5/28/1999

The Thirteenth Floor

13F (☆☆★)

コンピュータを駆使したシミュレーションを直接頭脳にダウンロードすることで体験できる仮想現実の世界。その実現を目指してきたヴェンチャー企業の創設者が殺され、その部下であり友人でもあった主人公に容疑がかかる。謎を解くために世界恐慌前の米国をシミュレートした世界に乗り込んでいく主人公。

ドイツでも映画化されたことがある70年代SF小説をベースに、製作ローランド・エメリッヒ、監督・脚本ヨゼフ・ラズナックを始め、ドイツ系のスタッフが作り上げたSFスリラー。グレチェン・モルやヴィンセント・ドノフリオが脇で出演している。

低予算ゆえというのもあるのだろうが、その分だけ、ヴィジュアルでごまかさないで、きちんとストーリーを語ろういう意志は伝わってくる。エメリッヒの名前や、「ヴァーチャル・リアリティ」などというキャッチーなモチーフに騙されていると、むしろ肩透かしを食うのではないか。細部のアイディアの詰めが甘く、欠点も少なくないが、大味なエメリッヒとは資質を異にするのであろう、ヨゼフ・ラズナックを初めとするスタッフによって、実に欧州的な肌触りがある作品に仕上がった。ハリウッド映画的基準でいえば、異色な雰囲気の作品といっていい。

物語の核に「シミュレーションのデータを脳にダウンロード」して仮想世界に入るというアイディアがある。近作では『マトリックス』もそうであるように、これ自体がことさら新しいアイディアというわけではない。この手の作品では、「どうやって脳とコンピュータシミュレーションをつないでいるのか」について、虚実を混ぜあわせたもっともらしい説明があるのが通例だが、本作はそこを綺麗サッパリ省いている。もう少し説得力のある説明を加えてもいいと思うくらいだが、下手をすればうそ臭くなるだけなので、何もしないというのも1つの見識なのだろう。

主人公の現在は、ハイテクSF調とでもいうのか、青を基調とした、冷たく生気のない映像で描かれている。もっといえば、SF映画の割に金がかかっていない。一方、1920年代をモデルにした仮想世界に舞台が移ると、温かみのある、しかしセピアがかった色調に映像も切り替わり、画面が活き活きとしてくる。プロダクション・デザインの才能と予算の大半は、こちらの世界を作ることに費やされたのだろうね。

演出で面白かったのは、登場人物の誰もが囁くようにしゃべっているかのような印象を受けること。どこか淡々とした「静寂」の映画という感じで、動的でダイナミックな映画を期待した観客を驚かせる。画面の雰囲気と相まって、映画全体が夢か現かといった非現実性を帯びてくる。そういう雰囲気や語り口は良かったが、脚本は少々舌足らずで、あからさまなご都合主義もある。

主人公を演じているのはクレイグ・ビルコというあまり知られていない役者だが、共演の、最近売り出し中な感じであるグレチェン・モルが注目だ。はかなげで、かつミステリアスな雰囲気がいい。

5/21/1999

The Love Letter

ラブレター/ 誰かが私に恋してる?(☆☆☆)

マサチューセッツ州の小さな海辺町で繰り広げられる、三角関係の物語である。ある日配達された手紙のなかに混ざっていた1通の熱いラブレター。誰が書いたのか、誰に充てたもののかも判らない。この手紙のせいで翻弄される主人公を演じるのがケイト・キャプショーで、製作を兼任。監督はハリウッド・デビューのピーター・チャン。共演にトム・セレック、トム・エヴェレット・スコット、グロリア・スチュワート、エレン・デジャネレスなど。

意地の悪い見方をすればこうなる。『インディ・ジョーンズ魔宮の伝説』以外にはぱっとした役がなく、むしろスピルバーグの妻としてよく知られるケイト・キャプショーが、夫のスタジオであるドリームワークスで自らプロデュース。盛りを過ぎたとはいえ男臭いトム・セレックと一回りは若いトム・エヴェレット・スコットの両方から恋焦がれるオイシイ役どころ(しかも後者とはベッドを共にするシーンまであったりする)。

まあ、しかしだ。これを自分で監督しようとせず、香港の俊英ピーター・チャンを連れてきたあたりは幸いといえようか。『月夜の願い』『金枝玉葉』など、こぢんまりとしたロマンティック・コメディを得意とするこの監督に比較的よく書けた脚本を任せたおかげで、可愛い作品に仕上がっている。

宛先不明・差出人不明のラブレターに小さな町の人々が翻弄され、それをきっかけにいくつもの勘違いカップルができるドタバタかと思えば、結局は主人公の三角関係もの。前半の笑いのセンスが少々泥臭いが、"The Love Letter"とは騒動のもとになった手紙のほかに、別の手紙のことも意味していることが明らかになってくると、俄然ロマンティックな色が濃くなってくる。演出も次第に落ちつきを取り戻し、見ている方としても一息つける。

久しぶりに見るケイト・キャプショーだったが、小さな海辺町で暮らしている普通の人のリアリティはあって、若い男に言い寄られてくらくらっときてしまうあたりにも説得力があった。『イン&アウト』ではあっと驚く役どころだったトム・セレックも、ギラギラした感じがなくなったぶんだけ、普通の役がやれるようになったというのが発見だ。現実味があるのは良いのだけど、いかんせんそれが地味さになってしまっているのは大きな欠点。このキャスティングではなかなか一般観客の興味は引けまい。

もう一つの問題は、主人公の母親をふくめて俳優の実年齢と役柄の年齢がいまひとつしっくりこないのだ。そのあたり、映画のマジックでうまく誤魔化しているともいい難く、多少疑問が残った。気のせいだろうか。

実際にマサチューセッツ州の避暑地、ケープコッド近辺で撮影されただけあって、町の雰囲気や表情がよく出ている。とりたてて持ち上げるような作品ではないけれど、そこそこ楽しめる出来映え。堅実な仕事をしてみせたピーター・チャンに、今後もいい仕事が回ってくることを期待したい。

5/20/1999

Notting Hill

ノッティング・ヒルの恋人(☆☆☆★)

『スター・ウォーズ』の公開に湧く映画館で、「スター・ウォーズになんて興味がないよ」という観客を当てにして公開日をぶつけてきたロマンティック・コメディだ。どっちにも興味がある当方としては、無論スター・ウォーズが優先だが、こちらに足を運ぶのを忘れるわけにはいかないのである。

ロンドン市内で小さな旅行書専門店を開いているのがヒュー・グラント演じる主人公である。その店に、イギリスを訪問中だったジュリア・ロバーツ演じる「ハリウッドの大人気女優」がふらっと立ち寄ったことから始まるお話し。偶然の再会、人目を避けた秘密のデート、何度か出会いを繰り返すうち、どんどん惹かれ合っていく2人。全く違う世界に住むこの二人の可笑しくもロマンティックな恋模様。ヒュー・グラント主演の『フォー・ウェディング』で名を売ったリチャード・カーティスの脚本で、ロジャー・ミッチェルが監督している。

もちろん、あまり現実味のない話だが、ロマンティック・コメディというやつは、そういう現実味の欠如ゆえに輝きを増すことがある。この映画はそんなケースの一つだ。人気女優がノッティングヒルのさえない男に惹かれていく理由やその過程が、必ずしも十分に描かれているとはいえないけれど、そんなことがあっても不思議ではないな、と思わせたら勝ち。そんなことがあったらいいな、と思わせたら大成功だ。クライマックスは記者会見だ。そう、記者会見である。もちろん、こういう設定の先達たる『ローマの休日』を重ねているんだろう。

主演二人の夢物語に終わらせず、脇役を丁寧に描く脚本がいい。主人公と同居している調子ハズレのアーティストや、主人公の兄妹、さらにはホテルのフロントマネージャーなどがある意味、たいへん愛情を持って描かれ、人間味のあるキャラクターになっていて、とても良い味を出している。こういう日常的な世界をきちんと構築してあるから、大胆にも「ハリウッドの大人気女優」を連れこんでくる面白さが活きてくる。


『プリティ・ウーマン』で人気が爆発してから10年、一度は沈んだキャリアでありながら再び最前線に戻ってきたジュリア・ロバーツは、もともと持っていた「親しみやすさ」に加え、一種の貫禄がでてきた。これは第2の黄金期といって差し支えないんじゃないか。ハリウッドの超人気女優という役を説得力を持って、悪びれずに演じて見せて、華もある。セリフの中で現在ギャラが一番高い(しかし下り坂の)女優の一人であるデミ・ムーアの名前を口に見せるあたりで、笑いをとりつつも、自信を感じさせる。

一方のヒュー・グラントは実に器用な人で、今回も絶妙の間と台詞回しで笑わせてくれる。実際はどうだか別として、「ちょっと頼りなさげで冴えないけれど、誠実そうな」人物を演じて実にハマリ役。夢の中から現れたような事態に心ときめかせ、じたばたし、夢から覚めてため息をつきもする。等身大の「恋する男」の説得力が全身から滲み出しているのだ。

思い切り笑わせながら、ドタバタ寸前で止める演出のさじ加減もいい。ロマンティックで軽快、非常に楽しい作品。四つ星をつけてもよかったかな、と思う。このジャンルが嫌いでないなら、ぜひお薦めしておきたい一本である。

5/19/1999

Star Wars Episode I: Phantom Menace

スター・ウォーズ エピソード I ファントム・メナス(☆☆☆★)

辺境の惑星ナブーが通商連合に経済封鎖を受ける。交渉の役を担った2人のジェダイ騎士がやってきたが、事件の裏側には既に滅びて久しいとされるダークサイドのフォースの使い手である「シス」の手が関わっていた。ナブーの女王と共に惑星を脱出、共和国首都コルサントに向かう途中、砂漠の星タトィーインに不時着した一行は、そこでフォースの強いアナキン少年と出会うことになる。

いや、誰がなんといっても、『スター・ウォーズ』なので、幸運にもその最初の1本を劇場で経験した世代(の中では若いほう)としては、初日の深夜上映のためにともかく並ぶしかない。なんだか仮装してライトセイバーを振り回す子供たちやら、ヨーダしゃべりで話しかけてくるおっさんやらが大行列を作っていて大変な騒ぎであった。そして映画館の暗闇に20世紀フォックスのファンファーレ、ルーカス・フィルムのロゴ、”A long time ago, in a galaxy far, far away”! ああ、これを待っていたんだよ。その瞬間こそが、本作における最高の瞬間であったことは特に否定するものではない。

さて、既に分かっている結末に向けて「帰納法的」に展開される新3部作の開幕である。だから、前の3部作を見ていない限り、画面で展開されていることの意味をほんとうに理解することはできない。

が、一見さんお断りという話でもなく、今回が初見の小さな子供でも十分に楽しめる作りになっている。何しろ、アナキン・スカイウォーカーは子供だからな。そうして、むしろそういう「お子さまモード」が本作への困惑と、非難の的となっているのは事実である。個人的にはポッドレースのシーンはもっと短くしたら良かったとは思うが、不評を浴びているジャージャー・ビンクスとか云うカリブ訛りのCGIキャラクターは、子供に受けているみたいだし、あんまり目くじらを立てなくてもいいんじゃないか、などとも思う。まあ、100%CGIで作っている画期的なキャラクターだというのを強調したいがばかりの、不必要に周囲と絡む演出はご愛嬌といったところか。

この映画で驚いたのは、大型のイヴェント映画にありがちな「あざとさ」、無理やり観客の感情を喚起する一種の浅ましさがないこと。久しぶりに監督に復帰したジョージ・ルーカスの演出は、あきらかに、最近のトレンドから外れている。ルーカスは呆けたという口の悪い輩もいるが、これはこれ、シリーズの「序章」として、その壮大な予告編としてのバランスが意識されているようにも思える。

演出があっさりしている反面、、画面や音楽に盛りこまれた情報量はシリーズ中でも屈指である。CGIなしにはこういう絵作りは無理だな。音楽にも色々隠し味が効いている。アナキンのテーマの中に隠されている帝国マーチの影。ナブーのパレードに潜んでいる銀河皇帝のモチーフ。こういう音楽の作り方は騙し絵のようで面白い。目に見えているものが全てではないという意味で、旧三部作より幾分複雑な様相を呈している、それが、分かってくると、少し違った楽しみ方ができるようになる作品である。(もちろん、そういう様々な要素は、リピート鑑賞しないとなかなか拾い切れないので、いろいろ気になって、結局、E.T.探しも含めて5回も劇場に足を運んでしまった。)

平穏な共和制末期を反映した優雅なデザインの宇宙船など、これまでとかなりテイストが異なるので、少々面食らうところはあるが、やはり、どこかに一貫した部分は残されていて、これらのデザインがどうやって我々の知っているデザインにつながっていくのか、これから先の興味がつきない。

ファンにとっては懐かしいキャラクターの昔の姿を目にしたリ、彼らの出会いや起源が次々と語られていくだけで単純に嬉しいものである。それ以上に、歴史の循環、運命の輪を意識したのか、前3部作、特に最初の1本を彷彿とさせる演出が随所あって、そういうところにニヤリとさせられたりもする。一方で、決まった結末に向かって走っていく物語の窮屈さ、わかっていることを確認していく作業であることの退屈さも感じざるを得ない。

ある意味で、新3部作は負け戦であると思っている。さまざまな制約の中で、どれだけ観客を満足させ、熱狂させられるか。ともかく幕を開けた以上、ここから先が正念場だろう。

5/07/1999

Election

ハイスクール白書・優等生ギャルに気をつけろ(☆☆☆★)

とある高校での学生会長選挙をめぐる狂騒とその顛末を描く、ブラックなハイスクール・コメディである。製作はMTV。出演はリース・ウェザースプーン、クリス・クライン、マシュー・ブロデリック。トム・ペロッタの原作をもとに、これが3作目となるアレグザンダー・ペインが脚色と監督を手掛けた。

上昇志向と押しの強い超優等生の女子生徒に、対立候補もなく無風に思われた選挙戦。この女生徒との「不適切」な関係で人生をフイにした同僚を思い出した生徒会の顧問が、対立候補を擁立しようと画策したことで、思惑の異なる候補者3人と顧問の教師の私生活を巻き込んだ泥仕合になる、という話。

これが、予想以上に面白い。アメリカの高校生活の一断面をこういう切り口で切ってみせるのはユニークだ。

中心になる数人の登場人物の視点を切り替えながら語っていく手法の歯切れ良さと、絶妙の編集のリズムも心地よい。ギャグのネタが少々泥臭くどギツい感じがするが、そもそも、ギャグで笑わせてオシマイ、という映画でもない。民主主義の雛形を教えるはずの選挙を舞台にしながら、良かれと思って介入した教師と、あまりにも極端な主人公のキャラクターを中心にして、あらぬ方向に転がっていく物語に皮肉な面白さがあり、物語の幕切れはシニカルだ。

監督が自ら手がけた脚本は、キャラクターがよく描かれているが、それを演じる俳優たちも怪演といっていい。

主人公を演じるリース・ウェザースプーンは上昇志向の強いキャラクターを好演。ヘン顔を恐れぬ体当たり演技でもあって、可愛いだけのスター女優とはひと味違う根性を感じさせられる。前作『クルーエル・インテンションズ』で演じた金持ちのお嬢様より、今回のような役のほうが個性的な風貌に似合っている。『Overnight Delivery』という、なんのことはない映画でヒロインを演じているのをみたときから贔屓にしているので、今後の活躍が楽しみである。

教師役はマシュー・ブロデリック。いや、マシュー・ブロデリックといえば、かつての青春スターであり、何をやってもうまくいっちゃう「フェリス・ビューラー」なのであるが、ここではそんな面影もどこへやら、何をやっても裏目に出てしまう情けない教師役がはまっている。こういうキャスティングは、当然、「フェリス」を踏まえてのことだから、それ自体に毒を感じずにはいられない。ブロデリックは、小心者の善人が、ふとしたきっかけ身を滅ぼしていく姿で哀れみと笑いを誘うのだが、最後には見るからに悲惨な容貌になってしまい、そこまでいたぶらなくても、と可哀想になってくる。この監督、かなり意地が悪い。

単なるハイスクールものと馬鹿にするなかれ。劇場で公開されないかもしれないが、追いかけてみる価値のあるエッジの効いたコメディ映画だ。オススメ。

5/06/1999

Life

エディ&マーティンの逃走人生(☆☆)

大恐慌の後遺症も癒えていない頃のNY。音楽が溢れる黒人クラブで偶然出会った2人の男がアルコールの運び屋をすることになるのだが、その道中、黒人差別の風潮が色濃く残るミッシシッピ州で殺人容疑の濡れ衣を着せられ、終身刑の判決を受けてしまう。刑務所で強制労働に従事しながら一生を送ることになった2人の運命やいかに。

・・・というドラマを、エディ・マーフィとマーティン・ローレンスの2枚看板で見せるのが本作である。エディ・マーフィとマーティン・ローレンスは、過去に一度、『ブーメラン』で共演している。そのころを頂点として、「落ちてきた」エディ、主演作も増え、登り調子のマーティンが対等に共演するのである。

当然、この二人が主演なのだからコメディ・タッチの作品にはなるが、しかし、2人の名前から期待されるドタバタはここにはない。ドラマとしては、中途半端な笑いも邪魔してか、他の刑務所ドラマにはかなわない。どうにも、そのサジ加減が中途半端に思えて、笑うにせよ、感動するにせよ、なかなか難しい。

もちろんプロデューサーまでつとめたエディの心意気はわかる。第2次大戦前の南部、おなかが空いてふと立ち寄ったダイナーで黒人客はお断りだと云われるひと悶着。羽振りの良い黒人をなぶり殺しにする白人の警官。結果的に黒人を安い労働力としてこき使う構図になっている刑務所。自らの知名度と笑いというオブラートに包んで、エディがここで提示してみせるのは、現代アメリカにおける黒人の歴史の一断面なのである。

エディ・マーフィとマーティン・ローレンスの息は合っている。が、いかんせん笑いもドラマも互いに遠慮しすぎているのだろう。二人の黒人受刑者の葬式と埋葬から始まる物語なのだから、脱走を繰り返しては失敗する二人の姿が滑稽であればあるほど憐れみや哀しみを誘う、という境地に辿りつけたのなら、あるいは、トラジック・コメディとして成功したのかもしれない。だが、現実、そこまでの力のある映画にはなっていない。

最大の見所は、特殊メイクの達人リック・ベイカーがエディとコンビを組んでみせる「老人メイク」だろうか。この2人、『星の王子NYへいく』『ナッティ・プロフェッサー』でもエディ七変化を見せてくれたが、今回もなかなかすごい。面白いのは、メイクそのものだけではない。同じメイクを施しても、マーティン・ローレンスは彼が老けメイクをしているようにしか見えないが、エディはそこに老人になったキャラクターを見事に作ってみせるのである。この演技力、いや、「芸」の差は大きいな。

監督のテッド・デミは、『ビューティフル・ガールズ』があった。あれも好感はもてるが、今一つ焦点が定まらない作品だったな。今作は話が全部上滑りして表層的。『ハーレム・ナイト』の失敗で懲りたのかもしれないが、これならいっそのことエディが自分自身で監督した方が良かったのではないか。

5/01/1999

The Mummy

ハムナプトラ 失われた砂漠の都(☆☆☆)

伝説の「死者の都」への道を知るという主人公を道案内にして、好奇心旺盛な図書館司書の女性とその兄を加えた一行が旅に出るが、道中、都に眠る財宝を目当てにした連中や、都市の秘密を守るかのごとく襲撃を繰り返すミステリアスな民族集団との遭遇。最後には呪われし神官インホテップとミイラ軍団と対決する羽目になる。出演はブレンダン・フレイザー、レイチェル・ワイズ、ジョン・ハナら。

ミステリアスな砂の顔をあしらった大作感漂ようポスターが随分前から劇場に貼られていた。かつて、怪奇映画で鳴らしたユニヴァーサルの製作で、『ミイラ再生』をリメイクする、という。

しかし、そんな大義名分のもと作らた映画は「好き勝手に翻案された、インディアナ・ジョーンズ風の冒険アクション」だった。なんじゃそりゃ。でも、古典的なミイラ映画じゃ、客は入らんよな。脚本・監督は、前作『ザ・グリード』で、一部の映画ファンを狂喜させたスティーヴン・ソマーズだという。いつのまにやらすごい出世である。

この映画、「インディアナ・ジョーンズ風」といえば聞こえは良いが、まさに、それをお手本にした安っぽいコピーだ。全てはどこかでみたことのあるシーンのツギハギで、何一つ新しいところはない。でも凡百のインディアナ・ジョーンズものまね映画と違うのは、作り手の過剰なまでのサービス精神と、有無を言わせない物量なんだろうと思う。

スティーヴン・ソマーズの演出はどちらかといえば荒っぽくて乱暴なところがあり、お世辞にも上手い監督じゃないと思うのだが、それでも、観客を喜ばせようとするエネルギーは伝わってくる。今回は予算も潤沢だったのだろう、手を変え品を変え、物量で攻めてくる。このへんで一区切りという限度を知らず、牛丼特盛に卵と豚汁までついてきて、食べ終わったところにカレーライスが出てくるような映画になっているのだ。

しかし、主演が立派な体格と整った顔をしていながら、抜群のコメディ・センスを持ったブレンダン・フレイザーだからして、普通のアクションヒーローにはならないし、だから映画のノリも、真面目にやっているのか、ギャグでやっているのか分からない、コミカルで軽いノリになっている。それが徹頭徹尾陽性な本作の個性であろう。

あと一歩間違えば、バカ映画のたぐいになる、そういう危うい一線上で、なんとかサマー・ブロックバスターとしての体裁を保っているのが面白くもあり、つまらなくもある。いっそ、もっとバカ側に振り切れていたら、もっと面白かったかもしれない。

ILMが砂を使ったエフェクトで力量を発揮。たしかにこういうのはCGI、デジタルの効果でなければ映像化が難しいところだろうし、それにしたって、相応に技術的なハードルも高いんだろう。ILMのなかでも「スターウォーズの新作に入れてもらえなかった」スタッフたちが執念と意地でつくりあげたという。

巨匠ジェリー・ゴールドスミスがいつものように入魂のアクション・スコアを鳴らしていて、最初からこれを聞いてればこの映画が「怪奇映画」だとは思わないはず。本編が終わったあとで流れるエンド・クレジットがヒエログリフをモチーフにしてちょっと新鮮、お洒落だった。