11/25/1998

Psycho (1998)

サイコ(98年版)(☆☆☆)

これはダメな映画なのか、ダメな企画なのか。また、愚かな行為なのか、それとも興味深い試みなのか。映画の出来映えが悪いのか、それとも、この映画の存在自体が汚点なのか。

個人的には、議論の余地なく切り捨てるべきというよりは、この中にすら見いだされるチャレンジ精神や、結果としての出来栄えを検証して楽しむのが良いと思うのだが。

何はともあれ、悪評しか見当たらぬ、ガス・ヴァン・サントの新作『サイコ』である。もちろんいうまでもない、アルフレッド・ヒッチコックの1960年作、『サイコ』の野心的、というよりは実験的なリメイク作だ。

アルフレッド・ヒッチコックの作品中で米国では最大のヒットを記録したのが『サイコ』だという。大金を横領した女性が偽名で宿泊した「ベイツ・モーテル」。経営者のノーマン・ベイツは裏手に聳える屋敷で老いた母親と暮らしているという。この女性の後を追い、私立探偵や妹、女性の恋人が次々にモーテルを訪れるが、予期せぬ事態に巻き込まれていく。その彼らの運命やいかに、という話。ルール違反すれすれの大胆な構成、有名なシャワー・シーンのモンタージュと、そのシーンで使われた不協和音の音楽は、この映画を観ていない人にもお馴染みのはずだ。

本作のことをさきほど実験的なリメイク、と呼んだのだが、ガス・ヴァン・サントはこれを「リプロダクション」と呼んでいる。それはなぜか。オリジナルと同じ台本を使い、基本的にはオリジナルと同じショットをワンカット、ワンカット再現しているのだという。え、それなんの意味があるの?

もちろん、現代の俳優が出演している。舞台も一応、現代だ。アン・ヘッッシュ、ヴィンス・ヴォーン、ジュリアン・ムーア、ウィリアムH・メイシー、ロバート・フォスターらだ。音楽はバーナード・ハーマンの音楽を復元し、編曲。これを担当したのはヴァン・サント作品が続いているダニー・エルフマンの仕事だ。オリジナルは白黒撮影の作品だったが、今回はカラー。撮影はクリストファー・ドイルである。

そもそも、こんな作品ができてしまう背景には、「白黒映画じゃ商売にならん」という商売上の目論見があるはずだ。白黒映画への着色といえば、かつてのメディア王、テッド・ターナーが、CATVでの放送などを睨んで進めた名作群の着色(カラライゼーション)が大きな議論を呼んだことが記憶にある。CATV、パッケージソフト、デジタル衛星放送と、膨らみ続ける2次使用で、「白黒」に慣れていない大衆を搾取する上で有利になると考えての「カラー」化、だ。

そんな映画会社の思惑を逆手にとったのが、今回のガス・ヴァン・サントの、誰もやったことのない「企て」であるといえる。ヒッチコックの撮影台本にアクセスし、6週間の撮影期間まで忠実に守ったという凝りぶりで、当時は技術的に困難で断念したという(触れ込みの)冒頭の空撮を復活させたりもしている。

作品の製作過程と製作手法そのものを再現するという大仕掛け。野心的な画家が巨匠の作品を精緻に模写するかのようなもんだな。作品への冒涜というのなら、もともと白黒で撮影されたものに、作り手の関与のないままに着色する野蛮な行為は間違いなく冒涜といえるが、この作品で試みられたような「実験」は、実験であったり、習作という範疇において興味深いといえなくもない。

役者たちもオリジナルと変わらない台詞や動作という制約の中で、90年代のリアリティを紡ぎ出すという難役を、これまた実験的な意味で楽しんでいるように見える。ただ、いくらオリジナルを模してみても、ヴィンス・ヴォーンはアンソニー・パーキンスにはなれない。そこらあたりが、結果的に作品の雰囲気を変えてしまっており、役者次第で作品が変わってしまうということくらいは本作によって証明できたんじゃあるまいか。

この映画、映画そのものはそこそこ楽しめる。なにせ、オリジナルが面白いんだからあたりまえだ。でもオリジナルを観ていたら、これを見る意味はあんまりないし、オリジナルを観ていないなら、ぜひともオリジナルを見るべきだ。そういう意味で、得をしたのはメジャーの予算で堂々とこういう実験をやりおおせたガス・ヴァン・サントだけであり、カラー化で一儲けを企てた映画会社は不評と批判で評判を落とした。リメイク・ブームのなかでもっともユニークなこの試みは、もっともたちの悪い冗談として記憶されることだけは間違いない。

Very Bad Things

ベリー・バッド・ウェディング(☆)

幼馴染の男友達5人組。仲間の一人が美人と結婚をするというのでラスベガスに出かけてバチェラー・パーティと洒落こんだ。ラスベガスといえば、カジノ、ドラッグ、娼婦。さんざん「悪いこと」を楽しんでいた男連中だったが、仲間の一人が偶然娼婦を殺してしまったことでムードは一転。真っ青になった男たちは、妙に冷静に振舞う一人の男のリードで死体を砂漠に埋めて知らんふりを決め込むことにするが、それでコトは終わらなかった。

次々に意味のない殺人が起こる、ブラック・コメディである。TV『シカゴ・ホープ』の出演者であるピーター・バーグの脚本・監督デビュー作だという。そんな作品の割には出演者が豪華だ。クリスチャン・スレイター、ダニエル・スターン、ジーントリプル・ホーンに加え、今や旬といっていいキャメロン・ディアズが出演しているんだから。

しかし、なんとも困った映画である。いや、倫理的にどうかということを問うつもりはない。だいたい、、「悪い事をすれば報いがある」という、因果応報に則った話なのだから、倫理的におかしいというものではない。コメディとして死体が転がる様や、罰当たりな死体の扱いをする映画は数限りなくあるわけで、それをとやかくいうつもりもない。

ただ、映画としてのテンポが悪く、コメディとして笑えない上だけでなく、後味も悪いのだ。

こういう話の中で一番輝いてしまうのは、やはり、曲者クリスチャン・スレイターだ。スレイターはあのカルト・ヒット『ヘザーズ』のせいか、それともなんか勘違いしているとしか思えない私生活のせいか、アブナイ役が最高に似合う怪優になってしまった。5人の中で比較的冷静で、事態の収集に向けてリーダーシップを発揮する時、なんとも言えない不気味な迫力と格好良さを発揮する。

キャメロン・ディアズが演じているキャラクターは宣伝に反して本当に脇役。『メリ首』の思わぬ大ヒットで得したのは製作者たちだ。彼女の役は他のキャラクター同様全く自分勝手なんだけれども、クリスチャン・スレイターを退場させるに至るシークエンスで見せ場がある。もしかしたら、ここが映画の中で一番面白い。

もう一人巧いのはダニエル・スターン。さっさと精神的に崩壊していく男の役なんだが、いや、本当にうざったくてこの映画の登場人物ならずともさっさと殺してやろうか、という気分にさせられた。もちろん『ホーム・アローン』でもいいところをみせていたが、それにしても、本当はこんな映画にはもったいない実力の持ち主ではあろう。

最初の思いがけない殺人が次々に意味のない殺人を呼ぶという展開は、いってみればコーエン兄弟の『ファーゴ』なんかもそういう趣向だが、この作品はもっと毒々しいコメディを狙っていて、観客が笑えなくなるぎりぎりのところまで過激さを持っていこうとしたようだ。しかし、全てのネタが人殺しに落ちていくあたり、殺伐と云うよりはむしろ単調。「中途半端」に生々しい描写は、いっそマンガ的にするのか、スプラッター的に極端に弾けるか、どちらかに振り切るべきだっただろう。

11/22/1998

In & Out

イン&アウト(☆☆☆)

昨年秋(97/9)公開の作品だが、遅ればせながら見る機会に恵まれた。フランク・オズ監督のコメディ映画だ。

主人公は、田舎町で高校の教師を勤めている。その教え子のひとりは、今や人気抜群の映画スターになっていて、ゲイの兵士役を演じてアカデミー賞を受賞。その受賞スピーチで、「高校時代の恩師に感謝したい。彼はゲイなんだ。」とやらかしたため、さあ大変。保守的な田舎町は蜂の巣を叩いたような大騒ぎになってしまう。

話そのものは、他愛ないといえばそんなところである。アカデミー賞の舞台で、受賞者がゲイだった高校の先生に感謝を述べたのを見て、「もしそれが勘違いだったらどうなるか?」、というのが発想のもとだったという。

いまどきのアメリカで、「ゲイ?」というだけで大騒ぎという話にするために、保守的なインディアナ州の小さな(一見罪のない)田舎町が舞台に選ばれているのが絶妙な感じである。もう少し南に下れば主人公はリンチにあって殺されてしまうやも知れず、とても軽快なコメディにして笑っている場合じゃない。もっと都会だったりすれば、時代錯誤な雰囲気になってしまう

もちろん、社会風刺的なところを抜きにはできない題材ではあるが、作り手も、社会性・風刺性を前面に押し立てて声高に叫ぶような「社会派」気取りではない。微妙な問題をネタにしているという自覚と配慮は失わないまでも、コメディだという割り切りがあるのではないか。そのことがかえって軽快な作品として結実しているように見える。

で、話の発端を聞いているとそんなものか、と思うだろうが、例えていえば「思いもよらず二重スパイであることが露見したスパイ」の話のようであり、そのもつれ方がなかなか面白い。そして、思いもよらず振りきれて割り切ったエンディング。ふとしたきっかけからどんどん加速して転がっていく物語運びの妙。なんだかんだといって、やはり現代であるから成立した映画だなぁ、と思わせる映画になっている。

派手さとは無縁だが、ゲイ達者な役者たちが繰り広げる珍妙な演技合戦が本作の見どころである。主演は「ゲイ達者」なケヴィン・クラインだ。この人は本当に巧い。昔はシリアスな役者として活躍していたが、『ワンダとダイヤと優しい奴ら』で振りきれてからというもの、コメディ分野での活躍はご存知のとおりだ。そして、芸能リポーター役に、男臭いアクション派のトム・セレックを持ってきた。人気スターになった教え子役にマット・ディロンというやや中途半端な感じも面白い。私が一番面白かったのは、名コメディエンヌであるジョーン・キューザックの捨て身の演技。ああ、もう、最近ではこの人が脇で出ているというだけで、その映画を見たくなってしまうほど好き。

監督のフランク・オズという人は、マペットの操演で知られ、もちろん、あの「ヨーダ」を動かし、声を与えた人物であるのだが、実写映画の世界では、これまでのところコメディ演出の名手といえる。今回、彼にしてはちょっとマイルドかとおもうのだが、予期せぬときに「他人によるカミング・アウト」をうけた主人公と婚約者の絶句状態のリアクションなど、普通より長めのタメがあって、なかなか意地が悪いところがいい。マット・ディロンの恋人であるスーパー・モデルのアーパーぶりなどに見られる、「毒」のある演出ができる人だと思って、いつも新作を期待している。

11/20/1998

Meet Joe Black

ジョー・ブラックをよろしく(☆★)

死期の近い老富豪のもとに若死にした美青年の体を借りて現れた死神が、そのまま人間の世界を体験するためにうろついているうち、富豪の娘と恋に落ちてしまう。舞台劇を映画化した1934年の『明日なき抱擁』のリメイクだそうだ。

劇場についてからびっくりしたのだが、これ、なんと178分の長尺なんだよね。3時間だよ、3時間。で、ちなみに、この映画の「機内上映版」はここから50分カットされて、監督は「アラン・スミシー」とクレジットされるそうである。正直言って、そっちのヴァージョンを見てみたいもんである。もしかしたら、評価があがるかやもしれぬ。

本当の監督は、マーティン・ブレストだ。かつて、『ビバリーヒルズ・コップ』で当たりを取り、『ミッドナイト・ラン』という佳作をモノにして、軽快な娯楽映画を得意とした人なんだけれども、前作『セント・オブ・ウーマン』はダラダラしてつまらん映画だったな。本作は古くから温めていた企画ということで、なんやらいろんな思い入れがあった結果が、これ、だろう。

この映画の見どころは、「アイドル俳優」としてのブラッド・ピットの美しさを大スクリーンでタップリと堪能できるところだ。コーヒーショップで登場するシーンの素の魅力、キスからセックスまでなんでも初体験で戸惑いと喜びを演じる演技で見せる彼の表情、ピーナツ・バターをなめる間抜けなシーン、まるで子犬のようにアンソニー・ホプキンスについて回るところまで、もう、ブラッド・ピット好きの女性ファンなんかだったら堪らない趣向だろうと思う。

なにせ、自分の美しさに自覚的であり、それゆえに変な映画ばかり選んで出演しているブラッド・ピットの、こういう部分を堪能できる映画ってのは、実は本当に久しぶりのことだからね。

ヒロインはクレア・フォラーニである。 『ポリス・アカデミー7』や『ザ・ロック』の小さな役でキャリアを積んできたみたいだが、この人には自然体で飾らない雰囲気があって、ちょっといい感じだ。ただ、ロマンティックな映画の、まごうことのないヒロインであるはずなのに、なんだか添え物のような扱いになっているのが可哀想ではある。

なぜといえば、この映画の真の主役はアンソニー・ホプキンスであるからだ。死に直面した富豪と、生を体験する死神を通じて、人生とは何か、というテーマを扱っているのがこの作品なのである。そういう重いテーマを預かる重要人物に、そこに存在するだけで画面に映らない人間の深みを付加してしまうのが名優たるホプキンスのすごいところだろう。

同じ脚本でも2時間にまとまりそうに思えるのだが、どのシーンにもタップリと時間を使い、ある意味でいえば優雅に、落ち着いた風格のある演出が施されている。狙いはわからないでもないが、プラピの美貌にさして興味のない当方としては、これはもはや、苦痛の部類。作品のテーマもぼやけ、かえって散漫になっているように思う。

マーティン・ブレストは前作をターニング・ポイントに、演出のスタイルが随分変わってきたように見受けられる。ちょっと感心しない方向性だなぁ。

Enemy of the State

エネミー・オブ・アメリカ(☆☆☆★)

邦題、「国家の敵」じゃダメなのかね。

ジェリー・ブラッカイマー製作、トニー・スコット監督の新作に主演するのは、ウィル・スミス。(もともとトム・クルーズ主演で考えていたが、キューブリック作品の撮影が長引いて出演不可能になってしまったらしい。)国家権力による陰謀と、情報化社会におけるプライバシーの侵害に対する不信と恐怖をテーマにした、なかなか面白い巻き込まれ型サスペンスに仕上がっている。

ベテランの上院議員の殺害現場が、予想もしないところでビデオに撮影されていたというのが事の発端である。その奪回のために諜報組織が動き出す。DCで労働争議を専門にする弁護士である主人公は、たまたまビデオをめぐる追跡劇の現場に居合わせたことで、それに巻き込まれてしまうのである。一挙一動が国家の完全な監視の対象にされ、情報操作によってすべてを失った主人公は、力強い味方を得て、毅然と反撃に出ることになる。

個人の生活が徹底的に監視され、情報操作で簡単に破壊される。逃げても逃げてもそこには常に誰かの目が光っていて追手が現れる。そんな作品のプロットは、もちろん、それほど新しいものではないかもしれない。最近好調なトニー・スコットは、この話をどう見せるか、というところで本領を発揮、リリングでかつ骨のある、スタイリッシュな第一級の娯楽大作に仕上げてくれた。クライマックスで自己パロディをかます余裕も見せるっていうんだから、もう、文句のつけようがない。

脇役がいい。政府組織のヘッドにジョン・ヴォイト。彼の下に実行部隊として各々専門性を持ったハイテク・ヲタクのチームがいる。このチーム、スパイ衛星を動かしもするが、盗聴装置を仕掛けたり、変装して現場に出たり、案外ローテクなこともするから、まさに、逆「スパイ大作戦」状態だ。『ミッション・インポッシブル』で悪役に転じたフェルプスが上司ってんだから、そういう気分にならざるを得ないよね。

また、追い詰められた主人公を助ける謎の人物にジーン・ハックマン。このキャラクターの若かりし日の写真として、『カンバセーション 盗聴』の時のものが用いられているが、まさしく、それを彷彿とさせるプロフェッショナルなキャラクターとして登場するのだから、面白い。なにやら分けありの人物として画面に登場した途端に役者としての格の違いを感じさせるが、あくまで脇役という立場を心得た演技っぷりがまた渋いのだ。

ジーン・ハックマンと仕事をしたくて出演したというウィル・スミスだが、軽快さと親しみ易さが彼の得意とするところ。好みからいえば必ずしも彼でなくても良いのだが、「巻き込まれた一般人らしさ」、「いざというときに起点の働く頭の回転の良さ」という意味で、このキャスティングは悪くなかったと思う。

毎回やりすぎのスコット弟の映像作りだが、今回もその点、いかにも彼らしいものになっている。ただ、ハイテクを使った盗聴、盗撮、追跡という作品のプロットと彼のスタイルがハマったことでパラノイア的な不信感と恐怖感の増長に成功し、例によって極端に短いカットつなぎが、追跡劇に疾走感を与えていることで、うまく作用したと成功例になったといえるだろう。社会的な警鐘を含んでいながらも、それはあくまで背景設定とし、娯楽演出に徹した潔さが本作の取柄だろうね。

A Bug's Life

バグズ・ライフ(☆☆☆☆)

『トイ・ストーリー』の大成功から3年、CGIによる長編アニメーションにより、業界の様相を一変させたピクサー・アニメーション・スタジオ製作、ジョン・ラセター監督の待望の新作がやってくるというので、子供の映画と言われようがなんだろうが、これを見逃す手はあるまい。喜び勇んで劇場に駆けつけた。

Bug ってのは「虫」のことなのだが、CGIアニメーションだというので、コンピュータ・プログラムの「バグ」に引っ掛けて、そんなノリで始まった企画ではあるまいかなどと思っていた。そしたら、「アリとキリギリス」風に幕を開けた物語が、『七人の侍』になったかと思えば、実は『サボテン・ブラザーズ』だったという、なんともはや、これまた面白い映画を作ってくれたものだ。

夏の間遊び暮らすバッタどもと、冬を前に収穫に励むアリたち。バッタたちは秋がきても平気だ。盗賊団よろしく、アリたちを脅し、搾取しているからなのだ。アリたちは、必死で蓄えた収穫物を、貢物としてバッタに差し出している。その貢ぎ物を、ちょっとしたヘマから台無しにしてしまった主人公のアリは、バッタと闘うための助っ人を呼んでくることを主張し、旅に出るのだった。

ピクサーの映画が、今、技術的な最高水準を走っていることには疑いの余地はない。比較的無機質な描写で済んだおもちゃの世界とは違い、自然が相手の今回は、相当レベルの高いことをやっているんだろう。もちろん、そうした技術の裏打ちがあってこそなのだが、ピクサーの映画が面白いのは、ともかく、脚本のクオリティの高さによるものだろう。そういうスタジオの個性は、2本目の今回で明らかになったといえる。

サービス精神に溢れ、娯楽映画の基本をはずさないストーリーテリングの見事さ。数多いキャラクターの個性の描き分け。経験不足ゆえになにをすべきかわからず右往左往するプリンセス、お転婆で好奇心旺盛なプリンセスの妹、助っ人のムシたち、迫力と愛嬌を兼ね備えた悪役たち。それぞれ米国のアニメにしてはデザインも愛らしく、一度見ただけでも愛着が沸いてしまうはず。

そして主人公。「僕のやったことはなんでも裏目に出る、何一つ役に立ったことなんかないんだ」と落ち込むシーンは、うっかりしていると涙腺を刺激されてしまった。CGのアリだぞ。ちきしょう。

アリのコロニーの描き方が面白い。よくあるような「画一的な集団主義」として描かれているのではなく、「チームワーク」というポジティブな描き方になっているのだ。そして、主人公の活躍を、「個人主義の集団主義に対する勝利」という、従来ありがちだった図式に持ちこまない。「多様性とチームワーク」の物語なのだ。このあたりには、米国の企業経営のアプローチがドラスティックに変化を遂げつつあることも反映されているように思ったりする。

バッタの親分に対して一生懸命責任逃れをしようとする若きプリンセスに対してバッタが一言、「部下の責任はみんなリーダーの責任だ」とのたまうあたり、経営責任をとらずに居座りつづけるダメな企業の経営陣に聞かせてやりたい痛快さ。そういうピリッと効いたセリフが物語から浮くことなく、隠し味として効いていて、子供をつれて劇場にいった大人のお楽しみになっている。

英語版はケヴィン・スペイシーやデニス・レアリーらの芸達者で華のある俳優と、アニメの世界のベテラン声優混成の適材適所なアンサンブル・キャスト。音楽の担当は『トイ・ストーリー』と同じくランディ・ニューマン。この人の音楽なしにはまた、この作品の成功はなかっただろうと思わせる変幻自在の楽しいスコアだ。

11/13/1998

Living Out Loud

マンハッタンで抱きしめて(☆☆★)

アパートで守衛をしている男は、男手で育てた愛娘を最近失ったばかり。そのアパートの住人である女は、長年連れ添った夫の裏切りで離婚に至ったばかり。この二人の人生がエレベーターのなかで交差し、互いのフラストレーションやささやかな希望などを語り合ううち、次第に親しくなっていく。

少しロマンティックで、可笑しくて、しっとりとしたコメディ・ドラマ。 本作に主演しているダニー・デヴィート主催の「ジャージー・フィルムズ」の作品だが、このプロダクション・カンパニーは常に意欲的な作品を発表してくるから面白い。今回は、ぐっと大人のムードを漂わせた、少し興行的には難しそうな作品である。ハリウッド的な安易な出口を用意せず、ちょっとした節度とほろ苦さが残るさじ加減がいい感じではあるのだが。

脚本・監督はリチャード・ラグラヴェニーズの脚本・監督作品。主演はホリー・ハンターとダニー・デビートだが、無視できない重要な脇役、ジャズ・クラブのシンガーとしてクイーン・ラティファーが出演。

無残な結末を迎えた結婚の後遺症を引きずる主人公の女性が自分らしく活きる力を獲得していくまでを描く映画である。

で、本作は、ともかく、リチャード・ラグラヴェニーズだ。なんだか舌がこんがらかりそうな名前のこの人、紐解いてみると『フィッシャーキング』や『マディソン郡の橋』『モンタナの風に抱かれて』の脚本家で、本作が監督デビューだ。そう、これは「脚本家」の映画なんだな。

これまでの作品歴でも分かるように、大人の観客に染みる台詞を書くこの人らしい作品である。良く練られた、少し洒落っ気のある台詞とダイアローグによって綴られていく映画。どのシーンも会話を中心に組み立てられ、会話を中心に進んでいく。ジョージ・フェントンのジャジーな音楽にのせて。

はっとするような演出はない。繋ぎや構成に少々ぎこちない部分もある。しかし、良いダイアローグを良い役者が口にすれば、良い映画になるという強い信念がそこにあるかのようである。また、その信頼を委ねられた、いうまでもなく演技巧者である主演の二人。この映画から漂ってくるのは、そんな両者の信頼関係に基づいた、濃密で、幸福な空気である。

全身で演技をするホリー・ハンターは、主人公の少し饒舌ともいえる台詞を、リアリティを損なうことなく、痛々しさも、力強さも、体現してみせてくれて、改めて、とても魅力的な女優さんだと思う。すでに若くはないし、女であることを特に売り物にしているわけでもないのに、この人からは経験を重ねた女性にしか出せない色気を感じる。本来、小柄なホリー・ハンターが、もっと背の低いダニー・デヴィートの禿げた頭を撫ぜるシーンがあって、面白かった。

I'll be Home for Christmas

サンタに化けたヒッチハイカーは、なぜ家をめざすのか?(☆☆☆)

"I' II be Home for Christmas~♪” ってクリスマス・ソングのスタンダード・ナンバーですな。いろんな人が歌っているので、どこかで聞いたことがあるんじゃないか。個人的にはわりと好きな曲だ。

さて、11月13日公開だから、時期的には感謝祭前、いわゆる「ホリデー・シーズン」映画として、ディズニー・ブランドで配給される家族向けの軽いコメディだが、家族向けと云うよりは、お気楽ティーンズ・コメディといった方が正確かも知れない。

NY出身の主人公は同郷出身の彼女と西海岸で楽しい大学生活を送っている。父親から年代物のポルシェを譲り受ける約束で、クリスマスを家族と過ごすことにするのだが、東に向かってさあ出発というその当日の朝、悪友のいたずらのおかげで砂漠の真中で目を覚ます。サンタクロースの衣装を着せられた主人公が悪戦苦闘している間に、事情を知らない彼女は恋敵の車に同乗して大陸横断の旅に出発してしまった。さあ、どうする?

主演はTV出身のジョナサン・テイラー・トーマス。監督のアルレーン・サンフォードもTV出身で、映画は『ブレディ・バンチ』の続編を手がけていた。そんなわけで、ちょっと小粒でTVっぽい感じは拭えないが、まあまあ、笑って観ていられる作品になっていて、後味も悪くないんだな、これ。

最初のクレジットが可愛らしいサンタ帽子が飛び跳ねるアニメーション。そのホンワカとした雰囲気が嫌いじゃない。主演のジョナサン・テイラー・トーマスは、見た目が若い頃のクリスチャン・スレイターっぽい。一部で人気が沸騰(?)しているようだが、それもまあ、わからんではない。

いかにもアメリカ的な大学の寮生活の描写から始まって、ロード・ムーヴィーに転調する。最後は家族と過ごす伝統的な雪のクリスマス。珍道中あり、恋敵との確執ありで最後はハッピーエンドでしめくくる。全体の構成や配分、テンポは、案外、手馴れたものという感じがする。

エピソードはそれなりに工夫がある。サンタの服で砂漠に置き去りの主人公というヴィジュアル的なミスマッチはやがて、サンタの衣装を着た参加者によるマラソン大会につながって、まあ、単純なアイディアなのだけど思わず顔がほころんでしまうような光景が繰り広げられる。同じルートをたどってNYに向かっている彼女&恋敵とニアミスを繰り返すのだけれど、たまたまパーティ会場の宿り木の下でキスしている2人がTV中継され、それを主人公が見てしまうっていうアイディアもいい。

本当は早く家に戻ってポルシェを手に入れたいくせに、嫉妬心にかられ、彼女の奪還を画策して道草をする主人公。それに象徴されるように、何が一番大切な物か、そういうプライオリティが今ひとつわかっていない主人公の迷走ぶりが、一応、旅を通じてちょっとだけ成長する。

ティーンズ物としては、そこはディズニー映画としての優等生的なところがあって、「ティーンズ」へのアピールが少し足りない商品であるかもしれない。あと、珍道中ジャンルの金字塔といえる『大災難P.T.A.』にはもちろん及ぶものではないだろう。ただ、ドラマとしての筋が一本通っていて爽やか。TVで放送されていたらついつい見ちゃう程度には好感の持てる作品である。

11/12/1998

The Siege

マーシャル・ロー(☆☆★)

アラブ系の過激派のリーダーを米軍が密かに捕らえ、拘束した。それをきっかけとしてNYの街がテロの嵐に見まわれる。FBIは支部がテロの標的になり崩壊、コントロールを失った政府は戒厳令を敷き、混乱した街に軍隊が出動する。アラブ系住民は明確な理由もなく全員拘束され、アメリカの標榜する「自由」は過去のものとなった。

映画の中での描写をめぐるアラブ系市民からの(少々見当違いな)抗議もあり、タイトル、公開時期ともに2転3転していたエドワード・ズウィック監督の「問題作」である。

この映画に対する抗議というのは、アラブ系(というかイスラム系)とテロリズムを結びつけ、罪もないのに彼らが拘束される展開に向けられていたようである。だが、この映画が語ることは、そういう先入観やステレオタイプの存在、それがもたらしうる行動の危険性である。、実際にオクラホマでのテロでアラブ系が真っ先に犯人として疑われたことなども含め、権力側のそうした動きに対しての警鐘を鳴らしてこそいても、そうした行為や行動を正当化したり当然視するものではない。

もちろん、そうした意味で、たいへんに社会的なメッセージ性の強い野心作である。

しかし、この映画は大スターをキャスティングした娯楽作品としての顔を持っている。監督とは『グローリー』という佳作を作って以来これで3度目の顔合わせとなるデンゼル・ワシントンをイメージ通りのヒーローとして、最近では一般にアクション・スターと認知されているブルース・ウィリスを限りなくグレーな悪役として起用した。そして、絶対にただのヒロインで終わらないアネット・ベニングもキャスティングされている。

ただ、どこかで生真面目なズウィックの資質が裏目に出たのか、メノ・メイエスやピューリッツァー賞作家のローレンス・ライと共同名義になっている脚本が悪かったのか、せっかくスターが共演しているのに、娯楽映画としてのツボを押さえきれていない。少なくとも、キャスティングにひかれて劇場に足を運んだ観客の興味には応えられていない。

思うに、戒厳令、軍隊出動のタイミングが遅いのだ。そのような状況にリアリティを与えるために、最初のテロの発生からそこに至るまでを丁寧に描いているのだが、その手数が多すぎて、退屈してしまうのである。

もちろん、作り手の狙いは単純な活劇にあるわけではなく、もし、こんな自体が起こったら何が起こるのか、それを精緻にシミュレーションしてみたかったのだろう。それならそれとして、テロの操作にあたるプロセスを、もう少し活劇として見せる工夫が必要ではなかっただろうか。

話を複雑にした原因のひとつはアネット・ベニング演じるCIAのキャラクターとしての微妙な立て付けにもあるのだが、この、ある意味で難しい役柄に血肉を与え、リアルな人間にしているベニングはさすがに巧い女優だと思う。ブルース・ウィリスはなかなかの貫禄で、軍を掌握する立場としての不気味な恐ろしさを出している。それに比べると、いつもの通り、「アメリカの良心」を演じることを求められているデンゼル・ワシントンは、まさにいつもの通りでしかない。そろそろ、本人もこういう役柄に飽きてきやしないものだろうか。

11/06/1998

The Waterboy

ウォーター・ボーイ(☆☆)

アダム・サンドラー演ずる知恵送れ気味の31歳の男が主人公。ルイジアナの不気味な森の奥にキャシー・ベイツ演ずる母親と住み、(普通は)子供のアルバイトであるカレッジ・フットボールの水配り人を天職と思い働いている。ある日、仕事中にとてつもない才能を見出された主人公は、これまで馬鹿にされてきた鬱憤をバネに、一躍チームのヒーローとして大活躍を始める、という話。ある種の「キャラクターもの」といえる、ドタバタ系コメディ。

主演のアダム・サンドラーは、90年代の前半にサタデーナイトライブで活躍した人気コメディアンである。「オペラマン」などのコントやユダヤネタの馬鹿げた歌で人気を博した。映画では『エアヘッズ』等での脇役にはじまり、主演俳優に昇格。その後、出演作は毎回前作の興行成績を上回る快進撃を続け、前作『ウェディング・シンガー』が8千万ドル級のひっとをかっとばして大ブレイク。今回は、大ヒットを期待されての新作というわけだ。

今回の作品でサンドラーが演じるキャラクターは、彼の十八番といって良い。かつてSNLでやったスケッチ「カンティーン・ボーイ」風知恵遅れキャラクターに、南部ネタ、突然キれたり凶暴化したりする芸風を組み合わせたイメージだ。作品内容も前作が少々らしからぬロマンティック・コメディに振った作品だったことを受けて、反対方向、ナンセンス&ドタバタ寄りの方向に振っている。

実はサンドラー、本作の製作を手がけ、古くからの友人ティム・ハーリーと共に自ら脚本を手掛けている。監督はNYUでの同窓だというフランク・コラチ。こうしてみると、この男、早くも単なる主演俳優の域を超え、すでに自分の作品作りを戦略的にコントロールしてかのように見える。なかなかの男だ。

それはさておき、作品として面白いのかどうか。主人公やチームのコーチ、ゲテモノ料理好きのキョーレツな母親、ファイルーザ・バルク演ずる妙な恋人など、知能指数ゼロなディープサウス住民的キャラクターは面白い。独特の、調子はずれで抜けた感じの間やテンポも、ツボにはまってくると笑える。

ただ、ギャグそのものが少々単調で、意外性には欠けるところがある。特に、これまでのアダム・サンドラー映画を見ていると、あまり新鮮味を感じない。いま、ちょうど旬を迎えた彼の主演作だから爆発的なヒットを飛ばしているが、初期の主演作のほうが破壊力があって面白かったと、個人的には思う。

監督も脚本家旧知の人物を起用した本作。ダチを大事にするのがサンドラー流らしい。出演者の中でもロブ・シュナイダーはSNL時代の共演者で、彼の登場シーンはやっぱり息とタイミングがあっている。