10/29/1999

Bats

BATS・蝙蝠地獄(☆☆☆)

政府が実験していた強暴なコウモリがテキサス州で逃げ出し、仲間を増しながら人間を襲い出す。無慈悲で知能的な殺害マシーンと化したコウモリの群れと対峙する、小さな街の保安官とコウモリの専門家!

ハロウィーン・シーズンを当てこんだ、典型的な搾取(エクスプロイテーション)映画である。だからつまらない、だからダメな作品・・なのか?いや、そうじゃないだろう。

もちろん、この作品をダメだということはたやすい。『鳥』のように群れを成して襲うコウモリ。『ディープ・ブルー』のように人為的に知能を増大させた実験動物。パターン通りで予想を全く裏切らない展開。政府の実験にマッド科学者。お懐かしや、ルー・ダイヤモンドが主演。もちろん低予算・・予算節約のためのCGと、模型の安っぽさがバレないためのすばやい編集。

でも、脚本のジョン・ローガンと、監督のルイス・マーノウは、こういう企画につきものの様々な制約を向こうに回して、予算とテーマに似合わぬスケール感を出すのに成功していると思うのだ。中盤以降なぞ、閉塞感と開放感を巧みに組み合わせ、なかなか小気味良い展開を見せてくれるので侮れない。

コウモリの群れの描き方にも生理的な気色悪さがあって、悪くない。特に前半、主人公たちの乗ったクルマに群がったコウモリの薄気味の悪さは最高だ。

コウモリの専門家として招聘される女性科学者を演じたディナ・メイヤーが実質的な主人公。若い女性を中心に据えるあたりもこのジャンルの何たるかが良くわかった連中の仕事といえるが、この彼女、なかなか拾いものなのである。というか、傑作『スターシップ・トルーパーズ』に出演していた、あのディナ・メイヤーであるからして、心有る人ならば説明は不要だろう。

この映画で物足りないものがあるとすれば、それは癖のある俳優の怪演と、ちょっとした遊び心ではないか。ここに、例えば『アナコンダ』のジョン・ボイトだったり、『レイク・プラシッド』のオリヴァー・プラットのような「怪演」が加わって、遊び心のあるユーモアがあれば完璧なんだけれどな。ユーーもアという意味では最後に一発決めてくれるのだが、そのセンスがもっと全編にあればなお良かっただろう。

10/25/1999

Fight Club

ファイト・クラブ(☆☆☆☆)

冴えない生活を送る不眠症の主人公が出会った風変わりな男と始めた共同生活。一緒に組織したアンダーグラウンドのファイト・クラブ。そこには夜な夜な男たちが集まり、お互い、殴り殴られる真剣勝負の刹那。組織は主人公の知らぬところで日に日に拡大し、当初の目的を逸脱していく。

チャック・パラーニック原作を新人脚本家ジム・ウルスが脚色した、『セブン』、『ゲーム』のデヴィッド・フィンチャー監督最新作。出演はエドワード・ノートン、ブラッド・ピット、ヘレナ・ボナム・カーター。

病んだ作品世界に病んだキャラクターと濃い役者。過剰に攻撃的なダストブラザーズによるスコア。後半のとんでもな展開の伏線が、なんとサブリミナル映像というルール違反。破綻寸前でまとまった危うさ。いびつだが、魅力的な傑作、というか、他ではまず見られない大怪作。

CGの助けを借りて自在に動きまわるカメラに象徴されるように、スタイルと物語が拮抗し、ときにスタイルそれ自体が強烈に自己主張を始める。セックス・シーンですらCG処理してみせる、そのあまりに人為的な映像。その居心地の悪さ、そして面白さ。そして、その必然性。

どんな作品にでも自分の刻印を明確に刻み、しかしあくまで商業映画の枠のなかで消化してきたフィンチャーだが、こにいたっては、もはや「ベストセラー原作の映画化」をダシにして、世界を挑発しているとしか思えない。曲者俳優エドワード・ノートンとスター俳優ブラッド・ピットが肉体改造をして熱演しているが、画面に映らない映画監督が、その両方を食ってしまっているといってもいいほどの存在感はなんなのだ。

見た目のスタイルや刺激に惑わされそうだが、本作は、その裏に隠されたテーマ性故に、後々まで残る作品になるのではないかという予感がする。日に日に肉体的なリアリティを失うサイバーな世紀末に、原初的な衝動をあらわにして殴り合う男たちを置き、80年代から引きずりつづけてきたヤッピー文化の尻尾と、膨張する資本主義を鋭く撃ち抜く危険な映画である。それを象徴するのが、本作のラストシーン。このヴィジュアルイメージに、背筋が震えた。初見の映画館で感じた衝撃をどう表現すればよいだろう。何度見返しても惚れ惚れとする。

10/22/1999

Bringing Out the Dead

救命士(☆☆☆)

NY・へルズキッチンで救命士として救急車を走らせる主人公の3日間。しばらく前に救うことができずに死なせてしまった少女に対する罪悪感を胸に、きわどいところで正気を保ちつつ、ドラッグや犯罪渦巻く街を走る主人公は、自身の救いを見つけることが出来るのか。出演はニコラス・ケイジ、パトリシア・アークエット、ジョン・グッドマン、ヴィング・レームス、トム・サイズモアら。

NYで実際に救命士を務めた経験のあるジョー・コネリーの原作を、ポール・シュレイダーが脚色し、・マーティン・スコセッシが監督する。『タクシー・ドライバー』のコンビが久しぶりに組んで、ニューヨークを描くということで話題の1本だ。

映画の始めに病院に担ぎ込まれ、植物状態で生かされ続けることになる男のエピソード、その男の娘と主人公を巡るエピソード、クスリのせいで完全に正気を失い病院と街を繰り返し行き来している男のエピソード、途中で知り合うドラッグディーラーを巡るエピソード、同僚をめぐるエピソードなどが、緩く絡みあっていく。また、。原作者が監修した救急現場の現実もひとつの見せ場である。

たしかに、流石に一流の監督が撮った作品、という格の違いのようなものはある。映像的な面白さはある。色調を押さえているようでリッチな色を感じさせる撮影も素晴らしい。細かいショットをリズミカルにつないでいく編集も見事であるし、いかにもスコセッシと思わせる選曲による既成曲のパッチワークも、まあ、過剰気味ではあるが、耳に楽しい。

でも、作品としての強さは作り手の名声から期待されるほどのものではない。

ひとつには、この映画が断片的なエピソードがつなぎあわさって、より大きなテーマを浮かび上がらせるというスタイルをとっていることにある。描かれるエピソードの一つ一つに意味が付加されているものの、全体としてのドラマには力強さが欠ける。

もう一つは、「今、この作品である意図」が見えてこないこと。

原作の、そして、映画の舞台は90年代の初頭だというから、かれこれ10年が経過していることになる。この10年というのが、意外や中途半端な距離感で、80年代ほど「過去の歴史の一部」になってはいない生々しさはあるが、現代と云うには離れていて、「今」を捉えているというわけではない。時代にとらわれず、普遍的なテーマを描いているにしろ、なんとも煮え切らない感じがするのだ。

毎年2~3本の出演作が公開される人気者、ニコラス・ケイジが「正気と狂気の境目にいて、かろうじて仕事をこなしている男」の眼にリアリティを与えている。この映画がその「眼」で幕を明けることが象徴しているように、これは、彼の目が捉えた3日間、彼の目が捉えた世界の物語である。

既成曲の合間をつなぐように流れるベテラン、エルマー・バーンスタインのスコアが、さまなくばバラバラになりそうな作品全体に、一筋の統一感を与えていたのが印象的であった。

Three to Tango

スリー・トゥ・タンゴ(☆★)

マシュー・ペリーが主演するロマンティック・コメディで、相手役は『スクリーム』のネイヴ・キャンベル。ライバル役にディラン・マクダーモット。この3人、それぞれ、『Friends』、『Party of Five』、『Law & Order』に出演して、TVで人気に火がついたスターたちだ。監督は主にTVで活躍しているデイモン・サンテステファノという、まあ、一目見て安上がりな企画。ロマンティック・コメディは好物なのでとりあえず見に行った。

主人公は建築事務所勤務である。事務所の命運がかかった大事なプロジェクトのクライアントから、ある依頼をうけるのだが、それは、クライアントの愛人を監視する役だった。しかも、その依頼はそもそも主人公がゲイであるという勘違いによるものだ。断れない依頼ゆえに「監視」をするうち、その女性に恋をしてしまったから、さあ大変。

「ゲイと勘違いされて大騒ぎ」というネタは、2年前の『イン&アウト』から進歩がない。そんなことで笑いをとっている時代ではないと思うのだけれど、世間は意外に心が狭く、保守的で、こういう話で笑ってくれると映画の作り手は考えているらしい。

しかし、人気TVドラマの売れっ子が共演し、TV畑の監督が作ったこの映画、残念なことにというのか、想像通りというのか、TV的に生ぬるい、笑えないコメディになっちまった。これじゃわざわざ劇場にかける必然性を感じない。

勘違いに基づくドタバタと、好きな人に好きだと告白できない切なさ。ロマンティック・コメディだというのなら、ちゃんと笑わせ、ちゃんとロマンティックに締めてほしいところだが、どちらにしても中途半端。笑わせどころのギャグもアイディアも冴えない。マシュー・ペリーが出ていれば、たいした工夫がなくても観客が満足するという思い上がりがあったんじゃないか。

そのマシュー・ペリーは一応、スラップスティック型のコメディ演技を売りにしているようなのだが、体で笑いを取るにしては動きにキレがない。そのうえ、演技自体も大味で、繊細な「男心」を演じて見せることなどできるようには思えない。これじゃ、ただつったっているだけのデクノボウだな。

ヒロインのネイヴ・キャンベルは、キャラクターの「安っぽい」感じにはよくハマっているのだが、主人公が「一目ボレ」するだけの説得力が感じられない。もともと美女というタイプではないのに加え、メイクが酷いんだ。化粧してわざわざ醜くなるなんて、なんのこっちゃ。

冴えない映画のなかで一人気を吐いているのが主人公の上司役をやっているオリバー・プラットだ。笑いをとれ、演技ができ、しかも個性的な風貌で、メインの3人を吹き飛ばす存在感。この人は、なんだか役を選ばずなんでもやっていて、あちこちで顔を見る気がするのだが、そこが非常に頼もしい。やはり、脇とはいえ映画の顔は違う。彼がいなかったら途中で劇場を出てしまいたくなるところだったよ。

Body Shots

ボディ・ショット(☆)

ニューラインの宣伝曰く、「60年代の卒業、70年代のサタデーナイト・フィーバー、80年代のブレックファスト・クラブのように時代を定義する作品がある・・そして、今。」

本当か?

正直にいって、この程度の作品に時代を、世代を定義されるのは迷惑至極なんだけどな。宣伝も困った末のハッタリなんだろう。時代を定義する作品を、限定マーケットで公開ってあり得ないもんな。

それはさておき、映画は現代を生きる20代の男女8人の、恋愛観やセックス観が交差する一夜の出来事を描いていくものである。ショーン・パトリック・フラナリー、ジェリー・オコネルらが共演。『アメリカン・ヒストリーX』が話題になったデイヴィッド・マッケンナの脚本である。ケーブル局が制作したTV映画『GIA』が話題になった、マイケル・クリストファーの劇場作品監督デビュー作。もともと脚本、役者としてTV中心に活躍していた人のようだ。

ショーン・パトリック扮する人物と恋人のところに、デートレイプされたといって取り乱した友人が現れるところで幕を明け、前日の夜に戻って男女8人4組が過ごした一夜を描いていく。ダンスフロアで強いカクテル「Body Shots」を交わす4組のカップル。終盤レイプの顛末が描かれ、その事件を乗り越えた前述のカップルのシーンで終わる。その間に登場人物がそれぞれカメラ目線でいろいろ語りかけてくる趣向だ。

スタイル自体は今となっては珍しくないが、統一感のある色彩設計やマーク・アイシャムのジャズが入ったけだるい音楽によって、まずまず見た目のスタイルとしてはまとまっている。

ただ、つまらないんだよ。カッコをつけたスタイルと、実はそれなりにヘヴィーで辛気くさい内容もあっているとは思えないし。

ハリウッド的なメインストリームから背を向けて、都会的で深刻でスタイリッシュなドラマを作ろうと志向すればするほど、つまらない映画ができあがる法則でもあるかのような気がしてくる。アンチ・ハリウッド的な意味で、こういうのを過度に褒める人もいるけど、それはなんか違うんじゃないか。

10/08/1999

Superstar

スーパースター / 爆笑スター誕生計画(☆★)

"Dare to Dream" って、タイトルの一部かと思っていたら、宣伝文句だった。

古くは『ブルース・ブラザーズ』、最近では『コーンヘッズ』とか『ウェインズ・ワールド』、『It’s Pat』などなどに代表される、人気コメディ番組「サタデー・ナイト・ライブ」で人気を博したキャラクターやスキットを元にした映画化作品だ。SNLにレギュラー出ているコメディエンヌ、モーリー・シャノンが演じる、「スーパースターになることを夢見ているが、実は全く冴えない女の子」、メアリー・キャサリン・ギャラガーの学園生活が綴られる。共演はウィル・ファレル。

まあ、笑えるんだけどね。SNL的な意味では。

しかし、TVでやる5分のスケッチと、90分足らずとはいえそれなりの長さがある劇場作品の違いを、どう戦略的に乗り越えるのか、あまり考えていなかったのではないか。これはなかなか難しい問題だと思うんだよね。

こういう「特異なキャラクターもの」は、TVのコントとしては比較的簡単に成立する。単なる異常な人物としてなんの説明なく登場し、その場限りの不条理ギャグや、スケッチを演じ、毎週ミニマルな設定のなかで、いくつかのお決まりネタのバリエーションを繰り出せばいいのだから。

これを映画に膨らませるのは、しかし至難の業である。ジム・キャリーでもない限り「奇妙なキャラクター」一本で1時間半なりの時間を押し通すことなど土台無理な話というものだ。そこで、観客が感情移入出来そうな背景と、水増しされたストーリーを作り、キャラクターに「人間」としての肉付けをするのはある意味、真っ当な方法論であろう。この作品は、少なくともそういうアプローチで組みたてられている。

学校の人気者たちからイジメや嘲笑の対象になっている珍妙な主人公が、しかし、スターになることに対しては「真摯な」思い入れを持っている。それは解りやすい。だが、そこには大きな落とし穴があった。マジなバックグラウンドを設定すればするほど、主人公の珍妙さで素直に笑えなくなってしまうのだ。

ナンセンスものとして乾いた笑いを失ってしまったら、今度はどうするのか。泣きでも入れるのか?『フォレスト・ガンプ』じゃあるまいし、中年のコメディ女優が演じるアホ高校生のバカ・コメディでは、まさかそれも無理な話なのだった。

。モリー・シャノン自身は映画1本を支えきれるほどの芸はないようだが、クライマックスでみせる身体の動きひとつとっても、基本がきちんと出来たひとだと思う。ただこの映画の作り手には、その芸人の「芸」をきちんと見せるという意識もかけていて、一番の見せ場で特撮カットまで使い、「芸」を寸断してしまうという愚を犯している。

モリー・シャノンという人は当然高校生を演じるのには無理のある年齢で、共演のウィル・ファレルともどもそういう年齢の人間が高校生を演じているのだから、演出さえその気になればそのグロテスクさだけでも相当珍妙な作品に出来たのではないか。なんらか勝算のもてるヴィジョンなしに、ただただ漫然とキャラクターの映画化にゴーサインが出ている、現状のSNL映画は、早晩行き詰まるに違いない。

Story of Us

ストーリー・オブ・ラブ(☆☆☆)

Story of Us - 私たちの物語。

15年間連れ添った夫婦。子供たちの前では仲の良いところを演出しているものの、お互いの性格の違いからいがみあいが耐えない。互いに惹かれあった最大の理由が、いまでは2人の重荷になっている。とりあえず別居生活に入った2人の結論は何か。

長期間にわたる男女の関係が恋に変わる『恋人たちの予感』を撮ったロブ・ライナーが、同じ手法を応用しながら撮り上げた、『離婚夫婦の予感』だ。ハッピーエンドを迎えた恋愛映画の15年後といってもいい。主演はブルース・ウィリスとミシェル・ファイファー。そういや、ブルーノはデミ・ムーアとの結婚生活がこじれてしまったな。

映画館で金払ってまで登場人物の愚痴を聞きたくないという観客には向かない映画かもしれない。コメディタッチではあるが、狙いの半分くらいしか笑えない。でも、ここで描かれた「崩れていく関係」のドラマにはこれは胸に染みるような切なさが、心に突き刺さる痛さがある。深刻ぶったドラマに仕立てず、コメディタッチだから救われている、という見方があってもいいんじゃないか。

長い間かかって築きあげたきた男女関係や、夫婦関係。それが目の前で崩れていくのをわかっていて止められない、そっと見守るしかないという切なさや悲しみ、もしかしたら、情けなさのようなものが、エリック・クラプトンの歌声とともに全編から滲みでている作品である。

そう、、本作を思い出すと、まずエリック・クラプトンの主題歌が脳裏に浮かぶ。マーク・アイシャムと共同で音楽にクレジットされていることで明らかなように、単なる主題歌のレベルを超えて、最初から最後まで映画のトーンを規定しているのが、彼の提供した "(I) Get Lost" という曲である。まさに、泣きのギター。滑稽なシーンすら哀しみに染め上げてしまうこの調べ。

リタ・ウィルソンや監督自身が扮する夫婦の友人たちなど、もう少し脇役が丁寧に描かれていると映画としての厚みが増し、夫婦の危機を多面的に描くことが出来たんじゃないだろうか。また、予告編の編集がユーモアに溢れていて巧いな、と思っていたら、そのシーンが丸ごと本編のクライマックス一部だったのにはさすがに驚いた。ちょっと反則だよな。

Random Hearts

ランダム・ハーツ(☆★)

ハリソン・フォードとクリスティン・スコット・トーマスが主演する原作付きのメロドラマ。ウォーレン・アドラー原作を大ベテランのシドニー・ポラックが監督。

気づかずにいた互いのパートナーの浮気。そして、不幸な飛行機事故。それが、ワシントンDCの警察で内部調査を担当する男と、再選を狙うニューハンプシャー出身の共和党の議員の女を結びつけた。職業柄、真相を探ろうとする男と、過去は過去と区切りをつけて忘れてしまいたい女。そんな境遇の異なる二人が強く惹かれあうようになる。

実のところ、メロドラマは嫌いじゃないのだが、それでも本作は平板で退屈に感じた。なんだろう、メロドラマぶっている、といえばいいのか。ここにはエモーショナルな衝動が、ない。アカデミー賞監督とはいえ、『ハバナ』、『サブリナ』などの凡作が続くシドニー・ポラック。一時期の神通力を失いつつあるかのようにみえるハリソン・フォード。これは、ちとつらいなぁ。

お互いのパートナーが事故死したというショックだけでなく、彼らが自分の知らないところで継続的に浮気をしていたという事実が全く境遇の異なる二人を結びつけるというメインプロットはドラマチックで面白い。しかし、誰もがわかりきっているこの出会いまでに、およそ45分も費やすこのタルさはなんなのだろう。

しかも、再選を目指す上院議員・ある悪徳警官の容疑を追求する主人公というサブプロットが全く機能しておらず、単なる付け足しに終わっている。こんな水増しだらけの2時間13分。ついでにいえば、監督自身の出演も成功しているとはとても思えないね。何故、出た?

そもそもこの映画、ハリソン・フォードが演じていることもあって、主人公の気持ちがわかりにくい。妻が死んでも涙を見せないこの男の「真相を探る」ことへのコダワリが何に由来するものなのか、もう少し感情の変化も含めて丁寧に描かれるべきだったように思う。不倫していた妻の自分への愛情のかけらを確かめたいのか、それとも警察官として妻に欺かれていたことによって傷ついた自尊心ゆえか。それが、どう出会ったばかりの議員に惹かれていく気持ちとつながるのか。ハリソンは曖昧な笑みを浮かべるばかりで、何も教えてくれない。

ヒロインを演じるクリスティン・スコット・トーマスは、ハリソンとは対局だ。ショッキングな事件を過去のこととして葬りたい気持ちが、単に自分の選挙目的だけでないこと、その裏に心の痛みと哀しみがあることに、きっちりと説得をもたせている。この映画に見る価値があるとすれば、それは彼女とその演技以外には考えられない。とても魅力的で、素晴らしい女優だと思う。

10/01/1999

Three Kings

スリー・キングス(☆☆☆)

イラクとの協定が結ばれて湾岸戦争が終わり、何もすることのない米軍兵士たちは帰国を待つばかりであった。そんななか、主人公とその仲間たちは敵の投降兵士から手に入れた地図に記されているのが、フセインがクウェートの富裕層から集めた金塊の隠し場所だと確信を持ち、金塊強奪を企てる。タイトルは聖書にある「東方の三賢人」に由来するもの。デヴィッドO・ラッセル脚本・監督。出演は、ジョージ・クルーニー、マイク・ウォールバーグ、アイス・キューブが出演。

ジャンル分けが難しいが、政治的なメッセージ性の強いコメディ、というのが一番正確なところだろう。

相当の時間をリサーチに使ったという。その成果かどうか、本筋とは一見して無関係に見えるディテールの描写に面白みがある。敵の根拠地に潜入してみればアメリカを始め世界各国の工業製品が闇市さながら所狭しと並んでいたりする様は唖然とするし、ジーンズを抱えて右往左往する敵の兵士は非常に滑稽だ。実はこういった描写が「企業家精神の発露としてのアメリカの戦争」という皮肉りである。そう、一見して無関係と書いたが、これこそが映画が見せようとする本筋かもしれない。

お気楽に宝の強奪を計画した男たちが、思わぬ困難に遭遇するなかで知る戦争の矛盾と「アメリカの大義」の理不尽さ。人の死体が簡単に転がり、本来救うべき人々が援助もなく見捨てられ、私欲や物欲がうごめく見せかけの平和。自国企業の権益保護を人道主義にすりかえる大国のエゴ。

もちろん、みんな分かっていたことである。何を今更、と言う気もする。しかし、これがメジャー・スタジオの大作として作られる懐の深さ。アメリカの正義にツバを吐いて見せる気骨。もちろん、スターが共演する戦場アドヴェンチャーという娯楽映画のパッケージを周到に用意し、なによりアメリカ兵がアメリカの理想を実現する展開ではあるのだけれど。

反面、不必要に説教臭い映画になってはいないだろうか。主人公たちが最後までお気楽にお宝強奪を目的に走り回る陽性の戦場冒険アクションであったら、もしかしたらこの映画のメッセージはより強く、屈折した形で伝わったかもしれない。それを惜しいと思う。娯楽性とメッセージ性の融合はいつだってムズカしいハードルだが、娯楽性が言い訳に使われたようにも見えるこの作品は、娯楽映画としての強靭さを獲得できていない。

明確なスタイルを持った映像とオフビートなコメディセンス、そしてなによりその度胸で脚本・監督のデヴィッドO・ラッセルが株を上げたのは事実だろう。内臓に食い込んだ弾丸がどのようにダメージを与えるのかを再現して見せるカットなどはアイディアとして秀逸だし、それをアイディアに終わらせず、物語のなかできちんと消化しているところも良い。ただ、どこか作り込み度の高さによって、登場人物たちと観客との距離が開いてしまい、感情移入を難しくしているところがあるんじゃなかろうか。

American Beauty

アメリカン・ビューティー (☆☆☆☆★)

映画初挑戦の脚本家アラン・ボールと監督サム・メンデスは、おそろしく知的で、非常に笑え、美しくも切ない独創的なドラマを、ブラック・コメディのスタイルで創りあげた。これは傑作だ。これから年末にかけての賞レースでも大いに話題になるに違いない。

娘の同級生に惚れた中年男が、その日から、失われた自分の人生を取り戻さんかのように変貌を遂げていく。一方、彼の変化に戸惑う妻、娘ら家族や周囲の人間も、それぞれ自分の理想を追いかけながら、日々をもがいて生きていた。郊外に住む平凡だが幸せそうに見えた中流家庭の表層のすぐ裏側にある病巣や強迫観念が、家庭の崩壊と共に暴きだされていく。

冒頭に置かれた主人公のモノローグで示唆されるように、従来通りの意味で言うハッピー・エンディングの映画ではない。しかし、ケヴィン・スペイシー演じる42歳の主人公が最後に見せた満ち足りた平穏な表情は、この作品がハッピーな結末を迎えたのではないかという錯覚を抱かせるのに十分だ。

物語は、中年男の人生に対するささやかな抵抗を主軸にして転がっていく。が、実のところ、誰が主人公というよりは、この物語の背後にある、あらゆる社会的病巣と、あらゆる悲しみと、人それぞれの美(=理想)についての物語である。極端にコメディタッチであるように見えるかもしれないが、登場人物の誰かに、どこかに、きっと共感できるリアリティを見つけることが出来るだろう。

タイトルである “American Beauty” は劇中でも様々な象徴として写り込んでいる「薔薇」の品種であるだけでなく、額面どおりに「アメリカの美」と受け取れば、あからさまな皮肉である。しかし、もっとも皮肉なことは、現代アメリカ社会の、どこにでも転がっていそうな「醜悪さ」を目一杯集めたこの120分のなかに、確かな「美しさ」が宿っていることだ。それは、醜悪な状況で、そこで必死にもがいている映画の登場人物たちに対する作り手の深い共感と愛情である。

娘の同級生に惚れ、体を鍛え始める中年親父。成功を夢見て精一杯背伸びし、満ち足りないものを浮気で埋め合わせる妻。自分が特別の人間であると信じたくて虚勢を張り続けるモデル志望の少女。狂った世の中で自分の息子だけは「真っ当」に育てることが出来たと信じている右翼的で、ホモフォビアの隣人。そんな愛すべき人々の、ささやかな夢や虚栄が崩れるまさにその瞬間を、カメラは残酷に、そして優しく、確実に捉えて白日の元にさらす。そして、我々観客は、そんな虚栄の裏側にあった魂の純粋さ・美しさを、孤独と哀しさを、見る。

爆笑を誘うセリフを連打しながらも、大胆かつ緻密で洗練された脚本と、舞台作品のような緊張感と間を持ちこんだ演出を得て、出演者は全員、奇跡のような演技のアンサンブルを見せる。ケヴィン・スペイシー、アネット・ベニング、クリス・クーパーなどのベテラン勢はいうに及ばず、ミーナ・スバリ、ソーラ・バーチらの若い俳優たちも頑張っている。

随所で挿入される既成曲の選曲センスはいうに及ばず、軽妙かつ奇妙なスコアが物語にスピード感を与えている。赤い薔薇の花びらを主人公の妄想と現実の区別に使うアイディアに呼応して、同じく赤い薔薇、赤いドア、赤いポンティアック、そして白い壁に飛び散る鮮血など、非常に視覚的な色の演出、絶妙な構図など、映画初演出とは思えない映像的な冴え。にわかに信じられないくらい完成度が高い作品に惚れ、おもわず3度も劇場に通ってしまった。