12/26/1998

Stepmom

グッドナイト・ムーン

ジュリア・ロバーツ演じる離婚歴のある写真家が主人公。今は2人の子供を持った男と生活を共にして、健気に子供たちの継母を務めようとしているのだが、子供たちはスーザン・サランドン演じる実母の方に懐いており、しっくりいかない。もちろん、主人公と子供たちの実母とは、互いのライバル心もあっていつもギクシャクしているのだったという設定で幕を開けるホームドラマ。監督は、クリス・コロンバスだ。

クリス・コロンバスという名前を聞くと、私なんぞの世代だと、『グレムリン』や『ヤング・シャーロック』で業界に現れた若き脚本家のイメージがあるが、いまじゃ『ホーム・アローン』の監督、だよな。監督デビューはエリザベス・シューが主演した『ベビーシッター・アドベンチャー』。なかなか楽しい作品だった。結果的な話かもしれないが、これまで一貫して「ファミリー」や「子供」を描いてきた人だというのは事実である。そして、子供から生き生きとした自然な表情を引出すのに長けていて、家族を見つめる視線が優しく、暖かい。

本作における人物配置と物語の構造は、意識してかせずしてか、同じクリス・コロンバスの『ミセス・ダウト』とよく似ている。『ミセス・ダウト』では離婚家庭に家族の隙間を埋める別の存在(実は父親)が現れて、何もかもうまくやって子供の信頼を勝ち得てしまう、という話だった。今回は養育権を持った夫と、新しい妻のところに夫の前妻が現れて、子供の心を独占してしまう。

だが、その先がドタバタ劇にならないで、泣かせのドラマになるんだよなぁ。

ドラマに盛り込まれたテーマも盛り沢山である。「病に侵された母親と残された家族のドラマ」、「継母と実母の確執」、「継母と子供たちとの確執」、「家庭とキャリアの選択」、「複雑な形を持ったあたらしい家族像」・・・・よくもまあ、これを破綻させず、2時間強、ハリウッド調の軽やかで口当たりの良いファミリードラマに仕立てたものだと思う。

しかも、人気・実力ともに高い2大主演女優が共に製作総指揮に名前を連ねていて、ロナルド・バスを含めて6人ものライターが執筆に携わっている企画だからね。

今回の見せ場は、女優としての貫禄も含めてスーザン・サランドンがさらっている。いつものことながら、少し力みすぎのところがあるが、相手がスターのジュリア・ロバーツなんだから、力んでみせるのもよくわかる。ラスト・シーンで見せるジュリアが小娘にみえるほどの貫禄は、さすがとしか言いようがない。

大女優を前にして、一歩引いてみせた感のあるジュリア・ロバーツが、いつもになく良い演技である。才能にもキャリアにも恵まれていながら、ある男を愛したがために、その子供も愛そうと健気な努力(+どたばた)を見せる役柄は彼女にしては新鮮でもある。。賞レースに名前は挙がらないけど、最近、波にのっているんじゃないかな。

クリス・コロンバスは、いつも既成曲の使い方が上手いのだけど、今回もいい演出があった。「継母と子供たちの心が通い始める」ところを、そして「一度はギクシャクした実母と子供たちの関係が修復する」ところを、マーヴィン・ゲイの"Ain't No Mountain High Enough"に乗せて軽やかにみせるんだな。この映画が気に入ったら、この曲も気に入ることだろうと思う。

なお、邦題『グッドナイト・ムーン』は製作中の仮タイトルとして使用されていたものなんだってさ。

12/25/1998

The Faculty

The Faculty
パラサイト

ここのところ大人気、『スクリーム』、『ラスト・サマー』シリーズやTV『ドーソンズ・クリーク』で名を上げたケヴィン・ウィリアムソン脚本を、なんと、ロバート・ロドリゲスが監督したSF侵略学園ホラーの登場だ。

オハイオ州の田舎町にある平凡な高校で、ある日を境にして先生たち(原題=Faculty) の奇異な態度や行動が目立つようになる。これに疑念の目を向けた学園生活のはぐれ者たちが、背後にある恐るべき事実を目の当たりにしたときには、自らの生き残りと、謎の寄生生命体の蔓延阻止を賭けた壮絶な闘いに巻き込まれていた!

出演は、イライジャ・ウッド、ジョッシュ・ハートネット、クレア・デュバルら高校生を演じる若手スターと、『ターミネーター2』のロバート・パトリック、『キャリー』のパイパー・ローリー、ファムケ・ヤンセン、ビビ・ニューワース、サルマ・ハヤックらの「大人」たち。

「人の顔をした人でない何か」という題材は、ホラー・ジャンルの古典的なテーマだといえるだろう。この作品の先祖をたどっていくと、冷戦下で共産主義の恐怖が反映された『ボディスナッチャーの恐怖』であるとか、衝撃的だった『遊星からの物体X』あたりがあるだろう。そこに、最近何故か盛りあがりをみせているティーンズ映画の流れが合流したことで、ちょっと面白怖い仕上がりになっている。

その功績は、もちろんケヴィン・ウィリアムソンの脚本にある。ジャンル映画へのコダワリとともに、青春ものへの愛着もなかなかに強いこの男、往年の「政治的恐怖」が「高校の先生にたいする不信」に読みかえられ、はみ出し者の生徒たちが感じる「普通」の学園生活に対する違和感や、日々感じているコミュニティからの疎外感になった。

SF的側面では、設定も相当粗くて矛盾だらけ。ボス(クイーン)を倒せば他がみな無力化して死滅するという、映画的に便利なだけの設定が「過去のSF侵略ものではそうだった」との簡単な理由で現実になってしまう当たりは、だからパロディとして笑えばよいのだろう。いや、面白いよ。ギャグとして。

またこの映画、ディテイルがなかなか楽しい。ネタ的にも絵的にも、コメディセンスが溢れている。水分が必要なエイリアンに寄生された人々が、つぎつぎに水飲み場に行列を作ったりするところ。脱水状態になることがエイリアン駆逐への早道と「白い粉」を「鼻から吸い込」んで、一時的にハイになってしまうところ。

クライマックスはお約束っぽく、怪獣型のクリーチャーの登場と相成る。実は本体が姿を見せる場面より前、姿形は人間なのに「影」だけが・・というシーンの方が映像的に面白かったんだが。

監督のロバート・ロドリゲスだが、これまでの作品では力で押しまくる一方の単調な演出には辟易とするところがあって、映画を見ているうちに退屈になってきてしまう物が多かったのだが、今回、他人の描いた脚本なこともあってか、緩急があって観客を飽きさせない。意外にに巧いじゃん。少し見なおした。

Patch Adams

パッチ・アダムス トゥルー・ストーリー(☆☆)

パッチ・アダムズは自殺未遂で精神病院に収監されていたとき、医師になる夢を持ち、猛勉強の末に念願のメディカル・スクールに入学するのだが、「医療とは病気を扱うものではなく患者を扱うもの」という信念のもとでありとあらゆる規則を破っていくために周りと対立してしまう。

ロビン・ウィリアムズを主演に据えた実話の映画化。

なんだけど、トム・シャドヤック製作・監督、スティーブ・オーデカーク脚本っていうのがひっかるよな。だって、あの『エース・ベンチュラ』のコンビだよ?

『ナッティ・プロフェッサー』、『ライヤー・ライヤー』でそれぞれ、エディ・マーフィを再生し、ジム・キャリーを一皮剥いた功績は認めるけどね。今度は、ロビン・ウィリアムスの力を借りて、自分のキャリア・アップのために賞でもねらいに行っている感じがいやらしい。

とはいうものの、涙を誘う映画である。シリアスな問題提起もしている。ロビン・ウィリアムスはいつも通りに笑わせてくれる。でも、脚色と演出は、いかにも平凡。非凡な人物の、非凡な話を映画にするのに、ここまであざとい脚色や、お涙頂戴の演出が、果たして必要だったのかどうか。むしろ、真実の物語であれば、その功罪も含めてニュートラルに提示したほうが良かった、と思う。

アメリカの医療のありかたに疑問を抱き、理想を追求するために診療所を開設して理念の実戦に勤めている医師が主人公である。ロビン・ウィリアムズの演技がはしゃぎ過ぎだよ!って思っていたのだが、ドキュメンタリーで見た本人の方がよっぽどハイパーテンションな人物なのでびっくりした。ともかく、面白い人物と語るべきストーリーがあるのは事実なわけで、これをどう料理するかが腕の見せ所だろう。

脚本の上では、観客をこの主人公に共感させる上でのあと一押しが足りない。第1に自殺グセがつくようになるもとの悲しみや苦しみ、医師になることを決意する過程など全部舌足らずである。第2に、客観性が足りない。主人公はいくら理想を持っていてもルールを破るのである。それを無批判に正当化し過ぎてはいないか。

なにせ、コトは医療であって、学校当局や現在の医療のあり方をたんに「悪役」扱いするのではなく、価値観がギリギリのところで衝突する様を描いてこそ、逆に主人公の理念や主張が説得力を持つはずである。間違ったルールにも、それなりの理由があるはずなのであるが、この映画はそういう視点を全く持ち得ていない。作り手の知性が問われるのはこういうところだよな、と思う。

実話を基にした本が主人公寄りに書いてあるのは致し方ない。本人にあってリサーチするのも良い。しかし映画が客観性を保てなければ逆に信憑性が揺らぐのではないか?そのあたりの批判精神がないのが本作にとっては致命的であった。

演出の方はロビンの技に頼り過ぎである。キャリーやマーフィの「持ちネタを見せる」のと同じ演出を、こういうドラマでロビン・ウィリアムズ相手にやってどうするんだ!クライマックスとなる学内の弾劾裁判で全く緊張感を欠くカットバックを見たときにもゲッソリとした。あれは画面の狭いTV的な演出だよな。せっかくの題材を殺してしまった見苦しい駄作としかいいようがない。

12/23/1998

The Mighty

マイフレンド・メモリー(☆☆☆☆)

難病もの、と先入観を抱いてしまうと、私なんかは映画館にいく気が失せてしまうのだけど、これはそんな定型に収まる話ではないので安心して欲しい。もっと、もっと豊かな物語なのだ。少年が難病であることは物語りの大きな鍵であるし、彼の行く末は敢えて言うまでもないのだけれど、そこから展開される物語が実に豊穣なのだ。

奇病・難病に侵され、小さいせむしの体を松葉杖で支えている少年と、体は大きいが頭脳は恐竜並みとからかわれる学習障害のある少年が出会い、冒険し、友情を育む物語である。片方は病気を抱え、片方は家族問題を抱え、、片方は天才的な頭脳を持ち、片方は学習障害を抱える。共通点はお互いに周りから疎外された身であること。

2人の出会いを「アーサー王と円卓の騎士」の本で始め、小さい少年を肩車して歩く大きな少年というのが、馬にまたがった騎士になぞらえてあるところがファンタジックで素晴らしい。

「フリーク(奇形)」少年を演じているのが、キーラン・カルキン、その母親役をシャロン・ストーン。ほかに、ジリアン・アンダーソンやジーナ・ローランズ、ハリー・ディーン・スタントンらが出演。監督はピーター・チェルソム、原作はロッドマン・フィルブリックの「Freak the Mighty」。

結局奇病に侵されて自由に動き回れない少年にとっては知識や空想の世界が全て。ファンタジックな中世の騎士物語は彼の心の世界の象徴である。端的なのはトレバー・ジョーンズのスコアで、この作品に不思議な広がりと味わいを付け加えている。中世の騎士が出てきたので咄嗟にテリー・ギリアムの『フィッシャー・キング』を思い出したのだけども、ジェフ・ブリッジスが(結局)聖杯の探索に付き合わされたように、こちらも図体のでかい学習障害の少年が騎士道の追求に付き合わされる展開。いや、だって、騎士を乗せた馬なんだもの、付き合わないわけにはいかない。

キーラン・カルキンが兄マコーレーなんか軽く吹き飛ばすくらいの名演技で、これまでただの子役だと思っていたこちらの認識を変えざるを得ない。そして、このキーランの演技が映画の中で浮いてしまわないのは、まわりがいずれ劣らぬ良い仕事をしているからだ。

例えば相棒を演じるエルデン・ラトリフの存在感、実年齢(20 !)よりも低い役に不自然さがないのが凄い。シャロン・ストーンの地味な存在感も印象的で、ここ数年は演技派への転換をはかっていたけれど、こういう脇役をきっちり肉付けして奥行きのあるキャラクターにできる実力はたいしたものだと見直した次第。いい女優だよね。これをきっかけに役に恵まれると良いのだけど。

少年の視点で撮っている演出には節度があって、いくらでも「泣き」に走れるのに抑制しているところが好感度高く、奇形少年との永遠の分かれも省略も効かせつつさりげなく完璧。第1章、第2章と本のページを繰るように語る方法も最初は「どうかな?」と思っていたけれど、それも物語上、わけがあってのことで、少年同士の友情をファンタジーとして昇華させるのに大きな役割を果たしていた。

作り手の知性を感じさせる、リッチで抑制の効いた素晴らしい作品。ぜひとも一見を薦める。

You've Got Mail

ユー・ガット・メール(☆☆★)

ここのところ、北米のインターネット接続事業者として勢いがあるのが ”AOL” こと「アメリカ・オンライン」という会社で、簡単接続や簡単設定のソフトウェアを収めたCD-ROMをダイレクトメールで送りつけては会員を増やし、旧来のパソコン通信事業者を駆逐しているみたいだ。そこの電子メール・ソフトは、メールが届くと “You’ve Got Mail !” と音声で教えてくれるんだな。

・・・というわけで、それがタイトルになったこの映画、アメリカ・オン・ラインの壮大なる宣伝映画なんだよね。臆面も無く。

それはともかく、『めぐり逢えたら』のノーラ・エフロン監督の新作は、エルンスト・ルビッチ往年の作品である 『A Shop Around The Corner』 のリメイクだということだ。主演に、『めぐり逢えたら』の主演コンビ、トム・ハンクスとメグ・ライアンを再び起用。まあ、それだけである程度の観客は集まるだろうね。

NYで小さな子供向けの専門書店を営む女性とオン・ライン・チャットで知り合い、メールの交換をするうちに好意が恋に変わっていく相手は、巨大ディスカウント書店の経営者。現実世界の商売敵はサイバー世界で恋に落ちている。先にメール相手が誰だか気付いた男は、現実世界で嫌われている相手にどう正体を明かしたものか悩むことになる。

安心して見ていられる作品ではある。話もそこそこ面白いし、主演二人は観客に愛されている。これだけそろえば、週末の「デート・ムービー」としては満点に近いんじゃないのかな。

でも、観客の予想を超えるものは何一つない。見る前も、見終わっても、全く観客の人生に変化がない。脚本家としては冴えた台詞を書き、細かい気配りのあるシーンを作るノーラ・エフロンだが、監督として相変わらずかったるい。演出家としては世間は過大評価気味。同じ脚本をもっと巧い職人監督に任せた方がいいんじゃないだろうか。

気の利いた台詞と古風なロマンティックコメディのかっちりした枠組みがあって、息が合った、しかも観客にも愛される完璧なキャストがいるんだから、何かをやって失敗するより、なにもやらないというのは賢い判断のように思えないわけではない。でも、演出が演出の仕事をしていないから、こんなシンプルな話がずるずると2時間超の大作になってしまうのだ。軽いロマンティック・コメディがこんなに長尺になる時点で、勘違いといっておく。これを1時間半でまとめてくれたらもっと良い印象になるのにな。

わざわざグレッグ・キニアまで起用した脇役に全く意味が無いとか、よくよく考えると無駄なシーンやキャラクターだらけなんだよね。どのみち主役2人の関係に話を絞っていくのであるから、こういう余計な脂肪をすっきり切り捨てて、きちんと整理整頓すれば見違えるくらい面白い作品になるはず。

本作で一番の魅力はやっぱりこの人、メグ・ライアン。それなりの年になってもこのひとのキュートな魅力は色褪せない。彼女の一挙手一動作が実に楽しいし、観客が彼女に期待する全てを出し惜しみなく見せてくれていて気持ちがいい。最初の登場からイキイキしていて、彼女のコメディ演技ではベストのひとつ。嘘っぽい描写ではあるのだが、AOLに接続するくらいで妙にうきうきしているところなど、彼女の仕種を見ているだけで楽しいから、リアリティが無くても許せてしまう。もう一方のトム・ハンクス、最近の体型も、演技も、少し鈍重で、イマイチだと思う。

12/11/1998

Jack Frost

パパは雪だるま ジャック・フロスト(☆☆☆)

ミュージシャンとしての仕事柄、長期の旅も多く、息子と一緒の時間が取れない父親が、クリスマスの日に家族のもとに向かって車を走らせている途中で事故死してしまう。翌年のクリスマス、息子が作った雪だるまに憑依するかたちでこの世に戻ってきた「父親」は、沈んでいた息子と楽しい時間を過ごし、勇気付け、あの世に再び帰っていく。

クリスマス向けのファミリー。ピクチャーとして企画された、ファンタジー。ケリー・プレストンが母親役を演じ、雪だるまになって現世に復活する父親はマイケル・キートン。監督はトロイ・ミラーという人で、最近ではアカデミー賞のオープニング・フィルムなどを手がけているらしい。見どころである「動く雪だるま」を、「マペット」で知られるジム・ヘンソン・スタジオが担当している。

アメリカの雪だるまは「スノーマン」であって、「達磨大師」とは関係ない。故に、雪の玉を3つくっつける。頭と胴体とお尻、かな。これがヘンソン・スタジオのマジックで、命を吹き込まれる。途中でばらばらになったりするなど、ひとしきり笑わせてくれるのだけど、日本のダルマより動きにバラエティがつけられるよなぁ。

CGなどを使って動くスノーマンは子供向けのお楽しみとしても、この作品の背骨はしっかりと作られていて子供だましになっていない。アメリカ映画はこういうファミリー物を手抜きせずにつくる良い伝統を持っている。

ストーリーテリングに無駄がなくてスムーズである。例えばマイケル・キートンが雪道で事故にあったあと、遺体回収とか、悲しむ家族とか、葬式とか、そういう普通だったらありそうなシーンを全部すっ飛ばして「1年後」とテロップを打つ。このセンス、いいなぁ、と思う。そのあと、きちんと1年間という時間の経過とその重さを見せてくれるからね。

中盤、雪だるまと主人公が繰り広げるちょっとした冒険は、007のアクション・シーンといったら大げさだけれども、ソリやスノーボードをつかったスピーディな見せ場になっていて、わりと気が利いた笑いのとり方もするので、感心する。

ホロっとさせるシーンの作り方も巧いんだ。主人公の「仇」のようなガキ大将が出てくるのだけれど、彼が主人公と同じく父親がいない、ということを、途中でさりげなくみせておき、クライマックス近くで「No Dad より Snow Dad の方がマシだもんな」と主人公に協力してみせる。台詞も笑わせるが、こういう展開には思わず拍手したい気分にさせられる。

マイケル・キートンやケリー・プレストンなど、大人の出演者に力みが無いし、子役たちからいい表情を引き出している。父親の職業をミュージシャンとしたことで、マイケル・キートンの灰汁の強さが不自然でなくなるんだよ。品行方正とはちょっと違った格好良さ(クール!)。 こういうの、男の子が理想とする父親像だろうね。

父親の霊が乗り移った先が「雪だるま」じゃ、そのうち溶けること、すなわち、再び別れが来ることはご推察の通り。だが、この映画、単純に溶かしてしまうんではなくって、「雪が解けないところに連れていこう」という主人公の行動が積極的で、アメリカ的だとびっくりした。いやぁ、そうくるか。

Star Trek: Insurrection

スター・トレック 叛乱 (☆☆★)

日本では「新スタートレック」のタイトルで放映された、元々のシリーズの80年後、24世紀を舞台に展開される「StarTrek: The Next Generation」の映画版、第3弾。シリーズ通算では9作目。

オリジナルの劇場版のころから、「奇数番号の作品は内容も興行も劣る」というのが、スター・トレックにまつわるのジンクスである。実際、劇場版にしてはこぢんまりとした内容だったこともあり、興行は不発気味。いやはや。

お話はこんな感じ。惑星連邦に属しない種族と共に、「永遠に若さを保つことができる特殊な放射線の影響下にある惑星」を共同開発するプロジェクトが進められていた。しかし、その計画は、その惑星に住む少数の住民を力ずくで移住させることが前提であった。連邦のよって立つ「大原則 (= Prime Directive)」に反するこの「陰謀」を知ったエンタープライズのピカード大佐は、住民の権利を守り抜くために連邦の方針に反旗を翻す。

さて、前作が、目下連邦の最強の敵といえる「ボーグ」という種族とのバトルものであり、ヴィジュアルも暗かったことを受けているのであろう。「叛乱」という物騒なタイトルに反して、明るく、軽い作風になっているのが本作の特徴である。脚本は、シリーズの共同プロデューサーの一人、マイケル・ピラーの名義だ。

キャラクターの会話や行動がユーモアたっぷりに描かれていて、少しばかりのロマンスを交えつつ、民族自決の大原則・価値観を守るため、小悪党との局所的な「小競り合い」をするというのが本作のメインとなるプロットであり、TVシリーズのエピソードではともかく、映画版としては少々毛色が異なる1本になっている。

映画のたびに大きな戦争や人類存続の危機というのでは飽きもくるので、個人的にはそれほど悪く思わないのだが、2年に一度のビッグ・イベントとして楽しみにしていた向きには、TVの前後編もの程度のスケールでちょっと物足りないかもしれない。

今回の演出は、前作に引き続きジョナサン・フレイクス。「ナンバー・ワン」こと、エンタープライズの副長、ウィリアム・ライカーを演じている俳優である。フレイクスは以前より監督志望で、TVシリーズ出演中に技術を学び、その熱意を買われて何本か演出したのが監督としてのキャリアの始まりになった。なんといってもシリーズを知り尽くしているのが彼の強みだ。本作には、ファンが見てニヤニヤしたくなるようなシーンがいっぱい用意されているし、キャラクター同士の相互作用など、本作の特徴的なところを上手く引き出している。

ただ、フレイクスの演出は限りなくTVドラマ的なので、映像によるハッタリや、スクリーンならではのスケール感はない。これは脚本のせいばかりじゃないだろう。

ところで、本作は、『スター・トレック5』以来の特撮を担当してきたILMが、『スター・ウォーズ』の新作(!)のため忙しく、異なる特撮工房を使っているのだが、時代の流れか、シリーズで始めて、モデルを使用しない100%デジタルのVFXで作られた作品になった。見れば分かるのだが、宇宙船などの動きがあまりにスムーズで重量感がないので、ちょっとがっかりしてしまうかもしれない。それやこれやで、前作から登場している「エンタープライズE」を魅力的に描くショットが不在であるのは残念に思う。

お馴染みのキャストの他にF・マーレー・エイブラハムが適役を演じるほか、ゲスト・ヒロインでドナ・マーフィが出演。音楽も前作に続きジェリー・ゴ-ルドスミスが担当。何度か見たのだが、マンハッタンの劇場でみたSDDS方式の上映が良かった。音響の良い劇場で見ると作品のレベルが上がって見える。

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以下、スター・トレック好きのために少々補足。

本作が劇場で公開されている今、TVでは第3のシリーズ『ディープスペース・ナイン』が放映中である。この番組では、惑星蓮歩と「ドミニオン」と呼ばれる勢力との大戦争が勃発しており、決着がついていない。それと整合性をとり、数年前からDS9 のレギュラーになっている「ウォーフ」は、前作に引き続き「たまたま」居合わせたという設定でエンタープライズに乗船しているほか、ドミニオンの兵士であるジェム・ハダーが必要とする化学物質「ケトラセル・ホワイト」の合成技術の存在が、本作の背景設定として言及されているのである。もちろん、これを知らなくても、本編が理解できるような作りにはなっている。

12/01/1998

The Wedding Singer

ウェディング・シンガー(☆☆☆★)

今年の初旬(98/2)に公開された大ヒット作だが、今頃になって見るチャンスがあったので遅ればせながら。アダム・サンドラー主演映画として、彼のファン以外も観客に集めて大成功を収めた一本だ。

この映画でサンドラーが演じる「キャラクター」は、かつてバンドのリード・ヴォーカルを勤めていたが、いまは結婚披露宴の司会と音楽を担当する「ウェディング・シンガー」。酔っ払った親族でめちゃくちゃになった雰囲気だって見事に収拾してみせるプロフェッショナルだ。

即興で妙な歌詞の歌を作ったりもする音楽面でのサンドラーの「芸」と、キれさえしなきゃ心の温かく結構ハンサムな好青年キャラクターで押し通せる持ち味、ついでに、突然キれたときの無茶苦茶さ加減を活かした、見事なまでにアダム・サンドラーなキャラクターである。脚本を書いたのはティム・ハーリヒーで、監督はフランク・コラチ。いつもつるんでいる連中である。

サンドラーお得意のキャラクターものではあるのだが、これが純真なウェイトレスと出会い、お互い結婚式が近いということで息投合することから始まるロマンティック・コメディという体裁をとっているのが、今回の新機軸であり、ヒットの要因だろう。笑えて切ない、ちょっと不器用で初々しい恋の顛末。砂糖菓子のようなストーリーに「80年代ネタ」を音楽中心にちりばめ、とぼけた味のあるギャグを振り掛けてできた本作の魅力は、従来のサンドラー主演映画にはないものだ。

だって、ウェディング・シンガーの名前が「ロビー」、ウェイトレスは「ジュリア」。「ロミオ」と「ジュリエット」の語呂合わせだよ。これだけで、「ああ、純な話をやりたいのだな」と、なんかいつもと違うぞ、と気づくよね。

そして、これは共演したドリュー・バリモアにとって、大きなステップアップになる記念すべき作品にもなったんんじゃないか。ここ数年、ちょい役的な扱いでいろんな映画に顔を見せるようになってきていたが、まさか、あれだけ荒れた過去を持つドリューが、こんなに純真でスウィートな女の子の役柄でヒットを飛ばすなんて、なんというか、ある種の奇蹟をみるようなもんだ。

コメディとしては「15年くらい」という中途半端な時差を使って、80年代ネタでボケまくっているのがおかしくて仕方がない。(若い観客のなかにも)確実に記憶にある「近くて遠い過去」だ。主人公の髪型を始め、今見ると少しずれている80年代ファッション。「そのカップルが永遠に続くかどうかなんて、その二人を見れば分かること」と、85年当時は幸せの絶頂に見えた芸能人カップルの名前を列挙するあたり、ゴシップに詳しければ抱腹絶倒ものだ。

流れつづける85年の最新ヒット曲はある種ノスタルジーを掻き立てる。もちろんボーイ・ジョージやマイケル・ジャクソンはしっかり笑いのネタだ。クライマックス近くで思わぬゲスト出演があって、作り手である自分たちが青春を過ごした80年代への愛着がにじみ出ている。ゲスト出演多数。思わぬ顔にびっくりすることも、多分、ある。

11/25/1998

Psycho (1998)

サイコ(98年版)(☆☆☆)

これはダメな映画なのか、ダメな企画なのか。また、愚かな行為なのか、それとも興味深い試みなのか。映画の出来映えが悪いのか、それとも、この映画の存在自体が汚点なのか。

個人的には、議論の余地なく切り捨てるべきというよりは、この中にすら見いだされるチャレンジ精神や、結果としての出来栄えを検証して楽しむのが良いと思うのだが。

何はともあれ、悪評しか見当たらぬ、ガス・ヴァン・サントの新作『サイコ』である。もちろんいうまでもない、アルフレッド・ヒッチコックの1960年作、『サイコ』の野心的、というよりは実験的なリメイク作だ。

アルフレッド・ヒッチコックの作品中で米国では最大のヒットを記録したのが『サイコ』だという。大金を横領した女性が偽名で宿泊した「ベイツ・モーテル」。経営者のノーマン・ベイツは裏手に聳える屋敷で老いた母親と暮らしているという。この女性の後を追い、私立探偵や妹、女性の恋人が次々にモーテルを訪れるが、予期せぬ事態に巻き込まれていく。その彼らの運命やいかに、という話。ルール違反すれすれの大胆な構成、有名なシャワー・シーンのモンタージュと、そのシーンで使われた不協和音の音楽は、この映画を観ていない人にもお馴染みのはずだ。

本作のことをさきほど実験的なリメイク、と呼んだのだが、ガス・ヴァン・サントはこれを「リプロダクション」と呼んでいる。それはなぜか。オリジナルと同じ台本を使い、基本的にはオリジナルと同じショットをワンカット、ワンカット再現しているのだという。え、それなんの意味があるの?

もちろん、現代の俳優が出演している。舞台も一応、現代だ。アン・ヘッッシュ、ヴィンス・ヴォーン、ジュリアン・ムーア、ウィリアムH・メイシー、ロバート・フォスターらだ。音楽はバーナード・ハーマンの音楽を復元し、編曲。これを担当したのはヴァン・サント作品が続いているダニー・エルフマンの仕事だ。オリジナルは白黒撮影の作品だったが、今回はカラー。撮影はクリストファー・ドイルである。

そもそも、こんな作品ができてしまう背景には、「白黒映画じゃ商売にならん」という商売上の目論見があるはずだ。白黒映画への着色といえば、かつてのメディア王、テッド・ターナーが、CATVでの放送などを睨んで進めた名作群の着色(カラライゼーション)が大きな議論を呼んだことが記憶にある。CATV、パッケージソフト、デジタル衛星放送と、膨らみ続ける2次使用で、「白黒」に慣れていない大衆を搾取する上で有利になると考えての「カラー」化、だ。

そんな映画会社の思惑を逆手にとったのが、今回のガス・ヴァン・サントの、誰もやったことのない「企て」であるといえる。ヒッチコックの撮影台本にアクセスし、6週間の撮影期間まで忠実に守ったという凝りぶりで、当時は技術的に困難で断念したという(触れ込みの)冒頭の空撮を復活させたりもしている。

作品の製作過程と製作手法そのものを再現するという大仕掛け。野心的な画家が巨匠の作品を精緻に模写するかのようなもんだな。作品への冒涜というのなら、もともと白黒で撮影されたものに、作り手の関与のないままに着色する野蛮な行為は間違いなく冒涜といえるが、この作品で試みられたような「実験」は、実験であったり、習作という範疇において興味深いといえなくもない。

役者たちもオリジナルと変わらない台詞や動作という制約の中で、90年代のリアリティを紡ぎ出すという難役を、これまた実験的な意味で楽しんでいるように見える。ただ、いくらオリジナルを模してみても、ヴィンス・ヴォーンはアンソニー・パーキンスにはなれない。そこらあたりが、結果的に作品の雰囲気を変えてしまっており、役者次第で作品が変わってしまうということくらいは本作によって証明できたんじゃあるまいか。

この映画、映画そのものはそこそこ楽しめる。なにせ、オリジナルが面白いんだからあたりまえだ。でもオリジナルを観ていたら、これを見る意味はあんまりないし、オリジナルを観ていないなら、ぜひともオリジナルを見るべきだ。そういう意味で、得をしたのはメジャーの予算で堂々とこういう実験をやりおおせたガス・ヴァン・サントだけであり、カラー化で一儲けを企てた映画会社は不評と批判で評判を落とした。リメイク・ブームのなかでもっともユニークなこの試みは、もっともたちの悪い冗談として記憶されることだけは間違いない。

Very Bad Things

ベリー・バッド・ウェディング(☆)

幼馴染の男友達5人組。仲間の一人が美人と結婚をするというのでラスベガスに出かけてバチェラー・パーティと洒落こんだ。ラスベガスといえば、カジノ、ドラッグ、娼婦。さんざん「悪いこと」を楽しんでいた男連中だったが、仲間の一人が偶然娼婦を殺してしまったことでムードは一転。真っ青になった男たちは、妙に冷静に振舞う一人の男のリードで死体を砂漠に埋めて知らんふりを決め込むことにするが、それでコトは終わらなかった。

次々に意味のない殺人が起こる、ブラック・コメディである。TV『シカゴ・ホープ』の出演者であるピーター・バーグの脚本・監督デビュー作だという。そんな作品の割には出演者が豪華だ。クリスチャン・スレイター、ダニエル・スターン、ジーントリプル・ホーンに加え、今や旬といっていいキャメロン・ディアズが出演しているんだから。

しかし、なんとも困った映画である。いや、倫理的にどうかということを問うつもりはない。だいたい、、「悪い事をすれば報いがある」という、因果応報に則った話なのだから、倫理的におかしいというものではない。コメディとして死体が転がる様や、罰当たりな死体の扱いをする映画は数限りなくあるわけで、それをとやかくいうつもりもない。

ただ、映画としてのテンポが悪く、コメディとして笑えない上だけでなく、後味も悪いのだ。

こういう話の中で一番輝いてしまうのは、やはり、曲者クリスチャン・スレイターだ。スレイターはあのカルト・ヒット『ヘザーズ』のせいか、それともなんか勘違いしているとしか思えない私生活のせいか、アブナイ役が最高に似合う怪優になってしまった。5人の中で比較的冷静で、事態の収集に向けてリーダーシップを発揮する時、なんとも言えない不気味な迫力と格好良さを発揮する。

キャメロン・ディアズが演じているキャラクターは宣伝に反して本当に脇役。『メリ首』の思わぬ大ヒットで得したのは製作者たちだ。彼女の役は他のキャラクター同様全く自分勝手なんだけれども、クリスチャン・スレイターを退場させるに至るシークエンスで見せ場がある。もしかしたら、ここが映画の中で一番面白い。

もう一人巧いのはダニエル・スターン。さっさと精神的に崩壊していく男の役なんだが、いや、本当にうざったくてこの映画の登場人物ならずともさっさと殺してやろうか、という気分にさせられた。もちろん『ホーム・アローン』でもいいところをみせていたが、それにしても、本当はこんな映画にはもったいない実力の持ち主ではあろう。

最初の思いがけない殺人が次々に意味のない殺人を呼ぶという展開は、いってみればコーエン兄弟の『ファーゴ』なんかもそういう趣向だが、この作品はもっと毒々しいコメディを狙っていて、観客が笑えなくなるぎりぎりのところまで過激さを持っていこうとしたようだ。しかし、全てのネタが人殺しに落ちていくあたり、殺伐と云うよりはむしろ単調。「中途半端」に生々しい描写は、いっそマンガ的にするのか、スプラッター的に極端に弾けるか、どちらかに振り切るべきだっただろう。

11/22/1998

In & Out

イン&アウト(☆☆☆)

昨年秋(97/9)公開の作品だが、遅ればせながら見る機会に恵まれた。フランク・オズ監督のコメディ映画だ。

主人公は、田舎町で高校の教師を勤めている。その教え子のひとりは、今や人気抜群の映画スターになっていて、ゲイの兵士役を演じてアカデミー賞を受賞。その受賞スピーチで、「高校時代の恩師に感謝したい。彼はゲイなんだ。」とやらかしたため、さあ大変。保守的な田舎町は蜂の巣を叩いたような大騒ぎになってしまう。

話そのものは、他愛ないといえばそんなところである。アカデミー賞の舞台で、受賞者がゲイだった高校の先生に感謝を述べたのを見て、「もしそれが勘違いだったらどうなるか?」、というのが発想のもとだったという。

いまどきのアメリカで、「ゲイ?」というだけで大騒ぎという話にするために、保守的なインディアナ州の小さな(一見罪のない)田舎町が舞台に選ばれているのが絶妙な感じである。もう少し南に下れば主人公はリンチにあって殺されてしまうやも知れず、とても軽快なコメディにして笑っている場合じゃない。もっと都会だったりすれば、時代錯誤な雰囲気になってしまう

もちろん、社会風刺的なところを抜きにはできない題材ではあるが、作り手も、社会性・風刺性を前面に押し立てて声高に叫ぶような「社会派」気取りではない。微妙な問題をネタにしているという自覚と配慮は失わないまでも、コメディだという割り切りがあるのではないか。そのことがかえって軽快な作品として結実しているように見える。

で、話の発端を聞いているとそんなものか、と思うだろうが、例えていえば「思いもよらず二重スパイであることが露見したスパイ」の話のようであり、そのもつれ方がなかなか面白い。そして、思いもよらず振りきれて割り切ったエンディング。ふとしたきっかけからどんどん加速して転がっていく物語運びの妙。なんだかんだといって、やはり現代であるから成立した映画だなぁ、と思わせる映画になっている。

派手さとは無縁だが、ゲイ達者な役者たちが繰り広げる珍妙な演技合戦が本作の見どころである。主演は「ゲイ達者」なケヴィン・クラインだ。この人は本当に巧い。昔はシリアスな役者として活躍していたが、『ワンダとダイヤと優しい奴ら』で振りきれてからというもの、コメディ分野での活躍はご存知のとおりだ。そして、芸能リポーター役に、男臭いアクション派のトム・セレックを持ってきた。人気スターになった教え子役にマット・ディロンというやや中途半端な感じも面白い。私が一番面白かったのは、名コメディエンヌであるジョーン・キューザックの捨て身の演技。ああ、もう、最近ではこの人が脇で出ているというだけで、その映画を見たくなってしまうほど好き。

監督のフランク・オズという人は、マペットの操演で知られ、もちろん、あの「ヨーダ」を動かし、声を与えた人物であるのだが、実写映画の世界では、これまでのところコメディ演出の名手といえる。今回、彼にしてはちょっとマイルドかとおもうのだが、予期せぬときに「他人によるカミング・アウト」をうけた主人公と婚約者の絶句状態のリアクションなど、普通より長めのタメがあって、なかなか意地が悪いところがいい。マット・ディロンの恋人であるスーパー・モデルのアーパーぶりなどに見られる、「毒」のある演出ができる人だと思って、いつも新作を期待している。

11/20/1998

Meet Joe Black

ジョー・ブラックをよろしく(☆★)

死期の近い老富豪のもとに若死にした美青年の体を借りて現れた死神が、そのまま人間の世界を体験するためにうろついているうち、富豪の娘と恋に落ちてしまう。舞台劇を映画化した1934年の『明日なき抱擁』のリメイクだそうだ。

劇場についてからびっくりしたのだが、これ、なんと178分の長尺なんだよね。3時間だよ、3時間。で、ちなみに、この映画の「機内上映版」はここから50分カットされて、監督は「アラン・スミシー」とクレジットされるそうである。正直言って、そっちのヴァージョンを見てみたいもんである。もしかしたら、評価があがるかやもしれぬ。

本当の監督は、マーティン・ブレストだ。かつて、『ビバリーヒルズ・コップ』で当たりを取り、『ミッドナイト・ラン』という佳作をモノにして、軽快な娯楽映画を得意とした人なんだけれども、前作『セント・オブ・ウーマン』はダラダラしてつまらん映画だったな。本作は古くから温めていた企画ということで、なんやらいろんな思い入れがあった結果が、これ、だろう。

この映画の見どころは、「アイドル俳優」としてのブラッド・ピットの美しさを大スクリーンでタップリと堪能できるところだ。コーヒーショップで登場するシーンの素の魅力、キスからセックスまでなんでも初体験で戸惑いと喜びを演じる演技で見せる彼の表情、ピーナツ・バターをなめる間抜けなシーン、まるで子犬のようにアンソニー・ホプキンスについて回るところまで、もう、ブラッド・ピット好きの女性ファンなんかだったら堪らない趣向だろうと思う。

なにせ、自分の美しさに自覚的であり、それゆえに変な映画ばかり選んで出演しているブラッド・ピットの、こういう部分を堪能できる映画ってのは、実は本当に久しぶりのことだからね。

ヒロインはクレア・フォラーニである。 『ポリス・アカデミー7』や『ザ・ロック』の小さな役でキャリアを積んできたみたいだが、この人には自然体で飾らない雰囲気があって、ちょっといい感じだ。ただ、ロマンティックな映画の、まごうことのないヒロインであるはずなのに、なんだか添え物のような扱いになっているのが可哀想ではある。

なぜといえば、この映画の真の主役はアンソニー・ホプキンスであるからだ。死に直面した富豪と、生を体験する死神を通じて、人生とは何か、というテーマを扱っているのがこの作品なのである。そういう重いテーマを預かる重要人物に、そこに存在するだけで画面に映らない人間の深みを付加してしまうのが名優たるホプキンスのすごいところだろう。

同じ脚本でも2時間にまとまりそうに思えるのだが、どのシーンにもタップリと時間を使い、ある意味でいえば優雅に、落ち着いた風格のある演出が施されている。狙いはわからないでもないが、プラピの美貌にさして興味のない当方としては、これはもはや、苦痛の部類。作品のテーマもぼやけ、かえって散漫になっているように思う。

マーティン・ブレストは前作をターニング・ポイントに、演出のスタイルが随分変わってきたように見受けられる。ちょっと感心しない方向性だなぁ。

Enemy of the State

エネミー・オブ・アメリカ(☆☆☆★)

邦題、「国家の敵」じゃダメなのかね。

ジェリー・ブラッカイマー製作、トニー・スコット監督の新作に主演するのは、ウィル・スミス。(もともとトム・クルーズ主演で考えていたが、キューブリック作品の撮影が長引いて出演不可能になってしまったらしい。)国家権力による陰謀と、情報化社会におけるプライバシーの侵害に対する不信と恐怖をテーマにした、なかなか面白い巻き込まれ型サスペンスに仕上がっている。

ベテランの上院議員の殺害現場が、予想もしないところでビデオに撮影されていたというのが事の発端である。その奪回のために諜報組織が動き出す。DCで労働争議を専門にする弁護士である主人公は、たまたまビデオをめぐる追跡劇の現場に居合わせたことで、それに巻き込まれてしまうのである。一挙一動が国家の完全な監視の対象にされ、情報操作によってすべてを失った主人公は、力強い味方を得て、毅然と反撃に出ることになる。

個人の生活が徹底的に監視され、情報操作で簡単に破壊される。逃げても逃げてもそこには常に誰かの目が光っていて追手が現れる。そんな作品のプロットは、もちろん、それほど新しいものではないかもしれない。最近好調なトニー・スコットは、この話をどう見せるか、というところで本領を発揮、リリングでかつ骨のある、スタイリッシュな第一級の娯楽大作に仕上げてくれた。クライマックスで自己パロディをかます余裕も見せるっていうんだから、もう、文句のつけようがない。

脇役がいい。政府組織のヘッドにジョン・ヴォイト。彼の下に実行部隊として各々専門性を持ったハイテク・ヲタクのチームがいる。このチーム、スパイ衛星を動かしもするが、盗聴装置を仕掛けたり、変装して現場に出たり、案外ローテクなこともするから、まさに、逆「スパイ大作戦」状態だ。『ミッション・インポッシブル』で悪役に転じたフェルプスが上司ってんだから、そういう気分にならざるを得ないよね。

また、追い詰められた主人公を助ける謎の人物にジーン・ハックマン。このキャラクターの若かりし日の写真として、『カンバセーション 盗聴』の時のものが用いられているが、まさしく、それを彷彿とさせるプロフェッショナルなキャラクターとして登場するのだから、面白い。なにやら分けありの人物として画面に登場した途端に役者としての格の違いを感じさせるが、あくまで脇役という立場を心得た演技っぷりがまた渋いのだ。

ジーン・ハックマンと仕事をしたくて出演したというウィル・スミスだが、軽快さと親しみ易さが彼の得意とするところ。好みからいえば必ずしも彼でなくても良いのだが、「巻き込まれた一般人らしさ」、「いざというときに起点の働く頭の回転の良さ」という意味で、このキャスティングは悪くなかったと思う。

毎回やりすぎのスコット弟の映像作りだが、今回もその点、いかにも彼らしいものになっている。ただ、ハイテクを使った盗聴、盗撮、追跡という作品のプロットと彼のスタイルがハマったことでパラノイア的な不信感と恐怖感の増長に成功し、例によって極端に短いカットつなぎが、追跡劇に疾走感を与えていることで、うまく作用したと成功例になったといえるだろう。社会的な警鐘を含んでいながらも、それはあくまで背景設定とし、娯楽演出に徹した潔さが本作の取柄だろうね。

A Bug's Life

バグズ・ライフ(☆☆☆☆)

『トイ・ストーリー』の大成功から3年、CGIによる長編アニメーションにより、業界の様相を一変させたピクサー・アニメーション・スタジオ製作、ジョン・ラセター監督の待望の新作がやってくるというので、子供の映画と言われようがなんだろうが、これを見逃す手はあるまい。喜び勇んで劇場に駆けつけた。

Bug ってのは「虫」のことなのだが、CGIアニメーションだというので、コンピュータ・プログラムの「バグ」に引っ掛けて、そんなノリで始まった企画ではあるまいかなどと思っていた。そしたら、「アリとキリギリス」風に幕を開けた物語が、『七人の侍』になったかと思えば、実は『サボテン・ブラザーズ』だったという、なんともはや、これまた面白い映画を作ってくれたものだ。

夏の間遊び暮らすバッタどもと、冬を前に収穫に励むアリたち。バッタたちは秋がきても平気だ。盗賊団よろしく、アリたちを脅し、搾取しているからなのだ。アリたちは、必死で蓄えた収穫物を、貢物としてバッタに差し出している。その貢ぎ物を、ちょっとしたヘマから台無しにしてしまった主人公のアリは、バッタと闘うための助っ人を呼んでくることを主張し、旅に出るのだった。

ピクサーの映画が、今、技術的な最高水準を走っていることには疑いの余地はない。比較的無機質な描写で済んだおもちゃの世界とは違い、自然が相手の今回は、相当レベルの高いことをやっているんだろう。もちろん、そうした技術の裏打ちがあってこそなのだが、ピクサーの映画が面白いのは、ともかく、脚本のクオリティの高さによるものだろう。そういうスタジオの個性は、2本目の今回で明らかになったといえる。

サービス精神に溢れ、娯楽映画の基本をはずさないストーリーテリングの見事さ。数多いキャラクターの個性の描き分け。経験不足ゆえになにをすべきかわからず右往左往するプリンセス、お転婆で好奇心旺盛なプリンセスの妹、助っ人のムシたち、迫力と愛嬌を兼ね備えた悪役たち。それぞれ米国のアニメにしてはデザインも愛らしく、一度見ただけでも愛着が沸いてしまうはず。

そして主人公。「僕のやったことはなんでも裏目に出る、何一つ役に立ったことなんかないんだ」と落ち込むシーンは、うっかりしていると涙腺を刺激されてしまった。CGのアリだぞ。ちきしょう。

アリのコロニーの描き方が面白い。よくあるような「画一的な集団主義」として描かれているのではなく、「チームワーク」というポジティブな描き方になっているのだ。そして、主人公の活躍を、「個人主義の集団主義に対する勝利」という、従来ありがちだった図式に持ちこまない。「多様性とチームワーク」の物語なのだ。このあたりには、米国の企業経営のアプローチがドラスティックに変化を遂げつつあることも反映されているように思ったりする。

バッタの親分に対して一生懸命責任逃れをしようとする若きプリンセスに対してバッタが一言、「部下の責任はみんなリーダーの責任だ」とのたまうあたり、経営責任をとらずに居座りつづけるダメな企業の経営陣に聞かせてやりたい痛快さ。そういうピリッと効いたセリフが物語から浮くことなく、隠し味として効いていて、子供をつれて劇場にいった大人のお楽しみになっている。

英語版はケヴィン・スペイシーやデニス・レアリーらの芸達者で華のある俳優と、アニメの世界のベテラン声優混成の適材適所なアンサンブル・キャスト。音楽の担当は『トイ・ストーリー』と同じくランディ・ニューマン。この人の音楽なしにはまた、この作品の成功はなかっただろうと思わせる変幻自在の楽しいスコアだ。

11/13/1998

Living Out Loud

マンハッタンで抱きしめて(☆☆★)

アパートで守衛をしている男は、男手で育てた愛娘を最近失ったばかり。そのアパートの住人である女は、長年連れ添った夫の裏切りで離婚に至ったばかり。この二人の人生がエレベーターのなかで交差し、互いのフラストレーションやささやかな希望などを語り合ううち、次第に親しくなっていく。

少しロマンティックで、可笑しくて、しっとりとしたコメディ・ドラマ。 本作に主演しているダニー・デヴィート主催の「ジャージー・フィルムズ」の作品だが、このプロダクション・カンパニーは常に意欲的な作品を発表してくるから面白い。今回は、ぐっと大人のムードを漂わせた、少し興行的には難しそうな作品である。ハリウッド的な安易な出口を用意せず、ちょっとした節度とほろ苦さが残るさじ加減がいい感じではあるのだが。

脚本・監督はリチャード・ラグラヴェニーズの脚本・監督作品。主演はホリー・ハンターとダニー・デビートだが、無視できない重要な脇役、ジャズ・クラブのシンガーとしてクイーン・ラティファーが出演。

無残な結末を迎えた結婚の後遺症を引きずる主人公の女性が自分らしく活きる力を獲得していくまでを描く映画である。

で、本作は、ともかく、リチャード・ラグラヴェニーズだ。なんだか舌がこんがらかりそうな名前のこの人、紐解いてみると『フィッシャーキング』や『マディソン郡の橋』『モンタナの風に抱かれて』の脚本家で、本作が監督デビューだ。そう、これは「脚本家」の映画なんだな。

これまでの作品歴でも分かるように、大人の観客に染みる台詞を書くこの人らしい作品である。良く練られた、少し洒落っ気のある台詞とダイアローグによって綴られていく映画。どのシーンも会話を中心に組み立てられ、会話を中心に進んでいく。ジョージ・フェントンのジャジーな音楽にのせて。

はっとするような演出はない。繋ぎや構成に少々ぎこちない部分もある。しかし、良いダイアローグを良い役者が口にすれば、良い映画になるという強い信念がそこにあるかのようである。また、その信頼を委ねられた、いうまでもなく演技巧者である主演の二人。この映画から漂ってくるのは、そんな両者の信頼関係に基づいた、濃密で、幸福な空気である。

全身で演技をするホリー・ハンターは、主人公の少し饒舌ともいえる台詞を、リアリティを損なうことなく、痛々しさも、力強さも、体現してみせてくれて、改めて、とても魅力的な女優さんだと思う。すでに若くはないし、女であることを特に売り物にしているわけでもないのに、この人からは経験を重ねた女性にしか出せない色気を感じる。本来、小柄なホリー・ハンターが、もっと背の低いダニー・デヴィートの禿げた頭を撫ぜるシーンがあって、面白かった。

I'll be Home for Christmas

サンタに化けたヒッチハイカーは、なぜ家をめざすのか?(☆☆☆)

"I' II be Home for Christmas~♪” ってクリスマス・ソングのスタンダード・ナンバーですな。いろんな人が歌っているので、どこかで聞いたことがあるんじゃないか。個人的にはわりと好きな曲だ。

さて、11月13日公開だから、時期的には感謝祭前、いわゆる「ホリデー・シーズン」映画として、ディズニー・ブランドで配給される家族向けの軽いコメディだが、家族向けと云うよりは、お気楽ティーンズ・コメディといった方が正確かも知れない。

NY出身の主人公は同郷出身の彼女と西海岸で楽しい大学生活を送っている。父親から年代物のポルシェを譲り受ける約束で、クリスマスを家族と過ごすことにするのだが、東に向かってさあ出発というその当日の朝、悪友のいたずらのおかげで砂漠の真中で目を覚ます。サンタクロースの衣装を着せられた主人公が悪戦苦闘している間に、事情を知らない彼女は恋敵の車に同乗して大陸横断の旅に出発してしまった。さあ、どうする?

主演はTV出身のジョナサン・テイラー・トーマス。監督のアルレーン・サンフォードもTV出身で、映画は『ブレディ・バンチ』の続編を手がけていた。そんなわけで、ちょっと小粒でTVっぽい感じは拭えないが、まあまあ、笑って観ていられる作品になっていて、後味も悪くないんだな、これ。

最初のクレジットが可愛らしいサンタ帽子が飛び跳ねるアニメーション。そのホンワカとした雰囲気が嫌いじゃない。主演のジョナサン・テイラー・トーマスは、見た目が若い頃のクリスチャン・スレイターっぽい。一部で人気が沸騰(?)しているようだが、それもまあ、わからんではない。

いかにもアメリカ的な大学の寮生活の描写から始まって、ロード・ムーヴィーに転調する。最後は家族と過ごす伝統的な雪のクリスマス。珍道中あり、恋敵との確執ありで最後はハッピーエンドでしめくくる。全体の構成や配分、テンポは、案外、手馴れたものという感じがする。

エピソードはそれなりに工夫がある。サンタの服で砂漠に置き去りの主人公というヴィジュアル的なミスマッチはやがて、サンタの衣装を着た参加者によるマラソン大会につながって、まあ、単純なアイディアなのだけど思わず顔がほころんでしまうような光景が繰り広げられる。同じルートをたどってNYに向かっている彼女&恋敵とニアミスを繰り返すのだけれど、たまたまパーティ会場の宿り木の下でキスしている2人がTV中継され、それを主人公が見てしまうっていうアイディアもいい。

本当は早く家に戻ってポルシェを手に入れたいくせに、嫉妬心にかられ、彼女の奪還を画策して道草をする主人公。それに象徴されるように、何が一番大切な物か、そういうプライオリティが今ひとつわかっていない主人公の迷走ぶりが、一応、旅を通じてちょっとだけ成長する。

ティーンズ物としては、そこはディズニー映画としての優等生的なところがあって、「ティーンズ」へのアピールが少し足りない商品であるかもしれない。あと、珍道中ジャンルの金字塔といえる『大災難P.T.A.』にはもちろん及ぶものではないだろう。ただ、ドラマとしての筋が一本通っていて爽やか。TVで放送されていたらついつい見ちゃう程度には好感の持てる作品である。

11/12/1998

The Siege

マーシャル・ロー(☆☆★)

アラブ系の過激派のリーダーを米軍が密かに捕らえ、拘束した。それをきっかけとしてNYの街がテロの嵐に見まわれる。FBIは支部がテロの標的になり崩壊、コントロールを失った政府は戒厳令を敷き、混乱した街に軍隊が出動する。アラブ系住民は明確な理由もなく全員拘束され、アメリカの標榜する「自由」は過去のものとなった。

映画の中での描写をめぐるアラブ系市民からの(少々見当違いな)抗議もあり、タイトル、公開時期ともに2転3転していたエドワード・ズウィック監督の「問題作」である。

この映画に対する抗議というのは、アラブ系(というかイスラム系)とテロリズムを結びつけ、罪もないのに彼らが拘束される展開に向けられていたようである。だが、この映画が語ることは、そういう先入観やステレオタイプの存在、それがもたらしうる行動の危険性である。、実際にオクラホマでのテロでアラブ系が真っ先に犯人として疑われたことなども含め、権力側のそうした動きに対しての警鐘を鳴らしてこそいても、そうした行為や行動を正当化したり当然視するものではない。

もちろん、そうした意味で、たいへんに社会的なメッセージ性の強い野心作である。

しかし、この映画は大スターをキャスティングした娯楽作品としての顔を持っている。監督とは『グローリー』という佳作を作って以来これで3度目の顔合わせとなるデンゼル・ワシントンをイメージ通りのヒーローとして、最近では一般にアクション・スターと認知されているブルース・ウィリスを限りなくグレーな悪役として起用した。そして、絶対にただのヒロインで終わらないアネット・ベニングもキャスティングされている。

ただ、どこかで生真面目なズウィックの資質が裏目に出たのか、メノ・メイエスやピューリッツァー賞作家のローレンス・ライと共同名義になっている脚本が悪かったのか、せっかくスターが共演しているのに、娯楽映画としてのツボを押さえきれていない。少なくとも、キャスティングにひかれて劇場に足を運んだ観客の興味には応えられていない。

思うに、戒厳令、軍隊出動のタイミングが遅いのだ。そのような状況にリアリティを与えるために、最初のテロの発生からそこに至るまでを丁寧に描いているのだが、その手数が多すぎて、退屈してしまうのである。

もちろん、作り手の狙いは単純な活劇にあるわけではなく、もし、こんな自体が起こったら何が起こるのか、それを精緻にシミュレーションしてみたかったのだろう。それならそれとして、テロの操作にあたるプロセスを、もう少し活劇として見せる工夫が必要ではなかっただろうか。

話を複雑にした原因のひとつはアネット・ベニング演じるCIAのキャラクターとしての微妙な立て付けにもあるのだが、この、ある意味で難しい役柄に血肉を与え、リアルな人間にしているベニングはさすがに巧い女優だと思う。ブルース・ウィリスはなかなかの貫禄で、軍を掌握する立場としての不気味な恐ろしさを出している。それに比べると、いつもの通り、「アメリカの良心」を演じることを求められているデンゼル・ワシントンは、まさにいつもの通りでしかない。そろそろ、本人もこういう役柄に飽きてきやしないものだろうか。

11/06/1998

The Waterboy

ウォーター・ボーイ(☆☆)

アダム・サンドラー演ずる知恵送れ気味の31歳の男が主人公。ルイジアナの不気味な森の奥にキャシー・ベイツ演ずる母親と住み、(普通は)子供のアルバイトであるカレッジ・フットボールの水配り人を天職と思い働いている。ある日、仕事中にとてつもない才能を見出された主人公は、これまで馬鹿にされてきた鬱憤をバネに、一躍チームのヒーローとして大活躍を始める、という話。ある種の「キャラクターもの」といえる、ドタバタ系コメディ。

主演のアダム・サンドラーは、90年代の前半にサタデーナイトライブで活躍した人気コメディアンである。「オペラマン」などのコントやユダヤネタの馬鹿げた歌で人気を博した。映画では『エアヘッズ』等での脇役にはじまり、主演俳優に昇格。その後、出演作は毎回前作の興行成績を上回る快進撃を続け、前作『ウェディング・シンガー』が8千万ドル級のひっとをかっとばして大ブレイク。今回は、大ヒットを期待されての新作というわけだ。

今回の作品でサンドラーが演じるキャラクターは、彼の十八番といって良い。かつてSNLでやったスケッチ「カンティーン・ボーイ」風知恵遅れキャラクターに、南部ネタ、突然キれたり凶暴化したりする芸風を組み合わせたイメージだ。作品内容も前作が少々らしからぬロマンティック・コメディに振った作品だったことを受けて、反対方向、ナンセンス&ドタバタ寄りの方向に振っている。

実はサンドラー、本作の製作を手がけ、古くからの友人ティム・ハーリーと共に自ら脚本を手掛けている。監督はNYUでの同窓だというフランク・コラチ。こうしてみると、この男、早くも単なる主演俳優の域を超え、すでに自分の作品作りを戦略的にコントロールしてかのように見える。なかなかの男だ。

それはさておき、作品として面白いのかどうか。主人公やチームのコーチ、ゲテモノ料理好きのキョーレツな母親、ファイルーザ・バルク演ずる妙な恋人など、知能指数ゼロなディープサウス住民的キャラクターは面白い。独特の、調子はずれで抜けた感じの間やテンポも、ツボにはまってくると笑える。

ただ、ギャグそのものが少々単調で、意外性には欠けるところがある。特に、これまでのアダム・サンドラー映画を見ていると、あまり新鮮味を感じない。いま、ちょうど旬を迎えた彼の主演作だから爆発的なヒットを飛ばしているが、初期の主演作のほうが破壊力があって面白かったと、個人的には思う。

監督も脚本家旧知の人物を起用した本作。ダチを大事にするのがサンドラー流らしい。出演者の中でもロブ・シュナイダーはSNL時代の共演者で、彼の登場シーンはやっぱり息とタイミングがあっている。

10/30/1998

Vampires (John Carpenter's)

ヴァンパイア・最後の聖戦(☆☆☆)

監督の名前を前面に押し出して売る映画は実はそんなに多くない。が、カーペンターノ映画は昔からそんなんだった。いつもタイトルの前にJohn Carpenter’s とついているんだからたいしたもんだ。米国内での配給がなかなか決まらずしばらくお蔵入りだったらしいこの作品も監督名を全面に押し出しての公開となった。そして、いわゆる「ベンベン節」で始まるこの作品、いかにもカーペンターな怪作である

ローマ法王を頂点にいただくバチカンの特命を受けてヴァンパイア退治を行っている男たちが主人公で、昼間でも活躍できるように秘密の儀式を行おうとしている吸血鬼軍団、そして、その強力なリーダーと対決をするという話だ。

まず、なんといっても荒野に居並ぶジェームズ・ウッズらヴァンパイア退治人たちの格好良さ。余計な説明なしに、いきなり一軒屋に潜んでいるヴァンパイアの一団を退治するところから始まるテンポのいいスタート。あばれるヴァンパイアをワイヤーで日のもとに強引に引きずり出して燃やしてしまうあたりが何気にブルーカラーのノリである。妙にもったいつけないあっけなさが逆に躍動感につながっていて快感。

そう、この冒頭だけでこの映画がどんな映画かはわかる。こいつは西部劇系のアクションであって、おどろおどろしいホラーでは、ない。シーンのつなぎに無駄がなく、省略を利かせつつも丁寧。やはりカーペンター、只者ではない。

とても面白い映画なのだが、ヴァンパイア退治の方法が単調であることが欠点か。杭も十字架もきかないときたら日の下に引きずり出すしかないんだけど、これの繰り返しにばかりであまり工夫がない。あと、想像のつくことだが、せっかくシェリル・リー(ローラ・パーマー!)をキャストしておきながら、登場まもなく敵の大ボスに噛まれ、あとは熱で浮かされたようにうんうんうなっているだけという無駄遣い。女には興味がないのか。

恐怖を期待してはいけないし、アクションのつるべ打ちも期待してはいけない。特別目新しいものもない、それがこの作品だ。だが、この映画にあるアクションのリズムと呼吸がたまらない。映像的なクライマックスは、映画が始まって間もない部分で挿入される、ロードサイドのモテルの大虐殺か。娼婦たちと戯れているバンパイアハンターたちを襲う大ボス。ここはスピード感と血のりの量、有無を云わせぬ迫力で、気がついてみればこれを超える描写は最後まで出てこなかったんじゃないかね。

10/23/1998

Pleasantville

カラー・オブ・ハート(☆☆☆★)

未来は予測がつかないから素晴らしい。そう、心から思いたくなる作品である。

全てが完璧な理想的家族とコミュニティ。火事はなく、雨は降らず、浮浪者はおらず、セックスも知らない。とうぜんエイズはなく、そしてなにより・・「白黒」だ。そんな50年代のテレビ番組 ("Pleasantville") 世界に入り込んでしまった現代の少年・少女らが「無菌状態」のコミュニティに持ちこんでしまった「何か」。それによって変化を強要される町の人々の混乱をコメディタッチで描くファンタジー映画である。

本作は、『ビッグ』、『デーヴ』の脚本化として知られるゲイリー・ロスの、製作・脚本を兼ねた監督デヴュー作。トビー・マグワイア、リース・ウェザースプーンに加え、ウィリアム・H・メイシー、ジョアン・アレン、JT・ウォルシュ、ジェフ・ダニエルズら演技派が脇を固めるキャスティングだ。

この作品、最近良くある懐古趣味かと思えば、そうではない。むしろ、それとは正反対に、変化を受け入れ、その先に進んでいくという価値観を、メッセージとして発信しようとしている作品である。それと同時に、最初の1歩を踏み出すのに必要な勇気についても語っている。そんなストーリーの中で、感情について、個性について、個人の意思についての力強い物語が展開される。

その前提として、「イノセンスの喪失」が語られる。何も知らず、知らないことで平和に、幸せに暮らしていた人々がそうではいられなくなる。エデンの園にもたらされた知恵の実、それがここでは本物の感情だ。テレビの世界に入ったとたんに白黒映画となってしまうこの映画は、町の人々が感情を手に入れるにしたがって色彩を取り戻していく。この映像表現は単純な思いつきに思われるけれども、何とマジカルだ。

ゲイリー・ロスは失われたイノセンスに対する郷愁を描くが、先に述べたように、これは過去をひたすら賛美し、そこに戻ろうとする映画ではない。『ビッグ』を思い出すといい。大人の姿をした主人公と恋に落ちた女性は「子供の世界は、もう一度体験した」といい、最後には彼女自身の属する世界に戻っていったではないか。今回の映画はそこから一歩進めて、我々が得たものについて、我々が得る未来について語ろうとしているように思えるのである。

変化しないのが当たり前であった世界にもたらされた「変化」に直面した人々。予測のつかない将来に対する動揺、恐怖、拒絶、希望などは、そのまま現実を生きるわれわれの姿と重なる。そして誰もが持っている経験-始めての体験に胸を躍らせたり、不安に怯えたりしたことを思い起こさせもする。

出演者はそれぞれに見せ場があり、ここ一番では誰もが最高の魅力を振り撒いている。中でもジェフ・ダニエルズはキャリアで最高の役どころではなかろうか。不安におののきながらも凛として自らを貫く役のジョアン・アレンの繊細な感情表現にも打たれたが、変化を恐れる頑固な保守派を演じて映画を引き締めたJTウォルシュにも喝采だ。

メッセージを声高に主張するのではなく、コメディとしてさりげなく提示するセンスとバランス感覚。それは、ゲイリー・ロスの過去の脚本作品でも証明済みだ。脚本家出身の監督にありがちな律儀さはあるが、本作のテイストはまさしく、彼の脚本作品で感じられたものと同じ。大いにオススメしたい一本である。

Apt Pupil

ゴールデン・ボーイ(☆☆☆★)

ハロウィーンのボックスオフィスには『チャッキーの花嫁』のように血まみれの派手なホラー映画の方がお似合いだ。地味なキャストで死体が一つ、しかも残酷シーンは巧妙に画面の外に押しやって見せたこの作品は観客を呼びこむ訴求力がない。キングのファンも云うだろう、あのシーンがなかった、このシーンもなかった、何であんな結末なのか、分かっていない、物足りない、と。

そう、これは、『スタンド・バイ・ミー』の原作 (“The Body”) も収録されたスティーヴン・キングの傑作中編集「Different Seasons」からの待望ノ映画化作品である。『ユージュアル・サスペクツ』のブライアン・シンガー監督が97年に撮り上げていたが公開が先延ばしになっていたもので、出演はブラッド・レンフロとイアン・マッケランである。

田舎町に住む好奇心の強い優秀な少年が、近所に住むドイツ訛りの老人が実はナチスの戦犯で、アウシュビッツの虐殺などに関与していたことをつきとめる。この「熱心な生徒」は証拠をネタに老人を脅し、過去の体験談を聞き出していく。ユダヤ人虐殺の様子を語るうち、次第に葬り去った過去が蘇ってくる老人と、悪夢にさいなまされながら、何かが変わっていく少年。そういう話である。

この映画は、観客に想像力を要求する作品である。もし、それが可能なら、実はなかなか恐ろしい映画に仕上がっているのではないか、と思う。血のりや殺害シーンなど、グラフィックな恐怖をすべて切り捨てたところに、戦慄が残った。作り手に自信がなければできない判断ではないか。

ブラッド・レンフロとイアン・マッケランは息詰まる演技を見せて完璧である。次第に内部から決定的な変化を遂げていく少年をきっちり演じられるレンフロは、なかなか見所がある。達者な子役から、青年俳優への難しい転換期にあって、この先も期待したいと思う。一方、初めはしょぼくれた老人として登場するマッケランの、やがて発散させる異様に迫力のある凄みも特筆ものである。

これはそんな2人の、「父親と息子」の物語でもある。少年が老人の家に出入りし昔話をせがむ。2人は次第に親しく、小さな秘密を共有するようになる。やがて老人は病に倒れ、少年は大人になる。そんなクリシェを作為的にひっくり返していてみせるのがこの作品。なにしろ少年が老人から継承したのは悪と云う怪物なのだ。

老人の話に聞きほれるうち、少年は怪物に心を蝕まれていく。老人にとってもそれは記憶の底に埋めた過去でしかなかったが、少年に語り聞かせるうち、それは活きた「怪物」になる。二人はお互いを脅す。しかし脅し脅される関係と同時に存在するゲイ・テイストさえにおわせる親密さ。(もちろん、片方がイアン・マッケラン故に、そして、監督がブライアン・シンガーであるがゆえに、その気配は濃厚に漂うのである。)

やがて怪物は「過去」の存在ではなく、現実の「恐怖」となる。怪物は現在の生活を侵食し、やがて少年は心の中に怪物を飼うようになっていく。

原作を随分刈り込んだが、精神的には比較的忠実な脚色だと感じさせる。そこかしこにはっとさせる冴えたサスペンス演出があり、何でもないシーンで画面に力が満ち溢れている。ホラーという言葉やスリラーという言葉でくくりきれないこのドラマは、もしかしたら金曜の晩にひとりで観るのに相応しい。映画館の暗闇が似合う作品だ。

10/19/1998

Holy Man

ホーリー・マン エディ・マーフィはカリスマ救世主(☆☆★)

仕事を失う危機にあるTVプロデューサーは、新たにパートナーを組まされたメディア・コンサルタントとともに、TVショッピング専門局の建て直しを図ろうとするが、そんな折りにであった正体不明の「聖人」を番組に出演させてみたら、彼の本音トークが大当たり。TVショッピングはいつしか宗教的体験の場に変わっていく。

その「聖人」を演じるのはこの男、エディ・マーフィ。

そうなると、大方が期待するのは、マーフィが主演でペテン師かサギ師の似非宗教家を演じ、ジェフ・ゴールドブラム演じるTVプロデューサーの生活を掻き乱す、そんな爆笑コメディなのではないか。ところがこの映画は反対に、主人公ゴールドブラムのもとに素性の分からないマーフィが現われ、仕事と人生に行き詰まっていた中年男の心を開き、魂を救済して去っていく。これはなんだか、出会いと別れ、再生の物語なのである。

脚本は、『いまを生きる』などで知られるトム・シュルマンである。彼が書いた『おつむてんてんクリニック』という作品があって、リチャード・ドレイファス演じる精神科医がビル・マーレー演ずる患者に掻き回され精神的に壊れてしまうという話であった。本作は、どうも、それと表裏一体の構造にある。主人公が壊されるかわり、生を取り戻すのである。

一方、視聴者のいらないものまで売りつける行き過ぎた商業主義の現実を、エディを通じて批判して見せる。それに終わらず、そうしたホンネが逆に大人気を博し、なんと商品の売上が爆発的に伸びたりする顛末は、完全に風刺コメディである。ここのギャグにもう少しキレがあったら、毒があったらなぁ、と思わずにはいられない。

マーフィ演じる「聖人」は、最後まで正体不明であるが、裏が有りそうで、なさそうで、しかしやっぱり裏がない。ビョーキだがピュアな心の持ち主だったマーレイと同じように、このキャラクターも純粋な存在である。力みの抜けたエディ・マーフィは、これこそが新境地といえるような、新しさを感じさせられる。

コメディとしての出来上がりは中途半端に感じるが、ピリッとした批評精神と妙に爽やかな後味、後半に向けた物語の加速感は、捨てがたい。魅力的な失敗作というか、意外な拾い物、としておこう。スティーブン・ヘレック監督作って、その程度の作品が多いんだよな。

10/16/1998

Practical Magic

プラクティカル・マジック(☆)

面白い作品に出会うためには、ともかく沢山の映画をみるしかない。沢山の映画を見るということは、山ほどのクズ映画を見るということに等しい。そして、これはそんなクズ映画の中でも、何をクズと呼べば良いのか確認するためには格好のテキストになるような作品じゃないかと思う次第である。

魔女の血筋にあたる姉妹を主人公に、成り行きで殺してしまった妹の暴力的な恋人をめぐってひと騒動という話である。主演はニコール・キッドマンとサンドラ・ブロック。ダイアン・ウィーストやアイダン・クイン、ストッカード・チャニングらが共演。原作つきの映画化作品で、監督は、俳優としても知られるグリフィン・ダン。ああ、「狼男アメリカン」ノ人ですね。

御伽噺風に始まって、コメディに向かう様相を呈するが、突然MTV調になったり、重いドラマになったりして、気がつくと中途半端なまま恋愛御伽噺として幕を閉じる。この作品の大きな問題と思われる第1のポイントは、これは一体何の映画なのか、軸足が定まっていないことではないだろうか。いや、簡単にジャンル分けされるのを拒む映画にも面白い作品はたくさんあるが、定番を外そうとした努力が裏目に出ているのが本作ではないだろうか。

望みもしないのに不思議な力を手にしてしまった姉妹が世の中に順応しようとするドラマならそういう話にすべきだし、軽い気持ちでその場しのぎの魔法を使ったらとんでもない騒動になるドタバタ・コメディならそういう話にすべきだ。いい男に飢えた姉妹が恋愛がらみで魔法を使って思いがけないしっぺがえしを食いつつも真実の愛を見つけるロマンティック・コメディならそれでいいし、別の魔法使いが現れてサイキック・ウォーズになるならそれも見たいと思う。

でもこの作品は、残念ながらそのどれにも当てはまらないのである。

第二の問題は物語の構成がなっていないこと。時間にして最初の10分を除く全てが拙い。本筋は行き掛かりで殺してしまったニコール・キッドマンの暴力的な恋人を、さすがにまずいと生きかえらせようとしたりしてうろたえるところから始まる。捜査官が現れサンドラが恋に落ちる。ここに到達するまでに映画がどれだけの時間を無駄な描写に費やしたことか。ろくでなし男によるドメスティック・ヴァイオレンスに苦しんでいるはずのニコール・キッドマンがプールサイドで楽しそうに男たちと戯れているサービスカットを撮る前に、描くべきことがあるだろう。

映画はサンドラの2人娘や母親、叔母さんまで登場させて賑やかこの上ないが、基本的には本筋と関係のない必要のないキャラクターたち。恋の本命アイダン・クインも、重要な役割を担うはずなのに、無駄なシーン、無駄な登場人物、無駄な描写のために割を食ってしまい、単なる脇役程度にしか見えない。映画の中で悪役を引き受けるはずのニコールの恋人も、死ぬまでの間にキャラクターを見せる機会が一度もない人形のような扱い。

こんな出鱈目も逆に珍しい。原作に遠慮して脚色に失敗したのか。それを検証するために原作を探しに行くエネルギーも湧いてこないので、ただただつまらない映画の代表としてのみ、記憶に留めることにする。

10/02/1998

What Dreams May Come

奇蹟の輝き(☆☆☆)

不覚にも何度か目頭を熱くさせられた。生と死の狭間を描く異色作である。『丹波哲郎の大霊界』シリーズの笑えないヴァージョンではあるのだが、死んだら驚いた、ってのはこちらも同じだ。

原作はもはや説明のいらないSF作家、リチャード・マシスンで、これをロナルド・バスが脚色、『エイリアン3』の脚本難航中に宗教色を持ちこんだことで有名な男、フレッド・ウォードの監督作品である。ダンテの「神曲」をやろうというのが趣旨らしい。大それたことを考えるものだ。

幼い娘と息子を失い、今度は自らが事故死する主人公。気がつくと、そこは死後の世界で、イマジネーションが現実化したような奇妙さと美しさを湛えていた。一方、現実社会に一人残された妻は、絶望の余り自殺をとげてしまう。主人公は、家族愛のために天国と地獄を駆け巡る。

主演には『グッド・ウィル・ハンティング』でアカデミー助演男優賞を受賞したばかりのロビン・ウィリアムス。共演はキューバ・グッディングJR、アナベラ・シオラ、そしてマックス・フォン・シドー。

この映画、最初に異色だと述べたとおり、男女の幸せな出会いと結婚を見せた後、子供二人を交通事故で殺してしまうという驚きに続き、4年後に飛ぶと、不幸を耐え忍び乗り越えつつある夫婦の姿を見せながら、ある記念日のために妻の元へと車を走らせる夫(主人公)が事故に巻き込まれて死んでしまうという、まあ、尋常ではない幕の開け方をするのである。

しかも、事故に巻き込まれた主人公が死ぬシーンは壮絶だ。事故に巻き込まれ、人助けをしようと車を飛び出したところ、スリップしてきた別の車が頭上から降ってきて下敷きになるのである。ここは映像表現としてもちょっとショッキングで、インパクトがある。

しかし、こんな始まり方をするのにかかわらず、この作品は何故だか「ハッピー・エンド」で幕を閉じるのである。なんじゃそりゃ?と思うだろう。いや正直、この奇天烈な脚本に金を出す映画会社は偉いと思うよ。

死後の世界を油絵の中に入り込んだような表現で見せる映像、そしてそれを実現しているVFXが見ものである。黒澤明の『夢』にあったゴッホどころではない。テリー・ギリアムが『バロン』でやったような、動いている絵画のようなイメージの氾濫。嵐の海から亡者の無数の手が伸びてくるような東洋的なイメージも取り込み、映画の背景という背景を埋め尽くしている。これは、他では観たことのない独創的なものだ。

キャスティング的には、本当に多作なロビン・ウィリアムズには新鮮味を感じなかったのだが、十八番というか、安心してみていられるところはある。キューバ・グッディングJr は、ちょっと面白い使い方をされていて、これがストーリー上の「ひねり」になっているのがね、ああ、そんなやり方があったかと、驚きを感じさせられた。

それにしてもなんと言う映画だろう。家族が霊界で再会する話。それだけのことだ。それほど出来がよいわけでもないのに、不思議な感動があり、忘れがたいイメージがある。ともかく、これはものすごく感動的な「怪作」である

10/01/1998

Small Soldgers

スモール・ソルジャーズ(☆☆☆★)

この夏、全米のウォルマート店頭でタイアップ商品であるスモール・ソルジャー人形が山と売れ残った。本来、子供向けに玩具を売るために作った大予算のイベント映画なのに、やたらマニアックでバイオレンスになってPG13のレイティングをくらい、本来ターゲットとすべき観客が見られなくなっちゃったという、冗談のような自体を引き起こした、その監督の名は、ジョー・ダンテ。

しかも、スモール・ソルジャーたちは正義の味方じゃなくて、悪役なんだぜ。やってくれるじゃん、ジョー・ダンテ。ポスターで大々的にフィーチャーし、おもちゃ会社とタイアップを結んでおきながら、この顛末。

どんな映画になっているのか気になっていたが、どこもさっさと上映を終了してしまったので、観ることが出来なかった。近所の入場料が$2の2番館(?)にかかるという情報を掴み、喜び勇んで見に行ったのが大正解。

この映画、こんな話だ。

とある軍需企業が玩具会社を買収。そこで開発中だった「コマンド部隊」人形と「奇形の怪物」人形の両シリーズは、最新のシリコンチップを埋め込んだ、動き回り知能を持ったおもちゃとして完成され、出荷される。田舎町の玩具店に入荷したこれらの人形は、さっそく騒ぎの種になる。愛すべき怪物人形たちと友情を育んだ主人公は、彼らを殲滅すべくプログラムされたコマンド部隊と対決を迫られる。

迫り来るコマンド人形たち。その声を演じるのはアーネスト・ボーグナインとか、ジョージ・ケネディとか、ジム・ブラウンとか、どこの「特攻大作戦」だよというメンツ。それらの腕がもげ、首が飛び、足が台所のディスポーザーで砕けちり、しまいには芝刈り機でみじん切りという、『プライベート・ライアン』も真っ青のバイオレンス。しかも。死んでも死なないこの人形が名台詞、「戦いに敗れても戦争には負けない」!

おもちゃを破壊して遊ぶ極悪ジョー・ダンテの笑顔が目に浮かぶようだ。なんと清々しい。

要は、ダンテの代表作である『グレムリン』のセルフ・リメイクのようなものである。小さな田舎町、ぱっとしない少年、ちょっと素敵な少女(キルスティン・ダンスト!)、故郷に帰りたがる異形の友人(E.T.?)、そして、しつこく小賢しく意外に強力で危険な悪役の集団。観客層を考えてか少年と少女の年齢が下がっているくらいが目立った違いじゃないか。

筋立てでみれば、特に目新しさはない。田舎町での人形大戦争なので、スケール感も欠如している。子供だましと思うかもしれない。だが、ジョー・ダンテの悪ノリ悪ふざけ具合は相当なもので、実は「大きなお友達」こそ楽しめる、まことに怪作という言葉がふさわしい興行的大失敗作である。強力にオススメしたい。

9/22/1998

RONIN

RONIN(☆☆☆☆)

面白いぞ。古豪ジョン・フランケンハイマー監督、健在である。『D.N.A.ドクター・モローの島』』なんぞを撮ったときはどうかしちゃったかと思ったが。欧州の石畳の狭い路地を駆け抜ける迫力満点のカーチェイス。切れの良い銃撃戦。的確な編集が刻むアクションのリズム。アドレナリン全開の大活劇。脚本にはリチャード・ウェイズの変名で、あの(ベテラン劇作家)デイヴィッド・マメットも参加しているんだから、これは見るしかない。

ある任務を遂行するため、冷戦集結を受けて職を失った元CIA、元KGBなど、仕える組織を失ったプロたち(=RONIN) が金で雇われてくる。計画は順調に進むかに見えたが、裏切りが発生し、パリ、ニースを舞台に謎のブリーフケースの壮絶な争奪戦が始まる。

アクション・スリラーというジャンルにしては、出演者が重量級である。ロバート・デニーロ。ジャン・レノ。ステラン・スカルスゲールド。ショーン・ビーン。ジョナサン・プライス。そして、紅一点ナターシャ・マクエルホーン。アクションは若者に任せておけ、とはならないで、いい年した渋いオヤジたちが欧州で激突する。

もう、これだけのキャストが揃っているからこそだといえるのが、余計な説明がいらない、そこにいるだけで絵になるという存在感である。貫禄というか、余裕というのか、プロフェッショナルとしての重さを、俳優たち自身のそれが全て説明してしまっているという素晴らしさ。なかでは、ハリウッド映画では妙ちきりんな役ばかり振られていたジャン・レノが、欧州、フランスとくればホームグラウンドとばかりに魅力を全開。天下のデニーロが負けじと応じる。ああ、こういう大人なキャスティングで見せてくれるアクション映画なんて、久しくなかったよね。

プロットはシンプルだが物語の進行と共に次第に複雑さを増し、アクションが激しくなっていく。しかし、奪い合うブリーフケースの中身は「マクガフィンなんだから、中身なんて関係ないだろ?」といわんばかりに、最期まで一切明かさないという潔さ。この大胆さがカッコいいじゃないか。まあ、人によってはそういうところが気になったりするんだろうが、それを説明しだすのは野暮というものだ。

RONIN・浪人、使えるべき主人を失ったサムライ。それをタイトルに持ってきて、単にカネで動くだけではない、プロフェッショナルとしての美学を出そうという作り手の意図が見えるのだが、プロフェッショナルというのは、老いてなお、こんなパワフルなアクション映画を撮れてしまう監督であり、それを支えるスタッフたちだ。この映画で見せてくれたカーアクションは、おそらく後々まで語り草になるレベルだと思う。第二班監督に任せることなく、フランケンハイマー自ら陣頭指揮をとったのだという。恐るべし。

9/21/1998

Your Friend and Neighbors

僕らのセックス、隣の愛人(☆★)

しかし、この作品を覆い尽くした陰鬱な空気はいったいなんだというのだろう。ハッピーなカップルにはこの映画を勧めることが出来ないし、崩壊しかけのカップルには余計勧められない困った作品である。まあ、ひとりで劇場に出かけ、他人事として楽しむか、自分のこととして考え込むことになるのか。批評家受けが良いと聞いたが、どうもノれない。

お互いが友人同士である3人の男とその妻たちを中心に、不倫や浮気をきっかけとしてカップル、人間関係、信頼関係が崩壊していく物語である。

世の中をペシミスティックに見ているというのでもない。ただただ後向きで救いがない。現代社会に活きる我々は、男女関係についてここまでの困難を抱えているといいたいのだろうか。それとも、ニューヨーカーに対する自虐も入った当てつけだったりするんだろうか。ニール・ラビュート脚本・監督による2作目だというが、前作は見ていない。監督と親しいらしい、ジェイソン・パトリックが共同プロデューサーに名を連ね出演することで本作の製作をサポートしているようだ。ナスターシャ・キンスキーやベン・スティラー、アーロン・エッカート、キャスリン・キーナーらが出演している。

本作の狙いは、セックスがきっかけでもつれていく男女関係をブラックコメディのタッチでつづることにあるようである。コメディの体裁をとってはいるけど、「笑えないコメディ」の類である。セックス絡みの会話や露骨なシーンも、笑いを運ぶというよりは気が滅入り、かといって当然エロティックに楽しめるわけでもない。物語にしても、ハリウッド流のハッピーエンディングで幕を閉じるわけではない。

まあ、それもいいさ。ハリウッド流ばかりが米映画ではない。インディペンデントからはこういう作家性の強い作品が出てくるところも米映画の裾野の広さである。しかし、それで面白いなら良いが、本作についていえば退屈なだけである。

役者は一応才人ぞろいである。TVスポットを見て、そのキャストに興味を惹かれて劇場に足を運んだくらいである。友人関係なのか、この種の作品にしては豪華といってもいい。

『スピード2』と『スリーパーズ』という2本のビッグバジェット映画でとことん「スター」としての可能性をフイにしたジェイソン・パトリックが、こういう作品のなかで癖の強い役を演じて人が変わったようにイキイキしている。「生涯最高のセックス」として実に吐き気をもよおす告白をするシーンが見ものだろうか。あとは、最近、『メリーに首ったけ』の大ヒットでその存在を広く認識させたベン・スティラー、なんと久しぶりのナスターシャ・キンスキーあたりが目玉となるキャスト。それより地味なところで、アーロン・エッカート、キャスリーン・キーナーが好演していて、登場人物の心理状態というのはよく伝わってくる。まあ、それだけに、コメディよりもシリアスなムードが先行してしまうのかもしれないが。

デビューまもない新進作家の気負いはわかるが、どちらかというと迷惑な感じの1本、としておくことにする。

9/11/1998

Rush Hour

ラッシュアワー(☆☆☆)

ジャッキー・チェン主演最新作。それも、ただの主演作ではない。『レッド・ブロンクス』、『ファイナル・プロジェクト』のスマッシュヒットを受けて、過去に何度も挑み続けたハリウッド進出を実現させた挨拶がわりの1作だ。さて、どんな仕上がりになっているかとともかく劇場に駆けつけた。

在米中国大使の娘が誘拐された。早速FBIが解決に向け動き出すが、大使が個人的に絶大な信頼を置く香港の警官を、助っ人として招くことを主張。面倒に思ったFBIは、地元警察(LAPD)に来客の世話係を依頼するのだが、チームプレイに徹しない口先ばかり達者な刑事が厄介払いにちょうどいいとばかりにその任にあてがわれる。裏事情を知らぬ珍コンビが事件解決に向け奮闘する、という話。そのLAPDの刑事役が、ここのところアクション・コメディで存在感を出しつつあるクリス・タッカー。

まあ、なぜだか知らないが、米国のビデオ屋では、カンフー映画の棚で熱心にタイトルを物色している黒人のニイちゃん、という光景は、なんとなくよくある風景の一つという気がするのである。

『48時間』などに代表されるハリウッドお得意の「珍コンビ」モノを応用し、英語があまり得意でないジャッキー・チェンに、喋りのクリス・タッカーを組ませるという発想。アクション一辺倒ではなく、ウケの良い「アクション・コメディ」というパッケージング。そのことで、主たるターゲットになりそうな有色人種系の観客層をがっちり取り込もうというマーケティング的な目配り。さすがハリウッド娯楽映画工場といったところだろう。

クリス・タッカー出演作品で世に出てきたブラット・ラトナーという監督の人選が物語るように、コメディ色の強い作風になっている。だいたい、ハリウッドでの映画作りでは主演俳優に無理をさせると保険会社が怒るので、ジャッキーが思うようにアクションをできないという話もきく。それに、ジャッキー自身も全盛期を過ぎているのは事実だ。

だが、ジャッキー・チェンといえば、体を張ったドタバタができる現代最高のコメディアンだと言っても過言ではない。小道具を器用に活かしたコミカルなアクションの組み立ては他の追随を許さないものがあって、例えばプールバーでは椅子やスティックを使った素晴らしいアクションを披露して笑わせてもくれるし、クライマックスは国宝級(という設定の)の壷のまわりで、壷が落ちて割れるのを防ぎつつ、数人の敵を相手にする見事な立ちまわりで、観客をハラハラさせながら気がつくと笑いを取っている。

クリス・タッカーが笑いを、ジャッキーがアクションを担当しているように見えて、実のところジャッキーが両方オイシイところをさらっているのは気のせいではない。そんな意味で、いろいろな制約があるハリウッドにおける映画作りでも、こんなかたちでジャッキーの魅力を出していくことができるんだという、お手本としては、本作の価値は低くない。

ジャッキー映画といえば、エンドクレジットのお馴染みNGフィルムの大公開。期待してまっていたら、ハリウッド映画といえこれをきちんとやってくれたのが嬉しい。わかっているじゃないか。ただしあまり痛々しいフッテージがなかったということと、ジャッキーだけでなくクリス・タッカーのNGも均等に公開されていて、ジャッキーのワンマン映画ではないことをつくづく思い知らされもするのであった。

ああ、あと、クリス・タッカー出演作品を撮って本作につなげてきたブレット・ラトナーという男、案外、分かってるんじゃないのと思わせるのは、音楽に『燃えよドラゴン』も有名な、ラロ・シフリンを起用してきたことである。それを含め、音の面では香港時代のジャッキー映画と比べ、かなりゴージャスな仕上がりになっているのがちょっと嬉しいポイントだったりする。

Rounders

ラウンダーズ(☆☆☆★)、

ポーカーの才能に恵まれ、NYのアンダーグラウンドでそれを生業としていた主人公が、ある日大博打で全財産を失い、一度はギャンブルの世界から足を洗う。ガールフレンドの勧めもあり以前から始めていた法律の勉強に打ち込もうとするが、刑務所上がりの悪友や、ポーカーの魅力そのものに抵抗しがたく、やがて危険な世界に再び足を踏み入れていく。これは、そんな裏街道の青春映画である。

『アンフォゲッタブル』で知られる、ジョン・ダール監督の最新作。主演は作品にも恵まれて人気・実力ともにトップクラス入りを果たしつつあるマット・デイモン。共演にこれまた若手実力派で曲者のエドワード・ノートンを配し、ベテラン俳優であるジョン・マルコヴィッチ、マーティン・ランドー、ジョン・タトゥーロが脇を固めるというなかなか魅力的なキャスティングの映画である。

マット・デイモンはギャンブルという「裏」の世界を舞台にしても、チンピラ風の安っぽさがなく、穢れたところを感じさせない個性がある。しかし、見方によってはふてぶてしくもある顔の作りが、意外や、「エリート街道を驀進する優等生」より、「汗をかき、喧嘩もする労働者階級系」のキャラクターに合うところが面白い。

そんな彼と、共演のエドワード・ノートンという組み合わせがなかなか刺激的なのである。ノートンが演じるのは主人公の悪友役で、「憎めないダメ男」として、主人公が泥沼にハマる要因をつくっていく。これはなかなかの難役で、作品ごとに全く違った顔を見せる演技派ノートンが愛嬌たっぷりに演ずるからたまらない。これがただのダメ男であれば、主人公の行動に説得力が生まれないわけで、今回はノートンの大芝居あっての作品、ということもできる。

能天気な明るさはないがユーモラスなシーンにあふれ、陰気な湿っぽさもないが厳しい現実も垣間見せる絶妙のバランス感覚にあふれた脚本。大物俳優たちの余裕たっぷりの怪演を上手にさばきながら、ほろ苦さのある渋い青春映画としての筋を通した演出、そこに貫かれた独特の美意識とスタイル。カラックス作品の撮影で知られるジャン=イヴ・エスコフィエの創りだす映像が雰囲気たっぷりで、見応え充分。この映画、なかなかのものだ。拾い物としてオススメしたい1本である。

もう一つオススメといえば、主人公の恋人を演じたグレチェン・モルがなかなかいい感じである、ということ。物語的には、彼女の魅力を持ってしても主人公を表世界に繋ぎ止めておくことができない、というところが、哀しいところでもあり、主人公の意志の強さを感じさせる部分でもある。そういう意味で、出演時間的には小さい役ながら、主人公の運命の分かれ目を象徴する美味しい役どころでもあった。この人の醸し出す雰囲気が好きなので、今後の活躍に期待しておくことにしたい。

9/04/1998

Knock Off

ノック・オフ(☆)

舞台は中国返還を控えた1997、香港。ファッションデザイナーで実業家の主人公が、CIAとロシアン・マフィアとの対決に巻き込まれてしまう。主演、ジャン・クロード・ヴァンダム。監督は同じくヴァンダム主演の『ダブル・チーム(1997)』に引き続き、本作がハリウッド進出第2作となるツイ・ハーク。

さて。ヴァンダムといえば香港映画界からハリウッド進出への足がかりをつくろうとする監督たちの踏み台として使われてきたのはご存知のとおり。マーシャルアーツ的な体技ができるアクション俳優であること、金をかけずに量産されている手軽な軽量娯楽映画の主演俳優であることなどが、それに向いているということなのだろう。

記憶をたどれば、まず、サム・ライミが製作し、ジョン・ウーが監督した『ハード・ターゲット』があり、リンゴ・ラムが監督した『マキシマム・リスク』があった。これらの作品は、監督のベストとは言い難いが、「ヴァンダム映画」としては割と面白く見られる作品になっていたんじゃないか。

そこで、ツイ・ハークの前作『ダブル・チーム』があった。NBAのビッグスター、デニス・ロッドマンが出演し、悪役にミッキー・ロークというやつだ。これが面白くなくてな。デニス・ロッドマンへの遠慮だったんだろうか。

そういう意味では、雪辱戦、といっても良いのが本作である。脚本には『ダイ・ハード』にも参加していたスティーブン・E・デスーザも名を連ね、これで面白くなるんじゃないかと期待して映画館に向かうわけだが、いやはや。これは辛い。これ、香港方式で脚本なんかないままなんとなく作っちゃったんじゃなんじゃないのか?舞台も香港だし。

小型爆弾をアメリカに輸出しようとしているロシアのテロリスト、阻止しようとしているCIA、香港の警察、謎の女、香港名物のぱちもの(=Knock Off) 輸出業者などと、いろいろな要素が突っ込まれているが、なんだか交通整理が出来ていない。仕掛け作りに凝ったのはよいが、明確な敵がなかなかわからないので、単純なアクション映画という意味では盛り上がらない。

そもそもヴァンダムが実業家っていうのが何かの間違いだったんじゃないか。また、コメディリリーフとしてロブ・シュナイダーが出演しているのだが、この2人、全く息が合っていないし、演出もコメディに振りたいのか、どっちにもっていきたいのか良く分からないのでスッキリしない。

アクション・シークエンスは良く組みたてられている。歯切れの良い編集も心地よい。が、ヴァンダムに老化現象が見られるような気がしてならない。体の動きやアクションの切れは、撮影や編集にも助けられて、大きく見劣りするほどでもないのだけれど、顔は明らかにふけてきているんじゃないか。90年代初期に比べると美しさに陰りがみられ、スターとしての輝きが失われつつある。噂されるドラッグの影響なのかと勘ぐりたくもなる。

ハリウッド進出作が2本連続で煮ても焼いても食えない出来栄えとなってしまったツイ・ハーク。ツイ・ハークはこのままヴァンダムともにキャリアを終えるつもりでなければ、何か新しい打開策を考える必要があるのではないか。全盛期には、そのスタイルがもっともアメリカ進出に向いているように思われた彼が、なぜにこんな苦戦を強いられているのかが結構不思議である。

8/17/1998

The Avengers

アベンジャーズ(☆)

日本では『おしゃれ(秘)探偵』として紹介されていた1961年から8年間も放送された英国製TVシリーズのリメイク。(マーベルのアメコミヒーローものではない。)60年代テイストがたっぷりの(おそらく近未来の)ロンドンを舞台に、英国の秘密諜報員コンビが気象コントロール装置を悪用して世界(・・・といってもとりあえずロンドン)を混乱に陥れる狂人に立ち向かう。主演はレイフ・ファインズ、ウマ・サーマン。悪役にショーン・コネリー。『ナショナル・ランプーンズ・クリスマスバケーション』などを手がけたジェレマイア・チェチック監督作品である。

最初は監督が凡庸なだけかと思って観ていた。いくら凡作・駄作といったって、普通は限度があるものだ。こんなに魅力的なキャストを揃えておいて、それなりに金もかかっているんだろうし、ダメ映画ならダメ映画なりに、平凡な盛り上がりを見せ、普通に終わるんだろうと、タカをくくっていたのが間違いだった。気がついてみれば最後まで盛り上がらない1時間半。なんなんだ、これは。唯一の救いはこの壊滅的な退屈さが2時間以上持続しないということだけだ。

素材はいくらでも面白くなりそうなのである。

スリーピースをきちんと着こなし、ぴかぴかの靴と帽子に、ステッキ代わりの傘まで持ち歩き、汗ひとつかかないようないでたちでアクションをこなすエージェントなんて、絵的に見ただけでも面白そうではないか。それを完璧な美男子レイフ・ファインズが演じているのだ。

ヒロインだって、あんなに観るに耐えなかった『バットマン&ロビン』のなかでも一人だけ輝いていたウマ・サーマンだ。主人公とコンビを組むだけでなく、ボンデージに身を包んだ悪役と2役を演じているんだ。

さらに、あのショーン・コネリーだ。スコティッシュな衣装に身を包み、悪役として大芝居を打つ。

見たくなるでしょ?期待したくもなるでしょ? 

で、土台になるTVシリーズがあるんだから、ゼロから作るわけじゃない。

それなのに、なぜ、フィルムが1巻抜けているのかと思うくらい出鱈目な映画になってしまうのか。むちゃくちゃな話運び、意味もなく登場して退場する登場人物たち、伏線になりそうなのになんにもならないネタ。テレビ東京名物の「お昼のロードショー」枠向けに1時間20分に切り刻まれた3時間の映画ですら、もっとまともなんじゃないか。

さもありなん、テスト試写の不評を受けて、115分から89分にカットされたんだそうだ。「フィルム1巻抜けてんじゃねーの疑惑」もまんざらではない。どおりで単にダメな映画というレベルを超えて、めちゃくちゃな映画になってしまっているはずだ。

これがどんなにヒドいシロモノか、確認するため以外にはオススメできない。くれぐれも、覚悟なしに見ないようにすべきである。しかしまあ、こんな映画を撮ってしまうと、2度と映画を撮らせてもらえなくなっちゃうんじゃないのかね。(1998/8)

8/10/1998

Snake Eyes

スネーク・アイズ(☆☆)

ニュージャージー州のアトランティック・シティは古くからの観光都市だが、ギャンブルが合法化されており、立ち並ぶカジノで知られている。ここで行われていたボクシングの大きな試合中、一万四千人の観客の中で国防長官が暗殺される事件が発生する。折からの悪天候の中、閉ざされたアリーナの中で地元の警官と警備責任者による犯人探しが始まる。主演はニコラス・ケイジとゲイリー・シニーズ。デイヴィッド・コープ脚本、ブライアン・デパルマ監督。

前作『ミッション・インポッシブル』では、魂が入っているとまではいえなくとも、要所要所で息を飲むサスペンスと観客を翻弄する映像マジックを披露してくれた鬼才ブライアン・デパルマの新作である。

仕掛け的には大変面白い作品である。物語の舞台をアリーナと、そこにつながったカジノホテルの中に限定。およそ2時間の上映時間と、作品の中での時間の流れを概ね一致させているのである。リアルタイムで進行する映画というのは、あのヒッチコックも『ロープ』で試みていたように、過去に例がないわけではないのだが、やはり手法としては実験的といえる部類だろう。

映像も面白い。冒頭、いきなりどうやって撮影したのかとびっくりするような15分に及ぼうかいう臨場感たっぷりの長回し幕を開ける。本当に長回しなのかどうかは疑わしいのだが、とにかくこれが映像マジックという先制パンチだ。また、事件の瞬間を、様々な証言者の立場から幾度も違ったアングル、違った証言内容で映像化して見せ、観客を翻弄する。スプリット画面やら、監視カメラのマルチ映像やら、これでもかという持ちネタ総動員でお腹がいっぱいになる事請け合いである。

それにしても、内容は空疎だ。デ・パルマがどれほど魔術をかけようとも、ニコラス・ケイジがどれほどオーバーアクトで頑張ろうとも、どうにも盛り上がらないのは脚本のせいだろう。あまりにも早く正体を現す犯人。聞き飽きた動機。面白そうな設定、仕掛け、キャラクター、どれひとつ物語の中で活きてこない。全ては壮大な空騒ぎである。

デイヴィッド・コープは確かに売れっ子脚本家である。代表作は『ジュラシック・パーク』。デ・パルマとは、前作『ミッション・インポッシブル』で組んでいる。が、船頭多くしてとっちらかってしまった大作の脚本をそつなくかたちにするのが得意なだけの脚本家ではないか、と疑いの眼でかかったほうが良い名前だと思っている。要注意。

坂本龍一が音楽を担当しているが、なぜ坂本だったのか、いまだに良くわからない。ピノ・ドナジオ風に書いてみましたといった感じは特に面白くもなかった。(1998/8)

7/29/1998

The Negotiator

交渉人(☆☆☆★)

シカゴの人質事件でずば抜けた実績を持つ人質交渉人が、警察の内部調査部門の関わる疑惑に巻き込まれ、パートナーの殺害容疑で投獄されそうになる。一切の味方を失い、周囲の冷たい視線にさらされた彼は、無罪を証明する機会を得るため、人質をとって立てこもるという大きな賭けに出る。身近な人間を信用できないため、自らの交渉相手として指名したのがそれまでほとんど面識のなかった別の凄腕交渉人だった。

その火花散らす2人の交渉人、サミュエル・L・ジャクソンとケヴィン・スペイシー。犯罪映画の佳作『SET IT OFF』で注目された俊英F・ゲイリー・グレイの新作である。

この渋めのキャスティングで、一番競争の激しいサマーシーズンにぶつけてくるあたりが、作り手の自信だろうか。そして、見る側の期待を裏切らない秀作に仕上がっているのが嬉しいところだ。プロフェッショナルの英知を絞った激突を、演技力のある俳優で見せるというアイディアがいいし、いやでも緊張感高まるシチュエーション作りが巧みである。

これは見方を変えると一種の密室サスペンス・アクションなのだが、一見定番に見える(1)人質を取った男が密室に立て篭もり、(2)警察・FBIが周りを取り囲んだ状況で交渉人が降伏と人質解放を呼びかける、というシチュエーションに一ひねりを加えたのが味噌だろう。互いに腕に覚えある交渉人が、相手の胸の内を探りあい、事態を打開するための緒を探り合う。一体、この話がどこに転がっていくのか、観客の予断を許さない展開。これは、きっと刺激を受けた類似作品が出てくるだろうな、と予感させる。

サミュエル・L・ジャクソンとケヴィン・スペイシーという組み合わせも面白い。演技派の二人とはいえ、ジャクソンはどちらかというと「熱演」型。一方の曲者スペイシーは、ここではヒートアップするジャクソンを冷静に受け止めていく。ジャクソンを被害者に、スペイシーを助っ人に充てたのが効いていて、これが反対だと全く違う印象の映画になってしまうだろう。脇を固めた曲者俳優の故JTウォルシュやデビッド・モースらも素晴らしい役者である。彼らが醸し出す白とも黒ともつかない曖昧なニュアンスが、物語の展開を容易には読ませない。

緊張感だけで最後まで引っ張ろうとしたところが作品から余裕を奪ってはいるが、あまり欲張って長尺になるくらいなら、これくらいタイトに引き締まったままのほうが作品相応であろう。ともかくも思わぬ拾い物、こういうのがあるから映画館通いが楽しいのである。(1998/7)

7/24/1998

Jane Austen’s Mafia!

マフィア!(☆☆★)

『ホットショット』のジム・エイブラハムズが久久に手掛けるパロディ映画で、ロイド・ブリッジスの遺作となった作品。『ゴッドファーザー3部作』をモチーフに、主要参照作品に『カジノ』。あらゆるマフィア物を参照しながらナンセンス・ギャグを繰り出すいつものスタイルだ。

これがどうにも観客が入っていないようだ。こうしたパロディものが少々飽きられたのではないか、という懸念もある。しかもトピックが「マフィアもの」というのが、あまり一般の興味を引かない理由かもしれない。定番といえば定番だが、最近の流行りものというものでもないのが新鮮味に欠けるだろう。もうひとつ決定的なのは、この映画、実にムズカシいのだ。

まずタイトルがふざけている、が、外してもいる。もちろん、”Jane Austin’s”は、あのジェーン・オースティンのことで、彼女が原作の文芸ものが次々作られていることへの当てつけ、『ゴッドファーザー』のタイトルに”Mario Puzo’s” と原作者名がはいっていたことなどが理由だろう。

構成も複雑である。開巻、主人公アンソニー・コルティーノが車に仕掛けられた爆薬で吹き飛ばされてのオープニング・クレジット。そこから映画の時制は複雑に行きつ戻りつする。ドン・ヴィンツェンツォ・コルティーノのシチリアにおける少年時代とアメリカへの移民、2代目のアンソニー・コルティーノの少年時代、そして現在、オープニングに至るまでの経緯、その後の出来事、と少なくとも4つの時制がフラッシュバックでつながれて行く。もちろん、スコセッシの『カジノ』、『ゴッドファーザー』サーガが土台になっているわけだから、この複雑な構成は意図的なものであり、それ自体がパロディというわけだ。しかし、気楽に笑いに来た観客の頭を混乱させるのは間違いない。

さらに、ストーリーも複雑。ただのパロディの連発よりも、それなりのストーリーラインがあったほうが面白いというのは、ZAZの過去作の進化を見ていればわかることだが、キレた薬中の兄、対立する組織のボス、世界平和を実現させようとする前妻や、シャロン・ストーン風のアバズレを巡って入り乱れる物語は、度々のパロディで流れが堰き止められることもあって、ややこしく感じられる。

クライマックスはアンソニーと、前妻の盛大な結婚式の影で、幾重にも繰り広げられる暗殺の嵐が巧みなモンタージュで編集されている。もちろん、バチカンでの暗殺とオペラがかぶる、例の”PART-III” のスリリングかつ複雑なシーンの再現だ。ものすごく意欲的なのだが、力の入り具合が見えるだけに少々息苦しくなってくる。

要するに、本作におけるパロディの対象が単純な映画のシーンというだけでなく、作品の構成やスタイルにまで及んでいるのである。これには正直、唸らされると同時に、この映画に求められているものとは違うのではないか、と思わずにはいられない。観客はこの映画についてきていないと思うぞ。

かとおもうと、どうしようもないベタベタな駄洒落や、幼稚な下ネタも満載。観客は主にそういうところで反応しているのだけれど、どうにも標準的な観客の知性を通り越して高度な技を使いすぎてしまったのが興行的な敗因であり、作品的な失敗と見る。だってさ、観客が一瞬考える、その瞬間に笑うタイミングを逸してしまうんだよね。

・・・しかし書きながら、もう一度見たくなってきたな、これ。(1998/7)

7/20/1998

Parent Trap

ファミリー・ゲーム 双子の天使(☆☆☆☆)。

サマーキャンプで偶然であった双子の姉妹が自分たちの出生の秘密に気づくや、両親をなんとか結び付けようと作戦を練る。ドイツのケストナー原作『2人のロッテ』を現代風に焼き直した、というより米国ではディズニーが過去に作った同名 (Parent Trap) 映画のリメイク、というほうが通じるようだ。主演は離婚した両親役でデニス・クエイド、ナターシャ・リチャードソン、双子をひとりで演じるのがリンジー・ローハン。製作・監督は、チャールズ・シャイア&ナンシー・メイヤーズ夫妻。

実際、何も目新しいことがない作品ではあるが、実に手際良く、テンポよくまとめられており、とても楽しい作品である。こんなに楽しいとはある意味予想外だったので、思わぬ拾い物だ。家族で観るのに最高の作品じゃないだろうか。子役のリンジー・ローハンが最高に可愛いらしく、映画は彼女の輝きと魅力をきちんとフィルムに焼き付けている。原題風のアレンジも巧みで嫌味がない。

チャールズ・シャイアとナンシー・メイヤーズは、スティーブ・マ-ティンを主演にした『花嫁の父』で、かつての名作を現代に甦らせて大ヒットさせたことで有名である。これまでのフィルモグラフィをみても、もともと、ちょっと古風な作品を好みにしているのだろう。このチームのそうしたセンスがクラシックな作品のリメイク・再生にうってつけだったんじゃないだろうか。

主役の双子の姉妹は時代を反映して、一人の子役が二役を演じ、ブルースクリーンなどを使って合成する手法で作られている。そして、この子役、実に演技が達者なのだ。彼女が演じているキャラクターは、ロンドン暮らしでイギリス英語をしゃべる女の子と、カリフォルニアのワイン農場で暮らす女の子。この2人がいまだ見たことのない父親・母親に会うために入れ替わりをするのだが、服装や髪型、ピアスなどの小道具にばかり頼らず、言葉遣いやアクセント、身のこなしで二人のキャラクターをきちんと演じ分けてしまうのである!そばかすだらけの恐るべき子役がこの映画の最大の魅力であり、収穫である。この子が今後、どんな活躍を見せてくれるのかも楽しみだ。

双子の姉妹の活躍をひとつの柱とするなら、クエイドとリチャードソンのロマンスがもうひとつの柱だろう。電撃的な恋愛の末結婚したが、方やファッションデザイナー、方やワイン農場主、価値観の違いがおおきく,結果的に離婚してしまった夫婦。この二人の離婚と、結果的に12年ぶりに寄りを戻すプロセスは、「家族向けのディズニー映画」の制約はあるにしろ、丁寧に扱われているように感じる。

コメディパートを担うのは、ワイン農場の家政婦とロンドンの執事。こういった脇役への目の配り方、役割の振り方が絶妙に巧く、登場した人物を無駄なく使い切っている脚本が素晴らしい。一方で、デニス・クエイドが結婚を考えていた若い女性を単純な悪役として描いているあたりは、作品の性格を考えると致し方ないことだろう。

ファミリー映画とバカにするなかれ、丁寧に作られた良質の映画は、誰が見たって楽しい物だ。本作は、それを教えてくれる。(1998/7)

7/17/1998

There's Something About Mary

メリーに首ったけ(☆☆☆☆)

高校時代の恋人が忘れられない主人公は、それから13年たったいま、怪しげな私立探偵を雇って、キュートでセクシーなメアリーの行方を探そうとするのだが、メアリーを発見した探偵は張込みを続けるうちに彼女に惚れてしまい、主人公には適当な嘘をついて姿をくらましてしまう。気がつけば、メアリーの周囲には彼女に好意をよせる奇妙な男たちばかり。タブー破りのお下劣コメディの第一人者、ファレリー兄弟が脚本監督、出演はキャメロン・ディアス、マット・ディロン、ベン・スティラー。

ジム・キャリーの『マスク』でデビュー後、『ベストフレンズ・ウェディング(My Best Frined’s Wedding) 』でジュリア・ロバーツを喰って人気急上昇のキャメロン嬢が初の単独主演。共演に撮影当時は実の恋人であったマット・ディロンと、『リアリティ・バイツ』などの監督もこなす才人ベン・スティーラーを配したロマンティック・コメディ・・・・なわけがない。

なにせ、ファレリー兄弟の映画だから。

この兄弟の手にかかると、以前の作品である『Mr.ダマー』や、『キングスピン』を見れば分かるように、特に良識ある人でなくても普通は躊躇するようなネタを平気でかましてくるからヤバい。本作の魅力は、そういう下劣でナンセンスなギャグが、一応「ロマンティック」コメディとして成立する範囲内でごった煮になっているところだ。爆発的なロングランヒットは、これまでの彼らの作品には近寄りもしなかった別の観客層にもアピールする作品になっていることの証明であろう。

まるで小学生の悪ふざけ、普通なら辟易とするような幼稚なギャグ。それも、ここまで徹底し、突き抜けてしまうと並ではない。どこか距離を置いて眺めていた観客ですら、笑うほかない瞬間。例えば、ベン・スティラーが不幸を被るシーン。普通ならさっさと話を進めてしまうところで、2度3度、追い討ちをかけるようにしてしつこく迫る。このクドさ。ハリウッド映画では配慮した描き方がされるペットの犬に対する不謹慎ともいえる扱い。Oh my goxxx と叫びながら、唐突な出来事にショックを覚え、笑わずにはいられないビジュアルに吹き出す。観客の許容範囲を試すかのように挑発的で大胆。それゆえの新鮮さ。

しかしなんといっても、本作の成功はキャメロン・ディアスなしには語れない。タイトルどおり、彼女には何かがある。
これが演技だか地だかわからないところも魅力だ。

彼女の演じるメアリーときたら、「ギブスをはめて」いたり「歯の矯正装置をつけ」ている人がスキという、妙にフェティッシュなご趣味の持ち主で、少々間抜けな上、簡単に人を信じてしまい、いつも「何も知らないのは彼女だけ」状態になってしまう困った人という、特異なキャラクターだ。

そんな女性に誰もが虜になるような魅力がある、という設定。そこに説得力を持たせられるのはキャメロン・ディアスならではだろう。彼女が騒動の真ん中にいると差別ネタや下劣ネタ、さらには動物虐待までも、悪意がないただのドタバタに見えてくる。この不思議な個性はいったいなんなのか。これからスターに昇りつめようとしている美人女優が、こんなヘンな役を引き受け、シモネタも含め、嬉々として演じている。カラッと陽性な魅力。この1本で、彼女の躍進は約束されたといっていい。

ファレリー兄弟の異様な笑いのセンスが、これ意外にありえないキャスティングの妙で活きた、類まれな変則ロマンティック・コメディ。これが意外や何度繰り返して見ても、笑わずにはいられない。

The Mask of Zorro

マスク・オブ・ゾロ(☆☆☆)

圧政に苦しむスペイン領カリフォルニア。かつて民衆のために闘った伝説的な英雄「ゾロ」は、圧制者の手で妻を殺され、幼い娘を奪われ、20年にわたって幽閉されてきた。彼と出会った主人公は殺された兄弟の仇を取るため、圧政に苦しむ民衆を救うため、元祖ゾロのもとで修行を積み、新たなヒーローとして生まれ変わる!アントニオ・バンデラス主演、共演にアンソニー・ホプキンス、キャスリン・ゼタ・ジョーンズ。製作総指揮にスティーヴン・スピルバーグ、監督に『ゴールデンアイ』で手際の良いアクション演出を見せた新鋭マーティン・キャンベルが起用された。

クラシカルな活劇、古くからのヒーローをスクリーンに復活させようというのが目論見か。必要最低限の人物描写を交えつつ、無理のない構成でスマートに書き上げた脚本は、あまり驚きはないもののうまくまとまっている。タイトルを「ゾロの仮面」としておいて、ヒーローの交代と2世代にわたるドラマとして構築したところが面白いところか。古典的なヒーローを蘇らせるためのアイディアとして優れている。突出した面白さはないが、サマーシーズンの娯楽作品として、暑い日の暇つぶしには最適だ。

映画は本家ゾロの大活躍と悲劇を畳み掛けるように見せた後、中盤でじっくりとドラマを描き、いまや伝説のゾロを襲名したバンデラスによるアクションになだれ込む構成。中盤のドラマがあって後半の宿命の対決が盛り上がるという筋立てだ。

演出面では特筆すべきものは見られないが、役者が決まっている。なんといっても本家ゾロを演じるアンソニー・ホプキンスの貫禄と格好の良さ。最初の十数分の剣を振り回しての活躍は惚れ惚れとさせられる。特訓のシーンでも一枚上手振りを発揮、さすがに名優の存在感は違う。

一方、マスクを譲り受ける新ゾロを演じるバンデラスは、どちらかというと間抜けさも含めた親しみやすさが、ワイルドさと同居しているのが魅力。カッコ良さ一辺倒でないあたりが現代的なヒーロー像といったところ。

今作への起用で注目を集めることになるであろうヒロイン、キャスリン・ゼタ・ジョーンズは、気の強そうな美貌はキャラクターにどんぴしゃりとハマって魅力的だが、それはともかくとして、演技が少々大根っぽい。表情のバリエーションが少ないように思う。それでも堂々とした存在感と、身のこなしはたいしたもので、化けるかもしれないという予感はある。

衣装、小道具、セットが意外に凝っていて雰囲気満点。ジェームズ・ホーナーの音楽も、いつものような使いまわしの旋律が余り顔を出さず、フラメンコ風、カスタネットなどを交えたラテンフレーバーたっぷりのアクション・スコアになっていており、聞き物だ。(1998/7)

7/16/1998

Saving Private Ryan

プライベート・ライアン(☆☆☆☆)

スティーブン・スピルバーグ監督の新作は、第二次世界大戦の欧州戦線を舞台にした「戦場」映画である。出演はトム・ハンクス、エドワード・バーンズ、マット・デイモンなど。激烈な戦闘となったノルマンディ上陸-Dデイで幕を開けるこの作品は、4人兄弟の3人までを同時に失った母親のもとに、最後の生き残りかもしれない行方不明のライアン二等兵を送り返すというミッションを帯びた小隊の苦悩と運命を描いていく。

作品としての圧倒的なインパクトの割に、お話しが弱い。それを差し置いても、この作品を90年代のスピルバーグを代表する傑作と呼んでも差し支えないだろう。

ありとあらゆる映像テクニックを駆使しながら描く戦闘シーン、特に、冒頭20分程度で描かれるノルマンディ上陸作戦は、まるで彼の映像技術のショーケースだ。これは、もう、凶悪である。スピルバーグが鬼畜描写、人体損壊描写好きであることは分かっているが、そういう意味でも彼のフィルモグラフィーの頂点に位置するといってよいだろう。

凶悪レベルな陸戦描写といえば、悪名高き『スターシップ・トルーパーズ』があるが、あればSFという隠れ蓑あって許容される描写であった。この映画の戦場描写は、それをはるかに凌駕し、悪趣味大将のバーホーベンも真っ青になるようなものだ。吹き飛んだ自分の片腕を探してさ迷うものがいる。あふれ出る内臓を押さえながら母親の名を呼ぶものがいる。ヘルメットのおかげで命拾いをしたと思いヘルメットを脱ぐと、その瞬間に頭を弾丸が貫いていく。海岸線がおびただしい死体で埋まる。スピルバーグ龍の笑えないブラック・ユーモアが交じるから、余計に凄まじい。

この描写は戦争映画の流れを確実に変えるだろう。真似をするにしろ、しないにしろ、これからの作り手はこの映画を意識せずにはいられないはずだ。

これを支える音響もまた凄いのである。自分の前を、後ろを、横を、弾丸が飛び交い、すぐそこで爆弾が炸裂する。戦場の疑似体験。あまりのことに、かつて戦場を経験した人たちがトラウマを蒸し返されるかもしれないと警告が出たのもうなずける。映画館のサラウンド音響の本領は、まさにこうした作品で発揮されるのだろう。

それに比べると、そもそもこの映画のために用意されたお話しが、面白くない。単に、戦場を描きたかっただけなのじゃないかと、お話しはそのエクスキューズなのではないかと邪推したくなるくらいである。

兄弟全滅の悲劇を回避するため、最後のひとりを家に帰すという判断をうけ、その一人をわざわざ戦場から探し出し、保護するために、多くの命がリスクに晒され、あるいは失われるという話である。もともと、そこにある矛盾と、それでもなお、何かを信じてミッションに殉じる気高い精神とを描きだそうというのが意図なのだろうが、どこか、単純な美談としてまとめられているようにも見えてしまうのは脚本の弱さゆえだろうか。

そこらへんをわかっているからか、これまではあまり大スターをキャスティングしないことが特徴だったスピルバーグが、いまやアカデミー賞2回の大物になったトム・ハンクスを主演に立ててきた。その判断はやはり正解だったといえるんじゃないか。なにしろ、脚本の舌足らずを、トム・ハンクスという存在が全てを説明してくれるのだから。

ジョン・ウィリアムズの音楽はいたずらに戦意を高揚したりせず、静かに、しかし力強くヒロイズムと失われた命に対する鎮魂歌を奏でる。そこにはベテランでしかだせない貫禄とともにスピルバーグとの長年のコラボレーションからくる余裕を感じさせられる。映画は2時間50分の長丁場で、場内に灯りが点るころには、ぐったりした疲労感を覚えるだろう。しかし、これを映画館で体感せずしてなにをすればいいというのか。必見。(1998/7)

7/10/1998

Lethal Weapon 4

リーサル・ウェポン4(☆☆★)

蛇頭(スネークヘッド)による中華系不法移民、偽札作りに、個人的な血縁関係をからめた悪事・悪巧みを柱に据えて展開する物語に、お馴染みのリッグス&マータフコンビが立ち向かう。前作からしばらく時間があいて、久しぶりの続編登場だ。シリーズの新キャストとして、クリス・ロックとジェット・リー(リー・リンチェイ)。いつものメイン&脇役キャストが勢ぞろいで、製作ジョエル・シルバー、監督リチャード・ドナーも続投している。

本作のエンドタイトルでスタッフの集合写真などが流れ、一冊のアルバムにまとまるという趣向がある。これを「ちょっと勘違いしているんじゃないの?」と云うこともできるだろうが、大目に見ようよ。そこにある、和気藹々とした同窓会のような雰囲気こそが、本作の象徴なのだから。

作品の仕上がりは2より下、でも、3よりは上。しかし第1作のハードな雰囲気はもう遠い過去になってしまった。

「事件と向き合う2人の刑事」の物語から、次第に、おなじみのキャラクターたちの成長と変化、人間関係を描くことに焦点を移してきた本シリーズ。狂気の自殺願望男リッグスは仲間を得、家族を得て、本作では父親になるという試練を迎えるし、もちろん年もとった。"I am too old for this shit !"なんていうマータフの決まり文句がリッグスの口から漏れるのは、なんだか感慨深い。

シリーズ最初から引退の日を指折り数えていたベテランのマータフも、ズルズルと勤務を続けているうち、ついに娘の妊娠で「おじいちゃん」になる。ジョー・ペシ演ずるレオ・ゲッツですら、最後にはこのキャラクターの意外な一面を披露してくれる。

何分、第1作から10年以上の年月が経過しているわけで、その時間をスクリーンにもしっかり刻みつけてきた。本作は、それがもたらした幸福な成果であり、それが最もよくあらわれているのが、エンドクレジットなのである。 

そういう意味で、まあ、それより前にくっついている本編の内容のほうが付け足しといった感じでもあるが、先に書いたとおり、3作目よりは退屈しない。

クリス・ロックの参戦で、ますますコメディ・パートの比重が増しているのだが、シリアスとのバランスが悪く、ぎくしゃくしているのはマイナス点。敵は前作ほどの小物ではなく、ハリウッド本格デビューのジェット・リーも印象的に使っていて悪くない。もっとも、ジェット・リーのファンが見れば、悪役で、しかもこんな使い方かとがっかりするのだろう。

2作目以降、香港風のガンアクションを積極的に導入してきた本シリーズだが、今回は敵が敵だからかとうとうタガが外れてしまったようである。1作目のリアル・ガンアクション路線が好みの観客はため息を付くと思われるが、まあ、このあたりのアクションの見せ方の変化も、作品のトーンの変化と密接なつながりのある部分でもあり、ここで1作目のスタイルを踏襲するのも無理があろう。

あまり高望みをしなければ、楽しく見られるファンに向けてのサービスのような作品。さらなる続編の噂はあるけれども、これが最後になるんじゃないのかな。いや、それが一番良いと思うのだがどうだろう。(1998/7)

6/10/1998

Austin Powers: The International Man of Mystery

オースティン・パワーズ(☆☆☆☆)

時は60年代、世界征服を企む悪党Dr. イーヴルを追い詰めた、イカシている英国諜報員オースティン・パワーズは、すんでのところでこの悪党を逃してしまう。人工冷凍の機械に入って地球の周回起動に自らを打ち上げたイーヴルとの未来での対決を見越したオースティンは、自らも冷凍睡眠に入るのだった。そして、1997年、時代を超えて2人の対決が再開される!

マイク・マイヤーズが脚本を書いて主演した60年代スパイものパロディ映画。善悪両方の2役を演じるマイヤーズに加え、エリザベス・ハーレー、セス・グリーン、ウィル・ファレルらが出演している。監督はこれがデビュー作になるジェイ・ローチ。

マイク・マイヤーズという『ハロウィン』の殺人鬼のような名前のコメディアンは、第1作だけ日本でも劇場公開された『ウェインズ・ワールド』が一番有名なところだろう。これを含め何本か映画にもでているが、日本での知名度は低い方のコメディアン・・だった。敢えて過去形で云うのは、この作品が状況を変えるに違いないからだ。これは、どこか突き抜けた、普通ではない作品だと思う。

とにかく、徹底的にアホっぽいが、細部へのこだわりを感させられるノリのいい一品なのである。

まず、60年代のスパイ映画を中心にした徹底的なお遊びがある。そこには、そうした作品を楽しんできた作り手たちの愛情とこだわりがある。単純なようで作り込んだネタが数多くあるから、元ネタの知識量次第でいかようにでも楽しめるところもいい。もちろん単純なシモネタもおおいが、爆笑すると同時に、そうくるか!と唸らされるものも少なくない。ある意味、奥深い映画ともいえるだろう。

そして、世紀末の今、突如といっていいだろう、60年代のファッション感覚を持ち出してきたあたりのセンスが面白い。衣装からセットにいたる隅々までの目配り。そして、音楽!ソウル・ボサノヴァは、本作のテーマ音楽として記憶されることになるんじゃないかと思うくらいだ。

この映画で面白いと思ったもののひとつは、60年代と現代という「現実世界におけるギャップ」と、かつてのスパイ映画などにおいて描かれたお約束としての「虚構世界と現実とののギャップ」の2つが渾然一体としているところである。それが骨格だとすれば、そこに、世界征服を企む悪党とその息子の親子断絶など、非常に現在的でナンセンスなネタ、おとぼけや下ネタを惜しみなく投入してくる波状攻撃感がもうひとつ。これ、決してワン・アイディアだけで成り立っているような作品ではない。下手なコメディ映画が3本くらい作れる内容が盛り込まれているんじゃないかとすら思う。

作っている本人たちが一番楽しんでいるのは一目瞭然である。そういう作品は、一歩間違うと観客はしらけてしまいかねないのだが、作っている本人たちが自分で楽しむだけでなく、観客を楽しませるために真剣に取り組んでいるところもまた伝わってくるから見ていて嬉しくなってくる。久しぶりに、アメリカのドタバタ・コメディの底力を見せられた気分である。傑作。(1998/6)

(なお日本で公開されるのは米国でカットされたシークエンスを含む完全版のようである。そのシーンと2-3の没エンディングは米国版ビデオの巻末に収録されている。)

6/09/1998

City of Angels

シティ・オブ・エンジェルズ(☆☆☆)

女性外科医マギーが患者を手術台の上で死なせてしまう。自分の過失ではないのだが、精神的に大きな痛手を負ってしまった彼女を、みつめていたのは、時に人の死を見取り、励まし、導いている数多くの天使たちの一人、セスだった。彼女に恋をし、力になりたいと強く願うようになった天使は、やがて彼女の目の前に姿をあらわすようになる。メグ・ライアンとニコラス・ケイジ主演で、『キャスパー』でデビューしたブラッド・シルヴァーリングが監督を手がける、『ベルリン/天使の詩(Wings of Desire)』のハリウッド版リメイク。

これは天使の街、Los Angels を舞台にした、不思議な空気感と切なさの残るファンタジーである。もちろん、ヴィム・ヴェンダースのリメイクだからというのもあるが、アイディアを借用してかなりの脚色をされているのにもかかわらず、ハリウッド映画の基準からみると、この映画、かなりの異色作といってもよい。

全体を覆う現実離れした空気感、切ない雰囲気と展開、説明の省略、流れるようなカメラ、美しいヴィジュアル・イメージ、やわらかな光。どれをとっても監督の前作である典型的ハリウッドお子様ランチ映画とは無縁のように思われる。音楽(ガブリエル・ヤード)もまた、強く自己主張するのでなくこのファンタジー世界を膨らませ、柔らかく支えるのに貢献していて、全身が映画の世界にやさしく包み込まれているかのように感じる。こんなに繊細なタッチのアメリカ映画は本当に珍しい。

もちろん不満を言えばいろいろある。本作では、天使にとっての「世界」と、われわれ人間の「世界」をヴィジュアルで区別していない。そのことで、天使が感じる人間の世界の「新鮮さ」を、観客に上手く伝えきれていないのではないだろうか。スター共演の恋愛映画に仕立てるためか、2人の共演シーンを多くするために採用したと思しき設定(天使が自分の意志で人間の前に姿を現すことが出来る)や構成が、いまひとつ機能していない、などなど。

この映画ではそういう欠点を役者の魅力と演技が補っているのだろう。映画の世界にのめり込みそこなった観客にしてみれば「クサい演技」、ということになるかもしれない。ニコラス・ケイジのしぐさ、表情のひとつひとつが、この一独特の演技で表現されている。この天使が、感動と驚きと喜びに満たされていくさまは、本作における重要なポイントのひとつだが、原典のような白黒とカラーの使い分けがないから分かりにくくなっているのはそうだが、ニコラス・ケイジのオーバーアクトがそれをなんとか補完しているようには思うのである。

また、「天使の片思い」から「2人が恋に落ちていくプロセス」に重点をおきかえた構成により、メグ・ライアンの魅力的な表情が活きた、ともいえる。元来、コメディタッチの作品で本領を発揮する彼女だが、たまにはこういう役もいい。

リメイクものはどうしてもオリジナルと比べられ、欠点ばかり目立つ結果になる。本作もまた、オリジナルを超える評価を得ることはあるまい。それどころか、どちらかといえば、存在を忘れられていく運命の作品なのかもしれない。しかし、この映画は主演スターである二人の魅力を活かしつつ、他のハリウッド映画にない独特の雰囲気を持つ作品に仕上がっており、その頑張りについては好意的に評価したい。ブラッド・シルバーリングの次回作には期待しておくことにしよう。

また、ガブリエル・ヤードの楽曲が良いことは先に触れたが、それ以外に売れ筋のアーティストの挿入歌も多数収録したサントラがのなかで、少し不思議な響きを持ったアラニス・モリセットの唄う"Uninvited"が面白い。作品中ではエンドクレジットの頭のところで流れるのだが、どこか、本作の作品のトーンを決めるのに貢献しているんじゃないか。なお、予告編で盛んに流れたポーラ・コールの曲はサントラ未収録、本編未使用である。(1998/6)

6/06/1998

Doctor Dolittle

ドクター・ドリトル(☆☆)

ある日突然、周りの動物たちの会話が理解できるようになってしまった主人公のドタバタ劇。エディ・マーフィの新作コメディは有名な原作から「動物としゃべることができる」という意匠と主人公の名前を借りて自由に脚色。監督はベティ・トーマス。このひとは、『プライベート・パーツ』でラジオ界の問題児ハワード・スターンの自伝を本人主演で爆笑コメディに仕立て上げたことで知られている。

あの「ドリトル先生」、という先入観がないほうがよいだろう。一応、ストーリーはある。核になるエピソードは、自殺願望のサーカスのトラを手術で救う話。だが、それはまあ、一応作りました、といった感じでしかない。

それよりなにより、あの「エディ・マーフィ」の映画、と思うと違和感があるはずだ。なにせ、Do - Little (=何もしない)の名のごとく、極端にいえば、主人公を演ずるエディがなんにもしない映画なのだから!

これまでのことを思えば、本作でエディ・マーフィが演ずる役柄の変化は驚きである。何しろ、妻がいて、子供がいるのだから。こういうのは、初めてではなかろうか。年を重ね、良き父親を演じ、子供が喜ぶような映画を作ることに興味を見出したといったことなのだろうけどね。

もうひとつ、エディがアグレッシブに主導権を握らず、受けとリアクションに徹するのである。これもまた極めて珍しい。ボケるのも、突っ込むのも、ひとりでこなし、映画全体をかっさらっていくのがかつてのエディ・マーフィというものではなかったのか。しかし、今回、その役回りを担うのは、「しゃべる動物達」である。エディは単なる傍観者だ。

だから、映画の見所は何よりもまず、ジム・ヘンソンのスタジオが手がけた動物たち、ということになる。モルモットからトラに至るまで、とにかくしゃべり、演技をする。アニマトロニクスとCGを駆使した動き、芸。これまでに行われてきた同種の試み、例えば『ベイブ』等と比べても、一段と技術が進歩していることが見て取れる。

もちろん、こういう実際に喋っているわけでない動物たちと共演するリアクション芝居は難しかろう。それを、このテンションでこなすことができるエディは大したものだが、じゃあ、それが楽しいのかと言われると、やはりちょっと物足りない。エディ自身、本作のヒットで「復活」扱いされていることに、困惑したりしないのだろうか。このまま毒のない家族向け映画の顔に収まられてもなぁ、と思ったりもする。

映画としては家族向けを想定しているようだが、子供向けかと思えば下品な会話やネタが多いので注意が必要。まあ、子供ってのはそういうのが楽しいのかもしれないけどね。

6/05/1998

Armageddon

アルマゲドン(☆★)

世界各地に突如落下をはじめた小隕石群は単なる前触れに過ぎず、18日後には地球全体の壊滅をもたらす巨大な本体が落下するという事態に。NASAは「隕石に穴を堀り、内部で核弾頭を炸裂させることで隕石を破壊、そのエネルギーで地球の衝突コースから逸らせる」という作戦を決行することにする。穴掘りの専門家として招聘されたのは石油採掘などに長年かかわる主人公とその仲間たちだった。出演はブルース・ウィリス、ベン・アフレック、リブ・タイラー、スティーブ・ブシェミ、ウィル・パットン、マイケル・クラーク・ダンカン、ビリー・ボブ・ソーントン、ピーター・ストーメア、オーウェン・ウィルソンなど。脚本はJ.J.エイブラムス、監督は『ザ・ロック』で成功したマイケル・ベイ。

とても退屈で空疎なバカ映画。カネがかかった豪華なBGV以上の価値はない。

もちろん、ヒット作の公式を知る商才に長けたプロデューサー主導の映画である。離婚に絡んだ借金でお金が必要なブルース・ウィリス札束で釣り、若手の注目株やインディペンデント系の映画の顔を絡ませたキャスティング。リブ・タイラーつながりでエアロスミスに主題歌を書かせ、刺激の強い映像で適度にドッカンバッカンやらかす。ジェリー・ブラッカイマーときたら、こういう企画が抜群に巧いプロデューサーの一人である。

ストーリー的には「一大事に借り出された全く不釣合いの男(達)」という意味で、同じ監督の『ザ・ロック』を思わせもする、が、ドラマ的には希薄。派手な映像の刺激になれてしまえば、大味で単調そのものの展開にはあくびが出る。しかもこれが長い。大作感は作品の長さで醸し出されるとでも思ったのだろうか。この内容で2時間半は苦痛である。

マイケル・ベイはこれまで同様、どう見せるかという点にこだわりを見せる。いわゆる「スタイリッシュ」な絵を素早いカットでつなぎ、意味のないスローモーションを挟み、なんだか知らないがとにかく派手に爆発する。ベン・アフレックとリブ・タイラーのラブシーンなどをみていると、この人はまさしくトニー・スコットの正当な後継者たらんとしているようにも見えるのだが、トニー・スコットのように作品に適した尺の中でストーリーをきっちり語る技術が足りないし、そういうことに興味すら持っていないのではないかとの疑念すら持ちたくなる。

SFチックなディテールもいい加減で、NASAもこんな映画に全面協力とクレジットされて問題にならないのか心配になってしまう。それとも、単に、人々の関心を宇宙に向けられるのならなんでも良いというスタンスなのだろうか。(1998/6)

6/04/1998

Scream 2

スクリーム2 (☆☆)

前作の「ウッズボロー連続殺人事件」から2年後、大学に進学したシドニー。前作での出来事が映画化され、先行試写が行われている会場で新たな殺人事件が起こる。それは、あの忌まわしい事件を模写するかのような連続殺人の始まりに過ぎなかった。前作の生き残り組であるコートニー・コックスやデイヴィッド・アークエット、ジェイミー・ケネディ、リーヴ・シュライバーらに加え、サラ・ミシェル・ゲラーやオマー・エップス、ジェリー・オコネルらが新たにキャスティングされている。前作の仕掛け人、ケヴィン・ウィリアムソンが再び脚本を担当。監督も同じく、ウェス・クレイヴン。

前作でも「『エルム街の悪夢』は最初のだけ。あとはクズ」なんて台詞があったが、「続編はつまらない、が、3部作のパート2は別の話」などという続編談義を堂々とやってのける挑発的な、続編。その趣向はもちろん、期待や予想の範囲内ではあるが、自らも続編の罠にハマってしまったのではないか、という気がする。「続編では死体の数が増え、殺人方法が残虐になり・・」と云っておきながら、そういう安易な続編と同じことをやっているのはパロディなんだろう。しかし、残念ながら、そこに前作にあったサスペンスはない。

前作にあった携帯電話のトリックに代表される秀逸なシチュエーション作りは影を潜め、表層的な「犯人当てごっこ」映画に落ちているのが今回の作品だ。思えば、前作h単なるスラッシャーでも、単なるパロディでもなく、サスペンス映画としても秀逸な作品であった。それに比べると、ゲーム感覚ばかりが強くなった本作は、やはり安易な続編と呼ばれても仕方がない。

新しいキャラクターの多くに関しては造形が不充分だったり、主人公との関連付けが不充分だったりして、例え犠牲になったとしても見ている側の感情が喚起されない。そもそも、誰が殺され、誰が生き残るか予想がつきやすい。そこは、本作の中での描写も含めた、キャラクターの生命力とでもいうものの違いだろう。

連続殺人事件を中心にしたシリーズゆえ、作ったキャラクターを次々殺し、消費していかなくてはならないのが宿命である。そのあたりが、どうしても物語づくりの選択肢を狭めているようで、窮屈に感じられる。

オリジナルの成功を受けて雨後の竹の子のように製作され始めた「青春ホラー」映画群の中では頭一つ抜きんでたその存在感は否定しないが、やはり「続編」は続編でしかなかったという落ちがついてしまった『スクリーム2』。シリーズ完結編がどっちの方向に向かうのかが気にかかるところだ。(1998/6)

6/03/1998

The X-Files: Fight the Future

Xファイル ザ・ムービー(☆☆★)

テキサスの田舎で子供が砂漠の中にあった洞穴に落ち、黒い液体に襲われる。どこからともなく現れた得体の知れない人々がそこに仮設基地を設営しはじめ、子供はどこかに連れ去られてしまう。一方、Xファイルの焼失をうけてテロ警戒の任務に駆り出されていたモロダーとスカリーだったが、その連邦ビル爆破事件の裏には、黒い液体にまつわる証拠隠滅を図ろうとする疑惑が隠されていた。

大人気TVシリーズ劇場版は、第5シーズンと第6シーズンの仲立ちをするつなぎのストーリーとして登場。TVシリーズと同じククリス・カーターが製作を手掛け、シリーズの鍵になるエピソードをいくつも手掛けたロブ・ボーマンが監督を務めている。

シリーズ中で展開されている、「本筋」に当たる作品。謎のウィルス・怪しい人々・陰謀・砂漠の真中の奇怪な設備・宇宙人・地下の宇宙船。スカリーのキャリアと命と両方が危機にさらされ、謎はすべてが明らかになることなく、チラ見せで物語の幕が閉じる。まあ、翌シーズンにむけた壮大な宣伝といってよい。

とはいっても、TVでは予算がつかないスケールの大きい撮影が行われたことも含めてファンにとっては楽しみの多い一本ではある。陰鬱な雰囲気と世界観のなか、ちょっとしたユーモアやサービス精神のある遊びを入れる余裕を失っていない。しかし逆の味方をすれば、それだけの映画でもある。

もちろん、一応シリーズを見ていなくてもついていける程度の話の枠組みはある。しかし、まだ数年はシリーズが継続予定とあって、振られた謎が何一つとしてカタルシスのある結末を迎えないので、独立した映画としてみるなら必ず欲求不満が残るはず。なにせ、作りが「連続ものの1エピソード」なのだから仕方ない。それに、スクリーンはでかくなっても、どこかコマーシャルのタイミングを計ったようなテレビ的演出が気になったりもする。15分おきくらいにタイトルが流れ、CMが入っても違和感がない。せっかくカネがかかっているというのに、意外なほどにスケール感の感じられない撮影も、なんだかTVっぽい。

月並みだが、これならば2時間スペシャルでいいんじゃないの、と感じるのは私がXファイルの熱心なファンではないせいだろうな、と少し寂しく思ったりもした。

6/02/1998

Godzilla (U.S.)

GODZILLA ゴジラ(☆)

南太平洋で日本の漁船を襲った謎の巨大生物は、フランスの核実験で放射能を浴びて異常な進化を遂げた巨大な爬虫類であった。繁殖のため地球をどっちに回ったのか知らないがわざわざNYに上陸した怪物は米軍とチェイスを繰り広げながら街を破壊、マジソンスクエアガーデンに無数の卵を産みつける。

東宝から権利を買ったソニー・ピクチャーズが製作・監督に『インディペンデンス・デイ(ID4)』のコンビ、ディーン・デブリンとローランド・エメリッヒを起用して製作した米国版ゴジラ。音楽のデイヴィッド・アーノルドも「ID4」組である。出演はマシュー・ブロデリック、ジャン・レノら。

予測はできたことであるが、これが全くIQの低いガサツな作品なのである。別に日本のゴジラに思い入れもないので、<大イグアナNYに現る>だと思って観ていたのだが、この幼稚さ、低脳さ加減は並みじゃない。

まず怪物に魅力がない。「大怪獣が街を破壊する映画」を期待すると、「大イグアナを追いかけて、はずしたミサイルで人間が街を破壊してまわる映画」だったりするのも問題だが、なんといってもこのクリーチャーの、デザインのみならず、動きにすら全く愛敬がないのは致命的である。生物的にしたかったというが、人間の妊娠検査薬で繁殖期だと分かることが「生物的」なのではない。作り手に、この怪物に対する愛情が欠落しているのが一目瞭然である。

では人間さまの方はどうかというと、どいつもこいつも食われて死んでもらって構わないと感じるほど魅力に欠けるキャラクターばかりだ。口にする台詞ときたら幼稚園の学芸会。中学生でも書きそうなダイアローグ。囮につかう魚の山を見て"A lot of fish."というマシュー・ブロデリック。カットの切り替えに当たる演出の間は明らかに笑いを狙っているのだが、こんな台詞をきかされてどう反応したら良いのか。こんな役を演じるブロデリック自身が間抜けに見えてくるのが悲しい。

『ジュラシック・パーク』もどきだといわれることを承知で持ってきたにちがいない後半の見せ場だが、このあたりも観客が期待したはずの「怪獣映画」から完全に逸脱しており、敢えてモドキをやる意味がわからない。ID4で馬鹿にされた憂さ晴らしをしたいのか、有名な映画評論家(シスケル&エバート)に似たキャラクターを出してくるあたりの幼稚な負け惜しみ。

オープニングのシークエンスと、うなされた日本の漁師が巨大イグアナをゴジラと呼んだことからゴジラという名前になってしまうエピソードは素直に面白かったが、それ以外は全く見るべきところのない作品である。これならば、以前、ゴジラを撮ると噂されたが予算の折り合いがつかず降板したヤン・デボンが撮った『ツイスター』の方が、まだ怪獣映画の変種として面白い(というか、わりと好き)。(1998/6)

6/01/1998

The Truman Show

トゥルーマン・ショー(☆☆☆☆)

トゥルーマンは、典型的な小市民。しかし、彼の生活には普通の生活とは全く異なる点があった。生まれて以来30年の私生活のすべてはカメラによって極秘裏に撮影され、24時間ノンストップのライヴショーとして世界中の茶の間に今日も届けられているのだ。 人気コメディアンのジム・キャリーが主演。『刑事ジョン・ブック』や『いまを生きる』のピーター・ウィアーが久々に監督を手掛けた作品である。脚本は『ガタカ』のアンドリュー・ニコル。

完璧にコントロールされた巨大なスタジオという隔離世界、作為的に作られた主人公の過去、性癖。世界中の人々にとってはこの30年、何も知らないトゥルーマンの一挙一動が関心事。囚われの身である彼に真実を伝え開放しようと活動する人々・・そんな超現実的プロットはまるで『トワイライト・ゾーン』かなにかの一挿話が大掛かりになった印象。

事実、いつもの能天気なジム・キャリー映画を期待した観客は、大きなショックを受けることだろう。ナンセンスといってもかまわない設定。プロットだけを聞くと馬鹿げたドタバタ作品とも受け取れる。ところが、映画は予期せぬ展開を見せ、笑いが肌寒さに、陽気さが痛々しさに転化していく。そして、最後には予期せぬ感動の高みに観客を誘う。これは、単なるマスコミ批判とかいったレベルの作品ではない。

映画の中の悪役は番組のプロデューサーだが、これが単なる悪役に留まっていない。生まれたばかりから30年間にわたって主人公の世界を創り上げ、彼の生活を見つめつづけてきた神、そして、無二の父親。その名も「クリストフ」。彼の、彼なりにスジの通った倫理観と、主人公に対する愛情。それが単なる「メディアという巨大な権力の陰謀もの」とは異なるテイストを作品に与えている。これを演じているのが名優、エド・ハリス。会心の演技だ。

事前の宣伝で「すべてネタばれ」という状態から出発したこの作品は、サスペンスと衝撃を捨てて「神と人生」テーマに力技で持っていく。自分の信じていた世界がちゃちなつくりものに過ぎないことを悟った主人公の切なさを、ゴムの顔を持つ男が絶妙の表情で見せた。この世界を脱出して、その先に何があるかも分からない。しかし主人公は父親の庇護の下を離れ、自らの道を歩もうとする。あえてその先を観客の想像に委ねた演出は、意地悪くもあり、思いやりに満ちてもいる。想像を絶する傑作を手にしたジム・キャリーの今後のキャリアが非常に楽しみになった。 (1998/6)