7/29/1998

The Negotiator

交渉人(☆☆☆★)

シカゴの人質事件でずば抜けた実績を持つ人質交渉人が、警察の内部調査部門の関わる疑惑に巻き込まれ、パートナーの殺害容疑で投獄されそうになる。一切の味方を失い、周囲の冷たい視線にさらされた彼は、無罪を証明する機会を得るため、人質をとって立てこもるという大きな賭けに出る。身近な人間を信用できないため、自らの交渉相手として指名したのがそれまでほとんど面識のなかった別の凄腕交渉人だった。

その火花散らす2人の交渉人、サミュエル・L・ジャクソンとケヴィン・スペイシー。犯罪映画の佳作『SET IT OFF』で注目された俊英F・ゲイリー・グレイの新作である。

この渋めのキャスティングで、一番競争の激しいサマーシーズンにぶつけてくるあたりが、作り手の自信だろうか。そして、見る側の期待を裏切らない秀作に仕上がっているのが嬉しいところだ。プロフェッショナルの英知を絞った激突を、演技力のある俳優で見せるというアイディアがいいし、いやでも緊張感高まるシチュエーション作りが巧みである。

これは見方を変えると一種の密室サスペンス・アクションなのだが、一見定番に見える(1)人質を取った男が密室に立て篭もり、(2)警察・FBIが周りを取り囲んだ状況で交渉人が降伏と人質解放を呼びかける、というシチュエーションに一ひねりを加えたのが味噌だろう。互いに腕に覚えある交渉人が、相手の胸の内を探りあい、事態を打開するための緒を探り合う。一体、この話がどこに転がっていくのか、観客の予断を許さない展開。これは、きっと刺激を受けた類似作品が出てくるだろうな、と予感させる。

サミュエル・L・ジャクソンとケヴィン・スペイシーという組み合わせも面白い。演技派の二人とはいえ、ジャクソンはどちらかというと「熱演」型。一方の曲者スペイシーは、ここではヒートアップするジャクソンを冷静に受け止めていく。ジャクソンを被害者に、スペイシーを助っ人に充てたのが効いていて、これが反対だと全く違う印象の映画になってしまうだろう。脇を固めた曲者俳優の故JTウォルシュやデビッド・モースらも素晴らしい役者である。彼らが醸し出す白とも黒ともつかない曖昧なニュアンスが、物語の展開を容易には読ませない。

緊張感だけで最後まで引っ張ろうとしたところが作品から余裕を奪ってはいるが、あまり欲張って長尺になるくらいなら、これくらいタイトに引き締まったままのほうが作品相応であろう。ともかくも思わぬ拾い物、こういうのがあるから映画館通いが楽しいのである。(1998/7)

7/24/1998

Jane Austen’s Mafia!

マフィア!(☆☆★)

『ホットショット』のジム・エイブラハムズが久久に手掛けるパロディ映画で、ロイド・ブリッジスの遺作となった作品。『ゴッドファーザー3部作』をモチーフに、主要参照作品に『カジノ』。あらゆるマフィア物を参照しながらナンセンス・ギャグを繰り出すいつものスタイルだ。

これがどうにも観客が入っていないようだ。こうしたパロディものが少々飽きられたのではないか、という懸念もある。しかもトピックが「マフィアもの」というのが、あまり一般の興味を引かない理由かもしれない。定番といえば定番だが、最近の流行りものというものでもないのが新鮮味に欠けるだろう。もうひとつ決定的なのは、この映画、実にムズカシいのだ。

まずタイトルがふざけている、が、外してもいる。もちろん、”Jane Austin’s”は、あのジェーン・オースティンのことで、彼女が原作の文芸ものが次々作られていることへの当てつけ、『ゴッドファーザー』のタイトルに”Mario Puzo’s” と原作者名がはいっていたことなどが理由だろう。

構成も複雑である。開巻、主人公アンソニー・コルティーノが車に仕掛けられた爆薬で吹き飛ばされてのオープニング・クレジット。そこから映画の時制は複雑に行きつ戻りつする。ドン・ヴィンツェンツォ・コルティーノのシチリアにおける少年時代とアメリカへの移民、2代目のアンソニー・コルティーノの少年時代、そして現在、オープニングに至るまでの経緯、その後の出来事、と少なくとも4つの時制がフラッシュバックでつながれて行く。もちろん、スコセッシの『カジノ』、『ゴッドファーザー』サーガが土台になっているわけだから、この複雑な構成は意図的なものであり、それ自体がパロディというわけだ。しかし、気楽に笑いに来た観客の頭を混乱させるのは間違いない。

さらに、ストーリーも複雑。ただのパロディの連発よりも、それなりのストーリーラインがあったほうが面白いというのは、ZAZの過去作の進化を見ていればわかることだが、キレた薬中の兄、対立する組織のボス、世界平和を実現させようとする前妻や、シャロン・ストーン風のアバズレを巡って入り乱れる物語は、度々のパロディで流れが堰き止められることもあって、ややこしく感じられる。

クライマックスはアンソニーと、前妻の盛大な結婚式の影で、幾重にも繰り広げられる暗殺の嵐が巧みなモンタージュで編集されている。もちろん、バチカンでの暗殺とオペラがかぶる、例の”PART-III” のスリリングかつ複雑なシーンの再現だ。ものすごく意欲的なのだが、力の入り具合が見えるだけに少々息苦しくなってくる。

要するに、本作におけるパロディの対象が単純な映画のシーンというだけでなく、作品の構成やスタイルにまで及んでいるのである。これには正直、唸らされると同時に、この映画に求められているものとは違うのではないか、と思わずにはいられない。観客はこの映画についてきていないと思うぞ。

かとおもうと、どうしようもないベタベタな駄洒落や、幼稚な下ネタも満載。観客は主にそういうところで反応しているのだけれど、どうにも標準的な観客の知性を通り越して高度な技を使いすぎてしまったのが興行的な敗因であり、作品的な失敗と見る。だってさ、観客が一瞬考える、その瞬間に笑うタイミングを逸してしまうんだよね。

・・・しかし書きながら、もう一度見たくなってきたな、これ。(1998/7)

7/20/1998

Parent Trap

ファミリー・ゲーム 双子の天使(☆☆☆☆)。

サマーキャンプで偶然であった双子の姉妹が自分たちの出生の秘密に気づくや、両親をなんとか結び付けようと作戦を練る。ドイツのケストナー原作『2人のロッテ』を現代風に焼き直した、というより米国ではディズニーが過去に作った同名 (Parent Trap) 映画のリメイク、というほうが通じるようだ。主演は離婚した両親役でデニス・クエイド、ナターシャ・リチャードソン、双子をひとりで演じるのがリンジー・ローハン。製作・監督は、チャールズ・シャイア&ナンシー・メイヤーズ夫妻。

実際、何も目新しいことがない作品ではあるが、実に手際良く、テンポよくまとめられており、とても楽しい作品である。こんなに楽しいとはある意味予想外だったので、思わぬ拾い物だ。家族で観るのに最高の作品じゃないだろうか。子役のリンジー・ローハンが最高に可愛いらしく、映画は彼女の輝きと魅力をきちんとフィルムに焼き付けている。原題風のアレンジも巧みで嫌味がない。

チャールズ・シャイアとナンシー・メイヤーズは、スティーブ・マ-ティンを主演にした『花嫁の父』で、かつての名作を現代に甦らせて大ヒットさせたことで有名である。これまでのフィルモグラフィをみても、もともと、ちょっと古風な作品を好みにしているのだろう。このチームのそうしたセンスがクラシックな作品のリメイク・再生にうってつけだったんじゃないだろうか。

主役の双子の姉妹は時代を反映して、一人の子役が二役を演じ、ブルースクリーンなどを使って合成する手法で作られている。そして、この子役、実に演技が達者なのだ。彼女が演じているキャラクターは、ロンドン暮らしでイギリス英語をしゃべる女の子と、カリフォルニアのワイン農場で暮らす女の子。この2人がいまだ見たことのない父親・母親に会うために入れ替わりをするのだが、服装や髪型、ピアスなどの小道具にばかり頼らず、言葉遣いやアクセント、身のこなしで二人のキャラクターをきちんと演じ分けてしまうのである!そばかすだらけの恐るべき子役がこの映画の最大の魅力であり、収穫である。この子が今後、どんな活躍を見せてくれるのかも楽しみだ。

双子の姉妹の活躍をひとつの柱とするなら、クエイドとリチャードソンのロマンスがもうひとつの柱だろう。電撃的な恋愛の末結婚したが、方やファッションデザイナー、方やワイン農場主、価値観の違いがおおきく,結果的に離婚してしまった夫婦。この二人の離婚と、結果的に12年ぶりに寄りを戻すプロセスは、「家族向けのディズニー映画」の制約はあるにしろ、丁寧に扱われているように感じる。

コメディパートを担うのは、ワイン農場の家政婦とロンドンの執事。こういった脇役への目の配り方、役割の振り方が絶妙に巧く、登場した人物を無駄なく使い切っている脚本が素晴らしい。一方で、デニス・クエイドが結婚を考えていた若い女性を単純な悪役として描いているあたりは、作品の性格を考えると致し方ないことだろう。

ファミリー映画とバカにするなかれ、丁寧に作られた良質の映画は、誰が見たって楽しい物だ。本作は、それを教えてくれる。(1998/7)

7/17/1998

There's Something About Mary

メリーに首ったけ(☆☆☆☆)

高校時代の恋人が忘れられない主人公は、それから13年たったいま、怪しげな私立探偵を雇って、キュートでセクシーなメアリーの行方を探そうとするのだが、メアリーを発見した探偵は張込みを続けるうちに彼女に惚れてしまい、主人公には適当な嘘をついて姿をくらましてしまう。気がつけば、メアリーの周囲には彼女に好意をよせる奇妙な男たちばかり。タブー破りのお下劣コメディの第一人者、ファレリー兄弟が脚本監督、出演はキャメロン・ディアス、マット・ディロン、ベン・スティラー。

ジム・キャリーの『マスク』でデビュー後、『ベストフレンズ・ウェディング(My Best Frined’s Wedding) 』でジュリア・ロバーツを喰って人気急上昇のキャメロン嬢が初の単独主演。共演に撮影当時は実の恋人であったマット・ディロンと、『リアリティ・バイツ』などの監督もこなす才人ベン・スティーラーを配したロマンティック・コメディ・・・・なわけがない。

なにせ、ファレリー兄弟の映画だから。

この兄弟の手にかかると、以前の作品である『Mr.ダマー』や、『キングスピン』を見れば分かるように、特に良識ある人でなくても普通は躊躇するようなネタを平気でかましてくるからヤバい。本作の魅力は、そういう下劣でナンセンスなギャグが、一応「ロマンティック」コメディとして成立する範囲内でごった煮になっているところだ。爆発的なロングランヒットは、これまでの彼らの作品には近寄りもしなかった別の観客層にもアピールする作品になっていることの証明であろう。

まるで小学生の悪ふざけ、普通なら辟易とするような幼稚なギャグ。それも、ここまで徹底し、突き抜けてしまうと並ではない。どこか距離を置いて眺めていた観客ですら、笑うほかない瞬間。例えば、ベン・スティラーが不幸を被るシーン。普通ならさっさと話を進めてしまうところで、2度3度、追い討ちをかけるようにしてしつこく迫る。このクドさ。ハリウッド映画では配慮した描き方がされるペットの犬に対する不謹慎ともいえる扱い。Oh my goxxx と叫びながら、唐突な出来事にショックを覚え、笑わずにはいられないビジュアルに吹き出す。観客の許容範囲を試すかのように挑発的で大胆。それゆえの新鮮さ。

しかしなんといっても、本作の成功はキャメロン・ディアスなしには語れない。タイトルどおり、彼女には何かがある。
これが演技だか地だかわからないところも魅力だ。

彼女の演じるメアリーときたら、「ギブスをはめて」いたり「歯の矯正装置をつけ」ている人がスキという、妙にフェティッシュなご趣味の持ち主で、少々間抜けな上、簡単に人を信じてしまい、いつも「何も知らないのは彼女だけ」状態になってしまう困った人という、特異なキャラクターだ。

そんな女性に誰もが虜になるような魅力がある、という設定。そこに説得力を持たせられるのはキャメロン・ディアスならではだろう。彼女が騒動の真ん中にいると差別ネタや下劣ネタ、さらには動物虐待までも、悪意がないただのドタバタに見えてくる。この不思議な個性はいったいなんなのか。これからスターに昇りつめようとしている美人女優が、こんなヘンな役を引き受け、シモネタも含め、嬉々として演じている。カラッと陽性な魅力。この1本で、彼女の躍進は約束されたといっていい。

ファレリー兄弟の異様な笑いのセンスが、これ意外にありえないキャスティングの妙で活きた、類まれな変則ロマンティック・コメディ。これが意外や何度繰り返して見ても、笑わずにはいられない。

The Mask of Zorro

マスク・オブ・ゾロ(☆☆☆)

圧政に苦しむスペイン領カリフォルニア。かつて民衆のために闘った伝説的な英雄「ゾロ」は、圧制者の手で妻を殺され、幼い娘を奪われ、20年にわたって幽閉されてきた。彼と出会った主人公は殺された兄弟の仇を取るため、圧政に苦しむ民衆を救うため、元祖ゾロのもとで修行を積み、新たなヒーローとして生まれ変わる!アントニオ・バンデラス主演、共演にアンソニー・ホプキンス、キャスリン・ゼタ・ジョーンズ。製作総指揮にスティーヴン・スピルバーグ、監督に『ゴールデンアイ』で手際の良いアクション演出を見せた新鋭マーティン・キャンベルが起用された。

クラシカルな活劇、古くからのヒーローをスクリーンに復活させようというのが目論見か。必要最低限の人物描写を交えつつ、無理のない構成でスマートに書き上げた脚本は、あまり驚きはないもののうまくまとまっている。タイトルを「ゾロの仮面」としておいて、ヒーローの交代と2世代にわたるドラマとして構築したところが面白いところか。古典的なヒーローを蘇らせるためのアイディアとして優れている。突出した面白さはないが、サマーシーズンの娯楽作品として、暑い日の暇つぶしには最適だ。

映画は本家ゾロの大活躍と悲劇を畳み掛けるように見せた後、中盤でじっくりとドラマを描き、いまや伝説のゾロを襲名したバンデラスによるアクションになだれ込む構成。中盤のドラマがあって後半の宿命の対決が盛り上がるという筋立てだ。

演出面では特筆すべきものは見られないが、役者が決まっている。なんといっても本家ゾロを演じるアンソニー・ホプキンスの貫禄と格好の良さ。最初の十数分の剣を振り回しての活躍は惚れ惚れとさせられる。特訓のシーンでも一枚上手振りを発揮、さすがに名優の存在感は違う。

一方、マスクを譲り受ける新ゾロを演じるバンデラスは、どちらかというと間抜けさも含めた親しみやすさが、ワイルドさと同居しているのが魅力。カッコ良さ一辺倒でないあたりが現代的なヒーロー像といったところ。

今作への起用で注目を集めることになるであろうヒロイン、キャスリン・ゼタ・ジョーンズは、気の強そうな美貌はキャラクターにどんぴしゃりとハマって魅力的だが、それはともかくとして、演技が少々大根っぽい。表情のバリエーションが少ないように思う。それでも堂々とした存在感と、身のこなしはたいしたもので、化けるかもしれないという予感はある。

衣装、小道具、セットが意外に凝っていて雰囲気満点。ジェームズ・ホーナーの音楽も、いつものような使いまわしの旋律が余り顔を出さず、フラメンコ風、カスタネットなどを交えたラテンフレーバーたっぷりのアクション・スコアになっていており、聞き物だ。(1998/7)

7/16/1998

Saving Private Ryan

プライベート・ライアン(☆☆☆☆)

スティーブン・スピルバーグ監督の新作は、第二次世界大戦の欧州戦線を舞台にした「戦場」映画である。出演はトム・ハンクス、エドワード・バーンズ、マット・デイモンなど。激烈な戦闘となったノルマンディ上陸-Dデイで幕を開けるこの作品は、4人兄弟の3人までを同時に失った母親のもとに、最後の生き残りかもしれない行方不明のライアン二等兵を送り返すというミッションを帯びた小隊の苦悩と運命を描いていく。

作品としての圧倒的なインパクトの割に、お話しが弱い。それを差し置いても、この作品を90年代のスピルバーグを代表する傑作と呼んでも差し支えないだろう。

ありとあらゆる映像テクニックを駆使しながら描く戦闘シーン、特に、冒頭20分程度で描かれるノルマンディ上陸作戦は、まるで彼の映像技術のショーケースだ。これは、もう、凶悪である。スピルバーグが鬼畜描写、人体損壊描写好きであることは分かっているが、そういう意味でも彼のフィルモグラフィーの頂点に位置するといってよいだろう。

凶悪レベルな陸戦描写といえば、悪名高き『スターシップ・トルーパーズ』があるが、あればSFという隠れ蓑あって許容される描写であった。この映画の戦場描写は、それをはるかに凌駕し、悪趣味大将のバーホーベンも真っ青になるようなものだ。吹き飛んだ自分の片腕を探してさ迷うものがいる。あふれ出る内臓を押さえながら母親の名を呼ぶものがいる。ヘルメットのおかげで命拾いをしたと思いヘルメットを脱ぐと、その瞬間に頭を弾丸が貫いていく。海岸線がおびただしい死体で埋まる。スピルバーグ龍の笑えないブラック・ユーモアが交じるから、余計に凄まじい。

この描写は戦争映画の流れを確実に変えるだろう。真似をするにしろ、しないにしろ、これからの作り手はこの映画を意識せずにはいられないはずだ。

これを支える音響もまた凄いのである。自分の前を、後ろを、横を、弾丸が飛び交い、すぐそこで爆弾が炸裂する。戦場の疑似体験。あまりのことに、かつて戦場を経験した人たちがトラウマを蒸し返されるかもしれないと警告が出たのもうなずける。映画館のサラウンド音響の本領は、まさにこうした作品で発揮されるのだろう。

それに比べると、そもそもこの映画のために用意されたお話しが、面白くない。単に、戦場を描きたかっただけなのじゃないかと、お話しはそのエクスキューズなのではないかと邪推したくなるくらいである。

兄弟全滅の悲劇を回避するため、最後のひとりを家に帰すという判断をうけ、その一人をわざわざ戦場から探し出し、保護するために、多くの命がリスクに晒され、あるいは失われるという話である。もともと、そこにある矛盾と、それでもなお、何かを信じてミッションに殉じる気高い精神とを描きだそうというのが意図なのだろうが、どこか、単純な美談としてまとめられているようにも見えてしまうのは脚本の弱さゆえだろうか。

そこらへんをわかっているからか、これまではあまり大スターをキャスティングしないことが特徴だったスピルバーグが、いまやアカデミー賞2回の大物になったトム・ハンクスを主演に立ててきた。その判断はやはり正解だったといえるんじゃないか。なにしろ、脚本の舌足らずを、トム・ハンクスという存在が全てを説明してくれるのだから。

ジョン・ウィリアムズの音楽はいたずらに戦意を高揚したりせず、静かに、しかし力強くヒロイズムと失われた命に対する鎮魂歌を奏でる。そこにはベテランでしかだせない貫禄とともにスピルバーグとの長年のコラボレーションからくる余裕を感じさせられる。映画は2時間50分の長丁場で、場内に灯りが点るころには、ぐったりした疲労感を覚えるだろう。しかし、これを映画館で体感せずしてなにをすればいいというのか。必見。(1998/7)

7/10/1998

Lethal Weapon 4

リーサル・ウェポン4(☆☆★)

蛇頭(スネークヘッド)による中華系不法移民、偽札作りに、個人的な血縁関係をからめた悪事・悪巧みを柱に据えて展開する物語に、お馴染みのリッグス&マータフコンビが立ち向かう。前作からしばらく時間があいて、久しぶりの続編登場だ。シリーズの新キャストとして、クリス・ロックとジェット・リー(リー・リンチェイ)。いつものメイン&脇役キャストが勢ぞろいで、製作ジョエル・シルバー、監督リチャード・ドナーも続投している。

本作のエンドタイトルでスタッフの集合写真などが流れ、一冊のアルバムにまとまるという趣向がある。これを「ちょっと勘違いしているんじゃないの?」と云うこともできるだろうが、大目に見ようよ。そこにある、和気藹々とした同窓会のような雰囲気こそが、本作の象徴なのだから。

作品の仕上がりは2より下、でも、3よりは上。しかし第1作のハードな雰囲気はもう遠い過去になってしまった。

「事件と向き合う2人の刑事」の物語から、次第に、おなじみのキャラクターたちの成長と変化、人間関係を描くことに焦点を移してきた本シリーズ。狂気の自殺願望男リッグスは仲間を得、家族を得て、本作では父親になるという試練を迎えるし、もちろん年もとった。"I am too old for this shit !"なんていうマータフの決まり文句がリッグスの口から漏れるのは、なんだか感慨深い。

シリーズ最初から引退の日を指折り数えていたベテランのマータフも、ズルズルと勤務を続けているうち、ついに娘の妊娠で「おじいちゃん」になる。ジョー・ペシ演ずるレオ・ゲッツですら、最後にはこのキャラクターの意外な一面を披露してくれる。

何分、第1作から10年以上の年月が経過しているわけで、その時間をスクリーンにもしっかり刻みつけてきた。本作は、それがもたらした幸福な成果であり、それが最もよくあらわれているのが、エンドクレジットなのである。 

そういう意味で、まあ、それより前にくっついている本編の内容のほうが付け足しといった感じでもあるが、先に書いたとおり、3作目よりは退屈しない。

クリス・ロックの参戦で、ますますコメディ・パートの比重が増しているのだが、シリアスとのバランスが悪く、ぎくしゃくしているのはマイナス点。敵は前作ほどの小物ではなく、ハリウッド本格デビューのジェット・リーも印象的に使っていて悪くない。もっとも、ジェット・リーのファンが見れば、悪役で、しかもこんな使い方かとがっかりするのだろう。

2作目以降、香港風のガンアクションを積極的に導入してきた本シリーズだが、今回は敵が敵だからかとうとうタガが外れてしまったようである。1作目のリアル・ガンアクション路線が好みの観客はため息を付くと思われるが、まあ、このあたりのアクションの見せ方の変化も、作品のトーンの変化と密接なつながりのある部分でもあり、ここで1作目のスタイルを踏襲するのも無理があろう。

あまり高望みをしなければ、楽しく見られるファンに向けてのサービスのような作品。さらなる続編の噂はあるけれども、これが最後になるんじゃないのかな。いや、それが一番良いと思うのだがどうだろう。(1998/7)