ハンナ(☆☆☆)
物語は雪深く、世の中から隔絶された北欧の森の小屋における父と少女の暮らしで幕を開ける。父親は少女に、ありとあらゆる知識とサバイバル術を仕込んでいるようだ。何のために?ここではその理由を観客に明かさない。この二人には何やら計画があるようだが、それの目的も、全貌も明かされない。CIAが、この小屋から発せられた古い信号をキャッチしたとき、物語が大きく動き出す。
超絶的な身体能力とサバイバル術を身につけた少女がタイトルロールの「ハンナ」である。演じるのは、本作の監督ジョー・ライトが手がけた『つぐない』で注目され、『ラブリー・ボーン』の主演をつとめたシアーシャ・ローナンだ。演技ができる役者にアクションを演らせるというのも昨今のトレンドの一つであるとはいえ、これまたアクションというイメージからは遠い女優である。しかし、もちろん本作の場合、そのギャップが面白いところであって、ドラマの核心でもある。相当のトレーニングを積んだのだろう、体の動きもいいから、絵空事と白けてしまうこともない。
映画は少女がCIAに囚われ、脱出し、追手の手を逃れての逃避行を追うと同時に、別行動をとっている「父親」エリック・バナと、追跡の指揮をとるケイト・ブランシェットの様子を適宜挟み込みつつ、徐々に事の真相を観客に明かしていく構成になっている。観客に対して情報を小出しにするやり口は、一方でキャラクターへの感情移入を難しくするが、そこは役者の力でなんとかなるという読みもあるだろう。事情がわからなくても、とりあえず観客はシアーシャ・ローナンを応援するだろうし、「敵」としての貫禄たっぷりなケイト・ブランシェットは観客の憎悪の対象になるだろう。
しかし、スパイ組織を敵に回してのアクション・スリラーとは、監督ジョー・ライトの、これまでのフィルモグラフィを思えば不思議な選択だから、どんな映画に仕上がるかと不安半分ではあった。が、出来上がりを見れば、これまた器用なものである。リアリティのない物語に、昨今の流行に則ったリアリティ寄りでタイトなアクションと、最小限だが効果的なドラマ演出を絡め、キャラクターの力でストーリーを動かしていく。先にシアーシャ・ローナンの主演が決まっていて、彼女の強いリクエストで監督が決まったらしい。
エリック・バナが演じるキャラクターは少々印象が薄い。彼がハンナとは別行動を取る意味はわかるが、その行動そのものが物語の中で積極的な意味を与えられていない。極論、映画の冒頭で殺されていても大差がないようにも思う。この人の演技が巧いのはわかっているが、どちらかというと映画のなかで埋没してしまう損な役回りが多いよね。
音楽は数多くの映画に楽曲提供の実績があるケミカル・ブラザーズの名義になっていて、本作のためにオリジナルスコアを書いたということのようである。なかなか面白い音で映画の独特の雰囲気を醸成する一助になっている。ところで、映画の冒頭と最後に出てくる、赤地に白抜きのデカい文字で「HANNA」と出るタイトルは、ちょっと、ダサくないか?
10/02/2011
8/07/2011
Toy Story Toon: Hawaiian Vacation
ハワイアン・バケーション(☆☆☆)
『カーズ2』と同時上映された、「トイ・ストーリー」のキャラクターを使った短篇である。時間軸では「トイ・ストーリー3」の後日譚になっていて、新しい持ち主のもとにもらわれていったあとの話ということになっている。
持ち主一家がハワイでの休暇に出かけると、玩具たちは仕事から解放されて束の間の「休暇」を楽しめる。一方、愛すべきアホ・キャラであるケンは持ち主の荷物に紛れ込んで永遠の恋人・バービーと一緒にハワイで素晴らしい休暇を過ごすつもりで綿密な計画を立てていた・・・というのが発端で、いつもの仲間たちがケンの夢の計画を形にするために涙ぐましい奮闘をするというのが今回のストーリーである。
短い時間のなかによくもまあ、と思うほどに切れのあるネタを詰め込み、テンポよく笑わせ、おなじみのキャラクターたちが、前作以降も生き生きと暮らしている様を見せてくれる。「トイ・ストーリー」シリーズのファンサービス的な作品として、ほぼ完璧な出来栄えである。トム・ハンクス、ティム・アレン、ジョーン・キューザックらの主要なボイス・キャストが再結集していることも嬉しい。前作でバービーとケンの声を当てたジョディ・ベンソンとマイケル・キートンもきっちり続投してくれているんだよね。
その一方、これまでの短編作品が、実験的であったり、アーティスティックであったり、多様な個性を主張しながら笑わせたり泣かせたりしてくれたことを思うと、既に確立したキャラクターに頼った本作のような作品だけでなく、今後もいろいろな作品を見せて欲しいと思うのだが、さて。
ちなみに、トイ・ストーリーものの短篇は、すでにもう一本、バズ・ライトイヤーを中心にしていると思しき"Small Fry"が製作されており、ディズニーが北米で年末に向けて公開する"The Muppets"に併映されることが決まっている・・・って、えー、ジム・ヘンソンの「マペット」ものの権利って、いつの間にかディズニーが買っていたんだ(驚)
『カーズ2』と同時上映された、「トイ・ストーリー」のキャラクターを使った短篇である。時間軸では「トイ・ストーリー3」の後日譚になっていて、新しい持ち主のもとにもらわれていったあとの話ということになっている。
持ち主一家がハワイでの休暇に出かけると、玩具たちは仕事から解放されて束の間の「休暇」を楽しめる。一方、愛すべきアホ・キャラであるケンは持ち主の荷物に紛れ込んで永遠の恋人・バービーと一緒にハワイで素晴らしい休暇を過ごすつもりで綿密な計画を立てていた・・・というのが発端で、いつもの仲間たちがケンの夢の計画を形にするために涙ぐましい奮闘をするというのが今回のストーリーである。
短い時間のなかによくもまあ、と思うほどに切れのあるネタを詰め込み、テンポよく笑わせ、おなじみのキャラクターたちが、前作以降も生き生きと暮らしている様を見せてくれる。「トイ・ストーリー」シリーズのファンサービス的な作品として、ほぼ完璧な出来栄えである。トム・ハンクス、ティム・アレン、ジョーン・キューザックらの主要なボイス・キャストが再結集していることも嬉しい。前作でバービーとケンの声を当てたジョディ・ベンソンとマイケル・キートンもきっちり続投してくれているんだよね。
その一方、これまでの短編作品が、実験的であったり、アーティスティックであったり、多様な個性を主張しながら笑わせたり泣かせたりしてくれたことを思うと、既に確立したキャラクターに頼った本作のような作品だけでなく、今後もいろいろな作品を見せて欲しいと思うのだが、さて。
ちなみに、トイ・ストーリーものの短篇は、すでにもう一本、バズ・ライトイヤーを中心にしていると思しき"Small Fry"が製作されており、ディズニーが北米で年末に向けて公開する"The Muppets"に併映されることが決まっている・・・って、えー、ジム・ヘンソンの「マペット」ものの権利って、いつの間にかディズニーが買っていたんだ(驚)
7/15/2011
Harry Potter and the Deathly Hallows Part II
ハリー・ポッターと死の秘宝 Part-2(☆☆☆)
いよいよ、である。もちろん、最後まで付き合いましたよ。ここまできたら、観ないという選択肢はないし。Part-1 の出来栄えがなかなか良かったので、本作への期待感もそれなりにあったしね。そして、まずは、納得、充実、よくできたシリーズ完結編であった、と思う。
(途中でお亡くなりになってしまったリチャード・ハリスを除き)主要キャスト&脇役キャストが最後まで変わらず、これだけの規模と、これだけの安定感で、よくぞ十年作り続けたものである。もちろん、市場が求め、映画会社が望んだこととはいえ、これを実現させたプロデューサーの力量には敬服する。子役たちが成長していく姿をスクリーン越しに見守るような、とても面白い映画体験をさせてもらった。
シリーズ総括はさておき、本作である。いやはや、「不死鳥の騎士団」を見て、その出来の悪さを嘆いたとき、その同じ監督がシリーズを最後まで続投し、このレベルの作品を作り、シリーズの幕をきっちり閉じてくれるとは思いもよらなかった。堂々たるものである。
思うに、ピーター・イェーツは作品を重ねるごとに大型VFX映画の見せ方や演出の勘所をつかんでいったんではないか。そして作品の内容を完全にグリップし、映画としてのアレンジやメリハリの効かせ方も堂に入ってきた。シリーズ中「不死鳥の騎士団」だけ脚本家が異なっていたのだが、それ以降、本作にいたるまでスティーヴン・クローブが復帰し、一貫して脚色を手がけてきたこと大きかったかもしれない。
毎度のことながら、原作マニア的な見地からは本作についてもあーだこーだと細かい改変に一家言あろう。が、ドラマ的な盛り上がりにしろ、映像的な見せ場にしろ、ケレン味のある演出にしろ、原作のエッセンスは十分に咀嚼した上で、「映画版」としての落とし所をきちんと見出しているのが前作、そして本作の良いところである。そして、原作を読んでいても新鮮な気持ちで映画を楽しめる要因でもある。
ところで、Part 1 の146 分に比べても、シリーズのこれまでの作品と比べても、Part 2 の130分というのは短めの尺になっているのには驚いた。多少説明不足で窮屈なところもあって、もう少し尺を長くしても許されるんじゃないかと思わないでもないのだが、完結に向かう勢い、スピード感を損なわないためにはこれくらいが調度良いという判断なのだろう。説明不足と言ってもシリーズを完全に初見というわけでなければ、なんとなく了解できるわけだし、ことここにいたってチンタラ説明したり、原作にある内容を逐一映像化してみても野暮というものか。
Part-2 の映像的な見所は、魅惑的な魔法学校を舞台に、いよいよ勃発する全面的な大魔法戦争が描かれているところだ。これまでのような局地戦ではなく、双方の陣営が多くの仲間を結集しての一大クライマックスだ。VFXももここぞとばかりに気合が入っていて派手に楽しませてくれる。
それはそれとして、この闘いの最中に、最近の作品では出番の少なかったマギー・スミスの見せ場を作ってくれているのが嬉しいところである。登場人物が多いだけに、割を喰ってしまったキャラクターも少なくない。そんななか、シリーズ最初期から登場する彼女のキャラクターに活躍の場があったことで、完結編としての座りも良くなったように思う。
もちろん、今回一番の役得はアラン・リックマンである。『ダイ・ハード』の悪役で売れて以降、癖のある悪役といえばこの人、というようなキャスティングの延長線上でのスネイプ役であったように思う。本人も、はじめはこういう展開を見せるとは想像していなかったはずだ。このキャラクターの過去の記憶が明らかになるシークエンスは、原作と比べると比較的サラっと見せているように感じられたが、その作りは良く出来ていた。原作を読んでいない観客に対しても、これまで7本で嫌われ役であったキャラクターの印象を一変させるだけのインパクトはあるだろう。登場時間が長くなくとも、作り手がこのキャラクターを丁寧に、大切に描いていることが感じられるのが嬉しい。
今回、3D版で鑑賞した。前作のときには直前になって公開を断念した3D版。どの程度の出来かと興味をもっていたが、変換3Dの技術もそれなりに進化を続けているのだなぁ、との感慨は覚えた。従来の、変換3D ものでは、どうしても書き割りの舞台セットのような不自然さが目についたが、それなりの時間と金をかけて丁寧に作業をすれば、そこそこの品質でコンバートできるということのだろう。
いよいよ、である。もちろん、最後まで付き合いましたよ。ここまできたら、観ないという選択肢はないし。Part-1 の出来栄えがなかなか良かったので、本作への期待感もそれなりにあったしね。そして、まずは、納得、充実、よくできたシリーズ完結編であった、と思う。
(途中でお亡くなりになってしまったリチャード・ハリスを除き)主要キャスト&脇役キャストが最後まで変わらず、これだけの規模と、これだけの安定感で、よくぞ十年作り続けたものである。もちろん、市場が求め、映画会社が望んだこととはいえ、これを実現させたプロデューサーの力量には敬服する。子役たちが成長していく姿をスクリーン越しに見守るような、とても面白い映画体験をさせてもらった。
シリーズ総括はさておき、本作である。いやはや、「不死鳥の騎士団」を見て、その出来の悪さを嘆いたとき、その同じ監督がシリーズを最後まで続投し、このレベルの作品を作り、シリーズの幕をきっちり閉じてくれるとは思いもよらなかった。堂々たるものである。
思うに、ピーター・イェーツは作品を重ねるごとに大型VFX映画の見せ方や演出の勘所をつかんでいったんではないか。そして作品の内容を完全にグリップし、映画としてのアレンジやメリハリの効かせ方も堂に入ってきた。シリーズ中「不死鳥の騎士団」だけ脚本家が異なっていたのだが、それ以降、本作にいたるまでスティーヴン・クローブが復帰し、一貫して脚色を手がけてきたこと大きかったかもしれない。
毎度のことながら、原作マニア的な見地からは本作についてもあーだこーだと細かい改変に一家言あろう。が、ドラマ的な盛り上がりにしろ、映像的な見せ場にしろ、ケレン味のある演出にしろ、原作のエッセンスは十分に咀嚼した上で、「映画版」としての落とし所をきちんと見出しているのが前作、そして本作の良いところである。そして、原作を読んでいても新鮮な気持ちで映画を楽しめる要因でもある。
ところで、Part 1 の146 分に比べても、シリーズのこれまでの作品と比べても、Part 2 の130分というのは短めの尺になっているのには驚いた。多少説明不足で窮屈なところもあって、もう少し尺を長くしても許されるんじゃないかと思わないでもないのだが、完結に向かう勢い、スピード感を損なわないためにはこれくらいが調度良いという判断なのだろう。説明不足と言ってもシリーズを完全に初見というわけでなければ、なんとなく了解できるわけだし、ことここにいたってチンタラ説明したり、原作にある内容を逐一映像化してみても野暮というものか。
Part-2 の映像的な見所は、魅惑的な魔法学校を舞台に、いよいよ勃発する全面的な大魔法戦争が描かれているところだ。これまでのような局地戦ではなく、双方の陣営が多くの仲間を結集しての一大クライマックスだ。VFXももここぞとばかりに気合が入っていて派手に楽しませてくれる。
それはそれとして、この闘いの最中に、最近の作品では出番の少なかったマギー・スミスの見せ場を作ってくれているのが嬉しいところである。登場人物が多いだけに、割を喰ってしまったキャラクターも少なくない。そんななか、シリーズ最初期から登場する彼女のキャラクターに活躍の場があったことで、完結編としての座りも良くなったように思う。
もちろん、今回一番の役得はアラン・リックマンである。『ダイ・ハード』の悪役で売れて以降、癖のある悪役といえばこの人、というようなキャスティングの延長線上でのスネイプ役であったように思う。本人も、はじめはこういう展開を見せるとは想像していなかったはずだ。このキャラクターの過去の記憶が明らかになるシークエンスは、原作と比べると比較的サラっと見せているように感じられたが、その作りは良く出来ていた。原作を読んでいない観客に対しても、これまで7本で嫌われ役であったキャラクターの印象を一変させるだけのインパクトはあるだろう。登場時間が長くなくとも、作り手がこのキャラクターを丁寧に、大切に描いていることが感じられるのが嬉しい。
今回、3D版で鑑賞した。前作のときには直前になって公開を断念した3D版。どの程度の出来かと興味をもっていたが、変換3Dの技術もそれなりに進化を続けているのだなぁ、との感慨は覚えた。従来の、変換3D ものでは、どうしても書き割りの舞台セットのような不自然さが目についたが、それなりの時間と金をかけて丁寧に作業をすれば、そこそこの品質でコンバートできるということのだろう。
7/08/2011
The Hangover Part II
ハングオーバー!! 史上最悪の二日酔い、国境を越える(☆☆☆)
物量2割増だが、面白さ3割減。昨今、そんな常識が必ずしも通用しないことはよく分かっているけれども、昔から柳の下を漁る「続編」なんていうものは、その程度のものだというのが定評ではなかったか。スタッフ、キャスト、フォーマットはそのままに、舞台をラスベガスからバンコックに移した本作は、ギャグも(アクションすらも)一層過激さと不謹慎さを増して許容範囲の限界を押し広げているのだが、結局、前作にあった新鮮な驚きとでもいうべきものが失われた分だけ、面白さも7掛けが限界といった感じである。仕方がない、だって、基本的に同じことの繰り返しなんだもの。
しかし、他方で「基本的に同じことを繰り返す」ということそのものが、転じて「お約束」という名の笑いに通じることもある。クリスマスになると派手な事件に巻き込まれる運の悪い男がいたように、仲間が結婚するたびに羽目を外して記憶を失う、ということがどれほど不自然でありえないことかどうかは別にして、お約束を楽しむ、お約束で楽しませるというのは一つのありかただろう。
さすがに前作(ま)での出来事がなかったことにしてゼロにリセットするわけにはいかないので、登場人物たちは同じ事態を引き起こさないように用心して行動する。もちろん、そんな用心も徒労と化すのは最初から分かっていることであるが、この手順を踏む、ということそのものが重要なお約束のうちである。仮にこれが回数を重ねるなら、この手順を念入りに踏むというプロセスそのものが笑いを増幅する仕掛けにもなるだろう。
そんなことはともかく、本作には1つ、とても良いシーンがある。それは、昨夜の行動を思い出すためにタイの寺院で瞑想をする場面だ。みな、昨夜の出来事など頭に残ってはいないのだが、ザック・ガリフィナキス演ずるトラブルメイカー、アランの脳内には、少々驚くべき形で回想が蘇ってくる。この回想が、とても優れたアイディアで映像化されていて、爆笑と同時に、なんというか、ある種の感動すら呼ぶものになっているのである。関わりたくない迷惑男であるが、どこか憎みきれない発達障害を抱えた男。彼の目に映っている世界がいったいどのようなものなのか、そのエキセントリックな言動がいったい何に起因するのか、いやはや、短いシーンながら、ものすごい説得力と納得感を得ることができた。未見の方は、ぜひ、ここで目からウロコが落ちる気分を味わって欲しいと思う。
で、さらなる続編はあるのか。本作も十分なヒットを飛ばしたし、舞台を変えれば「観光映画」、「ご当地映画」的に、それなりとはいえ、新鮮な空気を吹き込めることも証明できた。そうはいっても、中心となる4人のうち3人までが既婚となったいま、次はどんな一手があるのだろう。ザック・ガリフィナキス演ずるアランに伴侶を作るのはなかなか難度が高そうだ。そういえば、運の悪い男の「クリスマス」というお約束は3作目以降は反故になったんだっけ。お約束を繰り返すにしろ、なにか新しい手立てが必要そうだ。
物量2割増だが、面白さ3割減。昨今、そんな常識が必ずしも通用しないことはよく分かっているけれども、昔から柳の下を漁る「続編」なんていうものは、その程度のものだというのが定評ではなかったか。スタッフ、キャスト、フォーマットはそのままに、舞台をラスベガスからバンコックに移した本作は、ギャグも(アクションすらも)一層過激さと不謹慎さを増して許容範囲の限界を押し広げているのだが、結局、前作にあった新鮮な驚きとでもいうべきものが失われた分だけ、面白さも7掛けが限界といった感じである。仕方がない、だって、基本的に同じことの繰り返しなんだもの。
しかし、他方で「基本的に同じことを繰り返す」ということそのものが、転じて「お約束」という名の笑いに通じることもある。クリスマスになると派手な事件に巻き込まれる運の悪い男がいたように、仲間が結婚するたびに羽目を外して記憶を失う、ということがどれほど不自然でありえないことかどうかは別にして、お約束を楽しむ、お約束で楽しませるというのは一つのありかただろう。
さすがに前作(ま)での出来事がなかったことにしてゼロにリセットするわけにはいかないので、登場人物たちは同じ事態を引き起こさないように用心して行動する。もちろん、そんな用心も徒労と化すのは最初から分かっていることであるが、この手順を踏む、ということそのものが重要なお約束のうちである。仮にこれが回数を重ねるなら、この手順を念入りに踏むというプロセスそのものが笑いを増幅する仕掛けにもなるだろう。
そんなことはともかく、本作には1つ、とても良いシーンがある。それは、昨夜の行動を思い出すためにタイの寺院で瞑想をする場面だ。みな、昨夜の出来事など頭に残ってはいないのだが、ザック・ガリフィナキス演ずるトラブルメイカー、アランの脳内には、少々驚くべき形で回想が蘇ってくる。この回想が、とても優れたアイディアで映像化されていて、爆笑と同時に、なんというか、ある種の感動すら呼ぶものになっているのである。関わりたくない迷惑男であるが、どこか憎みきれない発達障害を抱えた男。彼の目に映っている世界がいったいどのようなものなのか、そのエキセントリックな言動がいったい何に起因するのか、いやはや、短いシーンながら、ものすごい説得力と納得感を得ることができた。未見の方は、ぜひ、ここで目からウロコが落ちる気分を味わって欲しいと思う。
で、さらなる続編はあるのか。本作も十分なヒットを飛ばしたし、舞台を変えれば「観光映画」、「ご当地映画」的に、それなりとはいえ、新鮮な空気を吹き込めることも証明できた。そうはいっても、中心となる4人のうち3人までが既婚となったいま、次はどんな一手があるのだろう。ザック・ガリフィナキス演ずるアランに伴侶を作るのはなかなか難度が高そうだ。そういえば、運の悪い男の「クリスマス」というお約束は3作目以降は反故になったんだっけ。お約束を繰り返すにしろ、なにか新しい手立てが必要そうだ。
2/20/2011
Hereafter
ヒアアフター(☆☆☆)
「イーストウッドの大霊界・死んだらどうなる?」・・・かと思いきや、死と直面した人間たちが、そのこととどう折り合いをつけて前に進んでいくかという話であった。
パリ、ロンドン、サンフランシスコを舞台に、3人の登場人物のそれぞれの人生が描かれ、最後にそれが「ロンドンで開かれるブックフェア」を舞台に交差するという構成だ。これが、あの『クイーン』や『フロストxニクソン』のピーター・モーガンの脚本と聞くと、ちょっと意外な感じがする。一見して、商業作品として練りこまれた脚本というのではなく、思いついたアイディアをさらっと書き流したドラフトのままなんじゃないか、それをそのまま映画にしてしまったんじゃないか、とすら思える内容だからだ。実際、彼自身が撮るなら(予算の制約も含めて)「ロンドンの少年」のエピソードに絞り込んで脚本を書き直すつもりでいたという。
まあ、本当に驚くべきなのは、こんなにラフに見える脚本から、自然体でさらっと撮ったが如くを装いつつ、独特のリズムで「映画」を紡ぎ出してしまうイーストウッドの演出術なんだろう。世評では不評気味な本作だが、それは、さすがに近年の神憑った傑作連打の流れにおけば「弱い」作品だとはいえ、私はこれ、嫌いではない。それどころか、なんでこういう映画が撮れてしまうんだろうか、どうしてこれで映画が成立してしまうんだろうか、と感心してしまう。
まあ、前作の『インビクタス』も本作に似てかなり不思議な映画で、題材としての圧倒的な「事実」が映画を成立せしめているように見えなくもなかった。それ故に、分かりやすい映画でもあった。が、本作は、そういう題材やストーリーの強さすら取り払って、そのあとに残る、無意識、無作為に見えないわけでもない剥き出しの演出術だけで成立している作品のように思えたりもする。
特に印象に残った個別の話としては、まず子役がいいということ。経験のない素人の双子だということだが、うまい演技を引き出せるものだ。そして、マット・デイモンはやっぱりいい役者だということ。自然に役柄に馴染んでいるし、台詞では説明されない内容を、観客にきっちりと伝えるさじかげんも心得ている。それに、クッキング教室での目隠し試食がエロいこと。枯れてないなぁ、あいかわらず変態的だなぁ、イーストウッドは。ブライス・ダラス・ハワード、シャマラン映画で見る彼女も良かったが、確かに痩せ型でイーストウッド好みの女優かも知れない。また出演して欲しいものだ。
あとひとつ、映画の本当に最後に近いあるシーンで、マット・デイモンの妄想?らしきシーンが唐突に挿入される編集には心から驚いた。いや、妄想だと受け取ればそれはそれで分からんでもないのだが、この映画、あの瞬間まで、基本的にああいう心象風景を実際に画にしてみせるということをしていないじゃないか。妄想にありがちなぽわわわわ~ん、と音の出そうなフェイド・イン/アウトをやっているわけでもないから、初めは「やけに強引なジャンプカットだな」と思ったくらいだ。直後、もとの場面に引き戻されて、え、妄想?予知?過去に予知した場面のフラッシュバック?将来のできごとを垣間見せるフラッシュフォワード?(それは結局予知と同じか)、と挿入された意図を考えだしたら、もう分からない。狐に摘まれたような気分だが、一方で、あのカットなしには本作が成立しないようにも思う。不思議な映画は、最後の最後まで不思議であって、しかし、心のなかに忘れ難いイメージを残すのである。
「イーストウッドの大霊界・死んだらどうなる?」・・・かと思いきや、死と直面した人間たちが、そのこととどう折り合いをつけて前に進んでいくかという話であった。
パリ、ロンドン、サンフランシスコを舞台に、3人の登場人物のそれぞれの人生が描かれ、最後にそれが「ロンドンで開かれるブックフェア」を舞台に交差するという構成だ。これが、あの『クイーン』や『フロストxニクソン』のピーター・モーガンの脚本と聞くと、ちょっと意外な感じがする。一見して、商業作品として練りこまれた脚本というのではなく、思いついたアイディアをさらっと書き流したドラフトのままなんじゃないか、それをそのまま映画にしてしまったんじゃないか、とすら思える内容だからだ。実際、彼自身が撮るなら(予算の制約も含めて)「ロンドンの少年」のエピソードに絞り込んで脚本を書き直すつもりでいたという。
まあ、本当に驚くべきなのは、こんなにラフに見える脚本から、自然体でさらっと撮ったが如くを装いつつ、独特のリズムで「映画」を紡ぎ出してしまうイーストウッドの演出術なんだろう。世評では不評気味な本作だが、それは、さすがに近年の神憑った傑作連打の流れにおけば「弱い」作品だとはいえ、私はこれ、嫌いではない。それどころか、なんでこういう映画が撮れてしまうんだろうか、どうしてこれで映画が成立してしまうんだろうか、と感心してしまう。
まあ、前作の『インビクタス』も本作に似てかなり不思議な映画で、題材としての圧倒的な「事実」が映画を成立せしめているように見えなくもなかった。それ故に、分かりやすい映画でもあった。が、本作は、そういう題材やストーリーの強さすら取り払って、そのあとに残る、無意識、無作為に見えないわけでもない剥き出しの演出術だけで成立している作品のように思えたりもする。
特に印象に残った個別の話としては、まず子役がいいということ。経験のない素人の双子だということだが、うまい演技を引き出せるものだ。そして、マット・デイモンはやっぱりいい役者だということ。自然に役柄に馴染んでいるし、台詞では説明されない内容を、観客にきっちりと伝えるさじかげんも心得ている。それに、クッキング教室での目隠し試食がエロいこと。枯れてないなぁ、あいかわらず変態的だなぁ、イーストウッドは。ブライス・ダラス・ハワード、シャマラン映画で見る彼女も良かったが、確かに痩せ型でイーストウッド好みの女優かも知れない。また出演して欲しいものだ。
あとひとつ、映画の本当に最後に近いあるシーンで、マット・デイモンの妄想?らしきシーンが唐突に挿入される編集には心から驚いた。いや、妄想だと受け取ればそれはそれで分からんでもないのだが、この映画、あの瞬間まで、基本的にああいう心象風景を実際に画にしてみせるということをしていないじゃないか。妄想にありがちなぽわわわわ~ん、と音の出そうなフェイド・イン/アウトをやっているわけでもないから、初めは「やけに強引なジャンプカットだな」と思ったくらいだ。直後、もとの場面に引き戻されて、え、妄想?予知?過去に予知した場面のフラッシュバック?将来のできごとを垣間見せるフラッシュフォワード?(それは結局予知と同じか)、と挿入された意図を考えだしたら、もう分からない。狐に摘まれたような気分だが、一方で、あのカットなしには本作が成立しないようにも思う。不思議な映画は、最後の最後まで不思議であって、しかし、心のなかに忘れ難いイメージを残すのである。
2/13/2011
How Do You Know
幸せの始まりは(☆☆☆)
70歳になる大ベテラン、ジェームズ・L・ブルックス、監督としては2004年の『スパングリッシュ 太陽の国から来たママのこと』 以来となる新作で、得意の大人のロマンティック・コメディ路線。いつものように脚本も兼ねている。最悪だと思えた状況が、何かのきっかけで思いもしない方向に好転することだってあるんだよ("How Do You Know?")、というメッセージも心地よい。
ソフトボールの全米選抜チームで活躍してきたが世代交代を進めるチーム方針でお払い箱とされた女性(リース・ウィザースプーン)が、女遊びの派手な人気のプロ野球選手(オーウェン・ウィルソン)と勢いと成り行きで付き合い始めるがしっくりいかない。そんな折、職務における違法取引の嫌疑で刑務所送りになりそうな上に、恋人とも別れ、父親からのプレッシャーもあって切羽詰っている男(ポール・ラッド)が、知人の紹介でこの女性と食事を共にし、恋に落ちてしまう。
なにか取り立ててすごい作品というわけではないのだが、いつものこの監督の仕事らしく、単純な三角関係コメディのようでいて、複雑な人生と心の機微を流れるような語り口で見せる、過小評価されている佳作。リース・ウィザースプーン好きやオーウェン・ウィルソン好きなら楽しめるだろう。リースが演じる前向きに努力と根性で頑張ってきたのに、人生のターニングポイントでそのすべてを失ってしまった切なさをこの人らしく演じているのと、実にお気楽でいい加減な男のように見えるオーウェン・ウィルソンが、子犬のような目でいいところをさらっていくのが見所である。
オーウェン・ウィルソンや、ジャック・ニコルソン演じるポール・ラッドの父親役などが、基本的に自己中心的な本音を隠さない自由奔放なキャラクターとして描かれているのに対し、映画の中心となるリース・ウィザースプーンやポール・ラッドは、周りの期待に応えなくてはならないというプレッシャーのなかで、本音を押し殺していたり、本音がなんなのか分からなくなっているキャラクターである。不器用といえばそうだし、誠実といえばそうだ。自己主張が強くなければ生き残れない米国では、割を食うタイプの人々だともいえる。本作のポイントはここにあるのだろう。
映画は主役2人のひととなりを描き出すために、中盤、少々まどろっこしい展開になって、映画の流れが停滞するのが欠点だが、ある意味、そこにこの作品の誠意があるようにも思う。こういう2人だからこそ、の名場面もある。
ジャック・ニコルソンは監督と縁が深いのだが、まあ、ラッドにプレッシャーを与える偉大で怪物的な父親という役柄を考えればこれ以上にないキャスティングではあるが、脇役なのに必要以上の存在感で目を引いてしまい、少しバランスが崩れている気もするかな。
70歳になる大ベテラン、ジェームズ・L・ブルックス、監督としては2004年の『スパングリッシュ 太陽の国から来たママのこと』 以来となる新作で、得意の大人のロマンティック・コメディ路線。いつものように脚本も兼ねている。最悪だと思えた状況が、何かのきっかけで思いもしない方向に好転することだってあるんだよ("How Do You Know?")、というメッセージも心地よい。
ソフトボールの全米選抜チームで活躍してきたが世代交代を進めるチーム方針でお払い箱とされた女性(リース・ウィザースプーン)が、女遊びの派手な人気のプロ野球選手(オーウェン・ウィルソン)と勢いと成り行きで付き合い始めるがしっくりいかない。そんな折、職務における違法取引の嫌疑で刑務所送りになりそうな上に、恋人とも別れ、父親からのプレッシャーもあって切羽詰っている男(ポール・ラッド)が、知人の紹介でこの女性と食事を共にし、恋に落ちてしまう。
なにか取り立ててすごい作品というわけではないのだが、いつものこの監督の仕事らしく、単純な三角関係コメディのようでいて、複雑な人生と心の機微を流れるような語り口で見せる、過小評価されている佳作。リース・ウィザースプーン好きやオーウェン・ウィルソン好きなら楽しめるだろう。リースが演じる前向きに努力と根性で頑張ってきたのに、人生のターニングポイントでそのすべてを失ってしまった切なさをこの人らしく演じているのと、実にお気楽でいい加減な男のように見えるオーウェン・ウィルソンが、子犬のような目でいいところをさらっていくのが見所である。
オーウェン・ウィルソンや、ジャック・ニコルソン演じるポール・ラッドの父親役などが、基本的に自己中心的な本音を隠さない自由奔放なキャラクターとして描かれているのに対し、映画の中心となるリース・ウィザースプーンやポール・ラッドは、周りの期待に応えなくてはならないというプレッシャーのなかで、本音を押し殺していたり、本音がなんなのか分からなくなっているキャラクターである。不器用といえばそうだし、誠実といえばそうだ。自己主張が強くなければ生き残れない米国では、割を食うタイプの人々だともいえる。本作のポイントはここにあるのだろう。
映画は主役2人のひととなりを描き出すために、中盤、少々まどろっこしい展開になって、映画の流れが停滞するのが欠点だが、ある意味、そこにこの作品の誠意があるようにも思う。こういう2人だからこそ、の名場面もある。
ジャック・ニコルソンは監督と縁が深いのだが、まあ、ラッドにプレッシャーを与える偉大で怪物的な父親という役柄を考えればこれ以上にないキャスティングではあるが、脇役なのに必要以上の存在感で目を引いてしまい、少しバランスが崩れている気もするかな。
11/20/2010
Harry Potter and the Deathly Hallows Part 1
八リー・ポッターと死の秘宝 Part 1(☆☆☆)
「ハリー・ポッター」シリーズもとうとう最終巻となる第7巻の映画化である。今回が前編、来夏公開のPart-2 で完結となる。2001年から始まった映画化シリーズは、途中で大きく失速することもなく、10年越し(あと1本)で8本の連作が完成することとなったわけだ。これは、素直に凄いことだと思う。
この映画シリーズにはいろいろな楽しみ方があるが、基本的には映画としての過度の期待なしに、原作の動画挿絵集くらいのつもりで見るのが良いと思っている。リアルタイムで物理的にも演技的にも成長していく主人公たちの姿を見守るのも楽しいし、時代を代表する英国名優図鑑としての楽しみもある。そうそう、本作では新たにビル・ナイ、リス・アイファンスがキャストに名を連ねた。2人とも脇役ではあるが、楽しそうに演じている。
監督は5作め以降、デイヴィッド・イェーツで定着し、本作で3本目。前2作はそれほど褒めた出来ではなかったが、今回はわりといい。少し「子供向け」の範疇を越えたハードな描写も交えたダークなトーンのなかで、クライマックスに向かう緊張感や緊迫感が出ているし、舞台が「外」に場所を移すことでスケール感の感じられる画作りも見られる。なにより気に入ったのは、タイトルの「死の秘宝」にまつわる魔法世界の説話が語られるシーンでのアニメーションで、ここだけ独立した作品としても見応えがあるくらいに素晴らしい出来栄えだと思う。
もちろん、「前編」の宿命として話が完結していない弱さはあるし、2本分割で余裕が出たがゆえの中だるみもある。他には、たとえば5作目で登場したイメルダ・スタウントンのキャラクターをお笑いに振り過ぎた後遺症も残っていて、ひとりだけ場違い感満点である痛さもあったりする。が、次回 Part-2 の長い長い予告編としては望みうる最良の部類には違いがあるまい。
今回、2本に分割されたことで、原作からの大きな変更や割愛は避けられたようだ。もっとも、これまでの映画シリーズの中での扱いの大小にあわせて調整がされているようで、扱いが悪くなったり小さくなったりしたところはある。また、これでもなお説明不足というか、原作を読んでいないと意味が分かりにくい部分が残っていたりもするが、映画シリーズをひと通り見てきていれば混乱するほどのものではないだろう。尺の余裕ゆえ可能になったことだろうか、キャラクターの心情に寄り添ったり映像的な見せ場を作る意図で挿入されたシーンがあるが、概ねストーリーテリングのうえで効果的であったと思う。
今回は3D化を目論んでいたが変換プロセスがうまくいかず、2D版のみの公開となった。出来上がった作品の撮り方や編集を見る限りでは、3Dを意識したそれにはなっていないから、3D化断念は大英断だったと思う。Part-2 もそもそもの作りが大きく変わっているとは思えないので、作品という意味では2Dのままでいいんじゃないか。ただし、興行的にはこういうヒット確実な作品で、しかも3D箱で上映しておきながら、3D分の上乗せが見込めないあたりが辛いところだろう。
「ハリー・ポッター」シリーズもとうとう最終巻となる第7巻の映画化である。今回が前編、来夏公開のPart-2 で完結となる。2001年から始まった映画化シリーズは、途中で大きく失速することもなく、10年越し(あと1本)で8本の連作が完成することとなったわけだ。これは、素直に凄いことだと思う。
この映画シリーズにはいろいろな楽しみ方があるが、基本的には映画としての過度の期待なしに、原作の動画挿絵集くらいのつもりで見るのが良いと思っている。リアルタイムで物理的にも演技的にも成長していく主人公たちの姿を見守るのも楽しいし、時代を代表する英国名優図鑑としての楽しみもある。そうそう、本作では新たにビル・ナイ、リス・アイファンスがキャストに名を連ねた。2人とも脇役ではあるが、楽しそうに演じている。
監督は5作め以降、デイヴィッド・イェーツで定着し、本作で3本目。前2作はそれほど褒めた出来ではなかったが、今回はわりといい。少し「子供向け」の範疇を越えたハードな描写も交えたダークなトーンのなかで、クライマックスに向かう緊張感や緊迫感が出ているし、舞台が「外」に場所を移すことでスケール感の感じられる画作りも見られる。なにより気に入ったのは、タイトルの「死の秘宝」にまつわる魔法世界の説話が語られるシーンでのアニメーションで、ここだけ独立した作品としても見応えがあるくらいに素晴らしい出来栄えだと思う。
もちろん、「前編」の宿命として話が完結していない弱さはあるし、2本分割で余裕が出たがゆえの中だるみもある。他には、たとえば5作目で登場したイメルダ・スタウントンのキャラクターをお笑いに振り過ぎた後遺症も残っていて、ひとりだけ場違い感満点である痛さもあったりする。が、次回 Part-2 の長い長い予告編としては望みうる最良の部類には違いがあるまい。
今回、2本に分割されたことで、原作からの大きな変更や割愛は避けられたようだ。もっとも、これまでの映画シリーズの中での扱いの大小にあわせて調整がされているようで、扱いが悪くなったり小さくなったりしたところはある。また、これでもなお説明不足というか、原作を読んでいないと意味が分かりにくい部分が残っていたりもするが、映画シリーズをひと通り見てきていれば混乱するほどのものではないだろう。尺の余裕ゆえ可能になったことだろうか、キャラクターの心情に寄り添ったり映像的な見せ場を作る意図で挿入されたシーンがあるが、概ねストーリーテリングのうえで効果的であったと思う。
今回は3D化を目論んでいたが変換プロセスがうまくいかず、2D版のみの公開となった。出来上がった作品の撮り方や編集を見る限りでは、3Dを意識したそれにはなっていないから、3D化断念は大英断だったと思う。Part-2 もそもそもの作りが大きく変わっているとは思えないので、作品という意味では2Dのままでいいんじゃないか。ただし、興行的にはこういうヒット確実な作品で、しかも3D箱で上映しておきながら、3D分の上乗せが見込めないあたりが辛いところだろう。
9/07/2010
The Hangover
ハングオーバー! 消えた花ムコと史上最悪の二日酔い (☆☆☆★)
2009 のスリーパー・ヒットとなった低予算コメディ映画が紆余曲折あってようやく日本上陸。当初未公開でパッケージソフト化の予定だったが、ファンの署名による上映嘆願で公開が決定。都内、当初はシネセゾン渋谷・新宿武蔵野館で申し訳程度にスタートしたが、8月末より突如として東急系3館にも登場。なんと、予想だにせぬことながら、老舗基幹大劇場・意味不明に豪華なシャンデリアで有名な丸の内ルーブルで上映されるという前代未聞の自体になった。まあ、『キャッツ&ドッグス地球最大の肉球大戦争』が不入りだったとか、そんな理由なんだろうけどさ。
結婚式を間近に控えた男とその友人、婚約者の弟が連れ立って、ラスベガスで馬鹿騒ぎの一晩を過ごそうとするのだが、ホテルで目が覚めてみるとひどい二日酔いのうえに全員そろって記憶がない。部屋の中はめちゃくちゃで、新郎は行方不明。結婚式に間に合うように新郎を見つけ出し、連れ帰るためにわずかな手がかりをもとに昨晩の足取りをたどっていくことになる、という話。
結婚前の男とその友達が繰り広げるバチェラー・パーティの乱痴気騒ぎや、その予期せぬ顛末を描いたコメディは目新しいものではなく、比較的、お馴染みのモチーフといえる。本作が新しいとしたら、それは、乱痴気騒ぎのドタバタそのものをすっとばし、乱痴気騒ぎの記憶を失った登場人物らが残されたみょうちきりんな手がかりをもとにして不覚の一晩に何が起こったのかを探し求めて右往左往するという、「謎解き」で興味を引っ張るクレバーな構成である。時間軸に沿ってストレートに構成したら単なる下劣な狂騒でしかない話を、正気に戻った登場人物が何も知らない観客と共に「再発見」していくというアイディアによって、改めてストーリーテリングの妙を楽しめる作品になった。
もちろん、ことが明らかになってみれば、その程度のことか、と、コメディとしては意外性に欠けるんじゃないか、と見る向きもあるだろう。しかし、リアルに考えると正直、勘弁願いたい出来事ばかりでもある。うまいなぁ、と思うのは、ここらあたりのさじ加減で、絶対ないんだけど、リアルに起こりうる範囲を大きく逸脱するのではなく、しかも、絶対あってほしくない感じという微妙なラインを行ったり来たりするところが絶妙なバランスだ。
そもそも、登場人物たちにはコメディ的な誇張もあるが、基本的には「生身の人間」としてのリアリティから乖離しないキャラクター作りになっている。目が覚めて、正気に戻った登場人物らの本気の狼狽ぶりには、笑いながらも同情し、自分がその場にいたら、自分がその当人だったら嫌だなぁ、と感情移入しながらみることができるのが本作の良いところである。そういう意味で、映画の中で起こる(起こったとされる)事件の数々に、ぎりぎりのところでの、可能性レベルでなら信じられる程度のリアリティがあるのは重要なことである。
ストーリーテリングの手法は(コメディとしては)斬新であったが、手掛りを追っていき、それ以上の展開に行き詰ると都合よく何かイベントが起こって次に進むという、ある種の「パターン」に頼りすぎているところが少し単調ではある。最近よく見る顔の一人だったブラッドリー・クーパーは、本作で間違いなく人気スターへの道筋を確実なものにしただろう。「顔はハンサムだけど、個性に欠けて薄口な添え物」的なポジションはそろそろ卒業だ。
2009 のスリーパー・ヒットとなった低予算コメディ映画が紆余曲折あってようやく日本上陸。当初未公開でパッケージソフト化の予定だったが、ファンの署名による上映嘆願で公開が決定。都内、当初はシネセゾン渋谷・新宿武蔵野館で申し訳程度にスタートしたが、8月末より突如として東急系3館にも登場。なんと、予想だにせぬことながら、老舗基幹大劇場・意味不明に豪華なシャンデリアで有名な丸の内ルーブルで上映されるという前代未聞の自体になった。まあ、『キャッツ&ドッグス地球最大の肉球大戦争』が不入りだったとか、そんな理由なんだろうけどさ。
結婚式を間近に控えた男とその友人、婚約者の弟が連れ立って、ラスベガスで馬鹿騒ぎの一晩を過ごそうとするのだが、ホテルで目が覚めてみるとひどい二日酔いのうえに全員そろって記憶がない。部屋の中はめちゃくちゃで、新郎は行方不明。結婚式に間に合うように新郎を見つけ出し、連れ帰るためにわずかな手がかりをもとに昨晩の足取りをたどっていくことになる、という話。
結婚前の男とその友達が繰り広げるバチェラー・パーティの乱痴気騒ぎや、その予期せぬ顛末を描いたコメディは目新しいものではなく、比較的、お馴染みのモチーフといえる。本作が新しいとしたら、それは、乱痴気騒ぎのドタバタそのものをすっとばし、乱痴気騒ぎの記憶を失った登場人物らが残されたみょうちきりんな手がかりをもとにして不覚の一晩に何が起こったのかを探し求めて右往左往するという、「謎解き」で興味を引っ張るクレバーな構成である。時間軸に沿ってストレートに構成したら単なる下劣な狂騒でしかない話を、正気に戻った登場人物が何も知らない観客と共に「再発見」していくというアイディアによって、改めてストーリーテリングの妙を楽しめる作品になった。
もちろん、ことが明らかになってみれば、その程度のことか、と、コメディとしては意外性に欠けるんじゃないか、と見る向きもあるだろう。しかし、リアルに考えると正直、勘弁願いたい出来事ばかりでもある。うまいなぁ、と思うのは、ここらあたりのさじ加減で、絶対ないんだけど、リアルに起こりうる範囲を大きく逸脱するのではなく、しかも、絶対あってほしくない感じという微妙なラインを行ったり来たりするところが絶妙なバランスだ。
そもそも、登場人物たちにはコメディ的な誇張もあるが、基本的には「生身の人間」としてのリアリティから乖離しないキャラクター作りになっている。目が覚めて、正気に戻った登場人物らの本気の狼狽ぶりには、笑いながらも同情し、自分がその場にいたら、自分がその当人だったら嫌だなぁ、と感情移入しながらみることができるのが本作の良いところである。そういう意味で、映画の中で起こる(起こったとされる)事件の数々に、ぎりぎりのところでの、可能性レベルでなら信じられる程度のリアリティがあるのは重要なことである。
ストーリーテリングの手法は(コメディとしては)斬新であったが、手掛りを追っていき、それ以上の展開に行き詰ると都合よく何かイベントが起こって次に進むという、ある種の「パターン」に頼りすぎているところが少し単調ではある。最近よく見る顔の一人だったブラッドリー・クーパーは、本作で間違いなく人気スターへの道筋を確実なものにしただろう。「顔はハンサムだけど、個性に欠けて薄口な添え物」的なポジションはそろそろ卒業だ。
3/28/2010
The Hurt Locker
ハート・ロッカー (☆☆☆)
ハリソン・フォード主演で撮ったロシア原子力潜水艦事故映画『K-19』 の興行的失敗で表舞台からしばらく姿を消していたキャスリン・ビグロウが、2004年のバグダッドを舞台に駐留米軍の爆弾処理班の活躍を描いたインディペンデント映画で戻ってきた。実際に戦場を知る観客たちからは、本作品の描写の不正確さや現実味のなさに相当不満や批判がでてきているが、それはインディペンデント映画の宿命として、米軍の支援なしに製作されたことなんかも関係しているのだろう。
この映画は、基本的に戦場で命を懸けて任務に当たる兵士たちへの賛歌という視点で作られている。だから、過酷な環境に過剰に適応した結果、他に自らの存在意義を求めることが出来なくなった主人公が、ある種の諦念と覚悟を持って戦場に戻っていく姿をヒロイックに描く一方で、末端の兵士たちをそのような状況に追い込む戦争を始めた国家(ブッシュの米国)の判断については、現在のムードを踏襲し、否定的なトーンを醸し出すようには作っているものの、映画全体として、過度に政治的であることを避けようという意図も感じさせる作りになっている。題材が題材であるから仕方のないことだが、結果として、米軍(兵士)の戦場における行動は美化されてみえ、それに対抗する勢力(いわゆる過激派のテロリスト)の卑劣さが強調されてみえる。このあたり、アメリカの視点で作られた作品の限界を感じないわけではない。
死亡率が高いという危険な任務をスリルを楽しむがごとくにこなしていく主人公の姿を臨場感とサスペンスたっぷりに描き出していく演出は、骨太のアクション描写で鳴らすビグロウの持ち味が100%発揮されていてなかなか見応えがある。これまでのビグロウの作品を見てきて、部分部分は面白くとも、映画全体を纏め上げる力、緩急をつけてストーリーを語る力においては評価できるものがないと感じていた。本作が良かった理由を考えてみるに、これがストーリーでみせる映画ではなく、瞬発力の必要な描写を積み上げ、ぐいぐい力で押して行くスタイルの作品であることが、彼女の資質に合っていたのではないだろうか。
ハリソン・フォード主演で撮ったロシア原子力潜水艦事故映画『K-19』 の興行的失敗で表舞台からしばらく姿を消していたキャスリン・ビグロウが、2004年のバグダッドを舞台に駐留米軍の爆弾処理班の活躍を描いたインディペンデント映画で戻ってきた。実際に戦場を知る観客たちからは、本作品の描写の不正確さや現実味のなさに相当不満や批判がでてきているが、それはインディペンデント映画の宿命として、米軍の支援なしに製作されたことなんかも関係しているのだろう。
この映画は、基本的に戦場で命を懸けて任務に当たる兵士たちへの賛歌という視点で作られている。だから、過酷な環境に過剰に適応した結果、他に自らの存在意義を求めることが出来なくなった主人公が、ある種の諦念と覚悟を持って戦場に戻っていく姿をヒロイックに描く一方で、末端の兵士たちをそのような状況に追い込む戦争を始めた国家(ブッシュの米国)の判断については、現在のムードを踏襲し、否定的なトーンを醸し出すようには作っているものの、映画全体として、過度に政治的であることを避けようという意図も感じさせる作りになっている。題材が題材であるから仕方のないことだが、結果として、米軍(兵士)の戦場における行動は美化されてみえ、それに対抗する勢力(いわゆる過激派のテロリスト)の卑劣さが強調されてみえる。このあたり、アメリカの視点で作られた作品の限界を感じないわけではない。
死亡率が高いという危険な任務をスリルを楽しむがごとくにこなしていく主人公の姿を臨場感とサスペンスたっぷりに描き出していく演出は、骨太のアクション描写で鳴らすビグロウの持ち味が100%発揮されていてなかなか見応えがある。これまでのビグロウの作品を見てきて、部分部分は面白くとも、映画全体を纏め上げる力、緩急をつけてストーリーを語る力においては評価できるものがないと感じていた。本作が良かった理由を考えてみるに、これがストーリーでみせる映画ではなく、瞬発力の必要な描写を積み上げ、ぐいぐい力で押して行くスタイルの作品であることが、彼女の資質に合っていたのではないだろうか。
8/22/2009
Hachiko: A Dog's Story
Hachi 約束の犬(☆☆☆)
神山征一郎監督作品で、わりとヒットした『ハチ公物語』(1987) の米国版リメイクである。ストーリー、エピソードや人物配置は基本的にオリジナルを忠実になぞったもので、主人公が大学教授であるというところまで同じ。米国といってもロードアイランドという土地を舞台に選んだのは、主人公が毎日列車(コミューター・トレイン)で仕事に通う設定で違和感がないことが一番の理由だろう。犬は秋田犬。遠く日本から海を越えてやってきたこの犬は、ご丁寧にも首輪に漢字の「八」の字が書かれていたことから、「ハチ」と呼ばれる。ついでに、映画の最後には、「本当のハチ公は東京・渋谷で主人を待ち続けた犬だ」と紹介が添えられている。それだけなら、まあ、米国を舞台に焼きなおしたが、原典を尊重していますよ、という作り手の誠意のようなものを感じないでもない。
しかし、この映画、どこか座りが悪いのである。それは、「主人公の息子が教室で語って聞かせる、父と愛犬の話」という物語の構造をとっているからだろう。「これは日本で実際にあったお話しにインスパイアされて、米国を舞台に焼きなおしましたよ」と、映画の製作者から観客に説明がある。そういう映画の中で、少年が出てきて、自分の自分の父の話として、過去の出来事として、物語を語る。論理的に矛盾しているとまでいうつもりはないが、なんだか不必要に虚構を2つ重ねているように思えて違和感が残るのだ。
米国人の少年が語って聞かせる話、という構造をとるのであれば、話の内容は「誰からから聞いた日本の話」でも成立するはずである。あるいは、「本当のハチ公は東京・渋谷で主人を待ち続けた犬なんだけど、それを米国を舞台に焼きなおしましたよ」という説明が入るのであれば、少年が父と愛犬の話として物語を語る必然性はなくなる。あるいは、いっそのこと、「みんなの前で話すネタに困った少年が、どこかでみた日本映画のストーリーを自分の父親と愛犬の話として語って聞かせたことがバレて、校長室に呼ばれて叱られる」といったエピローグでもついていたら、よほど座りが良いと思うのだが。そうしたら少年が大きく板書する<HACHIKO>の「KO:公」が、一体全体どこに由来するのかという謎も解けるというものだ。
犬視点での撮影はともかく、犬が死ぬ間際に幸せだった日々を回想するという演出では、いったい涙を流したらよいのやら、吹き出して笑ってしまったらいいものなのやら困るという不思議な気分を味わえるのだが、日本の『ハチ公物語』をそれほど面白いとも思わなかった当方にとって、犬を可愛らしく撮れている点においては米国版のほうが圧倒的に出来が良いと感じた。米国のそれなりに厳しい規制をクリアしながら、犬のしぐさや表情をきっちりフィルムに焼き付けるには忍耐強さも必要だっただろう。アニマル・トレーナーも優秀であるに違いない。まあ、いずれにせよラッセ・ハルストロムなどというビッグ・ネームを担ぎ出してきて作るような映画ではないことだけは確かである。
神山征一郎監督作品で、わりとヒットした『ハチ公物語』(1987) の米国版リメイクである。ストーリー、エピソードや人物配置は基本的にオリジナルを忠実になぞったもので、主人公が大学教授であるというところまで同じ。米国といってもロードアイランドという土地を舞台に選んだのは、主人公が毎日列車(コミューター・トレイン)で仕事に通う設定で違和感がないことが一番の理由だろう。犬は秋田犬。遠く日本から海を越えてやってきたこの犬は、ご丁寧にも首輪に漢字の「八」の字が書かれていたことから、「ハチ」と呼ばれる。ついでに、映画の最後には、「本当のハチ公は東京・渋谷で主人を待ち続けた犬だ」と紹介が添えられている。それだけなら、まあ、米国を舞台に焼きなおしたが、原典を尊重していますよ、という作り手の誠意のようなものを感じないでもない。
しかし、この映画、どこか座りが悪いのである。それは、「主人公の息子が教室で語って聞かせる、父と愛犬の話」という物語の構造をとっているからだろう。「これは日本で実際にあったお話しにインスパイアされて、米国を舞台に焼きなおしましたよ」と、映画の製作者から観客に説明がある。そういう映画の中で、少年が出てきて、自分の自分の父の話として、過去の出来事として、物語を語る。論理的に矛盾しているとまでいうつもりはないが、なんだか不必要に虚構を2つ重ねているように思えて違和感が残るのだ。
米国人の少年が語って聞かせる話、という構造をとるのであれば、話の内容は「誰からから聞いた日本の話」でも成立するはずである。あるいは、「本当のハチ公は東京・渋谷で主人を待ち続けた犬なんだけど、それを米国を舞台に焼きなおしましたよ」という説明が入るのであれば、少年が父と愛犬の話として物語を語る必然性はなくなる。あるいは、いっそのこと、「みんなの前で話すネタに困った少年が、どこかでみた日本映画のストーリーを自分の父親と愛犬の話として語って聞かせたことがバレて、校長室に呼ばれて叱られる」といったエピローグでもついていたら、よほど座りが良いと思うのだが。そうしたら少年が大きく板書する<HACHIKO>の「KO:公」が、一体全体どこに由来するのかという謎も解けるというものだ。
犬視点での撮影はともかく、犬が死ぬ間際に幸せだった日々を回想するという演出では、いったい涙を流したらよいのやら、吹き出して笑ってしまったらいいものなのやら困るという不思議な気分を味わえるのだが、日本の『ハチ公物語』をそれほど面白いとも思わなかった当方にとって、犬を可愛らしく撮れている点においては米国版のほうが圧倒的に出来が良いと感じた。米国のそれなりに厳しい規制をクリアしながら、犬のしぐさや表情をきっちりフィルムに焼き付けるには忍耐強さも必要だっただろう。アニマル・トレーナーも優秀であるに違いない。まあ、いずれにせよラッセ・ハルストロムなどというビッグ・ネームを担ぎ出してきて作るような映画ではないことだけは確かである。
8/08/2009
He is Just not That into You
そんな彼なら捨てちゃえば?(☆☆★)
『そんな彼なら捨てちゃえば?』・・・・まあ、女性向き映画として売るための邦題だ。ここから喚起されるのは、「主体的で強い現代女性が、つまらない男を捨て、恋愛を積極的に楽しむ(明るい)コメディ」を想起させられるけれど、実際のところは、すれ違ってばかりのビター・スウィートな男女関係を描く群像劇なので要注意。
原題は「彼、それほどあなたに入れ込んじゃいないわよ」といったところだ。原作というのだろうか、ネタもととなっているのはSex & the City の脚本家による)同タイトルの恋愛指南書で、これを材料に使って物語仕立てにしたのが本作というわけである。ちなみに、訳書の邦題が『そんな彼なら捨てちゃえば?』で、映画はこちらをいただいてきたようだ。まあ、本作の登場人物が語る恋愛における駆け引きのあれこれが、「原作」由来のネタということになるだろう。物語としては、そうした駆け引きだったり、それに端を発する気持ちのすれ違いだったり、引き起こされる悲喜劇だったりを、複数のカップルの関係性のなかで具現化していくかたちで描かれている。この脚本を書いたのは、『25年目のキス (Never been Kissed)』を書いたコンビ、アビー・コーンとマーク・シルバーステインだ。実はこれ、ちょい役で出演のあるドリューが主催するフラワー・フィルムズの作品なのだ。自身のヒット作であり、佳作を書いたコンビを起用しての映画化、というわけだ。
出演者が多彩である。なにしろ、スカーレット・ヨハンソン、ジェニファー・アニストン、ジェニファー・コネリー、そしてもちろん、ドリュー・バリモアと、特に女優は新旧華のあるところをずらっと揃えている。しかし、作品の柱になっているのは、恋愛下手で損ばかりしている女の子を演じるジニファー・グッドウィンと、彼女の相談に乗って友人付き合いしているうちに情が生まれてしまう青年を演じるジャスティン・ロングだ。この二人、役者としても、役柄としても、映画の主役というよりは、コメディ・リリーフ的な脇役タイプであるところが面白い。そして、映画の一番いいところをさらっていくのが、意表をついてベン・アフレッだ。
"How to" ものというのか、英語でいうところの "Self-Help book" が土台というなら、もっとポップで楽しく、虚実はともかく薀蓄いっぱいの映画に仕立てることもできたであろうし、おそらく、普通はそれを考えるものだと思う。この映画のセンスがよいところは、敢えてそうしなかったところ、コメディ仕立てを装いながら繊細なドラマを狙ってきたところであると思うし、それ自体は評価したいと思っている。ただ、逆に、そういう難しいところを狙ったがゆえにハードルが高くなり、脚本にしろ、演出にしろ、どこか力が及んでいないように思われるのである。少なくとも、軽いコメディを期待した観客をいい意味で裏切り、満足させるだけのパンチはここにない。監督はTVドラマを中心に活躍しているケン・クワピス(私にとっては悲惨な出来栄えだったシンディ・ローパー主演『バイブス/秘宝の謎』の監督、のイメージが未だに離れないんだが)。
『そんな彼なら捨てちゃえば?』・・・・まあ、女性向き映画として売るための邦題だ。ここから喚起されるのは、「主体的で強い現代女性が、つまらない男を捨て、恋愛を積極的に楽しむ(明るい)コメディ」を想起させられるけれど、実際のところは、すれ違ってばかりのビター・スウィートな男女関係を描く群像劇なので要注意。
原題は「彼、それほどあなたに入れ込んじゃいないわよ」といったところだ。原作というのだろうか、ネタもととなっているのはSex & the City の脚本家による)同タイトルの恋愛指南書で、これを材料に使って物語仕立てにしたのが本作というわけである。ちなみに、訳書の邦題が『そんな彼なら捨てちゃえば?』で、映画はこちらをいただいてきたようだ。まあ、本作の登場人物が語る恋愛における駆け引きのあれこれが、「原作」由来のネタということになるだろう。物語としては、そうした駆け引きだったり、それに端を発する気持ちのすれ違いだったり、引き起こされる悲喜劇だったりを、複数のカップルの関係性のなかで具現化していくかたちで描かれている。この脚本を書いたのは、『25年目のキス (Never been Kissed)』を書いたコンビ、アビー・コーンとマーク・シルバーステインだ。実はこれ、ちょい役で出演のあるドリューが主催するフラワー・フィルムズの作品なのだ。自身のヒット作であり、佳作を書いたコンビを起用しての映画化、というわけだ。
出演者が多彩である。なにしろ、スカーレット・ヨハンソン、ジェニファー・アニストン、ジェニファー・コネリー、そしてもちろん、ドリュー・バリモアと、特に女優は新旧華のあるところをずらっと揃えている。しかし、作品の柱になっているのは、恋愛下手で損ばかりしている女の子を演じるジニファー・グッドウィンと、彼女の相談に乗って友人付き合いしているうちに情が生まれてしまう青年を演じるジャスティン・ロングだ。この二人、役者としても、役柄としても、映画の主役というよりは、コメディ・リリーフ的な脇役タイプであるところが面白い。そして、映画の一番いいところをさらっていくのが、意表をついてベン・アフレッだ。
"How to" ものというのか、英語でいうところの "Self-Help book" が土台というなら、もっとポップで楽しく、虚実はともかく薀蓄いっぱいの映画に仕立てることもできたであろうし、おそらく、普通はそれを考えるものだと思う。この映画のセンスがよいところは、敢えてそうしなかったところ、コメディ仕立てを装いながら繊細なドラマを狙ってきたところであると思うし、それ自体は評価したいと思っている。ただ、逆に、そういう難しいところを狙ったがゆえにハードルが高くなり、脚本にしろ、演出にしろ、どこか力が及んでいないように思われるのである。少なくとも、軽いコメディを期待した観客をいい意味で裏切り、満足させるだけのパンチはここにない。監督はTVドラマを中心に活躍しているケン・クワピス(私にとっては悲惨な出来栄えだったシンディ・ローパー主演『バイブス/秘宝の謎』の監督、のイメージが未だに離れないんだが)。
7/20/2009
Harry Potter and the Half Blood Prince
ハリー・ポッターと謎のプリンス(☆☆)
昨年は『ダークナイト』の超特大ヒットで十分に潤ったワーナーブラザーズが、脚本家ストの影響で弱くなった翌夏のラインナップを補強したいという身勝手なビジネス上の理由のみで公開を先送りにされ、ファンをイライラさせたシリーズ最新作である。
考えてみれば、これは原作が完結したあと最初にリリースされた映画版、ということになる。もちろん、製作準備はは完結巻の発売前から始まっているとはいえ、原作者とのやり取りなどを通じ、最終巻の展開を踏まえた脚色が可能だった最初の作品、ということになる。また、前作からシリーズの舵取りを託されたデイヴィッド・イェーツ監督は、完結巻2部作も引き続き手掛けることが確定しており、その意味においても続く2本の作品を見据えた構成を念頭に置いたことであろう。
普通なら、そういう要素は作品に対してプラスに作用しそうなものだと思う。だいたい、これまでの作品はどこを刈り込んだら良いのか判断が難しく、メリハリの乏しい総花的な動く挿絵集(1, 2) になるか、細部の豊かさや楽しいところを全部刈り込んでしまいその巻のメインプロットをこなすだけのやせ細った凡作(3, 5)になるかのどちらかになっていたし、逆に言えば、観客としてもそれ以上のものを要求しようとは思いもしなかったところがある。ある意味で、今回はそれを脱却する上でまたとない、恵まれた状況にあるはずなのである。しかし、その結果は、残念ながらマイナスに働いている、としか思えない。
本作を1本の作品としてある程度の独立性を重んじるのであれば、本来、タイトルにもなっている「謎のプリンス」にまつわるプロットを中心に置くべきであろうが、この作り手はそれを本筋とは離れた「脇道」と考えたのか、その扱いが非常に軽いものにした。当然というべきか、必然というべきか、1本の作品としての軸を失った本作は、本当のクライマックスを前にして今しか挿入のタイミングがないに違いない「能天気な学園恋愛コメディ」と、最終2部作への伏線でしかない不穏でダークな前振りが分裂症気味に同居するまとまりのない作品になってしまっている。もともと派手な見せ場を欠くのがこの巻の特徴ではあるが、やり方次第でクライマックスはもっと派手に盛り上げられたはず。しかし、最終2部作との住み分けを踏まえてのことか、スケール感に乏しい地味な展開に終始するばかりだからフラストレーションが溜まる。まあ、想像した範疇とはいえると思うのだが、本作は結局のところ、地味な中継ぎというのか、次回作に向けた壮大な予告編という存在から一歩たりとも逸脱しようとしないのである。これでは、さすがに退屈だ。
主演の少年・少女俳優たちは立派な若者へと成長し、最終2部作への準備も整ったな、と思わせるものがある。華やかな英国名優辞典と化したシリーズではあるが、今回はジム・ブロードベントが加わって怪演を披露、確かに、毎度毎度のゲスト・キャラクターの存在は、シリーズに新鮮味をもたらす効果があることを再確認できた。一方、少年・少女の成長に合わせて(当たり前のことであるが)レギュラー陣の疲れと老化が目立ってきており、まあ、無理のないいい具合のところで完結を迎えることができるかどうか、あと少し、キャストの無事と健康を祈りたい。
昨年は『ダークナイト』の超特大ヒットで十分に潤ったワーナーブラザーズが、脚本家ストの影響で弱くなった翌夏のラインナップを補強したいという身勝手なビジネス上の理由のみで公開を先送りにされ、ファンをイライラさせたシリーズ最新作である。
考えてみれば、これは原作が完結したあと最初にリリースされた映画版、ということになる。もちろん、製作準備はは完結巻の発売前から始まっているとはいえ、原作者とのやり取りなどを通じ、最終巻の展開を踏まえた脚色が可能だった最初の作品、ということになる。また、前作からシリーズの舵取りを託されたデイヴィッド・イェーツ監督は、完結巻2部作も引き続き手掛けることが確定しており、その意味においても続く2本の作品を見据えた構成を念頭に置いたことであろう。
普通なら、そういう要素は作品に対してプラスに作用しそうなものだと思う。だいたい、これまでの作品はどこを刈り込んだら良いのか判断が難しく、メリハリの乏しい総花的な動く挿絵集(1, 2) になるか、細部の豊かさや楽しいところを全部刈り込んでしまいその巻のメインプロットをこなすだけのやせ細った凡作(3, 5)になるかのどちらかになっていたし、逆に言えば、観客としてもそれ以上のものを要求しようとは思いもしなかったところがある。ある意味で、今回はそれを脱却する上でまたとない、恵まれた状況にあるはずなのである。しかし、その結果は、残念ながらマイナスに働いている、としか思えない。
本作を1本の作品としてある程度の独立性を重んじるのであれば、本来、タイトルにもなっている「謎のプリンス」にまつわるプロットを中心に置くべきであろうが、この作り手はそれを本筋とは離れた「脇道」と考えたのか、その扱いが非常に軽いものにした。当然というべきか、必然というべきか、1本の作品としての軸を失った本作は、本当のクライマックスを前にして今しか挿入のタイミングがないに違いない「能天気な学園恋愛コメディ」と、最終2部作への伏線でしかない不穏でダークな前振りが分裂症気味に同居するまとまりのない作品になってしまっている。もともと派手な見せ場を欠くのがこの巻の特徴ではあるが、やり方次第でクライマックスはもっと派手に盛り上げられたはず。しかし、最終2部作との住み分けを踏まえてのことか、スケール感に乏しい地味な展開に終始するばかりだからフラストレーションが溜まる。まあ、想像した範疇とはいえると思うのだが、本作は結局のところ、地味な中継ぎというのか、次回作に向けた壮大な予告編という存在から一歩たりとも逸脱しようとしないのである。これでは、さすがに退屈だ。
主演の少年・少女俳優たちは立派な若者へと成長し、最終2部作への準備も整ったな、と思わせるものがある。華やかな英国名優辞典と化したシリーズではあるが、今回はジム・ブロードベントが加わって怪演を披露、確かに、毎度毎度のゲスト・キャラクターの存在は、シリーズに新鮮味をもたらす効果があることを再確認できた。一方、少年・少女の成長に合わせて(当たり前のことであるが)レギュラー陣の疲れと老化が目立ってきており、まあ、無理のないいい具合のところで完結を迎えることができるかどうか、あと少し、キャストの無事と健康を祈りたい。
2/07/2009
High School Musical 3 : Senior Year
ハイスクール・ミュージカル ザ・ムービー(☆☆☆)
いや、びっくり。こういう映画の日本での興行価値ってどうなんだろうと思っていたら、中学生、高校生くらいまでの女の子で劇場が埋まっているのな。ああ、かつてならこういう層の観客が、海外のアイドルやスターにあこがれて、「スクリーン」や「ロードショー」を買っていたんだろうねぇ、、、。今や絶滅した観客層だと思っていたよ。前売り好調という話は聞いていたけれど、いつのまに浸透していたんだろ?
さて、このシリーズ。もともとは米CATV「ディズニー・チャネル」が製作、放映したオリジナルTVムービーであった。この出来栄えが存外によいものであり、しかもビデオやCDを併せて記録破りの大ヒットを飛ばしたことから、舞台版に加え、続編2本を製作、3本目は劇場作品として製作・公開するという大プロジェクトへと発展したのである。そんなわけで本作の原題には「3」とある。経緯を知らない観客はいきなり画面に「3」とでたらびっくりするかもしれないが、まあ、先立つ2本をみていなくても鑑賞の妨げになるほどの障害にはならないので大丈夫。
ところで、最初のTVムービーは、ハイスクールにおけるミュージカル製作をテーマに置いた「ミュージカル風」の作品であり、ストーリーの良さと楽曲の良さが相まって、ちょっとした拾い物として面白く鑑賞したことを覚えている。敢えて「ミュージカル風」と書いたのは、スタイルとして本格的なミュージカルと、たとえば80年代の大ヒット作(で、変則的なミュージカルでもある)『フットルース』の、いってみればちょうど中間あたりを狙ったような作風だったからだ。キャッチーなポップソングに乗せて主人公らが歌い踊るシーンをアクセントにしながらテンポ良くストーリーを語っていく手法には、ミュージカル入門編的な趣きがあった。このスタイルは、シリーズを通じて本作にまで受け継がれている。(ちなみに第2作も見ているのだが、夏休みのアルバイト先であるカントリー・クラブを舞台とし、青い空、緑の芝生にプールと、開放感溢れる映像の魅力で新鮮味を出そうとしたが、とっちらかったストーリーにしろ、いまひとつパンチの欠けた楽曲にしろ、人気に便乗していかにも急造した感が拭えず、あまり感心しない作品であった。)
そして満を持して登場の第3作。サブタイトルに「Senior Year」とうたっているとおり、高校生活の区切りとなる最終年度、卒業をひかえ、恋や進路に悩む主人公らの姿を描いてシリーズに区切りをつけるものになっている。バスケットボールの才能を評価されて地元アルバカーキ大(字幕ではABQ)からオファーをもらってはいるが、舞台の楽しさにも目覚めてしまった主人公と、遠隔地の名門スタンフォード(同じく字幕ではST)への進学が決まっているヒロインのカップルを中心に話が展開。学園もの映画の定番かつ華であるシニア・プロム、卒業制作ミュージカルの舞台をクライマックスに、卒業式で大団円というようにネタが揃っているのだから、盛り上がらない方がおかしい。実際のところストーリーの求心力と楽曲の魅力で「1」にはかなわないが、劇場版ということで製作規模もある程度大きくなっており、華やかで楽しい作品に仕上がっている。
そうはいっても、いくつか残念なところはある。その中でも最大のものは、プロムの扱いだ。見せ場が分散するのを避けたかったのか、卒業制作舞台のシークエンスとの重複を避けるためか、ここを「プロムに出席せずにスタンフォードまでクルマを飛ばした主人公と、大学の事前オリエンテーションに参加していたヒロイン2人だけのシーン」で置き換えてしまい、いってみればプロムをそっくり全部「割愛」してしまったのだ。それまでのストーリーのなかで、チケット販売にはじまり、意中の相手を誘う苦労なども盛り込んでいるのだから、これは構成上の大きな問題だと思う。楽曲や歌詞の工夫で学校の中で起こっている出来事と、2人だけのシーンをカットバックするなりなんなりのやりようはあったはずなのだが、「ミュージカル風」であるこのシリーズの単純な「スタイル」では、そうした複雑なシーンを組み立てるのは難しかったのかもしれない。他にも、その「スタイル」ゆえといえるのだが、見せ場を作るためだけのようなミュージカル・シークエンス(ミュージカル嫌いが云うところのいわゆる「唐突にうたって踊りだす」)の挿入なども気になった。まあ、このあたりを出演者のフレッシュな魅力と勢いで乗り切ってしまうところがシリーズの魅力でもあるので、洗練されたミュージカルを求めるのはお門違いだと目をつむっておくことにする。
「ハイスクール」というわりには、今日的な課題と無縁のあまりに健全で明るい理想的な学校生活で、優等生の美男美女が主人公では面白くもなんともないと揶揄されるかもしれないが、それはこれが「ディズニーもの」であるということだけでなく、主として中学生や小学校高学年くらいの背伸びがしたい子供たちを想定観客層として作っていることを考えればこれが自然な作り方であり、批判には当たらない。また、このシリーズの主人公が「バスケット・ボールで活躍する人気者で、本作ではチームのキャプテン(のひとり)で人気者」であるのが気に入らない向きもあるようだが、確かに、典型的なハイスクールものでは、学校社会の底辺や周辺を主人公にして、いわゆる「Jocks」を仇役にするのが通例であることを思うと珍しい部類であるとはいえよう。ただ、こういう主人公が悩んだ末にスポーツ馬鹿一本やりの道を選ばないことや、芸術家肌の友人や、チア・リーダータイプではない聡明なヒロインと互いを認め合っていくような描き方がなされているところがポイントなんだけれどね。
いや、びっくり。こういう映画の日本での興行価値ってどうなんだろうと思っていたら、中学生、高校生くらいまでの女の子で劇場が埋まっているのな。ああ、かつてならこういう層の観客が、海外のアイドルやスターにあこがれて、「スクリーン」や「ロードショー」を買っていたんだろうねぇ、、、。今や絶滅した観客層だと思っていたよ。前売り好調という話は聞いていたけれど、いつのまに浸透していたんだろ?
さて、このシリーズ。もともとは米CATV「ディズニー・チャネル」が製作、放映したオリジナルTVムービーであった。この出来栄えが存外によいものであり、しかもビデオやCDを併せて記録破りの大ヒットを飛ばしたことから、舞台版に加え、続編2本を製作、3本目は劇場作品として製作・公開するという大プロジェクトへと発展したのである。そんなわけで本作の原題には「3」とある。経緯を知らない観客はいきなり画面に「3」とでたらびっくりするかもしれないが、まあ、先立つ2本をみていなくても鑑賞の妨げになるほどの障害にはならないので大丈夫。
ところで、最初のTVムービーは、ハイスクールにおけるミュージカル製作をテーマに置いた「ミュージカル風」の作品であり、ストーリーの良さと楽曲の良さが相まって、ちょっとした拾い物として面白く鑑賞したことを覚えている。敢えて「ミュージカル風」と書いたのは、スタイルとして本格的なミュージカルと、たとえば80年代の大ヒット作(で、変則的なミュージカルでもある)『フットルース』の、いってみればちょうど中間あたりを狙ったような作風だったからだ。キャッチーなポップソングに乗せて主人公らが歌い踊るシーンをアクセントにしながらテンポ良くストーリーを語っていく手法には、ミュージカル入門編的な趣きがあった。このスタイルは、シリーズを通じて本作にまで受け継がれている。(ちなみに第2作も見ているのだが、夏休みのアルバイト先であるカントリー・クラブを舞台とし、青い空、緑の芝生にプールと、開放感溢れる映像の魅力で新鮮味を出そうとしたが、とっちらかったストーリーにしろ、いまひとつパンチの欠けた楽曲にしろ、人気に便乗していかにも急造した感が拭えず、あまり感心しない作品であった。)
そして満を持して登場の第3作。サブタイトルに「Senior Year」とうたっているとおり、高校生活の区切りとなる最終年度、卒業をひかえ、恋や進路に悩む主人公らの姿を描いてシリーズに区切りをつけるものになっている。バスケットボールの才能を評価されて地元アルバカーキ大(字幕ではABQ)からオファーをもらってはいるが、舞台の楽しさにも目覚めてしまった主人公と、遠隔地の名門スタンフォード(同じく字幕ではST)への進学が決まっているヒロインのカップルを中心に話が展開。学園もの映画の定番かつ華であるシニア・プロム、卒業制作ミュージカルの舞台をクライマックスに、卒業式で大団円というようにネタが揃っているのだから、盛り上がらない方がおかしい。実際のところストーリーの求心力と楽曲の魅力で「1」にはかなわないが、劇場版ということで製作規模もある程度大きくなっており、華やかで楽しい作品に仕上がっている。
そうはいっても、いくつか残念なところはある。その中でも最大のものは、プロムの扱いだ。見せ場が分散するのを避けたかったのか、卒業制作舞台のシークエンスとの重複を避けるためか、ここを「プロムに出席せずにスタンフォードまでクルマを飛ばした主人公と、大学の事前オリエンテーションに参加していたヒロイン2人だけのシーン」で置き換えてしまい、いってみればプロムをそっくり全部「割愛」してしまったのだ。それまでのストーリーのなかで、チケット販売にはじまり、意中の相手を誘う苦労なども盛り込んでいるのだから、これは構成上の大きな問題だと思う。楽曲や歌詞の工夫で学校の中で起こっている出来事と、2人だけのシーンをカットバックするなりなんなりのやりようはあったはずなのだが、「ミュージカル風」であるこのシリーズの単純な「スタイル」では、そうした複雑なシーンを組み立てるのは難しかったのかもしれない。他にも、その「スタイル」ゆえといえるのだが、見せ場を作るためだけのようなミュージカル・シークエンス(ミュージカル嫌いが云うところのいわゆる「唐突にうたって踊りだす」)の挿入なども気になった。まあ、このあたりを出演者のフレッシュな魅力と勢いで乗り切ってしまうところがシリーズの魅力でもあるので、洗練されたミュージカルを求めるのはお門違いだと目をつむっておくことにする。
「ハイスクール」というわりには、今日的な課題と無縁のあまりに健全で明るい理想的な学校生活で、優等生の美男美女が主人公では面白くもなんともないと揶揄されるかもしれないが、それはこれが「ディズニーもの」であるということだけでなく、主として中学生や小学校高学年くらいの背伸びがしたい子供たちを想定観客層として作っていることを考えればこれが自然な作り方であり、批判には当たらない。また、このシリーズの主人公が「バスケット・ボールで活躍する人気者で、本作ではチームのキャプテン(のひとり)で人気者」であるのが気に入らない向きもあるようだが、確かに、典型的なハイスクールものでは、学校社会の底辺や周辺を主人公にして、いわゆる「Jocks」を仇役にするのが通例であることを思うと珍しい部類であるとはいえよう。ただ、こういう主人公が悩んだ末にスポーツ馬鹿一本やりの道を選ばないことや、芸術家肌の友人や、チア・リーダータイプではない聡明なヒロインと互いを認め合っていくような描き方がなされているところがポイントなんだけれどね。
1/10/2009
Hellboy II: The Golden Army
ヘルボーイ ゴールデン・アーミー(☆☆☆★)
It is logical. The needs of the many outweigh the needs of the few or the one. (Spock@ "Star Trek II")
The needs of the one outweighed the needs of the many. (James T. Kirk @ "Star Trek III" )
この映画、"many" どころか、 "entire humanrace" よりも、目の前にいる一人を救うというんだもの。泣けるよね。
ちょんまげ姿の赤鬼さんが大活躍する2004年のマイク・ミニョーラ原作・ギレルモ・デルトロ監督作に、オリジナルストーリーで続編登場。監督は前作同様、ギレルモ・デルトロがあたっているが、前作からのあいだに『パンズ・ラビリンス』を大成功させて格が上がり、『ホビットの冒険』を初めとする様々な企画が持ち込まれる人気監督へと出世を遂げての再登板である。前作が当たらなかったため客層を狭めたくないのか、それともいろんな事情があって配給会社が変わったためか、邦題からは「2」との表記が割愛されている。なんでもよいけど、この続きができたとき、ためらわずに劇場公開してもらえる程度にヒットしてくれることを祈っている。
さて、本作『ヘルボーイ2』、なかなか凄いことになっている。もちろん、モンスター好きの監督が好きに作った作品であり、今回は前作比でモンスター大増量という話は事前に聞いていたのだが、何が凄いといって、主要キャラクターのうち人間(もしくはとりあえず人間の容姿をしている)のは、超常現象捜査局の局長とヒロインだけという徹底振りで、スクリーン狭しと怪人・怪獣が入り乱れ、モンスター祭り状態と化しているのである。
もはや、人間なぞお呼びではない状況で、人間よりも人間臭いモンスターたちが繰り広げるドラマは、キャラクターが生きているからこそ可能な離れ業だ。人間のためにいくら尽くしても報われない主人公の悲哀。愛するものの命・自らの命と世界の運命を天秤にかけることを強いられるキャラクターたちの、それぞれの選択と結末がストーリーの核だ。大きく、重たい問いであるがゆえ、当然、感動も呼ぶのだが、そこで湿っぽくなるような安っぽい演出ではない。全編を貫いたオフビートなユーモア感覚こそがこのシリーズの楽しさだろう。
モンスターのデザインと造形には相当力が入っている。手掛かりを求めて入り込んだ「トロールマーケット」では、物語に深く関わるわけではない様々に異形なモンスターたちが通りすがりに登場するのだが、ここでの「人間の世界のすぐ裏側で、モンスターたちの活気に満ちた日常とでもいうべきものが営まれている」という描写が面白のだが、その描写を成立させているディテールの作りこみが半端なものではない。画面の隅々までを堪能したい向きは、これだけでも何度でも見返したくなることだろう。
また、ストーリー上、重要な役割を果たす「死の天使」は、本作における目玉ともいうべき存在で、監督の前作に登場した異形のもののデザインを彷彿とさせるユニークな、しかし、おぞましくも崇高な美しさを感じさせるあたりの造形的な完成度の高さに見惚れること必至である。また、話の中盤に設けられた大アクションシーンでの巨大化した森の精であるとか、タイトルにもなっている「ゴールデン・アーミー」のアンティークな機械仕掛け的な面白さや愛嬌など、美術的な観点からの見所は、前作をはるかに凌駕している。あまりにも小さいもの(歯の妖精か?)や大きいもの(森の精?)を除いて、ほとんどを特殊メイク、アニマトロニクスなど「デジタル」ではない旧来からの技術で作り上げたと話に聞くこだわりは、間違いなく画面に映っている。なんでもデジタルにすればよいというものではないということを実証するに十分だ。
とまらぬ欲望に支配された人類の繁栄を疎ましく思うエルフ族の王子が、封じられた黄金の軍隊を解き放って人類を打ち滅ぼそうとするメインプロットそのものは、それほど面白いとは思わない。もちろん、異形のものでありながら人間側に立ち、心は人間そのものである主人公を悩ませるためとはいえ、元来が楽観的なキャラクターであるから、それほど鋭く効いてこないのである。まあ、これはストーリーそのものを楽しむ映画というよりは、肥大化した個々の細部の集合としての圧倒的な密度の濃さを楽しむ作品であろう。また、そういう観点から、原作者と監督が作り上げた魅惑的な世界と面白いキャラクターを楽しむには、数年に1度の映画というフォーマットよりも、1時間ものの連続TVシリーズのほうが本質的には向いているのではないか、と思う。(もちろん、それで制作費がペイできるわけがないのは重々承知だ。)映画だけでは題材の持つ魅力を十二分に表現し切れていないという意味で、前作同様、少し消化不良気味である。
It is logical. The needs of the many outweigh the needs of the few or the one. (Spock@ "Star Trek II")
The needs of the one outweighed the needs of the many. (James T. Kirk @ "Star Trek III" )
この映画、"many" どころか、 "entire humanrace" よりも、目の前にいる一人を救うというんだもの。泣けるよね。
ちょんまげ姿の赤鬼さんが大活躍する2004年のマイク・ミニョーラ原作・ギレルモ・デルトロ監督作に、オリジナルストーリーで続編登場。監督は前作同様、ギレルモ・デルトロがあたっているが、前作からのあいだに『パンズ・ラビリンス』を大成功させて格が上がり、『ホビットの冒険』を初めとする様々な企画が持ち込まれる人気監督へと出世を遂げての再登板である。前作が当たらなかったため客層を狭めたくないのか、それともいろんな事情があって配給会社が変わったためか、邦題からは「2」との表記が割愛されている。なんでもよいけど、この続きができたとき、ためらわずに劇場公開してもらえる程度にヒットしてくれることを祈っている。
さて、本作『ヘルボーイ2』、なかなか凄いことになっている。もちろん、モンスター好きの監督が好きに作った作品であり、今回は前作比でモンスター大増量という話は事前に聞いていたのだが、何が凄いといって、主要キャラクターのうち人間(もしくはとりあえず人間の容姿をしている)のは、超常現象捜査局の局長とヒロインだけという徹底振りで、スクリーン狭しと怪人・怪獣が入り乱れ、モンスター祭り状態と化しているのである。
もはや、人間なぞお呼びではない状況で、人間よりも人間臭いモンスターたちが繰り広げるドラマは、キャラクターが生きているからこそ可能な離れ業だ。人間のためにいくら尽くしても報われない主人公の悲哀。愛するものの命・自らの命と世界の運命を天秤にかけることを強いられるキャラクターたちの、それぞれの選択と結末がストーリーの核だ。大きく、重たい問いであるがゆえ、当然、感動も呼ぶのだが、そこで湿っぽくなるような安っぽい演出ではない。全編を貫いたオフビートなユーモア感覚こそがこのシリーズの楽しさだろう。
モンスターのデザインと造形には相当力が入っている。手掛かりを求めて入り込んだ「トロールマーケット」では、物語に深く関わるわけではない様々に異形なモンスターたちが通りすがりに登場するのだが、ここでの「人間の世界のすぐ裏側で、モンスターたちの活気に満ちた日常とでもいうべきものが営まれている」という描写が面白のだが、その描写を成立させているディテールの作りこみが半端なものではない。画面の隅々までを堪能したい向きは、これだけでも何度でも見返したくなることだろう。
また、ストーリー上、重要な役割を果たす「死の天使」は、本作における目玉ともいうべき存在で、監督の前作に登場した異形のもののデザインを彷彿とさせるユニークな、しかし、おぞましくも崇高な美しさを感じさせるあたりの造形的な完成度の高さに見惚れること必至である。また、話の中盤に設けられた大アクションシーンでの巨大化した森の精であるとか、タイトルにもなっている「ゴールデン・アーミー」のアンティークな機械仕掛け的な面白さや愛嬌など、美術的な観点からの見所は、前作をはるかに凌駕している。あまりにも小さいもの(歯の妖精か?)や大きいもの(森の精?)を除いて、ほとんどを特殊メイク、アニマトロニクスなど「デジタル」ではない旧来からの技術で作り上げたと話に聞くこだわりは、間違いなく画面に映っている。なんでもデジタルにすればよいというものではないということを実証するに十分だ。
とまらぬ欲望に支配された人類の繁栄を疎ましく思うエルフ族の王子が、封じられた黄金の軍隊を解き放って人類を打ち滅ぼそうとするメインプロットそのものは、それほど面白いとは思わない。もちろん、異形のものでありながら人間側に立ち、心は人間そのものである主人公を悩ませるためとはいえ、元来が楽観的なキャラクターであるから、それほど鋭く効いてこないのである。まあ、これはストーリーそのものを楽しむ映画というよりは、肥大化した個々の細部の集合としての圧倒的な密度の濃さを楽しむ作品であろう。また、そういう観点から、原作者と監督が作り上げた魅惑的な世界と面白いキャラクターを楽しむには、数年に1度の映画というフォーマットよりも、1時間ものの連続TVシリーズのほうが本質的には向いているのではないか、と思う。(もちろん、それで制作費がペイできるわけがないのは重々承知だ。)映画だけでは題材の持つ魅力を十二分に表現し切れていないという意味で、前作同様、少し消化不良気味である。
11/28/2008
Happy Flight
ハッピーフライト(☆☆☆☆)
見事なプロフェッショナル賛歌である。それぞれが、それぞれの持ち場で、果たすべき役割をきっちり果たす姿の、その清清しさ。働くこと、責任を果たすことの美しさ。そして、映画的な大事件を持ち出さずとも、日常のディテールをきちんと積み重ねていくだけでかくも映画的な映画ができるという面白さ。ここには、単なる薀蓄映画を超えた面白さと感動がある。
この映画の面白さは、一義的には「飛行機を飛ばす」ことに関わる人々とその仕事ぶりを、表も裏も、徹底的なリサーチによって表舞台にのせたことにあるわけで、そこにかけられた手間隙もさることながら、協力したエアライン会社(ANA)もまた賞賛されてしかるべきだろう。
ただ、この映画の良いところは、研究発表会に終始する愚を冒さなかったことだ。多少の誇張や偶然をスパイスに、「一本のフライト」に多彩な人々の「仕事」を凝縮してみせた脚本の小気味よさと、その群像劇を支える絶妙のキャスティングによって、映画として、エンターテインメントとして、きちんと消化されているところが素晴らしい。
特に、個性的な役者を適材適所に配置してみせる目利きの確かさに惚れ惚れしてしまう。こういう映画で必要なのは例えタイプキャストといわれようとも、一目見てわかる画的な分かりやすさがポイントだ。たとえば、指導教官が小日向文世から時任三郎に交代するにあたり、時任演ずる教官がどのような人物か知らなくても、そこに立っている彼という「画」を目にした観客が一瞬で事態を把握できること。たとえば、寺島しのぶがそこに立つだけでピリッと走る緊張感を、綾瀬はるかのみならず観客もまた共有できるということ。キャスティングがキまっていれば、余計な説明は要らない。テンポの良い映画に仕上がっているのは、そんなところにも理由があろう。
矢口史靖監督がよくやる大げさでわざとらしい「コメディ」演出を封印していたのは好印象であった。本作では、あくまで「ある状況」におかれたプロフェッショナルたちの、しかし、とても人間的なリアクションが程よいユーモアとなっていて、洗練された仕上がりだ。そう、プロの仕事を見せるのに、作為的なドタバタはいらない、その判断は絶対的に正しい。
見事なプロフェッショナル賛歌である。それぞれが、それぞれの持ち場で、果たすべき役割をきっちり果たす姿の、その清清しさ。働くこと、責任を果たすことの美しさ。そして、映画的な大事件を持ち出さずとも、日常のディテールをきちんと積み重ねていくだけでかくも映画的な映画ができるという面白さ。ここには、単なる薀蓄映画を超えた面白さと感動がある。
この映画の面白さは、一義的には「飛行機を飛ばす」ことに関わる人々とその仕事ぶりを、表も裏も、徹底的なリサーチによって表舞台にのせたことにあるわけで、そこにかけられた手間隙もさることながら、協力したエアライン会社(ANA)もまた賞賛されてしかるべきだろう。
ただ、この映画の良いところは、研究発表会に終始する愚を冒さなかったことだ。多少の誇張や偶然をスパイスに、「一本のフライト」に多彩な人々の「仕事」を凝縮してみせた脚本の小気味よさと、その群像劇を支える絶妙のキャスティングによって、映画として、エンターテインメントとして、きちんと消化されているところが素晴らしい。
特に、個性的な役者を適材適所に配置してみせる目利きの確かさに惚れ惚れしてしまう。こういう映画で必要なのは例えタイプキャストといわれようとも、一目見てわかる画的な分かりやすさがポイントだ。たとえば、指導教官が小日向文世から時任三郎に交代するにあたり、時任演ずる教官がどのような人物か知らなくても、そこに立っている彼という「画」を目にした観客が一瞬で事態を把握できること。たとえば、寺島しのぶがそこに立つだけでピリッと走る緊張感を、綾瀬はるかのみならず観客もまた共有できるということ。キャスティングがキまっていれば、余計な説明は要らない。テンポの良い映画に仕上がっているのは、そんなところにも理由があろう。
矢口史靖監督がよくやる大げさでわざとらしい「コメディ」演出を封印していたのは好印象であった。本作では、あくまで「ある状況」におかれたプロフェッショナルたちの、しかし、とても人間的なリアクションが程よいユーモアとなっていて、洗練された仕上がりだ。そう、プロの仕事を見せるのに、作為的なドタバタはいらない、その判断は絶対的に正しい。
9/23/2008
Hancock
ハンコック(☆☆☆)
ヒーローものといえば、アメコミ原作全盛の昨今。しかし『キングダム 見えざる敵』で名を上げたピーター・バーグ監督によるこの映画、『ハンコック』は、アメコミを原作に持たないオリジナル脚本の作品だ。まあ、ウルトラマンが暴れたら街が破壊されるといった、過去、一瞬だけ面白かった「考察」の類の延長線上というか、無茶をして周囲に甚大な被害をもたらすというので嫌われ者になっている「悩めるヒーロー」の物語である。自暴自棄でアル中で素行の悪い超人というオフビートな役柄にウィル・スミス。この「超人」のイメージチェンジに協力しようとする冴えない男をジェイソン・ベイトマンが、その妻をシャーリーズ・セロンが演じている。
まあ、想像していたよりは面白かった。なにしろ、『キングダム』はともかく、デビュー作『Very Bad Things(ベリー・バッド・ウェディング)』の酷い出来栄えで、コメディの担い手としてのピーター・バーグにはあまり信用を置いていないからだ。
ただ、この作品を一概に「コメディ」と言い切るのには違和感があるかもしれない。なにしろ、いま、興行的に最も安定感のある男、ウィル・スミス主演で独立記念日に公開する大作。製作にはマイケル・マンにアキヴァ・ゴールズマンやら、ジョナサン・モストウまで名前が連なる豪華な布陣だ。人々の注目を集め、大ヒットを宿命付けられている。そんな作品である。だから、「オフビートでオリジナリティの高いコメディ」という側面と、「当代のスーパースターが主演するアクション大作」という側面が、いかに両立・共存しているのかというのが評価のポイントだろう。そして結論を先に言えば、その両立には成功したとは云い難い、中途半端な印象の残る作品だと思う。
実際のところ、この脚本は、確かに業界内で評判をとるだけのオリジナリティがある。主人公が自分に協力してくれる親切な男の、その美人妻にちょっかいを出すというあらぬ展開には思わず吹き出してしまったし、その後の壮大なる痴話喧嘩的ドタバタ騒ぎを経て、「ヒーロー」の持つ神話性のようなところに着地するまとめ方も悪くない。
それゆえに、この脚本が「当代のスーパースターが主演するアクション大作」に向いているのかというと、違うのだと思う。そういう路線を期待する観客は、(それが面白いのかどうkは別として)ほぼ間違いなく「悩めるヒーローがイメージチェンジに苦労するが、強大な敵と戦い勝利を収める過程で自分自身と市民からの尊敬を取り戻す物語」といったような筋立てを期待するものだ。
こういう変化球は、むしろ低予算のコメディにこそ向いている。主人公が、自分協力してくれる善良な男の妻にちょっかいを出す不道徳な展開にしろ、痴話喧嘩の末、けちな犯罪者と対決するという敵らしき敵のないクライマックスにしろ、金をかけた大作映画にしては地味でしみったれている。
コメディ気質をもった軽妙なウィル・スミスは、本来、酒臭くぶっきらぼうで嫌われ者といったキャラクターを、こういうひねくれたコメディで演じるにはぴったりの役者だった。しかし、ここのところの彼は大きな存在になりすぎて、俺様スーパーヒーロー体質が染み付いてしまい、それがスクリーンからぷんぷんと漂ってくるのだからいけない。それもこれも含めて、この企画のパッケージングそのものが誤りだったと云えるのではないか。両立しない2つの要素を、あたかもそんな課題は存在しないかのごとく突っ走った結果がこれ、なんだろう。
ヒーローものといえば、アメコミ原作全盛の昨今。しかし『キングダム 見えざる敵』で名を上げたピーター・バーグ監督によるこの映画、『ハンコック』は、アメコミを原作に持たないオリジナル脚本の作品だ。まあ、ウルトラマンが暴れたら街が破壊されるといった、過去、一瞬だけ面白かった「考察」の類の延長線上というか、無茶をして周囲に甚大な被害をもたらすというので嫌われ者になっている「悩めるヒーロー」の物語である。自暴自棄でアル中で素行の悪い超人というオフビートな役柄にウィル・スミス。この「超人」のイメージチェンジに協力しようとする冴えない男をジェイソン・ベイトマンが、その妻をシャーリーズ・セロンが演じている。
まあ、想像していたよりは面白かった。なにしろ、『キングダム』はともかく、デビュー作『Very Bad Things(ベリー・バッド・ウェディング)』の酷い出来栄えで、コメディの担い手としてのピーター・バーグにはあまり信用を置いていないからだ。
ただ、この作品を一概に「コメディ」と言い切るのには違和感があるかもしれない。なにしろ、いま、興行的に最も安定感のある男、ウィル・スミス主演で独立記念日に公開する大作。製作にはマイケル・マンにアキヴァ・ゴールズマンやら、ジョナサン・モストウまで名前が連なる豪華な布陣だ。人々の注目を集め、大ヒットを宿命付けられている。そんな作品である。だから、「オフビートでオリジナリティの高いコメディ」という側面と、「当代のスーパースターが主演するアクション大作」という側面が、いかに両立・共存しているのかというのが評価のポイントだろう。そして結論を先に言えば、その両立には成功したとは云い難い、中途半端な印象の残る作品だと思う。
実際のところ、この脚本は、確かに業界内で評判をとるだけのオリジナリティがある。主人公が自分に協力してくれる親切な男の、その美人妻にちょっかいを出すというあらぬ展開には思わず吹き出してしまったし、その後の壮大なる痴話喧嘩的ドタバタ騒ぎを経て、「ヒーロー」の持つ神話性のようなところに着地するまとめ方も悪くない。
それゆえに、この脚本が「当代のスーパースターが主演するアクション大作」に向いているのかというと、違うのだと思う。そういう路線を期待する観客は、(それが面白いのかどうkは別として)ほぼ間違いなく「悩めるヒーローがイメージチェンジに苦労するが、強大な敵と戦い勝利を収める過程で自分自身と市民からの尊敬を取り戻す物語」といったような筋立てを期待するものだ。
こういう変化球は、むしろ低予算のコメディにこそ向いている。主人公が、自分協力してくれる善良な男の妻にちょっかいを出す不道徳な展開にしろ、痴話喧嘩の末、けちな犯罪者と対決するという敵らしき敵のないクライマックスにしろ、金をかけた大作映画にしては地味でしみったれている。
コメディ気質をもった軽妙なウィル・スミスは、本来、酒臭くぶっきらぼうで嫌われ者といったキャラクターを、こういうひねくれたコメディで演じるにはぴったりの役者だった。しかし、ここのところの彼は大きな存在になりすぎて、俺様スーパーヒーロー体質が染み付いてしまい、それがスクリーンからぷんぷんと漂ってくるのだからいけない。それもこれも含めて、この企画のパッケージングそのものが誤りだったと云えるのではないか。両立しない2つの要素を、あたかもそんな課題は存在しないかのごとく突っ走った結果がこれ、なんだろう。
7/26/2008
The Happening
ハプニング(☆☆☆★)
NY。ある日突然、人々の行動が狂い、次々と自殺を始める。初めはテロリストの攻撃かと原因はわからない。米国北東部の大都市から次第に小さな町々へ、現象は広がっていく。フィラデルフィアに暮らす主人公は、不仲な妻、友人の娘を連れあてのない逃避をはじめるが、行く先々に死体が転がる。
ハプニング、という言葉はもちろん、カタカナ語として通用するのだが、印象としては「偶発的で軽いちょっとしたアクシデント」という意味のみにおいて受け止められるのではないか。敢えて罪の意識を感じさせないために「ハプニング・バー」などという名称を発明したやつがいるくらいだ。しかし、ここで起こる事象は、そんな軽いものではない。
公開されるや、早速罵詈雑言を浴びせかけられているMナイト・シャマランの新作は、「宇宙からの侵略者の話かと思えば、妻を失った聖職者が信仰を取り戻す話」だった『サイン』や、「恐ろしい怪物の出る森の中に孤立したコミュニティの謎の話かと思えば、目の見えない少女の初めてのおつかいの話」だった『ヴィレッジ』などとよく似ていて、「奇怪な現象に見舞われた人類がいかに生き延びるかという話」ではなく、「不仲な夫婦が互いに向き合い、互いへの思いと絆を取り戻す話」なのであった。まあ、不仲といっても実態があるのかないのかといった程度の不倫疑惑、正直なところ、もう少しのっぴきならない関係にしておかないとドラマに気づいてもらえないのではないだろうか。
物語の構造という観点から見ると、これは、エメリッヒの『インディペンデンス・デイ』ではなく、スピルバーグの『宇宙戦争』である。主人公はただただ状況に翻弄される「普通のひと」であり、何が起こっているのかもわからなければ、それをどうこうすることもできない立場にいる。米国北東部を襲った怪異の正体は、登場人物たちにもわからないし、映画を見ている我々にもわからない。あくまで、怪異に襲われた主人公の、状況に対する心理とリアクションを追っていく映画なのである。主人公が怪異の謎を解き、闘い、世界に平和をもたらすことを望むようなお話しが好きなら、悪いことは言わないから近寄らないほうがよい映画である。『宇宙戦争』は一般には不評をかこったから、その意味で「一般」的な観客向きの映画ではないのかもしれない。
また、この映画で描かれる「怪異」は、ただただ主人公の行動を動機付けるためだけに存在するものである。まあ、いわゆる肥大化した「マクガフィン」といえるだろう。多くの観客が物語の本質とは異なるものに気をとられ、それについて何の説明もないことに怒るのは、だから本来は全く筋違いなのだが、仕方ない側面もある。なぜなら、この映画がいかにも怪現象そのものを描いたパニックムービーであるかのように装い、それを売り物にした商品としてパッケージされ、喧伝されているからである。どう考えても意図的なミスリードだ。その昔、コケ脅しのCムーヴィーを買い付けてきた配給会社がやっていた手口に似ている、といえなくもない。もちろん、今のメインストリームの観客には、そういう稚気を笑って楽しむだけの心と時間の余裕があるとは到底思われないので問題になるだろう。だけど。まあ、この映画の場合は作り手の側もそういうミスリードを前提としているところがあるわけで、それを笑って楽しむセンスは観客として必須の資質だと思われる。
ともかく、シャマランはその「マクガフィン」に世界の終末、もっといえば、人類の終末というモチーフを選んだ。ある日突然主人公を襲う「怪異」は、宇宙人などというわかりやすい外敵の姿を借りず、増えすぎたレミングの集団が自らを死に駆り立てる(というのは捏造らしいが)かのごとく、ただただ自死を選び、死体が転がっていくというイメージの羅列。こことのころはかなり嫌な感じに仕上がっており、この作り手が、スピルバーグのある種わかりやすい鬼畜さとは違ったセンスの持ち主であることが見てとれて、なかなかに面白い。そういえば、出世作における死人たちのイメージも、相当嫌な感じだった。単に観客を不快にさせる過激で陰惨な表現は好きではないのだが、彼の作り出した陰鬱なイメージは、タク・フジモトの優れたカメラ・ワークと相まって、なかなか見ごたえがある。
してみると、この映画に最も近いものは何かといえば、黒澤清の『回路』ということになるだろう。あの映画の衝撃的な飛び降り自殺シーンや、幽霊が躓く戦慄のシーンに匹敵するイメージこそないが、種としての人類が終わっていく嫌な感じには通低するものがある。
それならば、この映画が非難されるべきは説明がないことでもオチがないことでもなく、世界の破滅ではなく、世界の破滅の「前触れとなる兆候(サイン)」を描いて満足してしまったことだと思う。あのとってつけたようなエンディングに変わり、希望のかけらもなく、世界が終わっていくところで幕を閉じることができたのなら、違った評価もあったのではないだろうか。
関係ないが、植物が原因だというイカレポンチに感化され、プラスチックの置物にまで語りかけるシーンは、ホアキン・フェニックスのアルミホイル帽子に匹敵する爆笑シーンであった。こんなところにもシャマラン演出独特の個性が出ていると思う。出演はマーク・ウォルバーグ、ズーイー・デシャネル、ジョン・レグイザモら。みな、普通の人々の役を素直に好演。
NY。ある日突然、人々の行動が狂い、次々と自殺を始める。初めはテロリストの攻撃かと原因はわからない。米国北東部の大都市から次第に小さな町々へ、現象は広がっていく。フィラデルフィアに暮らす主人公は、不仲な妻、友人の娘を連れあてのない逃避をはじめるが、行く先々に死体が転がる。
ハプニング、という言葉はもちろん、カタカナ語として通用するのだが、印象としては「偶発的で軽いちょっとしたアクシデント」という意味のみにおいて受け止められるのではないか。敢えて罪の意識を感じさせないために「ハプニング・バー」などという名称を発明したやつがいるくらいだ。しかし、ここで起こる事象は、そんな軽いものではない。
公開されるや、早速罵詈雑言を浴びせかけられているMナイト・シャマランの新作は、「宇宙からの侵略者の話かと思えば、妻を失った聖職者が信仰を取り戻す話」だった『サイン』や、「恐ろしい怪物の出る森の中に孤立したコミュニティの謎の話かと思えば、目の見えない少女の初めてのおつかいの話」だった『ヴィレッジ』などとよく似ていて、「奇怪な現象に見舞われた人類がいかに生き延びるかという話」ではなく、「不仲な夫婦が互いに向き合い、互いへの思いと絆を取り戻す話」なのであった。まあ、不仲といっても実態があるのかないのかといった程度の不倫疑惑、正直なところ、もう少しのっぴきならない関係にしておかないとドラマに気づいてもらえないのではないだろうか。
物語の構造という観点から見ると、これは、エメリッヒの『インディペンデンス・デイ』ではなく、スピルバーグの『宇宙戦争』である。主人公はただただ状況に翻弄される「普通のひと」であり、何が起こっているのかもわからなければ、それをどうこうすることもできない立場にいる。米国北東部を襲った怪異の正体は、登場人物たちにもわからないし、映画を見ている我々にもわからない。あくまで、怪異に襲われた主人公の、状況に対する心理とリアクションを追っていく映画なのである。主人公が怪異の謎を解き、闘い、世界に平和をもたらすことを望むようなお話しが好きなら、悪いことは言わないから近寄らないほうがよい映画である。『宇宙戦争』は一般には不評をかこったから、その意味で「一般」的な観客向きの映画ではないのかもしれない。
また、この映画で描かれる「怪異」は、ただただ主人公の行動を動機付けるためだけに存在するものである。まあ、いわゆる肥大化した「マクガフィン」といえるだろう。多くの観客が物語の本質とは異なるものに気をとられ、それについて何の説明もないことに怒るのは、だから本来は全く筋違いなのだが、仕方ない側面もある。なぜなら、この映画がいかにも怪現象そのものを描いたパニックムービーであるかのように装い、それを売り物にした商品としてパッケージされ、喧伝されているからである。どう考えても意図的なミスリードだ。その昔、コケ脅しのCムーヴィーを買い付けてきた配給会社がやっていた手口に似ている、といえなくもない。もちろん、今のメインストリームの観客には、そういう稚気を笑って楽しむだけの心と時間の余裕があるとは到底思われないので問題になるだろう。だけど。まあ、この映画の場合は作り手の側もそういうミスリードを前提としているところがあるわけで、それを笑って楽しむセンスは観客として必須の資質だと思われる。
ともかく、シャマランはその「マクガフィン」に世界の終末、もっといえば、人類の終末というモチーフを選んだ。ある日突然主人公を襲う「怪異」は、宇宙人などというわかりやすい外敵の姿を借りず、増えすぎたレミングの集団が自らを死に駆り立てる(というのは捏造らしいが)かのごとく、ただただ自死を選び、死体が転がっていくというイメージの羅列。こことのころはかなり嫌な感じに仕上がっており、この作り手が、スピルバーグのある種わかりやすい鬼畜さとは違ったセンスの持ち主であることが見てとれて、なかなかに面白い。そういえば、出世作における死人たちのイメージも、相当嫌な感じだった。単に観客を不快にさせる過激で陰惨な表現は好きではないのだが、彼の作り出した陰鬱なイメージは、タク・フジモトの優れたカメラ・ワークと相まって、なかなか見ごたえがある。
してみると、この映画に最も近いものは何かといえば、黒澤清の『回路』ということになるだろう。あの映画の衝撃的な飛び降り自殺シーンや、幽霊が躓く戦慄のシーンに匹敵するイメージこそないが、種としての人類が終わっていく嫌な感じには通低するものがある。
それならば、この映画が非難されるべきは説明がないことでもオチがないことでもなく、世界の破滅ではなく、世界の破滅の「前触れとなる兆候(サイン)」を描いて満足してしまったことだと思う。あのとってつけたようなエンディングに変わり、希望のかけらもなく、世界が終わっていくところで幕を閉じることができたのなら、違った評価もあったのではないだろうか。
関係ないが、植物が原因だというイカレポンチに感化され、プラスチックの置物にまで語りかけるシーンは、ホアキン・フェニックスのアルミホイル帽子に匹敵する爆笑シーンであった。こんなところにもシャマラン演出独特の個性が出ていると思う。出演はマーク・ウォルバーグ、ズーイー・デシャネル、ジョン・レグイザモら。みな、普通の人々の役を素直に好演。
7/23/1999
The Haunting (1999)
ホーンティング(☆★)
怖くないホラー。でも、笑えるわけでもないんだよな。まじめに作って、笑えなくて、怖くもない。何の役にも立たない。いってみれば、産業廃棄物みたいな映画である。
一応、シャーリー・ジャクスンのニュー・アメリカン・ゴシックの基礎を築いた『山荘綺談(The Haunting of Hill House)』を原作とする2度目の映画化で、今回は新人デヴィッド・セルフの脚色、ヤン・デ・ボンが監督している。ちなみに、最初の映画化は、傑作と名高い1963年のロバート・ワイズ監督作品『たたり(The Haunting)』。こちらは見えない恐怖の演出がなかなか巧みで、いま見ても面白いのでお薦め。見比べると技術が進化したからって、映画が面白くなるわけじゃないのがよく分かると思う。
さて、本作のお話しだが、「不眠症に関する研究」と偽った恐怖に関する心理学研究の被験者として、ゴシック風の巨大な屋敷にいろんな人が集められてくるところから始まる。その屋敷に秘められた過去があったことから、彼らが体験するのは、研究とは全く関係ない本物の恐怖に変わるのだった、という筋立てだ。出演はリリ・テイラー、リーアム・ニーソン、キャスリーン・ゼータ=ジョーンズら。
まずなによりも脚色が下手である。原作では主に霊現象の研究目的で悪名高い屋敷にやってきた人類学教授と、霊的現象の経験者に送られた招待状を見た人々が集まることになっているのだが、これを改変して、わざわざ導入部をまどろっこしくしている意味が分からない。登場人物間の人間関係や感情も描かれていない。屋敷の過去と登場人物を安易に血縁でつないだのも疑問だし、怪異の正体を暴いて単純な大団円に持ちこもうとするまとめ方も改悪。一見して原作のセッティングを忠実になぞり、有名な台詞(女中が繰り返す不気味な説明)やシーン(おかえり、エリーナ)を持ちこんだりしているが、原作の本質に対してはあまり敬意を表しているように思えない。
脚本の出来次第で映画の出来がぶれまくるヤン・デ・ボンだが、脚本にだけ責任を押し付けるわけにもいかない。最新のVFXで何でも見せられるようになった結果、見せちゃいけないものまで見せてしまったのが最大の敗因であろう。基本、幽霊話なんだから、観客から想像力を奪ってしまったら、何も残らない。遊園地のアトラクションとて、もう少し考えるだろう。撮影監督出身のヤン・デボンがキューブリック信者であることはわりと有名だから、キューブリックの遺作となる『アイズ・ワイド・シャット』の公開も間近となったこのタイミングで、古典小説を原作にして「呪われた屋敷」テーマに挑む以上、デボン版『シャイニング』との期待もあったのだけど、そういう比較のレベルになっていない。
一方で、邪悪な屋敷の内装・外見を含めた造形は頑張っている。「悪しき場所」に相応しい、ユークリッド幾何学を無視した(三角形の内角の和が180度に満たなかったり超過しているという)邪悪な歪みすら感じさせる力作。これは『奇跡の輝き』も担当したプロダクションデザイン担当のユージニオ・ザネッティの功績だろうか。また、『スターウォーズ エピソード1』で導入が始まった「ドルビーEX」対応の凝った音響効果も体感する価値くらいはあるだろう。音楽は巨匠ジェリー・ゴールドスミスが担当。最近の巨匠はなんだか知らないが駄作にばかりに駆り出されているような気がして不憫である。
怖くないホラー。でも、笑えるわけでもないんだよな。まじめに作って、笑えなくて、怖くもない。何の役にも立たない。いってみれば、産業廃棄物みたいな映画である。
一応、シャーリー・ジャクスンのニュー・アメリカン・ゴシックの基礎を築いた『山荘綺談(The Haunting of Hill House)』を原作とする2度目の映画化で、今回は新人デヴィッド・セルフの脚色、ヤン・デ・ボンが監督している。ちなみに、最初の映画化は、傑作と名高い1963年のロバート・ワイズ監督作品『たたり(The Haunting)』。こちらは見えない恐怖の演出がなかなか巧みで、いま見ても面白いのでお薦め。見比べると技術が進化したからって、映画が面白くなるわけじゃないのがよく分かると思う。
さて、本作のお話しだが、「不眠症に関する研究」と偽った恐怖に関する心理学研究の被験者として、ゴシック風の巨大な屋敷にいろんな人が集められてくるところから始まる。その屋敷に秘められた過去があったことから、彼らが体験するのは、研究とは全く関係ない本物の恐怖に変わるのだった、という筋立てだ。出演はリリ・テイラー、リーアム・ニーソン、キャスリーン・ゼータ=ジョーンズら。
まずなによりも脚色が下手である。原作では主に霊現象の研究目的で悪名高い屋敷にやってきた人類学教授と、霊的現象の経験者に送られた招待状を見た人々が集まることになっているのだが、これを改変して、わざわざ導入部をまどろっこしくしている意味が分からない。登場人物間の人間関係や感情も描かれていない。屋敷の過去と登場人物を安易に血縁でつないだのも疑問だし、怪異の正体を暴いて単純な大団円に持ちこもうとするまとめ方も改悪。一見して原作のセッティングを忠実になぞり、有名な台詞(女中が繰り返す不気味な説明)やシーン(おかえり、エリーナ)を持ちこんだりしているが、原作の本質に対してはあまり敬意を表しているように思えない。
脚本の出来次第で映画の出来がぶれまくるヤン・デ・ボンだが、脚本にだけ責任を押し付けるわけにもいかない。最新のVFXで何でも見せられるようになった結果、見せちゃいけないものまで見せてしまったのが最大の敗因であろう。基本、幽霊話なんだから、観客から想像力を奪ってしまったら、何も残らない。遊園地のアトラクションとて、もう少し考えるだろう。撮影監督出身のヤン・デボンがキューブリック信者であることはわりと有名だから、キューブリックの遺作となる『アイズ・ワイド・シャット』の公開も間近となったこのタイミングで、古典小説を原作にして「呪われた屋敷」テーマに挑む以上、デボン版『シャイニング』との期待もあったのだけど、そういう比較のレベルになっていない。
一方で、邪悪な屋敷の内装・外見を含めた造形は頑張っている。「悪しき場所」に相応しい、ユークリッド幾何学を無視した(三角形の内角の和が180度に満たなかったり超過しているという)邪悪な歪みすら感じさせる力作。これは『奇跡の輝き』も担当したプロダクションデザイン担当のユージニオ・ザネッティの功績だろうか。また、『スターウォーズ エピソード1』で導入が始まった「ドルビーEX」対応の凝った音響効果も体感する価値くらいはあるだろう。音楽は巨匠ジェリー・ゴールドスミスが担当。最近の巨匠はなんだか知らないが駄作にばかりに駆り出されているような気がして不憫である。
10/19/1998
Holy Man
ホーリー・マン エディ・マーフィはカリスマ救世主(☆☆★)
仕事を失う危機にあるTVプロデューサーは、新たにパートナーを組まされたメディア・コンサルタントとともに、TVショッピング専門局の建て直しを図ろうとするが、そんな折りにであった正体不明の「聖人」を番組に出演させてみたら、彼の本音トークが大当たり。TVショッピングはいつしか宗教的体験の場に変わっていく。
その「聖人」を演じるのはこの男、エディ・マーフィ。
そうなると、大方が期待するのは、マーフィが主演でペテン師かサギ師の似非宗教家を演じ、ジェフ・ゴールドブラム演じるTVプロデューサーの生活を掻き乱す、そんな爆笑コメディなのではないか。ところがこの映画は反対に、主人公ゴールドブラムのもとに素性の分からないマーフィが現われ、仕事と人生に行き詰まっていた中年男の心を開き、魂を救済して去っていく。これはなんだか、出会いと別れ、再生の物語なのである。
脚本は、『いまを生きる』などで知られるトム・シュルマンである。彼が書いた『おつむてんてんクリニック』という作品があって、リチャード・ドレイファス演じる精神科医がビル・マーレー演ずる患者に掻き回され精神的に壊れてしまうという話であった。本作は、どうも、それと表裏一体の構造にある。主人公が壊されるかわり、生を取り戻すのである。
一方、視聴者のいらないものまで売りつける行き過ぎた商業主義の現実を、エディを通じて批判して見せる。それに終わらず、そうしたホンネが逆に大人気を博し、なんと商品の売上が爆発的に伸びたりする顛末は、完全に風刺コメディである。ここのギャグにもう少しキレがあったら、毒があったらなぁ、と思わずにはいられない。
マーフィ演じる「聖人」は、最後まで正体不明であるが、裏が有りそうで、なさそうで、しかしやっぱり裏がない。ビョーキだがピュアな心の持ち主だったマーレイと同じように、このキャラクターも純粋な存在である。力みの抜けたエディ・マーフィは、これこそが新境地といえるような、新しさを感じさせられる。
コメディとしての出来上がりは中途半端に感じるが、ピリッとした批評精神と妙に爽やかな後味、後半に向けた物語の加速感は、捨てがたい。魅力的な失敗作というか、意外な拾い物、としておこう。スティーブン・ヘレック監督作って、その程度の作品が多いんだよな。
仕事を失う危機にあるTVプロデューサーは、新たにパートナーを組まされたメディア・コンサルタントとともに、TVショッピング専門局の建て直しを図ろうとするが、そんな折りにであった正体不明の「聖人」を番組に出演させてみたら、彼の本音トークが大当たり。TVショッピングはいつしか宗教的体験の場に変わっていく。
その「聖人」を演じるのはこの男、エディ・マーフィ。
そうなると、大方が期待するのは、マーフィが主演でペテン師かサギ師の似非宗教家を演じ、ジェフ・ゴールドブラム演じるTVプロデューサーの生活を掻き乱す、そんな爆笑コメディなのではないか。ところがこの映画は反対に、主人公ゴールドブラムのもとに素性の分からないマーフィが現われ、仕事と人生に行き詰まっていた中年男の心を開き、魂を救済して去っていく。これはなんだか、出会いと別れ、再生の物語なのである。
脚本は、『いまを生きる』などで知られるトム・シュルマンである。彼が書いた『おつむてんてんクリニック』という作品があって、リチャード・ドレイファス演じる精神科医がビル・マーレー演ずる患者に掻き回され精神的に壊れてしまうという話であった。本作は、どうも、それと表裏一体の構造にある。主人公が壊されるかわり、生を取り戻すのである。
一方、視聴者のいらないものまで売りつける行き過ぎた商業主義の現実を、エディを通じて批判して見せる。それに終わらず、そうしたホンネが逆に大人気を博し、なんと商品の売上が爆発的に伸びたりする顛末は、完全に風刺コメディである。ここのギャグにもう少しキレがあったら、毒があったらなぁ、と思わずにはいられない。
マーフィ演じる「聖人」は、最後まで正体不明であるが、裏が有りそうで、なさそうで、しかしやっぱり裏がない。ビョーキだがピュアな心の持ち主だったマーレイと同じように、このキャラクターも純粋な存在である。力みの抜けたエディ・マーフィは、これこそが新境地といえるような、新しさを感じさせられる。
コメディとしての出来上がりは中途半端に感じるが、ピリッとした批評精神と妙に爽やかな後味、後半に向けた物語の加速感は、捨てがたい。魅力的な失敗作というか、意外な拾い物、としておこう。スティーブン・ヘレック監督作って、その程度の作品が多いんだよな。
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