5/23/2010

Green Zone

グリーン・ゾーン(☆☆☆)

映画の世界においては単純な事象の中に内包される複雑さを描けば賞賛の対象になるが、複雑な事象を単純化してみせても褒めてくれるものはいない。

『ユナイテッド95』で 9/11を、つまりは、米国の「対テロ」戦争の発端を描いた俊英ポール・グリーングラスが、彼の出世作ともなった「ジェイソン・ボーン」シリーズで組んだマット・デイモンとタッグを組んで取り組んだ本作は、イラク戦争開戦の大義名分であった「大量破壊兵器」の在り処を探すうちに国家の陰謀につきあたる主人公の物語である。

この映画の良さは、あくまで「ジェイソン・ボーン」シリーズと地続きのような、気軽に楽しめる娯楽アクション映画のフォーマットのなかで、イラク戦争開戦に至る構図と「終戦後」のバグダッドを臨場感たっぷりに、誰にでも分かりやすく見せるところにある。

が、その一方で、分かりやすい悪役を立て、それに挑むヒーローという構図により、本来は一筋縄ではいかない現実をあまりにも単純化してしまったという批判も免れない。まあ、反米的云々といった的はずれな評は聞くに値しないにしても、娯楽映画の題材とするには未だ生々しさが拭い去れないという微妙なところもあっただろう。一方、社会派の作品を期待した向きには、あまりに単純、あまりに娯楽映画的であったに違いない。

そうこうしているうちに、イラク戦争の最前線を描くというキャッチを『ハート・ロッカー』に横取りされてしまい、テーマとしての鮮度が落ちた。これは興行的観点から見れば痛手であったと考えられる。

もっといえば、問題作というにはトピックが周知の事実(=大量破壊兵器の不在)過ぎた。しかし、社会派のネタから幅広い観客層が楽しめる娯楽映画を作ろうという志は買いたいし、本作を支える演出力と職人技としての技術の高さには改めて感服させられるものがある。

嫌な奴を演じさせたら抜群にうまいグレッグ・キニアが国防総省の高官を演じて楽しませてくれる。中東歴の長いCIAとして登場するブレンダン・グリーソンの存在感もいい。そのあたりの顔ぶれも、新鮮味がないといわれたらそれまでだが、ありふれた娯楽映画と考えれば恐ろしく水準の高い拾いものだといえる。戦争ものというのでなく、ハードなアクション・スリラーとして、お勧め。

5/15/2010

Le Concert

オーケストラ! (☆☆☆☆)


ブレジネフ時代のソビエト連邦で、ボリショイ交響楽団からユダヤ人排斥が行われたことをモチーフにした人情喜劇の秀作。お笑いのセンスがちょっとベタなあたりは、逆にいい味になっていると好意的に受け止められる観客であれば、社会的な背景を踏まえつつ、笑いと涙とスリルと音楽のフルコースで、映画を楽しんだという充足感に満たされること保証つきである。

表舞台を追われた人々が千歳一隅のチャンスを得、ボリショイの名を語りパリでチャイコフスキーを演奏しようとするのがメインストーリー。そこに本作の主人公である元指揮者、招聘される人気ソリストらの人生のドラマが絡み合い、クライマックスのコンサートに向かって怒涛のように雪崩れ込んでいく。

偽オーケストラがバレずに公演を成功させられるのかというサスペンス。ロシアから華の都パリに出てきて浮かれてしまう団員たちの奇天烈な行動で巻き起こる笑い。そして観客席を本物の感動で震わせる演奏。いくつもの要素を手際よく整理し、最高の幕切れにむかって練りあげていく脚本、この構成が見事である。大筋でいえば定石どおりかもしれないが、一つ一つの要素、エピソードに、少しずつサプライズがあって新鮮である。

一応、パリを舞台にしたフランス映画、である。まあ、先にもあげた笑いのセンスはフランス映画そのものである。しかし、各国混成のキャストがひとつの映画の中で素晴らしいアンサンブルをみせてくれる映画でもある。出演者は『イングロリアス・バスターズ』とは違った魅力を振りまくヒロイン、メラニー・ロランを筆頭に仏の芸達者が顔をそろえる一方、主演のアレクセイ・グシュコブ(ポーランド生まれ)を初めとするオーケストラの面々はロシア系の俳優たちが起用され、それだからこそだせる空気を作り出している。

なにせこの作品、監督のラデュ・ミヘイレアニュはもともとルーマニア生まれ、チャウシェスク政権下からの亡命者だという。こういう国籍や文化の入り乱れた感じはちょっと羨ましいというか、仏に閉じない「欧州映画」の風格につながっている。そして、欧州の現代史を踏まえたドラマを描いている。

ところで、こんな映画の共同脚本に、スピルバーグとの縁浅からぬマシュー・ロビンスがクレジットされているのがちょっと謎。『ミミック(1997)』以来、なにがあったというのだろう?

Precious: Based on the Novel Push by Sapphire

プレシャス(☆☆☆)


まあ、壮絶な話である。実話じゃないにしろ、これに類する話は珍しくないというのも凄まじい。

16歳の超肥満黒人少女は、義理の父親から幾度となくレイプされた挙句、12の時、すでにダウン症の息子を出産し、いまは2人目を妊娠している。公的扶助だけを頼りにする怠惰な母親は、自分の夫を奪った娘を、それゆえに虐待する。読み書きもろくろくできない。逃げ場所は妄想のなかだけ。80年代のNY、ハーレム。社会の最底辺の地獄のような生活のなか、周囲に差し伸べられた手によって少しだけ見えてきた希望。そこでダメ押しのように明らかになるのは、義理の父親からHIVに感染していたこと。

どう考えてもメジャーが手を出さない題材である。サンダンス映画祭で成功し、オプラ・・ウィンフリーとタイラー・ペリーが強力に興行の後押しをした結果、興行的にも一定の成果を収めることができ、賞レースを賑わせた。オプラがいれこむ理由は、彼女自身、10代未婚の母に育てられ、9歳で強姦され、14際で妊娠した経験があるという、なんだか映画みたいな経歴ゆえだという。

フィクションではあるが過酷な現実、そんな内容を映画にして知らしめることの価値は大きい。ある意味で使命感を背負った映画である。しかし、違う言い方をするなら、主人公の背負った運命の壮絶さそのものが、「映画」という枠組を吹き飛ばしてしまうタイプの作品で、何が描かれたかが、どう描かれたのかを圧倒し、評価するにあたって思考停止に陥ってしまうタイプの映画、である。ある意味、こういうのはちょっとずるい。

本作が2本目の監督、リー・ダニエルズは、当然、そういう自覚があるはずだ。それゆえに奇を衒った演出に走ったり、ことさらドラマティックに盛り上げようとしたりせず、主人公に淡々と、誠実に寄り添っていくスタイルをとっているのではないか、と思う。個人的には、主人公が逃避する妄想の世界の使い方が中途半端だと感じたが、あまりやり過ぎると、『シカゴ』になっちゃうし、そうすると描かれた「現実」が作り物のようになってしまう。それは、作り手の意図とは違うということだろう。

主人公を虐待する母親役でコメディエンヌのモニークが出演、アカデミー賞受賞時の感動的なスピーチも印象に残るが、確かに、引き受けるのをためらうような役柄で、これを引き受けて、こういう演技をやってのけたことは確かに賞賛に値するだろう。マライア・キャリーの出演も話題だが、この人、映画では初めてまともな仕事をした。なんだ、演技、できるじゃん!レニー・クラヴィッツも小さな役で出演し、いい味を出している。主役を演じるガボレイ・シディベの太り方は保険会社から警告を受けたというほどに異常。全くの素人をオーディションで起用したようだが、当時25歳だったというからびっくりですよ。ええ。

An Education

17歳の肖像(☆☆☆☆)


1960年代、ロンドン郊外で、うんざりするほど退屈な日常を送っていた利発で聡明な少女が経験する、甘くて苦い通過儀礼の物語。オクスフォード進学を期待されながら、その先の人生に希望や将来性を実感できない主人公(キャリー・マリガン)は、怪しい商売に手を染めた30代後半の男(ピーター・サースガード)が連れ出す快楽的で刺激に満ちた世界への抗し難い魅力に吸い寄せられていく。

本作は英国のジャーナリストであるリン・バーバーの自伝("An Education")のもとになった同テーマの短いエッセイを、(映画ファンのあいだでは『About a Boy』や『High Fidelity』の原作で知られる)ニック・ホーンビィが脚色して映画化したものだが、まずなんといってもアカデミー賞にもノミネートされたこの脚本が見事だ。繊細に描かれる主人公のキャラクターはもちろん、主人公の両親や学校の先生にしても、それぞれのキャラクターに生きた人間としてのリアリティがある。会話のテンポと内容が実にリズミカルでポップ。その一方、下世話になってもおかしくない話を、品格をもってまとめている。それでいて、文芸映画な退屈さとは無縁。

ここで描かれるのは、時代と場所に特有な環境における、特殊な少女の、特殊な体験でありつつ、時代や場所にとらわれない普遍的な物語でもある。監督のロネ・シェルフィグはデンマークの人なのだが、主人公を取り巻く環境と空気を丁寧に描出しつつ、物語の核にある普遍性をあぶりだしている。同じ欧州人とはいえ、国境とカルチャーを超えてこれだけ達者な演出をできるところは感心するし、外部者としての、すこし距離をおいた客観的な視線も感じられる。その距離感は、この話に "An Education" と命名した作者の視点とも重なる。

賞レースの台風の目となったキャリー・マリガンの「一生に一度」的な輝きはいまさら言及するまでもないとして、その相手役となるピーター・サースガードの胡散臭さが非常に素晴らしい。このひと、どうみても普通の「美男子」の基準からは外れているが、この役は主人公視点ではとても魅力的に見えなくてはならないし、観客目でみてそのことに説得力がなければならないという意味で、結構な難役である。コミュニケーション能力に長け、物腰が優雅で、金回りがよく、趣味や話題が豊富、普通に考えれば真っ当ではないが、世の中の仕組みを鼻で笑って美味しい蜜だけをすくっていく、こういう男を本当の美男子が演じたらファンタジーになってしまっただろう。主人公の父親を演じるアルフレッド・モリーナ、校長役のエマ・トンプソンは、幾分類型的に描かれた役ではあるが、それだけでは終わらない深みを与える好演。こういうベテランと若手のアンサンブルは気持ちがいい。

5/08/2010

The Shutter Island

シャッター・アイランド(☆☆☆☆)


この映画は、見た目と違う、のである。

といっても、観客を騙すとか、どんでん返し、とか、そういう意味ではない。つまり、そもそも配給元が喧伝するような謎解きサスペンス・ミステリーではないのである。また、様々な映画の記憶やテクニックをマニアックに引用して塗り固めた、シネフィル的な知識をひけらかすだけの作品でもない。名匠が金稼ぎの必要から撮った分かりやすい娯楽作品というのも違う。

では一体なんなのか。すべての鍵は、原作にない、映画で付け加えられた主人公の最後の台詞にある。

Which would be worse, to live as a monster, or to die as a good man?

精神科監獄病棟を舞台に展開される物語である。主人公たちは、FBIの捜査官として監獄病棟のある島に向かい、あとかたもなく失踪したという女性の行方を追う、というのが話の発端である。その過程で、ナチス・ドイツで遭遇したユダヤ人収容所での凄惨な光景の記憶など、事実や幻想が入り乱れつつ、主人公の過去のトラウマがフラッシュバックで甦ってくる。一体、ここで何が起こっているのか、主人公の過去に何があったのか。

舞台となる病棟を作ったのが悪名高い「非米活動委員会」であると劇中で説明されている。非米活動委員会といえば、真っ先に想起されるものがハリウッドも吹き荒れた「赤狩り」である。証言や召喚を拒否した映画人たちは、結果的に職を追放され、表立った活動ができなくなった。そんななか、司法取引に応じて多数の仲間の名前を売ったのがエリア・カザンである。共産主義者の嫌疑があるものとして密告された人間が職を締め出される一方で、カザンはその後も第一線で活躍を続け、数々の作品を残した。

本作の監督、マーティン・スコセッシは、そのエリア・カザンの名誉回復に尽力する立場であった、と理解している。カザンに対するアカデミー賞の特別賞授与(1998)の場で、多くの「気骨ある」映画人が口を静かに結び、席を立つのを拒んだが、プレゼンターとして舞台の上に立っていたのがスコセッシ(と、盟友ロバート・デニーロ)であった。

ちなみに、スコセッシとデニーロといえば、アーウィン・ウィンクラー監督がハリウッドでの赤狩りを描いた『真実の瞬間 (1991)』で役者として共演している。これもまた、面白い符合だと思って、授賞式を見た覚えがある。

本作は、そういう流れのなかに位置づけると、違った意味を持って見えてくると思うのだ。先ほど引用した台詞が、違った意味をもって響いてくる。つまり、カザンのような才能ある映画人が、表舞台に残るために仲間を売るという非情な選択を迫られたことを、裏切り者として、monster として生きることを選ばざるを得ないところに追い込まれたこと。証言を拒み、良き人として表舞台から去っていった数々の映画人のこと。

この映画は、表面的にはデニス・ルヘインの変化球的(だがたまに見かける)パターンのミステリーの映画化で、ディカプリオは得意の眉間のしわを寄せて過去に悲劇的なトラウマを抱えた男を演じている。そのドラマにはなかなか見ごたえがあるし、映像・演出のテクニックもこなれていて一級品の風格がある。

そんなわけで、表面的にも十分楽しめる良作である。が、裏読みをすれば、その奥深さが一層心に残る1本になるように思う。他人の企画による分かりやすい娯楽映画を職人として仕上げたふりをしながら、なかなかの力作。スコセッシもまだまだ捨てたものではない。

Nodame Cantabile: The Movie (I & II)

のだめカンタービレ最終章・前編 / 後編(☆★)


まあ、いくら豪勢にお金をかけてみてもテレビドラマはテレビドラマ。テレビドラマが好きだったなら、その続きを素直に楽しめばいいし、そうでなかったら面白くもなんともないだろう。映画としてはもはや評価対象ですらない。豪華なテレビ・スペシャル以上でも以下でもない。

豪華なテレビ・スペシャル・・・というか、海外編になってから、もはやドラマというよりバラエティである。コメディというよりコント。正直、つらいぞ、これは。

もともとのドラマが、マンガだから許されるお遊び表現を、バラエティのノリ、コントのノリで、悪乗り半分に映像化しているところがあって、そうはいってもそこにはきちんとした物語とドラマがあって、安っぽいお茶の間のTV画面の中でだけ成立し得た奇跡的で幸福なバランスがそもそもの魅力のひとつだったように思う。が、そのあとは正直に言って酷い。惰性。原作に続きがあるからといっても、無理に続ける必要などどこにもなかった。

まあ、個人的に、ドラマも原作の漫画も楽しませてもらったクチなので、結局、なんだかんだといいながら前編・後編とも付き合ったが、制作費を回収するためかどうか、2回に分けて公開するあたりの姑息さが嫌らしいと思う。実写版映像化としては、最初のTVシリーズだけで終わっておけば良かったと、本気で思っている。

District 9

第9地区 (☆☆☆★)

ピーター・ジャクソン製作、ニール・ブロムカンプ脚本・監督で、公開以来大いに話題を呼び、作品賞枠が10本に拡大された米アカデミー賞にノミネートされて一躍名を上げた異色SF作品。

南アフリカ、ヨハネスブルグ上空に出現した巨大宇宙船からの「難民」であるエイリアンたちが被差別民的に暮らすスラム街、第9地区。このエイリアンたちを別の専用居住地区への強制移住させるための現場監督を任せられた職員を主人公にして、フェイク・ドキュメンタリーのタッチで現実社会における人種隔離や差別、文化の衝突を風刺的に描きつつ、B級魂が炸裂するアクション・アドベンチャーになっている。テーマ、スタイル、エンターテインメントのユニークな融合と、映画好きの心をくすぐるディテールや笑える設定・描写山盛りのサービス精神に思わず顔がほころんでしまう快作。

エイリアンと人類が共存する世界といえば、エイリアンを(ヒスパニック系の)移民になぞらえた『エイリアン・ネイション』なんかを想起するのだが、本作はもう、あからさまにかつての南アフリカにおけるアパルトヘイト政策や、黒人たちの強制移住など、現実に起きた事件をあからさまになぞっていて、「エビ」と呼ばれて蔑まれているエイリアンたちの人権なぞどこ吹く風という主人公の言動に皮肉がパンチが利いていて面白い。エイリアンの設定も、知能程度の高くない2級市民的な種族としていて、二重の意味で被差別的な存在におかれているあたりがいいアイディアである。彼らをコントロールする立場にあった(おそらく宇宙船や超絶兵器を使いこなす)高等な種族が事故か疫病でほとんど死滅したからこそ、辺境の星である地球なんぞで立ち往生する羽目になっているというわけだ。

謎の液体を浴びた主人公のDNAが変化をはじめ、「エビ」へと変貌してしまうあたりは『フライ』等へのオマージュだろうか。今度は主人公の人権もなにもあったものじゃなくなり、当局に監禁され、実験台にされてしまう。なぜにして当局はそこまでするのか、といった動機付けの設定が本作で最高のアイディア。エイリアンの持ち込んだ超絶的な武器、兵器類は、「エビ」のDNAで起動するので、人類は使用できないのである。後半は、その設定を活かした大活劇になるのだが、あんまり高尚ぶっておらず、良い意味で、なんでもありのB級展開である。そういう部分がかえって清々しく、好印象のよくできた娯楽作品である。

SFチックな意味での避けがたいグロテスク描写がネックになって手を出さないひともいるかもしれないが、さしてハードなものではないので、よほどこういうのが苦手な人でなければOKなんじゃないか。グロ描写を理由に本作を避けるとしたら、ちょっともったいないと思うので、食わず嫌いをせず、手を出して欲しい。面白さ保証付き。