3/28/2009

Watchmen

ウォッチメン(☆☆☆)


あちこちで「解説」されている原作のインパクト、アメコミ史における意義やオリジナリティ、その評価については割愛することにしよう。原作者、アラン・ムーアについても同様。私よりも詳しい人間がいくらでもいることだしね。しかし、それを抜きにしては語りようのない作品であること、そこに本作の作品としてのポイントがあることは間違いがない。

思い出してみると、さまざまな監督が本作の映画化にむけた意欲をかたり、さまざまな理由でプロジェクトから去っていった。80年代を代表する、「アメコミ」の歴史に残る『ウォッチメン』という作品の映画化は、実現されることのないプロジェクトだと思っていた。こうして映画化され、公開されるにいたる困難さを思えば、もっと高く評価すべきなのかもしれない。しかし、「原作に忠実」に作られたというこの作品、その忠実さゆえに熱狂すべきなのだろう。しかし、単独の映画としてどうか、原作に忠実であるがゆえに優れた映画足り得ているのか、というのは、また別の問題であるように思う。たとえば、『ハリー・ポッター』の映画シリーズの存在価値が、原作に対しての動く挿絵集としてのそれであるとするなら、本作の価値もその程度でしかないのではないか、という気がするのである。逆の立場で言えば、そもそも歴史的に重要な作品であるところの原作の映画化作品を論じるのに、映画単独としてみてどうなのか、という視点そのものが意味を成すものではないのかもしれない。そして、もしそうであるとすれば、映画としての『ウォッチメン』について、映画好きの立場からどうこういうのは筋違いということになってしまう。

それはともかく。無理を承知で言うならば、本作は80年代にリアルタイムで作られていて欲しかったと思うのである。ベルリンの壁の崩壊や、ソビエト連邦の瓦解の前に作られていたら、この作品は映画としての存在価値も大きいものになったのではないかと思う。21世紀のいま、客観的な目でこの作品を見ると、それこそ、歴史上の重要作品に動く挿絵をつけてみました、ということでしかないのは明白であろう。この作品の舞台が、冷戦が頂点に達し、米ソの全面核戦争が現実味を帯び、人類の行く末がこの上もなく暗いものに思われた時代の気分を色濃く反映させたもうひとつのリアリティ、もうひとつの可能性に置かれている以上、それは現代を生きる我々にとっては過去の出来事に過ぎないのである。今の世界が抱えた憂鬱と恐怖は、本作が描く世界の延長線上にはない。従って、本作はビジネス的、技術的、その他もろもろの「大人の理由」を除けば、いま作られ、公開される必要というか、必然性は全く感じられない。

原作の熱狂的なファンを自認するこの映画の作り手は、ファンである以上なおのこと、そんなことは先刻承知に違いないのである。しかし、原作のファンであるがゆえ、たとえば、911後の世界情勢を反映させるといった作品世界の改変は許されるべきではないと思ったのだろうし、あるいは、いかにも映画らしい単純化もまた避けるべきだと考えたのだろう。それを「熱狂的ファン」ゆえの節度と呼ぶならそうなのだろうし、それこそが本作を、結果としてなのかもしれないが、「動く挿絵」、すなわち、原作に対する従属的な2次創作物とでもいうようなものにせしめた理由であろう。おそらく、精一杯の愛情と技術を注いで作られたであろう本作は、映像的に見栄えのする暴力やセックス、SF的意匠を監督、ザック・スナイダーの力業と美術スタッフのセンスで膨らませ、「動く挿絵」としての高い価値を実現しているのである。そのことについてはなんの異存もない。

しかし、長い原作から本筋に影響を与えないエピソードを割愛するかたちで構成された脚本は、1本の映画としてはどことなく平板で、物語としてのバランスも悪い。ミスリーディングを意図した脇道や、キャラクターや作品世界を説明するための段取りも、原作通りが必ずしも効果的というわけではあるまい。あれもこれも詰め込んで、タメも余韻もなにもなく次へ次へと進めていく語りにも、160分を超える長尺でありながらもせわしなく、余裕がない印象をうける。一般に名前の知れた俳優がビリー・クラダップ程度というキャスティングも、原作の雰囲気を再現することが最優先の英断というべきなのかもしれないが、地味すぎて華が欠けているのもまた事実。もちろん、キャラクターこそが重要であって、それを演じる役者が前に出てしまっては困るという考えも理解はできる。しかし、これだけの長尺を支えるにはもう少し吸引力のある俳優がいてもよいだろう。そういうことを考えていると、12章に分かれた原作本編を、1篇=1時間くらいの続き物TVミニシリーズとして映像化したほうがお似合いだったのではないかという気がしてくるのだ。TVでは表現上の制約があるというのも過去の話で、プレミア・ケーブル局などの選択肢が増えた昨今、暴力を含めた表現上の幅はかなり広くなっているといってもいい。映画として、1本で完結させる方向で企画開発せざるを得ない事情はあったのだろうし、せっかくつくるならTVじゃなくて映画、という気持ちもあったに違いないとはいえ、改めて、内容と合致したフォーマットとは何なのか、真剣に考えてみることの重要性を思った。

そういえば、ハリーポッターのときも「映画よりTVシリーズのほうが向いているんじゃないか」と主張したんだっけ。。。ま、分厚い小説や続き物コミックで、内容を大きく再構成できないという制約を抱えているのであれば、案外、映画よりもTVの方が相性が良いのかもしれない。

3/27/2009

Doubt

ダウト あるカトリック学校で(☆☆☆★)

主要な登場人物は4人である。その4人が、全員アカデミー賞にノミネートされたのだからスゴい。これは役者の演技を見せる映画であり、役者の演技をこそ見る映画なのである。ジョン・パトリック・シャンリィがトニー賞&ピュリッツァー賞W受賞の戯曲を自らの手で映画化した作品であるが、いかにも舞台劇というスタイルのこの映画、これをわざわざ映画にする意味がどこにあったのか、と存在意義を問われてもしかたがないように思う。しかし、ひとつだけ、はっきりいえることは、映画化のおかげで、ここに揃った芸達者な俳優たちの文字通り火花散る演技合戦を見ることができたのである。そのことだけで、十分といえる充実した104分である。

舞台は、JFK暗殺事件の衝撃も生々しい1964年、ブルックリンのカトリック教会併設の学校である。ここの神父を演じるのが曲者フィリップ・シーモア・ホフマンである。カトリック教会も時代の流れにあわせて開放的になり、信者に歩み寄っていくべきであると考える温厚かつ進取的な人物として描かれている。彼と相対することになるのが学校の校長であり、これを演じるのがメリル・ストリープだ。こちらはガチガチに保守的で、自分の役割としても厳格さであり、不寛容さを前面に押し出すことを厭わない人物である。この二人、どう考えてもはじめから反りがあっていなかったはずだ。そこに、「疑念(=doubt)」が持ち上がる。白人ばかりの学校にやってきて馴染めないでいる黒人の少年。神父がこの少年を連れ出したが、戻ってきた少年の息がアルコール臭かったと、また、少年の態度がどことなくおかしかったと、そう伝え聞いた校長は、神父と少年の「不適切」な関係を疑い、執拗な追求を始めるのである。校長に疑念の種を撒いてしまったのは、エイミー・アダムスが演じる純真そのものを絵に描いたようなシスターである。もう一人の重要な人物は、問題になる黒人の少年の母親で、これを演じるのがエイミー・アダムスと並んで助演女優賞にノミネートされたヴィオラ・デイヴィスである。

この映画で大事なところは、神父と少年のあいだに不適切な関係があったのかどうか、というところではない。神父が善人なのか、疑わしい人物なのかということも関係ないし、真実は最後まで明かされない。不適切な関係があったに違いないという「疑念」に取り付かれるうちに疑いが大きくなり、誰にも幸福をもたらさない結末へと突き進んでいってしまうプロセスそのものが映画が目を向けるポイントなのである。それとて、悪意によるものではない。むしろ、信念に基づき、自己犠牲すらも厭わぬ善意の行為であるから余計にタチが悪いともいえるし、恐ろしいともいえるのである。時代や価値観が大きな転換点を迎えていた60年代を舞台にすることで、神父と校長との緊張関係を重層的につむぎだしているが、テーマそのものは現代に通ずる普遍性を持っている。なにしろ、ブッシュが存在した証拠の見つからなかった「大量破壊兵器」を理由にイラクに戦争をしかけた時代に書かれた戯曲なのだ。誰が正しかったのか、などというのは、疑念がもたらした結果の惨状を前にしてさしたる重要性を持たない。誰が何を云おうと、取り返しはつかない。

フィリップ・シーモア・ホフマンは、その人柄の良さ、寛容さや知性の高さ、現代を生きる人間の価値観からも好感を持ちやすい人物でありながら、「疑惑」が真実なのかどうなのか、どちらにも解釈できる曖昧さを残した演技が最高である。こういうどこか得体の知れない感じ、裏表があるのかないのかわからない両義性みたいなものを演じることにかけては、彼の十八番ではないか、という感じがする。一方で、これで15回目のアカデミー賞ノミネートとなったメリル・ストリープは、近作『マンマ・ミーア!』との落差も凄まじく、揺ぎ無い信念ゆえに疑念に取り付かれて歪んでいく様をかなり大げさに演じているといえよう。その迫力たるやすごく、眼鏡越しの視線には観客も凍りつくほどであるが、少し類型的な演技になってしまっているかもしれない。本作の見所は、そのメリル・ストリープとヴィオラ・デイヴィスが会話を交わすシーンで、たかだか10分程度のこのシーンでヴィオラ・デイヴィスの見せた演技の破壊力は、さしもの大女優もたじたじで映画全体をさらっていくほどのインパクトがあった。注意深く核心を避け、いいにくい言葉を避けながら、間接的な表現で語りつくそうとする脚本は役者にとっても、観客にとっても刺激的な経験だといえるだろう。

3/25/2009

Bedtime Stories

ベッドタイム・ストーリー(☆☆☆)


「さあ、アダム・サンドラーの新作を見に行くぞ」と調べてみれば、表向き、ディズニー印のファミリー映画の体裁をとっているために、やたら「吹替版」ばかりが幅を利かせ、都合の良い場所で、都合のよい時間からの「字幕版」上映を探すのに苦労させられた。郊外のシネコンではもう、吹替版一色の様相を呈している。理屈はわからないでもないが、ここまで極端である必要があるものかどうか。選択の余地がないというのは困った事態だと思う。

さて、昨年はシリアスなドラマに挑戦した秀作『Reign Over Me (再会の街で)』があったものの、コメディ作品としては『Click(もしも昨日が選べたら)』以来、久方ぶりの公開となるアダム・サンドラー作品である。別にサンドラーがこの間、ずっとコメディから離れていたというわけではない。『I Now Pronouce You Chuck & Larry(チャックとラリー おかしな偽装結婚!?)』、『You Don't Mess with the Zohan(エージェント・ゾーハン)』と、ヒット作が2本連続で劇場未公開作となってしまっただけのことである。そういう意味では、ディズニー印だろうが吹替版だろうが、ともかく全国規模で公開されるだけでもありがたいと云わざるを得ない。なにしろ、アメリカ製のコメディ映画に冷たい国だからね。

さて、「ディズニー印」に初顔合わせとなるアダム・シャンクマン監督作、とはいえ、サンドラーにとって必ずしも他流試合というわけではない。脚本にいつものティム・ハーリヒーが参画しているし、製作プロダクションはサンドラー自身の「ハッピー・マディソン」である。接点を探してアダム・シャンクマンのフィルモグラフィを見ていると、アダム・サンドラーと仲の良いロブ・シュナイダー主演の『Deuce Bigalow: Male Gigolo(デュース・ビガロウ激安ジゴロ!?)』があった。もちろん、ハッピーマディソンの製作である。アダム・シャンクマンはここで振り付け(コレオグラフィ)を担当しているから、案外、それ以来のお付き合いなのだろう。ともかく、この映画でもアダム・サンドラーが、いつもの「大人になりきれない幼児性たっぷりの男」をフツーに演じ、どことなく脱力感漂うキャラクターたちが、ゆるっとしたテンポでギャグをかましていく。ね、いつものアダム・サンドラー映画、でしょ。盟友ロブ・シュナイダーがカメオ出演で笑いをとるところまで同じである。

不本意ながら姉の子供二人の世話を頼まれた男が子供を寝付かせるためにいい加減なお話を語って聞かせるのが話の発端である。そのお話しをイマジネーション豊かな子供たちが勝手に展開させていくと、翌日、それが(妙な形で)現実になる。そのことに気がついた男は、これ幸い、といい思いをするべく画策するのだが、、という筋立てで、敬愛していた祖父が譲り渡したホテルの経営権を巡るドタバタへとつながっていく。不思議な出来事を疑ったり、理由を探ったりする前に、うまい汁を吸おうと悪知恵を働かせるあたりの能天気さがアダム・サンドラーの演ずるキャラクターの典型で、笑ってしまうところ。子供向けだと割り切った本作では、驚くべきことに不思議な現象の種明かしもないというゆるさである。それでいいのか?といえば、問題のような気もするが、そういうノリが作品の基調であるがゆえに、笑って楽しむのが正解、だと思う。

アダム・シャンクマンはスティーヴ・マーティン主演のコメディなどで監督を手掛けるようになり、劇場版の『ヘアスプレー』で名を上げた。数多くの作品で振り付けを担当していたことでも分かるように、ミュージカル畑は得意とするところなのだろう。本作でもクライマックス、主人公とガイ・ピアース扮するライバルが新しいホテルのアイディアを競う場で「ミュージカル」が炸裂、あのガイ・ピアースに歌わせ、躍らせるという楽しいシークエンスが待っている。大小いろんな笑いが詰め込まれた映画だが、個人的なお気に入りはこの「ミュージカル」で決まり。

予告編などで流れる史劇調、西部劇調、SF調のシーンは、すべて「お話し」の世界を視覚的に見せるためのもので、あれが現実にあふれ出してくるわけではないのだが、主要な登場人物出演の上で、いちいち丁寧に映像化しているあたりに、ヒットを約束された大作ゆえの予算的なゆとりを感じさせられる。コートニー・コックスとケリ・ラッセルが出演しているが、ヒロインはケリ・ラッセルの方で、コートニーは主人公に子供を押し付ける姉役で出番は少ない。最近売り出し中(?)のラッセル・ブランドが主人公の(ちょっとネジの緩んだ)友人役として笑いをとる。このひと、要注目かもしれない。

3/24/2009

Yatter-Man

ヤッターマン(☆☆☆)


例のTVドラマで「ヤッター!」ってのが流行ったから、海外セールスにもプラスになったりして、ね。

さて、『ヤッターマン』である。タツノコ・アニメを、「タイムボカン」シリーズを、ある程度リアルタイムに楽しんできた世代の一人としては、何はともあれとりあえず見に行かねばなるまい。。。一抹の不安を抱えつつ劇場に足を運んだのだが、存外に楽しい時間を過ごすことができた。基本的に三池作品とは相性が悪い当方なので、多くを期待していたわけではない。それを思えば、嬉しい誤算といった感じである。何が楽しかったかといえば、もちろん、懐かしさという要素を抜きにしては語れまい。しかし、それ以上に、作り手が真剣に遊んでいるところ、真面目にバカをやっているところが楽しくて仕方がなかった。

そういえば、昨年は『スピードレーサー (マッハGo Go GO!)』があった。同じタツノコ作品の映画化という意味で、作品に対する愛情よりも作り手自らへのナルシシスティックな自己愛が勝った大愚作『キャシャーン』は原典への冒涜以外の何者でもなかったが、ウォシャウスキー・ブラザーズの『スピードレーサー』には、原典に対する思い入れとリスペクトが溢れていて、なかなか楽しい作品に仕上がっていたことは、いまさら言及するまでのこともないだろう。この『ヤッターマン』も同様、原典に対する愛が溢れた作品である。が、2つの作品のアプローチは似て非なるものである。まるでオリジナルに夢中だった子供が、子供のままの心で、持てる技術の全てを発揮して「完コピ」を目論んだ珍作が『スピードレーサー』だったとするなら、大人になったかつての子供が、大人として、自分なりのフィルターを通すことでオリジナルを再構築したのが『ヤッターマン』といえようか。

つまり、この映画版『ヤッターマン』の面白さがどこにあるのかというと、あの原典をそのまま再現する(あるいは、敢えてしない)ことによって生まれる距離感、つまりは、オリジナルを客観的に考察・解体する過程から生みだされる批評精神やお遊びなのではないか、ということなのである。たとえば、ヤッターマンの2人がヤッターワンの左右にぶら下がるようにして出動するビジュアルをそのまま絵にすると、どうにも乗り心地が悪そうだし、疲れてしまいそうだよね、、、というのがそのままギャグになっていること。彼らがぶら下がったまま、「地球の裏表、ひとっとび」をアニメの通りに再現することから生まれるバカっぽさ。これらの笑いはアニメをそのまま再現するだけでは生み出されない批評的、違う言葉で言うなら、(セルフ)パロディとしての面白さである。また、盛り込まれたギャグの数々にしても毒や悪意が意識的に増幅されており、決して「そのまま」に留まらないのだ。例えばかつての定番ギャグである「全国の女子高生のみなさん」が本作で引用されるとき、そこには明らかに、誰もが見てみぬふりをしていたその「本質的なアブなさ」が曝け出されていたりするのである。

まあ、なにぶんにも、このシリーズの特徴のひとつは子供番組という枠組みを超えて破天荒に暴走する大人のオフザケと、完璧にパターン化された物語のなかで炸裂する、アニメの構造そのものを吹き飛ばしかねない革命的かつ危ないギャグにあったわけだから、単にそれを「完コピ」するだけでは本質的な面白さには迫れまい。かつての視聴者が大人になって、かつてのスタッフと同じ大人の目線で再構築するというアプローチは、本作を成功させる上で不可避だったということができるだろう。

キャスティングのなかで一番違和感のあったのはドロンジョ様を演じた深田恭子の起用であったが、脚本が求めるドロンジョ像がアニメ版とは違った方向性を持っていることもあって、しばらく見ているうちに気にならなくなる。彼女はもちろんのこと、映画を成立させるための部品として、どの役者もよい仕事を見せてくれている。冒頭の廃墟となった渋山をはじめ、美術は異様な張り切りぶりが画面から伝わってきて微笑ましい。映画版だからといって変に構成を崩さず、TVシリーズ1回分の構成を何度か繰り返してエンドまでもっていくアイディアも慧眼。ただ、内容から考えて126分の尺は少々長く、いくら情報量満載で楽しいとはいってもダレる場面が何箇所かあったのは残念だった。ぐだぐだでテンポの悪いところまで再現しなくても良かったんじゃないのかね。

Valkyrie

ワルキューレ(☆☆☆★)


ブライアン・シンガーにとっては『ゴールデン・ボーイ』、『X- MEN』、に続く3本目の「ナチ」ものであり、トム・クルーズにとっては『ラスト・サムライ』に続く、「外国で反乱軍として負け戦を闘うシリーズ」の第2弾となるのが本作である。ドイツを舞台にした史実に基づく作品であるが、冒頭、トム・クルーズによるドイツ語のモノローグに英語のモノローグが重なってクロスフェードで音声が切り替わり気がつくと全員が英語をしゃべっているという、まあ、いわゆるいつものハリウッド仕様である。(本当はドイツ語をしゃべっているのだけれど、みんなの耳には便宜上英語で聞こえています、ということね。)

それよりも何よりも、日本公開版の「仕様」には驚かされた。『レッド・クリフ Part-I』の上映に当たって、冒頭、日本で勝手に追加作成した時代背景や状況の簡潔な説明を流したり、本編中でしょっちゅう登場人物の名前を字幕挿入したりした「小さな親切」が好評を博したと判断されたようで、本作も冒頭で「ドイツという国でアドルフ・ヒトラーという男が総統になってね、欧州で戦線を拡大すると共に、無実の人々の大量虐殺を続けていたんですよ!」という説明が入り、本編中も、主要な登場人物には人物名の字幕が入る「ゆとり」仕様になっている。親切なのかもしれないが、同時に失われた趣もある。主人公がヒトラーと初めて対面するシーンなどが典型で、たくさんの人の中からあの姿、振り返ったあの顔をスクリーンで認識して、ああ、ヒトラーだよ!となるところ。演出も、カット割りも、照明も、その瞬間を大事にして組み立てられているというのに、早々、無粋にも「ヒトラー」と字幕を出されたんじゃ演出意図も台無しというものだ。全く嫌な世の中になった。この流れはどこかで止めなくてはならない。

さて、映画本編に話を戻そう。製作過程で公開予定日が何度も変更されるなど、仕上がりに不安を覚えさせる出来事にことかかなかった作品であり、賞レースでのリアクションなどからみてもあまり多くは期待できないのだろうと思っていたのだが、そんなことはない、実に面白い出来栄えなのだ。そう、いってみれば、この作品の問題点は、多分、面白過ぎることにあるのだろう。

もちろん、凝り性で拘りの強い監督と主演者がタッグを組んでいるのだから、そこは、できるだけ史実を忠実になぞっていこうという強い意志のようなものは感じさせるのだが、元来、エンターテインメント魂の濃厚な彼らの手にかかると、歴史的悲劇を描く重厚なドラマになりえた題材も、第一級の娯楽大作に昇華されるのである。だいたい、「失敗」するという結果を誰もが知っているとき、そこにはサスペンスは成立しないというのが常識であろう。それなのに、この映画は作戦の計画と遂行プロセスをやたらサスペンスフルに、それこそリアル「ミッション・インポッシブル」として描いてみせ、しかも、それがやたらと面白いのである。この題材をサスペンスに振るのは、本来であれば致命的な采配ミスであろう。しかし、結果の如何ではなく、プロセスとディテイルに重点を置いた本作では、結局のところ、観客が主人公を初めとする登場人物に感情移入する余地が残っていたということだ。登場人物の緊張感や焦燥感を共有させる演出テクニックは一級品である。それと同時に、何故この作戦が失敗したのか、どこで計算が狂ったのか、といった事実を丹念に積み上げながら、「後戻りできない作戦」が「悲劇」へと転調するポイントがきっちり描かれている。こういうメリハリの効いた作劇術に、ブライアン・シンガーの、大衆娯楽映画の担い手としての確かな技術と感覚の冴えを感じさせられる。

娯楽映画としての面白さが際立っているからか、主演のトム・クルーズばかりが目立っているというネガティブな意見も出ているが、それは日本における宣伝やポスターの印象操作によるものが大きいのであろう。実際のところ、彼の演技はいつになく控えめなくらいである。キャスティングについてはさすが、ブライアン・シンガーというべきだ。何しろ、(ゲイであることを公言する)彼が「男」を選ぶ目に狂いあろうはずもなく、かなり力のあるアンサンブル・キャストになっているのが見所のひとつである。何しろ、要所要所にケネス・ブラナーにビル・ナイ、トム・ウィルキンソンにテレンス・スタンプという大物、大ベテランをずらりと揃えたあたりの重厚感は抜群で、まずなんといっても「画」になっているし、群像劇としても見応えがある。こうしたキャスティングが可能なのも、本作が英語で撮られているからこそだと思うと、米国流の「世界中なんでも英語」な作品作りも一概に否定できまい。

3/22/2009

Yes-Man

イエスマン“YES”は人生のパスワード(☆☆★)



『Bring It On (チアーズ!)』、『Down with Love(恋は邪魔者)』で当方期待のペイトン・リード監督の新作である。ダニー・ウォレスという男の実際の体験談をネタにしたコメディで、主演は久々にストレートなコメディに帰ってきたジム・キャリーということで楽しみだった1本である。

日本語でイエスマン、といえば、上司に逆らわない人間の意になるが、この映画でいうYES-MAN は、日々遭遇する様々な選択の機会において、NOと拒絶するのではなく、とりあえず「YES」と云おう、ということである。自分のルーティーンに閉じこもることなく、周囲に心を開き、YES、ということで思いもよらない可能性が開けてくるという教訓を、なんでもYESといわなければ災厄に見舞われるという強迫観念に取り付かれてしまった男の顛末。それをアメリカ映画お得意のドタバタ騒ぎの連鎖で見せていく作品だ。

映画は十分に楽しめるものであったが、事前の高い期待は半分満たされ、半分裏切られた気分である。まあ、それほどまでに高い期待を持つほうに問題があるという気もするが、そういう期待に応えられる才能が集まっていると思うのだ。

この映画、確かに、ペイトン・リードのテンポが良い演出と音楽へのこだわり、それになによりもジム・キャリー久々の顔面芸を楽しめるという意味では期待を裏切らない。その限りにおいては普通に楽しめる作品である。細かいネタにはまればマニアックに楽しめるところもある。しかし、それも含めてどうしても予定調和の世界になっているのだ。「原作」を元ネタ程度にしか扱わずに自由に脚色するのはよい。(違うアプローチもあったとは思うが、これが悪いというわけではない。)エンロン事件ネタが爆笑ものだった『ディック&ジェーン 復讐は最高』でジム・キャリー作品を経験済みの脚本家ニコラス・ストーラーは、ジム・キャリーの得意技を十分理解して見せ場を盛り込み、いかにもジム・キャリーが得意そうなコメディ作品に仕上げている。しかし、それは、みなどこかで見たものの寄せ集めでしかなく、意外性や新鮮味に欠けている。定番というものは得てしてそういうものであるといえるのだろう。しかし、ペイトン・リードの才気なり、ジム・キャリーの実力なりというものを目にしてきて、ファンであるからこそ、これしきのことでは納得がいかない、工夫が足りないなぁ、という思いが強くなる。ジム・キャリーのキャリアだけ見ても、この路線ならば、10年前の『ライアー・ライアー』である程度極めているんじゃないだろうか。

本作の収穫は、ヒロインを演じるズーイー・デシャネルだろうか。『ハプニング』のときは特に強い印象は残らなかったが、本作ではどこかヘンテコな個性と可愛らしさが引き出されていてなかなか良かったと思う。「YES!」教(?)の教祖を演じた大ベテランのテレンス・スタンプは、例えば公開中の『ワルキューレ』なんかを見たあとではその落差に唖然とするのかもしれないが、昨年の『ゲット・スマート』のようにコメディへの出演も珍しくないし、スティーヴ・マーティン&エディ・マーフィ主演の『Bowfinger (ビッグムービー)』のとき、すでにして怪しい宗教の教祖を演じていたから、新鮮味のない選択のように感じられた。なんか、他に引き出しはないものかね?

3/18/2009

Doraemon 2009

ドラえもん 新・のび太の宇宙開拓史(☆☆)


さて、毎年春の恒例となっている「映画・ドラえもん」である。通算29作。リニューアル後の「ドラえもん」映画として第4作、題材は『のび太の恐竜 2006』『のび太の新・魔界大冒険』に次ぐ、藤子F原作を下にした3本目のリメイクである。今回、シリーズ初期の傑作と名高い「宇宙開拓史」を脚色したのは『のび太の新・魔界大冒険』に続く2本目の登板となるシンエイ動画勤務経験を持つ小説家、真保裕一である。まあ、正直、その時点で嫌な予感がしたのである。だって、「新・魔界大冒険」は酷かったからね。原作のあら捜しに終始してあちこち手直しをしたものの、それが結果として作品の面白さにはつながっていないという寂しさ。変な設定で無意味な感動押し売りを付け加えたセンスの悪さ。いらないことをして尺を消費した挙句、タイトルどおりの「魔界」の「大冒険」をばっさり削る意味不明。あのとき、このひとには2度とドラえもんに関わってほしくない、と思ったものだ。

そして本作。結論を先にいえば、やはりがっかりする出来栄えであった。スタイリッシュだった『のび太の恐竜2006』には劣るが、アニメーションそのものとしては頑張っていると思うし、ここのところ続けている小さな遊びの挿入も楽しい。しかし、脚本が酷い。もちろん、原作がよくできているから底抜けになったりはしない。それなりに楽しめる作品であることまでは否定しない。旧作映画版において原作から改変を加えられていたクライマックスの「決闘」をまがりなりにも復活させていることも気持ちとしては評価したい。しかしその描き方は中途半端で、「決闘」の必要性が見えない描写になってしまっている中途半端さはいただけないだろう。それに、何よりも原作を離れて創作されたキャラクターやエピソード、設定の変更がどれひとつとってもうまくいっていないのだ。それは、どう考えても「脚色」を担当した真保裕一の責任が大きいと思うのである。藤子Fの原作をあれこれいじることでより良いものにできるなどという思い上がりを捨て、何も足さず、何も引かず、原作どおりに素直に再映画化してくれさえすれば、こんな不満とは無縁でいられただろうにね。

色々考えていたのだが、なによりも重要な問題として、脚本家だけでなくスタッフも含め、この映画の作り手たちは、原作『のび太の宇宙開拓史』が、SF(すこしふしぎな)アドベンチャーである前に「西部劇」であるということが理解できていないに違いない、という点に思い至った。おそらく、当然のこととして、頭では理解しているのだろう。藤子Fが何を下敷きにしてこの話を作ったか、知識としては知っていないわけがない。しかし、原作者や旧作のスタッフたちの世代が「西部劇」というジャンルをリアルタイムに見て、楽しんできたのに比して、脚色を担当した真保裕一を筆頭にして、今のスタッフたちはみな、西部劇というものから縁遠い人生を送ってきているのではないか。本作の場合、それは致命的なことであった、と思う。西部劇がわからず、そこに愛がないのなら、敢えてこの作品のリメイクに手を出すべきではなかった。他に選択肢だってあっただろうと思うのだ。

例えば、この新版では、舞台となる植民星「コーヤコーヤ星」というのが、国家権力や制度の手が行き届かない「フロンティア」であるという認識が決定的に不足している。だから、そういう描写も成されていない。だいたい、悪事に対して「警察」が動けないのは「証拠」がないからだ、という理屈や台詞が成り立ってしまう世界が、どうして「西部劇」足りうるのか。法の目が及ばない辺境の地だから、住民たちはお金を出し合って保安官を雇う。それが「西部劇」の世界だろう。しかし、過去の出来事ゆえか、人々の事なかれ主義ゆえか、みなが恐れをなしてしまって保安官の引受け手もいない、というのが正しく「ウェスタン」の状況設定というものだろう。そんな無法がまかり通る荒野にふらりと現れた通りすがりのヒーローが「のび太」であり、自衛の手段ももたない人々と友情を結び、悪を倒し、見返りも求めずに去っていく。のび太、come back!これは、そもそもそういう話だったんじゃないのか。ねぇ?

原作では植民星である「コーヤコーヤ星」とは別に、悪徳企業体の本社なども置かれている「トカイトカイ星」を登場させることで、「コーヤコーヤ星」のフロンティア性を際立たせていた。この新版では「トカイトカイ星」が登場せず、なぜかフロンティア(=荒野)であるはずの「コーヤコーヤ星」に、たいそうな町まで存在するという描写になっている。こうした改変は主軸となるストーリーを大きく変えるものではないかもしれないが、骨格を成す世界観に対する無理解が成せる業であることは云うまでもない。

西部劇に対する無理解といえば、新たに創作されたキャラクターやエピソードもそうだ。開拓民のひとりとして父親の死を胸に抱えた少女・モリーナを登場させ、死んだと思われていた父親との再会という感動のドラマを差し込むというまったくもって余計な改変をしているのだが、ここでいう「父親」が宇宙船技術者というのだから愚かだというのである。西部劇の伝統に忠実であるなら、わけありの少女の父親は「無法まかり通る開拓星においてひとり正義を貫いた保安官」でなければなるまい。そうすれば、後段で、その娘が町の人々の他力本願をなじるシーンも活きてくるだろう。行きがかり上「保安官」の役割を引受けることになるのび太とのドラマも膨らませることができたはずだ。

そもそも、「モリーナ」と関連するエピソードの追加に関して云えば、そうした設定だけでなく、それ自体がうまく機能していないのだから、脚本家の腕とセンスの問題は相当に根深いのである。本筋は、のび太が「ロップルくん」の危機を夢に見るところから始まるわけだが、その前にワンクッション、この少女と父親に関係する主筋とは関係のない話を挟むことで、物語への導入が遅れ、テンポが悪くなっている。のび太と「ロップルくん」の精神的つながりが主軸になるべきところで、モリーナの視点までが夢に混入してくるというのも軸のぶれにつながっている。のび太の畳の下が最初から不安定な超空間になっていて、「ロップルくん」の宇宙船と謎の星、2つの異なる場所につながっているという設定もダメだ。はじめはある程度安定してつながっているかのように思われた2つの世界の結節点が、悪者による邪魔立て(宇宙船の爆破)をきっかけに離れていくというサスペンスや感情的な切なさがこれによって失われた。宇宙船の爆破は、今回の改変によってモリーナに責任があることになったが、それゆえに、彼女の(裏切り)行為が必然とはいえ切ない別れのきっかけになるということを、理屈だけではなく、絵としても明確に見せることが重要だったはず。そこのところを曖昧にしてしまったのは失敗としか言いようがない。

それよりなにより、この「モリーナ」というキャラクターとそのエピソードが物語の主筋に絡んでこないこと自体がおかしい。もともと開拓星に命を捧げたのは「ロップルくん」の父親だったはず。そういう役割を敢えてこのキャラクターに分散させたことが、物語の分厚さにまったく寄与していないのである。いってみれば存在しなくても話が成立する程度の単なる脇役で、そんなキャラクターと、その肉親との再会を物語のクライマックスにもってくるという構成はどう考えても間違っているとしか思えない。そうまでして陳腐な「感動」の押し売りをしたいのか。そういえば、ゲスト・キャラクターと肉親との再会といえば、「新・魔界大冒険」で付け加えられた改悪のひとつであったわけだが、正直、バカの一つ覚えのように「肉親との再会」ネタを持ち出してきたところに、書き手の引き出しの少なさを見る。

西部開拓時代に荒野を駆け抜けた大型蒸気機関車にバッファローのイメージを足し合わせ、(しかも語呂合わせも楽しい)「ブル・トレイン」が登場せず、普通の宇宙船になってしまったことも改悪といえよう。西部劇をイメージさせる意匠やデザインを排除する意図がわからない。また、惑星のコアにまで達した「コア破壊装置」を止めるのに、力ずくで引き抜くというのも無茶苦茶な話。物語の前段で「タイム・フロシキ」を登場させているのだから、原作どおり、素直にそれを伏線とすればよいのである。知らぬ間に時間が逆戻りしてました、というほうが、よほどセンス・オブ・ワンダーであり、SF(すこしふしぎ)な、いかにも藤子F的な結末だ。クライマックスからラストへの無理な展開、証拠を掴んだ警察が遂に登場するに至る流れも、全てモリーナと父親の再会に決着をつけるためのものであるとするなら、それこそ本末転倒、なんのための新キャラ、新エピソードなのやらということ。頼むから、藤子Fの傑作に泥を塗るような行為は慎んでもらいたい。

3/16/2009

The Curious Case of Benjamin Button

ベンジャミン・バトン 数奇な人生(☆☆☆)


ハリケーン、カトリーナが迫るニューオリンズの、とある病室で静かに幕を開けた映画が、一気に時を遡り、逆回転に時を刻む時計のエピソードを語り始めると、スクリーンから不思議な力があふれ出す。CGI の進歩によってなんでも描けるようになってしまった昨今、しかし、それと同時に映画の画面からはある種の「魔法」が失われたのではないだろうか。凄いセット、凄い映像効果も、なんだ、CGI かと思えばスゴくもなんともないように感じてしまうし、そういう先入観でみつめるスクリーンからは、見るものを別世界にいざなう力が確実に衰えてきている。ところが、「80歳の生理機能を持つ体で生まれ、年を経るごとに体が若返っていく」という男を主人公にしたこの怪奇譚の画面には、間違いなくそれがある。観客を途方もない法螺話に連れ込む力、そう、映画のマジック、だ。この映画の見所は、そこに尽きる。

思えば、デイヴィッド・フィンチャーという映像作家の魅力は、そこにあったのだと思う。不本意な作品として世に出さざるを得なかったデビュー作『エイリアン3』にしてから、作品としての完成度は低く、お話も退屈で、お世辞にも褒められたものではなかったが、その映像世界には不思議な魅力が満ちていて、繰り返し眺めていたいと思わせるなにかがあった。『セブン』や『ファイトクラブ』でも独特の「世界」を構築して見せたこの男は、ある種の怪奇性を帯びた本作の物語を、現実と隣り合わせに存在しているのかもしれない、ある種のファンタジー世界に封印して見せた。デジタル技術を駆使しながら描かれる本作の世界は、単なるリアルとは異なる不思議な色を帯びている。摩訶不思議な宿命を背負った男の、どんどん若返っていく肉体を完璧に視覚化した技術もさることながら、そんな大仕掛けを借りなければ語れない物語のテーマへと迫っていく語り口もまた、堂々たるものである。

脚本を書いたのは、ユーモア小説(バカ話、ともいう)『フォレスト・ガンプ』を脚色したことでも知られるエリック・ロスである。Fスコット・フィッツジェラルドの小説にあるアイディアを元に、奇妙な男の一生、出会いと別れを追っていくこの脚本は、確かに『フォレスト・ガンプ』と同じ方法論に拠って構成されている。ある程度の長い期間にわたって一人の人間の人生を追う物語なので、どこか似通ってくるのも不思議ではないという趣旨の本人コメントがあったようだが、構成上の類似はそのレベルに留まるものではない。しかし、確かに似ているこの二本、似ているからこそ際立って感じられるのがその違いである。主人公を歴史の立会人として楽観的にアメリカ現代史を描いて見せることに主眼が置かれたのが『フォレスト・ガンプ』なら、この作品では主人公の生きた背景としての歴史を描こうという意図は希薄である。「歴史」的な要素は、ただただ、物語の中で時間の経過を見せるための道具でしかない。

それよりも、この映画に漂う達観、そして人として避けようのない死の影はどうだろう。肉体と精神のアンバランスを宿命として背負った男の目を通して、人生について、人の生死についての考察を加えることこそが、この作品の中心テーマなのである。そこに、同じように映像技術に熟達していながら監督としての資質や気質がまったく異なるロバート・ゼメキスとデイヴィッド・フィンチャーの個性が重なることで、映画はまったく異なる肌触りを持ったものとして完成したのである。ただ、観客をたっぷりとエンターテインするよりも、冷静に、客観的な距離を置いたフィンチャーの語り口は、滑らかで退屈こそさせないものの、どこかあっさりしており、起伏を欠く。その距離感に知性を感じさせられるが、その分、淡白な印象を与える作品に仕上がっている。

キャスティングが面白い。フィンチャーとは3度目の顔合わせとなるブラッド・ピットであるが、この映画におけるミソは、技術的な助けを借りてどんどん若返っていくブラッド・ピットが、時間の経過と共に、あの『リバー・ランズ・スルー・イット』で見せた、映画好きの脳裏に焼きついて離れないあの輝きを、次第に取り戻していくところである。あの映画、あの一瞬、特別なスターだけが体現できる奇跡的なオーラを、まさか今、追体験できるとは想像だにできない衝撃的な出来事であるが、同じ衝撃は、他の誰かでは再現しようがないという一点において、この映画のブラッド・ピットに代わるキャスティングは考えられないものである。ヒロインを演じるケイト・ブランシェットは、そのあまりに整った美しさと同根の、ある種、能面が持つような得体の知れない薄気味の悪さがポイントではないだろうか。本作の怪奇性を伴ったファンタジー世界との親和性を考えたとき、ここには「親しみやすい隣のお姉さん」的な女優の出番はない。ケイト・ブランシェットのように、何かを超越した存在感こそよく似合うというものだ。