4/25/2009

The International

ザ・バンク 落ちた巨像(☆☆☆★)


時ならぬ2009年・春のクライヴ・オーウェン祭り第1弾。(ちなみに第2弾はGW公開になる『デュプリシティ』だ。)虚像かと思ったら、巨像だった。良く分からない邦題である。

宣伝がいうような金融資本主義の本質と闇を突き、金融危機を予見したタイムリーな社会派作品・・・というわけではないのである。もちろん、金融機関の信頼性(credibility)に疑問を投げかけるという点ではタイムリーなのかもしれないが、所詮、その程度のことだ。じゃあなんなのか、といえば、これは、新007 を更にぐっと現実寄りにしたような、サスペンス・アクションの佳作であって、決して小難しい映画ではない。ま、ダニエル・クレイグ主演でMI6の諜報員が主人公だとああなるし、クライヴ・オーウェン主演でインターポールの捜査官だとこうなる、ってことだと思えばいい。そういう作品において、現実味のある現代的な「巨悪」が(悪の秘密結社というのではなくて)巨大金融機関であったという話だ。武器から何から調達し、クーデターでもなんでも唆し、国を借金漬けにしてコントロールし、巨万の富を生み出す。そんな悪事が表にでないようにするためには、人の一人や二人を始末することに躊躇はない。そんな悪党を相手に、濃い顔のクライヴ・オーウェンとその仲間が立ち向かう。

そう、クライヴ・オーウェンという人は濃い顔をしているのである。シリアスにしろコメディにしろ、その濃い顔の男が、濃い役柄を、濃い演技で見せるのである。そんな彼を見ていて、始めはあまり好きなタイプだとは思っていなかったのだが、これが不思議なもので、いろんな作品で何度もその顔を見ているうちにクセになってくるのである。もちろん、ここのところの出演作がどれも注目作で内容的にどれも水準が低くないことも手伝っているのだろう。今では顔を拝むのが楽しみなスターの一人になってしまった。本作は、そんな彼の顔の印象的などアップで始まる。その直後、カットが変わり、別の男二人が車の中で会話をしている。会話が終わり一人の男が車から降りて歩き始める。観客は、そこで初めて、クライブ・オーウェンが道路の反対側から、同僚の捜査活動を見守っていたのだということがわかるのである。そして、あっと驚く出来事がクライブ・オーウェンの、ほんの目と鼻の先で起こるのだ。これは意表を突く、すごい導入部だ。このリズム、この呼吸で本作もまた面白い作品に仕上がっているに違いないと期待が跳ね上がる。

インターポールの捜査官というのは、捜査を行い情報を関係各国の警察組織に提供することが目的であって、原則的には逮捕するなどの行為は行わないのだそうである。しかし、もともと英国の警察組織にいた男だという設定の主人公は、米国やイタリアの現地捜査官らと協力しながら、悪党を追い詰めるための決定的な証拠を手に入れるため、暴走気味の苦闘を繰り広げていく。物語の舞台もベルリン、リヨン、ミラノ、ニューヨーク、イスタンブールと華やかに移り変わり、ニューヨークでは有名な観光スポットでもあるグッゲンハイム美術館内部で大規模な銃撃戦が展開されるのが見せ場になっている。誰もの記憶に残るあの特徴的な建築を再現したセットで撮影したパートと、短期間許された実際のロケで撮影したパートを巧みに組み合わせて完成されたアクション・シーンは臨場感満点で、壁にボコボコ穴があいていくのが見ていて心配になってくるくらいの迫真の出来栄えである。

現実にあった金融機関のスキャンダルを題材にしているし、ほろ苦さの残る幕切れが用意されていて、単純なハッピーエンドというわけではない。(なにしろ、「悪党」をやっつけたところで、悪事を働く仕組みがなくなるわけではない。)そのあたり、能天気で単純な、「ハリウッド調」と一線を画しているわけだが、それが『ラン・ローラ・ラン』で名前を売ったドイツ人、トム・ティクヴァを監督に起用した成果といえるかもしれない。米国の娯楽映画のエッセンスや呼吸というものを、欧州の世界観とセンスで消化できる俊英だといえるだろう。共演のナオミ・ワッツは米国側から捜査に協力する役柄で、濃い顔の並ぶ作品にあって、まさに一服の清涼剤とでもいうべき存在であった。

Gran Trino

グラン・トリノ(☆☆☆☆)


民族的なアイデンティティを持たない米国においては、多様性を尊びながらも、基本的なレベルで言語や価値観を共有することによって初めて「国民」足りうるといってもよいのだろう。ポーランド移民の子孫で、国家の大義のために朝鮮戦争の戦場に立ち、戦後は自動車工場の組立工として勤め上げた男が主人公である。アジア系やアフリカ系などに対しての拭いがたい偏見を持ち、絶対にTVで放送できないような差別的な悪態をつくこの男が、隣に住むアジア系の少年に対して、「アメリカの男」のあるべき姿を教え込んでいき、最後には自分が未来を託したものたちのために人生を賭けた行動に出るというのが本作のプロットである。現代劇ではあるが、老ガンマンが若者の手ほどきをする西部劇のような味わいがあり、それと同時に、デトロイト&ビッグ3の「もの作り」の国であった米国の終焉、白人の国としての米国の終焉が重なり、「最後の主演作だ」というイーストウッドによる、彼がかつて演じてきたキャラクターたちへのケジメでもあって、どのようにでも解釈と深読みを可能にする重層的な寓話に仕上がっている。久しぶりのイーストウッド主演の娯楽作を笑って楽しんでいた観客は、いつしかこの作品が示唆するサブコンテキストの深さに打ちのめされてしまう。その落差たるや、ある意味で、『ミリオンダラー・ベイビー』の落差に匹敵する。

そんな映画のシンボルが、タイトルにもなっている1972年型フォード・グラン・トリノだ。石油ショック、排ガス規制前の、不必要なまでに大型で、マッチョでありながらも優美なデザインの車体に、湯水のようにガソリンを喰らう大排気量のエンジンを積んだ、いまや過去の遺物(レガシー)と化したアメ車らしいアメ車である。主人公は、何あろう、この車のハンドル周りのユニットを、工場で自ら組み付けた男である。アメリカの一人前の男は、(故障の多い)車のコンディションをきちんと保てなくてはならない。ピカピカに磨きたてられ、完璧にメインテナンスを施されたグラン・トリノを乗り回すでもなく、眺めて悦にいっている男と、隣家の少年は、このグラン・トリノをきっかけに交流を持つことになる。映画のタイトルで、映画のシンボルで、物語を前に動かすきっかけになる「グラン・トリノ」は、しかし、映画の中で終始、ガレージに鎮座したままである。途中、主人公の信頼を得た少年が、デートのために車を借りるというエピソードが出てくるが、そのシーンはフィルムに移っていない。映画の最後、この車を譲り受けた少年が、イーストウッド自身が歌う主題歌を背景に車を走らせるその瞬間に、われわれ観客は、はじめてそのエンジン音を耳にする。レガシーは、次の世代へと受け継がれたのである。血のつながった、トヨタのセールスマンやへそ出し少女にではなく、アメリカの正当な男としての道を歩み始めた、モン族の青年に。

この映画が後に残す余韻の大きさに反し、これはとても小さく、軽やかな映画である。デトロイト郊外の荒れ果てた住宅街を舞台とし、自身以外に名の知れた大スターのいないキャストたち。主人公の頑固さや差別意識、軽口のやり取りで観客を笑わせて楽しませ、少年らとの交流がしみじみと描かれるだけ、そんな作品だ。家の補修や芝生の手入れを教え、ガレージにずらりと並んだ工具類の使い方を教え、知合いの現場監督に頼んで職を斡旋し、イタリア系の床屋にでかけて「男同士」の口の聞き方を訓練する。短期間に、安上がりに、本作とは対照的に大掛かりだった『チェンジリング』後の息抜きかのように、いかにも肩の力を抜いてサラッと作られたかのようにも見える作品なのである。イーストウッドが興味を持ち、主演するといわなければ、そのままお蔵入りになっていても不思議ではない小さな、そして地味な脚本。これを気に入ったイーストウッドは、舞台をデトロイト郊外へと動かしたほかは、特に変更を加えなかったという。それなのに、イーストウッド主演を前提に彼が自ら企画開発をし、それにあわせてテイラーメイドされた脚本であるかのように感じられるところが不思議である。この映画の世界を、その題材を、完全に自分のものとしてたぐりよせる洞察力と、自分の世界として再構築する演出手腕には驚嘆するほかない。

主人公が朝鮮戦争のベテランだという設定で、戦場で行った行為が心の重荷になっている。一方、主人公が交流を結ぶことになるアジア系の「モン族」はベトナム戦争による難民である。朝鮮戦争と、ベトナム戦争。共にアメリカの大義と正義を振りかざした戦争だ。映画の中でも説明されるが、モン族はCIAに利用されて米国に味方した結果、虐殺されたり故国を追われることになったという。CIAもまた罪作りなことをしたものだ。この映画は古きよきアメリカの終焉とレガシーの継承が中心におかれてはいるものの、決して過去の米国と、米国がたどってきた道を無条件に賛美するようなものではない。清算すべき過去を背負った老人は、よき伝統だけを後に残すべく、そこに人生をかけるのである。その決意と潔さに深く、深く感動する。

4/15/2009

The Pink Panthur 2

ピンクパンサー2(☆☆★)

スティーヴ・マーティンを主演に迎えて仕切りなおした新生『ピンクパンサー』シリーズ第2弾である。まず本作がどうのこうのいうまえに、この新シリーズは面白いのか?という問いに簡潔に答えるなら、たいして面白くはない、といわざるを得ないだろう。ただ、こうも思うのだ。フランチャイズとしての「ピンクパンサー」の名前やヘンリー・マンシーニの名テーマ曲が広く知れ渡り、主演のピーター・セラーズの死後にも何本も続編が作られたほどの人気があったとはいえ、そもそも一世を風靡した「ピンクパンサー」シリーズの映画がそれほどまでに面白い映画だったのだろうか?と。8本もある作品の全てを否定するつもりはないが、笑えない上に筋すらも良く分からないいい加減な作品も多く、アベレージは相当低かったと思っている。ついでにいうなら、新シリーズの監督であるショーン・レヴィやハラルド・ズワルトもそれほど冴えているわけではないが、ブレイク・エドワーズだってヘンリー・マンシーニの音楽抜きには見られないようなろくでもない映画をたくさんとっているスカ監督だ。

しかし、まあ、映画産業の常であるように、有名なフランチャイズを眠らせておくのはもったいないと "reboot" され、前作の興行的・批評的不評をものともせず、こうして続編までも作られてしまった。まあ、安上がりに作れば意外にうまみのある商売ができるのがコメディというジャンルなのかもしれない。作られてしまった以上、特に、スティーヴ・マーティンのファンであれば、これは見ないわけには行かないのである。故ピーター・セラーズを敬愛していると伝えられるマーティンのことだから、当初は迷いもあっただろう。彼なりの「クルーゾー」を創造できると確信できるまでOKを出さなかった彼は、結局、自ら脚本にも参画するかたちでシリーズに関与することになったのである。演技者としてだけでなく、クリエイターとしても関与している本シリーズは、スティーヴ・マーティンのフィルモグラフィにおいて一定の重みがあるということだ。

ところで、スティーヴ・マーティン版の「クルーゾー」は、前シリーズから引き継ぐ形で「フランス風の馬鹿げたなまりで話すナンセンスな台詞」と「フィジカルなドタバタ」を基本にしているが、方向性は同じでも、演ずる役者が違うと笑いの質や見せ場も随分異なるものである。90年代以降は大人しいファミリー・コメディへの出演が増えていたマーティンが、「クルーゾー」という特異な人物を演ずる、いわゆる「キャラクターもの」であり、ナンセンスでフィジカルな芸を(久々に)堪能できる作品であるというのがファン的な意味で本シリーズの存在意義である。今作でも奇妙な振り付けと独特のリズムで場をさらうダンスなど、彼が昔得意としたネタを髣髴とさせるフィジカル芸がふんだんに詰め込まれており、それを楽しめる観客であれば退屈することはあるまい。『12人のパパ』シリーズなどで死ぬほど退屈をした(はずの)スティーヴ・マーティン好きにはそれだけで嬉しいと思えるはずだ。

映画全体としてみると、なんだか無駄に豪華なキャストを起用していながらそれぞれの見せ場を作ることに失敗しているのがもったいないところである。前作から続投のジャン・レノ、エミリー・モティマーに加え、ジョン・クリース、アンディ・ガルシア、アルフレッド・モリーナ、リリー・トムリン、ジェレミー・アイアンズが出演。ジョン・クリースは前作でケヴィン・クラインが演じたドレフュス役を引き継いだ形だが、利己的・権威主義的なこのキャラクターとジョン・クリースの持ち味がバッチリ合っており、マーティンとの相性も悪くないだけに、二人の絡みをもっと見せてほしいところであった。アンディ・ガルシアはそれなりのスクリーン・タイムをもらっているが、演出がタコなので、コメディに必要なリズムと軽さが足りない。アルフレッド・モリーナは完全な無駄使いで何のための起用だかわからない。こうしたビッグネームに囲まれて日本代表を演じるユキ・マツザキは、敢えて日本訛りで頑張ってはいるものの、あからさまに周囲との格の違いが見えてしまって可哀想。キャストでの一番の見所は、その昔『All of Me』でマーティンと共演したこともある大ベテランのコメディエンヌ、リリー・トムリンだろう。彼女とマーティンの絡みはさすがに呼吸が合っていて、コメディのリズムになっている。コメディ好きとしては、そんなシーンを見るだけで少しほっとするというものだ。

4/11/2009

Frost x Nixon

フロストxニクソン(☆☆☆☆)
 

そういえば、随分長い間、ロン・ハワードの作品には興味を失っていた。今頃になって持ち出すのもなんだが、『スプラッシュ』、『コクーン』の頃が一番好きだった。固有名詞としての「ロン・ハワード」に興味を失ったとはいえ、まあ、彼が手掛けるのが一般にいうところのいわゆる「話題作」だったりするので、ほとんどの作品は見ているし、大味で無難な大作路線の谷間にそこそこ面白い作品を発表してはいることにも気がついてはいるつもりだ。しかし、ここのところ話題作の続いているピーター・モーガン脚本による今回の新作は、「そこそこ面白い作品」で片付けるにはわけにはいかない。土台となる舞台劇があったとはいうものの、熟練の腕で見せる久々の快作である。しかし、それほど見応えのある作品が、気がついたら賞レースから消えていた。まあ、賞が全てではないのだけれど、そこには実話至上主義一派の陰謀が絡んでいるに違いないのである。

逆説的に聞こえるかも知れないが、この映画の問題点は、(最近、別の映画を評して同じ表現を使ったけれども)面白すぎることにある。世の中には「実話」であることを過度にありがたがる一派とでもいう人々がいて、実際の出来事に材をとりつつ想像力を駆使して物事の「真実」に迫ろうとする試みについて、歴史の改竄であるとか、大衆娯楽映画への安易な迎合だと非難する、つまりは、実話の再現ではなく、物語としての完成度と面白さを優先したことが許せない、と、こういうわけである。確かに、そこにはデリケートな問題が横たわっている。例えば、何らかの政治的目的のために歴史を一方的に改竄しようとする悪辣な試みは断じて許されるべきではない、と思っている。

しかし、この映画がやろうとしていることは、そういう意味での「歴史の改竄、事実の改変」ではないはずである。この映画は、フロストによるニクソンのインタビューというイベントを切り口に、ニクソンという人物の複雑さを描き、向かい合う二人の人物から、その瞬間から、端的で力強いドラマを引き出そうとしているのである。そのために、イベントの裏側で起こっていたことについて綿密な取材を行ったうえで、「ニクソンからフロストへの電話」であったり、ニクソンが決定的な発言にいたるプロセスにおける側近の役割などを中心に、敢えて「フィクション」の力を借りているのである。それが、物語が迫ろうとした「真実」を描きだす上での効果が絶大であることは映画を見たものであれば異論を唱えるものはなかろう。そして、物語として、映画としての完成度と面白さを格段に高めていることもまた、事実である。

この映画を見ていて作り手の誠実さを思うのは、問題とされる「電話」のくだりについて、ニクソンに2度までも念押しさせるかたちで、それが実際にあったことではなく、フロストの脳内妄想であったかもしれないという描き方をしていることである。そこまで気を使う必要はないように思うのだが、これは作り手が「事実」を知っており、かつ、尊重する意思があるということを、「実話を過度にありがたがる一派」への目配せをしながら伝えようとしている、そういうことだと思うのである。また、そういう機能を果たしつつも物語としての深み、余韻の深さにつながっているところが巧みである。ここまでしているのに、この映画を「事実と違う、改竄だ」と非難するのは、非難する側に問題があるとしかいいようがない。

もちろん、素晴らしい脚本、脚色を輝かせているのは俳優たちである。既に絶賛されているフランク・ランジェラとマイケル・シーンの、それぞれの人物の本質を捉えた演技は聞きしに勝るものであるが、脇を固めるケヴィン・ベーコン、マシュー・マクファディン、オリバー・プラットといったあたりの役者の助演ぶり、サポートぶりが素晴らしいと感じた。対決ということで主演の2人にばかりスポットが当たるのは仕方ないが、キャストの、アンサンブルとしての見事さは言及される価値があるだろう。

舞台劇の脚色であるということで、確かに限られた場所、限られた人数の会話によって進行する点から「舞台劇のよう」だという感触もありながら、「登場人物たちが後にこのイベントについて振り返ってインタビューに答える」という、物語のつなぎ部分にあたる脚色の妙が効いて、映画としての時間的、空間的広がりを十二分に感じさせるものになっている。このあたりは、同じく舞台劇の映画化で、同時期に公開され、かつ演技で話題を呼んだという意味でも共通点のある『ダウト~あるカトリック学校で』と比較しても成功していると思う。これもまた『ダウト』と通低する部分であるが、過去の(あるいは、過去のある時代だと設定された)出来事、物語を通じて、ブッシュのアメリカを、あるいは、その終焉を、意図してか、結果としてか、反映させることになっているのが興味深いところである。

鑑識・米沢守の事件簿

相棒シリーズ 鑑識・米沢守の事件簿(☆☆★)


本作は、ご存知の通り、人気TVドラマ『相棒』の映画化作品が大ヒットしたことを受けて製作された派生(スピンオフ)作品で、六角精児演じるドラマの脇役が主人公となる作品である。物語としても映画版『相棒』の途中から派生するかたちになっている。まあ、これだけ多くのTVドラマが次々と「映画化」され途切れることなく公開されている現状をみると、TVの延長のような映画ばかりが氾濫することを憂いている場合ではなく、もはやこれはひとつのカテゴリーとして認知すべきなんだろう、と、思う。映画の興行が一部の話題作と大作だけで成り立つわけがなく、隙間を埋め、かつ、安定的に客の歓心を買える商品として(量産される)作品が必要である。これは昔もそうだったし、今でもそうなのだ。そうした作品の今日的姿のひとつとして「TVドラマの映画版」がある、ということなのだ。

そういう観点でみると、東映の「映画屋さん」がスタッフの中核を占めている『相棒』シリーズの映画には、映画そのものの今日的な位置付けということだけに留まらず、かつてプログラムピクチャーとして量産されていた軽い娯楽映画の雰囲気が濃密に漂っているところが面白い。最も、『相棒』の場合、TVシリーズの方がTVドラマ的である前に、プログラムピクチャー的な作品であるから、劇場という空間、銀幕という場所に「帰って」きても違和感がないどころか、どこか居心地がよさそうなところがあるのが、更に面白い。もちろん、今風のシネコンより、一時代前的なコヤが似合うのはいうまでもないことだ。

TVの2時間スペシャルでいいんじゃないの?という声あることを承知で云うのだが、『鑑識・米沢守の事件簿』は、上記の文脈においてそこそこ楽しめる作品に仕上がっている。シリーズのファンなら、TVシリーズが再会されるまでの箸休めとして、なおのこと楽しめるのは間違いないだろう。私はそれほど熱心なシリーズのファンというわけでもないので、キャラクターだ、ストーリーだという前に、単純に、映画としてのテンポの良さが心地よく感じられた。カット尻の短いショットを小気味良くつないだ「アクション映画の呼吸」とでもいうようなものが、ぐいぐいとストーリーを前に引っ張っていく。さすがかつてアクションで鳴らした大ベテラン、長谷部安春が監督しているだけのことはあって、TVドラマ的でありながら、十分に(B級)映画的な匂いを感じさせるのが、世に溢れる他の「劇場版」と一線を画すところだと思う。

ただ、残念ながらもろ手を挙げて評価をしたい作品になっているわけではない。この作品で失敗しているところは、主人公米沢とコンビを組むことになる萩原聖人演じる「元妻を失った所轄の刑事」のキャラクターの造詣である。これは脚本、演出、演技の全てのレベルにおいて、うまくいっていない。元妻の死で平静心を失っているというところまでは良いのだが、これでは「元妻を失った普通の人」か、せいぜい、「元妻を失ったダメ刑事」、冷静に見ると、単に無能な刑事にか見えないのだから困ってしまう。観客が感情移入しなくてはならないキャラクターなのに、この男の言動のひとつひとつが非常に苛立たしく、映画全編を通じた悪印象につながってしまっている。

そのほか、本作における「ゲスト」的なキャストに言及すると、あまりにも分かりやすい「悪役」としての伊武雅刀というキャスティングはあまりに予定調和的であるが、この映画の性格を考えれば、むしろ、そういうビジュアル的な分かりやすさは美徳と考えるべきだろう。単に悪いやつというのではなく、「セクハラ」を示唆する上で伊武雅刀の嫌らしいニヤニヤ笑いそのものがセクハラ的であり、効果絶大である。彼の部下にあたるポジションで市川染五郎を連れ出したキャスティングは大当たりである。スーツを着せると案外、小心な組織人が板についてしまうところが良いし、善だか悪だかわからない曖昧なニュアンスを出した彼の演技が作品を格段に面白くしていた。市川染五郎のセクションの職員役である片桐はいりだけは、正直もう少し何とかならないものかと思ったが、比較的年齢層の高い場内の観客には彼女のコミック的演技が受けていたので、それが狙いなら正解ということなのかもしれない。

4/10/2009

Twilight

トワイライト~初恋~(☆☆)


昨秋、本作が米国で大ヒットしたというニュースを聞くまで、恥ずかしながらその名前を聞いたことがなかった。ステファニー・メイヤーの原作シリーズは、映画化されるまえから相当売れていたものらしい。海を越えた日本でも、主要なターゲット読者の気を惹くライトノベル風の新書、それじゃさすがに手に取るのがはばかられると感じる向きのための普通の文庫と2種類の形態で出版されていたのだが、全く気がつかなかった。それもそのはず、主人公の少女がバンパイアと禁断の恋に落ちる学園ロマンスものというのだから、そりゃ、少女マンガの世界であって、当方なんぞの目に入るわけがない。

シリーズ第1作となるこの作品は、常套としてキャラクターと基本設定の紹介を担っており、話は小さな世界で展開する。主人公である孤独を抱えた転校生が、周囲と付き合いがなく謎めいた美青年に惹かれていくうちに、彼(とその仲間)の重大な秘密を知るという話が前半。2人が付き合うようになったあと、少女が流れ者のバンパイアの狩りのターゲットとして目をつけられてしまい、その魔手から逃れよう、逃そうとする話が後半である。地元に隣接した居留地に暮らす「狼」の子孫だというネイティブ・アメリカンに伝わる「伝説」を思わせぶりに絡めつつ、次回以降に期待を持たせて幕を閉じる、といったところだ。

やりたいことも方向性も分かるのだが、映画としては中途半端である。バンパイアものである前に、恋愛ものである前に、「学園もの」であるところが本作のユニークなところであるはずなのだが、学園ものとしての描写に踏み込みが足らず、何人か登場する友人たちもお座なりで肉付けが足らない。日常生活の場である学校生活をきちんと描かなければ、異物であり、裏の世界で生きるバンパイアという存在が魅力的に立ち上がってくるはずがなかろう。これは大きな不満店である。さらに「恋愛もの」として、2人が互いに惹かれあい、心を許すまでのプロセスがきちんと描かれていないのは問題であると思う。雰囲気は演出されるが、2人が恋に落ちるのはお約束ごととしてのみしか理解しようがないのだからどうしようもない。もちろん、二人が交わす思わせぶりな眼差しだけで全てを理解できないような観客は、本作のような「お約束」で成立している作品を楽しむ素養が足りないということもできるのだろう。ただ、「禁断」のはずの異種間恋愛が、あまりにもあっさりと成立してしまうのではドラマとしての面白みがないと思うのである。

結局、本作もまた、たとえば『ハリー・ポッター』の映画シリーズがそうであるように、原作を読んだファンに向けての「動く挿絵集」として存在するだけなのである。もちろん、それが本作の目指したところであり、存在意義だとするならば、観客をうっとりさせるに十分なキャスティングを含めて成功しているといってよい。主人公の少女を演じるクリステン・スチュワートはその意志の強そうな眼差しがクールだし、相手役のバンパイアを演じるロバート・パティンソンもハリー・ポッターでの脇役では十分に活かしきれていなかった魅力を開花させ、アイドル的人気が世界中で沸騰するのも必然だと思わせる。

話の設定から想像される作品の「ポテンシャル」、魅力的なキャスティングから考えれば、本作はもっともっと面白い映画になりえたと思うのだが、本作に熱中するファンたちはこの程度の出来栄えでも十分満足するものらしい。そうやって、低いところ低いところに基準が流れていくのはあまり感心したことではない。本作の大ヒットを受けて突貫スケジュールで製作・公開される次回作の監督はキャサリン・ハードウィックからクリス・ワイツに交代、女性視点から男性視点に変わることで、この少女マンガ世界が崩壊するリスクもあるものの、彼の実績から考えるに映画としては本作よりも期待を持てそうだ。紆余曲折の上で第3作の監督に内定したのは『ハードキャンディ』のデイヴィッド・スレイド。さて、どうなることか、映画好きとしては2作目、3作目のほうがそそられる。そういう意味では、本作も一応チェックしておくくらいの価値があるだろうか。