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10/22/2011

Captain America: The First Avenger

キャプテン・アメリカ ザ・ファースト・アベンジャー(☆☆☆)


ジョー・ジョンストンは勘違いをしない。いつだって分をわきまえた娯楽映画を撮る。古くは『ロケッティア』、『ジュラシックパークIII』、そして近作『ウルフマン』。どれも、お腹がいっぱいになるような超大作ではない。でも、期待すべきものが何なのか"分かっている"観客を、きっちり楽しませる真っ当な娯楽映画だ。マーヴェルが「アベンジャーズ」映画化に向けて着々と進めてきた前座作品群のなかで最後のピースとなるこの『キャプテン・アメリカ』もまた、そんな1本だ。題材を思えば、上出来なんじゃないか。

舞台は第二次世界大戦期。ナチス・ドイツが欧州を席巻し、孤立主義を捨てた米国が重い腰を上げて参戦したころだ。ヒトラーが砂漠で(たぶん)「失われた聖櫃」を探していた頃、北欧神話の主神オーディン由来ということになっているオカルト・アイテム(=コズミック・キューブ)を捜すナチスの特殊科学部門転じた「ヒドラ党」を敵に、レトロ風味の戦争冒険活劇という体裁になっている。

さりげなく(ジョー・ジョンストンが特撮で参画した)『レイダース』を匂わすあたりがナイス、オカルト・アイテムつながりで『マイティ・ソー』、そして来るべき『アベンジャーズ』と接点をもたせるはクレバーなアイディアか。

映画の送り出し手、作り手として考えることは、この現代、世界中の人々が嫌な気分にならずに楽しめる作品にすることだろう。だいたい、キャプテン・アメリカ、とその名を聞き、星条旗モチーフのコスチュームを見ると、誰だって胡散臭いものを感じてしまう。国家の価値観を体現する尖兵か、と。

この映画では、「国」の思惑で作られたキャプテン・アメリカだが、その存在を国やその政策と一体不可分のものではないと、明確に一線を引いてみせたところが良いと思う。

主人公は盲目的な愛国者などではなく、「友人や仲間思いで、正義感のある高潔な精神の持ち主」である。そんな彼が、政治家の売名行為につきあわされて戦時国債の拡販に利用されるという描写は、本作で最も重要なところだ。そこにイーストウッドの『父親たちの星条旗』が被って見えたとしても偶然ではない。そんな「作られた(失意の)ヒーロー」が、損得や誰かの命令でなしに、敵地に囚われた友人や仲間の救出に乗り込んでいくことで「真のヒーロー」になるというストーリー・ラインは感動的ですらある。

敵の設定にも気を使っている。そりゃあ、いくら第二次大戦を背景にしていても、星条旗男が他国の軍隊を蹴散らすというような話では、あまりよろしくない。だから、直接対峙する相手は、ナチスの一部門といえど、「異形の姿となった悪の首領と、それに従う秘密結社」なのだ。その首領が「レッドスカル」などという名前の「赤ドクロ」姿だというのだから、馬鹿馬鹿しくもあるが、昔懐かしき活劇の世界だ。「ハイル・ヒドラ!」の両手上げポーズの間抜けさがそれに止めを刺す。これは、そういう作品として楽しんでくれということだろう。

主人公のキャラクターによるところもあるが、ヒロインとのプラトニックなロマンスも古風でロマンティック。アクションはことさら派手ではないが、見せ方はこなれていて危なげない。美術がなかなか頑張っていて、時代の雰囲気にコミック調の意匠を上手く馴染ませている。3D効果はあまり感じられないが、シールドが画面から飛んでくるところだけは大迫力であった。

「最後のピース」であることも手伝って、マーヴェル他作品とのつながりが数多く登場し、「予告編」で幕を閉じるのだから、なんか釈然としないものを感じる向きもあるとは思うが、同シリーズのなかでも他とは違った個性、他とは違った雰囲気を打ち出していて、これはこれとしての新鮮な楽しさがある。「冷凍になっていました」で、東西冷戦時代を、もしかしたら対テロ戦争すらも飛び越してしまう力技には笑った(都合のよろしいことで)。しかし、「アベンジャーズ」とは別に続編の企画もあるのだろうが、現代を舞台にすると本作独特の面白さは消えてしまうのではないかと心配になる。さて、どうするか。

10/01/2011

Fast Five

ワイルド・スピード MEGA MAX(☆☆☆)


シリーズでは1作目に次いで2番目に面白い。魅力のある敵役として(WWEのザ・ロックこと)ドゥウェイン・ジョンソンを投入するカンフル剤、ストリート・カーレースから犯罪アクションへと比重を移したフランチャイズの方向づけがうまく絡み、気楽に楽しめる娯楽アクション映画に仕上がった。3作目からシリーズを任されている監督ジャスティン・リンも、いくつかの勢力が入り乱れる物語を要領よく裁いてみせ、回を重ねるごとに腕を上げてきているようだ。

・・・で終わりにするのも何なので、雑談を。

これ、同じシリーズでも原題がいつも変化球なんだよね。

『The Fast and The Furious』からヴィン・ディーゼルのいない『2 Fast 2 Furious』はちょっと面白いアプローチだと思ったが、番外編的(で、現在、4,5,6?作目の後日談と位置づけられている)3本目は平凡に『The Fast and The Furious:Tokyo Drift』だ。このときは、このまま、サブタイトルをいれかえて、安いビデオ映画シリーズにでも仕立てていくつもりだったのかもしれない。オリジナル主演者のキャリアが傾いてきたのも手伝って、まさかの再集結となった4本目は仕切り直しっぽく定冠詞抜きの『Fast & Furious』ときた。

で、『Fast Five』だよ。

Five は5本目の「5」だとは思うんだけどさ。"Fast" っていうシリーズじゃないし。・・・まさか「早い5人」なのか?ヴィン・ディーゼルとポール・ウォーカーとジョーダナ・ブリュースターと、タイリース・ギブソンと、サン・カンで5人?死んじゃったヤツや、面白黒人は?ロック様は?現地の美人警官は?いったいどこまで数に入れてもらえるんだ?

国によっては、写真にあるように『Fast & Furious 5』なんだよな。やっぱり、わかりにくいもんな。

こうなると、興味の中心は6本目がどういうタイトルになるか、である。まさかのまさか、誰かさんの復活で「Fast Six」とかな。

ついでに、メガ盛り状態になってきた邦題もそろそろ限界じゃあるまいか。順当にGIGA MAX か。メル・ギブソンが客演したらMAD MAX とか(それはない)。

とまあ、なかなか豪快に楽しませてくれた本編には文句はなく、違うところが気になって仕方がないのである。

真面目な話、フランチャイズの可能性を広げるための判断として、ストリート・カーレースのカルチャーから少し距離をおき、大型犯罪アクションへと舵を切った映画会社の判断は、慧眼だったといえる。方向を変えるといっても、もともと「犯罪捜査の過程でミイラ取りがミイラになるという『ハート・ブルー』」の、「サーフィン」が「カーレース」に置き換わった焼き直しが原点である。だとすると、今回の方向転換は、原点回帰であるともいえるだろう。そこで、今や「家族」になっちゃったポール・ウォーカーに代わり、主人公らにシンパシーを感じつつも対立するポジションに、主人公らに負けない強力なキャストが必要になるのも必然だ。

その、新しい「強力なキャスト」に頭脳派ではなく、肉体派をもってきたんだから、そりゃ、頭は悪いけどドハデな体力勝負映画になるのもまた当然の帰結。へんにCGIでごまかさず、貴重なクラシックカーをガンガンぶっつぶし、街中破壊する。複雑で危険な撮影やスタントも多かったことだろう。そこから逃げなかった作り手の肝の座り具合が、本作の成功の鍵であったか。エンディング後におまけがあって、次回作への導入にしているので、見逃すことのないように。

The Man from Nowhere 아저씨

アジョシ(☆☆☆)


これは、あれだな。どっちかっていえば、韓国版『Man on Fire』なんだよな。ほら、デンゼル・ワシントン主演で『マイ・ボディガード』ってあったでしょ。話の構造はあれととてもよく似ている。本当はくたびれた男が演じたほうがよさそうな主人公を、「美男子」が演じるところまで似ているかもしれない。

過去を捨て、世捨て人のように生きている質屋の「おじさん(アジョシ)」。彼が唯一心を通わせた孤独な少女が犯罪に巻きこまれ、命すら危うくなったとき、彼の怒りが爆発する。かつて身につけた特殊工作員としての技能を発揮して壮絶な闘いに身を投じていくのだ。

ポン・ジュノの『母なる証明』で演技者としての実力をアピールしてみせたウォンビンが、ここでは娯楽映画のヒーローという分かりやすい役柄ながら、その内面に迫る好演で、一回り成長したところを見せてくれる。アクション・シーンでも体がよく動いていて、「特殊工作員という過去を持つ男」などという、映画の中だけで登場する嘘くさいキャラクターに、あの国ではあり得ないともいえないなぁ、などというリアリティを与えていて好印象。後半、短髪にすると顔立ちの良さが際立つ。

ところで、こういう映画では、敵となる犯罪組織が非人間的な外道であればあるほどに、盛り上がるものだ。相手のワルが際立てば、主人公(と観客)の怒りが増幅され、主人公の行う正義の鉄槌にカタルシスが生まれる。また、正義の鉄槌そのものが多少行き過ぎていたり残虐だったりしても、相手はもっとヒドイ奴らなんだから、それでいいのだと自己正当化もできるから後味が悪くならない。

そうした意味で、本作の悪人どもは、変な表現だけれども、本当に素晴らしいと思う。薬物密売にとどまらず、児童の監禁虐待と搾取、臓器売買と悪事のフルコースだ。もちろん、臓器を抜き取られて殺された死体とか、抜き取られた目玉とか、ビジュアル的にもインパクトが強い。もちろん、そこで好みは別れるだろう。が、これらは結果的に「殺されても仕方のない悪党ども」であることを印象付けるのに強く効いているのは否定できまい。

また、この映画、そういう悪事の全貌や関係者の複雑な関係を、比較的に分かりやすく交通整理してみせているところがなかなか上手いと思う。全く役に立たない警察連中の存在は、そうした構造を分かりやすく説明するためだと思えば納得が行く。

もうひとつ、主人公と対になる無口だが凄腕の殺し屋を敵方に配置している設定が地味ながらしっかり効いている。こういうのもジャンルの定番であってさして珍しいわけではない。が、互いの実力を認めあい、プロとしての意地をかけ、対等な立場でラストバトルに突入という展開が盛り上がらないわけがないのだ。作り手はなかなか分かっているなあ、とニヤニヤ笑いながら楽しませてもらった。

もちろん、時折見ているこちらをびっくりさせるような規格外の傑作を送り出してくる韓国映画としては、とりたてて誉めそやす傑作の部類ではなくて、ありふれた商品としての娯楽映画ではある。が、娯楽映画として、ありふれた設定を効果的に組み合わせ、きちんと面白い映画に仕立て上げられる実力は侮れない。作品背景に、彼の国ならではを感じさせる要素がコンテクストとして入り込んでいるところも面白い。脚本・監督イ・ジョンボム。日本の、TV局が製作して垂れ流しているようなメインストリームの娯楽映画に、せめてこの程度のレベルを求めることは無理な話なのかね?

8/27/2011

Reign of Assasins 剣雨

レイン・オブ・アサシン(☆☆☆)


ジョン・ウーの新作と喧伝された本作だが、あんまり盛り上がっていない。よくよく聞いてみれば、脚本・監督はスー・チャオピン。ジョン・ウーは製作。ただ、共同監督のクレジットで監修やアクションの撮り方の指南をした作品なのだそうだ。(実際に演出したのは娘が登場するシーンだけだとか。)主演のミシェル・ヨーがワイヤーで宙を舞い、剣がしなる武侠アクションだ。共演は韓国から、チョン・ウソン。

舞台は明の時代の中国。手に入れたものが強大な力を得ると云われる「達磨大師」の骸の強奪をめぐり暗躍する影の暗殺集団。そして、その組織を抜けた凄腕の女剣客。女剣客は過去を捨て、顔まで変えて、市井で静かに生きる道を望んだが、彼女に恨みを持つものや、達磨の亡骸を捜す組織配下のものたちがそれを許さない。彼女の正体を見破った暗殺者たちが身辺に迫る。

自らが大切にするものを守るため、一度は封印した剣を握り、望まない闘いに再び身を投じていくことになるヒロイン。そして、自らの暗い情念と慾望を満たすために配下の暗殺者集団を動かす悪の頭領。そこにヒロインに対する個人的な恨みをもったものや、ヒロインの後釜を埋めた勝気な女刺客、武術だけでなく奇術にも通じた男など、個性豊かな剣客たちも絡む。愛のためその身を捨てて血路を開く、クライマックスの大アクションは、さすがにただのアクションに終わらず、エモーショナルである。

主人公の女剣客は、最初は台湾のケリー・リンが演じているが、「整形」によって「ミシェル・ヨー」になる。そんな事情もあって、ミシェル・ヨーになる前のパートにはあまり時間を割きたくなかったのかもしれない。本来であれば、冒頭に置かれた達磨大師強奪のエピソードはもっと大々的に描かれても良いと思うが、ストップモーションなどを使ったキャラクター紹介程度の扱いになっていて少し残念だ。また、彼女が過去を捨てるきっかけとなる出会いには、もうすこし説得力が欲しい。

ミシェル・ヨーは、年を重ねてもなお素晴らしいアクションを見せてくれるのだが、それ以上に、ドラマを演じられる素晴らしい女優でもある。本作の中盤で、冴えない男を演じているチョン・ウソンと関係を深め、夫婦として平凡な生活を送ろうとするシークエンスで彼女が醸しだす佇まいが素晴らしい。「アクション」を期待した観客にとっては、思ったより長い中だるみに思うかもしれないが、それを踏まえるからこそ、クライマックスが盛り上がるのである。

アクションシーンの振り付けは流れるダンスのごとく美しく、素早く、力強い。監修とはいえ、そのあたりにジョン・ウー的なセンスが感じられる。主人公の使う剣術は、剣がしなって相手の急所を突くというもので、これがビジュアル的にも面白い。ライバル的に登場するバービー・スー演じる女剣客はとても面白いキャラクターなのだが、これからというところであっさり退場させられてしまい少々もったいなかったかもしれない。

8/15/2011

The Mechanic

メカニック(☆☆☆)


続編希望、としておきたい拾い物である。

『狼よさらば』のマイケル・ウィナー監督&チャールズ・ブロンソン主演コンビによる1972年作を、同作のプロデューサーであるアーウィン・ウィンクラーとロバート・チャートフのそれぞれの息子、デヴィッド・ウィンクラーとビル・チャートフがプロデュースした本作。今回は『コン・エアー』でデビューしたサイモン・ウェストが久々の監督、主演は、いまやアナログ系なアクション映画の顔と言っても過言ではないジェイソン・ステイサムだ。

正確無比な仕事ぶりの殺し屋が、恩人であり友人でもある男の殺害依頼を発端にして、私怨で反撃をしていくことになる。そこに、恩人の忘れ形見を弟子として育てていくエピソードが絡み、避けられぬ師弟対決へと突入していく。

タイトルの「メカニック」、というのは、正確無比な仕事をする主人公ら、殺し屋を差していう言葉である。主人公に対する仕事の依頼が、ウェブサイトの「メカニック求む」という求人欄に流れているのが笑いどころかもしれない。

さてこの映画、なんといっても、複数の殺しのアサインメントを重ねていく構成が小気味良い。冒頭、主人公のプロフェッショナルぶりを見せつける仕事があり、ドナルド・サザーランド扮する友人を抹殺することとなる仕事があり、弟子の免許皆伝のための同業者殺害があり、2人で組んでカルト宗教の教祖の抹殺がある。これら一つ一つ、シチュエーションが異なり、殺し方が異なり、バラエティに飛んでいる。本題となる組織への反撃や師弟対決は、それらひとつひとつのステージをクリアしたあとの話だ。

サイモン・ウェストの過去作には『コン・エアー』、『将軍の娘』、『トゥームレイダー』等がある。どれも刺激的な映像を編集でつないでごまかしているだけという印象で感心したことがなかったのだが、本作の仕事ぶりはひと味違う。ビッグバジェットのイベント的映画という重圧から解放されたか、体脂肪率の低い脚本ゆえか、無駄のない筋肉質の演出で盛り沢山な内容を93分にまとめる職人ぶり。これを見ると、次回作に決定した『エクスペンダブルズ2』への期待も高まろうというものだ。

弟子を演ずるベン・フォースターのへたれぶりと、組織のトップを演ずるトニー・ゴールドウィンの卑怯者っぷりは、過去の作品等のイメージによる先入観を裏切らない。見た目だけで説明不要というキャスティングは、この手の映画では重要なことだと、改めて感じさせられた。

8/10/2011

Drive Angry 3D

ドライブ・アングリー3D(☆☆☆)


ニコラス・ケイジも、ヘンな映画ばっかりに出るものだ。しかし、本作はそういうヘンな映画のなかにあって、なかなか面白くみられるオススメの部類に入るといってよいだろう。もちろん、エロとヴァイオレンス満載の、エクスプロイテーション感満載の低俗なアクション映画には違いがないのだが。なんというか、良質な俗悪映画とでもいうべきか。

娘を殺したうえ、孫娘を生け贄にせんとする悪魔崇拝のカルト教団の魔手から孫娘を救い出そうとするのが、ニコちゃん演ずる主人公である。ダッジチャージャーやら、シボレー・sシェベルSSやら、ヴィンテージもののアメリカン・マッスルカーを駆って悪党どもや追手を成敗していく。死んだはずなのに地獄の底から蘇ってきた狂気の主人公、撃たれても撃たれても、立ち上がるその男の名はジョン・ミルトン(って「失楽園」か!)。そうなると、謎の追手はもちろん、地獄の番人だ。

クエンティン・タランティーノがしかけた「グラインドハウス」がオマージュを捧げた類の映画の最新バージョンだと思ったら良い。監督は『ブラッディ・バレンタイン3D』などという、これまた俗悪映画を手がけたパトリック・ルシエだから、観客がこの手の映画に求めるツボをよく心得ている。女を抱いたまま襲い来る刺客を皆殺しにするシーンなど、笑いどころも多い。アンバー・ハード演ずるヒロインもセクシーで格好良いし、大味だが血塗れで派手なアクションも満載だ。

この監督、すでに3D映画の経験を済ませているからなのか、本作の3D演出も、漫然と3Dをやっているそこらへんの大作と違ってなかなか面白い。もちろん、最初から3Dカメラで撮影されている本作は、今年になって劇場で観た実写の3D作品では一番出来が良いとすら思うほどだ。もちろん派手なアクションやカースタントを迫力一杯に見せるとか、弾丸や杭が飛び出してくるという古典的な立体演出も多用されているのだが、車の窓ガラスに反射する風景であるとか、主人公の回想シーンなどを立体的に重ねる演出は、3Dを演出上の道具として効果的に使いこなしているよい事例であると思う。

上映時間105分、そもそもこういう映画を求めて見に来る観客を、きっちり楽しませるだけのサービス精神に満ちた拾い物である。まあ、誰にでもオススメというわけではないんだけどね。

8/07/2011

Toy Story Toon: Hawaiian Vacation

ハワイアン・バケーション(☆☆☆)

『カーズ2』と同時上映された、「トイ・ストーリー」のキャラクターを使った短篇である。時間軸では「トイ・ストーリー3」の後日譚になっていて、新しい持ち主のもとにもらわれていったあとの話ということになっている。

持ち主一家がハワイでの休暇に出かけると、玩具たちは仕事から解放されて束の間の「休暇」を楽しめる。一方、愛すべきアホ・キャラであるケンは持ち主の荷物に紛れ込んで永遠の恋人・バービーと一緒にハワイで素晴らしい休暇を過ごすつもりで綿密な計画を立てていた・・・というのが発端で、いつもの仲間たちがケンの夢の計画を形にするために涙ぐましい奮闘をするというのが今回のストーリーである。

短い時間のなかによくもまあ、と思うほどに切れのあるネタを詰め込み、テンポよく笑わせ、おなじみのキャラクターたちが、前作以降も生き生きと暮らしている様を見せてくれる。「トイ・ストーリー」シリーズのファンサービス的な作品として、ほぼ完璧な出来栄えである。トム・ハンクス、ティム・アレン、ジョーン・キューザックらの主要なボイス・キャストが再結集していることも嬉しい。前作でバービーとケンの声を当てたジョディ・ベンソンとマイケル・キートンもきっちり続投してくれているんだよね。

その一方、これまでの短編作品が、実験的であったり、アーティスティックであったり、多様な個性を主張しながら笑わせたり泣かせたりしてくれたことを思うと、既に確立したキャラクターに頼った本作のような作品だけでなく、今後もいろいろな作品を見せて欲しいと思うのだが、さて。

ちなみに、トイ・ストーリーものの短篇は、すでにもう一本、バズ・ライトイヤーを中心にしていると思しき"Small Fry"が製作されており、ディズニーが北米で年末に向けて公開する"The Muppets"に併映されることが決まっている・・・って、えー、ジム・ヘンソンの「マペット」ものの権利って、いつの間にかディズニーが買っていたんだ(驚)

Cars 2

カーズ2(☆☆☆)

ピクサー・アニメーションスタジオ25周年、12本目の長編作品は、2006年『カーズ』のキャラクターたちによるスパイ・アクション・コメディである。2時間超の長尺で、米国のマザー・ロード「ルート66」を題材とした主人公「ライトニング・マックイーン」の内省的成長のドラマだった前作とはガラリと趣向を替え、世界各地を舞台として展開する賑やかでハイペースのアクション・アドベンチャーになっている。

物語そのものには深みはないが、ガソリンに代わる代替エネルギーと、石油業界にまつわる陰謀を取り込んでいるあたりの時代感覚はさすがといったところだろう。ライトニング・マックイーンが世界各地を転戦する傍ら、短編作品以降、実質的な主人公並の扱いになっているトー・トラックの「メーター」が、本物のスパイと勘違いをされて頓珍漢な大活躍というストーリーなのだが、マックイーンが出走するレースそのものが陰謀の舞台となることで物語が1本の線につながる脚本は、なかなかのお手並みだと思う。

プロのスパイとして登場する新キャラクター「フィン・マクミサイル」の声を、「オースティン・パワーズ」でもモデルのひとつでもあるMI-6のスパイ、「ハリー・パーマー」を演じたマイケル・ケインが当てているところが聞きどころといえるだろうが、例によってオリジナル言語・字幕版の公開が非常に限定されているのが残念なところ。また、前作の重要キャラクターであった「ドク・ハドソン」は、声を当てていたポール・ニューマンの死去に伴い、劇中写真のみの扱いになっていて、改めてポール・ニューマンの不在を思い起こさせられる。

本作では前作に増してジョン・ラセターの車マニアぶりが最大限に発揮され、名車、迷車、珍車から新車まで盛り沢山。あちこちに相当マニアックなネタやこだわりが隠されているので、何度も何度も繰り返し見て確認する楽しみもあるだろう。5年前の前作からのCGI技術の向上も大きく、濡れた路面への反射や、アニメーション的なデフォルメを加えながらの世界各地の実景の再現具合はため息が出るほど。

なお、2作目になってより明白になったことではあるが、本シリーズの前提となっている車が生き物であるところの世界観は、深堀すればするほど矛盾が噴出して破綻をきたすので、ちょっと気の利いた冗談くらいに思って受け止めるのが適切だと思う。

これまでの物語を中心においたピクサー映画とはひと味違う、気楽に楽しめるキャラクター中心の娯楽映画として、良心的で、よくできた作品である。が、常にそれ以上を期待されてきた重圧のことを思えば、よくこういう割り切りをできたものだと、違った意味で感心する。本作に関していえば、おもちゃ箱の中からお気に入りのミニカーたちを持ちだして遊んでいるつもりで見るのが一番正しい楽しみ方じゃないだろうか。

7/17/2011

I am Number Four

アイ・アム・ナンバー4(☆☆☆)

途中から始まって途中で終わるだの、最初からシリーズ化に色気たっぷりだの、大仕掛のSFアクションを期待したら若いキャストが女の子とイチャイチャしてジョックス野郎の腕をへし折る映画だっただの、いろいろなことが云われている本作だが、まあ、それは全て事実だ。

しかし、なんでそれじゃあいけないのか? と、ここはひとつ開き直ることとしたい。だって、これ、期待するものを間違えなければ、そこそこ面白いのである。

本作の原作は若い読者むけの軽い小説、いわゆる「YA(ヤング・アダルト)」小説の類で、6部作構想といわれている小説「ロリエン・レガシーズ」シリーズ第1作の映画化である。この第1作は既に邦訳が出ているが、2作目はこの夏に本国で出版ということなので、そもそも原作シリーズも始まったばかり。出版前からドリームワークスが青田買いした権利を、(『アイランド』、『トランス・フォーマー』の)マイケル・ベイ製作、(『ディスタービア』、『イーグルアイ』の)DJ・カルーソ監督という、まあ、昨今、ドリームワークスと縁の深い人脈で映画化したということらしい。

悪い異星人に侵略された星(ロリエン)の最後の生き残りたち・・・9人の特殊な能力を持った子供たちと、彼らを庇護する任務を負った戦士たちが、地球に逃れ、密かに暮らしている。特殊な能力は、大人になると発現するという。ロリエンを侵略して謀略の限りを尽くした敵は、次なる侵略のターゲットを地球に定めたのだが、この特殊能力者たちの潜在的な力を大変に恐れている。そこで、まずはその9人を探し出し、順番に抹殺を図ろうとしており、映画の冒頭で3人目を血祭りに上げる。本作の主人公「ナンバー4」は、次のターゲットが自分であることを知る。この物語は、そこで幕を開ける。

それだけだと、なかなか大掛かりなSFアクションのように聞こえるが、本作の一番の魅力はそこではない。主人公らは思春期まっ最中で、庇護者のいうことを聞かず、オハイオあたりの田舎町でハイスクールに編入するのだ。かくして、SFアクションが「ハイスクールもの」へと転調を遂げるのである。ジョン・スミスと名乗る「謎の転校生」は、おとなしくしているという最初の約束なんかどこへやら、編入早々「写真好きの文化系女子」といい雰囲気になって、「元彼のジョックス野郎」の目の敵にされてしまう。成り行きで仲良くなった変わり者は「父親がUFOにさらわれたため俺の半生はX-Filesのようなもんだと嘆くギーク」だ。見ればわかるが、「ハイスクールもの」としては、『トワイライト』あたりよりは、よほど丁寧で真っ当な作りになっている。

そんなわけで、この作品。バランスからいうと、ハイスクール青春もの半分、SFアクション半分という感じ。脚本に「ヤング・スーパーマン」とか「バッフィ」とかの脚本家を充てている人選をみれば、作り手の狙いが明確だろう。SFアクションとしてみれば、知らない俳優ばかりで安上がりに作ったように見えるだろうが、「ハイスクールもの」ジャンルだと思えば、フレッシュな「将来のスター候補」を捜すのも楽しみのうち、となる。ヒロインのダイアナ・アグロンはすでにTVドラマ『Glee』でお馴染みの顔、強力な助っ人となるもう一人の戦うヒロイン、テレサ・パルマーあたりはこれからもっと人気が出るんじゃないか。

7/15/2011

Harry Potter and the Deathly Hallows Part II

ハリー・ポッターと死の秘宝 Part-2(☆☆☆)

いよいよ、である。もちろん、最後まで付き合いましたよ。ここまできたら、観ないという選択肢はないし。Part-1 の出来栄えがなかなか良かったので、本作への期待感もそれなりにあったしね。そして、まずは、納得、充実、よくできたシリーズ完結編であった、と思う。

(途中でお亡くなりになってしまったリチャード・ハリスを除き)主要キャスト&脇役キャストが最後まで変わらず、これだけの規模と、これだけの安定感で、よくぞ十年作り続けたものである。もちろん、市場が求め、映画会社が望んだこととはいえ、これを実現させたプロデューサーの力量には敬服する。子役たちが成長していく姿をスクリーン越しに見守るような、とても面白い映画体験をさせてもらった。

シリーズ総括はさておき、本作である。いやはや、「不死鳥の騎士団」を見て、その出来の悪さを嘆いたとき、その同じ監督がシリーズを最後まで続投し、このレベルの作品を作り、シリーズの幕をきっちり閉じてくれるとは思いもよらなかった。堂々たるものである。

思うに、ピーター・イェーツは作品を重ねるごとに大型VFX映画の見せ方や演出の勘所をつかんでいったんではないか。そして作品の内容を完全にグリップし、映画としてのアレンジやメリハリの効かせ方も堂に入ってきた。シリーズ中「不死鳥の騎士団」だけ脚本家が異なっていたのだが、それ以降、本作にいたるまでスティーヴン・クローブが復帰し、一貫して脚色を手がけてきたこと大きかったかもしれない。

毎度のことながら、原作マニア的な見地からは本作についてもあーだこーだと細かい改変に一家言あろう。が、ドラマ的な盛り上がりにしろ、映像的な見せ場にしろ、ケレン味のある演出にしろ、原作のエッセンスは十分に咀嚼した上で、「映画版」としての落とし所をきちんと見出しているのが前作、そして本作の良いところである。そして、原作を読んでいても新鮮な気持ちで映画を楽しめる要因でもある。

ところで、Part 1 の146 分に比べても、シリーズのこれまでの作品と比べても、Part 2 の130分というのは短めの尺になっているのには驚いた。多少説明不足で窮屈なところもあって、もう少し尺を長くしても許されるんじゃないかと思わないでもないのだが、完結に向かう勢い、スピード感を損なわないためにはこれくらいが調度良いという判断なのだろう。説明不足と言ってもシリーズを完全に初見というわけでなければ、なんとなく了解できるわけだし、ことここにいたってチンタラ説明したり、原作にある内容を逐一映像化してみても野暮というものか。

Part-2 の映像的な見所は、魅惑的な魔法学校を舞台に、いよいよ勃発する全面的な大魔法戦争が描かれているところだ。これまでのような局地戦ではなく、双方の陣営が多くの仲間を結集しての一大クライマックスだ。VFXももここぞとばかりに気合が入っていて派手に楽しませてくれる。

それはそれとして、この闘いの最中に、最近の作品では出番の少なかったマギー・スミスの見せ場を作ってくれているのが嬉しいところである。登場人物が多いだけに、割を喰ってしまったキャラクターも少なくない。そんななか、シリーズ最初期から登場する彼女のキャラクターに活躍の場があったことで、完結編としての座りも良くなったように思う。

もちろん、今回一番の役得はアラン・リックマンである。『ダイ・ハード』の悪役で売れて以降、癖のある悪役といえばこの人、というようなキャスティングの延長線上でのスネイプ役であったように思う。本人も、はじめはこういう展開を見せるとは想像していなかったはずだ。このキャラクターの過去の記憶が明らかになるシークエンスは、原作と比べると比較的サラっと見せているように感じられたが、その作りは良く出来ていた。原作を読んでいない観客に対しても、これまで7本で嫌われ役であったキャラクターの印象を一変させるだけのインパクトはあるだろう。登場時間が長くなくとも、作り手がこのキャラクターを丁寧に、大切に描いていることが感じられるのが嬉しい。

今回、3D版で鑑賞した。前作のときには直前になって公開を断念した3D版。どの程度の出来かと興味をもっていたが、変換3Dの技術もそれなりに進化を続けているのだなぁ、との感慨は覚えた。従来の、変換3D ものでは、どうしても書き割りの舞台セットのような不自然さが目についたが、それなりの時間と金をかけて丁寧に作業をすれば、そこそこの品質でコンバートできるということのだろう。

7/08/2011

The Hangover Part II

ハングオーバー!! 史上最悪の二日酔い、国境を越える(☆☆☆)


物量2割増だが、面白さ3割減。昨今、そんな常識が必ずしも通用しないことはよく分かっているけれども、昔から柳の下を漁る「続編」なんていうものは、その程度のものだというのが定評ではなかったか。スタッフ、キャスト、フォーマットはそのままに、舞台をラスベガスからバンコックに移した本作は、ギャグも(アクションすらも)一層過激さと不謹慎さを増して許容範囲の限界を押し広げているのだが、結局、前作にあった新鮮な驚きとでもいうべきものが失われた分だけ、面白さも7掛けが限界といった感じである。仕方がない、だって、基本的に同じことの繰り返しなんだもの。

しかし、他方で「基本的に同じことを繰り返す」ということそのものが、転じて「お約束」という名の笑いに通じることもある。クリスマスになると派手な事件に巻き込まれる運の悪い男がいたように、仲間が結婚するたびに羽目を外して記憶を失う、ということがどれほど不自然でありえないことかどうかは別にして、お約束を楽しむ、お約束で楽しませるというのは一つのありかただろう。

さすがに前作(ま)での出来事がなかったことにしてゼロにリセットするわけにはいかないので、登場人物たちは同じ事態を引き起こさないように用心して行動する。もちろん、そんな用心も徒労と化すのは最初から分かっていることであるが、この手順を踏む、ということそのものが重要なお約束のうちである。仮にこれが回数を重ねるなら、この手順を念入りに踏むというプロセスそのものが笑いを増幅する仕掛けにもなるだろう。

そんなことはともかく、本作には1つ、とても良いシーンがある。それは、昨夜の行動を思い出すためにタイの寺院で瞑想をする場面だ。みな、昨夜の出来事など頭に残ってはいないのだが、ザック・ガリフィナキス演ずるトラブルメイカー、アランの脳内には、少々驚くべき形で回想が蘇ってくる。この回想が、とても優れたアイディアで映像化されていて、爆笑と同時に、なんというか、ある種の感動すら呼ぶものになっているのである。関わりたくない迷惑男であるが、どこか憎みきれない発達障害を抱えた男。彼の目に映っている世界がいったいどのようなものなのか、そのエキセントリックな言動がいったい何に起因するのか、いやはや、短いシーンながら、ものすごい説得力と納得感を得ることができた。未見の方は、ぜひ、ここで目からウロコが落ちる気分を味わって欲しいと思う。

で、さらなる続編はあるのか。本作も十分なヒットを飛ばしたし、舞台を変えれば「観光映画」、「ご当地映画」的に、それなりとはいえ、新鮮な空気を吹き込めることも証明できた。そうはいっても、中心となる4人のうち3人までが既婚となったいま、次はどんな一手があるのだろう。ザック・ガリフィナキス演ずるアランに伴侶を作るのはなかなか難度が高そうだ。そういえば、運の悪い男の「クリスマス」というお約束は3作目以降は反故になったんだっけ。お約束を繰り返すにしろ、なにか新しい手立てが必要そうだ。

7/03/2011

Thor

マイティ・ソー (☆☆☆)


『アイアンマン』シリーズ、『インクレディブル・ハルク』に続き、マーベル自身が自らのコミック世界を作品横断的に映画化する巨大プロジェクト(マーベル・シネマティック・ユニバース)、4作目にして3人目のヒーローは、『アイアンマン2』のラストで予告がなされていたとおり、北欧神話に題材を求めたファンタジー寄りの『マイティ・ソー』だ。(ソーは、Thor、トールの英語風カタカナ表記。)このあと、同じく『アイアンマン2』のなかで言及のあった『キャプテン・アメリカ』が待機中で、その次はヒーロー大集合の"The Avengers" の予定だという。どうせしばらくマーベル祭りが続くのだから、その都度出てくる新作を、ひと通り楽しんでおくのが吉だろう。

(地球を含む)9つの世界を束ね、平和を維持してきたアスガルドの王オーディンの息子、ソーは、偉大な父王の後継を約束されていたが、向こう見ずで傲慢な性格ゆえに長年の平和にヒビを入れかねないトラブルを起こし、能力を剥奪された上に王国から追放され、ニューメキシコの片田舎に落ちてくる。そのころ、ソーの義弟であるロキは兄への嫉妬から敵国と通じ、王座を手に入れようと画策をしていた。王国とソーの身の上に危機が迫る、、、という話。

本作のストーリーは、基本的にはファンタジー世界における陰謀と裏切りの宮廷劇である。もちろん、広い意味では悪から世界を救うスーパー・ヒーローの話でありつつも、「正義のヒーローが悪者や犯罪者をボコって治安や平和を維持する」話とは少々毛色が異なるものになっている。それが理由なのだろう、監督に起用されたのはケネス・ブラナーという変化球。シェイクスピア俳優として有名で、その映画化も多く手がけてきた英国的知性に、ある意味で筋肉バカなアメコミ映画を委ねるという発想が出てくるところが面白い。それに対し、大バジェットのVFX映画から他では経験できないものを吸収しようと貪欲に企画を受けるケネス・ブラナーも大したものだ。

映画の内容は、とりたてて何かをいうほどのものでもなく、昨今のマーベル映画の家族で楽しめる軽いノリを継承している。地球に落ちてきたソーの頓珍漢な行動や、こんなファンタジー系のヒーローに対する違和感みたいなものを自己言及的に軽いコメディとして見せるあたりの手際は良いし、一見筋肉バカでも血統なりの人の良さを素直に演じて見せるクリス・へムズワースも爽やかで嫌味がない。アクションもオーソドックスにきちんと撮れている。先行・並行するマーベル映画世界と絡む細かいネタも盛り込まれており、気がつけば気がついただけニヤッとできるかもしれないし、逆に、商売っけを感じてうんざりするかもしれない。それが仕事とはいえ、こういう商業作品をさらっと撮れるケネス・ブラナーの器用さには驚かされるし、続編の監督を断る気持ちも十分に理解できる。

神話的・宇宙規模のスケールと言っても所詮CGI、セットにもカネがかかっているのだろうけれど、作り物の安っぽさは否めない。地球での舞台はニューメキシコのしょぼい田舎町、へんてこりんなロボット一体を撃退するだけなので、なんだかちっちゃな映画のように思えてしまう。"The Avengers" に向けた顔見せ、前座だと割りきって楽しむのが良いだろう。例によって一番最後にサミュエルL・ジャクソン登場の、"The Avengers" に向けた予告が入っている。また、劇場によっては、上映前の予告編で、ジョー・ジョンストン監督による『キャプテン・アメリカ:ザ・ファースト・アベンジャー』も観ることができるかもね。j

6/17/2011

Red Riding Hood

赤ずきん(☆☆☆)


おとぎ話の原点に戻って、残酷さや恐怖を強調した大人向けの寓話に仕立て直した「赤ずきん」・・・というわけではない。

中世のヨーロッパを舞台に、「トワイライト」あたりの観客層をターゲットにした「人狼ものファンタジー・スリラー」をやろうという企画である。監督は『トワイライト』1作目のキャサリン・ハードウィック、幼なじみからも、親の決めた許嫁からも、人狼からも言い寄られちゃって、もう、私どうしたらいいの?というヒロインにアマンダ・セイフライド。

かつて人狼に襲われた記憶の残る集落。人狼が人を襲わないよう、定期的に生贄を供えるなどして「共存」してきたのだが、ある満月の晩に主人公の姉が人狼の犠牲となる。血気盛んな一部の村人に先導されて山の奥深くに分入り、犠牲者が出たものの大きな狼を仕留めることに成功した村人たちは歓喜に湧くが、人狼ハンターとして名を馳せる祭司は、人狼は村人の中にいると警告を発する。

この映画で面白いのは、人狼に恐れおののく村に、自らの妻まで人狼として惨殺したという触れ込みで名をはせる「人狼ハンター」の聖職者が招かれてからの展開である。

普通なら、人狼ハンターは頼もしい味方として大活躍となるところ、そのやり口がだんだん陰湿な「魔女狩り」めいてくる。ヒーローとして登場したと思われたこの男が、人狼以上の悪者の様相を呈してくるあたりがとても面白い。罪もない村人に嫌疑をかけ、拷問し、換金し、命を奪う横暴な宗教的権力。これを演じているのが、おなじみゲイリー・オールドマンだ。まあ、この顔を見たら悪人と思え、と条件付けられているせいもあるが、だんだん「このくそったれな司祭をぶち殺せ、やっつけちまえ!」と人狼さんを応援したくなってくる。人狼の襲撃シーンは、思いもよらず盛り上がりを見せることになる。

ストーリーは、人狼の正体は誰なのか、というミステリーを縦糸にして進んでいく。しかし、それほど凝ったトリックや、驚きの結末があるというわけでもない。人狼による犠牲者が一体誰なのかに着目していれば、少し勘の良い観客なら答えが分かってしまうんじゃないだろうか。一生懸命ミスリードしようとするので、その逆を張っていくだけでもいいかもしれない。いずれにせよ、そういうミステリーとしては、そんなに期待しないほうが楽しめるんじゃないか。

厳密に時代考証のされた風格あるコスチューム・プレイというのではなく、あくまで、最近のNHK大河ドラマのような雰囲気だけの「なんちゃって時代劇」である。ティーンの女性客目当てだから、そんなにグロもない。大人の真剣な鑑賞に耐えるものではないが、なんだかんだいってグデグデのロマンスが主筋の『トワイライト』よりは面白く見られる作品で、ちょっとした暇つぶしには悪くない。

6/03/2011

Chloe

クロエ(☆☆☆)


夫の不貞を疑った妻が、女にだらしがない夫の本性を暴こうと娼婦を雇い、誘惑させて反応を探ろうとする。娼婦の報告で疑惑が確信へと変わるだけでなく、夫と娼婦とのあいだで行われた秘め事を聞いて想像をふくらませた妻は、ただならぬ感情に苛まされるようになる。すべてを精算しようとした妻が知る真実とは。2003年の仏映画『恍惚 (Natarie...)』のリメイクで、監督はアトム・エゴヤン。夫がリーアム・ニーソン、妻がジュリアン・ムーア、娼婦がアマンダ・セイフライド。

ジュラール・ドパルリューとエマニュエル・ベアールが出演しているオリジナルは未見。で、エロティックな罠による浮気夫への復讐譚かと思ってみていると、寝取られ属性に目覚めて悶える妻の話になり、そのままどこまで変態的な展開になるかと期待して見ていると、娼婦と妻のレズ・セックスの映画になり、ハリウッド調サスペンスで幕を閉じる。なんじゃそりゃ。

この2ヶ月ほど、『ジュリエットからの手紙』、『赤ずきん』に本作と、3本立て続けに出演作が公開されて、ときならぬアマンダ・セイフライド祭りとなっている。ここ最近の「女子映画」の顔といってもよい彼女が、エロティックに誘惑する娼婦を演ずるというのでどういう風の吹き回しかと思ってみてみれば、なんとことはない、大きな意味で、いつもとおんなじ路線の役柄だ。もちろん、いつになく積極的に脱いで男性観客の目を楽しませてはくれるけれど、男の望むセックス・オブジェクトを演じているのではなく、「男の望むセックス・オブジェクトを演じている女性」を演じているのである。もうひとつついでに、彼女の役柄の視点からこの物語を再構築してみれば、「仕事として客の望む姿を演じ続けてきたひとりの孤独な女性が、ふとしたきっかけで知り合った相手に叶わぬ一方的な恋心を抱く」という話なのだ。

一見して、欲求不満のセクシーな中年女性が性悪女にひっかかるエロティック・サスペンスとしてパッケージングされてはいるが、実は、それは商売上のひっかけに過ぎない。本作が、この娼婦のモノローグで幕を開けるのも、映画のタイトルが彼女の名前であることも、まあ、あとになって思えば、これが本当は「彼女」の物語であることを示唆しているのだ。なるほどね。

「クロエ」という女性の視点で見ることによって、『ルームメイト』のジェニファー・ジェイソン・リーとか、『危険な情事』のグレン・クロースとか、男が観ると恐怖の対象でしかないんだけど、どこか孤独で哀しい女性たち、平和な生活に侵入し破壊する異端者として哀れみを誘いつつも、最後には残酷に排除されていく女性たちの系譜が見えてこないだろうか。だから、この「娼婦」の役は、単なるセクシー美女俳優ではなく、むしろ女性観客に共感を呼ぶ役柄ばかり演じ続けているアマンダ・セイフライドだったということだ。ちぇ、こいつ別に好きな女優じゃないんだけどな。目と目のあいだが離れたヘン顔だし。

リーアム・ニーソンはにやけ顔の女好きなのか、単に愛想がいいだけの真面目な堅物なのか、どうっちにでもうけとれる曖昧さで観客をミスリード。ジュリアン・ムーアは本当に巧い女優さんだし、こういう役はお得意とするところ。アトム・エゴヤンの演出は、商売上の要求とドラマ上の要求をバランスさせながら、ジュリアン・ムーアの物語としても、アマンダ・セイフライドの物語としても成立させており、かつ、安っぽくならない程度に変態ぽいところもいい。製作にアイヴァン&ジェイソン・ライトマン父子の名前があって、ってことは、実質これは、カナダ映画ってことですか。舞台もトロントだしな。

しかし、クロエには違う結末を用意してあげたかったな。この手の映画ではもう、ああいう終わり方をしないと観客が納得してくれないとでも思ってるのかね。

5/28/2011

My Back Page

マイ・バック・ページ (☆☆☆)


映画評論などで知られる川本三郎の私小説的な原作の映画化で、1970年前後を舞台に、大物活動家気取りの学生が引き起こした朝霞自衛官殺害事件により、かねてより取材の過程でその学生との親交を深めていた新聞社の記者が追い込まれていった葛藤を描く。向井康介脚本、山下敦弘監督。

原作は読んでいないし、そこに描かれたはなしがどこまで事実に基づいているかなどということには興味はない。ただ、リアルタイムでその時代を知る由もない作り手たちによるこの映画を見て、この映画の中には何がしか、普遍的な物語を描くことに成功しているようには思う。その物語というのはこうだ。「それにふさわしい覚悟や実力も定かではないのに、とにかく何かしら事を起こして名を上げ、早くホンモノにならなければ周囲に取り残されてしまうと焦っている男達が、そんな焦りゆえに、引き返すことのできない場所、取り返しの付かない状況に追い込まれていく話」、だ。

もちろん、これは、「エリート気取りの世間知らずな青年が、同じく功名心に駆られた詐欺師的なクズ男に手玉に取られ、大局も見えないまま、青臭い理想にすがって身を持ち崩す話」、でもある。あとになって、「俺、なんで信じちゃったのかなぁ」と。

でも、「なんで信じちゃったのかなぁ」っていうのだけれど、ほら、結局、人間というものは、信じたいと思うことを信じるようにできている生き物なのだ。そして、その信じたいという気持を、そこにつけ込むようにして利用するやつらもいる。はたからみれば、松山ケンイチ演ずる人物の胡散臭さなぞ一目瞭然なんだ。だから、あんな演技、あんな演出じゃ、なんで周囲の人間が騙されるのかわからないっていう人もいるわけだけれど、じゃあ、例えば、「原発は安全、低コスト、CO2を排出しないから環境にも優しいし、原発なしには資源をもたないこの国は立ちゆかない」って、ほら、そんなデタラメの嘘っぱちを勝手に信じておいて、あとになって騙されたと怒っている連中のことはどうなのさ?と思ったりもするわけである。

人は、信じたいと思うものを信じるし、ある時点まで行くと引くに引けなくなって、さらなる泥沼につっこんでいくものだ。それに、詐欺師のたぐいってのは、人のそういう心理につけ込むものだ。

結局、自らの中にある弱さ、焦りが、信じたいと思うものを信じさせてしまったのだという事実を受け止め、良かれと思ってしたことが招いた結末に涙するしかない、そういうほろ苦さは、いまを生きる我々の誰もが共感できるものなのではないだろうか。映画の冒頭で描かれるウサギの死が、まわりまわって、イノセンスの終焉に涙するラストの主人公につながる。そのとき、この映画を観る我々観客もまた、主人公と同じ問いを自らに問わねばなるまい。このシーンの妻夫木聡はいい。最高にいい。『悪人』を経た成長を見せてくれた。

一方の松山ケンイチも頑張った。あの演技を少し過剰だと、周りの人間が何故あんな人間についていくのかわからなくなってしまうという意見も聞くが、それをいうなら、何故未だに「オレオレ詐欺」の類にダマされる人間がいるのかわからない、というのと同じことだ。周りの人間だって彼が本物だと、彼についていくことで自分もまた何者かになれるのだと、信じたかったのさ。松山ケンイチの演技は、この人物をただの得体のしれない詐欺師的クズに見せるのではなく、この人物のなかにある焦燥感や功名心、未熟な思い込みや、おそらく自身で気づいている自分の実力や限界と、それ故の哀しみ、それ故の小物っぷりみたいなものも感じさせてくれた。

この二人に限らず、共演のキャストがみな良い仕事をしている。先輩記者、京大の活動家、ワンポイントで出演している大物。みんないい。

映画の前半、複数人数が部屋で話している場面でのフレーミングや切り替えしのカット割りが少々不自然で気持ち悪いなぁ、と思ってみていたが、映画全体では全景をワンフレームに収めてのだらだらした長回しがやたらに多く、イライラさせられた。ちょっと気取り過ぎ。尺も長い。脚本段階で、何を描き、何を描かないか、すなわち本作のテーマが何なのかについて整理がついていないまま漫然と撮って、編集で何とか見られる状態に仕上げていったんじゃないかと邪推もする。なんだか脚本家・監督のコンビがホンモノかどうか、もう少し見てから判断したって遅くないかとは思った。

5/21/2011

Letters to Juliette

ジュリエットへの手紙(☆☆☆)


新婚(婚前)旅行でイタリア・ヴェローナを訪れた主人公が、旅先で出会った男と恋におちて婚約者を捨てる話、と書くと身も蓋もないな。まあ、ちょくちょくでてくる女性客目当ての「お気楽観光・自分探し・恋愛映画」である。ついでにいうと、少しだけキャリアアップ・ネタも混ぜてきた。主人公が男目線での魅力にかける役を得意としているアマンダ・セイフライド。

・・・とここまでなら、この映画なんの魅力もない。しかし、この映画、ちょっと面白い。風光明媚な異国で自分探しをしたり、食べたり飲んだり祈ったりいるだけではなくて、なかなか魅力的なサブプロットがあり、むしろそれがメインの座におさまっているようにすらみえる。かつての想い人を探して一言謝罪をしたいという老女の物語だ。

映画のタイトルにもなっている「ジュリエットへの手紙」。ヴェローナといえば、「ロミオとジュリエット」の舞台となった土地であるのはご存知のことだろう。そこに観光ポイント「ジュリエットの家」があるという。このスポットを訪れる人々が、恋の悩みやらなにやらを綴ったジュリエット宛の悩み相談手紙を残していくと、「ジュリエットの秘書」を名乗る地元の人々がその手紙を回収し、ボランティア的に手紙への返事を書いている、というのがこの映画でのお話しである。

開店を控えたレストランの仕入れ先業者やらワインのオークションやらに忙殺されている婚約者に放置された(・・・といえば主人公目線だが、婚約者の人生の一大事に付き合おうともしない)主人公が、ジュリエットの家の壁の隙間に残されていた50年前の手紙に返事を書く。ライター志望だけあって、なかなか良い文章だったのだろう、手紙に触発された、いまは英国に住む老女が、かつての想い人を捜して自分の裏切りを詫びたいと、世話役の孫息子を連れてヴェローナにやってくるのである。タイトルは『ジュリエットへの手紙』だが、主人公が書いた「ジュリエットからの手紙」が、老女の運命の恋と、その孫と主人公とのあいだの現在進行形の関係を結びつけていく。

この映画、ともかく、老女を演じている大ベテラン、ヴァネッサ・レッドグレイブの魅力に尽きる、のではないか。映像で語られることのないキャラクターの歴史を見事に感じさせる名演。自分に世話をやく孫と、主人公との関係をさり気無く気づかう余裕。恋する少女そのものにしかみえない愛らしさ、眼の奥の深い哀しみと、時々宿る茶目っ気のあるユーモア。そして恥じらい。相手を捜し歩く過程で出会う(いかにもそれらしい)イタリア親爺たちの表情も自然体で魅力的なのだが、彼らを相手にしながら、時には上手にあしらいながら、また自分の求める人ではなかったと、顔では笑い、心で落胆する。

最初に指摘したようなありがちな女性向けエクスプロイテーション映画の枠組みを使いながら、もうひとつの、違った物語を語ってみせるというアイディアがこの映画の良いところであるが、形式的にメインとなる主人公の恋模様のほうはあまりうまく描けているとは思わない。主人公の婚約者を一方的に悪く見えるように描くのもフェアじゃないし。しかしまあ、それがメインの映画はないのだと割り切れば、観終わったあとで幸せな気分になれる佳作である。

ゲイリー・ウィニックはケイト・ハドソン、アン・ハサウェイ共演の『ブライダル・ウォーズ(Bride Wars)』などの監督。1961年生まれだというのに、今年2月に亡くなっている。hn

5/15/2011

Unknown

アンノウン(☆☆☆)


リーアム・ニーソン主演という観点でみれば、あの快作『96時間 (Taken)』に続く「欧州舞台の軽量アクション娯楽作路線」に位置づけても良さそうな作品なので、勝手に関連付けてしまいがちだ。しかし、この作品の製作会社はリュック・ベッソン率いるヨーロッパ・コープではなく、なんとなんと、ダークキャッスルなのであった。映画を見てみると、ベッソン関連作にありがちな「米娯楽映画を模倣している」ことに起因する「なんちゃって」な感じがないし、脚本軽視の仏製香港映画臭もなく、たしかに風格のある仕上がりだ。ダークキャッスルで風格というのもどうかと思うが。

そういえば最近のダークキャッスルは路線転換してるのかな、なんて思ったのが異色のサスペンスミステリー『エスター』の時だっただろうか。本作の監督は、いまやダークキャッスル人脈では一番の出世頭だと思えてくるジャウム・コレット・セラなのであった。なるほどね。

ベルリンを舞台にして、ある出来事をきっかけとして自分の記憶(主張)と周囲の記憶(主張)が噛み合わなくなった主人公が、自分という存在を証明すべく奔走する話である。旅先で事故に会い、病院で目が覚める。外出許可をとってホテルに戻ると妻は自分を知らないという。自分と同じ名の別人がいて、それが「夫」だという。その男は自分でしか知りえないようなことも知っている。自らを証明する手段も、手がかりもない。

こうしたパターンの話は幾度となく描かれてきて、オチの種類も多様である。なにかの陰謀か、宇宙人の実験か、仮想現実か、模造記憶か、実は死んでいるんだとか、死ぬ直前に見た悪夢だとか。あんまりいろんなコトを想像しながら見ていると、なんだ、案外普通だったね、なんてことになりそうなのが本作であるが、あくまでベルリンという街を舞台にしたサスペンス・アクションであるというジャンルから逸脱せず、きっちり風呂敷をたたんでみせるあたりが、大変好印象である。豪快なカー・アクションもあるかと思えば、ベテラン同士の息詰まる演技合戦もある。肉体的アクションもあれば、観光要素もあるといった具合に、気づいてみれば意外に盛り沢山の要素をバランスよくまとめている手腕もなかなかだ。

リーアム・ニーソンはその巨体を持て余してどこにいても居心地が悪そうな風が本作にぴったりである。勝手分からぬ外国で右往左往するさまと、その体躯に秘められたポテンシャルの落差もいい。今回の共演はダイアン・クルーガー、不法移民のタクシー運転手の役だが、リーアム・ニーソンと比べると実際以上に小柄に見えることもあって、可愛らしさが出た。このひと、美人売りをするより、こういう役のほうが魅力的に見えるような気がする。元東独の秘密警察役として登場するブルーノ・ガンツとフランク・ランジェラの大ベテラン同士の演技対決はゾクゾクする見せ場。これだけで映画の格がひとつ上がったんじゃないかという気がする。

3/04/2011

Morning Glory

恋とニュースの作り方(☆☆☆)


出演作を重ねるごとに魅力が増してきているレイチェル・マクアダムスが(恋、はともかく)仕事を成功させるために奔走するドタバタ・コメディ、という枠の中では楽しめる作品である。不機嫌顔の偏屈爺と化した「脇役」ハリソン・フォードも面白いし、ダイアン・キートンは立ち位置をわきまえた好演(まあ、ちょっと年をとったな)。

だけど考えてしまう。どこか納得がいかない。

結局、こうやってテレビは白痴化していくのだ、ということか。

主人公が猛烈アピールで得た仕事で結果を出すため、視聴率の悪いモーニング・ショーの立て直しに躍起になるという話である。いろいろあって、数字が出て、注目を浴び、ネットワークのキー局からお声がかかるまでになっていくというサクセス・ストーリー仕立て。それはいい。

しかし、その成功のプロセスがちょっと釈然としない。

尊敬するニュースキャスターをスカウトしてきたといっても、硬派な番組へと舵を切るわけではない。視聴率を取るために、レポーターたちに過激な体当たり取材を要求し、番組のバラエティ化、白痴化を推し進めていく。報道の力、メディアの力を思い知る出来事があっても、番組の路線を変えはしない。視聴率をとることが良いことで、主人公が行っている番組活性化策が善で、頑固なジャーナリスト気取りは時にスクープをモノにしたとしても、視聴者に媚び、朝の番組にふさわしく料理の一つや二つ作って見せるべき、、、という価値観で突き進み、そこに迷いもなければ、振り返りもない。

主人公が、ということではないだろう。この映画の作り手が、そのあたりのことについてあまりにも無自覚で、批評精神がないということだと思うのである。結果として仕事に賭ける主人公の志の在り処、なんのために仕事をやっているのかがわからない。また、主人公と頑固なニュースキャスターの価値観の対立や相互理解のドラマが、匂わせているほどには描けていない。結局、ハリソン・フォードが立場をわきまえて折れてみせる、ということでしかない。

単に職場の仲間と楽しく、日々の仕事や困難を乗り越えていく話なんだといわれたらそうだ。そういう単純さに本作の魅力の一端がある。しかし、あまりにお気楽なんじゃないか。舞台としてTV局を選んだりせず、どこか他の職場でやってもらえたら、どれほど気持ちよく笑える作品になったことだろうか。

2/20/2011

Hereafter

ヒアアフター(☆☆☆)

「イーストウッドの大霊界・死んだらどうなる?」・・・かと思いきや、死と直面した人間たちが、そのこととどう折り合いをつけて前に進んでいくかという話であった。

パリ、ロンドン、サンフランシスコを舞台に、3人の登場人物のそれぞれの人生が描かれ、最後にそれが「ロンドンで開かれるブックフェア」を舞台に交差するという構成だ。これが、あの『クイーン』や『フロストxニクソン』のピーター・モーガンの脚本と聞くと、ちょっと意外な感じがする。一見して、商業作品として練りこまれた脚本というのではなく、思いついたアイディアをさらっと書き流したドラフトのままなんじゃないか、それをそのまま映画にしてしまったんじゃないか、とすら思える内容だからだ。実際、彼自身が撮るなら(予算の制約も含めて)「ロンドンの少年」のエピソードに絞り込んで脚本を書き直すつもりでいたという。

まあ、本当に驚くべきなのは、こんなにラフに見える脚本から、自然体でさらっと撮ったが如くを装いつつ、独特のリズムで「映画」を紡ぎ出してしまうイーストウッドの演出術なんだろう。世評では不評気味な本作だが、それは、さすがに近年の神憑った傑作連打の流れにおけば「弱い」作品だとはいえ、私はこれ、嫌いではない。それどころか、なんでこういう映画が撮れてしまうんだろうか、どうしてこれで映画が成立してしまうんだろうか、と感心してしまう。

まあ、前作の『インビクタス』も本作に似てかなり不思議な映画で、題材としての圧倒的な「事実」が映画を成立せしめているように見えなくもなかった。それ故に、分かりやすい映画でもあった。が、本作は、そういう題材やストーリーの強さすら取り払って、そのあとに残る、無意識、無作為に見えないわけでもない剥き出しの演出術だけで成立している作品のように思えたりもする。

特に印象に残った個別の話としては、まず子役がいいということ。経験のない素人の双子だということだが、うまい演技を引き出せるものだ。そして、マット・デイモンはやっぱりいい役者だということ。自然に役柄に馴染んでいるし、台詞では説明されない内容を、観客にきっちりと伝えるさじかげんも心得ている。それに、クッキング教室での目隠し試食がエロいこと。枯れてないなぁ、あいかわらず変態的だなぁ、イーストウッドは。ブライス・ダラス・ハワード、シャマラン映画で見る彼女も良かったが、確かに痩せ型でイーストウッド好みの女優かも知れない。また出演して欲しいものだ。

あとひとつ、映画の本当に最後に近いあるシーンで、マット・デイモンの妄想?らしきシーンが唐突に挿入される編集には心から驚いた。いや、妄想だと受け取ればそれはそれで分からんでもないのだが、この映画、あの瞬間まで、基本的にああいう心象風景を実際に画にしてみせるということをしていないじゃないか。妄想にありがちなぽわわわわ~ん、と音の出そうなフェイド・イン/アウトをやっているわけでもないから、初めは「やけに強引なジャンプカットだな」と思ったくらいだ。直後、もとの場面に引き戻されて、え、妄想?予知?過去に予知した場面のフラッシュバック?将来のできごとを垣間見せるフラッシュフォワード?(それは結局予知と同じか)、と挿入された意図を考えだしたら、もう分からない。狐に摘まれたような気分だが、一方で、あのカットなしには本作が成立しないようにも思う。不思議な映画は、最後の最後まで不思議であって、しかし、心のなかに忘れ難いイメージを残すのである。

2/13/2011

How Do You Know

幸せの始まりは(☆☆☆)


70歳になる大ベテラン、ジェームズ・L・ブルックス、監督としては2004年の『スパングリッシュ 太陽の国から来たママのこと』 以来となる新作で、得意の大人のロマンティック・コメディ路線。いつものように脚本も兼ねている。最悪だと思えた状況が、何かのきっかけで思いもしない方向に好転することだってあるんだよ("How Do You Know?")、というメッセージも心地よい。

ソフトボールの全米選抜チームで活躍してきたが世代交代を進めるチーム方針でお払い箱とされた女性(リース・ウィザースプーン)が、女遊びの派手な人気のプロ野球選手(オーウェン・ウィルソン)と勢いと成り行きで付き合い始めるがしっくりいかない。そんな折、職務における違法取引の嫌疑で刑務所送りになりそうな上に、恋人とも別れ、父親からのプレッシャーもあって切羽詰っている男(ポール・ラッド)が、知人の紹介でこの女性と食事を共にし、恋に落ちてしまう。

なにか取り立ててすごい作品というわけではないのだが、いつものこの監督の仕事らしく、単純な三角関係コメディのようでいて、複雑な人生と心の機微を流れるような語り口で見せる、過小評価されている佳作。リース・ウィザースプーン好きやオーウェン・ウィルソン好きなら楽しめるだろう。リースが演じる前向きに努力と根性で頑張ってきたのに、人生のターニングポイントでそのすべてを失ってしまった切なさをこの人らしく演じているのと、実にお気楽でいい加減な男のように見えるオーウェン・ウィルソンが、子犬のような目でいいところをさらっていくのが見所である。

オーウェン・ウィルソンや、ジャック・ニコルソン演じるポール・ラッドの父親役などが、基本的に自己中心的な本音を隠さない自由奔放なキャラクターとして描かれているのに対し、映画の中心となるリース・ウィザースプーンやポール・ラッドは、周りの期待に応えなくてはならないというプレッシャーのなかで、本音を押し殺していたり、本音がなんなのか分からなくなっているキャラクターである。不器用といえばそうだし、誠実といえばそうだ。自己主張が強くなければ生き残れない米国では、割を食うタイプの人々だともいえる。本作のポイントはここにあるのだろう。

映画は主役2人のひととなりを描き出すために、中盤、少々まどろっこしい展開になって、映画の流れが停滞するのが欠点だが、ある意味、そこにこの作品の誠意があるようにも思う。こういう2人だからこそ、の名場面もある。

ジャック・ニコルソンは監督と縁が深いのだが、まあ、ラッドにプレッシャーを与える偉大で怪物的な父親という役柄を考えればこれ以上にないキャスティングではあるが、脇役なのに必要以上の存在感で目を引いてしまい、少しバランスが崩れている気もするかな。