8/27/2010

Jenifer's Body

ジェニファーズ・ボディ(☆☆★)

まあ、見に行ってみたら何故この映画が当たらなかったのかは良く分かった。映画が訴求する内容と観客層の不一致だな。

表向きは、『トランスフォーマー』シリーズで人気の出たセクシー系のミーガン・フォックスを主演にたて、主に若い男性観客をターゲットとしたエロティックなスリラーのように喧伝しているわけである。

が、実態はどうかといえば、(ストリッパーやテレフォン・セックス・オペレーター経験ののち) 『Juno』で一躍人気脚本家になったディアブロ(=悪魔!)・コーディと、失笑ものの『イーオン・フラックス』以来新作が撮れていなかったカリン・クサマの女性クリエイター・コンビによる、(1)女性をモノのように扱う自分勝手な男どもへの復讐と、(2)美人とメガネ女子の不釣合いな親友関係の複雑な真実と崩壊を描いたブラック・コメディなのだ。そりゃいったい、誰がターゲットな映画なの?ミーガン・フォックス目当ての観客に嫌な思いをさせるのが目的?

物語の中心に、男たちの注目を集めずにはいられない美人チアリーダー(ミーガン・フォックス)と、どうみても全く不釣合いな地味メガネ子(アマンダ・セーフライド)の、幼馴染みの不思議な友人関係がおかれている。親友だというこの2人だが、見かけだけでなく、考え方も行動も全く異なるように見える。美人チアは男を(文字通り)食い散らかしながら美貌を増していくが、メガネ子は地味な男と真剣交際だ。自分という存在を蔑ろにして男を食い物にしていくチアの変容に戸惑っていたメガネ子も、さすがに自分の彼氏に手をだされたら怒りが爆発する。その一方で、「親友」を酷い目にあわせた連中に復讐を果たそうとするあたりが複雑なところでもある。これは複雑な親友関係を描いた物語であると同時に、抑圧的で真面目な主人公が精神的に開放され、自立的で強い女性へと成長していくストーリーと読むことができる。そういう意味で、これは本質的に女の子映画なのである。

美人チアの変容を「オカルト」で説明するのが、『ロストボーイ』から着想を得たホラー好きの脚本家らしいところである。インディーズ・バンドが人気を獲得するためにオカルトに頼り、処女の生贄をささげたところ、「処女」ではなかった体 (Jeniffer's Body) に邪悪 ("actually evil, not high-school evil" ) なものが乗り移って生き返る。死んだ人間が何か邪悪なものに変わって戻ってくるという話はお馴染みのパターン。このプロットが、身勝手に扱われた(レイプ)されたチアが、彼女をセックスオブジェクトとしてしか見ない男どもに復讐して回る、というストーリーとして読める。その意味で、これは血塗れのフェミニスト映画でもある。

2つのストーリーが、オカルト・ホラーでくっついて、ブラックコメディ風味になっているのが本作のユニークなところであるが、正直に言ってそれが上手に融合しているようには思えない。ダイアローグにはディアブロ・コーディらしいユニークさが光っているが、字幕や吹き替えだとニュアンスがでにくいところ。カリン・クサマの演出は単調でユーモアが足りない。そもそも主演のミーガン・フォックスが演技下手だから、単なる美人チアなだけではないはずの「ジェニファー」の、(ボディはともかく)内面を感じられない。アマンダ・セーフライドがメガネをはずしてもなお可愛くないのも、ちょっと困る。そうはいいながら、このアンバランスさを楽しめる観客であれば珍品として面白がれるとは思う。本作、何年かしたら、ある種、カルト的な評価を得ているかもしれない、なんてね。

Predators

プレデターズ(☆☆☆)

「リプリー」という主人公がいる『エイリアン』シリーズと違って、『プレデター』シリーズというのは、(シュワルツェネッガーが続編出演を断ったための結果としてではあるが)特定の主人公がおらず、凶悪な宇宙怪物が人間狩りを楽しむという話である。毎回異なる主人公がそれとは知らぬまに怪物とのゲームに巻き込まれ、生存をかけて闘うことになる。毎回、場所を変え、人間側のキャラクターを変え、目先を変えることはできるが、結局のところ、同じことを繰り返すだけである。

「AVP(対エイリアン)」ものまで数に入れると通算5作目となる本作もまた、目新しさに欠ける反復であることには違いがないのだが、本作のそれは間違いなく意図的である。舞台はジャングル。人間側は混成といえどミリタリー調の小集団。これが、第1作の意匠をなぞったものであるのはいうまでもない。ご丁寧にも、台詞として第1作の事件の顛末が語られ、「正当な続編」であることを主張するところや、そこで語られたシュワルツェネッガーの戦術を参考にし、身体に泥を塗っての肉弾戦までかたちをかえながらも再現される。シリーズの続編であり、原点回帰であり、仕切りなおし。それが本作の良いところであり、限界であり、全てである。そうであるならば、やはり軍配をあげるべきなのは「オリジナル」であり、その二番煎じである以上、本作にはそれ相応の評価しか与えられまい。

アーノルド・シュワルツェネッガーというインパクトのある主演者がいないかわりに、人間側の7人にそれぞれユニークなバックグラウンドを設定して描きわけ、集団ものの面白さを出している。紅一点の活躍や、日本刀で一騎打ちに臨むヤクザ、医者を自称するヘナチョコなど、ここはシリーズのなかでも一番成功している部分である。主演に起用されたタレ目のエイドリアン・ブロディはまさかの肉体改造により筋肉ムキムキ男として登場し、これまでのイメージを払拭する熱演振りがみもの。こやつ、こんなに男前だったっけ?タフガイというよりヘナチョコ側のキャラだと思ってたんだけどなぁ。

怪物側にもいろんな種族がいるという設定か、過去作と同類のほか、より体が大きく、少々異なる行動規範をもっている新型が3体登場し、新型のアーマー類や武器が披露される。まあ、こういうのはシリーズのお楽しみでもあるのだけれど、正直、キャラクター商品ありきの姑息なバリエーションのように思われる。というのも、これが物語としての面白さにはうまくつながっていないからだ。旧型(?)と人類の共闘がきっちり描かれていれば別だっただろうが、新型の強さを印象付けるためだけの役回りで、ちっとも面白くない。

本作の指揮を委ねられたロバート・ロドリゲスがつれてきたのが監督のニムロッド・アーントル。このひとの演出は、キャラクターの描き分けをみても、いざという時の見えの切り方を見ても、それほど悪くないと思う。この題材、この脚本であれば及第点といえよう。(少なくとも、単調・平板が特徴の第2作監督、スティーヴン・ホプキンスよりは絶対に上)。続編があるなら、同じ監督で、本作の生き残り組を主演にして作ったらいいと思う。そこで改めて、(ロドリゲスを含めた)作り手の創意が問われることだろう。なにせ、本作はリメイク的な仕切りなおしに過ぎないわけで、その先を見てみなければ本当の評価にはならないということだ。

8/21/2010

Colorful

カラフル(☆☆☆☆)

これは、あれだ。『素晴らしき哉、人生!』の変種だね。

死者の魂がこの世に戻って、とか、他人の体を借りて、とかは使い古されたパターンではあるけれど、この作品はそっちの系統に似ているように見えて、ちょっとだけ力点の置かれた場所が違う。もう少し、『素晴らしき哉、人生!』的、だ。

「クレヨンしんちゃん」もので名を上げたベテラン原恵一の、『河童のクゥと夏休み』以来となる新作である。重大な過ちを犯した「死者の魂」が、半年間の「修行」と称し、自殺直後の中学生の体に入って人生を生き直すチャンスを与えられるという話である。受験を控えた中学3年生、その家族たち、クラスメイトたち、そしてうんざりするようなごく普通の毎日。わけも分からないまま、どのように振舞えば良いかも分からないまま、日常生活のなかに放り出された主人公の魂が、周囲の人々との関わりを築きながら生きていることの喜びに目覚めていく。

冒頭、いきなり死後の世界で関西弁をしゃべる少年に出会い、この世に送り返されるところで物語は幕を開ける。その意味では「ファンタジー」というべきジャンルなのであるが、スーパーリアルに再現される世田谷区、二子玉川界隈の風景によって、現実の世界のすぐとなりであることを強く意識させられるようになっている。ことさら派手なイベントや展開のない日常生活を舞台に、日常生活を生きる物語。それを丁寧に描くという難行、苦行への挑戦といってもいいだろう。

家族と囲む食卓がクライマックスだといったら、驚くだろうか。そのシーンでのちょっとした箸の上げ下ろしまでがドラマである、といったらどうだろう。映画の中に挿入された一番のイベントが、路面電車の跡地めぐり(映画のオリジナル)だったり、援助交際の後輩の腕をつかんで街を走り抜けるシーンだったり。また、作品を象徴するのが、コンビニで買った肉まんを、ゴミ箱の横にしゃがみ込んで友人と分け合う何気ない場面だったりするというのはどうだろうか。

自殺未遂あがりの生徒に気を回しすぎる教師の姿、不倫を詰られた母親の動揺や後悔、メガネ女子の挙動不審な様子やセリフ回し。気を使った母親が手作りする普段着だけど美味しそうな家庭料理。思い返してみても、この映画にはごくありふれた、しかし、とても魅力的な瞬間が溢れている。実写であれば過激だったり生々しかったりすることも、とりたてて代わり映えのしない学校生活も、全てが等価に、丁寧に描かれていく。日々を生きる喜びや悲しみ、希望や不安、人と人のつながりや互いを思う気持ちが、そういう描写の積み重ねの中で主人公の心のなかに満たされていく。

丁度、直前に高畑勲の『赤毛のアン』を見ていたせいだと思うが、確かに昨今の主流というわけではないにしろ、こういう日常を描く芝居、日常的な風景や動作、所作をきっちり描いて魅せるのは、高畑勲あたりから聯綿と続く、日本のアニメの良き伝統なのだろうと思った。その系譜の、一番新しいところに名前を連ねたのが本作だと理解した。ファンタジー要素であるところの、関西弁少年と主人公のやりとりは(ふたりとも声が高いトーンであるのもあって)耳障りだし、台詞のやりとりにしてもあまりよい絡みになっていないと思うが、そんなものは小さな傷に過ぎない。一見して地味で難しい題材に挑んで、原作とも違う、アニメーション映画として初めて表現できる世界を作り上げたこの傑作。それが劇場にかかっているあいだに、できるだけ多くの観客の目に触れることを祈っている。

Caterpillar

キャタピラー(☆☆☆★)

江戸川乱歩の「芋虫」をモチーフに(とはいえ著作権料を踏み倒し)、いかがわしいゲテモノ小屋の見世物の雰囲気のなかで反戦のメッセージを強烈に主張する力作。(もちろん、本作が力点を置くそうしたメッセージは乱歩が意図したものではないということなので、結果としてクレジットから外れて丁度いいのではないか。)

お国のためと戦地に送り出されたが、両手脚を失い、聴覚も言葉も失って帰郷した夫は、武勲にたいして勲章を与えられ、生ける軍神と祭りはやし立てられるが、食べて、排泄し、口に挟んだ鉛筆で「ヤリタイ」と紙に書いてセックスを要求するだけの肉の塊である。その世話を押し付けられた妻は、貞淑な妻の鏡を演じつつ、やがて、かつては自分に暴力を振るった夫を精神的な支配下に置くことに快感を覚えるようになっていく。異常な性欲に端的なように、醜い姿になってなお生きることへの執着があった夫だが、妻との立場が入れ替わり、やがて、戦地で暴虐の限りを尽くした罪悪感に苛まされるようになる。時は流れ、玉音放送が流れる夏の日、家を這い出した夫は、水の中に身投げして命を絶つ。

原作者(?)の意図は別として、戦争というものの非人間性、「お国のため」の一言で思考停止に陥ったバカバカしさを、ある夫婦の息詰まる愛憎の中に凝縮させた力技が本作の白眉である。ここで描かれる「反戦」は、「戦争で四肢を奪われて悲惨ですね」という次元の話ではない。そういう状況を作り出した権力に対する怒りである。戦争の醜さや非人間性を訴えるのに、巨大なセットや派手な戦闘シーンは必ずしも必要ではない、ということを思い知らされる。大胆な発想と描写によってメッセージを語りつくそうとする若松監督の、インディペンデント魂の迫力がここにある。

寺島しのぶは演技賞の受賞も当然と思われる憑依的な熱演で、芋虫男に対する複雑な感情とその変化を演じきっており、その表情が、その視線がスリリングである。VFXの力を借りて四肢をなくした大西信満の台詞のない演技もすごいが、「クマ」という役名の、村の知恵遅れ男を自然体で演じる篠原勝之がいい。あの男、バカのフリをして徴兵を免れていたんじゃないか、そうやって反戦の思想を貫いた人間がいてもおかしくない、と想像をめぐらせる余白があるところがいい。

日本兵が戦地で残虐行為を行うなどということは断じてなかったというポジションをとりたいナルシシストなんかは、中国大陸で若い女性を陵辱し惨殺してきた芋虫男の設定に反発したりするのかもしれない。また、国家という権力を象徴するものとして昭和天皇・皇后の写真を度々挿入することについても不快感を覚える向きがあるんだろう。しかし、そういうことを云々いうのは本作の描かんとするものと向きあおうとしない心の狭い態度である。召集令状ひとつで戦地に向かわされ、命を奪い、命を落とす。それを「お国のため」と美化し、嘘の報道で国民を欺き、犠牲を正当化する。その結果はなんだったのか。ここで問われているのは、誰が正しいとか、正しくないということではなく、国家の名において行われた戦争により失われた命である。その、圧倒されるような事実を前にして、右も、左も、ない。本作が伝えようとしていることはそういうことだ。

Anne of Green Gables

赤毛のアン グリーンゲーブルズへの道 (☆☆☆★)

監督として高畑勲、場面設定・画面構成で宮崎駿、キャラクターデザイン・作画監督として近藤喜文、脚本には神山征二郎もクレジットされているあたり、今日振り返るとなかなか豪華である。

本作は、1979年、いわゆる日曜夜の「世界名作劇場」枠で放送された『赤毛のアン』全50話のうち、冒頭6話分を劇場公開を念頭において高畑監督自らが100分に再編集した作品で、1989年に作られたのち、諸般の事情でお蔵入りしていたもの、らしい(VHS版が発売されていたことがあるみたいだが)。このたび、「三鷹の森ジブリ美術館ライブラリー」シリーズの一環として劇場公開された。

このTVシリーズ、時折、ローカル局などで再放送されているようである。が、当方、本放送のとき以来ほとんど見返す機会がなかったので、本当に久しぶりに本作をみた。もちろん、30年も前のTVアニメを再編集しただけであるから、今日の劇場公開作品とストレートに比べるべくもないのは当たり前。しかしこれはこれで、楽しく鑑賞できる仕上がりであった。

なんといっても「物語」という意味ではほんの冒頭に過ぎないところなのに、それで1本の映画としてまとまっていることに感心させられた。

冒頭6話というのは、「孤児院から引き取る男の子を迎えに行ったマシューが、手違いでやってきたおしゃべりで風変わりなアンを連れて帰るが、この手違いに驚いたマリラがいったんは仲介者のスペンサー夫人の元を訪れて孤児院に送り返そうとするも、アンの身の上話を聞いたり、別の家庭にもらわれていった場合の過酷な扱いを思い、結局、アンを養子として迎え入れることを決心、本人にそれと伝える」ところまで、である。作中での時間の流れにしてなんとわずかに3日間の出来事で、6話(本作100分)を走り切るというのは、考えてみると、並大抵ではない。

そもそものTVシリーズの構成が贅沢であったとはいえ、再編集版である本作ではそれが顕著である。話をダイジェストとして詰め込むことのをやめ、アン・シャーリー、マシュウ・カスバート、マリラ・カスバートの3人に焦点を絞り込み、その人となりや、心の動きを、それぞれの仕草、表情、台詞によって、実に丁寧に紡ぎ出す。そこに物語を、ドラマを見出していく。大きな事件やイベントはないが、決して退屈することはない。アンの突拍子もなさやおしゃべりで面倒くさいところ、それに驚いたりうんざりとしたりしながらも好意をいだいていく老兄妹を、主人公に寄り添いすぎない客観的な視点を保って見つめ、毎日繰り返している家事仕事や野良仕事の風景を手抜きをせずに見せる。こういう日常の光景を芝居として描くのは高畑監督の得意とするところであり、日常のディテイルに豊かな表現を見出すアプローチは今につながる日本のアニメの良き伝統のひとつでもある、と思う。

豊かな表現といえば、井岡雅宏の背景美術が素晴らしい。今回、上映に合わせて用意されたカード形式のパンフレット(三鷹の森ジブリ美術館ライブラリーおなじみの体裁)でも堪能することができるが、毎週毎週放送されていたTV番組だとは思えないクオリティの高さ。また、三善晃の主題歌、毛利蔵人の劇伴共に素晴らしい仕事で、こうした仕事に支えられていたからこそ、本作が原作のイメージを壊さずに忠実にアニメ化したとの評判をとることができたのだと理解できた。

惜しむらくは、BD-Rからのプロジェクション上映の映像品質が必ずしも高くないことで、スクリーンに近い座席で見ていると解像度の低さがかなり気になるものであった。まあ、公開規模も小さいことなので、劇場でかけてもらえることを感謝するのが筋ではあろう。BD上映にすればフィルムを焼いたりするのに比べ、配給コストはずいぶん下げられるものなんだろうね、きっと。

8/16/2010

Zonbieland

ゾンビランド(☆☆☆★)


突然変異を起こした狂牛病由来の病原体が蔓延。人間性を喪失して人肉に群がるゾンビの国に成り果てた米国で、帰るべき場所を失った青年と行きずりのゾンビ・ハンター、詐欺師姉妹が西海岸の遊園地を目指す。英国産ゾンビ・コメディ『ショーン・オブ・ザ・デッド』の成功に触発された、「ロード・ムーヴィー」+「バディ・ムーヴィー」+「ボーイ・ミーツ・ガール」+「オフビート・コメディ」・・・with ゾンビ(風)。

ゾンビ(生ける死者)っていうか、、、設定上、これ、普通に生きてるじゃん!死体じゃないから体もしっかりしていて、獲物となる人間をみつけると、猛スピードで走る、走る(笑)

ここ数年来市場に蔓延している陰惨なホラー映画と違って、からっと陽性、楽観的なところが脳天気で素晴らしい。ゾンビ映画につきものの終末感とは不思議なくらいに無縁だし、ゾンビ映画のパロディとしてもこだわりがないので、そういう方面のファンにしてみれば中途半端な映画ということになるのだろう。とはいえ、この映画には背徳的な快楽がある。それは、中途半端だろうとなんだろうと、「ゾンビ」だというエクスキューズがあることによって、普通はやれない反社会的で残酷な行為をあれでもかこれでもかとやってのけ、それをあまつさえ、笑いのネタにしてしまうところに由来している。

だって、道の真中をこちらに向かってくる人を跳ね飛ばしたあげくに二度轢きするとか、剪定用の巨大バサミで大男の頭を切断するとか、頭の上から巨大なピアノを落として潰すとか、巨大なローラーで轢き殺すところを残り少ない歯磨きチューブを絞るところに例えてみせるとか、射的の的のように次々と撃ち殺すとか、トイレのタンクの蓋で殴り飛ばすとか、そんなこと、常識的に言えばやってはいけないことだし、笑ってはいけないことだろう。もっといえば、ゾンビに扮装しているだけの普通の人を間違って撃ち殺しちゃったら、さすがにまずいだろう。だけど、ゾンビだから。ゾンビ映画だから。殺らなきゃヤられるから。ってなわけで、やっちゃいけないことをやるところにある種の快感があり、笑いがある。

そこで、最強のゾンビ・ハンターと化したウディ・ハレルソンの存在価値がある。アカデミー賞にノミネートされた同じ年に、本作にも出演しちゃうあたりは授賞式の場でもネタにされていたが、いや、そういうところを茶化しながら褒めていたと解釈したい快演であり、怪演である。カウボーイ・ハットとブーツに身を固め、迫りくるゾンビの群れを恐れ知らずに片っ端から始末する大活躍はときに笑いを生み、ときに感動的なほどにカッコがいい。

主人公ら4人組がみんな白人系で、ゾンビにのっとられた米国で奮闘するという図式には、どこかで保守的なサブコンテクストが紛れこんでいるようにも見えなくもないが、おそらくは意図せざるものとして不問に付す。また、ビル・マーレー役で出演のビル・マーレー(本人)が面白過ぎて悶絶(←これを見たくて劇場に足を運んだようなもの)。・・・さすがに映画のテンポからなにから全部を壊してしまうのだが、まあ面白いから許す。

追記:
ビル・マーレーのネタ、場内で反応が薄かったのでチと説明すると、興行・批評とも不振だった『ガーフィールド』実写版でCGI猫・ガーフィールドの声を当てたのがビル・マーレイな(彼の声を聞くため字幕版をやってる劇場を探すのに苦労したこと思い出したよ・・・)。クレジットのあとの「おまけ」でハレルソンが云おうとした台詞「In the immortal words of Jean Paul Sartre, 'Au revoir, gopher'.」は、『ボールズ・ボールズ(Caddyshack)』でモグラ爆殺をしようとするビル・マーレーの台詞で、本人に手本を見せてくれよ、とせがんでいるわけだ。

8/08/2010

Salt

ソルト(☆☆☆★)

つい先だって、ロシアのエージェントが大量に逮捕されたという米国の事件は本作の大掛かりな宣伝の一環だと思うぞ。敢えてこのタイミング、というのが怪しすぎる。どこかで裏金が流れているに違いない。

そう、本作では、久しぶりに「ロシアのスパイ」が大スクリーンに帰ってくるのだ!任務を果たすその日のために米国内に深く静かに潜入し、暗躍する冷戦の亡霊たち。

『リベリオン』(ガン=カタ!)で知られるカート・ウィマーの脚本を、当たり外れは大きいがサスペンス・スリラーの領域を得意としているフィリップ・ノイスが監督。当初予定していたトム・クルーズに代わり、ノイス作品では出来のいいほうである『ボーン・コレクター』に出演していたアンジェリーナ・ジョリーを抜擢。脚本をリライト(ブライアン・ヘルゲランド!)して男女入れ替えるという大胆な転換が、作品を見る限りではかなり報われているのではないか。これはなかなか面白い仕上がりの1本である。

しかしまあ、「二重スパイ」ものなんである。その昔「二重スパイの嫌疑をかけられた主人公が自らの無実を証明する為に奔走するが、実は嫌疑通りに二重スパイでした!」なんていう映画を見てしまったものだから、この手の映画では何が起こっても不思議はないと心得ている。しかし、一般にいってその手の映画の主人公は、観客が好意を抱き、感情移入する対象として描かれるのが常であり、騙し、騙されの展開も、それゆえの衝撃であるのが常道である。

しかし、本作は、そうした作品と似て非なる展開を見せるところが面白い。なにしろ、この主人公、(少なくとも序盤においては)露骨に謎の多い行動をとるのである。観客は、この人物の真意が読めない。信用できない主人公が生むサスペンス。額面通り夫の身を案じての行動かと思えば、次第次第に細かな違和感が積み上がっていくあたりの演出のさじ加減がいい。何が起こっているのか分からないままに迫力のあるチェイスやスタントを連打し、主人公に感情移入をしても良いのか分からない不安な状況のまま、徹底して引っ張り続ける脚本は相当の力技。ストーリーの牽引力、スター女優の吸引力を信じているのだろうが、無茶な冒険をするものだと思う。映画の中盤になって、ようやく主人公の行動原理と目的が知れる決定的な出来事が起こるのだが、そのあとも、ダレることなく突っ走るスピード感溢れる語り口、無駄のない演出が素晴らしい。

アンジェリーナ・ジョリーは、アクション系の作品では彼女のベスト。宣伝文句だけでなく、どうやら相当数のスタントを実際にこなしているようだ。スタントマンが演じるなりしていれば、もっと見た目がスタイリッシュに仕上がったと思われるアクション・シーンがいくつもあるが、彼女自身が演じたからこその限界が見えると同時に、それゆえに感じられるリアリティと迫力もある。主人公を女性にしたことでドラマ的な厚みも出たが、少ない台詞ながら表情で語れる彼女の演技力も作品に大いに貢献している。

映画が終わって気がついたのだが、この映画、たった100分の尺である。非情に密度が濃い、タイトな1時間40分。これは娯楽映画の手本といっていいんじゃないか。個人的に、いくら編集(スチュアート・ベアード)の助けを借りたとはいえ、あのフィリップ・ノイスが「ジェイソン・ボーン」と(近作2本の)「007」が規定した新しいアクション・スリラーの「スタンダード」に則って、これだけ洗練された作品に仕上げてくるだけの力があるとは想定外。嬉しい驚きであった。

この映画のエンディングを続編に色気とか、中途半端とかいう輩がいるようだが、『ガメラ3』や『ダークナイト』の幕切れを最高に格好のよいエンディングだと思っている当方としては、重たい運命を背負った主人公が悲壮な覚悟をもって闇の中に去っていくこの終わり方、痺れるんだけどな。(ほら、あれだ。続編やる気満々ってのは、『ウルヴァリン』とか、『アイアンマン』1・2とか、ああいうやつのことだろう?)

8/01/2010

Brothers

マイ・ブラザー(☆☆☆)

原題「Brothers」。『マイ・ライフ』『マイ・フレンド・フォーエバー』『マイ・ルーム』『マイ・フレンド・メモリー』に続く、感動の「マイ」シリーズ第5弾(嘘) ←ネタが古いよ

優秀で信頼厚い家庭人の兄、屈折した弟。海兵隊員である兄はアフガンに出兵していき、まもなくして訃報が家族のもとに届く。弟は、残された兄の家族と関係を深めていくが、実はアフガンで捕虜となり、家族のもとに戻るために究極の選択を迫られた兄が別人のようになって生還したことで、悲しみを乗り越えて平穏を取り戻したかのように思えた家族の風景に不協和音が生じるようになる。

デンマーク映画『ある愛の風景』(スザンネ・ビア、2004)の米国版リメイクである。脚色は『25時間』、『トロイ』、『ウルヴァリン』のデイヴィッド・ベニオフ、監督は『マイ・レフトフット』、『父の祈りを』等のジム・シェリダン。

リメイクであるとはいえ、題材として、むしろ今の米国で作られることを自然に感じ、違和感がない。まあ、この内容を、外国(語)映画を見ない米国人に見せるためのリメイク、という側面もあろう。

もちろん、これはアフガン対テロ戦争の傷、というだけの話ではない。2つのドラマがここにある。ひとつは、優秀な兄と、その影で父親にも認められず、兄に劣等感を抱き続けた弟のあいだの複雑な感情を描くドラマ(タイトルであるところの "Brothers")。もうひとつは、戦場に赴いた善意の人間が、壮絶な経験の末、人間性を喪失したり、大きな心の痛手を負ってしまうという戦争の非人間性を告発するドラマ。タイトルからすれば、「兄弟」のテーマがもっと前面に出てきても良いと思うのだが、本作は「兄弟」と「戦争」の2つのテーマのどちらかに重心をおくという選択をしきれておらず、結果としてどちらのテーマにおいても深みを出し切れていない。まあ、どちらも普遍的なテーマであるから、ありきたりの踏み込み方では新鮮味を欠いてしまうのも致し方ないだろう。

本作の一番の魅力は弟:ジェイク・ギレンホール、兄:トビー・マグワイアという、ありそうでなかったキャスティングである。当方、この二人のことを「どこかで似た雰囲気だが陰と陽の対」になる俳優として考えていたところがある。多分、ジェイクには『ドニー・ダーコ』、トビーには『サイダーハウス・ルール』などで売り出したころの印象が残っているからだと思うのだが、この二人が兄弟を演じるというのは、それだけでとても魅力的なアイディアだ。しかも、「陽」の側であるトビー・マグワイアが戦場での経験により豹変する役である。トビー・マグワイアが激痩せで熱演(ゴールデングローブ賞ノミネート)しているが、彼が演じるからこその痛々しさがよく出ていると思う。

一方、「フットボール選手だった兄と結婚した元チアリーダー」を演じているのがナタリー・ポートマンであるが、田舎町(撮影はニュー・メキシコ)の元チアリーダーとしては、彼女からにじみ出る知性と優等生ぶりがそれ「らしく」ない。彼女も役の幅が広がってきたが、似合う役と似合わない役があるのは否定できないところだ。