6/24/2011

Super 8

スーパー8(☆☆☆★)


1979年の夏、オハイオ州の小さな田舎町で、少年たちの一団が、8mmカメラでゾンビ映画の製作に夢中になっていた。深夜の鉄道駅での撮影中、ものすごいスピードで通過しようとする軍用貨物列車にトラックが激突、少年たちの目の間で大惨事が起こる。米空軍が異様な物量と秘密主義体制で事故処理にあたるなか、町では不思議な出来事が起こりはじめる。そして、少年たちが回していた8mmフィルムには、事故の折に列車から逃げ出した何かが写りこんでいた。

監督であるJJ.エイブラムズが影響を受けたという80年代のスピルバーグ監督作品や、スピルバーグがアンブリンで製作したプロデュース作品が好んで取り上げたモチーフを散りばめながら、少年の一夏の恋と冒険、そして成長を描いた小品である。開巻、エイブラムズのプロダクションであるバッドロボットのロゴに先んじて、あの有名な、ETと一緒に自転車が空をとぶアンブリン・エンターテインメントのロゴが表示されるのは偶然ではなく、なんと、オマージュを捧げられる対象となったスピルバーグ自身が製作に名を連ねるという、ある意味で特別な作品になった。

(そういえば、アンブリンのロゴは映画の最後、エンドクレジットが終わってから映しだされるのが通例だから、映画の冒頭でお目にかかるのはかなり珍しい部類ではないか。)

この作品には『E.T.』や『未知との遭遇』、あるいは、『グーニーズ』といった作品を想起させるモチーフが溢れている。が、一方でそれらの作品との明らかな違いもある。

スピルバーグ自身の監督作における主人公の少年は、どちらかといえば孤独で、ひとり空を眺め「星に願いを」かけるのに対し、本作の主人公は片親という家庭環境こそ似ているものの、それなりに遊び仲間がいて、一緒に夢中になれる遊びがあり、恋もする。そこには、宇宙の片隅にある地球から「星に願い」をかけるロマンの香りや、外の世界に広がっていくスケールの大きさは感じられないし、もしかしたら地球を捨ててあっちの世界に行ってしまうかもしれないという危うさは一切存在しない。そこが、JJ.エイブラムズ(かつての)とスピルバーグの興味関心の違いだったり、作家としての資質の違いだったりするのだろう。

穿った見方をすれば、エイブラムズは自分の興味のある「8mm映画製作に打ち込む少年たちの話」と、「モンスター・パニック映画」をスピルバーグの製作で作るに当たって、商業的な戦略も込めて、「80年代スピルバーグ・オマージュ」というアイディアを持ち込んだのかもしれない。商売上手な彼のことだから、それがウケるんじゃないかという読みもあっただろう。そう言われてみれば、一時期は誰もが類似品を作ったこの手の映画がスクリーンから消えて久しい。予告編にあるある種の「懐かしさ」が映画への興味を掻きたてたことは否定のできない事実だ。

それがたとえポーズだけの話だったとしても、構わない。それが、結果として、これまでのエイブラムズの作品につきまとっていた、「よく出来ているけど、映画というよりはTVドラマ」な雰囲気を抑制し、映画らしい雰囲気をもたらす魔法になっているからだ。

JJ.エイブラムズの、観客の興味を掴んで話さないサービス精神やストーリーテリングの巧みさ、企画屋としての嗅覚・才能には敬意を表していても、彼が撮った劇場作品である『M:I-3』、『スター・トレック』共に、映画の大きなスクリーンを活かせていない画作りが息苦しく、結局はTV屋さんなんだよな、と思っていたものである。また、分かりやすくウケ易い話にするために、「個人的な動機に基づくミッション(M:I-3)」になってしまったり、「シリーズの魅力である理想主義を捨てた敵と味方のドンパチもの(スター・トレック)」になってしまうある種の幼稚さも気に入らなかった。

もちろん本作も、話の仕掛けのわりには小さくまとまってしまった感がないわけではない。しかし、「80年代スピルバーグ」らしさを持ち込もうとした結果、画作りも、ドラマも、これまでとはどこか違った「映画らしさ」を感じられる作品になっていると思うのだ。スピルバーグはこの作品を指して「(誰かの作ったシリーズものを引き継ぐのではなく)エイブラムズのほんとうの意味でのデビュー作」という云い方をしていたが、それとは違う意味で、エイブラムズが初めて撮ってみせた、映画らしい映画、ではないかと思うのである。

バラエティに富んだ子役たちのキャスティングが大変素晴らしい。また、彼らを子供らしくイキイキと演出できているところもよい。そして何よりも、ヒロインを演じるエル・ファニングの魅力と、主人公と彼女の繊細な感情の交歓を描き出してみせたところが本作の一番の見所だと断言したい出来栄えである。

思えば、魅力的なヒロインを描くことができないのがいつもスピルバーグの弱点だった。そこも含めて、エイブラムスとスピルバーグでは、観客を楽しませることにかけてのテクニックや商売人としての嗅覚の鋭さは共通するにしても、全く異なる個性の持ち主だというのは明白なんじゃなかろうか。娯楽映画としての仕掛けの大きな部分に驚きや新鮮味はなくお座なりとも言えなくはないが、主筋であるところの青春物語としては十二分に楽しませてもらった。その部分ひとつだけでも、何度でも見たいと思える作品である。

6/18/2011

Skyline

スカイライン 征服(☆)


自分のVFX工房ができることの見本市にはなっている。つまり、業界向けのデモンストレーションだな。が、商品としては成立していないレベル。バカにしながら笑って楽しむことすらも難しい、短いはずの上映時間がひたすら苦痛に感じられる、近年稀にみるゴミ映画である。本作に比べたら、悪名高き『バトルフィールド・アース』だって可愛げがあるだけマシだろう。

まあ、さもありなん、監督は『エイリアンVSプレデター』という最高の素材を与えられて、これまた鑑賞が苦痛になるレベルの続編をつくちゃったストラウス兄弟だもんな。

L.A.を舞台に、パーティのために高層マンションのペントハウスに集まっていた人々が、為す術も無く異星人の地球侵略を目撃する3日間。あー、コンセプトだけだと、インディペンデンス・デイのクローバーフィールド化されたバージョンみたいな感じ。

しかし、クローバーフィールド程度の「見せ方」の工夫があるわけではない。エキストラを使えない制約ゆえか、非常事態におけるパニックを見せるシーンもない。限られた、魅力のかけらもない登場人物たちが、ペントハウス→屋上→地下駐車場を無駄にいったりきたりしているだけで、お話しの工夫もなにもない。いくら世界の終りを目撃する映画だと言ったって、必死のサバイヴァルくらいするだろうよ。この映画のような状況下で、高い建物の上層部に留まろうとする理由が理解出来ない。やる気がないにもほどがある。制約を逆手にとった面白い展開や見せ方を考えるのがクリエーターの仕事ではないのだろうか。自分たちの都合に合わせて登場人物の行動や思考、行動範囲を限定するなど、もってのほかだ。

登場人物たちに、映画制作関係者がいる。ロボットかなにかの出てくる撮影云々の話をしているから、てっきりそれを伏線に、捕獲した異星人やその乗り物を手懐けて映画撮影を敢行するバカ展開を期待したけれど、当然、そういう気の利いたアイディアなんかあるわけもない。まあ、最後の最後に、登場人物の脳みそ食った異星人が狂って(思考を乗っ取られて?)、残された身重の妻を守るという超絶バカ展開が待っているのだが、で、それで面白いのか?そういうのを面白いと思っているのか?

こういうのを見ると、JJ.エイブラムズの企画力だったり、子飼いの監督の演出技術だったりはやはり並ではないなぁ、と感心せざるえを得ない。もっといえば、同じようにストーリーそのものが面白いわけでもなんでもない『宇宙戦争』で、(それゆえに割と広範に不評が聞かれたりもするのだが)、スピルバーグ御大が見せた演出力の非凡さというものに、改めて深い感動を覚える。

インディペンデントの予算規模で、白昼堂々、巨大宇宙船やらモンスターっぽいものやら機動兵器っぽいものが地球上を蹂躙するという絵面を作れるというのは、たしかに感心すべきものなのだろう。しかし、単にそれだけでは、ミニチュアの光学合成をしていた時代と違って、VFXのハードルは限り無く低くなっているという事実の再確認にしかならない。なにせ、あの『宇宙戦艦ヤマト』を、日本で実写映画にできてしまう時代なんだからさ。

結局、作り手個人の個性は失われるかもしれないが、ハリウッドというシステムは、このような駄作のために大金がつぎ込まれる事態を避けるための「リスク・マネジメント」なのだ。様々な脚本家が何度も何度も脚本を手直しし、「商品」としての最低限のクオリティを担保しようとする。(まあ、それでも失敗するときは失敗するのだが。)本作は、そういう規格化されたありきたりの商品ばかりを生み出すプロセスにすら、やはり価値があるものなのだと再認識させてくれたりもするのである。やれやれだね。

127 Hours

127時間 (☆☆☆☆)


48時間、96時間ときて、今度は127時間だ!あれ、計算が合わないぞ・・・っていうのではなくて、ダニー・ボイルの新作は、ユタ州内の渓谷で落石に腕を挟まれて脱出不能になった若者が、孤立無援のまま6日間を過ごし、生きるための尋常ならざる決断と行動を起こすまでを描いた実話を題材とした映画である。

主人公のアーロン・ラルストンを演じるジェームズ・フランコは、そういう設定の物語故に全編出突っ張りの一人芝居。アカデミー賞主演男優賞ノミネートを始め、高い評価を勝ち得ることとなったのはご存知のとおりである。(ただ、あの眠そうなアカデミー賞の司会っぷりは最低だったな)。

岩の谷間で身動きできなくなったひとりの男の話を、1本の映画として語って見せるのはなかなかの挑戦である。観る前は、なんだかんだいって単調で退屈なものになるんじゃないかと想像して期待値を下げたりもしていたのだが、そこはそれ、華麗なる映像テクニックとガチャガチャ編集を得意技とするダニー・ボイルのこと、主人公の回想、現在、想像、夢、妄想を巧みにつなぎあわせ、94分を一気に駆け抜けて見せる。題材によってはその技術がドラマを語る邪魔になることもあるが、前作の『スラムドッグ$ミリオネア』といい、これといい、題材に見たりとはまるとそのリズム感、疾走感が圧倒的に心地良い。

最後の最後に主人公が下す決断と、その行動を、逃げずにしっかりと映像化してみせたところもいい。自らの手で、肌すらろくに切れないような鈍い中国製十徳ナイフで右腕の切断を試みる、のである。

これ、言葉にするのは簡単だが、やるとなれば想像を絶する行為である。まずは骨を折るところから始め、ナイフを突き立て、筋肉、腱や神経を切断していく映像だけでも目を塞ぎたくなるのだが、痛さ倍増の音響効果が加わって、耳まで塞ぎたくなることうけあいである。入ってみれば、リアル切り株映画。だが、これはもう、「グロ」っていう単純なものでない。ホラー映画のように、見る人を不快にさせることを目的としていたり、見世物としてのグロ描写でもない。生きるための最後の希望として、歯を食いしばる主人公と観客の心がシンクロし、画面を見つめる我々もまた、必死で歯を食いしばり、失神したりしないように踏ん張るのだ。

こういう描写があると云うがゆえにこの作品を敬遠する向きもあるようだが、しかし、この描写なしには作品は成立しない。鑑賞後の、不思議な清々しさは、あのシーンを乗り越えて初めて獲得できるのである。主人公に同化して、彼の127時間を(安全で快適な映画館で)疑似体験する、これはそういう作品なのだ。

モデルとなったアーロン・ラルストンは「冒険家」を続けているようだが、今度は足を挟まれて "Another 127 hours"なんて続編ができないことを祈るよ、本当。

6/17/2011

Red Riding Hood

赤ずきん(☆☆☆)


おとぎ話の原点に戻って、残酷さや恐怖を強調した大人向けの寓話に仕立て直した「赤ずきん」・・・というわけではない。

中世のヨーロッパを舞台に、「トワイライト」あたりの観客層をターゲットにした「人狼ものファンタジー・スリラー」をやろうという企画である。監督は『トワイライト』1作目のキャサリン・ハードウィック、幼なじみからも、親の決めた許嫁からも、人狼からも言い寄られちゃって、もう、私どうしたらいいの?というヒロインにアマンダ・セイフライド。

かつて人狼に襲われた記憶の残る集落。人狼が人を襲わないよう、定期的に生贄を供えるなどして「共存」してきたのだが、ある満月の晩に主人公の姉が人狼の犠牲となる。血気盛んな一部の村人に先導されて山の奥深くに分入り、犠牲者が出たものの大きな狼を仕留めることに成功した村人たちは歓喜に湧くが、人狼ハンターとして名を馳せる祭司は、人狼は村人の中にいると警告を発する。

この映画で面白いのは、人狼に恐れおののく村に、自らの妻まで人狼として惨殺したという触れ込みで名をはせる「人狼ハンター」の聖職者が招かれてからの展開である。

普通なら、人狼ハンターは頼もしい味方として大活躍となるところ、そのやり口がだんだん陰湿な「魔女狩り」めいてくる。ヒーローとして登場したと思われたこの男が、人狼以上の悪者の様相を呈してくるあたりがとても面白い。罪もない村人に嫌疑をかけ、拷問し、換金し、命を奪う横暴な宗教的権力。これを演じているのが、おなじみゲイリー・オールドマンだ。まあ、この顔を見たら悪人と思え、と条件付けられているせいもあるが、だんだん「このくそったれな司祭をぶち殺せ、やっつけちまえ!」と人狼さんを応援したくなってくる。人狼の襲撃シーンは、思いもよらず盛り上がりを見せることになる。

ストーリーは、人狼の正体は誰なのか、というミステリーを縦糸にして進んでいく。しかし、それほど凝ったトリックや、驚きの結末があるというわけでもない。人狼による犠牲者が一体誰なのかに着目していれば、少し勘の良い観客なら答えが分かってしまうんじゃないだろうか。一生懸命ミスリードしようとするので、その逆を張っていくだけでもいいかもしれない。いずれにせよ、そういうミステリーとしては、そんなに期待しないほうが楽しめるんじゃないか。

厳密に時代考証のされた風格あるコスチューム・プレイというのではなく、あくまで、最近のNHK大河ドラマのような雰囲気だけの「なんちゃって時代劇」である。ティーンの女性客目当てだから、そんなにグロもない。大人の真剣な鑑賞に耐えるものではないが、なんだかんだいってグデグデのロマンスが主筋の『トワイライト』よりは面白く見られる作品で、ちょっとした暇つぶしには悪くない。

Keibetsu (軽蔑)

軽蔑(☆☆)


悪いんだけど、鈴木杏の体は、セリフでも出てくるような「真剣に踊っている」ダンサーの体じゃない。彼女のことは『ジュヴナイル』の頃から好きだったし、いいものを持っている人だと思っている。それに、本作での苦労も、みればわかる。が、彼女が、あの体のままこの役を演じるなら、設定もセリフも何もかも変えるべきじゃないのか。

もちろん、なにからなにまで、本当に役にふさわしい役者をキャスティングするのは難しかったのだろうと想像する。それに、鈴木杏が、真剣に踊っているダンサーの体型を作るまでの時間を待つ贅沢がかなうような規模の作品でもないんだろう。結果として、なんだかよくわけのわからない「ごっこ」遊びのような本作ができあがるわけだ。当然、そこには物語の登場人物たちが抱えているような切実さも、行き止まり感も、痛みも、なにも、ない。だったら、そんなんでも敢えてこの映画を作る価値があったのか、と問いたい。女優脱がして、それを売り物にして客を集めようっていうだけのゲスな企画じゃねえか、こんなモン。え、この作品のタイトルの意味は、もしかして、そういうことなの?

歌舞伎町でチンピラ稼業をしている男が借金帳消しのために揉め事を起こし、互いに惚れあっていたダンサーを連れて故郷に逃げ帰る。実は不労所得を生活の糧とする旧家の跡取り息子、最初は真面目に働きはじめるものの、それをいつまでも続けられるものではない。地元の悪友たちもいる。昔の女と思しきのもいる。トップレスで踊っていた女なんぞ嫁にすること許さぬという実家や、周囲の蔑んだ視線に苦しむ女。男が作った地元のヤクザからの莫大な借金が、二人の行く末にさらなる影を落とす。

原作のことは知らない。だから、原作を読んでいれば頓珍漢に聞こえることもあると前置きはしておく。

映画は、少なくとも「軽蔑されるべき生き方しかできなかった二人」に同情したり感情移入したり出来るものにはなっていない。

男はくだらなさすぎるし、女がそんな男のどこに惚れるのかもわからない。例え、男女の仲は当人にしかわからないね、という描き方なんだとしても、この二人が、それなりにない知恵を絞って必死に生きて、ただただ巡り合わせが悪く、世間の風も冷たかったというのなら、まだ理解できる。しかし、映画を見ている限りではバカな人達がバカなことをやっているようにしか見えない。高良健吾演ずる男のことも、鈴木杏演ずる女のことも、好きになれない。そもそも、なんでそんなに男の郷里にこだわらなきゃならんのか。うまくいかないと思ったら、二人でどこか知らない土地に行けばいいじゃないか。全てから切り離されて2人だけになればいいじゃないか。もっといえば、大森南朋演ずる田舎ヤクザの借金なんか踏み倒して高飛びしちゃえばいいじゃないか。あほらし。

主人公の男の祖父の「妾」さんというポジションに甘んじて生きてきた、昭和の時代の残滓のような女性を緑魔子が演じているのだが、その独特の存在感が映画を全部持って行ってしまったような気がする。そうね、まあ、時代背景が昭和なら、もう少し映画に説得力が出たかもしれない。

6/11/2011

The Adjustment Bureau

アジャストメント (☆☆★)


わははは。フィリップ・K・ディック原作の現実崩壊SFかと思って観に行ったら、藤子・F・不二雄の少年SF短篇的「すこし・ふしぎ」な運命的ラブ・ストーリーだった。しかし、なんでこれをアクション映画みたいに売り込むかなぁ?そっちを期待したら、そりゃ金返せって思うだろうさ。

というわけで、これから観る人、これは「アクション映画」じゃありません。「すこし・ふしぎ」なラブ・ストーリーですので、そこんとこよろしく。

我々の運命はどこかですでに決められていて、その大筋から逸脱しないよう役人然とした「調整局」の面々が影で暗躍しているという話。上院議員選挙における有力候補者だった主人公を本来あるべき運命に導くために「調整局」が行った小さな操作。そのことで、出会うべきでなかったはずの女性と出会い、恋に落ちた主人公。2人が結ばれると、未来が大きく変わってしまう。運命からの逸脱を許さぬ調整局はあらゆる手段を講じて主人公と想い人の仲を引き裂こうとする。

調整局の面々は、普通の人の容姿をし、名前を持ち、趣味の良いスーツに身を包み、帽子をかぶっている。不思議な能力や道具を持って、秘密裏に活動し、人類が定められた運命を全うできるように陰ながら活動している。しかし、絶対的な存在ではなく、ヘマを打つこともあれば、ミスもする。うまくいかなかったときは上司の許可を得て、かなり強引な介入行為をすることもある。主人公に本来すべきではない肩入れをし、陰ながら協力したりもする。彼らの活動や存在は公には秘密になっているが、非常時にはその正体を明かし、説明をし、秘密を守るよう説得、強要したりもする。

調整局の面々の活動の拠点と、この世の様々な場所のあいだには「異次元回廊」のようなものが構築されており、一見して普通の扉がその出入口を兼ねていたりする。『マトリクス』のバックドアみたいなものなのだが、ヴィジュアル表現上が限りなく「どこでもドア」に近い。もちろん、それも藤子Fを思い起こさせる理由の一つではあるけれど、調整局と主人公の関係は、歴史の流れを守りつつ人命救助の任にあたるタイムパトロールの活動を描いた『T.P.ぼん』の主客逆転版のようであるし、役人たちとの攻防の果てに、そもそもの「運命」を司る存在への孤独な闘いを挑もうとする展開は少年SF短篇のノリだ。主人公を突き動かすのが、何年にもわたって想い続けたひとりの女性を幸せにし、共に築く未来を手に入れたいという欲求であるところなど、いかにもそれらしい。

お話しの構成は、調整局のメンバーが主人公を説得、丸め込、。しかし女性への思いが断ち切れず、なんらかの行動を起こし、さらに上手な調整局の責任者が出てきて説得、というパターンの繰り返しである。そこにもう少しバリエーションが加わったり、仮に、同じことの反復であっても、それを感じさせない A ⇒A'⇒ A" の工夫があったなら、もう少し面白くなったかもしれない。ヒロインのエミリー・ブラントは最初の登場シーンの魅力が印象的、凄腕調整局員のテレンス・スタンプは、声も表情もそれっぽい雰囲気を醸し出し、こういう役柄にはそれなりの役者が必要であることを実感させてくれる。

フィリップK.ディックの短篇を導入のアイディアに使っている作品であるが、いかにもPKディック、な感覚は希薄である。まあ、これまでの映画化作品だって似たようなものなので、それ自体をとやかくいうまい。むしろ、本来の不安感とは違った意味で、「で、どうなるの?」とワクワクして次の展開を待ち望んでしまうような、ある意味ジュヴナイルな冒険譚のノリのテイストが、なんでもかんでも深刻でダークになってしまう昨今だからこそ、好意的に評価したいと思ったりするのである。

X-MEN: First Class

X-MEN ファースト・ジェネレーション(☆☆☆★)

1960年代初頭。冷戦下で緊張にある東西両陣営を手玉に取って自らの野望を実現させんとする大悪党に立ち向かう、CIA配下の特殊能力をもったスーパー・エージェントたち・・・という物語の枠組みにあわせて、おおらかなスパイ・アクション映画、というか、そのものズバリ、「ショーン・コネリー主演時代の007」な雰囲気を隠し味にして新鮮味を出してくるあたりがなかなか巧者な『X-MEN』フランチャイズ、作りにつくって、これが第5作目。クールなエンドクレジットにシビれる。

映画はキャスト一新の"プリクエル"であるから、「リブート」という紹介のされ方をすることがあるけれど、たとえば、『バットマン』がクリストファー・ノーランで仕切りなおしたのとは、『スター・トレック』がJJ・エイブラムズ再創造されたのとは、かなり位置づけが違う。過去の作品での描写とは小さな矛盾点が散見されるとはいえ、これまでと世界観を一新しての「仕切りなおし」ではなく、これまでの作品群の延長線上で作られた1作である。(もちろん、若い役者に交代させてフランチャイズの延命をはかるという目論見は同じなんだけどね。)

最初に作られたトリロジーに先立つ時代、後に意見を違え対立することになるミュータントの2大リーダーはいかにして出会い、友情を育み、そして道を違えることとなったのか。X-MENの世界における基本的な約束や価値観、対立構造の成立を、キャラクターの来歴にさかのぼって描きつつ、「キューバ危機」をネタにして映画版X-MENユニバースにおける現代史を語るという趣向である。そのドラマ、アクション、キャラクターの能力を活かしたチーム戦、シリーズの大ネタ・小ネタや楽屋落ちまで、その全てが(よもや想像もしなかったレベルで満載された)シリーズ最高の完成度、満足度である。マニアックに走り過ぎない正攻法の娯楽活劇を、絶妙のバランスで完成させた『キック・アス』のマシュー・ボーン監督は、やはり只者ではないようだ。このまま3部作でも何でも続きを見たいものだ。

キャスティングがいい。もちろん、X-MENの看板があるから許されることとはいえ、一般的な知名度の高さやスターバリューにこだわらず、実力のある役者を揃えたところが成功の一因だろう。特に、作品の2枚看板である「プロフェッサーX」ことチャールズ・エグゼビアに扮したジェームズ・マカボイと「マグニートー」ことエリックを演じたミヒャエル・ファスベンダー(一応ドイツ人だしな)は、れぞれのキャラクターのその後(老後?)を演じたパトリック・スチュワートとイアン・マッケランを「予感」させる説得力ある演技を見せてくれて、見れば納得のはまり具合だ悪役のケヴィン・ベーコンとか、オリバー・プラット、マイケル・アイアンサイドなどのベテラン、ジェニファー・ローレンスやニコラス・ホルトら新進の若手のアンサンブルを組んだこだわりの感じられるキャスティングに、作り手の本気を感じさせられる。

本当の60年代、というのではなく、「フィクションのなかの60年代」を意識したに違いないレトロなデザイン・ワークも目に楽しい。そのなかにあって、コミック調のユニフォームやヘルメットなど、普通に考えたら実写版映画には安っぽくなってしまいそぐわないと思えるようなデザインが絶妙なバランスで共存できている。音楽担当は監督とは『キック・アス』でコンビを組んだヘンリー・ジャックマン。このシリーズは音楽の担当がいつも入れ替わって、これがX-MENの音楽という決定的なイメージを創出出来ていないが、まだまだ馴染みのないこのひと、X-MENシリーズの一編であり、王道の娯楽アクションであるという大枠を押さえながら、60年代スパイ映画風味などを随所に効かせるいい仕事ぶりで、今後が気になる名前になった。

6/04/2011

Blue Valentine

ブルー・バレンタイン(☆☆☆☆★)


砂糖菓子のように甘い映画も好きだが、それとは真逆の映画も好きだ。お涙頂戴の「泣ける」映画のことじゃないよ。厳しく、ほろ苦い現実の中に少しばかりの真実のかけらを見せてくれる映画のことだ。そう、例えばこの映画のように。

結婚から数年が過ぎた夫婦のある日の様子と、二人の出会いから結婚に至るまでのバックストーリーを並行して描かれていく。ペンキ塗りを仕事にしている男は、学歴もなければ向上心もない。最低限の仕事をして、気楽に過ごしていけたらいいと考えているように見える。看護師の妻は大学を出ていて、現実的で努力家である。頼りがいがなさそうな夫にかわり、家計も、家庭の一切も、すべての責任を背負っているふうである。口を開けば互いへのフラストレーションが飛び出し、殺伐とした雰囲気が漂う。こんな二人がどんな出会いをし、何が二人を結びつけたのか。互いの何が魅力的だったのか。あまりにも惨めな現在からは想像のできない二人の過去。一見して輝いて見える過去のなかにも見て取れる、二人のその後を予見させるような問題の種子。

ひつとの関係の始まりと終わりを対比させながら見せるという発想は、あの『(500)日のサマー』を想起させる。ロマンティックな男と現実的な女という組み合わせもよく似ている。しかし、ほろ苦くはあっても、あくまで新種の「ロマンティック・コメディ」にとして楽しめる『(500)日のサマー』に比べ、、本作はあまりに現実味があり、あまりに痛く、あまりに哀しい。これを見て、所詮、こんなものだと達観するのか、そういう結末を迎えないですませるためには何が必要だったのか考えるのか。どちらにしても、折にふれて映画のシーンが心に揺り戻しをかけてくるような、どこか深いレベルで心に傷が残る、これはそういう映画である。

本作の主演、ライアン・ゴズリングとミシェル・ウィリアムズが筆舌に尽くし難いほどに素晴らしい。ここでの二人、もはや演技をしているにように見えないのである。世の中の片隅に、そういう二人がそのまま生きていて、その二人の人生をこっそりと覗き見をしているような、そんな感覚である。夫婦を演じる二人に、映画では描かれていない共に過ごしてきた何年間かの時間が感じられる。それを相性の良さ、というのだろうか。ともに時間を過ごしてきた結果、微妙にすれ違いギクシャクするさまを見せられる相性の良さって、なんか変な表現だな。

もちろん、映画化までの10年以上の時間、おそらく練りに練りあげられたのであろう脚本、それにもかかわらず現場でのアドリブを多用した撮影、そうした映画の作り方があってこそだとは思うのだが、どちらかというと地味な映画で誠実に仕事を重ねてきた二人の実力の、そのレベルの高さには驚きを感じずにはいられない。こういう演技は、もちろん、アカデミー賞をかっさらっていった熱演、怪演と比べるとどうしても目立たないのは致し方ないのだろうが、もっともっと賞賛されてしかるべきものだと思う。

デレク・フランシアンス監督は、離婚家庭に育ったという。夫婦のやりとりや感覚の違いがどのようにして決定的なすれ違いにつながっていくのか、繊細な観察眼によって、そして、大胆な演出術によって再現をしながら、同時に、こんな二人が出会い、惹かれあっていくプロセスをロマンティックに描いて見せてくれた。幕切れの痛切さは、しかし同時に、幸せな時間というものがいかにかけがえの無いものであるかを教えてくれる。それを込みにして、本作のエンドクレジットの美しさをこの10年のベスト、と呼びたい。

6/03/2011

The Kids are All Right

キッズ・オールライト(☆☆☆★)


なんだよ、この邦題は。オールライト、って日本語があるのか?照明器具じゃあるまいし。中途半端に省略しちゃって、偉そうに。

というわけで、邦題はアレだが、映画は素敵である。カリフォルニア郊外を舞台としたコメディ・タッチのホームドラマなのだが、ご存知のとおり、この映画が描く家庭には「父親」がいない。女性の同性愛者カップルが人工授精で授かった二人の子どもが、親に内緒で「遺伝子学上の父親」と連絡をとったことから、平穏だった日常に波風が立ち始める、というはなしである。

特殊な家庭で発生した特殊な状況を題材にしてはいるが、要は、同性愛者カップルの家庭だからといって、さして特別なことはない、とでもいったところだろう。家族のかたちは多様さを増してきているが、子供たちを愛し、守り、育む機能さえ健全であれば、the "kids are all right" であるということ。また、そうした責任を引き受けるものだけが、家庭をもつ幸せを享受する権利があるのだということを描いているのがこの映画である。まあ、そうした多様性を受け入れる社会の存在が大前提なんだけどな。

一家の大黒柱で責任感が強く真面目な医師、そういう父親的な役回りを担っているのが、アネット・ベニングである。いやあ、彼女にアカデミー賞を取らせてあげたかった。いや、写真で見るとたしかに「ショートカットにしたアネット・ベニング」なのだけれど、映画の中の彼女は立ち居振る舞いからして別人だ。いつになく筋肉質な体つきだし、表情も、セリフ回しも、女性らしからぬものがある。知らない人が見たら、そういう役者さんをキャスティングしたと信じてしまうことだろう。

いろいろ趣味的なビジネスに手をつけてみては中途半端なまま、結局は専業主婦的なポジションで家にいるのがジュリアン・ムーア。このひとは強い母親、妖艶な熟女、欲求不満な主婦役から、ハードで男勝りなキャリア女性までなんでも演じてみせる、"雰囲気"があって幅の広い名女優だが、今回の役はとにかく、可愛い。いってみれば、「ドジっ子」な感じのキャラクターを、あっけらかんと演じるジュリアン・ムーアはものすごく新鮮なので、この作品で彼女のファンが増えるのではないだろうか、と思ったりする。

で、この家庭にたいする闖入者、遺伝子学上の父親を演じているのがマーク・ラファロである。こんな男の遺伝子から、色白ブロンド美人のミア・ワシコーシカが生まれるわけ無いじゃん、というむさくるしい風貌の気のいい自由人を飄々と好演。いかにも西海岸な感じのゆるーい英語の口調がたまらない。しかし、このキャラクターがあまりに魅力的であるがゆえ、映画の中でのこの男が「家庭を持つ責任から逃げているのに、その果実だけを得ようとする身勝手な男」として、どちらかといえばネガティブに描かれていることが分かり難くなっている。逆に、家族に対する責任感でいっぱいいっぱいになっていくアネット・ベニングが悪役にすら見えるのは、ちょっとした演出のさじ加減ながら、失敗なのではないか、と思う。

同性愛者ではない観客の目線では、遺伝子学上の父親が「無責任男」というよりは、描かれている家庭に欠けた要素、もしかしたら生物学的な意味での男性性であったり、自由さ、おおらかさのようなものを持ち込むことができる存在のように見えなくもない。その流れで言うならば、ハッピーエンドの形というのは、変則的な家族における新しいメンバーとして、この男を迎え入れることなのではないか、と思ったりもする。

しかし、この映画の立場や主張は違う。すなわち、同性愛者の作った家庭だからといって、なにかが足りないとか、欠落しているというのは偏見であり、差別的な物の見方であるということだ。また、遺伝上、生物学上の親よりも、「育ての親」が本当の親である、ということだ。だから、責任を引き受けずに美味しいところだけをつまみ食いしようとした「男」の身勝手な行動は否定されなくてはならず、安易に招き入れられるものではないということになる。まあ、正論ではあろう。

この映画の主張やメッセージをすんなりと受け入れることができるかどうかは別として、演技巧者たちの繰り広げるコメディとしてだけで十分お釣りのくる面白さである。アネット・ベニングの凄さに感動し、そしてジュリアン・ムーアの魅力に目を奪われたらよいと思うのだが、どうだろうか。

Chloe

クロエ(☆☆☆)


夫の不貞を疑った妻が、女にだらしがない夫の本性を暴こうと娼婦を雇い、誘惑させて反応を探ろうとする。娼婦の報告で疑惑が確信へと変わるだけでなく、夫と娼婦とのあいだで行われた秘め事を聞いて想像をふくらませた妻は、ただならぬ感情に苛まされるようになる。すべてを精算しようとした妻が知る真実とは。2003年の仏映画『恍惚 (Natarie...)』のリメイクで、監督はアトム・エゴヤン。夫がリーアム・ニーソン、妻がジュリアン・ムーア、娼婦がアマンダ・セイフライド。

ジュラール・ドパルリューとエマニュエル・ベアールが出演しているオリジナルは未見。で、エロティックな罠による浮気夫への復讐譚かと思ってみていると、寝取られ属性に目覚めて悶える妻の話になり、そのままどこまで変態的な展開になるかと期待して見ていると、娼婦と妻のレズ・セックスの映画になり、ハリウッド調サスペンスで幕を閉じる。なんじゃそりゃ。

この2ヶ月ほど、『ジュリエットからの手紙』、『赤ずきん』に本作と、3本立て続けに出演作が公開されて、ときならぬアマンダ・セイフライド祭りとなっている。ここ最近の「女子映画」の顔といってもよい彼女が、エロティックに誘惑する娼婦を演ずるというのでどういう風の吹き回しかと思ってみてみれば、なんとことはない、大きな意味で、いつもとおんなじ路線の役柄だ。もちろん、いつになく積極的に脱いで男性観客の目を楽しませてはくれるけれど、男の望むセックス・オブジェクトを演じているのではなく、「男の望むセックス・オブジェクトを演じている女性」を演じているのである。もうひとつついでに、彼女の役柄の視点からこの物語を再構築してみれば、「仕事として客の望む姿を演じ続けてきたひとりの孤独な女性が、ふとしたきっかけで知り合った相手に叶わぬ一方的な恋心を抱く」という話なのだ。

一見して、欲求不満のセクシーな中年女性が性悪女にひっかかるエロティック・サスペンスとしてパッケージングされてはいるが、実は、それは商売上のひっかけに過ぎない。本作が、この娼婦のモノローグで幕を開けるのも、映画のタイトルが彼女の名前であることも、まあ、あとになって思えば、これが本当は「彼女」の物語であることを示唆しているのだ。なるほどね。

「クロエ」という女性の視点で見ることによって、『ルームメイト』のジェニファー・ジェイソン・リーとか、『危険な情事』のグレン・クロースとか、男が観ると恐怖の対象でしかないんだけど、どこか孤独で哀しい女性たち、平和な生活に侵入し破壊する異端者として哀れみを誘いつつも、最後には残酷に排除されていく女性たちの系譜が見えてこないだろうか。だから、この「娼婦」の役は、単なるセクシー美女俳優ではなく、むしろ女性観客に共感を呼ぶ役柄ばかり演じ続けているアマンダ・セイフライドだったということだ。ちぇ、こいつ別に好きな女優じゃないんだけどな。目と目のあいだが離れたヘン顔だし。

リーアム・ニーソンはにやけ顔の女好きなのか、単に愛想がいいだけの真面目な堅物なのか、どうっちにでもうけとれる曖昧さで観客をミスリード。ジュリアン・ムーアは本当に巧い女優さんだし、こういう役はお得意とするところ。アトム・エゴヤンの演出は、商売上の要求とドラマ上の要求をバランスさせながら、ジュリアン・ムーアの物語としても、アマンダ・セイフライドの物語としても成立させており、かつ、安っぽくならない程度に変態ぽいところもいい。製作にアイヴァン&ジェイソン・ライトマン父子の名前があって、ってことは、実質これは、カナダ映画ってことですか。舞台もトロントだしな。

しかし、クロエには違う結末を用意してあげたかったな。この手の映画ではもう、ああいう終わり方をしないと観客が納得してくれないとでも思ってるのかね。