1/19/2008

Sanjuro

椿三十郎(☆☆)

黒澤明監督が『用心棒』に続いて撮った、限りなく続編的な姉妹編が『椿三十郎』である。どちらも三船敏郎演ずる流れ者のサムライが主人公だが、どちらかといえばハードボイルド・タッチの『用心棒』に比べてこちらのほうが軽く、ユーモラス。そこが『椿三十郎』というっ作品で、私のお気に入りのポイントである。

また、この映画はクライマックスの決闘の斬新さで知られている。強いやつと強いやつが延々と死闘を繰り広げるというのではなく、一瞬で決着がつく。どちらが勝ったか、一瞬の間をおいて、ど派手に吹き上がる血飛沫でわかる、、というのが当時の感覚からすれば度肝抜かれる感じではなかったか。古いタイプの時代劇というのが、いろいろな「お約束」で成立をしていたのに対して、刀で切る、切られたら当然血が出るというのを映像にしているわけだが、そういう意味でのリアリティはことさら重視しておきながら、最後の最後にきて、あからさまな映像的な誇張で噴水のように血飛沫が上がるという、その飛躍、その落差によって強い印象が残るんじゃあなかろうか。リアルタイムでなく、80年代になってから映画を見始めたような私のような人間の脳裏にも鮮烈に刻みつけられる、凄いアイディアの名シーンであった。

さて、黒澤リメイク企画が氾濫している今日この頃、織田裕二主演、森田芳光監督でその『椿三十郎』をリメイクし、正月映画としての公開だ。『椿三十郎』が好きだときく森田芳光は、基本的にオリジナルの脚本をそのまま使用して本作を作っているし、多くのシーンがオリジナルそのままの構図で撮影されている。ただし、本作はカラー。オリジナルは白黒だった。

そこで思い出すのが、世紀の愚挙扱いされて黙殺されたガス・ヴァンサント版『サイコ』である。ヒッチコックのオリジナルをショット・バイ・ショットのレベルで忠実になぞり再現するという学生の実験映画のような試みで、スタジオの視点で考えれば、おそらく、テレビで放送しにくい白黒映画をコンピュータで着色処理する代わりに、今のスターを使ってカラー版をつくってしまえということだったのだと思う。完成した映画が面白いかどうかは別として、個人的には興味深い試みだったと思う。例えば、同じ脚本、同じショットをつないだといっても、役者が違い、演技が違えばシーンのニュアンスは違うものになり、映画総体としてはさらに違うものになってしまうという、理屈で考えれば当たり前のことを実際に目にする機会をもらったということだ。

森田版の三十郎は、もちろん役者が違う。織田裕二の好き嫌いはともかくとして、今、「名前で客を呼べるスター」なるものが仮にいるとすれば、彼だという作り手の主張はわかるような気もするが、彼の持ち味は三船敏郎とは異なるのだから、それだけでも映画の醸し出す雰囲気が変わってしまう。織田裕二は彼なりに頑張っているが、オリジナルの脚本そのものが彼の個性に合っていない。そして、テンポが違う。いま、この時代にリメイクをするのであれば、当然、今のスピード感覚にあわせたっ作品になっているべきであるが、96分のオリジナルがなぜか119分と、20分近くも長くなっている。なんでこうなってしまうのか。そして、クライマックスの演出が違う。違うことをして、新しくなって、面白くなっているならいい。しかし、オリジナルであれだけ印象的で鮮やかだったあの決闘シーンが、つまらないカット割りやスローモーションで引き伸ばされた挙句、あまりに平凡なシーンに成り果てているのには呆れてものが云えなかった。監督は、同じ脚本ながら現代的に再構築したといういい方をしているわけだが、それじゃなんだ、96分で語れる話を2時間に引き伸ばすのが現代的で、あの決闘シーンが当時の観客にもたらした衝撃を、細かいカット割りとスローモーションや白黒カットが交じった凡庸な編集が、現代の目で見て新しく、衝撃的だとでもいうのだろうか? いいアイディアがないのなら、オリジナルのままにしておくという勇気はなかったのか。

そんなこんなで、オリジナルを冒涜するかのような「改変」こそなかったが、過去の名作を同じ脚本で現代によみがえらせるというチャレンジは、もう少しうまいやり方があったとは思うが、図らずも失敗したといえよう。tだ、腐っても鯛といういい方が良いのかどうか、さすがにオリジナルの脚本が面白いだけのことはあって、上映時間中とりあえず見ていられるのは事実。演出が冴えなくても脚本さえ良ければ底抜けにはならないという見本としては一見の価値がある、か。