7/26/2008

The Happening

ハプニング(☆☆☆★)

NY。ある日突然、人々の行動が狂い、次々と自殺を始める。初めはテロリストの攻撃かと原因はわからない。米国北東部の大都市から次第に小さな町々へ、現象は広がっていく。フィラデルフィアに暮らす主人公は、不仲な妻、友人の娘を連れあてのない逃避をはじめるが、行く先々に死体が転がる。

ハプニング、という言葉はもちろん、カタカナ語として通用するのだが、印象としては「偶発的で軽いちょっとしたアクシデント」という意味のみにおいて受け止められるのではないか。敢えて罪の意識を感じさせないために「ハプニング・バー」などという名称を発明したやつがいるくらいだ。しかし、ここで起こる事象は、そんな軽いものではない。

公開されるや、早速罵詈雑言を浴びせかけられているMナイト・シャマランの新作は、「宇宙からの侵略者の話かと思えば、妻を失った聖職者が信仰を取り戻す話」だった『サイン』や、「恐ろしい怪物の出る森の中に孤立したコミュニティの謎の話かと思えば、目の見えない少女の初めてのおつかいの話」だった『ヴィレッジ』などとよく似ていて、「奇怪な現象に見舞われた人類がいかに生き延びるかという話」ではなく、「不仲な夫婦が互いに向き合い、互いへの思いと絆を取り戻す話」なのであった。まあ、不仲といっても実態があるのかないのかといった程度の不倫疑惑、正直なところ、もう少しのっぴきならない関係にしておかないとドラマに気づいてもらえないのではないだろうか。

物語の構造という観点から見ると、これは、エメリッヒの『インディペンデンス・デイ』ではなく、スピルバーグの『宇宙戦争』である。主人公はただただ状況に翻弄される「普通のひと」であり、何が起こっているのかもわからなければ、それをどうこうすることもできない立場にいる。米国北東部を襲った怪異の正体は、登場人物たちにもわからないし、映画を見ている我々にもわからない。あくまで、怪異に襲われた主人公の、状況に対する心理とリアクションを追っていく映画なのである。主人公が怪異の謎を解き、闘い、世界に平和をもたらすことを望むようなお話しが好きなら、悪いことは言わないから近寄らないほうがよい映画である。『宇宙戦争』は一般には不評をかこったから、その意味で「一般」的な観客向きの映画ではないのかもしれない。

また、この映画で描かれる「怪異」は、ただただ主人公の行動を動機付けるためだけに存在するものである。まあ、いわゆる肥大化した「マクガフィン」といえるだろう。多くの観客が物語の本質とは異なるものに気をとられ、それについて何の説明もないことに怒るのは、だから本来は全く筋違いなのだが、仕方ない側面もある。なぜなら、この映画がいかにも怪現象そのものを描いたパニックムービーであるかのように装い、それを売り物にした商品としてパッケージされ、喧伝されているからである。どう考えても意図的なミスリードだ。その昔、コケ脅しのCムーヴィーを買い付けてきた配給会社がやっていた手口に似ている、といえなくもない。もちろん、今のメインストリームの観客には、そういう稚気を笑って楽しむだけの心と時間の余裕があるとは到底思われないので問題になるだろう。だけど。まあ、この映画の場合は作り手の側もそういうミスリードを前提としているところがあるわけで、それを笑って楽しむセンスは観客として必須の資質だと思われる。

ともかく、シャマランはその「マクガフィン」に世界の終末、もっといえば、人類の終末というモチーフを選んだ。ある日突然主人公を襲う「怪異」は、宇宙人などというわかりやすい外敵の姿を借りず、増えすぎたレミングの集団が自らを死に駆り立てる(というのは捏造らしいが)かのごとく、ただただ自死を選び、死体が転がっていくというイメージの羅列。こことのころはかなり嫌な感じに仕上がっており、この作り手が、スピルバーグのある種わかりやすい鬼畜さとは違ったセンスの持ち主であることが見てとれて、なかなかに面白い。そういえば、出世作における死人たちのイメージも、相当嫌な感じだった。単に観客を不快にさせる過激で陰惨な表現は好きではないのだが、彼の作り出した陰鬱なイメージは、タク・フジモトの優れたカメラ・ワークと相まって、なかなか見ごたえがある。

してみると、この映画に最も近いものは何かといえば、黒澤清の『回路』ということになるだろう。あの映画の衝撃的な飛び降り自殺シーンや、幽霊が躓く戦慄のシーンに匹敵するイメージこそないが、種としての人類が終わっていく嫌な感じには通低するものがある。

それならば、この映画が非難されるべきは説明がないことでもオチがないことでもなく、世界の破滅ではなく、世界の破滅の「前触れとなる兆候(サイン)」を描いて満足してしまったことだと思う。あのとってつけたようなエンディングに変わり、希望のかけらもなく、世界が終わっていくところで幕を閉じることができたのなら、違った評価もあったのではないだろうか。

関係ないが、植物が原因だというイカレポンチに感化され、プラスチックの置物にまで語りかけるシーンは、ホアキン・フェニックスのアルミホイル帽子に匹敵する爆笑シーンであった。こんなところにもシャマラン演出独特の個性が出ていると思う。出演はマーク・ウォルバーグ、ズーイー・デシャネル、ジョン・レグイザモら。みな、普通の人々の役を素直に好演。

7/19/2008

Speed Racer

スピードレーサー(☆☆☆★)

『インベージョン』の撮り直しを請け負ってジョエル・シルバーに媚を売ったアンディ&ラリー・ウォシャウスキーが、ご褒美に撮らせてもらった狂気の無駄遣いは、「マッハGo Go Go!」ぶりの徹底加減に唖然とし、その突き抜け具合に感動する、原色溢れる壮絶な怪作である。

とにかく、宣伝の方向性を完全に誤っている。

" 「マトリックス」のウォシャウスキー兄弟が描く、 革新のスピード世界!" じゃないだろ。

" あの伝説のタツノコ・アニメ、「マッハGo Go Go!」を完全再現!ハリウッドが本気で挑む、超絶の映像体験!" でしょ。

そうしたら、かつてTVの前で胸を熱くした世代(って相当上なんだけど)の観客が劇場にかけつけ、もうちっといい商売が出来たに違いないのだ。場内、それほど悲惨な客の入り。これを大劇場でみる機会がありながら、本来この作品を楽しめるはずの観客はどこにいったのやら。もったいない。

宣伝が誤っているから、この作品に対する批判もみんな筋違いで的外れだ。レースシーンがアニメかゲームのようだって?当たり前じゃないか、アニメを再現しているんだから。実写映画じゃなくて、実写マンガなんだよ。だから、わざとテカテカなんだよ。ガキがうるさい?サルが鬱陶しい?しょーがないじゃないか、あーいうのが出てくるのが子供向けアニメのお約束だったんだから。視聴者が一番感情移入できるキャラなんだよ。お話しが子供向けで幼稚だって?だって、それを変えてしまったら「マッハGo Go Go!」じゃなくなっちゃうだろ!

実写映画である以前に「実写マンガ」とでもいうべき作品において、同じく実写マンガの先達である『フリントストーン』に引き続きカートゥーン・キャラクターを演じる巨漢ジョン・グッドマンのアニメ的な存在感や、実写映画ではなかなか仕事に恵まれないらしいギョロ目・巨乳・低身長の個性派クリスティーナ・リッチの想像を超えるアニメぶりは特筆に値するだろう。真面目な映画専門かと思われたスーザン・サランドンの(これまた)ギョロ目も、実はとても漫画的だったことに気付かされる。本作では『イントゥ・ザ・ワイルド』で評判のエミール・ハーシュにすら、全く2次元的で何の奥行きもないアニメキャラになることを強要し成功しているが、日本から参加の真田広之の演技は「マンガ」になっておらず、登場シーンが少ないのも納得である。韓国から傘下のピとかいうひとも無駄に気合が入っていて落第点。

エンドクレジットで流される楽曲に、あらなつかしや、あのテーマ曲がミックスされているところは感嘆ものである。ぜひドでかい画面とぶっ飛びの音響で体感すべき。「マッハGo Go Go!」をいまやるのであれば、これ以上のものはないと断言できよう。もちろん、なぜ、いま「マッハGo Go Go!」をやる必然性があるかといえば、技術的に可能だからということと、作り手にとって愛着がある作品だから、という以外に理由はないが、成功し、力や後ろ盾を得て、自分が大好きな作品を題材にとりあげることができるクリエイターたちの幸せ、祝祭気分を共有できるのもまた、幸せというものじゃないだろうか。

Cribmers' High

クライマーズ・ハイ(☆☆☆☆)

原田眞人監督による『金融腐食列島・呪縛』、『突入せよ!「あさま山荘」事件』に続く、いってみれば「昭和の大事件シリーズ」第3弾は、横山秀夫の原作を元にし、日航機墜落事故に遭遇した地元紙記者たちの姿を描く本作、『クライマーズ・ハイ』である。同じ小説を原作とした先行作品として、2005年、 NHKが力の入った2部構成のドラマを放送、好評を得ており、正直、今更?他にネタはないの?という気持ちもないわけではなかった。が、(雄弁な自作擁護の声は大きくても作品そのものは微妙な出来が多い)原田眞人もなぜか「この」路線に限ってはハズレがないし、堤真一に堺雅人という魅力的なキャスティングを聞いて完成を楽しみにしていた1本である。そして、その期待は裏切られなかった。なんだかんだといって、本年の日本映画を代表する1本に仕上がっているといってよいだろう。

この映画での強烈な見所のひとつは、「新聞社」の仕事ぶりを、極端に短いショットの積み重ねと畳み掛けるような大量の台詞によって同時に様々なことが進行していく緊迫感や緊張感と共に臨場感満点に再現してみせるところだろう。こういう見せ方にかけたは原田眞人の独壇場ではないか。比較対象を世界に広げても突出して巧いと思うし、彼の過去作品で試みられた類似シーンと比べても、今回のものは格段に効果的であった。

こういうある種の集団が主役となるシーンは、やはり、出演している役者のレベルにも左右されるものだが、個性的な顔が並ぶアンサンブル・キャストは実力者揃いで、みな、目の前の仕事に真剣な「プロ」の顔になっていて、しかも集団の中に誰一人として埋もれていない。役者の層が厚い米国映画ならともかく、ともすればどこかで見たような顔ばかりが並んでしまう日本の映画においては、このキャスティングひとつとっても傑出したものだと感嘆した。それも相まって、このフィルムには仕事をする人間、「プロフェッショナル」の格好良さ、彼らが個人として、チームとして仕事に集中するときに感じるであろう高揚感とでもいうものが焼き付けられている。そして、それはそのまま、「日航機墜落」という大事件に直面した主人公らの高揚感("cribmers high")に文字通りつながるのである。

期待通りに主演の二人がいい。映画スターとしての輝きを見せてもらったという意味では、期待以上である。いま、実力も華も兼ね備えて正に旬を迎えたといってもいい堤真一と堺雅人。この二人がスクリーン上で激突するのである。ことに、様々にクセのある役柄を飄々とこなしてきた印象の強い堺雅人から、本作のようなタフでハードな男の色気を引き出してみせられるというのは嬉しい驚きである。大事故の現場に一番近いところにいながら、新聞記者という立場上、自分ではどうにもならないことに対する苛立ちや無力感、悔しさのようなものが良く出ていた。堤真一も様々な役柄を器用に演じる印象を持っているのだが、ここでは映画の柱として常に中心に立っていなければならない役回りを堂々と、孤高のヒーローとでもいうべき存在感で演じ切っている。この人の、映画1本を支えられる看板としての大きさを、ここまで感じさせられたのは初めてのことであった。

原作のストーリーや設定をある程度丁寧に追うだけの余裕があったNHK版と違い、それなりの尺のなかにエッセンスを封じ込めなければならない映画版は、脚色をおこなう際の切り口のようなものや、エピソードや伏線の単純化、取捨選択といったものが重要になってくるし、そこが映画の個性として立ち上がってくる部分だといえよう。本作の脚色は,作り事めいたストーリーを語ることより、現場の臨場感の中から、瞬間瞬間のドラマを拾い上げていくことに重点が置かれているように感じられた。ただ、それが本当の狙いだったのかどうか分かりづらいのは、原作からの取捨選択が時に不完全というか、本筋から離れた枝葉末節と感じられる部分に流れることがあるからだろう。このあたり、変に単純化、省略をせず、猥雑なもノイズのようなものをそのまま残しているのも意図的なものだと好意的に解釈しようと思う。こうした部分に起因する作品としてのイビツさもまた、臨場感や勢いにつながっており、本作の魅力の一部を成しているからである。

また、「当時」のパートに「現在」のパートが時折挟み込まれる構成について、作品に対する没入感を殺ぐようにも感じられ気になっていたが、最後まで映画をみると、このラスト、日本映画というよりはどこか米国文学を思わせるエンディングにつなげるためにはこれ以外の構成はなかっただろうと思い直した。「当時」パートの描写の密度と「現在」パートのそれとの落差が激しいことに根本原因がある以上、ここはいかんともし難いところだろう。まあ、これだけテンションの高い作品である以上、箸休めがあってもよいのかもしれないが、そこが緩急というようなうねりではなく、1か0か、オンかオフかのように極端であることが気になる理由なのであろう。あのラストを余計だとする意見も多いが、そうではなく、あのラストにつなげるストーリーがうまく描かれていない、機能していないことのほうがどちらかといえば課題だったのではないかと考える。