10/30/2011

ツレがうつになりまして。

ツレがうつになりまして。(☆☆☆★)


同名のコミック・エッセイが話題を呼んでいたことも、NHKでドラマをやっていたことも知っている。が、原作は読んでいないし、ドラマも(全部ちゃんとは)見ていない。が、宮崎あおいと堺雅人が主演の映画になると聞いて、これはぜひ見たいと思い、遅ればせながら劇場に足を運んだ。ということで、原作と比べて云々、ドラマと比べてどうこういうことはできない。もっというと、佐々部清監督の作品を見るのも初めてのような気がする。

これは、少しばかりの啓蒙効果はあるのかもしれないが、鬱病治療のマニュアルのような内容ではない。仕事のストレスをきっかけに鬱病となった夫と、あまり売れていない漫画家の妻が、夫の病をきっかけとして、現実に向き合っていく物語である。

丁寧に作られた良い映画である、と思う。話運びも、見せ方もいい。舞台となる一軒家、近所の風景なども、少し現実の時空間から外れていて、しかし、どことなくほっとする世界だ。そして、なによりも主演の二人が、その実力に違わない好演である。しかも、スクリーン上での相性がいい。いつまでも眺めていたい気分になる、お似合いのカップルである。そして、本当は重い題材のはずなのだが、軽やかで、温かい。

だが、この映画、どう考えても幕引きの場所を間違えた。いろいろ考えた末だとは思うが、思い切りが悪い感じで、かなり惜しい。

終盤、幕の引きどころが幾度となく訪れる。最初の候補は、「結婚同窓会」のくだりだろう。この夫婦はカトリックの教会で結婚式を挙げたようである。同時期に結婚したカップルたちを集めて結婚に対する心構えなどを説く教室でも開いていたのだろう。その延長線上で毎年「同窓会」を開いているのである。そこに参加した主人公夫婦のスピーチは映画のテーマそのものを語っていて、エモーショナルなピーク・ポイントにもなっている。そこで映画を終わっていたとしても全く不思議ではないし、座りも良かったのではないかと思う。

次の候補は、夫婦が庭で会話をするシーンである。妻が、自分が書きたいことをマンガに書けばいいと、そして書きたい題材(つまりは、夫婦の闘病生活)が見つかったと語る場面で、CGIを使って妻の描いたイラストが画面いっぱいに広がるファンタジックなシーンだ。この映画の原作がそうやって描き上げられたコミック・エッセイであることを思えば、先の「同窓会」の後、エピローグ的にここまで引っ張ってから終わるのもスッキリした構成に思える。個人的には、ここで映画を終わらすアイディアが一押しである。。

実際の映画は、これに引き続き、妻の描いたコミック・エッセイが評判を呼んだこと、夫が妻のマネジメントの名目で会社を作ったことなどに触れたあと、夫が乞われて講演会の演台に立つエピソードが描かれる。ここは、もう、本当にバッサリ切ってしかるべき蛇足である。ハッピーエンドらしく、鬱病が回復に向かっているというトーンを出したかったのかもしれないが、そもそもそんなに短期間で治る病気でもあるまい。会場に元上司やらクレーマーやらを大集合させて結論めいたオチをつけたかったのかもしれないが、不自然極まりない。どうしても「その後」的なフォローアップをしたいというのなら、アメグラ方式というのか、ストップ・モーションにテロップで十分だったと思うんだよね。

Cowboys & Aliens

カウボーイ&エイリアン(☆☆★)


西部劇とSF 、一見ミスマッチな2大ジャンルをクロスオーバーさせたコミック原作ものである。タイトルで想像されるほどにはフザケてもいないし、弾けてもいない。もう少しユーモアがあるほうが個人的には好みだが、予想外に直球を投げ込んできた感じである。

ゴールド・ラッシュの波が通り過ぎて寂れたとある西部の町が舞台になっている。ある日、突然現れた謎の飛行物体に攻撃を受け、幾人もの人々がどこかに拉致されていく。恐ろしい事件に遭遇した街の人々や流れ者の犯罪者、近隣の原住民たちは、立場を超えて一時的に団結し、資源の略奪と人類の殺戮を目的とする異星人たち立ち向かっていく、という話だ。

こういうたぐいの話では、ジャンルの衝突もさることながら、当然、「圧倒的なテクノロジーを持つ敵」と、「原始的な武器しか持たない人類」との対比が面白さの源泉である。常識的には圧倒的に不利な立場であるものたちが、「知恵」なり「勇気」なりを武器として相手の弱点(ここでは「光に弱い」ことなど)をついて戦い抜き、確立論をひっくり返すところにカタルシスがうまれる、それがエンターテインメントにおける王道というものだ。

しかし、この映画では、それができていないんだな。致命傷といっていい。死ぬほどたくさんクレジットされているストーリー&脚本担当者の誰の責任かは知らないが、これにOK出しちゃいかんよ。

敵に直接対抗できるのは、結局のところ、主役のダニエル・クレイグが腕に装着している敵由来の兵器だけなのである。あとは戦術もなにもない。ともかく力づくで戦うだけっていうのだから、これじゃあ、面白くなりようがない。相手が宇宙人でなくてもいいんじゃないのか、あるいは、西部劇でなくてもいいんじゃないか、という感想がよくきかれるが、でてくる理由は、そこにあるミスマッチ感やテクノロジー・ギャップを活かしたお話作りができていないからであろう。

敵は単なる資源泥棒で、資源を奪うためにはその星の住民を滅亡させることを厭わない、かなり単純な「絶対悪」として描かれている。終盤、主役に恨みを持つ個体が登場する場面を例外として、個性も何もない平板な描写。別に、敵が資源を略奪せざるを得ない哀しい事情を描けとは言わないが、もう少し興味を持てる描写があってもいいだろう。

それに比べると、人間側はわりと丁寧に描かれていて、中心的キャラクターのみならず、脇役にいたるまでキャラクターが立っている。このあたりは、j脚本だけでなく、これまでの作品でも見せてきたジョン・ファブローの演出による部分も大きいだろう。ハリソン・フォード扮する町の実力者が、ストーリーの進展と共にイメージが変わっていくところなどはなかなか見事なタッチで描かれていて、きちんと伝統的なドラマが成立しているのが泣かせる。ヒロインのオリビア・ワイルドが、『トロン・レガシー』のときの魅力はどこへやらといった感じで残念だった。

10/29/2011

Source Code

ミッション:8ミニッツ(☆☆☆★)


郊外からシカゴのユニオン駅に向かう通勤列車で爆破テロ事件が発生した。犯人は次なるターゲットとして市街地での大規模テロを画策しいているらしい、犯人につながる手がかりを見つけるため、主人公である陸軍大尉が意識だけ飛ばされるのは、事故の犠牲者の脳内に残された最後の8分間の記憶を元に再構築された世界である。分けも分からないまま、指示されるがまま、8分後に爆死することが確実な状況を何度も何度も繰り返すのだ。

騙し、騙される話ではないので、日本での宣伝文句通りに、「騙される」かどうかは別にして、確かに色々な映画を見てきていると、これまた『ふくろうの河』や『ジェイコブズ・ラダー』なんじゃあるまいな、などと、余計な想像をふくらませてしまうのもまた事実であろう。SF風のサスペンス・ミステリーとして幕を開ける本作は、しかし、そういう掟破りの方向には転がっていかない。

物語が進むに連れ、映画の中のルールが明らかになっていく。主人公の置かれた立場と、ミッションを可能にする仕組みについて曖昧なところを残したままではあるが、幾度かの試みを繰り返し、失敗を繰り返すうちに犯人の手がかりに迫っていく。しかし、同時に、主人公にとっての「現実」の持つ意味がだんだんと重くのしかかっていくようになる。

この映画の面白さは、そこに至るまでの手綱さばきが見事で、観客を飽きさせないところにもある。だがそれ以上に、主人公が自らに与えられた目的を超えて、自らの欲求を実現させようとする「ドラマ」にこそ、これを他にない、ユニークで感動的な要素があるのだ。死者の脳内に残された最後の記憶を超越して膨らんでいく、いってみれば、「もうひとつのリアリティ」、別の可能性に主人公が求める救いに、胸を打たれる。まあ、確かにそういう話になるとも思ってはいなかったから、嬉しい驚きだったといってもいい。

主演は、ジェイク・ギレンホール。思えばこの人は『ドニー・ダーコ』であり、『遠い空の向こうに』なのだった。不条理な世界に巻き込まれるのが似合うといったら失礼かもしれないが、それと同時に、物静かだが誠実な人柄と、少しばかりの狂気、諦めない勇気ある行動力。過去の作品からそういうイメージを引きずっている彼は、本作の主人公にぴたりとハマっている。ヒロインはミシェル・モナハン。いつも添え物的な扱いが多い彼女だが、今回はなかなかいい役柄だったのではないか。主人公をミッションに駆り立てる側に立つのがヴェラ・ファーミガとジェフリー・ライトだ。もちろん他にも登場人物はいるが、主要なのはこの4人で、比較的にこぢんまりした作りの映画ではある。

本作の監督は、かつて「ゾウイ」などと奇天烈な名(キラキラ・ネームの先駆けw)を付けられた、デイヴィッド・ボウイの息子、ダンカン・ジョーンズである。なかなか達者な腕前で、複雑なパズルのような作品を組み立ててみせる。評判を呼んでいた前作『月に囚われた男』は残念なことに見損なってしまっているのだが、次回作が楽しみな監督であるのは間違いない。本作の舞台をNYからシカゴに変えるという判断も良かった。NYじゃ、さすがにエンターテインメントとして楽しむには重すぎるよね。

Rango

ランゴ(☆☆☆☆)


ガラス・ケースで買われていたペットのカメレオンがラスベガス近郊の荒野に投げ出される。生来の演技好きを活かし、偶然も味方して最寄りの町の保安官の座に収まるのだが、水資源をめぐる陰謀に巻き込まれたことで、本物のヒーローとしての資質を問われることになる。

CGIアニメーションによるウェスタン・コメディである。従来はドリームワークス・アニメーション作品の配給だけを手がけていたパラマウントが自ら製作、監督は海賊トリロジーで一山当てた実写畑のゴア・バービンスキーで、実際のアニメーション製作の担当は、ILM(インダストリアル・ライト&マジック)という一風変わった布陣である。

結論だけ先にいえば、この映画、大変面白い。ヒロインに魅力があればもっと良かったとは思うが、少なくともゴア・バービンスキー監督の最高傑作に間違いない。マカロニからSFから近作にいたるまで、様々な映画の記憶をさらりと織りまぜつつ、一本筋の通った物語を語ってみせて、大人をこそ楽しませてくれる。

関西弁が出てくる変なヘンテコ字幕には閉口したが、オリジナル音声で広く公開してくれたことだけは評価したい。(ほんと、アニメになると、どれだけ有名な役者が声を演じていようが、なんでもかんでも吹替版ばかりになってしまう風潮には怒りを感じるよね。)

主人公のカメレオンをジョニー・デップが演じていることが喧伝されていたので、てっきりロバート・ゼメキスの諸作や、ゴラムや猿、アバターなどと同じく、「パフォーマンス・キャプチャー」方式で演技をコンピュータに取り込んだのだと思っていたが、それはどうやら間違っていたようだ。舞台裏を見ると、衣装や小道具を持った役者たちに演技をさせながら声を録って、その演技を参考にしながらアニメーション製作を行ったということのようだ。

そうはいっても、カメレオンの動きは確かにジョニー・デップそのものの演技のように見える。このさじ加減が実に面白い。この映画の製作プロセスのおかげで、実際の人間の演技に縛られてアニメーションとしての本来の面白さを失いがちな「パフォーマンス・キャプチャー式アニメーション映画」とは一線を画すことができたようだ。その一方で、役者たちの特徴的な動きや演技、感情を、アニメーターの解釈というフィルターを通してアニメーションに反映させることで、キャラクターに絶妙なかたちで「命」が吹きこまれている。そこには、アニメーションとしたの楽しさ、面白さがあるべき姿で息づいていると思う。

また、実写畑の監督によるアニメーションという意味では、近作にザック・スナイダーの『ガフールの伝説』があったが、本作のほうが「俳優たちの演技を演出」する余地が大きいんじゃないか。そうだとするなら、実写の監督がプロジェクトの指揮を執る意味も大きいような気がする。

主人公たるジョニー・デップばかりが話題になるが、ネッド・ビーティ演じる亀の「町長」も、ビル・ナイが演じるガラガラヘビも素晴らしい。特に蛇はリー・ヴァン・クリーフをイメージして創りだされたときくと、なるほどね、と思うが、尻尾がガトリング銃になっているというアニメ的な誇張が楽しく、ビル・ナイが特徴的かつ迫力満点のセリフ回しでこれを演じているから、もう最高だ。また、ティモシー・オリファントがワンシーン、ある人物のモノマネをやっているのだが、これも思わず本人?と思わせるほどの「聞き所」になっている。

数々の実写映画でVFXを担当してきたILMゆえに、背景等の作り込みは実写映画に近い写実的な雰囲気である。『WALL/E』、『ヒックとドラゴン』に続き、ヴィジュアル・コンサルタントとして実写のカメラマンであるロジャー・ディーキンスも参画しているから、画面の雰囲気や見せ方は、そういう意味でもアニメである前に「映画」である。そういう意味でもなかなかに見応えのある1本だといえるだろう。

10/23/2011

Rise of the Planet of Apes

猿の惑星 創世記(ジェネシス)(☆☆☆★)


もうね、猿、猿、猿なんだ。ゴールデンゲート・ブリッジでの攻防は、考えてみればスケールが大きいとはいいかねるんだけれども、大変に盛り上がるクライマックスではあった。上出来の娯楽映画。

『猿の惑星』の前日譚というか、『猿の惑星・征服』のリイマジネーション版というか、『猿の惑星』フランチャイズを、エピソード0からリブートする試みみたいなもの、といったところだろうか。過去の『猿の惑星』シリーズへのオマージュはあるが、直接の前編・続編ではなく、スタジオ介入とスケジュール&予算問題で当初構想通りに作ることができなかったティム・バートン版とも関係ない、新しいシリーズの開幕である。これ1本でも完結しているが、なにがしかの続編を作るだけのネタと伏線はいろいろあることだし、これだけヒットしたんだから、続きを作らないという手はないはずだ。

この企画が上手く入った理由の一つは、第1作のリメイクでもなく、直接の前編・続編でもなく、まるで「バットマン」や「スーパーマン」が違う作り手によって何度でも再生されるが如くのやり口で、現代を舞台に「フランチャイズ」としての新しい起点を打ち立てたことにあるだろう。もうひとつは、ロバート・ゼメキスやピーター・ジャクソン、ジェームズ・キャメロンらが取り組んできたパフォーマンス(エモーション)・キャプチャーとCGI 技術の成熟によって着ぐるみや特殊メイクでなく、ただのCGI アニメでもなく、猿に人間の演技と感情を吹き込むことが可能になったことだ。

話自体はそれほど工夫があるわけでもなく、ベイ・エリアだけで展開される物語のスケールも小さい。が、あるべき要素があるべきところに収まり、観客が無理なくアンディ・サーキス演じるチンパンジーの「シーザー」に感情移入できる流れを作っただけで、これだけ面白い映画になるというのがある意味でとても興味深いことだと思う。敢えて逆説的にいえば、「猿の惑星」といいながら、無理なくストーリーを語れる範囲、「猿のサンフランシスコ」で話を止めたことが良かったのだろう。ラストシーンは、その先に待っている世界を想起させるのに十分である。

演技については、ともかく、本人の顔は見えなくとも「ゴラム」、「コング」に続くはまり役(というのか?)を得たアンディ・サーキスが全てではあるが。こういうのは演技賞ではどう評価されるのだろうか。一応、エンドクレジットのトップに名前が上がってはいるのだが。

ジェームズ・フランコ演ずる(人間側の)主人公は、あまり賢そうな科学者には見えないが、実質的に脇役だと思えば、こんなんでもOKだ。この男、アルツハイマーの父親への強い思いから、結果として投与された猿の知性を加速させる新薬開発にのめり込んでいったという動機が与えられているのだが、この「父親」役に、久しぶりにスクリーンでお目にかかるジョン・リスゴーというキャスティングが嬉しい。なにせ、この人はかつて『ハリーとヘンダスン一家』で毛むくじゃらの「ビッグフット」と異種交流を温めた張本人だから、やはり何かの縁があるのだ。トム・フェルトンは「ハリポタ」を離れてもなお憎々しげな小悪役とはお気の毒だが、それはそれ、観客の中にあるドラコ・マルフォイの記憶をなぞった効果的なキャスティングではあっただろう。

10/22/2011

Captain America: The First Avenger

キャプテン・アメリカ ザ・ファースト・アベンジャー(☆☆☆)


ジョー・ジョンストンは勘違いをしない。いつだって分をわきまえた娯楽映画を撮る。古くは『ロケッティア』、『ジュラシックパークIII』、そして近作『ウルフマン』。どれも、お腹がいっぱいになるような超大作ではない。でも、期待すべきものが何なのか"分かっている"観客を、きっちり楽しませる真っ当な娯楽映画だ。マーヴェルが「アベンジャーズ」映画化に向けて着々と進めてきた前座作品群のなかで最後のピースとなるこの『キャプテン・アメリカ』もまた、そんな1本だ。題材を思えば、上出来なんじゃないか。

舞台は第二次世界大戦期。ナチス・ドイツが欧州を席巻し、孤立主義を捨てた米国が重い腰を上げて参戦したころだ。ヒトラーが砂漠で(たぶん)「失われた聖櫃」を探していた頃、北欧神話の主神オーディン由来ということになっているオカルト・アイテム(=コズミック・キューブ)を捜すナチスの特殊科学部門転じた「ヒドラ党」を敵に、レトロ風味の戦争冒険活劇という体裁になっている。

さりげなく(ジョー・ジョンストンが特撮で参画した)『レイダース』を匂わすあたりがナイス、オカルト・アイテムつながりで『マイティ・ソー』、そして来るべき『アベンジャーズ』と接点をもたせるはクレバーなアイディアか。

映画の送り出し手、作り手として考えることは、この現代、世界中の人々が嫌な気分にならずに楽しめる作品にすることだろう。だいたい、キャプテン・アメリカ、とその名を聞き、星条旗モチーフのコスチュームを見ると、誰だって胡散臭いものを感じてしまう。国家の価値観を体現する尖兵か、と。

この映画では、「国」の思惑で作られたキャプテン・アメリカだが、その存在を国やその政策と一体不可分のものではないと、明確に一線を引いてみせたところが良いと思う。

主人公は盲目的な愛国者などではなく、「友人や仲間思いで、正義感のある高潔な精神の持ち主」である。そんな彼が、政治家の売名行為につきあわされて戦時国債の拡販に利用されるという描写は、本作で最も重要なところだ。そこにイーストウッドの『父親たちの星条旗』が被って見えたとしても偶然ではない。そんな「作られた(失意の)ヒーロー」が、損得や誰かの命令でなしに、敵地に囚われた友人や仲間の救出に乗り込んでいくことで「真のヒーロー」になるというストーリー・ラインは感動的ですらある。

敵の設定にも気を使っている。そりゃあ、いくら第二次大戦を背景にしていても、星条旗男が他国の軍隊を蹴散らすというような話では、あまりよろしくない。だから、直接対峙する相手は、ナチスの一部門といえど、「異形の姿となった悪の首領と、それに従う秘密結社」なのだ。その首領が「レッドスカル」などという名前の「赤ドクロ」姿だというのだから、馬鹿馬鹿しくもあるが、昔懐かしき活劇の世界だ。「ハイル・ヒドラ!」の両手上げポーズの間抜けさがそれに止めを刺す。これは、そういう作品として楽しんでくれということだろう。

主人公のキャラクターによるところもあるが、ヒロインとのプラトニックなロマンスも古風でロマンティック。アクションはことさら派手ではないが、見せ方はこなれていて危なげない。美術がなかなか頑張っていて、時代の雰囲気にコミック調の意匠を上手く馴染ませている。3D効果はあまり感じられないが、シールドが画面から飛んでくるところだけは大迫力であった。

「最後のピース」であることも手伝って、マーヴェル他作品とのつながりが数多く登場し、「予告編」で幕を閉じるのだから、なんか釈然としないものを感じる向きもあるとは思うが、同シリーズのなかでも他とは違った個性、他とは違った雰囲気を打ち出していて、これはこれとしての新鮮な楽しさがある。「冷凍になっていました」で、東西冷戦時代を、もしかしたら対テロ戦争すらも飛び越してしまう力技には笑った(都合のよろしいことで)。しかし、「アベンジャーズ」とは別に続編の企画もあるのだろうが、現代を舞台にすると本作独特の面白さは消えてしまうのではないかと心配になる。さて、どうするか。

10/14/2011

Green Lantern

グリーン・ランタン(☆☆)


上映終了間際にガラガラの映画館に滑り込んで見た。一応、ここのところ『カジノ・ロワイヤル』、『復讐捜査線』と好調なマーティン・キャンベル監督の新作ながら、Time Magazine の "Top 20 Worst Summer Blockbusters" に選ばれたっていうんだから、それがいったいどんな出来映http://www.blogger.com/えか気になるじゃないか。

件の20本のうち、既に18本までを劇場で金を払ってみている当方としては、そこにもう一本加わって19本になるというオマケまでついてくるわけで、これを見逃すわけにはいくまい。

で、ようやく見ることのできた『グリーン・ランタン』。「スーパーマン」、「バットマン」の2大ヒーローを抱えるDCコミックの人気作品ときく。それ以上の予備知識がなかったからかもしれないが、こりゃ、驚いた。こいつは「スペオペ(=スペース・オペラ)」ではないか。

超文明を持つ種族がいて、宇宙を3,600のセクターに分割し、それぞれの中から選抜されたメンバーに意志の力を自在に操れる「パワーリング」を与え、宇宙の平和維持にあたっている。そんな設定だ。とっさに思いつくのは、スペース・オペラの元祖的な作品と位置づけられる「レンズマン」のアメコミ・スーパーヒーロー版といった感じである。全宇宙から様々な種族が集まるなか、地球人が原始的な種族としてバカにされているっぽいところも、たいへん面白い。

が、まあ、残念なことに、面白いのは設定だけで、映画はその面白さを活かすことができていない。

もちろん、「全宇宙的規模スケールの事件に巻き込まれ、次第に頭角を現していく主人公」の話に、ときおり、「異星人にスーパーヒーロー・セットを与えられてご近所の問題を解決するダメ男」(←パーマン)みたいな話が混じってくるのは良いとして、せっかくのスケールが小さいところ小さいところへと収束してくる話の作り方にしたのは失敗だろう。

だって、全宇宙の脅威と組織の総力をあげて戦う、といっていたのに、尖兵にされた不憫なダメ科学者を死に追いやり、不死の種族が転じた化け物を一人で太陽にぶち込んで燃やしてオシマイ、ってなんだよ、それ。

恋人はともかく、家族(兄弟や甥)、友人のエピソードは不要。既に一刻を争う自体が起こっているはずなのに、主人公をのんびりと訓練しているチグハグさ。あー、よくこんな脚本にゴーサイン出したよな。

画面中がCGIで埋め尽くされているのは作品の性質上仕方があるまい。ポジティブな面で考えれば、3D感は比較的よく出ていること、主人公のスーツを、物理的な衣装ではなく、CGIで表現するという目新しい手法の面白さか。主人公のライアン・レイノルズは、デッドプールを演じさせられた時よりはマシな扱い。ティム・ロビンス、ブレイク・ライブリー、ピーター・サースガードあたりまでは顔がわかるが、マーク・ストロングやティムエラ・モリソンは、それと知っていないとわかんないよ。

10/09/2011

Dear John

親愛なるきみへ(☆☆)


『メッセージ・イン・ア・ボトル』、『きみに読む物語』、『ウォーク・トゥ・リメンバー』、『最後の初恋』と、そこそこ安定した品質での映画化が続く、ニコラス・スパークス原作ものだが、『HACHI』の犬視点の回想で失笑を買って北米劇場未公開となったラッセ・ハルストレム監督の手で、またしても女性客搾取を目的とした泣かせ映画が作られた。本作、この原作者の映画化作品の出来映えとしては、ちょっと下のほうの部類じゃないか。

主演はここのところ主演作が続くアマンダ・セイフライド(配給会社によりサイフリッドとの表記もあって、そろそろなんでもいいから一本化が必要なんじゃないか。)この人が出ているというのは、その映画が「女性目線」で出来ているというフラグが立っているようなものであるというのが経験則のようなもんだ。

今回の話は、ある夏の日に出会った軍人と学生が、お互いに強く惹かれながらも一方は軍務へ、一方は学業へと戻り、1年後の再開を期しながら、手紙のやり取りを続けるというものだ。男のほうは任期が終わって除隊するつもりでいたが、911に引き続く「対テロ戦争」の戦場に仲間たちと共に向かわざるをえない状況になる。女にもいろいろな事情ができて、決意の末、別れの手紙を戦場に送ることになる。まあ、いかにもこの作者が書きそうな「運命」に翻弄される純愛と悲恋の物語だな。

しかし、この映画が描く「いい男」像の薄っぺらさはなんなのだろう。もちろん、このたぐいの女性搾取映画が描く男なんて、どれもこれも似たり寄ったりかもしれないし、それは男性目線で描かれる映画の即物的な女性像の裏返しに過ぎないということは重々承知しているつもりである。しかし、この映画の「男」、演じているチャニング・テイタムが気の毒になるくらいに、人間味が感じられない、プラスティック人形のようなキャラクターである。「純朴で誠実な好青年」という記号をそのままかたちにしたというのは分かる。が、これが脇役というならともかく、リード・キャラクターなんだから、もう少し何とかすべきじゃないのか。

アマンダ・セイフライド演じるヒロインは、ある意味でたいへん身勝手な女なのだが、そこはそれ、いろいろな言い訳が用意されていて観客の反発を買わない程度に上手く処理されている。このあたりが原作者がベストセラー作家で在り続けられる理由であろうし、ここにアマンダ・セイフライドをキャスティングする意味があるというものなのだろう。

主演のカップルの運命に、近隣に住む自閉症の少年の存在がかかわってくるのだが、それに呼応するように、男の父親が「軽度の自閉症」であるという設定が用意されている。まあ、物語の味付け程度の役割でしかないが、これを演じるリチャード・ジェンキンスが相変わらずの好演を見せてくれる。父親と息子をつなぐ接点におかれた「コインの蒐集」という趣味にまつわるエピソードは、悪くない。

10/08/2011

The Next Three Days

スリーデイズ(☆☆☆★)


フランス映画『すべて彼女のために』を、ポール・ハギスが脚色・監督・製作を兼ねてリメイクしたのが本作だという。殺人の容疑をかけられて収監された妻の無罪を信じ、脱獄させるために完璧な計画を練りあげて実行に移す夫の姿を描くサスペンス・スリラーだ。残念ながら、オリジナルは未見。ハギス版は舞台をピッツバーグに移しており、有事における米国の警備や捜査の挙動をとりいれたものになっている。主人公にラッセル・クロウ。その他、エリザベス・バンクス、ダニエル・スターン、ブライアン・デネヒーらが出演。

ちなみに、タイトルの「スリーデイズ」とは、妻が他の施設に移送されてしまうことが決まり、用意周到に計画してきた脱獄を実行するにはそれまでの三日間("The Next Three Days"=原題)に行動を起こすしかない、というところに由来する。映画は、それを起点に、いったん過去に戻ることでことの経緯を語り起こしていく構成になっている。

この映画、なかなか面白くできている。しかし、オリジナル作品ではなくてリメイクであるということ、名脚本家であり、監督としての評価も高いポール・ハギスがわざわざ手がける題材なのかどうか、ということで、割り引いて評価したくなってしまうのが人情というもの。本国での評価がまちまちであったのは、そんな理由もあるとは思うが、リアルに振った社会派ドラマなのか、現実離れした娯楽映画なのか、どちらつかずに見えるところも戸惑いのもとになってはいるだろう。

もちろん、非現実的な「娯楽映画」的プロットを、現実の脱獄計画の参考になりそうなほどにリアリスティックな描写を積み上げて描いているところが本作の面白いところなのである。これを実際にやってのけるには相当の覚悟と準備が必要だろうが、無理と断言はできまい(と思わせる)。しかし、一方で、主人公が「脱獄のプロ」に指南を求めるシーンなどは、リーアム・ニーソン演じる「脱獄のプロ」という存在の嘘臭さも含め、現実との乖離を感じさせられて、せっかくリアルに振って積み上げてきた映画の雰囲気を乱しているように思ったりもする。

まあ、そこでハッタリが効かない真面目な演出ぶりが、良くも悪くも監督・ポール・ハギスの限界なのであろう。細かな「リアル」を積み重ねるところまではいい。しかし、嘘のつき方が下手だなぁ、とは思う。脱獄のプロにせよ、ヤクの売人アジトへの殴りこみにしろ、こういう「非現実性」のハードルを、さらっと飛び越えるための算段が足りない。そもそも、ああいう役にリーアム・ニーソンなんかをキャスティングしたら、かえって胡散臭くなるんだがな。でも、一方で、「胡散臭い役柄で登場するリーアム・ニーソンを見る楽しみ」のようなものも確実にあるわけで、要は映画の立ち位置をどう見るかの差であろう。

ラッセル・クロウは手堅い演技。妻役のエリザベス・バンクスは出番が少ないとおもいきや、クライマックスに見せ場があって、なかなか良かった。主人公の父親役として登場するブライアン・デネヒーが、渋いところをみせてくれて嬉しかった。好きなんだ、この人。

10/02/2011

Hanna

ハンナ(☆☆☆)

物語は雪深く、世の中から隔絶された北欧の森の小屋における父と少女の暮らしで幕を開ける。父親は少女に、ありとあらゆる知識とサバイバル術を仕込んでいるようだ。何のために?ここではその理由を観客に明かさない。この二人には何やら計画があるようだが、それの目的も、全貌も明かされない。CIAが、この小屋から発せられた古い信号をキャッチしたとき、物語が大きく動き出す。

超絶的な身体能力とサバイバル術を身につけた少女がタイトルロールの「ハンナ」である。演じるのは、本作の監督ジョー・ライトが手がけた『つぐない』で注目され、『ラブリー・ボーン』の主演をつとめたシアーシャ・ローナンだ。演技ができる役者にアクションを演らせるというのも昨今のトレンドの一つであるとはいえ、これまたアクションというイメージからは遠い女優である。しかし、もちろん本作の場合、そのギャップが面白いところであって、ドラマの核心でもある。相当のトレーニングを積んだのだろう、体の動きもいいから、絵空事と白けてしまうこともない。

映画は少女がCIAに囚われ、脱出し、追手の手を逃れての逃避行を追うと同時に、別行動をとっている「父親」エリック・バナと、追跡の指揮をとるケイト・ブランシェットの様子を適宜挟み込みつつ、徐々に事の真相を観客に明かしていく構成になっている。観客に対して情報を小出しにするやり口は、一方でキャラクターへの感情移入を難しくするが、そこは役者の力でなんとかなるという読みもあるだろう。事情がわからなくても、とりあえず観客はシアーシャ・ローナンを応援するだろうし、「敵」としての貫禄たっぷりなケイト・ブランシェットは観客の憎悪の対象になるだろう。

しかし、スパイ組織を敵に回してのアクション・スリラーとは、監督ジョー・ライトの、これまでのフィルモグラフィを思えば不思議な選択だから、どんな映画に仕上がるかと不安半分ではあった。が、出来上がりを見れば、これまた器用なものである。リアリティのない物語に、昨今の流行に則ったリアリティ寄りでタイトなアクションと、最小限だが効果的なドラマ演出を絡め、キャラクターの力でストーリーを動かしていく。先にシアーシャ・ローナンの主演が決まっていて、彼女の強いリクエストで監督が決まったらしい。

エリック・バナが演じるキャラクターは少々印象が薄い。彼がハンナとは別行動を取る意味はわかるが、その行動そのものが物語の中で積極的な意味を与えられていない。極論、映画の冒頭で殺されていても大差がないようにも思う。この人の演技が巧いのはわかっているが、どちらかというと映画のなかで埋没してしまう損な役回りが多いよね。

音楽は数多くの映画に楽曲提供の実績があるケミカル・ブラザーズの名義になっていて、本作のためにオリジナルスコアを書いたということのようである。なかなか面白い音で映画の独特の雰囲気を醸成する一助になっている。ところで、映画の冒頭と最後に出てくる、赤地に白抜きのデカい文字で「HANNA」と出るタイトルは、ちょっと、ダサくないか?

10/01/2011

Fast Five

ワイルド・スピード MEGA MAX(☆☆☆)


シリーズでは1作目に次いで2番目に面白い。魅力のある敵役として(WWEのザ・ロックこと)ドゥウェイン・ジョンソンを投入するカンフル剤、ストリート・カーレースから犯罪アクションへと比重を移したフランチャイズの方向づけがうまく絡み、気楽に楽しめる娯楽アクション映画に仕上がった。3作目からシリーズを任されている監督ジャスティン・リンも、いくつかの勢力が入り乱れる物語を要領よく裁いてみせ、回を重ねるごとに腕を上げてきているようだ。

・・・で終わりにするのも何なので、雑談を。

これ、同じシリーズでも原題がいつも変化球なんだよね。

『The Fast and The Furious』からヴィン・ディーゼルのいない『2 Fast 2 Furious』はちょっと面白いアプローチだと思ったが、番外編的(で、現在、4,5,6?作目の後日談と位置づけられている)3本目は平凡に『The Fast and The Furious:Tokyo Drift』だ。このときは、このまま、サブタイトルをいれかえて、安いビデオ映画シリーズにでも仕立てていくつもりだったのかもしれない。オリジナル主演者のキャリアが傾いてきたのも手伝って、まさかの再集結となった4本目は仕切り直しっぽく定冠詞抜きの『Fast & Furious』ときた。

で、『Fast Five』だよ。

Five は5本目の「5」だとは思うんだけどさ。"Fast" っていうシリーズじゃないし。・・・まさか「早い5人」なのか?ヴィン・ディーゼルとポール・ウォーカーとジョーダナ・ブリュースターと、タイリース・ギブソンと、サン・カンで5人?死んじゃったヤツや、面白黒人は?ロック様は?現地の美人警官は?いったいどこまで数に入れてもらえるんだ?

国によっては、写真にあるように『Fast & Furious 5』なんだよな。やっぱり、わかりにくいもんな。

こうなると、興味の中心は6本目がどういうタイトルになるか、である。まさかのまさか、誰かさんの復活で「Fast Six」とかな。

ついでに、メガ盛り状態になってきた邦題もそろそろ限界じゃあるまいか。順当にGIGA MAX か。メル・ギブソンが客演したらMAD MAX とか(それはない)。

とまあ、なかなか豪快に楽しませてくれた本編には文句はなく、違うところが気になって仕方がないのである。

真面目な話、フランチャイズの可能性を広げるための判断として、ストリート・カーレースのカルチャーから少し距離をおき、大型犯罪アクションへと舵を切った映画会社の判断は、慧眼だったといえる。方向を変えるといっても、もともと「犯罪捜査の過程でミイラ取りがミイラになるという『ハート・ブルー』」の、「サーフィン」が「カーレース」に置き換わった焼き直しが原点である。だとすると、今回の方向転換は、原点回帰であるともいえるだろう。そこで、今や「家族」になっちゃったポール・ウォーカーに代わり、主人公らにシンパシーを感じつつも対立するポジションに、主人公らに負けない強力なキャストが必要になるのも必然だ。

その、新しい「強力なキャスト」に頭脳派ではなく、肉体派をもってきたんだから、そりゃ、頭は悪いけどドハデな体力勝負映画になるのもまた当然の帰結。へんにCGIでごまかさず、貴重なクラシックカーをガンガンぶっつぶし、街中破壊する。複雑で危険な撮影やスタントも多かったことだろう。そこから逃げなかった作り手の肝の座り具合が、本作の成功の鍵であったか。エンディング後におまけがあって、次回作への導入にしているので、見逃すことのないように。

The Man from Nowhere 아저씨

アジョシ(☆☆☆)


これは、あれだな。どっちかっていえば、韓国版『Man on Fire』なんだよな。ほら、デンゼル・ワシントン主演で『マイ・ボディガード』ってあったでしょ。話の構造はあれととてもよく似ている。本当はくたびれた男が演じたほうがよさそうな主人公を、「美男子」が演じるところまで似ているかもしれない。

過去を捨て、世捨て人のように生きている質屋の「おじさん(アジョシ)」。彼が唯一心を通わせた孤独な少女が犯罪に巻きこまれ、命すら危うくなったとき、彼の怒りが爆発する。かつて身につけた特殊工作員としての技能を発揮して壮絶な闘いに身を投じていくのだ。

ポン・ジュノの『母なる証明』で演技者としての実力をアピールしてみせたウォンビンが、ここでは娯楽映画のヒーローという分かりやすい役柄ながら、その内面に迫る好演で、一回り成長したところを見せてくれる。アクション・シーンでも体がよく動いていて、「特殊工作員という過去を持つ男」などという、映画の中だけで登場する嘘くさいキャラクターに、あの国ではあり得ないともいえないなぁ、などというリアリティを与えていて好印象。後半、短髪にすると顔立ちの良さが際立つ。

ところで、こういう映画では、敵となる犯罪組織が非人間的な外道であればあるほどに、盛り上がるものだ。相手のワルが際立てば、主人公(と観客)の怒りが増幅され、主人公の行う正義の鉄槌にカタルシスが生まれる。また、正義の鉄槌そのものが多少行き過ぎていたり残虐だったりしても、相手はもっとヒドイ奴らなんだから、それでいいのだと自己正当化もできるから後味が悪くならない。

そうした意味で、本作の悪人どもは、変な表現だけれども、本当に素晴らしいと思う。薬物密売にとどまらず、児童の監禁虐待と搾取、臓器売買と悪事のフルコースだ。もちろん、臓器を抜き取られて殺された死体とか、抜き取られた目玉とか、ビジュアル的にもインパクトが強い。もちろん、そこで好みは別れるだろう。が、これらは結果的に「殺されても仕方のない悪党ども」であることを印象付けるのに強く効いているのは否定できまい。

また、この映画、そういう悪事の全貌や関係者の複雑な関係を、比較的に分かりやすく交通整理してみせているところがなかなか上手いと思う。全く役に立たない警察連中の存在は、そうした構造を分かりやすく説明するためだと思えば納得が行く。

もうひとつ、主人公と対になる無口だが凄腕の殺し屋を敵方に配置している設定が地味ながらしっかり効いている。こういうのもジャンルの定番であってさして珍しいわけではない。が、互いの実力を認めあい、プロとしての意地をかけ、対等な立場でラストバトルに突入という展開が盛り上がらないわけがないのだ。作り手はなかなか分かっているなあ、とニヤニヤ笑いながら楽しませてもらった。

もちろん、時折見ているこちらをびっくりさせるような規格外の傑作を送り出してくる韓国映画としては、とりたてて誉めそやす傑作の部類ではなくて、ありふれた商品としての娯楽映画ではある。が、娯楽映画として、ありふれた設定を効果的に組み合わせ、きちんと面白い映画に仕立て上げられる実力は侮れない。作品背景に、彼の国ならではを感じさせる要素がコンテクストとして入り込んでいるところも面白い。脚本・監督イ・ジョンボム。日本の、TV局が製作して垂れ流しているようなメインストリームの娯楽映画に、せめてこの程度のレベルを求めることは無理な話なのかね?