L Change the World(★)
映画好きで、ある程度どんなジャンルの映画も見るとはいえ、時間も体力も限られているわけであるから、なんでも片っ端から、というわけには行かない。そこで、明確ではないのだけれども、自分にとって優先順位の高い映画と低い映画を見分ける基準のようなものは持っているし、こういうのは見に行かない、というルールのようなものがないわけではない。『デス・ノート(前編・後編)』からの付き合いだと思って特に高い期待も持たずに本作を見に出かけたが、新しいルールがひとつできた。「ナンチャンがFBIを演じるような映画は2度と見に行かない。」それ、何ていう学芸会ですか?
いや、本当に、これ、作り手は、作りたくもないものを押し付けられて、やけくそになって、ギャグで撮ったんじゃなないかと思った。中田秀夫は何が悲しくてこんな作品を作っているのだ。しかし、恐るべき事実として、どうやら、「どうしようもない脚本を与えられてやっつけ仕事で撮った」というのではなく、本人が脚本作りの初期から関与しているようなのである。おいおい、今後このひとに何を期待したらいいのかがわからなくなったよ。
これは、『デスノート(後編)』のラストでデス・ノートに自らの名前を書いた「L」が、死ぬまでに残された (劇中では描かれなかった空白の)23日間に起こった出来事という設定の話である。その設定のもとで、『デス・ノート』シリーズとは違ったことをやる、「L」の違った側面を見せる、というのが基本的なコンセプトなのだが、ここで何を間違えたのか、「殺人ウィルスを使った世界規模のテロ」などという大仰だが全く興味をそそられないプロットを持ち出したのが第1の敗因。「世界規模」の話で、海外ロケまでしておいて、テロリストにしろFBIにしろ、みんな日本人が日本語で会話する世界で完結するのが第2の敗因。どうせマンガ世界なんだからリアリティにこだわる必要なんかないと思い込んで、『デス・ノート』が決してはずすことのなかったマンガなりのリアリティを放棄したのが第3の敗因。スピンオフなんだから、『デス・ノート』が奇跡的に構築することに成功したある種の箱庭世界のなかに限定して話を展開すればそこそこ見られる作品になったはずなのに、違ったことをやろうとしてそこから逸脱すればするほど、嘘臭さが耐え難くなるのである。
いや、ほんとうに不思議なことだと思うのだが、そもそも『デス・ノート』は嘘臭い映画だった。マンガの中だから許容できるのであって、アニメならともかく実写映画にしようものならとたんに破綻することが目に見えているような作品だった。それなのに、あの映画は、まるで「マンガをアニメ化した」かのごとき力技で、嘘臭い世界を映画の中に限定で現出、成立させてしまったのである。そして、『L』も嘘臭い映画である。しかし、嘘臭さの質が異なる。ここにある嘘臭さは、マンガやアニメのそれではない。現実に立脚して作り上げた(あり得るかもしれない)世界でもなく、注意深く(作品にとって都合よく)作られた独自の世界観に基づく虚構世界でもなく、娯楽映画なんだから、マンガなんだからこんなものでいいんだろ?というダメ邦画の嘘臭さ。匙加減を間違えたというのではなく、そもそもそういったことに必要な注意が払われていない手抜きをこそ感じさせても、予算や技術の制約で致し方なくそうなってしまったという微笑ましさのかけらはどこにも見受けられない。
まあ、いいや。100歩譲って全てがギャグだとしよう。狙って撮りに云った笑いもあるだろう。だが、ナンチャンを「FBI」としてキャスティングするのが狙った笑いだとしたら、その発想が狂っている。そうじゃないか?
で、タイトルなんだけど、「L、世界を変えろ!」なの?「Lが世界を変える」の?前者なら「, 」なり、「;」なり、「:」なり、「L」とそれ以降(サブタイトル?)を区切ってほしいよね。後者なら「chaneges」だ。まあ、こんなだっせー英語タイトルつけちゃう時点で映画に何も期待できないのは明白なんだけどね。
3/01/2008
1/19/2008
Sanjuro
椿三十郎(☆☆)
黒澤明監督が『用心棒』に続いて撮った、限りなく続編的な姉妹編が『椿三十郎』である。どちらも三船敏郎演ずる流れ者のサムライが主人公だが、どちらかといえばハードボイルド・タッチの『用心棒』に比べてこちらのほうが軽く、ユーモラス。そこが『椿三十郎』というっ作品で、私のお気に入りのポイントである。
また、この映画はクライマックスの決闘の斬新さで知られている。強いやつと強いやつが延々と死闘を繰り広げるというのではなく、一瞬で決着がつく。どちらが勝ったか、一瞬の間をおいて、ど派手に吹き上がる血飛沫でわかる、、というのが当時の感覚からすれば度肝抜かれる感じではなかったか。古いタイプの時代劇というのが、いろいろな「お約束」で成立をしていたのに対して、刀で切る、切られたら当然血が出るというのを映像にしているわけだが、そういう意味でのリアリティはことさら重視しておきながら、最後の最後にきて、あからさまな映像的な誇張で噴水のように血飛沫が上がるという、その飛躍、その落差によって強い印象が残るんじゃあなかろうか。リアルタイムでなく、80年代になってから映画を見始めたような私のような人間の脳裏にも鮮烈に刻みつけられる、凄いアイディアの名シーンであった。
さて、黒澤リメイク企画が氾濫している今日この頃、織田裕二主演、森田芳光監督でその『椿三十郎』をリメイクし、正月映画としての公開だ。『椿三十郎』が好きだときく森田芳光は、基本的にオリジナルの脚本をそのまま使用して本作を作っているし、多くのシーンがオリジナルそのままの構図で撮影されている。ただし、本作はカラー。オリジナルは白黒だった。
そこで思い出すのが、世紀の愚挙扱いされて黙殺されたガス・ヴァンサント版『サイコ』である。ヒッチコックのオリジナルをショット・バイ・ショットのレベルで忠実になぞり再現するという学生の実験映画のような試みで、スタジオの視点で考えれば、おそらく、テレビで放送しにくい白黒映画をコンピュータで着色処理する代わりに、今のスターを使ってカラー版をつくってしまえということだったのだと思う。完成した映画が面白いかどうかは別として、個人的には興味深い試みだったと思う。例えば、同じ脚本、同じショットをつないだといっても、役者が違い、演技が違えばシーンのニュアンスは違うものになり、映画総体としてはさらに違うものになってしまうという、理屈で考えれば当たり前のことを実際に目にする機会をもらったということだ。
森田版の三十郎は、もちろん役者が違う。織田裕二の好き嫌いはともかくとして、今、「名前で客を呼べるスター」なるものが仮にいるとすれば、彼だという作り手の主張はわかるような気もするが、彼の持ち味は三船敏郎とは異なるのだから、それだけでも映画の醸し出す雰囲気が変わってしまう。織田裕二は彼なりに頑張っているが、オリジナルの脚本そのものが彼の個性に合っていない。そして、テンポが違う。いま、この時代にリメイクをするのであれば、当然、今のスピード感覚にあわせたっ作品になっているべきであるが、96分のオリジナルがなぜか119分と、20分近くも長くなっている。なんでこうなってしまうのか。そして、クライマックスの演出が違う。違うことをして、新しくなって、面白くなっているならいい。しかし、オリジナルであれだけ印象的で鮮やかだったあの決闘シーンが、つまらないカット割りやスローモーションで引き伸ばされた挙句、あまりに平凡なシーンに成り果てているのには呆れてものが云えなかった。監督は、同じ脚本ながら現代的に再構築したといういい方をしているわけだが、それじゃなんだ、96分で語れる話を2時間に引き伸ばすのが現代的で、あの決闘シーンが当時の観客にもたらした衝撃を、細かいカット割りとスローモーションや白黒カットが交じった凡庸な編集が、現代の目で見て新しく、衝撃的だとでもいうのだろうか? いいアイディアがないのなら、オリジナルのままにしておくという勇気はなかったのか。
そんなこんなで、オリジナルを冒涜するかのような「改変」こそなかったが、過去の名作を同じ脚本で現代によみがえらせるというチャレンジは、もう少しうまいやり方があったとは思うが、図らずも失敗したといえよう。tだ、腐っても鯛といういい方が良いのかどうか、さすがにオリジナルの脚本が面白いだけのことはあって、上映時間中とりあえず見ていられるのは事実。演出が冴えなくても脚本さえ良ければ底抜けにはならないという見本としては一見の価値がある、か。
黒澤明監督が『用心棒』に続いて撮った、限りなく続編的な姉妹編が『椿三十郎』である。どちらも三船敏郎演ずる流れ者のサムライが主人公だが、どちらかといえばハードボイルド・タッチの『用心棒』に比べてこちらのほうが軽く、ユーモラス。そこが『椿三十郎』というっ作品で、私のお気に入りのポイントである。
また、この映画はクライマックスの決闘の斬新さで知られている。強いやつと強いやつが延々と死闘を繰り広げるというのではなく、一瞬で決着がつく。どちらが勝ったか、一瞬の間をおいて、ど派手に吹き上がる血飛沫でわかる、、というのが当時の感覚からすれば度肝抜かれる感じではなかったか。古いタイプの時代劇というのが、いろいろな「お約束」で成立をしていたのに対して、刀で切る、切られたら当然血が出るというのを映像にしているわけだが、そういう意味でのリアリティはことさら重視しておきながら、最後の最後にきて、あからさまな映像的な誇張で噴水のように血飛沫が上がるという、その飛躍、その落差によって強い印象が残るんじゃあなかろうか。リアルタイムでなく、80年代になってから映画を見始めたような私のような人間の脳裏にも鮮烈に刻みつけられる、凄いアイディアの名シーンであった。
さて、黒澤リメイク企画が氾濫している今日この頃、織田裕二主演、森田芳光監督でその『椿三十郎』をリメイクし、正月映画としての公開だ。『椿三十郎』が好きだときく森田芳光は、基本的にオリジナルの脚本をそのまま使用して本作を作っているし、多くのシーンがオリジナルそのままの構図で撮影されている。ただし、本作はカラー。オリジナルは白黒だった。
そこで思い出すのが、世紀の愚挙扱いされて黙殺されたガス・ヴァンサント版『サイコ』である。ヒッチコックのオリジナルをショット・バイ・ショットのレベルで忠実になぞり再現するという学生の実験映画のような試みで、スタジオの視点で考えれば、おそらく、テレビで放送しにくい白黒映画をコンピュータで着色処理する代わりに、今のスターを使ってカラー版をつくってしまえということだったのだと思う。完成した映画が面白いかどうかは別として、個人的には興味深い試みだったと思う。例えば、同じ脚本、同じショットをつないだといっても、役者が違い、演技が違えばシーンのニュアンスは違うものになり、映画総体としてはさらに違うものになってしまうという、理屈で考えれば当たり前のことを実際に目にする機会をもらったということだ。
森田版の三十郎は、もちろん役者が違う。織田裕二の好き嫌いはともかくとして、今、「名前で客を呼べるスター」なるものが仮にいるとすれば、彼だという作り手の主張はわかるような気もするが、彼の持ち味は三船敏郎とは異なるのだから、それだけでも映画の醸し出す雰囲気が変わってしまう。織田裕二は彼なりに頑張っているが、オリジナルの脚本そのものが彼の個性に合っていない。そして、テンポが違う。いま、この時代にリメイクをするのであれば、当然、今のスピード感覚にあわせたっ作品になっているべきであるが、96分のオリジナルがなぜか119分と、20分近くも長くなっている。なんでこうなってしまうのか。そして、クライマックスの演出が違う。違うことをして、新しくなって、面白くなっているならいい。しかし、オリジナルであれだけ印象的で鮮やかだったあの決闘シーンが、つまらないカット割りやスローモーションで引き伸ばされた挙句、あまりに平凡なシーンに成り果てているのには呆れてものが云えなかった。監督は、同じ脚本ながら現代的に再構築したといういい方をしているわけだが、それじゃなんだ、96分で語れる話を2時間に引き伸ばすのが現代的で、あの決闘シーンが当時の観客にもたらした衝撃を、細かいカット割りとスローモーションや白黒カットが交じった凡庸な編集が、現代の目で見て新しく、衝撃的だとでもいうのだろうか? いいアイディアがないのなら、オリジナルのままにしておくという勇気はなかったのか。
そんなこんなで、オリジナルを冒涜するかのような「改変」こそなかったが、過去の名作を同じ脚本で現代によみがえらせるというチャレンジは、もう少しうまいやり方があったとは思うが、図らずも失敗したといえよう。tだ、腐っても鯛といういい方が良いのかどうか、さすがにオリジナルの脚本が面白いだけのことはあって、上映時間中とりあえず見ていられるのは事実。演出が冴えなくても脚本さえ良ければ底抜けにはならないという見本としては一見の価値がある、か。
6/30/2005
War of the Worlds (2005)
宇宙戦争(☆☆☆★)
ある日突然に地球侵攻を開始した異性生命体。地中深くに埋められていた三脚の戦闘マシーンの放つ怪光線や触手の前に、人々は逃げ惑うしかない。たまたま遊びに来ていた2人の子供を連れ、なんの情報もないなかで前妻の住む街を目指す主人公。出演はトム・クルーズ、ダコタ・ファニング、ティム・ロビンスら。スティーヴン・スピルバーグ監督。
これは決して愛と勇気の感動娯楽映画などではないから、取り扱いは要注意である。なにしろ、米国の劇場公開のレイティングを決める際にリアルな暴力よりは一段低く見られる「SF的なバイオレンス」表現であるとはいえ、多くの人が気付いているように「鬼畜」描写大好きなスピルバーグが久々に本領を発揮した、暗くて怖い映画なのだ。
製作の成り立ちを聞くと「ちょっと空いた時間に気軽に作った趣味的な小品」に聞こえてしまう本作において、スピルバーグは米国本土を戦場とし、為す術も無く外敵に蹂躙され恐怖に震え上がり逃げ惑う人々の姿を、自らが生き残るためには手段を問わない人間の醜さを、そのなかで大人たちが無垢な存在である子供に対して負っている責任を描いた。主人公の言動は平均的なハリウッド大作の主人公=ヒーローとは随分異なっていて、格好良さや威勢の良さとは無縁だ。こういう描写をするところにも、作り手の中途半端ではない真剣さをみる。いつもは緩急ある演出でサスペンスを盛り上げるスピルバーグが、いつになくシリアス一本調子であるのも、娯楽映画のバランスとしてはどうかと思う。が、映画の狙いがそこにあるのだから致し方あるまい。
違う言い方をするなら、こうだ。これは「原作を踏襲した一応のハッピーエンディングも嘘臭く見えるほどの圧倒的なまでの負のエネルギーが、スピルバーグ一流のサスペンス・テクニックと共に炸裂する、本年度最もイビツな娯楽イベント映画」である。ポスト911の世界において、最も盛大にそのトラウマをぶちまけて見せた作品であり、つまらない駄洒落承知でいうならば「悪夢との遭遇」だ。三脚戦車がぶおーっと音を立ててのし歩く姿を遠景に見ながら何も出来ない無力感。あの光景。光のシャンデリアとは音楽でコミュニケーションをとったが、あの異星人のマシーンはコミュニケーションを拒絶する。
一聴してその声とわかるモーガン・フリーマンのナレーションは、圧倒的な力で相手をねじ伏せるのではなく、異質なもの同士が長い時間をかけて共存する術を学ぶことにこそ解決の糸口があるのだと語る。あれだけの科学力を持つ異星人があんなことを見逃すのはおかしいなどというのはナンセンス。あれだけの軍事力を持つ米国が、テロを壊滅させることができないがごとく。
普通の民間時である主人公の視点を徹底して貫く映画の構造は、先行したシャマランによる異星人侵略SF『サイン』も同様であったが、あちらの作品が異星人なりなんなりというのを単なるギミックであってそれ以上のものではなかった。表面的にはHGウェルズの原作に忠実な本作は、そういう狙いすました目新しさでなく、もっと本質的に、他の映画では感じたことの無い恐怖を体感させてくれる。もちろんスピルバーグのテクニックは本物だから、それに翻弄されるのは楽しい。
これが「ちょっとスケジュールがあいたから」と、1年足らずの間に撮影され、公開された作品だとはにわかに信じられない。早撮りスピルバーグ、恐るべし。
ある日突然に地球侵攻を開始した異性生命体。地中深くに埋められていた三脚の戦闘マシーンの放つ怪光線や触手の前に、人々は逃げ惑うしかない。たまたま遊びに来ていた2人の子供を連れ、なんの情報もないなかで前妻の住む街を目指す主人公。出演はトム・クルーズ、ダコタ・ファニング、ティム・ロビンスら。スティーヴン・スピルバーグ監督。
これは決して愛と勇気の感動娯楽映画などではないから、取り扱いは要注意である。なにしろ、米国の劇場公開のレイティングを決める際にリアルな暴力よりは一段低く見られる「SF的なバイオレンス」表現であるとはいえ、多くの人が気付いているように「鬼畜」描写大好きなスピルバーグが久々に本領を発揮した、暗くて怖い映画なのだ。
製作の成り立ちを聞くと「ちょっと空いた時間に気軽に作った趣味的な小品」に聞こえてしまう本作において、スピルバーグは米国本土を戦場とし、為す術も無く外敵に蹂躙され恐怖に震え上がり逃げ惑う人々の姿を、自らが生き残るためには手段を問わない人間の醜さを、そのなかで大人たちが無垢な存在である子供に対して負っている責任を描いた。主人公の言動は平均的なハリウッド大作の主人公=ヒーローとは随分異なっていて、格好良さや威勢の良さとは無縁だ。こういう描写をするところにも、作り手の中途半端ではない真剣さをみる。いつもは緩急ある演出でサスペンスを盛り上げるスピルバーグが、いつになくシリアス一本調子であるのも、娯楽映画のバランスとしてはどうかと思う。が、映画の狙いがそこにあるのだから致し方あるまい。
違う言い方をするなら、こうだ。これは「原作を踏襲した一応のハッピーエンディングも嘘臭く見えるほどの圧倒的なまでの負のエネルギーが、スピルバーグ一流のサスペンス・テクニックと共に炸裂する、本年度最もイビツな娯楽イベント映画」である。ポスト911の世界において、最も盛大にそのトラウマをぶちまけて見せた作品であり、つまらない駄洒落承知でいうならば「悪夢との遭遇」だ。三脚戦車がぶおーっと音を立ててのし歩く姿を遠景に見ながら何も出来ない無力感。あの光景。光のシャンデリアとは音楽でコミュニケーションをとったが、あの異星人のマシーンはコミュニケーションを拒絶する。
一聴してその声とわかるモーガン・フリーマンのナレーションは、圧倒的な力で相手をねじ伏せるのではなく、異質なもの同士が長い時間をかけて共存する術を学ぶことにこそ解決の糸口があるのだと語る。あれだけの科学力を持つ異星人があんなことを見逃すのはおかしいなどというのはナンセンス。あれだけの軍事力を持つ米国が、テロを壊滅させることができないがごとく。
普通の民間時である主人公の視点を徹底して貫く映画の構造は、先行したシャマランによる異星人侵略SF『サイン』も同様であったが、あちらの作品が異星人なりなんなりというのを単なるギミックであってそれ以上のものではなかった。表面的にはHGウェルズの原作に忠実な本作は、そういう狙いすました目新しさでなく、もっと本質的に、他の映画では感じたことの無い恐怖を体感させてくれる。もちろんスピルバーグのテクニックは本物だから、それに翻弄されるのは楽しい。
これが「ちょっとスケジュールがあいたから」と、1年足らずの間に撮影され、公開された作品だとはにわかに信じられない。早撮りスピルバーグ、恐るべし。
11/06/1999
The Insider
インサイダー(☆☆☆☆★)
タバコ会社は、その製品の有害性、嗜癖性を認識していたのか。ラッキー・ストライクなどで知られる大手タバコ・メーカーの研究開発トップを追われた男は、それに関わる守秘義務を巡って会社からの圧力を受けていた。運命は彼をCBSの『60ミニッツ』のプロデューサーと巡り合わせる。しかし、タバコ会社からの訴訟を恐れたTV局は、番組の内容に圧力を加えてくる。
歴史と云うにはまだあまりに生々しい出来事を映画にしてしまうパワーには、ただただ圧倒される。男の映画といえば筆頭に名前の上がるマイケル・マンの新作は、マリー・ブレナーの記事に基づいて、エリック・ロスと監督自身が共同脚色したドキュ・ドラマである。
この映画は、硬派な情報番組として圧倒的な信頼を勝ち得ていた『60ミニッツ』が、ウェスティングハウスによる買収を控えて訴訟によるダメージを恐れたCBSによる圧力に屈して内容を改変して放送してしまった「事件」を軸に、2人の男の苦悩と闘いを、ドラマティックに描き出していく。
一人は、ラッセル・クロウ演じるB&Wの元R&D担当VPである。当時、7ドワーフなどと呼ばれた7大タバコ会社の経営者らは、議会の公聴会などで、「タバコの嗜癖性に対する認識がなかった」とシラを切り通そうとしていたのだが、知らなかったどころか、むしろその中毒性を利用して売上拡大をするための研究をしていたという事実を知る立場にあった「究極のインサイダー」だ。
もう一人は、アル・パチーノ演じる命知らずのTVプロデューサーである。ラッセル・クロウの知る内部情報を『60ミニッツ』の番組でインタビューとして取り上げるため、会社側の圧力に抗して孤立無援で突き進む。
社会派のドキュ・ドラマとはいえ、起こってしまった事実そのものを告発するのが本作の趣旨ではない。マイケル・マンは、声高な主張を発することではなく、ある極限状況に置かれた男たちの決断と行動を描くことに興味を持っている。2時間40分の尺は長いが、分厚く、濃密な「エピック」としての手応えは十分だ。マイケル・マンのフィルモグラフィーでも筆頭に挙げてよいと思える、大傑作。
映画は一種、2幕ものの構成になっている。映画の前半は、究極のインサイダー、ラッセル・クロウ演じる人物が苦悩のなかで事実を明かす決断を下していくドラマ。一方、後半ではそのインタヴューを収めた番組の放送を巡り、ウェスティングハウスによる買収を控えて訴訟による致命的なダメージを恐れたCBSからの圧力がかかる。そんな孤立無援の状況であくまでインタヴューを放送しようとするアル・パチーノ演じるプロデューサーのドラマが描かれる。
それゆえに、映画向けの脚色はあるし、エンドクレジットでも触れられている。また、映画ではクリストファー・プラマーが演じている『60ミニッツ』のキャスター本人から、自分の描き方に対する批判があげられたりもしている。しかし、それが本作の、映画としての価値を減じるものではない。
本作は、オーストラリア出身で、『L.A.コンフィデンシャル』などで注目を集めつつあるラッセル・クロウにとっては大きなマイルストーンになる作品だろう。実年齢よりも幾分上の人物を、体重を増やし、老けメイクにより演じているのだが、これまでの作品で見た彼とは全く別人のようである。家族に対する責任、自分が勤めた会社に対する義務、自良心や倫理観、社会に対する責任などの相反するものに引き裂かれる苦悩。望んでそうなったわけではない悲劇的ですらあるヒーロー像を、堂々たる演技で見せる。
一方のアル・パチーノも、いつもの演劇的な過剰さが押さえ気味で素晴らしいのだが、ラッセル・クロウを相手に回して押されてしまっていることもあるし、なにより、役回りとしても損なところがあった。
男たちを魅力的に描くマイケル・マンだが、CBSの弁護士に起用したジーナ・ガーションを始め、女優陣の描き方には全く精彩がない。まあ、そういう監督だとわかっているから気にもならないが、ラッセル・クロウの妻の描写などを見ていると、ああいう立場に立たされた反応としては理解できることであるのに、ある種、女性という生き物に対する悪意すらあるんじゃないかと感じないでもない。面白いもんだね。
タバコ会社は、その製品の有害性、嗜癖性を認識していたのか。ラッキー・ストライクなどで知られる大手タバコ・メーカーの研究開発トップを追われた男は、それに関わる守秘義務を巡って会社からの圧力を受けていた。運命は彼をCBSの『60ミニッツ』のプロデューサーと巡り合わせる。しかし、タバコ会社からの訴訟を恐れたTV局は、番組の内容に圧力を加えてくる。
歴史と云うにはまだあまりに生々しい出来事を映画にしてしまうパワーには、ただただ圧倒される。男の映画といえば筆頭に名前の上がるマイケル・マンの新作は、マリー・ブレナーの記事に基づいて、エリック・ロスと監督自身が共同脚色したドキュ・ドラマである。
この映画は、硬派な情報番組として圧倒的な信頼を勝ち得ていた『60ミニッツ』が、ウェスティングハウスによる買収を控えて訴訟によるダメージを恐れたCBSによる圧力に屈して内容を改変して放送してしまった「事件」を軸に、2人の男の苦悩と闘いを、ドラマティックに描き出していく。
一人は、ラッセル・クロウ演じるB&Wの元R&D担当VPである。当時、7ドワーフなどと呼ばれた7大タバコ会社の経営者らは、議会の公聴会などで、「タバコの嗜癖性に対する認識がなかった」とシラを切り通そうとしていたのだが、知らなかったどころか、むしろその中毒性を利用して売上拡大をするための研究をしていたという事実を知る立場にあった「究極のインサイダー」だ。
もう一人は、アル・パチーノ演じる命知らずのTVプロデューサーである。ラッセル・クロウの知る内部情報を『60ミニッツ』の番組でインタビューとして取り上げるため、会社側の圧力に抗して孤立無援で突き進む。
社会派のドキュ・ドラマとはいえ、起こってしまった事実そのものを告発するのが本作の趣旨ではない。マイケル・マンは、声高な主張を発することではなく、ある極限状況に置かれた男たちの決断と行動を描くことに興味を持っている。2時間40分の尺は長いが、分厚く、濃密な「エピック」としての手応えは十分だ。マイケル・マンのフィルモグラフィーでも筆頭に挙げてよいと思える、大傑作。
映画は一種、2幕ものの構成になっている。映画の前半は、究極のインサイダー、ラッセル・クロウ演じる人物が苦悩のなかで事実を明かす決断を下していくドラマ。一方、後半ではそのインタヴューを収めた番組の放送を巡り、ウェスティングハウスによる買収を控えて訴訟による致命的なダメージを恐れたCBSからの圧力がかかる。そんな孤立無援の状況であくまでインタヴューを放送しようとするアル・パチーノ演じるプロデューサーのドラマが描かれる。
それゆえに、映画向けの脚色はあるし、エンドクレジットでも触れられている。また、映画ではクリストファー・プラマーが演じている『60ミニッツ』のキャスター本人から、自分の描き方に対する批判があげられたりもしている。しかし、それが本作の、映画としての価値を減じるものではない。
本作は、オーストラリア出身で、『L.A.コンフィデンシャル』などで注目を集めつつあるラッセル・クロウにとっては大きなマイルストーンになる作品だろう。実年齢よりも幾分上の人物を、体重を増やし、老けメイクにより演じているのだが、これまでの作品で見た彼とは全く別人のようである。家族に対する責任、自分が勤めた会社に対する義務、自良心や倫理観、社会に対する責任などの相反するものに引き裂かれる苦悩。望んでそうなったわけではない悲劇的ですらあるヒーロー像を、堂々たる演技で見せる。
一方のアル・パチーノも、いつもの演劇的な過剰さが押さえ気味で素晴らしいのだが、ラッセル・クロウを相手に回して押されてしまっていることもあるし、なにより、役回りとしても損なところがあった。
男たちを魅力的に描くマイケル・マンだが、CBSの弁護士に起用したジーナ・ガーションを始め、女優陣の描き方には全く精彩がない。まあ、そういう監督だとわかっているから気にもならないが、ラッセル・クロウの妻の描写などを見ていると、ああいう立場に立たされた反応としては理解できることであるのに、ある種、女性という生き物に対する悪意すらあるんじゃないかと感じないでもない。面白いもんだね。
Being John Markovich
マルコヴィッチの穴(☆☆☆☆)
この物語の一応の主人公は売れない人形遣いである。彼が生活のためにファイル整理の仕事に就くのだが、ある日ファイルキャビネットの裏に奇妙な扉があることを発見する。ドアの向こうには長いトンネルがあって、その先は、なんとジョン・マルコヴィッチの頭につながっていた!という、支離滅裂な不条理コメディであり、風刺激であり、ラヴ・ストーリーだったり、という摩訶不思議な1本。
そう、なんとも奇天烈な作品なのだ。他人の身体の中に意識を宿すというアイディアだけなら珍しいものではない。しかし、この作品は、そこからどんどんと妙ちきりんな深みにはまっていき、いったい物語がどこに向かっているものか、一歩も先が読めなくなっていってしまうのである。
そもそもファイル整理の仕事に就いた主人公の職場が、オフィスビルの「7.5 階」にある、というところでヤラレた感がある。この設定は、話の展開上ほとんど意味がない思いつきの一発ギャグのようにみえて、不条理な世界への入り口として効果的に機能している。エレベーターを強制的に止め、手動で扉をこじ開けないといくことのできない非日常な場所。天井がやたら低くどこかピントのずれた人々が働くフロア。ここだったら、何が起こっても不思議でない。
そもそもというのなら、主人公の職業が「人形遣い」というところ。これも、身悶えする人形などという、前代未聞の思いつきギャグをやりたいからかと思って見ていると、「人形」としての他人の体を内側から操るという話につながっていく。
そこに、「マルコヴィッチ」である。この名前の響き。あの容姿、あのネズミ目。他の誰かでは成立しそうで、成立しない危うさ。これを思いついた瞬間、そして、本人が出演OKした瞬間、「勝った」と思ったことだろう。
劇中、マルコヴィッチのことを「20世紀におけるアメリカの偉大な俳優だ」と説明する主人公だが、「で、どんな映画にでているの?」と問い返されて具体的な作品名が一つもでてこないというシーンがあるのだが、そういう「名前はしってるんだけど?」というポジションも含めて、絶妙な感じがする。
いや、この映画に足を運ぶような観客だったらもちろん、マルコヴィッチといえばあんな作品やこんな作品といろいろ頭に浮かぶだろうし、本作の主人公を演じているのがジョン・キューザックだから、「お前、『コン・エアー』で共演してたじゃん!」などと思うんだけどね。
そのマルコヴィッチご本人、本作において「世間の自分に対するイメージ」を演じるという機会を得て、実に楽しそうに見える。外見によらず、いいやつなのかもしれない。
ジョン・キューザックとキャメロン・ディアズが汚らしい格好で全く冴えないキャラクターを演じている。特に、『メリーに首ったけ』のイメージでしかキャメロンを覚えていない人には唖然とする変身ぶりなのだが、こんな役を嬉しそうに演じている彼女は面白い人だと思う。マルコヴィッチ体験の後での豹変ぶりは笑えて仕方がない。もう一人、個の二人に比べると知名度で劣るが、キャスリーン・キーナーという女優さんが重要な役をやっていて、たいへんに印象に残る。また、「本人役」でいろんなスターや監督がカメオ出演しているのも楽しいところである。
このユニークな脚本を書いたのはチャーリー・カウフマン、監督は、オフビートな作風のミュージック・クリップの演出で知られるスパイク・ジョーンズ。インディペンデントならではのユニークな感覚と世界。商業主義的なアメリカ映画界からこういう作品が飛び出してきて、しかも興行的にも成功してしまうところが、彼の国の映画産業の強みのひとつだよな。
この物語の一応の主人公は売れない人形遣いである。彼が生活のためにファイル整理の仕事に就くのだが、ある日ファイルキャビネットの裏に奇妙な扉があることを発見する。ドアの向こうには長いトンネルがあって、その先は、なんとジョン・マルコヴィッチの頭につながっていた!という、支離滅裂な不条理コメディであり、風刺激であり、ラヴ・ストーリーだったり、という摩訶不思議な1本。
そう、なんとも奇天烈な作品なのだ。他人の身体の中に意識を宿すというアイディアだけなら珍しいものではない。しかし、この作品は、そこからどんどんと妙ちきりんな深みにはまっていき、いったい物語がどこに向かっているものか、一歩も先が読めなくなっていってしまうのである。
そもそもファイル整理の仕事に就いた主人公の職場が、オフィスビルの「7.5 階」にある、というところでヤラレた感がある。この設定は、話の展開上ほとんど意味がない思いつきの一発ギャグのようにみえて、不条理な世界への入り口として効果的に機能している。エレベーターを強制的に止め、手動で扉をこじ開けないといくことのできない非日常な場所。天井がやたら低くどこかピントのずれた人々が働くフロア。ここだったら、何が起こっても不思議でない。
そもそもというのなら、主人公の職業が「人形遣い」というところ。これも、身悶えする人形などという、前代未聞の思いつきギャグをやりたいからかと思って見ていると、「人形」としての他人の体を内側から操るという話につながっていく。
そこに、「マルコヴィッチ」である。この名前の響き。あの容姿、あのネズミ目。他の誰かでは成立しそうで、成立しない危うさ。これを思いついた瞬間、そして、本人が出演OKした瞬間、「勝った」と思ったことだろう。
劇中、マルコヴィッチのことを「20世紀におけるアメリカの偉大な俳優だ」と説明する主人公だが、「で、どんな映画にでているの?」と問い返されて具体的な作品名が一つもでてこないというシーンがあるのだが、そういう「名前はしってるんだけど?」というポジションも含めて、絶妙な感じがする。
いや、この映画に足を運ぶような観客だったらもちろん、マルコヴィッチといえばあんな作品やこんな作品といろいろ頭に浮かぶだろうし、本作の主人公を演じているのがジョン・キューザックだから、「お前、『コン・エアー』で共演してたじゃん!」などと思うんだけどね。
そのマルコヴィッチご本人、本作において「世間の自分に対するイメージ」を演じるという機会を得て、実に楽しそうに見える。外見によらず、いいやつなのかもしれない。
ジョン・キューザックとキャメロン・ディアズが汚らしい格好で全く冴えないキャラクターを演じている。特に、『メリーに首ったけ』のイメージでしかキャメロンを覚えていない人には唖然とする変身ぶりなのだが、こんな役を嬉しそうに演じている彼女は面白い人だと思う。マルコヴィッチ体験の後での豹変ぶりは笑えて仕方がない。もう一人、個の二人に比べると知名度で劣るが、キャスリーン・キーナーという女優さんが重要な役をやっていて、たいへんに印象に残る。また、「本人役」でいろんなスターや監督がカメオ出演しているのも楽しいところである。
このユニークな脚本を書いたのはチャーリー・カウフマン、監督は、オフビートな作風のミュージック・クリップの演出で知られるスパイク・ジョーンズ。インディペンデントならではのユニークな感覚と世界。商業主義的なアメリカ映画界からこういう作品が飛び出してきて、しかも興行的にも成功してしまうところが、彼の国の映画産業の強みのひとつだよな。
11/05/1999
The Bone Collector
ボーン・コレクター(☆☆☆★)
NYを舞台に、怪奇で残虐な連続殺人事件が発生する。犠牲者から骨の一部を摘出し、残忍な方法で殺していく犯人は、捜査陣との知恵比べを楽しむかのように現場に様々な証拠やメッセージを残していく。この事件に立ち向かうのは、仕事上の事故で身体のほとんどを動かすことが出来なくなった現場検証の大ベテランと、彼の目となり手足となるために抜擢された若い女性警官だ。このコンビを演じるのがデンゼル・ワシントンとアンジェリーナ・ジョリー。監督はフィリップ・ノイス。
アンジェリーナ・ジョリーはジョディ・フォスターではないし、フィリップ・ノイスはジョナサン・デミには程遠い。だから、この映画は『羊たちの沈黙』レベルの作品にはなっていない。しかし、『羊たちの沈黙』以降、山のようにつくられてきたサイコ・スリラーのなかでは、結構楽しめる部類の作品といっていい。ジャンルを再定義するような傑作ではないが、力のこもった好編だと思う。
映画のストーリーそのものにはそれほど新味があるわけではない。牢獄の中のレクターからヒントをもらって事件に立ち向かうクラリスという構図が、ベッドの上で寝たきりのデンゼルの手足となって凄惨な現場に踏み込むアンジェリーナに容易に重なって見えるし、凝った殺人法は『セブン』などを思い出させる。あくまで、もはや定番となったサイコ・キラーものである。もしこの犯人を精神異常者というカテゴリーに含めることが出来るのなら、の話だが。
決まりきった話だからこそ、見せ方がモノを言う。例えば、映画の始めの方で、アンジェリーナ演じる警官が通報を受け、最初の死体を発見する。ここでなんの用意もない彼女が証拠確保のために効かせた機転。それ自体がプロの仕事ぶり感じさせるのもあるし、巧みなキャラクター紹介にもなっている。サスペンスを盛り上げる組み立て方もいい。謎が解けてみれば、なんだ、その程度のことかとガッカリしてしまうのだが、そこに至るまでのプロセスで上手に観客の気分を盛り上げていく。一般にはぬるい監督と思われているフィリップ・ノイスだが、大型の娯楽アクション作品は今ひとつでも、こういうサスペンス・スリラーを撮らせると活き活きとするものだ。
ところで、この映画、それよりも何よりも、「スター・メイキング」の1本という意味で見逃せない。
アンジェリーナ・ジョリーは、昨年、TV映画『Gia』で評判をとって、そのあと急に出演作品が増えている新進スターである。ジョン・ボイドの娘、という出自も、そのセクシーな口元も目を引くのだけれど、いやはやどうして、ここでの彼女、凛と背筋を伸ばした姿の格好良さ。彼女の颯爽とした演技をみていると、これがスター誕生の瞬間なのだと確信する。この後出演作が次々公開される、絶対注目すべき女優だろう。
そんな彼女の引き立て役に回っているのがデンゼル・ワシントンである。首から上だけしか使えない難役ながら、若いスター誕生に貢献している。その看護人を演じたのが立派な体躯のクイーン・ラティファーだが、これまた、そのキャラクターの扱いがひどいと思わせるほどの好演を見せている。やっぱり役者がいいと映画が締まる。また、音楽もいい。クレイグ・アームストロングが堂々たるスコアを書いていて、感心した。この人、こういう仕事もできるのか。
NYを舞台に、怪奇で残虐な連続殺人事件が発生する。犠牲者から骨の一部を摘出し、残忍な方法で殺していく犯人は、捜査陣との知恵比べを楽しむかのように現場に様々な証拠やメッセージを残していく。この事件に立ち向かうのは、仕事上の事故で身体のほとんどを動かすことが出来なくなった現場検証の大ベテランと、彼の目となり手足となるために抜擢された若い女性警官だ。このコンビを演じるのがデンゼル・ワシントンとアンジェリーナ・ジョリー。監督はフィリップ・ノイス。
アンジェリーナ・ジョリーはジョディ・フォスターではないし、フィリップ・ノイスはジョナサン・デミには程遠い。だから、この映画は『羊たちの沈黙』レベルの作品にはなっていない。しかし、『羊たちの沈黙』以降、山のようにつくられてきたサイコ・スリラーのなかでは、結構楽しめる部類の作品といっていい。ジャンルを再定義するような傑作ではないが、力のこもった好編だと思う。
映画のストーリーそのものにはそれほど新味があるわけではない。牢獄の中のレクターからヒントをもらって事件に立ち向かうクラリスという構図が、ベッドの上で寝たきりのデンゼルの手足となって凄惨な現場に踏み込むアンジェリーナに容易に重なって見えるし、凝った殺人法は『セブン』などを思い出させる。あくまで、もはや定番となったサイコ・キラーものである。もしこの犯人を精神異常者というカテゴリーに含めることが出来るのなら、の話だが。
決まりきった話だからこそ、見せ方がモノを言う。例えば、映画の始めの方で、アンジェリーナ演じる警官が通報を受け、最初の死体を発見する。ここでなんの用意もない彼女が証拠確保のために効かせた機転。それ自体がプロの仕事ぶり感じさせるのもあるし、巧みなキャラクター紹介にもなっている。サスペンスを盛り上げる組み立て方もいい。謎が解けてみれば、なんだ、その程度のことかとガッカリしてしまうのだが、そこに至るまでのプロセスで上手に観客の気分を盛り上げていく。一般にはぬるい監督と思われているフィリップ・ノイスだが、大型の娯楽アクション作品は今ひとつでも、こういうサスペンス・スリラーを撮らせると活き活きとするものだ。
ところで、この映画、それよりも何よりも、「スター・メイキング」の1本という意味で見逃せない。
アンジェリーナ・ジョリーは、昨年、TV映画『Gia』で評判をとって、そのあと急に出演作品が増えている新進スターである。ジョン・ボイドの娘、という出自も、そのセクシーな口元も目を引くのだけれど、いやはやどうして、ここでの彼女、凛と背筋を伸ばした姿の格好良さ。彼女の颯爽とした演技をみていると、これがスター誕生の瞬間なのだと確信する。この後出演作が次々公開される、絶対注目すべき女優だろう。
そんな彼女の引き立て役に回っているのがデンゼル・ワシントンである。首から上だけしか使えない難役ながら、若いスター誕生に貢献している。その看護人を演じたのが立派な体躯のクイーン・ラティファーだが、これまた、そのキャラクターの扱いがひどいと思わせるほどの好演を見せている。やっぱり役者がいいと映画が締まる。また、音楽もいい。クレイグ・アームストロングが堂々たるスコアを書いていて、感心した。この人、こういう仕事もできるのか。
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