1/31/2010

The Lovely Bones

ラブリー・ボーン(☆☆)


理不尽にも命を奪われた者が、霊媒師の力を借りて愛する者を守り、犯人に復讐を遂げたのちに感動的に昇天していく・・・のはジェリー・ザッカーの『ゴースト』だった。本作の予告編がミスリードして観客に期待させるのも、おそらくはそういう物語であるだろう。

主人公が「殺される」ところで幕を開ける物語が、とりもなおさず「ハッピーエンド」で幕を閉じるためには、ことの真相が明らかになるのはもちろん、(愛する者のためにも)何らかの形で犯人への復讐をとげ、無念を晴らす必要がある。だが、ピーター・ジャクソンの新作『ラブリー・ボーン』は、この当たり前とも思える常道をことごとく否定したところで、なおもハッピーエンディングを迎える作品として成立させようというチャレンジを試みているところがユニークだ。しかし、それが必ずしも成功しているとは思えない。

シアーシャ・ローナン演ずる主人公は、近所に住む男によって無残に殺されてしまうが、意識だけ、この世とあの世の中間のような場所に留まって、事件をきっかけに崩壊した家族の行く末を見守ることになるという話である。家族の再生を見届けた少女は、自らの心残りを晴らしたのち、昇天していく。まあ、その「心残り」というのが、年頃の少女らしく、どのように殺されたかを考えると、ちょっと泣かせるものではある。

しかし、殺人事件の真相は表向き明らかにならず、劇中で事件は解決しない。その意味で犯人への復讐は遂げられないし、そもそも少女の遺体すら発見されないまま終わる。思いつく限りの定型パターン崩しだし、これは居心地が悪い。

もちろん、被害者家族を中心に据えた社会派のドラマであったなら、こうした展開も掟破りではない。家族が前に一歩踏み出すためには、過去に埋めてしまわなくてはならないものがあるということ、真犯人を明らかにし、復讐を遂げても死んだ少女は戻らないし、家族の傷も癒えるとは限らないのだということ、無残な少女の死体が発見されたらされたで、家族が辛い思いをするだけだということ。ここで描かれるドラマは、十分に理解できるものである。しかし、この映画はそうしたドラマへの踏み込みが中途半端に終わっている。

死んでしまった少女が体験する死後の中間世界が映像的な見せ場となっているはずだが、平凡でつまらない。手間隙がかかっているのは半端ではないエンドクレジットの長さでも分かるから、少し勿体無いところだ。スタンリー・トゥッチが珍しいタイプの役を演じて賞レースでも名前が上がってきているが、作品の出来栄えに足を引っ張られることになるだろう。

1/17/2010

Surrogates

サロゲート(☆☆☆)


SFi 映画はヴィジュアルが命である。思うに、この作品はそのヴィジュアルを作り上げるだけの金がなかったか、監督がそちら方面に興味がないかのどちらかなのだろうと邪推する。8000万ドル級の(中規模)予算では正直、たいしたことができないご時勢である。しかし、曲がりなりにも近未来の設定で、街を走っている車が全部、現行モデル(やそれより古い)車っていうのはどうなのか。端的にいえば、これが本作の致命的な弱みの象徴だ。

「身代わりロボット」が普及した近未来のボストン近郊を舞台に、ブルース・ウィリス演ずる刑事が殺人事件を追う。タイトルとなっている「サロゲート(Surrogate)」は、代理、代用の意を持つ。時期的に見て、製作中だった"Avatar" に触発されての企画なんだろう。しかし、「遠隔操作する身代わり」というモチーフこそ似ているが、作品の方向性は全く異なる。興行的に大成功を収めているあちらの作品では、最新のテクノロジーによってまるごとひとつの世界を創造してみせるわけだが、ストーリーとしては古典的な物語を焼きなおしているだけだ。それに対する本作は、気取らない娯楽アクションの体裁で、致命的なほどに安っぽいヴィジュアルながらも SFi 的モチーフがもたらす特異なシチュエーションやドラマに焦点を当てている。

本作の監督、ジョナサン・モストウは、映画好きならば『ブレーキ・ダウン』や『U-571』で新鋭として期待を持った名前であろう。敢えて火中の栗を拾った『ターミネーター3』が不評をかこったためなのか、これが劇場用監督作としては久々の新作ということになる。先に指摘したようにヴィジュアル面は情けないくらいにプアなので、それ自体が作品評価を下げるのは致し方あるまい。しかし、タイトにまとまった89分に、SF的なアイディアと社会風刺、哲学的な問いかけ、夫婦のドラマなどがさりげなく織り込んだ職人的な手際の良さは評価されてもいい。古くからのブルース・ウィリス好きとして、サロゲートとしての彼の姿が、若いころのままであるところがものすごく感慨深い。いつの間にか時は流れているものだね。

冒頭、ニュース・リールを使って一気に設定と状況を説明しようという手口は、尺の短い娯楽映画としては手際のよいやり口である。深読みすると、これは近未来の話ではなく、どこかで分岐したもうひとつの世界とも考えられる作りになっていて、先に槍玉にあげた「現行モデルの車」が走っているのは、それが理由かもしれない。だが、いくらパラレルワールドといっても、この「サロゲート」の普及を全世界の98%などと大風呂敷を広げるから嘘っぽくなる。しかも、「世界」といっておきながらボストン近郊しか映像にして見せられないのだから、かえってしょぼくれている。いっそ、北米の大都市圏を中心とした流行、くらいにしておいた方がよかっただろう。また、ここまで徹底した「サロゲート社会」が、実際問題どのように機能しているのか、ストーリーの中で説得力をもって見せ切れていないのは脚本の課題だろうか。ドラえもんの「もしもボックス」噺の方が、(ナンセンス漫画とはいえ)むしろそのあたりがよく考えられていたりする。

1/09/2010

Julie & Julia

ジュリー&ジュリア(☆☆☆)

米国ではTV出演や著作であるフランス料理本で有名なジュリア・チャイルズの全レシピを、現代の女性が1年間で制覇するさまをつづった blog を原案にして脚色、外交官の夫人であったジュリア・チャイルズその人が、フランス滞在中に料理を学び、本 ("Mastering Arts of French Cooking" 1961年刊)を出版するまでのストーリーと折衷しての映画化である。ネタに詰まって blog 頼りなのは、太平洋のこちらも向こうもさして違いがないところ。(米国メジャーの作品では本作が最初のBlog映画になるらしい。)

本作を手がけたのは、2000年代に入って製作ペースと評判を大きく落としたかつての人気脚本家・監督のノーラ・エフロンである。脚本家としてはともかく、監督した90年代のヒット作はさして面白いと思っていなかったので、そもそも監督としては過大評価気味だったと思っている。本作は4年ぶりとなる作品なのだが、こちらの先入観を覆すというのか、ここのところの不調が嘘だったかのように面白いのだ。彼女の監督作品では一番いいかもしれない、とさえ思う。

まあ、本作の面白さは、メリル・ストリープが「再現」するジュリア・チャイルズのパートによるものだ。エピソードが面白いし、メリル・ストリープの成りきり演技が見物である。賞取りにいくにはいささか軽い映画が多いとはいえ、ここのところのメリル・ストリープは作品にも役にもめぐまれていると思う。

それに比べ、主人公であるはずの女性のパートは、ドラマとして成立していない。この作品がもし、(たまたまメリル・ストリープも出演していた)『めぐり合う時間たち』的、つまり、ひとつの共通アイテムを巡って、複数の世代にまたがるドラマを展開することを狙った野心的な作品であれば、これは映画の根幹に関わる問題になるのだが、作り手もそんなことは承知しているかのように気負いのない作り。ジュリア・チャイルズのエピソードを語る「つなぎ」として機能すれば十分という読みがあったとしたら、それは賢い判断だといえよう。もちろん、演じるエイミー・アダムズのキュートさが全てを帳消しにすることも計算の上に違いあるまい。