12/12/2009

Space Battleship Yamato: Resurrection

宇宙戦艦ヤマト 復活篇(☆★)

15年ほど前に西崎義展がぶち上げた「完結編」の続きを作るという企画は、会社の破産、本人の収監、著作権にまつわる泥沼裁判等々で敢え無く沈没したものと思われたが、さすが不死身の無敵戦艦ヤマト、当時発表されたプロットそのままに完成、公開と相成った。西崎の執念たるや恐るべし。

しかし、「作った」ということの執念はともかく、内容は酷すぎて話にならない。私もかつて夢中になった者のひとりとして、懐かしさもあるし、昔のもこんな感じだったじゃん、と擁護したくなる気持ちを理解できないわけではないが、話がダメで、キャラクターがダメで、演出がダメで、音楽がダメなんだから、どうしようもない。かつて先駆的であり偉大なマイルストーンとなった作品に対し、いまいちど恥をかかせた罪は重い。

もともと本作のプロットは、湾岸戦争後の世界情勢のなか、石原慎太郎の「原案」も加味して作られた。ブラックホールに飲み込まれることが不可避となった地球を脱した移民船団が、米国を模した強大な星間国家と、それに服従する星間連合の多国籍軍に行く手を阻まれるというものである。映画の冒頭で、やたらでかい文字で原案:石原慎太郎とクレジットされるのはそういうことだ。

ボケ気味の都知事、、でなく大作家先生である石原を巻き込んだからといって、物語そのものに新機軸があるわけではない。かつての軍国少年、石原や西崎により反米的色彩が強く出されていることを除けば、あらすじを聞いてもどこかで聞いたような話にしか聞こえない。さもありなん、これは過去の作品を作る過程で生み出されたアイディアや捨てられてきた没プロットの使いまわし、つぎはぎ以上のなにものでもないことは、明白である。

松本零士との喧嘩別れの影響で、キャラクターやメカのデザインからはいわゆる松本色が排除されているのだが、それに代わる筋の通った魅力を打ち立てることができていない。旧キャラクターは(年齢を重ねたという設定だとしても)別人状態、新キャラクターは脚本のひどさも手伝ってキャラクターがたたず、区別もつかない。松本メーターを失ったメカニックは、作品としての個性も失った。

音楽は宮川泰・羽田健太郎の両名を失った痛手が大きい。とはいえ、本来、彼らの残したモチーフも要所で使いながら、新しい世代の作曲家に劇伴を書かせるのが筋だろう。それだけの予算もなかったんだと想像するが、過去曲の再利用(羽田健太郎の「交響曲宇宙戦艦ヤマト」)は懐かしさという意味で許容したとしても、既成のクラシックを延々と流すのは駄目だ。その選曲のセンスも酷いが、使い方もムチャクチャである。

本当は、作品を重ねるごとに悪い意味でのご都合主義を重ねてグダグダになっていった「ヤマト」の歴史を清算し、立て付けも新たに復活させるべきだったのだろうが、その仕事は噂されるリメイク版TVシリーズや、実写版に委ね、ただただ老害とはこういうものと世間に恥をさらすためにのみ、本作は存在するといってよいだろう。一時でもヤマトが好きだったものとして、至極残念であり、腹立たしい出来栄えの作品である。

12/05/2009

2012

2012 (☆☆☆)


新作が待たれるジェームズ・キャメロンの『アビス』が1989年公開だから、CGI によるVFX がそれまでの特撮技術にとってかわって大々的に用いられるようになって、はや20年が経つ。CGI の技術そのものも進化を続けてきたから、少し大げさに言えば、今日では事実上、どのような映像表現であっても、ほとんど制約なしに、自由自在に創りだすことができるようになったわけだ。もちろん、それなりの手間暇をかけないと「実写レベル」で説得力を持った映像には仕上がらないが、今日ハリウッドが送り出す大作商業映画ではさすがに一定レベルをクリアしてくる。こうなると、いよいよその技術を使って何を表現するのか、何を見せるのかという最も本質的なところが問われることになるだろう。

そんな話から始めるのは、スケールは大きいが中身はスカスカのバカSF映画ばかりを撮り続ける、ある意味で敬愛すべきクリエイター、ローランド・エメリッヒの新作『2012』は、何でも描けるようになってしまった時代に何を描いて見せるのかという点において作り手の真価が問われる作品である、と思うからである。マヤ暦が2012年で終わっていることをモチーフに、世界の終焉を描くという企画である。太陽の異常活動をきっかけとして地球環境が大変動を起こし、いまあるかたちでの世界が文字通りに崩壊していくわけだが、ともかくその崩壊するさまを、言いわけ程度のストーリーでつないだものだといってよい。未曾有の災害を描くことにかけては第一人者を自認しているエメリッヒのこと、ここぞとばかりに心血を注いだに違いあるまい。これまでの彼の作品のなかでも相当に力が入っている部類だろう。

正直に言えば、もともと彼の作る映画に対する期待値は高くない。だから、想像したよりも面白かった、ということでしかないような気もする。しかし、この作品のディザスター表現はかなり新鮮だ。地震、噴火、津波、ありとあらゆる天変地異が一度に押し寄せてくるわけだが、それによって都市が、大陸が、文明が、どのように壊れていくのかという点において、これまでに見たことのないような独創的な映像が次から次へと惜しみなく繰り出される158分なのである。長尺ではあるが最後まで退屈はしない。エメリッヒ本人と、盟友(制作・音楽・脚本)のハラルド・クローサーが手がけた脚本は、想像を超えない範囲でつまらないのだが、それを差し引いても余りあるイマジネーションの充実度は劇場で体験する価値があると思う。(まあ、今になって思えば、これを3Dで作っていないことが悔やまれるというところか。)

主人公を演じるのは、同年代を過ごしてきた観客の代表としてのぼんくら中年、ジョン・キューザック。適度な個性で画面に埋もれることなく、本当の主役はVFXを駆使したド派手なディザスターであることをわきまえた狂言回しとしてなかなかよいキャスティング。政府の陰謀をラジオで発信し続ける危ないおっさんをウディ・ハレルソンが楽しそうに演じているのが笑いどころだろうか。