6/26/2010

Alice in Wonderland

アリス・イン・ワンダーランド(☆☆★)

それなりの映画好きならば、名前を聞いたならばとりあえず新作を観に出かける監督が何人かはいるものだろう。私にとって、ティム・バートンはもう、長いことそういう監督の一人である。そんなわけで、3Dブームに乗って大ヒットとなっている新作『アリス・イン・ワンダーランド』、遅ればせながら観てきたのである。

で。

まあ、つまらなくはないんだけど。

まあ、ヴィジュアルはティム・バートン的で、面白い。しかし、内容にはあまり「らしさ」を感じられない。あっさりとしていて優等生的。断片的なエピソードの羅列である原作にストーリーを与えたことで、かえってありきたりの作品になった。もっとクレージーでもいいのに。

古巣であるディズニーが求めるものを仕事と割り切って作ったようにすら思える。ただ、違う角度で見れば、古巣ディズニーからお金を湯水のように引き出して、借り物のキャラクターを使って、好き放題に映像実験をしてみたように見えないでもない。本人はどう思っているか知らないが、彼の作品の中では『マーズ・アタック!』とか、『猿の惑星』とかと同じ匂いを感じる。ほら、ストーリーとかテーマではとくに語るものもなく、宇宙人や宇宙船のデザインとか、美術とか、くだらないギャグとか、猿のメイクとか、意匠の中にバートンらしいこだわりを見て、それを楽しむ作品という意味で。ね?

しかし、主人公の体のサイズが変化し、異世界を体験するというこの話、「3D」という最新のギミックとの相性がよかった。本作は、撮影後に3D変換されたという意味では最近乱造気味の「なんちゃって3D」と同じなのだが、端から3Dで作ることを意識していた点でそれらの作品とは一線を画している。主人公が異世界に入り込んでからの映像は、アトラクションとしての面白さをそれなりに感じさせるし、3D変換作品にありがちな、書き割りっぽい不自然さが、逆にいい効果になっていたりもする。

が、物語の導入部など、通常の実写素材がほとんどを占めているシーンでの3D効果には不自然さや違和感が感じられたのもまた事実。CGIアニメーションは物体の位置情報を元に精緻な3D変換が可能になるようだが、実写映像の3D変換については、まだまだ技術が成熟しているとはいえないのだろう。

6/19/2010

Prince of Persia: The Sands of Time

プリンス・オブ・ペルシャ 時間の砂(☆☆)

ジェリー・ブラッカイマーがゲームを元ネタに作ったアドベンチャー作品である。それだけ聞くとオリジナリティのかけらも感じられないが、タイトルにあるように、今日、アメリカの天敵でもある中東はイランの地に興ったペルシャ帝国の「王子」を主人公として、バランス感覚とエキゾチシズムを前面に出しているあたりがヒットメイカーの面目躍如たるところであろう。(もちろん、ペルシャだろうがなんだろうが、登場人物が英語で話すのもお約束である。)まあ、残念ながら興行的には成功を収めたとはいい難いが、こういうある種のチャレンジは基本的に歓迎したい。

偉大な王の眼鏡にかない、王子として養子に迎えられて育った青年は、王の暗殺の罪を着せられて終われる身となる。背後には、過去にさかのぼることを可能にする不思議な砂と短剣を我が物にし、権力を手中に収めようとする者の陰謀があった、というお話。主人公は、タイトルにもある「時間の砂」の秘密を握る小国の王女と共に陰謀に立ち向かう。

・・・のだが、まあ、なんだかね。ストーリーがそれほど面白いわけでもないし、脚本がそれほどよくかけているわけでもないし、キャラクターに特段の魅力があるわけでもないし、ビジュアルがものすごいわけでもないという、可もなく不可もない軽量な娯楽映画である。話の展開にしたって、主人公の叔父、つまり、王の弟をベン・キングスレーが演じているだけで読めてしまうわけで、そこをもう一ひねりしようなどという小細工もない。暗殺者、アサシンの語源ともなったペルシャの暗殺者集団が登場するところは少しワクワクしたが、その程度か。

監督は『ハリーポッターと炎のゴブレット』で、VFXを使ったファンタジー映画でも大丈夫だと証明して見せた英国出身マイク・ニューウェルが起用されている。この人、信用できる腕前の持ち主だと思っていて、現に、「炎のゴブレット」にしても、シリーズ中盤では一番出来が良い作品だった。ただ、こういう大規模な作品になると、彼の腕がどうのというレベルではなく、全体のパッケージングに左右されるところが大きいようにも思う。次は違う路線に戻ったほうがいいんじゃないのかね。

ジェイク・ギレンホールのような役者がこういう作品の主演に抜擢されるところが面白く、体を鍛え上げて頑張っているのは良いと思うのだが、いかんせん、ちょっと線が細い。ヒロインのジェマ・アタートンは、演じるキャラクターに魅力がなく不発。アルフレッド・モリーナも出演しているが、才能の無駄遣い。

6/12/2010

The Outrage

アウトレイジ(☆☆☆★)


世間は原点回帰というけれど、それが、まあ、映画を楽しんで作っているということであったら間違いではないかもしれない。何しろ、ここのところの苦悩ぶりと迷走ぶりは見るに耐えないものであったから、北野武が楽しんで映画を撮っているということは、ファンとしてはなによりも嬉しいことだ。

もちろん、映画の内容が原点回帰だとは思っていない。普通であることの作法も技術も持ち合わせず、定石を徹底的に排除したところで成立していた初期の作品とは、そもそも目指しているところが違う。むしろ、本作が比較されるべきは、北野武が幅広い観客を意識した「北野流バイオレンスエンターテインメント」を標榜する『BOROTHER』であり、『座頭市』だ。これらは、その完成度はともかくとして、誰にでも分かるエンターテインメントと主張しながら、北野武でしか撮りえない個性的な作品でもある。また、脚本や台詞をしっかり練りこんで、筋書きで観客を楽しませられるように丁寧に撮ることを要求された作品という意味では、もしかしたら『Kids Return』あたりにも近い。

本作には、王道を照れずにやってのける覚悟が見て取れる。ストーリー然り。組織の中で仕掛けられたちょっとした小競合いが凄惨な組織のつぶしあいに発展する一方で、腹黒く狡猾な連中は、状況を利用して権力を手中に収めようとするという仁義なき群像劇だ。キャスティング然り。これまでは敢えて起用を避けてきたようなオールスターの演技者が並ぶ。殺しのシーンから逆算し、精緻に組み立てられた脚本にはいろいろなレベルで伏線が張られており、緊張と笑いのバランスを巧みに操り、一気呵成に突っ走る109分。払ったチケット代のぶんはきっちり楽しませるプロの仕事たらんとする気合がスクリーンに漲っている。

その結果、過剰な自意識やヒロイックな自死願望は消えた。行間はそのままに、寡黙さが消え、台詞はやたらに増えた。バイオレンスは痛さはそのままに、しかし軽く、マンガ的になった。編集からは唐突な暴力性が消え、びっくりするぐらいスムーズになった。ある意味、「普通」の作品に近づいた。しかし、普通に接近するほどに、普通の枠にははまらない北野武の個性も際立ってくるところが面白い。

この作品にも、いつのまにかスッと忍び込んできて日常を異化してしまう暴力の恐怖は健在だし、オフビートな笑いもそこにある。暴力的で威圧的な台詞が気がつけば掛け合い漫才、という面白さは、これまでの作品になかったものである。が、彼のキャリアを考えれば、これが北野流コメディのひとつの完成形だろう。そして、
息を呑むような素晴らしいショットもある。何より、一見単純でありふれたストーリーの裏から、これまでの作品とも底の部分で通じる組織や社会構造、人に対する彼独特の観察眼と世界観が浮かび上がってくる。

弱小ヤクザ組織が上位組織の裏切りによって破滅していくところだけを切り出せば、ヤクザ映画として出発しながら「何か違うもの」に変質していった『ソナチネ』と同じだが、本作はあくまでヤクザ映画、あくまで分かりやすいエンターテインメントという制約の中で、初期作品とは全く別のベクトルで仕上げられている。ともかく、北野武は「もう終わっちゃった」作家なのではなく、まだ始まっていない、ということだ。何かをふっきって再度スタート地点に立った。この人は、同じ場所を堂々巡りするのではなく、新しい地点に向かおうとしている。本作を見る限り、まだまだ期待していいのだと思う。

Iron Man 2

アイアンマン2(☆☆★)

マーヴェルが着々と進めている「アヴェンジャーズ」映画化作戦の、いまとなっては中核としての地位を不動のものにした『アイアンマン』の第2弾である。引き続きキャプテン・アメリカだの、マイティ・ソーなどが映画化される予定、マーヴェル的に、ここはきっちり成功しておきたいところだろう。

ご存知の通り、前作は期待を上回る面白さだった。何が面白いといって、ガレージでアイアンマン・スーツをバージョンアップさせながら完成させていく Do It Yourself な感覚とか、主人公のちゃらんぽらんなキャラクターとか、もちろんそれを演じるロバート・ダウニーJr. その人の個性が渾然一体となった演技とか、気楽に楽しめるコミック原作のヒーローものとしての絶妙なバランス感覚とか、あまり欲張らずにコンパクトかつスピーディにまとめ上げた娯楽職人的センスとか、まあ、挙げればきりがない。そういうさまざまな要素が絡まって、存外に楽しい1本であった。そのことには異論はないだろう。

続編はどういう手でくるのか?それが今回の楽しみの一つでもあったが、蓋を開けてみれば非常にオーソドックス、予算にモノを言わせた「派手な物量作戦」なのであった。こういうのはダメな続編にありがちなパターンである。が、どうだろう。そもそも小難しい映画じゃないのだから、むしろ、こういうあっけらかんとやらかしてくれるのも悪くないんじゃないか。言葉を換えるなら、「分をわきまえたもの」とでもいえないだろうか、と思うのである。前作の面白さの根本的なところに、あまりに複雑になってしまった「コミック・ヒーローもの」を、本来あるべき単純な世界へと引き戻したことがあったとすれば、成功した娯楽映画の、続編のシンプルな王道をやるのが本作のあるべき姿、なのかもしれない。

そうであるからして、映画の完成度では前作に遠く及ばない。が、これはこれで楽しい映画である。ロバート・ダウニーJr.がいて、強い敵がいて、新しいキャラクターや新型メカがいっぱい登場して、派手な見せ場が盛りだくさん。正直、相当よくばった「全部盛り」である。

ジョン・ファブローという人の偉いところは、これだけの内容を2時間(124分、ちなみに前作は125分)の尺にきっちりと収めてみせるところだ。こういう職人的な見識と手腕は、大作といえば、大した内容でもないのにやたらとダラダラ長いのが幅をきかせる昨今にあって、高く評価したいポイントである。

逆に、残念に思うことがあるとすれば、主要キャラクターで役者の交代があったことだ。ドン・チードルは嫌いじゃないが、顔の形といい、体格といい、テレンス・ハワードのほうが役にあっていると思うな。

予告編をみたときには、なんだか汚らしい格好をしたミッキー・ロークが半裸で暴れているだけで不安にさせられたが、この男、自分が暴れるだけではない知能犯なのであった。クライマックスでは陸海空各種タイプを取り揃えたロボット軍団が大暴れする。大方の予想どおり、重武装をまとった「ウォーマシン」も登場し、ミッキー・ロークも巨大なアーマーを身にまとって参戦。等身大ロボット大激突映画というジャンル(?)では、フィル・ティペット渾身のゴー・モーションによるクライマックスが素晴らしい金字塔『ロボコップ2』に並ぶ見応えであった。そういうのがお好きなら楽しめること請け合いである。

From Paris with Love

パリより愛をこめて(☆☆★)

007にあやかったようなタイトルだが、それ以上の深い意味はない。ロシアに対してパリ、日本語カタカナだと語呂が悪いよな。パリス、だと締まるんだけど。

ヨーロッパ・コープ&デジタル・ファクトリー、リュック・ベッソン謹製の軽量娯楽映画量産工場が、『96時間 (Taken)』を成功させたピエール・モレルを再度監督に起用し、ハリウッドスターであるジョン・トラボルタを招いて、パリを舞台に展開される単純明快な娯楽アクション映画。こういうのが好きな人ならそこそこ暇つぶしになる、といった程度の出来栄え。

主役はジョナサン・リース・マイヤース演ずる大使館員で、CIAの工作活動に憧れを持つ若造。ここに、粗暴で無茶苦茶なトラボルタ演ずるエージェントが現れ、テロを阻止するために行動を共にすることになる、という話。突然現れた迷惑者に振り回される主人公、というスタイルで、コンビものの一定型を押さえ、パリの表と裏を走りまわり、頭を使うよりは体を使ってドッカンばっかんやりつくすタイプの作品である。仏映画ではあるが、もちろん米国+世界市場を狙った企画である。ただし、主人公の恋人にかかわる終盤の展開は米映画だったら採用しないんじゃないか。少なくとも違う出口を考えるだろう。

トラボルタの演じるキャラクターが、わざと(目的を持って)振舞っているのを込みで考えても、粗野でうるさく強引で乱暴な感じの一本調子で魅力がない。トラボルタの演技は近作の『サブウェイ123・激突』などにも通じる方向だが、キャラクターに合わせてのことか、これまた一本調子で飽きてくる。まあ、「ひとの国にきておいて、我が物顔で傲慢・勝手に振舞うデリカシーゼロなキャラクター」を通じて、海外でも我が物顔で傲慢な米国人を揶揄しているんだろう。こういう視点が入ってくるのが仏映画たる所以で面白いところだが、それがキャラクターを魅力的にしているか、映画を面白くしているかどうかといえば、別の話だと思う。

Confession

告白(☆☆☆★)


公開1週間経った劇場、R-15指定の作品だが、普段はTVの延長線上にあるような映画にしか興味を抱かないような若い観客が多くて、一瞬、入る箱を間違えたのではないかと戸惑ってしまった。『下妻物語』、『嫌われ松子の一生』の中島哲也監督が撮った新作、『告白』は、口コミで集まったに違いないそういう「若い観客」には十二分にショッキングな作品ではなかっただろうか。君たちきっと見たことないんだろ、こういう重たいエンターテインメント。

ともかく、こういう作品が「東宝」という大メジャーで製作され、全国それなりの規模で公開され、これだけの客を集めてみせたという、その事実が素晴らしい。もちろん、これが、「原作もの」でなくてオリジナル脚本だったらもっと素晴らしいのだが、まあ、それはさておいてもいいや。TVドラマの延長としてのイベントばかりで埋め尽くされるようになった今、こういう作品が出てきて、こういうヒットを飛ばす。そのことで、「もっと多様な映画を作り、供給してもいいんじゃないか」と、作り手(というより出資者たち)が少しくらい思い直してくれたらいい。この作品が、新しい流れの第一歩になればいい、心からそう思う。

作品そのものも、中身がともなっており、面白く見ることができた。ストーリーそのものは原作に負うところが大きいが、そこで描かれた物語を、映画というフォーマットの中できっちり再構築してみせたところは高く評価されるべきだろう。視点を切り替えながら登場人物のモノローグで語っていく原作の構成を、そのまま映画に持ち込んだのが正解である。登場人物たちの過剰な自己主張に、この監督が得意とする、スローモーションを多用する過剰に作りこまれた映像をパッチワークのようにはめこんで、これまた絶え間なく背景に音楽を流し続ける。手法も映像も(いつものごとく)あざとくて鼻につくことこの上ないが、これが題材にピタリと拮抗して、スリリングな緊張感を生み出している。

複数人物の主観的なモノローグをつづっていくことで事件の背景が立体的に浮かび上がってくるという構造は、大林宣彦が宮部みゆき原作に挑んだ『理由』(傑作!)にちかい、と思う。人工的に作りこまれた映像のパッチワークという意味でも、旺盛な実験的精神という意味でも、CMディレクター出身という共通項を持つ大林監督の(過小評価されているとしか思えない)作品が想起されたのは自然なことだと思うのだが、どうだろうか。