5/24/2008

Rambo

ランボー 最後の戦場(☆☆☆)

『ロッキー』に続いて自身のヒットシリーズを復活させてきたシルベスター・スタローン。ロッキーもそうだったが、こちらも自分で脚本・監督を手がける力の入れようだ。変える場所のないベトナム帰還兵の物語として始まったこのシリーズ、回を重ねるたびにわけの分からないものに変貌し、それでもアクション映画として面白い2作目はともかく、「怒りのアフガン」(邦題で)と銘打った第3作などはいろいろな意味で失笑もの、スタローン株の暴落を誘発するきっかけになったのではなかったか。

そんなシリーズの主人公、ジョン・ランボー。アフガンでの一件のあと、国に帰るわけにもいかず、ミャンマーの奥地で蛇とリをしてひっそりと生きていたというのがこの映画の始まりだ。ランボーという男は好むと好まざるとに関わらず、戦闘のプロフェッショナルであり、人殺しのプロフェッショナルなのである。心に深い傷を負った彼であるが、そんな男が自分の本質と向き合う時と場所は、「自らを守ることができない善良で弱い人々が、武力や権力による弾圧に苦しんでいるところにしかない」というのがスタローンの至った結論なのだろう。ミャンマー軍事政権下において苦しむ人々をサポートする(ナイーヴだが善良には違いない)NGOの依頼を受け渋々道案内を買って出たランボーが、最後には問答無用のミャンマー軍大虐殺に至る物語として完成したのが本作である。

この映画は、「アフガン」のときのように痛みと無縁の大量の死が描かれているわけではない。メル・ギブソンが自らの監督作で先鞭をつけたような、痛みを伴う血塗れの戦闘が直接的で激しいバイオレンス描写で描かれている点で、これまでの3作のどの作品とも雰囲気が異なる。80年代のアクションヒーローを甦らせておいて、どこで身に着けたのかというような時代に合わせたスタイルの演出を見せるスタローンは、実はものすごく柔軟な才能の持ち主なのかもしれない。しかし、というべきか、それゆえにというべきか、ここには娯楽映画らしいメリハリや息抜きはない。ユーモアもなければ、お約束もない。物語が始まったら一揆阿寒に突っ走る92分なのである。そう、お約束といえば、怪我をしたランボーが、痛そうな自己治療・即席手術をするシーンであったり、一度は捉えられた上、脱出して反撃などといった、これまでのシリーズで見慣れた「印」や定番のストーリー展開がそれに当たるが、この映画にはそのようなものは一切ないのである。最近のハリウッド映画の長尺化傾向にも真っ向から反旗を翻し、(「ターミネーター」あたりを起点にはじまったと思われる)「いつまでも終わらず、永遠に引き伸ばされるクライマックス」になれた観客が、「え、もう終わり?」とびっくりするくらいあっさりとエンドマークを打つ潔さなのである。

しかし、本作の最大の見所は、激しい戦闘が終わったあとだ。なんと、ランボーはこの間の長い道のりの果て、故郷に帰るのである。たしかに、あれから長い時間がたち、いろいろな意味で米国も変わった。その変化をランボーがどう感じるのか、それはわからないが、長ロングショットで捉えたランボーの帰郷、そこにかぶさるジェリー・ゴールドスミスの書いた御馴染みのテーマ曲。そこにはなんともいえない余韻があり、感慨深いものがある。このラストシーンにこそ、この映画を作った価値があったと断言しよう。あとの部分は、正直どうでもいいや。

5/10/2008

隠し砦の三悪人 The Last Princess

隠し砦の三悪人 The Last Princess (☆☆)

正月映画として公開されたリメイク版『椿三十郎』に引き続き、またしても黒澤、1958年の敵陣突破アクション『隠し砦の三悪人』のリメイクが登場である。手掛けているのは樋口真嗣監督。監督作としては『ローレライ』とか『日本沈没』とか、どうにも手放しで喜ぶわけには行かないような凡作ばかりを連打しているが、他者の作品に提供した画コンテや平成ガメラ三部作での仕事から、画作りの巧さには定評のあるところ。個人的にもそういう方面での期待は失っていないので、良くできた脚本さえあれば面白い作品ができるだろうと、手本となる(オリジナルの)作品があるのだから、よもや大きな失敗はないだろうと劇場に足を運んだ次第だが、期待はまたしても裏切られた。

『隠し砦の三悪人』といえば、ジョージ・ルーカスが最初の『スターウォーズ』を作るのに当たって参考にしていることでも有名で、物語の構成やキャラクター、場面によっては構図や演出までにもその影響を見ることができる。

今回のリメイクは、オリジナルの脚本をそのまま使用した『椿三十郎』とは違い、中島かずきによる新たな脚色を行っているのが注目点である。この脚色が『スターウォーズ』を経由して、原典に先祖返りするかのような脚色となっているのが興味深いところだ。オリジナルにはなかった若武者(ではなく、農民だけど)のキャラクターを追加、物語の中心に置いているが、これはルーク・スカイウォーカーの位置付けに当たるのだろうし、オリジナルの主人公にあたる真壁六郎太にはある種、ハン・ソロ的な役割もダブらせている。もちろん敵側の親玉は大仰な黒マスク姿だ。C3POとR2D2のモデルとされた凸凹コンビのコメディリリーフは、逆に1人のキャラクターに集約されている。まあ、新キャラクターを足した分、どこかで引き算が必要になるということか。

一部に、そこまで『スターウォーズ』がやりたいなら、『スターウォーズ』をリメイクしろ、という意見もあるようだが、私自身、『スターウォーズ』に熱狂し、その後にさかのぼって黒澤映画を見た世代であるから、この作品を今リメイクするとなれば、オリジナルが周囲に残した影響をまるごと作品世界に取り込むというアプローチはむしろ自然なことのように思われる。

何にインスパイアされようと構わないが、何か原典の要諦を考え違いしているところにあると思われる。この作品はもともと「降りかかる危機また危機をどのように切り抜けて敵陣を突破する」というそれだけの話であり、テンポ、スリル、スピードが命なのである。だから、これをリメイクするのであれば、まさにそこのところでいかに知恵を絞るか、スリルとスピード感をいかに現代の感覚とアイディアで再現するのかというのが、キモだといえよう。しかし、本作、不思議なことに、その要たる部分に何のアイディアも工夫もない。

その代わり、松本潤が演じる「新主人公」の成長やら、長澤まさみ扮する姫と主人公のラブロマンスやら、横道ばかりに力が注いでいる。スケールの大きいアクションにしようと力を込めるのもいいが、なんだか爆発で誤魔化しているようにも思われる。いや、ここに必要なのはドッカーンというサプライズではなく、はらはらするようなサスペンスではなかったのか。どうせハリウッド流の娯楽大作をテンプレートにしているのだろうが、手本にするものが違うだろう。

要を見誤った脚本も良くないが、キャスティングはもっとダメだ。アクション時代劇の主人公としてヒョロヒョロな松本潤というのは何なのだ。これが成長し、逞しい若者になるというのならともかく、彼にはそういう演技は無理だった。さらに、1人コメディリリーフの宮川大輔のキャラクターも、計算違いだかなんだか、画面に映っているだけで不快である。また、長澤まさみも精彩がない。これは脚本の問題もあるとは思うが、むしろ50年も前に作られた原典のヒロイン像のほうがよほど現代的で魅力的だというのは問題だろう。

オリジナルを尊重して見せた『椿三十郎』も失敗作だったが、現代的に脚色して見せた(はずの)本作もまたこんな体たらくだと、困ってしまう。せっかくオリジナルという面白い映画の手本がありながら、何故このように無残なことになるのだろうか。少なくとも黒澤リメイクを云々いう前に、今回も底抜け大作監督の汚名をそぐことができなかった樋口真嗣には、そろそろ監督をご遠慮いただくことをお願いした方がよいかもしれない。

The Myst

ミスト(☆☆☆★)

異次元というか異世界とこの世の境界線が偶発的に破れてしまい、凄まじいパワーを持つ異形の化け物があふれだしてくるという、ラブクラフトな雰囲気も感じさせるキングの中篇「霧」。この映画は、霧の中に潜む得体の知れないものを前にして、閉じ込められた人間たちがどう行動するのかというドラマを丁寧に描いていることで評価を受けるのかもしれない。しかし、それはこの話を撮る以上は「本筋」として当たり前のこと。むしろ、霧の中を徘徊する宇宙神話的な化け物たちの息遣いを感じさせるスケール感をこそ、評価すべきではないか、と思う。もちろん、「化け物」というのは、9/11 やニューオリンズなど、日常生活に突如襲い掛かった災厄のメタファーとしてみることもできるだろう。今の時代、サブコンテクストに9/11に端を発した社会不安がないわけがない。しかし、本作を覆い尽くす底知れぬ絶望感の源は、あれだけの化け物を出しても決してお笑いに転化させないフランク・ダラボンの確かなホラー魂にこそ根差している。いうまでもないが、この人は無類のキング好きなだけでなく、ホラー映画の脚本で売り出した過去を持っている。

この作品の映画化がフランク・ダラボンの手になる幸せはいろいろあるかもしれないが、やはり、彼のネームバリューによって(派手ではないかもしれないが)確かな実力のある役者が集まっていることだろう。狂信的な宗教おばさんを演じたマーシャ・ゲイ・ハーデンだけではない、いかにもぼんくらな犠牲者クリス・オーウェンとか、無知蒙昧なブルーカラーぶりが見事なウィリアム・サドラーとか、そしてもちろん、主人公を支えることになる射撃の名手を演じたトビー・ジョーンズらが、見事なアンサンブルキャストを形成している。なにしろ、これまでに安手に映画化されたキングの短編で何が辛いかといって、まず役者のレベルが落ちることであった。(もちろん、ついでに、安っぽくセンスのない特撮にも責任があるのだが。)主演にトーマス・ジェーンという、新しいほうの「パニッシャー」(古いほうはドルフ・ラングレンな。)が起用されたと知ったときの不安は映画を見ることによって完全に払拭された。トーマス・ジェーンも花のある人ではないが、良識があると思っている一般人の代表として適役だった。

議論を呼んでいる「ラスト15分」は、原作が敢えて描かず、読者の想像にゆだねた「その先」にある物語を、徹底的に悪意のある解釈で創造したものである。そういえば、ダラボンは『ショーシャンクの空に』でも余計なエンディングを付け足した人であった。個人的に、下手な付け足しをするくらいなら、絶望も希望も「想像にゆだねる」かたちで余韻を残すのが良いと思うが、昨今、野暮なことに、それでは満足できない観客がたくさんいるらしい。結局、ここでの付け足しは、徹底して「主人公の選択が正しいとは限らない」という絶望を見せることであって、ハリウッドの娯楽映画的な決まりごとから逸脱する描写もあって悪趣味でもあるが、それほど悪くないと思った。キングの小説には『デスペレーション』などを代表として「神の行いの残酷さ」をテーマとして扱った作品がある。実はダラボンによる映画版『グリーンマイル』の一番物足りないところは、原作のラストで描かれたそういう要素の掘り下げが足らず、甘さに逃げたところであった。ある意味、今回のエンディングでそのときの借りを返したものという見方もできるかもしれない。

本作で一番残念なのは、「感動もの」として(騙してでも)売りたいがゆえの日本版ポスターだ。劇中でも主人公の描いていたポスターとして何作品かが登場する大ベテラン、ドリュー・ストラザーンの作になるオリジナル・ポスターが陽の目をみなかったのはいただけない。しかし、感動ものとして売るのはいいけど、一度騙されたと感じた観客が再び映画館に戻ってきてくれるのかどうか、せっかくの力作なのに、期待していたものとは違うという理由だけで満足度が下がったりもするもので、みな遠慮なくネットにそういう不満を書き散らすものなのだから、もうすこし考えてほしいよね。