3/26/2011

Never Let Me Go

わたしを離さないで(☆☆☆☆)


特殊な運命を背負わされた3人の若者たちが、その運命を受入れ、制約の中で精一杯に生の意味を探し、全うしようとする。これは、残酷で、少し不思議な寓話である。カズオ・イシグロの原作を、劇場用作品としては久しぶりになるマーク・ロマネク監督が、まさに (英語だったら)"Haunting"と呼ぶのがふさわしい映像で映画化した話題作である。

本作で描かれる物語は、大きな枠組で見れば、出征を控えた若者たちの物語とか、難病・奇病により長くは生きられない人々の物語とか、もっと極端にいえば社会にでる前の学生の馬鹿騒ぎなどといった、「抗えない運命を受け入れて、今を生きる物語」と大きくは変わらない。が、本作では描きたいことを際だたせるための特殊な「状況」を作るために、少々あざとさも感じさせるSF的、倫理的モチーフを利用しているのが肝である。

SFとしてみれば、この映画が設定してみせる「状況」を生み出した社会について、冒頭の字幕で説明される以上のものがないこと、一貫性や合理性のある設定は提示されないことが物足りなく感じられるであろう。本作はSF的な設定による仮想社会のシミュレーションではない。倫理的な側面は比較的に重みがあるが、そうはいってもSF仕掛けを借りた社会批判や社会風刺ではない。ああ、それにもちろん、SFをダシにつかった娯楽アクションやサスペンスの類ではない。

しかし、原作者が導入したこのSF的な仕掛けは、主人公たちの置かれた「状況」を、特定の時代や文化から解き放ち、より普遍的なメタファーとして機能させるという効果をもたらしているのは確かである。たとえば、「太平洋戦争末期の、出撃前やの特攻隊員の物語」よりも、「違った歴史をたどった近過去の英国で、他者を活かすために死ぬことを運命づけられた存在の物語」のほうが、実際に存在しないものであるからこそ、抽象化し、「抗えない制約や不条理を運命と受け入れて限られた時間を生きて行く人生というもの」と重ねあわせて理解することが容易なのである。

またまた極端なことをいえば、「災害時にあって抑圧的な環境を受け入れ、全体秩序を維持するため我欲とやらを捨てて耐える日本人」とか、「超高齢化社会で多数派たる老人たちの医療・福祉や年金のために犠牲を強いられる少数派の若い世代」とかいった状況すら、重ね合わせることだって不可能じゃない。それは、状況を純化し、抽象化して提示することの力である。

そのようにして、観客自身のいろんな深読みや思考を受け止める曖昧さが、本作の持ち味であろう。そんな思考の反芻が嫌いでないのなら、本作の味わい深さを楽しむことができるだろう。

メインキャストの、キャリー・マリガン、アンドリュー・ガーフィールド、キーラ・ナイトレイの3人は、観客の様々な思いを受け止めながら、いかにもカズオ・イシグロが描き出す抑圧された感情の動きを確かに演じきっていて、悲痛な美しさがある。キャリー・マリガンは、『ウォール・ストリート』でおばさんっぽく見えてガッカリしたのだが、この映画では彼女の持つ年齢を超越した分別を持った雰囲気がよく活かされていて適役である。キーラ・ナイトレイは、ちょっといじわるな感じが似合っている。

マーク・ロマネクが作り出す、静かにコントロールされた映像は、美しくはあるが、同時に、裏側にある不穏な空気との緊張感を絶やすことはない。終盤、主要な登場人物の一人の死のシーンは、確実に誰かのトラウマになると思われるほど悪夢的で、かつ魅力的なイメージにがフィルムに焼き付けられている。(その1シーンを理由に、☆☆☆★⇒☆☆☆☆へと加点したことを補足しておく。)

原作から改変されたシャーロット・ランプリングの衝撃的な台詞は、一言で全てを言い表すインパクトがあると意味で、賛否はあろうが、映画としては正解だったのではないか。

3/20/2011

Tangled (Rapunzel)

塔の上のラプンツェル(☆☆☆★)

記念すべきディズニー・クラシック50作目の本作。ラセター体制に完全に移行してから 3本目。

こんなレベルの作品を見ると、一時期のディズニーの低迷は、本当に何を作って良いのか分からなくなってたのだろうな、と思わずにいられない。やるべきことがわかっているとはこういうことなんだろう。3D・CGI では初のお伽話&プリンセスもので、しかも、ミュージカル。内容面でも新機軸がいろいろある。しかし、それでもなお、これはディズニーが作るべき映画に思えるし、ディズニーじゃなきゃ作れない映画に見える。しかも、21世紀の新しいディズニーを感じさせるのだから、もういうことはない。

邦題で明らかなように、本作はグリム童話をモチーフにした作品だ。・・・が、例によって自由に、大幅な脚色がなされているあたりもディズニーの(悪しき?)伝統に則ったもの。揶揄気味にいってみたが、それは、本作に関していえば、決して悪い意味ではない。塔の上に幽閉されていた少女が、「母親」の呪縛を振り切って未知の世界に足を踏みだす自立の物語として再構成された21世紀のラプンツェルは、今という時代に受け入れられる物語になったと思うし、現代を生きる「女の子たち」に積極的に見せたいと思えるお話しになっている。時代に合わせた姿を模索してきた「ディズニー・ヒロイン」は、ここにきて、また一歩新しいステージに到達した。

日本のアニメーションからの影響は顕著である。まず何よりもキャラクターのデザインだ。ヒロインの目が大きく、日本的な感覚で見ても「可愛い」ことがあげられる。自由を求める気持ちと、良い娘として母親の言いつけを守りたいという相反する気持ちに引き裂かれて悩むヒロインの表現も、日本のアニメではよく見る定番ギャグの表現を咀嚼した結果だろう。垂直方向を活かしたアクション、屋根を飛び移る馬、塔の上のお姫様をさらう泥棒、といった宮崎駿オマージュもいっぱいである。そうした要素が(一時期のディズニーが平気でやっていたような)剽窃とは違ったレベルで表現されているのが好ましい。

一方で、マスコット・キャラクター的なカメレオンや、犬のような振る舞いをする馬といった動物キャラクターは、いかにもディズニーといった手慣れた感じがでている。なにより、ディズニーらしいといえば、ミュージカル・シーンだ。CGアニメーションに転換後は初めての試みだが、ブランクを感じさせない安定感は、やはり伝統のなせる技だろう。「母親」がヒロインを言いくるめようと歌うナンバーや、酒場で荒くれ者たちが夢を語るナンバーのシークエンスは、さすがにミュージカル・アニメーションとしての力があり、見応えも、聴き応えもある。「母親」役のドナ・マーフィの歌唱力も高い。ただし、アラン・メンケンによる楽曲全般についていうと、アベレージが高い彼の仕事の中では、平凡な部類に入ってしまうだろう。

CGIの技術では水だの髪だのといった従来難しいとされていたものの表現が格段に上がっているのを感じさせる。しかし、それよりなにより、人間のキャラクターの扱いや描写、表現の進歩である。ある程度マンガ的に誇張されているとはいえ、キャラクターの繊細な表情や感情表現などをかなり高レベルでこなしている。人間キャラクターの描写については昨年の『トイ・ストーリー3』も含め、ここまでできるようになったという点に感心するとともに、そうなると、次に問われるのは演出力、ということになるだろう。

3D字幕版での鑑賞。やっぱり、そこはほら、「ミュージカル」だから、オリジナル言語で聴きたいわけで、上映場所、回数が限られているとはいえ字幕番の上映をやってもらえないと困るのである。3Dでは空を舞うランタンが幻想的に美しい。奥行きだけではなく飛び出す効果も含めた演出もあって楽しいので、どちらかといえば3Dでの鑑賞をオススメしたい。北米タイトルは Tangled (もつれている)だが、字幕版の冒頭では Rapunzel と出た。こっちが international title なのだろうか。

3/19/2011

True Grit

トゥルー・グリット(☆☆☆★)


コーエン兄弟の映画は、面白かったにしろ、つまらなかったにしろ、いつも騙されたような気分になる。テクニックが先行して、魂が入っていないというか。体温が感じられないというのか。なにかテーマがあるようにみえて、どこか、はぐらかされたような気にもなる。そんなものは映画を撮るための口実に過ぎなかったんじゃないか、と感じてしまったりもする。

物語も、キャラクターも、題材そのものも、突き放した感じの客観的な視線、といえばそうなのかもしれないが、全てが自身の技術を見せびらかすための材料でしかないような印象を受ける。まあ、私がそういうふうに感じてしまう映画作家ってのは他にもいるのだが、コーエン兄弟はその代表のようなものだ。巧いなぁ、面白いなぁ、と思いながら、信用してなるものか、心を許してなるものか、と警戒しながら作品をみているところがあったりする。

そのコーエン兄弟の新作が、西部劇だという。なんだか知らないが評判が良く、本国では興行的にも大成功を収めているというし、名義貸しだかなんだかしらないが、スピルバーグの名前までクレジットされている。いったいどんな映画になっているのだろうかと興味がそそられないわけがない。震災から1週間しか経っておらず自粛、外出控ムード漂うなか、いそいそと映画館に出かけた。しかして、その出来栄えたるや、いかに。

・・・やっぱり、さすがに面白いのである。でも、どこか、なんか騙されたような気がしないでもない。

本作はジョン・ウェイン主演の『勇気ある追跡(1969)』のリメイクである。というか、同じ原作の2度目の映画化、とでもいうのか。開拓時代の米国。西部には、まだまだ法の目や秩序の及ばぬフロンティアが広がっていた時代が舞台である。(それや、「西部劇」なんだから当たり前か。)父親を殺して逃げた男に復讐を誓う少女が、腕利きと評判の保安官を雇い、僅かな手がかりをもとにして、先住民居留地の奥、荒野へと向かう。保安官にジェフ・ブリッジス、同じ男を違う理由から追跡してきたテキサスレンジャーにマット・デイモン、件の仇にジョッシュ・ブローリンが扮している。そんな中、強烈なキャラクターで大人の俳優たちを喰ってしまったのが、中心となるしっかりものの少女を演じたヘンリー・スタインフェルドである。アカデミー賞では「助演女優」賞の候補になっていたが、この物語の実質的な主人公であり、事実上、立派な主演女優である。

旅の道中にはコーエン兄弟らしい人を喰ったユーモアも散りばめられ、どこかオフビートな風情もあって、思わず笑ってしまうこともある。そうはいっても、彼らがやりがちな悪ノリにちかいオフザケはみられない。クライムものを撮っているときほどダークだったり、ハードだったりはしないが、それにしても正々堂々、正攻法で臨んでいるように見える。アクションを交えながら語られるのは、自らの責任においてなすべき正義とその代償について、である。また、それを懐深く見守る大いなる父性についての物語である。

強く、賢く、自立した少女。追い詰めてみれば、チンケな小悪党に過ぎない仇。思いもかけない対決の行方とその顛末。むしろ、復讐を成し遂げたあとに訪れるクライマックス。目的は果たされたのかもしれないが、あくまでビターな物語の結末。エピローグがもたらす余韻。

なんだか、伝統的な米国の価値観を、現代的な視点から再構築することを意図したかのような作品である。キャラクターの解釈や造形には明らかに現代という時代を踏まえたフィルターがかかっているのにもかかわらず、底辺を流れている米国的な価値観には揺るぎがない。そこで考えてしまうのだ。これは作り手の本音なのか、そういうフリをして見せているだけなのか、と。深読みをしたくなるようなとっかかりがあちこちに用意されている。が、それもどこまで意図したものなのか、単に思わせぶりなだけなのか、よくわからないところがある。まあ、こちらの先入観がそう感じさせるだけなのかもしれないが。

騙されたような気分はさておくとして、昨年アカデミー賞を受賞して絶好調なジェフ・ブリッジスがみせる貫禄の演技を堪能するだけでも損はなく、本作を本格西部劇たらしめているロジャー・ディーキンスの撮影も見事。コーエン兄弟作品のなかではとっつきやすい作品なので、普段は避けて通っている人にもおすすめできるんじゃないかと思う。

3/12/2011

Wing Commander

ウィング・コマンダー(★)

しまったー!予告編を見た時からそこに漂う地雷臭は明らかだったのに、宇宙空間を舞台に壮大なストーリーと戦闘が繰り広げられるっていうから、ついつい釣られて映画館に足を運んでしまったじゃないか!

これがまあ、ひたすら退屈な、3時間くらいに感じられる1時間40分。

この映画、ビデオゲームの大ヒット作、『ウイング・コマンダー』シリーズの映画化なんだそうですよ。当方、ゲームはやらないので遠くで噂に聞く程度の名前だったんだが、マーク・ハミル(ルーク・スカイウォーカー!)らが出演する実写映像がふんだんに盛り込まれて、一種、インタラクティブ・ムービーみないになっているんだそうだ。

それがSW復活でSF映画が盛り上がるこの時期に、劇場用映画として登場することになったという次第。ゲーム版の実写部分で監督を務めていたクリス・ロバーツが原案を提供し、監督。脚本は(同じくゲームの映画化である)『モータル・コンバット』のケヴィン・ドローニー。テーマ曲のみだが、デヴィッド・アーノルドが作曲。

ここのところハイスクールもので活躍中のフレディ・プリンゼJrやマシュー・リラードに、フロン・バロウズらの若手に加え、チャッキー・カリョ、デヴィッド・ワーナーらのベテランが出演しているっていうから、それなりの作品になるのかなぁ、と。

でも、映画を見て思った。これは、ゲーム界の人間の「ストーリー・テリング」なんて、所詮はこんなものと陰口を叩かれるために作られた作品に違いない。陰謀だ、そうだ、きっとそうなんだ。

よく見てみれば、配給はフォックスなんだけど、製作母体はゲーム製作元をはじめとした独立系。それゆえか、あちこちに貧乏臭さが出ていて、見ていて悲しくなってくる。

世界観を決めるさまざまな設定にせよ、衣装やメカニック、小道具のデザインにせよ、敵であるエイリアン・クリーチャーの見てくれにせよ、全てのイメージがどこかの借り物。しかも、VFXはやっつけ仕事。いや、元々のゲームがオリジナリティのかけらもなく「借り物」イメージの集合体だったんだろうと思うんだ。しかし、映画館のスクリーンで見せるレベルじゃないだろ、これ。

予算がないならないで、それを逆手に取った見せ方の一つや二つあってもいいのに、それもない。

そもそもストーリーがつまらない。ストーリーがあったというのならの話だが。ドラマも何もなく、緩急も何もなく、ただただ戦闘シーンがメリハリもなく続いていくだけなんだよね。あ、ゲームなんだから当たり前か。くだらなさをあげつらって楽しむには、真面目すぎ。作り手の意図しないところでトンデモ映画になっているわけでもなし。

そりゃ、SW前に投げ捨て公開もするわけだ。その後じゃ、誰も見向きもするまいて。元ネタのゲーム好き意外、近寄らないことをおすすめする。

3/04/2011

Doraemon (2011)

ドラえもん 新・のび太の鉄人兵団 はばたけ天使たち(☆☆★)


なんだろう、この違和感は。

いや、無論、声優や絵柄のことなんかじゃないよ。私は、「大山」ドラを懐かしみ、今のシリーズを頭ごなしに否定する立場、じゃない。原作が好き、藤子Fの作品が好き、そして映画(一般)が好き、それだけのことなんだが。

藤子F氏が存命中の作品は、「思いがけず感動させられる」作品であった、とは思う。が、それを当たり前のように受け止めてきた世代が作り手に回るようになったからなのか、昨今のドラえもん映画は、「泣かせる」こと、「感動させる」ことが前面に出過ぎていて、そこが気持ち悪くて仕方がない。結果として感動してもらえる作品なのではなく、感動させることを目的とした、ある種の本末転倒がそこにあるように思うのである。これは、この風潮は、誰がなんと言おうと、断固否定する立場に立ちたい。

で、ここからの話は、そういう前提にたってのことだとして読んでいただきたい。今年の作品固有の問題かというと、そうでないような気もするのだが、それはさておくとしよう。

本作は、わりと丁寧に、そして良心的に作られた作品といってもよいだろう。そこまで否定するつもりはないが、どうも、釈然としない。これは、説明過多、感情過多で、しかも子供に媚びすぎではないのか。また、これも重要な問題だと思うのだが、原作・大長編シリーズの中でも、特に本作に固有の面白さが分かっていないのではないか。

ご存知のとおり、本作は、人気作『のび太の鉄人兵団』のリメイク(というか、2度目の映画化)である。表面的に一番大きな改変ポイントは、土木作業用ロボットの「頭脳」を、子供っぽく擬人化されたヒヨコ形状のマスコット・キャラクターとして描いたことである。

原作・前作ではこの「頭脳」に対し、ドリルを使った人格改造ともとれる表現があったのを覚えているだろうか。それは乱暴だと、腕力より話し合いで解決という方向に変えたいという発想は良し。「頭脳」は改造してよくても、ゲストキャラクターであるリルルにはそれをしない、という、ダブル・スタンダードといえる状態だったのも気になってのことだろう。

が。しかし。「人格改造」がダメで、同意を得ないまま外見を自分たちにとって<親しみやすい>ものへと外科的に整形手術をするのが許容されるという価値観はなんなのだろう。一体全体、そういう「思想」は、どこからくるものなのか。中身も気に入らないが、まず見た目を「可愛らしく」変えてしまえというやり口がどれほど乱暴で、差別的であることか。そのことに何故、誰も気がつかず、異論を唱えなかったのか。まずこの時点で、私は寒気がするほどの薄気味悪さを感じ、本作に対する印象が決定的に悪くなった。

もし、上記に上げた人格改造やダブル・スタンダードの問題だけであれば、こんな手もある。例えば、「地球侵略のために偏った価値観をプログラムされていた(本来無害な)単純作業用の人工知能を、マインド・コントロールから解放する」くらいの表現にするとか。

いや、それでは駄目な理由があったのだと思う。この気持ち悪い整形ヒヨコを出したのは、単純に上記のような理由だけではなかったはずなのだ。

このマスコット・キャラクターは、そういう表層的な矛盾解決のためだけに登場させられたわけではない。そうではなくて、のび太や静香たちとの交流によって変化する敵の先兵・リルルの心境の変化を、誰にでも分かりやすく言葉で語って見せ、なおかつ、あざとく観客の涙を絞るために用意されたものなのだ。そのために、この作業ロボットの「頭脳」が、本国では被差別種であったこと、リルルとの交流や絆というバックストーリーまで用意しているあたり、必死だなぁ、と思うのである。

しかし、原作(あるいは前作)は、そうまでしなければ説明不足だっただろうか。感動不足だったのか。そんなことはあるまい。そうしなければ(原題の観客には、あるいは子供の観客には)伝わらないと観客の知性をナめてかかっているのである。そうしなければ感動できないと思い込んでいるだけのことではないだろうか。

これは、「泣ける」を売り物にする陳腐なTVドラマや安っぽい邦画と同じビョーキだ。その病に、この作品も侵されている。

それに、あの女子供ウけを狙った整形ヒヨコの舌っ足らずな子供っぽさはなんなのか。もちろん、その造形そのものが藤子Fらしくないとまではいわない。「チンプイ」あたりに登場したマール星人のように見えなくもないデザインだからね。しかしボーリング球としか思えない丸い玉がぴょこぴょこ飛び跳ねてオヤジ声で恐ろしい計画を語り、悪態をつくというシュールさが藤子Fの真骨頂だとしたら、ピッポとかいう名をつけられたこのキャラクターはいかにも子供に媚びているだけで気持ち悪いったらありゃしない。

あるいは、「媚び」ではないのかもしれない。もしかしたら、「ボーリング球」を動かして感情表現をしてみせ、なおかつ観客の感情移入を誘うのは難しい、ということなのかもしれない。でも、だとしたら、それこそアニメーション的には腕の見せ所のはずで、それをやってのけることができないと、逃げたと謗られても致し方ないのではないか。

申し訳ないが、これでもまだ貶し足りない。

この物語は異星人による侵略SFであり、価値観の異なる2つの世界の戦争(War of the Worlds)、しかも地球側にとって、主人公らにとって絶望的に不利な闘い、である。それを勇気や知恵、SF的な工夫によって乗り越えていく。今回のリメイクは、 そういう物語であることからくる恐怖感や絶望感、孤独や不安といった感情や、スリル、サスペンスといった要素が全く欠落しており、その点では完全な失敗作である。

冒頭、敵国「メカトピア」が地球を侵略しようとしていることが明示され、更に、ゲストキャラクターであるリルルもそこで登場させている。それが、そもそも「わかって」いない。巨大なロボットなり、リルルといったキャラクターの正体、目的が伏せられていることから生じる不安感やサスペンスが面白いのではないのか。ロボットに搭載された兵器の破壊力に気づいたとき、その目的がリルルの口から明かされたときの「のび太」(と読者)の衝撃。それをむざむざ手放すなど、愚の骨頂。

圧倒的に不利な状況で鏡面世界に敵の兵団を誘いこむ作戦を立て、実行に移すプロセスを精緻に描かないのは何故なのか。金属探知する防衛線を張り、無人の街をパトロールする緊張感あふれるシーンはどこに消えたのか。襲われた静香を危ういところでのび太が救うという名シーンは、異変を察知して静香の家に向かうのび太たちを見せてしまったら台無しだということに何故気付かないのか。

感動を売り物にするまえにやるべきことがたくさんあるはずである。そのなかのひとつは、映画好きでSF好きだった原作者が毎回意匠を凝らして作り出した、ついつい大人も夢中になってしまうようなストーリーを、その基本に忠実に語ることであるはずだ。

ただただ観客の涙を絞りたいなら、「鉄人兵団」である必要はないし、もっといえば、ドラえもんである必要すら、ない。本作は、仕切りなおした新シリーズのなかでは、(また、4本目となるリメイク映画のなかでは、)「恐竜」と並び出来がよい方だとは思うが、いや、見せて欲しいのはこんなんじゃないんだ。正直言って心底がっかりした。悲しい。

Morning Glory

恋とニュースの作り方(☆☆☆)


出演作を重ねるごとに魅力が増してきているレイチェル・マクアダムスが(恋、はともかく)仕事を成功させるために奔走するドタバタ・コメディ、という枠の中では楽しめる作品である。不機嫌顔の偏屈爺と化した「脇役」ハリソン・フォードも面白いし、ダイアン・キートンは立ち位置をわきまえた好演(まあ、ちょっと年をとったな)。

だけど考えてしまう。どこか納得がいかない。

結局、こうやってテレビは白痴化していくのだ、ということか。

主人公が猛烈アピールで得た仕事で結果を出すため、視聴率の悪いモーニング・ショーの立て直しに躍起になるという話である。いろいろあって、数字が出て、注目を浴び、ネットワークのキー局からお声がかかるまでになっていくというサクセス・ストーリー仕立て。それはいい。

しかし、その成功のプロセスがちょっと釈然としない。

尊敬するニュースキャスターをスカウトしてきたといっても、硬派な番組へと舵を切るわけではない。視聴率を取るために、レポーターたちに過激な体当たり取材を要求し、番組のバラエティ化、白痴化を推し進めていく。報道の力、メディアの力を思い知る出来事があっても、番組の路線を変えはしない。視聴率をとることが良いことで、主人公が行っている番組活性化策が善で、頑固なジャーナリスト気取りは時にスクープをモノにしたとしても、視聴者に媚び、朝の番組にふさわしく料理の一つや二つ作って見せるべき、、、という価値観で突き進み、そこに迷いもなければ、振り返りもない。

主人公が、ということではないだろう。この映画の作り手が、そのあたりのことについてあまりにも無自覚で、批評精神がないということだと思うのである。結果として仕事に賭ける主人公の志の在り処、なんのために仕事をやっているのかがわからない。また、主人公と頑固なニュースキャスターの価値観の対立や相互理解のドラマが、匂わせているほどには描けていない。結局、ハリソン・フォードが立場をわきまえて折れてみせる、ということでしかない。

単に職場の仲間と楽しく、日々の仕事や困難を乗り越えていく話なんだといわれたらそうだ。そういう単純さに本作の魅力の一端がある。しかし、あまりにお気楽なんじゃないか。舞台としてTV局を選んだりせず、どこか他の職場でやってもらえたら、どれほど気持ちよく笑える作品になったことだろうか。