5/31/2009

Star Trek (2009)

スター・トレック (2009)(☆☆☆)


まあ、ご存知の通りに歴史のあるシリーズなのである。元祖シリーズの開始は1966年。3年で打ち切られるも1979年に映画で復活。 1991年の第6作まで、続いた。その間の1987年に、元祖の80年後を描く『新スタートレック(TNG)』の放送が開始され、7シーズン続く大ヒットとなった。この最終回が1994年だ。TNGメンバーによる劇場版の公開、すでに始まっていたスピンオフ(DS9)に加えて、後継のシリーズ(VOY)も放送開始。90年代半ば、思えばこのあたりがフランチャイズとしてのピークであった。

TNG劇場版第4作『ネメシス』の興行的不振(2002)、「前史を描く」という触れ込みで始まった『エンタープライズ(ENT)』の打ち切り(2005)で、歴史あるフランチャイズも新展開への命脈は絶たれたと思われた。だが、あきらめの悪いパラマウントは、TV界で成功を収めたJ.J.エイブラムズを担ぎ出し、フランチャイズの再生を委ねたのである。結果としてみれば、作品は大方の観客に好評で、ビジネス的にも大成功。死にかけた看板シリーズの再ブーストに成功したわけだから、おめでたい話といえるだろう。自信を得たパラマウントは、公開前の段階ですでに続編の製作にGOサインを出したという。

そんなわけで、どちらかというと肯定的なムードのなかでこんなこというのは気が引けるが、この作品の出来栄えに対しては複雑な思いである。「われらがヒーローが悪い異星人を懲らしめる」ような活劇としてはテンポが速く、アクションも派手。おなじみのキャラクターを知っていれば、再解釈された若き日の彼らの姿も楽しめるし、ファンサービスとも受け取れる遊びも随所に仕込まれている。楽しめるか、と問われたら、楽しめる映画なのだ。しかし、出来がよいかと問われると、言いたい文句はいっぱいある。

だいたい、『MI:III』のときもそうだったが、J.J.エイブラムズの演出やストーリーテリングの手法は徹頭徹尾TVスクリーン・サイズだ。カメラが対象に近すぎる。バストアップに顔の切り返し。これは小さなTVで見せるための撮り方だ。この作品に、映画らしいスケールを感じさせるシーンがひとつでもあっただろうか。映画館の暗闇に腰を下ろし、スクリーンを見上げる快感がどこにあったか。しかも、カメラは意味もなく揺れ続け、傾き、細かいカットをごちゃごちゃつないで、それが刺激的で迫力のある映像であるかのように装っている浅はかさ。スピード感があるといえばよいが、余裕も余韻もなく、観客の頭を使わせずに麻痺させるような語り口。

『スタートレック』より『スターウォーズ』のほうが好きだったという監督の趣味に合わせたからか、脚本もまた、いかがなものかと思う。人気の高い『スタートレック2:カーンの逆襲』をテンプレートにした時点で、実は新しくもなんともないのである(ちなみに、前作『ネメシス』も、『カーンの逆襲』のパターンを下敷きにしているのだった。)もちろん、本作に盛り込まれた旧来のファンに目配せするかのような小ネタの数々は楽しくもあるが、結局、一介のファンが好きなようにフィクション程度のレベルに過ぎない。一ファンが自分の趣味と妄想で書き散らしたお遊びなら許容できても、これが公式だと云われると違和感を感じないほうがおかしい。自作を正当化するために、「歴史改変」によってこれまでの「正史」を永遠に葬り去るという不遜なまでの思い上がりが、なおのこと不愉快である。(もちろん、旧シリーズとのつながりを確保して過去に築かれた世界観を都合よく利用し、しかし展開に制約を受けず作り直すためのグッド・アイディアだとも思うけれどね。)

役者はそれぞれにオリジナルの雰囲気を巧みに再構成してキャラクターを作り上げており、感心させられた。特に、ドクター・レナード"bones"・マッコイなんか、故ディフォレスト・ケリーの生霊が乗り移っているのかと思える瞬間があったし、モンゴメリー・スコットなんかも笑わせてもらった。あと、褒めておきたいのはJ.J. エイブラムズとのコンビが長いマイケル・ジアッキーノの音楽だ。彼の書いた新しいメインテーマは「スター・トレックのテーマ」というよりは、「(ヒーローとしての)カークのテーマ」のように聞こえるが、はっきりと印象に残るメロディー・ラインを持っており、劇中でも様々にアレンジされて登場、好感を持てる作風である。最後の最後にアレクサンダー・カレッジのファンファーレからTV版テーマの新バージョンにつながるところなど、(いつも聞いている曲なのに)懐かしさで胸が熱くなってしまった。TVテーマのアレンジが軽めなのも新鮮だ。

物語上のフックのためだけに悪役が60億からの生命と文明を根こそぎ奪い、われらがヒーローは相互理解の努力の前にドンパチを繰り広げる。エキサイティングか?まあ、そうだろう。もちろん、スター・トレックはなんでもとりこむことの出来る奥の深さが魅力のひとつ。悪い異星人をやっつけるアクション編もありだし、理屈のおかしい「なんちゃってSF」編も、ご都合主義のタイムトラベル編もありだ。だから、こんな作品が1本くらいあったって構わない。むしろ、この作品に漂うある種の「いい加減さ」と「安っぽさ」は、元祖シリーズのノリに近いとすら思う。しかし、一方で、SFという枠組みを使って現実の社会問題を扱ったり、哲学的な問いかけがあったり、未来への楽観的な希望が語られたりもする、それがスター・トレックなのである。そこがシリーズが長く愛されてきた理由であり、本質だといってもいい。シリーズのクリエイターである故ジーン・ロッデンベリーは、この作品を見たら悲しむに違いあるまい。これでリセットはおしまい、次回作で作り手の理解力と本質が試される。

まあ、個人的には掟破りの方法でヴァルカン破壊をなかったことにするところからお願いしたい。(『スタートレック3』でスポックが蘇ったようにね。)

Seventeen Again

セブンティーン・アゲイン(☆☆☆)


ディズニーの『ハイスクール・ミュージカル』シリーズで人気が沸騰したザック・エフロン主演のコメディである。家庭生活にも仕事にも行き詰ったマシュー・ペリー演ずる男が、心はそのままに若いころの姿(ザック・エフロン)に変身してしまい、友人の協力を得ながら人生の選択をやり直そうとハイスクールに通うのである。よく似たパターンの作品は繰り返し作られている、と感じるだろう。が、この作品、どこか変なのである。面白がってみていたのだが、どこかすっきりしないのだ。何故なのか?

人生をやり直せるとばかりに学校に行けば、関係が疎遠になっていた娘や息子と机を並べ、悪い男と付き合う娘に「父親」としてハラハラし、イジメの対象になる冴えない息子が「父親」として心配になる。自分の息子と友人づきあいをするうち、離婚を切り出された妻に近づくことになり、関係を修復したいという思いが強まっていく。これはハイスクール・コメディではないし、青春コメディでもない。中年親父の奮闘コメディなのである。これをあくまでザック・エフロン主演で押し切るところがこの企画のミソなのだが、しかし、一方では誰をターゲットにした企画なんだかよくわからない作品だということもできるだろう。だって、ザック・エフロンを見るために集まった若い観客に、「いや、実は中年親父も辛いんだよ」という言い訳を見せてどうするのか。

例えば、ある種の類似性を感じさせる企画として、母親と娘の体が入れ替わるという設定で、時のアイドルであったリンジー・ローハンを主演させたヒット作『フォーチュン・クッキー(Freaky Friday)』という映画があった。アイドルを起用した作品という意味でも、見た目と中身の年齢ギャップで笑いを取るパターンも似ているといえる。しかし、この作品では親世代と子供世代の相互理解がテーマに置かれていて、もちろん子供世代に親の苦労を垣間見せるという教育価値もあるのだが、一方で子供が親に自分の立場を分かってもらうという部分が、すなわち、メインとなる若い観客層の心情に訴えかけるようにできているわけである。そういう意味で、商品としては正しく顧客の求めるものに応えているといえるだろう。しかし、翻って本作はどうか。主人公が娘や息子の切実な悩みと向き合うことで、一見、「相互理解」というテーマに触れてはいるように見えるのだが、それはあくまで主人公が「父親としての責任」や「家族への愛情」に目覚めるという扱いであって、人生に迷った中年男が自らを再発見する物語としての基本線を外れるものではない。これをザック目当ての女の子たちに見せるというのだから、やはり、それはヘンだというのである。

話の内容とターゲット観客層とのあいだの齟齬をさておくとすれば、1本の作品としてはチャーミングで楽しい出来栄えである。ザック・エフロンを見せる映画だという本作最大の訴求ポイントだけはさすがに外すことなく、いろいろな見せ場が用意されているのはいうまでもない。主人公の友人であるヲタクな独身男の奇妙な生活を笑いの種にしているが、ディテイルも楽しいし、キャラクターに対する愛情のある描き方になっていて不快さはない。クライマックスにむけた話の運びもよく考えられていて、ほろりとさせるものもある。ただ、話が話ゆえに、ハイスクール・ライフをきちんと描けていないところは物足りないところだろう。そこに主眼がないのは分かるのだが、登場する高校生たちは、「息子・娘」と「それ以外」という区別されておらず、個性も人間性もあったものではない。そこをもう少し丁寧に描いていれば、中高生向きのエンターテインメントとしての違和感は相当部分解消され得たのではないかと思う。

5/23/2009

State of Play

消されたヘッドライン(☆☆☆)

妻がタイトルを「消されたヘッドライト」と云い間違えたので笑ってしまった。まあ、ヘッドライトは消しておかなくちゃバッテリーが上がってしまうわな。予告編を見るたび常々思っていたのだが、なんだかパッとしない邦題である。ケヴィン・マクドナルド監督の新作は、英TVドラマ(ミニ・シリーズ、NHK放映済、未見)の翻案で、原題 "State of Play" 。あー、難しいな。構成している単語は中学校レベルでも、「訳せない、分からない」典型だ。(ゲーム・試合等の)の形勢とか状況とかいった感じだが、"state" も "play" も文字通り以上にかなり意味深。配給元も悩んだだろう。そうはいっても、劇中でヘッドライン(新聞の1面大見出し)は「消され」ていないのだった。何じゃそりゃ。

さて、舞台は米国の首都、ワシントンDC。ここで、ありふれた麻薬取引絡みの事件と思われる2つの死体が発見される。時を同じくして、連邦下院議員の女性政策スタッフが地下鉄で飛び込み自殺と思しき事故死をする。女性スタッフとの不適切な関係をマスコミに詮索される下院議員。その議員と旧知の仲である新聞記者が手に入れたとある物証は、全く関係のなさそうな2つの事件をつなぎ、権力と利権の絡んだ大きな陰謀の存在を匂わせるものであった。限られた時間の中でベテラン新聞記者としての意地とプライドをかけて真相を追う主人公らを中心に、話は2転3転しつつ、いわゆる「予想外」で「皮肉」な結末に至る。

英国TVドラマ版から米国を舞台にした映画版へと脚色を手がけているのは、マシューマイケル・カーナハン(『キングダム』、『大いなる陰謀』)や、最近の大注目株の一人となったトニー・ギルロイらである。翻案に当たって、イラク戦争などの戦場で存在感を増してきている民間軍事企業ネタやら、金儲けしか興味のない巨大メディア企業に買収された伝統ある新聞社というネタやら、紙メディアのジャーナリズムとWEB媒体の確執やら、愛国心から大義名分に命をささげたつもりだった元兵士のPTSDやら、今日的なトピックを盛り込んで新味を出している。特に、軍事部門の「民営化」、「アウトソース化」と軍事・傭兵株式会社とでもいうべき、いわゆる「民間軍事企業」にまつわる切り口と考察には、娯楽フィクションとして避けられない誇張を交えつつも、嗅覚と視点の鋭さを感じさせる。

もっとも、話の枠組み自体は古典的かつ真っ当な社会派サスペンスであり、画面に漂う雰囲気そのものに新しさはないし「衝撃の実話」でもなければ、「何とかの舞台裏」などというセンセーショナルな話題もない。ただ、脚本も、演出も安定しているし、出演者のアンサンブルもいい。新聞記者にラッセル・クロウ、新聞社の編集長にヘレン・ミレン、同僚記者にレイチェル・マクアダムス、下院議員にベン・アフレック、その妻にロビン・ライト・ペン、先輩の大物議員にジェフ・ダニエルズと、派手さはなくても新旧取り混ぜた実力者を起用。たとえ紋切り型で新鮮味がないキャラクターであっても、この顔ぶれであれば127分、きっちりと楽しませてくれることは保証されているといえるだろう。

本作は、「ジャーナリストが陰謀を暴く」という話に見せかけて、「ジャーナリストが陰謀論に振り回される」話を、ある種の皮肉と共に描いている。本来、「大山鳴動してネズミ一匹」、とてつもなく大きな陰謀かと思われた事件も、蓋を開けてみればこの程度の卑近な話だったりするものさ、ということだ。ただ、それに加え、善なる動機に基づく良かれと思った行動が、結果として裏目に出る一方で、巨悪は滅びず何も変わらないといったあたりのニュアンスを巧く引き出すことが出来ていれば傑作になりえた作品ではなかっただろうか。

一方、本作は物語を語ることよりも、プロット上の捻りで観客を煙に巻くことに気をとられ、終盤の展開があまりに陳腐で慌しいものになってしまっている。結果、本来フォーカスをあてるべき論点が吹き飛び、「真犯人はXXでした」といった具合の、いわゆる安手のサスペンス・ドラマのレベルに矮小化されてしまったと思うのである。また先に褒めたばかりなので逆説的に聞こえるかもしれないが、ネタとして使い捨てることになる「陰謀論」の主役に、民間軍事企業などというホットで興味深いトピックを担ぎ出したことも作品としての失敗につながっているのではないか。こういう新鮮味のあるネタを提示されたら、観客としてはどうしても、そのネタそのものについての深い突っ込みを期待してしまうものだ。ここは却って、ありふれた昔ながらの「陰謀」を、象徴的、記号的に用いたほうが、却って映画としての鋭さが増すことにつながったのではないかと思う。

5/16/2009

Eastern Promises

イースタン・プロミス(☆☆☆☆)


昨年の今頃公開されていたという記憶があるのだが、その際は気がつくと公開が終了していて悔しい思いをした。今回、いきつけの劇場において本作の期間限定リバイバル上映があったので、何をさておき劇場に駆けつけた次第である。なにしろ傑作『ヒストリー・オブ・バイオレンス』の主演、ヴィゴ・モーテンセンと、監督デイヴィッド・クローネンバーグの再度の顔合わせによる新作である。すでに高い評判も聞きつけている。これを見逃すわけにはいくまい。

ロンドンの移民社会に根を張ったロシアン・マフィアにまつわる話しである。冒頭、床屋における唐突で戦慄の殺人シーンに続き、妊娠した身元不明の14歳の少女が血塗れになって病院に担ぎ込まれ、帝王切開で子供だけは辛うじて助けられるものの、少女本人はそのまま絶命するという、生理的にも映像的にも衝撃的なエピソードが連打され、ただごとではすまない雰囲気を濃厚にたたえて物語りは幕を開ける。死んだ少女の身寄りに関するヒントを得ようとした助産士の女が、少女が残した荷物の中からロシア語で書かれた日記を抜き取ったことがきっかけで、ロシア移民の子孫でもある彼女と、闇に巣食ったロシア人犯罪組織とが交差する。助産士を演じるのがナオミ・ワッツで、礼儀正しい組織の「運転手」を演じるのがヴィゴ・モーテンセンである。日記は、貧しいロシア少女が夢を求めて辿り着いたロンドンの地で、もののように売り買いされ、レイプされ、薬漬けにされ、自由を奪われ、売春婦へとその身を落としていく記録であり、その背後にある組織の犯罪の証拠でもあったのである。

導入部からしてそうなのだが、ストーリー・テリングが非常に巧みな映画である。ナオミ・ワッツの家族に代表される表の世界と、犯罪組織の闊歩する裏の世界という対比だけでなく、表ではロシアン・コミュニティの健全な束ね役のようでありながら、裏では犯罪組織の総元締めであるというような、「見た目」と「真実」の違い、起こっている出来事の表層的な意味と裏に隠された真の意図といった具合に、「表」と「裏」が交差しながら観客を翻弄していく脚本はどうだ。静寂のシーンが一転して本性をむき出しにし、目を背けたくなるヴァイオレンスに染まる演出の呼吸。刺青によって強調される肉体性と実在性。きっとこういう話だろう、とたかをくくっていると、その一歩先を提示されて驚き、周到に張られた伏線によって思いもかけぬ結末へと導かれていく、その快感。

噂に聞いていた、ヴィゴ・モーテンセンが裸で立ち回りを演じるサウナでのアクション・シーンは、噂に違わず壮絶そのものである。ロシア・マフィアにとって刺青は自らの生きてきた証、身上書のようなものだという。全身刺青だらけのヴィゴの、その刺青が語る情報を手がかりに、2人の殺し屋が刃物を持って命を狙う。見ているだけの観客にも激しく痛みを伴う肉弾戦が繰り広げられ、体中に傷を負いながらすさまじい戦闘力と精神力で戦う男、ヴィゴに、もう観客の目は釘付けである。結局のところ、一見脇役かのように物語に登場したこの男の、壮絶な生き様がこの映画を貫く1本の柱でもあるということが、最後の最後になって明らかになるわけだが、それを具体的な描写として象徴的に見せるのがこのシーンという言い方もできるだろう。

サウナのシークエンスにも顕著だが、本作の暴力描写の突出した生々しさは、もはや暴力や死が記号でしかなくなったハリウッド製娯楽作品とは一線を画するところで、R18指定もやむを得ないと思わせる強烈なインパクトを持っている。クローネンバーグの演出は暴力から目をそむけるどころか、ねちっこくその姿をフィルムに焼付んとするから、ヴァイオレンスが苦手な観客にはつらいところかもしれない。しかし、この作品にはそれを乗り越えてでも鑑賞するだけの価値があるから、そんなところで躊躇していてはもったいない。劇場のスクリーンで見ることができて良かった、クローネンバーグ、ここのところの作品の充実具合は只者ではない。

W.

ブッシュ(☆☆★)


原題の「W.」は、アメリカ合衆国第43代大統領の、ミドルネーム(ウォーカー)である。Jr. と呼ばれるのを嫌がる彼を、周囲が W. と呼ぶ。父親はジョージ.H.W.ブッシュ。第41代大統領である。

この映画は、有名人ものまねそっくりさんショウなのか。否。豪華俳優を起用した安っぽいお笑い再現ドラマか、SNLのスケッチを拡大したものなのか。否。この映画は、いや、オリバー・ストーンは、そうなり得たかもしれない非常に危険な可能性を微妙なラインで避けて通り、普遍的なドラマを構築して見せるのである。ジョージW.ブッシュという男の冗談みたいに面白い馬鹿発言や間抜け面は、ほんの一部(プレッツェルをのどに詰まらせるとか、Fool me once... の件とか)を除いて巧妙に避けられている。そちら方面の期待をしていた観客にとっては拍子抜けだろうが、考えてみれば、これもまた、必然だろう。現実がコメディを超えてしまった以上、いまさらその現実を模写してもしかたがないということだ。大統領になるべき資質など、何一つ持ち合わせていなかった男が、なぜに大統領になってしまったのか。オリバー・ストーンは、その「謎」の背景を「父親」と「息子」の葛藤という観点で切り取ることを選んだ。政治の裏側ではなく、人間としてのW.の半生を悲喜劇として描き出すのがこの作品である。邦題、『W.の悲劇』にすればよかったのに。

まあ、驚かされるのは、極めて芸達者な役者たちが集められたキャスティングである。絶好調のジョッシュ・ブローリンは、W. 本人に似ているとは言いがたい要望ながら、そのしゃべり方、その動き方を巧妙に模倣しつつ、この男の内面を浮き彫りにしていく好演である。ディック・チェイニーの腹黒さを見せるリチャード・ドレイファスや、政権の頭脳として暗躍するカール・ローブを演じたトビー・ジョーンズあたりは、実に嬉しそうに、濃厚に役を演じている。会議で一番まともで知的な発言をしているのに、黙殺され居場所を失っていくパウエルの孤独を演じたジェフリー・ライトも地味ながらいい。彼らに比べると割を食ったのが二人。ひとりは、せっかくの美貌をわざと台無しにしてライスを演じるタンディ・ニュートンで、まあ、SNLのスケッチの延長線上にある大げさなカリカチュアになってしまっている。もう一人はスコット・グレンだ。大好きなベテラン俳優だが、ラムズフェルドの下品さ、ねちっこさ、老獪さを出し切れていない。

しかし、これだけ役者をそろえているのは、単なる物マネ大会にはしないという確固たる意思の現れであろう。だが、W. 本人はともかくとして、W. をいいように利用する政権幹部たちは、本作においては単なる賑やかしに過ぎない、といってもいい。ドラマの根幹は、あくまでW. とその父親(パピー)であるH.W.にある。戦争に勝利し、スキャンダルにまみれたわけでもなかったのに4年間でホワイトハウスを去ることとなった合衆国第41代大統領、ジョージH.W.ブッシュ。政権幹部のキャスティングも豪華だが、ドラマの鍵を握るH.W. にジェームズ・クロムウェルを充てるというキャスティングが実に効いている。お世辞にも似ているとはいえない。しかし、映像などで伝わってくるH.W.のイメージを超えて、佇まいからしてずっと高潔で威厳を感じさせる演技を見せてくれる。野球好きで仕事も続かぬアル中のダメ息子たる「W.」にとってのプレッシャーや葛藤の源泉であることが、画面を見ただけで一瞬のうちに了解できるところが素晴らしいのだ。

偉大な父親、優秀な弟に囲まれ、何をやってもやり遂げることのできないダメ息子の葛藤。父親に変わるより大きな父親像を求めて「神」に傾倒し、宗教的に生まれ変わった(born again)と信じ、神の啓示があったと信じて大統領選に打って出た男は、周囲の腹黒い人間たちに利用されつつ、父親の仇敵と信じるフセイン打倒に執念を燃やしていく。一方で、最後まで父親からの愛と承認、尊敬を勝ち得ることができないという思いは消え去ることがない。プロ野球チームのオーナーで終わっていてくれたら世界がもっと幸せでいられたかもしれない男。この映画は、そんな男の内面のドラマを丁寧につむぎだしていき、それなりの見応えがある。ただ、明白な欠点としていえるのは、エンディングの弱さであろう。大統領選挙戦に間に合わせることを優先して完成を急いだ結果、ここには、8年の任期を振り返って「楽しかった」とコメントをするW.も、イラクで靴を投げられるW.も登場しない。要するに、ドラマを象徴的に締めくくるのに相応しいエピソードを欠いたまま、中途半端に幕を閉じてしまうのである。しかも、2期目の選挙を控えたタイミングでリリースされた『華氏911』と違い、政治的にも何のインパクトも持ち得なかった。映画の製作と公開のタイミングを誤ったことが本作の興行的、批評的な失敗だけでなく、内容的な弱さにもつながってしまっているのである。本作の判断ミスがあるとすれば、そこのところに他ならない。

5/09/2009

Duplicity

デュプリシティ スパイは、スパイに嘘をつく(☆☆☆)


さて、『ザ・バンク』に続く2009年、春の「クライヴ・オーウェン祭り」第2弾は、ジェイソン・ボーン三部作の脚本で名を上げたトニー・ギルロイ脚本・監督の、トリッキーなロマンティック・コメディだ。例の3部作でいろいろリサーチをした際、職を失ったスパイたちが民間セクターに流れているという話を聞いて触発されたギルロイは、トイレタリー業界の覇権を競う大手二社が互いにスパイを雇い、相手を出し抜こうと諜報活動を繰り広げる物語を作り上げた。元MI6を演じるのがクライブ・オーウェン、因縁浅からぬ元CIAに、久しぶりの主演復帰となるジュリア・ロバーツで、競い合う2社のトップに貫禄のトム・ウィルキンソンと下衆なポール・ジアマッティという、なかなか濃いキャスティングが鑑賞欲をそそる1本である。

本作の表面的な面白さは物語の構成にある。冒頭、主演の二人の出会いが語られる。男は女にまんまとしてやられ、痛い目にあう。それを基点とし、今度は時間が現在に飛ぶ。男はポール・ジアマッティの会社に雇われて、競合であり業界ナンバー1のトム・ウィルキンソンの会社の諜報部門に長期間潜入した二重スパイとの連絡係になるのだが、その相手は、かつて痛い目にあわされたあの女なのだ。敵か味方か、信用できるのか、できないのか。常に相手を疑うことが習性として染み付いた2人が再会し、ライバル会社が発表間近だという画期的な新製品の秘密を探り出すことになるのだが、映画はこの先、二人の出会いと現在の間に起こったことを小出しにして説明し、観客を翻弄していくのである。どんでん返しの連続といえばその通りで、手持ちのカードを1枚ずつ場にさらすたびに、現在起こっていることの真相が少しずつ明らかになり、物語が異なった様相をみせてくるのである。そして、いったい誰が誰を騙しているのか、相手の本心は何なのか、まったく予断を許さない状況のままサスペンスフルなクライマックスに突入していくのである。

もちろん、観客がある程度の知性を持っていることを前提とした脚本の構成も、台詞のくすぐりも、まるでパズル遊びをしているようで面白いのであるが、一方で、この語りはズルいなぁ、とも思うのである。同じような「騙し」のストーリーテリングでも、たとえば往年の「スパイ大作戦」であるとか、『スティング』であるとかのように、「観客の視点では今何が起こっているのか分からない、もしくは、勘違いさせられているが、いろいろな伏線が張られていて、最後の瞬間に全てが氷解し、あー、そういうことかと納得させられる」というタイプのものであれば、フェアな語りだといえよう。しかし、本作がやっていることは、「実はこういう事情でした」、「裏でこんなことになってました」を後出しジャンケン的につなげているだけだと思うのだ。凝ってみたり洒落てみたのはわかるし、本作の幕切れなぞ皮肉が利いていてかなり面白いとさえ思うのだが、やはりアンフェアなのではないかという疑念を振り払うことが出来ない。これは、懲りすぎた代償だといえるだろう。脚本家が自分の策に溺れていると言い換えてもいい。

本作で一番気に入っているところは、そういえば『クローサー』で共演していたクライヴ・オーウェンとジュリア・ロバーツの掛け合いにある。いわゆるケミストリーというか、二人の役者のスクリーン上の相性がいい、というわけでもなく、なんとなく微妙な感じが漂っているのもミソなのではないかと思う。互いに惹かれあっているのか、いないのか、騙しているのか、いないのか、今の一言が嘘なのか、本当なのか。罠なのか、真実なのか。愛しているのか、いないのか。スパイ稼業の第一線で仕事をしてきた二人は、とにかく何でも疑ってかかり、互いを信じることが出来ない。しかし、そういう自分を心から理解することができる人間がいるとすれば、それは相手しかいない。このあたりのジレンマを抱え、ことあるごとに対立してみたり、腹の探り合いをしてみたり、本音を試してみたりするこの二人の関係は、相性の悪い2人が対立しあっているうちに惹かれあっていくという、古典的スクリューボール・コメディを現代的に進化させたものだということができるだろう。コメディからシリアスなドラマまで幅広くこなす、顔立ちも存在感も抜群に濃い実力派スターの二人がこれをやるのだから、面白くならないわけがない。トリックで見せるスパイもの、クライムものという味方をするならアンフェアな本作であるが、トリッキーな二人の関係でみせるロマンティック・コメディの変種だと見れば、こんなにイライラさせられながら楽しめる作品も珍しかろう。嫌いになれない1本である。

5/04/2009

Burn After Reading

バーン・アフター・リーディング(☆☆☆)


前作『ノー・カントリー(No Country for Old Men)』ではアカデミー賞を獲ってしまったジョエル&イーサン・コーエン脚本・監督による新作は、デッド・シリアスでダークな前作から一転、本気とも冗談ともつかない馬鹿騒ぎで真剣に遊んでみせる彼ら独特のブラックコメディだ。彼らがジョージ・クルーニーと組んだ作品はどれもコメディ風味だが、これは中でも一番悪ふざけの度合いが高いもので、これを真面目にどうこういうのが損。タイトルどおり、さくっと笑って見終えたら、さっぱりと「読後焼却」すべきタイプの映画である。短い尺にきっちりおさまった本作は、作り手の息抜きでもあるだろうが決して手抜きはなく、人を喰ったブラックコメディとして、こういうのが好きな向きに限定してお勧めだが、映画に「感動」やら「涙」やら「迫力」やら、「真実の愛」やら「うっとりするような美形スター」を求めちゃったりする観客には思いっきり不向きかもしれない。

プロットの基本は、ジョン・マルコヴィッチ、フランシス・マクドーマンド、ブラッド・ピット、ティルダ・スウィントンらが、それぞれの利己的な視点と動機から、本人は真剣なつもりの頭の悪い行動と勘違いを繰り広げ、単純なはずなのに複雑に絡まりあったわけのわからない事態に陥っていくというもので、唯一利己的でも頭が悪くもない普通の人を演じるリチャード・ジェンキンスは、その真っ当さと愛故に割を食い、散々振り回されたCIAは、わけがわからないけど一件落着なんだよな、とケースファイルを閉じるのである。『スパイダーマン』シリーズで例の編集長を演じていたJ.K.シモンズが演じるCIAの上官に説得力のある面白さがあり、映画のはじめと終わりのショットも含め、「残念な人」たちが繰り広げる狂騒を描いたクライム・コメディ映画と見せかけて、膨大な国家予算を費やしてどこに金が消えていくのかわからないCIAとその活動を揶揄するところに真の狙いがあるのだろうと思わされるわけである。

天下のCIAの頭をも惑わす単純だけど複雑な混乱と錯綜を生み出すプロットとその構成は、いつもながら緻密で計算ずく、狙い済ましたように嫌らしい職人技で、絡んでいるようで絡んでいかない人間関係と利害関係が絶妙にもどかしい。こういうのを、「いかにもコーエン・ブラザーズの書きそうな脚本」だと理解しているが、今回は中身の空疎さに磨きがかかっているので余慶に可笑しくも腹立たしい。才能の浪費だとも思うが、正直、毎回『ノー・カントリー』でも疲れてしまうし、どちらが好きなのかと問われたらこっちのほうが数段好きである。

踊る馬鹿キャラを演じる出演者はみな公演。ありえないくらいの絵に描いたような底抜け馬鹿でありながら、その言動ときたら、ついつい身近にもいる人々を思い浮かべてしまうくらいに、妙なリアリティがあって最高にイラつかされるのである。どうしようもなくマンガでありながら、「そんなやついないだろう!」というレベルまでは落ちていかない匙加減は、脚本と役者、両方そろって初めて可能な難易度の高さである。間抜け顔をさらすブラッド・ピットの筋肉バカ加減はビジュアル的に大笑いできるが、フランシス・マクドーマンドの演技は本編中で最凶で、特にロシア大使館のくだりではこのキャラクターをブチ殺してしまいたい衝動が胸の奥から沸き起こってきて大いにストレスがたまったものだ。そんなキャラクターたちにつき合わされているうち、結局一番感情移入できるのがCIAの上官だったりするところで、この映画の術中に落ちたといわざるを得なくなる仕掛け。悔しいけれど、面白い。だからコーエン兄弟なんて大嫌いだけど結構好きだったりもするのだ。

Slamdog Millionaire

スラムドッグ$ミリオネア (☆☆☆★)


あざといといえば、あざといのである。「クイズの答えが主人公の人生の中にあった」ということをいっているのではない。(それは単に、人生でもっとも重要な事柄は経験で学ぶものだ、ということを象徴的に語っているだけにすぎないのだ。)ここでいいたいのは、クイズの設問の順番が、彼の人生を時系列にたどっていくように並んでいることがあざとさというものだろう。別に時系列をばらばらにして組み替えても良かったのかもしれないが、それでは多くの観客は頭がこんがらがってしまうだろうし、なにより、この作品の魅力のひとつであるエネルギーとスピードが死んでしまう。あるいは、これがどこか別の国を舞台にしていたら、時系列をばらしたパズルのような映画でもよかったかもしれない。この映画はシンプルなラブ・ストーリーであるかもしれないが、主人公の壮絶な生い立ちと、インド、そしてムンバイのこの間における急速な社会的変貌をそこに重ねてみせる物語でもある。だから、物語は時系列に語られるだけの必然があるのだ。だから、そのあざとさは必然なのだ。むしろ称えられるべきなのだ、と、何をおいてもまず、いっておきたかったのである。

しかし、映画で描かれるスラム人生の壮絶さは、ちょっと、ほかの娯楽劇映画では目にすることのない類の強烈さである。たとえこれが物語を盛り上げるための細工、つまり、あらゆる不幸を主人公とその周囲に集約してみせた「つくりごと」の結果であったとしても、見ると聞くでは大違いというか、まさに、映像の力とでもいうべきものを感じさせられる瞬間というのはこういうものかと、ただただスクリーンに目が釘付けにされるばかりであって、それを目にすることができただけでこの映画を見る価値があったと思わされるインパクトだ。映画のカメラが入り込めないような路地にズンズン踏み込んでいき、臭いまでが立ち上ってくるかのように臨場感たっぷりに切り取られる映像。この撮影は凄い。あんな環境で、あれだけのものを撮影するのはどれほど大変なことだろうか。短いショットを積み重ね、新鮮味を感じさせるボリウッド音楽に乗せて映画を貫くリズムを作っていく。もちろん、不必要にガチャガチャ編集してみせるこの映画のルックスがどうにも煩く感じられる瞬間もあるのだが、それが荒削りの躍動感につながっている点は否定できない。

急速な変化と発展の光と影。都市とスラム。絢爛な世界遺産を目当てにあつまる先進国の裕福な観光客たちと、分け前に預かろうと群がる貧しい子供たち。兄と弟、そして思いを寄せた少女。一攫千金の夢をかけたきらびやかなTV番組と筆舌に尽くしがたい人生の辛酸。TV番組に熱狂する視聴者たちと主人公の一途な思い。これを全部まとめて2時間の娯楽映画に凝縮してみせた手腕については、お見事というしかあるまい。ハッピーエンドのその先を、ボリウッド流ミュージカル風味で締めくくるあたりの余裕が素晴らしく、映画が円実からファンタジーに飛翔する感動にあふれている。『トレインスポッティング』には距離を感じていた私にとって、ダニー・ボイルは小手先の技術ばかりという印象があってそれほど面白いと思える作家ではなかった。しかし、しばらく身を寄せたハリウッドを離れ、新たな地平に身を置いて撮りあげたこの作品には、彼の持てる洗練されたセンスとテクニックが物語を語る手段として、そしてなにより、登場人物たちの人生を切り取る手段として活かされており、確かな手応えを感じさせるものになっている。もちろん、映画史に残る作品だと思っているわけではないが、この作品が、映画史に残るエポックメイキングな事件であることは間違いなく、また、時代が求めたヒット作に過ぎないのかもしれないが、何か見たことのないものを見せてもらったという興奮だけは確実に胸に残った。

5/03/2009

Red Cliff Part II

レッド・クリフ Part II 未来への最終決戦 赤壁 決戦天下(☆☆☆)


あいかわらず前説に煩いテロップてんこ盛りの「ゆとり仕様」も癇に障る。異例ながら公開にあわせたPart-I のTV放送時に、予告を通り越して不必要なまでにPart-II 本編内容を垂れ流したのも興を削がれた。それになにより「未来への最終決戦」などという語呂の悪いサブタイトルもセンスが悪い。(原題につけられた「決戦天下」のほうがよほど雰囲気が出ているのにね。。。)しかし、そうでもしなければ投資が回収できないというなら少しくらい我慢してやろう。

さて、現場を想像しただけで逃げ出したくなる5時間大作を真ん中でぶった切った後半部分がようやく公開になったわけである。ようやく、といっても、前半部分の公開から5ヶ月の超特急だ。まあ、シリーズものとはわけが違い、もともと1本の映画を分けているのだから、このくらいのインターバルでも正直いえば長く感じるものだ。Part-I のヒットがよい方向で影響を与えたに違いないが、前作の余韻覚めやらぬうちの公開は英断だし、感謝したいと思う。実際のところ、part-I もそうなのだが、part-II 単独で、1本の映画として捉えるのは意味がない。前半(つまり前作)部分で終わっているキャラクターの紹介と念入りな伏線張りの成果が、いよいよ大きく物語が動き出す後半(本作)のほうになって活きてくる展開である。キャラクターたちはそれぞれの見せ場や活躍のしどころを与えられ、5時間の作品としてのドラマの流れとうねりがクライマックスに向かって集約されていく。

Part-II を見終えて思うことは、このくらいの規模の作品になると、作品としての完成度を云々いう以前に、作品として完成させることができたこと、そのこと自体に価値があるのではないかということだ。

大作『ウィンド・トーカーズ』の興行的失敗をきっかけにハリウッドにおけるトップ・ディレクターとしての座を失ったジョン・ウーが、アジアに帰って製作を開始した念願の企画。途中、キャスティング上のトラブルなどで幾度も危機に見舞われながらも完遂された超弩級のプロジェクト。最新のVFX技術を導入しているとはいっても、気が遠くなるほど多くの人馬が投入され、実物大の巨大セットが組まれ、国境を越えて人気スターを結集し、監督の独自解釈を交えて展開される物語は、映画館の大スクリーン映えするスケールと迫力満点のフィルムとして結実している。演出は幾分大味だが、「義を重んずる登場人物たち」、「男の友情」、「鳩」をはじめとして監督の刻印はいたるところに押されていて、火薬の発明以前でも大爆発はあるし、二丁拳銃ならぬ二刀流のスローモーション大暴れもあれば、刀によるメキシカン・スタンドオフだってある。アクション・シーンの見栄えに関しては勘所に狂いはなく、ジョン・ウー好きとしても一大イベントという位置づけで楽しむことができる。ついでに三国志好きの観客にとってもそれぞれの楽しみどころがあり、ジョン・ウーの独自解釈と作劇を許容しているようだ。

もちろん、ジョン・ウーがかつて撮った大傑作たちに感じられた才気や輝きを、それを見たときの衝撃と感動はここにないし、大規模なアクション史劇の歴史においてことさら傑出した作品だとも思わない。ただ、見たいものは見せてもらったし、満腹感を覚えて劇場を後にした。企画を耳にしたとき、プロジェクトとして瓦解し、大失敗作に終わる可能性を危惧していただけに、ほっとしたというのが正直な気持ちである。

5/01/2009

Gurren Lagann (Part II)

天元突破グレンラガン 螺巌篇 (☆☆☆☆)


ガイナックス製作、2007年文化庁メディア芸術祭アニメーション部門での優秀賞受賞でも話題となったTVアニメ『天元突破グレンラガン』の劇場版である。昨秋公開され物語の前半部分を描いた『紅蓮篇』に続き、後半部分を新作カットと共に再構成したものがこの『螺巌篇』である。4幕構成になっているシリーズにおいて、いってみれば「転」と「結」を担うところであり、ストーリーとしてしっかり完結されている。ところで、前編に当たる「紅蓮篇」は、その個別作品レヴューでも指摘した通り、多分にダイジェスト的であり、尺の短さもあって相当忙しい作品になっていたのは否めないが、一方で、「グレンラガン」という作品の突き抜けた面白さやエネルギーは十分に焼き付けられていたし、それがシリーズ初体験であった私の目にもそれは明らかであった。今回は再放送中のTVシリーズを途中まで見たところで劇場に足を向けた。

本作、『螺巌篇』は、前作の積み残しとでもいうべき第2幕のクライマックスにあたる部分で幕を開けるが、ある意味、この一連の出来事が回想シーンのようにも受け取れるような編集で、一気に時間を7年後に飛ばし、手際よく後半部分のストーリーに突入する。TV版を土台とするならば、割愛せざるを得ないエピソードも多く「あらすじ」を追うのに終始するところだが、話が本筋に乗ってからは『紅蓮篇』で感じられた(ある意味、当たり前の)駆け足感はなく、比較的丁寧に手順を踏んで物語を展開させていて、「再編集もの」に特有の弱さは感じられない。ストーリーテリングの観点で見て、完全新作の劇場作品といってもある程度は通用するレベルで再構成された脚本はかなり練りこまれていると感じた。難をいうならば、TVシリーズではここぞというポイントで使用されたはずの「キメ台詞(俺を/俺たちを誰だと思ってやがるっ!)」が、エピソードの間が極限まで切り詰められていった結果、(結果として)長くはない上映時間のあいだに間をおかず乱発されることになっていることが少々耳に障った。キメ台詞の連発を心地よいリズムとして作品の勢いに転換しているのも事実だが、その価値が割り引かれてしまうのもまた事実である。

「らせん力」なるものと宇宙における生命の進化を中心に据えたスケールが大きく、かつSF的アイディアに満ちた観念的でありながらも怒涛のストーリーそのものの面白さに加え、どんどんエスカレートし、飛躍していくストーリー展開の面白さが前半部分に増して際立っている。しかし、本作の素晴らしいところはそうした物語のスケールや勢いに負けず、それを支える「アニメーション表現」そのもののエネルギーだといえるだろう。監督の今石洋之は影響を受けた人物としてアニメ好きには有名な「金田伊功」の名前をあげているが、その金田伊功が得意とした独特で大胆な誇張表現や構図を駆使した作画スタイルの直接的な影響を感じさせる、これまた大胆で度肝抜かれるようなアクション・シーン、線画や抽象表現が凄まじい本流となって溢れ出すクライマックスの一連のシークエンスなど、日本の「アニメ」が数々の制約の中で積み重ねてきた歴史の最新進化系がここにある。この映像的快感は圧巻といってよく、スクリーンを見ているだけで自然に感動の涙が流れてきてしまうほどだ。こういう表現が、気どった大作でもなければアート作品でもなくて、普通にTV放送された商業アニメーションの「総集編」などという枠組みの作品で見ることができるというところが、この国のアニメの底力なんだろうし、素敵なことだと思う。そういう作品である以上、劇場の大スクリーンで鑑賞するに足る、いや、鑑賞されてしかるべき「体験」だ、といっておく。ぜひとも紅蓮篇と螺巌篇の連続上映が実現することを望みたい。