12/30/2010

Aibou the Movie II

相棒 劇場版II 警視庁占拠!特命係の一番長い夜(☆☆☆)

事件があり、解決したかのように思われたが、その事件には裏があり、事件を利用した組織間闘争がはじまる。杉下右京と神戸尊のコンビが真相に迫る。TVシリーズ継続中の2本目の劇場版は、イベント的、お祭り騒ぎ的だった前作とはガラリと趣を変え、シリーズを特徴付ける組織・権力を敵に回しての闘いを主軸に、警察庁・警視庁の確執を絡めた、ある種、本流に位置づけられるべき内容である。

もちろん、映画好きからは批判の対象になりがちな「TVドラマの映画化作品」ではあるが、本作の印象はそうした類の作品とは少し異なる。そもそも『相棒』という作品自体が、「映画屋の作るTVドラマ」である、というのがその理由でもあるだろう。本作には、存在を許したくない薄っぺらさはない。そして、職人が作る安定したプログラム・ピクチャーとしての面白さがある。

が、誉め過ぎも禁物だろう。なんでも台詞や回想シーンで丁寧に語らずにはおられない説明臭さはお茶の間的であって映画的でないし、金がかかったのであろう船舶の爆破シーンを何度も繰り返し見せてしまうような安っぽさには苦笑する。シリーズの一編としてはいつものとおり楽しませてもらった。が、単独の映画としてはまあまあ、といったところが公平なところであろう。

売れ線の若いタレント俳優たちではなく、ベテラン俳優たちがズラリと揃う画面の地味ながら渋い重みがいい。警視庁幹部監禁占拠の裏にある事件が、シリーズではおなじみの脚本家の一人、古沢良太脚本のNHKドラマ『外事警察』を想起させるものであること、俳優の顔ぶれを見ていると概ね着地点が想像できてしまうのは弱みだが、盛り沢山な要素にメロドラマを絡め、それなりの見応えがある。

杉下右京と神戸尊の、普通のバディものがやる「頭脳派と行動派」といったような定番の組み合わせとは少々毛色の異なる珍しいタイプのコンビも板についてきたところで、もっと俯瞰的な視点での「相棒」といえる重要キャラクターに退場いただくという決断はシリーズとしてはチャレンジングだが、その(物語内での)処理は少し無理矢理感があったのではないか。

12/25/2010

Burlesque

バーレスク(☆☆★)

田舎町からL.A.に出てきた小娘が魅入られたショークラブ「バーレスク」の舞台で、持ち前の実力を活かしてスターとして成功していく話に、作曲家兼バーテンダーとの恋愛や、嫉妬深い先輩スターとの軋轢、地区の再開発を狙う敵対的買収者からクラブを守り再生する話を絡めたストーリー。ご存知、クリスティーナ・アギレラ主演作。予告を見たときの地雷臭は相当なものだったので懐疑的だったが、少なくとも、「シンプルな筋立てを華やかなショーでつないだミュージカル風味の作品」という狙いを外してはおらず、ゴージャスでセクシー(というか少し下品)なダンスの振り付けもスクリーン映えし、多くを求めないのなら楽しめる1本には仕上がっている。小さな役とはいえ(『キャバレー』の舞台で評判をとった)アラン・カミングの出演があるのも、作り手の狙いや嗜好の表れだと思えば好印象である。

この映画の一番の不満は、本来一番の肝であるべき楽曲の問題であろう。アギレラが劇中で歌う(本人もクレジットに名を連ねた)楽曲が、どれもこれもシングルヒット狙いなのか、今風にリズム主体で、ミュージカルの楽曲としての魅力を全く持ち合わせていない退屈なシロモノだ。ビジネス上の理由なのだろうとは想像するが、なによりこれが映画であり、ミュージカルであるということを念頭におけば、こういう楽曲にはなるまい。逆にいえば、それ以外の楽曲はなかなか良く出来ているといえる。シェールが歌うナンバーなどは、彼女の歌唱力も込みで大いに見所、聴かせどころで、それ故にアギレラの楽曲の安っぽさがいかにも残念だ。

脚本の問題でいえば、シェールの回りの男性キャラクターがうまく整理されていないことが気になった。演出家であり長年にわたる理解者として配置されたスタンリー・トゥッチのほか、夫役のピーター・ギャラガーが出てくるのだが、この物語上の位置づけが中途半端で、何がやりたかったのかさっぱりわからない。ビジネス面を担当しているように見えるのだが、敵対的買収者とつながる悪役という位置づけではないし、シェールの味方・代弁者として采配を振るうでもなく、無能にも右往左往しているだけ。キャラクターとして、必要性も必然性もないだけでなく、シェールともあろう女主人がこの男のどこに惹かれたのかさっぱり分からないのは致命的。いっそこの二つのキャラクターをスタンリー・トゥッチの側に寄せて集約してしまったほうがスッキリしただろう。

12/24/2010

Tron Legacy

トロン・レガシー(☆☆☆)。

なんと、28年ぶりの、正統な続編である。独立した映画として楽しめる作りに放っているが、ストーリーは前作の後日談であるし、前作で主演を務めたジェフ・ブリッジスが、新しい技術の助けも借りながら、年を重ねた現在の姿と若かったかつての姿の両方で登場。様々なレベルで前作と前作を生み出した時代に対する敬意がきちんと払われており、そうした作り手の態度はある種、感動的ですらある。

同時に、この作品には、単なる続編というだけでない違った意味合いを感じさせられる。それは、28年前にやりたくても技術的にできなかったこと、「こうであるべきだったヴィジュアル表現」を、今の技術で実現して見せる映画、としての製作意義である。前作はCGIを全面導入するということで大変な前評判を呼んだけれども、技術や予算の関係上、単なる普通のアニメーションでお茶を濁さざるをえないシーンも多かったと聞く。また、先端的でインパクトがある映像ではあったが、それを生み出す映像技術は、作り手のイマジネーションに追いついていないように感じたりもしていた。

本作は、前作が確立したアイディアを土台に、あの時代に空想された(懐かしい)未来的イメージ、レトロ・フューチャー感を今日的な感覚でまとめあげたデザイン・ワークが大変に素晴らしい。また、ヴィジュアル表現と音響効果・音楽がひとつに融け合って、とても見応えのある映像作品になっている、と思う。本作は音楽担当に売れっ子のダフトパンクが起用され、劇中に顔(?)を出してさえいるのだが、音楽作品として割と独立した存在になるのかと思っていたら、映画が表現する世界の欠くべからざる一部として統合されたものになっているところがいい。これを映画館の暗闇で体験することは、それだけでなかなか満足度が高い。また、本作は3Dのみで公開されたが、そこに対して過度に期待した観客は肩透かしを食らったかもしれない。3Dによる何か革新的に新しい映像表現というより、映像世界への没入感を高める意味合いのほうが強いように感じられる。

前作でも指摘されたことの繰り返しになっているのが皮肉であるが、ヴィジュアル面に比べるとストーリーは必ずしも強くない。また、30年近くのあいだにコンピュータ世界、仮想世界をテーマにしたSFや娯楽作品がたくさん登場したこと、一般的な観客の理解度も大きく変わったことで、どちらかといえばファンタジー寄りな本作の設定を子供騙しだと感じる観客もいるのだろう。しかしそれをとやかくいうのは無粋じゃなかろうか。前作にしたってもともとファンタジー要素の強い作品なのだから、「ウサギの穴に落ちて不思議の国に行きました」と同じタイプの作品だと心を広く持つ方が楽しめるはずである。

ともかく、音響の優れた劇場で体感するのが本作の一番よい楽しみ方なので、迷っているくらいなら劇場へ。前作を知っているのなら迷わずにお勧めしたいんだけどな。

12/23/2010

Charlie St. Cloud

きみがくれた未来(☆☆☆)

ディズニー系のTVムーヴィー『ハイスクール・ミュージカル』シリーズで人気が出たザック・エフロン主演の最新作。そこそこ楽しめるコメディであった前作『セブンティーン・アゲイン』で組んだバー・スティアーズ監督と再び組んだ本作は、ファンタジックな青春映画の佳作である。

ヨットレースの実力を見込まれて名門大学への進学も決まっていた主人公だったが、自動車事故を起こし、同乗した幼い弟を死なせてしまう。それをきっかけに地元の墓守りとして世捨て人のように暮らすようになる主人公。それにはわけがあった。死んでしまった弟が、生前に交わした野球の練習の約束を守り、日没前のある時間、毎日主人公の前に現れるからなのだ。

・・・・いやはや、弟の死に傷つきより人生を捨ててしまった男の再生の物語には違いがないのだが、これは立派な怪談話だ。弟だけかと思っていると、時折、かつての同級生も姿を表したりもする。高校卒業後に入隊し、戦場で命を落としたらしいのだ。しかし、これは "I see dead people" という映画ではない。自責の念にかられ、自分の人生の時間を止めてしまった青年が、人との出会いを通じて再び歩き始めるまでを優しいまなざしで見つめるドラマなのである。こういう「怖くない怪談」があってもいい。

キム・ベイシンガーとレイ・リオッタが共演。レイ・リオッタは主人公の命を救った救命士として登場、得体のしれない風貌で怪しいやつかと思わせるのが狙いなのかどうかわからないが、レイ・リオッタに突然話しかけてきたら、ちょっと恐い。ヒロインのアマンダ・クルーが可愛い。『ファイナル・デッドコースター』に出てたらしいが、覚えてないや。

12/21/2010

Norwegian Wood

ノルウェイの森(☆☆★)

おそらく、本作にわりと否定的な世間の雰囲気を思えば、当方、そこそこ楽しませてもらったほうなんだと自覚しているのだが、それでも、わからないのだ。この映画を今、敢えてこの時代に作ることの意味が。出来上がった作品はある部分興味深く、ある部分退屈な凡作だと思っている。が、この映画を作ろうという企画意図は、映画を見終わった今、余計に分からなくなってしまった。まあ、それはさておくとしよう。

しかし、ゴージャスなルックの映画である。舞台にしている時代の雰囲気を醸し出そうと細かいところにお金がかかっている。そこらへんの邦画にはない感じ、というのは、もちろん異邦人である監督や撮影監督の感性や技術だったりによるところが一番大きい。ご存知のとおり、本作の監督はパリ在住のベトナム系、トラン・アン・ユンで、撮影監督は『夏至』で監督と組み、最近では『空気人形』でも素晴らしい仕事を見せてくれたリー・ピンビンだ。しかし、それと同時に、美術やセット、衣装などに対して贅沢に、使われるべきお金がしかるべく使われた結果でもあるのだろうと想像する。

いや、もしかしたら、小説で記述されたリアルな話し言葉としてはいささか不自然に聞こえないでもない台詞が、役者の口からそのまま語られることの異化効果とでもいうべきものが、案外効いているのかもしれない、と思ったりもする。この映画が放つ、何か作られたものであるという感じ、人工的な雰囲気は大変に特徴的なものだが、原作を尊重した結果なのかどうか、そういうスカした書き言葉を話し言葉として使う効果に自覚的であったかどうかは全く分からないけれども、ここにある何か普通ではない世界は、そうした様々な要素を積み重ねた結果、獲得したものであるのは間違いあるまい。

一応紹介すると、お話しは単純。学園紛争で騒然とする時代。自殺した親友の幼なじみであり恋人だった女性と関係を持ったあまり主体性の感じられない主人公が、精神を病んで療養所に入ったその女性への思いを断ち切るわけでもなく、キャンパスで出会った別の女性にも惹かれ、曖昧に関係を続けるうちに悲劇が起こる、という感じ。違う?えー、まあ、原作未読なのでご勘弁を。

原作や原作者に強い思い入れのある立場だと、本作のキャスティングには色々言いたいことも出てくるようだが、そうではない当方としては悪くないんじゃないの、と思う。キャストは皆、熱演をしているようにも見えるし、演技らしい演技をさせてもらえていないようにも見える。主人公を演ずる松山ケンイチの、どっちつかずで低体温な感じはすごく良いし、ほとんど演技経験のない水原希子なんか、たぶん一生懸命頑張っているに違いない演技はそんなに上手くないのだが、その雰囲気と存在感は映画の重要な構成要素になり得ているというあたりが面白いものだと思う。

12/20/2010

Killers

キス&キル(☆☆★)

えーと、勝手に邦題をつけると『トム・セレックの殺し屋がいっぱい!』という感じの作品である。脇役とはいえ、やっぱり(80年的には)トム・セレックだろ。本作ナンバー#1の大スターは。

ちなみに、原題は味もそっけもなくストレートに "Killers"。中身はヒロインが巻き込まれるタイプの、ロマンティック風味を交えたアクション・コメディである。夫は(元)スパイ。それと知らずに結婚した妻。似たようなアイディアの組み合わせである先行作、『ナイト&デイ』にあやかっての邦題なのか、『キス&キル』。アクションだけじゃなくて、ロマンスが入っているよ、と女性観客向けにアピールしたつもりもあるんだろうね。

まあ、邦題がそんなんだから、見ているこちらもついつい、トム・クルーズ&キャメロン・ディアスW主演のジェームズ・マンゴールド作品と比べてしまうわけだが、ちょっとフェアな比較にならないようには思うのだ。だって、あちらは。観客をどうやって喜ばせたらよいかを心得た熟練のスターたちと、それを活かした映画作りはどうあるべきかを分かっている職人監督が贅沢に金を使って撮った作品だしね。そこは演技者にしろ、作り手にしろ、経験が違う。コメディのさじ加減やリズムも違う。そしてなにより、画面にみなぎるスター・パワーが違う。それに予算だってかなり違う。

南仏のリゾート地でであった男女が恋に落ちて結婚、幸せな家庭生活が始まったかに思えたが、男には元スパイ、腕利きの殺し屋としての過去があった。ある日を境に、何の前触れもなく近所や同僚が男の命を狙って一斉に牙を剥き、全く事情の分からぬ女を巻き込んでサバイバルと真相追求が始まるのだった、という話。映画の舞台は郊外の住宅地で、実態は安上がりな「ご近所アクション・コメディ」なのだが、冒頭に南仏ロケで無理やりゴージャス感を付与しているあたりは安物映画なりの賢い作りといえる。

監督は『キューティ・ブロンド』を成功させたロバート・ルケティックで、前作『男と女の不都合な真実』に続いてキャスリン・ハイグル主演作への登板である。キャスリン・ハイグルは、今回も「そろそろ焦りの出てきた年齢の恋人のいない真面目な女性」を演じているのだが、前作と同じく「捨て身の演技」というのか、悪く言えば下品で痛々しく、ちょっと見ているのが辛くなってくる。脚本・演出もセンスが悪いが、この調子ではいつまでたってもロマンティック・コメディの女王の座は手に入るまい。相手役に選ばれたアシュトン・カッチャーは、キャスリン・ハイグルとは同年代でそれなりの年なのに、かなり若く見える。鍛えられた体は見事だが、ちょっと違和感。あまりに整いすぎた風貌がかえってつまらないし、演技が真面目すぎて映画のトーンを壊している。

そういう主演二人じゃ心許ないということなのか、ヒロインの両親役としてトム・セレックとキャスリン・オハラがキャスティングされていて、ベテランならではのとぼけた演技を見せているのだが、主演の二人とトーンが噛み合っていないのが残念である。過保護で厳格な父親として登場するトム・セレックが、流石にそれだけでは終わらないところ・・・というのか、この役にトム・セレックを引っ張ってきたところは良かったと思う。

12/11/2010

Robin Hood (2010)

ロビン・フッド(☆☆☆)

さて。年末年始スコット兄弟祭りの開幕をつげるスコット兄の新作が、本国から半年遅れで登場である。監督とは5本目の作品になるラッセル・クロウ主演で、その題材は誰もが知るシャーウッドの森の義賊、『ロビン・フッド』ときたものだ。

ご存知のとおり、「ロビン・フッド」は実在の人物や出来事がいろいろ重なりあわさって成立した架空のヒーローである。本作はヒーローとしてのロビン・フッドの活躍を描く劇画調の作品ではない。同監督の十字軍映画『キングダム・オブ・ヘブン』の続編とでもいいたくなるような12世紀英国の時代背景を踏まえたゴージャスな史劇といった風情と風格をもった作品に仕立ててきたところが特徴的であり、面白いところだ。獅子心王リチャード1世の十字軍遠征からの帰途から話を語り起こし、十字軍に従事した射手がロビン・フッドとして仲間たちと共に体制に逆らうヒーローになるまでを主筋としながら、ジョン王の課税に対する諸侯の反発、マグナ・カルタ成立にいたる萌芽を背景として描いていく。

ちなみに、近々日本でもTV放送が予定されているリドリー・スコット製作のミニシリーズ『大聖堂』は同じく12世紀だが、『キングダム・オブ・ヘブン』、『ロビン・フッド』に先立つ時代が舞台になっており、あわせて欧州中世史3部作、だな。

仕立てや構えは大仰であるけれども、だからといってとっつきにくい小難しい映画になっているわけではなく、実質的にはシンプルな娯楽活劇としての構造になっている。ただ、娯楽活劇としては、主人公たるロビン・フッドに物語をリードしていく明確な意思や行動規範がなく、周囲の状況に巻き込まれて受身で動いていくところに、ある種の物足りなさを感じないわけではない。本作の意図が「ロビン・フッド」をダシにして英国中世史の一断面を見せるという趣向だと考えると、そうした描き方もさもありなん、と納得がいくのだが。

映像的な見せ場は盛りだくさんだが、ひとつひとつに特筆すべき目新しさは感じられない。そのぶん、表現としてはこなれており、ここぞというところでの見せ方も巧みである。リドリー・スコットという名前にはもっと違うものを期待してしまいがちだが、1937年生まれにして、これだけ体力を要求される大作を次々作っていること自体が驚きというべきだろう。

12/04/2010

Amelia

アメリア 永遠の翼(☆☆★)

リンドバーグに次ぎ、女性としては世界初の大西洋単独横断飛行を成功させたアメリア・イヤハートは、 日本での知名度はあまり高くないとはいえ、米国ではたいへんに人気のある人物だ。米国の映画やドラマを見ていると思わぬところで登場することがあって、例えば『ナイト・ミュージアム2』での「活躍」も記憶に新しいところだし、『スタートレック:ヴォイジャー』には、エイリアンに拉致されていたアメリアと、彼女を尊敬する女性艦長が銀河の反対側で出会うことになるエピソードまで登場する始末である。まあ、消息を絶ったまま遺体が確認されていないというところも想像力をかきたてられる所以なのだろう。

本作は、その(米国で)国民的な人気のあるヒロインを題材とした伝記ものである。特に変わったことをやろうとはしておらず、1937年、世界一周飛行の途上、南太平洋上で消息を絶つまで、時系列的に彼女の人生をなぞっていくスタンダードな作りになっている。そこで描き出されるのは、アメリア・イヤハートという女性の奔放で自由な私生活、挑戦や偉業、米国の航空政策に果たした役割や、後進の女性たちに与えた影響、彼女を懐深くサポートし続けた夫との夫婦の愛情だ。

監督は『サラーム・ボンベイ!』、『モンスーン・ウェディング』で知られるインド出身のミラ・ナイール、脚本は『レインマン』で一世を風靡したロナルド・バス、、、をを、久しぶりに見る名前だな。本作の弱さは凡庸で工夫のない脚本と、大空を飛翔することの高揚感や爽快感、主人公を空へとかきたてる動機をきちんと映像にできていないことだろう。一方、セットや美術には金がかかっている様子で、映像はそれなりに贅沢である。

主演はヒラリー・スワンク。強い女性の繊細な感情を演じさせたら、確かにこの人、なんだろう。危なげはなく安心してみていられる。彼女を支え続ける夫役がリチャード・ギア。いってみれば、懐の深い「待つ男」という役どころ。もう一人、彼女の人生に大きなかかわりを持つ男としてユアン・マクレガーが共演。3人それぞれに持ち味を出しているのだが、想像の範疇というのか、少し退屈であるともいえる。ヒラリー・スワンクはすごい女優だと思うし、好きな人なんだが、作品選びがイマイチだ。リチャード・ギアもこういう退屈な役をやる俳優、という位置づけになっちゃったのかな。

スパイとして日本軍に捉えられていた説まであるアメリアだが、そういえば、つい最近、彼女の遺品の一部と思しき物や遺骨だと思われる骨が見つかったなどというニュースが流れていたが、今度は決定版になるんだろうか。

12/01/2010

Space Battleship Yamato (2010)

Space Battleship ヤマト(☆☆)

私はかろうじて、「宇宙戦艦ヤマト」をリアルタイムで楽しんだ世代に属している。当時、次々作られたシリーズ作品にあれこれと文句をつけながらも広い心でそれなりに楽しんできたし、とうの昔に醒めたとはいえ、「私の心ははるかにファンに近い」。(そうでなけりゃわざわざ復活篇まで観に行ったりするもんか。)

だから、あの「ヤマト」が実写で再現されているという事実、あの耳に馴染んだ旋律、あの名場面・名台詞がそこにあるというだけで、無条件に心揺さぶられるものがあったりする。それは、もう、映画の出来栄え云々を超越した次元の話である。白状すれば、あのどうしようもない復活篇ですら感慨深いものが込みあげてきて胸が熱くなる瞬間があったのだから、これはもう理屈ではない。刷り込みといってもいいだろう。

しかし、本作が「国産SF大作」なんかではなく、良くも悪くも「ヤマト」映画でしかないことには苦笑してしまった。なんだかんだいわれているが、今回の脚本はいくつかのポイントはちゃんと押さえている。ここまで「ヤマト」なら、例えばアニメの完全コピーを目指した『スピードレーサー』(←マッハGoGoGo)路線でもよかったのに、中途半端にちゃんとSF大作ぶってしまうからギャップが少々恥ずかしい。山崎監督もファンであるはずの『ギャラクティカ(2004-2009)』の剽窃的引用がやたら目立つのだが、結果として、「秋葉原の片隅で売られている聞いたこともない中国メーカーが作ったろくに動きもしないiPad もどき」とか、「中国のどこかの遊園地が建てちゃったオレンジ色のガンダム」の類のような居心地の悪さを感じないわけにはいかない。

いや、これは居心地の悪さで済ませられない話で、オマージュと剽窃のあいだにある一線とは何かについて論じるべき問題なのだろう。そして、「ヤマト」という作品(自体も回を重ねるに連れてグダグダになっていったのは事実としても、それ)が切り開いた地平、歴史的な意義に対して敬意を持つものであれば大いに怒り、悲しむべきことなのであろう。

とはいえ、もとネタが"悪い意味"であの「ヤマト」だし、どうせろくなものになりゃしないとは思っていた。もっと酷いものを予期していた。もっといえば、国産SF映画に何も期待できないという諦めの境地が出発点である。期待値が低かった分だけ、口でいうほどには落胆していなかったりもする。

結局、CGIの登場によって、技術的な彼我の差が小さくなったことが一番効いているのだろう。米国産の大作とは比べようもないほどケチな予算しかなくても、『さよならジュピター』(1984)のせいで宇宙SFものの系譜やノウハウが25年間途絶えていても、そこそこ見られる画が作れるというのにはちょっと感心する。

そうしてみると、本作がだめなのは技術ではなく、センスだ。艦内の美術やセット、衣装、小道具の(もちろん予算もなかったんだろうが)醸し出す恐るべき安っぽさ。SFマインドの欠如した今時びっくりするような描写や演出。脚本の矛盾や説明不足。あと、それと並んでダメなのは、脇のほうにいる役者たち。役者の層の薄さが露呈しているんだろうか。主演・助演クラスは演技のトーンがバラバラだとはいえ、まだ観ていられるのだけれど、脇になればなるほど酷く、これぞ学芸会並というやつだろう。効果音や音楽が途切れる艦内での小芝居は、セットが学食並であることも手伝って見ているのも恥ずかしいレベルである。

ちなみに、わりと濃いファン層からは、オリジナルから大胆に改変された脚色が許せないという声が強いようである。が、まともな映画脚本としての完成度はさておくとして、第1作と「さらば」を中心に、それ以降の作品の要素やネタを細かく持ち込んで再構成された脚本は、ああ、これは「ヤマトファン」の仕事だなとわかるし、足りないことはいっぱいあるけれども、ある意味、よく頑張ったといえなくもない。(まあ、ファンと言っても色々あって、どうもこの作り手たちは主要キャラクターを次々に殺し、挙句、特攻を美化して感動を安売りした、あの忌まわしき「ヤマト」を受け入れられるタイプのファンなんだろうけどね。)

どう転んでも勝ち目のない戦いを引き受けた監督以下の気概や、決して恵まれていたとも思えない製作環境で、それなりの商品にまとめあげた努力は評価したい。ある世代であれば誰もが夢見たであろう『宇宙戦艦ヤマト』の実写映画化は、同時に、誰が考えてもうまくいきそうにない企画でもあったはずなのだから。