・主演)が、見るからにむさ苦しい肉弾系アクション・スターや格闘系スターを集めて完成させた80年代風殴り込みアクション映画である。考えて見れば孤独なヒーローか、せいぜいコンビもの止まりだったスタローンが、一歩引いて「チームもの」をやっていること自体が新機軸。

まあ、本作にもカメオ的に出ているブルース・ウィリスがTVのコメディ・スターから転身した『ダイ・ハード』の登場によって、この手の映画は表舞台から消え去ったわけで、この映画が身にまとう懐かしい雰囲気は、だからそれだけで褒め讃えたくもなるのだが、いや、それでもこれ、出来のいい映画ではないよ。

こういう映画では筋書きなんてどうでも良いと思われがちだが、主人公らの活躍に気持ちよく喝采を送るためには、それなりの条件が整っていなくてはならないものだ。そもそも敵は憎らしい悪党でなければならないし、主人公らにブチ殺されて当たり前と思える輩でなければならない。実のところ、本作はその根本的なところで失敗しているのである。

もちろん敵の本丸たる「元CIA」は私利私欲のみの傲慢で嫌な男である。傀儡の将軍やその配下も横暴な振る舞いだ。

・・・が、直接的な描写は多くない。記号としての「悪党」、つまり、こいつらは悪いヤツですよ、という設定だけで十分なケースも多々ある。が、本作における主人公らの無敵さ加減と描写の残虐さ加減を前にすると、どうにも釣り合いが取れいるとは言い難いのだ。

スタローン演出は『ランボー/最後の戦場』の路線を踏襲しており、バイオレントな残虐描写が頻出する。味方は無傷(とまではいわないが)なのに、敵方は為す術も無く次々に血祭りというのでは、「丸腰の住民を虐殺するミャンマー軍」とあまりかわらない。いったいどちらが悪人か。

また、祖国を売った父に反抗する将軍の娘、将軍と娘の和解、将軍と元CIAとの決別などというプロットが混入してくるからややこしい。

現地案内人が実は「将軍の娘」だというヒネリは面白い。が、これを活かすには、終盤、例えばこんな展開が必要だ。"将軍が改心し忠実な部下たちと一緒に元CIAを一掃すべく蜂起するも、軍隊を掌握した腹黒い副官の裏切りにより、忠実なはずの軍隊がすべて元CIA側につき一瞬で鎮圧、将軍は娘の手の中で息を絶える。そこ主人公らの怒りのボルテージが上がり・・・"ってな感じ。ね?

この映画では、将軍のいうところの「忠実な部下」たちは、元CIAらが将軍を射殺した後も、思考停止のまま元CIAの私兵よろしく、主人公らの前に立ちふさがり、意味なく虐殺され続けるだけだ。それは、「敵方が私利私欲で2つに分裂し、その混乱に乗じて主人公らが両派を一掃する」話、なら良いのだけれど、将軍と娘のプロットとは全く整合性がとれない。

そんなこんななので、本来熱血盛り上がりになるはずの壮絶なクライマックスも、目的の見えない軍隊相手に主人公らが暴虐を尽くすだけ。そこには悪党を一掃することへの爽快感がない。そんな映画を楽しめるのか?・・・まあ、部分的にはね。スタローンは義理堅く、出演させたスターや格闘家それぞれに見せ場を作っていて、そういうところは好印象だし、例の3人がスクリーン上で一堂に会するところは、そういうシーンがあることを知っていても息を飲む。

ま、最後に長渕剛の日本版主題歌とやらが流れてきて、すべてがどうでも良くなってしまうわけだが; 日本版主題歌は、100歩譲って、せめて吹替版だけにしてくれないもんかね。

7/03/2010

The Extraordinary Adventure of Adel Blanc-Sec

アデル ファラオと復活の秘薬(★)

リュック・ベッソンが監督する作品を見るのは久しぶりだ。『Angel-A』があまりにも酷くて存在を忘れていたくらいだったが、それ以来である。最近は軽量娯楽映画のプロデューサーに専念しているものだと思っていたが、「アーサーとミニモイ」シリーズ(未見)で監督に復帰し、本作、である。10本撮ったら引退するなどと公言していたのはなんだったのか。別に面白い映画を撮ってくれるなら前言を幾度撤回してくれようが全く構わないのだが、こんなレベルの作品しか作れないなら、10年前に引退しておくべきだったと本気で思うね。

いやはや。

まあ、日本の配給が展開しているかつての東宝東和級ハッタリ宣伝を真に受けてはいけないのだが。それにしてもこれは辛い。酷い。つまらない。

仏コミックの映画化だという。主役以外のキャラクターには、原作のルックに近づける特殊メイクを施したりしているという。まあ、ウォーレン・ビーティが20年前に『ディック・トレイシー』でやっていたようなもんだと思えばいいのか。お話しは「インディアナ・ジョーンズ」風になるのかと思いきや、パリで「ナイト・ミュ-ジアム」という肩透かし。あなたは、笑えないコメディが延々と展開される苦痛にどこまで耐えられるか?全く以て観客の忍耐力が試される展開である。

だいたい、高度な技術を持つ古代エジプトの医師を蘇らせて、ほぼ死んでいる状態の妹を救うというメイン・プロットなのだが、いいですか、ミイラを復活させることができるのなら、端っから妹を蘇らせれば済むはなしじゃん。終了。

ま、愛人にしたい女を口説き落とすため、主演に立てて映画を作っちゃった、ってなところが真実だろう。その女優がよければまだ救いがいもあろうものを、人気のあるお天気キャスターだかなんだか知らんが、目も当てられない大根演技。まあ、ミラ・ジョボヴィッチだって似たようなものだったといえばそうなんだけど、女優以外に見所のない作品で、女優がダメだってのは致命的である。

唯一笑えたギャグは、ルーブル美術館からぞろぞろ出てきたミイラ様ご一行がひとこと、「これはなかなか素晴らしい場所だ、ぜひともピラミッドを立てるべきだ」。もしかして、このギャグがやりたかっただけなのか?そうなのか?そうだっていうなら、全て許してやってもいいぞ。(映画の舞台は20世紀初頭。現在、その場所には賛否両論あるガラスのピラミッドがそびえ立っているのはご存知のとおり。)

5/15/2010

An Education

17歳の肖像(☆☆☆☆)


1960年代、ロンドン郊外で、うんざりするほど退屈な日常を送っていた利発で聡明な少女が経験する、甘くて苦い通過儀礼の物語。オクスフォード進学を期待されながら、その先の人生に希望や将来性を実感できない主人公(キャリー・マリガン)は、怪しい商売に手を染めた30代後半の男(ピーター・サースガード)が連れ出す快楽的で刺激に満ちた世界への抗し難い魅力に吸い寄せられていく。

本作は英国のジャーナリストであるリン・バーバーの自伝("An Education")のもとになった同テーマの短いエッセイを、(映画ファンのあいだでは『About a Boy』や『High Fidelity』の原作で知られる)ニック・ホーンビィが脚色して映画化したものだが、まずなんといってもアカデミー賞にもノミネートされたこの脚本が見事だ。繊細に描かれる主人公のキャラクターはもちろん、主人公の両親や学校の先生にしても、それぞれのキャラクターに生きた人間としてのリアリティがある。会話のテンポと内容が実にリズミカルでポップ。その一方、下世話になってもおかしくない話を、品格をもってまとめている。それでいて、文芸映画な退屈さとは無縁。

ここで描かれるのは、時代と場所に特有な環境における、特殊な少女の、特殊な体験でありつつ、時代や場所にとらわれない普遍的な物語でもある。監督のロネ・シェルフィグはデンマークの人なのだが、主人公を取り巻く環境と空気を丁寧に描出しつつ、物語の核にある普遍性をあぶりだしている。同じ欧州人とはいえ、国境とカルチャーを超えてこれだけ達者な演出をできるところは感心するし、外部者としての、すこし距離をおいた客観的な視線も感じられる。その距離感は、この話に "An Education" と命名した作者の視点とも重なる。

賞レースの台風の目となったキャリー・マリガンの「一生に一度」的な輝きはいまさら言及するまでもないとして、その相手役となるピーター・サースガードの胡散臭さが非常に素晴らしい。このひと、どうみても普通の「美男子」の基準からは外れているが、この役は主人公視点ではとても魅力的に見えなくてはならないし、観客目でみてそのことに説得力がなければならないという意味で、結構な難役である。コミュニケーション能力に長け、物腰が優雅で、金回りがよく、趣味や話題が豊富、普通に考えれば真っ当ではないが、世の中の仕組みを鼻で笑って美味しい蜜だけをすくっていく、こういう男を本当の美男子が演じたらファンタジーになってしまっただろう。主人公の父親を演じるアルフレッド・モリーナ、校長役のエマ・トンプソンは、幾分類型的に描かれた役ではあるが、それだけでは終わらない深みを与える好演。こういうベテランと若手のアンサンブルは気持ちがいい。

6/27/2009

Evangellion 2.0 You Can (Not) Advance

エヴァンゲリヲン新劇場版:破(☆☆☆☆)

初日の劇場を包み込む観客の熱気、満席の場内で期せずして巻き起こる拍手。昔、といっても、たかだか15年や20年前までは、ヒット作や人気シリーズ作品の先行深夜上映や初日で良く見られた光景なのだが、久し振りにそんな現場に遭遇すると何か、大きなイベントに参加したかのような不思議な充実感に満たされる。前作は公開規模を考えたら存外のヒットであったし、つい先日発売された Blu-ray 版がBDとしては最速のスピードで売上記録を樹立。昨年中の公開が予定されながら今日まで待たされた第2弾。観客はこの1作を心から待っていたし、作り手はその大きすぎる期待に応えてみせた、そういうことだと思う。

作り手が「繰り返しの物語である」と表現していただけに、前作『序』では基本的にオリジナルをなぞるように物語が展開されたが、本作は冒頭、最初のカットから新キャラクターを投入し、基本的な要素はオリジナルに材を求めながらもキャラクターの性格付けや行動、成長、そして物語の展開そのものを大きく変化させている。成長しない引きこもり気質の少年を主人公にした特異な物語は、 12年のときを経て、自らの意思で困難に立ち向かっていこうとする成長する少年を主人公にした王道のエンターテインメント・アニメーション作品へと大きく変貌しようとしている。これは同じ素材から生み出されるもうひとつの可能性を贅を尽くして描くものなのであろう。もしかしたら、本来、オリジナルのシリーズがあるべきだった姿(なのであるが、さまざまな状況により実現し得なかった姿)へと回帰するものなのであろう。オリジナルは特異な作品であったからこそ多くの人の心に突き刺ささる現象となったというのに、敢えて王道路線で正面から勝負をしようとしている、それが前作よりもはっきりと見えてくるのが近作である。

前作にもましてパワーアップした「使徒」が次々と来襲し、壮絶で凄惨なバトルが繰り広げられるなか、どこか総集編的な成り立ちを引きずって忙しなかった前作とはことなり、主要な登場人物間でのドラマがセットアップされ、練り上げられ、クライマックスに向けて手順を踏んでうねりながら醸成されていくあたりが、本作を1本の映画として見応えのあるものにしている。前作から引き続いて主人公たちを取り巻くその他大勢の人々の存在や、都市生活者の日常生活を描写したカットが反復して挟み込まれていて、物語として内側に閉じるのではなく、外の世界への広がりを印象付けようとしているかのようである。アニメーション表現は緻密かつ大胆、劇場の大スクリーンに負けない圧倒的なクオリティで素晴らしいが、アニメ特有のサービスカットやお色気描写には、ジャンル的な「お約束」とは理解したうえで、それでもある種の違和感を感じないでもない。まあ、児童ポルノ規制に関連して正論の裏側でとんでもない暴挙が行われようとしている今のご時勢に対する挑戦とでも理解しておこうか。

オリジナルからこれだけ逸脱し、性格をことにして展開させながら、しかし、完全に別のものになってしまったと観客を失望させるのではなく、むしろ観客を熱狂させられる作品を仕上げてくるところには何よりも感服させられた。「エヴァンゲリオン」と「ヱヴァンゲリヲン」のあいだに横たわった差異がこれほどまでに大きく広がっているのに、それでも違うものをみたという違和感が残らないのは何故なのか。結局、この新劇場版シリーズは、かつてファンが心の奥底で強く願ったが決して目にする機会のなかった作品の姿に近いから、なのではないだろうか。クライマックスでの主人公が選択する行動と絶叫に心を揺さぶられ、作品終了と同時に観客を拍手に駆り立てた「熱」は、単に作品の力によるものを超越している。初めて充足される願望、そう、こんなものがみたかったのだという願望がまさかと思っていた瞬間に充足される、そのことに起因するのである。さて、再構築と銘打って始まった新劇場版が、オリジナルをどう包括、総括してどこに向かうのか。次回作「Q」(←爆笑)を大いなる期待を持って待ちたい。

5/16/2009

Eastern Promises

イースタン・プロミス(☆☆☆☆)


昨年の今頃公開されていたという記憶があるのだが、その際は気がつくと公開が終了していて悔しい思いをした。今回、いきつけの劇場において本作の期間限定リバイバル上映があったので、何をさておき劇場に駆けつけた次第である。なにしろ傑作『ヒストリー・オブ・バイオレンス』の主演、ヴィゴ・モーテンセンと、監督デイヴィッド・クローネンバーグの再度の顔合わせによる新作である。すでに高い評判も聞きつけている。これを見逃すわけにはいくまい。

ロンドンの移民社会に根を張ったロシアン・マフィアにまつわる話しである。冒頭、床屋における唐突で戦慄の殺人シーンに続き、妊娠した身元不明の14歳の少女が血塗れになって病院に担ぎ込まれ、帝王切開で子供だけは辛うじて助けられるものの、少女本人はそのまま絶命するという、生理的にも映像的にも衝撃的なエピソードが連打され、ただごとではすまない雰囲気を濃厚にたたえて物語りは幕を開ける。死んだ少女の身寄りに関するヒントを得ようとした助産士の女が、少女が残した荷物の中からロシア語で書かれた日記を抜き取ったことがきっかけで、ロシア移民の子孫でもある彼女と、闇に巣食ったロシア人犯罪組織とが交差する。助産士を演じるのがナオミ・ワッツで、礼儀正しい組織の「運転手」を演じるのがヴィゴ・モーテンセンである。日記は、貧しいロシア少女が夢を求めて辿り着いたロンドンの地で、もののように売り買いされ、レイプされ、薬漬けにされ、自由を奪われ、売春婦へとその身を落としていく記録であり、その背後にある組織の犯罪の証拠でもあったのである。

導入部からしてそうなのだが、ストーリー・テリングが非常に巧みな映画である。ナオミ・ワッツの家族に代表される表の世界と、犯罪組織の闊歩する裏の世界という対比だけでなく、表ではロシアン・コミュニティの健全な束ね役のようでありながら、裏では犯罪組織の総元締めであるというような、「見た目」と「真実」の違い、起こっている出来事の表層的な意味と裏に隠された真の意図といった具合に、「表」と「裏」が交差しながら観客を翻弄していく脚本はどうだ。静寂のシーンが一転して本性をむき出しにし、目を背けたくなるヴァイオレンスに染まる演出の呼吸。刺青によって強調される肉体性と実在性。きっとこういう話だろう、とたかをくくっていると、その一歩先を提示されて驚き、周到に張られた伏線によって思いもかけぬ結末へと導かれていく、その快感。

噂に聞いていた、ヴィゴ・モーテンセンが裸で立ち回りを演じるサウナでのアクション・シーンは、噂に違わず壮絶そのものである。ロシア・マフィアにとって刺青は自らの生きてきた証、身上書のようなものだという。全身刺青だらけのヴィゴの、その刺青が語る情報を手がかりに、2人の殺し屋が刃物を持って命を狙う。見ているだけの観客にも激しく痛みを伴う肉弾戦が繰り広げられ、体中に傷を負いながらすさまじい戦闘力と精神力で戦う男、ヴィゴに、もう観客の目は釘付けである。結局のところ、一見脇役かのように物語に登場したこの男の、壮絶な生き様がこの映画を貫く1本の柱でもあるということが、最後の最後になって明らかになるわけだが、それを具体的な描写として象徴的に見せるのがこのシーンという言い方もできるだろう。

サウナのシークエンスにも顕著だが、本作の暴力描写の突出した生々しさは、もはや暴力や死が記号でしかなくなったハリウッド製娯楽作品とは一線を画するところで、R18指定もやむを得ないと思わせる強烈なインパクトを持っている。クローネンバーグの演出は暴力から目をそむけるどころか、ねちっこくその姿をフィルムに焼付んとするから、ヴァイオレンスが苦手な観客にはつらいところかもしれない。しかし、この作品にはそれを乗り越えてでも鑑賞するだけの価値があるから、そんなところで躊躇していてはもったいない。劇場のスクリーンで見ることができて良かった、クローネンバーグ、ここのところの作品の充実具合は只者ではない。

1/10/2009

Exiled/放逐

エグザイル/絆(☆☆☆☆)


緊張と弛緩。激しいヴァイオレンスとそこはかとないユーモア。スローモーションで引き伸ばされた激しくも美しい銃撃戦と銃撃戦の間をつなぐのは、確実に死に向かっているというのに、いい年をして子供のようにはしゃぐ男たちの姿であり、行く当てもなくコイントスで方角を決めてさまよう男たちの姿である。それは、どこか北野武の『ソナチネ』の感覚に似ている気がする。ジョニー・トーの2006年作で傑作と名高い話題作『Exciled』は、1999年のマカオの返還前夜を舞台に、幼馴染じみの友人を殺すよう組織のボスから命じられた男たちの話である。この期に及んで何故だか地元に戻ってきた「友人」は、若い妻と生まれたばかりの赤ん坊を抱えており、妻子のために、せめて金を残してから死にたいという。友情と仁義から、裏社会での暗殺仕事を引き受けることにした男たちだったが、思わぬ展開から組織をも敵に回して居場所を失ってしまう。

脚本がなかった、という。その昔の香港映画ならともかく、現代の映画作りにおいてそのような芸当はなかなか難しいと思うのだが、冒頭でも述べたような緊張と弛緩の繰り返しに身をゆだねていると、脚本なしに物語を組み立てながら気心の知れた俳優たちと撮影していった、というはなしに信憑性があると思わされるようになってくる。大きな意味でのストーリーラインや構成は頭の中にあったとして、よい意味で行き当たりばったりの産物というか、その場その場における即興的セッションでつくられたようなユルい感覚が全編を支配しているのである。中盤過ぎ、無目的にさ迷い歩く男たちの姿に中だるみを感じないわけではない。もしかしたら、きちんとした脚本を事前に用意していたらもう少しタイトな作品に仕上がったかもしれない。そうはいっても、ここにあるだらっとした時間もまた、この映画独特の空気を醸成しているのである。実は、そこが捨てがたい味になっており、嫌いではない。

本作の最大の見せ場といってもよい銃撃戦は、手を変え品を変え場所を変え様々なバリエーションで用意されているので見ていて飽きない。最初は狭い部屋の中で5人が撃ち合い、次は暗殺ターゲットを待ち伏せていたレストランでのハプニングから続く緊張感溢れる一連のシーン。闇医者での思わぬ遭遇から展開する屋内でのカーテンを使った複雑なシークエンス。金塊輸送車強奪グループと警備係の撃ち合いに絡んでいく屋外での緊迫したシーン、そしてクライマックスとなるホテル内の階段や通路、吹き抜けといった高低のある場所を舞台とした大掛かりな大銃撃戦。屋内の複雑なアクション・シーンんぞ、いったいどのように撮影したものだか知らないが、かなりの手間隙がかかっているように見受けられる。凝ったカメラアングルや痺れるような間を挟みつつ、電光石火のうちに展開する銃撃戦はどれもかっこよいだけでなく洗練された美しさに溢れている。このレベルが今後のアクション映画の基準になるのではないか、と予感させる出来栄えは興奮必至である。

帰ってきた「友人」を尋ねる冒頭のシーンのただならぬ緊張感がいい。偶然通りかかった(と主張する)引退間際の(お笑い担当)警察官とのユーモラスなやり取りが、その緊張感を高める。また、1トンの金塊を輸送するトラックを見かけ、襲撃するかしないかをコイントスで決め、襲撃しないことに決まった瞬間の男たちのがっかり感たっぷりのリアクションが大好きだ。クライマックスで女を逃がし、そのまま去ることもできたはずの男たちが覚悟を決めて扉を閉める、その自ら死に場所を決めた格好の良さは、いや、こういうのが見たかったんだよと心の中で拍手喝采。その銃撃戦の舞台でもあるホテルの造形などにも顕著に見られる西部劇タッチの隠し味もいい。照明、構図、台詞、決めのポーズ、ちょっと格好良すぎて笑ってしまうくらい、いい。幼馴染の5人組というが、アンソニー・ウォンだけやたら年くっているようにみえるのはご愛嬌か。ま、別に必ずしも同じ年代である必要はないのだけど。

10/25/2008

Every Little Step

ブロードウェイ♪ブロードウェイ コーラスラインにかける夢(☆☆☆☆)

ブロードウェイ・ミュージカルの舞台裏を題材にしたミュージカル、『コーラスライン』の再演にあたっての、ほんとうに入念で、手間隙と時間のかかったオーディションの様子を克明に捉えた秀作ドキュメンタリー。メタ構造となる題材の選び方、企画そのものが一番の勝因であるが、オリジナルの『コーラスライン』(1975年初演)が生まれるまでを、原案者であるマイケル・ベネットのインタビュー・フィルムなどを丹念に集め、きちんと挟み込んでいったことで30年におよぶ歴史の厚みが出た。

初めは何千人もが集まったオーディションも、段階が進むにつれハイレベルの実力者ばかりが残っていく。何ヶ月にも及ぶ長丁場のオーディションのなかで、役を演じることではなく、役を生きることを求められるさまは、まさに素の自分を表に出して語っていく『コーラスライン』の物語さながら。残酷なようであるが、候補者の中で誰が残り、誰が選ばれていくのかを見守るのは、我々観客にとってはスリリングな体験である。カメラは、目の前の候補者の人間性に肉薄するとともに、おある候補者の、あまりのパフォーマンスを前にして審査員一同が期せずして涙を流してしまう瞬間など、ドラマチックなシーンをあまさず捉えていて圧巻だ。また、「前回は良かったのに今回はどうしちゃったの?」といわれた女優さんが、「何ヶ月も前のことなんて覚えていない」と苦悩を吐露する瞬間。この映画の観客にとってはほんの何分か前に目にした姿の記憶が鮮明なだけに、なんとも残酷で心が痛む。

私がかつて見た『スウィート・チャリティ』の舞台で、骨折した主演クリスティーナ・アップルゲイツに代わり主演を張っていたシャルロット・ダンボワーズが、(これもまた役柄と重なるわけだが、『シカゴ』の主要キャストすら演じたことのある)その実績や実力にもかかわらず他と同じゼロからの過酷なオーディションに臨み、オリジナルキャストとしての初主演(キャシー役)を勝ち取っていくところは本作の個人的なハイライトで、厳しいプロフェッショナルの世界を目にして打ちのめされる思いであった。(付け加えると、同じくダンサーである彼女の父親のエピソードも壮絶であった。)

ちなみに、この「再演」であるが、興行としては大成功とはいいかねるもので、すでに幕を閉じてしまっているのである。8ヶ月とか、1年近くかけてオーディションを行っても、1年や2年でクローズとなってしまう、興行の世界もまた厳しいものだ。そこらへんの事情についてはメル・ブルックスの『プロデューサーズ』に詳しい(嘘)。

10/18/2008

Eagle Eye

イーグル・アイ(☆☆☆)

ある日突然テロリストの容疑者に仕立てられた青年は、彼をはめたと思しき謎の相手からの電話の指示に従ってFBIらの追手から逃亡することになる。子供の命をだしにして、同じように電話の指示に従うことを強要された女性と合流した青年は、電話の主に翻弄されるまま、目的も理由もわからず国家規模の事件に巻き込まれていく。出演はシャイア・ラブーフ、ミシェル・モナハン、ロザリオ・ドーソン、ビリーボブ・ソーントン、マイケル・チクリス、ウィリアム・サドラーら。DJ・カルーソ監督。

様々な映画から記憶に残る印象的なモチーフを「いただい」て再構成された、典型的な「巻き込まれ型サスペンス」である。ひとつひとつのネタはリサイクルものなので、映画好きならすぐに古典的作品から比較的最近の映画まで、何本ものタイトルや、あんなシーン、こんなシチュエーションが自然と頭に浮かんでくることだろう。しかし、それを以って本作を否定するのは心が狭い。オリジナリティという観点からいえば取り立てて新鮮味にあふれた映画とはいいかねるかもしれないが、再利用ネタの「再結合」と「再構成」により、ツギハギ映画というのではなく、この映画なりの一貫性のあるスタイルを生み出しているし、そこここに仕掛けられた現代的な味付けで、それなりに楽しめるよう仕上がっている。思うに、B路線の娯楽作品というのは、そもそもそういうものじゃないだろうか。この作品の場合、Aクラスのバジェットのおかげで派手で大掛かりなアクション・シーンもたっぷり用意されているから、普通の観客も退屈しないだろう。気軽な popcorn movie としては、上出来だ。

そういえば、スピルバーグの後押しで一躍売り出し中のシャイア・ラブーフの出演作品を何本かみてきたことになるが、この作品を見て、彼が重宝されているのは、おそらく、観客にとって感情移入しやすい「普通のお兄ちゃん」的な風貌だけではないだろう、と感じた。たとえば、どこにでもすっと溶け込んであまり自己主張しない使い勝手のよさ。これは、作り手側にはポイントが高い。いかにもスター俳優然とした強烈な個性で作品の色を決めてしまうのではなく、企画や脚本が要求する役割に寄り添って見せる、誰にも嫌われることのないある種の無個性ぶり、一方で、それでも画面に埋没しない程度のスター性の適度なバランスも持ち合わせている。そんなところが企画先行型の大作映画では貴重な資質なのだろう。

そういうある種、「無個性」な主役に対して、個性的な役者を脇に配すのも、当代、ありふれたやり口である。この映画も、電話の声であるジュリアン・ムーア(クレジットなし)はいうに及ばず、実力派の見知った顔が並んでいて、ちょっと期待も高まるというものだ。ただ、そうした役者がその個性や演技の技量を十二分に発揮できているかといえば、それはまた別の話。主人公の父親役で顔を見せたウィリアム・サドラーは、ありがちな父子の葛藤や複雑な感情を、エピローグ部分での無口な再登場で味わい深く演じて見せるのだが、いかんせん登場機会が少ない。本編中で何かに巻き込まれても良かったのではないか。あるいは、FBIとは違った立場で事件を追うことになるロザリオ・ドーソンやマイケル・チクリスの役柄も、面白くなりそうなのにキャラクターとしての膨らみがない。まあ、物語に奉仕する部品以上の役割を与えられていないのだから、それも致し方あるまい。そして何より怪優ビリーボブ・ソーントンだ。追手であった男が、最後には主人公と協力して自体の収集に当たるというドラマがあるのだからもう少し何とかなりそうなものを、彼のフィルモグラフィのなかでも凡庸な部類の仕事で、全くのところ精彩を欠く。

監督DJ・カルーソが同じ主演で撮ったスマッシュ・ヒット『ディスタービア』は、なにやら『裏窓』の剽窃だと訴えられて騒ぎになっているが、残念ながら未見である。そんなわけで、『テイキング・ライヴズ』と本作での印象になるが、手堅い娯楽サスペンスの作り手には違いないとして、いかんせん、物語を転がしていくのに精一杯で、キャラクターを膨らませたり、ユーモアを挟み込んだりする余裕が感じられないところが弱いところだろうか。ヒッチコック好きなのであれば、爆発で誤魔化すのではなく、今後もサスペンスを重視した作品を撮っていってほしいところだ。ビッグバジェットとなった本作が、分岐点になると思う。

しかし、本作での『知りすぎていた男』のクライマックス引用は、近作では『ゲット・スマート』に続くもの。本作におけるオマージュとしての必然性はわかるが、こう立て続けに同じネタが続くと、「またか!」と思うのも事実。なんでこんな重なり方をするのだろうか。

5/07/1999

Election

ハイスクール白書・優等生ギャルに気をつけろ(☆☆☆★)

とある高校での学生会長選挙をめぐる狂騒とその顛末を描く、ブラックなハイスクール・コメディである。製作はMTV。出演はリース・ウェザースプーン、クリス・クライン、マシュー・ブロデリック。トム・ペロッタの原作をもとに、これが3作目となるアレグザンダー・ペインが脚色と監督を手掛けた。

上昇志向と押しの強い超優等生の女子生徒に、対立候補もなく無風に思われた選挙戦。この女生徒との「不適切」な関係で人生をフイにした同僚を思い出した生徒会の顧問が、対立候補を擁立しようと画策したことで、思惑の異なる候補者3人と顧問の教師の私生活を巻き込んだ泥仕合になる、という話。

これが、予想以上に面白い。アメリカの高校生活の一断面をこういう切り口で切ってみせるのはユニークだ。

中心になる数人の登場人物の視点を切り替えながら語っていく手法の歯切れ良さと、絶妙の編集のリズムも心地よい。ギャグのネタが少々泥臭くどギツい感じがするが、そもそも、ギャグで笑わせてオシマイ、という映画でもない。民主主義の雛形を教えるはずの選挙を舞台にしながら、良かれと思って介入した教師と、あまりにも極端な主人公のキャラクターを中心にして、あらぬ方向に転がっていく物語に皮肉な面白さがあり、物語の幕切れはシニカルだ。

監督が自ら手がけた脚本は、キャラクターがよく描かれているが、それを演じる俳優たちも怪演といっていい。

主人公を演じるリース・ウェザースプーンは上昇志向の強いキャラクターを好演。ヘン顔を恐れぬ体当たり演技でもあって、可愛いだけのスター女優とはひと味違う根性を感じさせられる。前作『クルーエル・インテンションズ』で演じた金持ちのお嬢様より、今回のような役のほうが個性的な風貌に似合っている。『Overnight Delivery』という、なんのことはない映画でヒロインを演じているのをみたときから贔屓にしているので、今後の活躍が楽しみである。

教師役はマシュー・ブロデリック。いや、マシュー・ブロデリックといえば、かつての青春スターであり、何をやってもうまくいっちゃう「フェリス・ビューラー」なのであるが、ここではそんな面影もどこへやら、何をやっても裏目に出てしまう情けない教師役がはまっている。こういうキャスティングは、当然、「フェリス」を踏まえてのことだから、それ自体に毒を感じずにはいられない。ブロデリックは、小心者の善人が、ふとしたきっかけ身を滅ぼしていく姿で哀れみと笑いを誘うのだが、最後には見るからに悲惨な容貌になってしまい、そこまでいたぶらなくても、と可哀想になってくる。この監督、かなり意地が悪い。

単なるハイスクールものと馬鹿にするなかれ。劇場で公開されないかもしれないが、追いかけてみる価値のあるエッジの効いたコメディ映画だ。オススメ。

4/30/1999

Entrapment

エントラップメント(☆☆☆)

『マスク・オブ・ゾロ』で人気の出たキャスリン・ゼタ・ジョーンズとショーン・コネリーが共演する泥棒ものである。イメージとしては「ルパン3世と不二子ちゃん」なんだが、ちょっとルパンが歳食っいて、少々紳士風というか。

保険会社の調査員が中国の古代工芸品をダシにして、高額な美術品などを盗み出すプロの大泥棒に接近を図るのだが、それは米国・英国・マレーシアを股にかけた冒険の始まりであった。罠にかかったのは果たして誰なのか?という話。

なんかこういう映画で、脚本ロナルド・バス、監督ジョン・アミエルという組み合わせが変な感じではあるのだが。

ロナルド・バスも多作でジャンル問わずな感じがあるが、ジョン・アミエルという監督も一貫性のないフィルモグラフィの持ち主で、ジョディ・フォスターの歴史ラブ・ロマンスがあると思えば、ビル・マーレーのおとぼけコメディまである。きくところでは、アントワン・フークアで予定されていたところ、”MTV” 感覚の作品にすることを嫌ったコネリーがアミエルを連れてきたとか。

まあ、何をやってもそこそこ楽しめる出来に仕上げてくる職人派の脚本と監督で、思ったより楽しめる1本に仕上がっている。死体も転がらないし、派手な爆発もないが、ストーリーはそれなりに組み立てられていて、コネリーの実年齢を逆手に取った余裕のあるユーモアもある。

そもそも「怪盗もの」というジャンルが洒落ていていいのだろう。ロナルド・バスが提出した7行ほどのプロットで製作にGOサインが出たというが、出した側の気持ちはよくわかる。

2000年問題を絡めた盗みの手口以外は特に目をひく新機軸は用意されていないが、コネリーとゼタ・ジョーンズのそれぞれの魅力をよく引き出しているし、泥棒に入るための訓練(リハーサル?)に時間を割いて、これから何事が起こるのかと観客の想像を煽る展開も面白い。ヴィング・レイムズやウィル・パットンらの曲者を脇役にしたキャスティングもいい。後半でシチュエーションが何度も逆転するのが少々しつこいが、最近はこれくらいやらないと観客が満足しないということか。

主演のカップルであるコネリーとゼタ・ジョーンズという、ちょっと年齢差の有り過ぎる組み合わせはあまり良いと思えないのだが、急に人気の高まったゼタ・ジョーンズをキャストしたのは彼女の「色気」ファクターによるものだろう。確かにものすごいプロポーションで、本人も見せる気満々のように思われるのだが、演出は抑制気味。というか、予告篇以上の見せ場がない。そうはいっても、3つくらいしか表情のヴァリエ-ションがないゼタ・ジョーンズを上手に使いこなしている部類の映画といえるだろう。

3/26/1999

EDtv

エドtv(☆☆☆)

ハリウッドでは似たような企画が同時期に乱立し、互いに競うようにして映画化されることがよくある。偶然なのか、時代の気分がそうさせるのか、パクり、便乗の類なのか、競争心・対抗心ゆえなのか、それぞれ事情は様々だ。

「実在の人物に24時間密着、生放送するTV番組」っていうネタが、どうしてこんなタイミングで被ることになったのかも謎なのだが、ジム・キャリー主演、アンドリュー・ニコル脚本、ピーター・ウィアー監督の『トゥルーマン・ショー』と、マシュー・マコノヒー主演、ローウェル・ガンツ&ババルー・マンデル脚本、ロン・ハワード監督の本作『EdTV』とは、作家性の違いとはこういうことかと一目瞭然、そのベクトルが違いすぎて全く違う映画になっているのが面白い。

共通点があるのは、メディアに対する皮肉な考察っていうことだけだな。

あちらの作品が、「神と人間と人生についてのドラマ」であったなら、こちら『EdTV』は、ドタバタ風味のの「風刺コメディ」である。

真実の映像を24時間、編集なしで放送するのを売りにするTV局が、視聴率低迷の挽回策で、ごく普通の男の生活を四六時中、密着で生中継することを思い付く。プロデューサーの目にとまったのが31歳、サンフランシスコ在住のビデオ屋店員エド。テレビのクルーに常に付きまとわれながら、にわかスターとして全米の人気を一人占めするようになっていく。

名声とプライバシー、有名人に群がるメディアやパパラッチ、それに熱狂する大衆心理。ウディ・ハレルソン、マーティン・ランドー、デニス・ホッパー、エリザベス・ハーレー、ロブ・ライナー、エレン・デジャネレスらのアンサンブル・キャストを自在にさばきながら、TVカメラの前で恋人への不実が発覚したり、真実の愛が芽生えたり、実の父親が現れたりといった、主人公と、その周囲の人々のエピソードが綴られていく。

それほど突拍子も無い展開はないのだが、そこは、ロン・ハワードの『バックマン家の人々』をはじめ、これまでにもウェルメイドなコメディを作ってきた脚本家チームだけあって、話の転がし方がうまい。タブロイド紙やUSA TODAY、TVのトークショーなどを皮肉っぽい扱いも笑わせる。

ロン・ハワードも、気負った大作映画を撮ると薄味で今ひとつなんだが、こういうアンサンブル・キャストで見せる小粒なコメディは安定感があって巧い。複雑になりがちな登場人物やエピソードを小気味よいテンポで交通整理をしていく手腕はさすがである。

ただね、脚本家チームもロン・ハワードも、風刺コメディを撮るには人が良いというのか、お行儀が良いというのか、悪意と毒が足りないんだよね。

キャストのなかでは、プロデューサー役のエレン・デジャネレスが面白い。TVを中心に活躍している達者なコメディエンヌで、この映画でも彼女の魅力の一端は十分にうかがい知れるだろう。また、マシュー・マコノヒーとウディ・ハレルソンが兄弟っていうのは誰のアイディアか知らないが、それだけで笑えるキャスティングだった。風貌はどことなく似てるよね。キャラクターはずいぶん違うんだけどさ。

2/26/1999

8mm

8mm(☆☆★)

『セブン』の次だから、『8mm』ってとこなんだろうか。アンドリュー・ケヴィンウォーカー脚本の新作は、「スナッフ・フィルム」の都市伝説をテーマにした挑発的で悪趣味なスリラーである。監督は、バットマンものでは大いにミソつけたジョエル・シュマッカー。

ある富豪の遺品のなかにあった、8ミリのプライベート・フィルムには、年端もいかぬ少女が生々しく殺害される様子が写っていた。カメラの前で本当に殺人は行われていたのかどうか、真相を確かめるべく雇われた私立探偵が、怪しい人々がうごめく危険な裏の世界に足を踏み入れていくという筋立てである。私立探偵をニコラス・ケイジ、彼に協力するアダルトショップの店員をホアキン・フェニックスが演じている。

いやはや、異様な映画である。

この映画には、都市伝説として囁かれる「スナッフ・フィルム」の世界が現実に存在しても不思議ではない、と思わせるだけのリアリティはともかく、無理やりそういう異常な世界に観客を連れ込んでいこうとする、負のエネルギーがみなぎっている。

それに、意図したことかどうかはわからないが、シュマッカーの映画としては、『評決のとき』に続いて、「私刑」を肯定する筋立てになっている。しかも、それはほぼ主人公の「自己満足」とでもいうべきものであって、映画が終わった時点で、映画が始まった時より幸せになった登場人物が一人もいないというところが悪意に満ちている。

そんなわけで、「良識的な観客」はこの映画を見ている2時間強、終始嫌な気分でいることを強いられるばかりか、とても後味の悪い思いすることになる。それだけで済むならともかく、快楽のために人の命を奪い、それをフィルムに収めるという胸糞の悪いビジネスが、日常生活のすぐ裏側に存在しているんじゃないかという、これまた胸糞悪い都市伝説をしっかりと頭に刷り込まれて家路につくことになる。

まあ、そんなものは絶対にないとも言い切れないのが嫌な世の中ではあるのだが。

この映画は、刺激的なトピックで目眩ましをしているが、おそらく、「知りたくない真実にどう向き合うか」、そして、「真実を知ったものに課せられた責任と倫理的なディレンマ」というテーマに切り込もうとしているのではないだろうか。

そして、その「真実」を暴くことを生業とするのが主人公である。

だとするならば、この主人公が、本来、この映画のテーマを背負い、主体的に苦悩する存在として描かれるべきだと思うのだが、どうもそうなっていないところに居心地の悪さを感じる。だって、ニコラス・ケイジは苦悩する表情こそを浮かべているけれども、結果として「自身の葛藤」とすべきものに周囲を巻き込み、不幸の連鎖を撒き散らす存在になってしまっているからね。そんな主人公の行動は肯定もできないし、好感を抱くことすらできないよ。

話を聞くと、当初の脚本のトーンがあまりに暗いことに躊躇したスタジオがリライトを求めたが、アンドリュー・ケヴィンウォーカーはそれをことわり、プロジェクトから離れたのだという。結局、脚本は監督自身によって手を入れられたらしい。中盤以降の、本来あるべきテーマが収まるべきところに収まらず、中途半端な「私刑肯定」映画として着地するこのチグハグした感じは、もしかしたらそんなところに起因するのかもしれない、と勝手な想像をしてみたりする。

ジョエル・シュマッカーは職人的な手腕をもった監督で、いい企画、いい脚本に出会えば『フォーリング・ダウン』のような傑作も撮る一方で、なんでこんなのひきうけちゃったの、という作品も少なくない。「バットマン」フランチャイズを殺した2本は、後者の代表といえるだろう。本作は、脚本に描かれた「尋常ならざる裏世界」に説得力を与えようとする強い意欲を感じさせはするが、せっかくの意欲が空回りしているように感じられる。最初の脚本はどのようになっていたのだろうか。少し興味を惹かれないでもない。

11/20/1998

Enemy of the State

エネミー・オブ・アメリカ(☆☆☆★)

邦題、「国家の敵」じゃダメなのかね。

ジェリー・ブラッカイマー製作、トニー・スコット監督の新作に主演するのは、ウィル・スミス。(もともとトム・クルーズ主演で考えていたが、キューブリック作品の撮影が長引いて出演不可能になってしまったらしい。)国家権力による陰謀と、情報化社会におけるプライバシーの侵害に対する不信と恐怖をテーマにした、なかなか面白い巻き込まれ型サスペンスに仕上がっている。

ベテランの上院議員の殺害現場が、予想もしないところでビデオに撮影されていたというのが事の発端である。その奪回のために諜報組織が動き出す。DCで労働争議を専門にする弁護士である主人公は、たまたまビデオをめぐる追跡劇の現場に居合わせたことで、それに巻き込まれてしまうのである。一挙一動が国家の完全な監視の対象にされ、情報操作によってすべてを失った主人公は、力強い味方を得て、毅然と反撃に出ることになる。

個人の生活が徹底的に監視され、情報操作で簡単に破壊される。逃げても逃げてもそこには常に誰かの目が光っていて追手が現れる。そんな作品のプロットは、もちろん、それほど新しいものではないかもしれない。最近好調なトニー・スコットは、この話をどう見せるか、というところで本領を発揮、リリングでかつ骨のある、スタイリッシュな第一級の娯楽大作に仕上げてくれた。クライマックスで自己パロディをかます余裕も見せるっていうんだから、もう、文句のつけようがない。

脇役がいい。政府組織のヘッドにジョン・ヴォイト。彼の下に実行部隊として各々専門性を持ったハイテク・ヲタクのチームがいる。このチーム、スパイ衛星を動かしもするが、盗聴装置を仕掛けたり、変装して現場に出たり、案外ローテクなこともするから、まさに、逆「スパイ大作戦」状態だ。『ミッション・インポッシブル』で悪役に転じたフェルプスが上司ってんだから、そういう気分にならざるを得ないよね。

また、追い詰められた主人公を助ける謎の人物にジーン・ハックマン。このキャラクターの若かりし日の写真として、『カンバセーション 盗聴』の時のものが用いられているが、まさしく、それを彷彿とさせるプロフェッショナルなキャラクターとして登場するのだから、面白い。なにやら分けありの人物として画面に登場した途端に役者としての格の違いを感じさせるが、あくまで脇役という立場を心得た演技っぷりがまた渋いのだ。

ジーン・ハックマンと仕事をしたくて出演したというウィル・スミスだが、軽快さと親しみ易さが彼の得意とするところ。好みからいえば必ずしも彼でなくても良いのだが、「巻き込まれた一般人らしさ」、「いざというときに起点の働く頭の回転の良さ」という意味で、このキャスティングは悪くなかったと思う。

毎回やりすぎのスコット弟の映像作りだが、今回もその点、いかにも彼らしいものになっている。ただ、ハイテクを使った盗聴、盗撮、追跡という作品のプロットと彼のスタイルがハマったことでパラノイア的な不信感と恐怖感の増長に成功し、例によって極端に短いカットつなぎが、追跡劇に疾走感を与えていることで、うまく作用したと成功例になったといえるだろう。社会的な警鐘を含んでいながらも、それはあくまで背景設定とし、娯楽演出に徹した潔さが本作の取柄だろうね。