7/25/2010

Inception

インセプション(☆☆☆☆)

最後の最後、微妙なところで暗転して観客の想像力を刺激するセンスがいい。いや、すっきりしないから嫌だという人もいるんだろうけどさ。

『ダーク・ナイト』の内容的・興行的な大成功で、なんでも自由に撮れる状況になったクリストファー・ノーランが、自らのオリジナル企画、オリジナル脚本で撮った新作である。日本のマーケット的には渡辺謙が比較的大きな役で出演していることが効いたのか、かなり幅広い層の観客が劇場に足を運んでいるようであった。が、しかし、この映画。娯楽大作の顔をしてはいるが、実態は全編やりたい放題やらかしたかなりの野心作で、サマー・ブロックバスターらしからぬ中身の濃さが見所。観客の何割かはついてこられずに脱落してしまうのではないかと見ていて心配になってくる。

他人の頭(夢)の中に侵入してアイディアを盗むプロフェッショナルたちが、それとは逆に、ターゲットとする人物にアイディアを植えつける難易度の高いミッションに挑む。それぞれ専門性の高いメンバーが、ミッション遂行のために自分の任務に邁進するという筋立ては、ちょっと「スパイ大作戦」的で面白い。また、舞台が夢の中であることを免罪符として(仮想世界であることを免罪符にした『マトリクス』同様)超現実的なアクションやビジュアルで観客を楽しませる仕掛けである。

そうはいっても、派手なビジュアルだけの空疎な作品というわけではない。レオナルド・ディカプリオ演じる主人公は(何の偶然だか彼の近作『シャッター・アイランド』と同様に)妻や家族に対する罪悪感や深い喪失感を抱えた人物である。ミステリアスに登場し、ミッションの足を引っ張る妻の影。無事に仕事を成功させ、再び子供たちの笑顔を見ることができるのかどうか。家族の愛情や絆といった観客の感情に触れるドラマがある。

だが、ストーリーを語ること以上に、ストーリーを語るスタイルにもこだわりを見せるノーランのこと、本作の見所はそこだ。

主たる舞台が「夢」の世界といっても、ターゲットとした相手をトラップにかけるために設計された多層構造の夢である。「夢の中の夢」では階層を重ねるごとに体感的な経過時間がどんどん長くなるという設定が実に面白い。故事にある「邯鄲の夢」のごとく、現実にはわずかな時間でも、夢の中では一生に近い時間だって経験できるということを、ルール化したわけだ。本作は、そうした独自の「ルール」を作り出したうえで、そうした複雑な設定を映像で見せきる工夫をしているのである。クライマックスに至っては時間の流れ方が異なる複数の階層での出来事をクロスカットで編集してみせるなどというトリッキーな演出が炸裂、まさにクリストファー・ノーランの面目躍如、前代未聞の映像体験といってもいいだろう。

見終わったあとも解釈を巡っての議論を楽しめる作品である。が、遊びが少なく生真面目な作りもいいのだけれど、個人的な好みをいえばもう少し余裕を感じさせる遊びがあってもいい。それはノーランの演出にも、ディカプリオの演技にも云えることだと思う。まあ、山岳スキーアクションが露骨にボンド映画オマージュなあたりが、この人の「遊び」の限界なのだろうね。

7/17/2010

Toy Story 3

トイ・ストーリー3(☆☆☆☆)

最初の『トイ・ストーリー』が公開されたとき、「とりあえずフルCGIアニメーションで作ってみました」というようなエクスキューズなしの仕上がりに驚き、感心させられた。なによりストーリーが面白かったし、キャラクターが生きていた。その後、『バグズ・ライフ』を1本はさんで公開された『トイ・ストーリー2』には感嘆させられた。目に見えてレベルが高くなったCGI技術、笑いと涙のバランスがとれた脚本の巧みさ、演出の的確さ、細部への徹底したこだわり、そしてなにより1本の映画としての充実度と完成度。あのときの衝撃はまるで昨日のことのように覚えている。

その前作のリリースが1999年だったから、10年以上が経ったわけだ。この間にはいろいろなことがあった。

なにより、ピクサーがディズニーに吸収されるかたちながら、事実上、母屋を乗っ取ったのは大きい。あれがなければ、ピクサーと手を切ったディズニーがシリーズの続編を勝手に作っていたはずである。本作がピクサーの作品として完成したことを心から嬉しく思う。また、この間、ピクサーは、7本の長編作品を、それぞれ驚異のクオリティで作り上げ、ヒットを飛ばし続けてきた。CGI技術も、水や毛や重力の表現に始まり、人間のキャラクター描写というチャレンジを試みるレベルになってきている。演出面においても、アニメーションであるという枠組みを超え、映画として、ひとつ高い次元に到達しつつある。ラセターという一人の作家だけでなく、「チーム」・ピクサーとして、安定した品質で作品を作り続けるノウハウも確立したといっていいだろう。

そんな10年を経て作られた、ピクサーの象徴たる『トイ・ストーリー』の続編である。絶対にハズさないだろうとは思っているが、さりとてどんな作品になるのか、期待半分、不安半分で待っていたところ、作り手たちは、この10年という月日を、そのまま物語に織り込み、3本をまとめ、ひとつの大きな物語として完結させることを選択したのだった。続編ではなく、大きな物語の終章。賢いね。簡単そうでいて、なかなかできない発想の転換、これが本作を成功に導いた鍵だと思う。

主人公たちの持ち主であるアンディ少年も成長し、大学に通うために家を出るというのが今作の発端である。そして、『2』のときに語られた「玩具と持ち主の関係」、「玩具としての幸せは何か」というテーマを、もう一歩、深くつきつめていく。

まあ、そういう意味で言えば、テーマ的には前作で一度扱ったものの焼き直しである。が、前作で、いつか必ずくるであろう「別れのとき」を覚悟しながら、いったんは持ち主の元に帰ることを選んだ主人公、ウッディが、いよいよ「その時」を迎える話しである、と思うと、合点がいくし、感慨も深い。センチメンタルに流れがちな設定だが、そこはピクサー、脱獄ものの要素を取り込んだアクション・アドベンチャーとしてストーリーを練り上げてきた。大技小技から爆笑必至のギャグに至るまで、実によくできていると思う。しかし、その一方、致し方ないことと承知しつつも、「悪役」を必要とする物語の構造は安易だとも思っている。(まあ、悪役の描き方も前作以上に深みがあって、そういうところに手抜かりがないのもまた、ピクサーらしい仕事ではある。)

前作からの技術的な進歩はありとあらゆるところに及んでいる。(なにしろ3Dだ。)しかし、一番大きく進化したのは人間のキャラクターの表現だろう。キャラクターのデザインも(1作目、2作目に比べて)可愛くて親しみやすいものへと変わっているのだが、それ以上に、見せ方、演出のレベルが格段に高くなった。もちろん、ここ数作、ピクサー作品では人間キャラクターの扱いがひとつのテーマになっていたとは思うが、本作は明らかにひとつの到達点である。本作の肝でもある「別れ」のシーン、まさか、『トイ・ストーリー』なのに、人間キャラクターの「芝居」で泣かされるとは思いもよらなかったな。必見。

The Secret World of Arrietty

借りぐらしのアリエッティ(☆☆☆)


さて、改めて説明するまでもあるまい、スタジオ・ジブリ製作の新作長編アニメーション映画である。今回、三鷹の森ジブリ美術館で上映された短編『めいとこねこバス』の演出を手がけた経験のあるアニメーター米林宏昌が監督に抜擢されたのが話題の一つである。

本作は英国のファンタジー小説(メアリー・ノートン『床下の小人たち』)を原作としているが、舞台を都下、小金井に移して脚色(宮崎駿、丹羽圭子)。御存知の通り、小金井といえば、現在のスタジオジブリの所在地である。冒頭に出てくる川辺の道は、野川のほとりの風景そのものだ。また、舞台となる庭や屋敷は青森の盛美園がモデルだそうなのだが、古い洋館のそこここに「江戸東京たてもの園」(小金井公園内)で見ることのできるお屋敷などの佇まいも透けて見える。

時代設定は現代ということになっているようだが、全体としては「少し前」の印象を受ける。それは、舞台となる洋館に住んでいるのは年をとった女主と家政婦だけで、周囲を広い庭と森に囲まれて、時間が止まった間があるからだろう。女主ののるメルセデスはかなり古いモデルだし、病弱な少年も、ベッドで本を読むのだが、ノートパソコンをネットにつないだりするわけではない。現代といいつつ、今という時代を感じさせるアイテムが画面にしゃしゃり出てくることはない。まあ、御伽噺なのだから、それでいいという考え方がひとつ。あるいは、小人たちにとって(翻って人間にとっても)生きづらい時代であることを印象付けるなら、またもう少し違った描き方もあっただろう。

物語は、屋敷の床下に住む小人一族の娘がたびたび外に出かけるうちに人間に見つかってしまい、新たな棲みかを探す旅にでることを余儀なくされるまでを、滅び行く種族である小人の少女と病弱な少年の出会いと別れを通じて描くものである。原作にある様々なエピソードを削り落とし、エッセンスをコンパクトにまとめているところに好感が持てる。

アニメーションとしてはさすがに丁寧で贅沢な作りである。特に、前半で小人らが「借り(=狩り)」をするシーンはアドベンチャー映画的で魅せる。キャラクターの魅力も十分に出ているし、水彩がかった美術の美しさも素晴らしい。突如起用された仏人セシル・コルベルが書き下ろした音楽がいい。本人がハープを使って演奏し、歌もつけるこの音楽、原作の舞台に通じるケルト風味なのである。音楽の出来栄えで作品の格がひとつ上がっているんじゃないか、と思えるほどに、この起用、大成功だったと思う。

全体として、小粒ではあり、少女趣味というか、女の子ターゲットの作品である。そのことが好き嫌いを分けるだろうが、まずまずの良作に仕上がっていると思う。場面によって小人の大きさがどうとでも見えてしまったり、音の聞こえ方の違いにこだわって作った音響も場面によってはご都合主義だったりするあたりは、もう少し何とかならないかとも思うが、逆に言えば、本当に力のある作品であればそんなことが気にならなくなってしまうはず。(むしろ、縮尺だのなんだのと、現実世界の物理法則に気を使ってちまちま作っていては面白いアニメーションにはならない。)そういう、有無を言わせぬパワーが感じられる作品には、そうそうお目にかかれないのだから、ないものねだりといえばそれまでのことだが、世間が「ジブリ」ブランドに期待するハードルの高さは尋常ではない。そんなプレッシャーのなかで、この水準の作品を仕上げた作り手は、良い仕事をしたと賞賛しておきたい。

The Last Airbender

エアベンダー (☆★)

困ったなぁ。。。Mナイト・シャマランは贔屓の監督なのである。世間的な人気はともかく、毎回楽しませてもらっているし、今度はどんなのを作ってくれるかと、新作を心待ちにしている監督の一人なのだ。

そのシャマラン、今回の新作は、(それなりに人気があるらしい)アニメ作品を原作とするお子様ファンタジー映画、である。

『レディ・イン・ザ・ウォーター』、『ハプニング』と、批評的、興行的な失敗が続いているため、これまでのように強気で企画を押し通すことはできない、そんな理由があってのことであろう。(ちなみに、私は2本とも嫌いじゃないし、失敗作とも思っていない。)たとえお子様ファンタジーであったも、ここで確実なヒットを1本モノにして、颯爽とオリジナル企画路線へと回帰してくれたらファンとしては文句はないところなのだが、、、、またこの作品がな、出来栄えが微妙なんだ。

こんな映画に付き合う観客も多くはないと思うので、一応、設定とお話しをざらっと書くとこんな感じ。

火・水・気・土の四元素にわかれた各種族が国家を築いている世界。それぞれの種族には、火・水・気・土を操る特殊能力者(ベンダー)がいる。四元素全てを操る能力を持ち、精霊界と人間界を仲立ちできる者(アバター)というのが輪廻転生によって生まれてきて、世界の秩序を保っているた。・・・のだが、この「アバター」が失踪してしまったことから世界のバランスが崩れてしまった。「火」の国が野心をむき出しにして勢力を伸ばし、混沌とした状況に。そんな時、100年ぶりに本来「アバター」となるべきであった少年が発見される。この少年が自らの使命を自覚し、一人前になるための修行を重ねつつ、「火」の国の野望を打ち砕いていくのだ・・・という感じ。

確かに、面白くなりそうな要素は、ある。アニメは人気があり熱狂的なファンもいるようだ。中国武術的なものと、VFXを組み合わせたアクションも新感覚でいい感じだし、そのVFXがわりかし頑張っている(が、あとで変換した即席3Dの出来栄えは酷いものらしい・・・2Dで鑑賞して正解だった)。中国・インドあたりをイメージした、つまりは、白人中心ではない世界観は、ハリウッド大作としては稀有な例といえ、今後の新しい潮流の試金石になるかもしれない。(・・・とはいえ、主要キャストに演技のへたくそな白人俳優を起用するところがよく分からないところ。)

が、はっきりいって面白くない。

何よりも、設定を説明し、話を消化することで精一杯の脚本と演出が、物語世界を矮小化し、キャラクターたちを薄っぺらにしてしまった。また、キャラクターを演じる俳優たちも大根で見ていられたものじゃない。魅力のないキャラクターがいきあたりばったりに右往左往しているだけで、作品世界の存亡をかけた戦いの幕が切って落とされた、というスケール感が伝わってこないのでは、観客としても「まあ、勝手にやっていてくれ」ってなものである。

ちなみに、主人公の少年は「気」の国の出身で、その他の技には精通していない。ひとつずつ異なる技を習得しながら「火」の国と闘っていくという筋立てだ。冒頭、ご丁寧に「BOOK 1」だかなんだかのテロップが出るから、タランティーノの映画みたいに Chapter を区切って語っていくのかと思いきや、本作は第一部ですよ、という意味で、「水」の技を習得して、とりあえずの敵の軍勢を撃退するところまで。端から3部作かなんかのつもりで、次(があれば)は土の技をマスターし、最後は火、になるんだろう。まあ、それこそ「勝手にやってくれ」である。(もちろん、打ち切りになったとしても全く驚かないし、残念にも思わないけどね。)

7/03/2010

Bayside Shakedown 3 Set the Guys Loose !

踊る大捜査線 The Movie 3 ヤツらを解放せよ!(☆☆)

想像以上でもなく、想像以下でもなく。いろいろな小ネタを目一杯詰め込もうとした結果、2時間20分もの尺を使いながらもいびつで消化不良になっている。また、それだけ詰め込んでみたところで、長年のあいだに多様化してしまったファンのツボにもきちんと応えきれていない。きっと、いろいろな人がいろいろなアイディアを出したのだろう。苦心惨憺まとめてみたらこんなふうになった、と。

このシリーズ、そろそろ「イベント映画」路線を捨て、連続ドラマに回帰すべきではないだろうか。いかりや長介亡き後、キャスト(キャラクター)の世代交代を図りながらシリーズを続行するというのであれば、脇役にもスポットを当て、日常の延長線上でキャラクターたちのひととなりや人間関係をじっくり描き、それを育てていく余裕こそが必要だろう。それを数年に一度の派手なイベントとしての期待を背負う「映画」に望むのは少し難しい。

かのハニバル・レクターが獄中にいながらダラハイドを利用して牙をむいたことを想起させる「事件」が、湾岸署の引越しという混乱の最中に進行するというのが本作の骨組みである。およそ警察ものの定番外しからスタートしたこのシリーズだから、警察署の引越しというアイディアはそれらしくて悪くない。ここに、黒澤やら『ダークナイト』やら『エヴァンゲリヲン』やら、ありとあらゆるものの「オマージュ」が盛り込まれ、何度も繰り返して楽しむファンに向けて、さらに細かいお遊びやリファレンスがふんだんに挿入される。まあ、やりすぎれば鼻につくが、それもこのシリーズのお約束だ。

警察署の引越しを担う業者にしては身元確認が甘くてリアリティがないとか、セキュリティ・システムの解除がそんな安易でいいのか、といった脱力気味の部分も少なくないが、まあ、それもこのシリーズのお約束のうちなんじゃないだろうか。まあ、こういうところで白ける人もいるんだろうが、あくまでコメディだと思えば、許容範囲といえなくもない。

良い意味でも悪い意味でも君塚脚本らしさもある。映画版シリーズでも、ネットで知り合った若者同士であるとか、リストラ会社員たちを犯罪者として(ある種の偏見と共に)描いてきた延長線上で、メールアドレスでしか識別されないパートタイム労働者といったいかにもな時事ネタを潜り込ませる。今という時代の空気を感じさせるのはよいが、不特定多数のネットユーザーであるとか、社会における構造的な弱者に対する分かりやすい悪意や偏見が強く出ているのは苦笑すべきところなんだろうね。まあ、目をつぶってやってもいいや。仕方ない。

お笑いやおふざけのさじ加減が少しずつ間違っていて、笑える前に不快に感じるところも多々あるんだが、まあ、それもいつものこと。ん?そうだっけか?

しかし、頭をからにして、いろんなところに目をつぶって、大目に見てやって、初めて楽しめる作品っていうのはなんなんだろう。まあ、この監督がシリーズ以外で積み重ねた惨憺たる駄作の山を見れば、端から大きな期待をする方が間違っているのは周知の事実なんだけどね。

ひとつ言えることは、この作品の関係者たちはスカンクの臭いを舐めているってことだね。あんなもんで済むはずないないだろ、実際のところ。

The Extraordinary Adventure of Adel Blanc-Sec

アデル ファラオと復活の秘薬(★)

リュック・ベッソンが監督する作品を見るのは久しぶりだ。『Angel-A』があまりにも酷くて存在を忘れていたくらいだったが、それ以来である。最近は軽量娯楽映画のプロデューサーに専念しているものだと思っていたが、「アーサーとミニモイ」シリーズ(未見)で監督に復帰し、本作、である。10本撮ったら引退するなどと公言していたのはなんだったのか。別に面白い映画を撮ってくれるなら前言を幾度撤回してくれようが全く構わないのだが、こんなレベルの作品しか作れないなら、10年前に引退しておくべきだったと本気で思うね。

いやはや。

まあ、日本の配給が展開しているかつての東宝東和級ハッタリ宣伝を真に受けてはいけないのだが。それにしてもこれは辛い。酷い。つまらない。

仏コミックの映画化だという。主役以外のキャラクターには、原作のルックに近づける特殊メイクを施したりしているという。まあ、ウォーレン・ビーティが20年前に『ディック・トレイシー』でやっていたようなもんだと思えばいいのか。お話しは「インディアナ・ジョーンズ」風になるのかと思いきや、パリで「ナイト・ミュ-ジアム」という肩透かし。あなたは、笑えないコメディが延々と展開される苦痛にどこまで耐えられるか?全く以て観客の忍耐力が試される展開である。

だいたい、高度な技術を持つ古代エジプトの医師を蘇らせて、ほぼ死んでいる状態の妹を救うというメイン・プロットなのだが、いいですか、ミイラを復活させることができるのなら、端っから妹を蘇らせれば済むはなしじゃん。終了。

ま、愛人にしたい女を口説き落とすため、主演に立てて映画を作っちゃった、ってなところが真実だろう。その女優がよければまだ救いがいもあろうものを、人気のあるお天気キャスターだかなんだか知らんが、目も当てられない大根演技。まあ、ミラ・ジョボヴィッチだって似たようなものだったといえばそうなんだけど、女優以外に見所のない作品で、女優がダメだってのは致命的である。

唯一笑えたギャグは、ルーブル美術館からぞろぞろ出てきたミイラ様ご一行がひとこと、「これはなかなか素晴らしい場所だ、ぜひともピラミッドを立てるべきだ」。もしかして、このギャグがやりたかっただけなのか?そうなのか?そうだっていうなら、全て許してやってもいいぞ。(映画の舞台は20世紀初頭。現在、その場所には賛否両論あるガラスのピラミッドがそびえ立っているのはご存知のとおり。)