12/30/2010

Aibou the Movie II

相棒 劇場版II 警視庁占拠!特命係の一番長い夜(☆☆☆)

事件があり、解決したかのように思われたが、その事件には裏があり、事件を利用した組織間闘争がはじまる。杉下右京と神戸尊のコンビが真相に迫る。TVシリーズ継続中の2本目の劇場版は、イベント的、お祭り騒ぎ的だった前作とはガラリと趣を変え、シリーズを特徴付ける組織・権力を敵に回しての闘いを主軸に、警察庁・警視庁の確執を絡めた、ある種、本流に位置づけられるべき内容である。

もちろん、映画好きからは批判の対象になりがちな「TVドラマの映画化作品」ではあるが、本作の印象はそうした類の作品とは少し異なる。そもそも『相棒』という作品自体が、「映画屋の作るTVドラマ」である、というのがその理由でもあるだろう。本作には、存在を許したくない薄っぺらさはない。そして、職人が作る安定したプログラム・ピクチャーとしての面白さがある。

が、誉め過ぎも禁物だろう。なんでも台詞や回想シーンで丁寧に語らずにはおられない説明臭さはお茶の間的であって映画的でないし、金がかかったのであろう船舶の爆破シーンを何度も繰り返し見せてしまうような安っぽさには苦笑する。シリーズの一編としてはいつものとおり楽しませてもらった。が、単独の映画としてはまあまあ、といったところが公平なところであろう。

売れ線の若いタレント俳優たちではなく、ベテラン俳優たちがズラリと揃う画面の地味ながら渋い重みがいい。警視庁幹部監禁占拠の裏にある事件が、シリーズではおなじみの脚本家の一人、古沢良太脚本のNHKドラマ『外事警察』を想起させるものであること、俳優の顔ぶれを見ていると概ね着地点が想像できてしまうのは弱みだが、盛り沢山な要素にメロドラマを絡め、それなりの見応えがある。

杉下右京と神戸尊の、普通のバディものがやる「頭脳派と行動派」といったような定番の組み合わせとは少々毛色の異なる珍しいタイプのコンビも板についてきたところで、もっと俯瞰的な視点での「相棒」といえる重要キャラクターに退場いただくという決断はシリーズとしてはチャレンジングだが、その(物語内での)処理は少し無理矢理感があったのではないか。

12/25/2010

Burlesque

バーレスク(☆☆★)

田舎町からL.A.に出てきた小娘が魅入られたショークラブ「バーレスク」の舞台で、持ち前の実力を活かしてスターとして成功していく話に、作曲家兼バーテンダーとの恋愛や、嫉妬深い先輩スターとの軋轢、地区の再開発を狙う敵対的買収者からクラブを守り再生する話を絡めたストーリー。ご存知、クリスティーナ・アギレラ主演作。予告を見たときの地雷臭は相当なものだったので懐疑的だったが、少なくとも、「シンプルな筋立てを華やかなショーでつないだミュージカル風味の作品」という狙いを外してはおらず、ゴージャスでセクシー(というか少し下品)なダンスの振り付けもスクリーン映えし、多くを求めないのなら楽しめる1本には仕上がっている。小さな役とはいえ(『キャバレー』の舞台で評判をとった)アラン・カミングの出演があるのも、作り手の狙いや嗜好の表れだと思えば好印象である。

この映画の一番の不満は、本来一番の肝であるべき楽曲の問題であろう。アギレラが劇中で歌う(本人もクレジットに名を連ねた)楽曲が、どれもこれもシングルヒット狙いなのか、今風にリズム主体で、ミュージカルの楽曲としての魅力を全く持ち合わせていない退屈なシロモノだ。ビジネス上の理由なのだろうとは想像するが、なによりこれが映画であり、ミュージカルであるということを念頭におけば、こういう楽曲にはなるまい。逆にいえば、それ以外の楽曲はなかなか良く出来ているといえる。シェールが歌うナンバーなどは、彼女の歌唱力も込みで大いに見所、聴かせどころで、それ故にアギレラの楽曲の安っぽさがいかにも残念だ。

脚本の問題でいえば、シェールの回りの男性キャラクターがうまく整理されていないことが気になった。演出家であり長年にわたる理解者として配置されたスタンリー・トゥッチのほか、夫役のピーター・ギャラガーが出てくるのだが、この物語上の位置づけが中途半端で、何がやりたかったのかさっぱりわからない。ビジネス面を担当しているように見えるのだが、敵対的買収者とつながる悪役という位置づけではないし、シェールの味方・代弁者として采配を振るうでもなく、無能にも右往左往しているだけ。キャラクターとして、必要性も必然性もないだけでなく、シェールともあろう女主人がこの男のどこに惹かれたのかさっぱり分からないのは致命的。いっそこの二つのキャラクターをスタンリー・トゥッチの側に寄せて集約してしまったほうがスッキリしただろう。

12/24/2010

Tron Legacy

トロン・レガシー(☆☆☆)。

なんと、28年ぶりの、正統な続編である。独立した映画として楽しめる作りに放っているが、ストーリーは前作の後日談であるし、前作で主演を務めたジェフ・ブリッジスが、新しい技術の助けも借りながら、年を重ねた現在の姿と若かったかつての姿の両方で登場。様々なレベルで前作と前作を生み出した時代に対する敬意がきちんと払われており、そうした作り手の態度はある種、感動的ですらある。

同時に、この作品には、単なる続編というだけでない違った意味合いを感じさせられる。それは、28年前にやりたくても技術的にできなかったこと、「こうであるべきだったヴィジュアル表現」を、今の技術で実現して見せる映画、としての製作意義である。前作はCGIを全面導入するということで大変な前評判を呼んだけれども、技術や予算の関係上、単なる普通のアニメーションでお茶を濁さざるをえないシーンも多かったと聞く。また、先端的でインパクトがある映像ではあったが、それを生み出す映像技術は、作り手のイマジネーションに追いついていないように感じたりもしていた。

本作は、前作が確立したアイディアを土台に、あの時代に空想された(懐かしい)未来的イメージ、レトロ・フューチャー感を今日的な感覚でまとめあげたデザイン・ワークが大変に素晴らしい。また、ヴィジュアル表現と音響効果・音楽がひとつに融け合って、とても見応えのある映像作品になっている、と思う。本作は音楽担当に売れっ子のダフトパンクが起用され、劇中に顔(?)を出してさえいるのだが、音楽作品として割と独立した存在になるのかと思っていたら、映画が表現する世界の欠くべからざる一部として統合されたものになっているところがいい。これを映画館の暗闇で体験することは、それだけでなかなか満足度が高い。また、本作は3Dのみで公開されたが、そこに対して過度に期待した観客は肩透かしを食らったかもしれない。3Dによる何か革新的に新しい映像表現というより、映像世界への没入感を高める意味合いのほうが強いように感じられる。

前作でも指摘されたことの繰り返しになっているのが皮肉であるが、ヴィジュアル面に比べるとストーリーは必ずしも強くない。また、30年近くのあいだにコンピュータ世界、仮想世界をテーマにしたSFや娯楽作品がたくさん登場したこと、一般的な観客の理解度も大きく変わったことで、どちらかといえばファンタジー寄りな本作の設定を子供騙しだと感じる観客もいるのだろう。しかしそれをとやかくいうのは無粋じゃなかろうか。前作にしたってもともとファンタジー要素の強い作品なのだから、「ウサギの穴に落ちて不思議の国に行きました」と同じタイプの作品だと心を広く持つ方が楽しめるはずである。

ともかく、音響の優れた劇場で体感するのが本作の一番よい楽しみ方なので、迷っているくらいなら劇場へ。前作を知っているのなら迷わずにお勧めしたいんだけどな。

12/23/2010

Charlie St. Cloud

きみがくれた未来(☆☆☆)

ディズニー系のTVムーヴィー『ハイスクール・ミュージカル』シリーズで人気が出たザック・エフロン主演の最新作。そこそこ楽しめるコメディであった前作『セブンティーン・アゲイン』で組んだバー・スティアーズ監督と再び組んだ本作は、ファンタジックな青春映画の佳作である。

ヨットレースの実力を見込まれて名門大学への進学も決まっていた主人公だったが、自動車事故を起こし、同乗した幼い弟を死なせてしまう。それをきっかけに地元の墓守りとして世捨て人のように暮らすようになる主人公。それにはわけがあった。死んでしまった弟が、生前に交わした野球の練習の約束を守り、日没前のある時間、毎日主人公の前に現れるからなのだ。

・・・・いやはや、弟の死に傷つきより人生を捨ててしまった男の再生の物語には違いがないのだが、これは立派な怪談話だ。弟だけかと思っていると、時折、かつての同級生も姿を表したりもする。高校卒業後に入隊し、戦場で命を落としたらしいのだ。しかし、これは "I see dead people" という映画ではない。自責の念にかられ、自分の人生の時間を止めてしまった青年が、人との出会いを通じて再び歩き始めるまでを優しいまなざしで見つめるドラマなのである。こういう「怖くない怪談」があってもいい。

キム・ベイシンガーとレイ・リオッタが共演。レイ・リオッタは主人公の命を救った救命士として登場、得体のしれない風貌で怪しいやつかと思わせるのが狙いなのかどうかわからないが、レイ・リオッタに突然話しかけてきたら、ちょっと恐い。ヒロインのアマンダ・クルーが可愛い。『ファイナル・デッドコースター』に出てたらしいが、覚えてないや。

12/21/2010

Norwegian Wood

ノルウェイの森(☆☆★)

おそらく、本作にわりと否定的な世間の雰囲気を思えば、当方、そこそこ楽しませてもらったほうなんだと自覚しているのだが、それでも、わからないのだ。この映画を今、敢えてこの時代に作ることの意味が。出来上がった作品はある部分興味深く、ある部分退屈な凡作だと思っている。が、この映画を作ろうという企画意図は、映画を見終わった今、余計に分からなくなってしまった。まあ、それはさておくとしよう。

しかし、ゴージャスなルックの映画である。舞台にしている時代の雰囲気を醸し出そうと細かいところにお金がかかっている。そこらへんの邦画にはない感じ、というのは、もちろん異邦人である監督や撮影監督の感性や技術だったりによるところが一番大きい。ご存知のとおり、本作の監督はパリ在住のベトナム系、トラン・アン・ユンで、撮影監督は『夏至』で監督と組み、最近では『空気人形』でも素晴らしい仕事を見せてくれたリー・ピンビンだ。しかし、それと同時に、美術やセット、衣装などに対して贅沢に、使われるべきお金がしかるべく使われた結果でもあるのだろうと想像する。

いや、もしかしたら、小説で記述されたリアルな話し言葉としてはいささか不自然に聞こえないでもない台詞が、役者の口からそのまま語られることの異化効果とでもいうべきものが、案外効いているのかもしれない、と思ったりもする。この映画が放つ、何か作られたものであるという感じ、人工的な雰囲気は大変に特徴的なものだが、原作を尊重した結果なのかどうか、そういうスカした書き言葉を話し言葉として使う効果に自覚的であったかどうかは全く分からないけれども、ここにある何か普通ではない世界は、そうした様々な要素を積み重ねた結果、獲得したものであるのは間違いあるまい。

一応紹介すると、お話しは単純。学園紛争で騒然とする時代。自殺した親友の幼なじみであり恋人だった女性と関係を持ったあまり主体性の感じられない主人公が、精神を病んで療養所に入ったその女性への思いを断ち切るわけでもなく、キャンパスで出会った別の女性にも惹かれ、曖昧に関係を続けるうちに悲劇が起こる、という感じ。違う?えー、まあ、原作未読なのでご勘弁を。

原作や原作者に強い思い入れのある立場だと、本作のキャスティングには色々言いたいことも出てくるようだが、そうではない当方としては悪くないんじゃないの、と思う。キャストは皆、熱演をしているようにも見えるし、演技らしい演技をさせてもらえていないようにも見える。主人公を演ずる松山ケンイチの、どっちつかずで低体温な感じはすごく良いし、ほとんど演技経験のない水原希子なんか、たぶん一生懸命頑張っているに違いない演技はそんなに上手くないのだが、その雰囲気と存在感は映画の重要な構成要素になり得ているというあたりが面白いものだと思う。

12/20/2010

Killers

キス&キル(☆☆★)

えーと、勝手に邦題をつけると『トム・セレックの殺し屋がいっぱい!』という感じの作品である。脇役とはいえ、やっぱり(80年的には)トム・セレックだろ。本作ナンバー#1の大スターは。

ちなみに、原題は味もそっけもなくストレートに "Killers"。中身はヒロインが巻き込まれるタイプの、ロマンティック風味を交えたアクション・コメディである。夫は(元)スパイ。それと知らずに結婚した妻。似たようなアイディアの組み合わせである先行作、『ナイト&デイ』にあやかっての邦題なのか、『キス&キル』。アクションだけじゃなくて、ロマンスが入っているよ、と女性観客向けにアピールしたつもりもあるんだろうね。

まあ、邦題がそんなんだから、見ているこちらもついつい、トム・クルーズ&キャメロン・ディアスW主演のジェームズ・マンゴールド作品と比べてしまうわけだが、ちょっとフェアな比較にならないようには思うのだ。だって、あちらは。観客をどうやって喜ばせたらよいかを心得た熟練のスターたちと、それを活かした映画作りはどうあるべきかを分かっている職人監督が贅沢に金を使って撮った作品だしね。そこは演技者にしろ、作り手にしろ、経験が違う。コメディのさじ加減やリズムも違う。そしてなにより、画面にみなぎるスター・パワーが違う。それに予算だってかなり違う。

南仏のリゾート地でであった男女が恋に落ちて結婚、幸せな家庭生活が始まったかに思えたが、男には元スパイ、腕利きの殺し屋としての過去があった。ある日を境に、何の前触れもなく近所や同僚が男の命を狙って一斉に牙を剥き、全く事情の分からぬ女を巻き込んでサバイバルと真相追求が始まるのだった、という話。映画の舞台は郊外の住宅地で、実態は安上がりな「ご近所アクション・コメディ」なのだが、冒頭に南仏ロケで無理やりゴージャス感を付与しているあたりは安物映画なりの賢い作りといえる。

監督は『キューティ・ブロンド』を成功させたロバート・ルケティックで、前作『男と女の不都合な真実』に続いてキャスリン・ハイグル主演作への登板である。キャスリン・ハイグルは、今回も「そろそろ焦りの出てきた年齢の恋人のいない真面目な女性」を演じているのだが、前作と同じく「捨て身の演技」というのか、悪く言えば下品で痛々しく、ちょっと見ているのが辛くなってくる。脚本・演出もセンスが悪いが、この調子ではいつまでたってもロマンティック・コメディの女王の座は手に入るまい。相手役に選ばれたアシュトン・カッチャーは、キャスリン・ハイグルとは同年代でそれなりの年なのに、かなり若く見える。鍛えられた体は見事だが、ちょっと違和感。あまりに整いすぎた風貌がかえってつまらないし、演技が真面目すぎて映画のトーンを壊している。

そういう主演二人じゃ心許ないということなのか、ヒロインの両親役としてトム・セレックとキャスリン・オハラがキャスティングされていて、ベテランならではのとぼけた演技を見せているのだが、主演の二人とトーンが噛み合っていないのが残念である。過保護で厳格な父親として登場するトム・セレックが、流石にそれだけでは終わらないところ・・・というのか、この役にトム・セレックを引っ張ってきたところは良かったと思う。

12/11/2010

Robin Hood (2010)

ロビン・フッド(☆☆☆)

さて。年末年始スコット兄弟祭りの開幕をつげるスコット兄の新作が、本国から半年遅れで登場である。監督とは5本目の作品になるラッセル・クロウ主演で、その題材は誰もが知るシャーウッドの森の義賊、『ロビン・フッド』ときたものだ。

ご存知のとおり、「ロビン・フッド」は実在の人物や出来事がいろいろ重なりあわさって成立した架空のヒーローである。本作はヒーローとしてのロビン・フッドの活躍を描く劇画調の作品ではない。同監督の十字軍映画『キングダム・オブ・ヘブン』の続編とでもいいたくなるような12世紀英国の時代背景を踏まえたゴージャスな史劇といった風情と風格をもった作品に仕立ててきたところが特徴的であり、面白いところだ。獅子心王リチャード1世の十字軍遠征からの帰途から話を語り起こし、十字軍に従事した射手がロビン・フッドとして仲間たちと共に体制に逆らうヒーローになるまでを主筋としながら、ジョン王の課税に対する諸侯の反発、マグナ・カルタ成立にいたる萌芽を背景として描いていく。

ちなみに、近々日本でもTV放送が予定されているリドリー・スコット製作のミニシリーズ『大聖堂』は同じく12世紀だが、『キングダム・オブ・ヘブン』、『ロビン・フッド』に先立つ時代が舞台になっており、あわせて欧州中世史3部作、だな。

仕立てや構えは大仰であるけれども、だからといってとっつきにくい小難しい映画になっているわけではなく、実質的にはシンプルな娯楽活劇としての構造になっている。ただ、娯楽活劇としては、主人公たるロビン・フッドに物語をリードしていく明確な意思や行動規範がなく、周囲の状況に巻き込まれて受身で動いていくところに、ある種の物足りなさを感じないわけではない。本作の意図が「ロビン・フッド」をダシにして英国中世史の一断面を見せるという趣向だと考えると、そうした描き方もさもありなん、と納得がいくのだが。

映像的な見せ場は盛りだくさんだが、ひとつひとつに特筆すべき目新しさは感じられない。そのぶん、表現としてはこなれており、ここぞというところでの見せ方も巧みである。リドリー・スコットという名前にはもっと違うものを期待してしまいがちだが、1937年生まれにして、これだけ体力を要求される大作を次々作っていること自体が驚きというべきだろう。

12/04/2010

Amelia

アメリア 永遠の翼(☆☆★)

リンドバーグに次ぎ、女性としては世界初の大西洋単独横断飛行を成功させたアメリア・イヤハートは、 日本での知名度はあまり高くないとはいえ、米国ではたいへんに人気のある人物だ。米国の映画やドラマを見ていると思わぬところで登場することがあって、例えば『ナイト・ミュージアム2』での「活躍」も記憶に新しいところだし、『スタートレック:ヴォイジャー』には、エイリアンに拉致されていたアメリアと、彼女を尊敬する女性艦長が銀河の反対側で出会うことになるエピソードまで登場する始末である。まあ、消息を絶ったまま遺体が確認されていないというところも想像力をかきたてられる所以なのだろう。

本作は、その(米国で)国民的な人気のあるヒロインを題材とした伝記ものである。特に変わったことをやろうとはしておらず、1937年、世界一周飛行の途上、南太平洋上で消息を絶つまで、時系列的に彼女の人生をなぞっていくスタンダードな作りになっている。そこで描き出されるのは、アメリア・イヤハートという女性の奔放で自由な私生活、挑戦や偉業、米国の航空政策に果たした役割や、後進の女性たちに与えた影響、彼女を懐深くサポートし続けた夫との夫婦の愛情だ。

監督は『サラーム・ボンベイ!』、『モンスーン・ウェディング』で知られるインド出身のミラ・ナイール、脚本は『レインマン』で一世を風靡したロナルド・バス、、、をを、久しぶりに見る名前だな。本作の弱さは凡庸で工夫のない脚本と、大空を飛翔することの高揚感や爽快感、主人公を空へとかきたてる動機をきちんと映像にできていないことだろう。一方、セットや美術には金がかかっている様子で、映像はそれなりに贅沢である。

主演はヒラリー・スワンク。強い女性の繊細な感情を演じさせたら、確かにこの人、なんだろう。危なげはなく安心してみていられる。彼女を支え続ける夫役がリチャード・ギア。いってみれば、懐の深い「待つ男」という役どころ。もう一人、彼女の人生に大きなかかわりを持つ男としてユアン・マクレガーが共演。3人それぞれに持ち味を出しているのだが、想像の範疇というのか、少し退屈であるともいえる。ヒラリー・スワンクはすごい女優だと思うし、好きな人なんだが、作品選びがイマイチだ。リチャード・ギアもこういう退屈な役をやる俳優、という位置づけになっちゃったのかな。

スパイとして日本軍に捉えられていた説まであるアメリアだが、そういえば、つい最近、彼女の遺品の一部と思しき物や遺骨だと思われる骨が見つかったなどというニュースが流れていたが、今度は決定版になるんだろうか。

12/01/2010

Space Battleship Yamato (2010)

Space Battleship ヤマト(☆☆)

私はかろうじて、「宇宙戦艦ヤマト」をリアルタイムで楽しんだ世代に属している。当時、次々作られたシリーズ作品にあれこれと文句をつけながらも広い心でそれなりに楽しんできたし、とうの昔に醒めたとはいえ、「私の心ははるかにファンに近い」。(そうでなけりゃわざわざ復活篇まで観に行ったりするもんか。)

だから、あの「ヤマト」が実写で再現されているという事実、あの耳に馴染んだ旋律、あの名場面・名台詞がそこにあるというだけで、無条件に心揺さぶられるものがあったりする。それは、もう、映画の出来栄え云々を超越した次元の話である。白状すれば、あのどうしようもない復活篇ですら感慨深いものが込みあげてきて胸が熱くなる瞬間があったのだから、これはもう理屈ではない。刷り込みといってもいいだろう。

しかし、本作が「国産SF大作」なんかではなく、良くも悪くも「ヤマト」映画でしかないことには苦笑してしまった。なんだかんだいわれているが、今回の脚本はいくつかのポイントはちゃんと押さえている。ここまで「ヤマト」なら、例えばアニメの完全コピーを目指した『スピードレーサー』(←マッハGoGoGo)路線でもよかったのに、中途半端にちゃんとSF大作ぶってしまうからギャップが少々恥ずかしい。山崎監督もファンであるはずの『ギャラクティカ(2004-2009)』の剽窃的引用がやたら目立つのだが、結果として、「秋葉原の片隅で売られている聞いたこともない中国メーカーが作ったろくに動きもしないiPad もどき」とか、「中国のどこかの遊園地が建てちゃったオレンジ色のガンダム」の類のような居心地の悪さを感じないわけにはいかない。

いや、これは居心地の悪さで済ませられない話で、オマージュと剽窃のあいだにある一線とは何かについて論じるべき問題なのだろう。そして、「ヤマト」という作品(自体も回を重ねるに連れてグダグダになっていったのは事実としても、それ)が切り開いた地平、歴史的な意義に対して敬意を持つものであれば大いに怒り、悲しむべきことなのであろう。

とはいえ、もとネタが"悪い意味"であの「ヤマト」だし、どうせろくなものになりゃしないとは思っていた。もっと酷いものを予期していた。もっといえば、国産SF映画に何も期待できないという諦めの境地が出発点である。期待値が低かった分だけ、口でいうほどには落胆していなかったりもする。

結局、CGIの登場によって、技術的な彼我の差が小さくなったことが一番効いているのだろう。米国産の大作とは比べようもないほどケチな予算しかなくても、『さよならジュピター』(1984)のせいで宇宙SFものの系譜やノウハウが25年間途絶えていても、そこそこ見られる画が作れるというのにはちょっと感心する。

そうしてみると、本作がだめなのは技術ではなく、センスだ。艦内の美術やセット、衣装、小道具の(もちろん予算もなかったんだろうが)醸し出す恐るべき安っぽさ。SFマインドの欠如した今時びっくりするような描写や演出。脚本の矛盾や説明不足。あと、それと並んでダメなのは、脇のほうにいる役者たち。役者の層の薄さが露呈しているんだろうか。主演・助演クラスは演技のトーンがバラバラだとはいえ、まだ観ていられるのだけれど、脇になればなるほど酷く、これぞ学芸会並というやつだろう。効果音や音楽が途切れる艦内での小芝居は、セットが学食並であることも手伝って見ているのも恥ずかしいレベルである。

ちなみに、わりと濃いファン層からは、オリジナルから大胆に改変された脚色が許せないという声が強いようである。が、まともな映画脚本としての完成度はさておくとして、第1作と「さらば」を中心に、それ以降の作品の要素やネタを細かく持ち込んで再構成された脚本は、ああ、これは「ヤマトファン」の仕事だなとわかるし、足りないことはいっぱいあるけれども、ある意味、よく頑張ったといえなくもない。(まあ、ファンと言っても色々あって、どうもこの作り手たちは主要キャラクターを次々に殺し、挙句、特攻を美化して感動を安売りした、あの忌まわしき「ヤマト」を受け入れられるタイプのファンなんだろうけどね。)

どう転んでも勝ち目のない戦いを引き受けた監督以下の気概や、決して恵まれていたとも思えない製作環境で、それなりの商品にまとめあげた努力は評価したい。ある世代であれば誰もが夢見たであろう『宇宙戦艦ヤマト』の実写映画化は、同時に、誰が考えてもうまくいきそうにない企画でもあったはずなのだから。

11/20/2010

Harry Potter and the Deathly Hallows Part 1

八リー・ポッターと死の秘宝 Part 1(☆☆☆)

「ハリー・ポッター」シリーズもとうとう最終巻となる第7巻の映画化である。今回が前編、来夏公開のPart-2 で完結となる。2001年から始まった映画化シリーズは、途中で大きく失速することもなく、10年越し(あと1本)で8本の連作が完成することとなったわけだ。これは、素直に凄いことだと思う。

この映画シリーズにはいろいろな楽しみ方があるが、基本的には映画としての過度の期待なしに、原作の動画挿絵集くらいのつもりで見るのが良いと思っている。リアルタイムで物理的にも演技的にも成長していく主人公たちの姿を見守るのも楽しいし、時代を代表する英国名優図鑑としての楽しみもある。そうそう、本作では新たにビル・ナイ、リス・アイファンスがキャストに名を連ねた。2人とも脇役ではあるが、楽しそうに演じている。

監督は5作め以降、デイヴィッド・イェーツで定着し、本作で3本目。前2作はそれほど褒めた出来ではなかったが、今回はわりといい。少し「子供向け」の範疇を越えたハードな描写も交えたダークなトーンのなかで、クライマックスに向かう緊張感や緊迫感が出ているし、舞台が「外」に場所を移すことでスケール感の感じられる画作りも見られる。なにより気に入ったのは、タイトルの「死の秘宝」にまつわる魔法世界の説話が語られるシーンでのアニメーションで、ここだけ独立した作品としても見応えがあるくらいに素晴らしい出来栄えだと思う。

もちろん、「前編」の宿命として話が完結していない弱さはあるし、2本分割で余裕が出たがゆえの中だるみもある。他には、たとえば5作目で登場したイメルダ・スタウントンのキャラクターをお笑いに振り過ぎた後遺症も残っていて、ひとりだけ場違い感満点である痛さもあったりする。が、次回 Part-2 の長い長い予告編としては望みうる最良の部類には違いがあるまい。

今回、2本に分割されたことで、原作からの大きな変更や割愛は避けられたようだ。もっとも、これまでの映画シリーズの中での扱いの大小にあわせて調整がされているようで、扱いが悪くなったり小さくなったりしたところはある。また、これでもなお説明不足というか、原作を読んでいないと意味が分かりにくい部分が残っていたりもするが、映画シリーズをひと通り見てきていれば混乱するほどのものではないだろう。尺の余裕ゆえ可能になったことだろうか、キャラクターの心情に寄り添ったり映像的な見せ場を作る意図で挿入されたシーンがあるが、概ねストーリーテリングのうえで効果的であったと思う。

今回は3D化を目論んでいたが変換プロセスがうまくいかず、2D版のみの公開となった。出来上がった作品の撮り方や編集を見る限りでは、3Dを意識したそれにはなっていないから、3D化断念は大英断だったと思う。Part-2 もそもそもの作りが大きく変わっているとは思えないので、作品という意味では2Dのままでいいんじゃないか。ただし、興行的にはこういうヒット確実な作品で、しかも3D箱で上映しておきながら、3D分の上乗せが見込めないあたりが辛いところだろう。

11/14/2010

Twilight Saga: Eclipse

エクリプス トワイライト・サーガ(☆☆)

あっという間にシリーズ3作目。原作は4部作だが、最終章は2本に分けて映画化される模様。

今回、映画本編の始まる前に、特別編集「これまでのあらすじ、設定ご紹介」が流された。レンタルだろうと放送だろうといくらでも前作を見る機会がある今の世の中、正直、この映画を「見たい」と思って劇場にくる客が、1~2作を見ていないというのもレアなケースだろう。してみると、この前説は、こんな映画には興味もないのにデートで彼女に付き合うことにした男の子向け、なのか、昨今物忘れが激しくなってきて、全部見てきたくせに細かい設定なんざ覚えちゃいない当方みたいな観客向けっていうことだろう。

さて、今回のお話しである。2作目でいったん離れ離れになってひと騒ぎあったものの元の鞘におさまった主人公カップル。舞台は再びシアトル郊外の田舎町。高校を卒業したら前作での約束通りヴァンパイアの一員になると決心しているヒロインに、自分と同じ苦しみを与えたくないと苦悩する優等生彼氏。そこに、「俺と一緒になればそんな苦しみとは無縁だぜ」と上半身裸の人狼君が割って入り、あらためて3角関係ごっこがぐだぐだと展開される。一方、1作目で敵対した勢力の生き残りである赤毛のヴァンパイアがしつこくヒロインをつけ狙い、とばっちりを受けた草食ヴァンパイア一族と人狼一族が共闘し、赤毛が作りだした凶暴な戦闘部隊と一線交えることになる。

まあ、なんだ。乗りかかった船なので、次は少しくらい面白くなるか、盛り上がってくるか、とちょっとだけ期待しながら見続けている。が、予想通り、ちっとも面白くならないので困ったものだ。

今回は三角関係がヒートアップし、ヒロインを守るために嫌々ながら共闘したり、半裸男に寝取られを許したりというのが見せ場だろうか。また、人狼一族に聞かされた一族を守った女性の勇気ある行動、吸血一家から聞いた南北戦争期に恋愛感情を利用された苦悩などのエピソードが現在とシンクロしてくるドラマ性もある。本当に見るべきもののなかった前作よりは内容が濃い。

が、これはもう、原作の問題だと思うのだが、そもそも、おはなしがそれほど面白くないんだな。少女漫画なんだからそんなものといわれたら返す言葉もないが、そもそも自分中心で身勝手なヒロインに好感を持つことができない。人狼にも期待させる素振りを見せたり、振っておきながら自分や家族のみを守るために利用しようとする性根が悪い。こんなやつはさっさと吸血されて魂を失ってしまえばいいのである。

そんなヒロインを苦悩の表情で見つめるばかりの彼氏と、諦めの悪い半裸の人狼については、まあ惚れた弱みというか、自業自得のうちだと思うのだが、その仲間や一族は、ヒロインさえいなければ起こらなかった争いに巻き込まれているようにしか見えない。いっそこの小娘さえ殺してしまえば全てが円満になるんじゃないか。

前作でスケールが世界規模に大きくなるのかと思いきや、またしてもシアトル郊外の田舎町という小さな舞台での小競り合いに収束していくあたりも、なんだか、もうどうでもいいから勝手にやってろ、という気分になってくる。

しかし、このシリーズは作り手にとっては鬼門だろう。ハイペースでの続編製作を可能にするため、毎回監督を替えているのはご存知のとおりだが、そこそこまともな映画を撮れるはずの人たちが、次々と評判を落としている。前作では『アバウト・ア・ボーイ』のクリス・ワイツが、本作では『ハード・キャンディ』のデイヴィッド・スレイドが犠牲になったが、次回作はホラーものにも造詣の深い『Gods and Monsters』のビル・コンドンが登板しているということだ。ああ、ビル・コンドン!ご愁傷さま。。。

11/12/2010

Machete

マチェーテ(☆☆☆★)


『マチェーテ』は、俗悪エクスプロいテーション映画の顔をしているが、それは上辺のお遊びに過ぎない。

見れば分かることだが、娯楽大作の顔をしていながら基本が出来ていない作品が横行する中においては稀なくらいに真っ当で、よくできた娯楽アクション映画である。それと同時に、荒唐無稽を装いながら、実に現代性、社会性のある真面目な映画でもある。

部分的な瞬発力はあっても全体的な構成力に欠けるロバート・ロドリゲスの作品にしては、ストーリーも、構成もかなりまとも。緩急もあるし、バランスも良い。そういう優等生的な作品をロドリゲス兄貴に求めるかどうかは別として、これはかなり出来がよい部類の作品、広くオススメしたい1本である。

・・・とはいっても、もちろん、過剰なバイオレンスや無駄なエロ描写に抵抗がなければ、の話である。

まあ、それも想像がつくとは思うのだが、それぞれ「過激バイオレンス」、「無駄エロ」の真似事、ごっこ遊びの範疇であって、たいしたことはないんだけどね。何しろ、これは俗悪映画2本立てを再現する『グラインド・ハウス』の冗談予告編から発展したスピンオフ(?)なのだから。だいたい『グラインド・ハウス』という企画そのものが、低俗映画「風」のごっこ遊びであったわけで、本作のエログロ描写が「お約束だからやっている」という模倣の域をでないのは当たり前である。それを腐すより、一緒に笑って楽しむのが吉というものだと思うのである。

さて、おはなしはこんな感じ。

主人公、コードネーム「マチェーテ」はテキサスの日雇い労働者に身をやつしていたメキシコの凄腕麻薬捜査官だ。不法移民排斥を訴える上院議員(ロバート・デニーロ)の暗殺を強要されるが、それは罠であり、暗殺未遂犯として追われる身ってしまう。上院議員の周囲にはドラッグ・マネーに絡んだ陰謀が存在しており。かつて妻子を惨殺した麻薬王(スティーヴン・セガール)や、自警団の男(ドン・ジョンソン)らを敵に回して闘うことになる。主人公に手を貸すのは、彼が兄と慕うカトリック神父(チーチ・マリン)や影で移民を支援する女(ミシェル・ロドリゲス)、そして女警官(ジェシカ・アルバ)。追いつめられた主人公だが、虐げられてきた同胞たちと共に「戦争」に挑む。

ストーリーの核に据えられている米国に流入するヒスパニック系移民をめぐる問題は、まさにいまそこにある現実であり、洒落にならないところまできている。本作も、「マチェーテ」のために荒唐無稽な話を作ったというよりも、少しだけ誇張された現実の中に「マチェーテ」という荒唐無稽なキャラクターを放り込んだ、というほうが正しいくらいである。

それを思うと、本作のクライマックスが「怒りが爆発した主人公の大暴れ」ではなく、「虐げられてきた人々が団結して蜂起」する展開であることも納得がいく。フィクショナルなキャラクターの活躍で溜飲を下げる段階はとうに過ぎているということだろう。そこには、作り手の「同胞」に対する連帯意識とアジテーションが少なからず含まれていると読み解かねばなるまい。

トリプル・ヒロイン体制で、一番特をしているのがミシェル・ロドリゲス。強いばかりか美しく、これまでにない魅力が出ている。ジェシカ・アルバはいい役をもらっているが、こういう映画で脱がずにCG処理っていうのが潔くない。可愛く魅力的に撮ってもらっているが、やはり株は下がったといえるんじゃないか。また、かつての名子役で人気絶頂のアイドルだったリンジー・ローハンが見るも無残な役柄・容貌で出演しているが、ここから先、彼女がこのまま身を持ち崩していくのではなく、ドリュー・バリモアの奇跡を再現できるよう祈っておこう。

11/06/2010

Brooklyn's Finest

クロッシング(☆☆☆)


北朝鮮を描いた壮絶な人間ドラマ、じゃないほうのやつ。アントワン・フークアの野心作、"Brooklyn's Finest" である。

リチャード・ギアが珍しい役をやっている。ブルックリンの警官。制服組で定年間近。厭世感たっぷりでやる気もなく、トラブルの現場も見てみぬふり。ただただ面倒を避けて勤めを終え、チャイナタウンで馴染みの娼婦を抱く。コンビを組まされた若い警官にも愛想をつかされる始末だが、あることをきっかけに、彼の心の中が少しだけ動く。無事に引退の日を迎えバッジを外したギアだったが、偶然、行方不明として捜索願の出ていた女性が薬漬けにされ、どこかに運ばれる現場に出くわす。

同じ警察署には、身重で喘息持ちの妻や子供たちのために引越しを望んでいながら金の算段がつかないイーサン・ホークがいる。無理を云って契約した物件に対する手付の期限が迫っているが、警官の安給料ではまとまった金を作るのは難しい。焦燥したホークは殺人・強盗も厭わず、捜査現場からのドラッグ・マネーの横領を画策する。

また、この管轄の犯罪組織に潜入捜査をしている男、ドン・チードルがいる。長年の潜入捜査により、家庭は崩壊してしまった。そろそろ捜査から上がりたいと望む男だったが、警官の不祥事による失点をカバーするため目立つ実績作りに躍起のFBI(エレン・バーキン)や上層部(ウィル・パットン)から、男の命の恩人でもある犯罪組織の主導者(ウェズリー・スナイプス)を偽の取引きに誘い込むよう指令を下される。板挟みで悩み苦しむチードルだったが、彼を信用しきったスナイプスに取引を持ちかける。

三者三様の物語が、犯罪の巣窟と化した大規模公営住宅を中心に展開される。並行して語られる3つの物語は最後の最後になって一瞬だけすれ違うが、絡み合うことはない。邦題、クロッシングは、3人がどこかで交差するとでもいいたいのだろうが、ちょっと微妙だ。(「裏切り」かとも思ったが、違うんだな。)

出口のない街で繰り広げられる、ビターな物語を、まさにそのまま重苦しく真面目に描いて、アントワン・フークアの力の入りようはよくわかる。ヒーローとしての警官ものではなく、娯楽映画としてのファンタジーでなく、ドラマの中で幾度となく登場した「典型」をより現実に引き寄せ、一面的ではないキャラクターとして肉付けし、ドラマとして再構築しようとする試みである。が、3人の物語が並行して描かれるばかりで一つの物語として絡み合っていかないため、それぞれが、そこそこに面白いとはいっても、結局のところ重いくせに薄味で満足感が足りない。結論のでない答えを考えさせられて疲労し、スッキリしない。クロスしない3つの物語に132分は、ちと長いだろう。

あるいは、個人的事情から悪徳警官に落ちていったイーサン・ホーク、厳しい潜入捜査に耐え、上層部の勝手に振り回されながら個人としての正義を貫こうとする(ある意味での)ヒーローであるドン・チードルが、物語の定石どおりの結末を迎えざるを得ないのに対し、そうしたものと無縁でやってきたリチャード・ギアが本作における予期せぬヒーローとして物語を静かに締め括る役割を担っていることから、表面で語られているストーリーとは別に、単に皮肉というのでもなく、そういう物語の構図や構造から何かを読み解くことが期待されているのかもしれないと思ってみたりもする。そうだとするのなら、アントワン・フークアの野心はともかくとして、力量がちょっと足りないんじゃないだろうか。作り手自体が、物語の構造よりも、物語の中で起こる出来事に興味を引きずられているように思う。

10/31/2010

Going the Distance

遠距離恋愛 彼女の決断(☆☆☆)


振られて気落ちしていた彼と、NYでインターン中だった彼女がバーで出会って意気投合するが、彼女は夏が終わればサンフランシスコに戻って学期を終えなければならない。それを承知で始まった関係だったが、互いに去りがたく、遠距離恋愛として続けることを選択する。大陸の東と西、時差もあれば、ハイシーズンの航空機代が2000ドルを越えることもある。離れている寂しさや、不安を与えるような周囲の助言に負けず、誠実に関係を続けようとする二人だったが、NYで職を得ようと努力しても報われない彼女に、地元の新聞社からのオファーが出たことで決断を迫られる。

ロマンティック・コメディ。えーと、コメディの方が少し強め。台詞でもシーンでも下ネタ系が多いから注意が必要だが、明るく笑えるレベルの節度は保っている。とはいえ、子供に見せるもんでもないので、国内でもR-15指定になっているのだね。

ところで、本作主演のドリュー・バリモアとジャスティン・ロングといえば、ここ数年、くっついたり離れたりとお騒がせなカップルとして有名だ。まあ、実のカップルがスクリーン上でカップルを演じると悲惨な結果になることが多いのは知ってのとおりだが、本作はどうか。この二人、もちろんその熱々ぶりで勝手にやってろ、と思う観客もいるのだろうが、素直に見ると、スクリーン上で格好いいところばかり見せようとするのではなく、情けなかったり下品だったりするところも素顔や本音に近いところも、普段着な感じをあっけらかんと晒すあたりが悪くない、と思うのである。そして、やっぱり、スクリーン越しに見ても本当に2人の相性がいいことがよく分かる。まあ、最近(また)破綻したらしいけどさ。恋人同士でもあり、仲の良い友人同士でもあるような、いい空気がそこにある。

この映画は、二人が以前に共演した『そんな彼なら捨てちゃえば』とは違って、ドリューのプロダクション(Flower Films)のものではないが、映画の内容や作品のテイスト、演じるキャラクターに至るまで、いかにもドリュー・バリモア(そして、ジャスティン・ロング)の映画だという先入観を裏切らない。実に「らしい」仕上がりである。だから、この2人が、この2人が出ていた作品が好きなら、まずまず楽しめるはずだ。

例えば、コメディ部分の微妙に下品なテイストも、それを嫌がらずに演じてみせるドリューの個性の反映であるし、過去のコメディ作品で彼女が体当たりで見せた下品ネタを思い出すことだろう。やたら映画ネタが多く、そのうちいくつかは80年代ネタであるのもドリューの趣味が強く反映されているように見える。(80年代映画ネタでは爆笑必至のシーンがある!)またキャラクターの設定でも、過去の回り道の結果年齢がちょっと高いヒロイン、というところに、回り道をいっぱいしてきたドリューの人生が重なって見える。2人の職業属性にしても、新聞記者を目指すドリューって、以前にも高校に潜入するライターってやってたし、CMで"Mac君"をやっていたジャスティン・ロングにはやはりお堅い職業ではなく、レコード会社勤務が似合う。ジャスティン・ロングの微妙に行けていない感じや誠実さは、『そんな彼なら捨てちゃえば』や『スペル』でも同じイメージで描かれていた路線だし、ユーモアのセンスは御存知の通りだ。

ことほど左様に、観客の映画的記憶と主演2人の個性をうまく利用した仕上がりで、楽しい時間を過ごせる佳作だと思う。惜しむらくは、こうした作品が全国ロードショーではなく非常に限られた劇場でしか公開されない日本国内のマーケット状況である。昔は地方だと2本立て興業が主流で、1本では勝負できないこういう小さい作品でも、何かのついでに「出会う」ことが可能だったし、それが結果的に映画ファンの裾野を、見られる映画のジャンルの幅を広げていた面もあったように思う。結局、こういう作品はレンタルやCATVのマーケットにしか活路がない時代なのかと思うと、ちょっと寂しい。

ああ、そうそう、「おせっかいなヒロインの姉」という定番ポジションで、クリスティーナ・アップルゲイツが好演。このひとがこういう役をやるようになったか。一昔前ならキューザック姉の独壇場だったんだが。

10/30/2010

El Secreto de Sus Ojo (The Secret in Their Eyes)

瞳の奥の秘密(☆☆☆☆)

米アカデミーで外国語映画賞をかっさらって番狂わせ呼ばわりされたアルゼンチン映画である。米国でTVドラマなども撮っているベテランのフアン・ホセ・カンパネラ監督作品。まあ、他のノミネート作が未見なので比較してどうこう云えないのが残念であるが、本作、非常にオーソドックスな娯楽映画でありながら、なかなか見ごたえのある力作、映画らしい映画である。

話はこんな感じ。

引退した刑事裁判所の元書記官が、かつて手がけた婦女暴行殺人事件の顛末を小説にしようとするところから物語は幕を開ける。アメリカ帰りの若く有能な女性判事補や同僚の助けを得、苦心の末に真犯人の逮捕に至った事件であったが、終身刑のはずの犯人は裏取引で釈放されてしまい、命の危険を感じた主人公はブエノスアイレスを離れ、田舎に身を隠すことになった。過去の煮え切らない思いが主人公を小説執筆に向かわせるのである。また、主人公にはもう一つ、決着のついていない感情があった。それは、いまや検事に昇進したかつての上司に対する秘めた想いである。高卒叩き上げの主人公は、その想いを表向き口にすることができずに彼女の元も去らねばならなかったのだ。25年もの空白の時を超え、ドラマはどのようなかたちで決着を見せるのか?

この作品、単なる筋立てだけであれば、とりたてて新しいものでもなく、まあ、他の国でもリメイクできるんだろう。しかし、アルゼンチンの現代史や司法制度を背景に描かれる本作の空気までは再現できまい。まあ、例えていうなら、良質な韓国映画のような感じだろうか。なんというか、こう、理屈だけで割り切れない情念のようなものが、歴史に翻弄され、渦巻いているのである。

主人公と上司の関係。殺人事件の被害者の夫の亡き妻への愛情と、犯人逮捕への執念、そして怨念。当時の不安定な政治状況や、それによって失われてしまった時間。これを、「現在から過去を創作物の形で振り返る」という多層構造で描く着想がよかった。そう、映画の中で語られる「過去」のシーンは、主人公が(願望も含め、ある程度都合よく脚色して)書いた小説の中の出来事であって、本当にそのとおりだったとは限らない。そういうところが、ラストに向けて地味ながらジワリと効いてくる。

この映画で、なにより素晴らしいと思うのは、セリフで一から十まで説明しようとはしていないことである。役者の力も大きいのだが、ここぞという場面では、一瞬の映像で状況や人物の感情を雄弁に語ってしまう。特に、主人公らが確固たる証拠も何もなく直感と思い込みで確保した容疑者の取調べシーンは凄かった。アルゼンチン映画なので、スペイン語を解さない当方としては字幕に頼って、ある種、もどかしい思いをしながら映画を見ているわけだが、それだけに、セリフも字幕も関係なく、役者の視線や演技、編集のカット割り、それだけで、その場面で起こっていることのすべてが氷解するがごときに理解させられてしまう瞬間のインパクトは強い。そういう瞬間、映画を見る幸福に包まれる。

映像と演技の力で、劇中、タイトルの「瞳の奥の秘密」の持つ2重、3重の意味合いが次第に明らかになっていくのだが、そのプロセスが非常にスリリング。主演のリカルド・ダリン、ソレダ・ビジャミル、実にいい俳優だ。

10/16/2010

Eat, Pray and Love

食べて、祈って、恋をして(☆★)

えーと、週末の朝なんかのTV番組で、よくわからないタレントを担いだ海外紀行コーナーがあるでしょ。さすがにあんなのよりは面白いんだけど。

売り出し中の作家が、離婚し、理解できずにすがる夫を退け、若い男と付き合うがうまくいかず、イタリアにいってイタリア男から伊語を学んでパスタやピザを食べ、インドに行ってNY出張もこなす売れっ子グルの観光地的な道場で修行し、バリにいってインチキ臭いゴロツキのラテン系エクスパットと恋に落ちる話。

まあね、作り手とジュリア・ロバーツは世界各国巡りで楽しかったんだろう。しかし、映画を見ているこちらとしては、彼女が出かける先がちっとも魅力的ではない。(これを見て、「素敵」と思っちゃった観客は、おそらく人生を考え直したほうがいい。)

これが、主人公のお気楽さを馬鹿にし、批判的に見せるという深遠なる意図があってこうなっているというのなら、すごい作品かもしれない。

だって、結局のところ、行く先々で、主人公と同類の「お気楽な外国人旅行者・エクスパット」の類と、「それを食い物にしたい現地人」の狭く特殊なサークルにこもっているだけで、ちっともその殻を破りはしないのだ。

これを表面的に見て素敵だと思え、というのは普通に考えるとおかしくないだろうか。ある種の批評的な視点があると思わなければ納得のできない、いかにも変な描写の連続である。

この映画の面白さは、「本当の意味で現地の社会やカルチャーを知ろうとはしないのに、世界のすべてを見た気になって、ちょっと親しくなった現地人のために寄付を募って人道支援なんかもやっちゃった気分の、いかにも米国的な自己欺瞞女のポートレイト」を、意図してか意図せずしてか、かなり露骨にスクリーンに映し出してしまったこと、だ。

で、この映画の失敗は、おそらく意図していなかったから当たり前なんだろうけど、ここで描かれた主人公の姿や行動に対する批評性を明確に感じられず、表面的には単なるお気楽映画にしか見えないことだろう。いや、じっさい、骨の髄までお気楽映画なのかもしれないけどさ。

要は、この映画を間に受けることが出来る人は(それはそれで)幸せだし、この映画を逆説的にせせら笑いながら見る人も楽しめる映画でもあるが、素直に見るくらいなら昼寝していたほうがマシな作品である、、、あ、見る前から分かっていたはずことを書いてしまった;

The Expendables

エクスペンダブルズ(☆☆)

軍事独裁の南米小国に殴りこみをかけ権力者を排除するという依頼を引き受けた最強傭兵チームが、現地で手引きする女性を救助するとともに、麻薬権益独占のために裏で糸を引く元CIAを倒すために奮闘する、という話。

『ロッキー』、『ランボー』の2大シリーズの無茶な続編をそれなりに仕上げたうえで中ヒットに導いたことで自信を深めたに違いないシルベスター・スタローン(共同脚本・監督・主演)が、見るからにむさ苦しい肉弾系アクション・スターや格闘系スターを集めて完成させた80年代風殴り込みアクション映画である。考えて見れば孤独なヒーローか、せいぜいコンビもの止まりだったスタローンが、一歩引いて「チームもの」をやっていること自体が新機軸。

まあ、本作にもカメオ的に出ているブルース・ウィリスがTVのコメディ・スターから転身した『ダイ・ハード』の登場によって、この手の映画は表舞台から消え去ったわけで、この映画が身にまとう懐かしい雰囲気は、だからそれだけで褒め讃えたくもなるのだが、いや、それでもこれ、出来のいい映画ではないよ。

こういう映画では筋書きなんてどうでも良いと思われがちだが、主人公らの活躍に気持ちよく喝采を送るためには、それなりの条件が整っていなくてはならないものだ。そもそも敵は憎らしい悪党でなければならないし、主人公らにブチ殺されて当たり前と思える輩でなければならない。実のところ、本作はその根本的なところで失敗しているのである。

もちろん敵の本丸たる「元CIA」は私利私欲のみの傲慢で嫌な男である。傀儡の将軍やその配下も横暴な振る舞いだ。

・・・が、直接的な描写は多くない。記号としての「悪党」、つまり、こいつらは悪いヤツですよ、という設定だけで十分なケースも多々ある。が、本作における主人公らの無敵さ加減と描写の残虐さ加減を前にすると、どうにも釣り合いが取れいるとは言い難いのだ。

スタローン演出は『ランボー/最後の戦場』の路線を踏襲しており、バイオレントな残虐描写が頻出する。味方は無傷(とまではいわないが)なのに、敵方は為す術も無く次々に血祭りというのでは、「丸腰の住民を虐殺するミャンマー軍」とあまりかわらない。いったいどちらが悪人か。

また、祖国を売った父に反抗する将軍の娘、将軍と娘の和解、将軍と元CIAとの決別などというプロットが混入してくるからややこしい。

現地案内人が実は「将軍の娘」だというヒネリは面白い。が、これを活かすには、終盤、例えばこんな展開が必要だ。"将軍が改心し忠実な部下たちと一緒に元CIAを一掃すべく蜂起するも、軍隊を掌握した腹黒い副官の裏切りにより、忠実なはずの軍隊がすべて元CIA側につき一瞬で鎮圧、将軍は娘の手の中で息を絶える。そこ主人公らの怒りのボルテージが上がり・・・"ってな感じ。ね?

この映画では、将軍のいうところの「忠実な部下」たちは、元CIAらが将軍を射殺した後も、思考停止のまま元CIAの私兵よろしく、主人公らの前に立ちふさがり、意味なく虐殺され続けるだけだ。それは、「敵方が私利私欲で2つに分裂し、その混乱に乗じて主人公らが両派を一掃する」話、なら良いのだけれど、将軍と娘のプロットとは全く整合性がとれない。

そんなこんななので、本来熱血盛り上がりになるはずの壮絶なクライマックスも、目的の見えない軍隊相手に主人公らが暴虐を尽くすだけ。そこには悪党を一掃することへの爽快感がない。そんな映画を楽しめるのか?・・・まあ、部分的にはね。スタローンは義理堅く、出演させたスターや格闘家それぞれに見せ場を作っていて、そういうところは好印象だし、例の3人がスクリーン上で一堂に会するところは、そういうシーンがあることを知っていても息を飲む。

ま、最後に長渕剛の日本版主題歌とやらが流れてきて、すべてがどうでも良くなってしまうわけだが; 日本版主題歌は、100歩譲って、せめて吹替版だけにしてくれないもんかね。

10/10/2010

Legend of the Guardians: The Owls of Ga'Hoole

ガフールの伝説(☆☆☆)

なんだか国内興業では盛大なコケ方をしているようだが、古くからの『スター・ウォーズ』ファンには本作が劇場から駆逐される前に鑑賞することをオススメする。せっかくだから3Dで。

舞台は(おそらく)フクロウたちが文明を築いている世界。種族によらず役割を果たし共存する立憲王政的な共和国と、特定種族の純血性を土台に他の種族の隷属を求める悪の帝国が歴史的な戦いを繰り広げ、悪は滅び去ったはず、だった。・・・が、悪の皇帝(?)は生き延び、帝国は密かに版図を拡大しつつあった。しかも、いつの日かやってくる決戦の日に備え、フクロウ一族に対して圧倒的なパワーを発揮する未知の秘密兵器の完成を急いでいた。そんななか、英雄たちの伝説を聞かされてのどかに育った主人公とその兄は、飛行訓練も満足に終わらぬうちに帝国に拐われ、こともあろうか兄のほうは帝国軍の兵士として見出され、順応させられていく。悪の要塞を抜けだした主人公は、伝説の勇者たちが住むというガフールの地を目指して旅立つのだった。

そんでさ、目の前にいた老人が伝説の勇者だったりさ。頭で考えずに砂嚢で感じろ、とかなんとか教えを受けちゃったりさ。炎燃えさかる中でのダークサイドに落ちた身内との決闘があったりさ。罠にかかって全軍一網打尽の危機に主人公が秘密兵器の中枢をシャットダウンしてさあ反転攻勢だ、とかさ。ここ一番のところでフォースを使え、じゃなくて砂嚢を使え!とかさ。ひとまず悪の親玉を倒して共和国の王と后の前で表彰されるとかさ。悪の残党は捲土重来を期して撤退とかさ。

もう、すっげーSW濃度が高いんだからっ!燃えろといわれなくても燃えますって。

そんな話を、CGIアニメーションとはいえ、『ドーン・オブ・ザ・デッド』、『300』、『ウォッチメン』で名を上げたザック・スナイダーが監督しているんだよ?

まあ、騙されたと思って観てほしい。SW好きなら存外に楽しめることを保証するからさ。

それはともかく。

原作である『ガフールの勇者たち』シリーズは、フクロウの生態を伝えるノンフィクションにするつもりでリサーチしてたのが、ファンタジー仕立ての児童文学に転化したものだという。本作にも、擬人化しながらも過度なキャラクター化を避けたフクロウたちのデザインや、排泄物としてのペレット、食事としての(おいしい)芋虫などの表現が残っていて、比較的に実写寄りのキャラクター・デザインになっているはそんな背景もあってのことだろう。

その結果、この絵柄、子供向けにはリアルで怖い、気持ち悪いと思われるのだろうが、これが意外なことに、ヒロインや妹は「萌え」可愛いく描かれているし、悪いやつは悪く、格好いいやつは格好良く、味のあるやつは味のあるキャラクターになっている。このあたりのバランスはうまい。同じスタジオが手がけた『ハッピー・フィート』と同じ感覚だ。

残念ながら吹替版が市場を席巻しており、当方もオリジナル音声を聞いていないのだが、実力者が脇を固めた吹替版の出来栄えは悪いものではない。映像におけるキャラクターの描き分けを補強するものになってから見分けがつかなくなるなどの懸念もない。だいたい、主人公の兄の声に、浪川大輔(新3部作・クローンウォーズのアナキン・スカイウォーカーの声)というキャスティングが洒落ているじゃないか。

原作シリーズの前半4分の1くらいをダイジェストしながら再構成しており、駆け足しでドラマが薄くなっているような印象は否めない。が、とにかくビジュアル面は見ごたえがある。モフモフしたフクロウの毛並みも気持ち良さそうだし、空を飛び、鉄の仮面や爪を身にまとったフクロウたちが壮絶な空中戦を繰り広げる様も3D映像で迫力たっぷりである。そしてザック・シュナイダーが得意とする『300』スタイルの可変スピードと回り込むカメラでアクションを見せる演出も案外3D表現との相性が良い。このスタイル、もう食傷気味だ、などとは馬鹿にはしていられないかもしれない。また、3Dの奥行き感を活かした集団戦の演出には新規性も感じられる。

作品全体としての完成度は並の範疇を出ないところもあるので、内容的に「取り急ぎSW好きにお勧め」とした。が、この秋、見る価値のある3D映画は3Dカメラで撮ったことを売りにする『バイオハザード』ではなく、こちらだと断言したい。もひとつ言えば、CGI全盛の今日、「CGIによる実写志向のアニメーション」と、「CGIを多用するVFX映画やパフォーマンス・キャプチャー作品」などの垣根は完全に崩壊したことが、人材面での越境というかたちで表出した作品群の、そのなかでもかなり要諦となる1本として、アニメーションながらザックス・スナイダーの手癖が満載の本作は必見。ていうか、とにかく見ろ。劇場で。3Dで。打ち切り前に。急げ急げ!

Knight and Day

ナイト&デイ(☆☆☆★)

男女、(多少は旬を過ぎたかもしれないが)誰にも真似のできないオーラを放つスーパー・スタア・カップルが共演する楽しいロマンティック・アクション・コメディ。

しかも、ジャンルを問わず佳作を撮り続ける職人、ジェームズ・マンゴールド監督が、ハリウッドお得意の「巻き込まれサスペンス」、「スクリューボール・コメディ」、「スパイ・アクション」の3つのジャンルを掛け合せてみせる。尺は1時間50分。伏線をきっちり回収し、少し心温まる気持ちのいい幕切れ。これ、文句なしの「お気楽ポップコーン・ムーヴィー」の快作、だろ?

思うにトム・クルーズ、案外、こういう映画をやってきていない。彼のフィルモグラフィには、俳優としての演技やプロデューサーとしての嗅覚を評価して欲しい映画、はたまた、映画ファンとしての自己満足といった映画は多いのだが、純粋に「スターであることに自覚的に応えてみせるだけの映画」という意味では、『カクテル』くらいしか思いつかない。

しかも、今回は、自分の胡散臭いイメージそのものをパロディにしてみせる余裕まで見せてくれる。そう、『ミッション・インポッシブル』のようにスーパー・スパイが活躍する映画、ではなく、事件に巻き込まれたキャメロン・ディアス側の視点で、正体のわからぬ胡散臭い男に振り回される話になっているのが技ありだと思うのである。

しかし、『バニラ・スカイ』であれだけ散々な扱いを受けていながら、脚本を読んでトム・クルーズに声をかけたというキャメロン・ディアスもよく分かっている。なにより、演技者としても「キャアキャア騒ぐ頭からっぽのめんどくさいけど可愛いブロンド女」を嬉々として演じてみせ、40も近いのに堂々と赤ビキニを着てみせるあたり、あのゴールディ・ホーンの絶頂期に並び称されるべき愛すべきコメディエンヌぶりではあるまいか。(ゴールディ・ホーンは50になってもパンチラやってたけどな。)トム・クルーズとの息もあっていて、掛け合いの間が抜群。

脇役にも『ダウト』でメリル・ストリープ相手に一歩も引かなかったヴィオラ・デイヴィスを起用したり、胡散臭い裏切り者といえばこの人、ピーター・サースガードを起用し手抜かりはない。

気になることがあるとすれば、明るく楽しい映画に似合わず「悪人」とはいいきれない人がたくさん死ぬことか。武器商人配下は構わないのだが、単に職務に忠実なだけのFBI職員たちはいい迷惑である。「悪の組織」を相手に戦うときには「敵」という記号として了解できるのだが、今回のようなケースでは少し気になるものだ。

とはいえ、ロマンティックな光景を楽しめる世界各地の特徴的な場所をロケしてまわり、段取りがめんどうなところは薬で眠って(眠らせて)すっ飛ばし、楽しい見せ場だけをテンポよくつなぐ手際のいい構成。主演の二人がかなりの割合のスタントをこなしているようにも見え、作り手のサービス満点ぶりが心地良い。ちょっと、古きよきハリウッド映画の現代版といった風情で

10/09/2010

Resident Evil: Afterlife

バイオハザード IV アフターライフ(☆☆)

同じポール・アンダーソンでも偉くなっちゃった"PTA"の方じゃなくて、中学生映画を連発する愛すべきポール "WS" アンダーソン監督が、シリーズ第4弾に復帰、3D化に挑んだアトラクション映画である。バイオハザード・シリーズとしては第2作目で早くも愛想が尽きたので前作は未見。しかも、アバター同様に3Dカメラで撮影したことが売り物の作品であるにもかかわらず、2D上映での鑑賞であることをお断りしておく。

で、2Dで見たのだが、どういう3D効果を狙っているのかは平面でも分かる。まずは古典的な「何かが飛び出す」系の演出。弾丸、コイン、硝子やコンクリート等の破片、巨大な斧や剣、それにゾンビやその口から飛び出す変形した不気味な顎、等々である。もうひとつは、画面の奥行きを活かした「高低の落差」系の演出で、高いところから落下したり上下移動をするシーンが比較的多く登場する。3Dで見ていたら、まあ、遊園地のアトラクション並には楽しめるのかなぁ、と想像する。あと、終末的な世界をスクリーンという窓から覗き見るようなところもあるが、舞台が限定的であるためにそれほどの見せ場にはなっていない。

アクションの演出も、大型の3Dカメラゆえの制約もあるのだろうが、3Dの特質を踏まえたものになっている。つまり、一時期流行した細かいカットをつないで編集で(誤魔化して)見せるのではなく、カットを割らず(CGIワークでごまかしながら)スローモーションや回り込みで見せるタイプの演出になっている。

3Dで見てもいないくせに、実写系の3D作品としての側面に言及するならば、やはり、そこは試行錯誤の途上ながらも着実に進化をしているように見受けられるのだが、題材が題材ゆえか、見慣れた「立体映像アトラクション」に終始し、観客の想像を超えるような新しい要素は見出せはしない。

では、ストーリーを含めたアクション活劇としてはどうかといえば、まあ、前作を見ていないのだから、主人公がやたらめったら強い上に分身までして戦う冒頭・渋谷のプロローグはさっぱり意味不明であることを割り引いて考えても、さして面白いものでもない。見ているあいだはそこそこ刺激が持続するが、ストーリーもなければドラマもない。謎の男は危険な囚人なのか、味方なのか、サスペンスになる前に底が割れる。廃棄された牢獄からゾンビで溢れた市街を強行突破するかと思いきや下水経由の肩透かし。いけ好かない映画プロデューサーは安っぽく敵のしもべに成り下がり、敵ボスはエージェント・スミスの安っぽいパクリ。アクションにも新規性はない。もはやゾンビは背景美術でしかない。続編には色気をだして中途半端な終わり方をする。

もちろん、"WS" の映画に多くを求めちゃいないから、そんなもんだろう、と割り切って暇つぶしに見るなら腹も立たないものだ。しかし、この程度の映画で、ゲームのファンなんかは満足できちゃったりするものなのだろうか。ここには、ゲーム特有のインタラクティブ感や没入感はゼロなんだけど。いや、没入感は3D化で少しは上がっているのかもしれない。だとすれば、この手のジャンルの映画にとって3D化はあるべき進化の方向だろう。

10/02/2010

13 Assassins

13人の刺客(☆☆☆)

往年の東映映画のリメイクが、ジェレミー・トーマス製作・三池崇史監督の東宝映画(配給だけど)ってんだから、なんだか支離滅裂。随分と構えの大きな作品であり、もちろんお金もかかっているようだ。それゆえか、いつになく作り手の意気込みや本気度が画面の隅々に漲り、特に映画前半にはある種の風格すら漂っているのだが、一方で、監督らしい手癖というか、見せなくてもいいグロ、やらなくてもいいエロで、幾分映画が安っぽくなっている部分もある。まあ、それも個性のうちだといえばそうなんだけどさ。いずれにせよ、これだけ大掛かりで複雑な作品を作り上げることの苦労を思うと、拍手を進呈したいと思う。

江戸時代末期を舞台に、残虐な暴君を放置できぬと、密命を受けた男たちが計略を図って暗殺を試みる。手勢は13人に相手は200人。参勤交代の帰国途上、宿場町を借りきって決戦の火蓋は切って落とされる。役所広司、山田孝之、松方弘樹、沢村一樹、古田新太、伊原剛志、伊勢谷友介、六角精児、市村正親、松本幸四郎、内野聖陽、稲垣吾郎、岸部一徳、吹石一恵のオールスター・キャスト。

強大な絶対悪を倒すミッション遂行ものを基本とした娯楽活劇で、売り物は延々と続くクライマックスの集団戦闘シーン。だが、映画の内容は意外や風刺的、批評的である。リメイク時代劇であるが、見せかけではなく内容の面でとても現代的である。

稲垣吾郎演ずる暴君は、「平和な時代に生きる実感を感じられない」と嘆き、他人への想像力もなく自己中心的で残酷な行動をとる男である。もっともらしい理屈をこねはするが、それで何もかもを正当化できるわけもない。これをある種の現代(日本)人と、時折引き起こされるむごたらしい事件がオーバーラップしてくるのは意図的なことだろう。トップアイドル・グループのメンバーらしからぬ嫌われ役を演じた稲垣吾郎の損得勘定は微妙なところだが、このキャスティングはいいアイディアだった。

また、その暴君を守る側に立つ者たちの描写が面白い。「システムを守り、自らの職務・役割を全うする」とか、「自分の稼ぎや生活を守る」という一見もっともな理由で思考停止に陥り、悪しきものを温存し、先送りし、増長させる組織人だったり、役人だったりの象徴であるからだ。組織の中で無能な神輿を担具ことに対する美学もあるのかもしれないが、それを言い訳にした保身でもある。敵側のリーダーを演じる市村正親が、美学と保身と個人の誇りのあいだで自らに与えられた役割に忠実な男を説得力を持って演じている。

主人公らとて、大義のためには自らの命も投げうつし、無関係の多くの命が失われても已む無しとする暴力的な体制破壊者、テロリストである。また、彼らも平和な時代に「死に場所」を求めているわけで、「大義」を与えられればほいほい乗って行く危うさもある。まあ、さすがに娯楽活劇であるから、主人公らの行動を否定的に描いたりはしない。むしろヒロイックに描かれており、盛り上がるべきところできっちり盛り上がる。が、結局のところ、あとに残るのは死屍累々の虚しさだけである。

ほとんどが農民の末裔のくせに、サムライなんとかとやたら「武士」を美化する昨今の風潮は滑稽であるが、その「武士」なんてものは面倒くさくて、馬鹿らしくて、実にくだらねぇと、サムライをダシにした大チャンバラ娯楽活劇をやりながら唾を吐いてみせもする。これは、そういう映画なのだろう。しかも、血みどろで、泥まみれで、格好良さとは無縁の「戦場」の描写や残虐描写がしかし、この映画の売り物でもあるという自己矛盾にも自覚的なのである。

Villain

悪人(☆☆☆★)

『フラガール』で名を上げた李相日監督の東宝映画である。オーソドックスで誠実に作られたいい作品である。もう少しエッジの立った新しさを求めたくもなるが、ないものねだりかもしれない。だって、『フラガール』・・・も、そういう映画だったし。ただ、前作で蒼井優、松雪泰子が輝いたように、本作で深津絵里、妻夫木聡に実力相応の仕事をさせた手腕については今後も期待したい。

福岡で保険外交員の女性が殺害される。事件当夜に女性を車に乗せて現場に置き去りにした学生の犯行が疑われるが、真犯人は、被害者と出会い系で知り合った長崎の解体工だった。事件後、犯人は同じく出会い系で知り合った佐賀の紳士服チェーン店員の女性と親密な関係となり、共に逃避行を続けることになる。その間、犯人の家族はマスコミに追われ、被害者の家族は抑えきれない怒りと喪失感に苛まされるのだ。

妻夫木聡が演じる「犯人」は、環境・境遇の産物としての悲しい犯罪者である。また、彼に共感し、自首を遮って逃避行に誘う深津絵里演じる女もまた、行き場所のない地方都市で深い孤独を抱えて生きてきた。映画は小説のような描き込みをすることができないかもしれないが、妻夫木、深津、この2人の好演は、その行間を埋めて余りある(妻夫木が山田孝之に見えてくるってのは、ある意味スゴイ)。「暇つぶしで出会い系を使う人が多いのかもしれない、でも本気だった、本気で誰かと出会いたかった」という女。お金でも払わなければ自分のような男と会ってくれる女なんていないと思っていた男。「もう少し早く出会っていたかった」と嘆いてみても、もう遅い。

まあ、映画としては2人の気持ちが通い、逃避行に至るまでが見所であって、そのあとは推進力が失われてしまう。が、素直に白状すれば2人の人生が残酷にも交差する瞬間を誠実に切り取って見せてくれたところに感動したので、それだけで満足しているところがある。2人の孤独な心が通い合う過程に説得力があったし、2人のキャラクターに対して同情というのではなく、立場や境遇こそ違え強い共感を感じられた。原作と比べて説明が足らんとか唐突とかいう観客もいるみたいだが、映画だけ見て十二分に分かるよ、これ。(当方、原作未読だし。)

殺人事件の被害者である保険外交員の女性の、殺されてしかるべきとまでは言わないまでも、ムカつく行動原理や「犯人」に対する侮蔑的な言動も、「現実にいるよね、こういう女」という枠を踏み外して戯画的になる寸前の範囲で踏みとどまり、よく描けていた。満島ひかりは巧いな。享楽的で自己中心的なチャラい学生も、描き方は表層的だが、演技のニュアンスが加わってそれなりの人間味もでていた。舞台となる地方の、東京や都市部とは違った空気もよく映し出さfれていた。

一方、この映画で残念だと思うのは、被害者の父親を演じる榎本明と、犯人の祖母を演じる樹木希林がそのキャスティングも含めて類型的に過ぎ、新鮮味を感じられないことがひとつ。いや、二人とも上手い俳優さんなんだけど、いまや使い古されすぎてコントになっちゃってるレベルじゃないのか。

もうひとつは、毎度毎度ワンパターンの回想だ。経緯を説明する場面になると、「事実これこれでした」と全部(客観)映像にして見せてしまうこと。これは、映画から緊張感を奪っているだろう。特に、犯人の告白については、「本人はこう語っている、聞き手はそう想像したみたいだけど、実際のところどうだったのか?」と観客に疑念を挟む余地を残すことはできなかったものだろうか。

あと、久石譲の音楽が、その使い方ともども凡庸。これは映画の格を下げていると思う。まあ、一時期の大林、初期の北野などの例外を除けば、実写映画での彼の仕事って、あんまりピンとこないことが多いんだけど。

しかしねー。与えられた環境の中で真面目に暮らしている人々の人生が、ちょっとしたきっかけで大きく狂っていく。親と子、人と人の絆であったり、それが希薄な現代社会に生きる孤独であったり、地方の疲弊や退廃であったり、現代風俗の軽薄さであったり、、、というドラマをオーソドックスにやるなら、東宝映画じゃなくて松竹・看板の山田洋次でいいんじゃないか、と思うわけで。(いや、山田洋次の現代劇は、それこそ彼の観念の中にしか存在しない「庶民」なんてのが出てくるからあんまり好きじゃないのだが、でも、彼だったらこの題材をどう料理するかに興味があるんだけどね。)もうちょっと冒険してもいいんじゃないか、この映画。

A Single Man

シングルマン(☆☆☆★)


キューバ危機に揺れる1962年を舞台に、16年連れ添ったパートナーの事故死を克服することができない男が、その人生を終えることと定めた特別な一日の出来事と回想を綴る。愛する者を失った悲しみや絶望を描く映画ではなく、愛する者を失って絶望のさなかにある男が、それでも人生を続けていく意味を些細な日常の中に見出していく物語である。主人公は男で、亡くしたパートナーも男である。その点では色眼鏡で見る向きもあるかもしれないが、ここで描かれているのは性的嗜好に関わりのない普遍的なドラマであって、舞台となる時代背景とあわせて、主人公の切実さを際立たせる役目を果たしているに過ぎないように思う。

主演はコリン・ファース。華には欠けるが、もともと巧い役者である。すでに昨年来、ヴェネツィアを皮切りに数多くの舞台で賞賛されてきたわけだが、これがもう、絶品。ちょっとした身振り、仕草や視線、表情で、自殺を思い立った男のひととなりと感情の変化を説得力をもって見せてくれる。真面目だがどこかにおかしみのある人物像はコリン・ファースの得意とするところだが、周囲に迷惑がかからぬよう完璧に仕度して自殺に臨もうとする主人公の行動にそこはかとないユーモアを感じさせるあたりは彼の真骨頂ではないか、と思う。その一方で、本作のコリン・ファースにはこれみよがしではないセクシーさがあって、目が離せない。全編出ずっぱりで、これは正に彼の演技を楽しむ映画であるといえる。

主人公の「最後の一日」に深く関わりを持つ共演者はジュリアン・ムーアとニコラス・ホルト。ジュリアン・ムーアは紅一点、主人公が男に目覚める前に付き合ったことのある親しい女性という役まわり。かなり重要な役で、見せ場もある。ニコラス・ホルトは、主人公に好意を持ち、行動の異変を察知してつきまとうかわいい男子学生役で、これは儲け役。『アバウト・ア・ボーイ』の変顔の男の子だと知ってびっくり。そういえば、プロデューサーに(『アバウト・ア・ボーイ』監督の)クリス・ワイツの名前があったな。

グッチ、イヴ・サンローランのクリエイティブ・ディレクターとして一世を風靡したトム・フォードの監督作(脚色も)である。これが伊達や酔狂ではない。人と人のつながりの中に人生の意義を見出してみせる本作は、なんといっても誠実で真摯な作品であるし、構成も巧みで、小品ながら堂々とした出来栄えだ。映像的には彼の美意識が先行して作りこみすぎているきらいもあるが、決して見せかけばかりの空疎な作品ではない。この人は、これからも本業の傍らで映画というかたちでの表現も続けていく人なのではないだろうか。そうだとしたら、次の作品もぜひ見てみたいと思わせる見事な監督デビューであった。

9/07/2010

The Hangover

ハングオーバー! 消えた花ムコと史上最悪の二日酔い (☆☆☆★)

2009 のスリーパー・ヒットとなった低予算コメディ映画が紆余曲折あってようやく日本上陸。当初未公開でパッケージソフト化の予定だったが、ファンの署名による上映嘆願で公開が決定。都内、当初はシネセゾン渋谷・新宿武蔵野館で申し訳程度にスタートしたが、8月末より突如として東急系3館にも登場。なんと、予想だにせぬことながら、老舗基幹大劇場・意味不明に豪華なシャンデリアで有名な丸の内ルーブルで上映されるという前代未聞の自体になった。まあ、『キャッツ&ドッグス地球最大の肉球大戦争』が不入りだったとか、そんな理由なんだろうけどさ。

結婚式を間近に控えた男とその友人、婚約者の弟が連れ立って、ラスベガスで馬鹿騒ぎの一晩を過ごそうとするのだが、ホテルで目が覚めてみるとひどい二日酔いのうえに全員そろって記憶がない。部屋の中はめちゃくちゃで、新郎は行方不明。結婚式に間に合うように新郎を見つけ出し、連れ帰るためにわずかな手がかりをもとに昨晩の足取りをたどっていくことになる、という話。

結婚前の男とその友達が繰り広げるバチェラー・パーティの乱痴気騒ぎや、その予期せぬ顛末を描いたコメディは目新しいものではなく、比較的、お馴染みのモチーフといえる。本作が新しいとしたら、それは、乱痴気騒ぎのドタバタそのものをすっとばし、乱痴気騒ぎの記憶を失った登場人物らが残されたみょうちきりんな手がかりをもとにして不覚の一晩に何が起こったのかを探し求めて右往左往するという、「謎解き」で興味を引っ張るクレバーな構成である。時間軸に沿ってストレートに構成したら単なる下劣な狂騒でしかない話を、正気に戻った登場人物が何も知らない観客と共に「再発見」していくというアイディアによって、改めてストーリーテリングの妙を楽しめる作品になった。

もちろん、ことが明らかになってみれば、その程度のことか、と、コメディとしては意外性に欠けるんじゃないか、と見る向きもあるだろう。しかし、リアルに考えると正直、勘弁願いたい出来事ばかりでもある。うまいなぁ、と思うのは、ここらあたりのさじ加減で、絶対ないんだけど、リアルに起こりうる範囲を大きく逸脱するのではなく、しかも、絶対あってほしくない感じという微妙なラインを行ったり来たりするところが絶妙なバランスだ。

そもそも、登場人物たちにはコメディ的な誇張もあるが、基本的には「生身の人間」としてのリアリティから乖離しないキャラクター作りになっている。目が覚めて、正気に戻った登場人物らの本気の狼狽ぶりには、笑いながらも同情し、自分がその場にいたら、自分がその当人だったら嫌だなぁ、と感情移入しながらみることができるのが本作の良いところである。そういう意味で、映画の中で起こる(起こったとされる)事件の数々に、ぎりぎりのところでの、可能性レベルでなら信じられる程度のリアリティがあるのは重要なことである。

ストーリーテリングの手法は(コメディとしては)斬新であったが、手掛りを追っていき、それ以上の展開に行き詰ると都合よく何かイベントが起こって次に進むという、ある種の「パターン」に頼りすぎているところが少し単調ではある。最近よく見る顔の一人だったブラッドリー・クーパーは、本作で間違いなく人気スターへの道筋を確実なものにしただろう。「顔はハンサムだけど、個性に欠けて薄口な添え物」的なポジションはそろそろ卒業だ。

8/27/2010

Jenifer's Body

ジェニファーズ・ボディ(☆☆★)

まあ、見に行ってみたら何故この映画が当たらなかったのかは良く分かった。映画が訴求する内容と観客層の不一致だな。

表向きは、『トランスフォーマー』シリーズで人気の出たセクシー系のミーガン・フォックスを主演にたて、主に若い男性観客をターゲットとしたエロティックなスリラーのように喧伝しているわけである。

が、実態はどうかといえば、(ストリッパーやテレフォン・セックス・オペレーター経験ののち) 『Juno』で一躍人気脚本家になったディアブロ(=悪魔!)・コーディと、失笑ものの『イーオン・フラックス』以来新作が撮れていなかったカリン・クサマの女性クリエイター・コンビによる、(1)女性をモノのように扱う自分勝手な男どもへの復讐と、(2)美人とメガネ女子の不釣合いな親友関係の複雑な真実と崩壊を描いたブラック・コメディなのだ。そりゃいったい、誰がターゲットな映画なの?ミーガン・フォックス目当ての観客に嫌な思いをさせるのが目的?

物語の中心に、男たちの注目を集めずにはいられない美人チアリーダー(ミーガン・フォックス)と、どうみても全く不釣合いな地味メガネ子(アマンダ・セーフライド)の、幼馴染みの不思議な友人関係がおかれている。親友だというこの2人だが、見かけだけでなく、考え方も行動も全く異なるように見える。美人チアは男を(文字通り)食い散らかしながら美貌を増していくが、メガネ子は地味な男と真剣交際だ。自分という存在を蔑ろにして男を食い物にしていくチアの変容に戸惑っていたメガネ子も、さすがに自分の彼氏に手をだされたら怒りが爆発する。その一方で、「親友」を酷い目にあわせた連中に復讐を果たそうとするあたりが複雑なところでもある。これは複雑な親友関係を描いた物語であると同時に、抑圧的で真面目な主人公が精神的に開放され、自立的で強い女性へと成長していくストーリーと読むことができる。そういう意味で、これは本質的に女の子映画なのである。

美人チアの変容を「オカルト」で説明するのが、『ロストボーイ』から着想を得たホラー好きの脚本家らしいところである。インディーズ・バンドが人気を獲得するためにオカルトに頼り、処女の生贄をささげたところ、「処女」ではなかった体 (Jeniffer's Body) に邪悪 ("actually evil, not high-school evil" ) なものが乗り移って生き返る。死んだ人間が何か邪悪なものに変わって戻ってくるという話はお馴染みのパターン。このプロットが、身勝手に扱われた(レイプ)されたチアが、彼女をセックスオブジェクトとしてしか見ない男どもに復讐して回る、というストーリーとして読める。その意味で、これは血塗れのフェミニスト映画でもある。

2つのストーリーが、オカルト・ホラーでくっついて、ブラックコメディ風味になっているのが本作のユニークなところであるが、正直に言ってそれが上手に融合しているようには思えない。ダイアローグにはディアブロ・コーディらしいユニークさが光っているが、字幕や吹き替えだとニュアンスがでにくいところ。カリン・クサマの演出は単調でユーモアが足りない。そもそも主演のミーガン・フォックスが演技下手だから、単なる美人チアなだけではないはずの「ジェニファー」の、(ボディはともかく)内面を感じられない。アマンダ・セーフライドがメガネをはずしてもなお可愛くないのも、ちょっと困る。そうはいいながら、このアンバランスさを楽しめる観客であれば珍品として面白がれるとは思う。本作、何年かしたら、ある種、カルト的な評価を得ているかもしれない、なんてね。

Predators

プレデターズ(☆☆☆)

「リプリー」という主人公がいる『エイリアン』シリーズと違って、『プレデター』シリーズというのは、(シュワルツェネッガーが続編出演を断ったための結果としてではあるが)特定の主人公がおらず、凶悪な宇宙怪物が人間狩りを楽しむという話である。毎回異なる主人公がそれとは知らぬまに怪物とのゲームに巻き込まれ、生存をかけて闘うことになる。毎回、場所を変え、人間側のキャラクターを変え、目先を変えることはできるが、結局のところ、同じことを繰り返すだけである。

「AVP(対エイリアン)」ものまで数に入れると通算5作目となる本作もまた、目新しさに欠ける反復であることには違いがないのだが、本作のそれは間違いなく意図的である。舞台はジャングル。人間側は混成といえどミリタリー調の小集団。これが、第1作の意匠をなぞったものであるのはいうまでもない。ご丁寧にも、台詞として第1作の事件の顛末が語られ、「正当な続編」であることを主張するところや、そこで語られたシュワルツェネッガーの戦術を参考にし、身体に泥を塗っての肉弾戦までかたちをかえながらも再現される。シリーズの続編であり、原点回帰であり、仕切りなおし。それが本作の良いところであり、限界であり、全てである。そうであるならば、やはり軍配をあげるべきなのは「オリジナル」であり、その二番煎じである以上、本作にはそれ相応の評価しか与えられまい。

アーノルド・シュワルツェネッガーというインパクトのある主演者がいないかわりに、人間側の7人にそれぞれユニークなバックグラウンドを設定して描きわけ、集団ものの面白さを出している。紅一点の活躍や、日本刀で一騎打ちに臨むヤクザ、医者を自称するヘナチョコなど、ここはシリーズのなかでも一番成功している部分である。主演に起用されたタレ目のエイドリアン・ブロディはまさかの肉体改造により筋肉ムキムキ男として登場し、これまでのイメージを払拭する熱演振りがみもの。こやつ、こんなに男前だったっけ?タフガイというよりヘナチョコ側のキャラだと思ってたんだけどなぁ。

怪物側にもいろんな種族がいるという設定か、過去作と同類のほか、より体が大きく、少々異なる行動規範をもっている新型が3体登場し、新型のアーマー類や武器が披露される。まあ、こういうのはシリーズのお楽しみでもあるのだけれど、正直、キャラクター商品ありきの姑息なバリエーションのように思われる。というのも、これが物語としての面白さにはうまくつながっていないからだ。旧型(?)と人類の共闘がきっちり描かれていれば別だっただろうが、新型の強さを印象付けるためだけの役回りで、ちっとも面白くない。

本作の指揮を委ねられたロバート・ロドリゲスがつれてきたのが監督のニムロッド・アーントル。このひとの演出は、キャラクターの描き分けをみても、いざという時の見えの切り方を見ても、それほど悪くないと思う。この題材、この脚本であれば及第点といえよう。(少なくとも、単調・平板が特徴の第2作監督、スティーヴン・ホプキンスよりは絶対に上)。続編があるなら、同じ監督で、本作の生き残り組を主演にして作ったらいいと思う。そこで改めて、(ロドリゲスを含めた)作り手の創意が問われることだろう。なにせ、本作はリメイク的な仕切りなおしに過ぎないわけで、その先を見てみなければ本当の評価にはならないということだ。

8/21/2010

Colorful

カラフル(☆☆☆☆)

これは、あれだ。『素晴らしき哉、人生!』の変種だね。

死者の魂がこの世に戻って、とか、他人の体を借りて、とかは使い古されたパターンではあるけれど、この作品はそっちの系統に似ているように見えて、ちょっとだけ力点の置かれた場所が違う。もう少し、『素晴らしき哉、人生!』的、だ。

「クレヨンしんちゃん」もので名を上げたベテラン原恵一の、『河童のクゥと夏休み』以来となる新作である。重大な過ちを犯した「死者の魂」が、半年間の「修行」と称し、自殺直後の中学生の体に入って人生を生き直すチャンスを与えられるという話である。受験を控えた中学3年生、その家族たち、クラスメイトたち、そしてうんざりするようなごく普通の毎日。わけも分からないまま、どのように振舞えば良いかも分からないまま、日常生活のなかに放り出された主人公の魂が、周囲の人々との関わりを築きながら生きていることの喜びに目覚めていく。

冒頭、いきなり死後の世界で関西弁をしゃべる少年に出会い、この世に送り返されるところで物語は幕を開ける。その意味では「ファンタジー」というべきジャンルなのであるが、スーパーリアルに再現される世田谷区、二子玉川界隈の風景によって、現実の世界のすぐとなりであることを強く意識させられるようになっている。ことさら派手なイベントや展開のない日常生活を舞台に、日常生活を生きる物語。それを丁寧に描くという難行、苦行への挑戦といってもいいだろう。

家族と囲む食卓がクライマックスだといったら、驚くだろうか。そのシーンでのちょっとした箸の上げ下ろしまでがドラマである、といったらどうだろう。映画の中に挿入された一番のイベントが、路面電車の跡地めぐり(映画のオリジナル)だったり、援助交際の後輩の腕をつかんで街を走り抜けるシーンだったり。また、作品を象徴するのが、コンビニで買った肉まんを、ゴミ箱の横にしゃがみ込んで友人と分け合う何気ない場面だったりするというのはどうだろうか。

自殺未遂あがりの生徒に気を回しすぎる教師の姿、不倫を詰られた母親の動揺や後悔、メガネ女子の挙動不審な様子やセリフ回し。気を使った母親が手作りする普段着だけど美味しそうな家庭料理。思い返してみても、この映画にはごくありふれた、しかし、とても魅力的な瞬間が溢れている。実写であれば過激だったり生々しかったりすることも、とりたてて代わり映えのしない学校生活も、全てが等価に、丁寧に描かれていく。日々を生きる喜びや悲しみ、希望や不安、人と人のつながりや互いを思う気持ちが、そういう描写の積み重ねの中で主人公の心のなかに満たされていく。

丁度、直前に高畑勲の『赤毛のアン』を見ていたせいだと思うが、確かに昨今の主流というわけではないにしろ、こういう日常を描く芝居、日常的な風景や動作、所作をきっちり描いて魅せるのは、高畑勲あたりから聯綿と続く、日本のアニメの良き伝統なのだろうと思った。その系譜の、一番新しいところに名前を連ねたのが本作だと理解した。ファンタジー要素であるところの、関西弁少年と主人公のやりとりは(ふたりとも声が高いトーンであるのもあって)耳障りだし、台詞のやりとりにしてもあまりよい絡みになっていないと思うが、そんなものは小さな傷に過ぎない。一見して地味で難しい題材に挑んで、原作とも違う、アニメーション映画として初めて表現できる世界を作り上げたこの傑作。それが劇場にかかっているあいだに、できるだけ多くの観客の目に触れることを祈っている。

Caterpillar

キャタピラー(☆☆☆★)

江戸川乱歩の「芋虫」をモチーフに(とはいえ著作権料を踏み倒し)、いかがわしいゲテモノ小屋の見世物の雰囲気のなかで反戦のメッセージを強烈に主張する力作。(もちろん、本作が力点を置くそうしたメッセージは乱歩が意図したものではないということなので、結果としてクレジットから外れて丁度いいのではないか。)

お国のためと戦地に送り出されたが、両手脚を失い、聴覚も言葉も失って帰郷した夫は、武勲にたいして勲章を与えられ、生ける軍神と祭りはやし立てられるが、食べて、排泄し、口に挟んだ鉛筆で「ヤリタイ」と紙に書いてセックスを要求するだけの肉の塊である。その世話を押し付けられた妻は、貞淑な妻の鏡を演じつつ、やがて、かつては自分に暴力を振るった夫を精神的な支配下に置くことに快感を覚えるようになっていく。異常な性欲に端的なように、醜い姿になってなお生きることへの執着があった夫だが、妻との立場が入れ替わり、やがて、戦地で暴虐の限りを尽くした罪悪感に苛まされるようになる。時は流れ、玉音放送が流れる夏の日、家を這い出した夫は、水の中に身投げして命を絶つ。

原作者(?)の意図は別として、戦争というものの非人間性、「お国のため」の一言で思考停止に陥ったバカバカしさを、ある夫婦の息詰まる愛憎の中に凝縮させた力技が本作の白眉である。ここで描かれる「反戦」は、「戦争で四肢を奪われて悲惨ですね」という次元の話ではない。そういう状況を作り出した権力に対する怒りである。戦争の醜さや非人間性を訴えるのに、巨大なセットや派手な戦闘シーンは必ずしも必要ではない、ということを思い知らされる。大胆な発想と描写によってメッセージを語りつくそうとする若松監督の、インディペンデント魂の迫力がここにある。

寺島しのぶは演技賞の受賞も当然と思われる憑依的な熱演で、芋虫男に対する複雑な感情とその変化を演じきっており、その表情が、その視線がスリリングである。VFXの力を借りて四肢をなくした大西信満の台詞のない演技もすごいが、「クマ」という役名の、村の知恵遅れ男を自然体で演じる篠原勝之がいい。あの男、バカのフリをして徴兵を免れていたんじゃないか、そうやって反戦の思想を貫いた人間がいてもおかしくない、と想像をめぐらせる余白があるところがいい。

日本兵が戦地で残虐行為を行うなどということは断じてなかったというポジションをとりたいナルシシストなんかは、中国大陸で若い女性を陵辱し惨殺してきた芋虫男の設定に反発したりするのかもしれない。また、国家という権力を象徴するものとして昭和天皇・皇后の写真を度々挿入することについても不快感を覚える向きがあるんだろう。しかし、そういうことを云々いうのは本作の描かんとするものと向きあおうとしない心の狭い態度である。召集令状ひとつで戦地に向かわされ、命を奪い、命を落とす。それを「お国のため」と美化し、嘘の報道で国民を欺き、犠牲を正当化する。その結果はなんだったのか。ここで問われているのは、誰が正しいとか、正しくないということではなく、国家の名において行われた戦争により失われた命である。その、圧倒されるような事実を前にして、右も、左も、ない。本作が伝えようとしていることはそういうことだ。

Anne of Green Gables

赤毛のアン グリーンゲーブルズへの道 (☆☆☆★)

監督として高畑勲、場面設定・画面構成で宮崎駿、キャラクターデザイン・作画監督として近藤喜文、脚本には神山征二郎もクレジットされているあたり、今日振り返るとなかなか豪華である。

本作は、1979年、いわゆる日曜夜の「世界名作劇場」枠で放送された『赤毛のアン』全50話のうち、冒頭6話分を劇場公開を念頭において高畑監督自らが100分に再編集した作品で、1989年に作られたのち、諸般の事情でお蔵入りしていたもの、らしい(VHS版が発売されていたことがあるみたいだが)。このたび、「三鷹の森ジブリ美術館ライブラリー」シリーズの一環として劇場公開された。

このTVシリーズ、時折、ローカル局などで再放送されているようである。が、当方、本放送のとき以来ほとんど見返す機会がなかったので、本当に久しぶりに本作をみた。もちろん、30年も前のTVアニメを再編集しただけであるから、今日の劇場公開作品とストレートに比べるべくもないのは当たり前。しかしこれはこれで、楽しく鑑賞できる仕上がりであった。

なんといっても「物語」という意味ではほんの冒頭に過ぎないところなのに、それで1本の映画としてまとまっていることに感心させられた。

冒頭6話というのは、「孤児院から引き取る男の子を迎えに行ったマシューが、手違いでやってきたおしゃべりで風変わりなアンを連れて帰るが、この手違いに驚いたマリラがいったんは仲介者のスペンサー夫人の元を訪れて孤児院に送り返そうとするも、アンの身の上話を聞いたり、別の家庭にもらわれていった場合の過酷な扱いを思い、結局、アンを養子として迎え入れることを決心、本人にそれと伝える」ところまで、である。作中での時間の流れにしてなんとわずかに3日間の出来事で、6話(本作100分)を走り切るというのは、考えてみると、並大抵ではない。

そもそものTVシリーズの構成が贅沢であったとはいえ、再編集版である本作ではそれが顕著である。話をダイジェストとして詰め込むことのをやめ、アン・シャーリー、マシュウ・カスバート、マリラ・カスバートの3人に焦点を絞り込み、その人となりや、心の動きを、それぞれの仕草、表情、台詞によって、実に丁寧に紡ぎ出す。そこに物語を、ドラマを見出していく。大きな事件やイベントはないが、決して退屈することはない。アンの突拍子もなさやおしゃべりで面倒くさいところ、それに驚いたりうんざりとしたりしながらも好意をいだいていく老兄妹を、主人公に寄り添いすぎない客観的な視点を保って見つめ、毎日繰り返している家事仕事や野良仕事の風景を手抜きをせずに見せる。こういう日常の光景を芝居として描くのは高畑監督の得意とするところであり、日常のディテイルに豊かな表現を見出すアプローチは今につながる日本のアニメの良き伝統のひとつでもある、と思う。

豊かな表現といえば、井岡雅宏の背景美術が素晴らしい。今回、上映に合わせて用意されたカード形式のパンフレット(三鷹の森ジブリ美術館ライブラリーおなじみの体裁)でも堪能することができるが、毎週毎週放送されていたTV番組だとは思えないクオリティの高さ。また、三善晃の主題歌、毛利蔵人の劇伴共に素晴らしい仕事で、こうした仕事に支えられていたからこそ、本作が原作のイメージを壊さずに忠実にアニメ化したとの評判をとることができたのだと理解できた。

惜しむらくは、BD-Rからのプロジェクション上映の映像品質が必ずしも高くないことで、スクリーンに近い座席で見ていると解像度の低さがかなり気になるものであった。まあ、公開規模も小さいことなので、劇場でかけてもらえることを感謝するのが筋ではあろう。BD上映にすればフィルムを焼いたりするのに比べ、配給コストはずいぶん下げられるものなんだろうね、きっと。

8/16/2010

Zonbieland

ゾンビランド(☆☆☆★)


突然変異を起こした狂牛病由来の病原体が蔓延。人間性を喪失して人肉に群がるゾンビの国に成り果てた米国で、帰るべき場所を失った青年と行きずりのゾンビ・ハンター、詐欺師姉妹が西海岸の遊園地を目指す。英国産ゾンビ・コメディ『ショーン・オブ・ザ・デッド』の成功に触発された、「ロード・ムーヴィー」+「バディ・ムーヴィー」+「ボーイ・ミーツ・ガール」+「オフビート・コメディ」・・・with ゾンビ(風)。

ゾンビ(生ける死者)っていうか、、、設定上、これ、普通に生きてるじゃん!死体じゃないから体もしっかりしていて、獲物となる人間をみつけると、猛スピードで走る、走る(笑)

ここ数年来市場に蔓延している陰惨なホラー映画と違って、からっと陽性、楽観的なところが脳天気で素晴らしい。ゾンビ映画につきものの終末感とは不思議なくらいに無縁だし、ゾンビ映画のパロディとしてもこだわりがないので、そういう方面のファンにしてみれば中途半端な映画ということになるのだろう。とはいえ、この映画には背徳的な快楽がある。それは、中途半端だろうとなんだろうと、「ゾンビ」だというエクスキューズがあることによって、普通はやれない反社会的で残酷な行為をあれでもかこれでもかとやってのけ、それをあまつさえ、笑いのネタにしてしまうところに由来している。

だって、道の真中をこちらに向かってくる人を跳ね飛ばしたあげくに二度轢きするとか、剪定用の巨大バサミで大男の頭を切断するとか、頭の上から巨大なピアノを落として潰すとか、巨大なローラーで轢き殺すところを残り少ない歯磨きチューブを絞るところに例えてみせるとか、射的の的のように次々と撃ち殺すとか、トイレのタンクの蓋で殴り飛ばすとか、そんなこと、常識的に言えばやってはいけないことだし、笑ってはいけないことだろう。もっといえば、ゾンビに扮装しているだけの普通の人を間違って撃ち殺しちゃったら、さすがにまずいだろう。だけど、ゾンビだから。ゾンビ映画だから。殺らなきゃヤられるから。ってなわけで、やっちゃいけないことをやるところにある種の快感があり、笑いがある。

そこで、最強のゾンビ・ハンターと化したウディ・ハレルソンの存在価値がある。アカデミー賞にノミネートされた同じ年に、本作にも出演しちゃうあたりは授賞式の場でもネタにされていたが、いや、そういうところを茶化しながら褒めていたと解釈したい快演であり、怪演である。カウボーイ・ハットとブーツに身を固め、迫りくるゾンビの群れを恐れ知らずに片っ端から始末する大活躍はときに笑いを生み、ときに感動的なほどにカッコがいい。

主人公ら4人組がみんな白人系で、ゾンビにのっとられた米国で奮闘するという図式には、どこかで保守的なサブコンテクストが紛れこんでいるようにも見えなくもないが、おそらくは意図せざるものとして不問に付す。また、ビル・マーレー役で出演のビル・マーレー(本人)が面白過ぎて悶絶(←これを見たくて劇場に足を運んだようなもの)。・・・さすがに映画のテンポからなにから全部を壊してしまうのだが、まあ面白いから許す。

追記:
ビル・マーレーのネタ、場内で反応が薄かったのでチと説明すると、興行・批評とも不振だった『ガーフィールド』実写版でCGI猫・ガーフィールドの声を当てたのがビル・マーレイな(彼の声を聞くため字幕版をやってる劇場を探すのに苦労したこと思い出したよ・・・)。クレジットのあとの「おまけ」でハレルソンが云おうとした台詞「In the immortal words of Jean Paul Sartre, 'Au revoir, gopher'.」は、『ボールズ・ボールズ(Caddyshack)』でモグラ爆殺をしようとするビル・マーレーの台詞で、本人に手本を見せてくれよ、とせがんでいるわけだ。

8/08/2010

Salt

ソルト(☆☆☆★)

つい先だって、ロシアのエージェントが大量に逮捕されたという米国の事件は本作の大掛かりな宣伝の一環だと思うぞ。敢えてこのタイミング、というのが怪しすぎる。どこかで裏金が流れているに違いない。

そう、本作では、久しぶりに「ロシアのスパイ」が大スクリーンに帰ってくるのだ!任務を果たすその日のために米国内に深く静かに潜入し、暗躍する冷戦の亡霊たち。

『リベリオン』(ガン=カタ!)で知られるカート・ウィマーの脚本を、当たり外れは大きいがサスペンス・スリラーの領域を得意としているフィリップ・ノイスが監督。当初予定していたトム・クルーズに代わり、ノイス作品では出来のいいほうである『ボーン・コレクター』に出演していたアンジェリーナ・ジョリーを抜擢。脚本をリライト(ブライアン・ヘルゲランド!)して男女入れ替えるという大胆な転換が、作品を見る限りではかなり報われているのではないか。これはなかなか面白い仕上がりの1本である。

しかしまあ、「二重スパイ」ものなんである。その昔「二重スパイの嫌疑をかけられた主人公が自らの無実を証明する為に奔走するが、実は嫌疑通りに二重スパイでした!」なんていう映画を見てしまったものだから、この手の映画では何が起こっても不思議はないと心得ている。しかし、一般にいってその手の映画の主人公は、観客が好意を抱き、感情移入する対象として描かれるのが常であり、騙し、騙されの展開も、それゆえの衝撃であるのが常道である。

しかし、本作は、そうした作品と似て非なる展開を見せるところが面白い。なにしろ、この主人公、(少なくとも序盤においては)露骨に謎の多い行動をとるのである。観客は、この人物の真意が読めない。信用できない主人公が生むサスペンス。額面通り夫の身を案じての行動かと思えば、次第次第に細かな違和感が積み上がっていくあたりの演出のさじ加減がいい。何が起こっているのか分からないままに迫力のあるチェイスやスタントを連打し、主人公に感情移入をしても良いのか分からない不安な状況のまま、徹底して引っ張り続ける脚本は相当の力技。ストーリーの牽引力、スター女優の吸引力を信じているのだろうが、無茶な冒険をするものだと思う。映画の中盤になって、ようやく主人公の行動原理と目的が知れる決定的な出来事が起こるのだが、そのあとも、ダレることなく突っ走るスピード感溢れる語り口、無駄のない演出が素晴らしい。

アンジェリーナ・ジョリーは、アクション系の作品では彼女のベスト。宣伝文句だけでなく、どうやら相当数のスタントを実際にこなしているようだ。スタントマンが演じるなりしていれば、もっと見た目がスタイリッシュに仕上がったと思われるアクション・シーンがいくつもあるが、彼女自身が演じたからこその限界が見えると同時に、それゆえに感じられるリアリティと迫力もある。主人公を女性にしたことでドラマ的な厚みも出たが、少ない台詞ながら表情で語れる彼女の演技力も作品に大いに貢献している。

映画が終わって気がついたのだが、この映画、たった100分の尺である。非情に密度が濃い、タイトな1時間40分。これは娯楽映画の手本といっていいんじゃないか。個人的に、いくら編集(スチュアート・ベアード)の助けを借りたとはいえ、あのフィリップ・ノイスが「ジェイソン・ボーン」と(近作2本の)「007」が規定した新しいアクション・スリラーの「スタンダード」に則って、これだけ洗練された作品に仕上げてくるだけの力があるとは想定外。嬉しい驚きであった。

この映画のエンディングを続編に色気とか、中途半端とかいう輩がいるようだが、『ガメラ3』や『ダークナイト』の幕切れを最高に格好のよいエンディングだと思っている当方としては、重たい運命を背負った主人公が悲壮な覚悟をもって闇の中に去っていくこの終わり方、痺れるんだけどな。(ほら、あれだ。続編やる気満々ってのは、『ウルヴァリン』とか、『アイアンマン』1・2とか、ああいうやつのことだろう?)

8/01/2010

Brothers

マイ・ブラザー(☆☆☆)

原題「Brothers」。『マイ・ライフ』『マイ・フレンド・フォーエバー』『マイ・ルーム』『マイ・フレンド・メモリー』に続く、感動の「マイ」シリーズ第5弾(嘘) ←ネタが古いよ

優秀で信頼厚い家庭人の兄、屈折した弟。海兵隊員である兄はアフガンに出兵していき、まもなくして訃報が家族のもとに届く。弟は、残された兄の家族と関係を深めていくが、実はアフガンで捕虜となり、家族のもとに戻るために究極の選択を迫られた兄が別人のようになって生還したことで、悲しみを乗り越えて平穏を取り戻したかのように思えた家族の風景に不協和音が生じるようになる。

デンマーク映画『ある愛の風景』(スザンネ・ビア、2004)の米国版リメイクである。脚色は『25時間』、『トロイ』、『ウルヴァリン』のデイヴィッド・ベニオフ、監督は『マイ・レフトフット』、『父の祈りを』等のジム・シェリダン。

リメイクであるとはいえ、題材として、むしろ今の米国で作られることを自然に感じ、違和感がない。まあ、この内容を、外国(語)映画を見ない米国人に見せるためのリメイク、という側面もあろう。

もちろん、これはアフガン対テロ戦争の傷、というだけの話ではない。2つのドラマがここにある。ひとつは、優秀な兄と、その影で父親にも認められず、兄に劣等感を抱き続けた弟のあいだの複雑な感情を描くドラマ(タイトルであるところの "Brothers")。もうひとつは、戦場に赴いた善意の人間が、壮絶な経験の末、人間性を喪失したり、大きな心の痛手を負ってしまうという戦争の非人間性を告発するドラマ。タイトルからすれば、「兄弟」のテーマがもっと前面に出てきても良いと思うのだが、本作は「兄弟」と「戦争」の2つのテーマのどちらかに重心をおくという選択をしきれておらず、結果としてどちらのテーマにおいても深みを出し切れていない。まあ、どちらも普遍的なテーマであるから、ありきたりの踏み込み方では新鮮味を欠いてしまうのも致し方ないだろう。

本作の一番の魅力は弟:ジェイク・ギレンホール、兄:トビー・マグワイアという、ありそうでなかったキャスティングである。当方、この二人のことを「どこかで似た雰囲気だが陰と陽の対」になる俳優として考えていたところがある。多分、ジェイクには『ドニー・ダーコ』、トビーには『サイダーハウス・ルール』などで売り出したころの印象が残っているからだと思うのだが、この二人が兄弟を演じるというのは、それだけでとても魅力的なアイディアだ。しかも、「陽」の側であるトビー・マグワイアが戦場での経験により豹変する役である。トビー・マグワイアが激痩せで熱演(ゴールデングローブ賞ノミネート)しているが、彼が演じるからこその痛々しさがよく出ていると思う。

一方、「フットボール選手だった兄と結婚した元チアリーダー」を演じているのがナタリー・ポートマンであるが、田舎町(撮影はニュー・メキシコ)の元チアリーダーとしては、彼女からにじみ出る知性と優等生ぶりがそれ「らしく」ない。彼女も役の幅が広がってきたが、似合う役と似合わない役があるのは否定できないところだ。

7/25/2010

Inception

インセプション(☆☆☆☆)

最後の最後、微妙なところで暗転して観客の想像力を刺激するセンスがいい。いや、すっきりしないから嫌だという人もいるんだろうけどさ。

『ダーク・ナイト』の内容的・興行的な大成功で、なんでも自由に撮れる状況になったクリストファー・ノーランが、自らのオリジナル企画、オリジナル脚本で撮った新作である。日本のマーケット的には渡辺謙が比較的大きな役で出演していることが効いたのか、かなり幅広い層の観客が劇場に足を運んでいるようであった。が、しかし、この映画。娯楽大作の顔をしてはいるが、実態は全編やりたい放題やらかしたかなりの野心作で、サマー・ブロックバスターらしからぬ中身の濃さが見所。観客の何割かはついてこられずに脱落してしまうのではないかと見ていて心配になってくる。

他人の頭(夢)の中に侵入してアイディアを盗むプロフェッショナルたちが、それとは逆に、ターゲットとする人物にアイディアを植えつける難易度の高いミッションに挑む。それぞれ専門性の高いメンバーが、ミッション遂行のために自分の任務に邁進するという筋立ては、ちょっと「スパイ大作戦」的で面白い。また、舞台が夢の中であることを免罪符として(仮想世界であることを免罪符にした『マトリクス』同様)超現実的なアクションやビジュアルで観客を楽しませる仕掛けである。

そうはいっても、派手なビジュアルだけの空疎な作品というわけではない。レオナルド・ディカプリオ演じる主人公は(何の偶然だか彼の近作『シャッター・アイランド』と同様に)妻や家族に対する罪悪感や深い喪失感を抱えた人物である。ミステリアスに登場し、ミッションの足を引っ張る妻の影。無事に仕事を成功させ、再び子供たちの笑顔を見ることができるのかどうか。家族の愛情や絆といった観客の感情に触れるドラマがある。

だが、ストーリーを語ること以上に、ストーリーを語るスタイルにもこだわりを見せるノーランのこと、本作の見所はそこだ。

主たる舞台が「夢」の世界といっても、ターゲットとした相手をトラップにかけるために設計された多層構造の夢である。「夢の中の夢」では階層を重ねるごとに体感的な経過時間がどんどん長くなるという設定が実に面白い。故事にある「邯鄲の夢」のごとく、現実にはわずかな時間でも、夢の中では一生に近い時間だって経験できるということを、ルール化したわけだ。本作は、そうした独自の「ルール」を作り出したうえで、そうした複雑な設定を映像で見せきる工夫をしているのである。クライマックスに至っては時間の流れ方が異なる複数の階層での出来事をクロスカットで編集してみせるなどというトリッキーな演出が炸裂、まさにクリストファー・ノーランの面目躍如、前代未聞の映像体験といってもいいだろう。

見終わったあとも解釈を巡っての議論を楽しめる作品である。が、遊びが少なく生真面目な作りもいいのだけれど、個人的な好みをいえばもう少し余裕を感じさせる遊びがあってもいい。それはノーランの演出にも、ディカプリオの演技にも云えることだと思う。まあ、山岳スキーアクションが露骨にボンド映画オマージュなあたりが、この人の「遊び」の限界なのだろうね。

7/17/2010

Toy Story 3

トイ・ストーリー3(☆☆☆☆)

最初の『トイ・ストーリー』が公開されたとき、「とりあえずフルCGIアニメーションで作ってみました」というようなエクスキューズなしの仕上がりに驚き、感心させられた。なによりストーリーが面白かったし、キャラクターが生きていた。その後、『バグズ・ライフ』を1本はさんで公開された『トイ・ストーリー2』には感嘆させられた。目に見えてレベルが高くなったCGI技術、笑いと涙のバランスがとれた脚本の巧みさ、演出の的確さ、細部への徹底したこだわり、そしてなにより1本の映画としての充実度と完成度。あのときの衝撃はまるで昨日のことのように覚えている。

その前作のリリースが1999年だったから、10年以上が経ったわけだ。この間にはいろいろなことがあった。

なにより、ピクサーがディズニーに吸収されるかたちながら、事実上、母屋を乗っ取ったのは大きい。あれがなければ、ピクサーと手を切ったディズニーがシリーズの続編を勝手に作っていたはずである。本作がピクサーの作品として完成したことを心から嬉しく思う。また、この間、ピクサーは、7本の長編作品を、それぞれ驚異のクオリティで作り上げ、ヒットを飛ばし続けてきた。CGI技術も、水や毛や重力の表現に始まり、人間のキャラクター描写というチャレンジを試みるレベルになってきている。演出面においても、アニメーションであるという枠組みを超え、映画として、ひとつ高い次元に到達しつつある。ラセターという一人の作家だけでなく、「チーム」・ピクサーとして、安定した品質で作品を作り続けるノウハウも確立したといっていいだろう。

そんな10年を経て作られた、ピクサーの象徴たる『トイ・ストーリー』の続編である。絶対にハズさないだろうとは思っているが、さりとてどんな作品になるのか、期待半分、不安半分で待っていたところ、作り手たちは、この10年という月日を、そのまま物語に織り込み、3本をまとめ、ひとつの大きな物語として完結させることを選択したのだった。続編ではなく、大きな物語の終章。賢いね。簡単そうでいて、なかなかできない発想の転換、これが本作を成功に導いた鍵だと思う。

主人公たちの持ち主であるアンディ少年も成長し、大学に通うために家を出るというのが今作の発端である。そして、『2』のときに語られた「玩具と持ち主の関係」、「玩具としての幸せは何か」というテーマを、もう一歩、深くつきつめていく。

まあ、そういう意味で言えば、テーマ的には前作で一度扱ったものの焼き直しである。が、前作で、いつか必ずくるであろう「別れのとき」を覚悟しながら、いったんは持ち主の元に帰ることを選んだ主人公、ウッディが、いよいよ「その時」を迎える話しである、と思うと、合点がいくし、感慨も深い。センチメンタルに流れがちな設定だが、そこはピクサー、脱獄ものの要素を取り込んだアクション・アドベンチャーとしてストーリーを練り上げてきた。大技小技から爆笑必至のギャグに至るまで、実によくできていると思う。しかし、その一方、致し方ないことと承知しつつも、「悪役」を必要とする物語の構造は安易だとも思っている。(まあ、悪役の描き方も前作以上に深みがあって、そういうところに手抜かりがないのもまた、ピクサーらしい仕事ではある。)

前作からの技術的な進歩はありとあらゆるところに及んでいる。(なにしろ3Dだ。)しかし、一番大きく進化したのは人間のキャラクターの表現だろう。キャラクターのデザインも(1作目、2作目に比べて)可愛くて親しみやすいものへと変わっているのだが、それ以上に、見せ方、演出のレベルが格段に高くなった。もちろん、ここ数作、ピクサー作品では人間キャラクターの扱いがひとつのテーマになっていたとは思うが、本作は明らかにひとつの到達点である。本作の肝でもある「別れ」のシーン、まさか、『トイ・ストーリー』なのに、人間キャラクターの「芝居」で泣かされるとは思いもよらなかったな。必見。

The Secret World of Arrietty

借りぐらしのアリエッティ(☆☆☆)


さて、改めて説明するまでもあるまい、スタジオ・ジブリ製作の新作長編アニメーション映画である。今回、三鷹の森ジブリ美術館で上映された短編『めいとこねこバス』の演出を手がけた経験のあるアニメーター米林宏昌が監督に抜擢されたのが話題の一つである。

本作は英国のファンタジー小説(メアリー・ノートン『床下の小人たち』)を原作としているが、舞台を都下、小金井に移して脚色(宮崎駿、丹羽圭子)。御存知の通り、小金井といえば、現在のスタジオジブリの所在地である。冒頭に出てくる川辺の道は、野川のほとりの風景そのものだ。また、舞台となる庭や屋敷は青森の盛美園がモデルだそうなのだが、古い洋館のそこここに「江戸東京たてもの園」(小金井公園内)で見ることのできるお屋敷などの佇まいも透けて見える。

時代設定は現代ということになっているようだが、全体としては「少し前」の印象を受ける。それは、舞台となる洋館に住んでいるのは年をとった女主と家政婦だけで、周囲を広い庭と森に囲まれて、時間が止まった間があるからだろう。女主ののるメルセデスはかなり古いモデルだし、病弱な少年も、ベッドで本を読むのだが、ノートパソコンをネットにつないだりするわけではない。現代といいつつ、今という時代を感じさせるアイテムが画面にしゃしゃり出てくることはない。まあ、御伽噺なのだから、それでいいという考え方がひとつ。あるいは、小人たちにとって(翻って人間にとっても)生きづらい時代であることを印象付けるなら、またもう少し違った描き方もあっただろう。

物語は、屋敷の床下に住む小人一族の娘がたびたび外に出かけるうちに人間に見つかってしまい、新たな棲みかを探す旅にでることを余儀なくされるまでを、滅び行く種族である小人の少女と病弱な少年の出会いと別れを通じて描くものである。原作にある様々なエピソードを削り落とし、エッセンスをコンパクトにまとめているところに好感が持てる。

アニメーションとしてはさすがに丁寧で贅沢な作りである。特に、前半で小人らが「借り(=狩り)」をするシーンはアドベンチャー映画的で魅せる。キャラクターの魅力も十分に出ているし、水彩がかった美術の美しさも素晴らしい。突如起用された仏人セシル・コルベルが書き下ろした音楽がいい。本人がハープを使って演奏し、歌もつけるこの音楽、原作の舞台に通じるケルト風味なのである。音楽の出来栄えで作品の格がひとつ上がっているんじゃないか、と思えるほどに、この起用、大成功だったと思う。

全体として、小粒ではあり、少女趣味というか、女の子ターゲットの作品である。そのことが好き嫌いを分けるだろうが、まずまずの良作に仕上がっていると思う。場面によって小人の大きさがどうとでも見えてしまったり、音の聞こえ方の違いにこだわって作った音響も場面によってはご都合主義だったりするあたりは、もう少し何とかならないかとも思うが、逆に言えば、本当に力のある作品であればそんなことが気にならなくなってしまうはず。(むしろ、縮尺だのなんだのと、現実世界の物理法則に気を使ってちまちま作っていては面白いアニメーションにはならない。)そういう、有無を言わせぬパワーが感じられる作品には、そうそうお目にかかれないのだから、ないものねだりといえばそれまでのことだが、世間が「ジブリ」ブランドに期待するハードルの高さは尋常ではない。そんなプレッシャーのなかで、この水準の作品を仕上げた作り手は、良い仕事をしたと賞賛しておきたい。

The Last Airbender

エアベンダー (☆★)

困ったなぁ。。。Mナイト・シャマランは贔屓の監督なのである。世間的な人気はともかく、毎回楽しませてもらっているし、今度はどんなのを作ってくれるかと、新作を心待ちにしている監督の一人なのだ。

そのシャマラン、今回の新作は、(それなりに人気があるらしい)アニメ作品を原作とするお子様ファンタジー映画、である。

『レディ・イン・ザ・ウォーター』、『ハプニング』と、批評的、興行的な失敗が続いているため、これまでのように強気で企画を押し通すことはできない、そんな理由があってのことであろう。(ちなみに、私は2本とも嫌いじゃないし、失敗作とも思っていない。)たとえお子様ファンタジーであったも、ここで確実なヒットを1本モノにして、颯爽とオリジナル企画路線へと回帰してくれたらファンとしては文句はないところなのだが、、、、またこの作品がな、出来栄えが微妙なんだ。

こんな映画に付き合う観客も多くはないと思うので、一応、設定とお話しをざらっと書くとこんな感じ。

火・水・気・土の四元素にわかれた各種族が国家を築いている世界。それぞれの種族には、火・水・気・土を操る特殊能力者(ベンダー)がいる。四元素全てを操る能力を持ち、精霊界と人間界を仲立ちできる者(アバター)というのが輪廻転生によって生まれてきて、世界の秩序を保っているた。・・・のだが、この「アバター」が失踪してしまったことから世界のバランスが崩れてしまった。「火」の国が野心をむき出しにして勢力を伸ばし、混沌とした状況に。そんな時、100年ぶりに本来「アバター」となるべきであった少年が発見される。この少年が自らの使命を自覚し、一人前になるための修行を重ねつつ、「火」の国の野望を打ち砕いていくのだ・・・という感じ。

確かに、面白くなりそうな要素は、ある。アニメは人気があり熱狂的なファンもいるようだ。中国武術的なものと、VFXを組み合わせたアクションも新感覚でいい感じだし、そのVFXがわりかし頑張っている(が、あとで変換した即席3Dの出来栄えは酷いものらしい・・・2Dで鑑賞して正解だった)。中国・インドあたりをイメージした、つまりは、白人中心ではない世界観は、ハリウッド大作としては稀有な例といえ、今後の新しい潮流の試金石になるかもしれない。(・・・とはいえ、主要キャストに演技のへたくそな白人俳優を起用するところがよく分からないところ。)

が、はっきりいって面白くない。

何よりも、設定を説明し、話を消化することで精一杯の脚本と演出が、物語世界を矮小化し、キャラクターたちを薄っぺらにしてしまった。また、キャラクターを演じる俳優たちも大根で見ていられたものじゃない。魅力のないキャラクターがいきあたりばったりに右往左往しているだけで、作品世界の存亡をかけた戦いの幕が切って落とされた、というスケール感が伝わってこないのでは、観客としても「まあ、勝手にやっていてくれ」ってなものである。

ちなみに、主人公の少年は「気」の国の出身で、その他の技には精通していない。ひとつずつ異なる技を習得しながら「火」の国と闘っていくという筋立てだ。冒頭、ご丁寧に「BOOK 1」だかなんだかのテロップが出るから、タランティーノの映画みたいに Chapter を区切って語っていくのかと思いきや、本作は第一部ですよ、という意味で、「水」の技を習得して、とりあえずの敵の軍勢を撃退するところまで。端から3部作かなんかのつもりで、次(があれば)は土の技をマスターし、最後は火、になるんだろう。まあ、それこそ「勝手にやってくれ」である。(もちろん、打ち切りになったとしても全く驚かないし、残念にも思わないけどね。)

7/03/2010

Bayside Shakedown 3 Set the Guys Loose !

踊る大捜査線 The Movie 3 ヤツらを解放せよ!(☆☆)

想像以上でもなく、想像以下でもなく。いろいろな小ネタを目一杯詰め込もうとした結果、2時間20分もの尺を使いながらもいびつで消化不良になっている。また、それだけ詰め込んでみたところで、長年のあいだに多様化してしまったファンのツボにもきちんと応えきれていない。きっと、いろいろな人がいろいろなアイディアを出したのだろう。苦心惨憺まとめてみたらこんなふうになった、と。

このシリーズ、そろそろ「イベント映画」路線を捨て、連続ドラマに回帰すべきではないだろうか。いかりや長介亡き後、キャスト(キャラクター)の世代交代を図りながらシリーズを続行するというのであれば、脇役にもスポットを当て、日常の延長線上でキャラクターたちのひととなりや人間関係をじっくり描き、それを育てていく余裕こそが必要だろう。それを数年に一度の派手なイベントとしての期待を背負う「映画」に望むのは少し難しい。

かのハニバル・レクターが獄中にいながらダラハイドを利用して牙をむいたことを想起させる「事件」が、湾岸署の引越しという混乱の最中に進行するというのが本作の骨組みである。およそ警察ものの定番外しからスタートしたこのシリーズだから、警察署の引越しというアイディアはそれらしくて悪くない。ここに、黒澤やら『ダークナイト』やら『エヴァンゲリヲン』やら、ありとあらゆるものの「オマージュ」が盛り込まれ、何度も繰り返して楽しむファンに向けて、さらに細かいお遊びやリファレンスがふんだんに挿入される。まあ、やりすぎれば鼻につくが、それもこのシリーズのお約束だ。

警察署の引越しを担う業者にしては身元確認が甘くてリアリティがないとか、セキュリティ・システムの解除がそんな安易でいいのか、といった脱力気味の部分も少なくないが、まあ、それもこのシリーズのお約束のうちなんじゃないだろうか。まあ、こういうところで白ける人もいるんだろうが、あくまでコメディだと思えば、許容範囲といえなくもない。

良い意味でも悪い意味でも君塚脚本らしさもある。映画版シリーズでも、ネットで知り合った若者同士であるとか、リストラ会社員たちを犯罪者として(ある種の偏見と共に)描いてきた延長線上で、メールアドレスでしか識別されないパートタイム労働者といったいかにもな時事ネタを潜り込ませる。今という時代の空気を感じさせるのはよいが、不特定多数のネットユーザーであるとか、社会における構造的な弱者に対する分かりやすい悪意や偏見が強く出ているのは苦笑すべきところなんだろうね。まあ、目をつぶってやってもいいや。仕方ない。

お笑いやおふざけのさじ加減が少しずつ間違っていて、笑える前に不快に感じるところも多々あるんだが、まあ、それもいつものこと。ん?そうだっけか?

しかし、頭をからにして、いろんなところに目をつぶって、大目に見てやって、初めて楽しめる作品っていうのはなんなんだろう。まあ、この監督がシリーズ以外で積み重ねた惨憺たる駄作の山を見れば、端から大きな期待をする方が間違っているのは周知の事実なんだけどね。

ひとつ言えることは、この作品の関係者たちはスカンクの臭いを舐めているってことだね。あんなもんで済むはずないないだろ、実際のところ。

The Extraordinary Adventure of Adel Blanc-Sec

アデル ファラオと復活の秘薬(★)

リュック・ベッソンが監督する作品を見るのは久しぶりだ。『Angel-A』があまりにも酷くて存在を忘れていたくらいだったが、それ以来である。最近は軽量娯楽映画のプロデューサーに専念しているものだと思っていたが、「アーサーとミニモイ」シリーズ(未見)で監督に復帰し、本作、である。10本撮ったら引退するなどと公言していたのはなんだったのか。別に面白い映画を撮ってくれるなら前言を幾度撤回してくれようが全く構わないのだが、こんなレベルの作品しか作れないなら、10年前に引退しておくべきだったと本気で思うね。

いやはや。

まあ、日本の配給が展開しているかつての東宝東和級ハッタリ宣伝を真に受けてはいけないのだが。それにしてもこれは辛い。酷い。つまらない。

仏コミックの映画化だという。主役以外のキャラクターには、原作のルックに近づける特殊メイクを施したりしているという。まあ、ウォーレン・ビーティが20年前に『ディック・トレイシー』でやっていたようなもんだと思えばいいのか。お話しは「インディアナ・ジョーンズ」風になるのかと思いきや、パリで「ナイト・ミュ-ジアム」という肩透かし。あなたは、笑えないコメディが延々と展開される苦痛にどこまで耐えられるか?全く以て観客の忍耐力が試される展開である。

だいたい、高度な技術を持つ古代エジプトの医師を蘇らせて、ほぼ死んでいる状態の妹を救うというメイン・プロットなのだが、いいですか、ミイラを復活させることができるのなら、端っから妹を蘇らせれば済むはなしじゃん。終了。

ま、愛人にしたい女を口説き落とすため、主演に立てて映画を作っちゃった、ってなところが真実だろう。その女優がよければまだ救いがいもあろうものを、人気のあるお天気キャスターだかなんだか知らんが、目も当てられない大根演技。まあ、ミラ・ジョボヴィッチだって似たようなものだったといえばそうなんだけど、女優以外に見所のない作品で、女優がダメだってのは致命的である。

唯一笑えたギャグは、ルーブル美術館からぞろぞろ出てきたミイラ様ご一行がひとこと、「これはなかなか素晴らしい場所だ、ぜひともピラミッドを立てるべきだ」。もしかして、このギャグがやりたかっただけなのか?そうなのか?そうだっていうなら、全て許してやってもいいぞ。(映画の舞台は20世紀初頭。現在、その場所には賛否両論あるガラスのピラミッドがそびえ立っているのはご存知のとおり。)

6/26/2010

Alice in Wonderland

アリス・イン・ワンダーランド(☆☆★)

それなりの映画好きならば、名前を聞いたならばとりあえず新作を観に出かける監督が何人かはいるものだろう。私にとって、ティム・バートンはもう、長いことそういう監督の一人である。そんなわけで、3Dブームに乗って大ヒットとなっている新作『アリス・イン・ワンダーランド』、遅ればせながら観てきたのである。

で。

まあ、つまらなくはないんだけど。

まあ、ヴィジュアルはティム・バートン的で、面白い。しかし、内容にはあまり「らしさ」を感じられない。あっさりとしていて優等生的。断片的なエピソードの羅列である原作にストーリーを与えたことで、かえってありきたりの作品になった。もっとクレージーでもいいのに。

古巣であるディズニーが求めるものを仕事と割り切って作ったようにすら思える。ただ、違う角度で見れば、古巣ディズニーからお金を湯水のように引き出して、借り物のキャラクターを使って、好き放題に映像実験をしてみたように見えないでもない。本人はどう思っているか知らないが、彼の作品の中では『マーズ・アタック!』とか、『猿の惑星』とかと同じ匂いを感じる。ほら、ストーリーとかテーマではとくに語るものもなく、宇宙人や宇宙船のデザインとか、美術とか、くだらないギャグとか、猿のメイクとか、意匠の中にバートンらしいこだわりを見て、それを楽しむ作品という意味で。ね?

しかし、主人公の体のサイズが変化し、異世界を体験するというこの話、「3D」という最新のギミックとの相性がよかった。本作は、撮影後に3D変換されたという意味では最近乱造気味の「なんちゃって3D」と同じなのだが、端から3Dで作ることを意識していた点でそれらの作品とは一線を画している。主人公が異世界に入り込んでからの映像は、アトラクションとしての面白さをそれなりに感じさせるし、3D変換作品にありがちな、書き割りっぽい不自然さが、逆にいい効果になっていたりもする。

が、物語の導入部など、通常の実写素材がほとんどを占めているシーンでの3D効果には不自然さや違和感が感じられたのもまた事実。CGIアニメーションは物体の位置情報を元に精緻な3D変換が可能になるようだが、実写映像の3D変換については、まだまだ技術が成熟しているとはいえないのだろう。

6/19/2010

Prince of Persia: The Sands of Time

プリンス・オブ・ペルシャ 時間の砂(☆☆)

ジェリー・ブラッカイマーがゲームを元ネタに作ったアドベンチャー作品である。それだけ聞くとオリジナリティのかけらも感じられないが、タイトルにあるように、今日、アメリカの天敵でもある中東はイランの地に興ったペルシャ帝国の「王子」を主人公として、バランス感覚とエキゾチシズムを前面に出しているあたりがヒットメイカーの面目躍如たるところであろう。(もちろん、ペルシャだろうがなんだろうが、登場人物が英語で話すのもお約束である。)まあ、残念ながら興行的には成功を収めたとはいい難いが、こういうある種のチャレンジは基本的に歓迎したい。

偉大な王の眼鏡にかない、王子として養子に迎えられて育った青年は、王の暗殺の罪を着せられて終われる身となる。背後には、過去にさかのぼることを可能にする不思議な砂と短剣を我が物にし、権力を手中に収めようとする者の陰謀があった、というお話。主人公は、タイトルにもある「時間の砂」の秘密を握る小国の王女と共に陰謀に立ち向かう。

・・・のだが、まあ、なんだかね。ストーリーがそれほど面白いわけでもないし、脚本がそれほどよくかけているわけでもないし、キャラクターに特段の魅力があるわけでもないし、ビジュアルがものすごいわけでもないという、可もなく不可もない軽量な娯楽映画である。話の展開にしたって、主人公の叔父、つまり、王の弟をベン・キングスレーが演じているだけで読めてしまうわけで、そこをもう一ひねりしようなどという小細工もない。暗殺者、アサシンの語源ともなったペルシャの暗殺者集団が登場するところは少しワクワクしたが、その程度か。

監督は『ハリーポッターと炎のゴブレット』で、VFXを使ったファンタジー映画でも大丈夫だと証明して見せた英国出身マイク・ニューウェルが起用されている。この人、信用できる腕前の持ち主だと思っていて、現に、「炎のゴブレット」にしても、シリーズ中盤では一番出来が良い作品だった。ただ、こういう大規模な作品になると、彼の腕がどうのというレベルではなく、全体のパッケージングに左右されるところが大きいようにも思う。次は違う路線に戻ったほうがいいんじゃないのかね。

ジェイク・ギレンホールのような役者がこういう作品の主演に抜擢されるところが面白く、体を鍛え上げて頑張っているのは良いと思うのだが、いかんせん、ちょっと線が細い。ヒロインのジェマ・アタートンは、演じるキャラクターに魅力がなく不発。アルフレッド・モリーナも出演しているが、才能の無駄遣い。

6/12/2010

The Outrage

アウトレイジ(☆☆☆★)


世間は原点回帰というけれど、それが、まあ、映画を楽しんで作っているということであったら間違いではないかもしれない。何しろ、ここのところの苦悩ぶりと迷走ぶりは見るに耐えないものであったから、北野武が楽しんで映画を撮っているということは、ファンとしてはなによりも嬉しいことだ。

もちろん、映画の内容が原点回帰だとは思っていない。普通であることの作法も技術も持ち合わせず、定石を徹底的に排除したところで成立していた初期の作品とは、そもそも目指しているところが違う。むしろ、本作が比較されるべきは、北野武が幅広い観客を意識した「北野流バイオレンスエンターテインメント」を標榜する『BOROTHER』であり、『座頭市』だ。これらは、その完成度はともかくとして、誰にでも分かるエンターテインメントと主張しながら、北野武でしか撮りえない個性的な作品でもある。また、脚本や台詞をしっかり練りこんで、筋書きで観客を楽しませられるように丁寧に撮ることを要求された作品という意味では、もしかしたら『Kids Return』あたりにも近い。

本作には、王道を照れずにやってのける覚悟が見て取れる。ストーリー然り。組織の中で仕掛けられたちょっとした小競合いが凄惨な組織のつぶしあいに発展する一方で、腹黒く狡猾な連中は、状況を利用して権力を手中に収めようとするという仁義なき群像劇だ。キャスティング然り。これまでは敢えて起用を避けてきたようなオールスターの演技者が並ぶ。殺しのシーンから逆算し、精緻に組み立てられた脚本にはいろいろなレベルで伏線が張られており、緊張と笑いのバランスを巧みに操り、一気呵成に突っ走る109分。払ったチケット代のぶんはきっちり楽しませるプロの仕事たらんとする気合がスクリーンに漲っている。

その結果、過剰な自意識やヒロイックな自死願望は消えた。行間はそのままに、寡黙さが消え、台詞はやたらに増えた。バイオレンスは痛さはそのままに、しかし軽く、マンガ的になった。編集からは唐突な暴力性が消え、びっくりするぐらいスムーズになった。ある意味、「普通」の作品に近づいた。しかし、普通に接近するほどに、普通の枠にははまらない北野武の個性も際立ってくるところが面白い。

この作品にも、いつのまにかスッと忍び込んできて日常を異化してしまう暴力の恐怖は健在だし、オフビートな笑いもそこにある。暴力的で威圧的な台詞が気がつけば掛け合い漫才、という面白さは、これまでの作品になかったものである。が、彼のキャリアを考えれば、これが北野流コメディのひとつの完成形だろう。そして、
息を呑むような素晴らしいショットもある。何より、一見単純でありふれたストーリーの裏から、これまでの作品とも底の部分で通じる組織や社会構造、人に対する彼独特の観察眼と世界観が浮かび上がってくる。

弱小ヤクザ組織が上位組織の裏切りによって破滅していくところだけを切り出せば、ヤクザ映画として出発しながら「何か違うもの」に変質していった『ソナチネ』と同じだが、本作はあくまでヤクザ映画、あくまで分かりやすいエンターテインメントという制約の中で、初期作品とは全く別のベクトルで仕上げられている。ともかく、北野武は「もう終わっちゃった」作家なのではなく、まだ始まっていない、ということだ。何かをふっきって再度スタート地点に立った。この人は、同じ場所を堂々巡りするのではなく、新しい地点に向かおうとしている。本作を見る限り、まだまだ期待していいのだと思う。

Iron Man 2

アイアンマン2(☆☆★)

マーヴェルが着々と進めている「アヴェンジャーズ」映画化作戦の、いまとなっては中核としての地位を不動のものにした『アイアンマン』の第2弾である。引き続きキャプテン・アメリカだの、マイティ・ソーなどが映画化される予定、マーヴェル的に、ここはきっちり成功しておきたいところだろう。

ご存知の通り、前作は期待を上回る面白さだった。何が面白いといって、ガレージでアイアンマン・スーツをバージョンアップさせながら完成させていく Do It Yourself な感覚とか、主人公のちゃらんぽらんなキャラクターとか、もちろんそれを演じるロバート・ダウニーJr. その人の個性が渾然一体となった演技とか、気楽に楽しめるコミック原作のヒーローものとしての絶妙なバランス感覚とか、あまり欲張らずにコンパクトかつスピーディにまとめ上げた娯楽職人的センスとか、まあ、挙げればきりがない。そういうさまざまな要素が絡まって、存外に楽しい1本であった。そのことには異論はないだろう。

続編はどういう手でくるのか?それが今回の楽しみの一つでもあったが、蓋を開けてみれば非常にオーソドックス、予算にモノを言わせた「派手な物量作戦」なのであった。こういうのはダメな続編にありがちなパターンである。が、どうだろう。そもそも小難しい映画じゃないのだから、むしろ、こういうあっけらかんとやらかしてくれるのも悪くないんじゃないか。言葉を換えるなら、「分をわきまえたもの」とでもいえないだろうか、と思うのである。前作の面白さの根本的なところに、あまりに複雑になってしまった「コミック・ヒーローもの」を、本来あるべき単純な世界へと引き戻したことがあったとすれば、成功した娯楽映画の、続編のシンプルな王道をやるのが本作のあるべき姿、なのかもしれない。

そうであるからして、映画の完成度では前作に遠く及ばない。が、これはこれで楽しい映画である。ロバート・ダウニーJr.がいて、強い敵がいて、新しいキャラクターや新型メカがいっぱい登場して、派手な見せ場が盛りだくさん。正直、相当よくばった「全部盛り」である。

ジョン・ファブローという人の偉いところは、これだけの内容を2時間(124分、ちなみに前作は125分)の尺にきっちりと収めてみせるところだ。こういう職人的な見識と手腕は、大作といえば、大した内容でもないのにやたらとダラダラ長いのが幅をきかせる昨今にあって、高く評価したいポイントである。

逆に、残念に思うことがあるとすれば、主要キャラクターで役者の交代があったことだ。ドン・チードルは嫌いじゃないが、顔の形といい、体格といい、テレンス・ハワードのほうが役にあっていると思うな。

予告編をみたときには、なんだか汚らしい格好をしたミッキー・ロークが半裸で暴れているだけで不安にさせられたが、この男、自分が暴れるだけではない知能犯なのであった。クライマックスでは陸海空各種タイプを取り揃えたロボット軍団が大暴れする。大方の予想どおり、重武装をまとった「ウォーマシン」も登場し、ミッキー・ロークも巨大なアーマーを身にまとって参戦。等身大ロボット大激突映画というジャンル(?)では、フィル・ティペット渾身のゴー・モーションによるクライマックスが素晴らしい金字塔『ロボコップ2』に並ぶ見応えであった。そういうのがお好きなら楽しめること請け合いである。

From Paris with Love

パリより愛をこめて(☆☆★)

007にあやかったようなタイトルだが、それ以上の深い意味はない。ロシアに対してパリ、日本語カタカナだと語呂が悪いよな。パリス、だと締まるんだけど。

ヨーロッパ・コープ&デジタル・ファクトリー、リュック・ベッソン謹製の軽量娯楽映画量産工場が、『96時間 (Taken)』を成功させたピエール・モレルを再度監督に起用し、ハリウッドスターであるジョン・トラボルタを招いて、パリを舞台に展開される単純明快な娯楽アクション映画。こういうのが好きな人ならそこそこ暇つぶしになる、といった程度の出来栄え。

主役はジョナサン・リース・マイヤース演ずる大使館員で、CIAの工作活動に憧れを持つ若造。ここに、粗暴で無茶苦茶なトラボルタ演ずるエージェントが現れ、テロを阻止するために行動を共にすることになる、という話。突然現れた迷惑者に振り回される主人公、というスタイルで、コンビものの一定型を押さえ、パリの表と裏を走りまわり、頭を使うよりは体を使ってドッカンばっかんやりつくすタイプの作品である。仏映画ではあるが、もちろん米国+世界市場を狙った企画である。ただし、主人公の恋人にかかわる終盤の展開は米映画だったら採用しないんじゃないか。少なくとも違う出口を考えるだろう。

トラボルタの演じるキャラクターが、わざと(目的を持って)振舞っているのを込みで考えても、粗野でうるさく強引で乱暴な感じの一本調子で魅力がない。トラボルタの演技は近作の『サブウェイ123・激突』などにも通じる方向だが、キャラクターに合わせてのことか、これまた一本調子で飽きてくる。まあ、「ひとの国にきておいて、我が物顔で傲慢・勝手に振舞うデリカシーゼロなキャラクター」を通じて、海外でも我が物顔で傲慢な米国人を揶揄しているんだろう。こういう視点が入ってくるのが仏映画たる所以で面白いところだが、それがキャラクターを魅力的にしているか、映画を面白くしているかどうかといえば、別の話だと思う。

Confession

告白(☆☆☆★)


公開1週間経った劇場、R-15指定の作品だが、普段はTVの延長線上にあるような映画にしか興味を抱かないような若い観客が多くて、一瞬、入る箱を間違えたのではないかと戸惑ってしまった。『下妻物語』、『嫌われ松子の一生』の中島哲也監督が撮った新作、『告白』は、口コミで集まったに違いないそういう「若い観客」には十二分にショッキングな作品ではなかっただろうか。君たちきっと見たことないんだろ、こういう重たいエンターテインメント。

ともかく、こういう作品が「東宝」という大メジャーで製作され、全国それなりの規模で公開され、これだけの客を集めてみせたという、その事実が素晴らしい。もちろん、これが、「原作もの」でなくてオリジナル脚本だったらもっと素晴らしいのだが、まあ、それはさておいてもいいや。TVドラマの延長としてのイベントばかりで埋め尽くされるようになった今、こういう作品が出てきて、こういうヒットを飛ばす。そのことで、「もっと多様な映画を作り、供給してもいいんじゃないか」と、作り手(というより出資者たち)が少しくらい思い直してくれたらいい。この作品が、新しい流れの第一歩になればいい、心からそう思う。

作品そのものも、中身がともなっており、面白く見ることができた。ストーリーそのものは原作に負うところが大きいが、そこで描かれた物語を、映画というフォーマットの中できっちり再構築してみせたところは高く評価されるべきだろう。視点を切り替えながら登場人物のモノローグで語っていく原作の構成を、そのまま映画に持ち込んだのが正解である。登場人物たちの過剰な自己主張に、この監督が得意とする、スローモーションを多用する過剰に作りこまれた映像をパッチワークのようにはめこんで、これまた絶え間なく背景に音楽を流し続ける。手法も映像も(いつものごとく)あざとくて鼻につくことこの上ないが、これが題材にピタリと拮抗して、スリリングな緊張感を生み出している。

複数人物の主観的なモノローグをつづっていくことで事件の背景が立体的に浮かび上がってくるという構造は、大林宣彦が宮部みゆき原作に挑んだ『理由』(傑作!)にちかい、と思う。人工的に作りこまれた映像のパッチワークという意味でも、旺盛な実験的精神という意味でも、CMディレクター出身という共通項を持つ大林監督の(過小評価されているとしか思えない)作品が想起されたのは自然なことだと思うのだが、どうだろうか。

5/23/2010

Green Zone

グリーン・ゾーン(☆☆☆)

映画の世界においては単純な事象の中に内包される複雑さを描けば賞賛の対象になるが、複雑な事象を単純化してみせても褒めてくれるものはいない。

『ユナイテッド95』で 9/11を、つまりは、米国の「対テロ」戦争の発端を描いた俊英ポール・グリーングラスが、彼の出世作ともなった「ジェイソン・ボーン」シリーズで組んだマット・デイモンとタッグを組んで取り組んだ本作は、イラク戦争開戦の大義名分であった「大量破壊兵器」の在り処を探すうちに国家の陰謀につきあたる主人公の物語である。

この映画の良さは、あくまで「ジェイソン・ボーン」シリーズと地続きのような、気軽に楽しめる娯楽アクション映画のフォーマットのなかで、イラク戦争開戦に至る構図と「終戦後」のバグダッドを臨場感たっぷりに、誰にでも分かりやすく見せるところにある。

が、その一方で、分かりやすい悪役を立て、それに挑むヒーローという構図により、本来は一筋縄ではいかない現実をあまりにも単純化してしまったという批判も免れない。まあ、反米的云々といった的はずれな評は聞くに値しないにしても、娯楽映画の題材とするには未だ生々しさが拭い去れないという微妙なところもあっただろう。一方、社会派の作品を期待した向きには、あまりに単純、あまりに娯楽映画的であったに違いない。

そうこうしているうちに、イラク戦争の最前線を描くというキャッチを『ハート・ロッカー』に横取りされてしまい、テーマとしての鮮度が落ちた。これは興行的観点から見れば痛手であったと考えられる。

もっといえば、問題作というにはトピックが周知の事実(=大量破壊兵器の不在)過ぎた。しかし、社会派のネタから幅広い観客層が楽しめる娯楽映画を作ろうという志は買いたいし、本作を支える演出力と職人技としての技術の高さには改めて感服させられるものがある。

嫌な奴を演じさせたら抜群にうまいグレッグ・キニアが国防総省の高官を演じて楽しませてくれる。中東歴の長いCIAとして登場するブレンダン・グリーソンの存在感もいい。そのあたりの顔ぶれも、新鮮味がないといわれたらそれまでだが、ありふれた娯楽映画と考えれば恐ろしく水準の高い拾いものだといえる。戦争ものというのでなく、ハードなアクション・スリラーとして、お勧め。

5/15/2010

Le Concert

オーケストラ! (☆☆☆☆)


ブレジネフ時代のソビエト連邦で、ボリショイ交響楽団からユダヤ人排斥が行われたことをモチーフにした人情喜劇の秀作。お笑いのセンスがちょっとベタなあたりは、逆にいい味になっていると好意的に受け止められる観客であれば、社会的な背景を踏まえつつ、笑いと涙とスリルと音楽のフルコースで、映画を楽しんだという充足感に満たされること保証つきである。

表舞台を追われた人々が千歳一隅のチャンスを得、ボリショイの名を語りパリでチャイコフスキーを演奏しようとするのがメインストーリー。そこに本作の主人公である元指揮者、招聘される人気ソリストらの人生のドラマが絡み合い、クライマックスのコンサートに向かって怒涛のように雪崩れ込んでいく。

偽オーケストラがバレずに公演を成功させられるのかというサスペンス。ロシアから華の都パリに出てきて浮かれてしまう団員たちの奇天烈な行動で巻き起こる笑い。そして観客席を本物の感動で震わせる演奏。いくつもの要素を手際よく整理し、最高の幕切れにむかって練りあげていく脚本、この構成が見事である。大筋でいえば定石どおりかもしれないが、一つ一つの要素、エピソードに、少しずつサプライズがあって新鮮である。

一応、パリを舞台にしたフランス映画、である。まあ、先にもあげた笑いのセンスはフランス映画そのものである。しかし、各国混成のキャストがひとつの映画の中で素晴らしいアンサンブルをみせてくれる映画でもある。出演者は『イングロリアス・バスターズ』とは違った魅力を振りまくヒロイン、メラニー・ロランを筆頭に仏の芸達者が顔をそろえる一方、主演のアレクセイ・グシュコブ(ポーランド生まれ)を初めとするオーケストラの面々はロシア系の俳優たちが起用され、それだからこそだせる空気を作り出している。

なにせこの作品、監督のラデュ・ミヘイレアニュはもともとルーマニア生まれ、チャウシェスク政権下からの亡命者だという。こういう国籍や文化の入り乱れた感じはちょっと羨ましいというか、仏に閉じない「欧州映画」の風格につながっている。そして、欧州の現代史を踏まえたドラマを描いている。

ところで、こんな映画の共同脚本に、スピルバーグとの縁浅からぬマシュー・ロビンスがクレジットされているのがちょっと謎。『ミミック(1997)』以来、なにがあったというのだろう?

Precious: Based on the Novel Push by Sapphire

プレシャス(☆☆☆)


まあ、壮絶な話である。実話じゃないにしろ、これに類する話は珍しくないというのも凄まじい。

16歳の超肥満黒人少女は、義理の父親から幾度となくレイプされた挙句、12の時、すでにダウン症の息子を出産し、いまは2人目を妊娠している。公的扶助だけを頼りにする怠惰な母親は、自分の夫を奪った娘を、それゆえに虐待する。読み書きもろくろくできない。逃げ場所は妄想のなかだけ。80年代のNY、ハーレム。社会の最底辺の地獄のような生活のなか、周囲に差し伸べられた手によって少しだけ見えてきた希望。そこでダメ押しのように明らかになるのは、義理の父親からHIVに感染していたこと。

どう考えてもメジャーが手を出さない題材である。サンダンス映画祭で成功し、オプラ・・ウィンフリーとタイラー・ペリーが強力に興行の後押しをした結果、興行的にも一定の成果を収めることができ、賞レースを賑わせた。オプラがいれこむ理由は、彼女自身、10代未婚の母に育てられ、9歳で強姦され、14際で妊娠した経験があるという、なんだか映画みたいな経歴ゆえだという。

フィクションではあるが過酷な現実、そんな内容を映画にして知らしめることの価値は大きい。ある意味で使命感を背負った映画である。しかし、違う言い方をするなら、主人公の背負った運命の壮絶さそのものが、「映画」という枠組を吹き飛ばしてしまうタイプの作品で、何が描かれたかが、どう描かれたのかを圧倒し、評価するにあたって思考停止に陥ってしまうタイプの映画、である。ある意味、こういうのはちょっとずるい。

本作が2本目の監督、リー・ダニエルズは、当然、そういう自覚があるはずだ。それゆえに奇を衒った演出に走ったり、ことさらドラマティックに盛り上げようとしたりせず、主人公に淡々と、誠実に寄り添っていくスタイルをとっているのではないか、と思う。個人的には、主人公が逃避する妄想の世界の使い方が中途半端だと感じたが、あまりやり過ぎると、『シカゴ』になっちゃうし、そうすると描かれた「現実」が作り物のようになってしまう。それは、作り手の意図とは違うということだろう。

主人公を虐待する母親役でコメディエンヌのモニークが出演、アカデミー賞受賞時の感動的なスピーチも印象に残るが、確かに、引き受けるのをためらうような役柄で、これを引き受けて、こういう演技をやってのけたことは確かに賞賛に値するだろう。マライア・キャリーの出演も話題だが、この人、映画では初めてまともな仕事をした。なんだ、演技、できるじゃん!レニー・クラヴィッツも小さな役で出演し、いい味を出している。主役を演じるガボレイ・シディベの太り方は保険会社から警告を受けたというほどに異常。全くの素人をオーディションで起用したようだが、当時25歳だったというからびっくりですよ。ええ。

An Education

17歳の肖像(☆☆☆☆)


1960年代、ロンドン郊外で、うんざりするほど退屈な日常を送っていた利発で聡明な少女が経験する、甘くて苦い通過儀礼の物語。オクスフォード進学を期待されながら、その先の人生に希望や将来性を実感できない主人公(キャリー・マリガン)は、怪しい商売に手を染めた30代後半の男(ピーター・サースガード)が連れ出す快楽的で刺激に満ちた世界への抗し難い魅力に吸い寄せられていく。

本作は英国のジャーナリストであるリン・バーバーの自伝("An Education")のもとになった同テーマの短いエッセイを、(映画ファンのあいだでは『About a Boy』や『High Fidelity』の原作で知られる)ニック・ホーンビィが脚色して映画化したものだが、まずなんといってもアカデミー賞にもノミネートされたこの脚本が見事だ。繊細に描かれる主人公のキャラクターはもちろん、主人公の両親や学校の先生にしても、それぞれのキャラクターに生きた人間としてのリアリティがある。会話のテンポと内容が実にリズミカルでポップ。その一方、下世話になってもおかしくない話を、品格をもってまとめている。それでいて、文芸映画な退屈さとは無縁。

ここで描かれるのは、時代と場所に特有な環境における、特殊な少女の、特殊な体験でありつつ、時代や場所にとらわれない普遍的な物語でもある。監督のロネ・シェルフィグはデンマークの人なのだが、主人公を取り巻く環境と空気を丁寧に描出しつつ、物語の核にある普遍性をあぶりだしている。同じ欧州人とはいえ、国境とカルチャーを超えてこれだけ達者な演出をできるところは感心するし、外部者としての、すこし距離をおいた客観的な視線も感じられる。その距離感は、この話に "An Education" と命名した作者の視点とも重なる。

賞レースの台風の目となったキャリー・マリガンの「一生に一度」的な輝きはいまさら言及するまでもないとして、その相手役となるピーター・サースガードの胡散臭さが非常に素晴らしい。このひと、どうみても普通の「美男子」の基準からは外れているが、この役は主人公視点ではとても魅力的に見えなくてはならないし、観客目でみてそのことに説得力がなければならないという意味で、結構な難役である。コミュニケーション能力に長け、物腰が優雅で、金回りがよく、趣味や話題が豊富、普通に考えれば真っ当ではないが、世の中の仕組みを鼻で笑って美味しい蜜だけをすくっていく、こういう男を本当の美男子が演じたらファンタジーになってしまっただろう。主人公の父親を演じるアルフレッド・モリーナ、校長役のエマ・トンプソンは、幾分類型的に描かれた役ではあるが、それだけでは終わらない深みを与える好演。こういうベテランと若手のアンサンブルは気持ちがいい。

5/08/2010

The Shutter Island

シャッター・アイランド(☆☆☆☆)


この映画は、見た目と違う、のである。

といっても、観客を騙すとか、どんでん返し、とか、そういう意味ではない。つまり、そもそも配給元が喧伝するような謎解きサスペンス・ミステリーではないのである。また、様々な映画の記憶やテクニックをマニアックに引用して塗り固めた、シネフィル的な知識をひけらかすだけの作品でもない。名匠が金稼ぎの必要から撮った分かりやすい娯楽作品というのも違う。

では一体なんなのか。すべての鍵は、原作にない、映画で付け加えられた主人公の最後の台詞にある。

Which would be worse, to live as a monster, or to die as a good man?

精神科監獄病棟を舞台に展開される物語である。主人公たちは、FBIの捜査官として監獄病棟のある島に向かい、あとかたもなく失踪したという女性の行方を追う、というのが話の発端である。その過程で、ナチス・ドイツで遭遇したユダヤ人収容所での凄惨な光景の記憶など、事実や幻想が入り乱れつつ、主人公の過去のトラウマがフラッシュバックで甦ってくる。一体、ここで何が起こっているのか、主人公の過去に何があったのか。

舞台となる病棟を作ったのが悪名高い「非米活動委員会」であると劇中で説明されている。非米活動委員会といえば、真っ先に想起されるものがハリウッドも吹き荒れた「赤狩り」である。証言や召喚を拒否した映画人たちは、結果的に職を追放され、表立った活動ができなくなった。そんななか、司法取引に応じて多数の仲間の名前を売ったのがエリア・カザンである。共産主義者の嫌疑があるものとして密告された人間が職を締め出される一方で、カザンはその後も第一線で活躍を続け、数々の作品を残した。

本作の監督、マーティン・スコセッシは、そのエリア・カザンの名誉回復に尽力する立場であった、と理解している。カザンに対するアカデミー賞の特別賞授与(1998)の場で、多くの「気骨ある」映画人が口を静かに結び、席を立つのを拒んだが、プレゼンターとして舞台の上に立っていたのがスコセッシ(と、盟友ロバート・デニーロ)であった。

ちなみに、スコセッシとデニーロといえば、アーウィン・ウィンクラー監督がハリウッドでの赤狩りを描いた『真実の瞬間 (1991)』で役者として共演している。これもまた、面白い符合だと思って、授賞式を見た覚えがある。

本作は、そういう流れのなかに位置づけると、違った意味を持って見えてくると思うのだ。先ほど引用した台詞が、違った意味をもって響いてくる。つまり、カザンのような才能ある映画人が、表舞台に残るために仲間を売るという非情な選択を迫られたことを、裏切り者として、monster として生きることを選ばざるを得ないところに追い込まれたこと。証言を拒み、良き人として表舞台から去っていった数々の映画人のこと。

この映画は、表面的にはデニス・ルヘインの変化球的(だがたまに見かける)パターンのミステリーの映画化で、ディカプリオは得意の眉間のしわを寄せて過去に悲劇的なトラウマを抱えた男を演じている。そのドラマにはなかなか見ごたえがあるし、映像・演出のテクニックもこなれていて一級品の風格がある。

そんなわけで、表面的にも十分楽しめる良作である。が、裏読みをすれば、その奥深さが一層心に残る1本になるように思う。他人の企画による分かりやすい娯楽映画を職人として仕上げたふりをしながら、なかなかの力作。スコセッシもまだまだ捨てたものではない。

Nodame Cantabile: The Movie (I & II)

のだめカンタービレ最終章・前編 / 後編(☆★)


まあ、いくら豪勢にお金をかけてみてもテレビドラマはテレビドラマ。テレビドラマが好きだったなら、その続きを素直に楽しめばいいし、そうでなかったら面白くもなんともないだろう。映画としてはもはや評価対象ですらない。豪華なテレビ・スペシャル以上でも以下でもない。

豪華なテレビ・スペシャル・・・というか、海外編になってから、もはやドラマというよりバラエティである。コメディというよりコント。正直、つらいぞ、これは。

もともとのドラマが、マンガだから許されるお遊び表現を、バラエティのノリ、コントのノリで、悪乗り半分に映像化しているところがあって、そうはいってもそこにはきちんとした物語とドラマがあって、安っぽいお茶の間のTV画面の中でだけ成立し得た奇跡的で幸福なバランスがそもそもの魅力のひとつだったように思う。が、そのあとは正直に言って酷い。惰性。原作に続きがあるからといっても、無理に続ける必要などどこにもなかった。

まあ、個人的に、ドラマも原作の漫画も楽しませてもらったクチなので、結局、なんだかんだといいながら前編・後編とも付き合ったが、制作費を回収するためかどうか、2回に分けて公開するあたりの姑息さが嫌らしいと思う。実写版映像化としては、最初のTVシリーズだけで終わっておけば良かったと、本気で思っている。

District 9

第9地区 (☆☆☆★)

ピーター・ジャクソン製作、ニール・ブロムカンプ脚本・監督で、公開以来大いに話題を呼び、作品賞枠が10本に拡大された米アカデミー賞にノミネートされて一躍名を上げた異色SF作品。

南アフリカ、ヨハネスブルグ上空に出現した巨大宇宙船からの「難民」であるエイリアンたちが被差別民的に暮らすスラム街、第9地区。このエイリアンたちを別の専用居住地区への強制移住させるための現場監督を任せられた職員を主人公にして、フェイク・ドキュメンタリーのタッチで現実社会における人種隔離や差別、文化の衝突を風刺的に描きつつ、B級魂が炸裂するアクション・アドベンチャーになっている。テーマ、スタイル、エンターテインメントのユニークな融合と、映画好きの心をくすぐるディテールや笑える設定・描写山盛りのサービス精神に思わず顔がほころんでしまう快作。

エイリアンと人類が共存する世界といえば、エイリアンを(ヒスパニック系の)移民になぞらえた『エイリアン・ネイション』なんかを想起するのだが、本作はもう、あからさまにかつての南アフリカにおけるアパルトヘイト政策や、黒人たちの強制移住など、現実に起きた事件をあからさまになぞっていて、「エビ」と呼ばれて蔑まれているエイリアンたちの人権なぞどこ吹く風という主人公の言動に皮肉がパンチが利いていて面白い。エイリアンの設定も、知能程度の高くない2級市民的な種族としていて、二重の意味で被差別的な存在におかれているあたりがいいアイディアである。彼らをコントロールする立場にあった(おそらく宇宙船や超絶兵器を使いこなす)高等な種族が事故か疫病でほとんど死滅したからこそ、辺境の星である地球なんぞで立ち往生する羽目になっているというわけだ。

謎の液体を浴びた主人公のDNAが変化をはじめ、「エビ」へと変貌してしまうあたりは『フライ』等へのオマージュだろうか。今度は主人公の人権もなにもあったものじゃなくなり、当局に監禁され、実験台にされてしまう。なぜにして当局はそこまでするのか、といった動機付けの設定が本作で最高のアイディア。エイリアンの持ち込んだ超絶的な武器、兵器類は、「エビ」のDNAで起動するので、人類は使用できないのである。後半は、その設定を活かした大活劇になるのだが、あんまり高尚ぶっておらず、良い意味で、なんでもありのB級展開である。そういう部分がかえって清々しく、好印象のよくできた娯楽作品である。

SFチックな意味での避けがたいグロテスク描写がネックになって手を出さないひともいるかもしれないが、さしてハードなものではないので、よほどこういうのが苦手な人でなければOKなんじゃないか。グロ描写を理由に本作を避けるとしたら、ちょっともったいないと思うので、食わず嫌いをせず、手を出して欲しい。面白さ保証付き。

3/28/2010

The Hurt Locker

ハート・ロッカー (☆☆☆)

ハリソン・フォード主演で撮ったロシア原子力潜水艦事故映画『K-19』 の興行的失敗で表舞台からしばらく姿を消していたキャスリン・ビグロウが、2004年のバグダッドを舞台に駐留米軍の爆弾処理班の活躍を描いたインディペンデント映画で戻ってきた。実際に戦場を知る観客たちからは、本作品の描写の不正確さや現実味のなさに相当不満や批判がでてきているが、それはインディペンデント映画の宿命として、米軍の支援なしに製作されたことなんかも関係しているのだろう。

この映画は、基本的に戦場で命を懸けて任務に当たる兵士たちへの賛歌という視点で作られている。だから、過酷な環境に過剰に適応した結果、他に自らの存在意義を求めることが出来なくなった主人公が、ある種の諦念と覚悟を持って戦場に戻っていく姿をヒロイックに描く一方で、末端の兵士たちをそのような状況に追い込む戦争を始めた国家(ブッシュの米国)の判断については、現在のムードを踏襲し、否定的なトーンを醸し出すようには作っているものの、映画全体として、過度に政治的であることを避けようという意図も感じさせる作りになっている。題材が題材であるから仕方のないことだが、結果として、米軍(兵士)の戦場における行動は美化されてみえ、それに対抗する勢力(いわゆる過激派のテロリスト)の卑劣さが強調されてみえる。このあたり、アメリカの視点で作られた作品の限界を感じないわけではない。

死亡率が高いという危険な任務をスリルを楽しむがごとくにこなしていく主人公の姿を臨場感とサスペンスたっぷりに描き出していく演出は、骨太のアクション描写で鳴らすビグロウの持ち味が100%発揮されていてなかなか見応えがある。これまでのビグロウの作品を見てきて、部分部分は面白くとも、映画全体を纏め上げる力、緩急をつけてストーリーを語る力においては評価できるものがないと感じていた。本作が良かった理由を考えてみるに、これがストーリーでみせる映画ではなく、瞬発力の必要な描写を積み上げ、ぐいぐい力で押して行くスタイルの作品であることが、彼女の資質に合っていたのではないだろうか。

3/21/2010

Up in the Air

マイレージ、マイライフ(☆☆☆☆)

『Thank You for Smoking』、『Juno』と、デビュー以来立て続けに面白い映画を発表してきたジェイソン・ライトマンの新作は、これまた極上の脚本にいい俳優が揃って、その若さに似合わない大人のコメディ映画に仕上がった。本作の制作に名を連ねた父親、アイヴァン・ライトマンもさぞ誇らしいことだろう。こういう成熟し、洗練された、楽しい娯楽映画でありつつ一筋縄ではいかない骨太の作品を送り出せる米国映画、まだまだ捨てたものではない。

原題の Up in the Air は、地に足のついていない、中途半端な状態を指している。もちろん、この映画の主人公は年間300日以上も出張し、常に空の上にいるのだから、文字通り Up in the Air でもある。

企業が首切りを行うに当たっての汚れ仕事、本人に戦力外通告を行い退職を促すという役回りを請負うのが主人公の専門である。出張によるマイル蓄積にある種の生きがいを見出している風情の主人公の前に現れるのは、IT時代の申し子たる新人。やる気にあふれた新人は、経費のかかる出張に替え、ビデオ・カンファレンスを使って首切り宣告を行うことを提案し、会社はそのアイディアに乗り気になってしまう。主人公にとってはライフスタイルの危機、だ。

それを発端に、面倒な人間関係を避け身軽に暮らしてきた主人公が、旅先で出あった同じ出張族の女性に入れ込んでしまったり、新人と行動を共にする羽目に陥ったりするなかで、自らの人生の空虚さを自覚し、立ち居地を再確認していく物語である。まあ、大人の映画である以上、もちろん、物語の先に分かりやすいハッピーエンドはなく、苦味のある「中途半端」な結末が待っている。

いかにも自己中心的でドライに割り切った主人公のライフスタイルや信条は、ある面、人間を相手にするアナログかつ非情な仕事ゆえのストレスから自分を守る手段ではなかったか、と思う。演技なのだか地なのだかわからないジョージ・クルーニーは、ユーモアと余裕をたたえた演技で完璧なハマり役。この人の昨今米国映画に対する貢献度は並々ならぬものがあって、本当に驚かせられる。本作のような企画を見抜く眼も鋭いし、プロデューサー、監督としてもいい仕事をしている。主演俳優としての貫禄、クラシックなスターにも見劣りせぬ輝きも凄い。今後もますます活躍を期待したい。

一方で、人との暖かい関わりとその価値をナイーヴに信じている新人は、その人生経験、職業経験の浅さゆえに、ドライに仕事の効率化を主張し、あまりにも重いレッスンを学ぶ。アナ・ケンドリックの、いかにも「米国的な悪気のないプロアクティブ」さを体現した演技には説得力があり、微笑ましい。ベテランを相手にしっかりと存在感を出していた。ここにもうひとり、大人の魅力と余裕をたたえたベラ・ファーミガが絡む。主人公と同類と見せかけながら、もっとしたたかな生き様を見せつけて主人公を唖然とさせる美味しい役どころ。これは儲け役というものだろう。

リーマンショック以前の企画であったはずだが、その後の経済状況や社会情勢にピタリとはまって、今の時代の空気が見える傑作。何度でも繰り返し見たくなる1本である。ジェイソン・ライトマン、恐るべし。

3/13/2010

Percy Jackson & the Olympians: The Lightning Thief

パーシー・ジャクソンとオリンポスの神々(☆☆)


ゲームのような映画、ということがある。いまではゲームを原作にした映画も珍しくない。本作はベストセラーのファンタジー小説を原作にしているのだが、これがまた、文字通り「ゲームのような構成」の映画で、思わず笑っちゃうのである。

まず、イントロで物語の説明が行われる。いわく、主人公はポセイドンの血を引くデミゴッドであり、ゼウスの雷撃を盗んだ嫌疑をかけられている、と。雷撃を欲するハデスにさらわれた母親を救い出し、ゼウスの疑いを晴らさなくてはならない、と。次は、チュートリアルが待っている。神の落とし子たちを集めたキャンプをステージに、ミノタウロスとの戦いやフィールドでの訓練で基本的な戦い方を教わるのだ。今後必要となる武器・アイテム・仲間を受領したら次に進もう。

キャンプをでたら、マップを手がかりにお宝を集めるクエストが始まる。アメリカを横断しながらステージを移動し、メデューサ、ヒドラと強力な中ボスを倒すごとに特殊な「真珠」をゲットしていく。ドラッグの迷宮を越え、3つ目の真珠を手に入れたら、冥界ステージへ移動だ。冥界でハデスと戦って母親を救出すれば、いよいよ最終ステージ。ここまできたらあとは簡単。幾分弱めの「雷撃泥棒」を倒してやると、オリンポスへの扉が開き、あとは勝手にムービーが流れてゲーム終了・・・って、そんな感じ。

まあ、それ以上でもそれ以下でもなく、語ることも何にもない。金のかかった大作なのに安っぽくて、「退屈な子供向けハリウッド映画」の見本のような作品である。原作は5部作だというが、続編企画がなくなっても驚かないし嘆きもしない。

クリス・コロンバスは「ハリー・ポッター」1作・2作の監督で、本作を手がける20世紀FOXでは、7本の監督作、4本の製作作品を手がけ、多くのヒットを飛ばしている。そんな流れで本作の指揮を任じられたのは想像に難くないが、この人選、正しかったのか。この人、もともとこういう仕掛けの大きな作品よりも、もっと規模の小さいコメディ作品で良さが出るタイプ。ハリー・ポッターのせいで本人も、周りも、何かを勘違いしてしまったんじゃなかろうか、と思っている。ショーン・ビーン、ウマ・サーマン、キャスリーン・キーナー、ロザリオ・ドーソン、ピアース・ブロスナンと、脇役がわりと豪華なのだが、みんな無駄遣いでもったいない。

Did You Hear About the Morgans?

噂のモーガン夫妻(☆☆)


『L.A.Story』とか『スリー・リバーズ』の、、、と思っていたら(いつの話だ)いつの間にか『セックス・アンド・ザ・シティ』の看板スターになっていたサラ・ジェシカ・パーカーと、ロマンティック・コメディの(ちょっと前までの)帝王ヒュー・グラントが共演する、離婚の危機に置かれた夫婦が違った環境に身をおいたら夫婦仲がよくなちゃったコメディ、である。監督は、『トゥーウィークス・ノーティス』、『ラブソングができるまで』でヒュー・グラントの持ち味を引き出したマーク・ローレンス。

この作品のユニークな点は、NYCで暮らす破局寸前の都会派カップルが、偶然目撃した殺人事件により連邦証人保護プログラムの対象になってしまい、そろってワイオミングのさらに片田舎に身を寄せ、素性を隠して暮らす羽目になるというアイディアである。身元引き受け人になるのが、地元のシェリフ夫婦。これを演じるのがサム・エリオットとメアリー・スティンバージェンで、都会派コメディの空気を一気に西部劇に変えてしまうインパクト。ははあ、要はこの映画、都会の根無し草が、米国のルーツに立ち返って夫婦の絆を取り戻すと、こういう保守的なお話しでもあるわけですね。

いかにも西部の男というサム・エリオットに、へらへらちゃらちゃら英国訛りのヒュー・グラントというギャップがひとつの笑いどころである。しかし、顔をのシワをみていると、ヒュー・グラントもさすがに年をとったなぁ、と思う。そうはいっても演じるキャラクターは相変わらず、いつもヒュー・グラントが演じているような男であり、そのことには全く違和感がない。ああ、この人は年をとっても一生このキャラクターでいくんだろう、と妙に納得してしまう。

そのヒュー・グラントが1960年生まれだから、50歳である。で、相手役のサラ・ジェシカ・パーカーは1965年生まれなので、こちらもそれなりのご年齢。本作、脚本的には30~40前半くらいのカップルで、まあ、撮影時40代後半だったお二人なので、ロマンティック・コメディといえど夫婦モノである本作としては、まあギリギリな感じか。

まあ、キャストの誰かがお気に入りなら暇つぶしにどうぞ、っていう程度の作品ではある。ヒュー・グラントのコメディだったら、他の作品の方がお勧めである。

3/06/2010

The Princess and the Frog

プリンセスと魔法のキス(☆☆☆)


2004年のウェスタン・ミュージカル・コメディ『Home on the Range(ホーム・オン・ザ・レンジ にぎやか牧場を救え!)』を最後に伝統的な手描きアニメから撤退してスタジオを閉鎖したディズニーが、久々に復活させた手書き(2D)アニメーション。アフリカ系の「プリンセス」の登場や、受身ではなく、自ら努力して幸せをつかもうとする主人公像については日本のメディアでも紹介されているからそれとなく耳に入っているはずだ。

しかし、本作を特徴付けるポイントはそれだけではない。それはなにかといえば、この映画が1920年代のニューオリンズを舞台に展開されるご機嫌なジャズ・ミュージカルであるということだ!

ご存知のとおり、ニューオリンズという街がハリケーン・カトリーナによって壊滅的打撃をうけたのが2005年のことだ。本作の企画にそれが影響を与えていないわけがない。ニューオリンズと、その土地が生み出した文化に対するトリビュートなのである。なにせ音楽を担当するランディ・ニューマンもニューオリンズ出身で、ジャズにも造詣が深い作曲家なのだ。

また、ディズニーのプリンセスものといえば欧州などの借り物が常だったところ、米国を舞台に、米国の文化を背景にしている点でも画期的であろう。

さて、お話しは、グリム童話の「カエルの王様」のパロディとでもいうべき、E.D.ベイカーの『カエルになったお姫さま(The Frog Princess)』を土台に、魔法を解くためにキスをしたら自分もカエルになっちゃった、というアイディアを核にして自由に脚色されたものである。働いて貯めた金でレストランを開業しようとしていた主人公が、蛙姿にされた某国の王子にキスをしたところ、自分も蛙になってしまい、人間に戻るための苦難の冒険が始まる。

主体的で前向きな主人公、放蕩ものでダメ人間の王子、ジャズが好きで人間とセッションをしたがっているワニ、とぼけているがロマンティックで誠実なホタル、などなどのキャラクターが生き生きと描かれ、敵方となるブードゥーの魔術師や、その力の源である「あちらの世界」のお友達も適度に怖い。ニューオリンズの街、有名なストリートカーや独特な墓地、バイユーの湿地帯なども丁寧に描きこまれ、本作ならではの雰囲気を盛り上げてくれる。

本作のために招聘されたのは、『リトル・マーメイド』、『アラジン』を手がけて90年代を牽引したロン・クレメンツ&ジョン・マスカー。(まあ、この二人には『ヘラクレス』と『トレジャー・プラネット』という、あまり誉められたものではない作品もある。)たとえ数年間でも作品の製作を休止したことで失われた人材とスキルには相当のものがあっただろう。ディズニーにはこの路線を継続的に作り続けることで、いつか第3の黄金期を築き上げて欲しいものだと思う。

2/27/2010

It's Complicated !

恋するベーカリー(☆☆★)


またしてもピンボケな邦題で客を釣ろうとする戦略か。しかし、このタイトルで乙女チックな内容を想像してきた観客は、いくらコメディタッチといえども50代の元夫婦の生々しい不倫関係なんか見たくないと思うぞ。

なにしろ、主演は第82回のアカデミー賞で司会を押し付けられたアレック・ボールドウィンとスティーヴ・マーティン、16回目のノミネートとなったメリル・ストリープ。とうに離婚した元夫婦を演じているのがアレックとメリルである。アレックの方は若い女と結婚し、家庭を持っている。メリルの方は、ベーカリーの経営で成功し、家を新しく建て直そうとしているのだが、建築士のスティーヴ・マーティンといい雰囲気になってくる。そんななか、再開した元夫婦が「不倫関係」に陥ってしまって、さあ、どうするという話だ。

妻子持ちの男と、女の不倫。でも、その二人、元夫婦。で、原題、『It's Complicated!』になるわけですな。

アレック・ボールドウィンは『レッド・オクトーバーを追え』で精悍に登場した頃の面影はとうの昔に失っていて、図体の大きなクマみたいになっている。服を着ているあいだはよいのだが、裸になるとちょっと生々しく、WEBカムでそれを目撃する羽目になるスティーヴ・マーティンならずとも、ちょっと大スクリーンでみるのは遠慮しておきたい感じである。それはともかくとして、この人はSNLなんかにもよく出演していて、実は案外コメディな人である。スティーヴ・マーティンとの息があっているのかあっていないのかわからない微妙な絡み(アカデミー賞の司会の雰囲気を思い出してもらえばよいだろう)が、当方なんかには面白く見ることができた。

しかし、シリアスからコメディまで何でもこなし、下品なことも熟年セックスもやってのけて、なお、傷つかないメリル・ストリープという人は、本当に化け物のような女優だ。本作でも、まあ、お笑いが得意な2人を相手に回し、複雑な感情表現も含めて見事な大女優ぶりを発揮している。

映画の内容がそうであるように、いってみれば倦怠期以降の大人向けのお笑いエンターテインメントとしては、ちょっと下品だけど及第点。そういう層でなければ、私のようにスティーヴ・マーティンが出てりゃ何でも見るというような特殊な嗜好を持ち合わせない限り、あんまり見たいとは思わないだろうな。脚本・監督はお馴染みの安定株、ナンシー・マイヤーズ。この人の映画、結構見ているけど、特にチャールズ・シャイアと別れてからの作品はあんまり気に入っていない。

*ビデオ化にあたり「恋するベーカリー ~別れた夫と恋愛する場合」とサブタイトル付になったとさ。

2/14/2010

The Disappearance of Haruhi Suzumiya

涼宮ハルヒの消失(☆☆)


まあ、熱心なファンが喜んでいるのなら、それ以上なにかいうことはないのかもしれないが、これ、映画としてはダメだろう。

いや、そのとおりに土台となる小説シリーズがあって、アニメシリーズがあって、かなりの数のファンがついている作品である。だから、単独の映画として成立していなくても、背景説明も、人物説明も、状況説明も、全て省略していても、それを以って失敗作だというつもりはない。むしろ、そんな荒業が可能であることは本作のような(特別な立ち位置を確保した)作品にとっての特権であるとさえいえる。

しかしだね。

だいたい、この程度の内容で2時間40分なんていう尺になるのがおかしいのである。それだけの時間があれば、本作が特権的な立場を利用して切って捨てた「一見さん」に向けた説明を全部リピートしてみせたってまだ時間が余ってしかるべきであろう。ディテールの描写や演出にこだわりすぎるがあまり、あるいは、原作をそのまま完全に移植することに執着するがあまり、細部ばかりが肥大した異様で退屈な作品になっていること、そこが映画としてダメだということなのだ。

だが、TVで垂れ流されることを前提としたTVシリーズよりも、情緒や空気を重視し、長い間をつかった演出が多用されていて、作り手が映画館でかけられる作品であることを意識して作っているのは見て取れるところが面白い。過剰なディテール、高度な作画技術に支えられたキャラクターたちの細かい芝居だって、制約の多いTV作品では実現できないことを見せてやろうという、作り手の熱心さだったり、ファン・サービスだったりの表出なのだろう。

映画館で上映される、映画らしさを備えた、しかし映画としては欠陥だらけの商品。ファンのためのお祭り騒ぎ。そんな作品があっても良いが、なぜこういう作品に集まる観客は、並外れてマナーが悪かったり映画館の常識に欠けていたりするのだろうかね?

2/06/2010

The Private Lives of Pippa Lee

50歳の恋愛白書(☆☆)


敏腕編集者である年の離れた夫(アラン・アーキン)と共に、リタイアメント・コミュニティに越してきた主人公(ロビン・ライト・ペン)が語るこれまでの人生は、一見して穏やかで平穏に見える現在の彼女からは想像し難いものであった。一風変わった若い男(キアヌ・リーヴス)の出現や、自らの睡眠障害、夫の浮気などの出来事をきっかけに大きく変わり始める生活と平行して、彼女の人生を決定的に運命付けた過去の衝撃的な事件が観客にあかされる。

アーサー・ミラーの娘で(ダニエル・ディ・ルイスの妻である)レベッカ・ミラーが自らの原作を脚色し、監督した作品である。アンサンブル・キャストから実力相応の演技を引き出せているので、楽しめないことはない。が、ストーリー・テラーとしては未熟。

退屈なリタイアメント・コミュニティに越してきたことを契機に始まる主人公の異常行動、抑圧されてきた感情や人間性。主人公が過去を語りながら、あるところで目の前の事件と、過去の決定的な出来事が劇的に交差する。個々のエピソードが平板に羅列されているので物語の骨格となる構造、違う言葉でいうなら、話のポイントがなかなか見えてこない。もちろん、原作者でもある本人の頭の中ではきれいに構造化されているのだろうが、この人にはそれを観客に向けて効果的に語ってみせる脚本の、そして演出の技術がない。

そんなんだから、こんな邦題をつけられる羽目になる。欲求不満なロビン・ライトと、若いキアヌの火遊びがメインだと観客を騙してみても、それに釣られるような観客が望むものはここにない。

ロビン・ライト・ペンが実際の年(43歳)よりも疲れめに見えるのは昔からのような気がするが、彼女より2歳ほど上のキアヌ・リーヴスが随分若く見えるのが驚きである。アラン・アーキンが絶品。その他、ジュリアン・ムーア、モニカ・ベルッチ、ウィノナ・ライダー、マーク・バインダー、マリア・ベロと、この規模の作品にしては脇役が豪華。ウィノナ・ライダーの再起が少し嬉しい、かも。

1/31/2010

The Lovely Bones

ラブリー・ボーン(☆☆)


理不尽にも命を奪われた者が、霊媒師の力を借りて愛する者を守り、犯人に復讐を遂げたのちに感動的に昇天していく・・・のはジェリー・ザッカーの『ゴースト』だった。本作の予告編がミスリードして観客に期待させるのも、おそらくはそういう物語であるだろう。

主人公が「殺される」ところで幕を開ける物語が、とりもなおさず「ハッピーエンド」で幕を閉じるためには、ことの真相が明らかになるのはもちろん、(愛する者のためにも)何らかの形で犯人への復讐をとげ、無念を晴らす必要がある。だが、ピーター・ジャクソンの新作『ラブリー・ボーン』は、この当たり前とも思える常道をことごとく否定したところで、なおもハッピーエンディングを迎える作品として成立させようというチャレンジを試みているところがユニークだ。しかし、それが必ずしも成功しているとは思えない。

シアーシャ・ローナン演ずる主人公は、近所に住む男によって無残に殺されてしまうが、意識だけ、この世とあの世の中間のような場所に留まって、事件をきっかけに崩壊した家族の行く末を見守ることになるという話である。家族の再生を見届けた少女は、自らの心残りを晴らしたのち、昇天していく。まあ、その「心残り」というのが、年頃の少女らしく、どのように殺されたかを考えると、ちょっと泣かせるものではある。

しかし、殺人事件の真相は表向き明らかにならず、劇中で事件は解決しない。その意味で犯人への復讐は遂げられないし、そもそも少女の遺体すら発見されないまま終わる。思いつく限りの定型パターン崩しだし、これは居心地が悪い。

もちろん、被害者家族を中心に据えた社会派のドラマであったなら、こうした展開も掟破りではない。家族が前に一歩踏み出すためには、過去に埋めてしまわなくてはならないものがあるということ、真犯人を明らかにし、復讐を遂げても死んだ少女は戻らないし、家族の傷も癒えるとは限らないのだということ、無残な少女の死体が発見されたらされたで、家族が辛い思いをするだけだということ。ここで描かれるドラマは、十分に理解できるものである。しかし、この映画はそうしたドラマへの踏み込みが中途半端に終わっている。

死んでしまった少女が体験する死後の中間世界が映像的な見せ場となっているはずだが、平凡でつまらない。手間隙がかかっているのは半端ではないエンドクレジットの長さでも分かるから、少し勿体無いところだ。スタンリー・トゥッチが珍しいタイプの役を演じて賞レースでも名前が上がってきているが、作品の出来栄えに足を引っ張られることになるだろう。

1/17/2010

Surrogates

サロゲート(☆☆☆)


SFi 映画はヴィジュアルが命である。思うに、この作品はそのヴィジュアルを作り上げるだけの金がなかったか、監督がそちら方面に興味がないかのどちらかなのだろうと邪推する。8000万ドル級の(中規模)予算では正直、たいしたことができないご時勢である。しかし、曲がりなりにも近未来の設定で、街を走っている車が全部、現行モデル(やそれより古い)車っていうのはどうなのか。端的にいえば、これが本作の致命的な弱みの象徴だ。

「身代わりロボット」が普及した近未来のボストン近郊を舞台に、ブルース・ウィリス演ずる刑事が殺人事件を追う。タイトルとなっている「サロゲート(Surrogate)」は、代理、代用の意を持つ。時期的に見て、製作中だった"Avatar" に触発されての企画なんだろう。しかし、「遠隔操作する身代わり」というモチーフこそ似ているが、作品の方向性は全く異なる。興行的に大成功を収めているあちらの作品では、最新のテクノロジーによってまるごとひとつの世界を創造してみせるわけだが、ストーリーとしては古典的な物語を焼きなおしているだけだ。それに対する本作は、気取らない娯楽アクションの体裁で、致命的なほどに安っぽいヴィジュアルながらも SFi 的モチーフがもたらす特異なシチュエーションやドラマに焦点を当てている。

本作の監督、ジョナサン・モストウは、映画好きならば『ブレーキ・ダウン』や『U-571』で新鋭として期待を持った名前であろう。敢えて火中の栗を拾った『ターミネーター3』が不評をかこったためなのか、これが劇場用監督作としては久々の新作ということになる。先に指摘したようにヴィジュアル面は情けないくらいにプアなので、それ自体が作品評価を下げるのは致し方あるまい。しかし、タイトにまとまった89分に、SF的なアイディアと社会風刺、哲学的な問いかけ、夫婦のドラマなどがさりげなく織り込んだ職人的な手際の良さは評価されてもいい。古くからのブルース・ウィリス好きとして、サロゲートとしての彼の姿が、若いころのままであるところがものすごく感慨深い。いつの間にか時は流れているものだね。

冒頭、ニュース・リールを使って一気に設定と状況を説明しようという手口は、尺の短い娯楽映画としては手際のよいやり口である。深読みすると、これは近未来の話ではなく、どこかで分岐したもうひとつの世界とも考えられる作りになっていて、先に槍玉にあげた「現行モデルの車」が走っているのは、それが理由かもしれない。だが、いくらパラレルワールドといっても、この「サロゲート」の普及を全世界の98%などと大風呂敷を広げるから嘘っぽくなる。しかも、「世界」といっておきながらボストン近郊しか映像にして見せられないのだから、かえってしょぼくれている。いっそ、北米の大都市圏を中心とした流行、くらいにしておいた方がよかっただろう。また、ここまで徹底した「サロゲート社会」が、実際問題どのように機能しているのか、ストーリーの中で説得力をもって見せ切れていないのは脚本の課題だろうか。ドラえもんの「もしもボックス」噺の方が、(ナンセンス漫画とはいえ)むしろそのあたりがよく考えられていたりする。

1/09/2010

Julie & Julia

ジュリー&ジュリア(☆☆☆)

米国ではTV出演や著作であるフランス料理本で有名なジュリア・チャイルズの全レシピを、現代の女性が1年間で制覇するさまをつづった blog を原案にして脚色、外交官の夫人であったジュリア・チャイルズその人が、フランス滞在中に料理を学び、本 ("Mastering Arts of French Cooking" 1961年刊)を出版するまでのストーリーと折衷しての映画化である。ネタに詰まって blog 頼りなのは、太平洋のこちらも向こうもさして違いがないところ。(米国メジャーの作品では本作が最初のBlog映画になるらしい。)

本作を手がけたのは、2000年代に入って製作ペースと評判を大きく落としたかつての人気脚本家・監督のノーラ・エフロンである。脚本家としてはともかく、監督した90年代のヒット作はさして面白いと思っていなかったので、そもそも監督としては過大評価気味だったと思っている。本作は4年ぶりとなる作品なのだが、こちらの先入観を覆すというのか、ここのところの不調が嘘だったかのように面白いのだ。彼女の監督作品では一番いいかもしれない、とさえ思う。

まあ、本作の面白さは、メリル・ストリープが「再現」するジュリア・チャイルズのパートによるものだ。エピソードが面白いし、メリル・ストリープの成りきり演技が見物である。賞取りにいくにはいささか軽い映画が多いとはいえ、ここのところのメリル・ストリープは作品にも役にもめぐまれていると思う。

それに比べ、主人公であるはずの女性のパートは、ドラマとして成立していない。この作品がもし、(たまたまメリル・ストリープも出演していた)『めぐり合う時間たち』的、つまり、ひとつの共通アイテムを巡って、複数の世代にまたがるドラマを展開することを狙った野心的な作品であれば、これは映画の根幹に関わる問題になるのだが、作り手もそんなことは承知しているかのように気負いのない作り。ジュリア・チャイルズのエピソードを語る「つなぎ」として機能すれば十分という読みがあったとしたら、それは賢い判断だといえよう。もちろん、演じるエイミー・アダムズのキュートさが全てを帳消しにすることも計算の上に違いあるまい。