12/25/2008

The Day the Earth Stood Still

地球が静止する日(☆☆☆)


アイディア枯渇のハリウッド。ロバート・ワイズ監督の1951年作『地球の静止する日(The Day the Earth Stood Still)』のリメイク作、スコット・デリクソン監督。ただ、なんでもかんでもリメイクすればいいものではない、ということは分かっていたのだろう、東西冷戦下の核の恐怖を背景としたオリジナルから、非常に今日的な(つまるところ、流行であるところの)環境というテーマをつむぎだして見せた企画は悪くない。出演はキアヌ・リーブス、ジェニファー・コネリー、ジェイデン・スミス、キャシー・ベイツ、ジョン・クリース。

おそらく、8年間続いたジョージ・W&共和党政権路線に対するあからさまな論評を含むリアルタイムの大作娯楽映画という意味では、タイミング的にも末尾を飾る1本になるのではないか。宇宙からやってきた使者との対話を拒み、他国との協調を選ばず、情報を隠蔽し、自らの思い込みで判断を下し、無謀な攻撃を繰り返す。大統領こそ顔をみせないが、大統領の名代として最前線にたつ、キャシー・ベイツ演ずるキャラクターの振りかざすロジックはまさにここ何年かの米国のありかたそのものであって、それがいかに理性に欠けたナンセンスなものか、SFi 的なシチュエーションのなかで戯画化されることにより、あまりにも明白に浮き彫りにされる。

スコット・デリクソンの演出にはいわゆる「風刺」的な喜劇調が入り込む余地がないが、このパート、もはや、意図せずして喜劇となっているといってよいのではないか。そして、その決着のつけ方が寂しい。国家権力装置の部品として機能せざるを得ない立場のキャシー・ベイツが、個人的な判断により主人公であるジェニファー・コネリーと、宇宙人キアヌ・リーブスの逃亡を見てみぬふりをするという展開なのだが、これ、つまりは、システムは硬直的で変わらないが僅かに個人の良識と良心に希望を託したということだ。間違っていると分かっていても正すことができないという無力感はいったいなんなのだろう。非常時に無能な大統領を拘束してまともな判断のできる人間と置き換える、などということを、米国の映画やドラマは数限りなく行ってきたような印象をもっているのだが、本作にみる諦観は心を寒くさせるに十分である。この何年かの米国では、個人の良識すらも踏みにじられ、押し殺されてきたということを意味してはいまいか。

風刺といえば、ジェニファー・コネリーがキアヌを連れて行く人類最高の知性(の一人)のキャスティングは面白い。キアヌと対話をすべき人物が「政治的な指導者」たちではなく「科学者」である、ということ自体はそもそも脚本が意図する洞察であり、それ自体が文明批評であるが、人類の命運をジョン・クリースが握るというのを、あほらしいとみるか、皮肉と受け取るかによっても本作の評価は分かれるだろう。人類最高の英知はモンティ・パイソンにあり、というのを、私は笑えるジョークだと受け取った。なにしろ、そのほうが面白いからだ。しかし、この映画の演出はあくまで真面目が本分なので、何も知らない観客が観ればなにもなく通り過ぎてしまう。意図してのことか意図せずしてなのか、映画を見る限りは正直なところ判断ができない。

今回の脚本はあちこちで舌足らずであり、ほころびがあるから、脳内で補完する必要がある。作り手の意図が真摯なのは伝わってくるから、こちらも好意的に補完しようとするのだが、しかしそれにしてもキアヌ・リーブス演ずる「クラトゥ」の行動や言動の支離滅裂感は拭えない。映画は物語の鍵を握るひとりである (はずの)少年の関連に随分の時間を割いているのだが、これがうまく機能しさえすればもう少し「クラトゥ」が判断を変えるに至る思考を明確に描くことができたのではないだろうか。少年を演じるジェイデン・スミス、このガキ、小さいのに父親であるウィル・スミスゆずりの鬱陶しさ(俺様演技)で、こんなんを天才子役などと持ち上げてほしくないものだ。3回くらい絞め殺してやろうかと思ったぜ。

K-20: Legend of the Mask

K-20 怪人二十面相・伝(☆☆☆)


ソビエト連邦の原子力潜水艦の艦長を何故かハリソン・フォードが演じている興行的失敗作『K-19』の続編、じゃないよね。ごめん、どうしても云ってみたかっただけ。なんなんだよ、このタイトル!

北村想の小説『完全版 怪人二十面相・伝』を原作として、佐藤嗣麻子が脚色・監督した「お正月映画」がこの『K-20 怪人二十面相・伝』である。この映画、ROBOTが製作で、VFXに白組が参加し、映画『ALWAYS 三丁目の夕日』らが担当して架空の「帝都」を作り上げているのが呼び物になっている。出演は金城武、松たか子、仲村トオルらで、日本の観客に迎合した感はないが、万が一のときにアジア圏で商売できそうな顔ぶれかもしれない。

この『K-20』、当方の気持ちとしては応援したい映画なのである。ともかく、安易なディザスター映画や難病お涙頂戴や犬猫動物ものや空疎なケータイ小説ものでなく、ましてやヒット・ドラマの映画化でなく、陽性で楽しい軽いノリのエンターテインメント作品であるということ。物語を語る前に、その物語が展開される世界から構築して見せようという(金がかかるので実写の邦画ではなかなかお目にかからない珍しい)アプローチ、(映画好きには『プレステージ』で御馴染みの変人発明家)ニコラス・テスラが発明したという触れ込みの発電装置に代表されるこだわりのプロダクション・デザインなど、映画全体から観客を喜ばせ、楽しませるために真剣につくろうという気概が感じられること、それを、非常に好ましいことと感じるのだ。すごく頑張っているんじゃないかと思うのである。こういう映画が日本でも沢山作られるようになれば嬉しいなぁ、という願望も込めて、作り手に敬意を評したい。

しかし、残念ながらその結果、出来栄えそのものについては手放しで褒められない。だいたい、金城武の日本語演技はいつものとおりで台詞回しがモゴモゴしてピリッとしないし、松たか子のコメディ演技はどこかしら野暮ったく重たい。(「良家の子女」を彼女の口から繰り返し云わせるのは、まあ、悪意のない中途半端なギャグとして苦笑交じりに許容することとしよう。)パラレルワールドの架空の「帝都」をでっち上げるための方便も詰めが甘く、どういう世界観、どういう歴史の上に成り立った世界なのか、よくわからない。いっそのこと、何の説明もせず、見たとおりの世界ですよ、とやってしまう勇気が必要だったのではないか。それは、「アニメ」や「マンガ」では誰もが平気でやっていることだ。また、広げた風呂敷のスケールと、実際に展開される物語の小ぢんまりした感じ、すなわち、見終わったときの「大作感」の欠如も、ちょっと惜しい感じだ。

あと、昔の宮崎アニメへのオマージュというか、まあ、なんだかそれで画面と物語が埋め尽くされている感じも気になるのである。それは、本作にも参加(脚本&VFX)している山崎貴の『ジュブナイル』が、藤子F(の大長編ドラえもん)で埋め尽くされていたのと同じ意味合いで、楽しくもあり、ちょっと困ってしまいもするのである。結局、元祖であるところの「彼」を超えられないんだよね、ということの再確認でもあるからだ。だったら、BDで発売されたばかりの『カリオストロの城』でも買って帰るか、というはなしなんだよね。

いろんな不満はないわけではないが、それにしても、冒頭のワンカットで見せ付けられる帝都のビジュアルは、観客をその気にさせるに十分な出来栄えである。レトロな都心の町並みと、周辺部のインダストリアルな工場群、さらにその足元に広がるバラック立ての貧民窟という都市構造と社会階層構造、戦前からの意匠的な連続性・一貫性を持たせた建物やメカ類のデザイン、アニメーションでは時折みかけるレトロフューチャーな架空世界を実写(風)に表現して、それこそ『ALWAYS 三丁目の夕日』でやってみせたことのリプライズとして、自信を持って「世界」から物語に導入する演出は堂々たるものだ。

まあ、「敬意」を評して甘めに☆☆☆を進呈し、これからもこの種の映画の系譜が途絶えたりしないよう、作り手の意欲が損なわれないよう、観客が劇場に足を運んでくれてそこそこのヒットになることを心から祈っている。贅沢言わなけりゃ、全国公開の正月映画の中では面白いほうだと思うんだけどね。『WALL*E』を別格にして。

12/22/2008

El Orfanato (The Orphanage)

永遠の子供たち (☆☆☆☆★)


最高、最怖、最良の、母子愛をテーマにした2007年のスペイン製怪談話。原題はEL ORFANATO(孤児院)。あえて「感動篇」とのミスリーディングをじさない予告編で騙されて劇場にやってきた女子供が震え上がって小便漏らしても、本当、知らないから。

そうはいっても、この映画、ある種の深い感動と余韻が残ることは宣伝通り保証するので、騙されて見に行くのが吉である。いろいろなソースから、概ねそういう話だろうな、と内容の想像がついていた当方でも相当怖かったので、ある程度の心構えは必要だろう。「だーるまさんがこーろんだ」って、誰もいないはずのところでやっていて、何度目かに振り返ると、そこに突如、どこからともなく現れた子供たちが何人もつっ立っていたら・・・ぎゃー。絶対そうなるって思って身構えていたけど怖いよっ!ひぃーっ。誰か助けてー!・・・真冬でなくて真夏に公開してほしかった季節はずれ(?)の傑作だ。新人ファン・アントニオ・バヨナ協同脚本・監督。オリジナルの脚本(セルジオ・G・サンチェス)を面白がったギレルモ・デルトロがプロデュースしている。

孤児院育ちの女性が家族を伴い、かつて自らが過ごした孤児院の建物に越してきて、夫婦でささやかな孤児院を開設したいらしい。なんだか難病にかかっているらしい息子はこの屋敷に越してきてからというもの、想像上の友達たちと遊ぶのに忙しい。ある日、その息子が忽然と姿を消す。いったい何が起こったのか?・・・それが物語の発端である。

「イマジナリー・フレンド(想像上の友達)」ネタは、SF、ファンタジー、サスペンスから普通のドラマまでいろいろな題材で使われるが、大人が「想像上の友達」だと思っていた存在は、実際に存在していました!というのが「ジャンルもの」の映画における常識であろう。その正体が二重人格だったらサスペンスになるだろうし、宇宙人だったら侵略SFかファンタジーだ。絶対どこかで見たことあるでしょう、そういうの。

で、霊魂だったら?

それはホラーだね。どんな詭弁を弄したところで。

だから、しつこいようだけれども、これを感動的で泣けるファンタジーですよ、というのは間違っていて、感動的で泣けるかもしれないけど、背筋が寒くなる怪談話ですよ、格調高い傑作ホラーですよ、というべきなんだと思う。まあ、そういってしまうと入る客も入らなくなるんだろうけど。

そんなことはさておき、この映画の成功は、なによりも巧妙に張り巡らされた伏線が最後にきれいに収束する完成度の高い脚本によるところが大きい。デルトロから送られてきた脚本を、もともとの作者と一緒に1年間練り直したというだけあって、母子愛と、大人になれず子供のころの記憶にとらわれている主人公の心の旅路を物語の縦糸に、物語のディテールを横糸に、小さなエピソードを無駄なく積み上げて完璧な仕上がりといえる。ある意味で残酷な結末は現世のみにこだわる立場からは最悪のバッドエンドであるが、冷静に、違った観点から見れば邦題『永遠の子供たち』も「なるほど」と納得の、背筋が震えながらも希望の感じられるハッピーエンドということが理解できる、余韻の残る見事な着地である。

また、これをきっちり演出できる腕前の確かさも新人離れしたものだ。もちろん、自信たっぷりの落ち着いた語り口には舌を巻くのだが、面白いのはデルトロの『パンズ・ラビリンス』にも共通する匂い、おそらく、(勝手に想像するに)スペインという土地柄や歴史に起因するある種の後ろ暗さ、闇の手触りのようなものを感じさせるところだ。これが映画の独特の魅力になっていて、案外見逃せない。そんな空気感(とでもいうべきもの)は恐怖を生み出す源になっているが、同時に、現実世界の隣に確かに存在するであろう、(死者や残存思念を含む)異形のものたちの世界との境界線を曖昧にするものでもある。冒頭でも触れた「だるまさんがこーろんだ」は、そういうこの世とあの世が交差する瞬間を、VFXに頼らず、戦慄の中に捉えて見せた名シーンとなった。誰もが考えそうなシチュエーションだが、ここにいたる主人公の感情の高ぶりを前振りに、ライティングからじらし方、編集にいたるまでがこれ以上にない、完璧な瞬間をスクリーンに現出させる。この映画には、まるで悪夢を見ているかのような、現実とファンタジー世界の接点をすくいあげるかのような数々のシーンに溢れている。それらは、ときにスリリングなサスペンスを生み出し、ときにジメッとした不可解な恐怖を生み、ときに美しくも哀しいさだめをも描き出す。

バヨナという監督はインタビューの中でこの映画とスピルバーグの『未知との遭遇』との共通点を「大人になれない子供」という観点で語っているのだが、正直、それは「?」といったところだ。もしかしたら、ピンとはずれなことをいうインタビュアーをはぐらかしたのかもしれない。個人的には途中で霊媒師が出てきて物語が大きく動き始める展開に、同じスピルバーグでもトビー・フーパー名義の傑作『ポルターガイスト』を思い出し、米国製娯楽映画の血筋もしっかりと受け継いでいるあたりに、この映画の別の意味での強さも見て取った。怪談話、という表現を好んで使ってきたが、この映画の世界には日本のウェットな怪談に通じるものを感じ、「ホラー」というあっけらかんとした表現よりも似合うと思うゆえのことである。その流れでいえば、本作には和製怪談話の情緒と、米国製娯楽ホラーの文法を併せ持っているわけで、その怖さ、面白さも納得するほかあるまい。

Body of Lies

ワールド・オブ・ライズ(☆☆☆★)


レオナルド・ディカプリオにとっては『ブラッド・ダイヤモンド』に続く「社会派娯楽アクション大作」路線の第2弾、リドリー・スコットにとっては『ブラックホーク・ダウン』、『キングダム・オブ・ヘヴン』に続く「文明の衝突」シリーズ(?)第3弾、か。イスラム過激派組織の自爆テロを押さえ込むために、テロ組織の首謀者の手がかりを追う主人公・CIA現地工作員(レオナルド・ディカプリオ)が、本部のあるラングレーでスパイ衛星の映像を見て衛星電話で勝手な指示を出したり、隠密裏に作戦を発動させたりするCIAの中東局長(ラッセル・クロウ)のせいで右往左往させられ、酷い目に合う。「実録・スパイはつらいよ」だな。打ち手のなくなったCIAは、主人公の発案により、本物のテロ組織を炙り出すために、架空のテロ組織とテロ事件をでっちあげるという大胆かつ巧妙な自作自演作戦を決行する。

CIAといえばその胡散臭いイメージはおなじみだが、おそらく、近年の娯楽映画の中でこれほどCIAが間抜けに見えたのも珍しいのではないか。ラッセル・クロウ演ずる主人公の上司が取り立てて間抜けというのではなく、一応は百戦錬磨の曲者であり、鼻持ちならないとはいえ切れ者であるはず。そんな人物の判断や行動が、結果として現場を混乱させ、任務の遂行を困難にもする。この映画では、こういうちぐはぐの背景に現地カルチャーに対する米国の無理解と米国的手法(ひいては米国的な価値観)に対する過信があることを、現地の言葉を自在に操り、現地のカルチャーに溶け込もうとする現場工作員たる主人公との対比において描き出していく。そう、自分たちこそが世界の中心で、自分たちは全てお見通しで、自分たちが一番賢いという米国の思い上がりだ。(思えば、そういう「思い上がり」の幻想を砕かれて混乱に陥った様を描いたのが『ブラックホーク・ダウン』だ。)これは、ジョージW・ブッシュがどうの、共和党がどうのといったレベルの話ではないので、本作が米国で受けが悪いのも納得がいく。

では、主人公である現場の工作員は異文化に理解を示すわれらがヒーローなのか、というと、それも違う。レオナルド・ディカプリオをここにキャスティングしている意図は、彼の理想主義的で青臭いイメージをこのキャラクターに被らせることにあるだろう。彼は分かったつもりでいる。現実が見えているつもりでいる。しかし、彼は若く、底が浅く、ナイーヴである。緊迫した情勢のなかでの現地人との恋愛ごっこに興じるあたりが典型だ。それゆえの罰であるとまでは言わないが、ディカプリオは劇中でさんざん肉体を傷つけ痛めつけられる。犬にかまれ、同僚の骨の破片が食い込み、捕らえられ、指をつぶされ、拷問を受ける。

この物語で本当に「大人」なのは誰か。それは、主人公が協力を願い出るヨルダン情報局のトップ(マーク・ストロングが役得の好演)である。これは、本作と同じリドリー・スコット&ウィリアム・モナハン脚本による『キングダム・オブ・ヘヴン』において、清濁併せ呑む懐の深さと静かで洗練されたリーダーとしてイスラム世界の長・サラディンを描いていたのに呼応するものだと考えられよう。CIAと手を組み、原理主義テロリストの掃討作戦にも協力をするが、独自の行動規範や手法、情報網を駆使し、彼を欺こうとするものの常に一歩、二歩先にいるのが、このマーク・ストロング演じるキャラクターである。西欧社会との接点であり協力者であるが、簡単に利用される男ではない。ミクロにおいて全てを手玉に取りながら、マクロにおける互いの世界の最大利益を考えることのできる男なのである。

この映画は興味深い様々な要素をありったけつめこんで見せるために、アベレージのハリウッド娯楽映画に比べるとストーリー・ラインが必要以上に複雑に感じられ、うまく整理がついていないように感じられる。複雑な世界情勢を単純な娯楽映画のフォーマットに流し込む過程で、どちらも立たず中途半端になったきらいもある。フォーミュラのはっきりした娯楽映画に振るならば、スコット(兄)よりもスコット(弟)のほうがうまく手綱をさばいて見せただろう。しかし、善悪のはっきりしない混沌の中にエンターテインメントを見出すことができれば、これは意外に見応えがあり、示唆に飛んだ作品だといえる。

12/16/2008

Che (Part-I / Part-II)

チェ 28歳の革命(☆☆☆)
チェ 39歳別れの手紙(☆☆☆☆)

1本の映画として(☆☆☆★)

監督であるスティーヴン・ソダーバーグが、歴史的事実にこだわって作ったと語る、7年越しの企画、『CHE』。アカデミー賞を賑わせた『トラフィック』でコンビを組んだベニシオ・デルトロを主演(Executive producer兼任)にした、合計4時間半、6000万ドルをかけた(当たり前というべきか、驚くべきことに、というべきか)全編スペイン語による大作だ。完成に至るまでには自らが製作に回り、テレンス・マリックを監督に起用する話もあったようだが、結局、当初の予定通りにソダーバーグ監督の手で完成した。(白状しておくと、ソダーバーグは苦手だが、マリックはもっと苦手だ。)

映画は、カストロの誘いにのったチェ・ゲバラがキューバに上陸し、ゲリラを組織しながら革命戦争を戦い抜くまでを描く第1部(Che: Part-I 『28歳の革命』)と、彼がキューバを去り、変装して入国したボリビアでゲリラ戦を戦うも、ボリビア共産党や民衆を味方につけることができず、CIAの強力な支援を得た政府軍によって追い詰められ、殺害されるまでを描いた第2部(Che: Part-II 『39歳別れの手紙』)にわかれている。それぞれ135分の長さにきっちり等分されているが、フラッシュバックを使って革命戦争後のインタビューや国連演説を挿入するシネマスコープ・サイズの第1部、淡々とリニアな時間軸で描いていくビスタ・サイズの第2部と、スタイルや画面サイズが変化するという、ソダーバーグらしい変則技が用いられているのが興味深い。そして、少なくとも日本においては、これらが2本の映画(2部作)として、1本ずつ、時期をずらして連続でロードショーされることになる。

2本にわかれているとはいえ、しかし、観終わった印象としては、やはり、これは1本の映画なのだ、ということに尽きる。第1部において挿入された国連での演説シーンや、米国、南米各国とのやりとりは、第2部への伏線と動機を与えるものになっていること、第1部での成功と、第2部での失敗が常に対比されるように描かれていることがあり、2本の映画として時間を置いてみるよりは、1本の映画として続けてみるほうがドラマティックな効果をもたらすのは明白だと思う。(実際に、作り手もそもそも1本の映画として鑑賞してもらうことを意図した旨は語っている。)ただ、4時間半はあまりに長い。第1部、第2部それぞれを30分ずつ摘み、合計3時間の映画として公開したらどうなのか、などと思ってしまう。もちろん、題材に思い入れのある作り手としては、もうこれ以上切る場所がないと思っているのだろうし、「これ以上切るなら縦に切れ」ではないが、丁度、内容的にもスタイル的にも変化のある真ん中で切って2部作とすることを選択したわけだろう。それはBDなりDVDなりの完全版でどうぞ、というアプローチがあっても良かったのではないか。

全体を通した共通するスタイルは、対象にぐんぐん肉薄していくと同時に、説明的な表現は最小限に留めた(監督得意の)ドキュメント・タッチである。第1部では、そこに白黒のフラッシュバックで、革命戦争後、国連演説のために米国を訪れた際に行われたと思われる米国人レポーターによるインタビューと、国連での演説がかぶさることで、チェの考え方や意図が本人の口から説明されるという体裁をとっている。ここではさまれるインタビューにおいて、過去の出来事についての質問にチェが答えているのだが、実際に画面に映し出された(映画の中での)真実と、彼が後に語っていることのあいだにある微妙な温度差や距離というのがスリリングであり、映画のアクセントとなっているのが面白い。また、第2部においては、兵士の士気、軍隊の規律、農民との関係や共闘、「外国人」としてのチェの立ち位置など、キューバ革命戦争時との違い、歯車の狂いがひとつひとつ対称的に描写されていくにつけ、悲痛なほどの重苦しさが画面に充満してくる。ここは、理想を掲げて革命軍の指導にあたりながら、八方塞のなかで敗走を繰り返し、死にいたるという典型的な敗北の美学、ドラマがあるのだが、映画はそれを静かに、抑制の効いたタッチで、あくまで客観的に、淡々と描いていく。ここは、第1部で描かれたキューバ革命戦争や、そこでのチェを対比において、観客が脳内でチェの主観的な世界を補完していかなくてはならない。映画がそこに立ち入り、作り手の解釈を押し付けるのを避けたのは、題材ゆえに適切で冷静な判断であったと考える。

出演者の中に、あらおなつかしやルー・ダイヤモンド・フィリップスがいたり、マット・デイモン&フランカ・ポテンテの『ボーン』な2人がいたりするのを見つけてニヤニヤしてしまった。いや、あまりにも知らない顔ばかりの映画で、知ってる顔に出会うと、ほっとするんだよね。やっぱり。

12/06/2008

WALL*E

ウォーリー(☆☆☆☆★)

ホリデイシーズンを当て込んで発売され、届いてしまった北米版BDの誘惑に負けまいと、封を切らずにじっと耐えること数日。公開2日目の土曜日に劇場に馳せ参じた次第、これが期待に違わぬ「映画」であった。日本公開をかくも遅らせ映画好きをいらいらさせた以上は、きっちりヒットを飛ばして多くの観客が劇場で作品を楽しめるようにするのが配給会社の責務といえよう。

しかし、まさに「映画」、なのである。このルックス、このフィール。ことにほとんど台詞抜きで進行する映画の前半は、話には聞いていたとはいえ実際に目にすると見ているこちらまで言葉を失ってしまう完成度だ。廃棄物の山で摩天楼が築かれた廃墟の未来世界の圧倒的な説得力。そこでひとり黙々と「任務」をこなす(『E.T.』や『ショート・サーキット』の"ジョニー"こと"No.5"に似た)Wall*E の健気さ、孤独、そしてささやかな楽しみを動きや音で表現しきる演出力。さまざまなアイディア。ただのCG映像ではない。単に緻密なだけではない。映画としてどのように見せるべきか、どう語るべきか、何を語るべきか、検討しつくされた成果がそこにある。

Pixar の作品はいつでもいわゆる「アニメーション」作品であるまえに、「映画」として成立している。脚本を練りこむのに相当の時間とエネルギーを注ぎ込んでいることはよく知られたはなしだが、本作では実写映画の世界ではその名の知れた(コーエン兄弟の諸作品などを手がけている)撮影監督ロジャー・ディーキンスや、特撮のデニス・ミューレンをアドバイザーとして招き、実寸の模型を作り、照明のあてかたやレンズの選択による見え方の違い、「特撮要素」の効果的な見せ方に至るまで研究しつくし、検討しつくし、それを作品に反映させてきているという。先に、「単に緻密なだけではない」と書いたが、CGが精緻だから実写に見えるのではない、実写映画だったらどう見えるか、どう見せるかを精緻に再現しているから実写に見えるのだ。これには舌を巻くしかあるまい。2Dのトラディショナルな技法から3DCGアニメーションへと技術が革新された以上は、それに見合った新しい製作プロセスや考え方が必要だということを、誰よりも良く理解し、実践しているのがPixar だといえる。それは、他の追随を許さない作品の質において実証されている。

ストーリー面では、宇宙船内でのアドベンチャーに転ずる後半が評価の分かれ目であろうか。前半ほどのオリジナリティを獲得できていないとはいえ、どうしても突出しがちなSF的アイディアやメッセージ性を出来るだけ抑え込みつつ、昔ながらのスラップスティック的アニメの楽しさを職人的に再現してみせ、なかなか楽しい出来栄えではあるが、これを凡庸と感じる向きもあろう。Wall*Eと(西原理恵子の「いけちゃん」似な)EVEのラブ・ストーリーから逸脱しない筋の通し方も見事なら、反乱を起こすマシーン・AUTOの意匠的なオマージュにとどまるかと思われた『2001年宇宙の旅』が、突如、あの音楽が、あの瞬間に、人類の「進化」の象徴として鳴り響くという見事なアイディアには心から感服させられた。そして楽観的といわれようがなんといわれようが、この希望に満ちた結末は、こんなご時勢だからこそ感動的だといえるのではないか。それに続いてのエンドクレジットもまた、その後の物語、人類の進化というモチーフを補完する役割を果たしており秀逸だ。