6/10/1998

Austin Powers: The International Man of Mystery

オースティン・パワーズ(☆☆☆☆)

時は60年代、世界征服を企む悪党Dr. イーヴルを追い詰めた、イカシている英国諜報員オースティン・パワーズは、すんでのところでこの悪党を逃してしまう。人工冷凍の機械に入って地球の周回起動に自らを打ち上げたイーヴルとの未来での対決を見越したオースティンは、自らも冷凍睡眠に入るのだった。そして、1997年、時代を超えて2人の対決が再開される!

マイク・マイヤーズが脚本を書いて主演した60年代スパイものパロディ映画。善悪両方の2役を演じるマイヤーズに加え、エリザベス・ハーレー、セス・グリーン、ウィル・ファレルらが出演している。監督はこれがデビュー作になるジェイ・ローチ。

マイク・マイヤーズという『ハロウィン』の殺人鬼のような名前のコメディアンは、第1作だけ日本でも劇場公開された『ウェインズ・ワールド』が一番有名なところだろう。これを含め何本か映画にもでているが、日本での知名度は低い方のコメディアン・・だった。敢えて過去形で云うのは、この作品が状況を変えるに違いないからだ。これは、どこか突き抜けた、普通ではない作品だと思う。

とにかく、徹底的にアホっぽいが、細部へのこだわりを感させられるノリのいい一品なのである。

まず、60年代のスパイ映画を中心にした徹底的なお遊びがある。そこには、そうした作品を楽しんできた作り手たちの愛情とこだわりがある。単純なようで作り込んだネタが数多くあるから、元ネタの知識量次第でいかようにでも楽しめるところもいい。もちろん単純なシモネタもおおいが、爆笑すると同時に、そうくるか!と唸らされるものも少なくない。ある意味、奥深い映画ともいえるだろう。

そして、世紀末の今、突如といっていいだろう、60年代のファッション感覚を持ち出してきたあたりのセンスが面白い。衣装からセットにいたる隅々までの目配り。そして、音楽!ソウル・ボサノヴァは、本作のテーマ音楽として記憶されることになるんじゃないかと思うくらいだ。

この映画で面白いと思ったもののひとつは、60年代と現代という「現実世界におけるギャップ」と、かつてのスパイ映画などにおいて描かれたお約束としての「虚構世界と現実とののギャップ」の2つが渾然一体としているところである。それが骨格だとすれば、そこに、世界征服を企む悪党とその息子の親子断絶など、非常に現在的でナンセンスなネタ、おとぼけや下ネタを惜しみなく投入してくる波状攻撃感がもうひとつ。これ、決してワン・アイディアだけで成り立っているような作品ではない。下手なコメディ映画が3本くらい作れる内容が盛り込まれているんじゃないかとすら思う。

作っている本人たちが一番楽しんでいるのは一目瞭然である。そういう作品は、一歩間違うと観客はしらけてしまいかねないのだが、作っている本人たちが自分で楽しむだけでなく、観客を楽しませるために真剣に取り組んでいるところもまた伝わってくるから見ていて嬉しくなってくる。久しぶりに、アメリカのドタバタ・コメディの底力を見せられた気分である。傑作。(1998/6)

(なお日本で公開されるのは米国でカットされたシークエンスを含む完全版のようである。そのシーンと2-3の没エンディングは米国版ビデオの巻末に収録されている。)

6/09/1998

City of Angels

シティ・オブ・エンジェルズ(☆☆☆)

女性外科医マギーが患者を手術台の上で死なせてしまう。自分の過失ではないのだが、精神的に大きな痛手を負ってしまった彼女を、みつめていたのは、時に人の死を見取り、励まし、導いている数多くの天使たちの一人、セスだった。彼女に恋をし、力になりたいと強く願うようになった天使は、やがて彼女の目の前に姿をあらわすようになる。メグ・ライアンとニコラス・ケイジ主演で、『キャスパー』でデビューしたブラッド・シルヴァーリングが監督を手がける、『ベルリン/天使の詩(Wings of Desire)』のハリウッド版リメイク。

これは天使の街、Los Angels を舞台にした、不思議な空気感と切なさの残るファンタジーである。もちろん、ヴィム・ヴェンダースのリメイクだからというのもあるが、アイディアを借用してかなりの脚色をされているのにもかかわらず、ハリウッド映画の基準からみると、この映画、かなりの異色作といってもよい。

全体を覆う現実離れした空気感、切ない雰囲気と展開、説明の省略、流れるようなカメラ、美しいヴィジュアル・イメージ、やわらかな光。どれをとっても監督の前作である典型的ハリウッドお子様ランチ映画とは無縁のように思われる。音楽(ガブリエル・ヤード)もまた、強く自己主張するのでなくこのファンタジー世界を膨らませ、柔らかく支えるのに貢献していて、全身が映画の世界にやさしく包み込まれているかのように感じる。こんなに繊細なタッチのアメリカ映画は本当に珍しい。

もちろん不満を言えばいろいろある。本作では、天使にとっての「世界」と、われわれ人間の「世界」をヴィジュアルで区別していない。そのことで、天使が感じる人間の世界の「新鮮さ」を、観客に上手く伝えきれていないのではないだろうか。スター共演の恋愛映画に仕立てるためか、2人の共演シーンを多くするために採用したと思しき設定(天使が自分の意志で人間の前に姿を現すことが出来る)や構成が、いまひとつ機能していない、などなど。

この映画ではそういう欠点を役者の魅力と演技が補っているのだろう。映画の世界にのめり込みそこなった観客にしてみれば「クサい演技」、ということになるかもしれない。ニコラス・ケイジのしぐさ、表情のひとつひとつが、この一独特の演技で表現されている。この天使が、感動と驚きと喜びに満たされていくさまは、本作における重要なポイントのひとつだが、原典のような白黒とカラーの使い分けがないから分かりにくくなっているのはそうだが、ニコラス・ケイジのオーバーアクトがそれをなんとか補完しているようには思うのである。

また、「天使の片思い」から「2人が恋に落ちていくプロセス」に重点をおきかえた構成により、メグ・ライアンの魅力的な表情が活きた、ともいえる。元来、コメディタッチの作品で本領を発揮する彼女だが、たまにはこういう役もいい。

リメイクものはどうしてもオリジナルと比べられ、欠点ばかり目立つ結果になる。本作もまた、オリジナルを超える評価を得ることはあるまい。それどころか、どちらかといえば、存在を忘れられていく運命の作品なのかもしれない。しかし、この映画は主演スターである二人の魅力を活かしつつ、他のハリウッド映画にない独特の雰囲気を持つ作品に仕上がっており、その頑張りについては好意的に評価したい。ブラッド・シルバーリングの次回作には期待しておくことにしよう。

また、ガブリエル・ヤードの楽曲が良いことは先に触れたが、それ以外に売れ筋のアーティストの挿入歌も多数収録したサントラがのなかで、少し不思議な響きを持ったアラニス・モリセットの唄う"Uninvited"が面白い。作品中ではエンドクレジットの頭のところで流れるのだが、どこか、本作の作品のトーンを決めるのに貢献しているんじゃないか。なお、予告編で盛んに流れたポーラ・コールの曲はサントラ未収録、本編未使用である。(1998/6)

6/06/1998

Doctor Dolittle

ドクター・ドリトル(☆☆)

ある日突然、周りの動物たちの会話が理解できるようになってしまった主人公のドタバタ劇。エディ・マーフィの新作コメディは有名な原作から「動物としゃべることができる」という意匠と主人公の名前を借りて自由に脚色。監督はベティ・トーマス。このひとは、『プライベート・パーツ』でラジオ界の問題児ハワード・スターンの自伝を本人主演で爆笑コメディに仕立て上げたことで知られている。

あの「ドリトル先生」、という先入観がないほうがよいだろう。一応、ストーリーはある。核になるエピソードは、自殺願望のサーカスのトラを手術で救う話。だが、それはまあ、一応作りました、といった感じでしかない。

それよりなにより、あの「エディ・マーフィ」の映画、と思うと違和感があるはずだ。なにせ、Do - Little (=何もしない)の名のごとく、極端にいえば、主人公を演ずるエディがなんにもしない映画なのだから!

これまでのことを思えば、本作でエディ・マーフィが演ずる役柄の変化は驚きである。何しろ、妻がいて、子供がいるのだから。こういうのは、初めてではなかろうか。年を重ね、良き父親を演じ、子供が喜ぶような映画を作ることに興味を見出したといったことなのだろうけどね。

もうひとつ、エディがアグレッシブに主導権を握らず、受けとリアクションに徹するのである。これもまた極めて珍しい。ボケるのも、突っ込むのも、ひとりでこなし、映画全体をかっさらっていくのがかつてのエディ・マーフィというものではなかったのか。しかし、今回、その役回りを担うのは、「しゃべる動物達」である。エディは単なる傍観者だ。

だから、映画の見所は何よりもまず、ジム・ヘンソンのスタジオが手がけた動物たち、ということになる。モルモットからトラに至るまで、とにかくしゃべり、演技をする。アニマトロニクスとCGを駆使した動き、芸。これまでに行われてきた同種の試み、例えば『ベイブ』等と比べても、一段と技術が進歩していることが見て取れる。

もちろん、こういう実際に喋っているわけでない動物たちと共演するリアクション芝居は難しかろう。それを、このテンションでこなすことができるエディは大したものだが、じゃあ、それが楽しいのかと言われると、やはりちょっと物足りない。エディ自身、本作のヒットで「復活」扱いされていることに、困惑したりしないのだろうか。このまま毒のない家族向け映画の顔に収まられてもなぁ、と思ったりもする。

映画としては家族向けを想定しているようだが、子供向けかと思えば下品な会話やネタが多いので注意が必要。まあ、子供ってのはそういうのが楽しいのかもしれないけどね。

6/05/1998

Armageddon

アルマゲドン(☆★)

世界各地に突如落下をはじめた小隕石群は単なる前触れに過ぎず、18日後には地球全体の壊滅をもたらす巨大な本体が落下するという事態に。NASAは「隕石に穴を堀り、内部で核弾頭を炸裂させることで隕石を破壊、そのエネルギーで地球の衝突コースから逸らせる」という作戦を決行することにする。穴掘りの専門家として招聘されたのは石油採掘などに長年かかわる主人公とその仲間たちだった。出演はブルース・ウィリス、ベン・アフレック、リブ・タイラー、スティーブ・ブシェミ、ウィル・パットン、マイケル・クラーク・ダンカン、ビリー・ボブ・ソーントン、ピーター・ストーメア、オーウェン・ウィルソンなど。脚本はJ.J.エイブラムス、監督は『ザ・ロック』で成功したマイケル・ベイ。

とても退屈で空疎なバカ映画。カネがかかった豪華なBGV以上の価値はない。

もちろん、ヒット作の公式を知る商才に長けたプロデューサー主導の映画である。離婚に絡んだ借金でお金が必要なブルース・ウィリス札束で釣り、若手の注目株やインディペンデント系の映画の顔を絡ませたキャスティング。リブ・タイラーつながりでエアロスミスに主題歌を書かせ、刺激の強い映像で適度にドッカンバッカンやらかす。ジェリー・ブラッカイマーときたら、こういう企画が抜群に巧いプロデューサーの一人である。

ストーリー的には「一大事に借り出された全く不釣合いの男(達)」という意味で、同じ監督の『ザ・ロック』を思わせもする、が、ドラマ的には希薄。派手な映像の刺激になれてしまえば、大味で単調そのものの展開にはあくびが出る。しかもこれが長い。大作感は作品の長さで醸し出されるとでも思ったのだろうか。この内容で2時間半は苦痛である。

マイケル・ベイはこれまで同様、どう見せるかという点にこだわりを見せる。いわゆる「スタイリッシュ」な絵を素早いカットでつなぎ、意味のないスローモーションを挟み、なんだか知らないがとにかく派手に爆発する。ベン・アフレックとリブ・タイラーのラブシーンなどをみていると、この人はまさしくトニー・スコットの正当な後継者たらんとしているようにも見えるのだが、トニー・スコットのように作品に適した尺の中でストーリーをきっちり語る技術が足りないし、そういうことに興味すら持っていないのではないかとの疑念すら持ちたくなる。

SFチックなディテールもいい加減で、NASAもこんな映画に全面協力とクレジットされて問題にならないのか心配になってしまう。それとも、単に、人々の関心を宇宙に向けられるのならなんでも良いというスタンスなのだろうか。(1998/6)

6/04/1998

Scream 2

スクリーム2 (☆☆)

前作の「ウッズボロー連続殺人事件」から2年後、大学に進学したシドニー。前作での出来事が映画化され、先行試写が行われている会場で新たな殺人事件が起こる。それは、あの忌まわしい事件を模写するかのような連続殺人の始まりに過ぎなかった。前作の生き残り組であるコートニー・コックスやデイヴィッド・アークエット、ジェイミー・ケネディ、リーヴ・シュライバーらに加え、サラ・ミシェル・ゲラーやオマー・エップス、ジェリー・オコネルらが新たにキャスティングされている。前作の仕掛け人、ケヴィン・ウィリアムソンが再び脚本を担当。監督も同じく、ウェス・クレイヴン。

前作でも「『エルム街の悪夢』は最初のだけ。あとはクズ」なんて台詞があったが、「続編はつまらない、が、3部作のパート2は別の話」などという続編談義を堂々とやってのける挑発的な、続編。その趣向はもちろん、期待や予想の範囲内ではあるが、自らも続編の罠にハマってしまったのではないか、という気がする。「続編では死体の数が増え、殺人方法が残虐になり・・」と云っておきながら、そういう安易な続編と同じことをやっているのはパロディなんだろう。しかし、残念ながら、そこに前作にあったサスペンスはない。

前作にあった携帯電話のトリックに代表される秀逸なシチュエーション作りは影を潜め、表層的な「犯人当てごっこ」映画に落ちているのが今回の作品だ。思えば、前作h単なるスラッシャーでも、単なるパロディでもなく、サスペンス映画としても秀逸な作品であった。それに比べると、ゲーム感覚ばかりが強くなった本作は、やはり安易な続編と呼ばれても仕方がない。

新しいキャラクターの多くに関しては造形が不充分だったり、主人公との関連付けが不充分だったりして、例え犠牲になったとしても見ている側の感情が喚起されない。そもそも、誰が殺され、誰が生き残るか予想がつきやすい。そこは、本作の中での描写も含めた、キャラクターの生命力とでもいうものの違いだろう。

連続殺人事件を中心にしたシリーズゆえ、作ったキャラクターを次々殺し、消費していかなくてはならないのが宿命である。そのあたりが、どうしても物語づくりの選択肢を狭めているようで、窮屈に感じられる。

オリジナルの成功を受けて雨後の竹の子のように製作され始めた「青春ホラー」映画群の中では頭一つ抜きんでたその存在感は否定しないが、やはり「続編」は続編でしかなかったという落ちがついてしまった『スクリーム2』。シリーズ完結編がどっちの方向に向かうのかが気にかかるところだ。(1998/6)

6/03/1998

The X-Files: Fight the Future

Xファイル ザ・ムービー(☆☆★)

テキサスの田舎で子供が砂漠の中にあった洞穴に落ち、黒い液体に襲われる。どこからともなく現れた得体の知れない人々がそこに仮設基地を設営しはじめ、子供はどこかに連れ去られてしまう。一方、Xファイルの焼失をうけてテロ警戒の任務に駆り出されていたモロダーとスカリーだったが、その連邦ビル爆破事件の裏には、黒い液体にまつわる証拠隠滅を図ろうとする疑惑が隠されていた。

大人気TVシリーズ劇場版は、第5シーズンと第6シーズンの仲立ちをするつなぎのストーリーとして登場。TVシリーズと同じククリス・カーターが製作を手掛け、シリーズの鍵になるエピソードをいくつも手掛けたロブ・ボーマンが監督を務めている。

シリーズ中で展開されている、「本筋」に当たる作品。謎のウィルス・怪しい人々・陰謀・砂漠の真中の奇怪な設備・宇宙人・地下の宇宙船。スカリーのキャリアと命と両方が危機にさらされ、謎はすべてが明らかになることなく、チラ見せで物語の幕が閉じる。まあ、翌シーズンにむけた壮大な宣伝といってよい。

とはいっても、TVでは予算がつかないスケールの大きい撮影が行われたことも含めてファンにとっては楽しみの多い一本ではある。陰鬱な雰囲気と世界観のなか、ちょっとしたユーモアやサービス精神のある遊びを入れる余裕を失っていない。しかし逆の味方をすれば、それだけの映画でもある。

もちろん、一応シリーズを見ていなくてもついていける程度の話の枠組みはある。しかし、まだ数年はシリーズが継続予定とあって、振られた謎が何一つとしてカタルシスのある結末を迎えないので、独立した映画としてみるなら必ず欲求不満が残るはず。なにせ、作りが「連続ものの1エピソード」なのだから仕方ない。それに、スクリーンはでかくなっても、どこかコマーシャルのタイミングを計ったようなテレビ的演出が気になったりもする。15分おきくらいにタイトルが流れ、CMが入っても違和感がない。せっかくカネがかかっているというのに、意外なほどにスケール感の感じられない撮影も、なんだかTVっぽい。

月並みだが、これならば2時間スペシャルでいいんじゃないの、と感じるのは私がXファイルの熱心なファンではないせいだろうな、と少し寂しく思ったりもした。

6/02/1998

Godzilla (U.S.)

GODZILLA ゴジラ(☆)

南太平洋で日本の漁船を襲った謎の巨大生物は、フランスの核実験で放射能を浴びて異常な進化を遂げた巨大な爬虫類であった。繁殖のため地球をどっちに回ったのか知らないがわざわざNYに上陸した怪物は米軍とチェイスを繰り広げながら街を破壊、マジソンスクエアガーデンに無数の卵を産みつける。

東宝から権利を買ったソニー・ピクチャーズが製作・監督に『インディペンデンス・デイ(ID4)』のコンビ、ディーン・デブリンとローランド・エメリッヒを起用して製作した米国版ゴジラ。音楽のデイヴィッド・アーノルドも「ID4」組である。出演はマシュー・ブロデリック、ジャン・レノら。

予測はできたことであるが、これが全くIQの低いガサツな作品なのである。別に日本のゴジラに思い入れもないので、<大イグアナNYに現る>だと思って観ていたのだが、この幼稚さ、低脳さ加減は並みじゃない。

まず怪物に魅力がない。「大怪獣が街を破壊する映画」を期待すると、「大イグアナを追いかけて、はずしたミサイルで人間が街を破壊してまわる映画」だったりするのも問題だが、なんといってもこのクリーチャーの、デザインのみならず、動きにすら全く愛敬がないのは致命的である。生物的にしたかったというが、人間の妊娠検査薬で繁殖期だと分かることが「生物的」なのではない。作り手に、この怪物に対する愛情が欠落しているのが一目瞭然である。

では人間さまの方はどうかというと、どいつもこいつも食われて死んでもらって構わないと感じるほど魅力に欠けるキャラクターばかりだ。口にする台詞ときたら幼稚園の学芸会。中学生でも書きそうなダイアローグ。囮につかう魚の山を見て"A lot of fish."というマシュー・ブロデリック。カットの切り替えに当たる演出の間は明らかに笑いを狙っているのだが、こんな台詞をきかされてどう反応したら良いのか。こんな役を演じるブロデリック自身が間抜けに見えてくるのが悲しい。

『ジュラシック・パーク』もどきだといわれることを承知で持ってきたにちがいない後半の見せ場だが、このあたりも観客が期待したはずの「怪獣映画」から完全に逸脱しており、敢えてモドキをやる意味がわからない。ID4で馬鹿にされた憂さ晴らしをしたいのか、有名な映画評論家(シスケル&エバート)に似たキャラクターを出してくるあたりの幼稚な負け惜しみ。

オープニングのシークエンスと、うなされた日本の漁師が巨大イグアナをゴジラと呼んだことからゴジラという名前になってしまうエピソードは素直に面白かったが、それ以外は全く見るべきところのない作品である。これならば、以前、ゴジラを撮ると噂されたが予算の折り合いがつかず降板したヤン・デボンが撮った『ツイスター』の方が、まだ怪獣映画の変種として面白い(というか、わりと好き)。(1998/6)

6/01/1998

The Truman Show

トゥルーマン・ショー(☆☆☆☆)

トゥルーマンは、典型的な小市民。しかし、彼の生活には普通の生活とは全く異なる点があった。生まれて以来30年の私生活のすべてはカメラによって極秘裏に撮影され、24時間ノンストップのライヴショーとして世界中の茶の間に今日も届けられているのだ。 人気コメディアンのジム・キャリーが主演。『刑事ジョン・ブック』や『いまを生きる』のピーター・ウィアーが久々に監督を手掛けた作品である。脚本は『ガタカ』のアンドリュー・ニコル。

完璧にコントロールされた巨大なスタジオという隔離世界、作為的に作られた主人公の過去、性癖。世界中の人々にとってはこの30年、何も知らないトゥルーマンの一挙一動が関心事。囚われの身である彼に真実を伝え開放しようと活動する人々・・そんな超現実的プロットはまるで『トワイライト・ゾーン』かなにかの一挿話が大掛かりになった印象。

事実、いつもの能天気なジム・キャリー映画を期待した観客は、大きなショックを受けることだろう。ナンセンスといってもかまわない設定。プロットだけを聞くと馬鹿げたドタバタ作品とも受け取れる。ところが、映画は予期せぬ展開を見せ、笑いが肌寒さに、陽気さが痛々しさに転化していく。そして、最後には予期せぬ感動の高みに観客を誘う。これは、単なるマスコミ批判とかいったレベルの作品ではない。

映画の中の悪役は番組のプロデューサーだが、これが単なる悪役に留まっていない。生まれたばかりから30年間にわたって主人公の世界を創り上げ、彼の生活を見つめつづけてきた神、そして、無二の父親。その名も「クリストフ」。彼の、彼なりにスジの通った倫理観と、主人公に対する愛情。それが単なる「メディアという巨大な権力の陰謀もの」とは異なるテイストを作品に与えている。これを演じているのが名優、エド・ハリス。会心の演技だ。

事前の宣伝で「すべてネタばれ」という状態から出発したこの作品は、サスペンスと衝撃を捨てて「神と人生」テーマに力技で持っていく。自分の信じていた世界がちゃちなつくりものに過ぎないことを悟った主人公の切なさを、ゴムの顔を持つ男が絶妙の表情で見せた。この世界を脱出して、その先に何があるかも分からない。しかし主人公は父親の庇護の下を離れ、自らの道を歩もうとする。あえてその先を観客の想像に委ねた演出は、意地悪くもあり、思いやりに満ちてもいる。想像を絶する傑作を手にしたジム・キャリーの今後のキャリアが非常に楽しみになった。 (1998/6)