ラベル [邦] の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル [邦] の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

11/13/2011

Love Strikes! (モテキ)

モテキ(☆☆☆★)


公開から随分間が開いてしまったが、ようやく見ることができた。原作(知らなかった)、テレビドラマ(気になっていた)共に未見だが、楽しく見られた。いや、実際のところ、これ、サプライズ・ヒットを飛ばしたからということだけでなく、今年の邦画を代表する何本かを選ぶなら、そのなかに選ばれてしかるべき1本ではなかろうか。だって、こんな映画、こんな主人公、こんな演出、他の国で考えられるか?

もちろん、大震災と史上最悪の原発事故を経験したこの国の、今年を代表する1本がこれっていうのもなんだとは思うけれど、そういうある種の恥ずかしさも込みにして、今日の日本が生み出せる、日本ならではの「オリジナリティ」って、こういうものなのではないのか、と思い、感心し、面白がっている。

この映画は自由だ。あるいは、テレビ東京の深夜ドラマ枠という出自がそうさせるのかもしれないが、「平均点的に誰もにウけるもの」でなくてもいい、分かる人に分かれば良く、楽しめる人に楽しんでもらえばいい、とでもいうような、潔い割り切りが感じられる。サブカルネタの取り込みや言及もそう。ある種の下品さだってそう。Twitter の使い方もそう。マンガ的(というかアニメ的)で過剰なモノローグもそう。前代未聞レベルで凝りに凝ったエンドクレジットもそうだ。

妄想的な美女神輿のオープニング。米国映画が得意とするミュージカル演出を(おそらく『(500)日のサマー』経由で)臆面もなくイタダくかと思えば、Perfume 本人たちまで登場の大盤振る舞いで映画館をイベント会場に変えたかと思えば、大江千里で突如映画館の大スクリーンがカラオケに変貌する仰天演出。曲を流し出したら、テンポやバランスを後回しにしてまでキリの良いところまで丸まる流してみせる。こういうデタラメさ加減の、なんという楽しさよ。

しかし、この映画はそういう意匠の新しさだけを売り物にした作品ではない。コメディとして笑える、ということだけでもない。結局、映画の中で描かれている不器用なキャラクターたちの切ない心象風景を、格好の悪い恋愛模様のドラマをきちんと語ってみせることができているから、映画として成立しているのだ。そして、そんな恋愛模様のどこかに、観客自身が思い当たるものがあるから、共感できる何かを見出すことができるから、心を打つ映画足りえているのだと思う。

類型的で表層的にみえる登場人物たちには、もちろん、コミック的な誇張もあるけれど、今この時代を生きているリアルな人間の香りがし、親近感を抱くことができる。そして、それを演じているキャストが、そういうキャラクターたちをしっかりと掴んでいるところがなお素晴らしい。

本作筆頭のヒロインにキャスティングされた長澤まさみの破壊力はいうまでもないことだが、彼女の存在がいかに反則的であるかを分かっている人間がキャスティングをし、演出しなければこうはならないだろう。絵に描いたような夢のガールフレンド役としてだけでなく、その裏側にある焦りや悩み、不安や弱さをきちんと見せて完璧。一時期の低迷はなんだったのか。

第2のヒロインである麻生久美子も好演なら、飛び道具扱いの仲里依紗、真木よう子も、役割をよく自覚している。飄々としたリリー・フランキーの面白さ。金子ノブアキの悪役ぶり。もちろん、主演たる森山未來は、格好悪くて面倒くさい主人公のキャラクターを完全にモノにしていて、意外にも、その身体能力の高さが透けて見えて感心した。

こうなると、ドラマ版を見損なっていたのが実に惜しい。が、だからといってこの映画を見ないのはもったいない。独立した作品として、十分に完成した力作である。

10/30/2011

ツレがうつになりまして。

ツレがうつになりまして。(☆☆☆★)


同名のコミック・エッセイが話題を呼んでいたことも、NHKでドラマをやっていたことも知っている。が、原作は読んでいないし、ドラマも(全部ちゃんとは)見ていない。が、宮崎あおいと堺雅人が主演の映画になると聞いて、これはぜひ見たいと思い、遅ればせながら劇場に足を運んだ。ということで、原作と比べて云々、ドラマと比べてどうこういうことはできない。もっというと、佐々部清監督の作品を見るのも初めてのような気がする。

これは、少しばかりの啓蒙効果はあるのかもしれないが、鬱病治療のマニュアルのような内容ではない。仕事のストレスをきっかけに鬱病となった夫と、あまり売れていない漫画家の妻が、夫の病をきっかけとして、現実に向き合っていく物語である。

丁寧に作られた良い映画である、と思う。話運びも、見せ方もいい。舞台となる一軒家、近所の風景なども、少し現実の時空間から外れていて、しかし、どことなくほっとする世界だ。そして、なによりも主演の二人が、その実力に違わない好演である。しかも、スクリーン上での相性がいい。いつまでも眺めていたい気分になる、お似合いのカップルである。そして、本当は重い題材のはずなのだが、軽やかで、温かい。

だが、この映画、どう考えても幕引きの場所を間違えた。いろいろ考えた末だとは思うが、思い切りが悪い感じで、かなり惜しい。

終盤、幕の引きどころが幾度となく訪れる。最初の候補は、「結婚同窓会」のくだりだろう。この夫婦はカトリックの教会で結婚式を挙げたようである。同時期に結婚したカップルたちを集めて結婚に対する心構えなどを説く教室でも開いていたのだろう。その延長線上で毎年「同窓会」を開いているのである。そこに参加した主人公夫婦のスピーチは映画のテーマそのものを語っていて、エモーショナルなピーク・ポイントにもなっている。そこで映画を終わっていたとしても全く不思議ではないし、座りも良かったのではないかと思う。

次の候補は、夫婦が庭で会話をするシーンである。妻が、自分が書きたいことをマンガに書けばいいと、そして書きたい題材(つまりは、夫婦の闘病生活)が見つかったと語る場面で、CGIを使って妻の描いたイラストが画面いっぱいに広がるファンタジックなシーンだ。この映画の原作がそうやって描き上げられたコミック・エッセイであることを思えば、先の「同窓会」の後、エピローグ的にここまで引っ張ってから終わるのもスッキリした構成に思える。個人的には、ここで映画を終わらすアイディアが一押しである。。

実際の映画は、これに引き続き、妻の描いたコミック・エッセイが評判を呼んだこと、夫が妻のマネジメントの名目で会社を作ったことなどに触れたあと、夫が乞われて講演会の演台に立つエピソードが描かれる。ここは、もう、本当にバッサリ切ってしかるべき蛇足である。ハッピーエンドらしく、鬱病が回復に向かっているというトーンを出したかったのかもしれないが、そもそもそんなに短期間で治る病気でもあるまい。会場に元上司やらクレーマーやらを大集合させて結論めいたオチをつけたかったのかもしれないが、不自然極まりない。どうしても「その後」的なフォローアップをしたいというのなら、アメグラ方式というのか、ストップ・モーションにテロップで十分だったと思うんだよね。

10/01/2011

The Man from Nowhere 아저씨

アジョシ(☆☆☆)


これは、あれだな。どっちかっていえば、韓国版『Man on Fire』なんだよな。ほら、デンゼル・ワシントン主演で『マイ・ボディガード』ってあったでしょ。話の構造はあれととてもよく似ている。本当はくたびれた男が演じたほうがよさそうな主人公を、「美男子」が演じるところまで似ているかもしれない。

過去を捨て、世捨て人のように生きている質屋の「おじさん(アジョシ)」。彼が唯一心を通わせた孤独な少女が犯罪に巻きこまれ、命すら危うくなったとき、彼の怒りが爆発する。かつて身につけた特殊工作員としての技能を発揮して壮絶な闘いに身を投じていくのだ。

ポン・ジュノの『母なる証明』で演技者としての実力をアピールしてみせたウォンビンが、ここでは娯楽映画のヒーローという分かりやすい役柄ながら、その内面に迫る好演で、一回り成長したところを見せてくれる。アクション・シーンでも体がよく動いていて、「特殊工作員という過去を持つ男」などという、映画の中だけで登場する嘘くさいキャラクターに、あの国ではあり得ないともいえないなぁ、などというリアリティを与えていて好印象。後半、短髪にすると顔立ちの良さが際立つ。

ところで、こういう映画では、敵となる犯罪組織が非人間的な外道であればあるほどに、盛り上がるものだ。相手のワルが際立てば、主人公(と観客)の怒りが増幅され、主人公の行う正義の鉄槌にカタルシスが生まれる。また、正義の鉄槌そのものが多少行き過ぎていたり残虐だったりしても、相手はもっとヒドイ奴らなんだから、それでいいのだと自己正当化もできるから後味が悪くならない。

そうした意味で、本作の悪人どもは、変な表現だけれども、本当に素晴らしいと思う。薬物密売にとどまらず、児童の監禁虐待と搾取、臓器売買と悪事のフルコースだ。もちろん、臓器を抜き取られて殺された死体とか、抜き取られた目玉とか、ビジュアル的にもインパクトが強い。もちろん、そこで好みは別れるだろう。が、これらは結果的に「殺されても仕方のない悪党ども」であることを印象付けるのに強く効いているのは否定できまい。

また、この映画、そういう悪事の全貌や関係者の複雑な関係を、比較的に分かりやすく交通整理してみせているところがなかなか上手いと思う。全く役に立たない警察連中の存在は、そうした構造を分かりやすく説明するためだと思えば納得が行く。

もうひとつ、主人公と対になる無口だが凄腕の殺し屋を敵方に配置している設定が地味ながらしっかり効いている。こういうのもジャンルの定番であってさして珍しいわけではない。が、互いの実力を認めあい、プロとしての意地をかけ、対等な立場でラストバトルに突入という展開が盛り上がらないわけがないのだ。作り手はなかなか分かっているなあ、とニヤニヤ笑いながら楽しませてもらった。

もちろん、時折見ているこちらをびっくりさせるような規格外の傑作を送り出してくる韓国映画としては、とりたてて誉めそやす傑作の部類ではなくて、ありふれた商品としての娯楽映画ではある。が、娯楽映画として、ありふれた設定を効果的に組み合わせ、きちんと面白い映画に仕立て上げられる実力は侮れない。作品背景に、彼の国ならではを感じさせる要素がコンテクストとして入り込んでいるところも面白い。脚本・監督イ・ジョンボム。日本の、TV局が製作して垂れ流しているようなメインストリームの娯楽映画に、せめてこの程度のレベルを求めることは無理な話なのかね?

9/10/2011

探偵はBARにいる

探偵はBARにいる(☆☆★)

『相棒』・『ゴンゾウ』の古沢良太脚色、『相棒』・『臨場』の橋本一監督というテレ朝水曜枠で楽しませてくれている面々が手がける劇場用新作だというので、せっかくだからと思って東映東京撮影所のある大泉に足を運んだら、最大キャパシティのスクリーン1での上映。さすが東映製作・配給作品、気合が違う。この映画は、東直己の「ススキノ探偵シリーズ」を原作にしているんだそうだが、ごめん、読書家ではないので存在すら知らんかった。

札幌はススキノのバーを根城にしている腕利きとも思えないハードボイルド気取りの3枚目探偵に大泉洋、その相棒に松田龍平、主人公をかきまわすヒロインに小雪、その他、西田敏行、田口トモロヲ、高嶋政伸、竹下景子、石橋蓮司、などなどの出演。

まあ、昭和の感覚でいえば二本立ての1本っていう感じの商品だね。それはそれで悪くないと思うんだけど、するってーと本編の上映時間125分はちと長いんじゃないのかね。90~100分(TVの2時間枠で放送するドラマ相当)でまとまっていたら良かったのにな。

依頼人からの軽い仕事を引き受けたつもりの探偵が警告を受けるかのように半殺しの目にあったことから、頼まれてもいないのに真相を色々嗅ぎまわり、次第に過去の殺人にまつわる事件の全貌が明らかになっていくという筋立て。

映画を見ていて不思議に思ったのは、依頼人が主人公に依頼した幾つかの「仕事」そのものにあんまり必然性がないんじゃないかということ。映画を見る限りでは、依頼人にとって自明のことばかりで、探偵を使って「確認」する意味がないように思われる。

仮にそうだとすると、今度は、依頼人にとっては第三者を事件に巻き込み、真相を知ってもらうことに意義を感じていたという解釈も成り立つ。が、それならそれで、依頼人が探偵にろくに説明をするでもなく、思わせぶりに翻弄することの意味が無い。ま、もちろん、こういう話では、主人公を思わせぶりに翻弄する美女がいなけりゃはじまらないっちゃあ、はじまらない。ジャンル特有のお約束ということで納得するしかないかもね。

不思議といえば、主人公たちが、写真を引換に田口トモロヲから金をもらうシーンがあるんだが、あれはトモロヲからの依頼で写真とデータを誰かから取り戻したのだろうか。カネのため、生活のため、主人公自らこっそりああいう撮影して恐喝するようなダーティな仕事もしているという描写なんだろうか。いや、おそらく前者だとは思うんだけど、後者に見えなくもないんだよね。ここは誤解のない描き方をしないと、主人公のキャラクターに関わる問題だと思う。

大泉洋演じるキャラクターには全くそそられず。なんかうるさいし。無能だし。少しは腕っぷしがきくのかもしれないが、「探偵」としての有能さを感じられないんだよね。ただし、暴行・乱闘シーンにせよ、雪に埋められるシーンにせよ、体を張って演じているところには好感をもった。ススキノのローカル・ヒーローという設定からも、現時点で他の役者は考えにくいのはわかるので、他の誰かのほうが良かったとまでは云わない。役者はこれでいいから、このキャラクターについて、「やるときはやる、やればできる子」なのか、「意地と根性と人間味はあるけど、仕事については単にダメな子」なのか、はっきりさせたほうがいいだろう。

次から次へと妙ちきりんなキャラクターが登場するので、こういうのはレギュラー化して回を重ねたら面白くなる要素かと思う。パイロット版としては及第点、TVでもなんでもいいから続編を作って練りこんでいけばいいんじゃないのかな。あと、高島政伸がアラン・リックマンみたいに変装して悪役を演じていたのでびっくりした。この人、こういう役もやるんだね。

7/23/2011

From Up on Poppy Hill

コクリコ坂から(☆☆★)

少女漫画原作を自由に脚色し、1960年代初頭、横浜を舞台にした青春ものとして完成されたスタジオジブリの長編新作である。宮崎駿の企画、脚本(共同脚本:丹羽圭子)を、『ゲド戦記』ではさんざんミソをつけた宮崎吾朗が監督。まあ、こういう題材は、ジブリでもなければ大型の商業作品としては成立しない、という意味では価値のある1本といえるだろうか。

この映画を見てびっくりしたことは、カットの短さとポンポンすすんでいくテンポの速さである。どこかでプロデューサーや監督が述べていたが、諸般の事情もあって平均的な1カットの長さを短くしたらしい。それを情報として知っていたにもかかわらず、幕開けからちょっと面食らった。画面に描かれている情報を確認して咀嚼する前にカットが切り替わっている。でも、それがいいリズムになって、画面に溌剌とした若さが刻まれている。上映時間も91分に収まっており、この程度の内容に見合った尺の長さではなかろうか、と思う。

この作品では、父親を早くに失い、仕事で不在の母親に代わって下宿屋の仕事にも精を出す少女と、彼女が高校生活で出会った一学年上の青年との淡い恋愛感情がメインストーリーとして描かれている。惹かれるようになった二人が、実は、父親が同じ人物なのではないかとの疑念が持ち上がり戸惑いを覚える。若い2人のロマンスと並行して、高校の中で起こった古いクラブ棟の建て替え計画への反対運動の顛末が描かれていく。実に真っ直ぐな主人公ら高校生たちと、彼らを深い懐で受け止め、見守り、支援する大人たちの姿が印象的である。

「カルチェ・ラタン」と呼ばれるクラブ棟の建て替え反対を通じて、「過去を否定するのではなく受け継いで未来につなげていく」というテーマが示されているように見えるが、それだけではない何かを感じさせられる作品である。

脚本を書いた宮崎父の視線は、現代の若い観客よりも同年代、つまりは、映画の舞台となった時代に主人公らと同世代だったはずの人々に向いているのではないだろうか。そして、かつて自分らを見守り、自由にさせてくれた大人たちのように、今度は自分たちが若い世代を信じ、見守っていこうと云っているように見えなくもない。。原作の舞台を10年ほど前にずらした脚色をするからには、それ故の理由があるはずである。いわゆる団塊の世代の青春時代としたのには、そうした世代の観客のノスタルジーに訴えかけようという商業的な狙いのほかに、そうした、彼自身のそういった問題意識が反映されているように思えてならない。

ところで、その脚本を受け止める側の宮崎息子が父親と同様の解釈や意識を共有しているかというと、そうでもないのではないか。また、(いつも反則すれすれの)キャッチコピーがいうような、「(若い世代の観客に向けて、かつての若者のように)、上を向いて歩こう」というメッセージを発しているようにも全く感じられない。どこかで、父親世代のノスタルジーに付き合ってやっている、とでもいうような、登場人物たちをどこか客観的にながめているような冷めた視線すら感じられる。「それはまあ、いい時代だった、というんだけどさ。。。(いい気なもんだ)」と。

この映画は爽やかな青春物語、青春映画にはなっているが、作り手の中にある視点が一枚岩でないがゆえか、強いメッセージ性やインパクトには欠けるところがある。しかし、そればかりが映画、あるいはアニメーションの面白さとも違うのだから、だからダメ、というものでもない。

本作がアニメーションとして今ひとつ、と思う部分があるとすれば、高畑勲なり、最近では原恵一がやっているような、「日常芝居」をきっちりやりきれていないところだと思う。そして、その結果としてキャラクターたちが描かれている以上には立ち上がってこない。肉体を獲得してリアルな人間になっていない。作り手のどこか客観的な視点と相まって、キャラクターたちが平板で印象に薄い。

あるいは、ある部分ではリアル志向で見せているのに、「カルチェラタン」に巣食う一癖も二癖もある学生たちを、コミックタッチの類型的な戯画化でしか描けていないところも物足りないところだ。もしかしたら、こうした学生たちは、父親世代の時には周囲にいっぱいいたのだろうが、息子世代ではあまり縁がないのかもしれない。それゆえ、リアルな人間として想像できない。そして表現が限りなく類型化されたマンガになってしまうのではないか、と思ったりする。

時代色を出すための既成曲の使い方はどうとも思わなかったが、本作のために書き下ろされた劇中歌(谷山浩子作曲)はどれも面白く、作品に膨らみを与えていた。この時代の横浜の風景を再現した美術や背景も美しいし、声のキャスティングも適切だった。それもこれも含めて、一定水準はクリアした作品であるとは思うのだが、いずれにせよ、夏休みに大宣伝をかけて、多くのスクリーンを占拠して上映するような作品ではないんじゃないか。

P.S. 思ったが、宮崎吾朗は、いっそのこと、ミュージカルをやったらいいんじゃないか?

6/17/2011

Keibetsu (軽蔑)

軽蔑(☆☆)


悪いんだけど、鈴木杏の体は、セリフでも出てくるような「真剣に踊っている」ダンサーの体じゃない。彼女のことは『ジュヴナイル』の頃から好きだったし、いいものを持っている人だと思っている。それに、本作での苦労も、みればわかる。が、彼女が、あの体のままこの役を演じるなら、設定もセリフも何もかも変えるべきじゃないのか。

もちろん、なにからなにまで、本当に役にふさわしい役者をキャスティングするのは難しかったのだろうと想像する。それに、鈴木杏が、真剣に踊っているダンサーの体型を作るまでの時間を待つ贅沢がかなうような規模の作品でもないんだろう。結果として、なんだかよくわけのわからない「ごっこ」遊びのような本作ができあがるわけだ。当然、そこには物語の登場人物たちが抱えているような切実さも、行き止まり感も、痛みも、なにも、ない。だったら、そんなんでも敢えてこの映画を作る価値があったのか、と問いたい。女優脱がして、それを売り物にして客を集めようっていうだけのゲスな企画じゃねえか、こんなモン。え、この作品のタイトルの意味は、もしかして、そういうことなの?

歌舞伎町でチンピラ稼業をしている男が借金帳消しのために揉め事を起こし、互いに惚れあっていたダンサーを連れて故郷に逃げ帰る。実は不労所得を生活の糧とする旧家の跡取り息子、最初は真面目に働きはじめるものの、それをいつまでも続けられるものではない。地元の悪友たちもいる。昔の女と思しきのもいる。トップレスで踊っていた女なんぞ嫁にすること許さぬという実家や、周囲の蔑んだ視線に苦しむ女。男が作った地元のヤクザからの莫大な借金が、二人の行く末にさらなる影を落とす。

原作のことは知らない。だから、原作を読んでいれば頓珍漢に聞こえることもあると前置きはしておく。

映画は、少なくとも「軽蔑されるべき生き方しかできなかった二人」に同情したり感情移入したり出来るものにはなっていない。

男はくだらなさすぎるし、女がそんな男のどこに惚れるのかもわからない。例え、男女の仲は当人にしかわからないね、という描き方なんだとしても、この二人が、それなりにない知恵を絞って必死に生きて、ただただ巡り合わせが悪く、世間の風も冷たかったというのなら、まだ理解できる。しかし、映画を見ている限りではバカな人達がバカなことをやっているようにしか見えない。高良健吾演ずる男のことも、鈴木杏演ずる女のことも、好きになれない。そもそも、なんでそんなに男の郷里にこだわらなきゃならんのか。うまくいかないと思ったら、二人でどこか知らない土地に行けばいいじゃないか。全てから切り離されて2人だけになればいいじゃないか。もっといえば、大森南朋演ずる田舎ヤクザの借金なんか踏み倒して高飛びしちゃえばいいじゃないか。あほらし。

主人公の男の祖父の「妾」さんというポジションに甘んじて生きてきた、昭和の時代の残滓のような女性を緑魔子が演じているのだが、その独特の存在感が映画を全部持って行ってしまったような気がする。そうね、まあ、時代背景が昭和なら、もう少し映画に説得力が出たかもしれない。

5/28/2011

My Back Page

マイ・バック・ページ (☆☆☆)


映画評論などで知られる川本三郎の私小説的な原作の映画化で、1970年前後を舞台に、大物活動家気取りの学生が引き起こした朝霞自衛官殺害事件により、かねてより取材の過程でその学生との親交を深めていた新聞社の記者が追い込まれていった葛藤を描く。向井康介脚本、山下敦弘監督。

原作は読んでいないし、そこに描かれたはなしがどこまで事実に基づいているかなどということには興味はない。ただ、リアルタイムでその時代を知る由もない作り手たちによるこの映画を見て、この映画の中には何がしか、普遍的な物語を描くことに成功しているようには思う。その物語というのはこうだ。「それにふさわしい覚悟や実力も定かではないのに、とにかく何かしら事を起こして名を上げ、早くホンモノにならなければ周囲に取り残されてしまうと焦っている男達が、そんな焦りゆえに、引き返すことのできない場所、取り返しの付かない状況に追い込まれていく話」、だ。

もちろん、これは、「エリート気取りの世間知らずな青年が、同じく功名心に駆られた詐欺師的なクズ男に手玉に取られ、大局も見えないまま、青臭い理想にすがって身を持ち崩す話」、でもある。あとになって、「俺、なんで信じちゃったのかなぁ」と。

でも、「なんで信じちゃったのかなぁ」っていうのだけれど、ほら、結局、人間というものは、信じたいと思うことを信じるようにできている生き物なのだ。そして、その信じたいという気持を、そこにつけ込むようにして利用するやつらもいる。はたからみれば、松山ケンイチ演ずる人物の胡散臭さなぞ一目瞭然なんだ。だから、あんな演技、あんな演出じゃ、なんで周囲の人間が騙されるのかわからないっていう人もいるわけだけれど、じゃあ、例えば、「原発は安全、低コスト、CO2を排出しないから環境にも優しいし、原発なしには資源をもたないこの国は立ちゆかない」って、ほら、そんなデタラメの嘘っぱちを勝手に信じておいて、あとになって騙されたと怒っている連中のことはどうなのさ?と思ったりもするわけである。

人は、信じたいと思うものを信じるし、ある時点まで行くと引くに引けなくなって、さらなる泥沼につっこんでいくものだ。それに、詐欺師のたぐいってのは、人のそういう心理につけ込むものだ。

結局、自らの中にある弱さ、焦りが、信じたいと思うものを信じさせてしまったのだという事実を受け止め、良かれと思ってしたことが招いた結末に涙するしかない、そういうほろ苦さは、いまを生きる我々の誰もが共感できるものなのではないだろうか。映画の冒頭で描かれるウサギの死が、まわりまわって、イノセンスの終焉に涙するラストの主人公につながる。そのとき、この映画を観る我々観客もまた、主人公と同じ問いを自らに問わねばなるまい。このシーンの妻夫木聡はいい。最高にいい。『悪人』を経た成長を見せてくれた。

一方の松山ケンイチも頑張った。あの演技を少し過剰だと、周りの人間が何故あんな人間についていくのかわからなくなってしまうという意見も聞くが、それをいうなら、何故未だに「オレオレ詐欺」の類にダマされる人間がいるのかわからない、というのと同じことだ。周りの人間だって彼が本物だと、彼についていくことで自分もまた何者かになれるのだと、信じたかったのさ。松山ケンイチの演技は、この人物をただの得体のしれない詐欺師的クズに見せるのではなく、この人物のなかにある焦燥感や功名心、未熟な思い込みや、おそらく自身で気づいている自分の実力や限界と、それ故の哀しみ、それ故の小物っぷりみたいなものも感じさせてくれた。

この二人に限らず、共演のキャストがみな良い仕事をしている。先輩記者、京大の活動家、ワンポイントで出演している大物。みんないい。

映画の前半、複数人数が部屋で話している場面でのフレーミングや切り替えしのカット割りが少々不自然で気持ち悪いなぁ、と思ってみていたが、映画全体では全景をワンフレームに収めてのだらだらした長回しがやたらに多く、イライラさせられた。ちょっと気取り過ぎ。尺も長い。脚本段階で、何を描き、何を描かないか、すなわち本作のテーマが何なのかについて整理がついていないまま漫然と撮って、編集で何とか見られる状態に仕上げていったんじゃないかと邪推もする。なんだか脚本家・監督のコンビがホンモノかどうか、もう少し見てから判断したって遅くないかとは思った。

4/16/2011

Cannonball Wedlock (婚前特急)

婚前特急 (☆☆★)


一癖もふた癖ある男女がひと悶着起こしたりいがみ合ったりしながら、気がついてみたら互いに惹かれあっていく、という類の映画はハリウッドの大定番であって、当方も昔から好物にしているものだから、和製スクリューボール・コメディだという本作の評判を聞きつけて、とりあえず観る気をそそられた。

同時に5人の彼氏をとっかえひっかえしながらお気楽に恋愛を楽しんでいる主人公が、友人の結婚を機に彼氏の査定と整理をしようとして始まるお話しである。普通のスクリューボール・コメディだと、観客にとってカップルになる主演の男女は自明なのだが、、映画が始まった時点では、(実際のところ、映画がある程度進んでいくまでは)主演女優と対になる相手が誰なのか、明確に示されない点で、変化球である。しかし、スクリューボールの変化球、というのも馬から落ちて落馬したみたいな話だな。

で、その変化球の部分が本作の面白いところではある、と思う。なにせ、「相手役」ってのが、通常のロマンティック・コメディでは絶対に相手役にならないようなキャラクターなので、本当にそういう方向に話が転がっていくのかどうか、懐疑的になりながら観るというのもスリリングだし、それがもたらす「すっとぼけ」な感じも本作の面白いところだ。

でも、ちょっとテンポがのろいんだなぁ。それに、話の帰結には唐突感がある。「イヤな」ヒロインの表面には見えていなかった魅力や、そういう「イヤ」な行動をとってしまう理由なんかも踏まえながら、「人間」としての成長が描けていたら違っていただろう。相手の男もそうだ。いろいろ揺れる複雑な気持ちみたいな部分がそっくり欠如しているので、なんで突然ヒロインになびくのか、さっぱり理解できない。

こういう展開なら、ヒロインはハートブレイクなままで終わったほうが自然だ。つまり、いやな女なんだから、その代償は払うべきである。男はお嬢さんに惚れたまま結ばれてハッピーエンド、にするほうが自然だ。その上で、ヒロインの気持ちを察したお嬢さんは自分に夢中で周りの見えていない男を諭してヒロインを慰めにいかせ、ヒロインは自分の非を認めて新たな出人生に向かい合っていく、、というエンディングになるんじゃないのだろうか。

評判では吉高由里子がいいっていうのだけれど、正直、それはちょっとどうなんだろうか。演技が硬いし、鼻にかかったい歩本調子の声も魅力がない。フィジカルに良い動きを見せているシーンもあるから、コメディエンヌとしての将来性までは否定しないけれど、本作レベルで褒め倒すのは違うだろう。本作の脚本が描ききれていない、「イヤ」な女の裏側にある本当の魅力を演技でカバーして見せろっていうのも荷が重いのだとは思うが、それができちゃうのがスターってもんだろう。なんか、小動物がくるくる動いてるから可愛い、っていうレベルではちょっとなぁ。

一方、浜野謙太はすごい。何だ、この存在感と自然体は。和製ザック・ガリフィアナキスになれるんじゃないのか?衝撃的に面白いのだが、ミュージシャンが本業っていうからまたびっくりだ。

3/04/2011

Doraemon (2011)

ドラえもん 新・のび太の鉄人兵団 はばたけ天使たち(☆☆★)


なんだろう、この違和感は。

いや、無論、声優や絵柄のことなんかじゃないよ。私は、「大山」ドラを懐かしみ、今のシリーズを頭ごなしに否定する立場、じゃない。原作が好き、藤子Fの作品が好き、そして映画(一般)が好き、それだけのことなんだが。

藤子F氏が存命中の作品は、「思いがけず感動させられる」作品であった、とは思う。が、それを当たり前のように受け止めてきた世代が作り手に回るようになったからなのか、昨今のドラえもん映画は、「泣かせる」こと、「感動させる」ことが前面に出過ぎていて、そこが気持ち悪くて仕方がない。結果として感動してもらえる作品なのではなく、感動させることを目的とした、ある種の本末転倒がそこにあるように思うのである。これは、この風潮は、誰がなんと言おうと、断固否定する立場に立ちたい。

で、ここからの話は、そういう前提にたってのことだとして読んでいただきたい。今年の作品固有の問題かというと、そうでないような気もするのだが、それはさておくとしよう。

本作は、わりと丁寧に、そして良心的に作られた作品といってもよいだろう。そこまで否定するつもりはないが、どうも、釈然としない。これは、説明過多、感情過多で、しかも子供に媚びすぎではないのか。また、これも重要な問題だと思うのだが、原作・大長編シリーズの中でも、特に本作に固有の面白さが分かっていないのではないか。

ご存知のとおり、本作は、人気作『のび太の鉄人兵団』のリメイク(というか、2度目の映画化)である。表面的に一番大きな改変ポイントは、土木作業用ロボットの「頭脳」を、子供っぽく擬人化されたヒヨコ形状のマスコット・キャラクターとして描いたことである。

原作・前作ではこの「頭脳」に対し、ドリルを使った人格改造ともとれる表現があったのを覚えているだろうか。それは乱暴だと、腕力より話し合いで解決という方向に変えたいという発想は良し。「頭脳」は改造してよくても、ゲストキャラクターであるリルルにはそれをしない、という、ダブル・スタンダードといえる状態だったのも気になってのことだろう。

が。しかし。「人格改造」がダメで、同意を得ないまま外見を自分たちにとって<親しみやすい>ものへと外科的に整形手術をするのが許容されるという価値観はなんなのだろう。一体全体、そういう「思想」は、どこからくるものなのか。中身も気に入らないが、まず見た目を「可愛らしく」変えてしまえというやり口がどれほど乱暴で、差別的であることか。そのことに何故、誰も気がつかず、異論を唱えなかったのか。まずこの時点で、私は寒気がするほどの薄気味悪さを感じ、本作に対する印象が決定的に悪くなった。

もし、上記に上げた人格改造やダブル・スタンダードの問題だけであれば、こんな手もある。例えば、「地球侵略のために偏った価値観をプログラムされていた(本来無害な)単純作業用の人工知能を、マインド・コントロールから解放する」くらいの表現にするとか。

いや、それでは駄目な理由があったのだと思う。この気持ち悪い整形ヒヨコを出したのは、単純に上記のような理由だけではなかったはずなのだ。

このマスコット・キャラクターは、そういう表層的な矛盾解決のためだけに登場させられたわけではない。そうではなくて、のび太や静香たちとの交流によって変化する敵の先兵・リルルの心境の変化を、誰にでも分かりやすく言葉で語って見せ、なおかつ、あざとく観客の涙を絞るために用意されたものなのだ。そのために、この作業ロボットの「頭脳」が、本国では被差別種であったこと、リルルとの交流や絆というバックストーリーまで用意しているあたり、必死だなぁ、と思うのである。

しかし、原作(あるいは前作)は、そうまでしなければ説明不足だっただろうか。感動不足だったのか。そんなことはあるまい。そうしなければ(原題の観客には、あるいは子供の観客には)伝わらないと観客の知性をナめてかかっているのである。そうしなければ感動できないと思い込んでいるだけのことではないだろうか。

これは、「泣ける」を売り物にする陳腐なTVドラマや安っぽい邦画と同じビョーキだ。その病に、この作品も侵されている。

それに、あの女子供ウけを狙った整形ヒヨコの舌っ足らずな子供っぽさはなんなのか。もちろん、その造形そのものが藤子Fらしくないとまではいわない。「チンプイ」あたりに登場したマール星人のように見えなくもないデザインだからね。しかしボーリング球としか思えない丸い玉がぴょこぴょこ飛び跳ねてオヤジ声で恐ろしい計画を語り、悪態をつくというシュールさが藤子Fの真骨頂だとしたら、ピッポとかいう名をつけられたこのキャラクターはいかにも子供に媚びているだけで気持ち悪いったらありゃしない。

あるいは、「媚び」ではないのかもしれない。もしかしたら、「ボーリング球」を動かして感情表現をしてみせ、なおかつ観客の感情移入を誘うのは難しい、ということなのかもしれない。でも、だとしたら、それこそアニメーション的には腕の見せ所のはずで、それをやってのけることができないと、逃げたと謗られても致し方ないのではないか。

申し訳ないが、これでもまだ貶し足りない。

この物語は異星人による侵略SFであり、価値観の異なる2つの世界の戦争(War of the Worlds)、しかも地球側にとって、主人公らにとって絶望的に不利な闘い、である。それを勇気や知恵、SF的な工夫によって乗り越えていく。今回のリメイクは、 そういう物語であることからくる恐怖感や絶望感、孤独や不安といった感情や、スリル、サスペンスといった要素が全く欠落しており、その点では完全な失敗作である。

冒頭、敵国「メカトピア」が地球を侵略しようとしていることが明示され、更に、ゲストキャラクターであるリルルもそこで登場させている。それが、そもそも「わかって」いない。巨大なロボットなり、リルルといったキャラクターの正体、目的が伏せられていることから生じる不安感やサスペンスが面白いのではないのか。ロボットに搭載された兵器の破壊力に気づいたとき、その目的がリルルの口から明かされたときの「のび太」(と読者)の衝撃。それをむざむざ手放すなど、愚の骨頂。

圧倒的に不利な状況で鏡面世界に敵の兵団を誘いこむ作戦を立て、実行に移すプロセスを精緻に描かないのは何故なのか。金属探知する防衛線を張り、無人の街をパトロールする緊張感あふれるシーンはどこに消えたのか。襲われた静香を危ういところでのび太が救うという名シーンは、異変を察知して静香の家に向かうのび太たちを見せてしまったら台無しだということに何故気付かないのか。

感動を売り物にするまえにやるべきことがたくさんあるはずである。そのなかのひとつは、映画好きでSF好きだった原作者が毎回意匠を凝らして作り出した、ついつい大人も夢中になってしまうようなストーリーを、その基本に忠実に語ることであるはずだ。

ただただ観客の涙を絞りたいなら、「鉄人兵団」である必要はないし、もっといえば、ドラえもんである必要すら、ない。本作は、仕切りなおした新シリーズのなかでは、(また、4本目となるリメイク映画のなかでは、)「恐竜」と並び出来がよい方だとは思うが、いや、見せて欲しいのはこんなんじゃないんだ。正直言って心底がっかりした。悲しい。

12/30/2010

Aibou the Movie II

相棒 劇場版II 警視庁占拠!特命係の一番長い夜(☆☆☆)

事件があり、解決したかのように思われたが、その事件には裏があり、事件を利用した組織間闘争がはじまる。杉下右京と神戸尊のコンビが真相に迫る。TVシリーズ継続中の2本目の劇場版は、イベント的、お祭り騒ぎ的だった前作とはガラリと趣を変え、シリーズを特徴付ける組織・権力を敵に回しての闘いを主軸に、警察庁・警視庁の確執を絡めた、ある種、本流に位置づけられるべき内容である。

もちろん、映画好きからは批判の対象になりがちな「TVドラマの映画化作品」ではあるが、本作の印象はそうした類の作品とは少し異なる。そもそも『相棒』という作品自体が、「映画屋の作るTVドラマ」である、というのがその理由でもあるだろう。本作には、存在を許したくない薄っぺらさはない。そして、職人が作る安定したプログラム・ピクチャーとしての面白さがある。

が、誉め過ぎも禁物だろう。なんでも台詞や回想シーンで丁寧に語らずにはおられない説明臭さはお茶の間的であって映画的でないし、金がかかったのであろう船舶の爆破シーンを何度も繰り返し見せてしまうような安っぽさには苦笑する。シリーズの一編としてはいつものとおり楽しませてもらった。が、単独の映画としてはまあまあ、といったところが公平なところであろう。

売れ線の若いタレント俳優たちではなく、ベテラン俳優たちがズラリと揃う画面の地味ながら渋い重みがいい。警視庁幹部監禁占拠の裏にある事件が、シリーズではおなじみの脚本家の一人、古沢良太脚本のNHKドラマ『外事警察』を想起させるものであること、俳優の顔ぶれを見ていると概ね着地点が想像できてしまうのは弱みだが、盛り沢山な要素にメロドラマを絡め、それなりの見応えがある。

杉下右京と神戸尊の、普通のバディものがやる「頭脳派と行動派」といったような定番の組み合わせとは少々毛色の異なる珍しいタイプのコンビも板についてきたところで、もっと俯瞰的な視点での「相棒」といえる重要キャラクターに退場いただくという決断はシリーズとしてはチャレンジングだが、その(物語内での)処理は少し無理矢理感があったのではないか。

12/21/2010

Norwegian Wood

ノルウェイの森(☆☆★)

おそらく、本作にわりと否定的な世間の雰囲気を思えば、当方、そこそこ楽しませてもらったほうなんだと自覚しているのだが、それでも、わからないのだ。この映画を今、敢えてこの時代に作ることの意味が。出来上がった作品はある部分興味深く、ある部分退屈な凡作だと思っている。が、この映画を作ろうという企画意図は、映画を見終わった今、余計に分からなくなってしまった。まあ、それはさておくとしよう。

しかし、ゴージャスなルックの映画である。舞台にしている時代の雰囲気を醸し出そうと細かいところにお金がかかっている。そこらへんの邦画にはない感じ、というのは、もちろん異邦人である監督や撮影監督の感性や技術だったりによるところが一番大きい。ご存知のとおり、本作の監督はパリ在住のベトナム系、トラン・アン・ユンで、撮影監督は『夏至』で監督と組み、最近では『空気人形』でも素晴らしい仕事を見せてくれたリー・ピンビンだ。しかし、それと同時に、美術やセット、衣装などに対して贅沢に、使われるべきお金がしかるべく使われた結果でもあるのだろうと想像する。

いや、もしかしたら、小説で記述されたリアルな話し言葉としてはいささか不自然に聞こえないでもない台詞が、役者の口からそのまま語られることの異化効果とでもいうべきものが、案外効いているのかもしれない、と思ったりもする。この映画が放つ、何か作られたものであるという感じ、人工的な雰囲気は大変に特徴的なものだが、原作を尊重した結果なのかどうか、そういうスカした書き言葉を話し言葉として使う効果に自覚的であったかどうかは全く分からないけれども、ここにある何か普通ではない世界は、そうした様々な要素を積み重ねた結果、獲得したものであるのは間違いあるまい。

一応紹介すると、お話しは単純。学園紛争で騒然とする時代。自殺した親友の幼なじみであり恋人だった女性と関係を持ったあまり主体性の感じられない主人公が、精神を病んで療養所に入ったその女性への思いを断ち切るわけでもなく、キャンパスで出会った別の女性にも惹かれ、曖昧に関係を続けるうちに悲劇が起こる、という感じ。違う?えー、まあ、原作未読なのでご勘弁を。

原作や原作者に強い思い入れのある立場だと、本作のキャスティングには色々言いたいことも出てくるようだが、そうではない当方としては悪くないんじゃないの、と思う。キャストは皆、熱演をしているようにも見えるし、演技らしい演技をさせてもらえていないようにも見える。主人公を演ずる松山ケンイチの、どっちつかずで低体温な感じはすごく良いし、ほとんど演技経験のない水原希子なんか、たぶん一生懸命頑張っているに違いない演技はそんなに上手くないのだが、その雰囲気と存在感は映画の重要な構成要素になり得ているというあたりが面白いものだと思う。

12/01/2010

Space Battleship Yamato (2010)

Space Battleship ヤマト(☆☆)

私はかろうじて、「宇宙戦艦ヤマト」をリアルタイムで楽しんだ世代に属している。当時、次々作られたシリーズ作品にあれこれと文句をつけながらも広い心でそれなりに楽しんできたし、とうの昔に醒めたとはいえ、「私の心ははるかにファンに近い」。(そうでなけりゃわざわざ復活篇まで観に行ったりするもんか。)

だから、あの「ヤマト」が実写で再現されているという事実、あの耳に馴染んだ旋律、あの名場面・名台詞がそこにあるというだけで、無条件に心揺さぶられるものがあったりする。それは、もう、映画の出来栄え云々を超越した次元の話である。白状すれば、あのどうしようもない復活篇ですら感慨深いものが込みあげてきて胸が熱くなる瞬間があったのだから、これはもう理屈ではない。刷り込みといってもいいだろう。

しかし、本作が「国産SF大作」なんかではなく、良くも悪くも「ヤマト」映画でしかないことには苦笑してしまった。なんだかんだいわれているが、今回の脚本はいくつかのポイントはちゃんと押さえている。ここまで「ヤマト」なら、例えばアニメの完全コピーを目指した『スピードレーサー』(←マッハGoGoGo)路線でもよかったのに、中途半端にちゃんとSF大作ぶってしまうからギャップが少々恥ずかしい。山崎監督もファンであるはずの『ギャラクティカ(2004-2009)』の剽窃的引用がやたら目立つのだが、結果として、「秋葉原の片隅で売られている聞いたこともない中国メーカーが作ったろくに動きもしないiPad もどき」とか、「中国のどこかの遊園地が建てちゃったオレンジ色のガンダム」の類のような居心地の悪さを感じないわけにはいかない。

いや、これは居心地の悪さで済ませられない話で、オマージュと剽窃のあいだにある一線とは何かについて論じるべき問題なのだろう。そして、「ヤマト」という作品(自体も回を重ねるに連れてグダグダになっていったのは事実としても、それ)が切り開いた地平、歴史的な意義に対して敬意を持つものであれば大いに怒り、悲しむべきことなのであろう。

とはいえ、もとネタが"悪い意味"であの「ヤマト」だし、どうせろくなものになりゃしないとは思っていた。もっと酷いものを予期していた。もっといえば、国産SF映画に何も期待できないという諦めの境地が出発点である。期待値が低かった分だけ、口でいうほどには落胆していなかったりもする。

結局、CGIの登場によって、技術的な彼我の差が小さくなったことが一番効いているのだろう。米国産の大作とは比べようもないほどケチな予算しかなくても、『さよならジュピター』(1984)のせいで宇宙SFものの系譜やノウハウが25年間途絶えていても、そこそこ見られる画が作れるというのにはちょっと感心する。

そうしてみると、本作がだめなのは技術ではなく、センスだ。艦内の美術やセット、衣装、小道具の(もちろん予算もなかったんだろうが)醸し出す恐るべき安っぽさ。SFマインドの欠如した今時びっくりするような描写や演出。脚本の矛盾や説明不足。あと、それと並んでダメなのは、脇のほうにいる役者たち。役者の層の薄さが露呈しているんだろうか。主演・助演クラスは演技のトーンがバラバラだとはいえ、まだ観ていられるのだけれど、脇になればなるほど酷く、これぞ学芸会並というやつだろう。効果音や音楽が途切れる艦内での小芝居は、セットが学食並であることも手伝って見ているのも恥ずかしいレベルである。

ちなみに、わりと濃いファン層からは、オリジナルから大胆に改変された脚色が許せないという声が強いようである。が、まともな映画脚本としての完成度はさておくとして、第1作と「さらば」を中心に、それ以降の作品の要素やネタを細かく持ち込んで再構成された脚本は、ああ、これは「ヤマトファン」の仕事だなとわかるし、足りないことはいっぱいあるけれども、ある意味、よく頑張ったといえなくもない。(まあ、ファンと言っても色々あって、どうもこの作り手たちは主要キャラクターを次々に殺し、挙句、特攻を美化して感動を安売りした、あの忌まわしき「ヤマト」を受け入れられるタイプのファンなんだろうけどね。)

どう転んでも勝ち目のない戦いを引き受けた監督以下の気概や、決して恵まれていたとも思えない製作環境で、それなりの商品にまとめあげた努力は評価したい。ある世代であれば誰もが夢見たであろう『宇宙戦艦ヤマト』の実写映画化は、同時に、誰が考えてもうまくいきそうにない企画でもあったはずなのだから。

10/02/2010

13 Assassins

13人の刺客(☆☆☆)

往年の東映映画のリメイクが、ジェレミー・トーマス製作・三池崇史監督の東宝映画(配給だけど)ってんだから、なんだか支離滅裂。随分と構えの大きな作品であり、もちろんお金もかかっているようだ。それゆえか、いつになく作り手の意気込みや本気度が画面の隅々に漲り、特に映画前半にはある種の風格すら漂っているのだが、一方で、監督らしい手癖というか、見せなくてもいいグロ、やらなくてもいいエロで、幾分映画が安っぽくなっている部分もある。まあ、それも個性のうちだといえばそうなんだけどさ。いずれにせよ、これだけ大掛かりで複雑な作品を作り上げることの苦労を思うと、拍手を進呈したいと思う。

江戸時代末期を舞台に、残虐な暴君を放置できぬと、密命を受けた男たちが計略を図って暗殺を試みる。手勢は13人に相手は200人。参勤交代の帰国途上、宿場町を借りきって決戦の火蓋は切って落とされる。役所広司、山田孝之、松方弘樹、沢村一樹、古田新太、伊原剛志、伊勢谷友介、六角精児、市村正親、松本幸四郎、内野聖陽、稲垣吾郎、岸部一徳、吹石一恵のオールスター・キャスト。

強大な絶対悪を倒すミッション遂行ものを基本とした娯楽活劇で、売り物は延々と続くクライマックスの集団戦闘シーン。だが、映画の内容は意外や風刺的、批評的である。リメイク時代劇であるが、見せかけではなく内容の面でとても現代的である。

稲垣吾郎演ずる暴君は、「平和な時代に生きる実感を感じられない」と嘆き、他人への想像力もなく自己中心的で残酷な行動をとる男である。もっともらしい理屈をこねはするが、それで何もかもを正当化できるわけもない。これをある種の現代(日本)人と、時折引き起こされるむごたらしい事件がオーバーラップしてくるのは意図的なことだろう。トップアイドル・グループのメンバーらしからぬ嫌われ役を演じた稲垣吾郎の損得勘定は微妙なところだが、このキャスティングはいいアイディアだった。

また、その暴君を守る側に立つ者たちの描写が面白い。「システムを守り、自らの職務・役割を全うする」とか、「自分の稼ぎや生活を守る」という一見もっともな理由で思考停止に陥り、悪しきものを温存し、先送りし、増長させる組織人だったり、役人だったりの象徴であるからだ。組織の中で無能な神輿を担具ことに対する美学もあるのかもしれないが、それを言い訳にした保身でもある。敵側のリーダーを演じる市村正親が、美学と保身と個人の誇りのあいだで自らに与えられた役割に忠実な男を説得力を持って演じている。

主人公らとて、大義のためには自らの命も投げうつし、無関係の多くの命が失われても已む無しとする暴力的な体制破壊者、テロリストである。また、彼らも平和な時代に「死に場所」を求めているわけで、「大義」を与えられればほいほい乗って行く危うさもある。まあ、さすがに娯楽活劇であるから、主人公らの行動を否定的に描いたりはしない。むしろヒロイックに描かれており、盛り上がるべきところできっちり盛り上がる。が、結局のところ、あとに残るのは死屍累々の虚しさだけである。

ほとんどが農民の末裔のくせに、サムライなんとかとやたら「武士」を美化する昨今の風潮は滑稽であるが、その「武士」なんてものは面倒くさくて、馬鹿らしくて、実にくだらねぇと、サムライをダシにした大チャンバラ娯楽活劇をやりながら唾を吐いてみせもする。これは、そういう映画なのだろう。しかも、血みどろで、泥まみれで、格好良さとは無縁の「戦場」の描写や残虐描写がしかし、この映画の売り物でもあるという自己矛盾にも自覚的なのである。

Villain

悪人(☆☆☆★)

『フラガール』で名を上げた李相日監督の東宝映画である。オーソドックスで誠実に作られたいい作品である。もう少しエッジの立った新しさを求めたくもなるが、ないものねだりかもしれない。だって、『フラガール』・・・も、そういう映画だったし。ただ、前作で蒼井優、松雪泰子が輝いたように、本作で深津絵里、妻夫木聡に実力相応の仕事をさせた手腕については今後も期待したい。

福岡で保険外交員の女性が殺害される。事件当夜に女性を車に乗せて現場に置き去りにした学生の犯行が疑われるが、真犯人は、被害者と出会い系で知り合った長崎の解体工だった。事件後、犯人は同じく出会い系で知り合った佐賀の紳士服チェーン店員の女性と親密な関係となり、共に逃避行を続けることになる。その間、犯人の家族はマスコミに追われ、被害者の家族は抑えきれない怒りと喪失感に苛まされるのだ。

妻夫木聡が演じる「犯人」は、環境・境遇の産物としての悲しい犯罪者である。また、彼に共感し、自首を遮って逃避行に誘う深津絵里演じる女もまた、行き場所のない地方都市で深い孤独を抱えて生きてきた。映画は小説のような描き込みをすることができないかもしれないが、妻夫木、深津、この2人の好演は、その行間を埋めて余りある(妻夫木が山田孝之に見えてくるってのは、ある意味スゴイ)。「暇つぶしで出会い系を使う人が多いのかもしれない、でも本気だった、本気で誰かと出会いたかった」という女。お金でも払わなければ自分のような男と会ってくれる女なんていないと思っていた男。「もう少し早く出会っていたかった」と嘆いてみても、もう遅い。

まあ、映画としては2人の気持ちが通い、逃避行に至るまでが見所であって、そのあとは推進力が失われてしまう。が、素直に白状すれば2人の人生が残酷にも交差する瞬間を誠実に切り取って見せてくれたところに感動したので、それだけで満足しているところがある。2人の孤独な心が通い合う過程に説得力があったし、2人のキャラクターに対して同情というのではなく、立場や境遇こそ違え強い共感を感じられた。原作と比べて説明が足らんとか唐突とかいう観客もいるみたいだが、映画だけ見て十二分に分かるよ、これ。(当方、原作未読だし。)

殺人事件の被害者である保険外交員の女性の、殺されてしかるべきとまでは言わないまでも、ムカつく行動原理や「犯人」に対する侮蔑的な言動も、「現実にいるよね、こういう女」という枠を踏み外して戯画的になる寸前の範囲で踏みとどまり、よく描けていた。満島ひかりは巧いな。享楽的で自己中心的なチャラい学生も、描き方は表層的だが、演技のニュアンスが加わってそれなりの人間味もでていた。舞台となる地方の、東京や都市部とは違った空気もよく映し出さfれていた。

一方、この映画で残念だと思うのは、被害者の父親を演じる榎本明と、犯人の祖母を演じる樹木希林がそのキャスティングも含めて類型的に過ぎ、新鮮味を感じられないことがひとつ。いや、二人とも上手い俳優さんなんだけど、いまや使い古されすぎてコントになっちゃってるレベルじゃないのか。

もうひとつは、毎度毎度ワンパターンの回想だ。経緯を説明する場面になると、「事実これこれでした」と全部(客観)映像にして見せてしまうこと。これは、映画から緊張感を奪っているだろう。特に、犯人の告白については、「本人はこう語っている、聞き手はそう想像したみたいだけど、実際のところどうだったのか?」と観客に疑念を挟む余地を残すことはできなかったものだろうか。

あと、久石譲の音楽が、その使い方ともども凡庸。これは映画の格を下げていると思う。まあ、一時期の大林、初期の北野などの例外を除けば、実写映画での彼の仕事って、あんまりピンとこないことが多いんだけど。

しかしねー。与えられた環境の中で真面目に暮らしている人々の人生が、ちょっとしたきっかけで大きく狂っていく。親と子、人と人の絆であったり、それが希薄な現代社会に生きる孤独であったり、地方の疲弊や退廃であったり、現代風俗の軽薄さであったり、、、というドラマをオーソドックスにやるなら、東宝映画じゃなくて松竹・看板の山田洋次でいいんじゃないか、と思うわけで。(いや、山田洋次の現代劇は、それこそ彼の観念の中にしか存在しない「庶民」なんてのが出てくるからあんまり好きじゃないのだが、でも、彼だったらこの題材をどう料理するかに興味があるんだけどね。)もうちょっと冒険してもいいんじゃないか、この映画。

8/21/2010

Colorful

カラフル(☆☆☆☆)

これは、あれだ。『素晴らしき哉、人生!』の変種だね。

死者の魂がこの世に戻って、とか、他人の体を借りて、とかは使い古されたパターンではあるけれど、この作品はそっちの系統に似ているように見えて、ちょっとだけ力点の置かれた場所が違う。もう少し、『素晴らしき哉、人生!』的、だ。

「クレヨンしんちゃん」もので名を上げたベテラン原恵一の、『河童のクゥと夏休み』以来となる新作である。重大な過ちを犯した「死者の魂」が、半年間の「修行」と称し、自殺直後の中学生の体に入って人生を生き直すチャンスを与えられるという話である。受験を控えた中学3年生、その家族たち、クラスメイトたち、そしてうんざりするようなごく普通の毎日。わけも分からないまま、どのように振舞えば良いかも分からないまま、日常生活のなかに放り出された主人公の魂が、周囲の人々との関わりを築きながら生きていることの喜びに目覚めていく。

冒頭、いきなり死後の世界で関西弁をしゃべる少年に出会い、この世に送り返されるところで物語は幕を開ける。その意味では「ファンタジー」というべきジャンルなのであるが、スーパーリアルに再現される世田谷区、二子玉川界隈の風景によって、現実の世界のすぐとなりであることを強く意識させられるようになっている。ことさら派手なイベントや展開のない日常生活を舞台に、日常生活を生きる物語。それを丁寧に描くという難行、苦行への挑戦といってもいいだろう。

家族と囲む食卓がクライマックスだといったら、驚くだろうか。そのシーンでのちょっとした箸の上げ下ろしまでがドラマである、といったらどうだろう。映画の中に挿入された一番のイベントが、路面電車の跡地めぐり(映画のオリジナル)だったり、援助交際の後輩の腕をつかんで街を走り抜けるシーンだったり。また、作品を象徴するのが、コンビニで買った肉まんを、ゴミ箱の横にしゃがみ込んで友人と分け合う何気ない場面だったりするというのはどうだろうか。

自殺未遂あがりの生徒に気を回しすぎる教師の姿、不倫を詰られた母親の動揺や後悔、メガネ女子の挙動不審な様子やセリフ回し。気を使った母親が手作りする普段着だけど美味しそうな家庭料理。思い返してみても、この映画にはごくありふれた、しかし、とても魅力的な瞬間が溢れている。実写であれば過激だったり生々しかったりすることも、とりたてて代わり映えのしない学校生活も、全てが等価に、丁寧に描かれていく。日々を生きる喜びや悲しみ、希望や不安、人と人のつながりや互いを思う気持ちが、そういう描写の積み重ねの中で主人公の心のなかに満たされていく。

丁度、直前に高畑勲の『赤毛のアン』を見ていたせいだと思うが、確かに昨今の主流というわけではないにしろ、こういう日常を描く芝居、日常的な風景や動作、所作をきっちり描いて魅せるのは、高畑勲あたりから聯綿と続く、日本のアニメの良き伝統なのだろうと思った。その系譜の、一番新しいところに名前を連ねたのが本作だと理解した。ファンタジー要素であるところの、関西弁少年と主人公のやりとりは(ふたりとも声が高いトーンであるのもあって)耳障りだし、台詞のやりとりにしてもあまりよい絡みになっていないと思うが、そんなものは小さな傷に過ぎない。一見して地味で難しい題材に挑んで、原作とも違う、アニメーション映画として初めて表現できる世界を作り上げたこの傑作。それが劇場にかかっているあいだに、できるだけ多くの観客の目に触れることを祈っている。

7/17/2010

The Secret World of Arrietty

借りぐらしのアリエッティ(☆☆☆)


さて、改めて説明するまでもあるまい、スタジオ・ジブリ製作の新作長編アニメーション映画である。今回、三鷹の森ジブリ美術館で上映された短編『めいとこねこバス』の演出を手がけた経験のあるアニメーター米林宏昌が監督に抜擢されたのが話題の一つである。

本作は英国のファンタジー小説(メアリー・ノートン『床下の小人たち』)を原作としているが、舞台を都下、小金井に移して脚色(宮崎駿、丹羽圭子)。御存知の通り、小金井といえば、現在のスタジオジブリの所在地である。冒頭に出てくる川辺の道は、野川のほとりの風景そのものだ。また、舞台となる庭や屋敷は青森の盛美園がモデルだそうなのだが、古い洋館のそこここに「江戸東京たてもの園」(小金井公園内)で見ることのできるお屋敷などの佇まいも透けて見える。

時代設定は現代ということになっているようだが、全体としては「少し前」の印象を受ける。それは、舞台となる洋館に住んでいるのは年をとった女主と家政婦だけで、周囲を広い庭と森に囲まれて、時間が止まった間があるからだろう。女主ののるメルセデスはかなり古いモデルだし、病弱な少年も、ベッドで本を読むのだが、ノートパソコンをネットにつないだりするわけではない。現代といいつつ、今という時代を感じさせるアイテムが画面にしゃしゃり出てくることはない。まあ、御伽噺なのだから、それでいいという考え方がひとつ。あるいは、小人たちにとって(翻って人間にとっても)生きづらい時代であることを印象付けるなら、またもう少し違った描き方もあっただろう。

物語は、屋敷の床下に住む小人一族の娘がたびたび外に出かけるうちに人間に見つかってしまい、新たな棲みかを探す旅にでることを余儀なくされるまでを、滅び行く種族である小人の少女と病弱な少年の出会いと別れを通じて描くものである。原作にある様々なエピソードを削り落とし、エッセンスをコンパクトにまとめているところに好感が持てる。

アニメーションとしてはさすがに丁寧で贅沢な作りである。特に、前半で小人らが「借り(=狩り)」をするシーンはアドベンチャー映画的で魅せる。キャラクターの魅力も十分に出ているし、水彩がかった美術の美しさも素晴らしい。突如起用された仏人セシル・コルベルが書き下ろした音楽がいい。本人がハープを使って演奏し、歌もつけるこの音楽、原作の舞台に通じるケルト風味なのである。音楽の出来栄えで作品の格がひとつ上がっているんじゃないか、と思えるほどに、この起用、大成功だったと思う。

全体として、小粒ではあり、少女趣味というか、女の子ターゲットの作品である。そのことが好き嫌いを分けるだろうが、まずまずの良作に仕上がっていると思う。場面によって小人の大きさがどうとでも見えてしまったり、音の聞こえ方の違いにこだわって作った音響も場面によってはご都合主義だったりするあたりは、もう少し何とかならないかとも思うが、逆に言えば、本当に力のある作品であればそんなことが気にならなくなってしまうはず。(むしろ、縮尺だのなんだのと、現実世界の物理法則に気を使ってちまちま作っていては面白いアニメーションにはならない。)そういう、有無を言わせぬパワーが感じられる作品には、そうそうお目にかかれないのだから、ないものねだりといえばそれまでのことだが、世間が「ジブリ」ブランドに期待するハードルの高さは尋常ではない。そんなプレッシャーのなかで、この水準の作品を仕上げた作り手は、良い仕事をしたと賞賛しておきたい。

7/03/2010

Bayside Shakedown 3 Set the Guys Loose !

踊る大捜査線 The Movie 3 ヤツらを解放せよ!(☆☆)

想像以上でもなく、想像以下でもなく。いろいろな小ネタを目一杯詰め込もうとした結果、2時間20分もの尺を使いながらもいびつで消化不良になっている。また、それだけ詰め込んでみたところで、長年のあいだに多様化してしまったファンのツボにもきちんと応えきれていない。きっと、いろいろな人がいろいろなアイディアを出したのだろう。苦心惨憺まとめてみたらこんなふうになった、と。

このシリーズ、そろそろ「イベント映画」路線を捨て、連続ドラマに回帰すべきではないだろうか。いかりや長介亡き後、キャスト(キャラクター)の世代交代を図りながらシリーズを続行するというのであれば、脇役にもスポットを当て、日常の延長線上でキャラクターたちのひととなりや人間関係をじっくり描き、それを育てていく余裕こそが必要だろう。それを数年に一度の派手なイベントとしての期待を背負う「映画」に望むのは少し難しい。

かのハニバル・レクターが獄中にいながらダラハイドを利用して牙をむいたことを想起させる「事件」が、湾岸署の引越しという混乱の最中に進行するというのが本作の骨組みである。およそ警察ものの定番外しからスタートしたこのシリーズだから、警察署の引越しというアイディアはそれらしくて悪くない。ここに、黒澤やら『ダークナイト』やら『エヴァンゲリヲン』やら、ありとあらゆるものの「オマージュ」が盛り込まれ、何度も繰り返して楽しむファンに向けて、さらに細かいお遊びやリファレンスがふんだんに挿入される。まあ、やりすぎれば鼻につくが、それもこのシリーズのお約束だ。

警察署の引越しを担う業者にしては身元確認が甘くてリアリティがないとか、セキュリティ・システムの解除がそんな安易でいいのか、といった脱力気味の部分も少なくないが、まあ、それもこのシリーズのお約束のうちなんじゃないだろうか。まあ、こういうところで白ける人もいるんだろうが、あくまでコメディだと思えば、許容範囲といえなくもない。

良い意味でも悪い意味でも君塚脚本らしさもある。映画版シリーズでも、ネットで知り合った若者同士であるとか、リストラ会社員たちを犯罪者として(ある種の偏見と共に)描いてきた延長線上で、メールアドレスでしか識別されないパートタイム労働者といったいかにもな時事ネタを潜り込ませる。今という時代の空気を感じさせるのはよいが、不特定多数のネットユーザーであるとか、社会における構造的な弱者に対する分かりやすい悪意や偏見が強く出ているのは苦笑すべきところなんだろうね。まあ、目をつぶってやってもいいや。仕方ない。

お笑いやおふざけのさじ加減が少しずつ間違っていて、笑える前に不快に感じるところも多々あるんだが、まあ、それもいつものこと。ん?そうだっけか?

しかし、頭をからにして、いろんなところに目をつぶって、大目に見てやって、初めて楽しめる作品っていうのはなんなんだろう。まあ、この監督がシリーズ以外で積み重ねた惨憺たる駄作の山を見れば、端から大きな期待をする方が間違っているのは周知の事実なんだけどね。

ひとつ言えることは、この作品の関係者たちはスカンクの臭いを舐めているってことだね。あんなもんで済むはずないないだろ、実際のところ。

6/12/2010

The Outrage

アウトレイジ(☆☆☆★)


世間は原点回帰というけれど、それが、まあ、映画を楽しんで作っているということであったら間違いではないかもしれない。何しろ、ここのところの苦悩ぶりと迷走ぶりは見るに耐えないものであったから、北野武が楽しんで映画を撮っているということは、ファンとしてはなによりも嬉しいことだ。

もちろん、映画の内容が原点回帰だとは思っていない。普通であることの作法も技術も持ち合わせず、定石を徹底的に排除したところで成立していた初期の作品とは、そもそも目指しているところが違う。むしろ、本作が比較されるべきは、北野武が幅広い観客を意識した「北野流バイオレンスエンターテインメント」を標榜する『BOROTHER』であり、『座頭市』だ。これらは、その完成度はともかくとして、誰にでも分かるエンターテインメントと主張しながら、北野武でしか撮りえない個性的な作品でもある。また、脚本や台詞をしっかり練りこんで、筋書きで観客を楽しませられるように丁寧に撮ることを要求された作品という意味では、もしかしたら『Kids Return』あたりにも近い。

本作には、王道を照れずにやってのける覚悟が見て取れる。ストーリー然り。組織の中で仕掛けられたちょっとした小競合いが凄惨な組織のつぶしあいに発展する一方で、腹黒く狡猾な連中は、状況を利用して権力を手中に収めようとするという仁義なき群像劇だ。キャスティング然り。これまでは敢えて起用を避けてきたようなオールスターの演技者が並ぶ。殺しのシーンから逆算し、精緻に組み立てられた脚本にはいろいろなレベルで伏線が張られており、緊張と笑いのバランスを巧みに操り、一気呵成に突っ走る109分。払ったチケット代のぶんはきっちり楽しませるプロの仕事たらんとする気合がスクリーンに漲っている。

その結果、過剰な自意識やヒロイックな自死願望は消えた。行間はそのままに、寡黙さが消え、台詞はやたらに増えた。バイオレンスは痛さはそのままに、しかし軽く、マンガ的になった。編集からは唐突な暴力性が消え、びっくりするぐらいスムーズになった。ある意味、「普通」の作品に近づいた。しかし、普通に接近するほどに、普通の枠にははまらない北野武の個性も際立ってくるところが面白い。

この作品にも、いつのまにかスッと忍び込んできて日常を異化してしまう暴力の恐怖は健在だし、オフビートな笑いもそこにある。暴力的で威圧的な台詞が気がつけば掛け合い漫才、という面白さは、これまでの作品になかったものである。が、彼のキャリアを考えれば、これが北野流コメディのひとつの完成形だろう。そして、
息を呑むような素晴らしいショットもある。何より、一見単純でありふれたストーリーの裏から、これまでの作品とも底の部分で通じる組織や社会構造、人に対する彼独特の観察眼と世界観が浮かび上がってくる。

弱小ヤクザ組織が上位組織の裏切りによって破滅していくところだけを切り出せば、ヤクザ映画として出発しながら「何か違うもの」に変質していった『ソナチネ』と同じだが、本作はあくまでヤクザ映画、あくまで分かりやすいエンターテインメントという制約の中で、初期作品とは全く別のベクトルで仕上げられている。ともかく、北野武は「もう終わっちゃった」作家なのではなく、まだ始まっていない、ということだ。何かをふっきって再度スタート地点に立った。この人は、同じ場所を堂々巡りするのではなく、新しい地点に向かおうとしている。本作を見る限り、まだまだ期待していいのだと思う。

Confession

告白(☆☆☆★)


公開1週間経った劇場、R-15指定の作品だが、普段はTVの延長線上にあるような映画にしか興味を抱かないような若い観客が多くて、一瞬、入る箱を間違えたのではないかと戸惑ってしまった。『下妻物語』、『嫌われ松子の一生』の中島哲也監督が撮った新作、『告白』は、口コミで集まったに違いないそういう「若い観客」には十二分にショッキングな作品ではなかっただろうか。君たちきっと見たことないんだろ、こういう重たいエンターテインメント。

ともかく、こういう作品が「東宝」という大メジャーで製作され、全国それなりの規模で公開され、これだけの客を集めてみせたという、その事実が素晴らしい。もちろん、これが、「原作もの」でなくてオリジナル脚本だったらもっと素晴らしいのだが、まあ、それはさておいてもいいや。TVドラマの延長としてのイベントばかりで埋め尽くされるようになった今、こういう作品が出てきて、こういうヒットを飛ばす。そのことで、「もっと多様な映画を作り、供給してもいいんじゃないか」と、作り手(というより出資者たち)が少しくらい思い直してくれたらいい。この作品が、新しい流れの第一歩になればいい、心からそう思う。

作品そのものも、中身がともなっており、面白く見ることができた。ストーリーそのものは原作に負うところが大きいが、そこで描かれた物語を、映画というフォーマットの中できっちり再構築してみせたところは高く評価されるべきだろう。視点を切り替えながら登場人物のモノローグで語っていく原作の構成を、そのまま映画に持ち込んだのが正解である。登場人物たちの過剰な自己主張に、この監督が得意とする、スローモーションを多用する過剰に作りこまれた映像をパッチワークのようにはめこんで、これまた絶え間なく背景に音楽を流し続ける。手法も映像も(いつものごとく)あざとくて鼻につくことこの上ないが、これが題材にピタリと拮抗して、スリリングな緊張感を生み出している。

複数人物の主観的なモノローグをつづっていくことで事件の背景が立体的に浮かび上がってくるという構造は、大林宣彦が宮部みゆき原作に挑んだ『理由』(傑作!)にちかい、と思う。人工的に作りこまれた映像のパッチワークという意味でも、旺盛な実験的精神という意味でも、CMディレクター出身という共通項を持つ大林監督の(過小評価されているとしか思えない)作品が想起されたのは自然なことだと思うのだが、どうだろうか。

5/08/2010

Nodame Cantabile: The Movie (I & II)

のだめカンタービレ最終章・前編 / 後編(☆★)


まあ、いくら豪勢にお金をかけてみてもテレビドラマはテレビドラマ。テレビドラマが好きだったなら、その続きを素直に楽しめばいいし、そうでなかったら面白くもなんともないだろう。映画としてはもはや評価対象ですらない。豪華なテレビ・スペシャル以上でも以下でもない。

豪華なテレビ・スペシャル・・・というか、海外編になってから、もはやドラマというよりバラエティである。コメディというよりコント。正直、つらいぞ、これは。

もともとのドラマが、マンガだから許されるお遊び表現を、バラエティのノリ、コントのノリで、悪乗り半分に映像化しているところがあって、そうはいってもそこにはきちんとした物語とドラマがあって、安っぽいお茶の間のTV画面の中でだけ成立し得た奇跡的で幸福なバランスがそもそもの魅力のひとつだったように思う。が、そのあとは正直に言って酷い。惰性。原作に続きがあるからといっても、無理に続ける必要などどこにもなかった。

まあ、個人的に、ドラマも原作の漫画も楽しませてもらったクチなので、結局、なんだかんだといいながら前編・後編とも付き合ったが、制作費を回収するためかどうか、2回に分けて公開するあたりの姑息さが嫌らしいと思う。実写版映像化としては、最初のTVシリーズだけで終わっておけば良かったと、本気で思っている。