8/27/1999

The 13th Worrior

サーティーン・ウォリアーズ(☆☆)

久々のジョン・マクティアナン監督作は、アントニオ・バンデラス主演、マイケル・クライトンがベオウルフを土台に構想した初期作「北人伝説(Eater of the Dead)」が原作の中世アクションだ。これが、初期のスクリーニングで大不評だったため、音楽の差し替えと追加撮影が決まり、マイケル・クライントン自身が追加撮影を監督。グレアム・レヴェルの音楽がリジェクトされ、巨匠ジェリー・ゴールドスミスが音楽を担当することとなったという代物。そんなドタバタの舞台裏をきくと、なんだか、いやな臭いが漂ってくる。

どんな話か。中世のアラブ世界より辺境のヴァイキングたちの世界に左遷されていた主人公が、北方の村落を襲う「死者を食らうもの」たちから守るための助っ人軍団に、「13番目の戦士」として参加することになった。霧とともに襲ってくる残虐なものたちとの決戦のときは刻一刻と迫ってくる・・・というもの。

前半、主人公らの文化の違いを描いたりして興味深くもあるが、スロースタートな感じ。得体の知れない怪物を相手にしている時の恐怖感みたいなものはそれなりに出ている。しかし、この正体が割れてしまうと、駄目だ。原作ではネアンデルタール人の子孫らしいんだけど。

中盤、相手の根拠地に乗り込むが展開に工夫が感じられず。主人公以外の12人の戦士の描きわけが十分でなく、ただいるだけ。演じる役者も知らない顔が並び、しかも髭面だから、視覚的にも判別がつかない。それを思えば、もうちっと脚本で描きこんでやってほしいところ。

さすがにクライマックスは画面作りに気合が入っていて、わりと盛り上がる。なんと、雨中決戦だ。そうか、『七人の侍』がやりたかったのか。しかし、盛り上がったと思ったら終わってしまう。もう少し見せてくれよ。

バンデラス扮するキャラクターが他のヴァイキングたちの言葉を理解するようになるところの演出が、マクティアナンの過去作『レッドオクトーバーを追え』でやった、ショーン・コネリーの口もとのアップ以降、ロシア人たちの会話が英語に差し替えられる演出を応用版になっていて面白い。ゴールドスミスが書いた音楽はさすが巨匠、なかなか燃える。

しかしいっちゃなんだが、そもそもこの話、それ自体がつまらないんじゃないか。なんで今頃、クライトンの初期作品を引っ張り出してこなくてはならなかったのか。『コンゴ』の失敗を見て気付けよ、それじゃダメだってことくらい。原作者のネームバリューだけに頼る映画作りは、もういい加減にやめるべきだ。

8/21/1999

Mickey Blue Eyes

恋するための3つのルール(☆☆)

NYのオークション会場で進行を務める英国男が恋した女性はイタリア系。実は彼女の父親は犯罪組織の一員で、まわりにいるのは物騒な男たちばかりなのだ。親のしていることは自分たちとは関係ないと、惚れた彼女と結婚に踏み切ろうとする主人公だったが、案の定といべきか、やはり災難が待っているのだった、というお話。

主演のカップルがヒュー・グラントとジーン・トリプルホーン。映画を観る前から、ヒュー・グラントがオロオロする姿が目に浮かぶよう。

マフィアもののコメディといえば佳作『ドン・サバチーニ』や近作『Analyze This』などが、マーロン・ブランドやロバート・デニーロといった、過去の映画の役柄を嫌でも彷彿とさせる「大物」を引きずり出してきたところがカギになっていた。本作でのその役どころは、血の気の多いジェームズ・カーンが担うというわけだ。組織の親分というわけではないので、役者としての格下感もちょうどいい具合。いや、しかし、恋人の父親がジェームズ・カーンってのはイヤな感じだな。で、周囲をバート・ヤングなんかがうろちょろしているのな。

単発ネタ気味ではあるものの、笑えるシーンはふんだんにある。ことにヒュー・グラントが必至でイタリア訛りのマフィア言葉を英国訛りで練習するあたりは一聴に値する傑作シーン。ジェームズ・カーン以下のヤクザ顔キャストたちの怪演も期待通り。

しかし、見終わって思うに、作品として少々煮え切らない。さんざん笑ったはずなのにな。

これ、一応、ロマンティック・コメディのはずなんだよね。だから、主人公が幾多の困難を乗り越えてハッピーエンド、という構成になるはずだ。もちろん、主人公がとんでもない災難にも耐えてみせようと思うのは、魅力あるヒロインゆえ、そこがロマンティック・コメディの「ロマンティック」な所以。

でも、ジーン・トリプルホーンのキャラクターが完全な脇役かと思うほどに描けていないのだ。これが致命的。なにせ、主人公がそこまでして困難に立ち向かう理由がわからなくなってしまうんだから。で、本末転倒というのか、主人公が遭遇する「数々の困難」のほうが映画を乗っ取ってしまった。まあ、笑ってオシマイにするにはそれほど悪い映画じゃないんだが、ちと、惜しい。

8/20/1999

Universal Soldgers: The Return

ユニバーサル・ソルジャー:ザ・リターン(★)

『ユニヴァーサル・ソルジャー』といえば、(いまはなき)カロルコ・ピクチャーズの1992年の作品で、ドイツから招いたローランド・エメリッヒにとってハリウッドでの足がかりとなったアクション映画だった。ベトナムで死んだ兵士をスーパー・ソルジャーとして蘇らせる。暴走する悪役ドルフ・ラングレンと、それを阻止する善玉ジャンクロード・ヴァンダムの共演も話題であった。

本作は、前作のプロデューサーであるアラン・シャピロとクレイグボーム・ガーデンが、主演のヴァンダムと共にプロデュースし、スタントのベテランであるミック・ロジャースを監督に担ぎだして作られた、一応、正統な続編ということになる。

今は社会的にも復帰を果たした最初の「ユニソル」であるルーク(ヴァンダム)は、国家の命により新たなユニソル・プロジェクトで働いていたのだが、予算削減・プロジェクト縮小を恐れた中央コンピュータが叛乱をおこし、最強のエリート戦闘集団を武器に戦いを挑んでくるのである。立ち向かえるのは旧型となったルークただ一人、という話になっている。脚本は『48時間PART2』のジョン・ファサノと、『Supernova』、『House on Haunted Hill』のウィリアム・マローン。あ、嫌な予感、、、。

いやはや、80年代の筋力スターの生き残り、ヴァンダムのキャリアの終焉を見るようだ。これまで基本的に「続編もの」の出演がなかった彼が、自らプロデュースしてまで、「中ヒット」程度の凡作の続編に出演しているという事実がひとつ。60年代生まれの枯れの顔に体に疲労が刻まれ、全く精彩が感じられないことがもう一つ。薬物の影響か?

そんなヴァンダムのネームヴァリューがゼロにならないうちに、低予算で名の知れた作品の続編を作りたいスタジオの意向と、失われて行く名声にあせったヴァンダムの意向が一致した結果の「安い」続編、そんなところだろう。

だいたい、続編としても単独で見ても、物語がデタラメである。そもそも、前作では「死んだはずなのに、その尊厳を守られず、人造兵器として蘇らせられた悲哀」が描かれたはず。その物語の主人公が、何故にまた、ユニ・ソルの新プロジェクトに協力しているのか。兵士の死体を再生して最強の兵士を作るというプロジェクトそのものが持つ倫理性についての言及をしたくないのなら、今回の敵となる新しいユニソルたちは、アンドロイドか、ロボットにしておくべきだろう。

ちなみに、そんな新ユニソルの一人としてプロレスラーのウィリアム・ゴールドバーグが出演して失笑を買っているのが見どころのひとつである。

ひどい脚本を渡されたベテラン・スタントマンは、せめてメリハリのあるアクションでも見せてくれるのかと思いきや、やはりそちらの才能はなかったようである。編集もデタラメ。本作に比べると、エメリッヒの愚作が傑作に思えてさえくる始末である。TVムーヴィーかビデオ直行なら許されるかもしれないが、これを劇場で公開するとは恥知らずといいたいね。

今気がついたのだが、ユニソルには知らないあいだに「TVムーヴィー」として製作された2本の続編があったらしい。万が一、ヴァンダムのでていないそっちの方が面白かったら、ほんと、怒るぞ。

Teaching Mrs. Tingle

鬼教師ミセス・ティングル(☆★)

「スクリーム」「ラスト・サマー」の脚本や、TVドラマ「ドーソンズ・クリーク」で名前を売ったケヴィン・ウィリアムソンが、余勢をかって自作脚本で監督デビューとあいなっったのが本作である。本来、今年(1999年)の春に『Killing Mrs.Tingle』というタイトルで公開を予定されていたが、4月20日にコロラド州コロンバインで起こった高校生の銃乱射事件の余波で公開が延期され、物騒なタイトルも変更になったという。

どんな話かというと、高校生たちが、ミセス・ティングルという、若者の人生に土足で踏み込み、独断の偏見でその未来を破壊してしまう邪悪で怪物的な教師と戦うブラック・コメディである。そこに ”Killing”なんてタイトルがついていたら、そりゃ物騒な、ということになるのも致し方あるまい。

主人公は「ドーソンズ・クリーク」で名を売ったケイティ・ホルムズで、奨学金をとって大学に行くことを夢見ているが、あと少しのところ。そこに、おちこぼれの幼馴染みが歴史の期末試験問題を盗み出してきたことで、主人公にあらぬ嫌疑がかけられてしまう。事情の説明に先生の家に向かったが、成り行き上、学校一性格の悪い先生として名高いミセス・ティングルを監禁することになってしまう。その「鬼教師」を演じるのはヘレン・ミレンだ。

良識的なドラマだと、「鬼教師」のなかにある人間性に触れた生徒たちと先生のあいだで和解が成立して終わるのだろう。ブラック・コメディだったら、一枚上手の教師によって主人公らが人生の教訓を学ばされて終わるとか、両者痛み分けに終わるとか、そんな展開にするだろう。

しかし、そこはケヴィン・ウィリアムソンなのである。どうやらケヴィン君の頭の中は、高校時代の教師への恨みつらみでいっぱいなようで、ろくでもない高校生たちが先生に天誅を加えて終わる、彼的な意味での「ハッピーエンド」になっているのである。でも、これがとても後味が悪いんだ。

おそらく、作品としての計算違いなのは、観客が「頭が悪く自分勝手で無知な高校生たち」に感情移入できなくて、むしろ、「怪物」ミセス・ティングルのなかの人間性に触れ、哀れな教師として同情すら感じてしまうという点にある。そこは、演じる役者の格の違いが出たと入ってもいい。ヘレン・ミレンは悪役としての教師を憎々しげに演じながら、これを漫画的な薄っぺらいキャラクターにするのではなく、血の通った一人の人間としてのリアリティを与えてしまったのだ。

その結果、この映画は意図せずして、「ワルガキどもが、自分の妄想の中で作り上げた<怪物>を恐れ、本来罪のない教師を肉体的にも社会的にも痛めつけ、そのまま罪にも問われることなく逃げおおせてしまうう映画」になってしまった。

若者の気持ちを汲み取るという姿勢はわかるけど、個人的にはこんなバカ高校生どもの人生なんか、「鬼教師」の出番を待つまでもなくメチャメチャになるだろうと思うし、こんなキャラクターどもはまとめてブチ殺してしまいたいくらいなんだけどね。見ているこっちが歳をとったのかなぁ。

モリー・リングウォルドがちょい役で出演していて、これは間違いなくジョン・ヒューズへのオマージュ。それを思うと、ジョン・ヒューズだったらこれをどう描くのかなぁ、と考えてしまう。先生のキャラクターは徹底的にコミック、記号としての大人、役割としての悪役としてコメディにするか、最後まで「分かり合うことの出来ない教師」であっても、互いの立場と尊厳を認め合って終わるか。いずれ、こういう一方的に後味の悪い物語にはならないはずだ。

8/19/1999

Bowfinger

ビッグ・ムービー(☆☆☆☆)

友人の会計士が仕上げた一冊のエイリアン侵略ものの脚本を読んで感動した3流プロデューサー兼ディレクター。自分の家に出入りする3流役者やスタッフをかき集めたが、成功させるには大スターも必要だ。手持ちの金もない。そこで一計を案じ、大スターが知らないまに、無許可でその出演シーンを撮影してしまおうというゲリラ撮影を決行することになる。

この作品は、もう、スティーヴ・マーティンとエディ・マーフィの初共演、というのが売りものだろう。脚本はマーティン自身が手掛け、監督は、彼と4度目の顔合わせになるフランク・オズ。

一体どんな映画かといえば、『エド・ウッド』から感傷を引き、代わりに「騙し」のスリルを加味して突っ走る。そんな感じである。ともかく、ここ数年のスティーヴ・マーティン主演作としては最高の出来だ。

大スターを2人並べてはいるが、なんといっても、これは脚本も手掛けたスティーヴ・マーティンの映画である。作品の隅々まで、彼らしさが行き渡っているのだ。なんといっても脚本の巧みさ。アイディアに溢れたプロット、小技大技とそれを繰り出すタイミング。伏線は忘れたころにきちんと拾うし、自分と共演者の個性を活かしきる設定もそうだし、ダイアローグも相当練られている。

素晴らしい脚本を得て、パラノイアぎみのスターを含めた2役演じるエディ・マーフィも、近作は一体何だったのかと思いたくなるイキの良さを見せてくれる。客演ということで肩の力が抜けたのもあるのだろう。

それに、ヘザー・グラハムだ。ファニーフェイスでコメディセンス抜群の彼女だが、これまでの作品から、「清純派」のイメージと「セクシー路線」の両方のイメージを持っている。それを逆手に取り、頭空っぽなスターを夢見る田舎娘というキャラクターで登場しておいて、観客の先入観を次々に気持ち良く裏切っていく面白さ。劇中映画の演技で身体をクネクネさせる珍妙な動きも悶絶もの。コメディ映画のヒロイン、かくあるべし。

導入のきどったクスグリから、ゲリラ撮影がはじまってからのスピード感溢れるノンストップのドタバタまで、フランク・オズが緩急つけながら、陽性の爆笑映画に仕上げてくれた。映画作りへの愛と情熱を隠し味にしているのは間違いなく映画好きの琴線に触れる。夢は叶うという隠しメッセージもいかにもアメリカ。感傷で落とさず笑いで締めるのも、ハリウッド・コメディの鏡といえるだろう。

8/12/1999

The Thomas Crown Affair

トーマス・クラウン・アフェアー(☆☆☆)

『華麗なる賭け』の現代版リメイクである。NYに住む富豪トーマス・クラウン。手に入らないものはないような彼が趣味とするのは高価な美術品を盗み出すこと。美術館からモネの逸品をまんまと盗み出した彼に疑いの目を向けたのは保険調査員のキャスリーン・バニング。絵を取り戻すためなら何でもするという彼女。相対する二人だったが、個人的な感情が途中で一線を超えてしまう。

今回の主演はピアース・ブロスナンとレネ・ルッソ。監督はジョン・マクティアナン。オリジナルの主演だったフェイ・ダナウェイもちらりと出演している。

初代ボンドショーン・コネリーが主演するオールド・ファッションな泥棒サスペンス映画がスマッシュヒットを飛ばしたこことも記憶に新しいが、こちらは現役、5代目ボンドが主演。恋の駆け引きが柱とし、サスペンスはお洒落でゴージャスな恋の舞台装置といった雰囲気の作品である。少しだけだが、マクティアナンに復調の兆し?なのか、なかなか楽しめる1本になっているのは間違いない。

映画はNYのメトロポリタン美術館らしきところから印象派の逸品を奪い出すシークエンスで幕を明ける。大掛かりなプロの強盗団が登場し、壁の裏側で次々と細工をしていく描写が『ダイハード』の自己パロディ的でニヤリ。軽妙なジャズ調の音楽にも支えられて、まんまと作戦成功と相成るまでが実にお洒落でテンポが良い。音楽はビル・コンティ。

主人公と女捜査官の駆け引きも快調。ただ、それがロマンスに発展するあたりからが少々かったるい。中だるみ、だな。クライマックス、警官たちの監視された状態での大一番からエンディングまでが、派手な仕掛けに頼らず小気味良い。

この映画で気になることは、冗談にしか思えないぐらい露骨なプロダクト・プレイスメントである。これはスポンサー企業の製品などを画面のなかにさりげなく写し込む広告手法だが、この作品ではレネ・ルッソがペプシ・ワンをロゴが良く見えるアングルで飲み干したり、ヨットレースで相手の帆にルーセント・テクノロジーのロゴが入っていたり、ピアスナンがプレゼントに買い求めるのがブルガリの宝飾品だったりと、やりたい放題で、『トゥルーマン・ショー』のなかでやっていたパロディを見ているようだ。もしかして、頭にきた監督が悪意をもってわざとやったのじゃないか。

演技面では、なんといってもアクション派女優レネ・ルッソの、これが彼女の代表作と呼びたくなる颯爽とした格好良さと大胆さ。仕事を超えた個人的な感情で動揺する心をきっちり見せる演技力。対するブロスナンはアッサリしすぎで少しモノ足りない気もしたのだが、もし彼が「濃い」役者だったら、この映画、ちょっと蒸し暑くなり過ぎていたかもしれない。

8/06/1999

The Sixth Sense

シックス・センス(☆☆☆☆)

数字の6がつくからといっても『セブン』や『8ミリ』のアンドリュー・ケヴィン・ウォーカーとは関係ない。

フィラデルフィア。児童心理を専門にし、その活動が高く評価されている精神科医の新しいクライアントは母子家庭に暮らす少年だった。少年はいつも何かに怯えているようで、友達や学校の先生たちも変人扱いをするのだが、彼には決して人に明かしたことのない秘密があった。その秘密とは、彼の目にはまわりを徘徊する死んだ人々がみえるということだ。Mナイト・シャマラン脚本・監督。主演はブルース・ウィリス、ハーレー・ジョエル・オスメント。

これは、まだ20代のMナイト・シャマランという男が、自ら執筆し、撮りあげた作品である。それがにわかには信じられないほど落ちつきをもった仕上がりで、必見の作品である。優れたスタッフと演技陣に支えられ、高いレベルで物語を紡いで見せており、その繊細な感性と見事な手腕には感心させられる。一種の怪談話だが、それだけに終わらない。観客の背筋を揮えあがらせながら、そして最後には静かに胸を打つ。 

まず秀逸なのはアメリカでは有数の歴史を持つ古都フィラデルフィアを舞台としたこと。レンガ造りの家並みや石畳、由緒ある建物。見事なデザインと造形。この舞台設定が控えめながら怪談話の雰囲気醸成に貢献しているのは疑いの無いところだ。聞けば監督の出身地と言う。街の雰囲気と、その魅力を知り尽くしているだけのことはある。

そんな街で、死者の魂にかこまれて怯えて暮らす少年。この子役の素晴らしさ。絶望と恐怖、諦めと希望。1本の作品を背負って立つだけの存在感をみせてくれる。また、大味なアクション大作とは一味違うブルース・ウィリスに、彼の役者としての真価を知らない多くの観客は驚くだろう。彼の人間味、落ちつき、悲しみを湛えた眼。母子家庭の少年に欠けた父性を体現するかのような包容力。ブルーノは決してアクション馬鹿ではないのだよ。うん。

この完璧な舞台と繊細な演技を落ち着いた色調と安定した構図で切りとって見せるのは『フィラデルフィア』でも一度この街に取り組んだタク・フジモト。演出は意図的に色の数をコントロールしているのだが、そのあたりの意を汲みながら、完璧な仕事をして見せる。また、単独で聴くには弱いがしっかりとドラマをサポートするジェームズ・ニュートン・ハワードのスコア。

もちろん、それらをまとめ上げているのは、あせらず、急がずに、一つ一つエピソードを自信に満ちた足取りで積み上げていく、この監督の語り口だ。なかなか見えない・見せないことで戦慄を運ぶ、恐怖を醸成するじらしのテクニック。どこをひとつとっても一流の仕事ぶりである。

114分の戦慄と感動。大作ホラー映画のコケオドシが霞んでしまう。かつての患者を本の意味で救うことが出来なかったことを知らされて傷つく精神科医。ゴーストに怯える少年を救ってやりたくても己の限界に直面し、仕事に打ち込むほどに妻の愛情が冷えていくのを感じるこの主人公は、少年の心を、自らを救うことが出来るのか。これは、ちょっといい話だ。怖いのが苦手な人にもぜひ、薦めたい。

8/05/1999

Dick

キルスティン・ダンストの大統領に気をつけろ! (☆☆☆)

1972年、ウォーターゲート・スキャンダルに揺れるニクソン政権の裏側、スクープをモノにしたワシントンポストの記者たちが情報源としたディープスロートの正体に迫る問題作(?)。ホワイトハウス見学ツアーのコースからはずれた女子高生2人組が大統領自身と出会い、飼い犬の散歩係に任命されることに端を発するナンセンス劇。出演はキルスティン・ダンストとミシェル・ウィリアムズ。脚本と監督は『ザ・クラフト』のアンドリュー・フレミング。 

きっと、若くきゃぴきゃぴしたキルスティンに "Dick" と云わせたくって企画したに違いないんだ、これ。

リチャード・ニクソンのリチャードの相性が Dick、それが隠語として意味するところは、まあ、言うまでもないということで、ひとつ。

あと、この映画を見る前に、副読本としてオリバー・ストーン監督『ニクソン』とアランJ・パクラ監督の『大統領の陰謀』で予習することが望ましい、と思われます。なにせ、パロディ映画を見るのに「もとネタ」を知らなければ笑えないのと同じこと。ニクソンの時代とウォーターゲート事件の顛末は知っておいたほうがいい。

そんなわけで劇場内でうけまくっていたのは、やはり同時代を生きてきた世代の、ある程度年配の観客たちだった。米国人にしてそうなら、この作品はやっぱり日本の観客にはちとムズカしいだろう。

では、アメリカの歴史的事件を知らない観客にとってこの映画は見る価値のない作品なのか?もちろん、この映画でウォーターゲート事件の全貌が勉強出きるわけでは無いから、そういう価値はない。ただ、この作品はティーンズ・アイドル・ウォッチャーだったら見逃すべきではない1本だ。なぜなら前作『Drop Dead Gorgeous』に続いて、キルスティン・ダンストの魅力を堪能できる作品なのだから。

キルスティンといえばやはり衝撃的だったのが『インタヴュー・ウィズ・ヴァンパイア』の少女吸血鬼役だが、今年で17になる彼女、『スモールソルジャー』あたりから存在感を増しており、そろそろ作品次第では大ブレイクの予感がある。考えて見たら前作『Drop Dead Gorgeous』で10歳年上のデニース・リチャ-ズとタメをはっていたのは凄いことだ。(実は、10歳年下とタメを張れるデニースが怪し過ぎるという話もある。)

で、この映画だが、いってみれば「フォレスト・ガンプ」スタイルの作品といったら分かりやすかろう。歴史上の事件に全く場違いな人間が絡んで思いもよらない方法で辻褄があってしまう、というやつね。ホワイトハウスを巻きこんだ陰謀の中心に、場違いなキャピキャピ娘二人を放りこんだ時点でアイディア勝利。そしてなにより、今が旬である主演の二人の表情や動作を非常に魅力的に引出し、切り取ってみせている演出。パロディとしても、ドタバタとしても結構楽しい作品に仕上がっているといえる。

作品のテンポもいいし、ギャグのセンスや音楽の選曲もイカしている。70年代初期のファッションなどに興味があるなら、そういう部分でも目を楽しませてくれるだろう。

Mystery Men

ミステリー・メン (☆★)

チャンピオン・シティの平和を守るキャプテン・アメージングは、「スポンサー」のご機嫌を取るためには強力な宿敵との派手な闘いが必要と判断し、精神病棟から恐るべき強敵、カサノヴァ・フランケンシュタインを解放するが、罠にはまって監禁されてしまう。この事実をつきとめたスーパー・ヒーローなりたがりの男たちが仲間を集め、街の危機に立ち向かう。

コミックの映画化となるこの作品、とても面白そうに思われるプロットだし、キャスティングもちょっとした映画好きだったら「豪華!」って思うに違いない。なにしろ、グレッグ・キニア、ジェフリー・ラッシュ、ウィリアム・Hメイシー、ベン・スティラー、ジャニーン・ガラファロ、ポール・ルーベンス、ハンク・アザリア、クレア・フォラーニ・・・なんだからね。

でも、残念ながら整理されていないおもちゃ箱というよりは、とっちらかったゴミ捨て場のような印象が残る作品になってしまった。監督は、CM出身だというキンカ・アッシャー。初監督作品らしい。

スーパー・ヒーローものをパロディにした世界観や設定、気合の入ったプロダクションによるチャンピオン・シティの造形も注目に値するし、個々の役者も楽しそうに怪演している。でも、なんか面白そうだけど、実際には笑うに笑えないコメディになってしまった。(そのせいか、日本では見事にビデオに直行のようだ。)

ストーリーに盛り込まれたオフビートなヒネリは楽しい。はぐれものたちが団結して悪に挑むと云うストーリーも王道だ。でも、エピソードは単なる数珠ツナギでメリハリがないし、カメラワークもうんざりするほど落ち着きがない。

どうしてこうなってしまうのか。もちろん、脚本も、監督も未熟なのだけど、そもそも作品としてのスタンスのとりかたに問題はないのだろうか。つまり、徹頭徹尾ナンセンスで押しきるのか、荒唐無稽さは設定にとどめ、未熟なはぐれものたちが未曾有の危機に対して団結し、悪と戦う中で成長をとげていくという王道なドラマを盛り上げたいのか。

演技陣は総じて暴走気味。監督はこのキャストをコントロールできていない。

そのなかで一番自分の役割を良く心得ていたのは利益優先のキャプテン・アメージングを演じたグレッグ・キニア、迫力ある敵を演じたジェフリー・ラッシュ、それにシャベルを振り回すウィリアム・H・メイシーの3人だろうか。ことに妻に半分馬鹿にされながらヒーロー願望を捨てられない男を演じたメイシーの演技には、ナンセンスな中にも節度があってちょっとくらいは泣かせてくれる。流石だ。