7/28/1999

Runaway Bride

プリティ・ブライド(☆☆★)

スターの魅力に甘え過ぎた作品だが、しかし、スターの魅力とはなんなのかを目の当たりにすることが出来るという意味では面白い。

結婚式場に新郎を置き去りにしたまま3度も逃げ出した花嫁。そんな田舎町のある女性をネタにしたコラムが新聞を飾ったところ、本人からの抗議で、記事を書いたコラムニストは仕事を失ってしまう。実は4度目の結婚式が間近だというこの女性に付きまとい、自分の正さを証明しようとするコラムニスト。2人はやがて恋に落ちてしまうのだったが,、さて、、、、という話。

主演はジュリア・ロバーツとリチャード・ギア、監督はゲイリー・マーシャルで、『プリティ・ウーマン』トリオ、10年ぶりの再結集である。

「逃げる花嫁」の4度目の結婚式を取材する記者、というアイディアそのものは、オリジナリティがあってなかなか秀逸である。一方、こういうリアリティに欠けた設定を支えるべき脚本と演出は緻密さを欠いていて凡庸なのである。しかし、それらを全て帳消しにするのはスターの魅力という、そういう映画だ。

ともかく、導入部の手際が悪いのにうんざりさせられる。コラムニストが「逃げる花嫁」を取材するに至る経緯はもっと端折ってしまうべきだろう。そして付きまとうように取材を始めてから彼女の協力を得るまでも、個々のエピソードは面白いのに、締りが悪い。「天敵どうしがいがみあっているうちに惹かれ合う」はずなのに、すでにして同窓会気分が蔓延なんだから困ってしまう。

それよりなにより、大きな嘘をつくにはリアリティの積み重ねが大事であろう。例えば1度ならいざ知らず、3度も結婚式を逃げ出したような女性が、幾分閉鎖的な田舎町に住みつづけている、住みつづけることが出来る不自然。これをどう不自然と感じさせないのか、そのへんになんの工夫も見られないのは、いかがなものかと思うのだ。

しかし、何と言おうとも話の内容よりも、スターで見る、スターで見せる映画である。ジュリアの個性は快活なアメリカ田舎娘で輝くから、こんな映画で活き活きとした彼女が見られるのは格別にファンでなくたって楽しい。また、4度目の結婚式のリハーサルで彼女とリチャード・ギアが見せる息のあった演技もいい。

ただ、ド派手な主演2人の影に隠れた感があるが、この作品で本来、最も注目すべきは名コメディエンヌ、ジョ-ン・キューザックの悶絶ものの演技だったりする。このひと、巧い。巧すぎる。

邦題は「プリティ・ブライド」なんだけど、酷いもんだなぁ。もうこの主演コンビだから、なんでもプリティにしちゃえってこと?

Deep Blue Sea

ディープ・ブルー(☆★) 

遺伝子治療の鍵となる生体物質をサメの脳から効率良く取り出すため、秘密裏に脳を巨大化させられたサメたちが、洋上に建設された実験場で人間たちに対して牙を剥く。ヤツらたちの目的は一体なんなのか。レニー・ハーリン監督3年ぶりの新作にはサミュエル・Lジャクソン、ステラン・スカルスゲールドらに加え、LLクールJ、サフロン・バロウズらが出演。

監督と脚本に、映画に出てくるミュータント・シャーク程度のIQを期待するのは、多くを求めすぎなのだろうか。企画も企画だが、出来映えもヒドいものだ。

要するに3頭のミュータント・シャークを相手に、洋上の実験施設内でエイリアンをやろうと云う中学生でも思いつきそうな企画なのである。それゆえなのか、そのくせなのか、一生懸命大作ぶろうとするあたりがそもそも勘違いだ。

さんざん勿体つけておいて、物語も中盤になってから「副作用としてサメが賢くなったのよ」といわれても、ね。

古いアイディアのリサイクル名手であるマイケル・クライトン程度の知恵がないなら、いっそ、「大きいサメがいて、そいつが何故か賢い」とか、「軍がサメの軍事利用のために」とか、定番のご都合主義で押しとおした方が、良かったんじゃないだろうかね。

まあ、いずれにせよ、ハーリンはそういう「賢いふり」をした部分に興味があるわけがないから、その辺の描写は全くおざなりである。派手に爆破さえすれば、面白くもへったくれもないストーリーや学芸会並みの演技も、矛盾と謎に満ちた小道具の出し入れも、ギャグでやってるとしか思えない仰々しい演説さえも忘れてもらえるはずだと信じている、典型的正調ハーリン節ここにあり。久しぶりに監督できて嬉しそうにしているハーリンの顔が目に浮かんでくるようだ。

この映画、観客の意表を突くつもりなのか、総じて安物なキャスティングに紛れ込んだ演技力のある役者をさっさと退場させたりする。それも一つの手だとは思うが、ここでは明らかな計算違いだった。曲者や求心力のあるキャラクターを失う度、映画は容赦なく退屈になっていく。そんななかでは飄々としたキャラクターでコックを演じるLLクールJが拾い物。あと、いついかなるときでも目の玉をひんむいて演説口調のサミュエル・ジャクソンには大いに笑わせてもらった。

しかし臆面もなく『ジョーズ』もどき聴かせてくれた音楽担当のトレヴァー・ラヴィンには頭が下がるね。

7/24/1999

The Blair Witch Project

ブレアウィッチ・プロジェクト(☆☆)

1994年10月、3人の学生がドキュメンタリー映画の撮影のためにメリーランド州の森のなかに踏み入ったが消息を絶ち、一年後、彼らが撮影したと思われるビデオと16ミリのフィルムが発見された。この映画は、そのフィルムに映った3人の、最後の数日間の姿を編集したものである・・・・という設定のモキュメンタリー・スタイルで作られた低予算映画。ダニエル・マイリックとエドゥアルド・サンチェス脚本監督による処女作である。

冒頭でぶっきらぼうに「3人のフィルムメイカーが森の中で消息を絶った。1年後にフッテージが発見された」とテロップが流れるや、その「残された」映像を編集したという設定の本編が始まり、カメラが地面に投げ出され空しく回りつづけたショットで幕を閉じる。

やはり、そのスタイルが注目の的であろう。スタイル、というのは映画そのものだけに留まらず、パブリシティのあり方も含めた「プロジェクト」全体とこの映画のあり方だ。そのプロジェクトの中にこの作品を位置付けたとき、はじめてその面白さと独自性が際立つのである。

逆にいえば、そういうプロジェクトを誘発した、低予算(=無予算?)を逆手にとった発想、この志の高さはたいしたものである。その志とは、偶然なのかもしれない、しかし、特撮やCGで何でも描けるようになってしまった時代に、予算制約を逆手にとって敢えて「見せない」ことで、単なるオドカシや生理的嫌悪感を超えたところにある「戦慄」をこそ産み出そうという、潤沢な予算で作られた大作ホラー映画とは全く正反対の方向性のことである。

観客が目にするのは、道に迷い、地図を失い、同じ場所を繰り返し歩かされて、お互いをの罵りあい、神経が衰弱して行く3人の姿だけである。夜になれば闇の中から正体不明のノイズを聞き、朝になると不気味な石の山や神経を逆撫でするような小枝の人型が周囲の木から釣り下がっている。観客にはそこで何が起こっているのか全く分からないし、説明もされない。丁度、この3人の登場人物たちがそうであるように。

変なもののいいかたかもしれないが、正直なところ、この映画は受身の観客を怖がらせてくれるほど親切に作られてはいない。このぶっきらぼうな映画は、しかし観客に参加することを要求してくるのである。われわれ観客は、スクリーンの登場人物と一体化して、自ら能動的に怖がらなくてはならないのである。そのための材料は映画の内外でふんだんに提供されているから、それらをもとにしながらいろいろ考えをめぐらし、能動的に、主体的に、積極的に、どんどん怖がった人の勝ち・・といえば、まあ、そんなものだ。実際、それができた人は「怖い」といい、出来なければ「くだらない」という。

しかし、スクリーンの中と一体になる、その意味で、極東の島国の観客にとっては、臨場感の源泉である言葉の壁が結構大きいかもしれないとは思う。字幕や吹き替えで見てもなぁ。付け加えていえば、ネット上で展開された様々な情報もそうだ。

言葉といえば、この映画はR指定を受けているのだけれども、どこかに血塗れやヴァイオレンスがある訳ではない。登場人物たちの、全く日常の延長線上にある言葉使いが理由だというのがなんとも皮肉に思えるじゃないか。

7/23/1999

Drop Dead Gorgeous

私が美しくなった100の秘密(☆☆☆)

ミネソタ州の田舎町でも、化粧品会社がスポンサーになって15年間続いているミス・コンテストの予備先行大会が行われようとしていた。17歳の出場者たちはそれぞれ自分の美しさや才能をアピールするのに余念がないが、同時に、始まった水面下での醜い争いをも密着取材のカメラは捉えていた! 

大会の出場者にデニース・リチャ-ズ、キルスティン・ダンスト、彼女らの母親を演じるカースティ・アレイ、エレン・バーキンら。マイケル・パトリック・ジャンの初監督作は、米国を蝕む(?)ミスコンを題材にした「モキュメンタリー」スタイルのブラックコメディの快作。誇張されたナンセンスさや薄気味悪さに加えて、紙一重の真実、現実の反映をしっかりと見せる脚本と演出は、なかなか技アリである。

この作品のオモシロさは、映画そのものを徹頭徹尾「擬似ドキュメンタリー」として作っていることである。作り物という意味の「モック」と合成した造語で、これを「モキュメンタリー」と呼ぶ。

こういう撮り方そのものは、最近でもティム・ロビンスが主演監督作『ボブ・ロバーツ』でやっていたりして、それ自体が斬新とまではいいきれない。しかし、こうすることで観客が映画のなかの登場人物を突き放した目でみられる距離感が生まれてくる。それは逆にいえば、登場人物の誰にも感情移入しにくい欠点ともなるが、本作では距離感がもたらす批評性が、ブラックでグロテスクな、ひねった笑いに昇華しているところが良いと思う。

ミスコンに入れ込む母と娘を演じるカースティ・アレイとデニース・リチャーズの作られた笑顔の薄気味悪さ。タップダンスを踏みながら、仕事で死人の顔に化粧をしているキルスティン・ダンストの健気なグロテスクさ。拒食症で入院しているのに笑顔をたやさない昨年の優勝者の気持ち悪さ。一見真面目なのにエロ親父ぶりが隠しきれない審査員の恥ずかしさ、など、ストレートに描くのではなく、ドキュメンタリー・クルーのカメラが真実を暴き出していくかのような演出が絶妙の味とリズムになって、オフビートな笑いを生んでいる。

地方大会だけで終わるかと思いきや、映画は引き続き州大会、全国大会とドキュメントを続ける。後半、少々盛り下がり気味になるこの構成はどうかとは思うが、作り手もそのことはわかっているのだろう、強引なアイディアでさっさとケリをつけ、地方大会出場者のその後をつけたすことで尺をだらだら伸ばさずにまとめ上げてみせた。

かつては美しかったカースティ・アレイが遂にキャスリーン・ターナー化(!)してしまった姿をみるのは、『スタートレック2』での輝けるデビューを知るものとしてはなんとなく寂しい。それに、ちょい役出演の松田聖子が日本語の台詞なのに大根演技で全く白けてしまうとか、彼女の名が「Seiko Mastudo」とクレジットされているとか、まあ、な。笑って見過ごすこととしようか。

Inspector Godget

Go Go! ガジェット(☆☆)

人の役に立ち正義を守ることに生きがいを感じている青年が警備員として駐車場で働いていたところ、事件が発生、犯人を追跡して追い詰めるも逆襲され瀕死の重傷を負ってしまう。そんな彼が、最新のロボティックス技術を使って「インスペクター・ガジェット」として再生し、身体のなかに内臓された様々な装備を駆使して犯罪に立ち向かう。

人気のあったカートゥーンシリーズをディズニーが実写映画化んだそうだ。元ネタは日仏合作の「ガジェット警部」だそうだ。知らなかったな。主演にマシュー・ブロデリック、敵役にルパート・エヴェレット。監督はデイヴィッド・ケロッグ。

この手の映画がしばしば陥る問題点は。どこかで「子供向きだからこの程度でいいだろう」としてしまう手抜きにあるだろう。いわゆる「子供だまし」というやつだ。本作もまた、残念ながらそういう一本。大人の鑑賞に堪える出来ではない。

死にかけていたとは云え一般市民をかってにサイボーグ化し、正義の味方として再生するということで思い出すのは、『ロボコップ』だ。アニメだと許容できても。実写でやると、役者の身体性に起因する生々しさが先に立ち、倫理的問題や、本人のアイデンティティの問題などがどうしても気になってしまう。そこに深入りするつもりがないのなら、いっそ、最初から、サイボーグ(改造人間)ではなく、ロボット(人造人間)としたほうが良かった。

物語の展開もご都合主義どころの騒ぎじゃない。ガジェットを動作させるチップが壊されてしまい、実質的に「死亡」した状態から蘇らせるシーンで、チップもなく、理由もなく、突然蘇生するというのは何事か。せめて「こういうこともあろうかと予備のチップを作ってあったのだよ」くらいの展開がないのは何故だ。

まあ、ことほどさように、あんまり頭を使っていない作品ではある。

かつての青春スター、マシュー・ブロデリックは小遣い稼ぎのつもりで出演したのだろうか。CGの洪水のなかで溺れている彼を見ているのはちょっと悲しくなる。一方、悪役のルパート・エヴェレットはいかにも楽しそうに怪演していて、それが本作の救いと言っても差し支えないだろう。

最近ディズニー実写ものを立て続けに担当しているジョン・デブニーが担当したスコアが楽しいこと。小ネタ的なギャグとして、「ニセ・ガジェット」に襲われた街で逃げ惑う人々のなかに日本人らしき人が登場してなにかわめきたてると字幕で「これがいやだから東京を脱出してきたってのに!」っていうのがゴジラ絡みのネタだろうけど、思わず笑ってしまった。

この映画ではあからさまに提携企業の製品やロゴが登場する。代表はマクドナルドで、全米のマクドナルドが展開中のインスペクター・ガジェットを使ったキャンペーンなどと連動しているわけだ。ちょっと目立ちすぎで嫌味に感じるのだが、どうだろう。

The Haunting (1999)

ホーンティング(☆★)

怖くないホラー。でも、笑えるわけでもないんだよな。まじめに作って、笑えなくて、怖くもない。何の役にも立たない。いってみれば、産業廃棄物みたいな映画である。

一応、シャーリー・ジャクスンのニュー・アメリカン・ゴシックの基礎を築いた『山荘綺談(The Haunting of Hill House)』を原作とする2度目の映画化で、今回は新人デヴィッド・セルフの脚色、ヤン・デ・ボンが監督している。ちなみに、最初の映画化は、傑作と名高い1963年のロバート・ワイズ監督作品『たたり(The Haunting)』。こちらは見えない恐怖の演出がなかなか巧みで、いま見ても面白いのでお薦め。見比べると技術が進化したからって、映画が面白くなるわけじゃないのがよく分かると思う。

さて、本作のお話しだが、「不眠症に関する研究」と偽った恐怖に関する心理学研究の被験者として、ゴシック風の巨大な屋敷にいろんな人が集められてくるところから始まる。その屋敷に秘められた過去があったことから、彼らが体験するのは、研究とは全く関係ない本物の恐怖に変わるのだった、という筋立てだ。出演はリリ・テイラー、リーアム・ニーソン、キャスリーン・ゼータ=ジョーンズら。

まずなによりも脚色が下手である。原作では主に霊現象の研究目的で悪名高い屋敷にやってきた人類学教授と、霊的現象の経験者に送られた招待状を見た人々が集まることになっているのだが、これを改変して、わざわざ導入部をまどろっこしくしている意味が分からない。登場人物間の人間関係や感情も描かれていない。屋敷の過去と登場人物を安易に血縁でつないだのも疑問だし、怪異の正体を暴いて単純な大団円に持ちこもうとするまとめ方も改悪。一見して原作のセッティングを忠実になぞり、有名な台詞(女中が繰り返す不気味な説明)やシーン(おかえり、エリーナ)を持ちこんだりしているが、原作の本質に対してはあまり敬意を表しているように思えない。

脚本の出来次第で映画の出来がぶれまくるヤン・デ・ボンだが、脚本にだけ責任を押し付けるわけにもいかない。最新のVFXで何でも見せられるようになった結果、見せちゃいけないものまで見せてしまったのが最大の敗因であろう。基本、幽霊話なんだから、観客から想像力を奪ってしまったら、何も残らない。遊園地のアトラクションとて、もう少し考えるだろう。撮影監督出身のヤン・デボンがキューブリック信者であることはわりと有名だから、キューブリックの遺作となる『アイズ・ワイド・シャット』の公開も間近となったこのタイミングで、古典小説を原作にして「呪われた屋敷」テーマに挑む以上、デボン版『シャイニング』との期待もあったのだけど、そういう比較のレベルになっていない。

一方で、邪悪な屋敷の内装・外見を含めた造形は頑張っている。「悪しき場所」に相応しい、ユークリッド幾何学を無視した(三角形の内角の和が180度に満たなかったり超過しているという)邪悪な歪みすら感じさせる力作。これは『奇跡の輝き』も担当したプロダクションデザイン担当のユージニオ・ザネッティの功績だろうか。また、『スターウォーズ エピソード1』で導入が始まった「ドルビーEX」対応の凝った音響効果も体感する価値くらいはあるだろう。音楽は巨匠ジェリー・ゴールドスミスが担当。最近の巨匠はなんだか知らないが駄作にばかりに駆り出されているような気がして不憫である。

7/16/1999

Lake Placid

UMA レイク・プラシッド(☆☆☆)

「巨大な人食いワニが大暴れする(笑える)ホラー映画」ときいて、そんなアホらしい映画に時間と金をつかうのはご免だという人に無理に勧めたりはしないが、ちょっとした拾い物。監督はいかにも「B」というイメージのスティーヴ・マイナーだが、脚本が大人気のTVシリーズ『アリー・マイ・ラブ』のデイヴィッドE・ケリーで、出演者にはブリジット・フォンダ、ビル・プルマン、オリバー・プラットと、悪くないメンツが並んでいる。

メイン州の片田舎、湖に正体不明の怪物が出現し、ビーバーの生態調査をしていた作業員が無残に下半身をくいちぎられる事件が発生する。どうやらそんな北方に住んでいる筈のない巨大なワニがいるらしい。地元の保安官らにNYの博物館の学芸員やら人食いワニの専門家を名乗る男が加わって謎の解明にあたろうとする、というのが一応の筋立てである。特にひねりがあるわけではない。

が、なぜか面白い。身の丈をわきまえ、90分に満たない尺でまとめたところが一番良いところ。そんな短い時間ながら、登場人物のキャラクターが立っていて、会話のテンポ、かけあいのも面白さも楽しめる。これはTV界で鍛えられたデイヴィッド・E・ケリーの持ち味が出たところだろう。人間が描けているとまで言わない。が、化け物が出ていない時間も退屈しないというのは大事なことだ。

そして、きちんと演技の出来る俳優がそろっていることも勝因といえる。特に人食ワニ専門家を演じるオリバー・プラットは登場した瞬間からもう最高だ。あちこちの映画で重宝されている理由もわかろうというものだ。そして、ヒロインのブリジッド・フォンダはお約束通りに悲鳴をあげてくれる。

今や古典となった『ジョーズ』などを手本にした基本に忠実なショッカー演出もこなれている。ここは多くのホラーものを撮ってきたスティーヴ・マイナーらしいところだ。俊敏に動く巨大ワニのVFXも(安手ながら)悪くはない。ジョン・オットマンもいつもより派手目のスコアで雰囲気を盛り上げてくれるし、ブラックな笑いもある。

まあ、前半はすこぶる楽しかったブリジッド・フォンダが途中から手持ち無沙汰になってしまうことや、ヒーローとして活躍しようなビル・プルマンが今ひとつ活かせていないことなど、残念なことはある。だから、一級品であるなどというつもりはない。底の抜けた大作に比べたらずっと面白く、楽しい時間を過ごすことができる作品である。こういうのが嫌でないなら、騙されたと思って、ぜひ。

7/09/1999

American Pie

高校3年の卒業を間近に控えた男たちが、せめて最後のプロムまでに童貞を捨てなければ話にならないと、それぞれ相手の獲得や説得に奮闘する、青春セックス・コメディ。ジェイソン・ビッグス、ミーナ・スヴァリ、クリス・オーウェン、クリス・クライン、アリソン・ハニガン、タラ・リード、シャノン・エリザベス、ショーン・ウィリアム・スコットら若いスターのアンサンブルに加え、主人公の父親役でユージーン・レヴィが出演。ポール・ウェイツの監督デビュー作品である。
 
面白いんだ。面白いんだけどね。まあ、高校生がアルコールを飲み、セックスに奔走するという内容自体を不道徳だとかいうつもりは毛頭ないのだが、大笑いをしながらも、ちょっとどうかなぁ、と思ったのは事実なんだよね。

ここのところ、ハイ・スクールものが数多く作られていて、80年代(つまりはジョン・ヒューズ)以来のちょっとしたブームになっている。その一方で、昨年のサプライズ・ヒットとなった『メリーに首ったけ』が図らずも「解禁」した、下劣でも笑えれば勝ち、みたいなトレンドがある。その2つが交差してできた安易なティーンズ・セックス・コメディだと感じたのである。なんだか、カネ勘定が先に立ったようなイヤラシさとでもいうのか。

でも、よくよく見ると、この映画、同種の先例である『ポーキーズ』のような単なる性春のドタバタと違って、ティーンエイジャーの切実な悩みや興味関心を描いた青春映画としてもかろうじて成立している。どこかにハートがある。何度か繰り返し見ているうち(←繰り返し見るな!)ちょっと、印象が変わってきた。

もちろん、簡単には忘れられないほどに強烈で、愚劣で、下劣なギャグもたくさんある。全てのネタが、徹頭徹尾セックスがらみに落ちていく。しかも、少々心配になるくらいに脳天気。だから、こういうのが嫌い、という人は見ないほうがいい。

でも、キャストを見れば分かるように、これだけたくさんのキャラクターを出しておいて、濃淡はあれどそれぞれのキャラクターが立っていて、映画の中でうまく活かされているってのは、作り手のキャラクターたちへの愛情なんじゃないか、とも思う。主人公のみならず、脇役にもいいエピソードが振られているし、きちんと活躍の場がある。

最初は、作り手が登場人物たちと同じ視点ではしゃいでいるようにしか思えなかったが、どうやらそれは私の見た手違いで、バカで軽薄な行動も「誰もが通って来た経験」として、説教するでもなく、広い心で許容しているのだなぁ、と思うようになった。丁度、ユージーン・レヴィ演じる人が良いが間の悪い父親がそうであるように。

そうそう、そのユージン・レヴィだが、さすがベテランである。主人公の男親として非常に理解があるのだが、いつも間が悪いところで登場し、息子ともども非常にバツの悪い思いをする羽目になるのだが、絶妙の台詞回しと表情で、もう、笑いすぎて死ぬかと思ったよ。後世まで語り継がれるレベルの珍場面、名演技だ。このためだけでも見る価値がある映画かもしれないなぁ。

7/02/1999

Summer of Sam

サマー・オブ・サム(☆☆☆)

1977年の夏、記録的猛暑がNYを襲ったあの夏、スタジオ54に代表されるディスコ文化が花開く一方でパンクロックのムーヴメントが勃興しつつあり、人々は「サムの息子」と名乗る連続殺人鬼の影に怯えていた。時に先鋭的、時に挑発的に、常に個性的な作品を発表しつづけてきたスパイク・リーの最新作。出演はジョン・レグイザモ、エイドリアン・ブロディ、ミラ・ソルヴィノら。

申し訳ないが、スパイク・リーは、なんとなく食わず嫌いで熱心に観てきたわけではない。本作も、スパイク・リーだから見たんじゃなくて、映画のはしごをしていて上映開始時間がちょうど都合が良かったので足を運んだというのが正直なところである。どことなくヘヴィーでとっつきにくい印象のある映画ではあるが、わりと面白く見ることができた。もちろん、スパイク・リー好きであれば、生ぬるいとか思うのかもしれないけどね。

映画のタイトルには「犬に命令されて次々人を殺した」といわれる連続殺人鬼のニックネームを冠しているが、実際のところ、映画が描くのは、殺人鬼そのものではなく、事件そのものでもなく、事件を背景にして疑心暗鬼にかられていくブロンクスの若者たちの夏、である。

行き止まり(DEAD END)と書かれた標識の下でたむろする若者たち。そういうあまりにも露骨なイメージを良いと思うか安易と思うかは意見が分かれるだろうが、なんといっても彼らの台詞にある臨場感(ライヴ感覚)と活きの良さがいい。そこに少しばかり超現実的で神経症がかった「サム」がらみの映像が挿入され、ある種の刺激的なリズムが形成されている。この映画において、「サム」は狂言回しに過ぎないのだけれど、ドラマ部分と対等の重さを持たされており、映画全体のトーンを規定してしまう。そういう構成の仕方が非常に面白いと思う。

緊張が頂点にたっしたところで勃発する停電と暴動。人々の間にある疑念や暴力衝動が身近な仲間へと向かっていく理不尽な病理。重くなりすぎず、軽くなりすぎず、先鋭的になりすぎず、しかし個性的に描かれた、70年代NYの一断面。

妻がありながら職場の女主人と浮気をするどこか煮え切らない主人公をレグイザモが好演。この人も作品によってイメージをころころ変えてくる器用な役者だ。「サムの息子」が近隣の知り合いの中にいると思いこんだ悪友たちのいうまま、パンクにはまった友人を裏切るかどうかの重大な決断を迫られていく。そのパンク・ムーヴメントに染まった友人を演じているのがエイドリアン・ブロディで、レグイザモに負けない素晴らしい演技をみせる。正直、『シン・レッド・ライン』のときはここまでいい役者だと思わなかった。