12/26/1998

Stepmom

グッドナイト・ムーン

ジュリア・ロバーツ演じる離婚歴のある写真家が主人公。今は2人の子供を持った男と生活を共にして、健気に子供たちの継母を務めようとしているのだが、子供たちはスーザン・サランドン演じる実母の方に懐いており、しっくりいかない。もちろん、主人公と子供たちの実母とは、互いのライバル心もあっていつもギクシャクしているのだったという設定で幕を開けるホームドラマ。監督は、クリス・コロンバスだ。

クリス・コロンバスという名前を聞くと、私なんぞの世代だと、『グレムリン』や『ヤング・シャーロック』で業界に現れた若き脚本家のイメージがあるが、いまじゃ『ホーム・アローン』の監督、だよな。監督デビューはエリザベス・シューが主演した『ベビーシッター・アドベンチャー』。なかなか楽しい作品だった。結果的な話かもしれないが、これまで一貫して「ファミリー」や「子供」を描いてきた人だというのは事実である。そして、子供から生き生きとした自然な表情を引出すのに長けていて、家族を見つめる視線が優しく、暖かい。

本作における人物配置と物語の構造は、意識してかせずしてか、同じクリス・コロンバスの『ミセス・ダウト』とよく似ている。『ミセス・ダウト』では離婚家庭に家族の隙間を埋める別の存在(実は父親)が現れて、何もかもうまくやって子供の信頼を勝ち得てしまう、という話だった。今回は養育権を持った夫と、新しい妻のところに夫の前妻が現れて、子供の心を独占してしまう。

だが、その先がドタバタ劇にならないで、泣かせのドラマになるんだよなぁ。

ドラマに盛り込まれたテーマも盛り沢山である。「病に侵された母親と残された家族のドラマ」、「継母と実母の確執」、「継母と子供たちとの確執」、「家庭とキャリアの選択」、「複雑な形を持ったあたらしい家族像」・・・・よくもまあ、これを破綻させず、2時間強、ハリウッド調の軽やかで口当たりの良いファミリードラマに仕立てたものだと思う。

しかも、人気・実力ともに高い2大主演女優が共に製作総指揮に名前を連ねていて、ロナルド・バスを含めて6人ものライターが執筆に携わっている企画だからね。

今回の見せ場は、女優としての貫禄も含めてスーザン・サランドンがさらっている。いつものことながら、少し力みすぎのところがあるが、相手がスターのジュリア・ロバーツなんだから、力んでみせるのもよくわかる。ラスト・シーンで見せるジュリアが小娘にみえるほどの貫禄は、さすがとしか言いようがない。

大女優を前にして、一歩引いてみせた感のあるジュリア・ロバーツが、いつもになく良い演技である。才能にもキャリアにも恵まれていながら、ある男を愛したがために、その子供も愛そうと健気な努力(+どたばた)を見せる役柄は彼女にしては新鮮でもある。。賞レースに名前は挙がらないけど、最近、波にのっているんじゃないかな。

クリス・コロンバスは、いつも既成曲の使い方が上手いのだけど、今回もいい演出があった。「継母と子供たちの心が通い始める」ところを、そして「一度はギクシャクした実母と子供たちの関係が修復する」ところを、マーヴィン・ゲイの"Ain't No Mountain High Enough"に乗せて軽やかにみせるんだな。この映画が気に入ったら、この曲も気に入ることだろうと思う。

なお、邦題『グッドナイト・ムーン』は製作中の仮タイトルとして使用されていたものなんだってさ。

12/25/1998

The Faculty

The Faculty
パラサイト

ここのところ大人気、『スクリーム』、『ラスト・サマー』シリーズやTV『ドーソンズ・クリーク』で名を上げたケヴィン・ウィリアムソン脚本を、なんと、ロバート・ロドリゲスが監督したSF侵略学園ホラーの登場だ。

オハイオ州の田舎町にある平凡な高校で、ある日を境にして先生たち(原題=Faculty) の奇異な態度や行動が目立つようになる。これに疑念の目を向けた学園生活のはぐれ者たちが、背後にある恐るべき事実を目の当たりにしたときには、自らの生き残りと、謎の寄生生命体の蔓延阻止を賭けた壮絶な闘いに巻き込まれていた!

出演は、イライジャ・ウッド、ジョッシュ・ハートネット、クレア・デュバルら高校生を演じる若手スターと、『ターミネーター2』のロバート・パトリック、『キャリー』のパイパー・ローリー、ファムケ・ヤンセン、ビビ・ニューワース、サルマ・ハヤックらの「大人」たち。

「人の顔をした人でない何か」という題材は、ホラー・ジャンルの古典的なテーマだといえるだろう。この作品の先祖をたどっていくと、冷戦下で共産主義の恐怖が反映された『ボディスナッチャーの恐怖』であるとか、衝撃的だった『遊星からの物体X』あたりがあるだろう。そこに、最近何故か盛りあがりをみせているティーンズ映画の流れが合流したことで、ちょっと面白怖い仕上がりになっている。

その功績は、もちろんケヴィン・ウィリアムソンの脚本にある。ジャンル映画へのコダワリとともに、青春ものへの愛着もなかなかに強いこの男、往年の「政治的恐怖」が「高校の先生にたいする不信」に読みかえられ、はみ出し者の生徒たちが感じる「普通」の学園生活に対する違和感や、日々感じているコミュニティからの疎外感になった。

SF的側面では、設定も相当粗くて矛盾だらけ。ボス(クイーン)を倒せば他がみな無力化して死滅するという、映画的に便利なだけの設定が「過去のSF侵略ものではそうだった」との簡単な理由で現実になってしまう当たりは、だからパロディとして笑えばよいのだろう。いや、面白いよ。ギャグとして。

またこの映画、ディテイルがなかなか楽しい。ネタ的にも絵的にも、コメディセンスが溢れている。水分が必要なエイリアンに寄生された人々が、つぎつぎに水飲み場に行列を作ったりするところ。脱水状態になることがエイリアン駆逐への早道と「白い粉」を「鼻から吸い込」んで、一時的にハイになってしまうところ。

クライマックスはお約束っぽく、怪獣型のクリーチャーの登場と相成る。実は本体が姿を見せる場面より前、姿形は人間なのに「影」だけが・・というシーンの方が映像的に面白かったんだが。

監督のロバート・ロドリゲスだが、これまでの作品では力で押しまくる一方の単調な演出には辟易とするところがあって、映画を見ているうちに退屈になってきてしまう物が多かったのだが、今回、他人の描いた脚本なこともあってか、緩急があって観客を飽きさせない。意外にに巧いじゃん。少し見なおした。

Patch Adams

パッチ・アダムス トゥルー・ストーリー(☆☆)

パッチ・アダムズは自殺未遂で精神病院に収監されていたとき、医師になる夢を持ち、猛勉強の末に念願のメディカル・スクールに入学するのだが、「医療とは病気を扱うものではなく患者を扱うもの」という信念のもとでありとあらゆる規則を破っていくために周りと対立してしまう。

ロビン・ウィリアムズを主演に据えた実話の映画化。

なんだけど、トム・シャドヤック製作・監督、スティーブ・オーデカーク脚本っていうのがひっかるよな。だって、あの『エース・ベンチュラ』のコンビだよ?

『ナッティ・プロフェッサー』、『ライヤー・ライヤー』でそれぞれ、エディ・マーフィを再生し、ジム・キャリーを一皮剥いた功績は認めるけどね。今度は、ロビン・ウィリアムスの力を借りて、自分のキャリア・アップのために賞でもねらいに行っている感じがいやらしい。

とはいうものの、涙を誘う映画である。シリアスな問題提起もしている。ロビン・ウィリアムスはいつも通りに笑わせてくれる。でも、脚色と演出は、いかにも平凡。非凡な人物の、非凡な話を映画にするのに、ここまであざとい脚色や、お涙頂戴の演出が、果たして必要だったのかどうか。むしろ、真実の物語であれば、その功罪も含めてニュートラルに提示したほうが良かった、と思う。

アメリカの医療のありかたに疑問を抱き、理想を追求するために診療所を開設して理念の実戦に勤めている医師が主人公である。ロビン・ウィリアムズの演技がはしゃぎ過ぎだよ!って思っていたのだが、ドキュメンタリーで見た本人の方がよっぽどハイパーテンションな人物なのでびっくりした。ともかく、面白い人物と語るべきストーリーがあるのは事実なわけで、これをどう料理するかが腕の見せ所だろう。

脚本の上では、観客をこの主人公に共感させる上でのあと一押しが足りない。第1に自殺グセがつくようになるもとの悲しみや苦しみ、医師になることを決意する過程など全部舌足らずである。第2に、客観性が足りない。主人公はいくら理想を持っていてもルールを破るのである。それを無批判に正当化し過ぎてはいないか。

なにせ、コトは医療であって、学校当局や現在の医療のあり方をたんに「悪役」扱いするのではなく、価値観がギリギリのところで衝突する様を描いてこそ、逆に主人公の理念や主張が説得力を持つはずである。間違ったルールにも、それなりの理由があるはずなのであるが、この映画はそういう視点を全く持ち得ていない。作り手の知性が問われるのはこういうところだよな、と思う。

実話を基にした本が主人公寄りに書いてあるのは致し方ない。本人にあってリサーチするのも良い。しかし映画が客観性を保てなければ逆に信憑性が揺らぐのではないか?そのあたりの批判精神がないのが本作にとっては致命的であった。

演出の方はロビンの技に頼り過ぎである。キャリーやマーフィの「持ちネタを見せる」のと同じ演出を、こういうドラマでロビン・ウィリアムズ相手にやってどうするんだ!クライマックスとなる学内の弾劾裁判で全く緊張感を欠くカットバックを見たときにもゲッソリとした。あれは画面の狭いTV的な演出だよな。せっかくの題材を殺してしまった見苦しい駄作としかいいようがない。

12/23/1998

The Mighty

マイフレンド・メモリー(☆☆☆☆)

難病もの、と先入観を抱いてしまうと、私なんかは映画館にいく気が失せてしまうのだけど、これはそんな定型に収まる話ではないので安心して欲しい。もっと、もっと豊かな物語なのだ。少年が難病であることは物語りの大きな鍵であるし、彼の行く末は敢えて言うまでもないのだけれど、そこから展開される物語が実に豊穣なのだ。

奇病・難病に侵され、小さいせむしの体を松葉杖で支えている少年と、体は大きいが頭脳は恐竜並みとからかわれる学習障害のある少年が出会い、冒険し、友情を育む物語である。片方は病気を抱え、片方は家族問題を抱え、、片方は天才的な頭脳を持ち、片方は学習障害を抱える。共通点はお互いに周りから疎外された身であること。

2人の出会いを「アーサー王と円卓の騎士」の本で始め、小さい少年を肩車して歩く大きな少年というのが、馬にまたがった騎士になぞらえてあるところがファンタジックで素晴らしい。

「フリーク(奇形)」少年を演じているのが、キーラン・カルキン、その母親役をシャロン・ストーン。ほかに、ジリアン・アンダーソンやジーナ・ローランズ、ハリー・ディーン・スタントンらが出演。監督はピーター・チェルソム、原作はロッドマン・フィルブリックの「Freak the Mighty」。

結局奇病に侵されて自由に動き回れない少年にとっては知識や空想の世界が全て。ファンタジックな中世の騎士物語は彼の心の世界の象徴である。端的なのはトレバー・ジョーンズのスコアで、この作品に不思議な広がりと味わいを付け加えている。中世の騎士が出てきたので咄嗟にテリー・ギリアムの『フィッシャー・キング』を思い出したのだけども、ジェフ・ブリッジスが(結局)聖杯の探索に付き合わされたように、こちらも図体のでかい学習障害の少年が騎士道の追求に付き合わされる展開。いや、だって、騎士を乗せた馬なんだもの、付き合わないわけにはいかない。

キーラン・カルキンが兄マコーレーなんか軽く吹き飛ばすくらいの名演技で、これまでただの子役だと思っていたこちらの認識を変えざるを得ない。そして、このキーランの演技が映画の中で浮いてしまわないのは、まわりがいずれ劣らぬ良い仕事をしているからだ。

例えば相棒を演じるエルデン・ラトリフの存在感、実年齢(20 !)よりも低い役に不自然さがないのが凄い。シャロン・ストーンの地味な存在感も印象的で、ここ数年は演技派への転換をはかっていたけれど、こういう脇役をきっちり肉付けして奥行きのあるキャラクターにできる実力はたいしたものだと見直した次第。いい女優だよね。これをきっかけに役に恵まれると良いのだけど。

少年の視点で撮っている演出には節度があって、いくらでも「泣き」に走れるのに抑制しているところが好感度高く、奇形少年との永遠の分かれも省略も効かせつつさりげなく完璧。第1章、第2章と本のページを繰るように語る方法も最初は「どうかな?」と思っていたけれど、それも物語上、わけがあってのことで、少年同士の友情をファンタジーとして昇華させるのに大きな役割を果たしていた。

作り手の知性を感じさせる、リッチで抑制の効いた素晴らしい作品。ぜひとも一見を薦める。

You've Got Mail

ユー・ガット・メール(☆☆★)

ここのところ、北米のインターネット接続事業者として勢いがあるのが ”AOL” こと「アメリカ・オンライン」という会社で、簡単接続や簡単設定のソフトウェアを収めたCD-ROMをダイレクトメールで送りつけては会員を増やし、旧来のパソコン通信事業者を駆逐しているみたいだ。そこの電子メール・ソフトは、メールが届くと “You’ve Got Mail !” と音声で教えてくれるんだな。

・・・というわけで、それがタイトルになったこの映画、アメリカ・オン・ラインの壮大なる宣伝映画なんだよね。臆面も無く。

それはともかく、『めぐり逢えたら』のノーラ・エフロン監督の新作は、エルンスト・ルビッチ往年の作品である 『A Shop Around The Corner』 のリメイクだということだ。主演に、『めぐり逢えたら』の主演コンビ、トム・ハンクスとメグ・ライアンを再び起用。まあ、それだけである程度の観客は集まるだろうね。

NYで小さな子供向けの専門書店を営む女性とオン・ライン・チャットで知り合い、メールの交換をするうちに好意が恋に変わっていく相手は、巨大ディスカウント書店の経営者。現実世界の商売敵はサイバー世界で恋に落ちている。先にメール相手が誰だか気付いた男は、現実世界で嫌われている相手にどう正体を明かしたものか悩むことになる。

安心して見ていられる作品ではある。話もそこそこ面白いし、主演二人は観客に愛されている。これだけそろえば、週末の「デート・ムービー」としては満点に近いんじゃないのかな。

でも、観客の予想を超えるものは何一つない。見る前も、見終わっても、全く観客の人生に変化がない。脚本家としては冴えた台詞を書き、細かい気配りのあるシーンを作るノーラ・エフロンだが、監督として相変わらずかったるい。演出家としては世間は過大評価気味。同じ脚本をもっと巧い職人監督に任せた方がいいんじゃないだろうか。

気の利いた台詞と古風なロマンティックコメディのかっちりした枠組みがあって、息が合った、しかも観客にも愛される完璧なキャストがいるんだから、何かをやって失敗するより、なにもやらないというのは賢い判断のように思えないわけではない。でも、演出が演出の仕事をしていないから、こんなシンプルな話がずるずると2時間超の大作になってしまうのだ。軽いロマンティック・コメディがこんなに長尺になる時点で、勘違いといっておく。これを1時間半でまとめてくれたらもっと良い印象になるのにな。

わざわざグレッグ・キニアまで起用した脇役に全く意味が無いとか、よくよく考えると無駄なシーンやキャラクターだらけなんだよね。どのみち主役2人の関係に話を絞っていくのであるから、こういう余計な脂肪をすっきり切り捨てて、きちんと整理整頓すれば見違えるくらい面白い作品になるはず。

本作で一番の魅力はやっぱりこの人、メグ・ライアン。それなりの年になってもこのひとのキュートな魅力は色褪せない。彼女の一挙手一動作が実に楽しいし、観客が彼女に期待する全てを出し惜しみなく見せてくれていて気持ちがいい。最初の登場からイキイキしていて、彼女のコメディ演技ではベストのひとつ。嘘っぽい描写ではあるのだが、AOLに接続するくらいで妙にうきうきしているところなど、彼女の仕種を見ているだけで楽しいから、リアリティが無くても許せてしまう。もう一方のトム・ハンクス、最近の体型も、演技も、少し鈍重で、イマイチだと思う。

12/11/1998

Jack Frost

パパは雪だるま ジャック・フロスト(☆☆☆)

ミュージシャンとしての仕事柄、長期の旅も多く、息子と一緒の時間が取れない父親が、クリスマスの日に家族のもとに向かって車を走らせている途中で事故死してしまう。翌年のクリスマス、息子が作った雪だるまに憑依するかたちでこの世に戻ってきた「父親」は、沈んでいた息子と楽しい時間を過ごし、勇気付け、あの世に再び帰っていく。

クリスマス向けのファミリー。ピクチャーとして企画された、ファンタジー。ケリー・プレストンが母親役を演じ、雪だるまになって現世に復活する父親はマイケル・キートン。監督はトロイ・ミラーという人で、最近ではアカデミー賞のオープニング・フィルムなどを手がけているらしい。見どころである「動く雪だるま」を、「マペット」で知られるジム・ヘンソン・スタジオが担当している。

アメリカの雪だるまは「スノーマン」であって、「達磨大師」とは関係ない。故に、雪の玉を3つくっつける。頭と胴体とお尻、かな。これがヘンソン・スタジオのマジックで、命を吹き込まれる。途中でばらばらになったりするなど、ひとしきり笑わせてくれるのだけど、日本のダルマより動きにバラエティがつけられるよなぁ。

CGなどを使って動くスノーマンは子供向けのお楽しみとしても、この作品の背骨はしっかりと作られていて子供だましになっていない。アメリカ映画はこういうファミリー物を手抜きせずにつくる良い伝統を持っている。

ストーリーテリングに無駄がなくてスムーズである。例えばマイケル・キートンが雪道で事故にあったあと、遺体回収とか、悲しむ家族とか、葬式とか、そういう普通だったらありそうなシーンを全部すっ飛ばして「1年後」とテロップを打つ。このセンス、いいなぁ、と思う。そのあと、きちんと1年間という時間の経過とその重さを見せてくれるからね。

中盤、雪だるまと主人公が繰り広げるちょっとした冒険は、007のアクション・シーンといったら大げさだけれども、ソリやスノーボードをつかったスピーディな見せ場になっていて、わりと気が利いた笑いのとり方もするので、感心する。

ホロっとさせるシーンの作り方も巧いんだ。主人公の「仇」のようなガキ大将が出てくるのだけれど、彼が主人公と同じく父親がいない、ということを、途中でさりげなくみせておき、クライマックス近くで「No Dad より Snow Dad の方がマシだもんな」と主人公に協力してみせる。台詞も笑わせるが、こういう展開には思わず拍手したい気分にさせられる。

マイケル・キートンやケリー・プレストンなど、大人の出演者に力みが無いし、子役たちからいい表情を引き出している。父親の職業をミュージシャンとしたことで、マイケル・キートンの灰汁の強さが不自然でなくなるんだよ。品行方正とはちょっと違った格好良さ(クール!)。 こういうの、男の子が理想とする父親像だろうね。

父親の霊が乗り移った先が「雪だるま」じゃ、そのうち溶けること、すなわち、再び別れが来ることはご推察の通り。だが、この映画、単純に溶かしてしまうんではなくって、「雪が解けないところに連れていこう」という主人公の行動が積極的で、アメリカ的だとびっくりした。いやぁ、そうくるか。

Star Trek: Insurrection

スター・トレック 叛乱 (☆☆★)

日本では「新スタートレック」のタイトルで放映された、元々のシリーズの80年後、24世紀を舞台に展開される「StarTrek: The Next Generation」の映画版、第3弾。シリーズ通算では9作目。

オリジナルの劇場版のころから、「奇数番号の作品は内容も興行も劣る」というのが、スター・トレックにまつわるのジンクスである。実際、劇場版にしてはこぢんまりとした内容だったこともあり、興行は不発気味。いやはや。

お話はこんな感じ。惑星連邦に属しない種族と共に、「永遠に若さを保つことができる特殊な放射線の影響下にある惑星」を共同開発するプロジェクトが進められていた。しかし、その計画は、その惑星に住む少数の住民を力ずくで移住させることが前提であった。連邦のよって立つ「大原則 (= Prime Directive)」に反するこの「陰謀」を知ったエンタープライズのピカード大佐は、住民の権利を守り抜くために連邦の方針に反旗を翻す。

さて、前作が、目下連邦の最強の敵といえる「ボーグ」という種族とのバトルものであり、ヴィジュアルも暗かったことを受けているのであろう。「叛乱」という物騒なタイトルに反して、明るく、軽い作風になっているのが本作の特徴である。脚本は、シリーズの共同プロデューサーの一人、マイケル・ピラーの名義だ。

キャラクターの会話や行動がユーモアたっぷりに描かれていて、少しばかりのロマンスを交えつつ、民族自決の大原則・価値観を守るため、小悪党との局所的な「小競り合い」をするというのが本作のメインとなるプロットであり、TVシリーズのエピソードではともかく、映画版としては少々毛色が異なる1本になっている。

映画のたびに大きな戦争や人類存続の危機というのでは飽きもくるので、個人的にはそれほど悪く思わないのだが、2年に一度のビッグ・イベントとして楽しみにしていた向きには、TVの前後編もの程度のスケールでちょっと物足りないかもしれない。

今回の演出は、前作に引き続きジョナサン・フレイクス。「ナンバー・ワン」こと、エンタープライズの副長、ウィリアム・ライカーを演じている俳優である。フレイクスは以前より監督志望で、TVシリーズ出演中に技術を学び、その熱意を買われて何本か演出したのが監督としてのキャリアの始まりになった。なんといってもシリーズを知り尽くしているのが彼の強みだ。本作には、ファンが見てニヤニヤしたくなるようなシーンがいっぱい用意されているし、キャラクター同士の相互作用など、本作の特徴的なところを上手く引き出している。

ただ、フレイクスの演出は限りなくTVドラマ的なので、映像によるハッタリや、スクリーンならではのスケール感はない。これは脚本のせいばかりじゃないだろう。

ところで、本作は、『スター・トレック5』以来の特撮を担当してきたILMが、『スター・ウォーズ』の新作(!)のため忙しく、異なる特撮工房を使っているのだが、時代の流れか、シリーズで始めて、モデルを使用しない100%デジタルのVFXで作られた作品になった。見れば分かるのだが、宇宙船などの動きがあまりにスムーズで重量感がないので、ちょっとがっかりしてしまうかもしれない。それやこれやで、前作から登場している「エンタープライズE」を魅力的に描くショットが不在であるのは残念に思う。

お馴染みのキャストの他にF・マーレー・エイブラハムが適役を演じるほか、ゲスト・ヒロインでドナ・マーフィが出演。音楽も前作に続きジェリー・ゴ-ルドスミスが担当。何度か見たのだが、マンハッタンの劇場でみたSDDS方式の上映が良かった。音響の良い劇場で見ると作品のレベルが上がって見える。

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以下、スター・トレック好きのために少々補足。

本作が劇場で公開されている今、TVでは第3のシリーズ『ディープスペース・ナイン』が放映中である。この番組では、惑星蓮歩と「ドミニオン」と呼ばれる勢力との大戦争が勃発しており、決着がついていない。それと整合性をとり、数年前からDS9 のレギュラーになっている「ウォーフ」は、前作に引き続き「たまたま」居合わせたという設定でエンタープライズに乗船しているほか、ドミニオンの兵士であるジェム・ハダーが必要とする化学物質「ケトラセル・ホワイト」の合成技術の存在が、本作の背景設定として言及されているのである。もちろん、これを知らなくても、本編が理解できるような作りにはなっている。

12/01/1998

The Wedding Singer

ウェディング・シンガー(☆☆☆★)

今年の初旬(98/2)に公開された大ヒット作だが、今頃になって見るチャンスがあったので遅ればせながら。アダム・サンドラー主演映画として、彼のファン以外も観客に集めて大成功を収めた一本だ。

この映画でサンドラーが演じる「キャラクター」は、かつてバンドのリード・ヴォーカルを勤めていたが、いまは結婚披露宴の司会と音楽を担当する「ウェディング・シンガー」。酔っ払った親族でめちゃくちゃになった雰囲気だって見事に収拾してみせるプロフェッショナルだ。

即興で妙な歌詞の歌を作ったりもする音楽面でのサンドラーの「芸」と、キれさえしなきゃ心の温かく結構ハンサムな好青年キャラクターで押し通せる持ち味、ついでに、突然キれたときの無茶苦茶さ加減を活かした、見事なまでにアダム・サンドラーなキャラクターである。脚本を書いたのはティム・ハーリヒーで、監督はフランク・コラチ。いつもつるんでいる連中である。

サンドラーお得意のキャラクターものではあるのだが、これが純真なウェイトレスと出会い、お互い結婚式が近いということで息投合することから始まるロマンティック・コメディという体裁をとっているのが、今回の新機軸であり、ヒットの要因だろう。笑えて切ない、ちょっと不器用で初々しい恋の顛末。砂糖菓子のようなストーリーに「80年代ネタ」を音楽中心にちりばめ、とぼけた味のあるギャグを振り掛けてできた本作の魅力は、従来のサンドラー主演映画にはないものだ。

だって、ウェディング・シンガーの名前が「ロビー」、ウェイトレスは「ジュリア」。「ロミオ」と「ジュリエット」の語呂合わせだよ。これだけで、「ああ、純な話をやりたいのだな」と、なんかいつもと違うぞ、と気づくよね。

そして、これは共演したドリュー・バリモアにとって、大きなステップアップになる記念すべき作品にもなったんんじゃないか。ここ数年、ちょい役的な扱いでいろんな映画に顔を見せるようになってきていたが、まさか、あれだけ荒れた過去を持つドリューが、こんなに純真でスウィートな女の子の役柄でヒットを飛ばすなんて、なんというか、ある種の奇蹟をみるようなもんだ。

コメディとしては「15年くらい」という中途半端な時差を使って、80年代ネタでボケまくっているのがおかしくて仕方がない。(若い観客のなかにも)確実に記憶にある「近くて遠い過去」だ。主人公の髪型を始め、今見ると少しずれている80年代ファッション。「そのカップルが永遠に続くかどうかなんて、その二人を見れば分かること」と、85年当時は幸せの絶頂に見えた芸能人カップルの名前を列挙するあたり、ゴシップに詳しければ抱腹絶倒ものだ。

流れつづける85年の最新ヒット曲はある種ノスタルジーを掻き立てる。もちろんボーイ・ジョージやマイケル・ジャクソンはしっかり笑いのネタだ。クライマックス近くで思わぬゲスト出演があって、作り手である自分たちが青春を過ごした80年代への愛着がにじみ出ている。ゲスト出演多数。思わぬ顔にびっくりすることも、多分、ある。