12/12/2009

Space Battleship Yamato: Resurrection

宇宙戦艦ヤマト 復活篇(☆★)

15年ほど前に西崎義展がぶち上げた「完結編」の続きを作るという企画は、会社の破産、本人の収監、著作権にまつわる泥沼裁判等々で敢え無く沈没したものと思われたが、さすが不死身の無敵戦艦ヤマト、当時発表されたプロットそのままに完成、公開と相成った。西崎の執念たるや恐るべし。

しかし、「作った」ということの執念はともかく、内容は酷すぎて話にならない。私もかつて夢中になった者のひとりとして、懐かしさもあるし、昔のもこんな感じだったじゃん、と擁護したくなる気持ちを理解できないわけではないが、話がダメで、キャラクターがダメで、演出がダメで、音楽がダメなんだから、どうしようもない。かつて先駆的であり偉大なマイルストーンとなった作品に対し、いまいちど恥をかかせた罪は重い。

もともと本作のプロットは、湾岸戦争後の世界情勢のなか、石原慎太郎の「原案」も加味して作られた。ブラックホールに飲み込まれることが不可避となった地球を脱した移民船団が、米国を模した強大な星間国家と、それに服従する星間連合の多国籍軍に行く手を阻まれるというものである。映画の冒頭で、やたらでかい文字で原案:石原慎太郎とクレジットされるのはそういうことだ。

ボケ気味の都知事、、でなく大作家先生である石原を巻き込んだからといって、物語そのものに新機軸があるわけではない。かつての軍国少年、石原や西崎により反米的色彩が強く出されていることを除けば、あらすじを聞いてもどこかで聞いたような話にしか聞こえない。さもありなん、これは過去の作品を作る過程で生み出されたアイディアや捨てられてきた没プロットの使いまわし、つぎはぎ以上のなにものでもないことは、明白である。

松本零士との喧嘩別れの影響で、キャラクターやメカのデザインからはいわゆる松本色が排除されているのだが、それに代わる筋の通った魅力を打ち立てることができていない。旧キャラクターは(年齢を重ねたという設定だとしても)別人状態、新キャラクターは脚本のひどさも手伝ってキャラクターがたたず、区別もつかない。松本メーターを失ったメカニックは、作品としての個性も失った。

音楽は宮川泰・羽田健太郎の両名を失った痛手が大きい。とはいえ、本来、彼らの残したモチーフも要所で使いながら、新しい世代の作曲家に劇伴を書かせるのが筋だろう。それだけの予算もなかったんだと想像するが、過去曲の再利用(羽田健太郎の「交響曲宇宙戦艦ヤマト」)は懐かしさという意味で許容したとしても、既成のクラシックを延々と流すのは駄目だ。その選曲のセンスも酷いが、使い方もムチャクチャである。

本当は、作品を重ねるごとに悪い意味でのご都合主義を重ねてグダグダになっていった「ヤマト」の歴史を清算し、立て付けも新たに復活させるべきだったのだろうが、その仕事は噂されるリメイク版TVシリーズや、実写版に委ね、ただただ老害とはこういうものと世間に恥をさらすためにのみ、本作は存在するといってよいだろう。一時でもヤマトが好きだったものとして、至極残念であり、腹立たしい出来栄えの作品である。

12/05/2009

2012

2012 (☆☆☆)


新作が待たれるジェームズ・キャメロンの『アビス』が1989年公開だから、CGI によるVFX がそれまでの特撮技術にとってかわって大々的に用いられるようになって、はや20年が経つ。CGI の技術そのものも進化を続けてきたから、少し大げさに言えば、今日では事実上、どのような映像表現であっても、ほとんど制約なしに、自由自在に創りだすことができるようになったわけだ。もちろん、それなりの手間暇をかけないと「実写レベル」で説得力を持った映像には仕上がらないが、今日ハリウッドが送り出す大作商業映画ではさすがに一定レベルをクリアしてくる。こうなると、いよいよその技術を使って何を表現するのか、何を見せるのかという最も本質的なところが問われることになるだろう。

そんな話から始めるのは、スケールは大きいが中身はスカスカのバカSF映画ばかりを撮り続ける、ある意味で敬愛すべきクリエイター、ローランド・エメリッヒの新作『2012』は、何でも描けるようになってしまった時代に何を描いて見せるのかという点において作り手の真価が問われる作品である、と思うからである。マヤ暦が2012年で終わっていることをモチーフに、世界の終焉を描くという企画である。太陽の異常活動をきっかけとして地球環境が大変動を起こし、いまあるかたちでの世界が文字通りに崩壊していくわけだが、ともかくその崩壊するさまを、言いわけ程度のストーリーでつないだものだといってよい。未曾有の災害を描くことにかけては第一人者を自認しているエメリッヒのこと、ここぞとばかりに心血を注いだに違いあるまい。これまでの彼の作品のなかでも相当に力が入っている部類だろう。

正直に言えば、もともと彼の作る映画に対する期待値は高くない。だから、想像したよりも面白かった、ということでしかないような気もする。しかし、この作品のディザスター表現はかなり新鮮だ。地震、噴火、津波、ありとあらゆる天変地異が一度に押し寄せてくるわけだが、それによって都市が、大陸が、文明が、どのように壊れていくのかという点において、これまでに見たことのないような独創的な映像が次から次へと惜しみなく繰り出される158分なのである。長尺ではあるが最後まで退屈はしない。エメリッヒ本人と、盟友(制作・音楽・脚本)のハラルド・クローサーが手がけた脚本は、想像を超えない範囲でつまらないのだが、それを差し引いても余りあるイマジネーションの充実度は劇場で体験する価値があると思う。(まあ、今になって思えば、これを3Dで作っていないことが悔やまれるというところか。)

主人公を演じるのは、同年代を過ごしてきた観客の代表としてのぼんくら中年、ジョン・キューザック。適度な個性で画面に埋もれることなく、本当の主役はVFXを駆使したド派手なディザスターであることをわきまえた狂言回しとしてなかなかよいキャスティング。政府の陰謀をラジオで発信し続ける危ないおっさんをウディ・ハレルソンが楽しそうに演じているのが笑いどころだろうか。

11/07/2009

Drag Me to Hell

スペル(☆☆☆★)

だから、ジプシーの呪いは怖いんだって。

さて。ゼメキス&シルバーが「ダークキャッスル」で、マイケル・ベイが「プラティナム・デューンズ」なら、サム・ライミは「ゴーストハウス」なのである。『スパイダーマン』3部作で疲れたのか、自身が低予算ホラーを専門に製作するために作ったプロダクションで、まるで息抜きをするかのように撮ったのが本作「私を地獄に連れてって」である。低予算といってもアリソン・ローマンと、(Apple: Get a Mac のCMの)Mac 君ことジャスティン・ロングをキャスティングできちゃうあたりが素晴らしい。

サム・ライミは、『死霊のはらわた』によってホラー映画で過激な描写を突き詰めると笑いに転化するということを世に知らしめた人であり、以降しばらくのあいだ、ホラー映画というジャンル全体がトチ狂ってしまう原因を作った人である。彼の「ホラー映画」は、昨今流行している残酷で陰惨な描写をつきつめたような病的な作品群とは一線を画している。多分、本作に一番近いものが何かと問われたら、結局のところ、遊園地の絶叫マシンなのだと思う。絶対に安全で危害がないと分かっていて楽しむ非日常的な恐怖とスピード感。パーフェクトなスリル・ライド。

考えてみれば、いまどき「ジプシーの老婆の呪い」とか、「ものすんごい山羊の悪霊」とかで観客を震え上がらせることができるというのもすごいことだと思う。サム・ライミの演出手腕はますます冴え渡り、映画のあらゆる要素を完璧にコントロールしながら、緩急自在に観客を笑わせ、怖がらせ、驚かせ、楽しませる。このあたりのリズム、そして呼吸、ここ一番のところで唐突に飛び出す過剰なショットやダイナミックなカメラワーク。これらはもはや彼のトレードマークであり、誰にもマネの出来ないレベルに到達している。名人芸といっていいだろう。『スパイダーマン』3部作では自制気味だった彼らしさが全編炸裂するのを大画面で楽しめる、これだけでも見る価値のある作品である。

また、主演の昔から贔屓にしているアリソン・ローマンもなかなか演技達者な女優なのである。「理不尽な呪いにかかった哀れな娘」の顔の裏に、自分の利己的な目的のためには手段をいとわないしたたかさをかいま見せるあたりのさじ加減がうまい。この映画のラスト近くになっての怒涛の展開は、彼女の演技があって活きるのであって、単なる脚本構成に帰せられるものではないだろう。また、恐るべきジプシーの老女を演じたローナ・レイバー、彼女がまた素晴らしいのである。よくもまあ、激しいアクションをも要求される過酷な撮影に耐えたことだと思う。

単純な物語だが、サム・ライミが兄(アイヴァン・ライミ)と練り上げた設定も良くできている。ストーリーのサブコンテクストには今日の不況の引き金を引いたサブプライム・ローンの問題がある。本来リスクが高く、貸すべきではない人にまでお金を貸し込んでいた金融機関に、ローン返済が出きずに住居を奪われた側が呪いをかけて復讐する、こういう話なのである。まあ、金融機関の窓口のお姉さんをターゲットにするのはとばっちりもいいところではあるのだが、同時に、貸すときだけはいい顔をしておいて、返せなくなると手のひらを返し、担保として住む場所までも奪っていく金融機関に対する不信感というのは、ぬぐい去れないものとして確実にある。だから、観客は、高感度の高いアリソン・ローマン演ずるキャラクターに同情しながら、「それはさすがに理不尽だよ」と笑い、しかし心のどこかに「やられて当然、もっとやっちまえ」という気持ちがないわけでもない。このあたりの設定の妙がエンディングにつながっていくことになるわけだ。単純な作品のように見えるが、凡百の作品と本作の出来栄えを決定的に違ったものにしているのは、案外こうした部分だったりするものだ。

10/24/2009

Orphan

エスター(☆☆☆★)

ロバート・ゼメキスとジョエル・シルバーが(趣味で)作った「ダークキャッスル」レーベルからの新作。ウィリアム・キャッスル作品のリメイクを手始めに快調に低予算ホラーを製作してきたダークキャッスルだが、2006年の『リーピング』あたりで失速。ガイ・リッチー作品を手がけるなど若干の路線変更をしているようで、本作もホラーというよりはサスペンス・スリラー調の作品である。監督は、2005年におなじくダークキャッスル製作の『蝋人形の館』を手がけたバルセロナ生まれのジャウム・コレット・セラ。本作の原題が「Orphan (孤児)」。3人目の子供を流産してしまった夫婦が、そのかわりにと孤児院から引き取った聡明な少女、エスターが、やがて家族を恐怖のどん底へと突き落とす。

一見して善良だが、実は得体の知れない悪意を持った子供が周囲を恐怖に陥れるというストーリーにはいろいろなバリエーションがあって、一方に666の『オーメン』みたいなオカルトホラーもあれば、全盛期のマコーレー・カルキンが主演した『危険な遊び』みたいなサスペンスもある。おそらくそれを踏まえてのことだとは思うのだが、本作の面白いところは、少女・エスターの悪意が何に起因するのかなかなかわからないこと、要するに、いったいこの映画がどこに向かっているのかを観客に悟らせないところにある。彼女の周辺で起きる不幸な事故の数々、積みあがる死者の数。それは偶然の事故か(そんなわけあるまい)、事故を装った巧妙な殺人だろうが、そうだとしたら、何故なのか。もしや、超自然的、悪魔的な何かが介在しているのか(まさか)、とすら想像させられてしまう。孤児院の経営はキリスト教系の団体だし、少女が隠し持っている古書が怪しいし。ポスターに描かれた少女の顔がオカルトだし。ねぇ。

この映画、欧州出身監督の感性ゆえか、映像が米国映画っぽくないのである。薄暗く、ひんやりとした湿っぽさ、どんよりとした陰鬱な空気。何が起こっても不思議ではないような雰囲気。撮影を手がけたジェフ・カッターのキャリアは浅いが、なかなか良い仕事をしていると思ったら、次回作は『エルム街の悪夢』のリメイクらしい。演出も、ジャンルお約束の「脅かし」はあるが、全体としては騒がしくなく、じっくりとサスペンスを醸成していく。『蝋人形の館』のときには低予算娯楽ホラーのフォーミュラに則った仕事だったから、これほど達者な演出ができる人材だとは気がつかなかったが、なかなかの逸材ではないだろうか。

もちろん、さんざん観客を翻弄しておいて、真相が明かされてみればありきたり、というのでは凡作の誹りを免れることはできまい。最後の最後になって、初見の観客のほとんど全てが唖然とするようなアイディアが飛び出してくるところが高ポイントである。これがストーリー上、いわゆる「どんでん返し」というのではなく、積み上げてきたサスペンスを違う次元に持ち上げる働きをしているところが尚素晴らしい。初期段階の脚本では、エスターの過去についてもっと踏み込んだ説明がなされていたようだが、そこを端折った完成版には蛇足感もなく、観客がいろいろなことを想像できる余地もあって、なかなか良いバランスになっていると思う。エスターを演じるイザベル・ファーマンが圧巻。低予算ジャンル映画といってもこういう作品があるから侮れないのである。

10/17/2009

Villon's Wife

ヴィヨンの妻 桜桃とたんぽぽ(☆☆☆★)

太宰治生誕100周年だからといって、地味な映画なのにセットやらなんやらに金がかかっているなぁ、と思っていたら、バックにフジテレビがついていた。今年のフジテレビは、揶揄されるような「テレビドラマの映画版」ではなく、映画オリジナルの企画で勝負していて一味違う。本作なんて、監督:根岸吉太郎、脚本:田中陽造、っていうのだから、これはもう、立派に映画の香りがする1本だ。終戦後の東京を再現し、立派なセットだと感じさせたのは種田陽平の仕事だというし、衣装も黒澤和子だというから、これまた一流どころが集まっている。それで映画らしい香りがしなければ、もう、それは嘘というものだろう。

戦後間もないある年の瀬、売れっ子小説家だが放蕩者の夫が居酒屋から大金を盗んで逃げたことを咎められ、借金を働いて返す心づもりで居酒屋に押しかけた主人公だったが、屈託のない彼女の振る舞いは客に大人気で店は繁盛、彼女を慕う若者まで現れるといった具合。どこか楽しげに働く妻や、彼女と若者の間柄に嫉妬した夫は、家をでて愛人と心中を図ろうとする。まあ、ダメ男とよく出来過ぎているほどの妻の、不思議なようでいて、どこか普遍的にも思えないでない夫婦関係を描いた話である。地味な話ではあるが、話運びが巧みであり、次がどうなるのかと身を乗り出して見入ってしまう。深刻な話にもなりかねないのに、底に流れるユーモアについつい笑わされたりもする。画面の中だけで完結しない奥行きや行間を感じさせる演出は、大人の映画ならでは。十二分に楽しませてもらった。

主演の松たか子と浅野忠信、松たか子が働く居酒屋夫婦の室井滋と伊武雅刀、松たか子に惚れてしまう若者の妻夫木聡あたりまでのキャストも完璧。松たか子は昭和の女としての違和感のない佇まい、主人公のあっけらかんとした前向きな強さを体現していて素晴らしい。この人、現実世界では名門のお嬢様のはずなのに、演技者として「庶民っぽさ」を素直に出せるのは、実はいわゆる「美人顔」ではないからだろう。しかし、映画屋ドラマのなかで演技をしている彼女には、単純な見た目とは異なる魅力があって、いつも参ってしまうのが不思議なところで、今回もその例外ではない。これが女優というものだ、と感心する。浅野忠信は、太宰のイメージを投影したダメ男を飄々と演じ、このどうしようもない男の魅力をうまく掴んでいるように思う。その他の主要キャストでは、堤真一はいまひとつ雰囲気に馴染んでおらず、浮いている感じがする。これは、彼の演じるキャラクターが、脚色段階で創作されたものだということも微妙に反映しているのかもしれない。愛人役の広末涼子は、相変わらずのウンザリする声としゃべり方なのだが、役柄ゆえか、それもあまり気にならない。眼鏡で表情を隠しているのもいい。これは使い方の勝利、活かし方もあるものだと感心した。

The Proposal

あなたは私の婿になる(☆☆☆)

カナダ国籍のやり手女性編集者が、VISA手続きの不手際から国外追放を食らいそうになり、その回避手段として、過去3年彼女の下で耐えてきた若いアシスタントとの偽装結婚を思いつき、男も出世のためと渋々ながら承知する。ところが、そんな嘘を簡単に受け入れる移民局ではなかったから大変。舞台をNYからアラスカに移し、男の家族を巻き込んだ騒ぎに発展していく。いがみあう男女が、突拍子もない出来事をきっかけに、互いの違う側面に気づいて惹かれあうようになっていく、というのはロマンティック・コメディにおける絶対的な定番の一パターンだ。しかし、それを年上で実績のある「女優」が牽引し、アラスカという少し目新しい場所を選び出した目利きがこの作品の新鮮味につながっている。

考えてみれば、2005年の『デンジャラス・ビューティ2』以来、久しぶりにコメディに戻ってきたサンドラ・ブロックである。共演は見慣れない顔だと思っていたら、『ウルヴァリン』でウェイド・ウィルソン=デッドプールを演じていたライアン・レイノルズである。サンドラ・ブロックが1964年生まれ、ライアン・レイノルズが1976年生まれというから、丁度一回りも年が離れているし、映画界での実績もまたしかり。近年、こういう企画もたまに見受けられるようになったとはいえ、やはり珍しい部類といえるのではないか。昔から裏方にも積極的に関わってきたサンドラ・ブロック、今回もしっかりと製作総指揮に名を連ね、今の年齢の、今の彼女が輝く企画に仕立て上げるのに成功している。監督の人選もいい。『幸せになるための27のドレス』をヒットさせた、このジャンル期待の星、アン・フレッチャーだもの。

「部下を振り回す嫌われ上司」像には、『プラダを着た悪魔』のメリル・ストリープが重なり、偽装結婚から始まるロマンスといえば、ピータ・ウィアーの『グリーン・カード』なども思い出す。男の実家で家族や親戚と関係を深めることで抜き差しならない状況になっていく展開は、昏睡男のフィアンセと勘違いされたサンドラ自身のヒット作『あなたの寝ている間に』、だろう。ことほどさよう、ひとつひとつのアイディアにオリジナリティがあるとはいい難い。それでも、テンポよく繰り出される台詞は良く書けているし、なんだかんだといいながら3年間も一緒に働いてきた上司・部下の間の空気が変わっていく感覚を、主演のこの二人、なかなか良く醸し出している。自己中心的な凄腕上司、というのがサンドラ・ブロックのキャラクターではないのは先刻ご承知、思い通りにならないシチュエーションで困惑する彼女を見ていると、観客の期待する自分というのがどのあたりにあるのかを分かった人の仕事だというのが分かるだろう。

故郷の町にすむ男の元彼女を、『ベストフレンズ・ウェディング』のころのキャメロン・ディアスを思わせないでもないマリン・エイカーマンが演じている。この人、同じ監督の『~27のドレス』で、主人公の(嫌な)妹役を演じていて、注目株。今回も何かしでかすかと期待してみていたのだが、このキャラクターを添え物としてしか扱えない脚本は、ちょっともったいない。ほら、普通、こういう女は嫉妬心丸出しで主人公らの間に割って入ってくるものだし、偽装結婚という真実を真っ先に暴き出したりするものなんじゃないのかね。主人公が真実を暴露して身を引こうとする理由が「家族」でもいいけれど、若くて可愛い女がいてもいい。

付け加えて、邦題。語呂とインパクトで「婿」なんだと思うが、本来「娘の配偶者の男性」が婿なのだから、家制度も関係なければ、女性側の親が存在しない物語で「婿」っていうのはちょっと違う感じがする。

9/29/2009

Land of the Lost

マーシャル博士の恐竜ランド(☆☆)


『俺たち~』シリーズ(?)で、日本でも局所的に名前が知られるようになってきたウィル・フェレル主演最新作。ブラッド・シルバーリング監督による本作は、1974年製作による子供向けSFi ドラマで、後にカルト化した『Land of the Lost』をゆる~くリメイクしたものである。また、リメイクといっても、ストレートなリメイクではない。「カルト・クラシック」のバカバカしさや幼稚さにおちょくりをいれる「公式な」パロディというのが一番正しいところだろう。「公式」というのは、本作の制作に、オリジナル版の製作者であるシド&マーティ・クロフトが関わっているからであるわけだが、クリエイター自らが陣頭指揮を執って、旧作のタイトルもそのままに、パロディ仕立てのリメイク劇場版を作るというひねくれ具合が面白いところだと思う。

さて、お話のほうであるが、邦題タイトルで想起されるような、「タイムトラベルで恐竜時代にいく」という話ではないし、「恐竜を現代に連れてきて遊園地で見世物にする」話でもない。次元の裂け目から、恐竜や類人猿、トカゲ人が跋扈する別の世界に迷い込んでしまったおとぼけ科学者ご一行の、すっとこどっこいな冒険談である。まあ、冒険といったところでたいした冒険ではなく、類人猿をお供にし、恐竜に追われ、トカゲ人に襲われ、麻薬でハイになるといった程度のことではある。

映画の基本がパロディであることから、チープで安っぽいTV版の雰囲気をそのまま再現することに主眼があり、特撮も敢えてローテクっぽく、着ぐるみはあくまで着ぐるみらしく、作り物は敢えて作り物らしいというのが基本線である。つまり、その情けなさが笑いのネタになっている、ということだ。こんな安っぽく見えるものにビッグ・バジェットを投じて熱を上げるという太っ腹には感心せざるをえまい。チープさが基調のビジュアルのなかで、CGIで描かれる恐竜だけは何故だか妙に気合が入った出来栄えで、邦題についつい「恐竜」と入れたくなった心情も理解できるところである。恐竜のできがよいがゆえに他の部分の安っぽさが際立っているようにも思う。

映画のノリはウィル・フェレルの芸風にあわせたものである。この人の笑いは昔でいえばチェビー・チェイスあたりのそれに近いようにも思うのだが、まあ、はっきりいって面白いんだか面白くないんだかわからないところもあって、脚本や演出でその芸風を活かしきれるかどうかで出来が左右する部分が大きいのである。そんな意味で、今回の敗因は、この男の芸風と監督との相性ではないかと思う。そもそもブラッド・シルバーリングという人はコメディ畑の人ではないから、面白いコメディアンの芸をそのままカメラに収めれば、面白いに違いない、とでも思っているに違いない。本当はこういう企画なんか、例えば、かつてのジョン・ランディスのようなコメディの呼吸がわかる監督が手がけていれば、爆笑必至の仕上がりだっただろうと思うのだが、どうだろう。

Crank : High Voltage

アドレナリン:ハイ・ボルテージ(☆☆)


結果としてということだとは思うのだが、90年代を沸かせたアクションスターたちがどんどん失速し、ビデオ・ストレートなゴミ映画でお茶を濁ようになったなか、00年代を代表するB級アクション映画の顔といえば、ジェイソン・ステイサム、なのである。今年はつい先日公開された『トランスポーター』シリーズ最新作とあわせてときならぬステイサム祭り状態だ。あちらではアウトローながらスタイリッシュなヒーローを演じ、こちらではその悪人顔を活かした過激な殺し屋を演じてみせている。まあ、どんなに演技をしてみせたって、ジェイソン・ステイサムはジェイソン・ステイサムにしか見えないあたりも「アクションスター」らしくて素敵だ。

さて、本作は『アドレナリン』こと「CRANK」の続編。前作では妙な薬を打たれたせいでアドレナリンの分泌を一定レベル以上に保たないと死んでしまうというバカ設定でテンション高く押し切ったわけだが、今度は移植用に心臓を盗まれた上、代替の人工心臓が止まらぬように充電し続けなければ死んでしまうという、前作を軽く凌駕する無茶な設定である。そんなわけで、今回は「アドレナリン」とは関係ないストーリーだが、邦題は便宜上「アドレナリン」だ。まあ、テンションが高く、観客のアドレナリン分泌を促す映画、ということで、そんなに違和感もないか。人工心臓を止めないために車のバッテリーや高圧電流で充電をしようとする、絶対にまねしたくない数々のシーンにおけるビジュアル的インパクトは凄い。ステイサムの狂気を漂わせた悪ノリ演技も最高である。

前作に引き続き、マーク・ネヴェルダイン&ブライアン・テイラーの共同監督である。エッジが立っているというよりは洗練されておらず荒削り、どこかからの臆面もないイタダキのパッチワークで成立している映像スタイルがB級らしさを際立たせている。正直なところ、アイディアそのものが面白いのであるから、ここまでチャカチャカ落ち着きのない映像にしなくてもよいと思うのだが、当世、これくらいやらないと刺激が足りないとでも思っているのであろう。

また、エロ・グロ・ナンセンスというのか、下品というのか、このシリーズの売り物は、MPAAのレイティングなぞどこ吹く風とばかりに過激な描写にリミットを設けない姿勢、不良性感度の高さである。主人公を初めとして主要な登場人物はみんな何がしかの悪党であるから、周囲の人々を巻き添えにしようが何をしようがお構いなしで、簡単に人が死ぬし、残虐な描写も多い。こういうのを不謹慎だと思ったり、眉をひそめる向きにはとてもじゃないがお勧めできない作品である。ことに今回は、どこかで完全にリミッターを振り切ってしまったような描写が延々と続くので、メインストリームの観客に向けたエンターテインメントとしてはいささかバランスが悪いといえるだろう。前作にも増してキワモノ感が漂う仕上がりであるといっておく。

Oblivion Island: Haruka and the Magic Mirror

ホッタラケの島 遥と魔法の鏡(☆☆☆)


遥 in Wonderland. 予告編を目にしたときには全く興味をそそられなかった本作であるが、上映が終わる前に見に行くことができてよかった。人間がほったらかしにして忘れているモノを狐(のような生き物)がこっそりいただいていく、という民話風のモチーフを、古今東西のファンタジーから借用したアイディアやイメージで発展させた劇場用オリジナルのフルCGIアニメーションなのであるが、これがなかなか、作り手の誠意と熱意が伝わってくる秀作なのである。

母親を早くに亡くした主人公、遥が、神社でみかけた不思議な生き物を追って、穴に落ちるとそこは「ほったらかし」にされていたものを再生して暮らす不思議な国。ここを舞台に母親の形見である手鏡を探す大冒険が始まるのである。先に書いたように、狐を追って穴に落ちるところを手始めに、アイディアのレベルでは過去の様々なファンタジー作品のつぎはぎともいえるストーリーである。通常、日本のマンガなりアニメなりがこういうことをすると、その臆面も工夫もないイタダキぶりに見ているこちらが恥ずかしくなるようなものが多いのだが、本作の場合、借り物のアイディアをうまく咀嚼し、ひとつの物語として統一感をもって練り上げることができており、ネタの出処を推測しながら微笑ましく見ていられる程度に収まっているように思われる。

一番の見所は、タイトルにもなっている「ホッタラケの島」、つまりは穴の向こう側の異世界のビジュアルである。発想の源泉こそあちこちから借りていながらも、独創的なものを作り出そうという意欲は強く感じられる美術面での頑張りも含め、国産作品にありがちな「CGIアニメーションで作ってみました」というレベルを大きく超えている。他の手法ではなくて、CGIアニメーションであるからこそ表現できる世界、しかも、米国製アニメーションの模写ではなく、オリジナリティのある新しいレベルの表現に真っ向から挑み、そしてかなりのところ、成功しているといえるのではないか。事前の宣伝や予告では、この素晴らしさ、驚き、この作品が成し遂げた到達点というものが十分に伝わっていないのではないか。それが作品の興行的不振につながっているとしたらもったいないとしかいいようがない。

一方、その「異世界」との落差を出したかったのだとは思うのだが、穴のこちら側の日常を描くシーンはまるでダメ。風が吹いても木の葉ひとつ揺れない伝統的リミテッド・アニメーション風の立体感のない書割背景のなかで、妙に滑らかで重量感のない立体的CGIキャラクターたちが不自然なまでに滑らかに動くのに違和感があって見ていられない。仮に日常と非日常を対比で見せたいのであれば、いっそのこと、日常シーンにおけるキャラクターの表現からCGIらしさをとりはらい、2D手書き風の、「動かさない」表現で見せる手もあったのではないだろうか。映画全体における日常シーンの比率が高くないので作品にとって致命的とまでは思わないが、それでも映画の冒頭と締めくくりが映画に与える印象の重要性を思えば、このパートによるダメージは小さくない。CGIだからこうなってしまう、という消極的な諦めではなく、異世界パートで見せたような「こういう表現であるべき」という姿勢で考え抜いて欲しかったと思う。

9/28/2009

火天の城

火天の城(☆★)


信長から安土城築城をいいつかった熱田の宮大工が、当時、世界的にも前例のない5層7階建の壮麗な巨大建築を完成させるまでのドラマである。原作ものであるから映画に対する評価とは別になってしまうのかもしれないが、戦国時代劇の主人公が宮大工で、一世一代の大仕事を成し遂げるために「コンペ」を勝ち抜き、苦心惨憺の末仲間の協力を得ながらプロジェクトを完遂させるという題材、そして視点にオリジナリティがあり、たいへんに面白い。それが映画としての面白さには全くつながらないところが、これまた逆の意味で面白い。

まず、主演俳優で萎える。これだけの規模の時代劇を支えなくてはならないのだから、主演に重量級の俳優が必要であることは理解ができるのだが、かといって、その役者の体重までが重量級である必要はなかったと思うのである。西田敏行は個人的に苦手な俳優なのだが、それが理由でいっているのではない。モデルとなった人物が実際にどんな体形をしていたかは知らないので無責任なものいいかもしれないが、戦国の世、たとえ一門を率いた棟梁とはいえ、一介の職人、宮大工の棟梁が、あんなにぶよぶよ太っているというのではリアリティもなにも台無しだ。西田敏行がいかに名優であろうとも、いかに職人としての名演技を披露しようとも、あの体形のまま出演するのでは逆立ちしたって宮大工の棟梁には見えない。もし、仮にモデルとなった本人が立派な体格をした男であったというのであれば、劇中、台詞のひとつでも何でも、なんらかのフォローがあってしかるべきである。

他のキャスティングもいろいろ妙である。次長課長の河本準一が秀吉もなにかの冗談のようだが、笹野高史や夏八木勲も登場した瞬間から変なオーラを放っており、笑いを取るためにでてきたようにしか見えない。主人公の娘役、福田沙紀も時代劇にあわない顔立ちをしている。わざわざ「息子」から「娘」に変えてまで出演させる理由がわからぬ大根演技は苦痛以外の何者でもない。変なキャストが並ぶ中では椎名桔平の信長は真っ当で、寺島進が意外にも職人風情を漂わせていたのはさすがは畳屋さんの息子だなぁ、と納得がいくところだった。

さて、安土築城という大仕事、プロジェクトX的に描いていけばそれ自体がドラマとなり、面白くなるに違いない。それなのに、築城にまつわるプロセスをひとつひとつ丁寧に盛り込んで見せるかわり、家族であるとか、男女の仲であるとか、あまりにも陳腐なエピソードを、あまりにも陳腐なやりかたで並べてみせた脚本のセンスのなさには心底あきれる。原作からのエピソードの取捨選択も誤っているのだろう。忍者の話はあれほど唐突に盛り込むくらいなら、全部カットでも全く問題ないだろう。もちろん、ものづくりのプロセスにおいては人としての葛藤がある。仕事に没頭する影に、それを支える家族の存在がある。しかし、それも描き方の問題だと思うのである。結果として、現代のVFXの力を借りなければ映像化できないスケールの大きい話のはずが、スケールの小さい凡庸な話に貶められてしまったのでは本末転倒も甚だしい。劇場を埋めた年配の観客はこの程度で満足するだろうという舐めた姿勢があったかどうか、逆に、こういう「人間ドラマ」を盛り込んだオーソドックスな話にしなければ観客が満足する娯楽映画にならないと考えたのか。やはり、非凡な題材が凡庸に堕すのは、凡庸な才能によるのであろう。

コンペにおいて模型に火をつけ、吹き抜け構造だと火が回るのが早いという実演をしてみせ、信長に吹き抜けを作ることを断念させたというエピソードを盛り込んでおきながら、結局のところは儚く焼失したという歴史の皮肉がしっかりと利いていないのももったいない。これは城を作った人たちの物語であるから、城が炎上しても舞を舞う暇がある、という台詞に呼応した炎上シーンまで描くべきだとはいわない。3年後に焼失、という事実の提示の仕方とエンドマークの打ち方、タイミングひとつで変わるものだと思うのだが、いかがなものだろうか。

Nonchan Noriben (のんちゃんのり弁)

のんちゃんのり弁(☆☆)


まあその、なんだ。まじめで誠実につくられたオーソドックスなコメディだとは思う。聞けば、95年~98年連載で未完におわったマンガが原作で、1997年・98年に昼ドラ枠でTVドラマになっているという。

緒方明監督による本作に関する最大の謎は、この企画をなぜ、2009年の今、改めて劇場映画にしなくてはならないのかがさっぱりわからないことである。経済的に厳しい環境の中で、女性の自立だ、頑張る女性への応援歌だ、という意図なのかもしれないが、古いマンガを持ち出してこなければならないあたりに、原作なしのオリジナル脚本ではお金が集めにくいという事情が透けて見える、というべきなのか。

さて、これは、「30代の子持ち女性がダメ亭主と別れて再出発をしようとする話」である。手に職もなく、就職口もみつからない主人公が弁当屋を開こうと思い立ち、まずは居酒屋の弟子として料理修行に勤しむようになる。映画のタイトルから、「一人の女性が弁当屋を開業し、起動にのせるまでの奮闘期」のようなものを想像していると、ちょっと肩透かしを食う。

弁当屋をやろうと思い至るまでにふらふら、思い至ってからもふらふら。元亭主とのドタバタや、かつての同級生との恋愛模様がぐだぐだと続き、クライマックスは元亭主との乱闘騒ぎ。映画の中での「弁当屋」の扱いは、単なる添え物にすぎないと感じる。映画の最初のほうで、主人公が作る弁当をアニメーションで解説してみせたりするが、そこまでするなら、徹頭徹尾、主人公と弁当に焦点を当てるべきではなかったか。もっと主人公の弁当に対する思い入れや工夫、好きでやっていたことをビジネスにしていく上での壁や葛藤などを描いたら新味があったように思う。

主演の小西真奈美は相変わらずの人形のような童顔で、突拍子もない主人公をいきいきと演じていて、コメディエンヌとして頑張っているとは思うのだが、これは演じているキャラクターの問題かもしれないのだが、どこか一本調子でイライラする。母親役の賠償美津子や、居酒屋の主人役の岸部一徳は、そりゃ、巧いにきまっているのだが、あまりに予定調和。はまりすぎるのも退屈だというのがなかなか難しい。

Air Doll

空気人形(☆☆☆★)


是枝裕和脚本・監督の新作。男の性欲を満たすために作られた等身大の人形が、心を持ち、外の世界の美しさを知り、恋心を覚える。好きな人が出来ても、一日の終わりには持ち主のもとに帰り、抱かれる。それが彼女の役目、存在する理由だから。いっそ、心などないほうが楽だろうに、と切なくなる。行為を強要されたあとで人形が自らの股間の部品をとりはずし、洗面所でそれを洗う姿、その即物的な描写は、切なさを通り過ぎて哀しくて仕方がない。そして、そんな空虚さが他人によって満たされる喜び、それは誰もが指摘するように、この映画の白眉である。

主人公である「人形」を、あのペ・ドゥナが演じる。たどたどしい日本語で、性欲処理の代用品を演じる。作り手は、韓国の女優がこれを演じることで、意図をしない意味が、(おそらく、社会的なサブコンテクストが)過度に付与されないか、心配したように伝え聞いた。まあ、それはそうだろう。自らの意図に反して性風俗産業に従事させられている女性たち、特に、海外から人身売買同様にしてつれてこられた女性たちのイメージが重なってみえるのはある程度計算に入っていてもおかしくない。しかし、日本人男性が、性欲処理のために韓国人女性をモノとして扱い、抱く。そのことが、映画とは全く関係がない両国のあいだの過去の不幸な出来事を喚起させてしまう可能性は、確かにあっただろうと思う。そして、もしそんなことになれば、本作は失敗したに違いない。

しかし、ペ・ドゥナという女優の存在感は、やはり、他に代えがたい稀有なものであることを、この映画はわれわれ観客に、改めて教えてくれる。彼女は、余計なものを想起させたりしない。彼女は韓国の女優である、という事実の前に、なによりもまず、女優であり、心を持ってしまった空気人形であった。文字通り空気を入れて膨らませるちゃちな作り物としてのビニール人形と、実際の人間にビニールの継ぎ目を書いて表現される「心を持った人形」がいて、それをひとつのものとして、ひとりの「人形」として、説得力をもってつないでこそ、この作品が描き出すファンタジーが成立する。そんなむちゃくちゃなことが、まるで当たり前のことのようにしてできてしまっている、コントにもならずに表現として完成していることは、実はとても凄いことだと思っているのだが、それを可能にしたのは何よりもまず、ペ・ドゥナというキャスティングであり、彼女の貢献だといえるだろう。

この映画では、いっそ心を持たずにいられたら楽になれるだろうに、と感じている、空虚な日常を生きる人々の姿が点描される。これは、テーマ的、映像世界の空間的広がりのうえでも効果的であると思うのだが、うまく織り込まれているというよりは挿入のされ方が唐突に感じられることがあり、もう少し脚本上の工夫が必要だったかもしれない。また、物語としては終盤での流れにぎこちなさを感じて残念であった。特に、ARATA演ずる青年が良く分からない。空虚であることと、何を考えているのか分からない、のあいだには大きな距離があると思うし、過度な説明を廃した演出や、観客に想像の余地を残す演出と、意味不明・意図不明は別のことだと思っている。オダギリジョー演ずる人形師が登場するあたりまでは文句なしに素晴らしい出来栄えなのだが、イメージや雰囲気を重視する作品が、それに飲まれてしまったのではないだろうか。

9/24/2009

The Ugly Truth

男と女の不都合な真実(☆☆★)

『300』の印象が強烈ながらも、ロマンティック系でもいけることを証明しつつあるジェラルド・バトラーと、テレビで売り出し『幸せになるための27のドレス』も記憶に新しい新参キャサリン・ハイグルが競演する新作。私はロマンティック・コメディ好きであるから、こういうのはともかく見に行っておくものなのである。もともとフォーミュラティックなジャンルであって、よほど酷くなければ、そこそこ楽しめるところもお気楽だ。実際、この作品もそれほどの褒められた出来ではないのだが、笑わせてもらったし、楽しい時間を過ごさせてもらったと思っている。

後から知ったのだが、この作品、『キューティ・ブロンド』、『アイドルとデートする方法(Win A Date With Tad Hamilton)』、『21』と、当方、密かにご贔屓のロバート・ルケティック監督の新作で、『キューティ・ブロンド』の脚本家コンビ(カレン・マックラー・ラッツ&クリステン・スミス)との再タッグ(ストーリー・共同脚本はニコール・イーストマン)作品であったりするのである。いや、それを知ってしまったら、この映画、これで満足というわけにもいくまい。だって、もっとマトモな仕事が出来る人たちなんだから。

堅物女性TVプロデューサーが男の気を引くため、男の本音をぶちまけて人気を博す男の知恵を借りるのだが、犬猿の仲だったはずなのに、恋の相手を差し置いて、いつしか互いに惹かれあうようになってしまう・・・という話。(マッチョ主義の)男の本音って(所詮)こんなもの、というアケスケな台詞の応酬が楽しく、本作の新鮮味である。が、こういうのは「下品さ」のさじ加減が難しいものである。本作で突出して笑えないシーンは、(おそらく『恋人たちの予感』のメグ・ライアンに着想を得たであろう)レストランでのシーンで、思わぬ成り行きで「大人の玩具」を装着したままである女性が、それと知らずにスイッチをもてあそぶ子供のせいで嬌声をあげるくだりを、たいへんにシツコい演出で見せるところだ。この手の下品なギャグが一線を越えるきっかけはファレリー兄弟の『メリーに首ったけ』だったのだろうが、作品のトーンと方向性を考えなければ目も当てられない惨劇となるのは本作に見るとおりである。

もうひとつ、本作の決定的な弱さになっているのは、互いに馬鹿にし、忌み嫌っていた2人が、いかにして惹かれあうようになるかというプロセスを説得力をもって描けていないことであろう。これは、いってみればロマンティック・コメディの肝である。もちろん、この2人が仲良くなるのがこのジャンルの「お約束」だから、それほどの唐突感や違和感があるわけではないのだが、互いが心のなかで求めていた真剣な付き合いに値する相手が、目の前にいる男/女であると、いつ、どこで、なぜ気がついたのかを説得力を持って描けなければ、2人の関係そのものが一時の気の迷いに見えなくもない。

一方、よくできていると思ったのは終盤、ホテルのエレベーターでの出来事の描き方である。互いが本当の気持ちに気がつき、一歩前に踏み出そうとするのだが、タイミングが悪くことは成就しない、というすれ違い、いってみれば定番のパターンを踏襲しているに過ぎないのだが、それまでのドタバタ基調の作品のトーンを、「ロマンティック」寄りに転調させるのに、脚本、演出、役者それぞれの歯車が噛み合って、ちょっといいシーンに仕上がっている。

9/11/2009

Night at the Museum: Battle of the Smithsonian

ナイト・ミュージアム2(☆☆☆)

ニューヨークの自然史博物館から、ワシントンDCのスミソニアン国立博物館に舞台を移しての第2弾、監督(ショーン・レヴィ)、脚本(ロバート・ベン・ギャラント&トーマス・レノン)も前作に引き続き続投である。もちろん、主演のベン・スティラーと、盟友オーウェン・ウィルソンも帰ってくるし、顔出し程度とはいえロビン・ウィリアムズのセオドア・ルーズベルトも再登場。新顔として、ここのところ絶頂のエイミー・アダムズがアメリア・エアハートを演じ、ベテランのハンク・アザリアが3役兼務で笑わせる。正直、映画の出来栄えはいまひとつなのだが、前作同様、盛り込まれたギャグが秀逸であるから、前作が気に入ったのなら緩いノリの本作もそこそこ楽しめるはずである。

個人的に、本作で一番のお楽しみは、やはりベン・スティラーとオーウェン・ウィルソンの迷コンビ復活、なのである。ベン・スティラー監督主演の怪作『トロピック・サンダー』では、いかにもオーウェンに当て書きしたような役をマシュー・マコノヒーが演じていて、少し寂しい思いをしたものだ。本作の「主演」というレベルでいえばベン・スティラーとエイミー・アダムズのカップルになのだろうし、オーウェン演じる役柄は比較的小さいものであることは否定できない。それでも、オーウェン・ウィルソンからのSOSを受けたベン・スティラーが、仕事をほったらかしてDCに向かい、オーウェン・ウィルソンの命を救うためにスミソニアンを走り回るというストーリー展開がミソなのである。

もうひとつのお楽しみは、古代エジプト王カームン・ラーを演じるハンク・アザリアだ。考えてみれば、前作はロビン・ウィリアムズが出ずっぱりで笑いを誘っていたわけだが、今回、その役割を担うのがハンク・アザリアというわけだ。素顔は見えないけれど爆笑を誘う「考える人」役と、作品の要になる「リンカーン大統領」役までこなしている事実で合点がいくだろう。今回もゲスト的に笑いを振りまくロビン・ウィリアムズほどのネームヴァリューに欠けるハンク・アザリアであるが、その芸の確かさと濃さは折り紙つき、今回、敵の大ボスを軽妙なトークでチャーミングなキャラクターに仕立て上げた。本作を水準まで押し上げる上での貢献が一番大きいのは、この男だといえるだろう。

いずれにせよ、スクリーンの裏側で作り手や出演者が楽しんでいる雰囲気が伝わってくるところがこのシリーズの良さであり、特徴だろう。まあ、2本で打ち止めにするのが良いとは思うけれど、展示物が貸し出された先で大騒動が起こるという設定で、世界各国行脚をしてもらうっていうのでも可、である。

X-Men Origins: Wolverline

X-Men Zero ウルヴァリン(☆☆★)


ヒーロー・チームの活躍を描く『X-Men』 劇場版シリーズ3部作からのスピンオフ第1弾。映画版で中心的なキャラクターとして描かれた人気者、「ウルヴァリン」を主役に、過去に遡ってキャラクターの生い立ちを語るものである。で、原題には "Origins"、おそらく、Origins シリーズとして、他のキャラクターたちの1本立ち企画も進めていることであろう。

新展開を成功させるべく、監督には『ツォツィ』のギャビン・フッド、脚本には『25時』や『君のためなら千回でも』のデイヴィッド・ベニオフを迎えるという、かなり野心的といえる布陣には驚かされた。このメンバーであれば『X-Men』シリーズ屈指の人気者が背負った運命をドラマティックに語ることができると踏んだのだろう。皿の上には魅力的なドラマの材料がふんだんにのっている。強力な治癒能力により不死に近い体を持つ男。同様の運命を持った兄との確執。恋人との束の間の休息と、彼女の死。軍の人体実験と、アダマンチウム合金の骨格の謎。主演で、今回はプロデューサーも兼務する売れっ子ヒュー・ジャックマンは益々格好良くなってきたし、その兄にキャストされ、ヒュー・ジャックマンと因縁の対決を繰り広げることになるリーヴ・シュレイバーもいい役者だ。

しかし、邦題にくっついた「Zero」が端的に示すように、本作はいわゆる「エピソード1」ものの一種である。「エピソード1」ものの火付け役でもあったあの『スター・ウォーズ』の新三部作がそうであったように、既存作品で描かれたできごととの整合性を図る必要性からくる窮屈さであったり、先の出来事がわかっているが故のドラマ作りの難しさであったりという困難を抱えているのがこの手の作品の共通したところで、本作も例外ではない。悪の黒幕、ストライカーを殺すわけにはいかないし、主人公は記憶を、そしてすべてを失わなければならない。もちろん、さまざまなバージョンのコミックで語られたさまざまなバージョンのエピソードの最大公約数的なところとの整合性も気にした結果だろう、予定調和のエンディングに向かい、勿体付けとご都合主義、それにあまりに陳腐なエピソードが羅列されていく。そこにはなんら新鮮な驚きはない。

まあ、それが苦痛にならないのは、107分という、2時間をきった(当世では短めの)上映時間のおかげだろうか。人気シリーズの新作で金のかかった大作だからと気張るのではなく、どうあがいてみても軽い気晴らしの娯楽映画でしかないという事実を作り手が忘れていなかった、ということだろうか。むしろ、監督・脚本の人選からすれば、それは意外なことのように思われる。

黒幕ストライカーが主人公の次に作り出した怪物、「ウェポンXI」ことウェイド・ウィルソン(=デッドプール)は、映画シリーズとしては本作が初登場。せめてこやつくらいは完膚なきまでに叩きのめしてくれるのかと思えば、ありがちな「続編がありますよ」エンドがくっつくことで復活が予告される始末。なんでも、このキャラクターを使ったスピンオフの計画があるらしい。

9/05/2009

Taking of Pelham 123

サブウェイ 123 激突(☆☆☆)

当方、巨匠扱いの兄リドリーよりも好きなのは弟のトニー・スコットである。その新作が『クリムゾン・タイド』、『マイ・ボディーガード』、『デジャヴ』に続く、デンゼル・ワシントンとの4度目のタッグになる本作『サブウェイ123 激突 』である。1974年作、ジョセフ・サージェント監督の『サブウェイ・パニック』の現代版リメイクにあたる。脚色を手がけたのは期待を抱かずにはおられない名前であるけれど、ハズレも少なくないブライアン・ヘルゲランド。

すでに様々言われているように、やはり「名作」のリメイクはいろいろな意味でハンディを負っていて、常に比較され、出来損ないの烙印を押される運命にあるのだろう。また、トニー・スコットが近作で好んで用いるカチャカチャした映像スタイルに対する生理的嫌悪感であるとか、拒否反応のようなものも強いのは理解できる。(もちろん、このスタイルを過度に褒めるつもりもないのだが、あまたいるフォロワーに比べれば、トニー・スコットは数倍洗練されていると思う。)しかし、公平に見たときの本作は、できの良いところも悪いところもいろいろあるのだろうけれど、娯楽映画の水準作には仕上がっていると思うのである。

問題は、2つ。ヘルゲランドの脚色とトラボルタ、である。

ヘルゲランドは犯人グループの目的を身代金ではなく、金融市場操作においた。昨今注目を浴びる金融問題を映画の空気に取り込むことを目論んだわけで、これはこれで優れた発想だが、狙いほどにはうまくいっているとは思えないのである。市場を動かすために事件を起こして大儲けをはかるというやりくちは、『カジノロワイヤル』の悪党もやっていたことだが、そこでも首謀者と実行犯は別人であった。市場操作が目的であれば、元々金融マンであった悪役の男が選ぶ手段は「地下鉄ジャック」になるだろうか、また、実行犯としてそこに自らの身を置くだろうか、という点について、説得力が弱いだろう。また、映画だから、といえば流しても良いと思うのだが、いくら土地柄を考えに入れても、「地下鉄ジャック」程度の事件で短期間に市場全体にインパクトを与え、映画の中のような資金のシフトを引き起こすことが出来るとは思えないのも弱いところである。

トラボルタもまた、ヘルゲランドによる「説得力の欠如」を補うだけの演技ができていない。まあ、それはどう考えても難しい仕事だと思うのだが、最近は『ボルト』の声だの、ボディスーツと特殊メイクによる『ヘアスプレー』の母親役だのと、あまり目立った活躍のなかったトラボルタであるが、それゆえなのかどうか、どうにもこうにもハシャぎ過ぎである。これでは「市に恨みを持った冷酷な知能犯」でもなんでもない。支離滅裂で危険な狂人、である。

しかしこれに対するデンゼル・ワシントンは本当に素晴らしい。このところ悪役やグレーな役を積極的に演じ、精錬潔癖な良識あるヒーローというイメージに縛られがちなキャリアの幅を意識的に広げてきているのはご存知のとおり。今回の脚色における一番のひねりであり、一番成功している部分は、デンゼルが演じる収賄を疑われて左遷されている地下鉄職員というキャラクターだと思っている。「真面目に勤め上げてきたよき父でありよき夫」の部分はいつものデンゼルの延長線上だろう。しかし、一件実直な男が、実は影で汚職に手を染めているのか、それとも単なる濡れ衣なのか?という点において最後まで予断を許さない曖昧さを残してみせるさじ加減がすごいではないか。いつもよりだらしなく増量した体もいい具合にリアルである。

トニー・スコットは、悪ふざけが過ぎてバランスが壊れた(が、それゆえの妙な魅力が捨てがたい)『ドミノ』の反省もあってか、今回、実は地味になりがちな題材に、適度に派手なアクションをはさむなどして娯楽大作らしいスケール感を付与しつつ、121分、長すぎない尺のなかで緊迫感の途切れさせないきっちりとした商品に仕上げている。傑作とまで持ち上げるつもりはないのだが、このレベルの良質な娯楽映画がコンスタントに封切られてくれると嬉しい、とは思うものである。

8/22/2009

Taken

96時間 (☆☆☆★)


しばらく見かけないと思っていたら、時ならぬリュック・ベッソン祭りである。本作を含め、リュック・ベッソン(製作・脚本)&ヨーロッパ・コープによる仏製香港映画が短期間に4本集中公開というのだからビックリだ。『トランスポーター3』はイマイチだったが、こっちは滅法面白い。ベッソンもののなかでは、出来のよかったジェット・リー主演作に並ぶ良作ではないだろうか。


話は単純である。未成年の娘が旅行先のフランスで誘拐され、一件して普通の冴えないオヤジに過ぎないが、実は凄腕の元CIAエージェントである父親が96時間以内に娘を連れ戻すため、尋常ではない覚悟で悪者どもを追い詰めていくのである。舞台はパリであるけれども、東欧の貧しい国にルーツをもった地下組織が、若い女性を薬漬けにして売春婦に仕立てるというあたりは、ロンドンを舞台にした『イースタン・プロミス』にも通じるところがあって、あながち絵空事ではないに違いあるまい。故国から女たちを騙してつれてくるよりは、バカでガードの低い未成年旅行者を手っ取り早く誘拐するほうが理にかなっているという説明に、なるほどね、と感心してしまったじゃないか。

原題は『Taken』・・・連れ去られた、ということだ。劇中で、このような犯罪のケースでは通常、96時間以内に被害者を発見できなければ、永久に見つからないという説明がある。邦題『96時間』は、この(ある種の)タイムリミット、運命の分かれ道に由来するものである。

この映画、確かに単純な話ではあるのだけれど、元エージェントという主人公が、わずかな手掛かりから犯人グループに迫っていくあたりの手口を見せるあたりがとても新鮮で、面白い。それより何より、「娘思いの冴えないオヤジが実は凄腕」というキャラクターに、リーアム・ニーソンなどという重量級の役者をキャスティングしたセンスがすばらしい。B級娯楽アクションの荒唐無稽な話のはずが、このキャスティングのおかげでグッと現実寄りに引き寄せられ、なんだか、まともな社会派映画をみているような気分になるのが驚きのマジックだ。リュック・ベッソンらしからず、珍しく脚本の構成や段取りがうまくできているのも成功要因のひとつであろう。冒頭の短い時間で主人公の娘に対する強い気持ちと、実のところは元CIAエージェントであるというキャラクターの説明を、自然な流れのなかできっちり描けているから、あとは娘を救うという大義名分を盾に暴走する主人公に違和感を感じることなく感情移入できるのである。

ピエール・モレルという監督、『トランスポーター』や『ダニー・ザ・ドッグ』といったベッソンもののなかではマトモな作品の撮影を担当し、『アルティメット』で監督デビュー、本作が2作目である。撮影監督らしく無駄がなくタイトであるが、映像的な見せ場はきっちり心得ているし、アクションの撮り方でも変にスタイリッシュぶったりしなでオーソドックスであるところに好感が持てる。この人は、派手な映像やアクションが映画をひっぱるのではなく、キャラクターのエモーションがストーリーをひっぱるのだという、とても単純な真実を分かっているのではないか。そういった意味で、このひと、今後が楽しみな監督だ。

Transporter 3

トランスポーター3 アンリミテッド(☆☆)


リュック・ベッソン(製作・脚本)&ヨーロッパ・コープが次々送り出してきた仏製香港映画とでも呼ぶべき軽量B級映画群のなかで、私が一番面白いと思っているシリーズが『トランスポーター』だ。これも回を重ねて3作目、本作のエンディングから判断するに、これでいったん終止符を打つことになるのだろう。残念ながら、それも致し方あるまい、という出来栄えである。1作目のコーリー・ユン(おお、まさに香港映画人!)がシリーズの基調を作り、後に『インクレディブル・ハルク』で成功を収めるルイ・レテリエが、荒削りながらB級娯楽作らしいダイナミックなアクション演出を披露したところで、今回の監督はオリビエ・メガトンへとバトンタッチ。まあ、そもそも監督云々で見る映画ではないのだが、せっかく肉体を張ったアクションが出来る役者を使いながら、編集でガチャガチャごまかすタイプの演出で、肝となるファイトシーンが台無しである。

しかし、3作目の今回、一番ダメなのは、監督の演出スタイルなんかではない。これまでにもまして知能指数の下がった頭の悪い脚本だろう。リュック・ベッソン製作・脚本の作品群を「仏製香港映画」と呼ぶのは、ジェット・リーと相性がよかったとか、マーシャルアーツを取り入れているとかいうことでなく、「そもそもまともに脚本を用意しているのか?」という侮蔑を、その昔、盗作を恐れてまともな脚本なし量産されていた香港映画になぞらえていっているつもりである。つまり、最初から精緻で観客をうならせるような脚本なぞ、これっぽっちも期待しちゃいないのだが、今回の脚本は、こちらの(存在するとはいえないくらい低い)期待値をさらに余裕で下回ってくれるから恐れ入る。悪役が、自分の目的を達成する上で、こんなまどろっこしい手段をとらなくてはならない理由がさっぱり理解できないのだから、見ていてバカらしくなってくる。

魅力のないヒロインの造詣も、この手の映画においては致命的であると思う。もともとベッソンの好むヒロイン像というのが偏っているというのは過去の作品を一通り見ていればわかることで、一般的な意味合いにおいて「魅力的」なヒロインを期待するのは間違いだとは思っている。しかし、今回、このキャラクターは魅力以前の問題で、みていていらいらするし、腹立たしいばかりである。キャスティングされたナタリア・ルダコヴァの演技(だけでなく容姿)にも問題があると思うが、そもそも脚本が悪いこと、女に興味がないとでもいわんばかりに単調な演出も酷いものだ。このキャラクターに対して、主人公が(最終的には)恋に落ちる理由が全く理解できないのだから、そういう観点からも、作品として破綻しているといわざるを得まい。

Hachiko: A Dog's Story

Hachi 約束の犬(☆☆☆)

神山征一郎監督作品で、わりとヒットした『ハチ公物語』(1987) の米国版リメイクである。ストーリー、エピソードや人物配置は基本的にオリジナルを忠実になぞったもので、主人公が大学教授であるというところまで同じ。米国といってもロードアイランドという土地を舞台に選んだのは、主人公が毎日列車(コミューター・トレイン)で仕事に通う設定で違和感がないことが一番の理由だろう。犬は秋田犬。遠く日本から海を越えてやってきたこの犬は、ご丁寧にも首輪に漢字の「八」の字が書かれていたことから、「ハチ」と呼ばれる。ついでに、映画の最後には、「本当のハチ公は東京・渋谷で主人を待ち続けた犬だ」と紹介が添えられている。それだけなら、まあ、米国を舞台に焼きなおしたが、原典を尊重していますよ、という作り手の誠意のようなものを感じないでもない。

しかし、この映画、どこか座りが悪いのである。それは、「主人公の息子が教室で語って聞かせる、父と愛犬の話」という物語の構造をとっているからだろう。「これは日本で実際にあったお話しにインスパイアされて、米国を舞台に焼きなおしましたよ」と、映画の製作者から観客に説明がある。そういう映画の中で、少年が出てきて、自分の自分の父の話として、過去の出来事として、物語を語る。論理的に矛盾しているとまでいうつもりはないが、なんだか不必要に虚構を2つ重ねているように思えて違和感が残るのだ。

米国人の少年が語って聞かせる話、という構造をとるのであれば、話の内容は「誰からから聞いた日本の話」でも成立するはずである。あるいは、「本当のハチ公は東京・渋谷で主人を待ち続けた犬なんだけど、それを米国を舞台に焼きなおしましたよ」という説明が入るのであれば、少年が父と愛犬の話として物語を語る必然性はなくなる。あるいは、いっそのこと、「みんなの前で話すネタに困った少年が、どこかでみた日本映画のストーリーを自分の父親と愛犬の話として語って聞かせたことがバレて、校長室に呼ばれて叱られる」といったエピローグでもついていたら、よほど座りが良いと思うのだが。そうしたら少年が大きく板書する<HACHIKO>の「KO:公」が、一体全体どこに由来するのかという謎も解けるというものだ。

犬視点での撮影はともかく、犬が死ぬ間際に幸せだった日々を回想するという演出では、いったい涙を流したらよいのやら、吹き出して笑ってしまったらいいものなのやら困るという不思議な気分を味わえるのだが、日本の『ハチ公物語』をそれほど面白いとも思わなかった当方にとって、犬を可愛らしく撮れている点においては米国版のほうが圧倒的に出来が良いと感じた。米国のそれなりに厳しい規制をクリアしながら、犬のしぐさや表情をきっちりフィルムに焼き付けるには忍耐強さも必要だっただろう。アニマル・トレーナーも優秀であるに違いない。まあ、いずれにせよラッセ・ハルストロムなどというビッグ・ネームを担ぎ出してきて作るような映画ではないことだけは確かである。

8/15/2009

Bolt (3D)

ボルト(☆☆☆★)


3D(日本語吹替)での鑑賞。まあ、経験的にも3Dでの字幕は厄介だから、吹替もやむなし、である。個人的にはオリジナルそのままの音声、字幕なしで鑑賞できると良いと思うが、興行としては成立しない。劇場公開という形態を考えたら、観客一人ひとりが好みに合わせて音声や字幕の切替えやON/OFFができるようにすることも不可能。かくして3D映画の興隆でオリジナル音声を聞く機会が確実に減っていくのだとしたら由々しき問題だと思っている。

さて、本作である。ディズニーがPIXARを買収した結果としてジョン・ラセターがディズニーのアニメーション全体の指揮を任されるようになってしばらく経つのだが、本作はその新体制になってから立ち上げられた最初の作品なのだという。新体制の肝は、経営主導による製作ではなく、作家主導による作品作りということに尽きるのだろうし、中身においてはPIXARがそうしてきたような、ストーリー(とキャラクター)に対する徹底的なこだわりの追求、ということになるのだろう。その結果、本作は、これまでの低迷はなんだったのかと思わせる出来栄えで、嬉しくもなるし、恐れ入りもするのである。

飼い主から離れてしまった犬が、大好きな飼い主のところに戻るため、仲間と共に大陸横断の旅をすることになるというシンプルなストーリーを核にした、ファミリー映画の王道をいくドラマである。そこに『トイ・ストーリー』のバズ・ライトイヤーを思わせるような、「フィクションの世界を現実と勘違いさせられている犬」というひねりを加え、笑いを生み出すと同時に、主人公のである犬の内面のドラマを引き出している。過去にトラウマをもつ人間嫌いの猫、TVばかり見ていてこれまた世間知らずのハムスターなど、脇のキャラクターもきっちり作りこまれ、頭の悪い鳩たちで笑いをとる。PIXARの作品がそうであるような、ときに実験的であったり野心的であったり趣味的であったりするような、ある種の「濃さ」には欠けている。が、そのあたりが今後の「DISNEY」と「PIXAR」のブランドのアイデンティティの違いになっていくのかもしれない。

映画の肝となる設定を説明するために設けられた冒頭の劇中劇に感心した。要は、主人公の犬が出演しているTVドラマの撮影シーンなのだが、普通にカットを割って撮影していたりしていようものなら、さすがの役者犬も現実とフィクションを勘違いしたりしない。そこで、「犬の真剣な演技(=本気)を引き出すため」に、ライブ・アクション一発撮りで撮影をしているという、うまいアイディアを持ち出してくるのである。ダイナミックなアクション、手に汗握るスリリングなチェイス、、、と、まあ、実際にこれをこんなやり方で撮影するのはどう考えても無理な話。大嘘を嘘っぱちと思わせないあたりの絶妙のさじ加減。裏方スタッフの働きを挟み込みながら、「これでは犬も自分の超能力を信じるよね」と観客を納得させてくれるし、そもそもアクションが良くできていて、映画の導入、つかみとしては完璧だといってよい。

3D映画という観点からは、この作品が「3D」であることを特別に意識したような演出が目立たないこと、普通に作った映画を自然体で3D化処理しただけのような気負いのなさが印象に残った。3D作品をみるのは久しぶりなのだが、ロバート・ゼメキスの『ポーラー・エクスプレス』3Dや、『ベオウルフ』3Dなどは、3Dを売り物とした過剰な演出が楽しくもあり、鼻につきもしたものだ。自然体とはいっても本作、冒頭のアクションやクライマックスなどの大掛かりなシーンは言うまでもなく、ごくごく普通のシーンにおける奥行きに広がりが感じられ、臨場感や没入感は格段に高まっている。選択肢があるなら3Dで見たいと思わせるだけの有意差はあるのだが、一方で、本作の強み、そして良さというものは、3Dのアトラクション的側面に頼らなくても成立する普遍的な映画としての質の高さでもある。やはり、本当に面白いものはどんなフォーマットであろうとも面白いということか。

8/14/2009

G.I Joe

G.I ジョー(☆★)

いや、見終わった瞬間に、この映画を見たことすら忘れていたというくらい、心にも頭にも何も残らない、ただの暇つぶし映画。駄作とか凡作とか呼ぶほどのものですらない。米国娯楽映画の白痴化を絵に描いたような作品で、ハリウッド映画がつまらなくなったという人が真っ先に槍玉にあげるのに最適の作品である。(そういう意味では存在価値がないわけでもないのか。)

すっかり時代に乗り遅れている当方、「G.I ジョー」と聞けば、リアル志向の米軍兵士アクション・フィギュアだと思っているから、いまや世界の嫌われ者と化した米軍兵士が主人公で映画になるのかね、と思ってみたり、TV版『サンダーバード』がそうだったような人形アニメ、はたまた玩具の兵士人形が活躍するジョー・ダンテの『スモール・ソルジャーズ』(兵士人形が悪役だったけどな)のような映画になるのかしらん、と思ってみたりしていた。(『スモール・ソルジャーズ』はわりと好きだ。)しかし、時代と共にリニューアルを繰り返したハズブロ社の「G.I.ジョー」シリーズは、米国籍を中心とした特殊部隊「チームG.I.ジョー」の面々が特殊装備を駆使し、世界征服をたくらむコブラ団と闘うという非常に退屈な「お子様設定」を与えられ、80年代にアニメ化され、一部で人気をはくしていた模様である。本作、『G.I. ジョー』は、『トランスフォーマー』でうまい汁を吸ったハズブロによる玩具のバックストーリーものアニメの映画化第2弾なのである。

これを任せられたのは、『グリード』で名を上げ、『ハムナプトラ』こと The Mummy 正・続で知られるスティーブン・ソマーズである。派手で荒削りとはいえB級題材をサービス精神旺盛に楽しませる作風は相変わらず。だが、土台が底の浅いお子様アニメであることもあって、大人の観客が本気で面白がれるような内容にはなっていない。悪の秘密結社と戦うヒーロー・チームというセットアップは現代的なビジュアルに反して案外クラシックで、このあたりはソマーズの資質に合うところだとは思うのだが、派手で刺激的なアクションで全編を埋め尽くそうとする意欲とエネルギーはともかく、緩急なしにただただアクション・シーンを羅列した構成には辟易とさせられる。こういった類の刺激というものは、メリハリをつけて緩急をつけるからこそジェットコースター的な面白さにつながるものだ。いくら派手にドンパチやってみせようが感覚が麻痺した観客はスリルも刺激も何にも感じない。悪い意味でのパーフェクト・ポップコーン・ムーヴィーである。

玩具展開上欠かせないマンガチックな秘密兵器や装備が物語の足を引っ張っていて面白くない。こういう類のものは却って、最強チームが最強たる強さや凄さ、格好良さを伝える上での阻害要因になるものだ。せめてガジェットとしてのデザインや機能に新鮮味があれば楽しめるのだが、独創性が皆無でがっかりさせられる。ほとんど描写時間がないわりには主要キャラクターを描き分ける努力をしているのは事実であるが、いかんせん、多人数、非固定式のチーム編成で、大多数はチーム内での役割分担や得意技もよくわからないまま終わってしまう。なかでも一番影が薄いのが主人公(らしき人物)だというのが、本作の退屈さを象徴している。特殊装備なしに闘っているように見える、(特殊装備をつけた人間より速く、強い)黒忍者(レイ・パーク)と白忍者(イ・ビョンホン)の対決だけは、キャラクターの特徴も分かりやすく、そこそこ面白く見ていることができた。

8/08/2009

He is Just not That into You

そんな彼なら捨てちゃえば?(☆☆★)


『そんな彼なら捨てちゃえば?』・・・・まあ、女性向き映画として売るための邦題だ。ここから喚起されるのは、「主体的で強い現代女性が、つまらない男を捨て、恋愛を積極的に楽しむ(明るい)コメディ」を想起させられるけれど、実際のところは、すれ違ってばかりのビター・スウィートな男女関係を描く群像劇なので要注意。

原題は「彼、それほどあなたに入れ込んじゃいないわよ」といったところだ。原作というのだろうか、ネタもととなっているのはSex & the City の脚本家による)同タイトルの恋愛指南書で、これを材料に使って物語仕立てにしたのが本作というわけである。ちなみに、訳書の邦題が『そんな彼なら捨てちゃえば?』で、映画はこちらをいただいてきたようだ。まあ、本作の登場人物が語る恋愛における駆け引きのあれこれが、「原作」由来のネタということになるだろう。物語としては、そうした駆け引きだったり、それに端を発する気持ちのすれ違いだったり、引き起こされる悲喜劇だったりを、複数のカップルの関係性のなかで具現化していくかたちで描かれている。この脚本を書いたのは、『25年目のキス (Never been Kissed)』を書いたコンビ、アビー・コーンとマーク・シルバーステインだ。実はこれ、ちょい役で出演のあるドリューが主催するフラワー・フィルムズの作品なのだ。自身のヒット作であり、佳作を書いたコンビを起用しての映画化、というわけだ。

出演者が多彩である。なにしろ、スカーレット・ヨハンソン、ジェニファー・アニストン、ジェニファー・コネリー、そしてもちろん、ドリュー・バリモアと、特に女優は新旧華のあるところをずらっと揃えている。しかし、作品の柱になっているのは、恋愛下手で損ばかりしている女の子を演じるジニファー・グッドウィンと、彼女の相談に乗って友人付き合いしているうちに情が生まれてしまう青年を演じるジャスティン・ロングだ。この二人、役者としても、役柄としても、映画の主役というよりは、コメディ・リリーフ的な脇役タイプであるところが面白い。そして、映画の一番いいところをさらっていくのが、意表をついてベン・アフレッだ。

"How to" ものというのか、英語でいうところの "Self-Help book" が土台というなら、もっとポップで楽しく、虚実はともかく薀蓄いっぱいの映画に仕立てることもできたであろうし、おそらく、普通はそれを考えるものだと思う。この映画のセンスがよいところは、敢えてそうしなかったところ、コメディ仕立てを装いながら繊細なドラマを狙ってきたところであると思うし、それ自体は評価したいと思っている。ただ、逆に、そういう難しいところを狙ったがゆえにハードルが高くなり、脚本にしろ、演出にしろ、どこか力が及んでいないように思われるのである。少なくとも、軽いコメディを期待した観客をいい意味で裏切り、満足させるだけのパンチはここにない。監督はTVドラマを中心に活躍しているケン・クワピス(私にとっては悲惨な出来栄えだったシンディ・ローパー主演『バイブス/秘宝の謎』の監督、のイメージが未だに離れないんだが)。

7/25/2009

Mt. Tsurugidake

剣岳 点の記(☆☆☆)

まあ、千人並みの意見になってしまうのを承知の上で言う。もちろん地図を作るために前人未到の山に登った先人たちのドラマには心打たれるものがあるし、いい台詞、考えさせられる台詞もたくさんある。自然と人間の対比も、結果として際立っている。しかしメリハリがない脚本も立っているだけで精一杯といった風情の演技も、要領の悪い演出も、どれをとっても一流とは云いかねるのは紛れもない事実。が、それでもなお2時間超、画面を凝視させるだけのわけの分からない力が漲っている。恐るべき一本、本年必見の一本だ。

いやはや、本当に恐ろしいことに、フィルムには作り手の執念とでもいうものが写るのである。この映画を見て、それを思い知らされない人はいないだろう。この映画の舞台裏を知ろうと知るまいと、よほどの鈍感な観客でない限りは、これがただならぬ映画であることに気づくはずだ。なぜなら、ここにはそれだけの凄みがあるからだ。映画で描かれている通りに登るだけでも並大抵ではない山に、当時の測量隊が持ち運んだ装備や資材と共に撮影機材を担いで登り、場面にふさわしい天候を待ち、演技をさせ、撮影する。他の場所では撮らない。本物だけを撮る。そんな無茶苦茶な映画作りをしようとする木村大作と「仲間たち」の覚悟と志がこの映画を特別なものにしている。他の山やセットで足りない場面を追加撮影しようとすらしない愚直な潔さ。それが全て、画面に映っているのである。映画の中で語られる測量隊の面々の苦労は、この映画を作った狂気の人々の苦労である。それを二重写しにするなというほうが無理な話だ、こうなると、劇映画というよりは「劇映画の体裁を借りた壮大なドキュメンタリー」なのではないか。

そう、これは普通の意味でいうところの「映画」ではないのかもしれない。ただ、そんな奇形の作品でありながら、いや、それだからこそ、他にはない「映画的興奮」を感じさせられるのもまた確かである。それは、昨今の見せ掛けだけは派手なイベント映画であったり、化学調味料とステロイドをぶちまけて感動を強要する映画だったり、放送電波をジャックして大宣伝を繰り広げたりしている大ヒット作とかいう代物には決定的に欠けている要素である。

名だたるベテラン俳優たちが、どこか演技どころではない風情で雪中にたたずむ姿や、普通ならどこかで別取りして編集する「撮れなかったが必要なはずのシーン」がそのまま欠如しているところなど、まあ、普通は見ることのない脱力するような欠陥に溢れた作品ではある。しかし、どれほど欠陥だらけの作品であっても、なお、面白い。これはきっと、一人の映画好きとしては評価ではなく、尊敬をすべき仕事なのだろう。完成度でいえば凡作かもしれないが、唯一無二の作品であることは私なんぞがどうこう口を挟む余地はない。

7/20/2009

Harry Potter and the Half Blood Prince

ハリー・ポッターと謎のプリンス(☆☆)

昨年は『ダークナイト』の超特大ヒットで十分に潤ったワーナーブラザーズが、脚本家ストの影響で弱くなった翌夏のラインナップを補強したいという身勝手なビジネス上の理由のみで公開を先送りにされ、ファンをイライラさせたシリーズ最新作である。

考えてみれば、これは原作が完結したあと最初にリリースされた映画版、ということになる。もちろん、製作準備はは完結巻の発売前から始まっているとはいえ、原作者とのやり取りなどを通じ、最終巻の展開を踏まえた脚色が可能だった最初の作品、ということになる。また、前作からシリーズの舵取りを託されたデイヴィッド・イェーツ監督は、完結巻2部作も引き続き手掛けることが確定しており、その意味においても続く2本の作品を見据えた構成を念頭に置いたことであろう。

普通なら、そういう要素は作品に対してプラスに作用しそうなものだと思う。だいたい、これまでの作品はどこを刈り込んだら良いのか判断が難しく、メリハリの乏しい総花的な動く挿絵集(1, 2) になるか、細部の豊かさや楽しいところを全部刈り込んでしまいその巻のメインプロットをこなすだけのやせ細った凡作(3, 5)になるかのどちらかになっていたし、逆に言えば、観客としてもそれ以上のものを要求しようとは思いもしなかったところがある。ある意味で、今回はそれを脱却する上でまたとない、恵まれた状況にあるはずなのである。しかし、その結果は、残念ながらマイナスに働いている、としか思えない。

本作を1本の作品としてある程度の独立性を重んじるのであれば、本来、タイトルにもなっている「謎のプリンス」にまつわるプロットを中心に置くべきであろうが、この作り手はそれを本筋とは離れた「脇道」と考えたのか、その扱いが非常に軽いものにした。当然というべきか、必然というべきか、1本の作品としての軸を失った本作は、本当のクライマックスを前にして今しか挿入のタイミングがないに違いない「能天気な学園恋愛コメディ」と、最終2部作への伏線でしかない不穏でダークな前振りが分裂症気味に同居するまとまりのない作品になってしまっている。もともと派手な見せ場を欠くのがこの巻の特徴ではあるが、やり方次第でクライマックスはもっと派手に盛り上げられたはず。しかし、最終2部作との住み分けを踏まえてのことか、スケール感に乏しい地味な展開に終始するばかりだからフラストレーションが溜まる。まあ、想像した範疇とはいえると思うのだが、本作は結局のところ、地味な中継ぎというのか、次回作に向けた壮大な予告編という存在から一歩たりとも逸脱しようとしないのである。これでは、さすがに退屈だ。

主演の少年・少女俳優たちは立派な若者へと成長し、最終2部作への準備も整ったな、と思わせるものがある。華やかな英国名優辞典と化したシリーズではあるが、今回はジム・ブロードベントが加わって怪演を披露、確かに、毎度毎度のゲスト・キャラクターの存在は、シリーズに新鮮味をもたらす効果があることを再確認できた。一方、少年・少女の成長に合わせて(当たり前のことであるが)レギュラー陣の疲れと老化が目立ってきており、まあ、無理のないいい具合のところで完結を迎えることができるかどうか、あと少し、キャストの無事と健康を祈りたい。

7/13/2009

Knowing

ノウイング(☆☆☆★)


世間的には『アイ、ロボット』の、となるのかもしれないが、私にとっては『クロウ 飛翔伝説』、『ダークシティ』で並々ならぬ映像感覚を披露してくれたアレックス・プロヤスの新作、それが本作である。物語の構造的には、もしかしたらMナイト・シャマランの作品などにも通じるところがあるのだが、そこは監督の資質の違いというべきか、ハッタリで押し切るのではなく、びっくりするようなスペクタクルを織り込んでバランスの良い娯楽映画となっている。

一見してよくある「ディザスター・ムーヴィー」の顔をしている本作ではあるが、これは世界規模の様々な災厄、地球滅亡の危機に、どう人類の英知をもって挑むのか、生き残りをかけて人々がどう行動するのかを描いた作品というわけではない。この世の中に人知を超えた存在があるということを前提(We are Not Alone)として、聖書が「黙示録」で予言するところの世界の終末が実際に訪れるとしたら、こういうことなんだよ?と描いてみせるのがこの作品なのである。

しかし、それを以ってこの作品を宗教的な映画だと決め付けるの早計であると思うのである。実は、この映画の本当の面白さは、宗教的モチーフで作品を埋め尽くしながら、総体としては全く宗教的でない、その不可思議さにあると思うのである。例えばシャマランの『サイン』という作品は、宇宙人襲来などという大仰な仕掛けを取り払ってしまえば、信仰を失った宗教者が全ての物事は偶然ではなく必然であると悟りを開き、再び信仰を取り戻すという物語であった。その主人公を演じるのがキリストの殉教を映画にしたメル・ギブソンであることも含めて、極めてキリスト教的、宗教的な映画だといえる。それに比べて、本作はどうか。「信仰」というものと、「救済」のあいだに全く関連性がない。宇宙人の声を聞くことができる「ニュータイプ」だけが救済の対象だ。主人公の父として宗教者は登場する。が、その父や、父と和解した息子が救済されるという話でもない。善とか悪とかの話ではなく、地球規模の災害は科学的に説明しうる自然現象として描かれる。実態として、キリスト教的な(キリスト教徒には理解しやすい)モチーフを散りばめた作品ではあるが、信仰という地平からは大きく離れたところで作られているのが本作だといえるだろう。あまつさえ、異端信仰(ペイガニズム)を描いたカルト映画のリメイクに主演しちゃうような感性を持つニコラス・ケイジが主演しているあたりからして、本作をキリスト教的プロパガンダと見るには無理がある。むしろ、キリスト教的信仰に対するシニカルで意地の悪い視点を持った作品であるとすら言えるだろう。

いまや「すごい映像」では誰も驚かなくなってしまった時代に、アレックス・プロヤスの特異な映像センスは「表現」のレベルで作品の随所に現れていて、月並みと言わせぬだけの力がある。よくあるCGI映像のように見えて、どれとも似ていないシーンで楽しませてくれるところがよいのである。ニコラス・ケイジが飛行機事故現場に遭遇する一連のシークエンスなどはその代表であろう。グチャグチャに壊れた飛行機の機体のなかから、乗客らが姿を現しては行き倒れになるあたりの生々しさ、なす術のなさからくる絶望感。このあたり、これまでにみたことのないレベルの表現として見事であった。そういう意味でいえば、映画のクライマックスとなるシーンが『未知との遭遇』の域を超えていないことや、人類の新天地として描かれる星の風景に新味がないところは陳腐であるとも思うのだが、逆に言えば、そこは誰がやっても同じになってしまうほど、先人の表現が完成されていたか、あるいは人間の想像力の限界か、といったところなのであろう。

7/04/2009

The Reader

愛を読むひと(★)


テープの声を聞き、単語の数をカウントし、本に書かれた文章と照らし合わせ、The という単語に印をつける・・・・この文字が「THE」なんだ!・・・って、おいこら、ちょっとまて。ドイツ語の定冠詞は"The" じゃないだろ。

私はSFものが好きだから、遥か昔、銀河の彼方の人々がまるで英語で会話をしているかのように聞こえることに慣れている(が、宇宙船の操作パネルに英語が書いてあるのはどうかと思う)し、24世紀になればユニバーサル・トランスレーターによって互いの言語を意識しなくてもコミュニケーションがとれるようになることを知っている。だから、例えば芸者さんの映画でみんなが英語で話をしていたり、トム・クルーズのいくところ、日本だろうとドイツだろうと、みんな英語で会話が通じたりすることについてはかなり寛容である。それらは、「日本語吹替版」という文化が存在するのと同じように、観客に向け、便宜的に「英語」に吹きかえられている、あるいは、英語で話しているように聞こえるのだと「理解」をしているからである。むかし、『レッドオクトーバーを追え!』を見たとき、始めはロシア語で会話をしていたソビエトの軍人たちが、ある人物の口元をアップで捉えたカットを境に互いに英語で話し始める、という演出がなされていたことに感心した。「本当はロシア語で話しているんだけど、ここからは便宜上、英語に切り替えますよ」という目配せを「口元のアップ」のカットひとつでやってのけたのだ。最近では、『ワルキューレ』の冒頭。ドイツ人主人公によるドイツ語のモノローグに、いつしか(同じ声による)英語のモノローグが重なっていく、という演出があった。「本当はドイツ語なんだけど、この映画、便宜上、英語で進めさせてもらいますよ」という前置きである。

さて、前置きがいささか長くなってしまったが、本作においては、まさにその「言語」こそが問題なのである。

「朗読者」というタイトルで翻訳もされたこの映画の原作は、ドイツ人がドイツ語で書いたものであり、ドイツの歴史に材をとり、ドイツを舞台にした大ベストセラー小説である。しかしながら、この映画はワインスタイン・カンパニーが製作する米国映画だ。そして監督のスティーヴン・ダルドリー、脚本のデイヴィッド・エア、演技賞を獲った主演女優ケイト・ウィンスレット、みなそれぞれ尊敬に値する仕事をしてきた一流の映画人であるが、みな英国人である。なぜドイツの映画界は自分でこれを映画化できなかったのかなぁ、といってみても仕方がない。世界を相手に商売をするうえで、あるいは、十分な制作費を調達する上で、こうでなければならない事情もあったのだろう。また、先に述べたように、日本の芸者を中国人俳優が英語で演じていることにすら「寛容」な観客である私は、そうした製作体制の結果として、この映画が「英語」映画になっていること自体に異議を申し立てるつもりもない。

しかし、ここにはもうひとつ微妙な問題が絡んでくるのである。この作品は、ドイツにおける戦争犯罪にまつわる表面的なストーリーラインの裏で、いわゆるリテラシーの問題、「読むということ、聴くということ、書くということ」の意味が重要な主題として扱われているのである。しかるに、たとえ英語映画として作られたとしても、「本当はドイツ語を読み、聴き、書いているのだけれど、便宜上英語でやらせてもらっていますよ」というエクスキューズの必要性と重要性は、かつてなく高いのである。たとえ登場人物が英語で会話を交わそうとも、テープに録音された朗読が英語であろうとも、「本」に印刷された言語は、街の看板と同じく「ドイツ語」でなければなるまい。そうでなければ、「ドイツ語の読み書きはできるんだけど、英語の読み書きができなかった人の話」になってしまったり、戦時下のドイツでは公的な文書は英語で書かれていたことになってしまう。

その意味で、これを英語映画として作ることは初めからハードルが高かったのである。しかし、「便宜上」とはいえ英語映画であることを選んだ以上、作り手はその難題を解決する表現方法を真剣に考えるべき義務を負ったのだ。それなのに、作り手は、その困難に立ち向かうことを選ぶのではなく、安易な道に逃げた。これが一流の人間がやる仕事とは思われない。本作が、結果として作品の核心に触れるテーマを軽んじたことについて、強く否定し、軽蔑し、非難する意思を示すために、本論評においては最低評価となる「★」とする。

そのことを除くと、映画は真面目に、丁寧に作られていて、ケイト・ウィンスレットも熱演である。疑問に思う編集もあるが、概ね上質な映画であることに異議を挟むつもりはない。まあ、「☆☆☆」といったところが妥当か。

6/27/2009

Vicky Cristina Barcelona

それでも恋するバルセロナ(☆☆☆)

原題、Vicky Cristina Barcelona はシンプルだが韻を踏んでいてリズムも良いし、なかなか軽妙だ。だいたい、そっけなさも含めて映画の体を良く表していると思う。ウディ・アレンの新作は、「自分の望むものは何か分かっている(と思っている)女性=Vicky(レベッカ・ホール)」と、「自分が望まないことは何か分かっている(はずの)女性=Cristina(スカーレット・ヨハンソン)」が、バルセロナで出合ったアーティスト(ハビエル・バルデム)とそのエキセントリックな元妻(ペネロペ・クルス)に翻弄されるさまを、丁度、無責任なアメリカ人観光客の浮かれ気分そのまま軽快に、しかし、成就しない恋愛が最もロマンティック、という台詞に秘められた皮肉でしっかりと味付けしながら語ってみせる小話の類である。映画を見て、「何がいいたかったのか分からない!」などと怒り出すような無粋な観客には決してお勧めしないが、変幻自在、熟練の話術、話芸そのものを楽しむ心の余裕があるひとなら大いに楽しめること請け合いである。

この映画を見終えて、自分の友人にでも登場人物の相関関係や物語の展開を簡潔に分かりやすく整理して口頭で説明できるか試してみるといい。それほど難しい内容の作品でもないのに、これが意外に難しいものだと気づくに違いない。突拍子もなく唖然とする展開や人物関係がなかなか複雑で、聞き手が混乱する確率がかなり高いはずだ。この映画を見ていて何に感心するかといえば、観客を決して混乱させたりしない的確で、かつ、恐ろしく効率的な語り口なのである。脚本としてはかなり無茶な構成なのに、終わってみるとなんとなくそれで座りが良かったりする。いまや、こんな作品をさらっと撮ってしまうのはウディ・アレンくらいしかいないのではないか。もうひとつ、柔らかな陽光輝くバルセロナを舞台に、観光名所をたっぷりと盛り込みながら、しかし、舞台や背景に負けた凡百の(恥ずかしい)観光地映画にはなっていないバランス感覚の良さもまた、特筆すべきであろう。

事前の評判どおり、途中でいきなり登場して物語をかき回すペネロペ・クルスが最高である。おかっぱ頭の殺し屋から一転、セクシーな画家を演じるハビエル・バルデムとの息もぴったりで、スペイン語で壮絶な悪態をつきまくる彼女をバルデムが「みんながいる前では英語で話せ」といなす漫才調のシーンの反復は可笑しくてしかたがないし、とてつもなく気分屋の変人キャラクターで、怒ると何をするか分からない凶暴な女性なのに、なんともいえないキュートな魅力に溢れている。ハリウッドで出演した英語映画では「訛りのある英語をしゃべるかわいこちゃん」以上の役柄に恵まれなかった彼女だが、それがいかに才能の無駄使いだったことか。演技者としての評価が一段と高まったいま、本作のようなお気楽なロマンティック・コメディの脇役で物語を軽くさらっていってしまうあたり、そういう役柄選びが嬉しいではないか。その分、本作で一番割りを喰ったのはスカーレット・ヨハンソンだろう。ペネロペ・クルスと同じフレームに収まると、もう、どうしようもないくらいの格の違いが露になってしまい、(それが演技であるという前に)単なる世間知らずの小娘にしか見えないところは、さすがにちょっと可哀想だ。一方、本作の真の主人公とでも言うべきレベッカ・ホールは地味ながら好演である。結婚を控えた揺れる気持ち、などという使い古しの設定なのに、しっかりと現実味を与えていて言動に嘘臭さを感じさせないところがつくづく巧いなぁ、と思う。巧みな話術も巧みな役者がいてこそ成立するものなのだね。

Evangellion 2.0 You Can (Not) Advance

エヴァンゲリヲン新劇場版:破(☆☆☆☆)

初日の劇場を包み込む観客の熱気、満席の場内で期せずして巻き起こる拍手。昔、といっても、たかだか15年や20年前までは、ヒット作や人気シリーズ作品の先行深夜上映や初日で良く見られた光景なのだが、久し振りにそんな現場に遭遇すると何か、大きなイベントに参加したかのような不思議な充実感に満たされる。前作は公開規模を考えたら存外のヒットであったし、つい先日発売された Blu-ray 版がBDとしては最速のスピードで売上記録を樹立。昨年中の公開が予定されながら今日まで待たされた第2弾。観客はこの1作を心から待っていたし、作り手はその大きすぎる期待に応えてみせた、そういうことだと思う。

作り手が「繰り返しの物語である」と表現していただけに、前作『序』では基本的にオリジナルをなぞるように物語が展開されたが、本作は冒頭、最初のカットから新キャラクターを投入し、基本的な要素はオリジナルに材を求めながらもキャラクターの性格付けや行動、成長、そして物語の展開そのものを大きく変化させている。成長しない引きこもり気質の少年を主人公にした特異な物語は、 12年のときを経て、自らの意思で困難に立ち向かっていこうとする成長する少年を主人公にした王道のエンターテインメント・アニメーション作品へと大きく変貌しようとしている。これは同じ素材から生み出されるもうひとつの可能性を贅を尽くして描くものなのであろう。もしかしたら、本来、オリジナルのシリーズがあるべきだった姿(なのであるが、さまざまな状況により実現し得なかった姿)へと回帰するものなのであろう。オリジナルは特異な作品であったからこそ多くの人の心に突き刺ささる現象となったというのに、敢えて王道路線で正面から勝負をしようとしている、それが前作よりもはっきりと見えてくるのが近作である。

前作にもましてパワーアップした「使徒」が次々と来襲し、壮絶で凄惨なバトルが繰り広げられるなか、どこか総集編的な成り立ちを引きずって忙しなかった前作とはことなり、主要な登場人物間でのドラマがセットアップされ、練り上げられ、クライマックスに向けて手順を踏んでうねりながら醸成されていくあたりが、本作を1本の映画として見応えのあるものにしている。前作から引き続いて主人公たちを取り巻くその他大勢の人々の存在や、都市生活者の日常生活を描写したカットが反復して挟み込まれていて、物語として内側に閉じるのではなく、外の世界への広がりを印象付けようとしているかのようである。アニメーション表現は緻密かつ大胆、劇場の大スクリーンに負けない圧倒的なクオリティで素晴らしいが、アニメ特有のサービスカットやお色気描写には、ジャンル的な「お約束」とは理解したうえで、それでもある種の違和感を感じないでもない。まあ、児童ポルノ規制に関連して正論の裏側でとんでもない暴挙が行われようとしている今のご時勢に対する挑戦とでも理解しておこうか。

オリジナルからこれだけ逸脱し、性格をことにして展開させながら、しかし、完全に別のものになってしまったと観客を失望させるのではなく、むしろ観客を熱狂させられる作品を仕上げてくるところには何よりも感服させられた。「エヴァンゲリオン」と「ヱヴァンゲリヲン」のあいだに横たわった差異がこれほどまでに大きく広がっているのに、それでも違うものをみたという違和感が残らないのは何故なのか。結局、この新劇場版シリーズは、かつてファンが心の奥底で強く願ったが決して目にする機会のなかった作品の姿に近いから、なのではないだろうか。クライマックスでの主人公が選択する行動と絶叫に心を揺さぶられ、作品終了と同時に観客を拍手に駆り立てた「熱」は、単に作品の力によるものを超越している。初めて充足される願望、そう、こんなものがみたかったのだという願望がまさかと思っていた瞬間に充足される、そのことに起因するのである。さて、再構築と銘打って始まった新劇場版が、オリジナルをどう包括、総括してどこに向かうのか。次回作「Q」(←爆笑)を大いなる期待を持って待ちたい。

6/19/2009

Transformers: Revenge of the Fallen

トランスフォーマー リベンジ(☆☆)


本作の試写を見た製作総指揮に名前を連ねるスピルバーグが、もしかしたらマイケル・ベイの作品の中で一番いいじゃないか、と述べたという。しかし「マイケル・ベイ」のフィルモグラフィに並んだゴミ屑のような作品の中で最高、っていうのは褒め言葉になっているのだろうか、と心配になってしまったりもするのである。

さて、前作の(予期せぬ)特大ヒットを受けて製作された本作は、続編の作り方としては呆れるくらい古典的なアプローチに則っている。"Bigger and Louder"、つまり、スケールはとにかく大きく、物量は大量に投入して、爆発もアクションもお笑いもお色気も、とにかくたっぷりと大増量、というやりくちである。ある種の局地戦といえた前作の部隊を全世界規模に拡大し、世界各地で大バトルが繰り広げられる。機械生命体同士の戦いは人類の存亡をかけた戦いへと変貌し、新旧大量のトランスフォーマーだけでなく実在する兵器も惜しみなく投下し、挙句の果てにはピラミッドまでぶち壊す。唐突な漫才があるかと思えば、無駄なお色気シーンや下ネタも特盛状態の2時間半だ。こうしたアプローチの「続編」では仕掛けの大きさに反比例して中身がどんどん薄くなるのが通例だが、もともと前作も「中身」で評価されるような作品でないから心配は無用だろう。とはいえ、スケール拡大に伴い、オートボットと共闘する「米軍」が、地球防衛隊よろしく世界中に出張して、勝手に戦闘と破壊を繰り広げるという政治的にどうかと思われる能天気な描写や、軍人が常に正しくシヴィリアンは無能だというある種の作品では良く見られる類型的な描きかたがなされていることの背景にある「思想」については、お気楽な娯楽映画であるといってもいかがなものか、と思うものである。

マイケル・ベイという監督は、何をどうやっても揶揄の対象にしたくなるような作品しか作ってくれない人なのだが、映画らしいスケールとハッタリの効いた「画」を撮れるセンスを持っていることだけは確かである。例えば先日鑑賞した『スター・トレック』の J.J.エイブラムズの画面作りが徹頭徹尾テレビ・サイズでみみっちいことに比べると、大きな有意差が認められることだろう。作品として優れているか、面白いかということとは別に、わざわざ映画館に足を運ぶことで、それなりの爽快感というか、満足感のようなものは感じることができるのがこのひとの強みだということを、今回、改めて再確認できた。

ただ、このひとに決定的に欠けているのが、「画」を組み立ててつなぎ、ストーリーを語る技術なのである。少なくとも、簡潔に効率よく物語を語る技術については決定的に欠落している。「トランスフォーマー好き」であれば違った楽しみ方もあるとは思うが、そうではない単なる映画好きの立場から言うならば、前作も、本作も、90分から100分程度にまとめることができていたらかなり面白い作品になっていたんじゃないかと思う。しかし、いつもながら、たいした内容でもないのに2時間半近い尺でダラダラやるのがこの人の流儀であり、限界なのである。画面では派手に、常に何かが行われているのだが、見方を変えれば緊張感もなく、退屈で、弛緩しきった時間が流れているだけ。いくら物量を投入して派手に爆発させようとも、欠伸の一つや二つもでてしまう。

毎度のことだが、本筋と関係ないようなシーンをたくさん挟み込んで、それをストーリーの「緩急」と勘違いしているのにも閉口させられるし、ある一連のシーンで語られるべきストーリーの本質を分かっていない演出と編集で、無駄な描写にダラダラと尺を使うのも勘弁して欲しいところである。本作でいえば、ストーリーから乖離した「笑えないお笑い」や「サービスたっぷりのお色気」が、唐突に、しかも反復されて挟み込まれるときのギクシャク感。クライマックスとなる砂漠での戦闘シーンとて、シャイア・ラブーフ演ずる主人公が危険を省みずに戦場を突っ切り、味方部隊の背後に安置されたオプティマス・プライムの亡骸を目指すという核となるストーリーを掴んでいたら、あんなにダラダラしたものになるはずがない。人物や部隊、戦闘の位置関係や全体状況を「画」で見せて簡潔に説明することすらできないのは、この男がストーリーテラーとして3流であることの証でしかない。結局、本作をみるということは、そういう分かりきった事実を再確認するだけのことである。

6/13/2009

The Wrestler

レスラー(☆☆☆☆)


本作の主人公は、ローカルな会場での巡業で食いつなぐ80年代に栄光を極めた初老のプロレスラー、ランディ" the RAM" ロビンソンである。トレイラー・パークに一人暮らし、家賃の支払にもこと欠くなか、平日はスーパーで働き、週末には満身創痍の体に鞭を打つように巡業に出かける生活である。もちろん愛車は(自らのリング・ネームにかけて)クライスラーの「Dodge Ram」だ。家賃未払いで締め出されたときは車の中で一夜を明かす。ある日の試合後、控え室で心筋梗塞を起こした男は、心臓のバイパス手術を受けて一命を取り留める。いつ復帰できるかと尋ねる男に、医師は引退を勧告するのだった。いったんは普通の生活をしようと試みるが、元来プロレス以外の世界を知らない不器用な男だ。結局最後は自らの命も顧みず、そこで死ぬのが本望とばかりに観客の歓声響くマットの上に戻っていく、そういうという話である。筋立てだけをなぞるなら、やくざ映画などで何度も繰り返されてきた定番中の定番だといえるだろう。そんな話が、(WWEのような上場企業が主催するド派手なイベントとは天と地ほどに異なる)うらびれた地方巡業のプロレスを舞台にして語られていく。

プロレスは「ショウ」だ。中でも米国のそれは過剰なほどに肉体を酷使する「ショウ・ビジネス」である。そこにはキャラクターがいて、筋書きがあり、演出がある。だからといってそれを演じてみせるレスラーたちの肉体的過酷さが和らぐというものでもない。むしろ、観客を熱狂させるためなら何でもありの世界だからこその、目を背けたくなるような厳しさがそこにある。本作のみどころのひとつは、そんなプロレスの舞台裏を飾ることなく切り取って見せるところにある。この映画には、主人公と同じような境遇の、傷だらけ、薬漬けの男たちが登場する。いつか成功を掴むことを夢見た若者たちも登場する。いかにショウを盛り上げ、観客を熱狂させるか試合の流れやキメ技を打ち合わせ、凶器に使う小道具を探しにハードウェア・ストアに足を運び、リングの上では建築用の大型ホチキスを体に打ち付けたり、仕込んでおいた剃刀の刃で流血を演出したりする。痛々しくもあるが、あまりに真剣であるがゆえのそこはかとない可笑しさに片目を塞ぎつつも笑ってしまう、そんな不思議にユルい世界がつづられていく。そんな世界と、そこに生きている人間の姿が誇張なしに描かれていく。

そう、これはフィクションだし、そこにいるのは役者であるし、どのシーンをひとつとっても狙い通りに撮るための「演出」が介在しているのは分かっているつもりである。しかし、この映画を見ていると、実在する人間たちの現実の姿を、(演出などというものを抜きにして)ただそのままカメラで切り取ってみせているのではないかという錯覚を覚えてしまう。これはいわゆるニセ・ドキュメントである「モキュメンタリー」スタイルの作品ではない。それに、手持ちカメラで撮影対象に後ろから迫っていくような特徴的なスタイルが印象的だからといって「ドキュメンタリー・タッチ」などという安易な言葉で括ってしまうことには激しく抵抗を覚える。しかし、かつて、『Requiem for a Dream』の超絶的なモンタージュに代表されるような、突き抜けて技巧的な作品作りで名声を得たダーレン・アロノフスキー監督が、かくも斯様なスタイルで作品を完成させたという事実に驚きを禁じえない。技巧や小細工を配してキャラクターの内面に深く入り込んでいく静かな気迫。例えるなら、サム・ライミが得意な大技・小技を抑制して『シンプル・プラン』を撮ってみせたときの驚きと同様の衝撃である。この人が、こんな成熟した映画を撮れるとは創造だにしなかった。

もちろん、本作を忘れ得ない作品にしているのは世界中で賞賛を集めたミッキー・ロークであることに異論はない。90年台以降も、コッポラ、スタローン、ロドリゲス、トニー・スコットらが脇役や悪役として彼を起用した作品を見てきたし、それらの作品での曲者ぶりや独特の存在感を知っているつもりであるから、今更「カムバック」だなどというつもりはない。が、久々の主演作であるのは間違いない。それに、スタジオから違う役者の起用を強く要求されながらもロークのキャスティングにこだわりぬいて見せた監督を意気に感じたのもそうだろう。体重を大幅に増やし、正にロートルのプロレスラーといった肉体を作り上げ、その圧倒的な身体性をもって「ランディ"The RAM" ロビンソン」というキャラクターを作り上げたロークの入魂の演技は、もはや演技を超えたところで神々しく輝いているかのようである。80年代に絶頂を極めた男がその後に辿った挫折と艱難辛苦は、この役柄の中に確かに結実している。演出のタッチと相まって、現実と虚構の壁が取り払われた魔法のような時間を、我々観客はスクリーンのこちら側で共有することができるのである。この「経験」を幸福といわずしてなんといおうか。

陰鬱であるがユニークなユーモアのセンスをもった映画のなかで、印象に残る美しいシーンが2つある。ひとつは、主人公と疎遠になっていた娘とが海岸沿いのボードウォークを歩くシーンである。もうひとつは、主人公とストリップ・ダンサーが心の距離を縮め、昼間のバーで過ごすひとときだ。いずれも映画の中盤に用意された、主人公の人生にかすかな希望を感じさせるシーンだが、いずれも束の間の喜びに終わるこことが運命付けられたかのような悲しみにも満ちている。それぞれのシーンで、主人公に寄り添うのがエヴァン・レイチェル・ウッドとマリサ・トメイだ。ミッキー・ロークへの賞賛の影で忘れてはならないのは、脇をしっかりと固めた助演女優たちである。

父親に対する愛憎に切り裂かれた心の痛みを好演しているエヴァン・レイチェル・ウッドが昨今の成長株であることはご存知の通りだが、なんといっても、主人公が心を寄せるストリップ・ダンサーを演じたマリサ・トメイがすごいのだ。マリサ・トメイといえば、まだ若いときに(日本では冷遇されたコメディ)『いとこのビニー(1992)』の演技でアカデミー賞を獲ってしまったはよいが、その後、鳴かず飛ばずで年齢を重ねてしまった不遇のひとだと思っている。アカデミーの助演女優賞は、ぽっと出のフレッシュな女優に今後の期待を込めて送られるケースが良くあるのだが、彼女なぞはその典型といえよう。アイドル的コメディエンヌから脱皮を試み、演技面では地味ながらじわじわと評価を高めてきた44歳の彼女が肌も露に演ずるのは、9歳になる息子がいることを隠し、場末のストリップ・クラブで踊る日陰のシングル・マザーである。仕事とプライベートを厳格に分けることで毎日に折り合いをつけている、そんな彼女を、単なる「都合の良い女」ではなく、リアリティのある一人の人間として描いた脚本も素晴らしいが、このキャラクターに深い人間味を与えたトメイの演技もまた、ミッキー・ロークに負けるものではないと思う。

奇しくも本作の日本公開の初日となる2009年6月13日(土)、日本のベテラン・プロレスラーが試合の途中、ファンの歓声の中で命を落とすという「事故」があったことが報じられた。私は体の大きな男たちが裸でぶつかりあい、血を流す姿をエンターテインメントとして楽しむという趣味を持ち合わせてはいないから余計にそう思うのだが、ファンの歓声もまた、因果で残酷なものだ。熱狂する観客の前で、自らの命を差し出してみせかのようにトップロープに登り、ポーズを決め、ファン待望の大技「Ram Jam」を決めるため、限界を超えた心臓を抱きながら宙に舞うミッキー・ローク=ランディ・ロビンソンの姿は、どこか殉教者のような美しさに満ちていた。それまで技巧らしい技巧を抑えに抑えてきた映画は、この大舞台における最高の一瞬を切り取るために、ここぞとばかりのショットと編集を繰り出してみせる。直後、画面の暗転が意味するところは単に映画の終わりを意味するだけのものではない。

6/06/2009

Terminator Salvation

ターミネーター4(☆☆☆)


邦題の「4」って、、、なんだか安っぽいな。一昔前なら、主演俳優も交代し、タイトルだけかりてきたような安っぽいホラー映画みたいな雰囲気を感じてしまう。『バタリアン4』とか、ね。。

そう、1984年、低予算で作られた1本のSFアクション映画が、ここまで大きな「サーガ」へと変貌を遂げるとは誰も、作り手さえも想像しなかったはずである。件の作品は、閉じた時間の輪のなかで完結した運命を巡る物語であった。1991年、1作目とは比べ物にならない金銭と物量を投じて製作された2作目は、結局のところ、「未来からやってきた殺人マシーンと死闘を繰り広げる」というプロットの再利用に過ぎないのだが、「未来は変えられる」ものだとして、「審判の日」を回避するための戦いが描かれた。これは重大なタイム・パラドックスを生むことになったが、物語としてはクリエイターであるジェイムズ・キャメロンが意図したとおり綺麗に完結していた。しかし、 2003年になって3作目が作られ、結局、機械と人間の最終戦争が始まる。それは2作目の結果生じたタイム・パラドックスを解消するといえば聞こえはよいが、2作目で描かれた物語の意味を消失させる暴挙でもあった。またしても「未来からやってきた殺人マシーンとの死闘」というプロットが既視感たっぷりに繰り返されるから、作品はお笑いと化した。

本作は、3度まで繰り返された「未来から来た殺人機」というプロットから離れて、これまでの作品中で幾度も言及されてきた、全ての発端としての「未来戦争」を描いている点で、フランチャイズとして野心的かつ新しい第1歩を踏み出している。ちなみに、ここで描かれるのは、1作目の前日譚としての未来戦争ではなく、2作目、3作目と様々な歴史改変を経て、しかし回避することのできなかった「審判の日」以降であるから、『スター・ウォーズ』の新三部作が後の時代につなぐための辻褄あわせに終始せざるを得なかったような「窮屈さ」から開放され、事実上、何でも起こり得るといってよい。物語上の唯一の制約は、いつの日か「カイル・リース」を過去の世界に送り込む必要があるということだけだ。自由で広大なキャンバスを手にした本作『Terminator Salvation』は、圧倒的優位な機械軍:スカイネットを相手に絶望的な戦いを挑む抵抗軍という構図で描かれる戦争アクション映画である。多大なる犠牲を払ってスカイネットを無力化できるコードを入手したレジスタンスが総攻撃の準備を進める中、スカイネットに捕獲されたカイル・リースを救出しようとするジョン・コナーと、自分を人間だと信じている機械と生体のハイブリッド;マーカス・ライトのアイデンティティを巡るドラマが描かれていく。

『チャーリーズ・エンジェルズ』シリーズなどという、もはや映画と呼ぶのが適切なのかどうかすらわからない作品で知られるだけのMcGが、どれだけ重厚な世界観やドラマ、リアルなアクションを撮れるものかと誰もが不安に思ったことだろうが、意外や、まともな映画に仕上がっている。特にビジュアル面での力の入れ具合は見事で、これまでのシリーズ作品中ではブルーがかった映像とメタリックで玩具のような機械軍という安っぽい映像スタイルが確立していた「審判の日」後の世界を、リアリティをもって再構築したところは賞賛に値する。CGIだけに頼らずミニチュアやセットを使った効果は随所に出ている。スカイネットが繰り出す数々の殺戮マシーンも個性的かつ魅力的に動かしているし、シリーズのファンを自認するだけあって、過去シリーズにおける幾多の場面を髣髴とさせる演出を随所に盛り込みつつ、それが前作でのような「お笑い」に堕していないところも好感を持った。クライマックス近くでデジタルで再構築された若いシュワルツェネッガーを登場させるサービス精神も嬉しい。

そうなると、気になってくるのが脚本の出来栄えである。クレジットがないとはいえポール・ハギスやジョナサン・ノーランといった錚々たる才能の手を借りて完成されたはずの脚本であるが、期待したようなクオリティに達していない。まず登場人物のキャラクターが十分に描けていない。ジョン・コナーは(T3で描写より数段マシであるとはいえ)人類の未来を背負ったリーダーになることを運命付けられた男としては一面的で平板だし、彼が率いる部隊の面々もただの賑やかしでしかない。キャラクターの行動や変心も唐突で、違和感を感じる場面が多い。ここには、もともと「マーカス・ライト」を主人公とする物語だったものを、ジョン・コナーの役割を広げるために書き換えていった影響もあるのだろう。ネット上に流出したショッキングな当初構想(マーカスが死亡したコナーと入れ替わり影武者を務める)を反故にして第3幕を全面的に書き換えた影響もあるだろう。いずれにせよ、撮影を進めながら慌てて書き換えられていったせいか、煮詰め方が今ひとつ足りず、荒いのである。

そういう意味で、最も気になっていますのは、プロット上の穴だ。最大のものを指摘するなら、抹殺すべき「カイル・リース」を捕獲したとき、それと認識していながら、基地に移送した上で監禁しているスカイネットのマヌケさはどうだろう。論理的に考えて、彼を生かしておく必然性はどこにもなく、機械の思考としての合理性も欠く。これではただのアホだ。

シリーズの序章らしく、説明されずに残された「謎」も多々ある。そもそも「カイル・リース」の名前がスカイネットの抹殺リストに乗っている理由がわからないし、納得のいく説明も仮説すらも提示されていない。審判の日の前に死刑に処されたはずのマーカス・ライトが本作に登場するまでの経緯も全てが説明されたわけではない。もしかしたら、プロット上の致命的な穴だと思っていたことも、後々きちんと説明がつくのかもしれない。しかし、本作を見ただけでは想像もつかない複雑なバックストーリーが緻密に構築されているとも思われず、結局、行き当たりばったりで終わるのではないかという危惧が残るのである。まあ、それが「ターミネーター」らしさだといえば、そうなのかもしれないが。

Road to Rebirth

ハゲタカ(☆☆☆)

いくつもの佳作を生んでいるNHKの「土曜ドラマ」枠。2007年、そこで放送された『ハゲタカ Road to Rebirth(全6話)』は、民放では作ることのできないテーマとフォーマット、俳優の起用、フィクションといえどもきちんとしたリサーチに立脚し、映画を意識した丁寧な作りを武器として、社会派で、ともすれば難解と受け取られがちな内容を「ドラマ」として、エンターテインメントとして描ききった力作であった。TVシリーズは、「近過去」である1990年代の終わりから2004年くらいまでを舞台にして、我々が耳にするニュースの裏側で起こっていたことを「説明」して見せながら、主要な登場人物たちの背負った「ドラマ」をきっちり描いて見せた。「現代」を描きながら、「近過去」を検証する冷静な視点と、偶然や因縁が交差する(作為に満ちた)熱いドラマが交差するところがひとつの見所であったと思っている。

ちなみに、本作は「TVシリーズの映画化」ではない。一通り完結した物語となっているTVシリーズに対する「続編」である。もともとは、出発点とした原作『レッドゾーン』がそうであるように、同じ「現代」を描くといっても、既に起こったことではなく、近未来に起こりうることを描く構想であったのだろう。しかし、昨秋以降の経済環境の激変を受け、従来の認識の延長線上で物語を構築する限界に直面し、結果として脚本の8割方を書き換えたという。こうした泥縄式のやりかたは、作品の完成度についていえばネガティブに働くことも多い。なにしろ、今、足元で起こっていることを表面的になぞることは簡単であるが、本質を射抜くことはなかなか難しいものだ。だから、リライトをしているという話をきいたとき、結局、半年遅れのニュース・ヘッドラインを垂れ流すだけに終わるのではないかと危惧したが、そうやって現在進行形の「時代」と切り結ぶことを選ぶ作り手の覚悟と感度は素晴らしいことだと思うし、いわゆる邦画の世界においては稀有な資質であると思う。果たしてその成果はどうなったのかといえば、多少の無理矢理や単純化は否めないものの、物事の本質を曲げたり、過度にセンセーショナリズムに走ることもなく、ドラマの中で昨今の印象的なトピックをそれなりに消化することに一定レベルでは成功していると感じた。その点ひとつだけでも製作チームに賞賛の言葉を送りたいと思う。

さて、先にも述べたとおり、本作はTVの続編である。ここから初めて見ることになる観客には、既存のキャラクターたちのバックストーリーや人間関係が分かりにくい作りになっているが、あまり気にすることはない。なぜなら、彼らの本作における役割は、いってみれば豪華な脇役の扱いでしかないからである。考えてみれば、彼らがそれぞれ抱えるドラマについてはTV版で既に決着のついたものであり、そこを描くことは蛇足になる。これは、実のところ、一見して主役を張っているかに思われる「鷲津」についても同じことが云える。本作における鷲津の思想や行動原理は少し分かりにくいところがあるのだが、これは、このキャラクターが、「外敵に対抗する力を持った伝説のヒーロー」であり、敵として登場する新キャラクター、劉一華の引き立て役を担う「記号」としてしか描かれていないことに起因するのである。そう、彼に関するドラマもまた、TV版で完結している以上、それ以上の掘り下げの余地がないということなのだろう。ただ、そういう割り切りに一理あると感じながらも、どこかで物足りなさを感じるのが人情というものかもしれない。

そんなわけで、本作の中心は、新しく導入したキャラクター、新興国の持ちうる資金力を背景とした「赤いハゲタカ」こと劉一華のキャラクター造詣に置かれている。そして、この男をお馴染みのファンドマネージャー「鷲津」と対峙させることによって、その人生や生き様を描き出そうというわけだ。現代の資本主義がもたらす究極の格差をテコにして極貧からのし上がってきた劉一華という男の人生は確かにドラマの核になり得るだけの普遍的な重さがある。TOBによる買収合戦はTV版の焼き直しに過ぎないが、そこにこの男の正体や真の意図の所在が絡んでくることにより、本作はTV版とは異なる側面とスケールから「金を巡る悲劇」を描き出すことに成功しているといえるだろう。

劇場版ということで、監督・脚本以外のスタッフは映画を撮り慣れたスタッフに交代し、TV版よりも落ち着いた画作りを心掛けていると聞いていたが、しかし、TV版とのスタイルの一貫性を維持する必要性からか、表面上は大きな変化を感じさせるものにはなっていない。要は、TV的な画面作りを抜け切れていない点で、劇場作品としては物足りないものになっている。例えば、劉一華がメインになるシーンと鷲津がメインになるシーンでそれぞれ赤や青のフィルターを使って撮り分ける趣向も、TV画面サイズでは機能したかもしれないが、劇場サイズでは安っぽく感じられた。似たようなことをやっても、例えばソダーバーグの『トラフィック』では、明らかに異なる3つの話が交差する構成であるゆえに大胆な色彩設計が活きたのである。キャラクターごとに忙しなく色分けというのは、少し短絡的で幼稚な発想ではなかっただろうか。ドラマの流れを寸断しているだけのように思う。また、キャラクターの登場や場所の移動に伴っていちいちテロップを打つような、観客の知性を信じない「TVスタイル」が安易に踏襲されているあたりにも疑問に感じられる。まあ、実際のところ、本作にも普段は映画館に足を向けないような「お茶の間の観客」が多数入っているようだったから、彼らに対する配慮をするのも「商品」としては正しい考え方なのかもしれないが。

そういえば、米国ではようやくというべきか、今更というべきか、『ウォール街』の続編企画が動き出したようだ。本作でも言及される "Greed is Good" とは、マイケル・ダグラスの名台詞だった。米映画界が今の時代とどう向き合い、どう切り結ぶのか、楽しみである。

6/01/2009

Angels and Demons

天使と悪魔(☆☆★)


宗教とか象徴学者とか、なんだか知的なふりを装ってはいるものの、結局はインディアナ・ジョーンズのバリエーションみたいなところに落ち着くのである。観客にとっての謎解きの面白さはなく、主人公は瞬間に謎をといて走り回る。どちからといえば、ニコラス・ケイジ主演のヒットシリーズなんかが一番ノリ的にも近いといえるだろう。ただ、歴史の浅い米国を舞台にしていながら"National Tresure(国宝)"などと大仰に語る軽さとバカバカしさがあっちの作品の身上であり微笑ましいところであるのだが、バチカンだのダヴィンチだのガリレオだのと持ち出していやに権威付けしてみせるところがこちらの浅ましさだと思ったりもする。まあ、それは映画の話ではなく、原作に帰せられるべき責任なのだろう。しかし、だいたい、イタリア語もラテン語もろくに分からないで学者やっていられる主人公の設定はバカバカしくないだろうか。

さて、面白くも何ともないのに大ヒットをとばした『ダヴィンチ・コード』の続編として作られた本作は、「ダヴィンチ・コード」よりも前を描いた原作を土台に、空疎な大作には欠かせないベテラン売れっ子脚本家、デイヴィッド・コープとアキバ・ゴールズマンが違和感なく時間軸を入れ替えて脚色をしている。謎解きやら薀蓄やらをすっとばし、バチカンとローマ市内を制限時間内に駆け巡るというシンプルな構成だ。これは、『ダヴィンチ・コード』の失敗を踏まえたものといえるだろう。『フロストXニクソン』では久々に尊敬に足る仕事をみせてくれたロン・ハワード監督だが、本作ではあまり変な色気を出さず、脚本に則ってスピーディな展開を心掛けているのがよい。かといって、いつもの人畜無害の優等生的大作映画かと思うと、意外に歪んだ描写があったり、どこかへんてこりんだったりして退屈もしないのである。褒め倒すような映画ではないが、『ダヴィンチ・コード』より数段いい、とは思う。

本作はキャスティングでかなり得している。鍵になるキャラクターに、ユアン・マクレガー、ステラン・スカルスゲールド、アーミン・ミュラー・スタールと、本心を易々とは見せない曲者役者を配置したところが大きく効いている。特に、コンクラーベの進行を司る司祭を演じたアーミン・ミュラー・スタールが素晴らしい。この人、最近では『ザ・バンク』や『イースタン・プロミス』でも非常に印象深い一面的ならざるキー・キャラクターをものにしていたので、その顔に覚えのある向きも多いだろう。旬というのも失礼かもしれないが、こういう人をパッと連れてくるあたりのセンスというか、嗅覚の鋭さは賞嘆に値するだろう。

しかし、先にも述べたが、なんだか変てこな映画だなぁ、と思うのである。この映画のヒーロー足るべき主人公が結局のところ何をしたのというのだろうか。もちろん、後手後手にまわって死者が積みあがる中、たった一人とはいえ救った命もある。そして、それがバチカンにとって重要な人物であったのも事実だ。しかし、真犯人の術中に容易にはまり、利用され、踊るだけ踊り、走り回るだけ走り回って、周囲まで巻き込んで、間接的ながら善良かつ有能な人間の命を奪うことに手を貸し、あと一歩で取り返しのつかないことをやらかしていた、、そんなのがヒーローとしてどうなのか、と。自分がとったわけでもない隠しカメラの映像を発見し、それで大団円って、どうなのか、と。これで納得しろといわれても、すっきりしないのだ。主体性のない巻き込まれ型のヒーローがいけないというつもりはない。が、どんでん返しに普請するうち、それまで主人公らしく活躍して見せた全てが単なる無駄足に過ぎず、実際は真の敵に手を貸していただけというような大惨事へと矮小化されるところが作劇としてどうか、ということなのである。何かが間違っている、そう思う。

5/31/2009

Star Trek (2009)

スター・トレック (2009)(☆☆☆)


まあ、ご存知の通りに歴史のあるシリーズなのである。元祖シリーズの開始は1966年。3年で打ち切られるも1979年に映画で復活。 1991年の第6作まで、続いた。その間の1987年に、元祖の80年後を描く『新スタートレック(TNG)』の放送が開始され、7シーズン続く大ヒットとなった。この最終回が1994年だ。TNGメンバーによる劇場版の公開、すでに始まっていたスピンオフ(DS9)に加えて、後継のシリーズ(VOY)も放送開始。90年代半ば、思えばこのあたりがフランチャイズとしてのピークであった。

TNG劇場版第4作『ネメシス』の興行的不振(2002)、「前史を描く」という触れ込みで始まった『エンタープライズ(ENT)』の打ち切り(2005)で、歴史あるフランチャイズも新展開への命脈は絶たれたと思われた。だが、あきらめの悪いパラマウントは、TV界で成功を収めたJ.J.エイブラムズを担ぎ出し、フランチャイズの再生を委ねたのである。結果としてみれば、作品は大方の観客に好評で、ビジネス的にも大成功。死にかけた看板シリーズの再ブーストに成功したわけだから、おめでたい話といえるだろう。自信を得たパラマウントは、公開前の段階ですでに続編の製作にGOサインを出したという。

そんなわけで、どちらかというと肯定的なムードのなかでこんなこというのは気が引けるが、この作品の出来栄えに対しては複雑な思いである。「われらがヒーローが悪い異星人を懲らしめる」ような活劇としてはテンポが速く、アクションも派手。おなじみのキャラクターを知っていれば、再解釈された若き日の彼らの姿も楽しめるし、ファンサービスとも受け取れる遊びも随所に仕込まれている。楽しめるか、と問われたら、楽しめる映画なのだ。しかし、出来がよいかと問われると、言いたい文句はいっぱいある。

だいたい、『MI:III』のときもそうだったが、J.J.エイブラムズの演出やストーリーテリングの手法は徹頭徹尾TVスクリーン・サイズだ。カメラが対象に近すぎる。バストアップに顔の切り返し。これは小さなTVで見せるための撮り方だ。この作品に、映画らしいスケールを感じさせるシーンがひとつでもあっただろうか。映画館の暗闇に腰を下ろし、スクリーンを見上げる快感がどこにあったか。しかも、カメラは意味もなく揺れ続け、傾き、細かいカットをごちゃごちゃつないで、それが刺激的で迫力のある映像であるかのように装っている浅はかさ。スピード感があるといえばよいが、余裕も余韻もなく、観客の頭を使わせずに麻痺させるような語り口。

『スタートレック』より『スターウォーズ』のほうが好きだったという監督の趣味に合わせたからか、脚本もまた、いかがなものかと思う。人気の高い『スタートレック2:カーンの逆襲』をテンプレートにした時点で、実は新しくもなんともないのである(ちなみに、前作『ネメシス』も、『カーンの逆襲』のパターンを下敷きにしているのだった。)もちろん、本作に盛り込まれた旧来のファンに目配せするかのような小ネタの数々は楽しくもあるが、結局、一介のファンが好きなようにフィクション程度のレベルに過ぎない。一ファンが自分の趣味と妄想で書き散らしたお遊びなら許容できても、これが公式だと云われると違和感を感じないほうがおかしい。自作を正当化するために、「歴史改変」によってこれまでの「正史」を永遠に葬り去るという不遜なまでの思い上がりが、なおのこと不愉快である。(もちろん、旧シリーズとのつながりを確保して過去に築かれた世界観を都合よく利用し、しかし展開に制約を受けず作り直すためのグッド・アイディアだとも思うけれどね。)

役者はそれぞれにオリジナルの雰囲気を巧みに再構成してキャラクターを作り上げており、感心させられた。特に、ドクター・レナード"bones"・マッコイなんか、故ディフォレスト・ケリーの生霊が乗り移っているのかと思える瞬間があったし、モンゴメリー・スコットなんかも笑わせてもらった。あと、褒めておきたいのはJ.J. エイブラムズとのコンビが長いマイケル・ジアッキーノの音楽だ。彼の書いた新しいメインテーマは「スター・トレックのテーマ」というよりは、「(ヒーローとしての)カークのテーマ」のように聞こえるが、はっきりと印象に残るメロディー・ラインを持っており、劇中でも様々にアレンジされて登場、好感を持てる作風である。最後の最後にアレクサンダー・カレッジのファンファーレからTV版テーマの新バージョンにつながるところなど、(いつも聞いている曲なのに)懐かしさで胸が熱くなってしまった。TVテーマのアレンジが軽めなのも新鮮だ。

物語上のフックのためだけに悪役が60億からの生命と文明を根こそぎ奪い、われらがヒーローは相互理解の努力の前にドンパチを繰り広げる。エキサイティングか?まあ、そうだろう。もちろん、スター・トレックはなんでもとりこむことの出来る奥の深さが魅力のひとつ。悪い異星人をやっつけるアクション編もありだし、理屈のおかしい「なんちゃってSF」編も、ご都合主義のタイムトラベル編もありだ。だから、こんな作品が1本くらいあったって構わない。むしろ、この作品に漂うある種の「いい加減さ」と「安っぽさ」は、元祖シリーズのノリに近いとすら思う。しかし、一方で、SFという枠組みを使って現実の社会問題を扱ったり、哲学的な問いかけがあったり、未来への楽観的な希望が語られたりもする、それがスター・トレックなのである。そこがシリーズが長く愛されてきた理由であり、本質だといってもいい。シリーズのクリエイターである故ジーン・ロッデンベリーは、この作品を見たら悲しむに違いあるまい。これでリセットはおしまい、次回作で作り手の理解力と本質が試される。

まあ、個人的には掟破りの方法でヴァルカン破壊をなかったことにするところからお願いしたい。(『スタートレック3』でスポックが蘇ったようにね。)

Seventeen Again

セブンティーン・アゲイン(☆☆☆)


ディズニーの『ハイスクール・ミュージカル』シリーズで人気が沸騰したザック・エフロン主演のコメディである。家庭生活にも仕事にも行き詰ったマシュー・ペリー演ずる男が、心はそのままに若いころの姿(ザック・エフロン)に変身してしまい、友人の協力を得ながら人生の選択をやり直そうとハイスクールに通うのである。よく似たパターンの作品は繰り返し作られている、と感じるだろう。が、この作品、どこか変なのである。面白がってみていたのだが、どこかすっきりしないのだ。何故なのか?

人生をやり直せるとばかりに学校に行けば、関係が疎遠になっていた娘や息子と机を並べ、悪い男と付き合う娘に「父親」としてハラハラし、イジメの対象になる冴えない息子が「父親」として心配になる。自分の息子と友人づきあいをするうち、離婚を切り出された妻に近づくことになり、関係を修復したいという思いが強まっていく。これはハイスクール・コメディではないし、青春コメディでもない。中年親父の奮闘コメディなのである。これをあくまでザック・エフロン主演で押し切るところがこの企画のミソなのだが、しかし、一方では誰をターゲットにした企画なんだかよくわからない作品だということもできるだろう。だって、ザック・エフロンを見るために集まった若い観客に、「いや、実は中年親父も辛いんだよ」という言い訳を見せてどうするのか。

例えば、ある種の類似性を感じさせる企画として、母親と娘の体が入れ替わるという設定で、時のアイドルであったリンジー・ローハンを主演させたヒット作『フォーチュン・クッキー(Freaky Friday)』という映画があった。アイドルを起用した作品という意味でも、見た目と中身の年齢ギャップで笑いを取るパターンも似ているといえる。しかし、この作品では親世代と子供世代の相互理解がテーマに置かれていて、もちろん子供世代に親の苦労を垣間見せるという教育価値もあるのだが、一方で子供が親に自分の立場を分かってもらうという部分が、すなわち、メインとなる若い観客層の心情に訴えかけるようにできているわけである。そういう意味で、商品としては正しく顧客の求めるものに応えているといえるだろう。しかし、翻って本作はどうか。主人公が娘や息子の切実な悩みと向き合うことで、一見、「相互理解」というテーマに触れてはいるように見えるのだが、それはあくまで主人公が「父親としての責任」や「家族への愛情」に目覚めるという扱いであって、人生に迷った中年男が自らを再発見する物語としての基本線を外れるものではない。これをザック目当ての女の子たちに見せるというのだから、やはり、それはヘンだというのである。

話の内容とターゲット観客層とのあいだの齟齬をさておくとすれば、1本の作品としてはチャーミングで楽しい出来栄えである。ザック・エフロンを見せる映画だという本作最大の訴求ポイントだけはさすがに外すことなく、いろいろな見せ場が用意されているのはいうまでもない。主人公の友人であるヲタクな独身男の奇妙な生活を笑いの種にしているが、ディテイルも楽しいし、キャラクターに対する愛情のある描き方になっていて不快さはない。クライマックスにむけた話の運びもよく考えられていて、ほろりとさせるものもある。ただ、話が話ゆえに、ハイスクール・ライフをきちんと描けていないところは物足りないところだろう。そこに主眼がないのは分かるのだが、登場する高校生たちは、「息子・娘」と「それ以外」という区別されておらず、個性も人間性もあったものではない。そこをもう少し丁寧に描いていれば、中高生向きのエンターテインメントとしての違和感は相当部分解消され得たのではないかと思う。

5/23/2009

State of Play

消されたヘッドライン(☆☆☆)

妻がタイトルを「消されたヘッドライト」と云い間違えたので笑ってしまった。まあ、ヘッドライトは消しておかなくちゃバッテリーが上がってしまうわな。予告編を見るたび常々思っていたのだが、なんだかパッとしない邦題である。ケヴィン・マクドナルド監督の新作は、英TVドラマ(ミニ・シリーズ、NHK放映済、未見)の翻案で、原題 "State of Play" 。あー、難しいな。構成している単語は中学校レベルでも、「訳せない、分からない」典型だ。(ゲーム・試合等の)の形勢とか状況とかいった感じだが、"state" も "play" も文字通り以上にかなり意味深。配給元も悩んだだろう。そうはいっても、劇中でヘッドライン(新聞の1面大見出し)は「消され」ていないのだった。何じゃそりゃ。

さて、舞台は米国の首都、ワシントンDC。ここで、ありふれた麻薬取引絡みの事件と思われる2つの死体が発見される。時を同じくして、連邦下院議員の女性政策スタッフが地下鉄で飛び込み自殺と思しき事故死をする。女性スタッフとの不適切な関係をマスコミに詮索される下院議員。その議員と旧知の仲である新聞記者が手に入れたとある物証は、全く関係のなさそうな2つの事件をつなぎ、権力と利権の絡んだ大きな陰謀の存在を匂わせるものであった。限られた時間の中でベテラン新聞記者としての意地とプライドをかけて真相を追う主人公らを中心に、話は2転3転しつつ、いわゆる「予想外」で「皮肉」な結末に至る。

英国TVドラマ版から米国を舞台にした映画版へと脚色を手がけているのは、マシューマイケル・カーナハン(『キングダム』、『大いなる陰謀』)や、最近の大注目株の一人となったトニー・ギルロイらである。翻案に当たって、イラク戦争などの戦場で存在感を増してきている民間軍事企業ネタやら、金儲けしか興味のない巨大メディア企業に買収された伝統ある新聞社というネタやら、紙メディアのジャーナリズムとWEB媒体の確執やら、愛国心から大義名分に命をささげたつもりだった元兵士のPTSDやら、今日的なトピックを盛り込んで新味を出している。特に、軍事部門の「民営化」、「アウトソース化」と軍事・傭兵株式会社とでもいうべき、いわゆる「民間軍事企業」にまつわる切り口と考察には、娯楽フィクションとして避けられない誇張を交えつつも、嗅覚と視点の鋭さを感じさせる。

もっとも、話の枠組み自体は古典的かつ真っ当な社会派サスペンスであり、画面に漂う雰囲気そのものに新しさはないし「衝撃の実話」でもなければ、「何とかの舞台裏」などというセンセーショナルな話題もない。ただ、脚本も、演出も安定しているし、出演者のアンサンブルもいい。新聞記者にラッセル・クロウ、新聞社の編集長にヘレン・ミレン、同僚記者にレイチェル・マクアダムス、下院議員にベン・アフレック、その妻にロビン・ライト・ペン、先輩の大物議員にジェフ・ダニエルズと、派手さはなくても新旧取り混ぜた実力者を起用。たとえ紋切り型で新鮮味がないキャラクターであっても、この顔ぶれであれば127分、きっちりと楽しませてくれることは保証されているといえるだろう。

本作は、「ジャーナリストが陰謀を暴く」という話に見せかけて、「ジャーナリストが陰謀論に振り回される」話を、ある種の皮肉と共に描いている。本来、「大山鳴動してネズミ一匹」、とてつもなく大きな陰謀かと思われた事件も、蓋を開けてみればこの程度の卑近な話だったりするものさ、ということだ。ただ、それに加え、善なる動機に基づく良かれと思った行動が、結果として裏目に出る一方で、巨悪は滅びず何も変わらないといったあたりのニュアンスを巧く引き出すことが出来ていれば傑作になりえた作品ではなかっただろうか。

一方、本作は物語を語ることよりも、プロット上の捻りで観客を煙に巻くことに気をとられ、終盤の展開があまりに陳腐で慌しいものになってしまっている。結果、本来フォーカスをあてるべき論点が吹き飛び、「真犯人はXXでした」といった具合の、いわゆる安手のサスペンス・ドラマのレベルに矮小化されてしまったと思うのである。また先に褒めたばかりなので逆説的に聞こえるかもしれないが、ネタとして使い捨てることになる「陰謀論」の主役に、民間軍事企業などというホットで興味深いトピックを担ぎ出したことも作品としての失敗につながっているのではないか。こういう新鮮味のあるネタを提示されたら、観客としてはどうしても、そのネタそのものについての深い突っ込みを期待してしまうものだ。ここは却って、ありふれた昔ながらの「陰謀」を、象徴的、記号的に用いたほうが、却って映画としての鋭さが増すことにつながったのではないかと思う。

5/16/2009

Eastern Promises

イースタン・プロミス(☆☆☆☆)


昨年の今頃公開されていたという記憶があるのだが、その際は気がつくと公開が終了していて悔しい思いをした。今回、いきつけの劇場において本作の期間限定リバイバル上映があったので、何をさておき劇場に駆けつけた次第である。なにしろ傑作『ヒストリー・オブ・バイオレンス』の主演、ヴィゴ・モーテンセンと、監督デイヴィッド・クローネンバーグの再度の顔合わせによる新作である。すでに高い評判も聞きつけている。これを見逃すわけにはいくまい。

ロンドンの移民社会に根を張ったロシアン・マフィアにまつわる話しである。冒頭、床屋における唐突で戦慄の殺人シーンに続き、妊娠した身元不明の14歳の少女が血塗れになって病院に担ぎ込まれ、帝王切開で子供だけは辛うじて助けられるものの、少女本人はそのまま絶命するという、生理的にも映像的にも衝撃的なエピソードが連打され、ただごとではすまない雰囲気を濃厚にたたえて物語りは幕を開ける。死んだ少女の身寄りに関するヒントを得ようとした助産士の女が、少女が残した荷物の中からロシア語で書かれた日記を抜き取ったことがきっかけで、ロシア移民の子孫でもある彼女と、闇に巣食ったロシア人犯罪組織とが交差する。助産士を演じるのがナオミ・ワッツで、礼儀正しい組織の「運転手」を演じるのがヴィゴ・モーテンセンである。日記は、貧しいロシア少女が夢を求めて辿り着いたロンドンの地で、もののように売り買いされ、レイプされ、薬漬けにされ、自由を奪われ、売春婦へとその身を落としていく記録であり、その背後にある組織の犯罪の証拠でもあったのである。

導入部からしてそうなのだが、ストーリー・テリングが非常に巧みな映画である。ナオミ・ワッツの家族に代表される表の世界と、犯罪組織の闊歩する裏の世界という対比だけでなく、表ではロシアン・コミュニティの健全な束ね役のようでありながら、裏では犯罪組織の総元締めであるというような、「見た目」と「真実」の違い、起こっている出来事の表層的な意味と裏に隠された真の意図といった具合に、「表」と「裏」が交差しながら観客を翻弄していく脚本はどうだ。静寂のシーンが一転して本性をむき出しにし、目を背けたくなるヴァイオレンスに染まる演出の呼吸。刺青によって強調される肉体性と実在性。きっとこういう話だろう、とたかをくくっていると、その一歩先を提示されて驚き、周到に張られた伏線によって思いもかけぬ結末へと導かれていく、その快感。

噂に聞いていた、ヴィゴ・モーテンセンが裸で立ち回りを演じるサウナでのアクション・シーンは、噂に違わず壮絶そのものである。ロシア・マフィアにとって刺青は自らの生きてきた証、身上書のようなものだという。全身刺青だらけのヴィゴの、その刺青が語る情報を手がかりに、2人の殺し屋が刃物を持って命を狙う。見ているだけの観客にも激しく痛みを伴う肉弾戦が繰り広げられ、体中に傷を負いながらすさまじい戦闘力と精神力で戦う男、ヴィゴに、もう観客の目は釘付けである。結局のところ、一見脇役かのように物語に登場したこの男の、壮絶な生き様がこの映画を貫く1本の柱でもあるということが、最後の最後になって明らかになるわけだが、それを具体的な描写として象徴的に見せるのがこのシーンという言い方もできるだろう。

サウナのシークエンスにも顕著だが、本作の暴力描写の突出した生々しさは、もはや暴力や死が記号でしかなくなったハリウッド製娯楽作品とは一線を画するところで、R18指定もやむを得ないと思わせる強烈なインパクトを持っている。クローネンバーグの演出は暴力から目をそむけるどころか、ねちっこくその姿をフィルムに焼付んとするから、ヴァイオレンスが苦手な観客にはつらいところかもしれない。しかし、この作品にはそれを乗り越えてでも鑑賞するだけの価値があるから、そんなところで躊躇していてはもったいない。劇場のスクリーンで見ることができて良かった、クローネンバーグ、ここのところの作品の充実具合は只者ではない。

W.

ブッシュ(☆☆★)


原題の「W.」は、アメリカ合衆国第43代大統領の、ミドルネーム(ウォーカー)である。Jr. と呼ばれるのを嫌がる彼を、周囲が W. と呼ぶ。父親はジョージ.H.W.ブッシュ。第41代大統領である。

この映画は、有名人ものまねそっくりさんショウなのか。否。豪華俳優を起用した安っぽいお笑い再現ドラマか、SNLのスケッチを拡大したものなのか。否。この映画は、いや、オリバー・ストーンは、そうなり得たかもしれない非常に危険な可能性を微妙なラインで避けて通り、普遍的なドラマを構築して見せるのである。ジョージW.ブッシュという男の冗談みたいに面白い馬鹿発言や間抜け面は、ほんの一部(プレッツェルをのどに詰まらせるとか、Fool me once... の件とか)を除いて巧妙に避けられている。そちら方面の期待をしていた観客にとっては拍子抜けだろうが、考えてみれば、これもまた、必然だろう。現実がコメディを超えてしまった以上、いまさらその現実を模写してもしかたがないということだ。大統領になるべき資質など、何一つ持ち合わせていなかった男が、なぜに大統領になってしまったのか。オリバー・ストーンは、その「謎」の背景を「父親」と「息子」の葛藤という観点で切り取ることを選んだ。政治の裏側ではなく、人間としてのW.の半生を悲喜劇として描き出すのがこの作品である。邦題、『W.の悲劇』にすればよかったのに。

まあ、驚かされるのは、極めて芸達者な役者たちが集められたキャスティングである。絶好調のジョッシュ・ブローリンは、W. 本人に似ているとは言いがたい要望ながら、そのしゃべり方、その動き方を巧妙に模倣しつつ、この男の内面を浮き彫りにしていく好演である。ディック・チェイニーの腹黒さを見せるリチャード・ドレイファスや、政権の頭脳として暗躍するカール・ローブを演じたトビー・ジョーンズあたりは、実に嬉しそうに、濃厚に役を演じている。会議で一番まともで知的な発言をしているのに、黙殺され居場所を失っていくパウエルの孤独を演じたジェフリー・ライトも地味ながらいい。彼らに比べると割を食ったのが二人。ひとりは、せっかくの美貌をわざと台無しにしてライスを演じるタンディ・ニュートンで、まあ、SNLのスケッチの延長線上にある大げさなカリカチュアになってしまっている。もう一人はスコット・グレンだ。大好きなベテラン俳優だが、ラムズフェルドの下品さ、ねちっこさ、老獪さを出し切れていない。

しかし、これだけ役者をそろえているのは、単なる物マネ大会にはしないという確固たる意思の現れであろう。だが、W. 本人はともかくとして、W. をいいように利用する政権幹部たちは、本作においては単なる賑やかしに過ぎない、といってもいい。ドラマの根幹は、あくまでW. とその父親(パピー)であるH.W.にある。戦争に勝利し、スキャンダルにまみれたわけでもなかったのに4年間でホワイトハウスを去ることとなった合衆国第41代大統領、ジョージH.W.ブッシュ。政権幹部のキャスティングも豪華だが、ドラマの鍵を握るH.W. にジェームズ・クロムウェルを充てるというキャスティングが実に効いている。お世辞にも似ているとはいえない。しかし、映像などで伝わってくるH.W.のイメージを超えて、佇まいからしてずっと高潔で威厳を感じさせる演技を見せてくれる。野球好きで仕事も続かぬアル中のダメ息子たる「W.」にとってのプレッシャーや葛藤の源泉であることが、画面を見ただけで一瞬のうちに了解できるところが素晴らしいのだ。

偉大な父親、優秀な弟に囲まれ、何をやってもやり遂げることのできないダメ息子の葛藤。父親に変わるより大きな父親像を求めて「神」に傾倒し、宗教的に生まれ変わった(born again)と信じ、神の啓示があったと信じて大統領選に打って出た男は、周囲の腹黒い人間たちに利用されつつ、父親の仇敵と信じるフセイン打倒に執念を燃やしていく。一方で、最後まで父親からの愛と承認、尊敬を勝ち得ることができないという思いは消え去ることがない。プロ野球チームのオーナーで終わっていてくれたら世界がもっと幸せでいられたかもしれない男。この映画は、そんな男の内面のドラマを丁寧につむぎだしていき、それなりの見応えがある。ただ、明白な欠点としていえるのは、エンディングの弱さであろう。大統領選挙戦に間に合わせることを優先して完成を急いだ結果、ここには、8年の任期を振り返って「楽しかった」とコメントをするW.も、イラクで靴を投げられるW.も登場しない。要するに、ドラマを象徴的に締めくくるのに相応しいエピソードを欠いたまま、中途半端に幕を閉じてしまうのである。しかも、2期目の選挙を控えたタイミングでリリースされた『華氏911』と違い、政治的にも何のインパクトも持ち得なかった。映画の製作と公開のタイミングを誤ったことが本作の興行的、批評的な失敗だけでなく、内容的な弱さにもつながってしまっているのである。本作の判断ミスがあるとすれば、そこのところに他ならない。

5/09/2009

Duplicity

デュプリシティ スパイは、スパイに嘘をつく(☆☆☆)


さて、『ザ・バンク』に続く2009年、春の「クライヴ・オーウェン祭り」第2弾は、ジェイソン・ボーン三部作の脚本で名を上げたトニー・ギルロイ脚本・監督の、トリッキーなロマンティック・コメディだ。例の3部作でいろいろリサーチをした際、職を失ったスパイたちが民間セクターに流れているという話を聞いて触発されたギルロイは、トイレタリー業界の覇権を競う大手二社が互いにスパイを雇い、相手を出し抜こうと諜報活動を繰り広げる物語を作り上げた。元MI6を演じるのがクライブ・オーウェン、因縁浅からぬ元CIAに、久しぶりの主演復帰となるジュリア・ロバーツで、競い合う2社のトップに貫禄のトム・ウィルキンソンと下衆なポール・ジアマッティという、なかなか濃いキャスティングが鑑賞欲をそそる1本である。

本作の表面的な面白さは物語の構成にある。冒頭、主演の二人の出会いが語られる。男は女にまんまとしてやられ、痛い目にあう。それを基点とし、今度は時間が現在に飛ぶ。男はポール・ジアマッティの会社に雇われて、競合であり業界ナンバー1のトム・ウィルキンソンの会社の諜報部門に長期間潜入した二重スパイとの連絡係になるのだが、その相手は、かつて痛い目にあわされたあの女なのだ。敵か味方か、信用できるのか、できないのか。常に相手を疑うことが習性として染み付いた2人が再会し、ライバル会社が発表間近だという画期的な新製品の秘密を探り出すことになるのだが、映画はこの先、二人の出会いと現在の間に起こったことを小出しにして説明し、観客を翻弄していくのである。どんでん返しの連続といえばその通りで、手持ちのカードを1枚ずつ場にさらすたびに、現在起こっていることの真相が少しずつ明らかになり、物語が異なった様相をみせてくるのである。そして、いったい誰が誰を騙しているのか、相手の本心は何なのか、まったく予断を許さない状況のままサスペンスフルなクライマックスに突入していくのである。

もちろん、観客がある程度の知性を持っていることを前提とした脚本の構成も、台詞のくすぐりも、まるでパズル遊びをしているようで面白いのであるが、一方で、この語りはズルいなぁ、とも思うのである。同じような「騙し」のストーリーテリングでも、たとえば往年の「スパイ大作戦」であるとか、『スティング』であるとかのように、「観客の視点では今何が起こっているのか分からない、もしくは、勘違いさせられているが、いろいろな伏線が張られていて、最後の瞬間に全てが氷解し、あー、そういうことかと納得させられる」というタイプのものであれば、フェアな語りだといえよう。しかし、本作がやっていることは、「実はこういう事情でした」、「裏でこんなことになってました」を後出しジャンケン的につなげているだけだと思うのだ。凝ってみたり洒落てみたのはわかるし、本作の幕切れなぞ皮肉が利いていてかなり面白いとさえ思うのだが、やはりアンフェアなのではないかという疑念を振り払うことが出来ない。これは、懲りすぎた代償だといえるだろう。脚本家が自分の策に溺れていると言い換えてもいい。

本作で一番気に入っているところは、そういえば『クローサー』で共演していたクライヴ・オーウェンとジュリア・ロバーツの掛け合いにある。いわゆるケミストリーというか、二人の役者のスクリーン上の相性がいい、というわけでもなく、なんとなく微妙な感じが漂っているのもミソなのではないかと思う。互いに惹かれあっているのか、いないのか、騙しているのか、いないのか、今の一言が嘘なのか、本当なのか。罠なのか、真実なのか。愛しているのか、いないのか。スパイ稼業の第一線で仕事をしてきた二人は、とにかく何でも疑ってかかり、互いを信じることが出来ない。しかし、そういう自分を心から理解することができる人間がいるとすれば、それは相手しかいない。このあたりのジレンマを抱え、ことあるごとに対立してみたり、腹の探り合いをしてみたり、本音を試してみたりするこの二人の関係は、相性の悪い2人が対立しあっているうちに惹かれあっていくという、古典的スクリューボール・コメディを現代的に進化させたものだということができるだろう。コメディからシリアスなドラマまで幅広くこなす、顔立ちも存在感も抜群に濃い実力派スターの二人がこれをやるのだから、面白くならないわけがない。トリックで見せるスパイもの、クライムものという味方をするならアンフェアな本作であるが、トリッキーな二人の関係でみせるロマンティック・コメディの変種だと見れば、こんなにイライラさせられながら楽しめる作品も珍しかろう。嫌いになれない1本である。

5/04/2009

Burn After Reading

バーン・アフター・リーディング(☆☆☆)


前作『ノー・カントリー(No Country for Old Men)』ではアカデミー賞を獲ってしまったジョエル&イーサン・コーエン脚本・監督による新作は、デッド・シリアスでダークな前作から一転、本気とも冗談ともつかない馬鹿騒ぎで真剣に遊んでみせる彼ら独特のブラックコメディだ。彼らがジョージ・クルーニーと組んだ作品はどれもコメディ風味だが、これは中でも一番悪ふざけの度合いが高いもので、これを真面目にどうこういうのが損。タイトルどおり、さくっと笑って見終えたら、さっぱりと「読後焼却」すべきタイプの映画である。短い尺にきっちりおさまった本作は、作り手の息抜きでもあるだろうが決して手抜きはなく、人を喰ったブラックコメディとして、こういうのが好きな向きに限定してお勧めだが、映画に「感動」やら「涙」やら「迫力」やら、「真実の愛」やら「うっとりするような美形スター」を求めちゃったりする観客には思いっきり不向きかもしれない。

プロットの基本は、ジョン・マルコヴィッチ、フランシス・マクドーマンド、ブラッド・ピット、ティルダ・スウィントンらが、それぞれの利己的な視点と動機から、本人は真剣なつもりの頭の悪い行動と勘違いを繰り広げ、単純なはずなのに複雑に絡まりあったわけのわからない事態に陥っていくというもので、唯一利己的でも頭が悪くもない普通の人を演じるリチャード・ジェンキンスは、その真っ当さと愛故に割を食い、散々振り回されたCIAは、わけがわからないけど一件落着なんだよな、とケースファイルを閉じるのである。『スパイダーマン』シリーズで例の編集長を演じていたJ.K.シモンズが演じるCIAの上官に説得力のある面白さがあり、映画のはじめと終わりのショットも含め、「残念な人」たちが繰り広げる狂騒を描いたクライム・コメディ映画と見せかけて、膨大な国家予算を費やしてどこに金が消えていくのかわからないCIAとその活動を揶揄するところに真の狙いがあるのだろうと思わされるわけである。

天下のCIAの頭をも惑わす単純だけど複雑な混乱と錯綜を生み出すプロットとその構成は、いつもながら緻密で計算ずく、狙い済ましたように嫌らしい職人技で、絡んでいるようで絡んでいかない人間関係と利害関係が絶妙にもどかしい。こういうのを、「いかにもコーエン・ブラザーズの書きそうな脚本」だと理解しているが、今回は中身の空疎さに磨きがかかっているので余慶に可笑しくも腹立たしい。才能の浪費だとも思うが、正直、毎回『ノー・カントリー』でも疲れてしまうし、どちらが好きなのかと問われたらこっちのほうが数段好きである。

踊る馬鹿キャラを演じる出演者はみな公演。ありえないくらいの絵に描いたような底抜け馬鹿でありながら、その言動ときたら、ついつい身近にもいる人々を思い浮かべてしまうくらいに、妙なリアリティがあって最高にイラつかされるのである。どうしようもなくマンガでありながら、「そんなやついないだろう!」というレベルまでは落ちていかない匙加減は、脚本と役者、両方そろって初めて可能な難易度の高さである。間抜け顔をさらすブラッド・ピットの筋肉バカ加減はビジュアル的に大笑いできるが、フランシス・マクドーマンドの演技は本編中で最凶で、特にロシア大使館のくだりではこのキャラクターをブチ殺してしまいたい衝動が胸の奥から沸き起こってきて大いにストレスがたまったものだ。そんなキャラクターたちにつき合わされているうち、結局一番感情移入できるのがCIAの上官だったりするところで、この映画の術中に落ちたといわざるを得なくなる仕掛け。悔しいけれど、面白い。だからコーエン兄弟なんて大嫌いだけど結構好きだったりもするのだ。

Slamdog Millionaire

スラムドッグ$ミリオネア (☆☆☆★)


あざといといえば、あざといのである。「クイズの答えが主人公の人生の中にあった」ということをいっているのではない。(それは単に、人生でもっとも重要な事柄は経験で学ぶものだ、ということを象徴的に語っているだけにすぎないのだ。)ここでいいたいのは、クイズの設問の順番が、彼の人生を時系列にたどっていくように並んでいることがあざとさというものだろう。別に時系列をばらばらにして組み替えても良かったのかもしれないが、それでは多くの観客は頭がこんがらがってしまうだろうし、なにより、この作品の魅力のひとつであるエネルギーとスピードが死んでしまう。あるいは、これがどこか別の国を舞台にしていたら、時系列をばらしたパズルのような映画でもよかったかもしれない。この映画はシンプルなラブ・ストーリーであるかもしれないが、主人公の壮絶な生い立ちと、インド、そしてムンバイのこの間における急速な社会的変貌をそこに重ねてみせる物語でもある。だから、物語は時系列に語られるだけの必然があるのだ。だから、そのあざとさは必然なのだ。むしろ称えられるべきなのだ、と、何をおいてもまず、いっておきたかったのである。

しかし、映画で描かれるスラム人生の壮絶さは、ちょっと、ほかの娯楽劇映画では目にすることのない類の強烈さである。たとえこれが物語を盛り上げるための細工、つまり、あらゆる不幸を主人公とその周囲に集約してみせた「つくりごと」の結果であったとしても、見ると聞くでは大違いというか、まさに、映像の力とでもいうべきものを感じさせられる瞬間というのはこういうものかと、ただただスクリーンに目が釘付けにされるばかりであって、それを目にすることができただけでこの映画を見る価値があったと思わされるインパクトだ。映画のカメラが入り込めないような路地にズンズン踏み込んでいき、臭いまでが立ち上ってくるかのように臨場感たっぷりに切り取られる映像。この撮影は凄い。あんな環境で、あれだけのものを撮影するのはどれほど大変なことだろうか。短いショットを積み重ね、新鮮味を感じさせるボリウッド音楽に乗せて映画を貫くリズムを作っていく。もちろん、不必要にガチャガチャ編集してみせるこの映画のルックスがどうにも煩く感じられる瞬間もあるのだが、それが荒削りの躍動感につながっている点は否定できない。

急速な変化と発展の光と影。都市とスラム。絢爛な世界遺産を目当てにあつまる先進国の裕福な観光客たちと、分け前に預かろうと群がる貧しい子供たち。兄と弟、そして思いを寄せた少女。一攫千金の夢をかけたきらびやかなTV番組と筆舌に尽くしがたい人生の辛酸。TV番組に熱狂する視聴者たちと主人公の一途な思い。これを全部まとめて2時間の娯楽映画に凝縮してみせた手腕については、お見事というしかあるまい。ハッピーエンドのその先を、ボリウッド流ミュージカル風味で締めくくるあたりの余裕が素晴らしく、映画が円実からファンタジーに飛翔する感動にあふれている。『トレインスポッティング』には距離を感じていた私にとって、ダニー・ボイルは小手先の技術ばかりという印象があってそれほど面白いと思える作家ではなかった。しかし、しばらく身を寄せたハリウッドを離れ、新たな地平に身を置いて撮りあげたこの作品には、彼の持てる洗練されたセンスとテクニックが物語を語る手段として、そしてなにより、登場人物たちの人生を切り取る手段として活かされており、確かな手応えを感じさせるものになっている。もちろん、映画史に残る作品だと思っているわけではないが、この作品が、映画史に残るエポックメイキングな事件であることは間違いなく、また、時代が求めたヒット作に過ぎないのかもしれないが、何か見たことのないものを見せてもらったという興奮だけは確実に胸に残った。

5/03/2009

Red Cliff Part II

レッド・クリフ Part II 未来への最終決戦 赤壁 決戦天下(☆☆☆)


あいかわらず前説に煩いテロップてんこ盛りの「ゆとり仕様」も癇に障る。異例ながら公開にあわせたPart-I のTV放送時に、予告を通り越して不必要なまでにPart-II 本編内容を垂れ流したのも興を削がれた。それになにより「未来への最終決戦」などという語呂の悪いサブタイトルもセンスが悪い。(原題につけられた「決戦天下」のほうがよほど雰囲気が出ているのにね。。。)しかし、そうでもしなければ投資が回収できないというなら少しくらい我慢してやろう。

さて、現場を想像しただけで逃げ出したくなる5時間大作を真ん中でぶった切った後半部分がようやく公開になったわけである。ようやく、といっても、前半部分の公開から5ヶ月の超特急だ。まあ、シリーズものとはわけが違い、もともと1本の映画を分けているのだから、このくらいのインターバルでも正直いえば長く感じるものだ。Part-I のヒットがよい方向で影響を与えたに違いないが、前作の余韻覚めやらぬうちの公開は英断だし、感謝したいと思う。実際のところ、part-I もそうなのだが、part-II 単独で、1本の映画として捉えるのは意味がない。前半(つまり前作)部分で終わっているキャラクターの紹介と念入りな伏線張りの成果が、いよいよ大きく物語が動き出す後半(本作)のほうになって活きてくる展開である。キャラクターたちはそれぞれの見せ場や活躍のしどころを与えられ、5時間の作品としてのドラマの流れとうねりがクライマックスに向かって集約されていく。

Part-II を見終えて思うことは、このくらいの規模の作品になると、作品としての完成度を云々いう以前に、作品として完成させることができたこと、そのこと自体に価値があるのではないかということだ。

大作『ウィンド・トーカーズ』の興行的失敗をきっかけにハリウッドにおけるトップ・ディレクターとしての座を失ったジョン・ウーが、アジアに帰って製作を開始した念願の企画。途中、キャスティング上のトラブルなどで幾度も危機に見舞われながらも完遂された超弩級のプロジェクト。最新のVFX技術を導入しているとはいっても、気が遠くなるほど多くの人馬が投入され、実物大の巨大セットが組まれ、国境を越えて人気スターを結集し、監督の独自解釈を交えて展開される物語は、映画館の大スクリーン映えするスケールと迫力満点のフィルムとして結実している。演出は幾分大味だが、「義を重んずる登場人物たち」、「男の友情」、「鳩」をはじめとして監督の刻印はいたるところに押されていて、火薬の発明以前でも大爆発はあるし、二丁拳銃ならぬ二刀流のスローモーション大暴れもあれば、刀によるメキシカン・スタンドオフだってある。アクション・シーンの見栄えに関しては勘所に狂いはなく、ジョン・ウー好きとしても一大イベントという位置づけで楽しむことができる。ついでに三国志好きの観客にとってもそれぞれの楽しみどころがあり、ジョン・ウーの独自解釈と作劇を許容しているようだ。

もちろん、ジョン・ウーがかつて撮った大傑作たちに感じられた才気や輝きを、それを見たときの衝撃と感動はここにないし、大規模なアクション史劇の歴史においてことさら傑出した作品だとも思わない。ただ、見たいものは見せてもらったし、満腹感を覚えて劇場を後にした。企画を耳にしたとき、プロジェクトとして瓦解し、大失敗作に終わる可能性を危惧していただけに、ほっとしたというのが正直な気持ちである。

5/01/2009

Gurren Lagann (Part II)

天元突破グレンラガン 螺巌篇 (☆☆☆☆)


ガイナックス製作、2007年文化庁メディア芸術祭アニメーション部門での優秀賞受賞でも話題となったTVアニメ『天元突破グレンラガン』の劇場版である。昨秋公開され物語の前半部分を描いた『紅蓮篇』に続き、後半部分を新作カットと共に再構成したものがこの『螺巌篇』である。4幕構成になっているシリーズにおいて、いってみれば「転」と「結」を担うところであり、ストーリーとしてしっかり完結されている。ところで、前編に当たる「紅蓮篇」は、その個別作品レヴューでも指摘した通り、多分にダイジェスト的であり、尺の短さもあって相当忙しい作品になっていたのは否めないが、一方で、「グレンラガン」という作品の突き抜けた面白さやエネルギーは十分に焼き付けられていたし、それがシリーズ初体験であった私の目にもそれは明らかであった。今回は再放送中のTVシリーズを途中まで見たところで劇場に足を向けた。

本作、『螺巌篇』は、前作の積み残しとでもいうべき第2幕のクライマックスにあたる部分で幕を開けるが、ある意味、この一連の出来事が回想シーンのようにも受け取れるような編集で、一気に時間を7年後に飛ばし、手際よく後半部分のストーリーに突入する。TV版を土台とするならば、割愛せざるを得ないエピソードも多く「あらすじ」を追うのに終始するところだが、話が本筋に乗ってからは『紅蓮篇』で感じられた(ある意味、当たり前の)駆け足感はなく、比較的丁寧に手順を踏んで物語を展開させていて、「再編集もの」に特有の弱さは感じられない。ストーリーテリングの観点で見て、完全新作の劇場作品といってもある程度は通用するレベルで再構成された脚本はかなり練りこまれていると感じた。難をいうならば、TVシリーズではここぞというポイントで使用されたはずの「キメ台詞(俺を/俺たちを誰だと思ってやがるっ!)」が、エピソードの間が極限まで切り詰められていった結果、(結果として)長くはない上映時間のあいだに間をおかず乱発されることになっていることが少々耳に障った。キメ台詞の連発を心地よいリズムとして作品の勢いに転換しているのも事実だが、その価値が割り引かれてしまうのもまた事実である。

「らせん力」なるものと宇宙における生命の進化を中心に据えたスケールが大きく、かつSF的アイディアに満ちた観念的でありながらも怒涛のストーリーそのものの面白さに加え、どんどんエスカレートし、飛躍していくストーリー展開の面白さが前半部分に増して際立っている。しかし、本作の素晴らしいところはそうした物語のスケールや勢いに負けず、それを支える「アニメーション表現」そのもののエネルギーだといえるだろう。監督の今石洋之は影響を受けた人物としてアニメ好きには有名な「金田伊功」の名前をあげているが、その金田伊功が得意とした独特で大胆な誇張表現や構図を駆使した作画スタイルの直接的な影響を感じさせる、これまた大胆で度肝抜かれるようなアクション・シーン、線画や抽象表現が凄まじい本流となって溢れ出すクライマックスの一連のシークエンスなど、日本の「アニメ」が数々の制約の中で積み重ねてきた歴史の最新進化系がここにある。この映像的快感は圧巻といってよく、スクリーンを見ているだけで自然に感動の涙が流れてきてしまうほどだ。こういう表現が、気どった大作でもなければアート作品でもなくて、普通にTV放送された商業アニメーションの「総集編」などという枠組みの作品で見ることができるというところが、この国のアニメの底力なんだろうし、素敵なことだと思う。そういう作品である以上、劇場の大スクリーンで鑑賞するに足る、いや、鑑賞されてしかるべき「体験」だ、といっておく。ぜひとも紅蓮篇と螺巌篇の連続上映が実現することを望みたい。

4/25/2009

The International

ザ・バンク 落ちた巨像(☆☆☆★)


時ならぬ2009年・春のクライヴ・オーウェン祭り第1弾。(ちなみに第2弾はGW公開になる『デュプリシティ』だ。)虚像かと思ったら、巨像だった。良く分からない邦題である。

宣伝がいうような金融資本主義の本質と闇を突き、金融危機を予見したタイムリーな社会派作品・・・というわけではないのである。もちろん、金融機関の信頼性(credibility)に疑問を投げかけるという点ではタイムリーなのかもしれないが、所詮、その程度のことだ。じゃあなんなのか、といえば、これは、新007 を更にぐっと現実寄りにしたような、サスペンス・アクションの佳作であって、決して小難しい映画ではない。ま、ダニエル・クレイグ主演でMI6の諜報員が主人公だとああなるし、クライヴ・オーウェン主演でインターポールの捜査官だとこうなる、ってことだと思えばいい。そういう作品において、現実味のある現代的な「巨悪」が(悪の秘密結社というのではなくて)巨大金融機関であったという話だ。武器から何から調達し、クーデターでもなんでも唆し、国を借金漬けにしてコントロールし、巨万の富を生み出す。そんな悪事が表にでないようにするためには、人の一人や二人を始末することに躊躇はない。そんな悪党を相手に、濃い顔のクライヴ・オーウェンとその仲間が立ち向かう。

そう、クライヴ・オーウェンという人は濃い顔をしているのである。シリアスにしろコメディにしろ、その濃い顔の男が、濃い役柄を、濃い演技で見せるのである。そんな彼を見ていて、始めはあまり好きなタイプだとは思っていなかったのだが、これが不思議なもので、いろんな作品で何度もその顔を見ているうちにクセになってくるのである。もちろん、ここのところの出演作がどれも注目作で内容的にどれも水準が低くないことも手伝っているのだろう。今では顔を拝むのが楽しみなスターの一人になってしまった。本作は、そんな彼の顔の印象的などアップで始まる。その直後、カットが変わり、別の男二人が車の中で会話をしている。会話が終わり一人の男が車から降りて歩き始める。観客は、そこで初めて、クライブ・オーウェンが道路の反対側から、同僚の捜査活動を見守っていたのだということがわかるのである。そして、あっと驚く出来事がクライブ・オーウェンの、ほんの目と鼻の先で起こるのだ。これは意表を突く、すごい導入部だ。このリズム、この呼吸で本作もまた面白い作品に仕上がっているに違いないと期待が跳ね上がる。

インターポールの捜査官というのは、捜査を行い情報を関係各国の警察組織に提供することが目的であって、原則的には逮捕するなどの行為は行わないのだそうである。しかし、もともと英国の警察組織にいた男だという設定の主人公は、米国やイタリアの現地捜査官らと協力しながら、悪党を追い詰めるための決定的な証拠を手に入れるため、暴走気味の苦闘を繰り広げていく。物語の舞台もベルリン、リヨン、ミラノ、ニューヨーク、イスタンブールと華やかに移り変わり、ニューヨークでは有名な観光スポットでもあるグッゲンハイム美術館内部で大規模な銃撃戦が展開されるのが見せ場になっている。誰もの記憶に残るあの特徴的な建築を再現したセットで撮影したパートと、短期間許された実際のロケで撮影したパートを巧みに組み合わせて完成されたアクション・シーンは臨場感満点で、壁にボコボコ穴があいていくのが見ていて心配になってくるくらいの迫真の出来栄えである。

現実にあった金融機関のスキャンダルを題材にしているし、ほろ苦さの残る幕切れが用意されていて、単純なハッピーエンドというわけではない。(なにしろ、「悪党」をやっつけたところで、悪事を働く仕組みがなくなるわけではない。)そのあたり、能天気で単純な、「ハリウッド調」と一線を画しているわけだが、それが『ラン・ローラ・ラン』で名前を売ったドイツ人、トム・ティクヴァを監督に起用した成果といえるかもしれない。米国の娯楽映画のエッセンスや呼吸というものを、欧州の世界観とセンスで消化できる俊英だといえるだろう。共演のナオミ・ワッツは米国側から捜査に協力する役柄で、濃い顔の並ぶ作品にあって、まさに一服の清涼剤とでもいうべき存在であった。

Gran Trino

グラン・トリノ(☆☆☆☆)


民族的なアイデンティティを持たない米国においては、多様性を尊びながらも、基本的なレベルで言語や価値観を共有することによって初めて「国民」足りうるといってもよいのだろう。ポーランド移民の子孫で、国家の大義のために朝鮮戦争の戦場に立ち、戦後は自動車工場の組立工として勤め上げた男が主人公である。アジア系やアフリカ系などに対しての拭いがたい偏見を持ち、絶対にTVで放送できないような差別的な悪態をつくこの男が、隣に住むアジア系の少年に対して、「アメリカの男」のあるべき姿を教え込んでいき、最後には自分が未来を託したものたちのために人生を賭けた行動に出るというのが本作のプロットである。現代劇ではあるが、老ガンマンが若者の手ほどきをする西部劇のような味わいがあり、それと同時に、デトロイト&ビッグ3の「もの作り」の国であった米国の終焉、白人の国としての米国の終焉が重なり、「最後の主演作だ」というイーストウッドによる、彼がかつて演じてきたキャラクターたちへのケジメでもあって、どのようにでも解釈と深読みを可能にする重層的な寓話に仕上がっている。久しぶりのイーストウッド主演の娯楽作を笑って楽しんでいた観客は、いつしかこの作品が示唆するサブコンテキストの深さに打ちのめされてしまう。その落差たるや、ある意味で、『ミリオンダラー・ベイビー』の落差に匹敵する。

そんな映画のシンボルが、タイトルにもなっている1972年型フォード・グラン・トリノだ。石油ショック、排ガス規制前の、不必要なまでに大型で、マッチョでありながらも優美なデザインの車体に、湯水のようにガソリンを喰らう大排気量のエンジンを積んだ、いまや過去の遺物(レガシー)と化したアメ車らしいアメ車である。主人公は、何あろう、この車のハンドル周りのユニットを、工場で自ら組み付けた男である。アメリカの一人前の男は、(故障の多い)車のコンディションをきちんと保てなくてはならない。ピカピカに磨きたてられ、完璧にメインテナンスを施されたグラン・トリノを乗り回すでもなく、眺めて悦にいっている男と、隣家の少年は、このグラン・トリノをきっかけに交流を持つことになる。映画のタイトルで、映画のシンボルで、物語を前に動かすきっかけになる「グラン・トリノ」は、しかし、映画の中で終始、ガレージに鎮座したままである。途中、主人公の信頼を得た少年が、デートのために車を借りるというエピソードが出てくるが、そのシーンはフィルムに移っていない。映画の最後、この車を譲り受けた少年が、イーストウッド自身が歌う主題歌を背景に車を走らせるその瞬間に、われわれ観客は、はじめてそのエンジン音を耳にする。レガシーは、次の世代へと受け継がれたのである。血のつながった、トヨタのセールスマンやへそ出し少女にではなく、アメリカの正当な男としての道を歩み始めた、モン族の青年に。

この映画が後に残す余韻の大きさに反し、これはとても小さく、軽やかな映画である。デトロイト郊外の荒れ果てた住宅街を舞台とし、自身以外に名の知れた大スターのいないキャストたち。主人公の頑固さや差別意識、軽口のやり取りで観客を笑わせて楽しませ、少年らとの交流がしみじみと描かれるだけ、そんな作品だ。家の補修や芝生の手入れを教え、ガレージにずらりと並んだ工具類の使い方を教え、知合いの現場監督に頼んで職を斡旋し、イタリア系の床屋にでかけて「男同士」の口の聞き方を訓練する。短期間に、安上がりに、本作とは対照的に大掛かりだった『チェンジリング』後の息抜きかのように、いかにも肩の力を抜いてサラッと作られたかのようにも見える作品なのである。イーストウッドが興味を持ち、主演するといわなければ、そのままお蔵入りになっていても不思議ではない小さな、そして地味な脚本。これを気に入ったイーストウッドは、舞台をデトロイト郊外へと動かしたほかは、特に変更を加えなかったという。それなのに、イーストウッド主演を前提に彼が自ら企画開発をし、それにあわせてテイラーメイドされた脚本であるかのように感じられるところが不思議である。この映画の世界を、その題材を、完全に自分のものとしてたぐりよせる洞察力と、自分の世界として再構築する演出手腕には驚嘆するほかない。

主人公が朝鮮戦争のベテランだという設定で、戦場で行った行為が心の重荷になっている。一方、主人公が交流を結ぶことになるアジア系の「モン族」はベトナム戦争による難民である。朝鮮戦争と、ベトナム戦争。共にアメリカの大義と正義を振りかざした戦争だ。映画の中でも説明されるが、モン族はCIAに利用されて米国に味方した結果、虐殺されたり故国を追われることになったという。CIAもまた罪作りなことをしたものだ。この映画は古きよきアメリカの終焉とレガシーの継承が中心におかれてはいるものの、決して過去の米国と、米国がたどってきた道を無条件に賛美するようなものではない。清算すべき過去を背負った老人は、よき伝統だけを後に残すべく、そこに人生をかけるのである。その決意と潔さに深く、深く感動する。

4/15/2009

The Pink Panthur 2

ピンクパンサー2(☆☆★)

スティーヴ・マーティンを主演に迎えて仕切りなおした新生『ピンクパンサー』シリーズ第2弾である。まず本作がどうのこうのいうまえに、この新シリーズは面白いのか?という問いに簡潔に答えるなら、たいして面白くはない、といわざるを得ないだろう。ただ、こうも思うのだ。フランチャイズとしての「ピンクパンサー」の名前やヘンリー・マンシーニの名テーマ曲が広く知れ渡り、主演のピーター・セラーズの死後にも何本も続編が作られたほどの人気があったとはいえ、そもそも一世を風靡した「ピンクパンサー」シリーズの映画がそれほどまでに面白い映画だったのだろうか?と。8本もある作品の全てを否定するつもりはないが、笑えない上に筋すらも良く分からないいい加減な作品も多く、アベレージは相当低かったと思っている。ついでにいうなら、新シリーズの監督であるショーン・レヴィやハラルド・ズワルトもそれほど冴えているわけではないが、ブレイク・エドワーズだってヘンリー・マンシーニの音楽抜きには見られないようなろくでもない映画をたくさんとっているスカ監督だ。

しかし、まあ、映画産業の常であるように、有名なフランチャイズを眠らせておくのはもったいないと "reboot" され、前作の興行的・批評的不評をものともせず、こうして続編までも作られてしまった。まあ、安上がりに作れば意外にうまみのある商売ができるのがコメディというジャンルなのかもしれない。作られてしまった以上、特に、スティーヴ・マーティンのファンであれば、これは見ないわけには行かないのである。故ピーター・セラーズを敬愛していると伝えられるマーティンのことだから、当初は迷いもあっただろう。彼なりの「クルーゾー」を創造できると確信できるまでOKを出さなかった彼は、結局、自ら脚本にも参画するかたちでシリーズに関与することになったのである。演技者としてだけでなく、クリエイターとしても関与している本シリーズは、スティーヴ・マーティンのフィルモグラフィにおいて一定の重みがあるということだ。

ところで、スティーヴ・マーティン版の「クルーゾー」は、前シリーズから引き継ぐ形で「フランス風の馬鹿げたなまりで話すナンセンスな台詞」と「フィジカルなドタバタ」を基本にしているが、方向性は同じでも、演ずる役者が違うと笑いの質や見せ場も随分異なるものである。90年代以降は大人しいファミリー・コメディへの出演が増えていたマーティンが、「クルーゾー」という特異な人物を演ずる、いわゆる「キャラクターもの」であり、ナンセンスでフィジカルな芸を(久々に)堪能できる作品であるというのがファン的な意味で本シリーズの存在意義である。今作でも奇妙な振り付けと独特のリズムで場をさらうダンスなど、彼が昔得意としたネタを髣髴とさせるフィジカル芸がふんだんに詰め込まれており、それを楽しめる観客であれば退屈することはあるまい。『12人のパパ』シリーズなどで死ぬほど退屈をした(はずの)スティーヴ・マーティン好きにはそれだけで嬉しいと思えるはずだ。

映画全体としてみると、なんだか無駄に豪華なキャストを起用していながらそれぞれの見せ場を作ることに失敗しているのがもったいないところである。前作から続投のジャン・レノ、エミリー・モティマーに加え、ジョン・クリース、アンディ・ガルシア、アルフレッド・モリーナ、リリー・トムリン、ジェレミー・アイアンズが出演。ジョン・クリースは前作でケヴィン・クラインが演じたドレフュス役を引き継いだ形だが、利己的・権威主義的なこのキャラクターとジョン・クリースの持ち味がバッチリ合っており、マーティンとの相性も悪くないだけに、二人の絡みをもっと見せてほしいところであった。アンディ・ガルシアはそれなりのスクリーン・タイムをもらっているが、演出がタコなので、コメディに必要なリズムと軽さが足りない。アルフレッド・モリーナは完全な無駄使いで何のための起用だかわからない。こうしたビッグネームに囲まれて日本代表を演じるユキ・マツザキは、敢えて日本訛りで頑張ってはいるものの、あからさまに周囲との格の違いが見えてしまって可哀想。キャストでの一番の見所は、その昔『All of Me』でマーティンと共演したこともある大ベテランのコメディエンヌ、リリー・トムリンだろう。彼女とマーティンの絡みはさすがに呼吸が合っていて、コメディのリズムになっている。コメディ好きとしては、そんなシーンを見るだけで少しほっとするというものだ。

4/11/2009

Frost x Nixon

フロストxニクソン(☆☆☆☆)
 

そういえば、随分長い間、ロン・ハワードの作品には興味を失っていた。今頃になって持ち出すのもなんだが、『スプラッシュ』、『コクーン』の頃が一番好きだった。固有名詞としての「ロン・ハワード」に興味を失ったとはいえ、まあ、彼が手掛けるのが一般にいうところのいわゆる「話題作」だったりするので、ほとんどの作品は見ているし、大味で無難な大作路線の谷間にそこそこ面白い作品を発表してはいることにも気がついてはいるつもりだ。しかし、ここのところ話題作の続いているピーター・モーガン脚本による今回の新作は、「そこそこ面白い作品」で片付けるにはわけにはいかない。土台となる舞台劇があったとはいうものの、熟練の腕で見せる久々の快作である。しかし、それほど見応えのある作品が、気がついたら賞レースから消えていた。まあ、賞が全てではないのだけれど、そこには実話至上主義一派の陰謀が絡んでいるに違いないのである。

逆説的に聞こえるかも知れないが、この映画の問題点は、(最近、別の映画を評して同じ表現を使ったけれども)面白すぎることにある。世の中には「実話」であることを過度にありがたがる一派とでもいう人々がいて、実際の出来事に材をとりつつ想像力を駆使して物事の「真実」に迫ろうとする試みについて、歴史の改竄であるとか、大衆娯楽映画への安易な迎合だと非難する、つまりは、実話の再現ではなく、物語としての完成度と面白さを優先したことが許せない、と、こういうわけである。確かに、そこにはデリケートな問題が横たわっている。例えば、何らかの政治的目的のために歴史を一方的に改竄しようとする悪辣な試みは断じて許されるべきではない、と思っている。

しかし、この映画がやろうとしていることは、そういう意味での「歴史の改竄、事実の改変」ではないはずである。この映画は、フロストによるニクソンのインタビューというイベントを切り口に、ニクソンという人物の複雑さを描き、向かい合う二人の人物から、その瞬間から、端的で力強いドラマを引き出そうとしているのである。そのために、イベントの裏側で起こっていたことについて綿密な取材を行ったうえで、「ニクソンからフロストへの電話」であったり、ニクソンが決定的な発言にいたるプロセスにおける側近の役割などを中心に、敢えて「フィクション」の力を借りているのである。それが、物語が迫ろうとした「真実」を描きだす上での効果が絶大であることは映画を見たものであれば異論を唱えるものはなかろう。そして、物語として、映画としての完成度と面白さを格段に高めていることもまた、事実である。

この映画を見ていて作り手の誠実さを思うのは、問題とされる「電話」のくだりについて、ニクソンに2度までも念押しさせるかたちで、それが実際にあったことではなく、フロストの脳内妄想であったかもしれないという描き方をしていることである。そこまで気を使う必要はないように思うのだが、これは作り手が「事実」を知っており、かつ、尊重する意思があるということを、「実話を過度にありがたがる一派」への目配せをしながら伝えようとしている、そういうことだと思うのである。また、そういう機能を果たしつつも物語としての深み、余韻の深さにつながっているところが巧みである。ここまでしているのに、この映画を「事実と違う、改竄だ」と非難するのは、非難する側に問題があるとしかいいようがない。

もちろん、素晴らしい脚本、脚色を輝かせているのは俳優たちである。既に絶賛されているフランク・ランジェラとマイケル・シーンの、それぞれの人物の本質を捉えた演技は聞きしに勝るものであるが、脇を固めるケヴィン・ベーコン、マシュー・マクファディン、オリバー・プラットといったあたりの役者の助演ぶり、サポートぶりが素晴らしいと感じた。対決ということで主演の2人にばかりスポットが当たるのは仕方ないが、キャストの、アンサンブルとしての見事さは言及される価値があるだろう。

舞台劇の脚色であるということで、確かに限られた場所、限られた人数の会話によって進行する点から「舞台劇のよう」だという感触もありながら、「登場人物たちが後にこのイベントについて振り返ってインタビューに答える」という、物語のつなぎ部分にあたる脚色の妙が効いて、映画としての時間的、空間的広がりを十二分に感じさせるものになっている。このあたりは、同じく舞台劇の映画化で、同時期に公開され、かつ演技で話題を呼んだという意味でも共通点のある『ダウト~あるカトリック学校で』と比較しても成功していると思う。これもまた『ダウト』と通低する部分であるが、過去の(あるいは、過去のある時代だと設定された)出来事、物語を通じて、ブッシュのアメリカを、あるいは、その終焉を、意図してか、結果としてか、反映させることになっているのが興味深いところである。

鑑識・米沢守の事件簿

相棒シリーズ 鑑識・米沢守の事件簿(☆☆★)


本作は、ご存知の通り、人気TVドラマ『相棒』の映画化作品が大ヒットしたことを受けて製作された派生(スピンオフ)作品で、六角精児演じるドラマの脇役が主人公となる作品である。物語としても映画版『相棒』の途中から派生するかたちになっている。まあ、これだけ多くのTVドラマが次々と「映画化」され途切れることなく公開されている現状をみると、TVの延長のような映画ばかりが氾濫することを憂いている場合ではなく、もはやこれはひとつのカテゴリーとして認知すべきなんだろう、と、思う。映画の興行が一部の話題作と大作だけで成り立つわけがなく、隙間を埋め、かつ、安定的に客の歓心を買える商品として(量産される)作品が必要である。これは昔もそうだったし、今でもそうなのだ。そうした作品の今日的姿のひとつとして「TVドラマの映画版」がある、ということなのだ。

そういう観点でみると、東映の「映画屋さん」がスタッフの中核を占めている『相棒』シリーズの映画には、映画そのものの今日的な位置付けということだけに留まらず、かつてプログラムピクチャーとして量産されていた軽い娯楽映画の雰囲気が濃密に漂っているところが面白い。最も、『相棒』の場合、TVシリーズの方がTVドラマ的である前に、プログラムピクチャー的な作品であるから、劇場という空間、銀幕という場所に「帰って」きても違和感がないどころか、どこか居心地がよさそうなところがあるのが、更に面白い。もちろん、今風のシネコンより、一時代前的なコヤが似合うのはいうまでもないことだ。

TVの2時間スペシャルでいいんじゃないの?という声あることを承知で云うのだが、『鑑識・米沢守の事件簿』は、上記の文脈においてそこそこ楽しめる作品に仕上がっている。シリーズのファンなら、TVシリーズが再会されるまでの箸休めとして、なおのこと楽しめるのは間違いないだろう。私はそれほど熱心なシリーズのファンというわけでもないので、キャラクターだ、ストーリーだという前に、単純に、映画としてのテンポの良さが心地よく感じられた。カット尻の短いショットを小気味良くつないだ「アクション映画の呼吸」とでもいうようなものが、ぐいぐいとストーリーを前に引っ張っていく。さすがかつてアクションで鳴らした大ベテラン、長谷部安春が監督しているだけのことはあって、TVドラマ的でありながら、十分に(B級)映画的な匂いを感じさせるのが、世に溢れる他の「劇場版」と一線を画すところだと思う。

ただ、残念ながらもろ手を挙げて評価をしたい作品になっているわけではない。この作品で失敗しているところは、主人公米沢とコンビを組むことになる萩原聖人演じる「元妻を失った所轄の刑事」のキャラクターの造詣である。これは脚本、演出、演技の全てのレベルにおいて、うまくいっていない。元妻の死で平静心を失っているというところまでは良いのだが、これでは「元妻を失った普通の人」か、せいぜい、「元妻を失ったダメ刑事」、冷静に見ると、単に無能な刑事にか見えないのだから困ってしまう。観客が感情移入しなくてはならないキャラクターなのに、この男の言動のひとつひとつが非常に苛立たしく、映画全編を通じた悪印象につながってしまっている。

そのほか、本作における「ゲスト」的なキャストに言及すると、あまりにも分かりやすい「悪役」としての伊武雅刀というキャスティングはあまりに予定調和的であるが、この映画の性格を考えれば、むしろ、そういうビジュアル的な分かりやすさは美徳と考えるべきだろう。単に悪いやつというのではなく、「セクハラ」を示唆する上で伊武雅刀の嫌らしいニヤニヤ笑いそのものがセクハラ的であり、効果絶大である。彼の部下にあたるポジションで市川染五郎を連れ出したキャスティングは大当たりである。スーツを着せると案外、小心な組織人が板についてしまうところが良いし、善だか悪だかわからない曖昧なニュアンスを出した彼の演技が作品を格段に面白くしていた。市川染五郎のセクションの職員役である片桐はいりだけは、正直もう少し何とかならないものかと思ったが、比較的年齢層の高い場内の観客には彼女のコミック的演技が受けていたので、それが狙いなら正解ということなのかもしれない。