7/30/2011

Transformers: Dark of the Moon

トランスフォーマー:ダークサイド・ムーン(☆☆)


あー、これでひとまず終わってくれる、というヘンな意味での安堵を感じるシリーズがあるとすれば、来年完結予定のトワイライト・サーガと、これ、トランスフォーマーが双璧。最初はそれなりの期待感を持って劇場に向かうも、スクリーン上で展開される惨憺たる狂騒に唖然とする。あるいは、そうなることを半ば予期していても、、一応、イベント的な観点から見ておかないわけにはいかない気がする。というわけで、わざわざ前2作をTV放送で見なおしてから劇場に足を運んだ。(いや、前作までのストーリーなんかスッカリ忘れていたよ。)

しかし、2D、 3D 両方とも見たうえで云うのだが、いやはや、これはゴミに例えるなら、ただのゴミではなくて、どうしようもない粗大ゴミの類だな。

さて、今回の話は、1960年代初頭に月の裏側に墜落した異星由来の物体をめぐり、月への有人飛行を目指すアポロ計画が立ち上がったという裏エピソードを起点とし、前2作では全く触れられなかったディセプティコンの巨大な陰謀、人類の存亡をかけて人類・オートボットとディセプティコンが激突するという筋立てである。クライマックスにはシカゴを舞台とし、延々1時間は続く大規模な市街戦が待っている。

月への有人飛行計画が急速に立ち上がり、その後、止まってしまった理由を異星人に関わる情報の隠蔽工作とする発端部分は、ピラミッドが太陽破壊装置だったという話よりは面白いし、実際に月に立ったバズ・オルドリンご本人を特別出演的に引きずりだしてくるあたりまではよいのだが、せっかくの歴史改変SFの趣も、その後の狂騒に急速に埋没してしまう。

いろいろ詰め込みすぎてよくわからなくなった前作よりはストーリーが整理されているが、それも気休め程度の話である。

このシリーズ、もともと機械生命体同士の争いと、国家や軍隊といったレベルの話と、高校生~新卒社会人程度の主人公と身近な人々の話をどのように絡めて一つにしていくかという部分が大きなチャレンジになっていたが、今回もそのあたりに無理やり感が漂っていて、成功しているとは言い難い。もっと頭を使って欲しいところだ。

意味もなく長尺のなる理由の一つが先に書いた3つのレベルの話をうまく練り上げられていないことであるが、他にも脱線やムダも多いのが、このシリーズの特徴である。今回はそれに加え、トラブルメイカーと化していたミーガン・フォックスを解雇した後遺症もある。新しいヒロインを導入するためだけのまどろっこしい手順やエピソードは見ているだけで疲れてしまう。

マイケル・ベイの演出は、さすがに3Dを意識したからか、カメラぶん回しや短いカットは減って見易くなった。が、止まることを知らず動きまわるカメラと笑えないコメディ演出は相変わらずである。注目の「3D映画」としてどうかといえば、確かに3Dカメラで撮影したショットも多いようだし、3D化が容易なCGIで描出したオブジェクトも多いため、急造の変換3D作品より「立体感」は感じられるのは事実である。そうはいっても、その使い方という意味では何ら新鮮な工夫はなく、全くもって面白くない。3Dに最適な演出のあり方はもっと深く追求されて然るべきだ。

この手の大規模で複雑なプロジェクトの陣頭指揮にあたって映画を完成させる能力も含めて「監督」の資質を問われるのであれば、本作の製作過程では大きな事故が複数回報じられているとはいえ、マイケル・ベイの才能を疑う理由は全くない。ただ、完成した作品が面白いかどうかは別の話だということは、まあ、改めていうまでもないことだろうね。


ところで、アニメ版での縁によるものというが、今回登場するキャラクター、「センチネル・プライム」の声をレナード・ニモイが演じている。それにちなみ、映画の前半でスター・トレック(TOS)のエピソードをTVで視聴しているシーンがあったり、主人公が車のギャラリーを「エンタープライズみたい」と口走ったり、「カーンの逆襲」における有名な台詞 "The needs of the many outweigh the needs of the few"  をセンチネルに云わせたりするお遊びがあったりする。そういえば、今回はクレジットされていない前2作の脚本家コンビは、タチの悪いトレッキーだったな。

7/23/2011

From Up on Poppy Hill

コクリコ坂から(☆☆★)

少女漫画原作を自由に脚色し、1960年代初頭、横浜を舞台にした青春ものとして完成されたスタジオジブリの長編新作である。宮崎駿の企画、脚本(共同脚本:丹羽圭子)を、『ゲド戦記』ではさんざんミソをつけた宮崎吾朗が監督。まあ、こういう題材は、ジブリでもなければ大型の商業作品としては成立しない、という意味では価値のある1本といえるだろうか。

この映画を見てびっくりしたことは、カットの短さとポンポンすすんでいくテンポの速さである。どこかでプロデューサーや監督が述べていたが、諸般の事情もあって平均的な1カットの長さを短くしたらしい。それを情報として知っていたにもかかわらず、幕開けからちょっと面食らった。画面に描かれている情報を確認して咀嚼する前にカットが切り替わっている。でも、それがいいリズムになって、画面に溌剌とした若さが刻まれている。上映時間も91分に収まっており、この程度の内容に見合った尺の長さではなかろうか、と思う。

この作品では、父親を早くに失い、仕事で不在の母親に代わって下宿屋の仕事にも精を出す少女と、彼女が高校生活で出会った一学年上の青年との淡い恋愛感情がメインストーリーとして描かれている。惹かれるようになった二人が、実は、父親が同じ人物なのではないかとの疑念が持ち上がり戸惑いを覚える。若い2人のロマンスと並行して、高校の中で起こった古いクラブ棟の建て替え計画への反対運動の顛末が描かれていく。実に真っ直ぐな主人公ら高校生たちと、彼らを深い懐で受け止め、見守り、支援する大人たちの姿が印象的である。

「カルチェ・ラタン」と呼ばれるクラブ棟の建て替え反対を通じて、「過去を否定するのではなく受け継いで未来につなげていく」というテーマが示されているように見えるが、それだけではない何かを感じさせられる作品である。

脚本を書いた宮崎父の視線は、現代の若い観客よりも同年代、つまりは、映画の舞台となった時代に主人公らと同世代だったはずの人々に向いているのではないだろうか。そして、かつて自分らを見守り、自由にさせてくれた大人たちのように、今度は自分たちが若い世代を信じ、見守っていこうと云っているように見えなくもない。。原作の舞台を10年ほど前にずらした脚色をするからには、それ故の理由があるはずである。いわゆる団塊の世代の青春時代としたのには、そうした世代の観客のノスタルジーに訴えかけようという商業的な狙いのほかに、そうした、彼自身のそういった問題意識が反映されているように思えてならない。

ところで、その脚本を受け止める側の宮崎息子が父親と同様の解釈や意識を共有しているかというと、そうでもないのではないか。また、(いつも反則すれすれの)キャッチコピーがいうような、「(若い世代の観客に向けて、かつての若者のように)、上を向いて歩こう」というメッセージを発しているようにも全く感じられない。どこかで、父親世代のノスタルジーに付き合ってやっている、とでもいうような、登場人物たちをどこか客観的にながめているような冷めた視線すら感じられる。「それはまあ、いい時代だった、というんだけどさ。。。(いい気なもんだ)」と。

この映画は爽やかな青春物語、青春映画にはなっているが、作り手の中にある視点が一枚岩でないがゆえか、強いメッセージ性やインパクトには欠けるところがある。しかし、そればかりが映画、あるいはアニメーションの面白さとも違うのだから、だからダメ、というものでもない。

本作がアニメーションとして今ひとつ、と思う部分があるとすれば、高畑勲なり、最近では原恵一がやっているような、「日常芝居」をきっちりやりきれていないところだと思う。そして、その結果としてキャラクターたちが描かれている以上には立ち上がってこない。肉体を獲得してリアルな人間になっていない。作り手のどこか客観的な視点と相まって、キャラクターたちが平板で印象に薄い。

あるいは、ある部分ではリアル志向で見せているのに、「カルチェラタン」に巣食う一癖も二癖もある学生たちを、コミックタッチの類型的な戯画化でしか描けていないところも物足りないところだ。もしかしたら、こうした学生たちは、父親世代の時には周囲にいっぱいいたのだろうが、息子世代ではあまり縁がないのかもしれない。それゆえ、リアルな人間として想像できない。そして表現が限りなく類型化されたマンガになってしまうのではないか、と思ったりする。

時代色を出すための既成曲の使い方はどうとも思わなかったが、本作のために書き下ろされた劇中歌(谷山浩子作曲)はどれも面白く、作品に膨らみを与えていた。この時代の横浜の風景を再現した美術や背景も美しいし、声のキャスティングも適切だった。それもこれも含めて、一定水準はクリアした作品であるとは思うのだが、いずれにせよ、夏休みに大宣伝をかけて、多くのスクリーンを占拠して上映するような作品ではないんじゃないか。

P.S. 思ったが、宮崎吾朗は、いっそのこと、ミュージカルをやったらいいんじゃないか?

7/17/2011

I am Number Four

アイ・アム・ナンバー4(☆☆☆)

途中から始まって途中で終わるだの、最初からシリーズ化に色気たっぷりだの、大仕掛のSFアクションを期待したら若いキャストが女の子とイチャイチャしてジョックス野郎の腕をへし折る映画だっただの、いろいろなことが云われている本作だが、まあ、それは全て事実だ。

しかし、なんでそれじゃあいけないのか? と、ここはひとつ開き直ることとしたい。だって、これ、期待するものを間違えなければ、そこそこ面白いのである。

本作の原作は若い読者むけの軽い小説、いわゆる「YA(ヤング・アダルト)」小説の類で、6部作構想といわれている小説「ロリエン・レガシーズ」シリーズ第1作の映画化である。この第1作は既に邦訳が出ているが、2作目はこの夏に本国で出版ということなので、そもそも原作シリーズも始まったばかり。出版前からドリームワークスが青田買いした権利を、(『アイランド』、『トランス・フォーマー』の)マイケル・ベイ製作、(『ディスタービア』、『イーグルアイ』の)DJ・カルーソ監督という、まあ、昨今、ドリームワークスと縁の深い人脈で映画化したということらしい。

悪い異星人に侵略された星(ロリエン)の最後の生き残りたち・・・9人の特殊な能力を持った子供たちと、彼らを庇護する任務を負った戦士たちが、地球に逃れ、密かに暮らしている。特殊な能力は、大人になると発現するという。ロリエンを侵略して謀略の限りを尽くした敵は、次なる侵略のターゲットを地球に定めたのだが、この特殊能力者たちの潜在的な力を大変に恐れている。そこで、まずはその9人を探し出し、順番に抹殺を図ろうとしており、映画の冒頭で3人目を血祭りに上げる。本作の主人公「ナンバー4」は、次のターゲットが自分であることを知る。この物語は、そこで幕を開ける。

それだけだと、なかなか大掛かりなSFアクションのように聞こえるが、本作の一番の魅力はそこではない。主人公らは思春期まっ最中で、庇護者のいうことを聞かず、オハイオあたりの田舎町でハイスクールに編入するのだ。かくして、SFアクションが「ハイスクールもの」へと転調を遂げるのである。ジョン・スミスと名乗る「謎の転校生」は、おとなしくしているという最初の約束なんかどこへやら、編入早々「写真好きの文化系女子」といい雰囲気になって、「元彼のジョックス野郎」の目の敵にされてしまう。成り行きで仲良くなった変わり者は「父親がUFOにさらわれたため俺の半生はX-Filesのようなもんだと嘆くギーク」だ。見ればわかるが、「ハイスクールもの」としては、『トワイライト』あたりよりは、よほど丁寧で真っ当な作りになっている。

そんなわけで、この作品。バランスからいうと、ハイスクール青春もの半分、SFアクション半分という感じ。脚本に「ヤング・スーパーマン」とか「バッフィ」とかの脚本家を充てている人選をみれば、作り手の狙いが明確だろう。SFアクションとしてみれば、知らない俳優ばかりで安上がりに作ったように見えるだろうが、「ハイスクールもの」ジャンルだと思えば、フレッシュな「将来のスター候補」を捜すのも楽しみのうち、となる。ヒロインのダイアナ・アグロンはすでにTVドラマ『Glee』でお馴染みの顔、強力な助っ人となるもう一人の戦うヒロイン、テレサ・パルマーあたりはこれからもっと人気が出るんじゃないか。

7/15/2011

Harry Potter and the Deathly Hallows Part II

ハリー・ポッターと死の秘宝 Part-2(☆☆☆)

いよいよ、である。もちろん、最後まで付き合いましたよ。ここまできたら、観ないという選択肢はないし。Part-1 の出来栄えがなかなか良かったので、本作への期待感もそれなりにあったしね。そして、まずは、納得、充実、よくできたシリーズ完結編であった、と思う。

(途中でお亡くなりになってしまったリチャード・ハリスを除き)主要キャスト&脇役キャストが最後まで変わらず、これだけの規模と、これだけの安定感で、よくぞ十年作り続けたものである。もちろん、市場が求め、映画会社が望んだこととはいえ、これを実現させたプロデューサーの力量には敬服する。子役たちが成長していく姿をスクリーン越しに見守るような、とても面白い映画体験をさせてもらった。

シリーズ総括はさておき、本作である。いやはや、「不死鳥の騎士団」を見て、その出来の悪さを嘆いたとき、その同じ監督がシリーズを最後まで続投し、このレベルの作品を作り、シリーズの幕をきっちり閉じてくれるとは思いもよらなかった。堂々たるものである。

思うに、ピーター・イェーツは作品を重ねるごとに大型VFX映画の見せ方や演出の勘所をつかんでいったんではないか。そして作品の内容を完全にグリップし、映画としてのアレンジやメリハリの効かせ方も堂に入ってきた。シリーズ中「不死鳥の騎士団」だけ脚本家が異なっていたのだが、それ以降、本作にいたるまでスティーヴン・クローブが復帰し、一貫して脚色を手がけてきたこと大きかったかもしれない。

毎度のことながら、原作マニア的な見地からは本作についてもあーだこーだと細かい改変に一家言あろう。が、ドラマ的な盛り上がりにしろ、映像的な見せ場にしろ、ケレン味のある演出にしろ、原作のエッセンスは十分に咀嚼した上で、「映画版」としての落とし所をきちんと見出しているのが前作、そして本作の良いところである。そして、原作を読んでいても新鮮な気持ちで映画を楽しめる要因でもある。

ところで、Part 1 の146 分に比べても、シリーズのこれまでの作品と比べても、Part 2 の130分というのは短めの尺になっているのには驚いた。多少説明不足で窮屈なところもあって、もう少し尺を長くしても許されるんじゃないかと思わないでもないのだが、完結に向かう勢い、スピード感を損なわないためにはこれくらいが調度良いという判断なのだろう。説明不足と言ってもシリーズを完全に初見というわけでなければ、なんとなく了解できるわけだし、ことここにいたってチンタラ説明したり、原作にある内容を逐一映像化してみても野暮というものか。

Part-2 の映像的な見所は、魅惑的な魔法学校を舞台に、いよいよ勃発する全面的な大魔法戦争が描かれているところだ。これまでのような局地戦ではなく、双方の陣営が多くの仲間を結集しての一大クライマックスだ。VFXももここぞとばかりに気合が入っていて派手に楽しませてくれる。

それはそれとして、この闘いの最中に、最近の作品では出番の少なかったマギー・スミスの見せ場を作ってくれているのが嬉しいところである。登場人物が多いだけに、割を喰ってしまったキャラクターも少なくない。そんななか、シリーズ最初期から登場する彼女のキャラクターに活躍の場があったことで、完結編としての座りも良くなったように思う。

もちろん、今回一番の役得はアラン・リックマンである。『ダイ・ハード』の悪役で売れて以降、癖のある悪役といえばこの人、というようなキャスティングの延長線上でのスネイプ役であったように思う。本人も、はじめはこういう展開を見せるとは想像していなかったはずだ。このキャラクターの過去の記憶が明らかになるシークエンスは、原作と比べると比較的サラっと見せているように感じられたが、その作りは良く出来ていた。原作を読んでいない観客に対しても、これまで7本で嫌われ役であったキャラクターの印象を一変させるだけのインパクトはあるだろう。登場時間が長くなくとも、作り手がこのキャラクターを丁寧に、大切に描いていることが感じられるのが嬉しい。

今回、3D版で鑑賞した。前作のときには直前になって公開を断念した3D版。どの程度の出来かと興味をもっていたが、変換3Dの技術もそれなりに進化を続けているのだなぁ、との感慨は覚えた。従来の、変換3D ものでは、どうしても書き割りの舞台セットのような不自然さが目についたが、それなりの時間と金をかけて丁寧に作業をすれば、そこそこの品質でコンバートできるということのだろう。

7/08/2011

The Hangover Part II

ハングオーバー!! 史上最悪の二日酔い、国境を越える(☆☆☆)


物量2割増だが、面白さ3割減。昨今、そんな常識が必ずしも通用しないことはよく分かっているけれども、昔から柳の下を漁る「続編」なんていうものは、その程度のものだというのが定評ではなかったか。スタッフ、キャスト、フォーマットはそのままに、舞台をラスベガスからバンコックに移した本作は、ギャグも(アクションすらも)一層過激さと不謹慎さを増して許容範囲の限界を押し広げているのだが、結局、前作にあった新鮮な驚きとでもいうべきものが失われた分だけ、面白さも7掛けが限界といった感じである。仕方がない、だって、基本的に同じことの繰り返しなんだもの。

しかし、他方で「基本的に同じことを繰り返す」ということそのものが、転じて「お約束」という名の笑いに通じることもある。クリスマスになると派手な事件に巻き込まれる運の悪い男がいたように、仲間が結婚するたびに羽目を外して記憶を失う、ということがどれほど不自然でありえないことかどうかは別にして、お約束を楽しむ、お約束で楽しませるというのは一つのありかただろう。

さすがに前作(ま)での出来事がなかったことにしてゼロにリセットするわけにはいかないので、登場人物たちは同じ事態を引き起こさないように用心して行動する。もちろん、そんな用心も徒労と化すのは最初から分かっていることであるが、この手順を踏む、ということそのものが重要なお約束のうちである。仮にこれが回数を重ねるなら、この手順を念入りに踏むというプロセスそのものが笑いを増幅する仕掛けにもなるだろう。

そんなことはともかく、本作には1つ、とても良いシーンがある。それは、昨夜の行動を思い出すためにタイの寺院で瞑想をする場面だ。みな、昨夜の出来事など頭に残ってはいないのだが、ザック・ガリフィナキス演ずるトラブルメイカー、アランの脳内には、少々驚くべき形で回想が蘇ってくる。この回想が、とても優れたアイディアで映像化されていて、爆笑と同時に、なんというか、ある種の感動すら呼ぶものになっているのである。関わりたくない迷惑男であるが、どこか憎みきれない発達障害を抱えた男。彼の目に映っている世界がいったいどのようなものなのか、そのエキセントリックな言動がいったい何に起因するのか、いやはや、短いシーンながら、ものすごい説得力と納得感を得ることができた。未見の方は、ぜひ、ここで目からウロコが落ちる気分を味わって欲しいと思う。

で、さらなる続編はあるのか。本作も十分なヒットを飛ばしたし、舞台を変えれば「観光映画」、「ご当地映画」的に、それなりとはいえ、新鮮な空気を吹き込めることも証明できた。そうはいっても、中心となる4人のうち3人までが既婚となったいま、次はどんな一手があるのだろう。ザック・ガリフィナキス演ずるアランに伴侶を作るのはなかなか難度が高そうだ。そういえば、運の悪い男の「クリスマス」というお約束は3作目以降は反故になったんだっけ。お約束を繰り返すにしろ、なにか新しい手立てが必要そうだ。

7/03/2011

The American

ラスト・ターゲット (☆☆☆★)


平凡な暮らしの喜びに目覚め組織を離れようとした凄腕の殺し屋が、潜伏先であるイタリアの山里で、最後の仕事として請け負った特殊な銃の製作とその顛末。オランダ出身の写真家、アントン・コービンが抑制された寡黙な激渋タッチで描く、クライム・サスペンス・ドラマ。主演はプロデューサーにも名を連ねる、ジョージ・クルーニー。異国の地、訳ありのその男、アメリカ人。("The American")。米国では端境期の公開だったとはいえ、こういう映画が瞬間でも週末興業トップに立つって、すごいなぁ。

雪のスウェーデンからローマ、そしてイタリア中部の城塞都市、カステル・デル・モンテへ。スターのわがままによる、風光明媚な場所を舞台にしたよくある観光映画の一種かと思えば、そうではない。もちろん、坂道が多く、中世の遺物かと思うような石畳の路地や階段、建築物が残る古い町が醸しだす雰囲気と光景は、陽光に輝くイタリアというイメージを裏切ってとてもユニークだ。しかし、それが主演スターやドラマを差し置いて映画の主役に踊り出ることはない。絵葉書のようにきれいなこれ見よがしの映像はないが、ただただ異国の地に一人潜伏する主人公を封じ込める迷宮のようであり、あるいは、孤独な心を静かに解きほぐしていく舞台装置として非常に興味深い効果を生み出している。そういう意味で、ジョージ・クルーニー演ずる主人公が寡黙なら、映画の作り手もまた、とても自制的に映画をコントロールしている。

裏稼業を抜けようとする主人公に待ち受ける過酷な運命は、もはや定番中の定番である。また、友人を作ることすら許されなかった男が、米国にあこがれを持つ屈託の無い娼婦に惹かれていくのもまたお馴染みの展開。しかし、この映画はそういう使い古された定番を重ねながら、なんと、主人公が客の注文に合わせてショットガンの威力とライフルの射程を持つ特殊な銃をカスタム製作するという、なかなかマニアックな描写に時間をたっぷりと割いて見せる。自動車修理工場で手に入れた道具や部材を使って銃と弾丸を仕上げていく男。単に殺しに長けているだけではない、熟練の職人。こういうところがこの映画の面白さで、派手なアクションを期待すると肩透かしを喰らうだろう。

ジョージ・クルーニーにしては珍しく、寡黙な男を演じている。本当は、もっと地味めな役者の方が似合うのかもしれないが、さすがに、これは大スターのクルーニーなしには成立しない企画だろう。それ以外は普段目にする機会の少ない役者ばかりなのだから。カスタム銃を依頼する女スナイパー、主人公が心を動かされる若い娼婦ともに美しく、映画の華になっている。連絡係(というか雇い主)や、町の神父など、実に渋い顔つきだ。クルーニーがいなければ、アメリカ映画でありながら、ここにはアメリカ映画の空気はない。まるで欧州映画にひとり迷い込んだアメリカ人、クルーニー。ゆったりとしたテンポで、しかし、緊張感は維持したまま、決められた結末に向けて話を紡ぐ監督の手腕や見事。

Thor

マイティ・ソー (☆☆☆)


『アイアンマン』シリーズ、『インクレディブル・ハルク』に続き、マーベル自身が自らのコミック世界を作品横断的に映画化する巨大プロジェクト(マーベル・シネマティック・ユニバース)、4作目にして3人目のヒーローは、『アイアンマン2』のラストで予告がなされていたとおり、北欧神話に題材を求めたファンタジー寄りの『マイティ・ソー』だ。(ソーは、Thor、トールの英語風カタカナ表記。)このあと、同じく『アイアンマン2』のなかで言及のあった『キャプテン・アメリカ』が待機中で、その次はヒーロー大集合の"The Avengers" の予定だという。どうせしばらくマーベル祭りが続くのだから、その都度出てくる新作を、ひと通り楽しんでおくのが吉だろう。

(地球を含む)9つの世界を束ね、平和を維持してきたアスガルドの王オーディンの息子、ソーは、偉大な父王の後継を約束されていたが、向こう見ずで傲慢な性格ゆえに長年の平和にヒビを入れかねないトラブルを起こし、能力を剥奪された上に王国から追放され、ニューメキシコの片田舎に落ちてくる。そのころ、ソーの義弟であるロキは兄への嫉妬から敵国と通じ、王座を手に入れようと画策をしていた。王国とソーの身の上に危機が迫る、、、という話。

本作のストーリーは、基本的にはファンタジー世界における陰謀と裏切りの宮廷劇である。もちろん、広い意味では悪から世界を救うスーパー・ヒーローの話でありつつも、「正義のヒーローが悪者や犯罪者をボコって治安や平和を維持する」話とは少々毛色が異なるものになっている。それが理由なのだろう、監督に起用されたのはケネス・ブラナーという変化球。シェイクスピア俳優として有名で、その映画化も多く手がけてきた英国的知性に、ある意味で筋肉バカなアメコミ映画を委ねるという発想が出てくるところが面白い。それに対し、大バジェットのVFX映画から他では経験できないものを吸収しようと貪欲に企画を受けるケネス・ブラナーも大したものだ。

映画の内容は、とりたてて何かをいうほどのものでもなく、昨今のマーベル映画の家族で楽しめる軽いノリを継承している。地球に落ちてきたソーの頓珍漢な行動や、こんなファンタジー系のヒーローに対する違和感みたいなものを自己言及的に軽いコメディとして見せるあたりの手際は良いし、一見筋肉バカでも血統なりの人の良さを素直に演じて見せるクリス・へムズワースも爽やかで嫌味がない。アクションもオーソドックスにきちんと撮れている。先行・並行するマーベル映画世界と絡む細かいネタも盛り込まれており、気がつけば気がついただけニヤッとできるかもしれないし、逆に、商売っけを感じてうんざりするかもしれない。それが仕事とはいえ、こういう商業作品をさらっと撮れるケネス・ブラナーの器用さには驚かされるし、続編の監督を断る気持ちも十分に理解できる。

神話的・宇宙規模のスケールと言っても所詮CGI、セットにもカネがかかっているのだろうけれど、作り物の安っぽさは否めない。地球での舞台はニューメキシコのしょぼい田舎町、へんてこりんなロボット一体を撃退するだけなので、なんだかちっちゃな映画のように思えてしまう。"The Avengers" に向けた顔見せ、前座だと割りきって楽しむのが良いだろう。例によって一番最後にサミュエルL・ジャクソン登場の、"The Avengers" に向けた予告が入っている。また、劇場によっては、上映前の予告編で、ジョー・ジョンストン監督による『キャプテン・アメリカ:ザ・ファースト・アベンジャー』も観ることができるかもね。j