ミッション:8ミニッツ(☆☆☆★)
郊外からシカゴのユニオン駅に向かう通勤列車で爆破テロ事件が発生した。犯人は次なるターゲットとして市街地での大規模テロを画策しいているらしい、犯人につながる手がかりを見つけるため、主人公である陸軍大尉が意識だけ飛ばされるのは、事故の犠牲者の脳内に残された最後の8分間の記憶を元に再構築された世界である。分けも分からないまま、指示されるがまま、8分後に爆死することが確実な状況を何度も何度も繰り返すのだ。
騙し、騙される話ではないので、日本での宣伝文句通りに、「騙される」かどうかは別にして、確かに色々な映画を見てきていると、これまた『ふくろうの河』や『ジェイコブズ・ラダー』なんじゃあるまいな、などと、余計な想像をふくらませてしまうのもまた事実であろう。SF風のサスペンス・ミステリーとして幕を開ける本作は、しかし、そういう掟破りの方向には転がっていかない。
物語が進むに連れ、映画の中のルールが明らかになっていく。主人公の置かれた立場と、ミッションを可能にする仕組みについて曖昧なところを残したままではあるが、幾度かの試みを繰り返し、失敗を繰り返すうちに犯人の手がかりに迫っていく。しかし、同時に、主人公にとっての「現実」の持つ意味がだんだんと重くのしかかっていくようになる。
この映画の面白さは、そこに至るまでの手綱さばきが見事で、観客を飽きさせないところにもある。だがそれ以上に、主人公が自らに与えられた目的を超えて、自らの欲求を実現させようとする「ドラマ」にこそ、これを他にない、ユニークで感動的な要素があるのだ。死者の脳内に残された最後の記憶を超越して膨らんでいく、いってみれば、「もうひとつのリアリティ」、別の可能性に主人公が求める救いに、胸を打たれる。まあ、確かにそういう話になるとも思ってはいなかったから、嬉しい驚きだったといってもいい。
主演は、ジェイク・ギレンホール。思えばこの人は『ドニー・ダーコ』であり、『遠い空の向こうに』なのだった。不条理な世界に巻き込まれるのが似合うといったら失礼かもしれないが、それと同時に、物静かだが誠実な人柄と、少しばかりの狂気、諦めない勇気ある行動力。過去の作品からそういうイメージを引きずっている彼は、本作の主人公にぴたりとハマっている。ヒロインはミシェル・モナハン。いつも添え物的な扱いが多い彼女だが、今回はなかなかいい役柄だったのではないか。主人公をミッションに駆り立てる側に立つのがヴェラ・ファーミガとジェフリー・ライトだ。もちろん他にも登場人物はいるが、主要なのはこの4人で、比較的にこぢんまりした作りの映画ではある。
本作の監督は、かつて「ゾウイ」などと奇天烈な名(キラキラ・ネームの先駆けw)を付けられた、デイヴィッド・ボウイの息子、ダンカン・ジョーンズである。なかなか達者な腕前で、複雑なパズルのような作品を組み立ててみせる。評判を呼んでいた前作『月に囚われた男』は残念なことに見損なってしまっているのだが、次回作が楽しみな監督であるのは間違いない。本作の舞台をNYからシカゴに変えるという判断も良かった。NYじゃ、さすがにエンターテインメントとして楽しむには重すぎるよね。
10/29/2011
Rango
ランゴ(☆☆☆☆)
ガラス・ケースで買われていたペットのカメレオンがラスベガス近郊の荒野に投げ出される。生来の演技好きを活かし、偶然も味方して最寄りの町の保安官の座に収まるのだが、水資源をめぐる陰謀に巻き込まれたことで、本物のヒーローとしての資質を問われることになる。
CGIアニメーションによるウェスタン・コメディである。従来はドリームワークス・アニメーション作品の配給だけを手がけていたパラマウントが自ら製作、監督は海賊トリロジーで一山当てた実写畑のゴア・バービンスキーで、実際のアニメーション製作の担当は、ILM(インダストリアル・ライト&マジック)という一風変わった布陣である。
結論だけ先にいえば、この映画、大変面白い。ヒロインに魅力があればもっと良かったとは思うが、少なくともゴア・バービンスキー監督の最高傑作に間違いない。マカロニからSFから近作にいたるまで、様々な映画の記憶をさらりと織りまぜつつ、一本筋の通った物語を語ってみせて、大人をこそ楽しませてくれる。
関西弁が出てくる変なヘンテコ字幕には閉口したが、オリジナル音声で広く公開してくれたことだけは評価したい。(ほんと、アニメになると、どれだけ有名な役者が声を演じていようが、なんでもかんでも吹替版ばかりになってしまう風潮には怒りを感じるよね。)
主人公のカメレオンをジョニー・デップが演じていることが喧伝されていたので、てっきりロバート・ゼメキスの諸作や、ゴラムや猿、アバターなどと同じく、「パフォーマンス・キャプチャー」方式で演技をコンピュータに取り込んだのだと思っていたが、それはどうやら間違っていたようだ。舞台裏を見ると、衣装や小道具を持った役者たちに演技をさせながら声を録って、その演技を参考にしながらアニメーション製作を行ったということのようだ。
そうはいっても、カメレオンの動きは確かにジョニー・デップそのものの演技のように見える。このさじ加減が実に面白い。この映画の製作プロセスのおかげで、実際の人間の演技に縛られてアニメーションとしての本来の面白さを失いがちな「パフォーマンス・キャプチャー式アニメーション映画」とは一線を画すことができたようだ。その一方で、役者たちの特徴的な動きや演技、感情を、アニメーターの解釈というフィルターを通してアニメーションに反映させることで、キャラクターに絶妙なかたちで「命」が吹きこまれている。そこには、アニメーションとしたの楽しさ、面白さがあるべき姿で息づいていると思う。
また、実写畑の監督によるアニメーションという意味では、近作にザック・スナイダーの『ガフールの伝説』があったが、本作のほうが「俳優たちの演技を演出」する余地が大きいんじゃないか。そうだとするなら、実写の監督がプロジェクトの指揮を執る意味も大きいような気がする。
主人公たるジョニー・デップばかりが話題になるが、ネッド・ビーティ演じる亀の「町長」も、ビル・ナイが演じるガラガラヘビも素晴らしい。特に蛇はリー・ヴァン・クリーフをイメージして創りだされたときくと、なるほどね、と思うが、尻尾がガトリング銃になっているというアニメ的な誇張が楽しく、ビル・ナイが特徴的かつ迫力満点のセリフ回しでこれを演じているから、もう最高だ。また、ティモシー・オリファントがワンシーン、ある人物のモノマネをやっているのだが、これも思わず本人?と思わせるほどの「聞き所」になっている。
数々の実写映画でVFXを担当してきたILMゆえに、背景等の作り込みは実写映画に近い写実的な雰囲気である。『WALL/E』、『ヒックとドラゴン』に続き、ヴィジュアル・コンサルタントとして実写のカメラマンであるロジャー・ディーキンスも参画しているから、画面の雰囲気や見せ方は、そういう意味でもアニメである前に「映画」である。そういう意味でもなかなかに見応えのある1本だといえるだろう。
ガラス・ケースで買われていたペットのカメレオンがラスベガス近郊の荒野に投げ出される。生来の演技好きを活かし、偶然も味方して最寄りの町の保安官の座に収まるのだが、水資源をめぐる陰謀に巻き込まれたことで、本物のヒーローとしての資質を問われることになる。
CGIアニメーションによるウェスタン・コメディである。従来はドリームワークス・アニメーション作品の配給だけを手がけていたパラマウントが自ら製作、監督は海賊トリロジーで一山当てた実写畑のゴア・バービンスキーで、実際のアニメーション製作の担当は、ILM(インダストリアル・ライト&マジック)という一風変わった布陣である。
結論だけ先にいえば、この映画、大変面白い。ヒロインに魅力があればもっと良かったとは思うが、少なくともゴア・バービンスキー監督の最高傑作に間違いない。マカロニからSFから近作にいたるまで、様々な映画の記憶をさらりと織りまぜつつ、一本筋の通った物語を語ってみせて、大人をこそ楽しませてくれる。
関西弁が出てくる変なヘンテコ字幕には閉口したが、オリジナル音声で広く公開してくれたことだけは評価したい。(ほんと、アニメになると、どれだけ有名な役者が声を演じていようが、なんでもかんでも吹替版ばかりになってしまう風潮には怒りを感じるよね。)
主人公のカメレオンをジョニー・デップが演じていることが喧伝されていたので、てっきりロバート・ゼメキスの諸作や、ゴラムや猿、アバターなどと同じく、「パフォーマンス・キャプチャー」方式で演技をコンピュータに取り込んだのだと思っていたが、それはどうやら間違っていたようだ。舞台裏を見ると、衣装や小道具を持った役者たちに演技をさせながら声を録って、その演技を参考にしながらアニメーション製作を行ったということのようだ。
そうはいっても、カメレオンの動きは確かにジョニー・デップそのものの演技のように見える。このさじ加減が実に面白い。この映画の製作プロセスのおかげで、実際の人間の演技に縛られてアニメーションとしての本来の面白さを失いがちな「パフォーマンス・キャプチャー式アニメーション映画」とは一線を画すことができたようだ。その一方で、役者たちの特徴的な動きや演技、感情を、アニメーターの解釈というフィルターを通してアニメーションに反映させることで、キャラクターに絶妙なかたちで「命」が吹きこまれている。そこには、アニメーションとしたの楽しさ、面白さがあるべき姿で息づいていると思う。
また、実写畑の監督によるアニメーションという意味では、近作にザック・スナイダーの『ガフールの伝説』があったが、本作のほうが「俳優たちの演技を演出」する余地が大きいんじゃないか。そうだとするなら、実写の監督がプロジェクトの指揮を執る意味も大きいような気がする。
主人公たるジョニー・デップばかりが話題になるが、ネッド・ビーティ演じる亀の「町長」も、ビル・ナイが演じるガラガラヘビも素晴らしい。特に蛇はリー・ヴァン・クリーフをイメージして創りだされたときくと、なるほどね、と思うが、尻尾がガトリング銃になっているというアニメ的な誇張が楽しく、ビル・ナイが特徴的かつ迫力満点のセリフ回しでこれを演じているから、もう最高だ。また、ティモシー・オリファントがワンシーン、ある人物のモノマネをやっているのだが、これも思わず本人?と思わせるほどの「聞き所」になっている。
数々の実写映画でVFXを担当してきたILMゆえに、背景等の作り込みは実写映画に近い写実的な雰囲気である。『WALL/E』、『ヒックとドラゴン』に続き、ヴィジュアル・コンサルタントとして実写のカメラマンであるロジャー・ディーキンスも参画しているから、画面の雰囲気や見せ方は、そういう意味でもアニメである前に「映画」である。そういう意味でもなかなかに見応えのある1本だといえるだろう。
10/23/2011
Rise of the Planet of Apes
猿の惑星 創世記(ジェネシス)(☆☆☆★)
もうね、猿、猿、猿なんだ。ゴールデンゲート・ブリッジでの攻防は、考えてみればスケールが大きいとはいいかねるんだけれども、大変に盛り上がるクライマックスではあった。上出来の娯楽映画。
『猿の惑星』の前日譚というか、『猿の惑星・征服』のリイマジネーション版というか、『猿の惑星』フランチャイズを、エピソード0からリブートする試みみたいなもの、といったところだろうか。過去の『猿の惑星』シリーズへのオマージュはあるが、直接の前編・続編ではなく、スタジオ介入とスケジュール&予算問題で当初構想通りに作ることができなかったティム・バートン版とも関係ない、新しいシリーズの開幕である。これ1本でも完結しているが、なにがしかの続編を作るだけのネタと伏線はいろいろあることだし、これだけヒットしたんだから、続きを作らないという手はないはずだ。
この企画が上手く入った理由の一つは、第1作のリメイクでもなく、直接の前編・続編でもなく、まるで「バットマン」や「スーパーマン」が違う作り手によって何度でも再生されるが如くのやり口で、現代を舞台に「フランチャイズ」としての新しい起点を打ち立てたことにあるだろう。もうひとつは、ロバート・ゼメキスやピーター・ジャクソン、ジェームズ・キャメロンらが取り組んできたパフォーマンス(エモーション)・キャプチャーとCGI 技術の成熟によって着ぐるみや特殊メイクでなく、ただのCGI アニメでもなく、猿に人間の演技と感情を吹き込むことが可能になったことだ。
話自体はそれほど工夫があるわけでもなく、ベイ・エリアだけで展開される物語のスケールも小さい。が、あるべき要素があるべきところに収まり、観客が無理なくアンディ・サーキス演じるチンパンジーの「シーザー」に感情移入できる流れを作っただけで、これだけ面白い映画になるというのがある意味でとても興味深いことだと思う。敢えて逆説的にいえば、「猿の惑星」といいながら、無理なくストーリーを語れる範囲、「猿のサンフランシスコ」で話を止めたことが良かったのだろう。ラストシーンは、その先に待っている世界を想起させるのに十分である。
演技については、ともかく、本人の顔は見えなくとも「ゴラム」、「コング」に続くはまり役(というのか?)を得たアンディ・サーキスが全てではあるが。こういうのは演技賞ではどう評価されるのだろうか。一応、エンドクレジットのトップに名前が上がってはいるのだが。
ジェームズ・フランコ演ずる(人間側の)主人公は、あまり賢そうな科学者には見えないが、実質的に脇役だと思えば、こんなんでもOKだ。この男、アルツハイマーの父親への強い思いから、結果として投与された猿の知性を加速させる新薬開発にのめり込んでいったという動機が与えられているのだが、この「父親」役に、久しぶりにスクリーンでお目にかかるジョン・リスゴーというキャスティングが嬉しい。なにせ、この人はかつて『ハリーとヘンダスン一家』で毛むくじゃらの「ビッグフット」と異種交流を温めた張本人だから、やはり何かの縁があるのだ。トム・フェルトンは「ハリポタ」を離れてもなお憎々しげな小悪役とはお気の毒だが、それはそれ、観客の中にあるドラコ・マルフォイの記憶をなぞった効果的なキャスティングではあっただろう。
もうね、猿、猿、猿なんだ。ゴールデンゲート・ブリッジでの攻防は、考えてみればスケールが大きいとはいいかねるんだけれども、大変に盛り上がるクライマックスではあった。上出来の娯楽映画。
『猿の惑星』の前日譚というか、『猿の惑星・征服』のリイマジネーション版というか、『猿の惑星』フランチャイズを、エピソード0からリブートする試みみたいなもの、といったところだろうか。過去の『猿の惑星』シリーズへのオマージュはあるが、直接の前編・続編ではなく、スタジオ介入とスケジュール&予算問題で当初構想通りに作ることができなかったティム・バートン版とも関係ない、新しいシリーズの開幕である。これ1本でも完結しているが、なにがしかの続編を作るだけのネタと伏線はいろいろあることだし、これだけヒットしたんだから、続きを作らないという手はないはずだ。
この企画が上手く入った理由の一つは、第1作のリメイクでもなく、直接の前編・続編でもなく、まるで「バットマン」や「スーパーマン」が違う作り手によって何度でも再生されるが如くのやり口で、現代を舞台に「フランチャイズ」としての新しい起点を打ち立てたことにあるだろう。もうひとつは、ロバート・ゼメキスやピーター・ジャクソン、ジェームズ・キャメロンらが取り組んできたパフォーマンス(エモーション)・キャプチャーとCGI 技術の成熟によって着ぐるみや特殊メイクでなく、ただのCGI アニメでもなく、猿に人間の演技と感情を吹き込むことが可能になったことだ。
話自体はそれほど工夫があるわけでもなく、ベイ・エリアだけで展開される物語のスケールも小さい。が、あるべき要素があるべきところに収まり、観客が無理なくアンディ・サーキス演じるチンパンジーの「シーザー」に感情移入できる流れを作っただけで、これだけ面白い映画になるというのがある意味でとても興味深いことだと思う。敢えて逆説的にいえば、「猿の惑星」といいながら、無理なくストーリーを語れる範囲、「猿のサンフランシスコ」で話を止めたことが良かったのだろう。ラストシーンは、その先に待っている世界を想起させるのに十分である。
演技については、ともかく、本人の顔は見えなくとも「ゴラム」、「コング」に続くはまり役(というのか?)を得たアンディ・サーキスが全てではあるが。こういうのは演技賞ではどう評価されるのだろうか。一応、エンドクレジットのトップに名前が上がってはいるのだが。
ジェームズ・フランコ演ずる(人間側の)主人公は、あまり賢そうな科学者には見えないが、実質的に脇役だと思えば、こんなんでもOKだ。この男、アルツハイマーの父親への強い思いから、結果として投与された猿の知性を加速させる新薬開発にのめり込んでいったという動機が与えられているのだが、この「父親」役に、久しぶりにスクリーンでお目にかかるジョン・リスゴーというキャスティングが嬉しい。なにせ、この人はかつて『ハリーとヘンダスン一家』で毛むくじゃらの「ビッグフット」と異種交流を温めた張本人だから、やはり何かの縁があるのだ。トム・フェルトンは「ハリポタ」を離れてもなお憎々しげな小悪役とはお気の毒だが、それはそれ、観客の中にあるドラコ・マルフォイの記憶をなぞった効果的なキャスティングではあっただろう。
10/22/2011
Captain America: The First Avenger
キャプテン・アメリカ ザ・ファースト・アベンジャー(☆☆☆)
ジョー・ジョンストンは勘違いをしない。いつだって分をわきまえた娯楽映画を撮る。古くは『ロケッティア』、『ジュラシックパークIII』、そして近作『ウルフマン』。どれも、お腹がいっぱいになるような超大作ではない。でも、期待すべきものが何なのか"分かっている"観客を、きっちり楽しませる真っ当な娯楽映画だ。マーヴェルが「アベンジャーズ」映画化に向けて着々と進めてきた前座作品群のなかで最後のピースとなるこの『キャプテン・アメリカ』もまた、そんな1本だ。題材を思えば、上出来なんじゃないか。
舞台は第二次世界大戦期。ナチス・ドイツが欧州を席巻し、孤立主義を捨てた米国が重い腰を上げて参戦したころだ。ヒトラーが砂漠で(たぶん)「失われた聖櫃」を探していた頃、北欧神話の主神オーディン由来ということになっているオカルト・アイテム(=コズミック・キューブ)を捜すナチスの特殊科学部門転じた「ヒドラ党」を敵に、レトロ風味の戦争冒険活劇という体裁になっている。
さりげなく(ジョー・ジョンストンが特撮で参画した)『レイダース』を匂わすあたりがナイス、オカルト・アイテムつながりで『マイティ・ソー』、そして来るべき『アベンジャーズ』と接点をもたせるはクレバーなアイディアか。
映画の送り出し手、作り手として考えることは、この現代、世界中の人々が嫌な気分にならずに楽しめる作品にすることだろう。だいたい、キャプテン・アメリカ、とその名を聞き、星条旗モチーフのコスチュームを見ると、誰だって胡散臭いものを感じてしまう。国家の価値観を体現する尖兵か、と。
この映画では、「国」の思惑で作られたキャプテン・アメリカだが、その存在を国やその政策と一体不可分のものではないと、明確に一線を引いてみせたところが良いと思う。
主人公は盲目的な愛国者などではなく、「友人や仲間思いで、正義感のある高潔な精神の持ち主」である。そんな彼が、政治家の売名行為につきあわされて戦時国債の拡販に利用されるという描写は、本作で最も重要なところだ。そこにイーストウッドの『父親たちの星条旗』が被って見えたとしても偶然ではない。そんな「作られた(失意の)ヒーロー」が、損得や誰かの命令でなしに、敵地に囚われた友人や仲間の救出に乗り込んでいくことで「真のヒーロー」になるというストーリー・ラインは感動的ですらある。
敵の設定にも気を使っている。そりゃあ、いくら第二次大戦を背景にしていても、星条旗男が他国の軍隊を蹴散らすというような話では、あまりよろしくない。だから、直接対峙する相手は、ナチスの一部門といえど、「異形の姿となった悪の首領と、それに従う秘密結社」なのだ。その首領が「レッドスカル」などという名前の「赤ドクロ」姿だというのだから、馬鹿馬鹿しくもあるが、昔懐かしき活劇の世界だ。「ハイル・ヒドラ!」の両手上げポーズの間抜けさがそれに止めを刺す。これは、そういう作品として楽しんでくれということだろう。
主人公のキャラクターによるところもあるが、ヒロインとのプラトニックなロマンスも古風でロマンティック。アクションはことさら派手ではないが、見せ方はこなれていて危なげない。美術がなかなか頑張っていて、時代の雰囲気にコミック調の意匠を上手く馴染ませている。3D効果はあまり感じられないが、シールドが画面から飛んでくるところだけは大迫力であった。
「最後のピース」であることも手伝って、マーヴェル他作品とのつながりが数多く登場し、「予告編」で幕を閉じるのだから、なんか釈然としないものを感じる向きもあるとは思うが、同シリーズのなかでも他とは違った個性、他とは違った雰囲気を打ち出していて、これはこれとしての新鮮な楽しさがある。「冷凍になっていました」で、東西冷戦時代を、もしかしたら対テロ戦争すらも飛び越してしまう力技には笑った(都合のよろしいことで)。しかし、「アベンジャーズ」とは別に続編の企画もあるのだろうが、現代を舞台にすると本作独特の面白さは消えてしまうのではないかと心配になる。さて、どうするか。
ジョー・ジョンストンは勘違いをしない。いつだって分をわきまえた娯楽映画を撮る。古くは『ロケッティア』、『ジュラシックパークIII』、そして近作『ウルフマン』。どれも、お腹がいっぱいになるような超大作ではない。でも、期待すべきものが何なのか"分かっている"観客を、きっちり楽しませる真っ当な娯楽映画だ。マーヴェルが「アベンジャーズ」映画化に向けて着々と進めてきた前座作品群のなかで最後のピースとなるこの『キャプテン・アメリカ』もまた、そんな1本だ。題材を思えば、上出来なんじゃないか。
舞台は第二次世界大戦期。ナチス・ドイツが欧州を席巻し、孤立主義を捨てた米国が重い腰を上げて参戦したころだ。ヒトラーが砂漠で(たぶん)「失われた聖櫃」を探していた頃、北欧神話の主神オーディン由来ということになっているオカルト・アイテム(=コズミック・キューブ)を捜すナチスの特殊科学部門転じた「ヒドラ党」を敵に、レトロ風味の戦争冒険活劇という体裁になっている。
さりげなく(ジョー・ジョンストンが特撮で参画した)『レイダース』を匂わすあたりがナイス、オカルト・アイテムつながりで『マイティ・ソー』、そして来るべき『アベンジャーズ』と接点をもたせるはクレバーなアイディアか。
映画の送り出し手、作り手として考えることは、この現代、世界中の人々が嫌な気分にならずに楽しめる作品にすることだろう。だいたい、キャプテン・アメリカ、とその名を聞き、星条旗モチーフのコスチュームを見ると、誰だって胡散臭いものを感じてしまう。国家の価値観を体現する尖兵か、と。
この映画では、「国」の思惑で作られたキャプテン・アメリカだが、その存在を国やその政策と一体不可分のものではないと、明確に一線を引いてみせたところが良いと思う。
主人公は盲目的な愛国者などではなく、「友人や仲間思いで、正義感のある高潔な精神の持ち主」である。そんな彼が、政治家の売名行為につきあわされて戦時国債の拡販に利用されるという描写は、本作で最も重要なところだ。そこにイーストウッドの『父親たちの星条旗』が被って見えたとしても偶然ではない。そんな「作られた(失意の)ヒーロー」が、損得や誰かの命令でなしに、敵地に囚われた友人や仲間の救出に乗り込んでいくことで「真のヒーロー」になるというストーリー・ラインは感動的ですらある。
敵の設定にも気を使っている。そりゃあ、いくら第二次大戦を背景にしていても、星条旗男が他国の軍隊を蹴散らすというような話では、あまりよろしくない。だから、直接対峙する相手は、ナチスの一部門といえど、「異形の姿となった悪の首領と、それに従う秘密結社」なのだ。その首領が「レッドスカル」などという名前の「赤ドクロ」姿だというのだから、馬鹿馬鹿しくもあるが、昔懐かしき活劇の世界だ。「ハイル・ヒドラ!」の両手上げポーズの間抜けさがそれに止めを刺す。これは、そういう作品として楽しんでくれということだろう。
主人公のキャラクターによるところもあるが、ヒロインとのプラトニックなロマンスも古風でロマンティック。アクションはことさら派手ではないが、見せ方はこなれていて危なげない。美術がなかなか頑張っていて、時代の雰囲気にコミック調の意匠を上手く馴染ませている。3D効果はあまり感じられないが、シールドが画面から飛んでくるところだけは大迫力であった。
「最後のピース」であることも手伝って、マーヴェル他作品とのつながりが数多く登場し、「予告編」で幕を閉じるのだから、なんか釈然としないものを感じる向きもあるとは思うが、同シリーズのなかでも他とは違った個性、他とは違った雰囲気を打ち出していて、これはこれとしての新鮮な楽しさがある。「冷凍になっていました」で、東西冷戦時代を、もしかしたら対テロ戦争すらも飛び越してしまう力技には笑った(都合のよろしいことで)。しかし、「アベンジャーズ」とは別に続編の企画もあるのだろうが、現代を舞台にすると本作独特の面白さは消えてしまうのではないかと心配になる。さて、どうするか。
10/14/2011
Green Lantern
グリーン・ランタン(☆☆)
上映終了間際にガラガラの映画館に滑り込んで見た。一応、ここのところ『カジノ・ロワイヤル』、『復讐捜査線』と好調なマーティン・キャンベル監督の新作ながら、Time Magazine の "Top 20 Worst Summer Blockbusters" に選ばれたっていうんだから、それがいったいどんな出来映http://www.blogger.com/えか気になるじゃないか。
件の20本のうち、既に18本までを劇場で金を払ってみている当方としては、そこにもう一本加わって19本になるというオマケまでついてくるわけで、これを見逃すわけにはいくまい。
で、ようやく見ることのできた『グリーン・ランタン』。「スーパーマン」、「バットマン」の2大ヒーローを抱えるDCコミックの人気作品ときく。それ以上の予備知識がなかったからかもしれないが、こりゃ、驚いた。こいつは「スペオペ(=スペース・オペラ)」ではないか。
超文明を持つ種族がいて、宇宙を3,600のセクターに分割し、それぞれの中から選抜されたメンバーに意志の力を自在に操れる「パワーリング」を与え、宇宙の平和維持にあたっている。そんな設定だ。とっさに思いつくのは、スペース・オペラの元祖的な作品と位置づけられる「レンズマン」のアメコミ・スーパーヒーロー版といった感じである。全宇宙から様々な種族が集まるなか、地球人が原始的な種族としてバカにされているっぽいところも、たいへん面白い。
が、まあ、残念なことに、面白いのは設定だけで、映画はその面白さを活かすことができていない。
もちろん、「全宇宙的規模スケールの事件に巻き込まれ、次第に頭角を現していく主人公」の話に、ときおり、「異星人にスーパーヒーロー・セットを与えられてご近所の問題を解決するダメ男」(←パーマン)みたいな話が混じってくるのは良いとして、せっかくのスケールが小さいところ小さいところへと収束してくる話の作り方にしたのは失敗だろう。
だって、全宇宙の脅威と組織の総力をあげて戦う、といっていたのに、尖兵にされた不憫なダメ科学者を死に追いやり、不死の種族が転じた化け物を一人で太陽にぶち込んで燃やしてオシマイ、ってなんだよ、それ。
恋人はともかく、家族(兄弟や甥)、友人のエピソードは不要。既に一刻を争う自体が起こっているはずなのに、主人公をのんびりと訓練しているチグハグさ。あー、よくこんな脚本にゴーサイン出したよな。
画面中がCGIで埋め尽くされているのは作品の性質上仕方があるまい。ポジティブな面で考えれば、3D感は比較的よく出ていること、主人公のスーツを、物理的な衣装ではなく、CGIで表現するという目新しい手法の面白さか。主人公のライアン・レイノルズは、デッドプールを演じさせられた時よりはマシな扱い。ティム・ロビンス、ブレイク・ライブリー、ピーター・サースガードあたりまでは顔がわかるが、マーク・ストロングやティムエラ・モリソンは、それと知っていないとわかんないよ。
上映終了間際にガラガラの映画館に滑り込んで見た。一応、ここのところ『カジノ・ロワイヤル』、『復讐捜査線』と好調なマーティン・キャンベル監督の新作ながら、Time Magazine の "Top 20 Worst Summer Blockbusters" に選ばれたっていうんだから、それがいったいどんな出来映http://www.blogger.com/えか気になるじゃないか。
件の20本のうち、既に18本までを劇場で金を払ってみている当方としては、そこにもう一本加わって19本になるというオマケまでついてくるわけで、これを見逃すわけにはいくまい。
で、ようやく見ることのできた『グリーン・ランタン』。「スーパーマン」、「バットマン」の2大ヒーローを抱えるDCコミックの人気作品ときく。それ以上の予備知識がなかったからかもしれないが、こりゃ、驚いた。こいつは「スペオペ(=スペース・オペラ)」ではないか。
超文明を持つ種族がいて、宇宙を3,600のセクターに分割し、それぞれの中から選抜されたメンバーに意志の力を自在に操れる「パワーリング」を与え、宇宙の平和維持にあたっている。そんな設定だ。とっさに思いつくのは、スペース・オペラの元祖的な作品と位置づけられる「レンズマン」のアメコミ・スーパーヒーロー版といった感じである。全宇宙から様々な種族が集まるなか、地球人が原始的な種族としてバカにされているっぽいところも、たいへん面白い。
が、まあ、残念なことに、面白いのは設定だけで、映画はその面白さを活かすことができていない。
もちろん、「全宇宙的規模スケールの事件に巻き込まれ、次第に頭角を現していく主人公」の話に、ときおり、「異星人にスーパーヒーロー・セットを与えられてご近所の問題を解決するダメ男」(←パーマン)みたいな話が混じってくるのは良いとして、せっかくのスケールが小さいところ小さいところへと収束してくる話の作り方にしたのは失敗だろう。
だって、全宇宙の脅威と組織の総力をあげて戦う、といっていたのに、尖兵にされた不憫なダメ科学者を死に追いやり、不死の種族が転じた化け物を一人で太陽にぶち込んで燃やしてオシマイ、ってなんだよ、それ。
恋人はともかく、家族(兄弟や甥)、友人のエピソードは不要。既に一刻を争う自体が起こっているはずなのに、主人公をのんびりと訓練しているチグハグさ。あー、よくこんな脚本にゴーサイン出したよな。
画面中がCGIで埋め尽くされているのは作品の性質上仕方があるまい。ポジティブな面で考えれば、3D感は比較的よく出ていること、主人公のスーツを、物理的な衣装ではなく、CGIで表現するという目新しい手法の面白さか。主人公のライアン・レイノルズは、デッドプールを演じさせられた時よりはマシな扱い。ティム・ロビンス、ブレイク・ライブリー、ピーター・サースガードあたりまでは顔がわかるが、マーク・ストロングやティムエラ・モリソンは、それと知っていないとわかんないよ。
10/09/2011
Dear John
親愛なるきみへ(☆☆)
『メッセージ・イン・ア・ボトル』、『きみに読む物語』、『ウォーク・トゥ・リメンバー』、『最後の初恋』と、そこそこ安定した品質での映画化が続く、ニコラス・スパークス原作ものだが、『HACHI』の犬視点の回想で失笑を買って北米劇場未公開となったラッセ・ハルストレム監督の手で、またしても女性客搾取を目的とした泣かせ映画が作られた。本作、この原作者の映画化作品の出来映えとしては、ちょっと下のほうの部類じゃないか。
主演はここのところ主演作が続くアマンダ・セイフライド(配給会社によりサイフリッドとの表記もあって、そろそろなんでもいいから一本化が必要なんじゃないか。)この人が出ているというのは、その映画が「女性目線」で出来ているというフラグが立っているようなものであるというのが経験則のようなもんだ。
今回の話は、ある夏の日に出会った軍人と学生が、お互いに強く惹かれながらも一方は軍務へ、一方は学業へと戻り、1年後の再開を期しながら、手紙のやり取りを続けるというものだ。男のほうは任期が終わって除隊するつもりでいたが、911に引き続く「対テロ戦争」の戦場に仲間たちと共に向かわざるをえない状況になる。女にもいろいろな事情ができて、決意の末、別れの手紙を戦場に送ることになる。まあ、いかにもこの作者が書きそうな「運命」に翻弄される純愛と悲恋の物語だな。
しかし、この映画が描く「いい男」像の薄っぺらさはなんなのだろう。もちろん、このたぐいの女性搾取映画が描く男なんて、どれもこれも似たり寄ったりかもしれないし、それは男性目線で描かれる映画の即物的な女性像の裏返しに過ぎないということは重々承知しているつもりである。しかし、この映画の「男」、演じているチャニング・テイタムが気の毒になるくらいに、人間味が感じられない、プラスティック人形のようなキャラクターである。「純朴で誠実な好青年」という記号をそのままかたちにしたというのは分かる。が、これが脇役というならともかく、リード・キャラクターなんだから、もう少し何とかすべきじゃないのか。
アマンダ・セイフライド演じるヒロインは、ある意味でたいへん身勝手な女なのだが、そこはそれ、いろいろな言い訳が用意されていて観客の反発を買わない程度に上手く処理されている。このあたりが原作者がベストセラー作家で在り続けられる理由であろうし、ここにアマンダ・セイフライドをキャスティングする意味があるというものなのだろう。
主演のカップルの運命に、近隣に住む自閉症の少年の存在がかかわってくるのだが、それに呼応するように、男の父親が「軽度の自閉症」であるという設定が用意されている。まあ、物語の味付け程度の役割でしかないが、これを演じるリチャード・ジェンキンスが相変わらずの好演を見せてくれる。父親と息子をつなぐ接点におかれた「コインの蒐集」という趣味にまつわるエピソードは、悪くない。
『メッセージ・イン・ア・ボトル』、『きみに読む物語』、『ウォーク・トゥ・リメンバー』、『最後の初恋』と、そこそこ安定した品質での映画化が続く、ニコラス・スパークス原作ものだが、『HACHI』の犬視点の回想で失笑を買って北米劇場未公開となったラッセ・ハルストレム監督の手で、またしても女性客搾取を目的とした泣かせ映画が作られた。本作、この原作者の映画化作品の出来映えとしては、ちょっと下のほうの部類じゃないか。
主演はここのところ主演作が続くアマンダ・セイフライド(配給会社によりサイフリッドとの表記もあって、そろそろなんでもいいから一本化が必要なんじゃないか。)この人が出ているというのは、その映画が「女性目線」で出来ているというフラグが立っているようなものであるというのが経験則のようなもんだ。
今回の話は、ある夏の日に出会った軍人と学生が、お互いに強く惹かれながらも一方は軍務へ、一方は学業へと戻り、1年後の再開を期しながら、手紙のやり取りを続けるというものだ。男のほうは任期が終わって除隊するつもりでいたが、911に引き続く「対テロ戦争」の戦場に仲間たちと共に向かわざるをえない状況になる。女にもいろいろな事情ができて、決意の末、別れの手紙を戦場に送ることになる。まあ、いかにもこの作者が書きそうな「運命」に翻弄される純愛と悲恋の物語だな。
しかし、この映画が描く「いい男」像の薄っぺらさはなんなのだろう。もちろん、このたぐいの女性搾取映画が描く男なんて、どれもこれも似たり寄ったりかもしれないし、それは男性目線で描かれる映画の即物的な女性像の裏返しに過ぎないということは重々承知しているつもりである。しかし、この映画の「男」、演じているチャニング・テイタムが気の毒になるくらいに、人間味が感じられない、プラスティック人形のようなキャラクターである。「純朴で誠実な好青年」という記号をそのままかたちにしたというのは分かる。が、これが脇役というならともかく、リード・キャラクターなんだから、もう少し何とかすべきじゃないのか。
アマンダ・セイフライド演じるヒロインは、ある意味でたいへん身勝手な女なのだが、そこはそれ、いろいろな言い訳が用意されていて観客の反発を買わない程度に上手く処理されている。このあたりが原作者がベストセラー作家で在り続けられる理由であろうし、ここにアマンダ・セイフライドをキャスティングする意味があるというものなのだろう。
主演のカップルの運命に、近隣に住む自閉症の少年の存在がかかわってくるのだが、それに呼応するように、男の父親が「軽度の自閉症」であるという設定が用意されている。まあ、物語の味付け程度の役割でしかないが、これを演じるリチャード・ジェンキンスが相変わらずの好演を見せてくれる。父親と息子をつなぐ接点におかれた「コインの蒐集」という趣味にまつわるエピソードは、悪くない。
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