11/26/2011

Immortals

インモータルズ 神々の戦い(☆☆★)


云われるほど悪くないんだけど、ヘンな映画ではある。見終わってみれば、ゴージャスなヴィジュアルの他はミッキー・ロークだけが印象に残るだけの映画だったりする。が、かなりバイオレントだし、アクションも満載。好みかどうかは別として、ある種の美意識に貫かれた作品になっているあたりは、やっぱりターセム・シンだけのことはある。

お話はこんな感じ。冷酷なハイペリオン王率いる軍勢がギリシャ国家群を蹂躙するが、ギリシャの神々を束ねるゼウスは、人間同士の争いに介入すべきではないとして傍観し、自ら目をかけたテセウスに、ギリシャの存亡を賭けて戦う役割を果すように迫る。一方のハイペリオンは、かつて自らの祈りに応えようとしなかった神々をも粉砕すべく、太古の戦いで地底に封じ込まれたタイタン族を解き放ってしまう。この期に及んでは、ゼウス以下の神々も自らの身を呈して参戦することになる。

と、いうわけで、なんとなくギリシャ神話のモチーフを借りて、勝手に作ってみたという一本である。人間の戦いに介入しないといいながら、どうしてもかわいい人間が心配になって手を貸しちゃう、ちょっと面倒くさいギリシャの神々の立ち位置により、ストーリーは少々まどろっこしいことになっている。もー、お前らはいったい何がしたいの?

一歩下がって、物語の構造を考えるに、究極的には、同じように悲劇的に家族を失いながら、「(ギリシャの神々に祝福され、支援された)テセウス(率いるギリシャ連合軍)」VS「(ギリシャの神々から見放されたと感じて恨みを持つ)ハイペリオン(の軍隊と、地下から解き放ったタイタン族)」という構図になっている、、、、はずなのである。しかし、直感的にはこの対立構造が分かりづらく、まかり間違って、テセウスを主人公とする英雄譚としてみてしまうと、大変だ。なにせ、危機一髪の状況になると神風が吹く、というような展開だから、なんかショボいヒーローのヘンな映画ということになってしまう。

石岡瑛子の手になる自己主張の強い奇天烈なコスチュームと、監督ターセム・シンが云うところの「ルネッサンス絵画」スタイルのヴィジュアル・デザインにはかなりのインパクトがある。その一方で、ヘンリー・カヴィル、スティーヴン・ドーフ、フリーダ・ピント、ルーク・エヴァンス等々、出演者は衣装とビジュアルに埋もれてしまった。僅かな例外が、飄々とした味わいで人間体のゼウスを演じるジョン・ハートと、徹底して残虐な怒れる悪役ミッキー・ローク、なのである。

3Dはかなり体感できるレベルに仕上がっていて、このヴィジュアル・イメージの視覚体験としては見応えはあるので、(300~400円の付加価値があるかは別として)せっかく見るなら3Dがいいんじゃないか。個人的には、こういう映画は「映画館で見れば十分」な作品であって、わざわざ家のちまちましたスクリーンで見返したりしようとは思わないんだよな。

11/19/2011

Moneyball

マネーボール(☆☆☆★)


主力選手の流出と予算制約に悩まされたメジャーリーグ球団、オークランド・アスレチックスで、1997年にジェネラル・マネージャーとなったビリー・ビーンが、邪道扱いされていた統計的な「セイバーメトリクス理論」を積極的に取り入れてチーム編成を行い、他チームと互角以上に戦えるように奮闘した物語である。

もちろん、米国のメジャーリーグ・ベースボールが題材ではあるが、なにしろチーム編成に責任をもつGMが主人公であるから、選手たちや試合の勝ち負けといった野球の「表側」ではなく、選手を評価し、他チームと交渉し、トレードし、チームを編成していく、舞台裏の部分に焦点があたっていて、野球好きのみならず興味深く見ることができる。

ただ、この映画は、必ずしも「セイバーメトリクス理論」を優れた手法として紹介し、礼賛するものではない。だいたい、客観的にみても映画の中で説明されている程度の「理論」は、手法においてそれほど洗練されているようには思えない。統計的といってみても、分析の切り口や仮説の立て方、解釈次第でいかようにも使えるのであることは、少し考えてみればすぐにわかることだ。

実際、この「理論」の映画の中での描写としては、旧来の常識に対するアンチテーゼとして波紋を呼びそうな極端なものばかりが強調されているように思う。選手の評価という面はともかく、野球の試合における戦術という意味ではプリミティヴそのものなんじゃないか。ただ、映画の中におけるこの理論の役割は明確で、要は、財務的に困窮していて常識的には戦力補強ができない状況のなかで、独自の着眼点で評価し直すことで「掘り出し物」を見つけようとした、そして、それがたまたま一定の成果を収め、注目を集めたということであり、それ以上のものではない。

しかし、この映画がほんとうに描こうとしているのは、ブラッド・ピットが演じる主人公の個人的な戦いのドラマなのだろう。映画はこの人物のバックストーリーをこう紹介していく。いわく、スタンフォードへの奨学金すら決まっていたのに、スカウト陣から素質万全とのお墨付きを得て、巨額の契約金と引換にプロの道へと足を踏み入れたが、結局のところ芽が出ることなく未完の大器として現役を去ることになった、苦い挫折の経験の持ち主であると。

世間の常識に照らしあわせた人材の評価とは一体なんなのか、他人の評価や巨額のお金が一体何を意味するのか。この映画の中で、人材の評価に新たな尺度を持ち込もうとする主人公の戦いは、そんなわけで、この人物が挫折から学び、人生をかけた雪辱戦に臨む戦いなのであるというわけだ。そして、その戦いには、多分、終わりはない。チームがワールド・チャンピオンになれるか、なれないかに関わらず。

だから、この映画は野球を描いているようで、描いていない。「弱かったチームが奇跡の連勝」といった、ありがちなフォーミュラに流し込んだりもしない。あの年、アスレチックスが歴史的な連勝記録を作ったことは物語の重要な要素として扱われているけれども、それをクライマックスにしていないし、実にあっさりした見せ方になっていることは、そう考えれば当たり前のことだ。まあ、「定型的な物語」をこそ見たかった観客は、それをもって重大な瑕疵だと思うかも知れないけれどね。

気合が入ると「熱演」しがちなブラッド・ピットは、主人公を自然体で演じて好印象。娘役の子役と絡んでいる姿がとても板に付いている。私生活でたくさんの子供達に囲まれていることが、こんなところに良い影響を及ぼしているんじゃないか。主人公の片腕となる統計専門家は実在の人物にかわって用意された架空のキャラクターだが、「実在の」という制約から解き放たれているぶんだけ面白い描かれ方をしていて、これを演じるジョナ・ヒルも好演である。チームの監督役にフィリップ・シーモア・ホフマンを起用しておきながら、脚本も、演出も、この人物にあまり興味がなかったのかと思う無駄遣い。まあ、主人公と対立する立場としては海千山千のスカウトたちの存在があるから、監督の独自の立ち位置を見出しにくかったんじゃないだろうか。

11/13/2011

Love Strikes! (モテキ)

モテキ(☆☆☆★)


公開から随分間が開いてしまったが、ようやく見ることができた。原作(知らなかった)、テレビドラマ(気になっていた)共に未見だが、楽しく見られた。いや、実際のところ、これ、サプライズ・ヒットを飛ばしたからということだけでなく、今年の邦画を代表する何本かを選ぶなら、そのなかに選ばれてしかるべき1本ではなかろうか。だって、こんな映画、こんな主人公、こんな演出、他の国で考えられるか?

もちろん、大震災と史上最悪の原発事故を経験したこの国の、今年を代表する1本がこれっていうのもなんだとは思うけれど、そういうある種の恥ずかしさも込みにして、今日の日本が生み出せる、日本ならではの「オリジナリティ」って、こういうものなのではないのか、と思い、感心し、面白がっている。

この映画は自由だ。あるいは、テレビ東京の深夜ドラマ枠という出自がそうさせるのかもしれないが、「平均点的に誰もにウけるもの」でなくてもいい、分かる人に分かれば良く、楽しめる人に楽しんでもらえばいい、とでもいうような、潔い割り切りが感じられる。サブカルネタの取り込みや言及もそう。ある種の下品さだってそう。Twitter の使い方もそう。マンガ的(というかアニメ的)で過剰なモノローグもそう。前代未聞レベルで凝りに凝ったエンドクレジットもそうだ。

妄想的な美女神輿のオープニング。米国映画が得意とするミュージカル演出を(おそらく『(500)日のサマー』経由で)臆面もなくイタダくかと思えば、Perfume 本人たちまで登場の大盤振る舞いで映画館をイベント会場に変えたかと思えば、大江千里で突如映画館の大スクリーンがカラオケに変貌する仰天演出。曲を流し出したら、テンポやバランスを後回しにしてまでキリの良いところまで丸まる流してみせる。こういうデタラメさ加減の、なんという楽しさよ。

しかし、この映画はそういう意匠の新しさだけを売り物にした作品ではない。コメディとして笑える、ということだけでもない。結局、映画の中で描かれている不器用なキャラクターたちの切ない心象風景を、格好の悪い恋愛模様のドラマをきちんと語ってみせることができているから、映画として成立しているのだ。そして、そんな恋愛模様のどこかに、観客自身が思い当たるものがあるから、共感できる何かを見出すことができるから、心を打つ映画足りえているのだと思う。

類型的で表層的にみえる登場人物たちには、もちろん、コミック的な誇張もあるけれど、今この時代を生きているリアルな人間の香りがし、親近感を抱くことができる。そして、それを演じているキャストが、そういうキャラクターたちをしっかりと掴んでいるところがなお素晴らしい。

本作筆頭のヒロインにキャスティングされた長澤まさみの破壊力はいうまでもないことだが、彼女の存在がいかに反則的であるかを分かっている人間がキャスティングをし、演出しなければこうはならないだろう。絵に描いたような夢のガールフレンド役としてだけでなく、その裏側にある焦りや悩み、不安や弱さをきちんと見せて完璧。一時期の低迷はなんだったのか。

第2のヒロインである麻生久美子も好演なら、飛び道具扱いの仲里依紗、真木よう子も、役割をよく自覚している。飄々としたリリー・フランキーの面白さ。金子ノブアキの悪役ぶり。もちろん、主演たる森山未來は、格好悪くて面倒くさい主人公のキャラクターを完全にモノにしていて、意外にも、その身体能力の高さが透けて見えて感心した。

こうなると、ドラマ版を見損なっていたのが実に惜しい。が、だからといってこの映画を見ないのはもったいない。独立した作品として、十分に完成した力作である。

Contagion

コンテイジョン(☆☆☆☆)


実は、映画館から戻って以来、体調が悪いのだ。念には念を入れて殺菌効果のある液体石鹸で手を洗い、薬をつかってうがいもした。それなのに、3時間後には急激に熱が上がってめまいがし、気分がすぐれない状態になってフラフラしてきたので、安静状態を保つようにしている。まさか劇場内をターゲットにしてウィルスをばらまくテロだとも思わないのだが、館内で咳をしているひとがいたから、油断はできない。水害で仕事が止まったバンコクからの一時帰国者が変な病原菌を持ち帰っていないとも限らないじゃないか。

・・・などと、不安が不安を呼ぶ映画なのである。濃密な106分。力作。

スティーヴン・ソダーバーグというひとは、「巧い、けど、面白くない」映画を作ることに関しては天才的だと思っていて、、もとよりあまり好きな監督ではない。が、時折、ほんとうに面白い映画も作るので侮れないのである。全部まとめてどれだけ賞を受賞しているのか分からないくらいの豪華キャストを揃えた本作も、見る人によっては「面白くない」映画なのかもしれないが、久々にグッとくる1本であった。ちきしょう、やっぱりこいつ、巧いんだよ。これがダメならハリウッド活劇調『アウトブレイク』でも、お涙頂戴底抜け邦画『感染列島』でもお好きにどうぞ。

人類が経験したことのない、感染力が強く、かつ、致死率も高い未知のウィルスのパンデミックがおこったら、一体何が起こるのか。誰がどのように行動するのか。この映画は、そういう状況を、近未来シミュレーションとして、視点を切り替えながら(あくまで)過度のドラマ性(だけ)を排除して描き出していく。単純なヒーローはいない。影で巨大な陰謀を巡らす極悪人もいない。お涙頂戴もないし、カタルシスもない。だが、良心や使命感を持った人々が精一杯誠実に行動する一方で、虚栄心や欲に支配された人間が悪事もなす。過度のドラマ性はないとはいえ、個々に小さなドラマがあり、胸を打つ瞬間がある。

この映画は、地に足の着いた描写から、世界的規模で起こっている事件を丸ごと描きだしていく。大きなスケールである。しかし、よくよく見れば、米国を中心において、(複数とはいえ)かなり限定されたパーソナルな視点を積み重ねることで形にしている。個々のエピソードがバラバラになったり、描写が上滑りしたりしない演出力と、複雑な編集を含めた物語の構成力には恐れ入る。なにせ、これだけ多くの名のあるキャストを使っていて、それぞれに印象に残る演技の見せ場を作り、誰一人無駄にしていないのも、簡単なことではない。逆にいえば、こういう映画を作るにあたっては、実力のあるキャストを揃えないと、物語を構成する各々のパーツが説得力を失ってしまうということでもあるだろう。

家族を失い、戸惑いながらも残されたものを守ろうとするマット・デイモンの静かな演技は相変わらず静かな名演。妻が死んだと聞かされて、「で、妻にはいつ会えるんです?」と聞き返すシーンは最高だ。ウィルスの起源と感染ルートの解明に出かけて現地で人質として捕らえられるマリオン・コティヤールの最後の決断や、ワクチンの開発にあたるジェニファー・イーリーと、意志でもあった彼女の父親のエピソードなど、短い時間と少ない台詞でこれだけ豊かなドラマを紡ぎ出してみせると感心する。淡々としていて感情移入できない映画だと評する意見には全く賛成できないね。

ところで、本作の中で、ジュード・ロウ扮するブロガーが自己顕示欲の強い悪人として描かれていることで、ネットメディアや、それに扇動される人々を必要以上にネガティブ見せているように感じる向きもあろう。だが、結局のところ、これが現実に近い描写ではないだろうか。いつの世にもデマを流すものがいて、それに乗せられるものがいるということで、それ以上の意味はないのではないか。確かに、対する「体制」側に属する人々は小さな過ちを犯したりもするが、概ね好意的に描かれているものの、公式発表が後手後手に回りがちな様子、それゆえに人々の不安や恐怖が増幅されていく流れも十分に透けて見えるし、各国政府や企業の行動がことさら美化されているわけでもないから、個人的には、この映画を「体制寄り」と見るのは穿ちすぎだろうと思っている。

仕事で香港に出かけ、シカゴ経由でミネソタに戻ってきた女性が発症する "Day 2" で幕をあけた物語が、最後の最後に提示してみせるのは、世界がいかに狭くなり、人類の経済活動が未知のリスクを増大させているか、という事実である。豚インフルエンザは大事に至る前に収束して胸をなでおろしたものの、こうした脅威はいまそこに迫っており、人類とウィルスの戦いの歴史は続いていく。このジャンルの映画としては、決定打に近い一本。必見。

10/30/2011

ツレがうつになりまして。

ツレがうつになりまして。(☆☆☆★)


同名のコミック・エッセイが話題を呼んでいたことも、NHKでドラマをやっていたことも知っている。が、原作は読んでいないし、ドラマも(全部ちゃんとは)見ていない。が、宮崎あおいと堺雅人が主演の映画になると聞いて、これはぜひ見たいと思い、遅ればせながら劇場に足を運んだ。ということで、原作と比べて云々、ドラマと比べてどうこういうことはできない。もっというと、佐々部清監督の作品を見るのも初めてのような気がする。

これは、少しばかりの啓蒙効果はあるのかもしれないが、鬱病治療のマニュアルのような内容ではない。仕事のストレスをきっかけに鬱病となった夫と、あまり売れていない漫画家の妻が、夫の病をきっかけとして、現実に向き合っていく物語である。

丁寧に作られた良い映画である、と思う。話運びも、見せ方もいい。舞台となる一軒家、近所の風景なども、少し現実の時空間から外れていて、しかし、どことなくほっとする世界だ。そして、なによりも主演の二人が、その実力に違わない好演である。しかも、スクリーン上での相性がいい。いつまでも眺めていたい気分になる、お似合いのカップルである。そして、本当は重い題材のはずなのだが、軽やかで、温かい。

だが、この映画、どう考えても幕引きの場所を間違えた。いろいろ考えた末だとは思うが、思い切りが悪い感じで、かなり惜しい。

終盤、幕の引きどころが幾度となく訪れる。最初の候補は、「結婚同窓会」のくだりだろう。この夫婦はカトリックの教会で結婚式を挙げたようである。同時期に結婚したカップルたちを集めて結婚に対する心構えなどを説く教室でも開いていたのだろう。その延長線上で毎年「同窓会」を開いているのである。そこに参加した主人公夫婦のスピーチは映画のテーマそのものを語っていて、エモーショナルなピーク・ポイントにもなっている。そこで映画を終わっていたとしても全く不思議ではないし、座りも良かったのではないかと思う。

次の候補は、夫婦が庭で会話をするシーンである。妻が、自分が書きたいことをマンガに書けばいいと、そして書きたい題材(つまりは、夫婦の闘病生活)が見つかったと語る場面で、CGIを使って妻の描いたイラストが画面いっぱいに広がるファンタジックなシーンだ。この映画の原作がそうやって描き上げられたコミック・エッセイであることを思えば、先の「同窓会」の後、エピローグ的にここまで引っ張ってから終わるのもスッキリした構成に思える。個人的には、ここで映画を終わらすアイディアが一押しである。。

実際の映画は、これに引き続き、妻の描いたコミック・エッセイが評判を呼んだこと、夫が妻のマネジメントの名目で会社を作ったことなどに触れたあと、夫が乞われて講演会の演台に立つエピソードが描かれる。ここは、もう、本当にバッサリ切ってしかるべき蛇足である。ハッピーエンドらしく、鬱病が回復に向かっているというトーンを出したかったのかもしれないが、そもそもそんなに短期間で治る病気でもあるまい。会場に元上司やらクレーマーやらを大集合させて結論めいたオチをつけたかったのかもしれないが、不自然極まりない。どうしても「その後」的なフォローアップをしたいというのなら、アメグラ方式というのか、ストップ・モーションにテロップで十分だったと思うんだよね。

Cowboys & Aliens

カウボーイ&エイリアン(☆☆★)


西部劇とSF 、一見ミスマッチな2大ジャンルをクロスオーバーさせたコミック原作ものである。タイトルで想像されるほどにはフザケてもいないし、弾けてもいない。もう少しユーモアがあるほうが個人的には好みだが、予想外に直球を投げ込んできた感じである。

ゴールド・ラッシュの波が通り過ぎて寂れたとある西部の町が舞台になっている。ある日、突然現れた謎の飛行物体に攻撃を受け、幾人もの人々がどこかに拉致されていく。恐ろしい事件に遭遇した街の人々や流れ者の犯罪者、近隣の原住民たちは、立場を超えて一時的に団結し、資源の略奪と人類の殺戮を目的とする異星人たち立ち向かっていく、という話だ。

こういうたぐいの話では、ジャンルの衝突もさることながら、当然、「圧倒的なテクノロジーを持つ敵」と、「原始的な武器しか持たない人類」との対比が面白さの源泉である。常識的には圧倒的に不利な立場であるものたちが、「知恵」なり「勇気」なりを武器として相手の弱点(ここでは「光に弱い」ことなど)をついて戦い抜き、確立論をひっくり返すところにカタルシスがうまれる、それがエンターテインメントにおける王道というものだ。

しかし、この映画では、それができていないんだな。致命傷といっていい。死ぬほどたくさんクレジットされているストーリー&脚本担当者の誰の責任かは知らないが、これにOK出しちゃいかんよ。

敵に直接対抗できるのは、結局のところ、主役のダニエル・クレイグが腕に装着している敵由来の兵器だけなのである。あとは戦術もなにもない。ともかく力づくで戦うだけっていうのだから、これじゃあ、面白くなりようがない。相手が宇宙人でなくてもいいんじゃないのか、あるいは、西部劇でなくてもいいんじゃないか、という感想がよくきかれるが、でてくる理由は、そこにあるミスマッチ感やテクノロジー・ギャップを活かしたお話作りができていないからであろう。

敵は単なる資源泥棒で、資源を奪うためにはその星の住民を滅亡させることを厭わない、かなり単純な「絶対悪」として描かれている。終盤、主役に恨みを持つ個体が登場する場面を例外として、個性も何もない平板な描写。別に、敵が資源を略奪せざるを得ない哀しい事情を描けとは言わないが、もう少し興味を持てる描写があってもいいだろう。

それに比べると、人間側はわりと丁寧に描かれていて、中心的キャラクターのみならず、脇役にいたるまでキャラクターが立っている。このあたりは、j脚本だけでなく、これまでの作品でも見せてきたジョン・ファブローの演出による部分も大きいだろう。ハリソン・フォード扮する町の実力者が、ストーリーの進展と共にイメージが変わっていくところなどはなかなか見事なタッチで描かれていて、きちんと伝統的なドラマが成立しているのが泣かせる。ヒロインのオリビア・ワイルドが、『トロン・レガシー』のときの魅力はどこへやらといった感じで残念だった。

10/29/2011

Source Code

ミッション:8ミニッツ(☆☆☆★)


郊外からシカゴのユニオン駅に向かう通勤列車で爆破テロ事件が発生した。犯人は次なるターゲットとして市街地での大規模テロを画策しいているらしい、犯人につながる手がかりを見つけるため、主人公である陸軍大尉が意識だけ飛ばされるのは、事故の犠牲者の脳内に残された最後の8分間の記憶を元に再構築された世界である。分けも分からないまま、指示されるがまま、8分後に爆死することが確実な状況を何度も何度も繰り返すのだ。

騙し、騙される話ではないので、日本での宣伝文句通りに、「騙される」かどうかは別にして、確かに色々な映画を見てきていると、これまた『ふくろうの河』や『ジェイコブズ・ラダー』なんじゃあるまいな、などと、余計な想像をふくらませてしまうのもまた事実であろう。SF風のサスペンス・ミステリーとして幕を開ける本作は、しかし、そういう掟破りの方向には転がっていかない。

物語が進むに連れ、映画の中のルールが明らかになっていく。主人公の置かれた立場と、ミッションを可能にする仕組みについて曖昧なところを残したままではあるが、幾度かの試みを繰り返し、失敗を繰り返すうちに犯人の手がかりに迫っていく。しかし、同時に、主人公にとっての「現実」の持つ意味がだんだんと重くのしかかっていくようになる。

この映画の面白さは、そこに至るまでの手綱さばきが見事で、観客を飽きさせないところにもある。だがそれ以上に、主人公が自らに与えられた目的を超えて、自らの欲求を実現させようとする「ドラマ」にこそ、これを他にない、ユニークで感動的な要素があるのだ。死者の脳内に残された最後の記憶を超越して膨らんでいく、いってみれば、「もうひとつのリアリティ」、別の可能性に主人公が求める救いに、胸を打たれる。まあ、確かにそういう話になるとも思ってはいなかったから、嬉しい驚きだったといってもいい。

主演は、ジェイク・ギレンホール。思えばこの人は『ドニー・ダーコ』であり、『遠い空の向こうに』なのだった。不条理な世界に巻き込まれるのが似合うといったら失礼かもしれないが、それと同時に、物静かだが誠実な人柄と、少しばかりの狂気、諦めない勇気ある行動力。過去の作品からそういうイメージを引きずっている彼は、本作の主人公にぴたりとハマっている。ヒロインはミシェル・モナハン。いつも添え物的な扱いが多い彼女だが、今回はなかなかいい役柄だったのではないか。主人公をミッションに駆り立てる側に立つのがヴェラ・ファーミガとジェフリー・ライトだ。もちろん他にも登場人物はいるが、主要なのはこの4人で、比較的にこぢんまりした作りの映画ではある。

本作の監督は、かつて「ゾウイ」などと奇天烈な名(キラキラ・ネームの先駆けw)を付けられた、デイヴィッド・ボウイの息子、ダンカン・ジョーンズである。なかなか達者な腕前で、複雑なパズルのような作品を組み立ててみせる。評判を呼んでいた前作『月に囚われた男』は残念なことに見損なってしまっているのだが、次回作が楽しみな監督であるのは間違いない。本作の舞台をNYからシカゴに変えるという判断も良かった。NYじゃ、さすがにエンターテインメントとして楽しむには重すぎるよね。

Rango

ランゴ(☆☆☆☆)


ガラス・ケースで買われていたペットのカメレオンがラスベガス近郊の荒野に投げ出される。生来の演技好きを活かし、偶然も味方して最寄りの町の保安官の座に収まるのだが、水資源をめぐる陰謀に巻き込まれたことで、本物のヒーローとしての資質を問われることになる。

CGIアニメーションによるウェスタン・コメディである。従来はドリームワークス・アニメーション作品の配給だけを手がけていたパラマウントが自ら製作、監督は海賊トリロジーで一山当てた実写畑のゴア・バービンスキーで、実際のアニメーション製作の担当は、ILM(インダストリアル・ライト&マジック)という一風変わった布陣である。

結論だけ先にいえば、この映画、大変面白い。ヒロインに魅力があればもっと良かったとは思うが、少なくともゴア・バービンスキー監督の最高傑作に間違いない。マカロニからSFから近作にいたるまで、様々な映画の記憶をさらりと織りまぜつつ、一本筋の通った物語を語ってみせて、大人をこそ楽しませてくれる。

関西弁が出てくる変なヘンテコ字幕には閉口したが、オリジナル音声で広く公開してくれたことだけは評価したい。(ほんと、アニメになると、どれだけ有名な役者が声を演じていようが、なんでもかんでも吹替版ばかりになってしまう風潮には怒りを感じるよね。)

主人公のカメレオンをジョニー・デップが演じていることが喧伝されていたので、てっきりロバート・ゼメキスの諸作や、ゴラムや猿、アバターなどと同じく、「パフォーマンス・キャプチャー」方式で演技をコンピュータに取り込んだのだと思っていたが、それはどうやら間違っていたようだ。舞台裏を見ると、衣装や小道具を持った役者たちに演技をさせながら声を録って、その演技を参考にしながらアニメーション製作を行ったということのようだ。

そうはいっても、カメレオンの動きは確かにジョニー・デップそのものの演技のように見える。このさじ加減が実に面白い。この映画の製作プロセスのおかげで、実際の人間の演技に縛られてアニメーションとしての本来の面白さを失いがちな「パフォーマンス・キャプチャー式アニメーション映画」とは一線を画すことができたようだ。その一方で、役者たちの特徴的な動きや演技、感情を、アニメーターの解釈というフィルターを通してアニメーションに反映させることで、キャラクターに絶妙なかたちで「命」が吹きこまれている。そこには、アニメーションとしたの楽しさ、面白さがあるべき姿で息づいていると思う。

また、実写畑の監督によるアニメーションという意味では、近作にザック・スナイダーの『ガフールの伝説』があったが、本作のほうが「俳優たちの演技を演出」する余地が大きいんじゃないか。そうだとするなら、実写の監督がプロジェクトの指揮を執る意味も大きいような気がする。

主人公たるジョニー・デップばかりが話題になるが、ネッド・ビーティ演じる亀の「町長」も、ビル・ナイが演じるガラガラヘビも素晴らしい。特に蛇はリー・ヴァン・クリーフをイメージして創りだされたときくと、なるほどね、と思うが、尻尾がガトリング銃になっているというアニメ的な誇張が楽しく、ビル・ナイが特徴的かつ迫力満点のセリフ回しでこれを演じているから、もう最高だ。また、ティモシー・オリファントがワンシーン、ある人物のモノマネをやっているのだが、これも思わず本人?と思わせるほどの「聞き所」になっている。

数々の実写映画でVFXを担当してきたILMゆえに、背景等の作り込みは実写映画に近い写実的な雰囲気である。『WALL/E』、『ヒックとドラゴン』に続き、ヴィジュアル・コンサルタントとして実写のカメラマンであるロジャー・ディーキンスも参画しているから、画面の雰囲気や見せ方は、そういう意味でもアニメである前に「映画」である。そういう意味でもなかなかに見応えのある1本だといえるだろう。

10/23/2011

Rise of the Planet of Apes

猿の惑星 創世記(ジェネシス)(☆☆☆★)


もうね、猿、猿、猿なんだ。ゴールデンゲート・ブリッジでの攻防は、考えてみればスケールが大きいとはいいかねるんだけれども、大変に盛り上がるクライマックスではあった。上出来の娯楽映画。

『猿の惑星』の前日譚というか、『猿の惑星・征服』のリイマジネーション版というか、『猿の惑星』フランチャイズを、エピソード0からリブートする試みみたいなもの、といったところだろうか。過去の『猿の惑星』シリーズへのオマージュはあるが、直接の前編・続編ではなく、スタジオ介入とスケジュール&予算問題で当初構想通りに作ることができなかったティム・バートン版とも関係ない、新しいシリーズの開幕である。これ1本でも完結しているが、なにがしかの続編を作るだけのネタと伏線はいろいろあることだし、これだけヒットしたんだから、続きを作らないという手はないはずだ。

この企画が上手く入った理由の一つは、第1作のリメイクでもなく、直接の前編・続編でもなく、まるで「バットマン」や「スーパーマン」が違う作り手によって何度でも再生されるが如くのやり口で、現代を舞台に「フランチャイズ」としての新しい起点を打ち立てたことにあるだろう。もうひとつは、ロバート・ゼメキスやピーター・ジャクソン、ジェームズ・キャメロンらが取り組んできたパフォーマンス(エモーション)・キャプチャーとCGI 技術の成熟によって着ぐるみや特殊メイクでなく、ただのCGI アニメでもなく、猿に人間の演技と感情を吹き込むことが可能になったことだ。

話自体はそれほど工夫があるわけでもなく、ベイ・エリアだけで展開される物語のスケールも小さい。が、あるべき要素があるべきところに収まり、観客が無理なくアンディ・サーキス演じるチンパンジーの「シーザー」に感情移入できる流れを作っただけで、これだけ面白い映画になるというのがある意味でとても興味深いことだと思う。敢えて逆説的にいえば、「猿の惑星」といいながら、無理なくストーリーを語れる範囲、「猿のサンフランシスコ」で話を止めたことが良かったのだろう。ラストシーンは、その先に待っている世界を想起させるのに十分である。

演技については、ともかく、本人の顔は見えなくとも「ゴラム」、「コング」に続くはまり役(というのか?)を得たアンディ・サーキスが全てではあるが。こういうのは演技賞ではどう評価されるのだろうか。一応、エンドクレジットのトップに名前が上がってはいるのだが。

ジェームズ・フランコ演ずる(人間側の)主人公は、あまり賢そうな科学者には見えないが、実質的に脇役だと思えば、こんなんでもOKだ。この男、アルツハイマーの父親への強い思いから、結果として投与された猿の知性を加速させる新薬開発にのめり込んでいったという動機が与えられているのだが、この「父親」役に、久しぶりにスクリーンでお目にかかるジョン・リスゴーというキャスティングが嬉しい。なにせ、この人はかつて『ハリーとヘンダスン一家』で毛むくじゃらの「ビッグフット」と異種交流を温めた張本人だから、やはり何かの縁があるのだ。トム・フェルトンは「ハリポタ」を離れてもなお憎々しげな小悪役とはお気の毒だが、それはそれ、観客の中にあるドラコ・マルフォイの記憶をなぞった効果的なキャスティングではあっただろう。

10/22/2011

Captain America: The First Avenger

キャプテン・アメリカ ザ・ファースト・アベンジャー(☆☆☆)


ジョー・ジョンストンは勘違いをしない。いつだって分をわきまえた娯楽映画を撮る。古くは『ロケッティア』、『ジュラシックパークIII』、そして近作『ウルフマン』。どれも、お腹がいっぱいになるような超大作ではない。でも、期待すべきものが何なのか"分かっている"観客を、きっちり楽しませる真っ当な娯楽映画だ。マーヴェルが「アベンジャーズ」映画化に向けて着々と進めてきた前座作品群のなかで最後のピースとなるこの『キャプテン・アメリカ』もまた、そんな1本だ。題材を思えば、上出来なんじゃないか。

舞台は第二次世界大戦期。ナチス・ドイツが欧州を席巻し、孤立主義を捨てた米国が重い腰を上げて参戦したころだ。ヒトラーが砂漠で(たぶん)「失われた聖櫃」を探していた頃、北欧神話の主神オーディン由来ということになっているオカルト・アイテム(=コズミック・キューブ)を捜すナチスの特殊科学部門転じた「ヒドラ党」を敵に、レトロ風味の戦争冒険活劇という体裁になっている。

さりげなく(ジョー・ジョンストンが特撮で参画した)『レイダース』を匂わすあたりがナイス、オカルト・アイテムつながりで『マイティ・ソー』、そして来るべき『アベンジャーズ』と接点をもたせるはクレバーなアイディアか。

映画の送り出し手、作り手として考えることは、この現代、世界中の人々が嫌な気分にならずに楽しめる作品にすることだろう。だいたい、キャプテン・アメリカ、とその名を聞き、星条旗モチーフのコスチュームを見ると、誰だって胡散臭いものを感じてしまう。国家の価値観を体現する尖兵か、と。

この映画では、「国」の思惑で作られたキャプテン・アメリカだが、その存在を国やその政策と一体不可分のものではないと、明確に一線を引いてみせたところが良いと思う。

主人公は盲目的な愛国者などではなく、「友人や仲間思いで、正義感のある高潔な精神の持ち主」である。そんな彼が、政治家の売名行為につきあわされて戦時国債の拡販に利用されるという描写は、本作で最も重要なところだ。そこにイーストウッドの『父親たちの星条旗』が被って見えたとしても偶然ではない。そんな「作られた(失意の)ヒーロー」が、損得や誰かの命令でなしに、敵地に囚われた友人や仲間の救出に乗り込んでいくことで「真のヒーロー」になるというストーリー・ラインは感動的ですらある。

敵の設定にも気を使っている。そりゃあ、いくら第二次大戦を背景にしていても、星条旗男が他国の軍隊を蹴散らすというような話では、あまりよろしくない。だから、直接対峙する相手は、ナチスの一部門といえど、「異形の姿となった悪の首領と、それに従う秘密結社」なのだ。その首領が「レッドスカル」などという名前の「赤ドクロ」姿だというのだから、馬鹿馬鹿しくもあるが、昔懐かしき活劇の世界だ。「ハイル・ヒドラ!」の両手上げポーズの間抜けさがそれに止めを刺す。これは、そういう作品として楽しんでくれということだろう。

主人公のキャラクターによるところもあるが、ヒロインとのプラトニックなロマンスも古風でロマンティック。アクションはことさら派手ではないが、見せ方はこなれていて危なげない。美術がなかなか頑張っていて、時代の雰囲気にコミック調の意匠を上手く馴染ませている。3D効果はあまり感じられないが、シールドが画面から飛んでくるところだけは大迫力であった。

「最後のピース」であることも手伝って、マーヴェル他作品とのつながりが数多く登場し、「予告編」で幕を閉じるのだから、なんか釈然としないものを感じる向きもあるとは思うが、同シリーズのなかでも他とは違った個性、他とは違った雰囲気を打ち出していて、これはこれとしての新鮮な楽しさがある。「冷凍になっていました」で、東西冷戦時代を、もしかしたら対テロ戦争すらも飛び越してしまう力技には笑った(都合のよろしいことで)。しかし、「アベンジャーズ」とは別に続編の企画もあるのだろうが、現代を舞台にすると本作独特の面白さは消えてしまうのではないかと心配になる。さて、どうするか。

10/14/2011

Green Lantern

グリーン・ランタン(☆☆)


上映終了間際にガラガラの映画館に滑り込んで見た。一応、ここのところ『カジノ・ロワイヤル』、『復讐捜査線』と好調なマーティン・キャンベル監督の新作ながら、Time Magazine の "Top 20 Worst Summer Blockbusters" に選ばれたっていうんだから、それがいったいどんな出来映http://www.blogger.com/えか気になるじゃないか。

件の20本のうち、既に18本までを劇場で金を払ってみている当方としては、そこにもう一本加わって19本になるというオマケまでついてくるわけで、これを見逃すわけにはいくまい。

で、ようやく見ることのできた『グリーン・ランタン』。「スーパーマン」、「バットマン」の2大ヒーローを抱えるDCコミックの人気作品ときく。それ以上の予備知識がなかったからかもしれないが、こりゃ、驚いた。こいつは「スペオペ(=スペース・オペラ)」ではないか。

超文明を持つ種族がいて、宇宙を3,600のセクターに分割し、それぞれの中から選抜されたメンバーに意志の力を自在に操れる「パワーリング」を与え、宇宙の平和維持にあたっている。そんな設定だ。とっさに思いつくのは、スペース・オペラの元祖的な作品と位置づけられる「レンズマン」のアメコミ・スーパーヒーロー版といった感じである。全宇宙から様々な種族が集まるなか、地球人が原始的な種族としてバカにされているっぽいところも、たいへん面白い。

が、まあ、残念なことに、面白いのは設定だけで、映画はその面白さを活かすことができていない。

もちろん、「全宇宙的規模スケールの事件に巻き込まれ、次第に頭角を現していく主人公」の話に、ときおり、「異星人にスーパーヒーロー・セットを与えられてご近所の問題を解決するダメ男」(←パーマン)みたいな話が混じってくるのは良いとして、せっかくのスケールが小さいところ小さいところへと収束してくる話の作り方にしたのは失敗だろう。

だって、全宇宙の脅威と組織の総力をあげて戦う、といっていたのに、尖兵にされた不憫なダメ科学者を死に追いやり、不死の種族が転じた化け物を一人で太陽にぶち込んで燃やしてオシマイ、ってなんだよ、それ。

恋人はともかく、家族(兄弟や甥)、友人のエピソードは不要。既に一刻を争う自体が起こっているはずなのに、主人公をのんびりと訓練しているチグハグさ。あー、よくこんな脚本にゴーサイン出したよな。

画面中がCGIで埋め尽くされているのは作品の性質上仕方があるまい。ポジティブな面で考えれば、3D感は比較的よく出ていること、主人公のスーツを、物理的な衣装ではなく、CGIで表現するという目新しい手法の面白さか。主人公のライアン・レイノルズは、デッドプールを演じさせられた時よりはマシな扱い。ティム・ロビンス、ブレイク・ライブリー、ピーター・サースガードあたりまでは顔がわかるが、マーク・ストロングやティムエラ・モリソンは、それと知っていないとわかんないよ。

10/09/2011

Dear John

親愛なるきみへ(☆☆)


『メッセージ・イン・ア・ボトル』、『きみに読む物語』、『ウォーク・トゥ・リメンバー』、『最後の初恋』と、そこそこ安定した品質での映画化が続く、ニコラス・スパークス原作ものだが、『HACHI』の犬視点の回想で失笑を買って北米劇場未公開となったラッセ・ハルストレム監督の手で、またしても女性客搾取を目的とした泣かせ映画が作られた。本作、この原作者の映画化作品の出来映えとしては、ちょっと下のほうの部類じゃないか。

主演はここのところ主演作が続くアマンダ・セイフライド(配給会社によりサイフリッドとの表記もあって、そろそろなんでもいいから一本化が必要なんじゃないか。)この人が出ているというのは、その映画が「女性目線」で出来ているというフラグが立っているようなものであるというのが経験則のようなもんだ。

今回の話は、ある夏の日に出会った軍人と学生が、お互いに強く惹かれながらも一方は軍務へ、一方は学業へと戻り、1年後の再開を期しながら、手紙のやり取りを続けるというものだ。男のほうは任期が終わって除隊するつもりでいたが、911に引き続く「対テロ戦争」の戦場に仲間たちと共に向かわざるをえない状況になる。女にもいろいろな事情ができて、決意の末、別れの手紙を戦場に送ることになる。まあ、いかにもこの作者が書きそうな「運命」に翻弄される純愛と悲恋の物語だな。

しかし、この映画が描く「いい男」像の薄っぺらさはなんなのだろう。もちろん、このたぐいの女性搾取映画が描く男なんて、どれもこれも似たり寄ったりかもしれないし、それは男性目線で描かれる映画の即物的な女性像の裏返しに過ぎないということは重々承知しているつもりである。しかし、この映画の「男」、演じているチャニング・テイタムが気の毒になるくらいに、人間味が感じられない、プラスティック人形のようなキャラクターである。「純朴で誠実な好青年」という記号をそのままかたちにしたというのは分かる。が、これが脇役というならともかく、リード・キャラクターなんだから、もう少し何とかすべきじゃないのか。

アマンダ・セイフライド演じるヒロインは、ある意味でたいへん身勝手な女なのだが、そこはそれ、いろいろな言い訳が用意されていて観客の反発を買わない程度に上手く処理されている。このあたりが原作者がベストセラー作家で在り続けられる理由であろうし、ここにアマンダ・セイフライドをキャスティングする意味があるというものなのだろう。

主演のカップルの運命に、近隣に住む自閉症の少年の存在がかかわってくるのだが、それに呼応するように、男の父親が「軽度の自閉症」であるという設定が用意されている。まあ、物語の味付け程度の役割でしかないが、これを演じるリチャード・ジェンキンスが相変わらずの好演を見せてくれる。父親と息子をつなぐ接点におかれた「コインの蒐集」という趣味にまつわるエピソードは、悪くない。

10/08/2011

The Next Three Days

スリーデイズ(☆☆☆★)


フランス映画『すべて彼女のために』を、ポール・ハギスが脚色・監督・製作を兼ねてリメイクしたのが本作だという。殺人の容疑をかけられて収監された妻の無罪を信じ、脱獄させるために完璧な計画を練りあげて実行に移す夫の姿を描くサスペンス・スリラーだ。残念ながら、オリジナルは未見。ハギス版は舞台をピッツバーグに移しており、有事における米国の警備や捜査の挙動をとりいれたものになっている。主人公にラッセル・クロウ。その他、エリザベス・バンクス、ダニエル・スターン、ブライアン・デネヒーらが出演。

ちなみに、タイトルの「スリーデイズ」とは、妻が他の施設に移送されてしまうことが決まり、用意周到に計画してきた脱獄を実行するにはそれまでの三日間("The Next Three Days"=原題)に行動を起こすしかない、というところに由来する。映画は、それを起点に、いったん過去に戻ることでことの経緯を語り起こしていく構成になっている。

この映画、なかなか面白くできている。しかし、オリジナル作品ではなくてリメイクであるということ、名脚本家であり、監督としての評価も高いポール・ハギスがわざわざ手がける題材なのかどうか、ということで、割り引いて評価したくなってしまうのが人情というもの。本国での評価がまちまちであったのは、そんな理由もあるとは思うが、リアルに振った社会派ドラマなのか、現実離れした娯楽映画なのか、どちらつかずに見えるところも戸惑いのもとになってはいるだろう。

もちろん、非現実的な「娯楽映画」的プロットを、現実の脱獄計画の参考になりそうなほどにリアリスティックな描写を積み上げて描いているところが本作の面白いところなのである。これを実際にやってのけるには相当の覚悟と準備が必要だろうが、無理と断言はできまい(と思わせる)。しかし、一方で、主人公が「脱獄のプロ」に指南を求めるシーンなどは、リーアム・ニーソン演じる「脱獄のプロ」という存在の嘘臭さも含め、現実との乖離を感じさせられて、せっかくリアルに振って積み上げてきた映画の雰囲気を乱しているように思ったりもする。

まあ、そこでハッタリが効かない真面目な演出ぶりが、良くも悪くも監督・ポール・ハギスの限界なのであろう。細かな「リアル」を積み重ねるところまではいい。しかし、嘘のつき方が下手だなぁ、とは思う。脱獄のプロにせよ、ヤクの売人アジトへの殴りこみにしろ、こういう「非現実性」のハードルを、さらっと飛び越えるための算段が足りない。そもそも、ああいう役にリーアム・ニーソンなんかをキャスティングしたら、かえって胡散臭くなるんだがな。でも、一方で、「胡散臭い役柄で登場するリーアム・ニーソンを見る楽しみ」のようなものも確実にあるわけで、要は映画の立ち位置をどう見るかの差であろう。

ラッセル・クロウは手堅い演技。妻役のエリザベス・バンクスは出番が少ないとおもいきや、クライマックスに見せ場があって、なかなか良かった。主人公の父親役として登場するブライアン・デネヒーが、渋いところをみせてくれて嬉しかった。好きなんだ、この人。

10/02/2011

Hanna

ハンナ(☆☆☆)

物語は雪深く、世の中から隔絶された北欧の森の小屋における父と少女の暮らしで幕を開ける。父親は少女に、ありとあらゆる知識とサバイバル術を仕込んでいるようだ。何のために?ここではその理由を観客に明かさない。この二人には何やら計画があるようだが、それの目的も、全貌も明かされない。CIAが、この小屋から発せられた古い信号をキャッチしたとき、物語が大きく動き出す。

超絶的な身体能力とサバイバル術を身につけた少女がタイトルロールの「ハンナ」である。演じるのは、本作の監督ジョー・ライトが手がけた『つぐない』で注目され、『ラブリー・ボーン』の主演をつとめたシアーシャ・ローナンだ。演技ができる役者にアクションを演らせるというのも昨今のトレンドの一つであるとはいえ、これまたアクションというイメージからは遠い女優である。しかし、もちろん本作の場合、そのギャップが面白いところであって、ドラマの核心でもある。相当のトレーニングを積んだのだろう、体の動きもいいから、絵空事と白けてしまうこともない。

映画は少女がCIAに囚われ、脱出し、追手の手を逃れての逃避行を追うと同時に、別行動をとっている「父親」エリック・バナと、追跡の指揮をとるケイト・ブランシェットの様子を適宜挟み込みつつ、徐々に事の真相を観客に明かしていく構成になっている。観客に対して情報を小出しにするやり口は、一方でキャラクターへの感情移入を難しくするが、そこは役者の力でなんとかなるという読みもあるだろう。事情がわからなくても、とりあえず観客はシアーシャ・ローナンを応援するだろうし、「敵」としての貫禄たっぷりなケイト・ブランシェットは観客の憎悪の対象になるだろう。

しかし、スパイ組織を敵に回してのアクション・スリラーとは、監督ジョー・ライトの、これまでのフィルモグラフィを思えば不思議な選択だから、どんな映画に仕上がるかと不安半分ではあった。が、出来上がりを見れば、これまた器用なものである。リアリティのない物語に、昨今の流行に則ったリアリティ寄りでタイトなアクションと、最小限だが効果的なドラマ演出を絡め、キャラクターの力でストーリーを動かしていく。先にシアーシャ・ローナンの主演が決まっていて、彼女の強いリクエストで監督が決まったらしい。

エリック・バナが演じるキャラクターは少々印象が薄い。彼がハンナとは別行動を取る意味はわかるが、その行動そのものが物語の中で積極的な意味を与えられていない。極論、映画の冒頭で殺されていても大差がないようにも思う。この人の演技が巧いのはわかっているが、どちらかというと映画のなかで埋没してしまう損な役回りが多いよね。

音楽は数多くの映画に楽曲提供の実績があるケミカル・ブラザーズの名義になっていて、本作のためにオリジナルスコアを書いたということのようである。なかなか面白い音で映画の独特の雰囲気を醸成する一助になっている。ところで、映画の冒頭と最後に出てくる、赤地に白抜きのデカい文字で「HANNA」と出るタイトルは、ちょっと、ダサくないか?

10/01/2011

Fast Five

ワイルド・スピード MEGA MAX(☆☆☆)


シリーズでは1作目に次いで2番目に面白い。魅力のある敵役として(WWEのザ・ロックこと)ドゥウェイン・ジョンソンを投入するカンフル剤、ストリート・カーレースから犯罪アクションへと比重を移したフランチャイズの方向づけがうまく絡み、気楽に楽しめる娯楽アクション映画に仕上がった。3作目からシリーズを任されている監督ジャスティン・リンも、いくつかの勢力が入り乱れる物語を要領よく裁いてみせ、回を重ねるごとに腕を上げてきているようだ。

・・・で終わりにするのも何なので、雑談を。

これ、同じシリーズでも原題がいつも変化球なんだよね。

『The Fast and The Furious』からヴィン・ディーゼルのいない『2 Fast 2 Furious』はちょっと面白いアプローチだと思ったが、番外編的(で、現在、4,5,6?作目の後日談と位置づけられている)3本目は平凡に『The Fast and The Furious:Tokyo Drift』だ。このときは、このまま、サブタイトルをいれかえて、安いビデオ映画シリーズにでも仕立てていくつもりだったのかもしれない。オリジナル主演者のキャリアが傾いてきたのも手伝って、まさかの再集結となった4本目は仕切り直しっぽく定冠詞抜きの『Fast & Furious』ときた。

で、『Fast Five』だよ。

Five は5本目の「5」だとは思うんだけどさ。"Fast" っていうシリーズじゃないし。・・・まさか「早い5人」なのか?ヴィン・ディーゼルとポール・ウォーカーとジョーダナ・ブリュースターと、タイリース・ギブソンと、サン・カンで5人?死んじゃったヤツや、面白黒人は?ロック様は?現地の美人警官は?いったいどこまで数に入れてもらえるんだ?

国によっては、写真にあるように『Fast & Furious 5』なんだよな。やっぱり、わかりにくいもんな。

こうなると、興味の中心は6本目がどういうタイトルになるか、である。まさかのまさか、誰かさんの復活で「Fast Six」とかな。

ついでに、メガ盛り状態になってきた邦題もそろそろ限界じゃあるまいか。順当にGIGA MAX か。メル・ギブソンが客演したらMAD MAX とか(それはない)。

とまあ、なかなか豪快に楽しませてくれた本編には文句はなく、違うところが気になって仕方がないのである。

真面目な話、フランチャイズの可能性を広げるための判断として、ストリート・カーレースのカルチャーから少し距離をおき、大型犯罪アクションへと舵を切った映画会社の判断は、慧眼だったといえる。方向を変えるといっても、もともと「犯罪捜査の過程でミイラ取りがミイラになるという『ハート・ブルー』」の、「サーフィン」が「カーレース」に置き換わった焼き直しが原点である。だとすると、今回の方向転換は、原点回帰であるともいえるだろう。そこで、今や「家族」になっちゃったポール・ウォーカーに代わり、主人公らにシンパシーを感じつつも対立するポジションに、主人公らに負けない強力なキャストが必要になるのも必然だ。

その、新しい「強力なキャスト」に頭脳派ではなく、肉体派をもってきたんだから、そりゃ、頭は悪いけどドハデな体力勝負映画になるのもまた当然の帰結。へんにCGIでごまかさず、貴重なクラシックカーをガンガンぶっつぶし、街中破壊する。複雑で危険な撮影やスタントも多かったことだろう。そこから逃げなかった作り手の肝の座り具合が、本作の成功の鍵であったか。エンディング後におまけがあって、次回作への導入にしているので、見逃すことのないように。

The Man from Nowhere 아저씨

アジョシ(☆☆☆)


これは、あれだな。どっちかっていえば、韓国版『Man on Fire』なんだよな。ほら、デンゼル・ワシントン主演で『マイ・ボディガード』ってあったでしょ。話の構造はあれととてもよく似ている。本当はくたびれた男が演じたほうがよさそうな主人公を、「美男子」が演じるところまで似ているかもしれない。

過去を捨て、世捨て人のように生きている質屋の「おじさん(アジョシ)」。彼が唯一心を通わせた孤独な少女が犯罪に巻きこまれ、命すら危うくなったとき、彼の怒りが爆発する。かつて身につけた特殊工作員としての技能を発揮して壮絶な闘いに身を投じていくのだ。

ポン・ジュノの『母なる証明』で演技者としての実力をアピールしてみせたウォンビンが、ここでは娯楽映画のヒーローという分かりやすい役柄ながら、その内面に迫る好演で、一回り成長したところを見せてくれる。アクション・シーンでも体がよく動いていて、「特殊工作員という過去を持つ男」などという、映画の中だけで登場する嘘くさいキャラクターに、あの国ではあり得ないともいえないなぁ、などというリアリティを与えていて好印象。後半、短髪にすると顔立ちの良さが際立つ。

ところで、こういう映画では、敵となる犯罪組織が非人間的な外道であればあるほどに、盛り上がるものだ。相手のワルが際立てば、主人公(と観客)の怒りが増幅され、主人公の行う正義の鉄槌にカタルシスが生まれる。また、正義の鉄槌そのものが多少行き過ぎていたり残虐だったりしても、相手はもっとヒドイ奴らなんだから、それでいいのだと自己正当化もできるから後味が悪くならない。

そうした意味で、本作の悪人どもは、変な表現だけれども、本当に素晴らしいと思う。薬物密売にとどまらず、児童の監禁虐待と搾取、臓器売買と悪事のフルコースだ。もちろん、臓器を抜き取られて殺された死体とか、抜き取られた目玉とか、ビジュアル的にもインパクトが強い。もちろん、そこで好みは別れるだろう。が、これらは結果的に「殺されても仕方のない悪党ども」であることを印象付けるのに強く効いているのは否定できまい。

また、この映画、そういう悪事の全貌や関係者の複雑な関係を、比較的に分かりやすく交通整理してみせているところがなかなか上手いと思う。全く役に立たない警察連中の存在は、そうした構造を分かりやすく説明するためだと思えば納得が行く。

もうひとつ、主人公と対になる無口だが凄腕の殺し屋を敵方に配置している設定が地味ながらしっかり効いている。こういうのもジャンルの定番であってさして珍しいわけではない。が、互いの実力を認めあい、プロとしての意地をかけ、対等な立場でラストバトルに突入という展開が盛り上がらないわけがないのだ。作り手はなかなか分かっているなあ、とニヤニヤ笑いながら楽しませてもらった。

もちろん、時折見ているこちらをびっくりさせるような規格外の傑作を送り出してくる韓国映画としては、とりたてて誉めそやす傑作の部類ではなくて、ありふれた商品としての娯楽映画ではある。が、娯楽映画として、ありふれた設定を効果的に組み合わせ、きちんと面白い映画に仕立て上げられる実力は侮れない。作品背景に、彼の国ならではを感じさせる要素がコンテクストとして入り込んでいるところも面白い。脚本・監督イ・ジョンボム。日本の、TV局が製作して垂れ流しているようなメインストリームの娯楽映画に、せめてこの程度のレベルを求めることは無理な話なのかね?

9/17/2011

Battle: Los Angels

世界侵略:ロサンゼルス決戦(☆☆★)

映画の冒頭で "World Invasion: Battle Los Angels"とタイトルが出るのは、これが世界公開タイトルということ?

異星人の同時攻撃によって世界の主要都市が次々に陥落。LAでは主導権を取り戻すための空爆が計画され、空爆エリア内に取り残された民間人の保護を命じられた海兵隊の一部隊が、困難な状況で奮闘する話である。大きな事件を俯瞰的な視点ではなく、ミクロ視点で描く昨今の流行に則った作りの「戦場映画」である。主人公らの部隊の活躍により、反転攻勢への糸口をつかんだところで映画の幕が閉じる。

かなり、FPS(ファースト・パーソン・シューティング)のゲームのような雰囲気の映画である。ミクロ視点に寄せるとは、究極のところは主人公なりなんなりの主観映像になるということだろう。それはそれでよいのだが、同時に、自分たちがどういう状況に置かれているのかという俯瞰マップを用意する親切さがあれば、ゲームとしてはプレイしやすくなるだろうし、映画としてはサスペンスを醸成し、より効果的に、ドラマティックに物語を語ることができただろう。

物語としては、海兵隊の主人公らが警察署に残された民間人を救出、空爆予定エリアの外に脱出し、前線基地に辿り着くというミッションを軸に物語が構成されている。こういう話は、それぞれポイントのなる場所の位置関係を上手に示し、観客の頭の中に地図を作ってしまうことが重要だ。空爆エリアがどこで、主人公らの現在地がどこで、警察署がどこにあり、空爆エリア脱出のためにどういうルートでどこに向かう必要があり、前線基地がどこにあるのか。そういったことである。

この映画では、作戦開始前に空爆エリアや他の部隊の展開場所などを説明する地図が短時間画面に映るので、作り手がこうしたことを全く考えていなかったわけではないと思われる。が、それ以降、観客と位置関係をシェアできるような演出はほとんど存在しない。

そうはいっても、民間人が同じビルのなかで右往左往するだけだった『スカイライン 征服』に比べるとはるかに「映画」としての骨格がしっかりしているので、単調だと入っても見ていられる。まさかこういう映画で主役を張るとは予想外だった『サンキュー(for)・スモーキング』、『ダーク・ナイト』のアーロン・エッカートが、現場叩き上げの指揮官を熱演し、海兵隊宣伝映画としては十二分に役割を果たしている。

9/10/2011

探偵はBARにいる

探偵はBARにいる(☆☆★)

『相棒』・『ゴンゾウ』の古沢良太脚色、『相棒』・『臨場』の橋本一監督というテレ朝水曜枠で楽しませてくれている面々が手がける劇場用新作だというので、せっかくだからと思って東映東京撮影所のある大泉に足を運んだら、最大キャパシティのスクリーン1での上映。さすが東映製作・配給作品、気合が違う。この映画は、東直己の「ススキノ探偵シリーズ」を原作にしているんだそうだが、ごめん、読書家ではないので存在すら知らんかった。

札幌はススキノのバーを根城にしている腕利きとも思えないハードボイルド気取りの3枚目探偵に大泉洋、その相棒に松田龍平、主人公をかきまわすヒロインに小雪、その他、西田敏行、田口トモロヲ、高嶋政伸、竹下景子、石橋蓮司、などなどの出演。

まあ、昭和の感覚でいえば二本立ての1本っていう感じの商品だね。それはそれで悪くないと思うんだけど、するってーと本編の上映時間125分はちと長いんじゃないのかね。90~100分(TVの2時間枠で放送するドラマ相当)でまとまっていたら良かったのにな。

依頼人からの軽い仕事を引き受けたつもりの探偵が警告を受けるかのように半殺しの目にあったことから、頼まれてもいないのに真相を色々嗅ぎまわり、次第に過去の殺人にまつわる事件の全貌が明らかになっていくという筋立て。

映画を見ていて不思議に思ったのは、依頼人が主人公に依頼した幾つかの「仕事」そのものにあんまり必然性がないんじゃないかということ。映画を見る限りでは、依頼人にとって自明のことばかりで、探偵を使って「確認」する意味がないように思われる。

仮にそうだとすると、今度は、依頼人にとっては第三者を事件に巻き込み、真相を知ってもらうことに意義を感じていたという解釈も成り立つ。が、それならそれで、依頼人が探偵にろくに説明をするでもなく、思わせぶりに翻弄することの意味が無い。ま、もちろん、こういう話では、主人公を思わせぶりに翻弄する美女がいなけりゃはじまらないっちゃあ、はじまらない。ジャンル特有のお約束ということで納得するしかないかもね。

不思議といえば、主人公たちが、写真を引換に田口トモロヲから金をもらうシーンがあるんだが、あれはトモロヲからの依頼で写真とデータを誰かから取り戻したのだろうか。カネのため、生活のため、主人公自らこっそりああいう撮影して恐喝するようなダーティな仕事もしているという描写なんだろうか。いや、おそらく前者だとは思うんだけど、後者に見えなくもないんだよね。ここは誤解のない描き方をしないと、主人公のキャラクターに関わる問題だと思う。

大泉洋演じるキャラクターには全くそそられず。なんかうるさいし。無能だし。少しは腕っぷしがきくのかもしれないが、「探偵」としての有能さを感じられないんだよね。ただし、暴行・乱闘シーンにせよ、雪に埋められるシーンにせよ、体を張って演じているところには好感をもった。ススキノのローカル・ヒーローという設定からも、現時点で他の役者は考えにくいのはわかるので、他の誰かのほうが良かったとまでは云わない。役者はこれでいいから、このキャラクターについて、「やるときはやる、やればできる子」なのか、「意地と根性と人間味はあるけど、仕事については単にダメな子」なのか、はっきりさせたほうがいいだろう。

次から次へと妙ちきりんなキャラクターが登場するので、こういうのはレギュラー化して回を重ねたら面白くなる要素かと思う。パイロット版としては及第点、TVでもなんでもいいから続編を作って練りこんでいけばいいんじゃないのかな。あと、高島政伸がアラン・リックマンみたいに変装して悪役を演じていたのでびっくりした。この人、こういう役もやるんだね。

8/27/2011

Reign of Assasins 剣雨

レイン・オブ・アサシン(☆☆☆)


ジョン・ウーの新作と喧伝された本作だが、あんまり盛り上がっていない。よくよく聞いてみれば、脚本・監督はスー・チャオピン。ジョン・ウーは製作。ただ、共同監督のクレジットで監修やアクションの撮り方の指南をした作品なのだそうだ。(実際に演出したのは娘が登場するシーンだけだとか。)主演のミシェル・ヨーがワイヤーで宙を舞い、剣がしなる武侠アクションだ。共演は韓国から、チョン・ウソン。

舞台は明の時代の中国。手に入れたものが強大な力を得ると云われる「達磨大師」の骸の強奪をめぐり暗躍する影の暗殺集団。そして、その組織を抜けた凄腕の女剣客。女剣客は過去を捨て、顔まで変えて、市井で静かに生きる道を望んだが、彼女に恨みを持つものや、達磨の亡骸を捜す組織配下のものたちがそれを許さない。彼女の正体を見破った暗殺者たちが身辺に迫る。

自らが大切にするものを守るため、一度は封印した剣を握り、望まない闘いに再び身を投じていくことになるヒロイン。そして、自らの暗い情念と慾望を満たすために配下の暗殺者集団を動かす悪の頭領。そこにヒロインに対する個人的な恨みをもったものや、ヒロインの後釜を埋めた勝気な女刺客、武術だけでなく奇術にも通じた男など、個性豊かな剣客たちも絡む。愛のためその身を捨てて血路を開く、クライマックスの大アクションは、さすがにただのアクションに終わらず、エモーショナルである。

主人公の女剣客は、最初は台湾のケリー・リンが演じているが、「整形」によって「ミシェル・ヨー」になる。そんな事情もあって、ミシェル・ヨーになる前のパートにはあまり時間を割きたくなかったのかもしれない。本来であれば、冒頭に置かれた達磨大師強奪のエピソードはもっと大々的に描かれても良いと思うが、ストップモーションなどを使ったキャラクター紹介程度の扱いになっていて少し残念だ。また、彼女が過去を捨てるきっかけとなる出会いには、もうすこし説得力が欲しい。

ミシェル・ヨーは、年を重ねてもなお素晴らしいアクションを見せてくれるのだが、それ以上に、ドラマを演じられる素晴らしい女優でもある。本作の中盤で、冴えない男を演じているチョン・ウソンと関係を深め、夫婦として平凡な生活を送ろうとするシークエンスで彼女が醸しだす佇まいが素晴らしい。「アクション」を期待した観客にとっては、思ったより長い中だるみに思うかもしれないが、それを踏まえるからこそ、クライマックスが盛り上がるのである。

アクションシーンの振り付けは流れるダンスのごとく美しく、素早く、力強い。監修とはいえ、そのあたりにジョン・ウー的なセンスが感じられる。主人公の使う剣術は、剣がしなって相手の急所を突くというもので、これがビジュアル的にも面白い。ライバル的に登場するバービー・スー演じる女剣客はとても面白いキャラクターなのだが、これからというところであっさり退場させられてしまい少々もったいなかったかもしれない。

8/20/2011

Shanghai (2010)

シャンハイ (☆☆)


日米開戦前夜の上海を舞台に、新聞記者を装い同僚の死の背景に迫ろうとする米国諜報部員が、死の鍵を握る女の存在に迫ろうとするうち、抗日レジスタンス活動とそれを弾圧する日本軍の緊張関係の中に巻き込まれていく。ワインスタイン・カンパニー製作、『1408号室』の監督・主演コンビであるミカエル・ハフストロームとジョン・キューザック、主人公の上官にデイヴィッド・モース、独の友人にフランカ・ポテンテ、中国裏社会のボスにチョウ・ユンファ、その妻にコン・リー、日本軍将校に渡辺謙、その情婦に菊地凛子。スウェーデン出身監督が米中日のキャストを束ねるという不思議な企画である。

これは史実に埋もれた事実をあぶり出すポリティカル・ミステリーとかサスペンスの類ではなく、ハードボイルド風のメロドラマである。それがたまたま1941年の上海という、とても魅惑的な舞台で展開されるというわけだ。

「探偵役」となる主人公は、殺された同僚が日本軍将校の情婦に接近し、何らかの大きな動き、すなわち、真珠湾攻撃に向けて着々と準備を進めている日本軍の機密情報を収集していたらしいと突き止めていく。ただ、殺しそのものは、結局、全て個人的な愛憎ゆえという、「驚愕」というよりは、むしろありがちな「真実」にたどり着く、という話である。

殺された同僚が、表向きの中立を保つ米国の立場を超えて日本の機密に関わる諜報に深入りしていたという話は、物語の最初から仮説として提示される。さらに、失踪した鍵になる女「スミコ」が日本人であることもあって、捜査のプロセスそのものに「ミステリー」はほぼ、ない。そのかわり、捜査のプロセスで知り合った魅力的な「レジスタンスの女」に肩入れすることで、複雑な人間関係の渦中に巻き込まれていくことになるのである。これもまた、定型通りといっても良い展開だろう。

主人公を演ずるジョン・キューザックは、監督とは前作で組んで気心が知れているというのも起用の理由だろう。彼が一生懸命背伸びをしてハードボイルドを気取っているところは微笑ましくも思うのだが、ちょっと本作を背負うには少々弱いキャスティングではなかったか。陰謀渦巻くなかでの米国の門外漢的な立ち位置、あるいは、ナイーヴさを象徴しているようにも見えるし、情にほだされやすく、純で甘っちょろい面を感じさせる意図もあろうかとは思う。しかし、コメディでもない限り、キューザックがプロフェッショナルな諜報員というのは、俄に信じ難い。それはさておいても、チョウ・ユンファ、コン・リー、渡辺謙といったキャストに囲まれると、そこは役者としての格の違いが出てしまう。

他のキャストでは、チョウ・ユンファは久々に彼に似合ったいい役であるし、見せ場もある。渡辺謙もストイックなイメージを逆手に取って、悪役ながら魅力的な役柄だ。日本で宣伝に駆り出されている菊地凛子は鍵になる情婦の役だが、出番は少なく、アヘン中毒で毛布をかぶって震えているだけ。本作のヒロインは、日本軍に協力する夫を持ちながら、裏でレジスタンス活動を支援するコン・リーで、さすがの美貌と存在感ながら、主人公を翻弄する「運命の女」としては妖しい魅力にかけているように思う。

上海での撮影許可を取り消され、急遽バンコクに建てたという巨大なセットがなかなか壮観で、作品の雰囲気を補強している。作品の性格上、夜間であったり、暗所でのシーンが多いため、せっかくのセットを堪能するまでには至らないのが少々残念である。ミカエル・ハフストロームの演出は、脚本に盛り込まれた複雑な要素を交通整理しながらストーリーを進めるのが精一杯の様子で、あまり余裕を感じられない。まあ、キャリアでも最大規模の作品で、しかも、製作過程で遭遇したトラブルのことを思えば、作品としてまとまっているだけでも立派なものだと云うべきなのかもしれない。

8/15/2011

The Mechanic

メカニック(☆☆☆)


続編希望、としておきたい拾い物である。

『狼よさらば』のマイケル・ウィナー監督&チャールズ・ブロンソン主演コンビによる1972年作を、同作のプロデューサーであるアーウィン・ウィンクラーとロバート・チャートフのそれぞれの息子、デヴィッド・ウィンクラーとビル・チャートフがプロデュースした本作。今回は『コン・エアー』でデビューしたサイモン・ウェストが久々の監督、主演は、いまやアナログ系なアクション映画の顔と言っても過言ではないジェイソン・ステイサムだ。

正確無比な仕事ぶりの殺し屋が、恩人であり友人でもある男の殺害依頼を発端にして、私怨で反撃をしていくことになる。そこに、恩人の忘れ形見を弟子として育てていくエピソードが絡み、避けられぬ師弟対決へと突入していく。

タイトルの「メカニック」、というのは、正確無比な仕事をする主人公ら、殺し屋を差していう言葉である。主人公に対する仕事の依頼が、ウェブサイトの「メカニック求む」という求人欄に流れているのが笑いどころかもしれない。

さてこの映画、なんといっても、複数の殺しのアサインメントを重ねていく構成が小気味良い。冒頭、主人公のプロフェッショナルぶりを見せつける仕事があり、ドナルド・サザーランド扮する友人を抹殺することとなる仕事があり、弟子の免許皆伝のための同業者殺害があり、2人で組んでカルト宗教の教祖の抹殺がある。これら一つ一つ、シチュエーションが異なり、殺し方が異なり、バラエティに飛んでいる。本題となる組織への反撃や師弟対決は、それらひとつひとつのステージをクリアしたあとの話だ。

サイモン・ウェストの過去作には『コン・エアー』、『将軍の娘』、『トゥームレイダー』等がある。どれも刺激的な映像を編集でつないでごまかしているだけという印象で感心したことがなかったのだが、本作の仕事ぶりはひと味違う。ビッグバジェットのイベント的映画という重圧から解放されたか、体脂肪率の低い脚本ゆえか、無駄のない筋肉質の演出で盛り沢山な内容を93分にまとめる職人ぶり。これを見ると、次回作に決定した『エクスペンダブルズ2』への期待も高まろうというものだ。

弟子を演ずるベン・フォースターのへたれぶりと、組織のトップを演ずるトニー・ゴールドウィンの卑怯者っぷりは、過去の作品等のイメージによる先入観を裏切らない。見た目だけで説明不要というキャスティングは、この手の映画では重要なことだと、改めて感じさせられた。

Tree of Life

ツリー・オブ・ライフ(☆☆☆★)

Way of Nature か、 Way of Grace か。

ショーン・ペン扮する中年男が自らの少年期を回想するホームドラマというのであれば、誰にでもわかりやすい映画になるんだろう。が、宇宙、生命の誕生から説き起こす、生命の歴史とその行く末の中に、一家族の歴史における一断面を配置してみせるという大胆な構成によって、何か全く別の、敷居の高い作品になっているのは事実である。

こういう映画を全国津々浦々のシネコンに拡大し、騙すようにして観客を動員する手法は、最終的に誰も幸福にはしないだろうと強い危惧を覚える。ここ最近のテレンス・マリックの作品の中でも最も抽象度が高い作品である。

それはともかくとして、この映画は結局のところなんなのか。要は、行き詰まった世の中を、具体的な事象として家族のドラマ(説話)に代表させると同時に、その原因を、生命の誕生以来連綿と続く、あるがままの欲望に支配された 「Way of Nature」というあり方に求め、「個」を超越したより大きな世界観において「Way of Grace」を実践することでしか高次の段階に進むことができない、という悟りに導かんとする映像説法のようなものなのだ、と思えばよかろうか。

えー、「我欲を洗い流す」って、くそったれの石原某みたいで気に入らないのだけど、まあ、ある程度そういうことだろう。

ヨブ記などを持ちだしてくるからキリスト教的世界観に基づくものと誤解をしがちだが、だいたい本作の作りからして進化論が土台になっているのだから、そういう思い込みはよくないだろう。むしろ、 より根源的で普遍的に、今日を生きる困難や不幸と対峙するための思考を提示しようとしているはずである。

ホームドラマ・パートでの、素人子役を含む役者たちから演技を引き出してフィルムに定着させる力、なんでもない風景を魔法がかかったように美しく切り取る撮影、流麗な音楽に乗せて的確につないでいく編集のリズムとセンスは超絶的に素晴らしく、さすが、マリックだと思わせる。これは、映画館の暗闇で、最高の上映コンディションで鑑賞する価値があるフィルムである。まあ、あまりの心地の良さに眠気を誘われる可能性も高いので、万全の体調で望む必要があるのはいうまでもない。

それ以外、というか、天地創造パートとでもいうべきところは、およそ30年ぶりにダグラス・トランブルを引きずりだして作られたオールドスタイルの特撮も含んでいる。提示されるイメージ自体に新規性や驚きはないのだが、むしろ、これらの一連のシーンを、ネイチャー・ドキュメンタリーと同じレベルに感じさせる見せ方と、さりげないクオリティの高さであろう。

また、これはフィルムの出来栄えとは違った次元の話ではあるのだが、本作が『2001年宇宙の旅』を手がけた「特撮の神様」トランブルの参画を得たことは、本作が件のキューブリック作品に比肩しうるテーマの大きさを内包した作品であることを象徴的に物語っているようにも思われる。そういうことを考え始めると。「ドナウ」に対抗して「モルダウ」だったのか、などと、選曲ひとつについても深読みをしたくなったりする。もしかして、本当にそうなのか?

『シン・レッド・ライン』のように、美しい映像に延々と登場人物の内面を語るモノローグが被さってくるのに比べれば数段刺激的である。もちろん、プロットとかストーリーを中心に映画を観るのであれば、これはそもそもそういう類の映画ではないし、大胆といえば大胆、唐突といえば唐突な映画の構成に、それを面白がりながらも、反面、戸惑いを感じずにはいられない。先に書いたように、人生を思索する上においては大変魅力的で実験的な映像説法であると結論付けておくことにする。

8/10/2011

Drive Angry 3D

ドライブ・アングリー3D(☆☆☆)


ニコラス・ケイジも、ヘンな映画ばっかりに出るものだ。しかし、本作はそういうヘンな映画のなかにあって、なかなか面白くみられるオススメの部類に入るといってよいだろう。もちろん、エロとヴァイオレンス満載の、エクスプロイテーション感満載の低俗なアクション映画には違いがないのだが。なんというか、良質な俗悪映画とでもいうべきか。

娘を殺したうえ、孫娘を生け贄にせんとする悪魔崇拝のカルト教団の魔手から孫娘を救い出そうとするのが、ニコちゃん演ずる主人公である。ダッジチャージャーやら、シボレー・sシェベルSSやら、ヴィンテージもののアメリカン・マッスルカーを駆って悪党どもや追手を成敗していく。死んだはずなのに地獄の底から蘇ってきた狂気の主人公、撃たれても撃たれても、立ち上がるその男の名はジョン・ミルトン(って「失楽園」か!)。そうなると、謎の追手はもちろん、地獄の番人だ。

クエンティン・タランティーノがしかけた「グラインドハウス」がオマージュを捧げた類の映画の最新バージョンだと思ったら良い。監督は『ブラッディ・バレンタイン3D』などという、これまた俗悪映画を手がけたパトリック・ルシエだから、観客がこの手の映画に求めるツボをよく心得ている。女を抱いたまま襲い来る刺客を皆殺しにするシーンなど、笑いどころも多い。アンバー・ハード演ずるヒロインもセクシーで格好良いし、大味だが血塗れで派手なアクションも満載だ。

この監督、すでに3D映画の経験を済ませているからなのか、本作の3D演出も、漫然と3Dをやっているそこらへんの大作と違ってなかなか面白い。もちろん、最初から3Dカメラで撮影されている本作は、今年になって劇場で観た実写の3D作品では一番出来が良いとすら思うほどだ。もちろん派手なアクションやカースタントを迫力一杯に見せるとか、弾丸や杭が飛び出してくるという古典的な立体演出も多用されているのだが、車の窓ガラスに反射する風景であるとか、主人公の回想シーンなどを立体的に重ねる演出は、3Dを演出上の道具として効果的に使いこなしているよい事例であると思う。

上映時間105分、そもそもこういう映画を求めて見に来る観客を、きっちり楽しませるだけのサービス精神に満ちた拾い物である。まあ、誰にでもオススメというわけではないんだけどね。

8/07/2011

Toy Story Toon: Hawaiian Vacation

ハワイアン・バケーション(☆☆☆)

『カーズ2』と同時上映された、「トイ・ストーリー」のキャラクターを使った短篇である。時間軸では「トイ・ストーリー3」の後日譚になっていて、新しい持ち主のもとにもらわれていったあとの話ということになっている。

持ち主一家がハワイでの休暇に出かけると、玩具たちは仕事から解放されて束の間の「休暇」を楽しめる。一方、愛すべきアホ・キャラであるケンは持ち主の荷物に紛れ込んで永遠の恋人・バービーと一緒にハワイで素晴らしい休暇を過ごすつもりで綿密な計画を立てていた・・・というのが発端で、いつもの仲間たちがケンの夢の計画を形にするために涙ぐましい奮闘をするというのが今回のストーリーである。

短い時間のなかによくもまあ、と思うほどに切れのあるネタを詰め込み、テンポよく笑わせ、おなじみのキャラクターたちが、前作以降も生き生きと暮らしている様を見せてくれる。「トイ・ストーリー」シリーズのファンサービス的な作品として、ほぼ完璧な出来栄えである。トム・ハンクス、ティム・アレン、ジョーン・キューザックらの主要なボイス・キャストが再結集していることも嬉しい。前作でバービーとケンの声を当てたジョディ・ベンソンとマイケル・キートンもきっちり続投してくれているんだよね。

その一方、これまでの短編作品が、実験的であったり、アーティスティックであったり、多様な個性を主張しながら笑わせたり泣かせたりしてくれたことを思うと、既に確立したキャラクターに頼った本作のような作品だけでなく、今後もいろいろな作品を見せて欲しいと思うのだが、さて。

ちなみに、トイ・ストーリーものの短篇は、すでにもう一本、バズ・ライトイヤーを中心にしていると思しき"Small Fry"が製作されており、ディズニーが北米で年末に向けて公開する"The Muppets"に併映されることが決まっている・・・って、えー、ジム・ヘンソンの「マペット」ものの権利って、いつの間にかディズニーが買っていたんだ(驚)

Cars 2

カーズ2(☆☆☆)

ピクサー・アニメーションスタジオ25周年、12本目の長編作品は、2006年『カーズ』のキャラクターたちによるスパイ・アクション・コメディである。2時間超の長尺で、米国のマザー・ロード「ルート66」を題材とした主人公「ライトニング・マックイーン」の内省的成長のドラマだった前作とはガラリと趣向を替え、世界各地を舞台として展開する賑やかでハイペースのアクション・アドベンチャーになっている。

物語そのものには深みはないが、ガソリンに代わる代替エネルギーと、石油業界にまつわる陰謀を取り込んでいるあたりの時代感覚はさすがといったところだろう。ライトニング・マックイーンが世界各地を転戦する傍ら、短編作品以降、実質的な主人公並の扱いになっているトー・トラックの「メーター」が、本物のスパイと勘違いをされて頓珍漢な大活躍というストーリーなのだが、マックイーンが出走するレースそのものが陰謀の舞台となることで物語が1本の線につながる脚本は、なかなかのお手並みだと思う。

プロのスパイとして登場する新キャラクター「フィン・マクミサイル」の声を、「オースティン・パワーズ」でもモデルのひとつでもあるMI-6のスパイ、「ハリー・パーマー」を演じたマイケル・ケインが当てているところが聞きどころといえるだろうが、例によってオリジナル言語・字幕版の公開が非常に限定されているのが残念なところ。また、前作の重要キャラクターであった「ドク・ハドソン」は、声を当てていたポール・ニューマンの死去に伴い、劇中写真のみの扱いになっていて、改めてポール・ニューマンの不在を思い起こさせられる。

本作では前作に増してジョン・ラセターの車マニアぶりが最大限に発揮され、名車、迷車、珍車から新車まで盛り沢山。あちこちに相当マニアックなネタやこだわりが隠されているので、何度も何度も繰り返し見て確認する楽しみもあるだろう。5年前の前作からのCGI技術の向上も大きく、濡れた路面への反射や、アニメーション的なデフォルメを加えながらの世界各地の実景の再現具合はため息が出るほど。

なお、2作目になってより明白になったことではあるが、本シリーズの前提となっている車が生き物であるところの世界観は、深堀すればするほど矛盾が噴出して破綻をきたすので、ちょっと気の利いた冗談くらいに思って受け止めるのが適切だと思う。

これまでの物語を中心においたピクサー映画とはひと味違う、気楽に楽しめるキャラクター中心の娯楽映画として、良心的で、よくできた作品である。が、常にそれ以上を期待されてきた重圧のことを思えば、よくこういう割り切りをできたものだと、違った意味で感心する。本作に関していえば、おもちゃ箱の中からお気に入りのミニカーたちを持ちだして遊んでいるつもりで見るのが一番正しい楽しみ方じゃないだろうか。

8/06/2011

Monsters (2010)

モンスターズ 地球外生命体(☆★)


米国版の新しい「ゴジラ」への起用が話題になったギャレス・エドワーズ監督が低予算で創り上げた作品だというので、どんなものかと見に行ってみた。おんなじ低予算という意味で、今年公開された『スカイライン 征服』なんかと比べたら、一応、「映画」になっていると意味では数段マシ。

じゃあ、面白いのかと言われると、それは別の話なのだ。残念ながら。

NASAの事故により宇宙で採取した異星由来の生命体のサンプルがメキシコ上空でバラまかれてしまい、この「外来種」に汚染された地域が封鎖されている。主人公である報道写真家は、とある女性をエスコートしてこの地域を突破し、米国国内に帰らなければならない羽目になる、という話。

地球に襲ってきたエイリアンというのではなく、たまたま外来種に汚染された、というアイディアはとてもユニークだし、面白い。この生き物がたまたま環境に適合して、独自の生態で繁殖しているわけである。

また、大きくなったイカの化け物ようなモンスターは、封鎖された地域の外で暴れて街を壊したりするのだが、人々がその様子を普通に報道番組で観ていたり、何か、不可抗力の災害のように見ている様子もとても面白い。明らかに異常事態であり、非日常な状況なのだが、その「非日常」が「日常」になってしまった本作の世界観は、どこか、原発災害後の日本の現実と二重写しにならないでもない。また、米国とメキシコの国境に、万里の長城のような高い壁が築かれているというのは、なにか、不法移民問題に関する暗喩であろうか。アメリカがばらまいた種なのに、ね。

・・・と、まあ、発想や設定は面白いのだ。そして、これを男女二人の脱出行、ロードムービーとして仕立てようというアイディアも良いと思うのである。

しかし、この映画の良いところはそこまでだ。だいたい、スリルもない、サスペンスもない、アクションもない、ドラマもない。これでどうしろというのだ。話の運びそのものにも工夫がなくて行き当たりばったり。キャラクターの言動に一貫性がないし、そもそも、男女二人のキャラクターも魅力がない。怪物の見せ方も、デザインもつまらない。

そんなわけで、たかだか94分の作品であるが、2時間半には感じられるほどの体感時間。1時間を越えたあたりから、ただひたすら早く終わってくれるように祈りながら観ていた次第である。

まあ、本作は監督自ら脚本を書いて、撮影も、美術も、特撮もこなした低予算映画だから、いろんな意味で限界はあるのは分かる。本作に対する評価も、低予算のわりには頑張った、というレベルの話と、エイリアンの侵略もの、巨大生物ものに新鮮で今日的なアイディアを持ち込んだというところへの賛辞であって、それ以上のものではないように思う。

で、改めて、ゴジラ、大丈夫なんだろうか。あんまり期待できないんだが。。。

Edge of Darkness

復讐捜査線(☆☆☆★)

『サイン』以来、役者としてはスクリーンから遠ざかっていて、最近では場外でのお騒がせ発言により映画スターとしての命脈を絶たれたかの感すらあったメル・ギブソンの、久々の復帰作である。セガールあたりにお似合いの安手なアクション映画っぽい邦題からはなかなか想像しづらいのだが、なかなか見応えのあるポリティカル・スリラーである。もともと本作の監督、マーティン・キャンベル自身が1985年に監督したBBCのTVドラマ・シリーズを、米国を舞台とした映画として脚色、リメイクしたものだそうだ。

主人公であるボストン市警のベテラン刑事のところに、大学を卒業して働き始めたばかりの一人娘が訪ねてくるが、その矢先、刑事の家を賊が襲撃し、その銃撃で娘が殺害されてしまう。警察は、主人公に対する怨恨の線で捜査を進めるが、娘の挙動に不審なものを感じていた主人公は独自に捜査を開始、事件の真相に近づいていくうちに、政治と軍需産業が癒着して進めていた極秘裏の核兵器開発と、それに関わる隠蔽工作に行き当たる。

この映画の直接の「悪役」は、技術開発を行う民間企業という表向きの姿を隠れ蓑にした軍需コントラクターで、秘密裏に違法な核兵器の開発を請け負っている。またその事実の漏洩を恐れて隠蔽工作を進める政府関係者たち、軍需企業から献金を受け内部告発を握りつぶす上院議員らもまたしかりである。とりたてて新しくもない構図ともいえるが、眼に見えている現実の裏側にある闇の広がりをうまく感じさせられる脚本になっている。

陰謀の発端はなんでもよいのだが、そこに核兵器の開発が置かれている点は、オリジナルと同じようだ。本作の土台が80年代のTVドラマであり、当時の社会的不安を反映したものだからであろう。そういう意味で、一般的な意味でいえば少々古さを感じないでもない。ただし、国益を語りながら政官財が癒着する構図が放射性物質をめぐって展開されているところや、結果としてドラマに取り込まれた放射線被曝の恐怖などの要素は、3/11後の日本の観客としては現実との不思議なシンクロニシティを感じさせられたりもして、少々背筋寒く、そして面白い。

まあそんなわけで、過度に自粛してお蔵入りさせるのではなく、きちんと公開してくれたことを評価すべきなのだろうが、台詞で「放射線に被曝」とはっきり言っているのにかかわらず、字幕の表現が「感染」だの「発症」だのと、妙に気を使っているのが気持ち悪い。分かる人は分かるのだからこれで良い、という考え方もあるだろうが、こういう「隠蔽」工作は許容したくない。

メル・ギブソンは、愛娘の死の真相の追求と、復讐のために、自らの体を張って挑んでいく男を、年を重ねてもなおギラギラとした危険な雰囲気を漂わせ熱演している。それがあまりに似合うがゆえに、本作が「悪い奴らを皆殺し」的な単純なアクション・スリラーに見えてしまうところが悩ましいところである。役者が異なれば、もう少し知的な雰囲気の作品に仕上がったのではないだろうか。

実のところ、本作で一番面白いのは、主人公ではなく、レイ・ウィンストン演ずる政府が雇った隠蔽工作屋のキャラクターだったりするのである。数々の汚れ仕事に手を染めてきた男だが、この男なりの倫理観や行動規範があり、単純な悪役とは言い切れない味わい深さがある。現実世界の一筋縄では行かぬ複雑さを体現するこのキャラクターに比べると、主役であるメル・ギブソンはいささか粗暴かつ単純過ぎるし、軍需企業の取る対抗策もまた、知的でなく直接的過ぎた。まあそんなところもあるので、こんな邦題にされちゃうのも致し方ないのかもしれぬ。

8/03/2011

Super !

スーパー!(☆☆☆★)


愛する妻をドラッグ・ディーラーの元締めに寝取られた男が「神の啓示」を受けたと思い込み、自作のコスチュームに身を包んで悪人を成敗する「クリムゾン・ボルト」として活動を始め、町に巣食う売人や、映画館の列に割り込んだ男などに次々と制裁を加えていく。男の正体に気づいたコミック店員のイカレ女を相棒にして、警察の疑惑の目を振り切り、愛する妻の奪還のために危険なディーラーのアジトへの殴り込みを結構する、そんな話。

コスチュームを身に纏い悪と戦うコミックのスーパーヒーローたちがスクリーンを席巻するようになって随分になる。そんななかで、「コスチュームを着て悪と戦う」という行為の異常性についても、こうしたジャンルが自覚的に向き合うテーマの一つとなってきている。この『スーパー!』という映画も、何の変哲もない中年男が自作のコスチュームに見を包んで悪を成敗するという趣向から、昨年の収穫であった『キック・アス』の二番煎じのように見えるのだが、見終わってみれば、さにあらず。

『キック・アス』があくまで虚構世界を舞台にしたファンタジーであり、変則的なヒーロー物としての一線を踏み外さないのに対して、こちらはあくまで現実世界の延長線上でにあって、おそらくは「コスチュームを纏ったヒーロー」という意匠がなくても成立する物語であることが一番大きな違いなのではないか。

なぜなら、これは、神の啓史を受け、神の名において独善的な正義を振りかざすキチガイ男の話であるからだ。

勝手な思い込みが神の名において全てが正当化され、エスカレートしていく気持ち悪さと恐ろしさ。主人公は、TVで観ていた福音派のヘンテコなヒーロー番組に感化され、妄想の中で神の言葉を聞き、触手に脳味噌をタッチされて「選ばれたもの」としての使命感に目覚める。ここのプロセスに宗教を絡めているのは単なる偶然や思いつきではあるまい。

そうはいっても、当然、「悪い奴らはみんなブチ殺してしまえ」という不謹慎な快感もこの映画の魅力の一部である。

これは、多くの勧善懲悪ものに共通する快感ではあるのだが、無遠慮にグロテスクでバイオレント、かつチープな本作の描写は、どこか『悪魔の毒々モンスター』に通ずるものを感じさせられる。それは、本作の監督ジェームjズ・ガンのキャリアがトロマ映画で始まっていることと無縁ではあるまい。その悪趣味ぶりは、主人公の「活躍」ぶりを笑ってみてきた観客に冷水を被せるかのような終盤の、思いも寄らない2つのショッキングな描写にまで貫かれている。まあ、それゆえに本作を受け付けないという人々も多いとは思うが。

そして、これだけむちゃくちゃをやらかした主人公が、ある種のハッピーエンドを迎えるというエンディング。その取って付けた感は黒い笑いどころでもあり、しかし、冴えない男が正しく自尊心を取り戻した感動的な幕引きでもあって、そこに本作のドラマとしての魅力があるだろう。主人公に悪びれたところも反省もないのは、それこそ、宗教の名を借りたら何でも正当化できてしまうという恐ろしさをダメ押しするものと理解することもできるのではないか。

主演のルーク・ウィルソン、エレン・ペイジ、ケヴィン・ベーコン、リヴ・タイラーのメインキャストの仕事が素晴らしい。エレン・ペイジのハジケっぷりは、ただしく『ハード・キャンディ』で世に出てきた女優であることを思い起こさせられるし、ケヴィン・ベーコンの悪役っぷりも堂に入っている。

不謹慎で、低俗で、どこかヤバいところのある不健全な映画である。この映画のスタイルは露悪的というほかないが、しかし、そこには意外なほどに豊かなドラマがあり、重要な示唆を含んでもいる。なにかいけないものを覗き見するかのような、「シネコン」的な健全さとは異なる映画の楽しみがいっぱいの本作は、誰にでもオススメとはいいかねるが、ありきたりの娯楽映画や品行方正な社会派映画に飽きた向きには良い刺激となる1本だと思う。

7/30/2011

Transformers: Dark of the Moon

トランスフォーマー:ダークサイド・ムーン(☆☆)


あー、これでひとまず終わってくれる、というヘンな意味での安堵を感じるシリーズがあるとすれば、来年完結予定のトワイライト・サーガと、これ、トランスフォーマーが双璧。最初はそれなりの期待感を持って劇場に向かうも、スクリーン上で展開される惨憺たる狂騒に唖然とする。あるいは、そうなることを半ば予期していても、、一応、イベント的な観点から見ておかないわけにはいかない気がする。というわけで、わざわざ前2作をTV放送で見なおしてから劇場に足を運んだ。(いや、前作までのストーリーなんかスッカリ忘れていたよ。)

しかし、2D、 3D 両方とも見たうえで云うのだが、いやはや、これはゴミに例えるなら、ただのゴミではなくて、どうしようもない粗大ゴミの類だな。

さて、今回の話は、1960年代初頭に月の裏側に墜落した異星由来の物体をめぐり、月への有人飛行を目指すアポロ計画が立ち上がったという裏エピソードを起点とし、前2作では全く触れられなかったディセプティコンの巨大な陰謀、人類の存亡をかけて人類・オートボットとディセプティコンが激突するという筋立てである。クライマックスにはシカゴを舞台とし、延々1時間は続く大規模な市街戦が待っている。

月への有人飛行計画が急速に立ち上がり、その後、止まってしまった理由を異星人に関わる情報の隠蔽工作とする発端部分は、ピラミッドが太陽破壊装置だったという話よりは面白いし、実際に月に立ったバズ・オルドリンご本人を特別出演的に引きずりだしてくるあたりまではよいのだが、せっかくの歴史改変SFの趣も、その後の狂騒に急速に埋没してしまう。

いろいろ詰め込みすぎてよくわからなくなった前作よりはストーリーが整理されているが、それも気休め程度の話である。

このシリーズ、もともと機械生命体同士の争いと、国家や軍隊といったレベルの話と、高校生~新卒社会人程度の主人公と身近な人々の話をどのように絡めて一つにしていくかという部分が大きなチャレンジになっていたが、今回もそのあたりに無理やり感が漂っていて、成功しているとは言い難い。もっと頭を使って欲しいところだ。

意味もなく長尺のなる理由の一つが先に書いた3つのレベルの話をうまく練り上げられていないことであるが、他にも脱線やムダも多いのが、このシリーズの特徴である。今回はそれに加え、トラブルメイカーと化していたミーガン・フォックスを解雇した後遺症もある。新しいヒロインを導入するためだけのまどろっこしい手順やエピソードは見ているだけで疲れてしまう。

マイケル・ベイの演出は、さすがに3Dを意識したからか、カメラぶん回しや短いカットは減って見易くなった。が、止まることを知らず動きまわるカメラと笑えないコメディ演出は相変わらずである。注目の「3D映画」としてどうかといえば、確かに3Dカメラで撮影したショットも多いようだし、3D化が容易なCGIで描出したオブジェクトも多いため、急造の変換3D作品より「立体感」は感じられるのは事実である。そうはいっても、その使い方という意味では何ら新鮮な工夫はなく、全くもって面白くない。3Dに最適な演出のあり方はもっと深く追求されて然るべきだ。

この手の大規模で複雑なプロジェクトの陣頭指揮にあたって映画を完成させる能力も含めて「監督」の資質を問われるのであれば、本作の製作過程では大きな事故が複数回報じられているとはいえ、マイケル・ベイの才能を疑う理由は全くない。ただ、完成した作品が面白いかどうかは別の話だということは、まあ、改めていうまでもないことだろうね。


ところで、アニメ版での縁によるものというが、今回登場するキャラクター、「センチネル・プライム」の声をレナード・ニモイが演じている。それにちなみ、映画の前半でスター・トレック(TOS)のエピソードをTVで視聴しているシーンがあったり、主人公が車のギャラリーを「エンタープライズみたい」と口走ったり、「カーンの逆襲」における有名な台詞 "The needs of the many outweigh the needs of the few"  をセンチネルに云わせたりするお遊びがあったりする。そういえば、今回はクレジットされていない前2作の脚本家コンビは、タチの悪いトレッキーだったな。

7/23/2011

From Up on Poppy Hill

コクリコ坂から(☆☆★)

少女漫画原作を自由に脚色し、1960年代初頭、横浜を舞台にした青春ものとして完成されたスタジオジブリの長編新作である。宮崎駿の企画、脚本(共同脚本:丹羽圭子)を、『ゲド戦記』ではさんざんミソをつけた宮崎吾朗が監督。まあ、こういう題材は、ジブリでもなければ大型の商業作品としては成立しない、という意味では価値のある1本といえるだろうか。

この映画を見てびっくりしたことは、カットの短さとポンポンすすんでいくテンポの速さである。どこかでプロデューサーや監督が述べていたが、諸般の事情もあって平均的な1カットの長さを短くしたらしい。それを情報として知っていたにもかかわらず、幕開けからちょっと面食らった。画面に描かれている情報を確認して咀嚼する前にカットが切り替わっている。でも、それがいいリズムになって、画面に溌剌とした若さが刻まれている。上映時間も91分に収まっており、この程度の内容に見合った尺の長さではなかろうか、と思う。

この作品では、父親を早くに失い、仕事で不在の母親に代わって下宿屋の仕事にも精を出す少女と、彼女が高校生活で出会った一学年上の青年との淡い恋愛感情がメインストーリーとして描かれている。惹かれるようになった二人が、実は、父親が同じ人物なのではないかとの疑念が持ち上がり戸惑いを覚える。若い2人のロマンスと並行して、高校の中で起こった古いクラブ棟の建て替え計画への反対運動の顛末が描かれていく。実に真っ直ぐな主人公ら高校生たちと、彼らを深い懐で受け止め、見守り、支援する大人たちの姿が印象的である。

「カルチェ・ラタン」と呼ばれるクラブ棟の建て替え反対を通じて、「過去を否定するのではなく受け継いで未来につなげていく」というテーマが示されているように見えるが、それだけではない何かを感じさせられる作品である。

脚本を書いた宮崎父の視線は、現代の若い観客よりも同年代、つまりは、映画の舞台となった時代に主人公らと同世代だったはずの人々に向いているのではないだろうか。そして、かつて自分らを見守り、自由にさせてくれた大人たちのように、今度は自分たちが若い世代を信じ、見守っていこうと云っているように見えなくもない。。原作の舞台を10年ほど前にずらした脚色をするからには、それ故の理由があるはずである。いわゆる団塊の世代の青春時代としたのには、そうした世代の観客のノスタルジーに訴えかけようという商業的な狙いのほかに、そうした、彼自身のそういった問題意識が反映されているように思えてならない。

ところで、その脚本を受け止める側の宮崎息子が父親と同様の解釈や意識を共有しているかというと、そうでもないのではないか。また、(いつも反則すれすれの)キャッチコピーがいうような、「(若い世代の観客に向けて、かつての若者のように)、上を向いて歩こう」というメッセージを発しているようにも全く感じられない。どこかで、父親世代のノスタルジーに付き合ってやっている、とでもいうような、登場人物たちをどこか客観的にながめているような冷めた視線すら感じられる。「それはまあ、いい時代だった、というんだけどさ。。。(いい気なもんだ)」と。

この映画は爽やかな青春物語、青春映画にはなっているが、作り手の中にある視点が一枚岩でないがゆえか、強いメッセージ性やインパクトには欠けるところがある。しかし、そればかりが映画、あるいはアニメーションの面白さとも違うのだから、だからダメ、というものでもない。

本作がアニメーションとして今ひとつ、と思う部分があるとすれば、高畑勲なり、最近では原恵一がやっているような、「日常芝居」をきっちりやりきれていないところだと思う。そして、その結果としてキャラクターたちが描かれている以上には立ち上がってこない。肉体を獲得してリアルな人間になっていない。作り手のどこか客観的な視点と相まって、キャラクターたちが平板で印象に薄い。

あるいは、ある部分ではリアル志向で見せているのに、「カルチェラタン」に巣食う一癖も二癖もある学生たちを、コミックタッチの類型的な戯画化でしか描けていないところも物足りないところだ。もしかしたら、こうした学生たちは、父親世代の時には周囲にいっぱいいたのだろうが、息子世代ではあまり縁がないのかもしれない。それゆえ、リアルな人間として想像できない。そして表現が限りなく類型化されたマンガになってしまうのではないか、と思ったりする。

時代色を出すための既成曲の使い方はどうとも思わなかったが、本作のために書き下ろされた劇中歌(谷山浩子作曲)はどれも面白く、作品に膨らみを与えていた。この時代の横浜の風景を再現した美術や背景も美しいし、声のキャスティングも適切だった。それもこれも含めて、一定水準はクリアした作品であるとは思うのだが、いずれにせよ、夏休みに大宣伝をかけて、多くのスクリーンを占拠して上映するような作品ではないんじゃないか。

P.S. 思ったが、宮崎吾朗は、いっそのこと、ミュージカルをやったらいいんじゃないか?

7/17/2011

I am Number Four

アイ・アム・ナンバー4(☆☆☆)

途中から始まって途中で終わるだの、最初からシリーズ化に色気たっぷりだの、大仕掛のSFアクションを期待したら若いキャストが女の子とイチャイチャしてジョックス野郎の腕をへし折る映画だっただの、いろいろなことが云われている本作だが、まあ、それは全て事実だ。

しかし、なんでそれじゃあいけないのか? と、ここはひとつ開き直ることとしたい。だって、これ、期待するものを間違えなければ、そこそこ面白いのである。

本作の原作は若い読者むけの軽い小説、いわゆる「YA(ヤング・アダルト)」小説の類で、6部作構想といわれている小説「ロリエン・レガシーズ」シリーズ第1作の映画化である。この第1作は既に邦訳が出ているが、2作目はこの夏に本国で出版ということなので、そもそも原作シリーズも始まったばかり。出版前からドリームワークスが青田買いした権利を、(『アイランド』、『トランス・フォーマー』の)マイケル・ベイ製作、(『ディスタービア』、『イーグルアイ』の)DJ・カルーソ監督という、まあ、昨今、ドリームワークスと縁の深い人脈で映画化したということらしい。

悪い異星人に侵略された星(ロリエン)の最後の生き残りたち・・・9人の特殊な能力を持った子供たちと、彼らを庇護する任務を負った戦士たちが、地球に逃れ、密かに暮らしている。特殊な能力は、大人になると発現するという。ロリエンを侵略して謀略の限りを尽くした敵は、次なる侵略のターゲットを地球に定めたのだが、この特殊能力者たちの潜在的な力を大変に恐れている。そこで、まずはその9人を探し出し、順番に抹殺を図ろうとしており、映画の冒頭で3人目を血祭りに上げる。本作の主人公「ナンバー4」は、次のターゲットが自分であることを知る。この物語は、そこで幕を開ける。

それだけだと、なかなか大掛かりなSFアクションのように聞こえるが、本作の一番の魅力はそこではない。主人公らは思春期まっ最中で、庇護者のいうことを聞かず、オハイオあたりの田舎町でハイスクールに編入するのだ。かくして、SFアクションが「ハイスクールもの」へと転調を遂げるのである。ジョン・スミスと名乗る「謎の転校生」は、おとなしくしているという最初の約束なんかどこへやら、編入早々「写真好きの文化系女子」といい雰囲気になって、「元彼のジョックス野郎」の目の敵にされてしまう。成り行きで仲良くなった変わり者は「父親がUFOにさらわれたため俺の半生はX-Filesのようなもんだと嘆くギーク」だ。見ればわかるが、「ハイスクールもの」としては、『トワイライト』あたりよりは、よほど丁寧で真っ当な作りになっている。

そんなわけで、この作品。バランスからいうと、ハイスクール青春もの半分、SFアクション半分という感じ。脚本に「ヤング・スーパーマン」とか「バッフィ」とかの脚本家を充てている人選をみれば、作り手の狙いが明確だろう。SFアクションとしてみれば、知らない俳優ばかりで安上がりに作ったように見えるだろうが、「ハイスクールもの」ジャンルだと思えば、フレッシュな「将来のスター候補」を捜すのも楽しみのうち、となる。ヒロインのダイアナ・アグロンはすでにTVドラマ『Glee』でお馴染みの顔、強力な助っ人となるもう一人の戦うヒロイン、テレサ・パルマーあたりはこれからもっと人気が出るんじゃないか。

7/15/2011

Harry Potter and the Deathly Hallows Part II

ハリー・ポッターと死の秘宝 Part-2(☆☆☆)

いよいよ、である。もちろん、最後まで付き合いましたよ。ここまできたら、観ないという選択肢はないし。Part-1 の出来栄えがなかなか良かったので、本作への期待感もそれなりにあったしね。そして、まずは、納得、充実、よくできたシリーズ完結編であった、と思う。

(途中でお亡くなりになってしまったリチャード・ハリスを除き)主要キャスト&脇役キャストが最後まで変わらず、これだけの規模と、これだけの安定感で、よくぞ十年作り続けたものである。もちろん、市場が求め、映画会社が望んだこととはいえ、これを実現させたプロデューサーの力量には敬服する。子役たちが成長していく姿をスクリーン越しに見守るような、とても面白い映画体験をさせてもらった。

シリーズ総括はさておき、本作である。いやはや、「不死鳥の騎士団」を見て、その出来の悪さを嘆いたとき、その同じ監督がシリーズを最後まで続投し、このレベルの作品を作り、シリーズの幕をきっちり閉じてくれるとは思いもよらなかった。堂々たるものである。

思うに、ピーター・イェーツは作品を重ねるごとに大型VFX映画の見せ方や演出の勘所をつかんでいったんではないか。そして作品の内容を完全にグリップし、映画としてのアレンジやメリハリの効かせ方も堂に入ってきた。シリーズ中「不死鳥の騎士団」だけ脚本家が異なっていたのだが、それ以降、本作にいたるまでスティーヴン・クローブが復帰し、一貫して脚色を手がけてきたこと大きかったかもしれない。

毎度のことながら、原作マニア的な見地からは本作についてもあーだこーだと細かい改変に一家言あろう。が、ドラマ的な盛り上がりにしろ、映像的な見せ場にしろ、ケレン味のある演出にしろ、原作のエッセンスは十分に咀嚼した上で、「映画版」としての落とし所をきちんと見出しているのが前作、そして本作の良いところである。そして、原作を読んでいても新鮮な気持ちで映画を楽しめる要因でもある。

ところで、Part 1 の146 分に比べても、シリーズのこれまでの作品と比べても、Part 2 の130分というのは短めの尺になっているのには驚いた。多少説明不足で窮屈なところもあって、もう少し尺を長くしても許されるんじゃないかと思わないでもないのだが、完結に向かう勢い、スピード感を損なわないためにはこれくらいが調度良いという判断なのだろう。説明不足と言ってもシリーズを完全に初見というわけでなければ、なんとなく了解できるわけだし、ことここにいたってチンタラ説明したり、原作にある内容を逐一映像化してみても野暮というものか。

Part-2 の映像的な見所は、魅惑的な魔法学校を舞台に、いよいよ勃発する全面的な大魔法戦争が描かれているところだ。これまでのような局地戦ではなく、双方の陣営が多くの仲間を結集しての一大クライマックスだ。VFXももここぞとばかりに気合が入っていて派手に楽しませてくれる。

それはそれとして、この闘いの最中に、最近の作品では出番の少なかったマギー・スミスの見せ場を作ってくれているのが嬉しいところである。登場人物が多いだけに、割を喰ってしまったキャラクターも少なくない。そんななか、シリーズ最初期から登場する彼女のキャラクターに活躍の場があったことで、完結編としての座りも良くなったように思う。

もちろん、今回一番の役得はアラン・リックマンである。『ダイ・ハード』の悪役で売れて以降、癖のある悪役といえばこの人、というようなキャスティングの延長線上でのスネイプ役であったように思う。本人も、はじめはこういう展開を見せるとは想像していなかったはずだ。このキャラクターの過去の記憶が明らかになるシークエンスは、原作と比べると比較的サラっと見せているように感じられたが、その作りは良く出来ていた。原作を読んでいない観客に対しても、これまで7本で嫌われ役であったキャラクターの印象を一変させるだけのインパクトはあるだろう。登場時間が長くなくとも、作り手がこのキャラクターを丁寧に、大切に描いていることが感じられるのが嬉しい。

今回、3D版で鑑賞した。前作のときには直前になって公開を断念した3D版。どの程度の出来かと興味をもっていたが、変換3Dの技術もそれなりに進化を続けているのだなぁ、との感慨は覚えた。従来の、変換3D ものでは、どうしても書き割りの舞台セットのような不自然さが目についたが、それなりの時間と金をかけて丁寧に作業をすれば、そこそこの品質でコンバートできるということのだろう。

7/08/2011

The Hangover Part II

ハングオーバー!! 史上最悪の二日酔い、国境を越える(☆☆☆)


物量2割増だが、面白さ3割減。昨今、そんな常識が必ずしも通用しないことはよく分かっているけれども、昔から柳の下を漁る「続編」なんていうものは、その程度のものだというのが定評ではなかったか。スタッフ、キャスト、フォーマットはそのままに、舞台をラスベガスからバンコックに移した本作は、ギャグも(アクションすらも)一層過激さと不謹慎さを増して許容範囲の限界を押し広げているのだが、結局、前作にあった新鮮な驚きとでもいうべきものが失われた分だけ、面白さも7掛けが限界といった感じである。仕方がない、だって、基本的に同じことの繰り返しなんだもの。

しかし、他方で「基本的に同じことを繰り返す」ということそのものが、転じて「お約束」という名の笑いに通じることもある。クリスマスになると派手な事件に巻き込まれる運の悪い男がいたように、仲間が結婚するたびに羽目を外して記憶を失う、ということがどれほど不自然でありえないことかどうかは別にして、お約束を楽しむ、お約束で楽しませるというのは一つのありかただろう。

さすがに前作(ま)での出来事がなかったことにしてゼロにリセットするわけにはいかないので、登場人物たちは同じ事態を引き起こさないように用心して行動する。もちろん、そんな用心も徒労と化すのは最初から分かっていることであるが、この手順を踏む、ということそのものが重要なお約束のうちである。仮にこれが回数を重ねるなら、この手順を念入りに踏むというプロセスそのものが笑いを増幅する仕掛けにもなるだろう。

そんなことはともかく、本作には1つ、とても良いシーンがある。それは、昨夜の行動を思い出すためにタイの寺院で瞑想をする場面だ。みな、昨夜の出来事など頭に残ってはいないのだが、ザック・ガリフィナキス演ずるトラブルメイカー、アランの脳内には、少々驚くべき形で回想が蘇ってくる。この回想が、とても優れたアイディアで映像化されていて、爆笑と同時に、なんというか、ある種の感動すら呼ぶものになっているのである。関わりたくない迷惑男であるが、どこか憎みきれない発達障害を抱えた男。彼の目に映っている世界がいったいどのようなものなのか、そのエキセントリックな言動がいったい何に起因するのか、いやはや、短いシーンながら、ものすごい説得力と納得感を得ることができた。未見の方は、ぜひ、ここで目からウロコが落ちる気分を味わって欲しいと思う。

で、さらなる続編はあるのか。本作も十分なヒットを飛ばしたし、舞台を変えれば「観光映画」、「ご当地映画」的に、それなりとはいえ、新鮮な空気を吹き込めることも証明できた。そうはいっても、中心となる4人のうち3人までが既婚となったいま、次はどんな一手があるのだろう。ザック・ガリフィナキス演ずるアランに伴侶を作るのはなかなか難度が高そうだ。そういえば、運の悪い男の「クリスマス」というお約束は3作目以降は反故になったんだっけ。お約束を繰り返すにしろ、なにか新しい手立てが必要そうだ。

7/03/2011

The American

ラスト・ターゲット (☆☆☆★)


平凡な暮らしの喜びに目覚め組織を離れようとした凄腕の殺し屋が、潜伏先であるイタリアの山里で、最後の仕事として請け負った特殊な銃の製作とその顛末。オランダ出身の写真家、アントン・コービンが抑制された寡黙な激渋タッチで描く、クライム・サスペンス・ドラマ。主演はプロデューサーにも名を連ねる、ジョージ・クルーニー。異国の地、訳ありのその男、アメリカ人。("The American")。米国では端境期の公開だったとはいえ、こういう映画が瞬間でも週末興業トップに立つって、すごいなぁ。

雪のスウェーデンからローマ、そしてイタリア中部の城塞都市、カステル・デル・モンテへ。スターのわがままによる、風光明媚な場所を舞台にしたよくある観光映画の一種かと思えば、そうではない。もちろん、坂道が多く、中世の遺物かと思うような石畳の路地や階段、建築物が残る古い町が醸しだす雰囲気と光景は、陽光に輝くイタリアというイメージを裏切ってとてもユニークだ。しかし、それが主演スターやドラマを差し置いて映画の主役に踊り出ることはない。絵葉書のようにきれいなこれ見よがしの映像はないが、ただただ異国の地に一人潜伏する主人公を封じ込める迷宮のようであり、あるいは、孤独な心を静かに解きほぐしていく舞台装置として非常に興味深い効果を生み出している。そういう意味で、ジョージ・クルーニー演ずる主人公が寡黙なら、映画の作り手もまた、とても自制的に映画をコントロールしている。

裏稼業を抜けようとする主人公に待ち受ける過酷な運命は、もはや定番中の定番である。また、友人を作ることすら許されなかった男が、米国にあこがれを持つ屈託の無い娼婦に惹かれていくのもまたお馴染みの展開。しかし、この映画はそういう使い古された定番を重ねながら、なんと、主人公が客の注文に合わせてショットガンの威力とライフルの射程を持つ特殊な銃をカスタム製作するという、なかなかマニアックな描写に時間をたっぷりと割いて見せる。自動車修理工場で手に入れた道具や部材を使って銃と弾丸を仕上げていく男。単に殺しに長けているだけではない、熟練の職人。こういうところがこの映画の面白さで、派手なアクションを期待すると肩透かしを喰らうだろう。

ジョージ・クルーニーにしては珍しく、寡黙な男を演じている。本当は、もっと地味めな役者の方が似合うのかもしれないが、さすがに、これは大スターのクルーニーなしには成立しない企画だろう。それ以外は普段目にする機会の少ない役者ばかりなのだから。カスタム銃を依頼する女スナイパー、主人公が心を動かされる若い娼婦ともに美しく、映画の華になっている。連絡係(というか雇い主)や、町の神父など、実に渋い顔つきだ。クルーニーがいなければ、アメリカ映画でありながら、ここにはアメリカ映画の空気はない。まるで欧州映画にひとり迷い込んだアメリカ人、クルーニー。ゆったりとしたテンポで、しかし、緊張感は維持したまま、決められた結末に向けて話を紡ぐ監督の手腕や見事。

Thor

マイティ・ソー (☆☆☆)


『アイアンマン』シリーズ、『インクレディブル・ハルク』に続き、マーベル自身が自らのコミック世界を作品横断的に映画化する巨大プロジェクト(マーベル・シネマティック・ユニバース)、4作目にして3人目のヒーローは、『アイアンマン2』のラストで予告がなされていたとおり、北欧神話に題材を求めたファンタジー寄りの『マイティ・ソー』だ。(ソーは、Thor、トールの英語風カタカナ表記。)このあと、同じく『アイアンマン2』のなかで言及のあった『キャプテン・アメリカ』が待機中で、その次はヒーロー大集合の"The Avengers" の予定だという。どうせしばらくマーベル祭りが続くのだから、その都度出てくる新作を、ひと通り楽しんでおくのが吉だろう。

(地球を含む)9つの世界を束ね、平和を維持してきたアスガルドの王オーディンの息子、ソーは、偉大な父王の後継を約束されていたが、向こう見ずで傲慢な性格ゆえに長年の平和にヒビを入れかねないトラブルを起こし、能力を剥奪された上に王国から追放され、ニューメキシコの片田舎に落ちてくる。そのころ、ソーの義弟であるロキは兄への嫉妬から敵国と通じ、王座を手に入れようと画策をしていた。王国とソーの身の上に危機が迫る、、、という話。

本作のストーリーは、基本的にはファンタジー世界における陰謀と裏切りの宮廷劇である。もちろん、広い意味では悪から世界を救うスーパー・ヒーローの話でありつつも、「正義のヒーローが悪者や犯罪者をボコって治安や平和を維持する」話とは少々毛色が異なるものになっている。それが理由なのだろう、監督に起用されたのはケネス・ブラナーという変化球。シェイクスピア俳優として有名で、その映画化も多く手がけてきた英国的知性に、ある意味で筋肉バカなアメコミ映画を委ねるという発想が出てくるところが面白い。それに対し、大バジェットのVFX映画から他では経験できないものを吸収しようと貪欲に企画を受けるケネス・ブラナーも大したものだ。

映画の内容は、とりたてて何かをいうほどのものでもなく、昨今のマーベル映画の家族で楽しめる軽いノリを継承している。地球に落ちてきたソーの頓珍漢な行動や、こんなファンタジー系のヒーローに対する違和感みたいなものを自己言及的に軽いコメディとして見せるあたりの手際は良いし、一見筋肉バカでも血統なりの人の良さを素直に演じて見せるクリス・へムズワースも爽やかで嫌味がない。アクションもオーソドックスにきちんと撮れている。先行・並行するマーベル映画世界と絡む細かいネタも盛り込まれており、気がつけば気がついただけニヤッとできるかもしれないし、逆に、商売っけを感じてうんざりするかもしれない。それが仕事とはいえ、こういう商業作品をさらっと撮れるケネス・ブラナーの器用さには驚かされるし、続編の監督を断る気持ちも十分に理解できる。

神話的・宇宙規模のスケールと言っても所詮CGI、セットにもカネがかかっているのだろうけれど、作り物の安っぽさは否めない。地球での舞台はニューメキシコのしょぼい田舎町、へんてこりんなロボット一体を撃退するだけなので、なんだかちっちゃな映画のように思えてしまう。"The Avengers" に向けた顔見せ、前座だと割りきって楽しむのが良いだろう。例によって一番最後にサミュエルL・ジャクソン登場の、"The Avengers" に向けた予告が入っている。また、劇場によっては、上映前の予告編で、ジョー・ジョンストン監督による『キャプテン・アメリカ:ザ・ファースト・アベンジャー』も観ることができるかもね。j

6/24/2011

Super 8

スーパー8(☆☆☆★)


1979年の夏、オハイオ州の小さな田舎町で、少年たちの一団が、8mmカメラでゾンビ映画の製作に夢中になっていた。深夜の鉄道駅での撮影中、ものすごいスピードで通過しようとする軍用貨物列車にトラックが激突、少年たちの目の間で大惨事が起こる。米空軍が異様な物量と秘密主義体制で事故処理にあたるなか、町では不思議な出来事が起こりはじめる。そして、少年たちが回していた8mmフィルムには、事故の折に列車から逃げ出した何かが写りこんでいた。

監督であるJJ.エイブラムズが影響を受けたという80年代のスピルバーグ監督作品や、スピルバーグがアンブリンで製作したプロデュース作品が好んで取り上げたモチーフを散りばめながら、少年の一夏の恋と冒険、そして成長を描いた小品である。開巻、エイブラムズのプロダクションであるバッドロボットのロゴに先んじて、あの有名な、ETと一緒に自転車が空をとぶアンブリン・エンターテインメントのロゴが表示されるのは偶然ではなく、なんと、オマージュを捧げられる対象となったスピルバーグ自身が製作に名を連ねるという、ある意味で特別な作品になった。

(そういえば、アンブリンのロゴは映画の最後、エンドクレジットが終わってから映しだされるのが通例だから、映画の冒頭でお目にかかるのはかなり珍しい部類ではないか。)

この作品には『E.T.』や『未知との遭遇』、あるいは、『グーニーズ』といった作品を想起させるモチーフが溢れている。が、一方でそれらの作品との明らかな違いもある。

スピルバーグ自身の監督作における主人公の少年は、どちらかといえば孤独で、ひとり空を眺め「星に願いを」かけるのに対し、本作の主人公は片親という家庭環境こそ似ているものの、それなりに遊び仲間がいて、一緒に夢中になれる遊びがあり、恋もする。そこには、宇宙の片隅にある地球から「星に願い」をかけるロマンの香りや、外の世界に広がっていくスケールの大きさは感じられないし、もしかしたら地球を捨ててあっちの世界に行ってしまうかもしれないという危うさは一切存在しない。そこが、JJ.エイブラムズ(かつての)とスピルバーグの興味関心の違いだったり、作家としての資質の違いだったりするのだろう。

穿った見方をすれば、エイブラムズは自分の興味のある「8mm映画製作に打ち込む少年たちの話」と、「モンスター・パニック映画」をスピルバーグの製作で作るに当たって、商業的な戦略も込めて、「80年代スピルバーグ・オマージュ」というアイディアを持ち込んだのかもしれない。商売上手な彼のことだから、それがウケるんじゃないかという読みもあっただろう。そう言われてみれば、一時期は誰もが類似品を作ったこの手の映画がスクリーンから消えて久しい。予告編にあるある種の「懐かしさ」が映画への興味を掻きたてたことは否定のできない事実だ。

それがたとえポーズだけの話だったとしても、構わない。それが、結果として、これまでのエイブラムズの作品につきまとっていた、「よく出来ているけど、映画というよりはTVドラマ」な雰囲気を抑制し、映画らしい雰囲気をもたらす魔法になっているからだ。

JJ.エイブラムズの、観客の興味を掴んで話さないサービス精神やストーリーテリングの巧みさ、企画屋としての嗅覚・才能には敬意を表していても、彼が撮った劇場作品である『M:I-3』、『スター・トレック』共に、映画の大きなスクリーンを活かせていない画作りが息苦しく、結局はTV屋さんなんだよな、と思っていたものである。また、分かりやすくウケ易い話にするために、「個人的な動機に基づくミッション(M:I-3)」になってしまったり、「シリーズの魅力である理想主義を捨てた敵と味方のドンパチもの(スター・トレック)」になってしまうある種の幼稚さも気に入らなかった。

もちろん本作も、話の仕掛けのわりには小さくまとまってしまった感がないわけではない。しかし、「80年代スピルバーグ」らしさを持ち込もうとした結果、画作りも、ドラマも、これまでとはどこか違った「映画らしさ」を感じられる作品になっていると思うのだ。スピルバーグはこの作品を指して「(誰かの作ったシリーズものを引き継ぐのではなく)エイブラムズのほんとうの意味でのデビュー作」という云い方をしていたが、それとは違う意味で、エイブラムズが初めて撮ってみせた、映画らしい映画、ではないかと思うのである。

バラエティに富んだ子役たちのキャスティングが大変素晴らしい。また、彼らを子供らしくイキイキと演出できているところもよい。そして何よりも、ヒロインを演じるエル・ファニングの魅力と、主人公と彼女の繊細な感情の交歓を描き出してみせたところが本作の一番の見所だと断言したい出来栄えである。

思えば、魅力的なヒロインを描くことができないのがいつもスピルバーグの弱点だった。そこも含めて、エイブラムスとスピルバーグでは、観客を楽しませることにかけてのテクニックや商売人としての嗅覚の鋭さは共通するにしても、全く異なる個性の持ち主だというのは明白なんじゃなかろうか。娯楽映画としての仕掛けの大きな部分に驚きや新鮮味はなくお座なりとも言えなくはないが、主筋であるところの青春物語としては十二分に楽しませてもらった。その部分ひとつだけでも、何度でも見たいと思える作品である。

6/18/2011

Skyline

スカイライン 征服(☆)


自分のVFX工房ができることの見本市にはなっている。つまり、業界向けのデモンストレーションだな。が、商品としては成立していないレベル。バカにしながら笑って楽しむことすらも難しい、短いはずの上映時間がひたすら苦痛に感じられる、近年稀にみるゴミ映画である。本作に比べたら、悪名高き『バトルフィールド・アース』だって可愛げがあるだけマシだろう。

まあ、さもありなん、監督は『エイリアンVSプレデター』という最高の素材を与えられて、これまた鑑賞が苦痛になるレベルの続編をつくちゃったストラウス兄弟だもんな。

L.A.を舞台に、パーティのために高層マンションのペントハウスに集まっていた人々が、為す術も無く異星人の地球侵略を目撃する3日間。あー、コンセプトだけだと、インディペンデンス・デイのクローバーフィールド化されたバージョンみたいな感じ。

しかし、クローバーフィールド程度の「見せ方」の工夫があるわけではない。エキストラを使えない制約ゆえか、非常事態におけるパニックを見せるシーンもない。限られた、魅力のかけらもない登場人物たちが、ペントハウス→屋上→地下駐車場を無駄にいったりきたりしているだけで、お話しの工夫もなにもない。いくら世界の終りを目撃する映画だと言ったって、必死のサバイヴァルくらいするだろうよ。この映画のような状況下で、高い建物の上層部に留まろうとする理由が理解出来ない。やる気がないにもほどがある。制約を逆手にとった面白い展開や見せ方を考えるのがクリエーターの仕事ではないのだろうか。自分たちの都合に合わせて登場人物の行動や思考、行動範囲を限定するなど、もってのほかだ。

登場人物たちに、映画制作関係者がいる。ロボットかなにかの出てくる撮影云々の話をしているから、てっきりそれを伏線に、捕獲した異星人やその乗り物を手懐けて映画撮影を敢行するバカ展開を期待したけれど、当然、そういう気の利いたアイディアなんかあるわけもない。まあ、最後の最後に、登場人物の脳みそ食った異星人が狂って(思考を乗っ取られて?)、残された身重の妻を守るという超絶バカ展開が待っているのだが、で、それで面白いのか?そういうのを面白いと思っているのか?

こういうのを見ると、JJ.エイブラムズの企画力だったり、子飼いの監督の演出技術だったりはやはり並ではないなぁ、と感心せざるえを得ない。もっといえば、同じようにストーリーそのものが面白いわけでもなんでもない『宇宙戦争』で、(それゆえに割と広範に不評が聞かれたりもするのだが)、スピルバーグ御大が見せた演出力の非凡さというものに、改めて深い感動を覚える。

インディペンデントの予算規模で、白昼堂々、巨大宇宙船やらモンスターっぽいものやら機動兵器っぽいものが地球上を蹂躙するという絵面を作れるというのは、たしかに感心すべきものなのだろう。しかし、単にそれだけでは、ミニチュアの光学合成をしていた時代と違って、VFXのハードルは限り無く低くなっているという事実の再確認にしかならない。なにせ、あの『宇宙戦艦ヤマト』を、日本で実写映画にできてしまう時代なんだからさ。

結局、作り手個人の個性は失われるかもしれないが、ハリウッドというシステムは、このような駄作のために大金がつぎ込まれる事態を避けるための「リスク・マネジメント」なのだ。様々な脚本家が何度も何度も脚本を手直しし、「商品」としての最低限のクオリティを担保しようとする。(まあ、それでも失敗するときは失敗するのだが。)本作は、そういう規格化されたありきたりの商品ばかりを生み出すプロセスにすら、やはり価値があるものなのだと再認識させてくれたりもするのである。やれやれだね。

127 Hours

127時間 (☆☆☆☆)


48時間、96時間ときて、今度は127時間だ!あれ、計算が合わないぞ・・・っていうのではなくて、ダニー・ボイルの新作は、ユタ州内の渓谷で落石に腕を挟まれて脱出不能になった若者が、孤立無援のまま6日間を過ごし、生きるための尋常ならざる決断と行動を起こすまでを描いた実話を題材とした映画である。

主人公のアーロン・ラルストンを演じるジェームズ・フランコは、そういう設定の物語故に全編出突っ張りの一人芝居。アカデミー賞主演男優賞ノミネートを始め、高い評価を勝ち得ることとなったのはご存知のとおりである。(ただ、あの眠そうなアカデミー賞の司会っぷりは最低だったな)。

岩の谷間で身動きできなくなったひとりの男の話を、1本の映画として語って見せるのはなかなかの挑戦である。観る前は、なんだかんだいって単調で退屈なものになるんじゃないかと想像して期待値を下げたりもしていたのだが、そこはそれ、華麗なる映像テクニックとガチャガチャ編集を得意技とするダニー・ボイルのこと、主人公の回想、現在、想像、夢、妄想を巧みにつなぎあわせ、94分を一気に駆け抜けて見せる。題材によってはその技術がドラマを語る邪魔になることもあるが、前作の『スラムドッグ$ミリオネア』といい、これといい、題材に見たりとはまるとそのリズム感、疾走感が圧倒的に心地良い。

最後の最後に主人公が下す決断と、その行動を、逃げずにしっかりと映像化してみせたところもいい。自らの手で、肌すらろくに切れないような鈍い中国製十徳ナイフで右腕の切断を試みる、のである。

これ、言葉にするのは簡単だが、やるとなれば想像を絶する行為である。まずは骨を折るところから始め、ナイフを突き立て、筋肉、腱や神経を切断していく映像だけでも目を塞ぎたくなるのだが、痛さ倍増の音響効果が加わって、耳まで塞ぎたくなることうけあいである。入ってみれば、リアル切り株映画。だが、これはもう、「グロ」っていう単純なものでない。ホラー映画のように、見る人を不快にさせることを目的としていたり、見世物としてのグロ描写でもない。生きるための最後の希望として、歯を食いしばる主人公と観客の心がシンクロし、画面を見つめる我々もまた、必死で歯を食いしばり、失神したりしないように踏ん張るのだ。

こういう描写があると云うがゆえにこの作品を敬遠する向きもあるようだが、しかし、この描写なしには作品は成立しない。鑑賞後の、不思議な清々しさは、あのシーンを乗り越えて初めて獲得できるのである。主人公に同化して、彼の127時間を(安全で快適な映画館で)疑似体験する、これはそういう作品なのだ。

モデルとなったアーロン・ラルストンは「冒険家」を続けているようだが、今度は足を挟まれて "Another 127 hours"なんて続編ができないことを祈るよ、本当。

6/17/2011

Red Riding Hood

赤ずきん(☆☆☆)


おとぎ話の原点に戻って、残酷さや恐怖を強調した大人向けの寓話に仕立て直した「赤ずきん」・・・というわけではない。

中世のヨーロッパを舞台に、「トワイライト」あたりの観客層をターゲットにした「人狼ものファンタジー・スリラー」をやろうという企画である。監督は『トワイライト』1作目のキャサリン・ハードウィック、幼なじみからも、親の決めた許嫁からも、人狼からも言い寄られちゃって、もう、私どうしたらいいの?というヒロインにアマンダ・セイフライド。

かつて人狼に襲われた記憶の残る集落。人狼が人を襲わないよう、定期的に生贄を供えるなどして「共存」してきたのだが、ある満月の晩に主人公の姉が人狼の犠牲となる。血気盛んな一部の村人に先導されて山の奥深くに分入り、犠牲者が出たものの大きな狼を仕留めることに成功した村人たちは歓喜に湧くが、人狼ハンターとして名を馳せる祭司は、人狼は村人の中にいると警告を発する。

この映画で面白いのは、人狼に恐れおののく村に、自らの妻まで人狼として惨殺したという触れ込みで名をはせる「人狼ハンター」の聖職者が招かれてからの展開である。

普通なら、人狼ハンターは頼もしい味方として大活躍となるところ、そのやり口がだんだん陰湿な「魔女狩り」めいてくる。ヒーローとして登場したと思われたこの男が、人狼以上の悪者の様相を呈してくるあたりがとても面白い。罪もない村人に嫌疑をかけ、拷問し、換金し、命を奪う横暴な宗教的権力。これを演じているのが、おなじみゲイリー・オールドマンだ。まあ、この顔を見たら悪人と思え、と条件付けられているせいもあるが、だんだん「このくそったれな司祭をぶち殺せ、やっつけちまえ!」と人狼さんを応援したくなってくる。人狼の襲撃シーンは、思いもよらず盛り上がりを見せることになる。

ストーリーは、人狼の正体は誰なのか、というミステリーを縦糸にして進んでいく。しかし、それほど凝ったトリックや、驚きの結末があるというわけでもない。人狼による犠牲者が一体誰なのかに着目していれば、少し勘の良い観客なら答えが分かってしまうんじゃないだろうか。一生懸命ミスリードしようとするので、その逆を張っていくだけでもいいかもしれない。いずれにせよ、そういうミステリーとしては、そんなに期待しないほうが楽しめるんじゃないか。

厳密に時代考証のされた風格あるコスチューム・プレイというのではなく、あくまで、最近のNHK大河ドラマのような雰囲気だけの「なんちゃって時代劇」である。ティーンの女性客目当てだから、そんなにグロもない。大人の真剣な鑑賞に耐えるものではないが、なんだかんだいってグデグデのロマンスが主筋の『トワイライト』よりは面白く見られる作品で、ちょっとした暇つぶしには悪くない。

Keibetsu (軽蔑)

軽蔑(☆☆)


悪いんだけど、鈴木杏の体は、セリフでも出てくるような「真剣に踊っている」ダンサーの体じゃない。彼女のことは『ジュヴナイル』の頃から好きだったし、いいものを持っている人だと思っている。それに、本作での苦労も、みればわかる。が、彼女が、あの体のままこの役を演じるなら、設定もセリフも何もかも変えるべきじゃないのか。

もちろん、なにからなにまで、本当に役にふさわしい役者をキャスティングするのは難しかったのだろうと想像する。それに、鈴木杏が、真剣に踊っているダンサーの体型を作るまでの時間を待つ贅沢がかなうような規模の作品でもないんだろう。結果として、なんだかよくわけのわからない「ごっこ」遊びのような本作ができあがるわけだ。当然、そこには物語の登場人物たちが抱えているような切実さも、行き止まり感も、痛みも、なにも、ない。だったら、そんなんでも敢えてこの映画を作る価値があったのか、と問いたい。女優脱がして、それを売り物にして客を集めようっていうだけのゲスな企画じゃねえか、こんなモン。え、この作品のタイトルの意味は、もしかして、そういうことなの?

歌舞伎町でチンピラ稼業をしている男が借金帳消しのために揉め事を起こし、互いに惚れあっていたダンサーを連れて故郷に逃げ帰る。実は不労所得を生活の糧とする旧家の跡取り息子、最初は真面目に働きはじめるものの、それをいつまでも続けられるものではない。地元の悪友たちもいる。昔の女と思しきのもいる。トップレスで踊っていた女なんぞ嫁にすること許さぬという実家や、周囲の蔑んだ視線に苦しむ女。男が作った地元のヤクザからの莫大な借金が、二人の行く末にさらなる影を落とす。

原作のことは知らない。だから、原作を読んでいれば頓珍漢に聞こえることもあると前置きはしておく。

映画は、少なくとも「軽蔑されるべき生き方しかできなかった二人」に同情したり感情移入したり出来るものにはなっていない。

男はくだらなさすぎるし、女がそんな男のどこに惚れるのかもわからない。例え、男女の仲は当人にしかわからないね、という描き方なんだとしても、この二人が、それなりにない知恵を絞って必死に生きて、ただただ巡り合わせが悪く、世間の風も冷たかったというのなら、まだ理解できる。しかし、映画を見ている限りではバカな人達がバカなことをやっているようにしか見えない。高良健吾演ずる男のことも、鈴木杏演ずる女のことも、好きになれない。そもそも、なんでそんなに男の郷里にこだわらなきゃならんのか。うまくいかないと思ったら、二人でどこか知らない土地に行けばいいじゃないか。全てから切り離されて2人だけになればいいじゃないか。もっといえば、大森南朋演ずる田舎ヤクザの借金なんか踏み倒して高飛びしちゃえばいいじゃないか。あほらし。

主人公の男の祖父の「妾」さんというポジションに甘んじて生きてきた、昭和の時代の残滓のような女性を緑魔子が演じているのだが、その独特の存在感が映画を全部持って行ってしまったような気がする。そうね、まあ、時代背景が昭和なら、もう少し映画に説得力が出たかもしれない。

6/11/2011

The Adjustment Bureau

アジャストメント (☆☆★)


わははは。フィリップ・K・ディック原作の現実崩壊SFかと思って観に行ったら、藤子・F・不二雄の少年SF短篇的「すこし・ふしぎ」な運命的ラブ・ストーリーだった。しかし、なんでこれをアクション映画みたいに売り込むかなぁ?そっちを期待したら、そりゃ金返せって思うだろうさ。

というわけで、これから観る人、これは「アクション映画」じゃありません。「すこし・ふしぎ」なラブ・ストーリーですので、そこんとこよろしく。

我々の運命はどこかですでに決められていて、その大筋から逸脱しないよう役人然とした「調整局」の面々が影で暗躍しているという話。上院議員選挙における有力候補者だった主人公を本来あるべき運命に導くために「調整局」が行った小さな操作。そのことで、出会うべきでなかったはずの女性と出会い、恋に落ちた主人公。2人が結ばれると、未来が大きく変わってしまう。運命からの逸脱を許さぬ調整局はあらゆる手段を講じて主人公と想い人の仲を引き裂こうとする。

調整局の面々は、普通の人の容姿をし、名前を持ち、趣味の良いスーツに身を包み、帽子をかぶっている。不思議な能力や道具を持って、秘密裏に活動し、人類が定められた運命を全うできるように陰ながら活動している。しかし、絶対的な存在ではなく、ヘマを打つこともあれば、ミスもする。うまくいかなかったときは上司の許可を得て、かなり強引な介入行為をすることもある。主人公に本来すべきではない肩入れをし、陰ながら協力したりもする。彼らの活動や存在は公には秘密になっているが、非常時にはその正体を明かし、説明をし、秘密を守るよう説得、強要したりもする。

調整局の面々の活動の拠点と、この世の様々な場所のあいだには「異次元回廊」のようなものが構築されており、一見して普通の扉がその出入口を兼ねていたりする。『マトリクス』のバックドアみたいなものなのだが、ヴィジュアル表現上が限りなく「どこでもドア」に近い。もちろん、それも藤子Fを思い起こさせる理由の一つではあるけれど、調整局と主人公の関係は、歴史の流れを守りつつ人命救助の任にあたるタイムパトロールの活動を描いた『T.P.ぼん』の主客逆転版のようであるし、役人たちとの攻防の果てに、そもそもの「運命」を司る存在への孤独な闘いを挑もうとする展開は少年SF短篇のノリだ。主人公を突き動かすのが、何年にもわたって想い続けたひとりの女性を幸せにし、共に築く未来を手に入れたいという欲求であるところなど、いかにもそれらしい。

お話しの構成は、調整局のメンバーが主人公を説得、丸め込、。しかし女性への思いが断ち切れず、なんらかの行動を起こし、さらに上手な調整局の責任者が出てきて説得、というパターンの繰り返しである。そこにもう少しバリエーションが加わったり、仮に、同じことの反復であっても、それを感じさせない A ⇒A'⇒ A" の工夫があったなら、もう少し面白くなったかもしれない。ヒロインのエミリー・ブラントは最初の登場シーンの魅力が印象的、凄腕調整局員のテレンス・スタンプは、声も表情もそれっぽい雰囲気を醸し出し、こういう役柄にはそれなりの役者が必要であることを実感させてくれる。

フィリップK.ディックの短篇を導入のアイディアに使っている作品であるが、いかにもPKディック、な感覚は希薄である。まあ、これまでの映画化作品だって似たようなものなので、それ自体をとやかくいうまい。むしろ、本来の不安感とは違った意味で、「で、どうなるの?」とワクワクして次の展開を待ち望んでしまうような、ある意味ジュヴナイルな冒険譚のノリのテイストが、なんでもかんでも深刻でダークになってしまう昨今だからこそ、好意的に評価したいと思ったりするのである。

X-MEN: First Class

X-MEN ファースト・ジェネレーション(☆☆☆★)

1960年代初頭。冷戦下で緊張にある東西両陣営を手玉に取って自らの野望を実現させんとする大悪党に立ち向かう、CIA配下の特殊能力をもったスーパー・エージェントたち・・・という物語の枠組みにあわせて、おおらかなスパイ・アクション映画、というか、そのものズバリ、「ショーン・コネリー主演時代の007」な雰囲気を隠し味にして新鮮味を出してくるあたりがなかなか巧者な『X-MEN』フランチャイズ、作りにつくって、これが第5作目。クールなエンドクレジットにシビれる。

映画はキャスト一新の"プリクエル"であるから、「リブート」という紹介のされ方をすることがあるけれど、たとえば、『バットマン』がクリストファー・ノーランで仕切りなおしたのとは、『スター・トレック』がJJ・エイブラムズ再創造されたのとは、かなり位置づけが違う。過去の作品での描写とは小さな矛盾点が散見されるとはいえ、これまでと世界観を一新しての「仕切りなおし」ではなく、これまでの作品群の延長線上で作られた1作である。(もちろん、若い役者に交代させてフランチャイズの延命をはかるという目論見は同じなんだけどね。)

最初に作られたトリロジーに先立つ時代、後に意見を違え対立することになるミュータントの2大リーダーはいかにして出会い、友情を育み、そして道を違えることとなったのか。X-MENの世界における基本的な約束や価値観、対立構造の成立を、キャラクターの来歴にさかのぼって描きつつ、「キューバ危機」をネタにして映画版X-MENユニバースにおける現代史を語るという趣向である。そのドラマ、アクション、キャラクターの能力を活かしたチーム戦、シリーズの大ネタ・小ネタや楽屋落ちまで、その全てが(よもや想像もしなかったレベルで満載された)シリーズ最高の完成度、満足度である。マニアックに走り過ぎない正攻法の娯楽活劇を、絶妙のバランスで完成させた『キック・アス』のマシュー・ボーン監督は、やはり只者ではないようだ。このまま3部作でも何でも続きを見たいものだ。

キャスティングがいい。もちろん、X-MENの看板があるから許されることとはいえ、一般的な知名度の高さやスターバリューにこだわらず、実力のある役者を揃えたところが成功の一因だろう。特に、作品の2枚看板である「プロフェッサーX」ことチャールズ・エグゼビアに扮したジェームズ・マカボイと「マグニートー」ことエリックを演じたミヒャエル・ファスベンダー(一応ドイツ人だしな)は、れぞれのキャラクターのその後(老後?)を演じたパトリック・スチュワートとイアン・マッケランを「予感」させる説得力ある演技を見せてくれて、見れば納得のはまり具合だ悪役のケヴィン・ベーコンとか、オリバー・プラット、マイケル・アイアンサイドなどのベテラン、ジェニファー・ローレンスやニコラス・ホルトら新進の若手のアンサンブルを組んだこだわりの感じられるキャスティングに、作り手の本気を感じさせられる。

本当の60年代、というのではなく、「フィクションのなかの60年代」を意識したに違いないレトロなデザイン・ワークも目に楽しい。そのなかにあって、コミック調のユニフォームやヘルメットなど、普通に考えたら実写版映画には安っぽくなってしまいそぐわないと思えるようなデザインが絶妙なバランスで共存できている。音楽担当は監督とは『キック・アス』でコンビを組んだヘンリー・ジャックマン。このシリーズは音楽の担当がいつも入れ替わって、これがX-MENの音楽という決定的なイメージを創出出来ていないが、まだまだ馴染みのないこのひと、X-MENシリーズの一編であり、王道の娯楽アクションであるという大枠を押さえながら、60年代スパイ映画風味などを随所に効かせるいい仕事ぶりで、今後が気になる名前になった。

6/04/2011

Blue Valentine

ブルー・バレンタイン(☆☆☆☆★)


砂糖菓子のように甘い映画も好きだが、それとは真逆の映画も好きだ。お涙頂戴の「泣ける」映画のことじゃないよ。厳しく、ほろ苦い現実の中に少しばかりの真実のかけらを見せてくれる映画のことだ。そう、例えばこの映画のように。

結婚から数年が過ぎた夫婦のある日の様子と、二人の出会いから結婚に至るまでのバックストーリーを並行して描かれていく。ペンキ塗りを仕事にしている男は、学歴もなければ向上心もない。最低限の仕事をして、気楽に過ごしていけたらいいと考えているように見える。看護師の妻は大学を出ていて、現実的で努力家である。頼りがいがなさそうな夫にかわり、家計も、家庭の一切も、すべての責任を背負っているふうである。口を開けば互いへのフラストレーションが飛び出し、殺伐とした雰囲気が漂う。こんな二人がどんな出会いをし、何が二人を結びつけたのか。互いの何が魅力的だったのか。あまりにも惨めな現在からは想像のできない二人の過去。一見して輝いて見える過去のなかにも見て取れる、二人のその後を予見させるような問題の種子。

ひつとの関係の始まりと終わりを対比させながら見せるという発想は、あの『(500)日のサマー』を想起させる。ロマンティックな男と現実的な女という組み合わせもよく似ている。しかし、ほろ苦くはあっても、あくまで新種の「ロマンティック・コメディ」にとして楽しめる『(500)日のサマー』に比べ、、本作はあまりに現実味があり、あまりに痛く、あまりに哀しい。これを見て、所詮、こんなものだと達観するのか、そういう結末を迎えないですませるためには何が必要だったのか考えるのか。どちらにしても、折にふれて映画のシーンが心に揺り戻しをかけてくるような、どこか深いレベルで心に傷が残る、これはそういう映画である。

本作の主演、ライアン・ゴズリングとミシェル・ウィリアムズが筆舌に尽くし難いほどに素晴らしい。ここでの二人、もはや演技をしているにように見えないのである。世の中の片隅に、そういう二人がそのまま生きていて、その二人の人生をこっそりと覗き見をしているような、そんな感覚である。夫婦を演じる二人に、映画では描かれていない共に過ごしてきた何年間かの時間が感じられる。それを相性の良さ、というのだろうか。ともに時間を過ごしてきた結果、微妙にすれ違いギクシャクするさまを見せられる相性の良さって、なんか変な表現だな。

もちろん、映画化までの10年以上の時間、おそらく練りに練りあげられたのであろう脚本、それにもかかわらず現場でのアドリブを多用した撮影、そうした映画の作り方があってこそだとは思うのだが、どちらかというと地味な映画で誠実に仕事を重ねてきた二人の実力の、そのレベルの高さには驚きを感じずにはいられない。こういう演技は、もちろん、アカデミー賞をかっさらっていった熱演、怪演と比べるとどうしても目立たないのは致し方ないのだろうが、もっともっと賞賛されてしかるべきものだと思う。

デレク・フランシアンス監督は、離婚家庭に育ったという。夫婦のやりとりや感覚の違いがどのようにして決定的なすれ違いにつながっていくのか、繊細な観察眼によって、そして、大胆な演出術によって再現をしながら、同時に、こんな二人が出会い、惹かれあっていくプロセスをロマンティックに描いて見せてくれた。幕切れの痛切さは、しかし同時に、幸せな時間というものがいかにかけがえの無いものであるかを教えてくれる。それを込みにして、本作のエンドクレジットの美しさをこの10年のベスト、と呼びたい。

6/03/2011

The Kids are All Right

キッズ・オールライト(☆☆☆★)


なんだよ、この邦題は。オールライト、って日本語があるのか?照明器具じゃあるまいし。中途半端に省略しちゃって、偉そうに。

というわけで、邦題はアレだが、映画は素敵である。カリフォルニア郊外を舞台としたコメディ・タッチのホームドラマなのだが、ご存知のとおり、この映画が描く家庭には「父親」がいない。女性の同性愛者カップルが人工授精で授かった二人の子どもが、親に内緒で「遺伝子学上の父親」と連絡をとったことから、平穏だった日常に波風が立ち始める、というはなしである。

特殊な家庭で発生した特殊な状況を題材にしてはいるが、要は、同性愛者カップルの家庭だからといって、さして特別なことはない、とでもいったところだろう。家族のかたちは多様さを増してきているが、子供たちを愛し、守り、育む機能さえ健全であれば、the "kids are all right" であるということ。また、そうした責任を引き受けるものだけが、家庭をもつ幸せを享受する権利があるのだということを描いているのがこの映画である。まあ、そうした多様性を受け入れる社会の存在が大前提なんだけどな。

一家の大黒柱で責任感が強く真面目な医師、そういう父親的な役回りを担っているのが、アネット・ベニングである。いやあ、彼女にアカデミー賞を取らせてあげたかった。いや、写真で見るとたしかに「ショートカットにしたアネット・ベニング」なのだけれど、映画の中の彼女は立ち居振る舞いからして別人だ。いつになく筋肉質な体つきだし、表情も、セリフ回しも、女性らしからぬものがある。知らない人が見たら、そういう役者さんをキャスティングしたと信じてしまうことだろう。

いろいろ趣味的なビジネスに手をつけてみては中途半端なまま、結局は専業主婦的なポジションで家にいるのがジュリアン・ムーア。このひとは強い母親、妖艶な熟女、欲求不満な主婦役から、ハードで男勝りなキャリア女性までなんでも演じてみせる、"雰囲気"があって幅の広い名女優だが、今回の役はとにかく、可愛い。いってみれば、「ドジっ子」な感じのキャラクターを、あっけらかんと演じるジュリアン・ムーアはものすごく新鮮なので、この作品で彼女のファンが増えるのではないだろうか、と思ったりする。

で、この家庭にたいする闖入者、遺伝子学上の父親を演じているのがマーク・ラファロである。こんな男の遺伝子から、色白ブロンド美人のミア・ワシコーシカが生まれるわけ無いじゃん、というむさくるしい風貌の気のいい自由人を飄々と好演。いかにも西海岸な感じのゆるーい英語の口調がたまらない。しかし、このキャラクターがあまりに魅力的であるがゆえ、映画の中でのこの男が「家庭を持つ責任から逃げているのに、その果実だけを得ようとする身勝手な男」として、どちらかといえばネガティブに描かれていることが分かり難くなっている。逆に、家族に対する責任感でいっぱいいっぱいになっていくアネット・ベニングが悪役にすら見えるのは、ちょっとした演出のさじ加減ながら、失敗なのではないか、と思う。

同性愛者ではない観客の目線では、遺伝子学上の父親が「無責任男」というよりは、描かれている家庭に欠けた要素、もしかしたら生物学的な意味での男性性であったり、自由さ、おおらかさのようなものを持ち込むことができる存在のように見えなくもない。その流れで言うならば、ハッピーエンドの形というのは、変則的な家族における新しいメンバーとして、この男を迎え入れることなのではないか、と思ったりもする。

しかし、この映画の立場や主張は違う。すなわち、同性愛者の作った家庭だからといって、なにかが足りないとか、欠落しているというのは偏見であり、差別的な物の見方であるということだ。また、遺伝上、生物学上の親よりも、「育ての親」が本当の親である、ということだ。だから、責任を引き受けずに美味しいところだけをつまみ食いしようとした「男」の身勝手な行動は否定されなくてはならず、安易に招き入れられるものではないということになる。まあ、正論ではあろう。

この映画の主張やメッセージをすんなりと受け入れることができるかどうかは別として、演技巧者たちの繰り広げるコメディとしてだけで十分お釣りのくる面白さである。アネット・ベニングの凄さに感動し、そしてジュリアン・ムーアの魅力に目を奪われたらよいと思うのだが、どうだろうか。

Chloe

クロエ(☆☆☆)


夫の不貞を疑った妻が、女にだらしがない夫の本性を暴こうと娼婦を雇い、誘惑させて反応を探ろうとする。娼婦の報告で疑惑が確信へと変わるだけでなく、夫と娼婦とのあいだで行われた秘め事を聞いて想像をふくらませた妻は、ただならぬ感情に苛まされるようになる。すべてを精算しようとした妻が知る真実とは。2003年の仏映画『恍惚 (Natarie...)』のリメイクで、監督はアトム・エゴヤン。夫がリーアム・ニーソン、妻がジュリアン・ムーア、娼婦がアマンダ・セイフライド。

ジュラール・ドパルリューとエマニュエル・ベアールが出演しているオリジナルは未見。で、エロティックな罠による浮気夫への復讐譚かと思ってみていると、寝取られ属性に目覚めて悶える妻の話になり、そのままどこまで変態的な展開になるかと期待して見ていると、娼婦と妻のレズ・セックスの映画になり、ハリウッド調サスペンスで幕を閉じる。なんじゃそりゃ。

この2ヶ月ほど、『ジュリエットからの手紙』、『赤ずきん』に本作と、3本立て続けに出演作が公開されて、ときならぬアマンダ・セイフライド祭りとなっている。ここ最近の「女子映画」の顔といってもよい彼女が、エロティックに誘惑する娼婦を演ずるというのでどういう風の吹き回しかと思ってみてみれば、なんとことはない、大きな意味で、いつもとおんなじ路線の役柄だ。もちろん、いつになく積極的に脱いで男性観客の目を楽しませてはくれるけれど、男の望むセックス・オブジェクトを演じているのではなく、「男の望むセックス・オブジェクトを演じている女性」を演じているのである。もうひとつついでに、彼女の役柄の視点からこの物語を再構築してみれば、「仕事として客の望む姿を演じ続けてきたひとりの孤独な女性が、ふとしたきっかけで知り合った相手に叶わぬ一方的な恋心を抱く」という話なのだ。

一見して、欲求不満のセクシーな中年女性が性悪女にひっかかるエロティック・サスペンスとしてパッケージングされてはいるが、実は、それは商売上のひっかけに過ぎない。本作が、この娼婦のモノローグで幕を開けるのも、映画のタイトルが彼女の名前であることも、まあ、あとになって思えば、これが本当は「彼女」の物語であることを示唆しているのだ。なるほどね。

「クロエ」という女性の視点で見ることによって、『ルームメイト』のジェニファー・ジェイソン・リーとか、『危険な情事』のグレン・クロースとか、男が観ると恐怖の対象でしかないんだけど、どこか孤独で哀しい女性たち、平和な生活に侵入し破壊する異端者として哀れみを誘いつつも、最後には残酷に排除されていく女性たちの系譜が見えてこないだろうか。だから、この「娼婦」の役は、単なるセクシー美女俳優ではなく、むしろ女性観客に共感を呼ぶ役柄ばかり演じ続けているアマンダ・セイフライドだったということだ。ちぇ、こいつ別に好きな女優じゃないんだけどな。目と目のあいだが離れたヘン顔だし。

リーアム・ニーソンはにやけ顔の女好きなのか、単に愛想がいいだけの真面目な堅物なのか、どうっちにでもうけとれる曖昧さで観客をミスリード。ジュリアン・ムーアは本当に巧い女優さんだし、こういう役はお得意とするところ。アトム・エゴヤンの演出は、商売上の要求とドラマ上の要求をバランスさせながら、ジュリアン・ムーアの物語としても、アマンダ・セイフライドの物語としても成立させており、かつ、安っぽくならない程度に変態ぽいところもいい。製作にアイヴァン&ジェイソン・ライトマン父子の名前があって、ってことは、実質これは、カナダ映画ってことですか。舞台もトロントだしな。

しかし、クロエには違う結末を用意してあげたかったな。この手の映画ではもう、ああいう終わり方をしないと観客が納得してくれないとでも思ってるのかね。

5/28/2011

My Back Page

マイ・バック・ページ (☆☆☆)


映画評論などで知られる川本三郎の私小説的な原作の映画化で、1970年前後を舞台に、大物活動家気取りの学生が引き起こした朝霞自衛官殺害事件により、かねてより取材の過程でその学生との親交を深めていた新聞社の記者が追い込まれていった葛藤を描く。向井康介脚本、山下敦弘監督。

原作は読んでいないし、そこに描かれたはなしがどこまで事実に基づいているかなどということには興味はない。ただ、リアルタイムでその時代を知る由もない作り手たちによるこの映画を見て、この映画の中には何がしか、普遍的な物語を描くことに成功しているようには思う。その物語というのはこうだ。「それにふさわしい覚悟や実力も定かではないのに、とにかく何かしら事を起こして名を上げ、早くホンモノにならなければ周囲に取り残されてしまうと焦っている男達が、そんな焦りゆえに、引き返すことのできない場所、取り返しの付かない状況に追い込まれていく話」、だ。

もちろん、これは、「エリート気取りの世間知らずな青年が、同じく功名心に駆られた詐欺師的なクズ男に手玉に取られ、大局も見えないまま、青臭い理想にすがって身を持ち崩す話」、でもある。あとになって、「俺、なんで信じちゃったのかなぁ」と。

でも、「なんで信じちゃったのかなぁ」っていうのだけれど、ほら、結局、人間というものは、信じたいと思うことを信じるようにできている生き物なのだ。そして、その信じたいという気持を、そこにつけ込むようにして利用するやつらもいる。はたからみれば、松山ケンイチ演ずる人物の胡散臭さなぞ一目瞭然なんだ。だから、あんな演技、あんな演出じゃ、なんで周囲の人間が騙されるのかわからないっていう人もいるわけだけれど、じゃあ、例えば、「原発は安全、低コスト、CO2を排出しないから環境にも優しいし、原発なしには資源をもたないこの国は立ちゆかない」って、ほら、そんなデタラメの嘘っぱちを勝手に信じておいて、あとになって騙されたと怒っている連中のことはどうなのさ?と思ったりもするわけである。

人は、信じたいと思うものを信じるし、ある時点まで行くと引くに引けなくなって、さらなる泥沼につっこんでいくものだ。それに、詐欺師のたぐいってのは、人のそういう心理につけ込むものだ。

結局、自らの中にある弱さ、焦りが、信じたいと思うものを信じさせてしまったのだという事実を受け止め、良かれと思ってしたことが招いた結末に涙するしかない、そういうほろ苦さは、いまを生きる我々の誰もが共感できるものなのではないだろうか。映画の冒頭で描かれるウサギの死が、まわりまわって、イノセンスの終焉に涙するラストの主人公につながる。そのとき、この映画を観る我々観客もまた、主人公と同じ問いを自らに問わねばなるまい。このシーンの妻夫木聡はいい。最高にいい。『悪人』を経た成長を見せてくれた。

一方の松山ケンイチも頑張った。あの演技を少し過剰だと、周りの人間が何故あんな人間についていくのかわからなくなってしまうという意見も聞くが、それをいうなら、何故未だに「オレオレ詐欺」の類にダマされる人間がいるのかわからない、というのと同じことだ。周りの人間だって彼が本物だと、彼についていくことで自分もまた何者かになれるのだと、信じたかったのさ。松山ケンイチの演技は、この人物をただの得体のしれない詐欺師的クズに見せるのではなく、この人物のなかにある焦燥感や功名心、未熟な思い込みや、おそらく自身で気づいている自分の実力や限界と、それ故の哀しみ、それ故の小物っぷりみたいなものも感じさせてくれた。

この二人に限らず、共演のキャストがみな良い仕事をしている。先輩記者、京大の活動家、ワンポイントで出演している大物。みんないい。

映画の前半、複数人数が部屋で話している場面でのフレーミングや切り替えしのカット割りが少々不自然で気持ち悪いなぁ、と思ってみていたが、映画全体では全景をワンフレームに収めてのだらだらした長回しがやたらに多く、イライラさせられた。ちょっと気取り過ぎ。尺も長い。脚本段階で、何を描き、何を描かないか、すなわち本作のテーマが何なのかについて整理がついていないまま漫然と撮って、編集で何とか見られる状態に仕上げていったんじゃないかと邪推もする。なんだか脚本家・監督のコンビがホンモノかどうか、もう少し見てから判断したって遅くないかとは思った。

5/21/2011

Black Swan

ブラック・スワン(☆☆☆☆)


以前、『クローサー』でストリッパーを気合充分に演じてみせたのに、やっぱり優等生でお行儀のよいイメージが崩れたりはしなかったナタリー・ポートマンの主演で、優等生でお行儀のよい主人公が芸道を極めるプレッシャーによって自分の殻を打ち破ろうと葛藤し、次第に強迫観念的な妄想と狂気にとらわれていくという話をやる。なんという抜群のアイディアだろうか。主人公に追い落とされる先代プリマにウィノナ・ライダーという配役も完璧。ライバルに人気急上昇中、ワイルドで少し下品目なミラ・クニスというのも慧眼。落ちぶれたかつての人気プロレスラーの話をミッキ・ローク主演でやってのけた前作もそうだが、ここのところのアロノフスキーは企画とキャスティングが絶妙すぎて神懸っている。

で、性格の異なる白鳥と黒鳥の両方をひとりで演じるのが通例になっているというバレエ『白鳥の湖』を題材に、自由に解釈された心理的スリラー映画である。バレエ映画を期待すると肩透かしを喰らったり、ホラーの範疇に入る不穏な空気、不意打ちのショック描写、それに肉体的な痛みを伴う描写に悲鳴が上がるかもしれない。映画の雰囲気は、この監督にしては比較的オーソドックスにストーリーを語ってみせた『レスラー』と、日常の中に強迫観念や妄想が入り込んでくる技巧的な『レクイエム・フォー・ドリーム』が混ざった感じである。

物語は、そのように着地するほかはないくらいに、狙いすましたような結末を迎えることになるが、完璧、という言葉と共にホワイトアウトするエンディングは、まさに完璧にキまっている。そのエンディングに、監督自ら姉妹編であると語る『レスラー』のエンディングが二重写しになるようなイメージを重ねているのは意図的なものだろう。徹底的に、精緻に作り込んだ作品ならでは窮屈さも感じないではないが、キャストたちがそれぞれのキャラクターに人間味を吹き込んで、血の通ったドラマになり得ている。

一人称の心理スリラーなので、主演のナタリー・ポートマンは文字どおり主演女優として映画を背負っている。バレエを実際に踊ったのが誰かと騒ぎになったのも記憶に新しいが、仮に相当以上のシーンでダブルが踊っていたにせよ、映画の価値は変わるまいし、彼女の演技の価値もまたしかりである。『クローサー』などでは、子役イメージからの脱却のための背伸びをした必死さが先にたってしまっていたが、今回はそこが映画の題材とシンクロしつつ、映画の主人公と同様のプレッシャーによって追い込まれた感がひしひしと伝わってくるのだから、そのことに対して評価が与えられても悪くはないのだと思う。まあ、演技を頑張っていることが分かりやすい役回りではあるのだが、それゆえに、アカデミーみたいな賞には合っているともいえる。

本作においては、主人公とヴァンサン・カッセル扮する芸術監督、先輩プリマ、ライバルとの少女漫画チックな関係に加え、主人公と母親との関係性が大きく扱われている。演技という意味では、地味かもしれないが、この母親役がよい。かつて主人公を身篭ったことでバレリーナとしての(とは言ってもそれほど華やかではない)キャリアを諦めた母親の、娘に対する期待と嫉妬、愛情と、それゆえの過干渉。これをベテランのバーバラ・ハーシーが納得のリアリティで演じて見せて素晴らしい。説明されなくても、彼女の佇まいで過去のドラマが全て了解できるくらいの説得力には唸らされた。

アロノフスキーには技巧的な映像を作る監督というイメージを抱いていたが、『レクイエム・フォー・ドリーム』でのエレン・バーステイン、ジェニファー・コネリーに始まり、本作にいたるまで、ベテラン、若手を問わず、的確なキャスティングと演出によって役者のポテンシャルを引き出すことにも長けてもいるのだということを、改めて印象づけられた。心理的に追い詰めていく部分の「恐怖」には見ごたえがあるが、音などを使った安易なホラーに多く見られる脅かし演出が頻出するのは少し陳腐に感じられるところだろう。

作品の出来とは関係ないことだが、フォックス・サーチライトのアート系(?)作品にもかかわらず、拡大公開という賭けに出て、それが見事に当たったというのはめでたいことである。ナタリー・ポートマンの日本における人気や知名度、アカデミー賞の受賞、バレエという題材、それぞれ単独では持ち得なかったインパクトが、そのかけ合わせのなかで生まれてきたとしか思えない。実に興味深いことだと思う。

Letters to Juliette

ジュリエットへの手紙(☆☆☆)


新婚(婚前)旅行でイタリア・ヴェローナを訪れた主人公が、旅先で出会った男と恋におちて婚約者を捨てる話、と書くと身も蓋もないな。まあ、ちょくちょくでてくる女性客目当ての「お気楽観光・自分探し・恋愛映画」である。ついでにいうと、少しだけキャリアアップ・ネタも混ぜてきた。主人公が男目線での魅力にかける役を得意としているアマンダ・セイフライド。

・・・とここまでなら、この映画なんの魅力もない。しかし、この映画、ちょっと面白い。風光明媚な異国で自分探しをしたり、食べたり飲んだり祈ったりいるだけではなくて、なかなか魅力的なサブプロットがあり、むしろそれがメインの座におさまっているようにすらみえる。かつての想い人を探して一言謝罪をしたいという老女の物語だ。

映画のタイトルにもなっている「ジュリエットへの手紙」。ヴェローナといえば、「ロミオとジュリエット」の舞台となった土地であるのはご存知のことだろう。そこに観光ポイント「ジュリエットの家」があるという。このスポットを訪れる人々が、恋の悩みやらなにやらを綴ったジュリエット宛の悩み相談手紙を残していくと、「ジュリエットの秘書」を名乗る地元の人々がその手紙を回収し、ボランティア的に手紙への返事を書いている、というのがこの映画でのお話しである。

開店を控えたレストランの仕入れ先業者やらワインのオークションやらに忙殺されている婚約者に放置された(・・・といえば主人公目線だが、婚約者の人生の一大事に付き合おうともしない)主人公が、ジュリエットの家の壁の隙間に残されていた50年前の手紙に返事を書く。ライター志望だけあって、なかなか良い文章だったのだろう、手紙に触発された、いまは英国に住む老女が、かつての想い人を捜して自分の裏切りを詫びたいと、世話役の孫息子を連れてヴェローナにやってくるのである。タイトルは『ジュリエットへの手紙』だが、主人公が書いた「ジュリエットからの手紙」が、老女の運命の恋と、その孫と主人公とのあいだの現在進行形の関係を結びつけていく。

この映画、ともかく、老女を演じている大ベテラン、ヴァネッサ・レッドグレイブの魅力に尽きる、のではないか。映像で語られることのないキャラクターの歴史を見事に感じさせる名演。自分に世話をやく孫と、主人公との関係をさり気無く気づかう余裕。恋する少女そのものにしかみえない愛らしさ、眼の奥の深い哀しみと、時々宿る茶目っ気のあるユーモア。そして恥じらい。相手を捜し歩く過程で出会う(いかにもそれらしい)イタリア親爺たちの表情も自然体で魅力的なのだが、彼らを相手にしながら、時には上手にあしらいながら、また自分の求める人ではなかったと、顔では笑い、心で落胆する。

最初に指摘したようなありがちな女性向けエクスプロイテーション映画の枠組みを使いながら、もうひとつの、違った物語を語ってみせるというアイディアがこの映画の良いところであるが、形式的にメインとなる主人公の恋模様のほうはあまりうまく描けているとは思わない。主人公の婚約者を一方的に悪く見えるように描くのもフェアじゃないし。しかしまあ、それがメインの映画はないのだと割り切れば、観終わったあとで幸せな気分になれる佳作である。

ゲイリー・ウィニックはケイト・ハドソン、アン・ハサウェイ共演の『ブライダル・ウォーズ(Bride Wars)』などの監督。1961年生まれだというのに、今年2月に亡くなっている。hn