11/28/2008

The X-Files: I Want to Believe

『X-ファイル: 真実を求めて』(☆☆☆)

まあ、贔屓目に見ても、なぜ今なのかよくわからないシリーズ「最新作」なのである。でも、まあ、そういわず。

そもそも、1993年にFOXチャネルで放送が開始されたTVシリーズ『Xファイル』は9シーズンの長きに渡って人気を博した画期的なSfi ミステリーであり、2002年に放送が終了している。この間、第5シーズンと第6シーズンのあいだにあたる1998年の夏、劇場版1作目である『The X-Files: Fight the Future (Xファイル・ザ・ムービー未来と闘え』が公開されたから、今回の映画はシリーズ2本目の劇場作品ということになる。原則的に一話完結のスタイルをとりながら、シリーズ全体を貫いて異星人と政府の陰謀にまつわる連続したプロットが展開され、これがいわゆる "Mythology" と呼ばれるものである。劇場版1作目はその一部をなすストーリーであった。

TV版完結から6年、シリーズのクリエイターであるクリス・カーター自らが監督にあたった本作は、久方ぶりの劇場版という「イベント」に対して大方のファンが期待したであろう "Mythology" に連なるスケールの大きな一編、というわけではなく、猟奇的な連続殺人の捜査に協力することになった「元」FBI捜査官のモロダーとスカリーの姿を描くものである。捜査に行き詰ったFBIに請われた二人が、「幻視」による情報提供ができるという「自称超能力者」と共に、臓器移植にも絡んだ事件の真相に迫っていくという話だ。超能力者の「能力」は本物なのか?単なる偶然か?裏があるのか?事件解決の過程で2人はそれぞれの信念を試されることになる。

お話しからも察せられるように、こぢんまりと作られた作品である。なんのことはない、本作のバジェットは3,000万ドル程度だということで、6,600 万ドル程度といわれていた劇場版一作目の半分にも満たない金額、今日の基準なら小規模といっても差し支えないだろう。夏興行で惨敗したことが伝えられているが、この規模の作品だったら海外市場とパッケージ・ソフトで十分回収できるという読みもあったのか、さすが、TV屋の作る映画は経済的である。

そんなわけで、ファンの期待との異なる内容で興行的にも失敗した低予算の、旬を過ぎた「最新作」。そんなイメージからすれば、この内容が想像以上に良くできたものであるのはうれしい驚きの部類に入るだろう。

なにしろ、ここには「X ファイル」のエッセンスが詰まっているといってよい。

なんといっても、まずはその雰囲気だ。表面上は猟奇殺人事件を追うFBIという手垢のついたプロットであるのに関わらず、おそらく、"spook" という表現がしっくりくるような、「得体の知れない薄気味の悪さ」が劇場のスクリーンから漂ってくる。今回、シリーズ最初期に撮影を行い、ドラマのヴィジュアル面での雰囲気を決定付けるのに大きな役割を果たしたバンクーバーに撮影場所を戻した意図は、この、Xファイルらしいルックスを取り戻すためだったに違いない。

そして、ストーリーである。事件の顛末に常軌を逸した飛躍を用意して、単なる「猟奇的殺人」にとどまらない怪奇ファンタジー、ミステリーに仕立てるあたりはシリーズの真骨頂だが、それよりも何よりも、ドラマの中心に「I want to believe」(=原題サブタイトル)をテーマとして据えたことに意味がある。嘘かもしれない、証拠もない、論理的な説明もつかない、現実味がない、それでもなお、信じたい、信じるほかはないという強い気持ち、信念、それに基づく行動。これは、まさにこのドラマ・シリーズの中心にある大テーマといってよい。

一方、逆説的ではあるのだが、この作品が "classic" と呼びたいくらいに原点に忠実であるからこそ、だったらTVスペシャル、TVムービーでよいのではないか、敢えて劇場版にする意味合いはどこにあるのか、と問われてしまうのが作品としての弱みであろう。個人的には、あの「Xファイル」の、当時としてはTVドラマの枠を完全に凌駕していたあの雰囲気を劇場のスクリーンと音響で楽しめるということに価値を感じるし、丁寧なドラマ作りには十二分に堪能したのだが、もしかしたら、シリーズのファンであればあるほど、次がいつになるか分からない(次が存在するのかどうかも分からない)状況で、やっと目にすることができた貴重な1本がこれであることに落胆を感じるものなのかもしれない。まあ、興行的不振なぞ気にせずに、次々と新しいエピソードを製作してくれさえすれば、シリーズが200を越えるエピソードの中で培ってきた作品としての幅を再現できるようになるんだろうけどね。

Suspect X

容疑者Xの献身(☆☆★)

「テレビドラマの映画版」が興行的に幅を利かすようになって、もちろん、出来不出来の差、興行の具合もそれぞれなれど、しかし、一方では常に「こんなのは映画じゃない」と揶揄され続けている現実に、一番忸怩たる思いでいるのは作り手たち当事者なのかもしれない。もちろん、テレビで大衆に受けいれられた方法論に対する自負はあるだろう。しかし、そもそも映画好きが多いのだろうと想像する作り手の側だって、(テレビドラマとは一味違う)本格的な映画を作り、そのように受け入れられ(評価され)たいという思いを抱いているに違いない。本作を見て、そんなことを思った。この映画は、そう、いってみれば、そういう作り手の抱いている心情やコンプレックスの吐露のようなものだ。

東野圭吾の原作を基にしたテレビドラマ・シリーズ『ガリレオ』のヒットを受けて映画化と相成った本作は、当たり前のことながらテレビドラマのキャストや設定、スタッフを踏襲してはいる。しかし、同時に「これは小説の映画化である」との立場やメッセージも発信されたところが興味深い。事実、タイトルに『ガリレオ』の名を冠することもなく原作タイトルをそのまま用い、テレビドラマ発祥のキャラクターにはあまり重要性をおかず、ドラマで確立した毎回のお約束的な表現や描写を反故にし、作品のトーンも明らかに違うものに仕上げてきた。それは、原作のトーンとドラマのトーンの落差をどう扱うかという点における落としどころでもあっただろう。しかし、興行上のリスクを回避するためにドラマの知名度や人気に便乗はするが、自分たちは評価の高いベストセラー・ミステリー小説を「映画」化するのであると、ドラマ抜きで評価に耐えうる映画を作るのだという意識を濃厚に反映した結果が、本作の立ち位置を定義していると考えるほうが自然というものだろう。

そういった意味で、本作はイベントとしての「ドラマの映画版」程度のものではなく、きちんと「映画」足り得ているというのが、作り手の狙いであり主張だと思う。しかし、そういう視点で見ると、これはちょっと物足りない、それもまた事実である。

べつに、テレビドラマ版のファンサービスとでも言うべき冒頭の大掛かりな科学実験や、エンディングで申し訳のように流されるテーマ音楽が映画のトーンと整合性がない、ということをいいたいのではなくて、堤真一と松雪泰子が出ているところは映画の雰囲気があるのに、福山雅治が出てくると全くもって台無しだということでもない。(映画の成り立ちを考えれば、それくらい許してやってもいいじゃないか!)

そうではなくて、本作で描かれるべきドラマの核がどうにも薄っぺらにみえること、そこが物足りないと思うのである。映画の演技ができる俳優を連れてきて、その演技に頼り切れば自然に映画になるわけではない。この映画には、脚本で舌足らずなところをきっと「役者の演技」が補ってくれるだろうという楽観と、TV的な娯楽に慣らされた観客に向けた言葉や理屈による(あまりにも安易な)説明はあるのだが、その中間がない。堤真一演じる男の心情を、本当に納得のいくかたちで描き切れていれば、この映画はもっと化けたかもしれない。感動を呼べる作品に仕上がったかもしれない。そう思うと、つくづく、もったいないことだ。

Happy Flight

ハッピーフライト(☆☆☆☆)

見事なプロフェッショナル賛歌である。それぞれが、それぞれの持ち場で、果たすべき役割をきっちり果たす姿の、その清清しさ。働くこと、責任を果たすことの美しさ。そして、映画的な大事件を持ち出さずとも、日常のディテールをきちんと積み重ねていくだけでかくも映画的な映画ができるという面白さ。ここには、単なる薀蓄映画を超えた面白さと感動がある。

この映画の面白さは、一義的には「飛行機を飛ばす」ことに関わる人々とその仕事ぶりを、表も裏も、徹底的なリサーチによって表舞台にのせたことにあるわけで、そこにかけられた手間隙もさることながら、協力したエアライン会社(ANA)もまた賞賛されてしかるべきだろう。

ただ、この映画の良いところは、研究発表会に終始する愚を冒さなかったことだ。多少の誇張や偶然をスパイスに、「一本のフライト」に多彩な人々の「仕事」を凝縮してみせた脚本の小気味よさと、その群像劇を支える絶妙のキャスティングによって、映画として、エンターテインメントとして、きちんと消化されているところが素晴らしい。

特に、個性的な役者を適材適所に配置してみせる目利きの確かさに惚れ惚れしてしまう。こういう映画で必要なのは例えタイプキャストといわれようとも、一目見てわかる画的な分かりやすさがポイントだ。たとえば、指導教官が小日向文世から時任三郎に交代するにあたり、時任演ずる教官がどのような人物か知らなくても、そこに立っている彼という「画」を目にした観客が一瞬で事態を把握できること。たとえば、寺島しのぶがそこに立つだけでピリッと走る緊張感を、綾瀬はるかのみならず観客もまた共有できるということ。キャスティングがキまっていれば、余計な説明は要らない。テンポの良い映画に仕上がっているのは、そんなところにも理由があろう。

矢口史靖監督がよくやる大げさでわざとらしい「コメディ」演出を封印していたのは好印象であった。本作では、あくまで「ある状況」におかれたプロフェッショナルたちの、しかし、とても人間的なリアクションが程よいユーモアとなっていて、洗練された仕上がりだ。そう、プロの仕事を見せるのに、作為的なドタバタはいらない、その判断は絶対的に正しい。

11/23/2008

Tropic Thunder

トロピック・サンダー史上最低の作戦(☆☆☆★)

『ズーランダー』を見るために初日のシネパトスに並んだ当方としては、ベン・スティラーひさびさの監督作がそれなりの規模で全国ロードショーされると聞いただけで嬉しくてしょうがないわけで、実際に見にいってみたら、このひとがアクション・シークエンスからスペクタクルなシーンまで、(支えるスタッフがしっかりしているとはいえ)意外や意外、監督として並外れた器用さをもっている事実まで確認できたわけで、もうこれ以上ありがたいことはない。足りないことがあるとすれば、オーウェン・ウィルソンの不在だが、(たぶん代打で出演だと思われる)マシュー・マコノヒーも面白かったので、それでよしとしたい。TiVoだよ、TiVo!契約は守らせたぜっ!

宣伝で勘違いされていると困るのだが、これはかつてZAZがやっていたようなナンセンスものでもないし、たとえばScary Movie シリーズがやっているような単純なスプーフもの(=おバカ映画)ではない。これは、時にブラックな皮肉の効いた風刺劇とでもいうようなもので、その対象は特定の映画というわけではなく、ハリウッドの映画作りと俳優を中心に、エージェント・プロデューサーなど、その周辺の人種を笑いのめそうというのだから怖いもの知らずである。俳優とエージェントについてはそれなりに救いもある描き方がなされているのだが、ダイエット・コーク中毒のハゲデブ(ただしチビではない)ハーヴェイ・ワインスタインをメインに創作された大物プロデューサーの描写だけは容赦がない。それをハゲ&デブ・メイク(チビはメイクではない)で真剣に熱演する某サイエントロジー信者の、目が笑ってないあたりの恐ろしさときたら、もう、なんと表現したものか。このひと、結局、この映画をさらってしまった。

まあ、俳優の描き方には救いがあるとはいうものの、スタローンやチャック・ノリスといった筋肉俳優や、ダニエル・ディ・ルイスやラッセル・クロウのような演技派俳優は笑って済ますことができたとしても、意外に冗談の通じないやつであることがばれてしまっているエディ・マーフィは多分、怒るだろうな、などと想像するのもまた楽しかったりする。当然、期せずして人気大爆発のロバート・ダウニーJrの、このコメディに出自をもつ超絶演技派俳優の力技を堪能するだけでも入場料金の元はとれる。もう、いかようにでも楽しめる作品である。

もちろん、ベン・スティラーのギャグのセンスは相変わらず冴えている。しかし、ネタも濃ければ見せ方も濃く、東南アジアのジャングルを舞台にむさくるしい男たちが出てくるという画面もまた濃いため、分かる・分からない以前に、合う・合わないというファクターはあるので誰にでも薦められるかというと難しいのだろう。また、さすがに1億ドル級の大作とあって、『ズーランダー』にあったようなリラックスした気楽なくだらなさを積極的に許容する余裕には欠けるところが少々息苦しくはあって、その辺が少々物足りない。次は、もっと小さな予算の気楽なやつで一発、お願いしたいよね。

11/22/2008

1408

1408号室 (☆☆☆★)

『地下室の悪夢』や『ブロス・やつらはときどき帰ってくる』といったクズものを追いかけて数少ない上映館を捜し歩いたころに比べたら、『ミスト』やら『1408号室』といったまともな出来の作品を、まともな劇場で見ることができた今年はなんと幸せなことだろうか。そう、スティーヴン・キング原作の『1408号室』は、まともな役者を使い、真っ当な演出で見せる、とてもまともな映画なのであった。その事実だけで、まずはめでたい、そんなふうに思ってしまう。

これはいわゆる「邪悪な家」ものの変種である(個人的な気持ちとしては、「呪われた」というのとはちょっと違う)。邪悪な家といえば、あの『シャイニング』の原作がそうなのだが、一般に評価の高いキューブリックの映画版はその「家(ホテル)が邪悪」という原作のポイントにはかなり無頓着であったのも事実である。まあ、それが、「やつはホラーをわかっていない」という原作者の評価につながったのだろう。短編を土台としてわりと自由に膨らませように脚色している今作は、この「部屋そのものが邪悪であり、その邪悪なる存在が、人間の心の一番弱いところにつけこんでくる」というところを物語の要諦において、オカルトを信じない作家の、心の奥底に眠っている感情の澱を抉り出していく。

ジョン・キューザックが演じる主人公は作家である。かつては真っ当な小説でデビューしたこの男、いまでは「オカルトスポット」を訪ね歩いて怖さを評価付けするような本で生計を立てている。主人公の生業を説明した映画は場面をNYの名門ホテルに移す。ミステリアスな「招待」によって、辛い思い出の残るこの街やってきた主人公が最初に対峙するのがサミュエルL・ジャクソン演ずるホテルの支配人だ。独特の台詞回しとギョロ目を武器にした、ものすごい迫力と威圧感。基本的にジョン・キューザックの一人芝居になるこの作品のなかで、Aリスト級の役者が向かい合って演技を披露するこのシーンは大きな見所のひとつである。サミュエル・L・ジャクソンが得意な、演出過剰といってもよい大芝居をたっぷりと楽しむのが正解だろう。個人的には、これだけで元がとれるくらい面白かった。

主人公は、当然のことながら支配人の制止を無視して、いわくありげな部屋に入ることになる。序盤戦は安っぽい脅かしも含めて、B級ホラー調で始まる。中には、見せ方や音楽、効果音などなど故に「ホラー」になっているが、冷静に考えると、おいおい、それって怖いのか?みたいな小ネタばかり。隣の部屋のひそひそ声も、水やお湯の出がおかしい蛇口も、まともに動作しないエアコンも、使い方が良く分からない目覚ましラジオが突然へんな時間に大音量で鳴り出すのも、確かに嫌、だ。しかし、そんなものは怪奇現象とはいえまい。「オンボロ・モーテルにとまってしまった怖がりキングの妄想が爆発」したんだとなんだな、と思ってみているとかなり笑える。しかし、こんなものでもどんどん積み重なっていくことで、主人公の精神は次第に追い詰められていく。解決法を見つけたと思えば、結局のところそれが徒労に終わるという展開を繰り返していくうちに、観客は、心理的な(そして物理的な)逃げ場を失っていく主人公の、そのプロセスに感情移入させられ、主人公同様の閉塞感や絶望感を共有させられる。これが、この映画が醸し出す恐怖の源泉となる。

主人公を演ずるジョン・キューザックがうまい。先に述べたように、全編、ほぼ一人芝居状態であるが、超常現象なんて何ほどのものとふてぶてしく振舞っていた男が、徐々に「部屋」のペースに巻き込まれて正気を失い、大きな決断にいたるまでの心理状態に、説得力をもたせている。最後の最後に至って、オカルトなど信じないといっていた彼が心の奥底で、それとは反対の何かを切望していたことが示唆されるが、このあたり、彼の演技に泣かされるのだ。80年代から彼を見ている当方としては、この人が「娘を失った父親」を演じるような年になるとは信じ難いことなのだが、こちらもそれだけ年をとったということか。

2大俳優の演技対決、というのとはちょっと違うが、実力十分の役者たちが大芝居を打つさまは、映画館で見るに十分な理由足る。キングの短編ホラーの映画化で、ここまで力の入ったものを見られるとは予期しないだろうから、得した気分になれること請け合いだ。スウェーデン出身、ハリウッド・デビュー作となるミカエル・ハフストローム監督、なかなかやるじゃないか。

11/21/2008

Diary of the Dead

ダイヤリー・オブ・ザ・デッド(☆☆☆★)

ジョージ・A・ロメロ脚本・監督による「ゾンビもの」最新作の登場だ。死者が甦って人々を襲う事件が発生する。自分たちが目にしたものを全てカメラに収めようとする主人公らであったが、行く先々で衝撃的な出来事に遭遇し、また、既製の報道機関が信用できなくなり、記録を残すことへの使命感のようなものが芽生えていく。出演はミシェル・ローガン、ジョシュ・クローズ、ショーン・ロバーツら見覚えのない顔で、前作『ランド・オブ・ザ・デッド』と比べても低予算なのが見て取れる一方、そこらへんの学生、という設定ゆえのリアリティはあるわけで、一石二鳥とはこういうことだ。

結局、「ネットで誰もが情報発信できる世界」と、「ドキュメンタリー風ビデオ主観映像」のアイディアをうまく融合できたのかというと、必ずしもそうでないと思うのである。世界中の様々なところから、真贋さまざまな映像が寄せ集められ、編集され、世界が終わっていくさまを多面的多重的に見せる映画かと勝手な想像をしたりもしていたのだが、内容はといえば、卒業映画製作にとりくんでいた学生の一団が遭遇する恐怖とその顛末を追いかけたオーソドックスなストーリーを、ドキュメンタリー風主観映像で見せているということだ。

もちろん、登場人物のひとり(場面によって複数)がカメラを抱えていること、という事実が、恐怖や病的な笑いにつながっていたり、登場人物間のドラマを生み出すきっかけになっていたりと、ストーリーと密接に関係しており、本策が単なるルックスだけの安易な物まねではないことは明らかだ。こうした設定が作劇上どのように活きてくるのか、徹底的に考えられ、練られ、消化されていなければこういう芸当は難しかろう。

また、このスタイルは作り手の問題意識とも密接にリンクしている。

この作品では、既存のメディアの情報操作や権力による報道管制に対する不信や嫌悪と、誰もが自由に情報発信できる世の中の可能性や希望が描かれている。一方で、単なる傍観者としてカメラのこちら側に立つことにより、主体者であるカメラの向こう側とのあいだにうまれる溝も描いている。また、極限の状態に置かれた人間の倫理観やモラルについても赤裸々に描きだすことに成功している。映像としての過激な人体破壊で観客を楽しませながら、無見識にゾンビを射撃の的のように扱うひとびとの精神構造のおぞましさも、主観映像のカメラ越しに描き出されている。

そうした社会性や批評精神を色濃く湛えながら、しかし、この作品は徹頭徹尾ホラー映画であり、娯楽作品であることから逃げたりしないのである。尋常ではない出来事に遭遇した、普通の人々のサバイバルを、ある種の病的なユーモアと共に描いていくその語り口は王道だ。刺激の強さや生理的嫌悪感のみに頼らず、こけおどしのサウンドやエフェクトに依存せず、世界が終わっていくさまを目の当たりにする恐怖、闇の中からたち現れる生ける屍の恐怖を、人あらざるものに変貌した親しい人間を目の当たりにする悲しみや葛藤を、正攻法で見せる。オールド・ファッションかもしれないが、時代遅れではない。70歳を超えるゾンビ・マスターの腕は、いまだに衰えていないばかりか、的確だ。

P.S. I Love You

P.S. アイ・ラブ・ユー(☆☆★)

『300』でのマッチョぶりが記憶に新しいジェラルド・バトラーと、『ミリオンダラー・ベイビー』でのタフさが目に焼きついたヒラリー・スワンクに、それぞれのイメージを覆すスウィートなロマンスをやらせようという企画そのものについては、なかなか良いと思うのである。もちろん、二人に凶暴なカップルの暴走とか、お互い死ぬまで譲らない離婚闘争(『ローズ家の戦争』かよ!)とかをやってもらっても結構だと思うのだが、この秋のもう一本のほうのロマンス映画のカップル(リチャード・ギア&ダイアン・レイン)のように手垢のついた予定調和とは違った新鮮さがあるではないか。

そして、ストーリーである。先立ってしまった夫が自分の死後の妻を思い、先回りをしていろいろな手配や仕掛けを済ませた上で10通の手紙でメッセージが届くように取り計らう。死んだはずの夫の指図で行動をするうち、夫のいない新しい人生に踏み出していけるようになる妻。思いを残した死人があれこれ残されたものの世話を焼くファンタジーな話も過去にはあったが、これとは似て非なる「死者が残した手紙とその計画」というアイディアはロマンティックだし、面白い。

しかし、この映画、どうにもピリッとしない。脚色と監督を兼ねるのはリチャード・ラグラヴェネーズ。まず、導入が悪い。2人の仲の良い様子はどうせ回想を挟み込んだ展開になるのだから、冒頭で描かなくともよかろう。また、主人公の姉妹に関わるエピソードも賑やかしのつもりかもしれないが、本筋の邪魔である。さらに、主人公を脇で見ている男との関係を描くエピソードは、「主人公の自立」と「死者の思い出との決別」という観点で柱にしたいのか、単なる付け足しなのか、描き方が中途半端。それに「10通の手紙が届く」というのだから、せめて、どのメッセージが何通目かわかるように、物語にアクセントをつけながらリズムを刻んでいけばもう少しテンポよく仕上がったんじゃなかろうか。この程度の内容の映画で2時間を越えるのは出来の悪い証拠と考える。

脇の出演者では相変わらずキャシー・ベイツが巧い。リサ・クドローはお笑いパートで、ジーナ・ガーションやハリー・コニックJrにはには見せ場なし。こうしてみると意外にも豪華キャストだったのね。無駄使いな感じだけどさ。

最後に文句。ポスターにある、『プラダを着た悪魔』プロデューサーX『マディソン郡の橋』脚本家って何よ。近寄ってみてみたら小さな字で名前が確認できるというならわかるけど、主要スタッフの記載のない看板やポスターばかりなのな。最近、「XXのスタッフが送る」とか、わけのわからん宣伝がまかり通っているのだが、名前を書きなさい、名前を。あと、日本版主題歌とかいって、音楽を勝手に差し替えるのやめてくれないかな。ディズニー・アニメの日本語吹替版じゃないんだから。ターゲットとする女性観客がそんなのを喜ぶと思っているのが、いったい「侮辱」といってよいのか、もしかして、ほんとうにそんなんで喜ぶほど観客層の頭がユルいのか、どっちが真相なのかは知らないけどね。

11/14/2008

Letherheads

かけひきは、恋のはじまり(☆☆)

藤子F不二夫の死後に作られた『ドラえもん』映画をみて、ドラえもんをみているというよりも、ドラえもんに関する研究発表を聞かされているような気分になったことがあるが、これはまさにそんな感じの一本であった。

つまり、ジョージ・クルーニーが本作を作るに当たって数多くの古き良きスクリューボール・コメディーを見て研究したというが、スクリューボール・コメディに関する講釈をきかされているような感じで、ちっとも笑えないし、ちっともロマンティックでないあたりが致命的な1本だと思う。出来てまもないプロ・アメリカンフットボールを舞台にしたロマンティック・コメディ、というのが狙いだと思うが、それぞれの要素がバラバラでうまく噛み合っていない上に、テンポまで不必要にのろい。困ったなぁ。

以前に見た白黒作品『グッドナイト&グッドラック』(力作!)を見たときにもどこかで感じていたのだが、ジョージ・クルーニーが監督した映画を見ていて感じるある種の窮屈さは、結局そういうところにあるのではないか。決して下手ではない、むしろ技巧もあるし、志や狙いもわかるのだが、あらかじめ決めたコンセプトからはみでないように注意深くコントロールされて作られた故の息苦しさ。画面が活きていない。空を飛ぶ蝶でなく、ピンで留められた標本。料理でなく、埃をかぶった蝋細工見本とまでいったらいいすぎか。

アメフト草創期の実話に着想を得たと思しきキャラクターやエピソードの面白さまでは否定するものでもなく、脚本段階ではさぞ面白く読めたであろう。衣装やプロダクション・デザインも大変によい仕事で時代を再現、お気軽な映画にしては入念なつくりは、さすがハリウッドである。

11/09/2008

Red Criff Part-I

レッド・クリフ Part-I(☆☆☆)

『七人の侍』で言えば、役者が揃って舞台が整って、はい、「休憩」というところで映画が分割され、Part-II に続くというのだから、生殺しだ。まあ、前半戦で2時間半もあるのだから続けてみるのはきついのも事実。

登場人物も多ければエピソードも豊富な三国志を映画にするとなれば、常に、焦点の定まらないものになる危険がつきまとうわけだが、「赤壁の戦い」に絞った脚色と、本当のメインキャラクター以外の登場人物に説明しなくても分かるだろうといわんばかりの類型化を施した脚色で、長尺の割に単純で分かりやすい作品になっている本作は、とりたてて熱心な三国志ファンでなくとも置いていかれることはないあたりが興行的には塩梅が良く、とはいえ、コアなファンがあーでもないこーでもないと講釈を垂れたり、これまでにないスケールで映像化されたその世界に酔ったりするにも都合がよいという、絶妙のさじ加減。

では、ジョン・ウー好きにはどうかといえば、そりゃ、もちろん、ハリウッドでの近作2本の精彩のなさを補って余りある「漢祭り」が繰り広げられ、、、といいたいのはやまやまだが、登場人物と舞台設定の紹介に終始するこの Part-I までのところではちょっと物足りなさが残る。確かにトニー・レオンと金城武が目と目で通じ合ってしまったり、楽器の音色と旋律で会話してしまったりする超絶描写にはグッとくるし、合戦シーンの凝った組み立てや振り付けには目を奪われもするのだが、ドラマとしての盛り上がりが後半に持ち越されているだけに、どこどうしても熱さに欠ける。その不満はPart-II で晴らしてくれるものと期待を込めての評価としよう。

作品そのものとは関係のないことだが、「名前が難しいし、似たような顔で誰が誰だか分からない」などと言い出す「ゆとりな顧客」に配慮してか、字幕版では「大河ドラマかよっ!」と呆れるほど、しつこいほどに人物名をテロップで挿入していて、これがもう、たいへんに目障りであった。ジョン・ウーは少なくとも主要なキャラクターに対しては一目見て誰が誰だか分かるようなキャスティングをしており、それぞれの役者のメイクやいでたちも個性的で、これが見ていて分からないとなれば、字幕で笑いどころを教えてくれるバラエティ番組を見過ぎて、脳味噌が腐ってしまっているのだろう。冒頭の日本語による状況説明パート挿入は、一瞬、吹替版に入ってしまったかと焦ってしまったとはいえ、特大のヒットを狙う以上、あってもよい配慮の範疇かと許容できるが、作品中、画面を汚すだけのTV放送と見まごう白文字テロップは必要最低限に絞ってもらいたいものだ。