8/30/2008

The Mummy: Tomb of the Dragon Emperor

ハムナプトラ3 呪われた皇帝の秘宝(☆☆★)

1999の1作目、2001年の2作目, 2002年のスピンオフ『スコーピオン・キング』以降、少々間の空いた第3作。奇しくもシリーズが手本にした『インディアナ・ジョーンズ』シリーズ最新作と公開時期がぶつかった。

本作では舞台をシリーズ当初のエジプトから中国に移している。こうなると、もはやなんでもアリ。ああ、そういえば、ついに邦題『ハムナプトラ』って、何の意味もなくなっちゃんですね。

シリーズのヒロインを演じていたレイチェル・ワイズが残念ながら降板しマリア・ベロが後を引き継いだが、主人公を演じるブレンダン・フレイザーはもちろん、へっぽこジョン・ハナーも復帰。加えて、これが大事なところだが、ジェット・リーが悪役で、ミシェル・ヨーも出演。監督も正続を手がけたスティーヴン・ソマーズから、たまには失敗作もあるとはいえ娯楽映画を撮らせて信頼の厚いロブ・コーエンに交代。

この出演者、この監督ならと、とりたててシリーズへの興味はないのだが、一見の価値はあるかなと出かけてみた。

このシリーズは、そもそもはユニバーサル・ホラー『ミイラ再生』のリメイク製作を発端にしている。が、これまでも、そんな源流はどこへやら、自由に脚色・展開されてきた。もちろん、インディアナ・ジョーンズが代表するような、クラシカルな冒険活劇を手本にしているには違いないが、なにしろ1999年、つまり、スターウォーズで言えば新三部作のスタートした夏に第1作が公開されたという事実が象徴的なように、CGI を全面導入したダイナミックなVFXを売り物にしたファンタジー要素が大胆に融合されているところが他とは異なる個性になっている。

いろいろ変化はあったとはいえ、今作も基本的な路線は同じ。ドラゴン好きのロブ・コーエンが手綱を握ったこともあってか、悪役ジェット・リーは当然のごとく凶悪(だがどこか愛嬌のある)ドラゴンに変身し、砂塵のなかをミイラの大軍勢が激突する。

ジェット・リーにミシェル・ヨーという、素晴らしいアクションスターを迎えておきながら、VFXで埋め尽くされた画面のなかで映画ファンが2人に期待するような活躍と見せ場はそれほど多くない。また、前作で誕生した息子が成長した設定で登場するのだが、主人公ブレンダン・フレイザーの大冒険というより、妻や息子も一蓮托生、「オコーナー家族の珍道中」とでもいうべきファミリー映画路線に舵を切った節がある。それは興行的には意味があるかもしれないが、主要キャラクターが増員した分だけ描写が薄くなり、とっちらかっただけという印象を受けた。

前作までの、「サービス満点」といえば聞こえはいいが、切るところを忘れたかのように何でもかんでもてんこ盛りでお腹一杯、、、というソマーズ路線からは離れ、真っ当な娯楽活劇に仕上がってはいる、とは思う。しかし、前作までにはあったある意味でヘンテコリンで荒削りなパワーというか、勢いのようなものはない。そうなると、これはこれで、とりたてて見所のない平凡な娯楽大作以上のものではないわけで、微妙な感じである。

そうはいっても、家族での暇潰しにはこんなさじ加減が丁度良いのかもしれないし、ある世代の観客には、すでに本シリーズが「お馴染み」の「懐かしい」作品となっていて、主人公を初めとするキャラクターに再会するだけでも楽しいと思うのかなぁ。でも、リアルタイム「ハムナプトラ」世代より、リアルタイム「インディアナ・ジョーンズ」世代のほうが、ずっと幸せだと思うよ。正直なところ。

2010年公開を目指してアステカを舞台にした続編を企画中という話もあるが、どうなることかね。

8/22/2008

The Forbidden Kingdom

ドラゴン・キングダム(☆☆☆)

この夏、ジェット・リーとミシェル・ヨーが共演して Dragon Emperor がなんちゃらかんちゃらというミイラ映画が公開されたかと思えば、こちらはなんと、我らがジャッキー・チェンとジェット・リー(ことリー・リンチェイ)、 2大アクション・スターがまさかの競演を果たしたという、それがロブ・ミンコフ監督の『ドラゴン・キングダム』である。この2人の競演を可能にしたのがハリウッド資本というのが不思議な縁のなせる業。

内容はへっぽこ異世界ファンタジーである。白人のボンクラ少年の主人公がカンフー映画を貸してくれる中華街の老人と関わっているうちに異世界に迷い込み、現実世界に戻るため、ひょんなことから手にした「如意棒」を「孫悟空」に返さなくてはならないというものだ。リンチェイとジャッキーはファンタジー世界において少年と目的を同じくする旅の道連れとして登場する。せっかく大スターが競演するのだから、白人少年を真ん中に置いた生煮えファンタジーなんぞと聞くとがっかりだが、愛嬌のある少年顔ながらシリアスで悲壮感溢れるドラマがお似合いのリンチェイと、テクニカルながらもコミカルな動きでユーモア感覚のあるジャッキーの、互いの持ち味が活きるような話というのもなかなか難しそうだ。

監督のロブ・ミンコフという男、ディズニー出身だ。『ライオン・キング』で知られ、『スチュワート・リトル』やら『ホーンテッド・マンション』やらで実写映画に進出。どうやらカンフー好きらしい。ファミリー・ピクチャーならそこそこ大丈夫そうだが、歴史的な作品を任せるのに適切かと問われたら、やっぱり不安が先に立つ。

こういった、両雄並び立つタイプの作品で、この監督、しかもなまくらファンタジーなどというから、どうせろくなものは見られないという諦めをもって劇場に足を運んだが、期待値の低さゆえか、少なくとも作り手がジャッキーなり、リンチェイなりに敬意を持って作っているということと、観客が観たいものをよく理解していること、それだけで好感を持った。

観客が観たいものといえば、もちろん、ジャキーとリンチェイのカンフー対決だ。

この映画、2人が敵と味方に分かれるような脚本ではないが、ジャッキー酔拳VSリンチェイ少林寺、それぞれお得意のスタイルで激しいバトルを繰り広げるシーンが用意されている。このシーンの演出も、短いショットを編集でつないで誤魔化すいんちきアクションとは違う。不満がないわけではないが、米映画としては頑張っているといっていい。

ちなみにこの対決、最初の脚本にはなかったらしいのだ。「せっかく2人が競演するというのに闘わないなんてのはダメだ」という監督の意向を受けて変更したのだと聞く。演出の腕前はともかく、観客の求めるものを理解したイイヤツである。だって、これが本作最大唯一の見所なんだから。もしこれがなければ、いったい何のための映画なのか、ということになってしまうところだった。

本作では、カンフー映画やショーブラザーズ作品に対する大小数々のオマージュが捧げられているという。それは、監督の資質だけによるものではなく、脚本もまたその一端を担っているのである。これを書いたのは、おなつかしや、かつて『ヤングガン』シリーズで本物のビリー・ザ・キッドを描くことに尋常ではないこだわりを見せたジョン・フスコなのである。このひとは、高校中退後ブルース・ミュージシャンとして全米を放浪、などという不思議な経歴の持ち主で、これまでのフィルモグラフィが示すとおりネイティブ・インディアン関連(『サンダーハート』)や馬関連(『スピリット』、『オーシャン・オブ・ファイヤー(Hidalgo)』)など、特定のテーマにおいてマニア気風とこだわりを発揮してきた。それは分かっていたのだが、まさか、少林寺拳法までかじっていようとは!現在はタイを舞台にリメイク企画が進行している『Seven Samurai』の脚本を手掛けているというが、さて、どうなることやら。

8/21/2008

The Incredible Hulk

インクレディブル・ハルク(☆☆☆)

一応、北米で1億ドル級の興行成績をあげたアン・リー監督版『ハルク』の記憶も薄れてはいないというのに、早くも「仕切りなおし版」ハルクの登場である。そこそこのあたりをとったとはいえファンらからのブーイングの声が大きかったのだろう。シリーズとして続行するには問題があると見るや、なかったことにして作り直してしまうあたりをフットワークのよさというべきか、他にネタがないからと見るべきか。いずれにせよ、マーベル・コミックにとっては重要なキャラクターを半死の状態で放置するわけにはいかないということなんだろう。

今回の仕切り直しでは、小気味のよいB級アクション『トランスポーター』シリーズやジェット・リー主演の『ダニー・ザ・ドッグ』で名を上げたルイ・レテリエを監督に指名したあたりが、そもそも名匠アン・リーとは方向性が違うよ、という強いメッセージを発している。まあ、それだけならわざわざ見ようとも思わないのだが、主演に連れてきたのは曲者エドワード・ノートンで、しかも、一読した脚本がくそつまらんからと、(クレジットこそないものの)ほとんど全部、自分で書き直してしまったというエピソードを聞いて、俄然興味がそそられたのである。とはいえ、のんびりしているうちに上映スクリーン、上映回数がどんどん減らされて、追いかけが大変だったのだが、あいかわらずこの手の映画は日本で受けないねぇ。

アン・リー版ではたっぷり時間をかけて描かれたハルク誕生に至るパートを、「作り直すたびにそこからやり直すのでは面倒くさいよね?」とでもいわんばかりにバッサリ切り落とし、回想シーンで処理するあたりがいい感じだ。映画が始まった段階で、主人公は逃亡先ブラジルに潜伏中なのだ。心の平安を手にするための修行に励みつつ、元に戻るための研究を続けていた主人公だが、思わぬ手掛かりによって居場所を突き止められ、映画はあっという間にスリリングなチェイスに突入。観客がひととおり飽きてきたくらいのタイミングで緑の怪物が「うがーっ」と登場、追っ手を蹴散らす・・・という、この映画の導入のテンポの良さは娯楽映画として好スコアをあげたい。多少ガチャガチャしたアクション演出も不問とする。これで波に乗った映画は、追手の先頭にたつティム・ロスが変貌した化け物と、ハルクの一騎打ちまで一気に突っ走る。

アン・リー版の「人間ドラマ」路線が重くてかったるかったとはいえ、それを抜きには原題のコミックヒーローものが成立しないのもまた事実。当然、そのことを分かっている作り手たちは、観念的な禅問答やらを抜きにして、それらを全部ひっくるめて主人公とリヴ・タイラーの関係、二人の葛藤とラブ・ストーリーへと、とても分かりやすく収斂させているのが脚本のうまいところだろう。クライマックス、醜く変貌したティム・ロス怪物と、われらが緑の怪物の一騎打ちは、巨大な肉の塊がぶつかり合う激しいアクション・シークエンスになっているが、街を破壊しながらの大アクション・シーンは、まるで怪獣映画を見ているかのような迫力と面白さ。クレバーなノートンと、荒削りながらパワフルでスピード感のある演出を見せるルイ・レテリエという組み合わせは、想像以上にいい効果を生んだようだ。

エンディングのあとで、本国ではこれに先立って公開された『アイアンマン』の主人公が顔を見せ、マーベルヒーロー大集合映画への布石を打っているのでお見逃しなく。

8/16/2008

Starship Troopers 3 : Marauder

スターシップトルーパーズ3(☆☆)

ポール・ヴァーホーヴェンの製作への復帰や、シリーズの脚本家エド・ニューマイヤーの監督デビュー、第1作のヒーローであるジョニー・リコ(キャスパー・ヴァンディーン)の再登場、ブラックでシニカルなユーモアの復活、そしてついに登場するパワードスーツなど、話題にこと欠かないシリーズ最新作であるが、勘違いしてはいけないのは、前作と今作はシリーズ第1作とは異なり、そもそも劇場公開を前提としないビデオ・マーケット向けに作られたもので、当然、製作規模から何から根本的に異なるという点だ。デジタル技術の発達で、低予算でもそこそこ見られるVFXを実現できるようになったからかろうじて成立しているものの、そもそも並べて比較するようなレベルの品質を保てているわけではない。

そういう意味で、シリーズ1作目とはテイストが違い、これでは『遊星からの物体X』だろう、などと悪口を言われたフィル・ティペット監督による前作のほうが、低予算映画としてのセンスと戦略が光っていたと思う。今作には「歌う指揮官」とか、宗教の問題だとか、脚本家としてのエド・ニューマイヤーの思いついた面白いネタや、もう少し突っ込めば面白くなったであろう題材は散見されるのだが、基本的には第1作の縮小再生産にしかなっていないのである。なんでもいいからあのテイストで楽しませてほしい、という向きにはこれでもいいのかもしれないが、これだったら第1作を繰り返し見ているほうが楽しいだろう。

VFXは予算なりで、頑張ってはいるものの安っぽい。主演に復帰したキャスパー・ヴァンディーン自体も安いといえば安いが、そのほかのキャストはもっと安いし、演技もそれなりである。売り物のひとつだったパワードスーツ「マローダー」は、デザインがもっさりしているし、あまり活躍しないうちに映画が終わってしまうので、原題サブタイトルにまでしてアピールするのは反則技のように思われた。

Star Wars: The Clone Wars

スターウォーズ:クローンウォーズ(☆☆)

冒頭、慣れ親しんだ20世紀FOXファンファーレでなくWBのタイトルから始まることに、これほど違和感を感じるとはね。われながら不思議な気分だ。

『episode III』から3年、TVシリーズとして企画されたCGIアニメーション・シリーズの初回拡大版エピソードが劇場公開作品として登場だ。劇場公開作6本があれば、無限に増殖を続ける小説群やらなんやらの派生品にはあまり興味のない「不熱心」なスターウォーズ好きではあるが、ふと通りかかった新宿ミラノ座のロビーで観客に愛想を振りまいていたベイダー卿やらインペリアル・トルーパー様等ご一行にフラフラと誘われ、急遽予定を変更しての鑑賞と相成った。(そのおかげで急速に劇場・上映回数を減らされてきていた『インクレディブル・ハルク』を追いかけるのに苦労する羽目になろうとは...)

今回の『The Clone Wars』であるが、以前にカートゥーン・ネットワークで放映され、DVDでも2巻発売された「Clone Wars」 と同じく、episode II (開戦)とepisode III (終戦)のあいだに起こった出来事という設定で、ジェダイと分離主義者のドロイド軍、ダーク・シスやその配下の者たちの戦いを描いていくTVシリーズということだ。今回劇場公開される「第1話」では、誘拐されたジャバ・ザ・ハットの息子を奪還する任務についたアナキン・スカイウォーカー、新たに登場するアナキンの弟子、そしてオビワン・ケノービが、背後にあるダーク・シスの陰謀に巻き込まれるストーリー。クライマックスは「アニメ版」でも登場した強敵、アサージ・ヴェントレスとの大アクション・シーンである。

まあ、スターウォーズ・シリーズのスピンオフといえば、『イウォーク・アドヴェンチャー』や『エンドア』の昔から「お子様ランチ」であることが宿命付けられており、本作もそんなものだと思ってみる分にはお話の部分について大きな不満はない。また「新三部作」においてはCGIが全面的に導入されたため、俳優が演じているキャラクター以外は実質的にCGIアニメーションといって差し支えない状態になっていたのはご存知のとおりである。だから、CGIアニメーションの本作だが、実写シリーズ好きの私のような観客でも、細かいことを言わなければ違うのは登場人物(とストーリー)だけなんじゃないか、というくらいに連続性を体感できるのが楽しいところだといえる。

実際、背景やメカ類に関してのCGIのクオリティは、TVシリーズ向けとはいえ、(あれから3年の技術進歩を踏まえて)劇場の大スクリーンにかなり耐えられるものになっている。仮に俳優を用いた実写キャラクターを使えば、そのまま実写作品としても通用するかもしれない。低予算映画のCGIだと、このレベルに全く手が届いていないだろう。ただ、実写シリーズクオリティに迫るCGIを、「実写」として見せないで、あくまでアニメーションとして見せるというのが、本作の方向のようだ。実写版シリーズではやらなかっただろうというような、アニメならではの大胆な構図やカメラワークを随所にみることができ、目を楽しませてくれる。そのあたりは、やはり意識的にやっているのだろうと思う。

一方、キャラクター造形に関しては、これは敢えてということだと思うが、実写を志向したものではなく、いかにも「アニメ」といったディフォルメがなされており、その癖のあるデザイン・センスには好き嫌いが残るだろう。朗報は、ボイスキャストがよいことだ。声優のキャスティングはC3PO(アンソニー・ダニエルズ)、メイス・ウィンドゥ(サミュエルL・ジャクソン)、デュークー伯爵(クリストファー・リー)を除き、実写版とは異なっているのだが、これが、それぞれのキャラクターの雰囲気をよく掴んでいて出来がいい。そのおかげか、映画を見ていくうちに最初は気になっていたキャラクターデザインも、なんでもいいや、という気分になってきた。

お話しについては前述のとおり「お子様ランチ」である。やはり米国人の考えるところの「アニメ」観に則って、TV放映を前提に狙いとする視聴者層(ローティーンの男子、だろう)にあわせ、「対象年齢」をグッと下げてきている。アナキンと若い女弟子のやり取りや、「ジャバの息子」の描き方、物語の展開など、やはり「子供向けの派生シリーズ」以外の何者でもない。ただ、子供騙しにしては、それ以外のファンに向けたサービスも忘れてはいないので、多くを求めなければいい暇潰しにはなる、が、まあ、所詮はその程度の作品である。

8/03/2008

The Dark Knight

ダークナイト(☆☆☆☆★)

ティム・バートンはかつて、闇の仕置き人バットマンが存在してもおかしくのない世界、闇の怪人たちが跋扈してもおかしくのない街を作り上げ、どこかに似ているけれどもどこにも存在しない箱庭都市「ゴッサムシティ」を舞台としたファンタジーとして『バットマン』、『バットマン・リターンズ』を作った。それは、かつて人気のあった荒唐無稽なTVシリーズとは違ったが、かといって、現実の地続きにある世界とも違った。

ジョエル・シュマッカーがメガホンを引き継いだ続く2本では、おそらくそこらへんには職人監督的な無自覚のまま、箱庭世界観の延長線上でカラーでポップでゲイ・テイスト満載なマンガを展開した挙句、シリーズの興行的命脈を使い果たした。

クリストファー・ノーランが『バットマン・ビギンズ』でシリーズのリニューアルを手掛けたとき、我々は、彼がかつてのバットマン映画のような「箱庭」に更なるリアリティを与えようと演出のテイストを変えてきたのだと思った。

映画の舞台がゴッサムシティに留まらない点で、ある種の不整合感を感じないわけではなかった。しかし、演出のタッチがリアリティ重視であっても、デザインや設定がハードな方面に寄っていても、ブルース・ウェインがいかにしてバットマンになったのかが詳細に語られても、「これは架空の世界を舞台にした物語である」と、信じて疑うことはなかった。だって、ゴッサムシティを縦横に走るあのモノレールや、敵となる犯罪集団の存在や計画の荒唐無稽さ。他にどのような解釈があるというのだ?

演出のタッチが変わっても、本質的な意味で映画の立ち位置がバートン版と変わらないのであれば、ノーラン版は面白くない作品だと感じられた。ノーラン版のゴッサムシティはバートンの美意識を反映したかつてのセットに比べると独創的でもなければ芸術的でもなく平凡だなぁ、と思ったし、ゴツゴツしたバット・モービルを見て、昔のやつの方が優美だったなぁ、と思った。粋じゃないし、狂ってもいない。

そして、この夏登場した『ダークナイト』を見た。これはもちろん『バットマン・ビギンズ』の続編であり、新シリーズの2本目ということになるが、前作ともあいだですらテイストが異なっているのである。そして、ここにきて初めてノーラン版バットマンがこれまでのそれと何が違うのかということが理解できた。

つまり、これは、ゴッサムシティとバットマンを現実の世界に連れ出す思考実験なのだ。

その意味で、まずスーパーヒーローやスーパー・ヴィランンが活躍する箱庭を構築しようとするアプローチとは対極にあるといってよい。前作でも狙ったベクトル自体は同じだったのかもしれないが、結果として不徹底、中途半端だったのではないか。本作は、その反省に基づいてあらゆる意味で徹底的にノーランの意図する「バットマン」が描かれている。

本作において、ゴッサムシティは現実に(北米のどこかにNYなどと並んで)存在する都市として明確に位置づけられた。そして、現代社会においてヒト・モノ・カネがひとつの都市を越えて移動するように、ゴッサムもまた、現実の世界とつながっている。これは、言葉で説明される設定ではない。これは説得力のあるビジュアルと、物語の展開の中で語られていることだ。

街のセットを組むかわりに、現実に存在する都市(主としてシカゴ、部分的にNY)でのロケーション撮影を徹底したことがそう。ストーリーも(前作に続いて)ゴッサムを飛び出し、ブルース・ウェインは街を出た悪党を「捕獲」するため香港にまで足を伸ばす。それは、我々の知る現実と地続きの世界だ。部分的に用いられたIMAXのカメラと大型フィルムが実現した圧倒的な密度の情報量と息を呑む臨場感が、そのコンセプトを強固に補強してみせる。

そんな世界でブルース・ウェインことバットマンが激突するのは、前作のラストで「予告」がなされていたとおり、最大の宿敵、ジョーカーである。覚えているだろうか、ティム・バートン版では、ジョーカーがブルース・ウェインの両親を殺した犯人であるという(原作とは異なる)設定を作り上た。そして、バットマンによって工場廃液に突き落とされて異様な姿に変貌したジョーカーとの因縁において "You made me!" - "I made you, you made me first." というやりとりがあったこと。アプローチを異にする本作だが、ここでも同じテーマが繰り返される。

闇の仕置き人・バットマンの存在が狂気の愉快犯・ジョーカーを呼ぶのか?卵が先か、鶏が先か、突き詰めて、バットマンとは何か。そして、正義とは何か。ジョーカーを演じるヒース・レジャーが、脚本が巧みに描き出した狂人像を、なんとも得体の知れない凄みで体現してみせて圧巻だ。史上最狂、最高の悪役の誕生をスクリーン上で目にする前に、この才能溢れる若き俳優の訃報を耳にしなくてはならなかった無念。

クリストファー・ノーランと6つ違いの弟であるジョナサン・ノーラン、それにブレイド・シリーズなどでアメコミ銘柄の注目株となったデイヴィッドS・ゴイヤーは、バットマンという素材を使い、ビッグバジェットの娯楽大作の皮をまとった神話的な犯罪ドラマを紡ぎあげた。ノーラン兄のアクション演出は前作より進歩した程度だが、CGIに頼らない迫力満点・度肝抜かれる大型アクション・シークエンスを連打して、文句を云う口を封じてみせる。無駄に豪華なキャストがそれぞれの持ち場をしっかりと演じて、ドラマの重さをしっかり支えている。

だいたい娯楽映画の長尺化は作り手が無能な証拠だと思っているが、この作品の 152分は別格。見終わって映画3本分の疲労感が残るが、これ以上望みようのない幕切れがもたらす余韻と共に一分一秒ももらさず味わいつくしたい大傑作である。この夏、これを見ないで何を見るというのか?つべこべ言わずに劇場に走るべし。

Čeburaška

チェブラーシカ(☆☆☆★)

2001年に日本に紹介され、一世を風靡した『チェブラーシカ』の人形アニメーションだが、その後、権利関係で問題が起こって大変な状況だったらしい。そうしたややこしい問題を全てクリアした上で全4話、デジタルリマスターの完全版が、「三鷹の森ジブリ美術館ライブラリー」配給で公開されるというのでイソイソと劇場に出かけた。あまりこだわりなくとびこんだところ、日本語吹替版の上映であったが、まあ、ロシア語で話されても当方、理解不能だし、人づてに聞くところではこの日本語吹替版が秀逸で可愛らしいとのことだったので、それを堪能することとした。これは、南の国から送られてきた果物(オレンジ?)の箱のなかに詰められていた、小さくて茶色い毛むくじゃらの生き物「チェブラーシカ」が、友達を作り、周囲の人々と交流していく姿を描いたお話しである。原作エドゥアルド・ウスペンスキー、キャラクター設定・美術レオニード・シュワルツマン、監督はロマン・カチャーノフ。日本語吹替版でのチェブの声は大谷育江(ピカチュウの人だってさ)。4話あわせて70分程度の上映時間であった。

ロシア史上、最も愛される人形童話だという。ロマン・カチャーノフによるこの作品の製作年代は1969年の「ワニのゲーナ」、1971年の「チェブラーシカ」、1974年の「シャパクリャク」、1983年の「チェブラーシカ学校へ行く」と、長い期間にわたっているが、続けてみてもそれを感じさせないところが丁寧に作られた作品であることを感じさせる。この作品が作られたころの背景となっている旧ソビエト連邦下の社会や人々の生活についての理解が心許ないので、お話し、設定等々、なぜそういう展開になるの?それはいったい何?という小さな疑問はいっぱい生じるのだが、それもまた、自分の知らない世界を覗いているような好奇心をくすぐられるところである。チェブラーシカらがあこがれるボーイスカウトのような集団活動の様子や、公害問題、学校を修理しているはずの怠惰な労働者の姿などは面白く見た。辛らつになり過ぎない程度の社会風刺をはっきりと含んだ物語には、そこはかとない物悲しさと切なさを湛えた不思議な魅力がある。

しかし、もちろんそれを支えているのは、なんといってもキャラクターたちの表情や演技だ。チェブラーシカや友人となるワニのゲータらのキャラクターが生き生きと動くのをみていると、それだけで飽きることはない。これこそまさに、命のない人形に命を吹き込む(=アニメート)技術というものであろう。CGI時代の安易な作品には決定的に欠けている作り手の魂とでもいうべきものがそこに宿っている。物を動かして生命を宿らせることへの執念を感じさせるのである。考えてみれば、アニメーションの魅力とは、それに尽きるといえるのではないか。結局、この作品が人々の心を捉えて話さないのは、単にキャラクターが可愛いからではないのである。

Ponyo on a Cliff by the Sea

崖の上のポニョ(☆☆☆☆)

たまたまなのかもしれない。が、この日、私が見た回では、映画が始まる前はものすごい熱気に満ちていた満場の観客が、映画の終了と同時に、どのように反応してよいものか戸惑っているかのように静まり返ってしまった。なんとなく気持ちは分からないでもないが、しかし、みんな、何を期待して劇場に足を運んだというのだろうか。大方、「トトロ」のように明快なストーリーラインとまとまりをもった作品を期待していたのだろう。(もっとも、そういう観客のほとんどが、「トトロ」のときには劇場に足を運びすらしなかったことは、皮肉であるが悲しい現実である。)

いわゆる起承転結というか、物語がきっちりと構成された普通の作品を、よもや宮崎駿に求めようとはさらさら思っていない。リアルタイムで見てきた観客として、彼がそういう作品をやりつくしてしまい、「いまさらそんなんじゃないだろ」と思っている感覚も、今回出された各種のインタビューを精読するまでもなく、良くわかっているつもりである。だから、本作の壊れ方が並大抵でないのも想定の範囲内であると同時に、むしろ、そんな作品を作る自由を得た天才が、なにを見せようとしているのか、何を作りたいのかに興味を持っている。

本作はかなり明確に子供に見て欲しいと思って作っただけのことはあって、表面上は少年と異形の少女の出会いと約束を主題としたハッピーエンドのようなストーリーラインを持っている。が、その背景で町は沈み、船は座礁し、魔力は解き放たれ、古代魚が溢れ出し、気がついたらあの世とこの世がつながって溶け合い、まるで世界の終焉とでもいうべき事態が進行していく。理由も語られなければ説明もない。主人公は幼い男の子であり、彼は自分の興味の範囲外のことを詮索しようとしないからだ。

とはいえ、この映画をみる「大人」の観客としては、この、決して長くはないフィルムに描きつくされたものを目にして驚愕せざるをえまい。もう、ストーリーがどうとか、金魚(人面魚?)が海にいるかどうかとか、そんな生き物をいきなり水道水に放りこんでよいものかどうかとか、そんな瑣末なことを問題にしている場合ではないのである。

これは、子供が親を呼び捨てにし、親は嵐の中子供を家に一人残して出かけてしまい、老人が蔑ろにされて老人ホームのような場所に閉じ込められているような世の中は一度滅びた方がいい、と云っている、そういう作品なのであろうか。

それにしても、子供に自分の名前を呼び捨てにさせる「親」が、いきいきとしていて魅力的に過ぎないだろうか。「千と千尋」のときのように、あからさまな「豚」としては描かれていない。この「親」は自らが置かれた立場で精一杯頑張っている人間だ。老人たちとて、多くは自分の置かれた環境に満足しているように見えるし、そんなに悪い待遇を受けているようには描かれていない。

ただ、そうした常識的なお仕着せを嫌うある一人の老婆が、物語の中で最も重要な役割を果たすことになるのは偶然ではないだろう。主人公たちが道中でくぐるトンネルは、やはり異界への扉と考えるのが適切だろうし、そう考えれば、あの町だけでなく、もしかしたら映画の画面では描かれていない外の世界、全ての世界が一度水没し、滅んでしまったという見方も成り立つ。

滅ぶ世界の中で、何を残すのか、何を残したいのか、これは、観客一人ひとりが、そんなことを自由に考えさせるだけの余白がたくさん残った作品である。

ただ、この作品の面白さを、そういう「理解」、違った言葉でいうなら「深読み」にのみ求めるのはやはり間違っている。もしかしたら、本作のアニメーションとしての面白さ、表現の豊穣さを楽しむ上ではそんなことは余計なことだ。

ますます「商品」として大量生産、大量消費される「アニメ」が望んでも得られないような体制で、予算と時間をたっぷりとかけ、動かない「絵」に生命を吹き込み(=アニメート、とはそういうこと)、そうして完成させられた躍動する動画の贅沢さ、それを映画館の大スクリーンで体験する至福は他の何にも代えがたいものである。

本作では「絵」の精緻さ、リアルさを追求する路線を放棄し、敢えてシンプルで柔らかい線、大胆なディフォルメで描かれた絵に無理やり原点回帰してみせたことが、アニメーションが本質的にもち得る力の凄さを改めて思い起こさせることにつながっている。これを見て、楽しめばいいのだと思う。それを楽しめないというのは、やはり、何か先入観や思い込みにとらわれていて、目の前で展開する尋常ならざる仕事の成果を感じ取る力が脆弱になっているということではないか、とも思う。

しかし、いくら子供向けに作っていると作り手が主張し、もちろん、表面上は子供たちが単純に楽しめるマンガ映画になっているとはいっても、これほどまでに大胆で狂った作品が、商業作品として全国のスクリーンを席巻し、多くの観客が詰め掛けていることそのものが摩訶不思議な事態であり、もしかしたら、奇跡的とでもいいたいくらいに、ものすごく幸せなことなのだと思う。ビジネスとして成立している限りにおいて、芸術家は創造の自由を得られる、そんなことを、これほどまでに雄弁に物語る映画を他に知らない。