プレデターズ(☆☆☆)
「リプリー」という主人公がいる『エイリアン』シリーズと違って、『プレデター』シリーズというのは、(シュワルツェネッガーが続編出演を断ったための結果としてではあるが)特定の主人公がおらず、凶悪な宇宙怪物が人間狩りを楽しむという話である。毎回異なる主人公がそれとは知らぬまに怪物とのゲームに巻き込まれ、生存をかけて闘うことになる。毎回、場所を変え、人間側のキャラクターを変え、目先を変えることはできるが、結局のところ、同じことを繰り返すだけである。
「AVP(対エイリアン)」ものまで数に入れると通算5作目となる本作もまた、目新しさに欠ける反復であることには違いがないのだが、本作のそれは間違いなく意図的である。舞台はジャングル。人間側は混成といえどミリタリー調の小集団。これが、第1作の意匠をなぞったものであるのはいうまでもない。ご丁寧にも、台詞として第1作の事件の顛末が語られ、「正当な続編」であることを主張するところや、そこで語られたシュワルツェネッガーの戦術を参考にし、身体に泥を塗っての肉弾戦までかたちをかえながらも再現される。シリーズの続編であり、原点回帰であり、仕切りなおし。それが本作の良いところであり、限界であり、全てである。そうであるならば、やはり軍配をあげるべきなのは「オリジナル」であり、その二番煎じである以上、本作にはそれ相応の評価しか与えられまい。
アーノルド・シュワルツェネッガーというインパクトのある主演者がいないかわりに、人間側の7人にそれぞれユニークなバックグラウンドを設定して描きわけ、集団ものの面白さを出している。紅一点の活躍や、日本刀で一騎打ちに臨むヤクザ、医者を自称するヘナチョコなど、ここはシリーズのなかでも一番成功している部分である。主演に起用されたタレ目のエイドリアン・ブロディはまさかの肉体改造により筋肉ムキムキ男として登場し、これまでのイメージを払拭する熱演振りがみもの。こやつ、こんなに男前だったっけ?タフガイというよりヘナチョコ側のキャラだと思ってたんだけどなぁ。
怪物側にもいろんな種族がいるという設定か、過去作と同類のほか、より体が大きく、少々異なる行動規範をもっている新型が3体登場し、新型のアーマー類や武器が披露される。まあ、こういうのはシリーズのお楽しみでもあるのだけれど、正直、キャラクター商品ありきの姑息なバリエーションのように思われる。というのも、これが物語としての面白さにはうまくつながっていないからだ。旧型(?)と人類の共闘がきっちり描かれていれば別だっただろうが、新型の強さを印象付けるためだけの役回りで、ちっとも面白くない。
本作の指揮を委ねられたロバート・ロドリゲスがつれてきたのが監督のニムロッド・アーントル。このひとの演出は、キャラクターの描き分けをみても、いざという時の見えの切り方を見ても、それほど悪くないと思う。この題材、この脚本であれば及第点といえよう。(少なくとも、単調・平板が特徴の第2作監督、スティーヴン・ホプキンスよりは絶対に上)。続編があるなら、同じ監督で、本作の生き残り組を主演にして作ったらいいと思う。そこで改めて、(ロドリゲスを含めた)作り手の創意が問われることだろう。なにせ、本作はリメイク的な仕切りなおしに過ぎないわけで、その先を見てみなければ本当の評価にはならないということだ。
8/27/2010
6/19/2010
Prince of Persia: The Sands of Time
プリンス・オブ・ペルシャ 時間の砂(☆☆)
ジェリー・ブラッカイマーがゲームを元ネタに作ったアドベンチャー作品である。それだけ聞くとオリジナリティのかけらも感じられないが、タイトルにあるように、今日、アメリカの天敵でもある中東はイランの地に興ったペルシャ帝国の「王子」を主人公として、バランス感覚とエキゾチシズムを前面に出しているあたりがヒットメイカーの面目躍如たるところであろう。(もちろん、ペルシャだろうがなんだろうが、登場人物が英語で話すのもお約束である。)まあ、残念ながら興行的には成功を収めたとはいい難いが、こういうある種のチャレンジは基本的に歓迎したい。
偉大な王の眼鏡にかない、王子として養子に迎えられて育った青年は、王の暗殺の罪を着せられて終われる身となる。背後には、過去にさかのぼることを可能にする不思議な砂と短剣を我が物にし、権力を手中に収めようとする者の陰謀があった、というお話。主人公は、タイトルにもある「時間の砂」の秘密を握る小国の王女と共に陰謀に立ち向かう。
・・・のだが、まあ、なんだかね。ストーリーがそれほど面白いわけでもないし、脚本がそれほどよくかけているわけでもないし、キャラクターに特段の魅力があるわけでもないし、ビジュアルがものすごいわけでもないという、可もなく不可もない軽量な娯楽映画である。話の展開にしたって、主人公の叔父、つまり、王の弟をベン・キングスレーが演じているだけで読めてしまうわけで、そこをもう一ひねりしようなどという小細工もない。暗殺者、アサシンの語源ともなったペルシャの暗殺者集団が登場するところは少しワクワクしたが、その程度か。
監督は『ハリーポッターと炎のゴブレット』で、VFXを使ったファンタジー映画でも大丈夫だと証明して見せた英国出身マイク・ニューウェルが起用されている。この人、信用できる腕前の持ち主だと思っていて、現に、「炎のゴブレット」にしても、シリーズ中盤では一番出来が良い作品だった。ただ、こういう大規模な作品になると、彼の腕がどうのというレベルではなく、全体のパッケージングに左右されるところが大きいようにも思う。次は違う路線に戻ったほうがいいんじゃないのかね。
ジェイク・ギレンホールのような役者がこういう作品の主演に抜擢されるところが面白く、体を鍛え上げて頑張っているのは良いと思うのだが、いかんせん、ちょっと線が細い。ヒロインのジェマ・アタートンは、演じるキャラクターに魅力がなく不発。アルフレッド・モリーナも出演しているが、才能の無駄遣い。
ジェリー・ブラッカイマーがゲームを元ネタに作ったアドベンチャー作品である。それだけ聞くとオリジナリティのかけらも感じられないが、タイトルにあるように、今日、アメリカの天敵でもある中東はイランの地に興ったペルシャ帝国の「王子」を主人公として、バランス感覚とエキゾチシズムを前面に出しているあたりがヒットメイカーの面目躍如たるところであろう。(もちろん、ペルシャだろうがなんだろうが、登場人物が英語で話すのもお約束である。)まあ、残念ながら興行的には成功を収めたとはいい難いが、こういうある種のチャレンジは基本的に歓迎したい。
偉大な王の眼鏡にかない、王子として養子に迎えられて育った青年は、王の暗殺の罪を着せられて終われる身となる。背後には、過去にさかのぼることを可能にする不思議な砂と短剣を我が物にし、権力を手中に収めようとする者の陰謀があった、というお話。主人公は、タイトルにもある「時間の砂」の秘密を握る小国の王女と共に陰謀に立ち向かう。
・・・のだが、まあ、なんだかね。ストーリーがそれほど面白いわけでもないし、脚本がそれほどよくかけているわけでもないし、キャラクターに特段の魅力があるわけでもないし、ビジュアルがものすごいわけでもないという、可もなく不可もない軽量な娯楽映画である。話の展開にしたって、主人公の叔父、つまり、王の弟をベン・キングスレーが演じているだけで読めてしまうわけで、そこをもう一ひねりしようなどという小細工もない。暗殺者、アサシンの語源ともなったペルシャの暗殺者集団が登場するところは少しワクワクしたが、その程度か。
監督は『ハリーポッターと炎のゴブレット』で、VFXを使ったファンタジー映画でも大丈夫だと証明して見せた英国出身マイク・ニューウェルが起用されている。この人、信用できる腕前の持ち主だと思っていて、現に、「炎のゴブレット」にしても、シリーズ中盤では一番出来が良い作品だった。ただ、こういう大規模な作品になると、彼の腕がどうのというレベルではなく、全体のパッケージングに左右されるところが大きいようにも思う。次は違う路線に戻ったほうがいいんじゃないのかね。
ジェイク・ギレンホールのような役者がこういう作品の主演に抜擢されるところが面白く、体を鍛え上げて頑張っているのは良いと思うのだが、いかんせん、ちょっと線が細い。ヒロインのジェマ・アタートンは、演じるキャラクターに魅力がなく不発。アルフレッド・モリーナも出演しているが、才能の無駄遣い。
5/15/2010
Precious: Based on the Novel Push by Sapphire
プレシャス(☆☆☆)
まあ、壮絶な話である。実話じゃないにしろ、これに類する話は珍しくないというのも凄まじい。
16歳の超肥満黒人少女は、義理の父親から幾度となくレイプされた挙句、12の時、すでにダウン症の息子を出産し、いまは2人目を妊娠している。公的扶助だけを頼りにする怠惰な母親は、自分の夫を奪った娘を、それゆえに虐待する。読み書きもろくろくできない。逃げ場所は妄想のなかだけ。80年代のNY、ハーレム。社会の最底辺の地獄のような生活のなか、周囲に差し伸べられた手によって少しだけ見えてきた希望。そこでダメ押しのように明らかになるのは、義理の父親からHIVに感染していたこと。
どう考えてもメジャーが手を出さない題材である。サンダンス映画祭で成功し、オプラ・・ウィンフリーとタイラー・ペリーが強力に興行の後押しをした結果、興行的にも一定の成果を収めることができ、賞レースを賑わせた。オプラがいれこむ理由は、彼女自身、10代未婚の母に育てられ、9歳で強姦され、14際で妊娠した経験があるという、なんだか映画みたいな経歴ゆえだという。
フィクションではあるが過酷な現実、そんな内容を映画にして知らしめることの価値は大きい。ある意味で使命感を背負った映画である。しかし、違う言い方をするなら、主人公の背負った運命の壮絶さそのものが、「映画」という枠組を吹き飛ばしてしまうタイプの作品で、何が描かれたかが、どう描かれたのかを圧倒し、評価するにあたって思考停止に陥ってしまうタイプの映画、である。ある意味、こういうのはちょっとずるい。
本作が2本目の監督、リー・ダニエルズは、当然、そういう自覚があるはずだ。それゆえに奇を衒った演出に走ったり、ことさらドラマティックに盛り上げようとしたりせず、主人公に淡々と、誠実に寄り添っていくスタイルをとっているのではないか、と思う。個人的には、主人公が逃避する妄想の世界の使い方が中途半端だと感じたが、あまりやり過ぎると、『シカゴ』になっちゃうし、そうすると描かれた「現実」が作り物のようになってしまう。それは、作り手の意図とは違うということだろう。
主人公を虐待する母親役でコメディエンヌのモニークが出演、アカデミー賞受賞時の感動的なスピーチも印象に残るが、確かに、引き受けるのをためらうような役柄で、これを引き受けて、こういう演技をやってのけたことは確かに賞賛に値するだろう。マライア・キャリーの出演も話題だが、この人、映画では初めてまともな仕事をした。なんだ、演技、できるじゃん!レニー・クラヴィッツも小さな役で出演し、いい味を出している。主役を演じるガボレイ・シディベの太り方は保険会社から警告を受けたというほどに異常。全くの素人をオーディションで起用したようだが、当時25歳だったというからびっくりですよ。ええ。
まあ、壮絶な話である。実話じゃないにしろ、これに類する話は珍しくないというのも凄まじい。
16歳の超肥満黒人少女は、義理の父親から幾度となくレイプされた挙句、12の時、すでにダウン症の息子を出産し、いまは2人目を妊娠している。公的扶助だけを頼りにする怠惰な母親は、自分の夫を奪った娘を、それゆえに虐待する。読み書きもろくろくできない。逃げ場所は妄想のなかだけ。80年代のNY、ハーレム。社会の最底辺の地獄のような生活のなか、周囲に差し伸べられた手によって少しだけ見えてきた希望。そこでダメ押しのように明らかになるのは、義理の父親からHIVに感染していたこと。
どう考えてもメジャーが手を出さない題材である。サンダンス映画祭で成功し、オプラ・・ウィンフリーとタイラー・ペリーが強力に興行の後押しをした結果、興行的にも一定の成果を収めることができ、賞レースを賑わせた。オプラがいれこむ理由は、彼女自身、10代未婚の母に育てられ、9歳で強姦され、14際で妊娠した経験があるという、なんだか映画みたいな経歴ゆえだという。
フィクションではあるが過酷な現実、そんな内容を映画にして知らしめることの価値は大きい。ある意味で使命感を背負った映画である。しかし、違う言い方をするなら、主人公の背負った運命の壮絶さそのものが、「映画」という枠組を吹き飛ばしてしまうタイプの作品で、何が描かれたかが、どう描かれたのかを圧倒し、評価するにあたって思考停止に陥ってしまうタイプの映画、である。ある意味、こういうのはちょっとずるい。
本作が2本目の監督、リー・ダニエルズは、当然、そういう自覚があるはずだ。それゆえに奇を衒った演出に走ったり、ことさらドラマティックに盛り上げようとしたりせず、主人公に淡々と、誠実に寄り添っていくスタイルをとっているのではないか、と思う。個人的には、主人公が逃避する妄想の世界の使い方が中途半端だと感じたが、あまりやり過ぎると、『シカゴ』になっちゃうし、そうすると描かれた「現実」が作り物のようになってしまう。それは、作り手の意図とは違うということだろう。
主人公を虐待する母親役でコメディエンヌのモニークが出演、アカデミー賞受賞時の感動的なスピーチも印象に残るが、確かに、引き受けるのをためらうような役柄で、これを引き受けて、こういう演技をやってのけたことは確かに賞賛に値するだろう。マライア・キャリーの出演も話題だが、この人、映画では初めてまともな仕事をした。なんだ、演技、できるじゃん!レニー・クラヴィッツも小さな役で出演し、いい味を出している。主役を演じるガボレイ・シディベの太り方は保険会社から警告を受けたというほどに異常。全くの素人をオーディションで起用したようだが、当時25歳だったというからびっくりですよ。ええ。
3/13/2010
Percy Jackson & the Olympians: The Lightning Thief
パーシー・ジャクソンとオリンポスの神々(☆☆)
ゲームのような映画、ということがある。いまではゲームを原作にした映画も珍しくない。本作はベストセラーのファンタジー小説を原作にしているのだが、これがまた、文字通り「ゲームのような構成」の映画で、思わず笑っちゃうのである。
まず、イントロで物語の説明が行われる。いわく、主人公はポセイドンの血を引くデミゴッドであり、ゼウスの雷撃を盗んだ嫌疑をかけられている、と。雷撃を欲するハデスにさらわれた母親を救い出し、ゼウスの疑いを晴らさなくてはならない、と。次は、チュートリアルが待っている。神の落とし子たちを集めたキャンプをステージに、ミノタウロスとの戦いやフィールドでの訓練で基本的な戦い方を教わるのだ。今後必要となる武器・アイテム・仲間を受領したら次に進もう。
キャンプをでたら、マップを手がかりにお宝を集めるクエストが始まる。アメリカを横断しながらステージを移動し、メデューサ、ヒドラと強力な中ボスを倒すごとに特殊な「真珠」をゲットしていく。ドラッグの迷宮を越え、3つ目の真珠を手に入れたら、冥界ステージへ移動だ。冥界でハデスと戦って母親を救出すれば、いよいよ最終ステージ。ここまできたらあとは簡単。幾分弱めの「雷撃泥棒」を倒してやると、オリンポスへの扉が開き、あとは勝手にムービーが流れてゲーム終了・・・って、そんな感じ。
まあ、それ以上でもそれ以下でもなく、語ることも何にもない。金のかかった大作なのに安っぽくて、「退屈な子供向けハリウッド映画」の見本のような作品である。原作は5部作だというが、続編企画がなくなっても驚かないし嘆きもしない。
クリス・コロンバスは「ハリー・ポッター」1作・2作の監督で、本作を手がける20世紀FOXでは、7本の監督作、4本の製作作品を手がけ、多くのヒットを飛ばしている。そんな流れで本作の指揮を任じられたのは想像に難くないが、この人選、正しかったのか。この人、もともとこういう仕掛けの大きな作品よりも、もっと規模の小さいコメディ作品で良さが出るタイプ。ハリー・ポッターのせいで本人も、周りも、何かを勘違いしてしまったんじゃなかろうか、と思っている。ショーン・ビーン、ウマ・サーマン、キャスリーン・キーナー、ロザリオ・ドーソン、ピアース・ブロスナンと、脇役がわりと豪華なのだが、みんな無駄遣いでもったいない。
ゲームのような映画、ということがある。いまではゲームを原作にした映画も珍しくない。本作はベストセラーのファンタジー小説を原作にしているのだが、これがまた、文字通り「ゲームのような構成」の映画で、思わず笑っちゃうのである。
まず、イントロで物語の説明が行われる。いわく、主人公はポセイドンの血を引くデミゴッドであり、ゼウスの雷撃を盗んだ嫌疑をかけられている、と。雷撃を欲するハデスにさらわれた母親を救い出し、ゼウスの疑いを晴らさなくてはならない、と。次は、チュートリアルが待っている。神の落とし子たちを集めたキャンプをステージに、ミノタウロスとの戦いやフィールドでの訓練で基本的な戦い方を教わるのだ。今後必要となる武器・アイテム・仲間を受領したら次に進もう。
キャンプをでたら、マップを手がかりにお宝を集めるクエストが始まる。アメリカを横断しながらステージを移動し、メデューサ、ヒドラと強力な中ボスを倒すごとに特殊な「真珠」をゲットしていく。ドラッグの迷宮を越え、3つ目の真珠を手に入れたら、冥界ステージへ移動だ。冥界でハデスと戦って母親を救出すれば、いよいよ最終ステージ。ここまできたらあとは簡単。幾分弱めの「雷撃泥棒」を倒してやると、オリンポスへの扉が開き、あとは勝手にムービーが流れてゲーム終了・・・って、そんな感じ。
まあ、それ以上でもそれ以下でもなく、語ることも何にもない。金のかかった大作なのに安っぽくて、「退屈な子供向けハリウッド映画」の見本のような作品である。原作は5部作だというが、続編企画がなくなっても驚かないし嘆きもしない。
クリス・コロンバスは「ハリー・ポッター」1作・2作の監督で、本作を手がける20世紀FOXでは、7本の監督作、4本の製作作品を手がけ、多くのヒットを飛ばしている。そんな流れで本作の指揮を任じられたのは想像に難くないが、この人選、正しかったのか。この人、もともとこういう仕掛けの大きな作品よりも、もっと規模の小さいコメディ作品で良さが出るタイプ。ハリー・ポッターのせいで本人も、周りも、何かを勘違いしてしまったんじゃなかろうか、と思っている。ショーン・ビーン、ウマ・サーマン、キャスリーン・キーナー、ロザリオ・ドーソン、ピアース・ブロスナンと、脇役がわりと豪華なのだが、みんな無駄遣いでもったいない。
3/06/2010
The Princess and the Frog
プリンセスと魔法のキス(☆☆☆)
2004年のウェスタン・ミュージカル・コメディ『Home on the Range(ホーム・オン・ザ・レンジ にぎやか牧場を救え!)』を最後に伝統的な手描きアニメから撤退してスタジオを閉鎖したディズニーが、久々に復活させた手書き(2D)アニメーション。アフリカ系の「プリンセス」の登場や、受身ではなく、自ら努力して幸せをつかもうとする主人公像については日本のメディアでも紹介されているからそれとなく耳に入っているはずだ。
しかし、本作を特徴付けるポイントはそれだけではない。それはなにかといえば、この映画が1920年代のニューオリンズを舞台に展開されるご機嫌なジャズ・ミュージカルであるということだ!
ご存知のとおり、ニューオリンズという街がハリケーン・カトリーナによって壊滅的打撃をうけたのが2005年のことだ。本作の企画にそれが影響を与えていないわけがない。ニューオリンズと、その土地が生み出した文化に対するトリビュートなのである。なにせ音楽を担当するランディ・ニューマンもニューオリンズ出身で、ジャズにも造詣が深い作曲家なのだ。
また、ディズニーのプリンセスものといえば欧州などの借り物が常だったところ、米国を舞台に、米国の文化を背景にしている点でも画期的であろう。
さて、お話しは、グリム童話の「カエルの王様」のパロディとでもいうべき、E.D.ベイカーの『カエルになったお姫さま(The Frog Princess)』を土台に、魔法を解くためにキスをしたら自分もカエルになっちゃった、というアイディアを核にして自由に脚色されたものである。働いて貯めた金でレストランを開業しようとしていた主人公が、蛙姿にされた某国の王子にキスをしたところ、自分も蛙になってしまい、人間に戻るための苦難の冒険が始まる。
主体的で前向きな主人公、放蕩ものでダメ人間の王子、ジャズが好きで人間とセッションをしたがっているワニ、とぼけているがロマンティックで誠実なホタル、などなどのキャラクターが生き生きと描かれ、敵方となるブードゥーの魔術師や、その力の源である「あちらの世界」のお友達も適度に怖い。ニューオリンズの街、有名なストリートカーや独特な墓地、バイユーの湿地帯なども丁寧に描きこまれ、本作ならではの雰囲気を盛り上げてくれる。
本作のために招聘されたのは、『リトル・マーメイド』、『アラジン』を手がけて90年代を牽引したロン・クレメンツ&ジョン・マスカー。(まあ、この二人には『ヘラクレス』と『トレジャー・プラネット』という、あまり誉められたものではない作品もある。)たとえ数年間でも作品の製作を休止したことで失われた人材とスキルには相当のものがあっただろう。ディズニーにはこの路線を継続的に作り続けることで、いつか第3の黄金期を築き上げて欲しいものだと思う。
2004年のウェスタン・ミュージカル・コメディ『Home on the Range(ホーム・オン・ザ・レンジ にぎやか牧場を救え!)』を最後に伝統的な手描きアニメから撤退してスタジオを閉鎖したディズニーが、久々に復活させた手書き(2D)アニメーション。アフリカ系の「プリンセス」の登場や、受身ではなく、自ら努力して幸せをつかもうとする主人公像については日本のメディアでも紹介されているからそれとなく耳に入っているはずだ。
しかし、本作を特徴付けるポイントはそれだけではない。それはなにかといえば、この映画が1920年代のニューオリンズを舞台に展開されるご機嫌なジャズ・ミュージカルであるということだ!
ご存知のとおり、ニューオリンズという街がハリケーン・カトリーナによって壊滅的打撃をうけたのが2005年のことだ。本作の企画にそれが影響を与えていないわけがない。ニューオリンズと、その土地が生み出した文化に対するトリビュートなのである。なにせ音楽を担当するランディ・ニューマンもニューオリンズ出身で、ジャズにも造詣が深い作曲家なのだ。
また、ディズニーのプリンセスものといえば欧州などの借り物が常だったところ、米国を舞台に、米国の文化を背景にしている点でも画期的であろう。
さて、お話しは、グリム童話の「カエルの王様」のパロディとでもいうべき、E.D.ベイカーの『カエルになったお姫さま(The Frog Princess)』を土台に、魔法を解くためにキスをしたら自分もカエルになっちゃった、というアイディアを核にして自由に脚色されたものである。働いて貯めた金でレストランを開業しようとしていた主人公が、蛙姿にされた某国の王子にキスをしたところ、自分も蛙になってしまい、人間に戻るための苦難の冒険が始まる。
主体的で前向きな主人公、放蕩ものでダメ人間の王子、ジャズが好きで人間とセッションをしたがっているワニ、とぼけているがロマンティックで誠実なホタル、などなどのキャラクターが生き生きと描かれ、敵方となるブードゥーの魔術師や、その力の源である「あちらの世界」のお友達も適度に怖い。ニューオリンズの街、有名なストリートカーや独特な墓地、バイユーの湿地帯なども丁寧に描きこまれ、本作ならではの雰囲気を盛り上げてくれる。
本作のために招聘されたのは、『リトル・マーメイド』、『アラジン』を手がけて90年代を牽引したロン・クレメンツ&ジョン・マスカー。(まあ、この二人には『ヘラクレス』と『トレジャー・プラネット』という、あまり誉められたものではない作品もある。)たとえ数年間でも作品の製作を休止したことで失われた人材とスキルには相当のものがあっただろう。ディズニーにはこの路線を継続的に作り続けることで、いつか第3の黄金期を築き上げて欲しいものだと思う。
2/06/2010
The Private Lives of Pippa Lee
50歳の恋愛白書(☆☆)
敏腕編集者である年の離れた夫(アラン・アーキン)と共に、リタイアメント・コミュニティに越してきた主人公(ロビン・ライト・ペン)が語るこれまでの人生は、一見して穏やかで平穏に見える現在の彼女からは想像し難いものであった。一風変わった若い男(キアヌ・リーヴス)の出現や、自らの睡眠障害、夫の浮気などの出来事をきっかけに大きく変わり始める生活と平行して、彼女の人生を決定的に運命付けた過去の衝撃的な事件が観客にあかされる。
アーサー・ミラーの娘で(ダニエル・ディ・ルイスの妻である)レベッカ・ミラーが自らの原作を脚色し、監督した作品である。アンサンブル・キャストから実力相応の演技を引き出せているので、楽しめないことはない。が、ストーリー・テラーとしては未熟。
退屈なリタイアメント・コミュニティに越してきたことを契機に始まる主人公の異常行動、抑圧されてきた感情や人間性。主人公が過去を語りながら、あるところで目の前の事件と、過去の決定的な出来事が劇的に交差する。個々のエピソードが平板に羅列されているので物語の骨格となる構造、違う言葉でいうなら、話のポイントがなかなか見えてこない。もちろん、原作者でもある本人の頭の中ではきれいに構造化されているのだろうが、この人にはそれを観客に向けて効果的に語ってみせる脚本の、そして演出の技術がない。
そんなんだから、こんな邦題をつけられる羽目になる。欲求不満なロビン・ライトと、若いキアヌの火遊びがメインだと観客を騙してみても、それに釣られるような観客が望むものはここにない。
ロビン・ライト・ペンが実際の年(43歳)よりも疲れめに見えるのは昔からのような気がするが、彼女より2歳ほど上のキアヌ・リーヴスが随分若く見えるのが驚きである。アラン・アーキンが絶品。その他、ジュリアン・ムーア、モニカ・ベルッチ、ウィノナ・ライダー、マーク・バインダー、マリア・ベロと、この規模の作品にしては脇役が豪華。ウィノナ・ライダーの再起が少し嬉しい、かも。
敏腕編集者である年の離れた夫(アラン・アーキン)と共に、リタイアメント・コミュニティに越してきた主人公(ロビン・ライト・ペン)が語るこれまでの人生は、一見して穏やかで平穏に見える現在の彼女からは想像し難いものであった。一風変わった若い男(キアヌ・リーヴス)の出現や、自らの睡眠障害、夫の浮気などの出来事をきっかけに大きく変わり始める生活と平行して、彼女の人生を決定的に運命付けた過去の衝撃的な事件が観客にあかされる。
アーサー・ミラーの娘で(ダニエル・ディ・ルイスの妻である)レベッカ・ミラーが自らの原作を脚色し、監督した作品である。アンサンブル・キャストから実力相応の演技を引き出せているので、楽しめないことはない。が、ストーリー・テラーとしては未熟。
退屈なリタイアメント・コミュニティに越してきたことを契機に始まる主人公の異常行動、抑圧されてきた感情や人間性。主人公が過去を語りながら、あるところで目の前の事件と、過去の決定的な出来事が劇的に交差する。個々のエピソードが平板に羅列されているので物語の骨格となる構造、違う言葉でいうなら、話のポイントがなかなか見えてこない。もちろん、原作者でもある本人の頭の中ではきれいに構造化されているのだろうが、この人にはそれを観客に向けて効果的に語ってみせる脚本の、そして演出の技術がない。
そんなんだから、こんな邦題をつけられる羽目になる。欲求不満なロビン・ライトと、若いキアヌの火遊びがメインだと観客を騙してみても、それに釣られるような観客が望むものはここにない。
ロビン・ライト・ペンが実際の年(43歳)よりも疲れめに見えるのは昔からのような気がするが、彼女より2歳ほど上のキアヌ・リーヴスが随分若く見えるのが驚きである。アラン・アーキンが絶品。その他、ジュリアン・ムーア、モニカ・ベルッチ、ウィノナ・ライダー、マーク・バインダー、マリア・ベロと、この規模の作品にしては脇役が豪華。ウィノナ・ライダーの再起が少し嬉しい、かも。
10/17/2009
The Proposal
あなたは私の婿になる(☆☆☆)
カナダ国籍のやり手女性編集者が、VISA手続きの不手際から国外追放を食らいそうになり、その回避手段として、過去3年彼女の下で耐えてきた若いアシスタントとの偽装結婚を思いつき、男も出世のためと渋々ながら承知する。ところが、そんな嘘を簡単に受け入れる移民局ではなかったから大変。舞台をNYからアラスカに移し、男の家族を巻き込んだ騒ぎに発展していく。いがみあう男女が、突拍子もない出来事をきっかけに、互いの違う側面に気づいて惹かれあうようになっていく、というのはロマンティック・コメディにおける絶対的な定番の一パターンだ。しかし、それを年上で実績のある「女優」が牽引し、アラスカという少し目新しい場所を選び出した目利きがこの作品の新鮮味につながっている。
考えてみれば、2005年の『デンジャラス・ビューティ2』以来、久しぶりにコメディに戻ってきたサンドラ・ブロックである。共演は見慣れない顔だと思っていたら、『ウルヴァリン』でウェイド・ウィルソン=デッドプールを演じていたライアン・レイノルズである。サンドラ・ブロックが1964年生まれ、ライアン・レイノルズが1976年生まれというから、丁度一回りも年が離れているし、映画界での実績もまたしかり。近年、こういう企画もたまに見受けられるようになったとはいえ、やはり珍しい部類といえるのではないか。昔から裏方にも積極的に関わってきたサンドラ・ブロック、今回もしっかりと製作総指揮に名を連ね、今の年齢の、今の彼女が輝く企画に仕立て上げるのに成功している。監督の人選もいい。『幸せになるための27のドレス』をヒットさせた、このジャンル期待の星、アン・フレッチャーだもの。
「部下を振り回す嫌われ上司」像には、『プラダを着た悪魔』のメリル・ストリープが重なり、偽装結婚から始まるロマンスといえば、ピータ・ウィアーの『グリーン・カード』なども思い出す。男の実家で家族や親戚と関係を深めることで抜き差しならない状況になっていく展開は、昏睡男のフィアンセと勘違いされたサンドラ自身のヒット作『あなたの寝ている間に』、だろう。ことほどさよう、ひとつひとつのアイディアにオリジナリティがあるとはいい難い。それでも、テンポよく繰り出される台詞は良く書けているし、なんだかんだといいながら3年間も一緒に働いてきた上司・部下の間の空気が変わっていく感覚を、主演のこの二人、なかなか良く醸し出している。自己中心的な凄腕上司、というのがサンドラ・ブロックのキャラクターではないのは先刻ご承知、思い通りにならないシチュエーションで困惑する彼女を見ていると、観客の期待する自分というのがどのあたりにあるのかを分かった人の仕事だというのが分かるだろう。
故郷の町にすむ男の元彼女を、『ベストフレンズ・ウェディング』のころのキャメロン・ディアスを思わせないでもないマリン・エイカーマンが演じている。この人、同じ監督の『~27のドレス』で、主人公の(嫌な)妹役を演じていて、注目株。今回も何かしでかすかと期待してみていたのだが、このキャラクターを添え物としてしか扱えない脚本は、ちょっともったいない。ほら、普通、こういう女は嫉妬心丸出しで主人公らの間に割って入ってくるものだし、偽装結婚という真実を真っ先に暴き出したりするものなんじゃないのかね。主人公が真実を暴露して身を引こうとする理由が「家族」でもいいけれど、若くて可愛い女がいてもいい。
付け加えて、邦題。語呂とインパクトで「婿」なんだと思うが、本来「娘の配偶者の男性」が婿なのだから、家制度も関係なければ、女性側の親が存在しない物語で「婿」っていうのはちょっと違う感じがする。
カナダ国籍のやり手女性編集者が、VISA手続きの不手際から国外追放を食らいそうになり、その回避手段として、過去3年彼女の下で耐えてきた若いアシスタントとの偽装結婚を思いつき、男も出世のためと渋々ながら承知する。ところが、そんな嘘を簡単に受け入れる移民局ではなかったから大変。舞台をNYからアラスカに移し、男の家族を巻き込んだ騒ぎに発展していく。いがみあう男女が、突拍子もない出来事をきっかけに、互いの違う側面に気づいて惹かれあうようになっていく、というのはロマンティック・コメディにおける絶対的な定番の一パターンだ。しかし、それを年上で実績のある「女優」が牽引し、アラスカという少し目新しい場所を選び出した目利きがこの作品の新鮮味につながっている。
考えてみれば、2005年の『デンジャラス・ビューティ2』以来、久しぶりにコメディに戻ってきたサンドラ・ブロックである。共演は見慣れない顔だと思っていたら、『ウルヴァリン』でウェイド・ウィルソン=デッドプールを演じていたライアン・レイノルズである。サンドラ・ブロックが1964年生まれ、ライアン・レイノルズが1976年生まれというから、丁度一回りも年が離れているし、映画界での実績もまたしかり。近年、こういう企画もたまに見受けられるようになったとはいえ、やはり珍しい部類といえるのではないか。昔から裏方にも積極的に関わってきたサンドラ・ブロック、今回もしっかりと製作総指揮に名を連ね、今の年齢の、今の彼女が輝く企画に仕立て上げるのに成功している。監督の人選もいい。『幸せになるための27のドレス』をヒットさせた、このジャンル期待の星、アン・フレッチャーだもの。
「部下を振り回す嫌われ上司」像には、『プラダを着た悪魔』のメリル・ストリープが重なり、偽装結婚から始まるロマンスといえば、ピータ・ウィアーの『グリーン・カード』なども思い出す。男の実家で家族や親戚と関係を深めることで抜き差しならない状況になっていく展開は、昏睡男のフィアンセと勘違いされたサンドラ自身のヒット作『あなたの寝ている間に』、だろう。ことほどさよう、ひとつひとつのアイディアにオリジナリティがあるとはいい難い。それでも、テンポよく繰り出される台詞は良く書けているし、なんだかんだといいながら3年間も一緒に働いてきた上司・部下の間の空気が変わっていく感覚を、主演のこの二人、なかなか良く醸し出している。自己中心的な凄腕上司、というのがサンドラ・ブロックのキャラクターではないのは先刻ご承知、思い通りにならないシチュエーションで困惑する彼女を見ていると、観客の期待する自分というのがどのあたりにあるのかを分かった人の仕事だというのが分かるだろう。
故郷の町にすむ男の元彼女を、『ベストフレンズ・ウェディング』のころのキャメロン・ディアスを思わせないでもないマリン・エイカーマンが演じている。この人、同じ監督の『~27のドレス』で、主人公の(嫌な)妹役を演じていて、注目株。今回も何かしでかすかと期待してみていたのだが、このキャラクターを添え物としてしか扱えない脚本は、ちょっともったいない。ほら、普通、こういう女は嫉妬心丸出しで主人公らの間に割って入ってくるものだし、偽装結婚という真実を真っ先に暴き出したりするものなんじゃないのかね。主人公が真実を暴露して身を引こうとする理由が「家族」でもいいけれど、若くて可愛い女がいてもいい。
付け加えて、邦題。語呂とインパクトで「婿」なんだと思うが、本来「娘の配偶者の男性」が婿なのだから、家制度も関係なければ、女性側の親が存在しない物語で「婿」っていうのはちょっと違う感じがする。
4/15/2009
The Pink Panthur 2
ピンクパンサー2(☆☆★)
スティーヴ・マーティンを主演に迎えて仕切りなおした新生『ピンクパンサー』シリーズ第2弾である。まず本作がどうのこうのいうまえに、この新シリーズは面白いのか?という問いに簡潔に答えるなら、たいして面白くはない、といわざるを得ないだろう。ただ、こうも思うのだ。フランチャイズとしての「ピンクパンサー」の名前やヘンリー・マンシーニの名テーマ曲が広く知れ渡り、主演のピーター・セラーズの死後にも何本も続編が作られたほどの人気があったとはいえ、そもそも一世を風靡した「ピンクパンサー」シリーズの映画がそれほどまでに面白い映画だったのだろうか?と。8本もある作品の全てを否定するつもりはないが、笑えない上に筋すらも良く分からないいい加減な作品も多く、アベレージは相当低かったと思っている。ついでにいうなら、新シリーズの監督であるショーン・レヴィやハラルド・ズワルトもそれほど冴えているわけではないが、ブレイク・エドワーズだってヘンリー・マンシーニの音楽抜きには見られないようなろくでもない映画をたくさんとっているスカ監督だ。
しかし、まあ、映画産業の常であるように、有名なフランチャイズを眠らせておくのはもったいないと "reboot" され、前作の興行的・批評的不評をものともせず、こうして続編までも作られてしまった。まあ、安上がりに作れば意外にうまみのある商売ができるのがコメディというジャンルなのかもしれない。作られてしまった以上、特に、スティーヴ・マーティンのファンであれば、これは見ないわけには行かないのである。故ピーター・セラーズを敬愛していると伝えられるマーティンのことだから、当初は迷いもあっただろう。彼なりの「クルーゾー」を創造できると確信できるまでOKを出さなかった彼は、結局、自ら脚本にも参画するかたちでシリーズに関与することになったのである。演技者としてだけでなく、クリエイターとしても関与している本シリーズは、スティーヴ・マーティンのフィルモグラフィにおいて一定の重みがあるということだ。
ところで、スティーヴ・マーティン版の「クルーゾー」は、前シリーズから引き継ぐ形で「フランス風の馬鹿げたなまりで話すナンセンスな台詞」と「フィジカルなドタバタ」を基本にしているが、方向性は同じでも、演ずる役者が違うと笑いの質や見せ場も随分異なるものである。90年代以降は大人しいファミリー・コメディへの出演が増えていたマーティンが、「クルーゾー」という特異な人物を演ずる、いわゆる「キャラクターもの」であり、ナンセンスでフィジカルな芸を(久々に)堪能できる作品であるというのがファン的な意味で本シリーズの存在意義である。今作でも奇妙な振り付けと独特のリズムで場をさらうダンスなど、彼が昔得意としたネタを髣髴とさせるフィジカル芸がふんだんに詰め込まれており、それを楽しめる観客であれば退屈することはあるまい。『12人のパパ』シリーズなどで死ぬほど退屈をした(はずの)スティーヴ・マーティン好きにはそれだけで嬉しいと思えるはずだ。
映画全体としてみると、なんだか無駄に豪華なキャストを起用していながらそれぞれの見せ場を作ることに失敗しているのがもったいないところである。前作から続投のジャン・レノ、エミリー・モティマーに加え、ジョン・クリース、アンディ・ガルシア、アルフレッド・モリーナ、リリー・トムリン、ジェレミー・アイアンズが出演。ジョン・クリースは前作でケヴィン・クラインが演じたドレフュス役を引き継いだ形だが、利己的・権威主義的なこのキャラクターとジョン・クリースの持ち味がバッチリ合っており、マーティンとの相性も悪くないだけに、二人の絡みをもっと見せてほしいところであった。アンディ・ガルシアはそれなりのスクリーン・タイムをもらっているが、演出がタコなので、コメディに必要なリズムと軽さが足りない。アルフレッド・モリーナは完全な無駄使いで何のための起用だかわからない。こうしたビッグネームに囲まれて日本代表を演じるユキ・マツザキは、敢えて日本訛りで頑張ってはいるものの、あからさまに周囲との格の違いが見えてしまって可哀想。キャストでの一番の見所は、その昔『All of Me』でマーティンと共演したこともある大ベテランのコメディエンヌ、リリー・トムリンだろう。彼女とマーティンの絡みはさすがに呼吸が合っていて、コメディのリズムになっている。コメディ好きとしては、そんなシーンを見るだけで少しほっとするというものだ。
スティーヴ・マーティンを主演に迎えて仕切りなおした新生『ピンクパンサー』シリーズ第2弾である。まず本作がどうのこうのいうまえに、この新シリーズは面白いのか?という問いに簡潔に答えるなら、たいして面白くはない、といわざるを得ないだろう。ただ、こうも思うのだ。フランチャイズとしての「ピンクパンサー」の名前やヘンリー・マンシーニの名テーマ曲が広く知れ渡り、主演のピーター・セラーズの死後にも何本も続編が作られたほどの人気があったとはいえ、そもそも一世を風靡した「ピンクパンサー」シリーズの映画がそれほどまでに面白い映画だったのだろうか?と。8本もある作品の全てを否定するつもりはないが、笑えない上に筋すらも良く分からないいい加減な作品も多く、アベレージは相当低かったと思っている。ついでにいうなら、新シリーズの監督であるショーン・レヴィやハラルド・ズワルトもそれほど冴えているわけではないが、ブレイク・エドワーズだってヘンリー・マンシーニの音楽抜きには見られないようなろくでもない映画をたくさんとっているスカ監督だ。
しかし、まあ、映画産業の常であるように、有名なフランチャイズを眠らせておくのはもったいないと "reboot" され、前作の興行的・批評的不評をものともせず、こうして続編までも作られてしまった。まあ、安上がりに作れば意外にうまみのある商売ができるのがコメディというジャンルなのかもしれない。作られてしまった以上、特に、スティーヴ・マーティンのファンであれば、これは見ないわけには行かないのである。故ピーター・セラーズを敬愛していると伝えられるマーティンのことだから、当初は迷いもあっただろう。彼なりの「クルーゾー」を創造できると確信できるまでOKを出さなかった彼は、結局、自ら脚本にも参画するかたちでシリーズに関与することになったのである。演技者としてだけでなく、クリエイターとしても関与している本シリーズは、スティーヴ・マーティンのフィルモグラフィにおいて一定の重みがあるということだ。
ところで、スティーヴ・マーティン版の「クルーゾー」は、前シリーズから引き継ぐ形で「フランス風の馬鹿げたなまりで話すナンセンスな台詞」と「フィジカルなドタバタ」を基本にしているが、方向性は同じでも、演ずる役者が違うと笑いの質や見せ場も随分異なるものである。90年代以降は大人しいファミリー・コメディへの出演が増えていたマーティンが、「クルーゾー」という特異な人物を演ずる、いわゆる「キャラクターもの」であり、ナンセンスでフィジカルな芸を(久々に)堪能できる作品であるというのがファン的な意味で本シリーズの存在意義である。今作でも奇妙な振り付けと独特のリズムで場をさらうダンスなど、彼が昔得意としたネタを髣髴とさせるフィジカル芸がふんだんに詰め込まれており、それを楽しめる観客であれば退屈することはあるまい。『12人のパパ』シリーズなどで死ぬほど退屈をした(はずの)スティーヴ・マーティン好きにはそれだけで嬉しいと思えるはずだ。
映画全体としてみると、なんだか無駄に豪華なキャストを起用していながらそれぞれの見せ場を作ることに失敗しているのがもったいないところである。前作から続投のジャン・レノ、エミリー・モティマーに加え、ジョン・クリース、アンディ・ガルシア、アルフレッド・モリーナ、リリー・トムリン、ジェレミー・アイアンズが出演。ジョン・クリースは前作でケヴィン・クラインが演じたドレフュス役を引き継いだ形だが、利己的・権威主義的なこのキャラクターとジョン・クリースの持ち味がバッチリ合っており、マーティンとの相性も悪くないだけに、二人の絡みをもっと見せてほしいところであった。アンディ・ガルシアはそれなりのスクリーン・タイムをもらっているが、演出がタコなので、コメディに必要なリズムと軽さが足りない。アルフレッド・モリーナは完全な無駄使いで何のための起用だかわからない。こうしたビッグネームに囲まれて日本代表を演じるユキ・マツザキは、敢えて日本訛りで頑張ってはいるものの、あからさまに周囲との格の違いが見えてしまって可哀想。キャストでの一番の見所は、その昔『All of Me』でマーティンと共演したこともある大ベテランのコメディエンヌ、リリー・トムリンだろう。彼女とマーティンの絡みはさすがに呼吸が合っていて、コメディのリズムになっている。コメディ好きとしては、そんなシーンを見るだけで少しほっとするというものだ。
11/21/2008
P.S. I Love You
P.S. アイ・ラブ・ユー(☆☆★)
『300』でのマッチョぶりが記憶に新しいジェラルド・バトラーと、『ミリオンダラー・ベイビー』でのタフさが目に焼きついたヒラリー・スワンクに、それぞれのイメージを覆すスウィートなロマンスをやらせようという企画そのものについては、なかなか良いと思うのである。もちろん、二人に凶暴なカップルの暴走とか、お互い死ぬまで譲らない離婚闘争(『ローズ家の戦争』かよ!)とかをやってもらっても結構だと思うのだが、この秋のもう一本のほうのロマンス映画のカップル(リチャード・ギア&ダイアン・レイン)のように手垢のついた予定調和とは違った新鮮さがあるではないか。
そして、ストーリーである。先立ってしまった夫が自分の死後の妻を思い、先回りをしていろいろな手配や仕掛けを済ませた上で10通の手紙でメッセージが届くように取り計らう。死んだはずの夫の指図で行動をするうち、夫のいない新しい人生に踏み出していけるようになる妻。思いを残した死人があれこれ残されたものの世話を焼くファンタジーな話も過去にはあったが、これとは似て非なる「死者が残した手紙とその計画」というアイディアはロマンティックだし、面白い。
しかし、この映画、どうにもピリッとしない。脚色と監督を兼ねるのはリチャード・ラグラヴェネーズ。まず、導入が悪い。2人の仲の良い様子はどうせ回想を挟み込んだ展開になるのだから、冒頭で描かなくともよかろう。また、主人公の姉妹に関わるエピソードも賑やかしのつもりかもしれないが、本筋の邪魔である。さらに、主人公を脇で見ている男との関係を描くエピソードは、「主人公の自立」と「死者の思い出との決別」という観点で柱にしたいのか、単なる付け足しなのか、描き方が中途半端。それに「10通の手紙が届く」というのだから、せめて、どのメッセージが何通目かわかるように、物語にアクセントをつけながらリズムを刻んでいけばもう少しテンポよく仕上がったんじゃなかろうか。この程度の内容の映画で2時間を越えるのは出来の悪い証拠と考える。
脇の出演者では相変わらずキャシー・ベイツが巧い。リサ・クドローはお笑いパートで、ジーナ・ガーションやハリー・コニックJrにはには見せ場なし。こうしてみると意外にも豪華キャストだったのね。無駄使いな感じだけどさ。
最後に文句。ポスターにある、『プラダを着た悪魔』プロデューサーX『マディソン郡の橋』脚本家って何よ。近寄ってみてみたら小さな字で名前が確認できるというならわかるけど、主要スタッフの記載のない看板やポスターばかりなのな。最近、「XXのスタッフが送る」とか、わけのわからん宣伝がまかり通っているのだが、名前を書きなさい、名前を。あと、日本版主題歌とかいって、音楽を勝手に差し替えるのやめてくれないかな。ディズニー・アニメの日本語吹替版じゃないんだから。ターゲットとする女性観客がそんなのを喜ぶと思っているのが、いったい「侮辱」といってよいのか、もしかして、ほんとうにそんなんで喜ぶほど観客層の頭がユルいのか、どっちが真相なのかは知らないけどね。
『300』でのマッチョぶりが記憶に新しいジェラルド・バトラーと、『ミリオンダラー・ベイビー』でのタフさが目に焼きついたヒラリー・スワンクに、それぞれのイメージを覆すスウィートなロマンスをやらせようという企画そのものについては、なかなか良いと思うのである。もちろん、二人に凶暴なカップルの暴走とか、お互い死ぬまで譲らない離婚闘争(『ローズ家の戦争』かよ!)とかをやってもらっても結構だと思うのだが、この秋のもう一本のほうのロマンス映画のカップル(リチャード・ギア&ダイアン・レイン)のように手垢のついた予定調和とは違った新鮮さがあるではないか。
そして、ストーリーである。先立ってしまった夫が自分の死後の妻を思い、先回りをしていろいろな手配や仕掛けを済ませた上で10通の手紙でメッセージが届くように取り計らう。死んだはずの夫の指図で行動をするうち、夫のいない新しい人生に踏み出していけるようになる妻。思いを残した死人があれこれ残されたものの世話を焼くファンタジーな話も過去にはあったが、これとは似て非なる「死者が残した手紙とその計画」というアイディアはロマンティックだし、面白い。
しかし、この映画、どうにもピリッとしない。脚色と監督を兼ねるのはリチャード・ラグラヴェネーズ。まず、導入が悪い。2人の仲の良い様子はどうせ回想を挟み込んだ展開になるのだから、冒頭で描かなくともよかろう。また、主人公の姉妹に関わるエピソードも賑やかしのつもりかもしれないが、本筋の邪魔である。さらに、主人公を脇で見ている男との関係を描くエピソードは、「主人公の自立」と「死者の思い出との決別」という観点で柱にしたいのか、単なる付け足しなのか、描き方が中途半端。それに「10通の手紙が届く」というのだから、せめて、どのメッセージが何通目かわかるように、物語にアクセントをつけながらリズムを刻んでいけばもう少しテンポよく仕上がったんじゃなかろうか。この程度の内容の映画で2時間を越えるのは出来の悪い証拠と考える。
脇の出演者では相変わらずキャシー・ベイツが巧い。リサ・クドローはお笑いパートで、ジーナ・ガーションやハリー・コニックJrにはには見せ場なし。こうしてみると意外にも豪華キャストだったのね。無駄使いな感じだけどさ。
最後に文句。ポスターにある、『プラダを着た悪魔』プロデューサーX『マディソン郡の橋』脚本家って何よ。近寄ってみてみたら小さな字で名前が確認できるというならわかるけど、主要スタッフの記載のない看板やポスターばかりなのな。最近、「XXのスタッフが送る」とか、わけのわからん宣伝がまかり通っているのだが、名前を書きなさい、名前を。あと、日本版主題歌とかいって、音楽を勝手に差し替えるのやめてくれないかな。ディズニー・アニメの日本語吹替版じゃないんだから。ターゲットとする女性観客がそんなのを喜ぶと思っているのが、いったい「侮辱」といってよいのか、もしかして、ほんとうにそんなんで喜ぶほど観客層の頭がユルいのか、どっちが真相なのかは知らないけどね。
8/03/2008
Ponyo on a Cliff by the Sea
崖の上のポニョ(☆☆☆☆)
たまたまなのかもしれない。が、この日、私が見た回では、映画が始まる前はものすごい熱気に満ちていた満場の観客が、映画の終了と同時に、どのように反応してよいものか戸惑っているかのように静まり返ってしまった。なんとなく気持ちは分からないでもないが、しかし、みんな、何を期待して劇場に足を運んだというのだろうか。大方、「トトロ」のように明快なストーリーラインとまとまりをもった作品を期待していたのだろう。(もっとも、そういう観客のほとんどが、「トトロ」のときには劇場に足を運びすらしなかったことは、皮肉であるが悲しい現実である。)
いわゆる起承転結というか、物語がきっちりと構成された普通の作品を、よもや宮崎駿に求めようとはさらさら思っていない。リアルタイムで見てきた観客として、彼がそういう作品をやりつくしてしまい、「いまさらそんなんじゃないだろ」と思っている感覚も、今回出された各種のインタビューを精読するまでもなく、良くわかっているつもりである。だから、本作の壊れ方が並大抵でないのも想定の範囲内であると同時に、むしろ、そんな作品を作る自由を得た天才が、なにを見せようとしているのか、何を作りたいのかに興味を持っている。
本作はかなり明確に子供に見て欲しいと思って作っただけのことはあって、表面上は少年と異形の少女の出会いと約束を主題としたハッピーエンドのようなストーリーラインを持っている。が、その背景で町は沈み、船は座礁し、魔力は解き放たれ、古代魚が溢れ出し、気がついたらあの世とこの世がつながって溶け合い、まるで世界の終焉とでもいうべき事態が進行していく。理由も語られなければ説明もない。主人公は幼い男の子であり、彼は自分の興味の範囲外のことを詮索しようとしないからだ。
とはいえ、この映画をみる「大人」の観客としては、この、決して長くはないフィルムに描きつくされたものを目にして驚愕せざるをえまい。もう、ストーリーがどうとか、金魚(人面魚?)が海にいるかどうかとか、そんな生き物をいきなり水道水に放りこんでよいものかどうかとか、そんな瑣末なことを問題にしている場合ではないのである。
これは、子供が親を呼び捨てにし、親は嵐の中子供を家に一人残して出かけてしまい、老人が蔑ろにされて老人ホームのような場所に閉じ込められているような世の中は一度滅びた方がいい、と云っている、そういう作品なのであろうか。
それにしても、子供に自分の名前を呼び捨てにさせる「親」が、いきいきとしていて魅力的に過ぎないだろうか。「千と千尋」のときのように、あからさまな「豚」としては描かれていない。この「親」は自らが置かれた立場で精一杯頑張っている人間だ。老人たちとて、多くは自分の置かれた環境に満足しているように見えるし、そんなに悪い待遇を受けているようには描かれていない。
ただ、そうした常識的なお仕着せを嫌うある一人の老婆が、物語の中で最も重要な役割を果たすことになるのは偶然ではないだろう。主人公たちが道中でくぐるトンネルは、やはり異界への扉と考えるのが適切だろうし、そう考えれば、あの町だけでなく、もしかしたら映画の画面では描かれていない外の世界、全ての世界が一度水没し、滅んでしまったという見方も成り立つ。
滅ぶ世界の中で、何を残すのか、何を残したいのか、これは、観客一人ひとりが、そんなことを自由に考えさせるだけの余白がたくさん残った作品である。
ただ、この作品の面白さを、そういう「理解」、違った言葉でいうなら「深読み」にのみ求めるのはやはり間違っている。もしかしたら、本作のアニメーションとしての面白さ、表現の豊穣さを楽しむ上ではそんなことは余計なことだ。
ますます「商品」として大量生産、大量消費される「アニメ」が望んでも得られないような体制で、予算と時間をたっぷりとかけ、動かない「絵」に生命を吹き込み(=アニメート、とはそういうこと)、そうして完成させられた躍動する動画の贅沢さ、それを映画館の大スクリーンで体験する至福は他の何にも代えがたいものである。
本作では「絵」の精緻さ、リアルさを追求する路線を放棄し、敢えてシンプルで柔らかい線、大胆なディフォルメで描かれた絵に無理やり原点回帰してみせたことが、アニメーションが本質的にもち得る力の凄さを改めて思い起こさせることにつながっている。これを見て、楽しめばいいのだと思う。それを楽しめないというのは、やはり、何か先入観や思い込みにとらわれていて、目の前で展開する尋常ならざる仕事の成果を感じ取る力が脆弱になっているということではないか、とも思う。
しかし、いくら子供向けに作っていると作り手が主張し、もちろん、表面上は子供たちが単純に楽しめるマンガ映画になっているとはいっても、これほどまでに大胆で狂った作品が、商業作品として全国のスクリーンを席巻し、多くの観客が詰め掛けていることそのものが摩訶不思議な事態であり、もしかしたら、奇跡的とでもいいたいくらいに、ものすごく幸せなことなのだと思う。ビジネスとして成立している限りにおいて、芸術家は創造の自由を得られる、そんなことを、これほどまでに雄弁に物語る映画を他に知らない。
たまたまなのかもしれない。が、この日、私が見た回では、映画が始まる前はものすごい熱気に満ちていた満場の観客が、映画の終了と同時に、どのように反応してよいものか戸惑っているかのように静まり返ってしまった。なんとなく気持ちは分からないでもないが、しかし、みんな、何を期待して劇場に足を運んだというのだろうか。大方、「トトロ」のように明快なストーリーラインとまとまりをもった作品を期待していたのだろう。(もっとも、そういう観客のほとんどが、「トトロ」のときには劇場に足を運びすらしなかったことは、皮肉であるが悲しい現実である。)
いわゆる起承転結というか、物語がきっちりと構成された普通の作品を、よもや宮崎駿に求めようとはさらさら思っていない。リアルタイムで見てきた観客として、彼がそういう作品をやりつくしてしまい、「いまさらそんなんじゃないだろ」と思っている感覚も、今回出された各種のインタビューを精読するまでもなく、良くわかっているつもりである。だから、本作の壊れ方が並大抵でないのも想定の範囲内であると同時に、むしろ、そんな作品を作る自由を得た天才が、なにを見せようとしているのか、何を作りたいのかに興味を持っている。
本作はかなり明確に子供に見て欲しいと思って作っただけのことはあって、表面上は少年と異形の少女の出会いと約束を主題としたハッピーエンドのようなストーリーラインを持っている。が、その背景で町は沈み、船は座礁し、魔力は解き放たれ、古代魚が溢れ出し、気がついたらあの世とこの世がつながって溶け合い、まるで世界の終焉とでもいうべき事態が進行していく。理由も語られなければ説明もない。主人公は幼い男の子であり、彼は自分の興味の範囲外のことを詮索しようとしないからだ。
とはいえ、この映画をみる「大人」の観客としては、この、決して長くはないフィルムに描きつくされたものを目にして驚愕せざるをえまい。もう、ストーリーがどうとか、金魚(人面魚?)が海にいるかどうかとか、そんな生き物をいきなり水道水に放りこんでよいものかどうかとか、そんな瑣末なことを問題にしている場合ではないのである。
これは、子供が親を呼び捨てにし、親は嵐の中子供を家に一人残して出かけてしまい、老人が蔑ろにされて老人ホームのような場所に閉じ込められているような世の中は一度滅びた方がいい、と云っている、そういう作品なのであろうか。
それにしても、子供に自分の名前を呼び捨てにさせる「親」が、いきいきとしていて魅力的に過ぎないだろうか。「千と千尋」のときのように、あからさまな「豚」としては描かれていない。この「親」は自らが置かれた立場で精一杯頑張っている人間だ。老人たちとて、多くは自分の置かれた環境に満足しているように見えるし、そんなに悪い待遇を受けているようには描かれていない。
ただ、そうした常識的なお仕着せを嫌うある一人の老婆が、物語の中で最も重要な役割を果たすことになるのは偶然ではないだろう。主人公たちが道中でくぐるトンネルは、やはり異界への扉と考えるのが適切だろうし、そう考えれば、あの町だけでなく、もしかしたら映画の画面では描かれていない外の世界、全ての世界が一度水没し、滅んでしまったという見方も成り立つ。
滅ぶ世界の中で、何を残すのか、何を残したいのか、これは、観客一人ひとりが、そんなことを自由に考えさせるだけの余白がたくさん残った作品である。
ただ、この作品の面白さを、そういう「理解」、違った言葉でいうなら「深読み」にのみ求めるのはやはり間違っている。もしかしたら、本作のアニメーションとしての面白さ、表現の豊穣さを楽しむ上ではそんなことは余計なことだ。
ますます「商品」として大量生産、大量消費される「アニメ」が望んでも得られないような体制で、予算と時間をたっぷりとかけ、動かない「絵」に生命を吹き込み(=アニメート、とはそういうこと)、そうして完成させられた躍動する動画の贅沢さ、それを映画館の大スクリーンで体験する至福は他の何にも代えがたいものである。
本作では「絵」の精緻さ、リアルさを追求する路線を放棄し、敢えてシンプルで柔らかい線、大胆なディフォルメで描かれた絵に無理やり原点回帰してみせたことが、アニメーションが本質的にもち得る力の凄さを改めて思い起こさせることにつながっている。これを見て、楽しめばいいのだと思う。それを楽しめないというのは、やはり、何か先入観や思い込みにとらわれていて、目の前で展開する尋常ならざる仕事の成果を感じ取る力が脆弱になっているということではないか、とも思う。
しかし、いくら子供向けに作っていると作り手が主張し、もちろん、表面上は子供たちが単純に楽しめるマンガ映画になっているとはいっても、これほどまでに大胆で狂った作品が、商業作品として全国のスクリーンを席巻し、多くの観客が詰め掛けていることそのものが摩訶不思議な事態であり、もしかしたら、奇跡的とでもいいたいくらいに、ものすごく幸せなことなのだと思う。ビジネスとして成立している限りにおいて、芸術家は創造の自由を得られる、そんなことを、これほどまでに雄弁に物語る映画を他に知らない。
4/23/1999
Pushing Tin
狂っちゃいないぜ!(☆☆★)
航空管制官の話、ではなく、たまたま管制官という職業に付いている主人公の、仕事・ライバル・浮気・夫婦関係・爆弾テロ事件・スランプ・友情を切り取ってみせるオフビート・コメディである。まあ、魅力的な失敗作、くらいの感じだろうか。
内面の成熟が足らない男を演じさせたらこの人、ジョン・キューザックが、自他ともに認めるNYのやり手航空管制官を演じているのだが、あちこちの管制塔を渡り歩いてきた風変わりな男の一流の仕事ぶりにライバル心を燃やし、あろうことか相手の妻に手を出したことで話がややこしくなる。
航空管制官という仕事を描くのがメインの映画ではないことは先に書いたとおりだが、この仕事のものすごいプレッシャーとストレスの強さを垣間見ることができて、興味深い。それを背景として埋め込んでしまったことが少々もったいないように思う。
脚本はTVの人気コメディショー『Cheers』 『Taxi』のプロデューサー、グレン・チャ-ルズの作で、1本の映画にするのもいいけれど、同じ舞台設定で、シットコムみたいな形式で延々やることもできそうだ。そう考えてみると、本作の主要なキャラクターも、TVドラマに使えそうなキャラクターの立ち具合である。
そのキャラクターを演じているのが前述のジョン・キューザックのミステリアスなライバルに、怪優ビリー・ボブ・ソーントン。そのアル中気味の妻にアンジェリーナ・ジョリー。主人公の妻にケイト・ブランシェットという顔ぶれである。ここ数年で名前が売れてきた、演技達者なキャストのアンサンブルだ。アル中気味で精神的に不安定になっている役回りのアンジョリーナ・ジョリーに演技的な見せ場があった。この人は化けるよ、多分。
『フォー・ウェディング』、『フェイク』で売りだした英国出身のマイク・ニューウェルの演出は、コミック的に描かれているキャラクターから、リアルな人間味をうまく引き出して、少し地に足の着いたコメディに着地させている。
航空管制官の話、ではなく、たまたま管制官という職業に付いている主人公の、仕事・ライバル・浮気・夫婦関係・爆弾テロ事件・スランプ・友情を切り取ってみせるオフビート・コメディである。まあ、魅力的な失敗作、くらいの感じだろうか。
内面の成熟が足らない男を演じさせたらこの人、ジョン・キューザックが、自他ともに認めるNYのやり手航空管制官を演じているのだが、あちこちの管制塔を渡り歩いてきた風変わりな男の一流の仕事ぶりにライバル心を燃やし、あろうことか相手の妻に手を出したことで話がややこしくなる。
航空管制官という仕事を描くのがメインの映画ではないことは先に書いたとおりだが、この仕事のものすごいプレッシャーとストレスの強さを垣間見ることができて、興味深い。それを背景として埋め込んでしまったことが少々もったいないように思う。
脚本はTVの人気コメディショー『Cheers』 『Taxi』のプロデューサー、グレン・チャ-ルズの作で、1本の映画にするのもいいけれど、同じ舞台設定で、シットコムみたいな形式で延々やることもできそうだ。そう考えてみると、本作の主要なキャラクターも、TVドラマに使えそうなキャラクターの立ち具合である。
そのキャラクターを演じているのが前述のジョン・キューザックのミステリアスなライバルに、怪優ビリー・ボブ・ソーントン。そのアル中気味の妻にアンジェリーナ・ジョリー。主人公の妻にケイト・ブランシェットという顔ぶれである。ここ数年で名前が売れてきた、演技達者なキャストのアンサンブルだ。アル中気味で精神的に不安定になっている役回りのアンジョリーナ・ジョリーに演技的な見せ場があった。この人は化けるよ、多分。
『フォー・ウェディング』、『フェイク』で売りだした英国出身のマイク・ニューウェルの演出は、コミック的に描かれているキャラクターから、リアルな人間味をうまく引き出して、少し地に足の着いたコメディに着地させている。
2/05/1999
Payback
ペイバック(☆☆★)
『L.A.コンフィデンシャル』の脚色で一躍その名を轟かせたブライアン・ヘルゲランドの監督デビュー作は、メル・ギブソン主演のピカレスクもののハードアクションである。現金強奪が成功寸前に、思わぬ裏切りにあって瀕死の重傷を負った男が、、一命を取りとめて、俺の取り分を返せとばかりに裏切った相棒と金の行方を追う。主人公も悪党だが、他のヤツらはもっと悪党だ。
脇を固めるのは、ジェームズ・コバーンやクリス・クリストファーソンらの強面。他にデボラ・カーラ・アンガー、ルーシー・リュウらが共演。
大した映画じゃないし、好き嫌いもあるだろうが、個人的にはわりと楽しめた。ひまつぶしには悪くないよ。
モノローグを多用した「ハードボイルド」風、一人称で語られている作品である。その主人公を、暴走したら止められない危険な男、その目に宿した狂気の光が似合う男ナンバー・ワンのメルが演じているんだから、それだけである程度の面白さは保証されている。そうそう、最近生ぬるくなっちゃっていたけど、こういうメルがみたいんだよ。
ただ、映画全体としては弾けそこなった感がある。なんだか小さくまとまってしまっているんだよね。製作規模や起用されたスターのランクからいえば、それなりの大作感も必要だと想うのだが、場末の映画館の2本立ての1本が似合うような雰囲気なのだ。まあ、そういう映画の伝統の上に則ったジャンル映画なんだから、まさに狙いぴったりといえばそうなんだけど。
この映画のユニークなところは、ヴァイオレンス描写の在り方だと思う。最近、監督やスターの米国進出もあって、ハリウッド・アクションに「香港風味」が随分と幅を利かせている。メル・ギブソン主演作ひとつとっても、『リーサル・ウェポン』は回を追うたびにそういう傾倒が強くなってきて、当初のリアル・アクションはどこへやら、マンガっぽいアクションへとスタイルを変えてきたのは御存知の通り。
そんな風潮の中で、この映画のヴァイオレンスの見せ方はかなり異質といえる。リアルで、突発的で、痛みを伴うその描写は、ハリウッド映画的な基準で見れば、かなり新鮮である。いってみれば、「北野武」風味が入っている感じだ。R指定上等といわんばかりに、殴る蹴るの一挙一動が「唐突」で、しかも「痛い」。ましてやそんな場面で笑いを取ってしまう「間」の取りかたや、随所の省略の利かせ方。無感覚に人がたくさん死んでいくハリウッド流とは明らかに違うテイストだ。
本作の欠点は、存在感のある男優たちに埋もれて、女優たちに見せ場がないことだ。ハードボイルド風、はよいのだけれど、やはりそこに魅力的な女優は欠かせないはず。デボラ・アンガーはそのポジションには十分な雰囲気を持った女優だが、出番が少なすぎて少々気の毒だった。もう一人、TVでの人気を背景に映画に進出しつつあるルーシー・リュウが「とんでも」なキャラクターを好演して一人で美味しい所をさらってしまったが、これは飛び道具の部類であって、ヒロインとは違うんだよな。
『L.A.コンフィデンシャル』の脚色で一躍その名を轟かせたブライアン・ヘルゲランドの監督デビュー作は、メル・ギブソン主演のピカレスクもののハードアクションである。現金強奪が成功寸前に、思わぬ裏切りにあって瀕死の重傷を負った男が、、一命を取りとめて、俺の取り分を返せとばかりに裏切った相棒と金の行方を追う。主人公も悪党だが、他のヤツらはもっと悪党だ。
脇を固めるのは、ジェームズ・コバーンやクリス・クリストファーソンらの強面。他にデボラ・カーラ・アンガー、ルーシー・リュウらが共演。
大した映画じゃないし、好き嫌いもあるだろうが、個人的にはわりと楽しめた。ひまつぶしには悪くないよ。
モノローグを多用した「ハードボイルド」風、一人称で語られている作品である。その主人公を、暴走したら止められない危険な男、その目に宿した狂気の光が似合う男ナンバー・ワンのメルが演じているんだから、それだけである程度の面白さは保証されている。そうそう、最近生ぬるくなっちゃっていたけど、こういうメルがみたいんだよ。
ただ、映画全体としては弾けそこなった感がある。なんだか小さくまとまってしまっているんだよね。製作規模や起用されたスターのランクからいえば、それなりの大作感も必要だと想うのだが、場末の映画館の2本立ての1本が似合うような雰囲気なのだ。まあ、そういう映画の伝統の上に則ったジャンル映画なんだから、まさに狙いぴったりといえばそうなんだけど。
この映画のユニークなところは、ヴァイオレンス描写の在り方だと思う。最近、監督やスターの米国進出もあって、ハリウッド・アクションに「香港風味」が随分と幅を利かせている。メル・ギブソン主演作ひとつとっても、『リーサル・ウェポン』は回を追うたびにそういう傾倒が強くなってきて、当初のリアル・アクションはどこへやら、マンガっぽいアクションへとスタイルを変えてきたのは御存知の通り。
そんな風潮の中で、この映画のヴァイオレンスの見せ方はかなり異質といえる。リアルで、突発的で、痛みを伴うその描写は、ハリウッド映画的な基準で見れば、かなり新鮮である。いってみれば、「北野武」風味が入っている感じだ。R指定上等といわんばかりに、殴る蹴るの一挙一動が「唐突」で、しかも「痛い」。ましてやそんな場面で笑いを取ってしまう「間」の取りかたや、随所の省略の利かせ方。無感覚に人がたくさん死んでいくハリウッド流とは明らかに違うテイストだ。
本作の欠点は、存在感のある男優たちに埋もれて、女優たちに見せ場がないことだ。ハードボイルド風、はよいのだけれど、やはりそこに魅力的な女優は欠かせないはず。デボラ・アンガーはそのポジションには十分な雰囲気を持った女優だが、出番が少なすぎて少々気の毒だった。もう一人、TVでの人気を背景に映画に進出しつつあるルーシー・リュウが「とんでも」なキャラクターを好演して一人で美味しい所をさらってしまったが、これは飛び道具の部類であって、ヒロインとは違うんだよな。
12/25/1998
Patch Adams
パッチ・アダムス トゥルー・ストーリー(☆☆)
パッチ・アダムズは自殺未遂で精神病院に収監されていたとき、医師になる夢を持ち、猛勉強の末に念願のメディカル・スクールに入学するのだが、「医療とは病気を扱うものではなく患者を扱うもの」という信念のもとでありとあらゆる規則を破っていくために周りと対立してしまう。
ロビン・ウィリアムズを主演に据えた実話の映画化。
なんだけど、トム・シャドヤック製作・監督、スティーブ・オーデカーク脚本っていうのがひっかるよな。だって、あの『エース・ベンチュラ』のコンビだよ?
『ナッティ・プロフェッサー』、『ライヤー・ライヤー』でそれぞれ、エディ・マーフィを再生し、ジム・キャリーを一皮剥いた功績は認めるけどね。今度は、ロビン・ウィリアムスの力を借りて、自分のキャリア・アップのために賞でもねらいに行っている感じがいやらしい。
とはいうものの、涙を誘う映画である。シリアスな問題提起もしている。ロビン・ウィリアムスはいつも通りに笑わせてくれる。でも、脚色と演出は、いかにも平凡。非凡な人物の、非凡な話を映画にするのに、ここまであざとい脚色や、お涙頂戴の演出が、果たして必要だったのかどうか。むしろ、真実の物語であれば、その功罪も含めてニュートラルに提示したほうが良かった、と思う。
アメリカの医療のありかたに疑問を抱き、理想を追求するために診療所を開設して理念の実戦に勤めている医師が主人公である。ロビン・ウィリアムズの演技がはしゃぎ過ぎだよ!って思っていたのだが、ドキュメンタリーで見た本人の方がよっぽどハイパーテンションな人物なのでびっくりした。ともかく、面白い人物と語るべきストーリーがあるのは事実なわけで、これをどう料理するかが腕の見せ所だろう。
脚本の上では、観客をこの主人公に共感させる上でのあと一押しが足りない。第1に自殺グセがつくようになるもとの悲しみや苦しみ、医師になることを決意する過程など全部舌足らずである。第2に、客観性が足りない。主人公はいくら理想を持っていてもルールを破るのである。それを無批判に正当化し過ぎてはいないか。
なにせ、コトは医療であって、学校当局や現在の医療のあり方をたんに「悪役」扱いするのではなく、価値観がギリギリのところで衝突する様を描いてこそ、逆に主人公の理念や主張が説得力を持つはずである。間違ったルールにも、それなりの理由があるはずなのであるが、この映画はそういう視点を全く持ち得ていない。作り手の知性が問われるのはこういうところだよな、と思う。
実話を基にした本が主人公寄りに書いてあるのは致し方ない。本人にあってリサーチするのも良い。しかし映画が客観性を保てなければ逆に信憑性が揺らぐのではないか?そのあたりの批判精神がないのが本作にとっては致命的であった。
演出の方はロビンの技に頼り過ぎである。キャリーやマーフィの「持ちネタを見せる」のと同じ演出を、こういうドラマでロビン・ウィリアムズ相手にやってどうするんだ!クライマックスとなる学内の弾劾裁判で全く緊張感を欠くカットバックを見たときにもゲッソリとした。あれは画面の狭いTV的な演出だよな。せっかくの題材を殺してしまった見苦しい駄作としかいいようがない。
パッチ・アダムズは自殺未遂で精神病院に収監されていたとき、医師になる夢を持ち、猛勉強の末に念願のメディカル・スクールに入学するのだが、「医療とは病気を扱うものではなく患者を扱うもの」という信念のもとでありとあらゆる規則を破っていくために周りと対立してしまう。
ロビン・ウィリアムズを主演に据えた実話の映画化。
なんだけど、トム・シャドヤック製作・監督、スティーブ・オーデカーク脚本っていうのがひっかるよな。だって、あの『エース・ベンチュラ』のコンビだよ?
『ナッティ・プロフェッサー』、『ライヤー・ライヤー』でそれぞれ、エディ・マーフィを再生し、ジム・キャリーを一皮剥いた功績は認めるけどね。今度は、ロビン・ウィリアムスの力を借りて、自分のキャリア・アップのために賞でもねらいに行っている感じがいやらしい。
とはいうものの、涙を誘う映画である。シリアスな問題提起もしている。ロビン・ウィリアムスはいつも通りに笑わせてくれる。でも、脚色と演出は、いかにも平凡。非凡な人物の、非凡な話を映画にするのに、ここまであざとい脚色や、お涙頂戴の演出が、果たして必要だったのかどうか。むしろ、真実の物語であれば、その功罪も含めてニュートラルに提示したほうが良かった、と思う。
アメリカの医療のありかたに疑問を抱き、理想を追求するために診療所を開設して理念の実戦に勤めている医師が主人公である。ロビン・ウィリアムズの演技がはしゃぎ過ぎだよ!って思っていたのだが、ドキュメンタリーで見た本人の方がよっぽどハイパーテンションな人物なのでびっくりした。ともかく、面白い人物と語るべきストーリーがあるのは事実なわけで、これをどう料理するかが腕の見せ所だろう。
脚本の上では、観客をこの主人公に共感させる上でのあと一押しが足りない。第1に自殺グセがつくようになるもとの悲しみや苦しみ、医師になることを決意する過程など全部舌足らずである。第2に、客観性が足りない。主人公はいくら理想を持っていてもルールを破るのである。それを無批判に正当化し過ぎてはいないか。
なにせ、コトは医療であって、学校当局や現在の医療のあり方をたんに「悪役」扱いするのではなく、価値観がギリギリのところで衝突する様を描いてこそ、逆に主人公の理念や主張が説得力を持つはずである。間違ったルールにも、それなりの理由があるはずなのであるが、この映画はそういう視点を全く持ち得ていない。作り手の知性が問われるのはこういうところだよな、と思う。
実話を基にした本が主人公寄りに書いてあるのは致し方ない。本人にあってリサーチするのも良い。しかし映画が客観性を保てなければ逆に信憑性が揺らぐのではないか?そのあたりの批判精神がないのが本作にとっては致命的であった。
演出の方はロビンの技に頼り過ぎである。キャリーやマーフィの「持ちネタを見せる」のと同じ演出を、こういうドラマでロビン・ウィリアムズ相手にやってどうするんだ!クライマックスとなる学内の弾劾裁判で全く緊張感を欠くカットバックを見たときにもゲッソリとした。あれは画面の狭いTV的な演出だよな。せっかくの題材を殺してしまった見苦しい駄作としかいいようがない。
11/25/1998
Psycho (1998)
サイコ(98年版)(☆☆☆)
これはダメな映画なのか、ダメな企画なのか。また、愚かな行為なのか、それとも興味深い試みなのか。映画の出来映えが悪いのか、それとも、この映画の存在自体が汚点なのか。
個人的には、議論の余地なく切り捨てるべきというよりは、この中にすら見いだされるチャレンジ精神や、結果としての出来栄えを検証して楽しむのが良いと思うのだが。
何はともあれ、悪評しか見当たらぬ、ガス・ヴァン・サントの新作『サイコ』である。もちろんいうまでもない、アルフレッド・ヒッチコックの1960年作、『サイコ』の野心的、というよりは実験的なリメイク作だ。
アルフレッド・ヒッチコックの作品中で米国では最大のヒットを記録したのが『サイコ』だという。大金を横領した女性が偽名で宿泊した「ベイツ・モーテル」。経営者のノーマン・ベイツは裏手に聳える屋敷で老いた母親と暮らしているという。この女性の後を追い、私立探偵や妹、女性の恋人が次々にモーテルを訪れるが、予期せぬ事態に巻き込まれていく。その彼らの運命やいかに、という話。ルール違反すれすれの大胆な構成、有名なシャワー・シーンのモンタージュと、そのシーンで使われた不協和音の音楽は、この映画を観ていない人にもお馴染みのはずだ。
本作のことをさきほど実験的なリメイク、と呼んだのだが、ガス・ヴァン・サントはこれを「リプロダクション」と呼んでいる。それはなぜか。オリジナルと同じ台本を使い、基本的にはオリジナルと同じショットをワンカット、ワンカット再現しているのだという。え、それなんの意味があるの?
もちろん、現代の俳優が出演している。舞台も一応、現代だ。アン・ヘッッシュ、ヴィンス・ヴォーン、ジュリアン・ムーア、ウィリアムH・メイシー、ロバート・フォスターらだ。音楽はバーナード・ハーマンの音楽を復元し、編曲。これを担当したのはヴァン・サント作品が続いているダニー・エルフマンの仕事だ。オリジナルは白黒撮影の作品だったが、今回はカラー。撮影はクリストファー・ドイルである。
そもそも、こんな作品ができてしまう背景には、「白黒映画じゃ商売にならん」という商売上の目論見があるはずだ。白黒映画への着色といえば、かつてのメディア王、テッド・ターナーが、CATVでの放送などを睨んで進めた名作群の着色(カラライゼーション)が大きな議論を呼んだことが記憶にある。CATV、パッケージソフト、デジタル衛星放送と、膨らみ続ける2次使用で、「白黒」に慣れていない大衆を搾取する上で有利になると考えての「カラー」化、だ。
そんな映画会社の思惑を逆手にとったのが、今回のガス・ヴァン・サントの、誰もやったことのない「企て」であるといえる。ヒッチコックの撮影台本にアクセスし、6週間の撮影期間まで忠実に守ったという凝りぶりで、当時は技術的に困難で断念したという(触れ込みの)冒頭の空撮を復活させたりもしている。
作品の製作過程と製作手法そのものを再現するという大仕掛け。野心的な画家が巨匠の作品を精緻に模写するかのようなもんだな。作品への冒涜というのなら、もともと白黒で撮影されたものに、作り手の関与のないままに着色する野蛮な行為は間違いなく冒涜といえるが、この作品で試みられたような「実験」は、実験であったり、習作という範疇において興味深いといえなくもない。
役者たちもオリジナルと変わらない台詞や動作という制約の中で、90年代のリアリティを紡ぎ出すという難役を、これまた実験的な意味で楽しんでいるように見える。ただ、いくらオリジナルを模してみても、ヴィンス・ヴォーンはアンソニー・パーキンスにはなれない。そこらあたりが、結果的に作品の雰囲気を変えてしまっており、役者次第で作品が変わってしまうということくらいは本作によって証明できたんじゃあるまいか。
この映画、映画そのものはそこそこ楽しめる。なにせ、オリジナルが面白いんだからあたりまえだ。でもオリジナルを観ていたら、これを見る意味はあんまりないし、オリジナルを観ていないなら、ぜひともオリジナルを見るべきだ。そういう意味で、得をしたのはメジャーの予算で堂々とこういう実験をやりおおせたガス・ヴァン・サントだけであり、カラー化で一儲けを企てた映画会社は不評と批判で評判を落とした。リメイク・ブームのなかでもっともユニークなこの試みは、もっともたちの悪い冗談として記憶されることだけは間違いない。
これはダメな映画なのか、ダメな企画なのか。また、愚かな行為なのか、それとも興味深い試みなのか。映画の出来映えが悪いのか、それとも、この映画の存在自体が汚点なのか。
個人的には、議論の余地なく切り捨てるべきというよりは、この中にすら見いだされるチャレンジ精神や、結果としての出来栄えを検証して楽しむのが良いと思うのだが。
何はともあれ、悪評しか見当たらぬ、ガス・ヴァン・サントの新作『サイコ』である。もちろんいうまでもない、アルフレッド・ヒッチコックの1960年作、『サイコ』の野心的、というよりは実験的なリメイク作だ。
アルフレッド・ヒッチコックの作品中で米国では最大のヒットを記録したのが『サイコ』だという。大金を横領した女性が偽名で宿泊した「ベイツ・モーテル」。経営者のノーマン・ベイツは裏手に聳える屋敷で老いた母親と暮らしているという。この女性の後を追い、私立探偵や妹、女性の恋人が次々にモーテルを訪れるが、予期せぬ事態に巻き込まれていく。その彼らの運命やいかに、という話。ルール違反すれすれの大胆な構成、有名なシャワー・シーンのモンタージュと、そのシーンで使われた不協和音の音楽は、この映画を観ていない人にもお馴染みのはずだ。
本作のことをさきほど実験的なリメイク、と呼んだのだが、ガス・ヴァン・サントはこれを「リプロダクション」と呼んでいる。それはなぜか。オリジナルと同じ台本を使い、基本的にはオリジナルと同じショットをワンカット、ワンカット再現しているのだという。え、それなんの意味があるの?
もちろん、現代の俳優が出演している。舞台も一応、現代だ。アン・ヘッッシュ、ヴィンス・ヴォーン、ジュリアン・ムーア、ウィリアムH・メイシー、ロバート・フォスターらだ。音楽はバーナード・ハーマンの音楽を復元し、編曲。これを担当したのはヴァン・サント作品が続いているダニー・エルフマンの仕事だ。オリジナルは白黒撮影の作品だったが、今回はカラー。撮影はクリストファー・ドイルである。
そもそも、こんな作品ができてしまう背景には、「白黒映画じゃ商売にならん」という商売上の目論見があるはずだ。白黒映画への着色といえば、かつてのメディア王、テッド・ターナーが、CATVでの放送などを睨んで進めた名作群の着色(カラライゼーション)が大きな議論を呼んだことが記憶にある。CATV、パッケージソフト、デジタル衛星放送と、膨らみ続ける2次使用で、「白黒」に慣れていない大衆を搾取する上で有利になると考えての「カラー」化、だ。
そんな映画会社の思惑を逆手にとったのが、今回のガス・ヴァン・サントの、誰もやったことのない「企て」であるといえる。ヒッチコックの撮影台本にアクセスし、6週間の撮影期間まで忠実に守ったという凝りぶりで、当時は技術的に困難で断念したという(触れ込みの)冒頭の空撮を復活させたりもしている。
作品の製作過程と製作手法そのものを再現するという大仕掛け。野心的な画家が巨匠の作品を精緻に模写するかのようなもんだな。作品への冒涜というのなら、もともと白黒で撮影されたものに、作り手の関与のないままに着色する野蛮な行為は間違いなく冒涜といえるが、この作品で試みられたような「実験」は、実験であったり、習作という範疇において興味深いといえなくもない。
役者たちもオリジナルと変わらない台詞や動作という制約の中で、90年代のリアリティを紡ぎ出すという難役を、これまた実験的な意味で楽しんでいるように見える。ただ、いくらオリジナルを模してみても、ヴィンス・ヴォーンはアンソニー・パーキンスにはなれない。そこらあたりが、結果的に作品の雰囲気を変えてしまっており、役者次第で作品が変わってしまうということくらいは本作によって証明できたんじゃあるまいか。
この映画、映画そのものはそこそこ楽しめる。なにせ、オリジナルが面白いんだからあたりまえだ。でもオリジナルを観ていたら、これを見る意味はあんまりないし、オリジナルを観ていないなら、ぜひともオリジナルを見るべきだ。そういう意味で、得をしたのはメジャーの予算で堂々とこういう実験をやりおおせたガス・ヴァン・サントだけであり、カラー化で一儲けを企てた映画会社は不評と批判で評判を落とした。リメイク・ブームのなかでもっともユニークなこの試みは、もっともたちの悪い冗談として記憶されることだけは間違いない。
10/23/1998
Pleasantville
カラー・オブ・ハート(☆☆☆★)
未来は予測がつかないから素晴らしい。そう、心から思いたくなる作品である。
全てが完璧な理想的家族とコミュニティ。火事はなく、雨は降らず、浮浪者はおらず、セックスも知らない。とうぜんエイズはなく、そしてなにより・・「白黒」だ。そんな50年代のテレビ番組 ("Pleasantville") 世界に入り込んでしまった現代の少年・少女らが「無菌状態」のコミュニティに持ちこんでしまった「何か」。それによって変化を強要される町の人々の混乱をコメディタッチで描くファンタジー映画である。
本作は、『ビッグ』、『デーヴ』の脚本化として知られるゲイリー・ロスの、製作・脚本を兼ねた監督デヴュー作。トビー・マグワイア、リース・ウェザースプーンに加え、ウィリアム・H・メイシー、ジョアン・アレン、JT・ウォルシュ、ジェフ・ダニエルズら演技派が脇を固めるキャスティングだ。
この作品、最近良くある懐古趣味かと思えば、そうではない。むしろ、それとは正反対に、変化を受け入れ、その先に進んでいくという価値観を、メッセージとして発信しようとしている作品である。それと同時に、最初の1歩を踏み出すのに必要な勇気についても語っている。そんなストーリーの中で、感情について、個性について、個人の意思についての力強い物語が展開される。
その前提として、「イノセンスの喪失」が語られる。何も知らず、知らないことで平和に、幸せに暮らしていた人々がそうではいられなくなる。エデンの園にもたらされた知恵の実、それがここでは本物の感情だ。テレビの世界に入ったとたんに白黒映画となってしまうこの映画は、町の人々が感情を手に入れるにしたがって色彩を取り戻していく。この映像表現は単純な思いつきに思われるけれども、何とマジカルだ。
ゲイリー・ロスは失われたイノセンスに対する郷愁を描くが、先に述べたように、これは過去をひたすら賛美し、そこに戻ろうとする映画ではない。『ビッグ』を思い出すといい。大人の姿をした主人公と恋に落ちた女性は「子供の世界は、もう一度体験した」といい、最後には彼女自身の属する世界に戻っていったではないか。今回の映画はそこから一歩進めて、我々が得たものについて、我々が得る未来について語ろうとしているように思えるのである。
変化しないのが当たり前であった世界にもたらされた「変化」に直面した人々。予測のつかない将来に対する動揺、恐怖、拒絶、希望などは、そのまま現実を生きるわれわれの姿と重なる。そして誰もが持っている経験-始めての体験に胸を躍らせたり、不安に怯えたりしたことを思い起こさせもする。
出演者はそれぞれに見せ場があり、ここ一番では誰もが最高の魅力を振り撒いている。中でもジェフ・ダニエルズはキャリアで最高の役どころではなかろうか。不安におののきながらも凛として自らを貫く役のジョアン・アレンの繊細な感情表現にも打たれたが、変化を恐れる頑固な保守派を演じて映画を引き締めたJTウォルシュにも喝采だ。
メッセージを声高に主張するのではなく、コメディとしてさりげなく提示するセンスとバランス感覚。それは、ゲイリー・ロスの過去の脚本作品でも証明済みだ。脚本家出身の監督にありがちな律儀さはあるが、本作のテイストはまさしく、彼の脚本作品で感じられたものと同じ。大いにオススメしたい一本である。
未来は予測がつかないから素晴らしい。そう、心から思いたくなる作品である。
全てが完璧な理想的家族とコミュニティ。火事はなく、雨は降らず、浮浪者はおらず、セックスも知らない。とうぜんエイズはなく、そしてなにより・・「白黒」だ。そんな50年代のテレビ番組 ("Pleasantville") 世界に入り込んでしまった現代の少年・少女らが「無菌状態」のコミュニティに持ちこんでしまった「何か」。それによって変化を強要される町の人々の混乱をコメディタッチで描くファンタジー映画である。
本作は、『ビッグ』、『デーヴ』の脚本化として知られるゲイリー・ロスの、製作・脚本を兼ねた監督デヴュー作。トビー・マグワイア、リース・ウェザースプーンに加え、ウィリアム・H・メイシー、ジョアン・アレン、JT・ウォルシュ、ジェフ・ダニエルズら演技派が脇を固めるキャスティングだ。
この作品、最近良くある懐古趣味かと思えば、そうではない。むしろ、それとは正反対に、変化を受け入れ、その先に進んでいくという価値観を、メッセージとして発信しようとしている作品である。それと同時に、最初の1歩を踏み出すのに必要な勇気についても語っている。そんなストーリーの中で、感情について、個性について、個人の意思についての力強い物語が展開される。
その前提として、「イノセンスの喪失」が語られる。何も知らず、知らないことで平和に、幸せに暮らしていた人々がそうではいられなくなる。エデンの園にもたらされた知恵の実、それがここでは本物の感情だ。テレビの世界に入ったとたんに白黒映画となってしまうこの映画は、町の人々が感情を手に入れるにしたがって色彩を取り戻していく。この映像表現は単純な思いつきに思われるけれども、何とマジカルだ。
ゲイリー・ロスは失われたイノセンスに対する郷愁を描くが、先に述べたように、これは過去をひたすら賛美し、そこに戻ろうとする映画ではない。『ビッグ』を思い出すといい。大人の姿をした主人公と恋に落ちた女性は「子供の世界は、もう一度体験した」といい、最後には彼女自身の属する世界に戻っていったではないか。今回の映画はそこから一歩進めて、我々が得たものについて、我々が得る未来について語ろうとしているように思えるのである。
変化しないのが当たり前であった世界にもたらされた「変化」に直面した人々。予測のつかない将来に対する動揺、恐怖、拒絶、希望などは、そのまま現実を生きるわれわれの姿と重なる。そして誰もが持っている経験-始めての体験に胸を躍らせたり、不安に怯えたりしたことを思い起こさせもする。
出演者はそれぞれに見せ場があり、ここ一番では誰もが最高の魅力を振り撒いている。中でもジェフ・ダニエルズはキャリアで最高の役どころではなかろうか。不安におののきながらも凛として自らを貫く役のジョアン・アレンの繊細な感情表現にも打たれたが、変化を恐れる頑固な保守派を演じて映画を引き締めたJTウォルシュにも喝采だ。
メッセージを声高に主張するのではなく、コメディとしてさりげなく提示するセンスとバランス感覚。それは、ゲイリー・ロスの過去の脚本作品でも証明済みだ。脚本家出身の監督にありがちな律儀さはあるが、本作のテイストはまさしく、彼の脚本作品で感じられたものと同じ。大いにオススメしたい一本である。
10/16/1998
Practical Magic
プラクティカル・マジック(☆)
面白い作品に出会うためには、ともかく沢山の映画をみるしかない。沢山の映画を見るということは、山ほどのクズ映画を見るということに等しい。そして、これはそんなクズ映画の中でも、何をクズと呼べば良いのか確認するためには格好のテキストになるような作品じゃないかと思う次第である。
魔女の血筋にあたる姉妹を主人公に、成り行きで殺してしまった妹の暴力的な恋人をめぐってひと騒動という話である。主演はニコール・キッドマンとサンドラ・ブロック。ダイアン・ウィーストやアイダン・クイン、ストッカード・チャニングらが共演。原作つきの映画化作品で、監督は、俳優としても知られるグリフィン・ダン。ああ、「狼男アメリカン」ノ人ですね。
御伽噺風に始まって、コメディに向かう様相を呈するが、突然MTV調になったり、重いドラマになったりして、気がつくと中途半端なまま恋愛御伽噺として幕を閉じる。この作品の大きな問題と思われる第1のポイントは、これは一体何の映画なのか、軸足が定まっていないことではないだろうか。いや、簡単にジャンル分けされるのを拒む映画にも面白い作品はたくさんあるが、定番を外そうとした努力が裏目に出ているのが本作ではないだろうか。
望みもしないのに不思議な力を手にしてしまった姉妹が世の中に順応しようとするドラマならそういう話にすべきだし、軽い気持ちでその場しのぎの魔法を使ったらとんでもない騒動になるドタバタ・コメディならそういう話にすべきだ。いい男に飢えた姉妹が恋愛がらみで魔法を使って思いがけないしっぺがえしを食いつつも真実の愛を見つけるロマンティック・コメディならそれでいいし、別の魔法使いが現れてサイキック・ウォーズになるならそれも見たいと思う。
でもこの作品は、残念ながらそのどれにも当てはまらないのである。
第二の問題は物語の構成がなっていないこと。時間にして最初の10分を除く全てが拙い。本筋は行き掛かりで殺してしまったニコール・キッドマンの暴力的な恋人を、さすがにまずいと生きかえらせようとしたりしてうろたえるところから始まる。捜査官が現れサンドラが恋に落ちる。ここに到達するまでに映画がどれだけの時間を無駄な描写に費やしたことか。ろくでなし男によるドメスティック・ヴァイオレンスに苦しんでいるはずのニコール・キッドマンがプールサイドで楽しそうに男たちと戯れているサービスカットを撮る前に、描くべきことがあるだろう。
映画はサンドラの2人娘や母親、叔母さんまで登場させて賑やかこの上ないが、基本的には本筋と関係のない必要のないキャラクターたち。恋の本命アイダン・クインも、重要な役割を担うはずなのに、無駄なシーン、無駄な登場人物、無駄な描写のために割を食ってしまい、単なる脇役程度にしか見えない。映画の中で悪役を引き受けるはずのニコールの恋人も、死ぬまでの間にキャラクターを見せる機会が一度もない人形のような扱い。
こんな出鱈目も逆に珍しい。原作に遠慮して脚色に失敗したのか。それを検証するために原作を探しに行くエネルギーも湧いてこないので、ただただつまらない映画の代表としてのみ、記憶に留めることにする。
面白い作品に出会うためには、ともかく沢山の映画をみるしかない。沢山の映画を見るということは、山ほどのクズ映画を見るということに等しい。そして、これはそんなクズ映画の中でも、何をクズと呼べば良いのか確認するためには格好のテキストになるような作品じゃないかと思う次第である。
魔女の血筋にあたる姉妹を主人公に、成り行きで殺してしまった妹の暴力的な恋人をめぐってひと騒動という話である。主演はニコール・キッドマンとサンドラ・ブロック。ダイアン・ウィーストやアイダン・クイン、ストッカード・チャニングらが共演。原作つきの映画化作品で、監督は、俳優としても知られるグリフィン・ダン。ああ、「狼男アメリカン」ノ人ですね。
御伽噺風に始まって、コメディに向かう様相を呈するが、突然MTV調になったり、重いドラマになったりして、気がつくと中途半端なまま恋愛御伽噺として幕を閉じる。この作品の大きな問題と思われる第1のポイントは、これは一体何の映画なのか、軸足が定まっていないことではないだろうか。いや、簡単にジャンル分けされるのを拒む映画にも面白い作品はたくさんあるが、定番を外そうとした努力が裏目に出ているのが本作ではないだろうか。
望みもしないのに不思議な力を手にしてしまった姉妹が世の中に順応しようとするドラマならそういう話にすべきだし、軽い気持ちでその場しのぎの魔法を使ったらとんでもない騒動になるドタバタ・コメディならそういう話にすべきだ。いい男に飢えた姉妹が恋愛がらみで魔法を使って思いがけないしっぺがえしを食いつつも真実の愛を見つけるロマンティック・コメディならそれでいいし、別の魔法使いが現れてサイキック・ウォーズになるならそれも見たいと思う。
でもこの作品は、残念ながらそのどれにも当てはまらないのである。
第二の問題は物語の構成がなっていないこと。時間にして最初の10分を除く全てが拙い。本筋は行き掛かりで殺してしまったニコール・キッドマンの暴力的な恋人を、さすがにまずいと生きかえらせようとしたりしてうろたえるところから始まる。捜査官が現れサンドラが恋に落ちる。ここに到達するまでに映画がどれだけの時間を無駄な描写に費やしたことか。ろくでなし男によるドメスティック・ヴァイオレンスに苦しんでいるはずのニコール・キッドマンがプールサイドで楽しそうに男たちと戯れているサービスカットを撮る前に、描くべきことがあるだろう。
映画はサンドラの2人娘や母親、叔母さんまで登場させて賑やかこの上ないが、基本的には本筋と関係のない必要のないキャラクターたち。恋の本命アイダン・クインも、重要な役割を担うはずなのに、無駄なシーン、無駄な登場人物、無駄な描写のために割を食ってしまい、単なる脇役程度にしか見えない。映画の中で悪役を引き受けるはずのニコールの恋人も、死ぬまでの間にキャラクターを見せる機会が一度もない人形のような扱い。
こんな出鱈目も逆に珍しい。原作に遠慮して脚色に失敗したのか。それを検証するために原作を探しに行くエネルギーも湧いてこないので、ただただつまらない映画の代表としてのみ、記憶に留めることにする。
7/20/1998
Parent Trap
ファミリー・ゲーム 双子の天使(☆☆☆☆)。
サマーキャンプで偶然であった双子の姉妹が自分たちの出生の秘密に気づくや、両親をなんとか結び付けようと作戦を練る。ドイツのケストナー原作『2人のロッテ』を現代風に焼き直した、というより米国ではディズニーが過去に作った同名 (Parent Trap) 映画のリメイク、というほうが通じるようだ。主演は離婚した両親役でデニス・クエイド、ナターシャ・リチャードソン、双子をひとりで演じるのがリンジー・ローハン。製作・監督は、チャールズ・シャイア&ナンシー・メイヤーズ夫妻。
実際、何も目新しいことがない作品ではあるが、実に手際良く、テンポよくまとめられており、とても楽しい作品である。こんなに楽しいとはある意味予想外だったので、思わぬ拾い物だ。家族で観るのに最高の作品じゃないだろうか。子役のリンジー・ローハンが最高に可愛いらしく、映画は彼女の輝きと魅力をきちんとフィルムに焼き付けている。原題風のアレンジも巧みで嫌味がない。
チャールズ・シャイアとナンシー・メイヤーズは、スティーブ・マ-ティンを主演にした『花嫁の父』で、かつての名作を現代に甦らせて大ヒットさせたことで有名である。これまでのフィルモグラフィをみても、もともと、ちょっと古風な作品を好みにしているのだろう。このチームのそうしたセンスがクラシックな作品のリメイク・再生にうってつけだったんじゃないだろうか。
主役の双子の姉妹は時代を反映して、一人の子役が二役を演じ、ブルースクリーンなどを使って合成する手法で作られている。そして、この子役、実に演技が達者なのだ。彼女が演じているキャラクターは、ロンドン暮らしでイギリス英語をしゃべる女の子と、カリフォルニアのワイン農場で暮らす女の子。この2人がいまだ見たことのない父親・母親に会うために入れ替わりをするのだが、服装や髪型、ピアスなどの小道具にばかり頼らず、言葉遣いやアクセント、身のこなしで二人のキャラクターをきちんと演じ分けてしまうのである!そばかすだらけの恐るべき子役がこの映画の最大の魅力であり、収穫である。この子が今後、どんな活躍を見せてくれるのかも楽しみだ。
双子の姉妹の活躍をひとつの柱とするなら、クエイドとリチャードソンのロマンスがもうひとつの柱だろう。電撃的な恋愛の末結婚したが、方やファッションデザイナー、方やワイン農場主、価値観の違いがおおきく,結果的に離婚してしまった夫婦。この二人の離婚と、結果的に12年ぶりに寄りを戻すプロセスは、「家族向けのディズニー映画」の制約はあるにしろ、丁寧に扱われているように感じる。
コメディパートを担うのは、ワイン農場の家政婦とロンドンの執事。こういった脇役への目の配り方、役割の振り方が絶妙に巧く、登場した人物を無駄なく使い切っている脚本が素晴らしい。一方で、デニス・クエイドが結婚を考えていた若い女性を単純な悪役として描いているあたりは、作品の性格を考えると致し方ないことだろう。
ファミリー映画とバカにするなかれ、丁寧に作られた良質の映画は、誰が見たって楽しい物だ。本作は、それを教えてくれる。(1998/7)
サマーキャンプで偶然であった双子の姉妹が自分たちの出生の秘密に気づくや、両親をなんとか結び付けようと作戦を練る。ドイツのケストナー原作『2人のロッテ』を現代風に焼き直した、というより米国ではディズニーが過去に作った同名 (Parent Trap) 映画のリメイク、というほうが通じるようだ。主演は離婚した両親役でデニス・クエイド、ナターシャ・リチャードソン、双子をひとりで演じるのがリンジー・ローハン。製作・監督は、チャールズ・シャイア&ナンシー・メイヤーズ夫妻。
実際、何も目新しいことがない作品ではあるが、実に手際良く、テンポよくまとめられており、とても楽しい作品である。こんなに楽しいとはある意味予想外だったので、思わぬ拾い物だ。家族で観るのに最高の作品じゃないだろうか。子役のリンジー・ローハンが最高に可愛いらしく、映画は彼女の輝きと魅力をきちんとフィルムに焼き付けている。原題風のアレンジも巧みで嫌味がない。
チャールズ・シャイアとナンシー・メイヤーズは、スティーブ・マ-ティンを主演にした『花嫁の父』で、かつての名作を現代に甦らせて大ヒットさせたことで有名である。これまでのフィルモグラフィをみても、もともと、ちょっと古風な作品を好みにしているのだろう。このチームのそうしたセンスがクラシックな作品のリメイク・再生にうってつけだったんじゃないだろうか。
主役の双子の姉妹は時代を反映して、一人の子役が二役を演じ、ブルースクリーンなどを使って合成する手法で作られている。そして、この子役、実に演技が達者なのだ。彼女が演じているキャラクターは、ロンドン暮らしでイギリス英語をしゃべる女の子と、カリフォルニアのワイン農場で暮らす女の子。この2人がいまだ見たことのない父親・母親に会うために入れ替わりをするのだが、服装や髪型、ピアスなどの小道具にばかり頼らず、言葉遣いやアクセント、身のこなしで二人のキャラクターをきちんと演じ分けてしまうのである!そばかすだらけの恐るべき子役がこの映画の最大の魅力であり、収穫である。この子が今後、どんな活躍を見せてくれるのかも楽しみだ。
双子の姉妹の活躍をひとつの柱とするなら、クエイドとリチャードソンのロマンスがもうひとつの柱だろう。電撃的な恋愛の末結婚したが、方やファッションデザイナー、方やワイン農場主、価値観の違いがおおきく,結果的に離婚してしまった夫婦。この二人の離婚と、結果的に12年ぶりに寄りを戻すプロセスは、「家族向けのディズニー映画」の制約はあるにしろ、丁寧に扱われているように感じる。
コメディパートを担うのは、ワイン農場の家政婦とロンドンの執事。こういった脇役への目の配り方、役割の振り方が絶妙に巧く、登場した人物を無駄なく使い切っている脚本が素晴らしい。一方で、デニス・クエイドが結婚を考えていた若い女性を単純な悪役として描いているあたりは、作品の性格を考えると致し方ないことだろう。
ファミリー映画とバカにするなかれ、丁寧に作られた良質の映画は、誰が見たって楽しい物だ。本作は、それを教えてくれる。(1998/7)
登録:
投稿 (Atom)



