1/24/2009

Revolutionary Road

レボリューショナリー・ロード 燃え尽きるまで(☆☆☆★)


"Hopeless emptiness. Now you've said it. Plenty of people are onto the emptiness, but it takes real guts to see the hopelessness. "

この映画には、主に3つのカップルが登場する。もちろん、レオナルド・ディカプリオとケイト・ウィンスレットが演じる主人公夫婦。その隣人の、主人公らと同世代の夫婦。そして、主人公らに「レボリューショナリー・ロードの素敵な家」を紹介した不動産屋を演じるキャシー・ベイツと、その夫。不動産屋夫婦はそれなりに年配である。夫は難聴で、補聴器を身に着けている。映画の最後を飾るのは、この3番目、不動産屋夫婦である。キャシー・ベイツが過去を振り返り、主人公夫婦についての(かつては心にもなかった)悪口を語り始めると、その夫は、彼女に好きにしゃべらせたまま、胸のポケットに手をやり、補聴器のボリュームをスーッと下げていくのだ。観客にきこえる音もまた、その補聴器のボリュームにあわせるようにフェイド・アウト。静寂のなかで画面が暗転し、エンドクレジットが入る。

鮮やかなエンディングである。そして、皮肉である。夫婦が正面から向き合うのではなく、理解しようと努力するのでもなく、見なかったこと、聞かなかったこととして受け流すことで見せ掛けの平穏が保たれるのだということか。サム・メンデスの4本目になる監督作は、描かれているテーマの類似性を以って彼自身の『アメリカン・ビューティ』と対になる作品だということができるが、毒のあるコメディとして意図された『アメリカン・ビューティ』と違い、こちらは(リチャード・イェーツの原作に沿った)シリアスなドラマである。しかし、そのブラックで突き放した視点は変わらないむしろ、登場人物たちを断罪しないある種の優しさも感じさせた件の作品より、ストレートに悲劇を描く本作の方が冷たく、皮肉で、意地が悪い。

50年代、米国が夢と希望と活力に溢れていた時代が舞台である。芝生のある郊外の一戸建、専業主婦の妻、TV番組"Howdy Doody Show" を夢中でみつめる子供たち。これは、物事がずっと単純だったと思われていた時代、一見、なんの悩みもない理想の人生が実は「絶望的なまでに空虚」であると直感的に気づいてしまい、そこからの脱出を計画する妻と、現状に流されがちで煮え切らない態度の夫の物語であり、彼らの常軌を逸した行動に心を乱される周囲の(普通の)人々を描いた物語である。先にも触れた不動産屋夫婦の息子が本作で最も洞察力に富み、考えたことを直裁に口に出すキャラクターとして登場し、主人公カップルの心のうちを的確に解説してくれるので、話のポイントは誰にでも容易に理解できよう。もちろん、思ったことをそのまま口に出すこの男は、精神を病んだものとして病院送りになっているのだが、これに対置されるのは不満を押し殺して平凡な生活に甘んじている「普通の」人々である。

実力のある俳優たちの演技で見せる、演技で見せきる作品である。情緒不安定的に突然感情を爆発させるケイト・ウィンスレットの役柄は演じがいがあったろう。薄っぺらで平凡でありながら決してそれを認めることができないレオナルド・ディカプリオの役柄も、そうだ。精神を病んだ男(マイケル・シャノン、儲け役!)に痛いところを突かれてキレるシーンでの熱演なぞ、さぞ気持ちが良かっただろう。そんなであるから、観客の目がどうしても役者に向かうのはいたし方のないことなのだが、一方で、熱演型の役者が自己満足的にわめき散らすだけの作品に終わっていないのは、監督サム・メンデスの力量によるものだと、感心する。前作『ジャーヘッド』は狙いはともかくとして成功作とは云い難いものだったが、舞台監督出身という来歴ゆえか、狭く限られた空間で展開される心理劇を切り取る手腕の確かさは本物だ。今回の撮影はロジャー・ディーキンスであるが、前作からコンビを組むこの二人が切り取る「世界」は、端正な構図のなかに居心地の悪さや不穏な空気、緊張感を盛り込み、日常のありふれた風景に違和感を偲ばせてくる。このスタイルとルックスは、結果として、大御所・故コンラッド・ホールが手掛けた『アメリカン・ビューティ』に似ており、題材だけでなく見た目でも対になる作品との印象を強めている。

この映画で一番好きなシーンは、おそらく多くの男性観客が挙げることであろうが、夫婦激しいやり取りの翌日の朝食のシーンである。柔らかい日差しが差し込むキッチンで、感情を落ち着かせた妻がオレンジを絞り、卵を焼く。即卓で穏やかに向かい合い、少なくとも表面上は束の間の平和な時間を過ごす2人の姿と、その裏側、目に見えないところに流れている不穏な空気。そんなものには気がつきもせず、幸せそうに仕事に出かける単純な夫の笑顔が、愛おしく、痛々しい。諦めなんかではなく、妥協なんかではなく、何かを心のうちで静かに決めた妻の瞳が哀しい。ここのシーンの印象深さが、一転して悲劇に転じる際の落差となる。残酷というのはそういうものだ。

妻の思わぬ妊娠を歯車が狂うきっかけにしているが、現代的な感覚、しかも、日本の観客からすれば、その程度のことで?となるかもしれないが、このあたりは妊娠中絶に不寛容な社会の理不尽さで、本来であればもっといろいろあったはずの夫婦の選択肢を決定的に狭め、追い詰める結果となっている。そんなことも含め、社会の常識とやらいうものは、人を「空虚」な生活に縛りつけるのであり、しかし、それに異を唱えてみたところで決して良い結果が望めないという「絶望」を見てみぬ振りして生きるのが大人の知恵というものなのだということだろうか。それを心から信じられるほどシニカルにはなりきれない。

Nobody to Watch Over Me

誰も守ってくれない(☆☆★)


『おくりびと』がグランプリを獲った2008 年のモントリオール映画祭で脚本賞を得たという、君塚良一脚本・監督作品である。未成年による殺人事件において容疑者の家族に向けられる悪意というテーマの着眼点は新鮮であり、そういった社会的なイシューを盛り込んだ「娯楽メロドラマ」という範疇ではそれなりに良くできた作品といってよい。しかし、事前に高まっていた期待値からいえば平凡で、どちらかといえば残念な出来栄えである。それはこちらが勝手に期待したのが悪いのかもしれないが、可能性を感じる題材であったがゆえにもったいないな、という考えがあっても良いのではないかと思う。

まず、これは日本人観客に限定された指摘にならざるを得ないので、本当の意味で客観的に映画を観た観客は別の印象を受けるのは承知の上で書くが、主演の佐藤浩市を例外として、周囲を取り巻く役者たちがどれもこれもテレビで使い古され、見飽きた顔の羅列であることに、入場料を払って「映画」を見にきたつもりでいる私はまずもってげんなりさせられたのである。そして、そういう「お茶の間俳優」たちが、そろいも揃ってテレビドラマと同じレベルの、絶対に一線を越えない演技をしている。劇場版というのであれば、いつも見知った顔をスクリーンで眺めるということ自体が目的であり、付加価値を生むイベントである。しかし、オリジナル企画である本作の、テレビドラマ的な既視感はマイナス要因以外の何者でもない。

バストアップの切り返しや顔のアップばかりが幅を利かせ、引きの画が少ないこともこの作品から映画らしさを奪っている。これはテレビドラマの、テレビ画面サイズの演出だろう。こういう映画を平気で撮ってしまうような作り手たちは、自分の作品を劇場の、それなりのサイズのあるスクリーンで見ているのだろうか?と疑問に思うことがある。もちろん編集用の小さなモニター画面で見栄えは悪くないのだろう。TV放映時に茶の間で流し見をする視聴者の目にも違和感がないだろう。しかし、映画館の暗闇に身を沈め、視界を埋め尽くすスクリーンを凝視している観客の目には、この息苦しさは耐え難い。人物にカメラが寄るということは、それだけ画面の余白が減るということだ。画面に奥行きや広がりは感じられないし、役者たちもその全身ではなく「顔」で演技を、表現をしようと熱演する。それがどれだけ暑苦しいことか分かっているのだろうか。

臨場感のあるドキュメンタリー・タッチを目指したというが、それについてもそう。確かに、ある種のシーンで臨場感を生み出すのに成功していることまで否定するものではないが、対象寄りのカメラで画面が揺れればドキュメンタリー・タッチだと、何か勘違いしているのではないだろうか。ドキュメント感って、そういうものではないだろう。だいたい、「お茶の間俳優」をこれでもかと起用したことでそこは予定調和の世界と化しており、この映画からすでに「ドキュメント感」は失われているのだ。そして、映画が「今起こっていること」ではなく、主人公である刑事の「過去」や「傷」などという領域に踏み入ることで、それは、メロドラマとしての力は獲得しつつ、ドキュメント・タッチからはどんどんかけ離れていっている。ルックスとしてのドキュメント感や、役者の素の表情を引き出すライヴ感というのも分からないわけではないが、編集の悪さも手伝って、見せ掛けだけの安っぽさしか感じられない。まあ、もっといえば、本作の音楽もドキュメント・タッチというよりはお涙頂戴だ。

主人公らを追い詰める推進力として、ネット上を起点とした悪意の暴走を取り扱っているが、これを新しいということもできるだろうし、その描写を以って短絡的なネット批判・ネット悪者論になっているという批判もある。2008年の現在を描く上で避けられない要素について、現実離れしているといわれようが、ネット上でただただ傍観者的に誹謗中傷が繰り返されるだけでなく、現実的な行為とリンクしてエスカレートしていくという一歩踏み込んだ描写を盛り込んだところは評価すべきである。ただ、物語の展開上、新しいメディアが誘発する悪意の、その容赦のなさばかりが強調され、旧メディアが踏み込めないような草の根の機動力や即時性を武器とした良い意味での可能性などには言及されないところには、作り手の(無意識か意識的かは別として)一面性を感じないわけではない。それは、旧メディア側、すなわち、特に、TVに対する突っ込みの甘さにも現れている。それは、本作品が旧メディアにおける最大の既得権者であるところのTV局出資による作品であることも関係しているに違いない、などと勘ぐりたくもなる。

1/17/2009

Quantum of Solace

007 慰めの報酬(☆☆☆★)


『ゴールデン・アイ』、『カジノロワイヤル』と2回連続新ジェームズ・ボンドによる「新章」立ち上げを担ったマーティン・キャンベル監督から、『チョコレート(Monster's Ball)』『ネバーランド』『主人公は僕だった』『君のためなら千回でも』で知られる一見畑違いのマーク・フォースターに監督を交代した、ダニエル・クレイグ主演第2弾(イオンプロ製作ボンド映画第22弾)の本作は、ストーリーが前作『カジノロワイヤル』の直後から始まるフランチャイズ初・直接の続編である。邦題が変なのは、まぁ、大目に見るとして。苦労したんだろうから。

シリーズで最も長尺(144 min.) であった『カジノロワイヤル』から一転、本作の上映時間は106 min と、シリーズ最短の仕上がりであると聞いたときには、いろんな危惧を持ったのは事実であるし、そこまでタイトに切り詰めなくても、映画にボンド映画らしいある種の余裕や遊びを持たせたら良いのに、と考えたのもまた事実なのだが、実際の映画を見てみて考えを改めた。気づかされるのは1時間46分という時間は、ストーリーを豊かに語るためにどれほど多くの可能性を秘めているのか、ということ。そして、改めて思うのは、近年の娯楽映画の多くが、どれほど怠惰に、無駄な長尺化を許容しているかということである。

もともとボンド映画は娯楽アクションとしては比較的贅肉の多い作りになっていて、2時間を越える尺の作品が多いのである。そして、その「余裕」とでもいうべき部分にシリーズらしいお約束やお楽しみが含まれていたわけで、本作がボンド映画とは「何か違うもの」になってしまっていることを心配したのはそういうわけがある。確かにこの新作はものすごいテンポでストーリーが展開されるから、もうすこし「タメ」や「間」、もっといえば休憩できる時間ががあってもよいかと思う瞬間がないわけではない。しかし、短く切り詰めていくことで話が分かりにくくなっているわけではないし、前作からの大胆な路線転換の延長線上にあるとはいえ、ただのアクション映画ではない、「ボンド映画」らしさのかけらはそこここに散りばめられているのだ。それに、単にストーリー展開を追うだけの作品でなく、そこに濃密なドラマや世界観が詰め込まれているのを目にすると、やっぱり優れた娯楽映画はこうでなくてはいけないのではないか、そんなふうに思う。中味もないのに2時間半近くひっぱる愚作が氾濫する今日この頃、ジャンル違いの監督が作り上げた筋肉質の娯楽活劇がそんな風潮に対してちょっとした刺激を与えることになればよいのではないか。

さて、内容面での大きな注目ポイントは2つある。

最も注目に値するのは、前作に引き続き思わぬ形で再登場する工作員に対し、ボンドが通称とは異なる本名を尋ねるシーンだ。これは翻って、尋ねている「ジェームズ・ボンド」の、その名前すら、固有の誰かを指す名前ではなく、人から人へ引き継がれてきたコードネームである可能性を示唆するものである。そうすると、前作「カジノロワイヤル」以来のこのシリーズは、ボンドが殺しのライセンスを取得し、我々がよく知っているあの「ボンド」になるまでを描く「前史」であるとか、シリーズ設定をご破算にしてリニューアルしたというのではなく、21世紀、新たに「ボンド」を襲名したある男の、新しいストーリーを描いていくのだということを明確にしたということになるだろう。これまでもファンのあいだでは、過去のボンド映画における(設定としての)ジェームズ・ボンドの生まれた年代や活躍した時代を勘案しながら、それぞれの時代にそれぞれ異なる人物が「ジェームズ・ボンド」という(伝統の)名前を襲名して活躍していたのではないか、という仮説が提起されたりしていたが、本作ではいよいよそれを映画シリーズの設定に取り込むよ、という宣言がなされたと考えてよいだろう。そうすると、当然「M」も、CIAではあるけれど「フェリックス・ライター」も、未登場の「Q]だって同様。過去をリセットするのではなく大きな意味で包含し、役者が変わったり男が女になったり白人が黒人になったりしたっていいじゃない、ということにもなる。そして、それは新しい時代の新しいボンド映画を作るという覚悟の表明でもある。

もうひとつの注目は、ボンドが闘う「敵」の姿である。それは、かつての冷戦下では東側の諜報機関であったり、悪の天才が率いる「世界規模の犯罪組織」(=スペクター)であったりしたわけであるが、冷戦の終結や、過度のマンガっぽさを排除するため、それらの「敵」は表舞台から去った。それに変わって登場したのが組織の裏切り者や麻薬王、暗躍するマスコミ王やらの「暴走する個人」であった。しかし、前作『カジノロワイヤル』を引き継いだ本作における敵は、そうした「個人」ではなく、しかし、特定の国家や体制にも依存しない(顔の見えない)組織だ。そこには理念はない。台詞にもあるように右か左か、独裁か民主主義かなんてどうでもよい。宗教も関係ない。組織の目的は単に利己的な巨大利権の追求で、その実現のためには様々な表向きの様々な顔(今回はエコを語る企業体)を使い分けながら国家をも手玉に取るのである。ある意味で、かつての「世界規模の犯罪組織」が、現代的にリニューアルされたといってもよいのだが、その背景にあるのは21世紀の新しいリアリティであり、新しい世界観だ。そのなかで、かつてでさえ荒唐無稽なものとして決してリアリティを獲得するまでには至らなかった「世界的な犯罪組織」を描くことに成功しているということを、とても面白いと思った。

本作では劇中において米英両国の政府が決して「善悪」を判断基準に行動するものではなく、国家の利己的な目的において(すなわち石油資源の確保のために)どのような悪党とでもベッド・インする存在であるという(現実的な)認識と、主人公らが所属する諜報機関(CIAなりMI6)もまた、国家の意思を遂行するための組織でしかないという突き放した認識の描出がなされているのがさらに面白いところである。映画の中での米英両国は結局のところ騙されていただけというオチがつくため、「悪党(でもあり、愛した女の仇)」を追う主人公の行動と、国家の損得は矛盾しないかたちで決着がつく。ただ、それはむしろ例外というか、偶然とでもいうべきことなのではないのか、そんな疑念が複雑な余韻となり、本作は幕を閉じる。

その他雑感。前作で原作通りのレシピで登場し、爆発的人気の呼び水となった「ヴェスパー・マテーニ」。これをチャーター機で移動中のボンドが次々に飲み干すというシーンは、ちょっとしたお楽しみシーンである。前作以来、ジュディ・デンチ演ずるMの出番と役割が増しており、ボンドとMの人間関係もひとつの見所になっている。また、トスカ上演中の劇場を舞台に織り込むなど、リニューアルしたシリーズなりの「ボンド映画」らしさの工夫が感じられる。アクティブで主体的なヒロインだけでなく、対になるような昔のボンドガール風の女性を両方登場させるあたりや、『ゴールドフィンガー』へのオマージュとなるオイルまみれの全裸死体など、タイトな中にもファンへの目配せがあり好感が持てる。ああ、あとアリシア・キーズとジャック・ホワイトのデュエットとなる主題歌は、「Another Way to Die」というタイトルも新鮮味がなくがっかりだが、曲そのものも凡庸、そのうえ音楽担当の御馴染みデイヴィッド・アーノルドも関与していないため、劇中の音楽ともリンクしないなどいいところなしだ。エイミー・ワインハウスのヤク中とお騒がせが度を越して主題歌から降板させざるを得なかったのは結果から見ると大きな痛手だろう。

1/12/2009

Animal Farm

動物農場(☆☆☆★)

All Animals Are Equal, But Some Animals Are More Equal Than Others.

というか、

All Employees Are Equal, But Some Employees Are More Equal Than Others.

・・・だったりする今日この頃。被雇用者同士がいがみ合わざるを得ない構図って、なんか変だ。


基本的に「資本主義」の歴史というやつは搾取する側と搾取される側という構図を何十年の歳月をかけて巧妙に覆い隠し、搾取される側にとって、普遍的な対立構造が見えにくくなるように腐心してきた歴史である、ともいえる。もちろん、それが全て悪意の元に行われてきたとは思わないし、事実上、我々人類が異なる経済体制の選択肢を事実上持っていない以上、どこかに妥協点を見出すのは吝かではない。

・・・が、冷戦構造が終わり、すなわち、「経済体制」同士の「競争」がなくなって「独占」状態になったとたん、その欲望がエスカレートし、かつての巧妙さを失ったあからさまなやり口で収奪と搾取を強化してきていること、ここにきてその行き過ぎが誰の目にも明らかになってきた。世界を覆うテロリズムはそんなところにも端を発しているといえるだろうし、「ある種の元・被雇用者」が日比谷でテント暮らしを強いられるのもそんな理由による。

ジョージ・オーウェルがロシア革命をモデルに描いた原作をもとに、一説にはCIA反共宣伝工作資金による関与によって完成を見たとされるハラス&バチュラー・カートゥーン・フィルムス製(英国初の長編)アニメーションがこの『動物農場』である。だから、もちろんその内容が「ロシア革命」の顛末に対する強烈な皮肉になっており、革命によって生まれた理想主義的な仕組みが行き詰る中で、権力欲に駆られた狡猾なものたちが大多数を支配して食い物にする抑圧的な状況を作り出していく様子が描かれている。

だから、この映画は元々、「共産主義の実態なんてこんなものだ」と吹聴するプロパガンダ的性質をもった映画としてこの世に生み出されたわけだ。

ところが、現代的な目で見れば、これは単に「ロシア革命」に対する強烈な皮肉である以上に、結局、資本主義だ共産主義だという「体制」は全く問題ではなく、もっと普遍的な、経済的に搾取するものと搾取されるものという関係のなかで人間性の醜い本質を描いている作品であると読めるところが面白い。

皮肉なのは、旧体制の支配者と資本家の区別を曖昧にし、資本家と共産主義指導者たちの同一化を避けるよう「出資者」の意向により細部にわたるいろいろな改変が施されたのにもかかわらず、そう読み取れる点、である。

「敵」が誰なのか分かりにくくなった現代に生きているからこそ、ここで単純化されて描かれた本質的な対立構造が、寓話としてより強く輝くのではないだろうか。そんなふうに思われる。

もちろん、1954年の作品なので、当然、古さや限界を感じる部分はある。原作にあるある種の表現はソフトになり、終盤の展開も異なる。キャラクターも単純で類型的に過ぎるかもしれない。なかでも、ナレーション中心に物語が説明されて進んでいくところは、尺1時間半には満たない尺の長さを考慮に入れたとしても欠点だと思う。

ただ、動物たちの動きや豊かな表情の表現力には目を見張らされる。殊に、革命の指導者として、後に独裁的恐怖政治体制を作っていくことになる豚たちの、その人間臭い狡猾さや怠惰さを見せるあたり、憎らしいほどにうまい。これだけの表現をやってみせる作品はそうそう転がっているものではない。革命を成功させてつかの間の労働の喜びには牧歌的なアニメーションの楽しさが満ちているし、暗闇の中で黒い犬の目が光るなどという一見して単純なシーンもドキッとさせられるもので効果的であった。

本作は、「三鷹の森ジブリ美術館ライブラリー」のシリーズ名で、世界のアニメーション作品を紹介するシリーズの一編としてこの冬、配給・劇場公開された。公開規模は小さいが、これまでに同シリーズがDVD・BD化されてきている実績をみると、本作も同様の展開が期待されるので、今回見ることができなかった向きにも鑑賞のチャンスはあるだろう。半世紀以上も前に、大人の鑑賞に堪えるこうした作品とそれを作る能力のあるスタジオが存在した事実が紹介されるだけでも刺激的であり、「三鷹の森ジブリ美術館ライブラリー」レーベルの存在意義を感じる。

そう、世界にはディズニーでなく、ジブリでもなく、子供騙しでもなくANIMEやOTAKUではない「アニメーション」が、まだまだ沢山紹介される機会を待っているに違いない。

1/10/2009

Exiled/放逐

エグザイル/絆(☆☆☆☆)


緊張と弛緩。激しいヴァイオレンスとそこはかとないユーモア。スローモーションで引き伸ばされた激しくも美しい銃撃戦と銃撃戦の間をつなぐのは、確実に死に向かっているというのに、いい年をして子供のようにはしゃぐ男たちの姿であり、行く当てもなくコイントスで方角を決めてさまよう男たちの姿である。それは、どこか北野武の『ソナチネ』の感覚に似ている気がする。ジョニー・トーの2006年作で傑作と名高い話題作『Exciled』は、1999年のマカオの返還前夜を舞台に、幼馴染じみの友人を殺すよう組織のボスから命じられた男たちの話である。この期に及んで何故だか地元に戻ってきた「友人」は、若い妻と生まれたばかりの赤ん坊を抱えており、妻子のために、せめて金を残してから死にたいという。友情と仁義から、裏社会での暗殺仕事を引き受けることにした男たちだったが、思わぬ展開から組織をも敵に回して居場所を失ってしまう。

脚本がなかった、という。その昔の香港映画ならともかく、現代の映画作りにおいてそのような芸当はなかなか難しいと思うのだが、冒頭でも述べたような緊張と弛緩の繰り返しに身をゆだねていると、脚本なしに物語を組み立てながら気心の知れた俳優たちと撮影していった、というはなしに信憑性があると思わされるようになってくる。大きな意味でのストーリーラインや構成は頭の中にあったとして、よい意味で行き当たりばったりの産物というか、その場その場における即興的セッションでつくられたようなユルい感覚が全編を支配しているのである。中盤過ぎ、無目的にさ迷い歩く男たちの姿に中だるみを感じないわけではない。もしかしたら、きちんとした脚本を事前に用意していたらもう少しタイトな作品に仕上がったかもしれない。そうはいっても、ここにあるだらっとした時間もまた、この映画独特の空気を醸成しているのである。実は、そこが捨てがたい味になっており、嫌いではない。

本作の最大の見せ場といってもよい銃撃戦は、手を変え品を変え場所を変え様々なバリエーションで用意されているので見ていて飽きない。最初は狭い部屋の中で5人が撃ち合い、次は暗殺ターゲットを待ち伏せていたレストランでのハプニングから続く緊張感溢れる一連のシーン。闇医者での思わぬ遭遇から展開する屋内でのカーテンを使った複雑なシークエンス。金塊輸送車強奪グループと警備係の撃ち合いに絡んでいく屋外での緊迫したシーン、そしてクライマックスとなるホテル内の階段や通路、吹き抜けといった高低のある場所を舞台とした大掛かりな大銃撃戦。屋内の複雑なアクション・シーンんぞ、いったいどのように撮影したものだか知らないが、かなりの手間隙がかかっているように見受けられる。凝ったカメラアングルや痺れるような間を挟みつつ、電光石火のうちに展開する銃撃戦はどれもかっこよいだけでなく洗練された美しさに溢れている。このレベルが今後のアクション映画の基準になるのではないか、と予感させる出来栄えは興奮必至である。

帰ってきた「友人」を尋ねる冒頭のシーンのただならぬ緊張感がいい。偶然通りかかった(と主張する)引退間際の(お笑い担当)警察官とのユーモラスなやり取りが、その緊張感を高める。また、1トンの金塊を輸送するトラックを見かけ、襲撃するかしないかをコイントスで決め、襲撃しないことに決まった瞬間の男たちのがっかり感たっぷりのリアクションが大好きだ。クライマックスで女を逃がし、そのまま去ることもできたはずの男たちが覚悟を決めて扉を閉める、その自ら死に場所を決めた格好の良さは、いや、こういうのが見たかったんだよと心の中で拍手喝采。その銃撃戦の舞台でもあるホテルの造形などにも顕著に見られる西部劇タッチの隠し味もいい。照明、構図、台詞、決めのポーズ、ちょっと格好良すぎて笑ってしまうくらい、いい。幼馴染の5人組というが、アンソニー・ウォンだけやたら年くっているようにみえるのはご愛嬌か。ま、別に必ずしも同じ年代である必要はないのだけど。

Hellboy II: The Golden Army

ヘルボーイ ゴールデン・アーミー(☆☆☆★)


It is logical. The needs of the many outweigh the needs of the few or the one. (Spock@ "Star Trek II")
The needs of the one outweighed the needs of the many. (James T. Kirk @ "Star Trek III" )

この映画、"many" どころか、 "entire humanrace" よりも、目の前にいる一人を救うというんだもの。泣けるよね。

ちょんまげ姿の赤鬼さんが大活躍する2004年のマイク・ミニョーラ原作・ギレルモ・デルトロ監督作に、オリジナルストーリーで続編登場。監督は前作同様、ギレルモ・デルトロがあたっているが、前作からのあいだに『パンズ・ラビリンス』を大成功させて格が上がり、『ホビットの冒険』を初めとする様々な企画が持ち込まれる人気監督へと出世を遂げての再登板である。前作が当たらなかったため客層を狭めたくないのか、それともいろんな事情があって配給会社が変わったためか、邦題からは「2」との表記が割愛されている。なんでもよいけど、この続きができたとき、ためらわずに劇場公開してもらえる程度にヒットしてくれることを祈っている。

さて、本作『ヘルボーイ2』、なかなか凄いことになっている。もちろん、モンスター好きの監督が好きに作った作品であり、今回は前作比でモンスター大増量という話は事前に聞いていたのだが、何が凄いといって、主要キャラクターのうち人間(もしくはとりあえず人間の容姿をしている)のは、超常現象捜査局の局長とヒロインだけという徹底振りで、スクリーン狭しと怪人・怪獣が入り乱れ、モンスター祭り状態と化しているのである。

もはや、人間なぞお呼びではない状況で、人間よりも人間臭いモンスターたちが繰り広げるドラマは、キャラクターが生きているからこそ可能な離れ業だ。人間のためにいくら尽くしても報われない主人公の悲哀。愛するものの命・自らの命と世界の運命を天秤にかけることを強いられるキャラクターたちの、それぞれの選択と結末がストーリーの核だ。大きく、重たい問いであるがゆえ、当然、感動も呼ぶのだが、そこで湿っぽくなるような安っぽい演出ではない。全編を貫いたオフビートなユーモア感覚こそがこのシリーズの楽しさだろう。

モンスターのデザインと造形には相当力が入っている。手掛かりを求めて入り込んだ「トロールマーケット」では、物語に深く関わるわけではない様々に異形なモンスターたちが通りすがりに登場するのだが、ここでの「人間の世界のすぐ裏側で、モンスターたちの活気に満ちた日常とでもいうべきものが営まれている」という描写が面白のだが、その描写を成立させているディテールの作りこみが半端なものではない。画面の隅々までを堪能したい向きは、これだけでも何度でも見返したくなることだろう。

また、ストーリー上、重要な役割を果たす「死の天使」は、本作における目玉ともいうべき存在で、監督の前作に登場した異形のもののデザインを彷彿とさせるユニークな、しかし、おぞましくも崇高な美しさを感じさせるあたりの造形的な完成度の高さに見惚れること必至である。また、話の中盤に設けられた大アクションシーンでの巨大化した森の精であるとか、タイトルにもなっている「ゴールデン・アーミー」のアンティークな機械仕掛け的な面白さや愛嬌など、美術的な観点からの見所は、前作をはるかに凌駕している。あまりにも小さいもの(歯の妖精か?)や大きいもの(森の精?)を除いて、ほとんどを特殊メイク、アニマトロニクスなど「デジタル」ではない旧来からの技術で作り上げたと話に聞くこだわりは、間違いなく画面に映っている。なんでもデジタルにすればよいというものではないということを実証するに十分だ。

とまらぬ欲望に支配された人類の繁栄を疎ましく思うエルフ族の王子が、封じられた黄金の軍隊を解き放って人類を打ち滅ぼそうとするメインプロットそのものは、それほど面白いとは思わない。もちろん、異形のものでありながら人間側に立ち、心は人間そのものである主人公を悩ませるためとはいえ、元来が楽観的なキャラクターであるから、それほど鋭く効いてこないのである。まあ、これはストーリーそのものを楽しむ映画というよりは、肥大化した個々の細部の集合としての圧倒的な密度の濃さを楽しむ作品であろう。また、そういう観点から、原作者と監督が作り上げた魅惑的な世界と面白いキャラクターを楽しむには、数年に1度の映画というフォーマットよりも、1時間ものの連続TVシリーズのほうが本質的には向いているのではないか、と思う。(もちろん、それで制作費がペイできるわけがないのは重々承知だ。)映画だけでは題材の持つ魅力を十二分に表現し切れていないという意味で、前作同様、少し消化不良気味である。