2/28/2009

Australia

オーストラリア(☆☆☆)


この映画は、先住民族であるアボリジニと白人入植者の混血の子供のナレーションで幕を開け、白豪主義の終焉と2008年2月に行われた"The Stolen Generation" に対する公式な謝罪についてのテロップで幕を閉じる。("The Stolen Generation" とは、白人と現地人のあいだに生まれた子供を「文明化」する目的で家族から引き離し、孤児院等に強制的に収容する政策によって、自らの出自と文化的背景を奪われた混血児たちのこと。この映画にも重要な役回りで登場。)そこに、この映画に『オーストラリア』というタイトルがつけられている真意を知る。単なるハッタリでも、伊達でもない。

先行して公開された米国などの市場で興行的に不発に終わったことで、宣伝に困った(に違いない)配給が「女性誌絶賛!」などとわけのわからないコピーを書くのも致し方ないことだろうし、その「女性誌」とやらの三文ライダーどもがとても表層的な観点から「絶賛」しているのも当然のことなのかもしれないが、この映画は単なるエピック・ロマンスでもなければ、観光誘致映画でもない。もちろん、オーストラリア出身のヒットメイカー、バズ・ラーマンが『ムーラン・ルージュ!』以来、久し振りに手掛ける作品で、オーストラリア出身の監督とスター俳優らが一同に会し、莫大な予算をかけて実現した企画であるというのも事実だ、が、それだから『オーストラリア』というのは短絡というものだろう。もちろん、第二次世界大戦勃発前後を舞台としたエピックであり、ニコール・キッドマンとヒュー・ジャックマンという美男美女が美麗な衣装に身を包んで主演するアドベンチャー・ロマンス大作の顔をしているし、オーストラリアの雄大でダイナミックな景観がシネマスコープ・サイズの横長画面にぐわーっと広がるのも見所で、それを売り物にするのが真っ当な商売というものだが、それだけでは、この作品のタイトルを説明できまい。

つまり、これは、『風と共に去りぬ』などで連想されるようなハリウッドの古典的エピック大作のスタイルを借りて、「オーストラリア」という国のなりたちと姿を描こうという野心的な企画なのである。ノンフィクションに逃げてダラダラ歴史を追うのではなく、フィクショナルな物語の中にそれを凝縮しようというわけだ。広大で豊かな大地に築かれた先住民族の文化的基盤。それを破壊しながら半ば暴力的に作られた白人入植者たちの世界と、今日に至る牧畜文化と食料供給国としての起源。異なる文化の不幸な衝突。いまだに正確な実態がつかめていない "The Stolen Generation" の問題や、その背後にあった白人文化の優越を信じて疑わぬ差別的文明観と、それに基づく政策。英連邦の一員としての依存関係から、やがてはアジア太平洋地域の一員として自立していく運命。この映画は、辛くて醜い現実を含めた過去の歴史を正面から受け止め、その上で、ひとつの国家としての将来への希望や展望を描こうとしているのである。それを描いているから、タイトルが『オーストラリア』、となるわけだ。

そうしてみると、この映画がアボリジニと白人の混血の少年であるとか、その祖父である呪術師に代表される「アボリジニ文化」を描いているのは、ハリウッド風のエピック大作にオーストラリア風味を足すための飾りではないということが明白であろう。クライマックスの日本軍による空襲が、アトランタ炎上を置き換えるための単なるスペクタクルであったり、個人の力を超えた大きな災厄の象徴である以上の意味を持ちうることも理解できるだろう。2時間45分の長尺であるが、前半は独占農場主の横暴と陰謀に知恵と勇気で立ち向かう弱小農場主という典型的な対立構造のなかで1500頭の肉牛を移動させるというスペクタクル西部劇として、後半は戦火迫る時代を背景にした愛憎のロマンス劇とスペクタクル・アクションとして、軽く楽しめてしまうところが逆に映画に対する誤解を招いているようにも思われる。バズ・ラーマンは、持ち味のスピード感溢れるリズムと編集は武器として残しながら、いつもの装飾過剰な作り物っぽさを売り物にするスタイルを捨て、いつになく正攻法である。考えてみれば、大仰な舞台設定に美男美女を並べたエピック大作、という仕掛けそのものが「作り物」の典型であるとすれば、これもまた、彼の得意とするところなのかもしれない。

最後にひとつ。ヒュー・ジャックマンの役柄だが、"drover" は「家畜などを移動させる者」の意で、通称に過ぎず、劇中では本名が登場しない。西部劇セッティングで「名無しの男」を演じる彼の容姿からは、どこか、若き日のクリント・イーストウッドの雰囲気が濃厚に漂ってくるのであった。

2/21/2009

Changeling

チェンジリング(☆☆☆☆)


20名もの子供が拉致誘拐、虐待、殺害されたという特異で常軌を逸したゴードン・ノースコット事件。広大な国土を持つ米国という国では、ひとの目の届かぬところで実に身の毛もよだつ恐ろしい「事件」が起こっているものである。そうした事件そのものが、あるいは、そうした事件の記憶のようなものが、都市伝説となったり、様々なホラー映画のモチーフになったりしていくのだろう。こんにち、どこの国でも残酷で殺伐とした事件のひとつやふたつは転がっているものだが、あの国の成り立ち、伝統、そして精神的風土のどこかに、猟奇的で尋常ではない事件を誘発する暴力的な遺伝子が埋まっているのではないか、とすら邪推したくなる。遺伝子といえば、LAPDという組織の腐敗ぶりもまた、過去から連綿と受け継がれてきたのだね。

それで、ゴードン・ノースコット事件である。こんな事件を材にとるのであれば、たとえホラー映画ではないとしても、猟奇ミステリー、サイコ・サスペンスのように「事件」とその顛末を描き、捜査に奔走する者たちを中心に据えて主筋とするのが普通のアプローチだろうか。しかし、この映画は面白い角度から題材に切り込んでみせるのである。好評を博したSFi TVシリーズ『バビロン5』などで知られる脚本家J・マイケル・ストラジンスキーは、事件の被害者のひとり(と考えられる)幼い息子を誘拐された母親の物語としてこれを描き、「事件」はその発端でしかないのである。事件を起点にして、最愛の息子を拉致された母親が遭遇することになる想像を絶する理不尽の連鎖、それこそがこの映画の本題である。主人公が、結果としてではあるが、小さな希望のともし火を胸に、腐りきった権力構造と孤独に闘い通していく姿にこそ、この映画の焦点が向けられている。そうなると、これはスクリーンの中と外の両方で官僚主義と闘ってきた男、クリント・イーストウッドが、いかにも惹かれそうな壮絶なドラマだ。

そのイーストウッド、常連となる親しいスタッフを中心に映画を撮り続けているのはご存知の通りだが、今回の作品では1920年代末期~30年代前半、その中での時の流れをも再現してみせる美術、衣装の完璧さに唸らされ、それを、退色した落ち着いた色調の中にイーストウッドの好む光と影の強烈なコントラストを効果的に配した撮影に感嘆させられる。この堂々たるルックスはどうだろう。イーストウッドの無駄なく、しかし、正攻法のストーリーテリングと相まって、ここには他の映画が持ち得ない風格が漂っている。新作にして、すでにクラシックの領域に達している、といってもいいだろう。

そして、演技陣だ。もちろん、各種映画賞で候補に挙げられたアンジェリーナ・ジョリーは、『17歳のカルテ』でアカデミー賞を獲って注目を集めるようになったここ10年くらいのキャリアのなかで最も充実した演技だ。一人息子を働きながら育てるシングル・マザー。お洒落な帽子を被り、ローラースケートを履いてフロアを移動するモダンで有能な電話交換台のスーパーバイザー。息子を思い流す涙。真っ当なことを正当に主張し通す強さ。昨秋の『ウォンテッド』も記憶に新しいなか、あそこからの落差には、単なる人気者として世間を騒がしているとはいえ、女優としての実力、底力を感じさせる。ところで近年、イーストウッドの映画は、たくさんのアカデミー賞俳優とノミニーを輩出してきているのはご存知の通りである。たとえば、『ミスティック・リバー』のショーン・ペン(主演賞受賞)、ティム・ロビンス(助演賞受賞)、マーシャ・ゲイ・ハーデン(助演賞ノミニート)、たとえば『ミリオンダラー・ベイビー』のヒラリー・スワンク(主演賞受賞)、モーガン・フリーマン(助演賞受賞)、イーストウッド自身(主演賞ノミネート)。もともと実力のある俳優たちであるとはいえ、これは尋常なことではないし、偶然ではあり得ない。また、ジョン・マルコヴィッチ以外は名前の知られたスターがいないのだが、各々が役に溶け込んだかのように見えるキャスティングの的確さ、見事さも含め、そこはやはり、「監督の映画」なんだという思いを強くする。

この映画の終盤で絞首刑の様子がかなり克明に描かれている。立会人や見物人たちの前で、死を恐れ、嫌がる死刑囚が階段を上らされ、首に縄をまわされ、頭に袋をかけられ、足元の板が外れて落ちる。そこで終わりではない。落ちて宙吊りになった体が、足が、苦しそうにもがき、痙攣し、やがて動かなくなる。淡々とした撮り方だからこそ、生々しく、そして強烈なインパクトのあるシーンである。単に、「死刑が執行された」という事実を述べるだけであれば、ここまでの見せ方をするまい。そこから目をそらさなかった主人公の驚くべき強さを描くのが目的であろうし、この男が幼い子供たちに行った異常な犯罪に対する作り手の強い憎しみの現れでもあろう。しかし、同時に、ここまでしてこの男を死刑に処したところで、事件で失われた命も、主人公の息子も帰ってくるわけではないというやるせなさも伝わってくる。たとえ法の下の正義とはいえ、公権力が一人の人間の命を奪う「暴力」が死刑である。そして、近年の作品の中で暴力の否定というテーマを繰り返し描き続けてきたのがイーストウッドだ。そんな男が、このシーンを、このように撮ったことに対する興味は尽きない。

Seven Pounds

7つの贈り物(☆☆☆)


ある男が個人破産状態から株のディーラーとして成功するまでを父子の絆を中心に描いた『幸せのちから(The Pursuit of Happyness)』の好評を受けて、再び企画されたガブリエル・ムッチーノ監督、ウィル・スミス主演(製作も)による、「感動ドラマ」路線第2弾である。前作は実話を基にした作品であることが売り物であったが、今回の脚本は劇場用作品は初のグラント・ニーポルテによるオリジナルである。安易な「感動作」だったら嫌だなぇ、と思っていたのだが、少しユニークな作品に仕上がっていて、なかなか面白い。

この作品は、2つのチャレンジをしている。

ひとつは、ストーリーテリングの手法である。ドラマの初めの部分では、観客には主人公の正体も、目的も、行動の意味も明らかにされないという変則的なスタイルではじまる。いったいこれはどういう話なのか、何が起こっているのかという興味で観客を引き込みはするが、主人公に対する感情移入はできない。(主人公に対して過度の感情移入を許さないのは、作り手の狙いでもあるだろう。)感情移入を許さない(もしかしたら、その行動ゆえに嫌悪感を抱かれても仕方がない)謎の男を主人公に、徐々に謎が氷解していく物語の構造が良くできている。謎を最後まで引っ張ろうという下品さもない。最後の最後まで残る謎といえば、実際のところ、映画の中で描かれている「贈り物」の数が、邦題でいうところの「七つ」に満たない分について具体的な説明がつくことくらいだ。注意深く物語を追っていれば、主人公がどういう男で、何を目論んでいるのか、大方のことはすぐにわかるようになっている。そうすると、観客の興味は別のところに移っていく。さて、そのような「(無茶な)お話し」をどうやって語っていくのだろうか、と。どのような着地点に導いていくのだろうか、と。主人公は、本当に「計画」を実行するのだろうか、と。そこに、ロザリオ・ドーソンが好演するヒロインが絡み、切なくも予断を許さない展開となっていく。そして、バラバラだった糸が、ヒロインとの関係を軸にして1本に撚り合わさっていくのである。

もうひとつは本作のテーマである。これは、ハリウッド資本のメインストリームの作品が取り上げるのが困難なものであろう。主人公の選択は誰もが共感できるものではないし、宗教的なことも考えると激しく賛否が分かれるのではないかと思う。しかし、主人公の行動の賛否はともかく、観客を「納得」させるという難題に正面から挑んでいるところに好感が持てる。こういう題材を、こういうアプローチで作品にすることができるのは、今や最も興行的安定感のあるスターとなったウィル・スミスが製作に名を連ね、主演しているからこそである。もちろん、ウィル・スミスが本作の主人公に適役だと思っているわけではない。しかし、こういう企画を実現させようと考える彼の志の高さには敬意を表したいと思う。

なぜこの作品が「困難」なテーマを抱えることになったか。それは、交通事故により、結果として恋人を含む7人の命を奪ってしまった男の贖罪の物語であるからだ。自らが犠牲になることで人生に困難を抱えた7人の善良な人々を「生かす」という選択を行い、そのとおりに計画し、実行をする男の話である。過去に7人の命を奪った事実は消えないが、そのことを深く悩み、命を削るようにして他者を救おうと考えるような男であるから、この主人公というのは元来「善人」の部類であろう。そういう善人が贖罪のためとはいえ命を引き換えにしてでも計画を果たそうとするところにドラマの悲劇性がある。しかし、これは単なる無私の美談ではない。主人公には自ら犯した罪を償いたいという思いがあり、生きていく希望を亡くしたゆえの自死願望もある。それは「無私」ではなく、自己満足であるとはいえないか。この男が計画を実行に移すことで自分の近しい人々を悲しませ、苦しめることになる。そのことにはある種の身勝手さすら感じさせられるし、映画はそういう側面をさりげなく提示している。誰かの命を救う行為そのものは美談であろう。自ら犯した罪を贖う姿勢や行為もまた、美しいものであろう。しかし、その手段としてこの主人公がとった行動が議論を呼ぶわけである。本作は、この主人公の行為そのものを賞賛して涙を押し売りするような安っぽさとは無縁であり、そういう価値判断を押し付けてこないところが美点である。これを、ある種の問題提起と受け取ったらよい。映画を見た人間がそれぞれに自分の考えを巡らせればよいのだから。

2/14/2009

Street Kings

フェイク・シティ ある男のルール(☆☆☆)


ジェームズ・エルロイの書き下ろしによるオリジナル脚本を、『トーレーニング・デイ』『S.W.A.T』の脚本化デイヴィッド・エアーが監督。出演はキアヌ・リーヴス、フォレスト・ウィテカー、クリス・エヴァンス、セドリック"ザ・エンターテイナー"・カイルズ、ジェイ・モーア、アマウリー・ノラスコ、ナオミ・ハリスらが出演する、現代のLAPDを舞台とした腐敗警察ものである。原題が Street Kings と、複数形になっているのが、実は何気なくポイントかもしれない。

映画は、キアヌ・リーブス扮する主人公が、微妙な囮捜査によって犯罪現場に単独突入、犯人グループを問答無用で射殺した上で、その行動が正当であったかのように現場の偽装を行うところから幕を開ける。正義の名において行われる行き過ぎた暴力の肯定。保身のためにまかり通る隠蔽工作。主人公のそうした行動を組織的にバックアップする「頼りになる上司」と仲間たち。当然、これを問題視する内務調査が目を光らせており、対立関係にあるという状況が観客に提示される。内務調査への密告者と目されていた警官が主人公の目の前で惨殺されたことをきっかけに物語が動き始める。

途中まではありがちな展開をみせる本作ゆえに、先が読めただの何だのいう類が多いのはわかるのだが、本当の幕切れにおいて提示される「世界観」が、エルロイ流というべきか、なかなかのものである。

どろどろの警察もので、妻を亡くした痛みを抱えた暴力刑事という役どころにキアヌ・リーヴスというキャスティングがどうなのか、という疑問を呈する向きがあるようだが、彼のもつクリーンな印象や、何を考えているのか表情から読み取りにくい曖昧なニュアンスというのが本作における鍵だということを理解すべきだろう。

まあ、この映画の主人公、善悪二分法で云えば、確実に悪いやつだ。被疑者を有無を言わさずに殺害することに対して躊躇いをもたない危険思想の持ち主で、そうした考えを共有する危険なグループの一員。これは、かの"ダーティー"ハリー・キャラハンすら守った「一線」を踏み越えるもので、明らかに行き過ぎた「正義」である。しかし、彼のそうした行動は妻を亡くした過去にも関係した彼自身の純粋な思想の発露であることが示される。彼を取り巻く権力と腐敗の構造は、どうやら彼のそうした部分を利用しているに過ぎない。この男はおそらく無知なのである。いや、もしかしたら、無知のように見えてそうではないのかもしれない。汚れているのかもしれない、だが、いったい、どの程度汚れているのだろうか。そういう曖昧なニュアンスは、キアヌ・リーヴスがあの肉体で演じることにより増幅される。全てが灰色の世の中で、自らの立ち位置もわからず泳がされている男。エンディングを迎えたとき、なぜこの主役にキアヌ・リーヴスが起用されねばならなかったのか、わかるはずだ。

途中まで、というより、最後の最後の瞬間までありきたりで「凡庸なふり」をしてみせる脚本は、これが2作目となるデイヴィッド・エアーの演出の凡庸さに引きずられて単なる凡庸な脚本であるかのような誤解を招くが、これがなかなか強かで骨が太い。テーマはお馴染みでもプロットは意外や複雑で、演出のほうはこれを交通整理して観客を惑わせないように語って見せるだけで精一杯といった感じである。意外に登場人物が多いのだが、脇役にいたるまでのキャラクター造詣はよくできている。これは脚本だけでなく、個性的で実力のあるキャストを揃えたことも大きく寄与している。冒頭で名前をあげた役者はみな好演。まあ、フォレスト・ウィテカーは少々大芝居気味なんだけどな。

2/08/2009

Mamma Mia !

マンマ・ミーア!(☆☆)


クレジットをみていて、Playtone か、、、トム・ハンクスの会社だよなぁ。トム・ハンクスの会社ということは、『My Big Fat Greek Weddings』もそうだったなぁ、奥さんのリタ・ウィルソンがギリシャ系だったなぁ、ギリシャつながりだなぁ、などと考えていた。きっと、そんなこんなで映画化権を取得したのだろう。

で、これを映画にする意味って何だったのだろう?

いや、もちろん1999年初演の舞台版がスマッシュ・ヒットした記憶も新しいうちにリリースされた本作が、すでにして興行的大成功を収めているというのはわかっている。世界の主要マーケットで最後の封切りとなった日本でもそこそこの観客を集めている。だから、ビジネス的には大いに意味があったと云ってよいだろう。もちろん、話題になったと入っても舞台のチケットは高いし予約が面倒だし、そもそも劇場まで出かけるのも面倒だ、と二の足を踏んでいたひとにも朗報だっただろう。そういう人々を劇場に呼び込んで、みんなハッピーなら意味があったと云えるのかもしれない。しかし、これを映画でやって、(お金が儲かってウハウハなのはともかくとして)何が面白かったのだろうか、と。

そりゃ、メリル・ストリープ、ピアース・ブロスナン、コリン・ファース、ステラン・スカルスゲールドといった映画界では名の知れたキャスティングは、映画好きの興味を引くかもしれない。でも、我々が目にするのは、いい年なのにフィジカルに無理をやらされて息も絶え絶えの出演者たちの無残で見るに耐えかねる姿なんだよ?聴かされるのは下手くそも大概にしたほうがいいピアース・ブロスナンの素人カラオケ大会なんだよ!あれを演出意図というのなら、そんなかくし芸大会、スクリーンで見たくない。演出意図というのなら、それがリアルに息絶え絶えなのでなく、演技として息絶え絶えなところを撮るべきなのではないか。普通に歌が下手なところではなく、歌が下手な演技をこそ撮るべきではないのか。いったい何を考えていたら、役者たちのこうも痛々しい姿をフィルムに焼き付けることができるのだろうか。

結局、映画と舞台の根本的な違いはどこにあるのかということを色々考えさせられる。つまり、舞台であれば、それなりの年(成人した娘の両親)という設定のキャラクターを、若い役者が演じてもそれほど不自然ではないが、映画だとこういう悲惨なことになってしまう。(いっそのこと、『スター・ウォーズ』のドゥークー伯爵や、『ベンジャミン・バトン』のブラッド・ピットのように顔だけ貼り付けりゃ良かったかもね。)それに、陽光きらめく風光明媚なギリシャの小島を舞台にしているから、映画にすれば実際にその素晴らしい景色を見せることができると考えたのかもしれないが、それも舞台の設定として想像力を働かせる方がよほど心が躍り、実景の中で滑稽なダンスが繰り広げられる様はお笑いというか、いわゆる「ミュージカルの不自然さ」そのものにしかならないのだから泣けてくる。断言するけど、こんなものがヒットしちゃうから、ミュージカル嫌いが増えるんだよ。

これは、もともとの舞台がアイディア勝ちの一発ネタのようなもので、それを舞台というクローズドな環境で、観客との一体感を保ちながら保ちながら観客層立ちでsing along するっていうなら楽しかろうと思うが、映画にすればそれだけ欠点も目立ってしまうと思うのだ。はじめからヒット曲ありきで構成されているから、あるシーンは不必要なまでにずるずると引き伸ばされ、あるシーンでは展開上不自然でもその曲を入れたいがあまりに無理やり脚本にねじ込まれるといった具合。ミュージカルでは、ときに、その音楽と歌詞、ダンスの併せ技によって、普通の劇映画が同じ時間では表現しきれないほどの様々な感情や物語を一気に語って見せるような、鮮やかな瞬間を作り出すことも可能だ。だが、この作品では、歌やダンスが重要でもないシーンをだらだらと弛緩させて引き延ばすためにしか機能していない。そんな体では、優れたミュージカルであるかどうかの前に、優れた映画ではありえないし、当然、優れたミュージカル映画足りえるわけがないのである。

『シカゴ』の興行的・批評的成功あたりを境にして次々とミュージカル映画が作られるようになった。そのなかでも成功しているものは、「映画」としてどう見せるのか、映画としてどう表現するのかという課題に正面から、果敢に取り組んでいるのが見て取れる。一方、(興行的にはともかく)失敗作の烙印を押されるものは決まって、「そんなんならば舞台を正面から撮影しておけよ!」というくらいに工夫がないのが常である。『マンマ・ミーア!』の映画版はもう、あからさまに後者の部類であり、全編、これ、ひたすら退屈で醜いのだ。もともと期待値は低かっただけに、それを超える無惨さには絶句で応えるしかあるまい。

2/07/2009

High School Musical 3 : Senior Year

ハイスクール・ミュージカル ザ・ムービー(☆☆☆)


いや、びっくり。こういう映画の日本での興行価値ってどうなんだろうと思っていたら、中学生、高校生くらいまでの女の子で劇場が埋まっているのな。ああ、かつてならこういう層の観客が、海外のアイドルやスターにあこがれて、「スクリーン」や「ロードショー」を買っていたんだろうねぇ、、、。今や絶滅した観客層だと思っていたよ。前売り好調という話は聞いていたけれど、いつのまに浸透していたんだろ?

さて、このシリーズ。もともとは米CATV「ディズニー・チャネル」が製作、放映したオリジナルTVムービーであった。この出来栄えが存外によいものであり、しかもビデオやCDを併せて記録破りの大ヒットを飛ばしたことから、舞台版に加え、続編2本を製作、3本目は劇場作品として製作・公開するという大プロジェクトへと発展したのである。そんなわけで本作の原題には「3」とある。経緯を知らない観客はいきなり画面に「3」とでたらびっくりするかもしれないが、まあ、先立つ2本をみていなくても鑑賞の妨げになるほどの障害にはならないので大丈夫。

ところで、最初のTVムービーは、ハイスクールにおけるミュージカル製作をテーマに置いた「ミュージカル風」の作品であり、ストーリーの良さと楽曲の良さが相まって、ちょっとした拾い物として面白く鑑賞したことを覚えている。敢えて「ミュージカル風」と書いたのは、スタイルとして本格的なミュージカルと、たとえば80年代の大ヒット作(で、変則的なミュージカルでもある)『フットルース』の、いってみればちょうど中間あたりを狙ったような作風だったからだ。キャッチーなポップソングに乗せて主人公らが歌い踊るシーンをアクセントにしながらテンポ良くストーリーを語っていく手法には、ミュージカル入門編的な趣きがあった。このスタイルは、シリーズを通じて本作にまで受け継がれている。(ちなみに第2作も見ているのだが、夏休みのアルバイト先であるカントリー・クラブを舞台とし、青い空、緑の芝生にプールと、開放感溢れる映像の魅力で新鮮味を出そうとしたが、とっちらかったストーリーにしろ、いまひとつパンチの欠けた楽曲にしろ、人気に便乗していかにも急造した感が拭えず、あまり感心しない作品であった。)

そして満を持して登場の第3作。サブタイトルに「Senior Year」とうたっているとおり、高校生活の区切りとなる最終年度、卒業をひかえ、恋や進路に悩む主人公らの姿を描いてシリーズに区切りをつけるものになっている。バスケットボールの才能を評価されて地元アルバカーキ大(字幕ではABQ)からオファーをもらってはいるが、舞台の楽しさにも目覚めてしまった主人公と、遠隔地の名門スタンフォード(同じく字幕ではST)への進学が決まっているヒロインのカップルを中心に話が展開。学園もの映画の定番かつ華であるシニア・プロム、卒業制作ミュージカルの舞台をクライマックスに、卒業式で大団円というようにネタが揃っているのだから、盛り上がらない方がおかしい。実際のところストーリーの求心力と楽曲の魅力で「1」にはかなわないが、劇場版ということで製作規模もある程度大きくなっており、華やかで楽しい作品に仕上がっている。

そうはいっても、いくつか残念なところはある。その中でも最大のものは、プロムの扱いだ。見せ場が分散するのを避けたかったのか、卒業制作舞台のシークエンスとの重複を避けるためか、ここを「プロムに出席せずにスタンフォードまでクルマを飛ばした主人公と、大学の事前オリエンテーションに参加していたヒロイン2人だけのシーン」で置き換えてしまい、いってみればプロムをそっくり全部「割愛」してしまったのだ。それまでのストーリーのなかで、チケット販売にはじまり、意中の相手を誘う苦労なども盛り込んでいるのだから、これは構成上の大きな問題だと思う。楽曲や歌詞の工夫で学校の中で起こっている出来事と、2人だけのシーンをカットバックするなりなんなりのやりようはあったはずなのだが、「ミュージカル風」であるこのシリーズの単純な「スタイル」では、そうした複雑なシーンを組み立てるのは難しかったのかもしれない。他にも、その「スタイル」ゆえといえるのだが、見せ場を作るためだけのようなミュージカル・シークエンス(ミュージカル嫌いが云うところのいわゆる「唐突にうたって踊りだす」)の挿入なども気になった。まあ、このあたりを出演者のフレッシュな魅力と勢いで乗り切ってしまうところがシリーズの魅力でもあるので、洗練されたミュージカルを求めるのはお門違いだと目をつむっておくことにする。

「ハイスクール」というわりには、今日的な課題と無縁のあまりに健全で明るい理想的な学校生活で、優等生の美男美女が主人公では面白くもなんともないと揶揄されるかもしれないが、それはこれが「ディズニーもの」であるということだけでなく、主として中学生や小学校高学年くらいの背伸びがしたい子供たちを想定観客層として作っていることを考えればこれが自然な作り方であり、批判には当たらない。また、このシリーズの主人公が「バスケット・ボールで活躍する人気者で、本作ではチームのキャプテン(のひとり)で人気者」であるのが気に入らない向きもあるようだが、確かに、典型的なハイスクールものでは、学校社会の底辺や周辺を主人公にして、いわゆる「Jocks」を仇役にするのが通例であることを思うと珍しい部類であるとはいえよう。ただ、こういう主人公が悩んだ末にスポーツ馬鹿一本やりの道を選ばないことや、芸術家肌の友人や、チア・リーダータイプではない聡明なヒロインと互いを認め合っていくような描き方がなされているところがポイントなんだけれどね。